嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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文学の残酷性について1

 文学とは、またそう大上段にふりかぶらなくても、小説とは本当に残酷なものです。それは、いわゆる数学や物理学のように、「分からない人には分からない。」(とはつまり、「分かるための大変な量の努力をしていない」ということでもありますが)という意味で残酷なのではありません。むしろ逆で、「分かっていなくても、誰にでも語れる。」というシニカルな残酷さがあります。だからこそ、その小説の作者の意図が分かっていない人々が、自らが分かっていない事を分かっているかのように語る、というグロテスクな事態も多々あるわけです。
 そしてさらに残酷なのは、その小説の意図(その小説でつたえたかったもの)をわかろうとどのように努力しても、わかりようがない人々もまたいる、ということです。そこで描かれたある意味個別的な感覚や感情を、経験していない人には分かるわけがありません。こここそが、非常に残酷なところです。どんなにその筆者に惚れ込み、その作品を網羅するように読もうと、その読者がその筆者のもつ感覚や感情と通じるものをもたないのであれば、決してそれはその筆者の書く作品の理解にはつながりません。そこでは、努力が一切通用しないわけです。人間の精神に私たちが想定している「個性」がある以上、必ずそうならざるをえない。その恐ろしさについて、また続きを書きたいと思います。

(続く)

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「リスクのない社会」という幻想について

全世界の嚮心塾日記マニアの皆様(特にアメリカ東海岸のマニアの皆様)、お久しぶり過ぎて、すみませんでした。

この時期になりますと、特に推薦入試の話など、大変な話が多く、ばたばたしておりました。
様々な子の相談に乗る中で改めて感じさせられるのは、「受験生にとっての落ちるリスクをゼロに近づけてあげたい」という学校の先生の親心です。それが行き過ぎて、行きたい学校でなくても、「推薦で決めてしまおう。高校に行けるだけマシではないか。」というような強引な結論になってしまうケースもたまにあるわけです。

しかし、「リスクをゼロにする」ということは、この不確定な人間社会の中で果たして可能であることなのでしょうか。たとえば、中学→高校での接続において、高校に進学するリスクをゼロにすることは、行きたい学校に行く、もっと勉強しなければいけない学校にいく、ということのもろもろをあきらめていけば可能なわけですが、しかしそのように妥協として進学した高校に(結局あまり行きたくなかったので)嫌気がさしてしまい、結局高校を途中でやめる、というケースもあります。さらにはそのリスクを中学→高校卒業までの過程では避けることが出来たとしても、とりあえず大学受験では、そして社会に出ればさらに、もっと大きなリスクが待っているわけです(「有名大学を出れば就職が安泰」などというのも、もはや大分有効性を失いつつあるわけですから)。それらについてはどうすればよいのでしょうか。さんざんにリスクを避ける安全な道を指し示しておいて、個々の力を鍛えることはあきらめておきながら、学校卒業後のリスクについては「それは自分で頑張れ。私は出来る限りの思いやりをもって導いた。」と言ってよいのでしょうか。

もし「リスクのない社会」ということをもし実現できる存在がいるのだとしたら、少なくともその存在は地球上の全てのことをコントロールできる神のごとき存在であるわけです。いや、私たちがscience(「科」学)という葦の随(よしのずい)からのぞき見る、狭い視野においてすら、やはり地球は他の全ての宇宙と切り離すことは出来ないのでしょうから、リスクのない社会を実現するためには、地球上のことの全てをコントロールできるどころではまったく足りないのでしょう。そして、現実には、地球上どころか、たとえば北朝鮮やブータンのような小さな国一国であっても、それを完全にコントロールすることなど、人智の及ぶところではないわけです。しかし、私たちは、保護者として、あるいは教師として、自分の子供や教え子に「リスクのない社会」の中で、「リスクのない人生」を生きることをついつい望んでしまいがちです。そのような傾向は、感情としては自然なものでしょうが、そのような感情的判断から、どこまでも自分を引きはがしては、この社会の中で様々なリスクがあることを考慮に入れた上で、そのようなリスクにも対応できる力をつけていってあげられるかが、大人が子供達にしてあげられる贈り物なのではないかと思います。

受験勉強を皆が必死になってやる動機は、(ごく一部の学ぶことの楽しさを分かっていく人をのぞいて)自分の人生を飢え死にするリスクのないものにしていくためです。端的に言えば、そのような努力が必ず実を結ぶかどうかには、必ず限界があるわけです。東大理Ⅲに首席で合格しようと、自分の人生にその後の飢え死にするリスクがなくなるかどうかなど、わかるわけがありません。しかし、そのような努力は、確かにリスクをなくすために始められたという意味では打算的で視野の狭いものでありながら、しかし、様々なリスクに対応する力をつけていくことにもまたつながりうる可能性をも秘めているわけです。そのことを、残りわずかな受験までの期間に塾生達を徹底的に鍛えながら、少しでも伝えていきたいと考えています。

