嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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評価されてもされなくても。

 もう大分前になるのですが、深夜にテレビを見ていて、お笑い芸人のブラックマヨネーズさんとオリエンタルラジオさんの対談がありました。オリエンタルラジオさんといえば、芸歴2年目くらいで爆発的に売れ、CMにもひっぱりだこ、さらには自らの冠番組の司会までやっていたという、奇跡的なブレイクを果たした芸人さんでしたが、その後、冠番組も打ち切りになり、CMも姿を消し、そもそもゲスト出演さえも少なくなって、という「冬の時代」を経て、最近また人気が出てきて、テレビでもよく見るようになりました。その「冬の時代」について、オリエンタルラジオの中田さんが言った言葉が深かったので、まずはご紹介したいと思います。(記憶に頼っているので、いつもの通りのざっくり大意ですみません。)
 「自分たちが売れているときには、わからなかったし、実際に全くテレビに出られなくなったときは、不平不満もあったけれども、今考えてみると、あれでよかった。自分が憧れていたテレビの世界というのがテレビ界の大人や吉本興業が『この若手を俺たちの力で売れっ子にしてやろう(そうしたら大御所を使わないで済む)。』的な作戦でうまくいってしまうような世界だったら、やっぱり夢を失っていた。でも、実際に、駆け出しの僕らでは、いくら周りの大人がお膳立てをしてくれても、通用しない、厳しい世界だということがよくわかった。それがわかったからこそ、もう一度実力を付けて、『絶対にまたトップに立ってやる!』という気持ちになれた。」ということをおっしゃっていました。
 僕が素晴らしいと思うのは、テレビ業界やスポンサーの、ひいては視聴者の冷たさに対して、内心忸怩たるものがオリエンタルラジオのお二人にあったとしても、それでもなお、それを成長の契機としてとらえ直すことができている点でした。その意味で、必死に努力をして、テレビで再ブレイクをしつつあることは本当に素晴らしいことです。
 もちろん、テレビ業界に限らず、この社会全体が努力をきちんと評価できているというよりはむしろ、縁故やその他のestablishment(体制側)の方の勝手な思惑や利害関係によって不公平なひいきがなされ、まだ力を得ていない若い世代が、それに躍らされ、消費されていくということの方が多いのかもしれません。そのような全体に対して、異議を唱えることが正しいとしても、自分自身に言い聞かせなければならないのは、「その不公平さをねじ伏せるほどの圧倒的な実力はまだ自分にはなかった。」ということだと思います。その不公平さが自分にとってプラスの方向であれ、マイナスの方向であれ、それをねじ伏せるほどの圧倒的な実力が自分にはないことこそを、
まずは反省して力を付けていくしかない。そのことを若い世代には是非わかってほしいと思いますし、僕自身も肝に銘じていかねばなりません。
 なぜなら、この社会において、「公正な評価」というのは不可能なことであるからです。人が人を評価する際に完全にreasonableな判断など下せるわけがありません。この社会から縁故による融通も、人々が「家族」というものを持たなくならない限り、決してなくなりません。どのように建前やきれいごとを並べても、人間は動物的で愚かで、自分と近しい人の利益ぐらいしか基本的には考えられていないのです。もちろん、生物学的には、そのような本能的態度は小さな集団で暮らす上ではメリットの方が大きいから、そのように我々はプログラムされているのでしょうが、このように大きな集団で暮らすことに歴史的になったとき、どのように行動すべきかについては、まだ手探り状態である、というのがこの21世紀における人間の現状ではないでしょうか。
 しかし、悲観をすることはありません。人間にはそのように動物的な本能を覆す程に、圧倒的な差に対しては、reasonableなものを無視できない、という根源的傾向もまたあるからです。たとえば、ちょっとの差であれば、縁故やestablishmentの思惑によって評価を左右することが可能であるとしても、きわめて大きな実力の差に対して、その実力の差をなかったかのごとく振る舞うことは、理性(reason)の残っている人間にはできません。「そんなことはない!不正によって、圧倒的な実力をもつ私は苦しめられている!」という方もおられるかもしれません。そういうときには、その選別をなす組織自体に理性(reason)を持つ人がもはや残っていないかもしれません(かのセザンヌもサロンに20回ほど落選したらしいです)。しかし、「まだ圧倒的な力ではないのかも。」と思って自己を鍛えることも大切だと思います。

