嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

守・破・離

 先日、英作文を教えていて、「決まった型の英文を覚えてそれを使っているだけでは決して上達しない!自分の中でできあがってしまった型をさまざまに壊すというchallengeを経て、初めて真の実力が付くのだ!その意味で、様々な型式の英文に言い換えよう!」という話を受験生にしたところ、空手をかなり本格的にやっているその塾生が、「先生、それは『守・破・離』ですね。師匠によく言われます。」と教えてくれました。調べてみたところ、ここでいう「守」とは、師匠に教えられたことを正しく守ってしっかりと身につけること、「破」とは、教えられたことをベースに自らの境地を見つけること、「離」とは、何物にもとらわれないことを言っているらしいです。なるほど、この言葉は武道ではかなり定着しているようです。

 同じようなことは、芸術家も結構言っていて、彫刻家のロダンなどは「(画家の)レンブラントの晩年の絵は彼のすばらしさであった精密さを失っているとよく批判される。しかし、それは決して退化ではない。あの若いときの精密さを経てきたレンブラントが晩年になり、あのような(茫漠とした)絵を描くからこそ、素晴らしいものができるのだ。」(『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)にあります。引用しないで大意をいい加減に(!)僕が書きました。)とか、日本でも世阿弥が『至花道書』(これも岩波文庫)で、「闌位事(たけたるくらいのこと)」として、「能というのも初学者は勝手なことしちゃだめなんだけど、何十年もやってきてその演目を知り抜いた上手が、元々の舞歌から外れるのは、逆に已に定められた舞歌を予想している観客を驚かせて、すばらしい!だけど、それをぺーぺーがまねするなよ。「正しいものが何か」を知っている人が、それを知った上でわざとそれを外すことにすばらしさが現れるのだから。」的なことを言っています。(これも僕のざっくり大意です。間違ってたらごめんなさい。)

 これらの言葉の大切さは、それこそシェークスピアの『マクベス』のあの魔女の台詞、「Fair is foul, and foul is fair.」という一語にその精髄が集約されるのでしょう。「正しい」とされるものは間違っていて、(その「正しい」とされるものを打ち破る、逸脱する意味で)「間違い」こそが正しい、というのは、初めの精神を忘れて硬直化したものにとらわれて生きる、人間にとっては絶えず言い聞かせなければならない大切な教訓であるのだと思います。人が様々な技術を身につけていく際に、やはりだんだんとそのように硬直化していく、そのことに賢い人たちは気付いていて、「レンブラントの晩年の絵、いいよね!」とか、「熟練の能楽師は、外すのもまた味があるよね!」と言ってきているわけです。時代や場所を越えて、あるいは自己を鍛えていく分野の違いを超えて、このような共通理解があるというのは、何とも面白いし、また、それだけ人間が「fair」とされるものの中に逃げ込みたいという願望を絶えず抱えているという事実の現れであるのだと思います。(ちなみに、この(後ろの)foulは僕的には「ロック(ミュージック)」と訳してみたいですね。'Fair is foul, and foul is fair.'を僕が訳すとしたら、「お利口なことこそが罪深く、ロック(i.e.はみ出ること)こそが正しいんだ!」なんてどうでしょう。)(ちなみに、上の意味でのrock'n rollもまたいずれfairになっていくわけです。ということは、'Rock'n roll is dead' ということがロックになったり、さらには「rock'n roll is deadじゃねえ!今こそロックだ!」ということ(即ち、'Rock'n roll is dead' is dead)がロックになったり、となっていきます。ややこしいですが、結局我々が硬直した意味に縛られることを自らに許さない姿勢のみが、可能性を内包している、ということだと思います。それは流行の循環(loop)であれば不毛ですが、くるくる回っているように見えてらせん(spiral)のように深化していくのであれば、人間の文化のあるべき発達の仕方であると思います。)

 そして、このように伝えるべき内容自体はよくあるものであるとしても、「守・破・離」という言葉には、なかなか良く練られた戦略を僕は感じます。結局習い始めの初心者は、なぜ、先生の言うことを守らないのかといえば、習い始める前の自分の習慣や考え方を優先しているからです。逆に習っていけば行くほどに、その(習得した技術の)体系を離れることに恐怖を感じます。その段階においては、習ったとおりの体系をふまえることがその人にとっては習慣となっているからです(そして、与えられたものを「破る」よりは「離れる」ことの方が、遙かに恐ろしいことは離れたことがある人にとってはわかりやすいのではないでしょうか。)。つまり、この言葉は、「今までの自分でいるな!(Fair is foul, and foul is fair)」というわかりやすそうで具体的にどう実行するかは悩ましい真理を、実践的にわかりやすく言い換えた言葉であり、しかもそれぞれのプロセスにおいては一見違うこと(守≠破≠離)をやるかのように言い換えることで、より目の前の目標に集中しやすくしてあります!
何とすばらしい。これは、全ての研鑽のプロセスを見事に言い表せていて、塾名を「守破離塾(しゅはりじゅく)」に変えたくなるくらいです。

しかし。それでもなお、難しさは残ります。いつまでが「守」で、いつからいつまでが「破」で、いつからが「離」なのかは継続年数とかで機械的に決められるものではありません。一人一人、また、同じ人であっても、取り組む分野によって全く変わってきます。理想的な教育にはこの「守破離」が全体として実現されていることは間違いがないとしても、それをマニュアルのようにしていくことは難しいというより不可能です。やはり教師が(そしてもちろん学習者本人こそが)悩まねばならないことは山ほどあるようです。

長々と書きました。伝えたかったのは、学問とは(それまでに継続したありようから自由という意味で)ロックだ!芸術とはロックだ!教育とはロックだ!ということです(こう書くとかなりアホっぽいですね)。浜岡原発の停止は、政治とはロックだ!につながるのでしょうか。浜岡原発の停止自体は正しいことだとしても、アメリカ政府の圧力が最終的な決め手でした、などというクラシカル(古典的)なものでなければよいのですが。ともあれ、政治をロックにするためには、私たちの不勉強を猛省して、乗り越えて行かねばなりませんね。僕も頑張りたいと思います。

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