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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

言葉狩りではいけないとしても。

今朝の朝刊(朝日新聞・東京版)に「これって授業?小学校教諭がクイズ 答えは三女を殺す」という見出しの記事がありました。まずは以下に引用します。

 東京都杉並区立浜田山小学校の女性教諭(23)が、授業中に自殺や殺人を題材にしたクイズを出題していたことがわかった。同校は23日に臨時保護者会を開き、岩崎義宣校長が「不適切な指導だった」と謝罪した。
 同校によると、問題となっているのは、19日の2時間目、3年生の算数の授業中に出したクイズ。「3姉妹の長女が自殺し、葬式があった。その葬式に来たかっこいい男性に、次女がもう一度会うためにはどうすればよいか」という趣旨の質問で、答えは「三女を殺す(また葬式をする)」だったという。
 教諭は「授業を楽しくしたいと考えてのことだったが、軽率だった」と話しているという。

僕はこの記事を読み、5分ぐらい悩みました。

もちろん、学校の先生が生徒の興味を引こうと極端な話をすることはあるでしょう。特に、話題が極端な話でなければ子供達に関心をもって聞いてもらえない自らの力不足を感じているときには、なおさらそのような言葉遣いや題材選びをついついしてしまいたくなるという誘惑は多いものです。これだけ社会が爛熟し、腐敗した後にも人間にとって免れ得ない確かなものが死である以上、コミュニケーションにおける言葉のインフレの極地として、「死ね」とか「殺すぞ」という言葉が発せられていくのはよく見られる現象です。(もちろん、子供達の間で日常にこのような言葉が飛び交うのを『最近の子供達はなんてひどい言葉遣いをするのか』と心を痛める方も多くいらっしゃると思います。しかし、そのような言葉遣いを彼らがするのは、何も彼らの心が殺伐としているというだけでなく(それも少しはあるのでしょうが)、単に言葉の価値がインフレを起こし、そのインフレの行き着く先の極地(金融緩和政策の極地としてのゼロ金利のように)として、「死ね」という言葉があるわけです。「つけ」→「おつけ」→「みおつけ」→「おみおつけ」と言葉がインフレしていく(本来の意味で使っていてもそれに慣れるとその気分を表し切れていないというストレスがたまり、このようにより強い言葉になっていく、という現象ではないでしょうか。))もちろん、そのようなストレスは、成長にはとても重要なものです。このような幼稚なはけ口を見つけては満足するという幼児期を抜け出して、何とか説明をしたい、表現をしたい、理解してもらいたい、という方向に向き、その表現手段を模索する方向に向けば向くほどに、文章も上手になりますし、ロジックも鍛えられます。また、芸術的表現を鍛えていく動機にもなります。

と考えてみると、この新聞記事の先生はまだ自身が表現において幼児期にあるのか(きつい表現ですが、そのような大人は教員に限らず多いです)、あるいは幼児期にある生徒達にそのような彼らの幼稚な、しかし切実な思い故の表現に代わる新たな表現は与えられないが故に、彼らの言葉遣いに合わせてしまった、ということかもしれません。いずれにしても、このことだけでこの小学校教諭の方を責めるのは「死ぬ」とか「殺す」とかいう言葉を排除する言葉狩りにしかならないように思います。子供達にそのような言葉を使わせないよう、むりやりそのような言葉から隔離したりするのではなく、何故彼らがそのような言葉遣いに親しみやすいのかを考え、その情熱を建設的な方向へと向けていかねばならないと思うからです。

