嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

それでも自分を「天才(gifted)」と呼ぼう!

すっかりご無沙汰をしておりまして、申し訳ありません。おかげさまで塾があまりにも忙しく、それにかまけてすっかりさぼっておりました。

僕は塾生にはよく「僕ほどの天才になると…」などと、一見「厨二病(ちゅうにびょう)」(自分で自分のささやかな全能性を信じている状態を周りから見て揶揄(やゆ)した言葉です。中学二年生辺りに多いので、このように言うらしいです。塾生から教えてもらいました。)的なことをよく言うのですが、そこには様々な意味合いを込めていまして、その中でももっとも伝えたいメッセージは、言ってみれば「自分の「天才」をもっと信じてほしい!『天から与えられた才能』(天才)は誰にでもあるのだから。それを僕程度の『天才』が言うことで、「何だ、あの程度の奴でも言えるなら自分も言おう!」と思ってもっと自分で自分のことを『天才』だと言えるようになって、その上で努力をしてほしい!」という思いです。

結局、どのように「才能」に恵まれた人であっても、その人よりも同じ分野において遙かに「才能」に恵まれている人など、世界中には、あるいは世界の歴史の中には山ほどいるわけです。ですから、我々にできることはただ、与えられたgift(才能・贈り物)が誰よりは劣っていて、誰よりは優れているかなどとくだらない比較をすることではなく、与えられたものを用いて、必死に走り出すことだけです。走り出すことは、自分にしかできないのですから。その走り出し、走り続けている際に、「自分のgiftがもっと大きければ…」などと言っている暇はないでしょう。それでは全力で走り続けることにはなっていません。たいていの人の失敗は、自分に与えられたgiftの多い少ないではなく、自分に与えられたgiftの多寡を気にするあまり、走り続ける足がおろそかになっているが故であるのです。

もちろん、「そのように『努力こそが一番大事』と言う人間こそ、実は人一倍gift(才能)に恵まれていて、自分では大した努力をしてもいないくせに、『努力が一番大切だ』と言っては、自分の特権的立場を隠蔽しているのだ!」という糾弾は大切でしょう。アメリカ合衆国では有色人種へのaffirmative action(肯定的逆差別)に対して、一番厳しい批判をするのが自分自身が努力して成功した有色人種である、というのは有名な事実らしいです。何なら、それを理由にしてさぼる時期だって少しくらいあってもよい。しかし、それを一生の自分のモットーにしていくわけにはいきません。なぜなら、どのような人間もまた、自分に与えられたものを必死に使いこなすことで生きていくより他にやりようがないからです。他人の欺瞞や不正を糾弾することは、決して自分が不正でなくなることにはつながらないわけです。私たちの住むこの社会における、学校や会社やその他の組織が、そのような言説であふれかえる、やる気をなくすような場であったとしても、それは自分が努力しないことを決して正当化できません。逆に言えば、自分はそうはならないように、努力をし続けることはできる、というわけです。

予備校や塾業界は、たかが東大卒ぐらいで「すごい!」となってしまう幼稚な社会(東大卒など年間3000人は量産されているのですが)なので、このようなことを言ってもなお、「そうは言ってもお前は東大卒で劣等感なんか感じたことがないじゃないか!そういうお前が『努力しろ!』ということ自体が押しつけなのだ。」と言われてしまうかもしれませんね。もちろん、僕は凡百の中高の同級生や先輩後輩、大学の同級生や先輩後輩に劣等感を感じたことなど、微塵もありません。しかし、自分の知識の足りなさ、考えの甘さ、いかに自分の頭の悪さが未然に防げたはずの失敗を招き続けているかについては、本当に劣等感を絶えず抱き続けています。自分自身がいかに愚かであるか、いかに勉強不足であるか、いかに実力が足りないか、その点で日々落ち込む毎日です。

