
文学とは、またそう大上段にふりかぶらなくても、小説とは本当に残酷なものです。それは、いわゆる数学や物理学のように、「分からない人には分からない。」(とはつまり、「分かるための大変な量の努力をしていない」ということでもありますが)という意味で残酷なのではありません。むしろ逆で、「分かっていなくても、誰にでも語れる。」というシニカルな残酷さがあります。だからこそ、その小説の作者の意図が分かっていない人々が、自らが分かっていない事を分かっているかのように語る、というグロテスクな事態も多々あるわけです。
そしてさらに残酷なのは、その小説の意図(その小説でつたえたかったもの)をわかろうとどのように努力しても、わかりようがない人々もまたいる、ということです。そこで描かれたある意味個別的な感覚や感情を、経験していない人には分かるわけがありません。こここそが、非常に残酷なところです。どんなにその筆者に惚れ込み、その作品を網羅するように読もうと、その読者がその筆者のもつ感覚や感情と通じるものをもたないのであれば、決してそれはその筆者の書く作品の理解にはつながりません。そこでは、努力が一切通用しないわけです。人間の精神に私たちが想定している「個性」がある以上、必ずそうならざるをえない。その恐ろしさについて、また続きを書きたいと思います。
(続く)
そしてさらに残酷なのは、その小説の意図(その小説でつたえたかったもの)をわかろうとどのように努力しても、わかりようがない人々もまたいる、ということです。そこで描かれたある意味個別的な感覚や感情を、経験していない人には分かるわけがありません。こここそが、非常に残酷なところです。どんなにその筆者に惚れ込み、その作品を網羅するように読もうと、その読者がその筆者のもつ感覚や感情と通じるものをもたないのであれば、決してそれはその筆者の書く作品の理解にはつながりません。そこでは、努力が一切通用しないわけです。人間の精神に私たちが想定している「個性」がある以上、必ずそうならざるをえない。その恐ろしさについて、また続きを書きたいと思います。
(続く)