 その上で、よりreasonableな判断ができるように、評価を下す側は努力をしていかねばなりませんね。入試などというのは、「公正」と皆が信じていながら、かなりチェックが効いていないところです。それでも就職活動などよりはまだましなのかもしれませんが。ともかく、圧倒的な実力をつけられるよう、お互いにがんばっていきましょう。それは「不公正な評価に不平を言う」よりも、遙かに生産的なことですし、それこそが人類全体を豊かにしてくれるものであると思うからです。その結果として、たとえゴッホのように誰からも評価されない一生を終えようと、僕はその道を生きたいと思っています。

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過不足のない受験勉強はできません。

受験生というのは、例外なく、受験に過不足のない(ムダのない)勉強をしたいものです。つまり、「絶対に○○大学(高校・中学)に合格したい!」という子でも、「そのためならどんなにたくさん勉強してもいい!」とはできないものです。しかし、だからといって、「あんた、内心ではたかをくくってるんでしょ!」などと叱らないであげてください。このような気持ちの持ちようは、受験生にとってある程度まで「仕方がない」態度であると言えるからです。

 たとえば、どこまでも徹底的に一年間努力しても、それでも受験に受からない可能性は必ず残ってしまうという冷酷な事実を、勉強を始める前の受験生に伝えてしまったら、一体どうなるでしょうか。まずほとんどの受験生は、受験勉強を諦めてしまうと僕は思います。そのような終わりのない努力は、明らかに自分にとって達成可能なものではないと思ってしまうのが普通の反応であるからです。もちろん、堅く決意をして、終わりのない努力に耐えようとする子達は毎年ごく少数ながら、存在します。しかし、そのような超人的努力を全ての子にいきなり強制することは、非効率的なだけでなく、そもそも不可能なものだと思います。(そのような超人的努力をどうしても親御さんはお子さんに求めてしまいがちです。「私たち大人だってこんなに努力している!」とつい言いたくなる気持ちはもちろん僕もわかります。しかし、大人の努力とは、まずキャリアを形成する過程で「自分の努力が評価されやすい環境」をもう既に選び終えた上でなされているわけですから、「苦手なことを努力させられ、しかもその成果を厳しくチェックされる」という環境自体をそもそも抜け出た後でなされる努力であるわけです(即ち、大人がその職業で生計を得て、子供を養えている時点で、そもそも「決して評価されない努力を無制限に続ける」ことからは部分的にでも逃れ得ているわけです)。また、大人は厳しい努力の合間でも、「自分にご褒美」が可能なのです。しかし、子供達はなかなかそうはいきません。)

 すると、教える側に必要なものとは、受験生の「甘い期待」から来る努力の姿勢(「成績が上がるのなら、少し勉強してもいいかな。」)を少しずつ鍛え、徐々に、その「どこまでも努力しても、決して受験に100%受かるのには十分にはならない」という厳しい現実に耐性を付けていってもらうという戦略です。そのために、今その受験生に何が必要であるのかを丹念に観察し続ける必要があります。どんなに努力しても決してその「100%合格する」ということにはたどり着けないのだと無力感・絶望感にうちひしがれているときには、一歩ずつ足元を固めていくことの大切さを説きながら鍛え、逆に一歩ずつ足元を固めて行きさえすれば、合格するはずだ、と盲目的に信じている場合には、受験がどれほど恐ろしいものであるのかを説き、足りないところを指摘していくことが大切です。

 そして、このように受験生を指導することは、実は受験が終わってからも活きてくる、大切なことだと僕は考えています。どのような一歩も、それがたとえノーベル賞級であろうと、フィールズ賞級であろうと、人間の科学の発達など、何一つ「十分な」ものを作れないことは、たとえばこの東日本大震災でもまた、より深くわかったのではないでしょうか。しかし、それでもそのように一歩一歩自らの認識を歩ませ続けることからしか、人間が成長していく道はありません。受験というものの害を言挙げするのは簡単ですが、しかし、僕は、受験もまた人間の歩みである以上、私たち一人一人の生きる姿勢が問われる1つの場であるとも思うのです。そして、そのような場の中で、自分の無力さから絶望するのでも自分のちっぽけな優位性を過信するのでもなく、どこまでも着実に自己を鍛えていきながら、「想定外」を作らないように徹底的に準備をしていく姿勢を鍛え続けていくことが、その後の一人一人の人生にとっても、ひいてはこの社会にとっても大切であると思います。