さらには、どうひいき目に見積もっても、僕は「世界最高の知性」ではありません。自分が一番自信のある(というよりそれしかない)部分に関してもなお、それは言えるでしょう。あるいは「知性」ということで他の人と遜色が仮になかったとしても、何かを懸命に研究してきた人と比べれば、僕の積み重ねなど、本当にくだらないもの、取るに足らず人類の学問の進歩に何一つその足跡を残し得ないものであるといえるのでしょう。その点では、僕は20代前半で自分の人生をかけるべき学問を選べてしまう同級生達の考えの足りなさ、悩みのなさに嫌気がさし、批判ばかりしていたのですが、彼らは着々と研究を進め、人類の学問の進歩に貢献できるかどうかはまだ分からないにせよ、そこに関係する一人一人とはなっている人たちもいるのにも関わらず、僕はそのような分野を何一つもちません。僕がどのように努力しようと、もう、どの学問にも僕の足跡は残り得ない。そのことに対して、僕は賢かったが故に愚かだったのだと日々劣等感を感じています。

しかし僕は、フランクルの「それでも人生にイエスと言おう!(Yes for life)」ではありませんが、「それでも自分を天才(gifted)と呼ぼう!」とは思っています。それはつまり、僕の関わる全ての失敗は、僕が生まれる際、あるいは自分がこれまで育てられてくる中で与えられた(gifted)もののせいではなく、自分の(努力不足の)せいなのだ、と考えていくということです。それは言い換えれば、自分はもう十分に、様々なものをいただいた、という気持ちです。その上で、自分が何を(自己に対してであれ、他者に対してであれ)与えられるのかを、徹底的に追い求めていく姿勢であると思っています。

このように失敗を続け、劣等感を感じてきた僕だからこそ、できることがきっとあるはずだと僕は思います。僕の様々な成功も失敗も、その全てが、大切なものであるわけです。それらを使って、まだまだ手の届いていない人々に、僕にしかできないやり方で力になることだってこれからできるかもしれません。僕はそのことを諦めることは決してありません。

その上で、あらゆる道を行く人に。今、あなたがいる、そこからしかできないものが、必ずあるはずです。ありえた可能性を見殺しにしてきたことを悔いる前に、今、そこからできることに胸を躍らせ、そしてそのことのために必死に努力してほしいと思います。その今の場所が、世界の最先端であれ、世界の最底辺であれ、そこからしか、そしてそこに居る人にしかできないものが必ずあるはずだと僕は思っています。

どのような「まわり道」も、あるいはどのような「最短距離」も、それらはそれだけでは価値が低いものでも高いものでもありません。それを良く理解した上で、それらをどのように活かしていくかを考え、全力を尽くしていくことが大切だと思います。そのどちらにも、いくらでも使い途があるのですから。僕もまだまだ、僕にしかできないことをがんばっていきたいと思います。

(追記)
読み返してみて誤解を招く書き方だったな、と思うので補足しますと、僕は職業として学者を選んでいる人々全てに劣等感を感じてはいません。僕はまず職業的学者と本当の学者とは違うと思っていますし、前者の中に後者が(特に日本のアカデミアの中には)きわめて少ないこともよくわかっています。僕が劣等感を抱く相手はあくまで、(それが職業としてはプロであれアマチュアであれ)後者でしかありません。もちろんその一方で、僕は、この世界に嚮心塾がなかったら、と思うとぞっとしたりもします。ともあれ、こちらの道からできることをしっかりと頑張っていきたいと思います。

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嚮心塾国語講座第一回「せっけんが一寸法師になっちゃった。」

こちらは何とか元気にやっております。申し訳ないくらいにです。

タイトルはNHK教育テレビ『日本語であそぼ』で先日紹介された五・七・五の型式の文章です。6歳の子の投稿作だそうです。たまには学習塾らしく、この文章を元に現代文の問題を作って、考えてみましょう。

「問い1『せっけんが一寸法師になっちゃった。』という文の意味を解釈せよ。」

解答例1「せっけんを使っていたら小さくなってしまった。」
講評:大半の解答はこのような書き方になってしまうと思います。しかし、これは「一寸法師」≒「小さなものの象徴」というように、短絡的にとらえ、それでこの文意を汲んだと思ってしまっています。しかし、小さいものを何でも「一寸法師」にたとえますか?「せっけんが一寸法師だ!」ということを発見したこの子の感動は、ただ「使っていたら小さくなった!」というだけではおそらくないわけです。その感動をより丹念に追っていくために、「一寸法師」という言葉をより丁寧に言い換えていく必要があります。