しかし、僕が悩んでいたのはまた別のことで、「そもそも、このクイズってクイズになっているの?」ということでした。新聞の報道通りの内容のクイズだとしたら、「三女は姉の葬式で出会ったかっこいい人と再び出会うために、別の姉を殺す。」が正解となるわけです。そもそもそんなかっこいい人と再び出会うためだけにたった一人残ったもう一人の姉を殺すか、という疑問もありますが、それ以上に、長女の葬式に参列しているかっこいい人はおそらく長女の関係者である可能性が高く、その人はいくら次女を殺しても次女の葬式にはこない、という可能性が圧倒的に高いわけです。とすると、このクイズにおいて、この教諭の答えが正解であるためには、「実はその長女の葬式にきたかっこいい人は次女の彼氏であり、次女を殺すとその次女の葬式にも必ず来るだろうし、邪魔者でもある次女もいなくなって一石二鳥!」という裏の設定を必要とするわけです。

すると、このクイズには実はそういう裏の設定があったことをこの新聞報道では伝え切れていないのかもしれません。しかし、いくらクイズというものが恣意的な質問ばかりであるとはいえ、このような裏の設定を用意して子供達に出題する、ということにどのような教育的配慮があるのでしょうか。問題というのは、常にそのような裏の設定があり、出題者と解答者には常に情報の非対称性があるのだから、決してフェアなクイズもフェアな入試もフェアな就職試験もない、だから気をつけよう!ということなのでしょうか。もしそこまで考えているのであれば、すばらしいことです。しかし、問題はそのような過激な状況設定にしたことも、あるいはそのようなクイズを出題した意図も、あまりその先生の中では考え抜かれたものではない幼稚なものであるように感じることにあります。(実は、僕の言ったような意図でした!ということであれば、すみません。)

そして、僕はそのように考え抜かれたものではない幼稚な姿勢を、謝罪する校長先生にも、その謝罪を受け入れる保護者の方にも、さらにはこのことをこのように報道する新聞記者にも、この女性教諭に対してと同じくらい感じるのです。
「うちの教員が過激な言葉を使って申し訳ありません。お子さんの心を傷つけました。」
「まったく。ちゃんとしてくださいよ。うちの子が「殺す」とか「死ね」とかという言葉を使ったらどう責任をとるおつもりなんですか。」
「先生がこんな言葉を使って授業するなんて問題だ。記事にしなくては。」

という典型的な反応は、三者ともに、まじめでありながら、あまり何に問題があるのかについて考えている気がしません。問題の所在は誰もわかっていないわけです。なのに、問題視をしていることだけは共通している。しかし、問題の所在は自分では深く理解もしていないし、もちろん説明もできないのに、なぜか申し訳ながったり、抗議したり、記事にする、というそのことそれぞれが実はとても全体主義的、ファシズム的なのではないかな、と思います。「空気を読め!」という圧力を感じます。

「死ね!」という言葉を軽々しく使う未熟な子供達には、人間は必ず死ぬという普遍の事実に依拠することでしか言葉を紡げない権威主義的傾向と、そのような単調なヴォキャブラリーでしか今の自分の感情を表現できない自分の未熟さを反省させる契機をしっかりと作っていかねばなりません。そのような言葉遣いをする子供達にワードレベルを合わせることで子供達の関心を引ける、という未熟な教師には、それは単なる追従であり、教師は子供達にそのようなヴォキャブラリーとは違う別の言葉遣いを鍛えていくことで彼らのやるせない感情を表現できるのだ、ということを伝えて行かねばなりません。それとともに、校長先生は、このような説明をしっかりした上で、「今回のことは考えが足りなかった。しかし、教育現場で「死」とか「殺す」とかいう言葉をつかえなくなるような言葉狩りをしないでほしい。そのような言葉を使わねばならない、子供達に必要な授業だってきっとあるはずだ。」と説明をしなければならないし、保護者の方達も「私たちだってそんなにバカではありません。遣われた言葉自体を問題視などはしません。言葉の遣われ方を問題にしているだけです。」と反応しなければならないでしょう。
新聞記者の方はそもそも最低限このぐらいまで考察して書くことができないのなら、こんなことをいちいち書いても仕方がないように思います。書けば書くほど、言葉狩りばかりが進んで、ますます教育現場が窮屈になるだけです。そもそも、新聞記者は誰と戦わねばならないか。巨悪とか。権力とか。僕は、無知な読者ともまた、一番戦わねばならないと思います。現在の新聞は、発行部数が多すぎて、読者に対する批判がほとんどないと思います。無知な読者のヴォキャブラリーに合わせるとか、やっている新聞も多くて、あんまりこの先生を笑えないように思います。