 ですから、僕に講師としての力がどれほど鍛えられようとも、「過不足のない受験対策」を塾生に提供することは未来永劫不可能です。なぜなら、一人一人の塾生の思考、認識の仕方など、どれだけ深く接していても、完璧には知り得ない要素が山ほど存在するからです。だからこそ、受験前日の最後の最後まで、何がその子にとって足りないかを(本人と一緒に)徹底的に考え抜いて、「不足のない受験対策」にしていく努力を止めません。気休めのための無責任な言葉をかけては、足りないものについてそれ以上悩まない教師になりたくありません。最後までその子が落ちる可能性を減らす努力が他にできないかを考え抜き、助言と指導を続けていきたいと思います。もちろん、受験が終わった後の塾生に対しても、「この学校に合格したから後の君の人生は大丈夫!」などというごまかしを言うことなく、そのようにサポートし続けたいと思っております。

 「過不足のない受験対策」を謳う塾や予備校に、是非だまされないでいただきたい。そのような受験対策は世界一の天才講師であろうと、不可能です。日々、どこまでも見つかり続ける不足を埋め続ける毎日こそが、結果としての受験の成功につながるわけですし、それ以外のメソッドを提供する教師は、「これだけやっといたら大丈夫!」という安心を求める気持ちにつけこんでお金を稼ぐ、あるいは手抜きをするという点で、受験生にとっては大敵なのだということを是非、肝に銘じていただきたいと思っています。安心することの難しい現実に対処しようと努力するのに疲れて、安心するためのサービスを偽りでも買おうとするのではなく、「これからまだまだ自分の勉強の穴が見つかり続けるかもしれないけど、それでもそれを1つ1つ徹底的に埋めていこう!」という姿勢こそが勉強をし続ける受験生にとっても、ひいては、人間の文明の進歩にとっても大切だと考えています。その欠点を埋めていくための、アドバイザー、パートナーとして、嚮心塾を選んでいただけると本当にうれしいと思っています。   2011年 5月26日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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ベルマークの謎を追え!②

お待たせしました。続きを書きたいと思います。

という前に、一昨日の記事で間違いをご指摘いただいたので、訂正したのですが、その確認のために色々ネット上で調べてみると、結構このベルマーク運動に関しての批判もあったようなので、そのこともご紹介したいと思います。古くは花森安治さんが『暮らしの手帖』の中で、批判されていたようです。また、最近では、ブロガーの柳下玲優さんの日記でも詳細に批判が書かれています。どちらもざっと見ただけですが、きわめて正しい批判であると思います。

さて、ベルマーク運動の担い手たる専業主婦への「(ベルマークを集めるという)低賃金労働(注1)」の強制、商売としてあこぎであること、という上記の先駆者の方々の批判は正しいとして、末端ながら教育に携わっている僕として、「なぜに文部科学省が「教育的」として奨励してるの?」「なぜに朝日新聞が「教育的」として奨励してるの?」というところが気になってくるわけです。

(注1)たとえば、僕の娘の小学校では、半年間で13000点ほど(13000円相当)集め、応募したそうです。半年間で学校に行く日を少なめに見積もって100日、そこで毎回3人のお母さんが1時間ずつ作業したとして(いずれもかなり少なめの見積もりです)、100×3×1=300時間の労働で、時給換算にすると時給44円ほどになってしまいます。これなら、お母さん方が時給800円でパートをして、そのお金から募金をして学校に寄付した方がよほど学校にもお母さん方にもお互いにとってプラスになるわけです。もちろん、それは「子供が参加できないので、教育的でない」という批判は可能なわけですが、ベルマーク運動が本当に教育的といえるかどうかは後述いたします。


先述の花森安治さんがベルマーク運動に反対した理由として、「教育を商売に利用するな!」と(何と1970年という早い時期から)おっしゃっていて、僕はもちろんそれに大賛成なのですが、「そもそもベルマークを切って集めて景品をもらうのが教育なのか?」というところにこそ、一番ひっかかってしまいます。もちろん、それを「ベルマーク運動など『教育のため』というのは建前で、企業が売り上げを伸ばすために過ぎないんだ!」と批判するのは簡単ですが、文部科学省なり、学校なりが、これだけこの運動に深く関わっている、あるいは実際に学校の現場でこれが(献身的ボランティアによって!)為されているということは、何かしら「教育的」であるとこの運動がとらえられているからでしょう。