「一寸法師」→小さな人間→小さいながらに頭、手足、胴体とがあり、私たちと同じように話をしたり行動したりできる存在

と言い換えてみると、それがどうしてせっけんのたとえとして用いられているのかが、よくわかるのではないでしょうか。せっけんも使っていく中でどんどん小さくなっていきます。しかし、そのように使われて小さくなっていくせっけんは、どんなに小さくなっていっても、決して「せっけん」としての機能を失いません。それが、小さいながらもやはり1つの過不足のない全体としての「一寸法師」であるかのように、この小さな詩人は感じ取ったわけです。それをふまえて解答例を作ってみると、

解答例2:せっけんを使っていたら小さくなってきた。しかし、小さくなってもせっけんはせっけんであり、その機能を失わない点が、人間をその機能を失わないままに小さくし、1つの完(まった)き全体として存在している一寸法師のようだという感動を表している。

ここまでで合格ラインでしょう。(こんな試験を本当に出す大学があるとすばらしいのですが。)
蛇足かもしれませんが、僕ならばこの解答例2にさらに下のように付け加えたいところです。

解答例3:せっけんを使っていたら小さくなってきた。しかし、小さくなってもせっけんはせっけんであり、その機能を失わない点が、人間をその機能を失わないままに小さくし、1つの完(まった)き全体として存在している一寸法師のようだという感動を表している。そもそも、私たちはどこからが部分で、どこからが全体であると言えるのだろうか。細胞の集積によって生命が構成される、ということを私たちはこの何百年かで学んできたわけだが、それは「私たち自身とは何か」を知ることになるのではなく、私たちを分解してしまっていった結果として、どの要素にも私たちは存在していないという事実に気付かざるを得なくなってしまったのかもしれない。それに比べて、このせっけんは、どこまで小さくなってもせっけんだ。おとぎ話に現れる一寸法師のお話とは、人間を含む様々な生物が決して自らの自意識が当たり前のように想定している「自己」がいかにはかなく、もろいものであり、危ういバランスの上にようやくなりたっているかを理解しているが故の、先人の憧れの現れであるのかもしれない。…

ふう。少々やりすぎました。長くなりすぎたので、その後は書きませんが、そのように色々と考えられるわけです。このように、読解問題で大切なのは、
①文の意味をしっかりと理解する。その際に言葉の意味に徹底的にこだわる。
②その上で、その文を書き手がどのような気持ち(あえて論理や主張と言いません。「気持ち」です)で書いているのかを徹底的に想像する。

ということです。特に、①に関して、できていない子達があまりにも多い、というのが現状であると思います。
「『一寸法師』?ああ、ちっちゃいってことね。」と短絡的に理解をして、そこで止めてしまうことが多いのです(テレビでの解説もそうでした。まあ、子ども向け番組なので、ということかもしれませんが)。しかし、そこでの「一寸法師」という言葉には、詩的な感動が伴っています。「せっけんがちっちゃくなっちゃった!」では収まらない感動が何なのか。作者自身の感じるその表現の必然性、あるいはさらに作者も自身では気付いていないかもしれないその表現の必然性を、言葉の意味に徹底的にこだわることから、理解していかねばなりません。それが②のプロセスです。


その上で。大人である我々は、このような子どもの鋭さに絶えず注意を払い続けていかねばなりません。ほとんどの子どもは天才で、ほとんどの大人は凡人です。それ故に、彼らのいわんとする意味の深さを私たちがむげに却下してしまっては、彼らを凡人にしてしまっていることが多いのではないでしょうか。

言葉の意味のやりとりをしたいし、そこに対して少しでも感受性をもつことのできる子達を育てていきたいと思っています。それは型式ばかりの遺憾の意や謝罪ばかりが溢れるというグロテスクなこの社会への1つのアプローチだと思っております(もちろん、卑近なところではそれをしっかりやると受験にも受かりやすくなりますね)。

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