もちろん、僕もまた無知です。考えが足りません。現状のこの程度の知識や考えで世の中の解決が困難な問題が解決できるとはとうてい思えませんし、自分の力不足を思い知らされる毎日です。しかし、それを自分で自覚して少しでも無知でなくなろうとしていく、考えを鍛えていこうとする姿勢が僕だけでなく、誰にとっても大切なのではないでしょうか。考えることを欠き、自分は深く考えてもいないのに、何となく言葉を使い、何となく謝罪し、何となく憤ってみせ、何となくそれを問題として記事を書く。このような「何となく」の連鎖こそが問題であると考えています。何が問題であるのか。それをもっとみんなで考えたいものです。

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組織における内部告発の問題②

大分、間が空いてしまいました。前回は、検察組織の証拠ねつ造に伴うこの一連の事件をきっかけに、組織において内部告発が自浄作用のために必要だということには大筋において皆が合意できるとしても、内部告発がその組織の当面の存在意義としての目的よりも高く評価されなければ、そのような内部告発をしたいと思うincentiveが組織内部で生まれ得ないという一方で、内部告発がその組織の追求する目的やひいては存在意義よりも高く評価される「組織」などというものがそもそも維持しうるのか、それは必ずや崩壊せざるを得ないのではないか、ということについて考えてみました。

それこそ、こんな問題は原核生物が細胞膜を作ってその内側を「自己」と定義したときからさかのぼっては、絶えず問題であり続けるような困難な問題であるわけです。ある組織がその自己を存続させていくためには、不正を犯さねばならない。しかし、その不正があまりに過ぎれば、結局組織同士の淘汰が働いて、全て共倒れになってしまう。しかし、かといって、その不正をなさなければ、その組織自体が維持できない。なんだか、どこででも問題になる、あるいは身近な話で行けば私たち一人一人の生き方にもまた、絶えず問われている難しさであるかもしれません(「強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きていく資格がない。」などという言葉もありました。)。(ちょっと大風呂敷を広げすぎました。すみません。)

ここまで僕が長々と書いてきて気付いたことは、「内部告発が機能するためには、必ず健全たる外部を必要としている。」という事実です。たとえば内部の不正をもう不正とは感じないような「外部」しかない場合には、どこに告発しようと無駄なわけです。これはたとえば、ゾンビ映画でよくある恐ろしいシーンを考えるとわかりやすいのではないでしょうか。「ゾンビがおそってくる!」と恐怖におののいて交番に駆け込み、「おまわりさん、ゾンビが…」と訴えて助けを求めようとしたら、そのおまわりさんももうゾンビ化していて食われそうになり、あわてて逃げ出す、というあのシーンです(交番ではなく、親しい友達や家族のパターンもあります)。あのようなシーンの恐ろしさがどこにあるかといえば、「ゾンビがおそってくる異常事態」に対して、「交番」というものが一種の外部として主人公に認識されていることにあるのだと思います。もちろん、そのゾンビ化に対して、交番(や親友や家族)がそのゾンビ化の外部となっている、ということ自体が主人公の思いこみであるわけです。しかし、自分を脅かすこの異常事態(ゾンビ化)に対して、どこかに外部があるはずだ、という希望が完全に裏切られることに見ている私たちは出口のない恐ろしさを感じるわけです。