では、どういう部分が「教育的」なのでしょうか。どうやらベルマーク運動を検証することで、日本の文部科学省や朝日新聞、各学校の「教育観」が見えてきそうですね。ですから、もう一度丁寧に追ってみましょう。
①みんなのために、(膨大なベルマークを切り貼りする、そもそもマークの付いた商品を買う)努力をする。(しかし、それが非効率であること、あるいはそれは企業の購買誘導策にだまされていることに関しては異議を唱えない)
②その膨大な(しかしあまり意味のない)収集作業を通じて、親と親、親と子、子と子との間の連帯感を高める。
(同時に、そのような意味のない収集作業に異を唱える人を排除する)
③その努力の結果が景品というごほうびになる。(そこでの自分たちの費やした時間や努力を鑑みれば、買った方が早かったなどとは決して言ってはならない。)

かなり、意地の悪い補足をしましたが、まとめてみると、文部科学省やベルマーク運動に参加している学校で理想とされる「教育」とは、
「その努力が何のためであるのか、その努力が本当にその方法で一番効率がよいのか、そもそもその努力の目的はその努力に見合うものになりうるのか、あるいはその努力が外部の他の勢力にうまく悪用されていないかをチェックすることについては子供達を無関心にし、さらにはそのような異論自体を差し挟まないような集団を形成した上で、子供達を徹底的に努力させる。」
ということになってしまうのではないでしょうか。

つまり、これは「鬼畜米英が本土に上陸してきたら、竹槍で応戦だ!」という軍国教育と、本質的には何も変わっていないのです。そもそもアメリカ人やイギリス人が悪なのか。竹槍で銃に応戦することにどの程度勝ち目があるのか。あるいはそもそもこの軍国教育によって、本当に得をするのは誰なのか。それは本当に「みんな」のためになっているのか。そういった点は全く吟味されないままに、竹槍を作り、敵を迎え撃つ訓練に励んでいたこととベルマーク運動との違いが、僕にはわかりません。

誤解しないでいただきたいのは、そのような運動に従事する一人一人の善意を茶化したり、けなしたりしたいのではない、ということです。こうした諸々の運動が善意から為されていることを僕は間違いがないと思っています。しかし、それだけになかなか批判するのが難しい。「そのような努力の仕方は、かなり危険ですよ!」と言っても、「この怠け者!」と「この非国民!」と同じトーンで言われてしまいそうです。現実に、ベルマーク運動は現在広範に広がり、私たちの足下でも「善意」によって広がっていきます。しかし、それこそが太平洋戦争中の日本で起きていたことなのではないでしょうか。私たちは「善意」を持っているだけではだめで、冷静に観察する眼や、考え抜く頭が必要なのではないかと思います。

私たちが警戒すべきは、ただ、私たち自身の愚かさであるのです。そのことを自戒を込めて、教えていきたいと思います。それと共に、「何でもいいからただ努力する姿勢さえ、子供達に伝えられればいい。それが教育だ。」的な言い回しを、学校教育や受験勉強の正当化によく大人は使ってしまいがちなのですが、子供達の「なぜ勉強をしなければならないの?」という深い問いに対して、より考え抜いた答えを出せるように、努力していかねばなりません。そのような努力を、教育に携わる人間は続けていき、子供達に、あるいは子供達のことを深く思うお母さん方に、意味のない努力、誰かに利用されてしまうような努力をさせていてはならない。そのように強く思っています。日本史で学んだ軍国主義を防ぐための努力とは、僕にとって、大上段な政治運動ではなく、このように日常に潜む思考停止から自らを切り離そうと努力し、丹念に考え抜く姿勢を自らの中にも、教え子達の中にも鍛えていくことであると考えています。(それが完璧にできているかと言えば、まだまだ穴だらけなのですが。)

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ベルマークの謎を追え!①

 ベルマークって知ってますか?商品の包装紙にベルの絵がついていて、あれを切り取って沢山集めては送ると色々と景品がもらえるという奴です。僕の小学生時代からありましたが、僕自身がそもそも全くそういう活動に興味がないのと、「まめに努力して集める」というのが不可能な位の不精者なので、全く実態を知らないままに、大人になってしまいました。

 そうしたら、娘の小学校で、今ベルマーク運動がアツいわけです!小学生もその親達も一生懸命ベルマークを集めていて、娘もベルマークの付いているお菓子を選びたがる。そこで、全く関わりも関心も無かった僕ですが、これがどのような団体によって運営されていて、どのような仕組みであるのかを今回初めて知りました。そのご報告と分析、さらには考察をしていきたいな、と思っております。(ベルマーク運動についての僕の説明は、ベルマーク教育助成財団のホームページを見てまとめております)

