
先に公開した巻頭言は、新高3生を対象に書いた文章ですが、それだけでは舌足らずだな、と思い、補足としてこの文章を書きます。合わせてお読みいただけると、有り難いです。
「先生を信じすぎるな!」と言いました。では、頼りになるのは塾や予備校でしょうか。それもまた難しいところです。なぜなら、塾や予備校は営利目的でやらざるを得ないからです。ただ、その当たり前のことを批判する前に、まずは塾や予備校を弁護してみましょう。
学校というのは、ある意味一人一人の先生が受験生の結果を出さなくても、学校の先生の評価に関わるところではありません。生徒の合否に先生の生死はかかってない、と言い換えればよいでしょうか。もちろん、進学に熱心かつ生き残りをかける一部の私立高校であれば、かなりえげつない話もよく耳にはしますが、しかし、だからといって「成績が上がらないからこの高校をやめる」というやめ方は少ないでしょう。これには、大学受験には高校卒業資格が必要であり、そして高校をやめた上でこの資格を高卒認定試験でとる、ということにはかなりわずらわしさが伴うという理由があります。
それに比べて、塾や予備校は文部科学省からの補助金もなく、全て自前で利益を出していかねばつぶれてしまうとので、どうしても営利目的にならざるを得ないわけです。もちろん、学校の先生がこのような事実をふまえずに、塾や予備校を「営利目的だ!」と非難するのは僕は浅薄だと思います。私立の学校でも文部科学省の補助金が生徒一人頭年間5万円出ている学校(生徒数1200人の高校で年間6000万円は自動的に入ってくるわけです。)と比べて、塾や予備校を「営利目的だ!」と言っても何の意味もないと思うからです。それを批判するなら、私立の学校も何なら公立の学校も文部科学省からの補助金を全て返納して、それでもなお学校経営が成り立つように努力して成立させた上で、「ほら、営利目的でない経営ができるではないか!」と批判をしないとフェアではないように思います。
さらには大手の予備校に限って言えば、もはや社会的インフラとなっていると言えるでしょう。たとえば予備校の行う模擬試験やセンターリサーチがもしなくなったら、今のような受験生と大学とのマッチングはもっと暗中模索のものとなり、結果として他の大学に入る力はあるのにもかかわらず、高望みをして不合格になってしまう受験生が山ほどでることになります。そのような社会的損失を防ぐための装置として、予備校は民間企業として、本当に貢献しているといえるでしょう。現在のようにある程度効率の良い出願作戦を練ることができるのは、大学入試センターのおかげではなく、間違いなく予備校のおかげです。
しかし、塾や予備校には営利を求めるあまり陥りやすい決定的な構造上の欠陥があります。その一つ目は、とる講座の数によって料金が変わる、ということです。どのように天才的な先生の、すばらしい講義を毎日欠かさず聴こうとも、決してそれだけでは勉強の力はつきません。自分に何が足りないかを悩み、考え抜くことで勉強の力もまた伸びていくからです。それこそ、「知らない知識を知っていく」だけであれば、多少の効率の差はあれ、本人の努力でまかなえるところであるわけです。しかし、予備校ではまずそのような努力が必要な生徒達には「入門講座」を勧めます。講義をとってもらうことで収入を得ている以上、彼らもまたついついそのようにせざるをえないわけです。結果として、「授業をまじめに聞いている」ことに満足し、月々高いお金を払うものの、結局何も力がついていない受験生が増えるということになってしまいます。
もちろん、「○○講座以上なら、いくつ講座をとっても同一金額!」というシステムを採用する予備校もあります。しかし、これも明らかに問題があります。一つは、携帯料金のパケホーダイとは違って、予備校の講義は一つ一つを用意するのに正比例して講師の人件費その他の経費が確実に増えているわけです。携帯でのデータ受送信量が増えることがそのシステム整備にかかる費用と正比例しないのとはわけが違います。それでも「いくつ講座をとっても同一金額!」が可能なのは、一講座辺りの受講費用を元々かなり高く設定しているからでしょう。
次に予備校の問題点として、一人一人の勉強の進み具合を把握して、的確なアドバイスをする、ということが