それとともに、「精神的な事がらにおいては、可能性の限界は、われわれが考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、われわれの弱さ、悪徳、偏見である。下劣な人間は、偉大な人物のあることを決して信じない。いやしい奴隷は、「自由」という言葉を聞いても、せせら笑う。」(J.J.ルソー『社会契約論』第三編第十二章)というルソーの描写がどれほどまでに、真理をついているのかを伝えたいと考えています。「もうこんな成績じゃ合格なんて無理。」などという結論を決定しているのは、君たちの過去ではなく、今の君たちの態度であるのだ、ということを理屈だけではなく徹底的に実践を通じて、理解してもらえるように、最後まで全力を尽くしたいと思います。

(追記)
最近、ノーベル化学賞をとった根岸さんの発言もあって、「若い人はリスクを恐れず海外留学を!」的な論調が日本の新聞のコラムにも増えてきました。僕は上にも書いたとおり、この主張自体には全面的に大賛成なのですが、しかし、こう書く記者さんたちがどれほど「リスクを恐れず」に行動してきたのかはきわめて疑問に思っています。
というのも、別に大新聞の記者さんへのやっかみでも何でもなく、一般論としては「リスクを恐れず行動した方が個人にとっても社会にとってもより良い結果をもたらす」ことなど、言われるまでもなく皆がある程度わかっていることだと僕は思うからです。誰も宇宙に向かう宇宙飛行士を「あんなリスクをとりやがって。バカかあいつは。」とは言いません。「リスクを恐れずチャレンジ(海外留学、宇宙飛行、あるいは卑小なところでは受験)を!」というスローガンは、遠くで自分が関わらずに唱えられているときには、何より英雄的でかっこいいし、反対する理由など毛頭ありません。しかし、実際に自分が、あるいは自分の家族が、自分の子供がするときには、まず金銭的にも準備的にも大変ですし、情報も少ないわけです。ましてや、自分はそのようなチャレンジを経てきていないのであれば、どうしても自分の知っている今までの世界の方が魅力的に見え、しりごみを(あるいは反対を)してしまいます。そして、一番の問題点はそのようなチャレンジをする人を自分にとっての日常的な人間関係の輪からは永遠に失うかもしれない、ということを周囲の人はやはり嫌がるということではないでしょうか。
すなわち、若い人に(海外留学などの)チャレンジを本気で促すつもりがあるのであれば、それを促す人は、そのチャレンジをする人を全面的に支え、足りない情報は一緒にかけずり回って探し、金銭面その他の支援は惜しみなくしていくというだけでなく、その若い人を(自分の卑近な人間関係からは)永遠に失う覚悟がなければならないということです。たとえば、僕が自分の娘に海外留学を勧める、ということはそれを経た後はもう死ぬまで二度と僕の娘に会わないでもいいという覚悟を決める、ということであるのだと思います(もちろん、実際にそうなるかどうかはまた別問題として、です)。自分にとっての狭い人間関係が、自分を守ってくれる一つの「膜」として機能している日本では、このような覚悟を持つこと自体が、(その「膜」に守られていることに息苦しさを感じずにはいられない異端の人以外には)非常に難しい。きれいごとのスローガンを連呼するのではなく、そこをどのように変えることができるかが勝負であるように思います。(もちろん、このことを自覚的ではないにせよ、本能的に日本人は気付いているからこそ、「内向き」になっているという考察も成り立つかもしれません。)
もちろん、根岸さんのような学者の世界では、もう少し事情は違うのでしょう。「真理の探究」という姿勢に国境は比較的ありません(というより、大規模装置の必要なある分野を除いては、国境はむしろ障害物ですらあるでしょう)。その姿勢を共有している者同士の共感と互助があるからこそ、その姿勢を共有していない人々の作るlocalなcommunityに対して出て行きやすいというところはあると思います(それでもなお、「内向き」傾向は強くなっているとは聞きますが)。そのような共同体が学問や芸術以外にどのようになしうるのかについては、これからの課題であるのでしょう。(マルクスの言うように、「労働者」というくくりでそれが出来ると楽観的に信じることは、その後の歴史を見た僕らには出来ません。その点では彼は明確に間違っていたと言えます。しかし、マルクスがたとえば「労働者」という「(国境を越える)くくり」というものに可能性を見いだそうとした、というその希望の持ち方は、僕はそんなに筋が悪いものだとは思えないのです。)
ともあれ、「若者よ。リスクを恐れず、海外へ出よう!」ときれいごとに終わるスローガンをふりまくのではなく、自分の娘、あるいは息子をそのように海外で勉強させ、たとえばこれから一生あえない、あるいは老後の面倒など見てもらえない、という状況を想像してもなお、自分の子供達が自分らしく生き、かつ自分の子供達が人類の福祉ないしは探究にすこしなりとも貢献できるとしたら、それはやはり本当にうれしいことだ!と思えるかどうか、私たち大人が絶えず自問自答していくことこそが大切であると思います。
(もちろん、これには個人の覚悟だけではなく、老人を切り捨てない社会の枠組みなどの準備も必要なわけです。年金や介護のシステムなど老後の不安を制度上抱えている国であるからこそ、(家族による老後支援の負担が重く)若者の海外へのチャレンジが少ない、という仮説も成り立つかもしれませんね。)

その上で、僕は、「ここ」を出てチャレンジをしようとする全ての人たちをどこまでも応援し、その力になりたいと考えています。嚮心塾もまた、そのような場として機能できるように、もっともっと力をつけていきたいと考えています。

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