 ベルマーク運動は、「ベルマーク教育助成財団」という財団が運営しています。そこが協賛する企業からベルマーク一点につき、1.25円の「市場調査費」を受け取り、その内の1円を「教育設備助成費」(つまりこれが子供達が集めたベルマークを何らかの景品とかえてもらうためのお金となります)として、0.25円をベルマーク教育助成財団の運営費として使われる、ということです。その「市場調査費」の実績は2009年度で6億円程度だそうです。また、そもそもこのベルマーク運動自体は、1961年に始まり、当初は2000校・団体からスタートし、現在では、28000校・団体が参加しているそうです(単位に「校」が付くのはやはり学校が多いのでしょうね)。またその役員の出自を見てみると、学校団体関係者、文部科学省の元役人、それと朝日新聞出身者が大半を占めています。面白いですね。大分偏った構成です(具体的にはベルマーク教育助成財団のホームページをご覧下さい)。

さて、これって一体何のためなんでしょうか?まず、企業がお金を出すのは分かりやすいですね。名目も「市場調査費」とかなりストレートに言ってくれています。つまり、「他社の競合製品を買うかもしれない購買者に、ベルマークのついているうちの製品を買わせたい!」という目的でしょう。それに、「教育への助成」などと高尚な目的が付けられるのですから、安いものです。単純に金額だけを見ても、協賛企業全ての「市場調査費」の総額が一年間で6億円程度(最初は6300万円と書きましたが、これはベルマーク財団の寄付している寄付金の総額でした。ご指摘有り難うございます。)、これは広告費としてはかなり安いのではないでしょうか。もちろん「そんな、ベルマークつけたくらいで他社の競合商品よりも優先して選んでもらえるのか?」と疑問に思う方も多いでしょう。実際この協賛企業も結構出入りが激しくて、協賛をやめる企業も、また新たに始める企業も結構いれかわりが大きいわけです。しかし、皆さん。子供の純真な心をバカにしてはいけません。子供達は、「ベルマークを頑張って集めよう!みんなで沢山点数を集めれば、学校に○○がもらえて、みんなのためになるよ!」という大人の宣伝を信じて、自分たちのおやつを買うときにもベルマークの付いている商品を必死に探すわけです。親御さんも子供達の喜ぶ顔が見たいので、ついつい、買ってしまいます。そのようにして、販売促進しているわけです。

と、書いたところで時間が無くなってしまいました。続きはまた水曜日に。

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先生の役割

 先日、塾生が学校で「問題」を起こして、停学となりました。しかし、その「問題」とは、ケータイを使っていじめられている子を守るために、そのいじめっ子達のケータイを奪ってきた、ということでした。
 もちろん極端なその行動をいさめることは、大人として必要であるかもしれません。しかし、僕がこの話を聞いて憤慨したのは、誰も先生達がそのいじめに対して責任を感じていないことでした。「そのようないじめがあったなんて知らなかった。でも、僕たちの努力が足りないせいでつらい思いをしてしまっていた子を助けてくれて有り難う。君のおこしたことは向こうのご父母からは問題視されるかもだけど、全力で守るよ!」と先生方には言ってほしかったものです。

しかし、実際にはそんな言葉をかけるどころか、「いじめなんて本当はなかったんじゃないか。当人(いじめっ子)達に聞いてもそんなことしてないって言ってる。」「だいたいあの子達がそんなひどいことをするわけがない。」という、きわめて幼稚な論理で、その勇気ある行動を起こした子を説得できると考えているその先生達の人間としてのレベルの低さが現れただけでした。当人が証拠もないのに、自分の悪事を認めるはずがないなど、小学生が考えても分かる理屈です。「だいたいあの子達がそんなひどいことをするわけがない」に至っては、現実を見ようとするのではなく、完璧に先生達の妄想です。自分の人間を見る目にそんなに自信があるのでしょうか。自分たちに見落としが本当にないと自信を持って言えるのでしょうか。僕は学校の先生方よりは遙かに一人一人の塾生に深くコミットして教えているという自負はあります。塾生達も、親にも学校の先生にも話せないことを僕に話してくれたりする場合がほとんどです。しかし、それでも「この子がそんなことをするわけがない」などと言えるほどに一人一人を理解しているとは言えません。それほどに、一人一人の人間の精神も行動も複雑であると思います。