できる人が少ないこともあります。これは学校と同じですね。ただ、こうした欠点を補うために、チューター制度を導入している予備校は多いでしょうが、これはこれで問題です。まず問題の一つ目は、受験の計画や相談を受けるチューターは実際に隅々までその受験生に勉強を教えていないが為に、どうしても一般論、もっと狭くは自分の体験談になりがちである、という欠点があります。また、さらには、このチューター制度を売り物にするのは難しい(たとえばどんなに優秀で熱意のあるチューターがいても、チューターとだけ話し合って勉強していき講義をとらなくなると、予備校はもうからなくなります。)ので、チューターとしてもできる限り受験生に講座を取らせなければならなくなるわけです(もちろん、ここに先の欠点である、チューターが直接は勉強を教えていない、という不安感がさらにこの商業主義に正当化を与えます。チューターとしては、一人一人の生徒の勉強上の問題点を自分では解決できていないという不安感を、「その子のレベルに合った」講義を受講させて何とか乗り越えようとさせることで、自分の良心と予備校の圧力とを両方とも満たすことができるわけです。しかし、それはチューターの自己満足であり、本当にそのやり方で、その受験生が合格できるかは別問題であるわけです)。
予備校の収益構造が講義に頼っている以上、やはり受験生の力を鍛えることと予備校が存続することとは必ずギャップが生まれてしまう。そのことを私たちは認識しなければならないと思います。そして、それは予備校だけの罪ではありません。端的に言えば、受験生の側の甘さという名のニーズに、予備校側が合わせてきた結果であると思います。
英単語や古文単語を覚えること、教科書レベルの知識の確認、さらにはそのレベルでの問題集を解くこと、その部分での努力を一人でできないことを、全ての受験生は恥ずかしいと思わねばなりません。もちろん、その情けなさを自分で認めてそこから始めて頑張りたい、というのであれば、嚮心塾でも是非応援し、一緒に頑張りたいと思っています。しかし、その努力を自分でできない弱さを、お金を払うことで他の大人に何とかしてもらおうと思うのなら、そもそも大学受験などしなければよい。そこに自分の弱さに対する恥ずかしさも感じずに、誰かにお金を払って何とかしてもらおう、という姿勢に沿って、予備校業界のサービスが発達してしまっているわけです。僕は、そのような予備校にお金を払わないでほしい、とまず親御さんたちには言いたいと思っています。自分の子どもが自分で頑張りもせずに、親が予備校にお金さえかければ大学に進学できると思ったら、大間違いです。そのような浪費は、決して子ども達のためになりません。
もちろん、そうはいっても、ほとんどの人にとって、一人でする受験勉強には限界があります。だからこそ、嚮心塾はそのような「頑張りたい」と思ってもそのやり方がわからない人たち、あるいは実際に懸命に頑張っているけれどもなかなか結果に恵まれない人たちの力になりたいと考えています。
(追記)
僕はもちろん、「予備校は講義だけやれ!チューター制度なんかいらない!」と言っているのではなく、むしろせっかくよい制度を用意しているのに、旧来の収益構造と、チューター制度を大学生に任せるという軽視、受験生のニーズという名の甘え、などの理由から、うまく機能していないことを残念に思っています。たとえばケンブリッジで教えている友人から聞いた話では、ケンブリッジ大学でもlecturer(講師)とtutor(個別指導教員)を分けていて、それぞれ前者が世界トップレベルの講義を、後者が学生達のその徹底的な理解を助ける、という役割分担をしているそうです。そういう意味では日本の予備校も形式は似ています。ただ、ケンブリッジの場合、tutorになる先生方もまた、トップレベルのきわめて優秀な先生方も多く、しかもその先生方が継続的に学生を教育していくわけです。さらにはそのlecturerとtutorが、お互いがお互いの役割と各々の重要性を深く理解し、尊敬しあえる関係であるのだと聞いています。(注:CambridgeとOxfordが同じシステムでこのシステムを総称してTutorial Systemと言うらしいのですが、Cambridgeではこうしたシステムをsupervision,先生をsupervisorと呼び、Oxfordではシステムをtutorial,先生をtutorと呼ぶそうです。なので、厳密にはここではsupervisorになるわけですが、日本の予備校と比べやすいので、これ以降もtutorと書かせていただきます。これもご指摘ありがとうございます。)
