嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

つなぎ2。国会ではなぜ言葉尻をつかまえるのか。

2週間もご無沙汰している間に、民主党閣僚の失言をめぐって国会論議が紛糾(ふんきゅう)しているようです。官房長官の「暴力装置」発言、法務大臣の「二種類答弁で十分」発言など、話題が多いです。
もちろん、それぞれの発言(失言?)がなぜ生まれるのか、その発言者側の意図と、それを糾弾(きゅうだん)する側の意図を分析して解説しようか、とも思ったのですが、まあそういうのは折に触れて書いているので、今回はなぜこのような言葉尻をつかまえることが日本の国会ではよくなされるのか、ということを考えてみたいと思います。

もちろん、国会はテレビ中継されている(ものもある)わけですから、国会議員にとってこのような糾弾によって謝罪なり、あるいは辞任させるなりができれば、自分の知名度も上がり、仕事もした気分になれ、次の選挙も安心ということはあるでしょう。その意味では、今の自民党の民主党政権に対する糾弾と同じようなことを、民主党も野党時代はやっていたわけで、低レベルであることに憤慨したくなるのはわかりますが、まあどっちもどっちであるということだと思います。(むしろ「政権交代をすれば何かが変わる」という幻想を破るのにはちょうどよいのではないでしょうか。)

大切なのは、ここで政権担当側は必ず、ひたすら低姿勢に出て、「不謹慎」な「失言」を謝り倒し、それで何とか乗り切ろうとしていることです。それに対して野党は当然失言をした閣僚の辞任を要求します。どちらの主張が結果として通るにせよ、ここでは何かしらの意味のあるやりとりがなされているのでしょうか。

いえ、僕は違うと思います。大切なのは、ここでのやりとりはどちらが勝つにせよ、まったく政治の根幹とは関係がない、ということであるのです。これらは壮大な暇つぶし、メディアの力によって国中を巻き込んだ暇つぶしであることを気付いた上で、もっとやるべきことがあることに目を向けねばなりません。たとえば現在国会で審議している内容は予算案であるわけです。国家の予算をどのようにしていくかについて、より精密な吟味をしていかねばならない場をあのような(与党と野党の両者による)茶番で浪費していることを私たちは怒らねばなりません。

国会は言論の場であり、言論を大切にすることは基本中の基本です。しかし、そこでいう言論とは「言葉であれば何でも良い」わけではないのです。これは国会に限らないことですが、「言葉が大事」と言えるのは、言葉を通じて、現実と取り組むことができているときです。現実を無視して、言葉そのものを問題にすることを目的とするとき、あるいは言葉そのものを問題とされることを甘受しているとき、その双方にある意図は「難しい現実には関与しない」という卑怯さであるわけです。あのやりとりをしている間に、困っている人たちが、制度の不備から次々と自殺しているかもしれない、それを国会審議の当人達がrealityとして感じているかどうかが、あのようなやりとりが許されるかどうかなのではないでしょうか。

「理念を語るな。即物的に働け。」と主張したいのではありません。「理念を語る場としての国会」という建前に甘えて、現実を何とかしていくことをあきらめてはいないか、と問いたいのです。大臣を辞めさせて、何の意味があるのか。あるいは、大臣を辞めさせないで、何の意味があるのか。その意味について双方が考えていないようにしか見えないことが、何よりも議会政治の歩みの行き詰まりを感じさせて、きわめて危ういのです。

困難な現実に取り組み続ける道を、もちろん政治家に任せるのではなく、私たち一人一人が歩まねばなりません。「日本でレベルが低いのは、国会議員だけなんだよ。」と私たちが胸を張って言えるとき、初めて日本の国会議員のレベルも少しずつあがっていくのでしょう。頑張っていきましょう。

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つなぎ

ブログが書けません。書きたいことは多いのに、ばたばたと忙しいからです。さすがに受験シーズン突入で、しんどくなってきました。しかし、あきらめませんよ!ということで、つなぎの記事を書いております。

先日、塾生達に「塾の卒業生があんまり塾に遊びに来ない!どうしたらいいのか。」という人生相談に乗ってもらいました。彼らから出てきた意見としては、

「(僕が)怖いから来れない。」「自分がさぼっているときは来れない。」

というものでした。
「そんなことないじゃん。こんなにバカ話ばかりして、伝えたいことはほんの少ししかしゃべってないのに…」
と反論したものの、「そのバカ話も、何らかの伝えたい内容が込められていて、得体が知れない。」

と言われました。全くひどい言われようです。しかし、なるほどやっぱり塾に来にくいのは僕のせいなのだな、ということがよく分かりました。

もちろん、塾で教えているときも、いわゆる「雑談」はむしろ多い方です。しかしその「雑談」の中に何かしら「これを伝えたい・知ってほしい」「これについて考えてほしい」「こういう問題に気付いてほしい」という動機をもっている事がほとんどです。そういうのって、重たいんでしょうね。

太宰治が道化を演じていたとしても、道化を演じてもなお、彼の中には「重たい」一点が残らざるを得なかった訳です。どこまで人でなしを演じても、誰よりも人である部分を消せなかったわけです。どのような演技もそのような自己をひきずらざるをえない、ということは、端的に言えばこの薄っぺらな社会の中では生きる場所がなくなる、ということでもあります。

もちろん、だから「太宰のように自殺」というのもまた、薄っぺらな生き方でしかありません(誤解しないでいただきたいのは、太宰の死を薄っぺらだと言っているのではありません。それは余人にはただ黙るしかない彼の苦しみがあったことは確かだと思います。しかし、それをまねては「それしか方法はない」というのは他の可能性を尽くしていないという意味で、薄っぺらであるという意味です。ベルクソンが『時間と自由』で述べるように、あるいはポパーが『歴史主義の貧困』で述べるように、我々にとって過去が最良の教材であることと、我々が過去の奴隷であることとは全く別のことであるはずです。もちろん、人間の理性など限界だらけのものであるのでしょうが、そのことは我々が過去と全く同じように振る舞わなければならない理由にはならないのです。そのような過去を踏襲した選択を(それが過去に何度も繰り返されているから、という理由だけで)選ぶとき、私たちは私たち自身の心の弱さに負けて自らの自由を捨てているのでしょう)。しかし、「自分が真剣に生きている!」と見られるような演出をしていた10代前半から20代までに比べて、はるかに今の方がアホなことをいい、自分の恥をさらし、自分の情けなさ、弱さをさらけだしているのにも関わらず、「重たい」と見られているということは、塾にとっては致命的な課題であるとともに、僕にとってはまた感慨深いことでもあります。

つまり、僕が伝えたいのは、「卒業生のみなさん、いつでも遊びに来てね!」ということです。いつでもwelcomeですよ。You are welcome.It's my pleasure.(英語的に間違ってますかね。)

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