嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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文学の残酷性について2

大分間隔が空いてしまいました。入試直前の必死の受験生に申し訳ないと思いながらも、こそこそとブログを書いております。

僕は太宰治が好きです。というと、今、日本で流行のお笑いコンビ、ピースの又吉さん(熱烈な太宰治ファンだそうです)のまねのように聞こえるかもしれませんが、太宰のように自分の人生をかけて、どうしても伝えたい一つのテーマに取り組んだ作家というのは、日本の作家ではなかなか少ないのではないかと思います。

しかし、太宰治が「私が問題にしたかったのは、ただ家庭であるのだ。」とわかりやすい言葉とわかりやすい作品群を残してくれて、その中でも『家庭の幸福』などはそのものずばりをすっきりと書けているエッセイだとは思うのですが、たとえばそのような太宰の伝えたかったメッセージを理解することをぬきにして、作品を評価することを文学研究だとするのなら、たとえば文学の研究などに何の意味があるのでしょうか。太宰が伝えたかったテーマは家庭の暴力性であるわけです。それは「暴力的な親または子のいる家庭も中にはある」ということではなく、「家庭」というもの自体が、本来的に含まざるを得ない暴力性について彼は気づき、それを一生懸命伝えようとしているわけです。

そして、そのような立場はたとえばベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』などを読めば、より論点が整理され、一目瞭然です。それなのに、太宰の読者は今も増え続けていながら、その論点がわかってもらえない。専門としている研究者にも分からない。そのせいで、「若い頃、太宰治にはまるのは一種の熱病のようなもの」で、「そのような熱はいずれ成熟とともに去る。」という理解が今でも支配的であるようです。しかし、このような理解はむしろ、自分が家庭内の年少者として抑圧を受けているときには鋭敏に感じていた家庭自体の持つ暴力性を、自分が年長者として家庭を率いる立場になれば、今度は自分が抑圧を与える側であるが故に感じなくなってしまうというだけであるので、家庭自体が暴力性をもつという彼の伝えたかったテーマを裏付けてくれるものであると思います。

このように、家庭が本来的に持つ暴力性というものを伝えたい作品に対して、それを感じずに生きてきた人間がどれほど熱心に読もうとも、決して理解をしえない。ここに、文学の残酷性があるわけです。誤解を避けるために書けば、僕は全ての文学研究など無価値だと言っているわけではありません。しかし、わからないものはわからない。この残酷さを僕たちは、どのように乗り越えていけるのでしょうか。

しかし、困ったことに、文学の残酷性はそれだけではないのです。

太宰治は「文学は弱い人の味方だ。」と言って、強さをひけらかす志賀直哉をさんざんに批判しました。僕は、この「文学は弱い人の味方だ。」という意見にはどちらかと言えば、賛成しますが、しかし、これはこれで大きな問題を抱えているとも考えています。つまり、先に言ったような理解のできなさとは、そもそも乗り越えた方がよいものなのかがきわめて難しいと思っています。弱い人の気持ちを理解していけばしていくほどに、自分自身はますます「弱く」なるわけです。それは、個人にとっては「不幸」以外の何者でもない状況を招くことになるでしょう。自分とは異なる問題意識や状況への共感能力は、実は文学を読むことによっては鍛えられない(自分が経験していないものは本質的には理解し得ない)ことを一つの文学の残酷さだとしたら、もう一つの文学の残酷性とは、そのような共感能力を持つ、まれな人格がもし存在するとしたら、文学はその人の共感能力を鍛えれば鍛えるほどに、その人が誰からも搾取が出来なくしていく以上、その人を不幸にならざるを得ないところへ追い込んでいく、ということであるのだと思います。私たちは共感能力をうまくスイッチを入れたり切ったりすることで、残酷な日常生活を送れているわけです。新鮮な魚がピチピチと跳ねている映像を見て、「おいしそう!」と言うときは共感能力のスイッチはoffであり、「かわいそう…」というときは共感能力のスイッチはonであるわけです。まあ、こんな例はわかりやすい話なのですが、このような共感能力を広げていくことが小説を読むことによってできてしまうのであればあるほどに、その人は食べることも何かを行動することもそもそも困難になっていくわけです。共感すればするほどに、生きにくくなる。そのような状況では、もうこれ以上わかりたくないと思うようになるのが必然でしょう。しかし、一度、その共感の蓋(ふた)が開いてしまえば、それを完全にoffにすることはもはや無理である場合が多いのではないでしょうか。

つまりまとめてみると、文学とは「どんなにそのテーマをわかりたい人にとっても決して分からない」という残酷さを持つ一方で、「どんなにこれ以上そのテーマを分かりたくない人にとってもそれが分かってしまう。」という残酷さをもつわけです。と、書いてみると何のこっちゃよくわからん気もしますし、それは文学に限った話ではない、とも言えるとは思います。ただ、具体的にはどういうことなのか、という話もしたいので、また次回続きを書きたいと思います。

(追記)
大分前に「経済について『しろうと経済学』を書こうと思う」と書いては、多忙に任せて放置していたら、今日(1/8)の朝日新聞の朝刊でエマニュエル・トッドが似たようなことを考えているのが書いてあって、先を越されてしまいました。なので、パクリ疑惑が生じてしまったわけですが、このシリーズが終わったら、また経済についても書こうと思っております。

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