翻って日本の予備校に足りないのは、チューター(tutor)がプロフェッショナルでないこと、講師(lecturer)がチューターと全面的な協力体制にないこと(講師とチューターで一人一人の学生をどう鍛えていくかについての議論などおそらくできていないでしょう)であると思います(もちろん、予備校の講師が日本トップレベルの研究者ではない、という欠点もごく一部の例外となる先生を除いてはあるわけですが。これはまた長くなりますので、別の機会に書きたいと思います。)。
もちろん、あちらで数百年かけて生まれた伝統と同じようなものを、すぐに日本でも、というのは難しいでしょうし、形だけをまねしても違うものになるのは、上のように見てきたとおりです。しかし、制度として確立するのが難しくても、1つのやり方として、僕は、一人の教師がlecturerとtutorを兼ねる、ということは大切だと思っています。それが全ての基本であり、始まりです。そして、それはlecurerとtutorの協力が価値のある制度として評価され、既に成り立っているあちらにも、何らかの形でフィードバックをもたらすことができるものであるとも、また考えています。(僕自身は、どちらかというとlecturerよりはtutorの方にとても自分の関心が強いので、本当はそちらに専念したいのですが。「この人と役割分担をしたらケンブリッジにも負けない体制を築ける!」と信頼できるlecturerの方と共に仕事ができるその日まで、物理でも数学でも勉強しなくては、と思っています。)
(追記その2)
と紹介したら、先ほどその友人からメールをいただいて、「ほとんどのlecturerやprofessorは、tutorも兼ねていて、仕事・役割としては分担されているけど、人間はオーバーラップしている。」と教えていただきました。有り難うございます。感服しました。さすがはケンブリッジ!もう既に嚮心塾方式を遙か前から導入していたとは!(何だかすみません。僕もlectureできるように、勉強頑張ります。)
「先生を信じすぎるな!」と言いました。では、頼りになるのは塾や予備校でしょうか。それもまた難しいところです。なぜなら、塾や予備校は営利目的でやらざるを得ないからです。ただ、その当たり前のことを批判する前に、まずは塾や予備校を弁護してみましょう。
学校というのは、ある意味一人一人の先生が受験生の結果を出さなくても、学校の先生の評価に関わるところではありません。生徒の合否に先生の生死はかかってない、と言い換えればよいでしょうか。もちろん、進学に熱心かつ生き残りをかける一部の私立高校であれば、かなりえげつない話もよく耳にはしますが、しかし、だからといって「成績が上がらないからこの高校をやめる」というやめ方は少ないでしょう。これには、大学受験には高校卒業資格が必要であり、そして高校をやめた上でこの資格を高卒認定試験でとる、ということにはかなりわずらわしさが伴うという理由があります。
それに比べて、塾や予備校は文部科学省からの補助金もなく、全て自前で利益を出していかねばつぶれてしまうとので、どうしても営利目的にならざるを得ないわけです。もちろん、学校の先生がこのような事実をふまえずに、塾や予備校を「営利目的だ!」と非難するのは僕は浅薄だと思います。私立の学校でも文部科学省の補助金が生徒一人頭年間5万円出ている学校(生徒数1200人の高校で年間6000万円は自動的に入ってくるわけです。)と比べて、塾や予備校を「営利目的だ!」と言っても何の意味もないと思うからです。それを批判するなら、私立の学校も何なら公立の学校も文部科学省からの補助金を全て返納して、それでもなお学校経営が成り立つように努力して成立させた上で、「ほら、営利目的でない経営ができるではないか!」と批判をしないとフェアではないように思います。