結局「いじめはない方がよい。」という結論が先にあり、それに反する事実は全て都合が悪いのでしょう。それを告発したり、身を挺して防ごうとしている若い子達の勇気は、このように「いじめはない方が良い。」ので「あったいじめもなかったことにしてしまおう。」と握りつぶされていってしまうわけです。

そうそう。僕はこのような現実を、毎日さまざまな子から相談されるからこそ、福島の原発事故で東京電力や政府があんなにみんなに叩かれることがあまりよく分かりません。もちろん、東電はひどい。政府もひどい。でも、上記の学校の先生達がやっていることも結局同じことでは?と思ってしまいます。自分たちに都合の悪い事実は見なかったことにして、蓋をして、そして口封じをしてしまう。その口封じの仕方がお金に依るのか、脅しに依るのか、権威によるのか、法律によるのかの違いはあるにせよ、みんな日常の中でやっていることです。福島の学校の校庭の放射線の安全基準値が年間20ミリシーベルトに引き上げられて、問題になっていますが、学校では「いじめ」の基準値がこうやって簡単に引き上げられてばかりではないのでしょうか?「これはまだ『いじめ』ではない。なぜならこれを『いじめ』と認定すると、私たちはいじめを認めてそれに対処しなければならなくなり、そのことに伴う全体への不利益の方が遙かに大きくなるから。」という姿勢です。そのような姿勢こそが、問題を先送りにし、結局思いやりのない社会を生み出しているわけです。

内田樹先生の『街場のone piece論』(『One Piece Strong words』(集英社ビジュアル新書)に所載)にある、「大きな公共性」と「小さな公共性」の対立とは、まさにこのことであるわけです。ほとんどの場合、組織や国家に属する人間は、「大きな公共性」を引き合いに出して、「小さな公共性」を見殺しにすることを正当化します。そのことに対して、『One Piece』という漫画は「『世界の正義』より自分の仲間の方が大切なんだ!」という強い主張を訴えます。なぜ、それが共感されるのかといえば、その「世界の正義」という「大きな公共性」が何となくうさんくさいもので、実はそれはただ「小さな公共性」を見殺しにする口実のために使われる、ということに僕らは何となく気付いているからです。(それを描いている『One Piece』という漫画は、僕は本当に素晴らしいと思うのですが、その詳しい話はまた別の機会に譲ります)。目の前の不正義を見逃すことが、巨大な社会の秩序のために必要だというのなら、そのような巨大な社会など、いらない。そのように力強く宣言するワンピースのルフィの姿勢は、内田先生のご指摘の通り、我々の心に響くわけですし、塾生の学校の先生達の態度とは、全く対極にあるわけです。もちろん、「そのような人ばかりになったら、社会が破綻するじゃないか!」ということも考えねばならないわけですが、僕はやはりそれを心配しすぎて失敗しているのが、この肥大化した国家や社会なのではないかと思っています。

実はこれは、ルソーの『社会契約論』ともつながってくる話であるわけです。「この社会は私たちの同意から成り立っていなければならない。」と言ってみると、「あれ?今のこの社会って本当に私たちが同意できるようなものなのかな?」という疑問が生まれ、それが市民革命につながっていったわけです。そういう意味では、「小さな公共性」というのは決して「大きな公共性」と矛盾するものではなく、むしろそこに血を通わせ、絶えずより良いものへと作り替えていく原動力であると思います。その意味でも、僕は冒頭の塾生を学校の先生達にほめてほしかった。若い彼ら、彼女らの「こんなことは許せない!」という気持ちこそを、励まし、勇気づけ、その上で洗練させていくことこそが教育ではないのか。その気持ちをくじいてしまうことに、一体どんな意義があるというのか。それは結局「非常時には20ミリシーベルトまで大丈夫です。(だってそう言っておかないと困るから。)」という政府の無責任さと何が違うのか。そのように強く憤りを感じています。

大切なのは、他者を責めることの前に、他者のその汚さが自分の中にもないかどうかを深く考え抜くことです。いじめを黙殺する教師に、放射線量を黙殺する政府を責める資格はありません。僕自身もまた、そのようなことを日々の中でしていないかどうか、絶えずチェックをしていきながら、真摯に一人一人に向き合っていきたいと思っています。

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