さらには大手の予備校に限って言えば、もはや社会的インフラとなっていると言えるでしょう。たとえば予備校の行う模擬試験やセンターリサーチがもしなくなったら、今のような受験生と大学とのマッチングはもっと暗中模索のものとなり、結果として他の大学に入る力はあるのにもかかわらず、高望みをして不合格になってしまう受験生が山ほどでることになります。そのような社会的損失を防ぐための装置として、予備校は民間企業として、本当に貢献しているといえるでしょう。現在のようにある程度効率の良い出願作戦を練ることができるのは、大学入試センターのおかげではなく、間違いなく予備校のおかげです。
しかし、塾や予備校には営利を求めるあまり陥りやすい決定的な構造上の欠陥があります。その一つ目は、とる講座の数によって料金が変わる、ということです。どのように天才的な先生の、すばらしい講義を毎日欠かさず聴こうとも、決してそれだけでは勉強の力はつきません。自分に何が足りないかを悩み、考え抜くことで勉強の力もまた伸びていくからです。それこそ、「知らない知識を知っていく」だけであれば、多少の効率の差はあれ、本人の努力でまかなえるところであるわけです。しかし、予備校ではまずそのような努力が必要な生徒達には「入門講座」を勧めます。講義をとってもらうことで収入を得ている以上、彼らもまたついついそのようにせざるをえないわけです。結果として、「授業をまじめに聞いている」ことに満足し、月々高いお金を払うものの、結局何も力がついていない受験生が増えるということになってしまいます。
もちろん、「○○講座以上なら、いくつ講座をとっても同一金額!」というシステムを採用する予備校もあります。しかし、これも明らかに問題があります。一つは、携帯料金のパケホーダイとは違って、予備校の講義は一つ一つを用意するのに正比例して講師の人件費その他の経費が確実に増えているわけです。携帯でのデータ受送信量が増えることがそのシステム整備にかかる費用と正比例しないのとはわけが違います。それでも「いくつ講座をとっても同一金額!」が可能なのは、一講座辺りの受講費用を元々かなり高く設定しているからでしょう。
次に予備校の問題点として、一人一人の勉強の進み具合を把握して、的確なアドバイスをする、ということが
できる人が少ないこともあります。これは学校と同じですね。ただ、こうした欠点を補うために、チューター制度を導入している予備校は多いでしょうが、これはこれで問題です。まず問題の一つ目は、受験の計画や相談を受けるチューターは実際に隅々までその受験生に勉強を教えていないが為に、どうしても一般論、もっと狭くは自分の体験談になりがちである、という欠点があります。また、さらには、このチューター制度を売り物にするのは難しい(たとえばどんなに優秀で熱意のあるチューターがいても、チューターとだけ話し合って勉強していき講義をとらなくなると、予備校はもうからなくなります。)ので、チューターとしてもできる限り受験生に講座を取らせなければならなくなるわけです(もちろん、ここに先の欠点である、チューターが直接は勉強を教えていない、という不安感がさらにこの商業主義に正当化を与えます。チューターとしては、一人一人の生徒の勉強上の問題点を自分では解決できていないという不安感を、「その子のレベルに合った」講義を受講させて何とか乗り越えようとさせることで、自分の良心と予備校の圧力とを両方とも満たすことができるわけです。しかし、それはチューターの自己満足であり、本当にそのやり方で、その受験生が合格できるかは別問題であるわけです)。
予備校の収益構造が講義に頼っている以上、やはり受験生の力を鍛えることと予備校が存続することとは必ずギャップが生まれてしまう。そのことを私たちは認識しなければならないと思います。そして、それは予備校だけの罪ではありません。端的に言えば、受験生の側の甘さという名のニーズに、予備校側が合わせてきた結果であると思います。
英単語や古文単語を覚えること、教科書レベルの知識の確認、さらにはそのレベルでの問題集を解くこと、その部分での努力を一人でできないことを、全ての受験生は恥ずかしいと思わねばなりません。もちろん、その情けなさを自分で認めてそこから始めて頑張りたい、というのであれば、嚮心塾でも是非応援し、一緒に頑張りたいと思っています。しかし、その努力を自分でできない弱さを、お金を払うことで他の大人に何とかしてもらおうと思うのなら、そもそも大学受験などしなければよい。そこに自分の弱さに対する恥ずかしさも感じずに、誰かにお金を払って何とかしてもらおう、という姿勢に沿って、予備校業界のサービスが発達してしまっているわけです。僕は、そのような予備校にお金を払わないでほしい、とまず親御さんたちには言いたいと思っています。自分の子どもが自分で頑張りもせずに、親が予備校にお金さえかければ大学に進学できると思ったら、大間違いです。そのような浪費は、決して子ども達のためになりません。
もちろん、そうはいっても、ほとんどの人にとって、一人でする受験勉強には限界があります。だからこそ、嚮心塾はそのような「頑張りたい」と思ってもそのやり方がわからない人たち、あるいは実際に懸命に頑張っているけれどもなかなか結果に恵まれない人たちの力になりたいと考えています。
(追記)
僕はもちろん、「予備校は講義だけやれ!チューター制度なんかいらない!」と言っているのではなく、むしろせっかくよい制度を用意しているのに、旧来の収益構造と、チューター制度を大学生に任せるという軽視、受験生のニーズという名の甘え、などの理由から、うまく機能していないことを残念に思っています。たとえばケンブリッジで教えている友人から聞いた話では、ケンブリッジ大学でもlecturer(講師)とtutor(個別指導教員)を分けていて、それぞれ前者が世界トップレベルの講義を、後者が学生達のその徹底的な理解を助ける、という役割分担をしているそうです。そういう意味では日本の予備校も形式は似ています。ただ、ケンブリッジの場合、tutorになる先生方もまた、トップレベルのきわめて優秀な先生方も多く、しかもその先生方が継続的に学生を教育していくわけです。さらにはそのlecturerとtutorが、お互いがお互いの役割と各々の重要性を深く理解し、尊敬しあえる関係であるのだと聞いています。(注:CambridgeとOxfordが同じシステムでこのシステムを総称してTutorial Systemと言うらしいのですが、Cambridgeではこうしたシステムをsupervision,先生をsupervisorと呼び、Oxfordではシステムをtutorial,先生をtutorと呼ぶそうです。なので、厳密にはここではsupervisorになるわけですが、日本の予備校と比べやすいので、これ以降もtutorと書かせていただきます。これもご指摘ありがとうございます。)
翻って日本の予備校に足りないのは、チューター(tutor)がプロフェッショナルでないこと、講師(lecturer)がチューターと全面的な協力体制にないこと(講師とチューターで一人一人の学生をどう鍛えていくかについての議論などおそらくできていないでしょう)であると思います(もちろん、予備校の講師が日本トップレベルの研究者ではない、という欠点もごく一部の例外となる先生を除いてはあるわけですが。これはまた長くなりますので、別の機会に書きたいと思います。)。
もちろん、あちらで数百年かけて生まれた伝統と同じようなものを、すぐに日本でも、というのは難しいでしょうし、形だけをまねしても違うものになるのは、上のように見てきたとおりです。しかし、制度として確立するのが難しくても、1つのやり方として、僕は、一人の教師がlecturerとtutorを兼ねる、ということは大切だと思っています。それが全ての基本であり、始まりです。そして、それはlecurerとtutorの協力が価値のある制度として評価され、既に成り立っているあちらにも、何らかの形でフィードバックをもたらすことができるものであるとも、また考えています。(僕自身は、どちらかというとlecturerよりはtutorの方にとても自分の関心が強いので、本当はそちらに専念したいのですが。「この人と役割分担をしたらケンブリッジにも負けない体制を築ける!」と信頼できるlecturerの方と共に仕事ができるその日まで、物理でも数学でも勉強しなくては、と思っています。)
(追記その2)
と紹介したら、先ほどその友人からメールをいただいて、「ほとんどのlecturerやprofessorは、tutorも兼ねていて、仕事・役割としては分担されているけど、人間はオーバーラップしている。」と教えていただきました。有り難うございます。感服しました。さすがはケンブリッジ!もう既に嚮心塾方式を遙か前から導入していたとは!(何だかすみません。僕もlectureできるように、勉強頑張ります。)