内部告発をする側の人間も、そのゾンビ映画の主人公のような気持ちで居るわけですから、当然「主任検事がこんな不正を働いた!」と特捜部長や副部長に言っても、「まあ、君も我々の仲間(ゾンビ)になりなさい。」ととりこまれそうになって、あわてて逃げるわけです。もちろんそれで今回の事件の場合には新聞記者の調査報道があったために、内部告発をした検事も「ようやくゾンビ化していない人間(外部)をみつけた!」と安堵の思いで話し、そしてこのように明るみになりました。その意味では「外部」が機能できて、何とか助かったゾンビ映画のようなものです。(もちろん、最高検が「外部」かどうかはわかりませんよ。ゾンビ映画のよくある怖いラストシーンありますよね。「皆さん、もう安心してください。ゾンビはもう絶滅しました。我々人間はゾンビに勝利したのです!」と演説する英雄もまた、実はゾンビであることを匂わせるラストです。)

まとめれば、内部告発を組織の中で奨励することが難しいのであれば、内部告発を可能にするのは健全な外部が存在し、さらに贅沢を言えば、そこへのチャンネルが確保されていることが必要であるわけです。(ゾンビ化した村が絶海の孤島であれば、そもそも外部へとたどり着く望みはないわけです。)

しかし、このたとえのような問題理解の仕方、そして問題解決の仕方にはざっと考えても、三つの難点があります。一つはその「健全たる外部」など存在しなかったらどうしたらよいのか。そして、二つ目はゾンビにゾンビとしての自覚がなければそもそも内部告発は生まれないということ、そして三つ目は先ほどのチャンネルの確保の問題です。

一つ目の難点については、「健全たる外部」をどこまでも求めるのではなく、「外部は常に健全である」という立場を取ることが良いように思います。すなわち、ある組織に所属する人間がその中で蔓延している違和感を感じるような慣行に皆がどっぷりとつかり、それを何とか指摘したいと考えても、「内部告発をしても自分の所属する組織を傷つけるだけだ、だって外部はもっと汚いのだから。」と隠蔽してしまうのが実は大部分の組織人の動機なのかもしれません。そんなときは、とりあえず外に出してしまいましょう。そのとき、外部がクリーンかどうかはあんまり関係がなく、外に出すこと自体が重要であるのだと思います。ゾンビから逃げるためにたどり着いた隣町がまだゾンビだらけであれば、さらにその外を目指すしかありません。

二つ目の難点については、我々が何らかの組織に属する以上は、我々は常にゾンビとなる危険と隣り合わせであることを痛切に自覚していなければなりません。もちろん、これは検察や官僚批判だけではありません。また、僕のような自営業を礼賛し、企業勤めを批判しているのでもありません。全ての人間は必ず、国家、あるいは家庭という組織に属しています。あるいはそのように有形の組織でなくても、無形の合意形成に何となく参加したことから、組織のように圧力を受ける場合もあります(「普通と違うのは怖い」など)。賢い人ほどに、その危険性を自覚していて、賢くない人ほどに「そんなことはない!私は独立した人格だ!」と強弁したがるのは世の常でしょう。

と書いてきて、力尽きました。この続きについては、また次回書きたいと思います。予告をしますと、三番目の難点については制度として用意する、というだけでは無理で、ここまでに述べた「外部が存在することの必要性」についての共通理解、そしてさらには、外部が存在することで初めて、内部は存在するのだということを社会契約論と絡めて、書いていきたいと思っています。このブログが、均質なこの世界における「外部」に、少しはなりうるように、次回ももう少しがんばって書いてみたいと思います。

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組織における内部告発の問題①

厚生労働省の郵便不正事件では、朝日新聞のスクープ以降、あの事件の主任検事が証拠品改ざんの容疑で驚くべき早さで逮捕され、さらにはその上司の元特捜部長と副部長までがその主任検事の証拠改ざんをかくまった容疑で逮捕されました。最高検は「徹底解明を目指す」と、自らの自浄作用をアピールするのに必死です。その中で、逮捕された元特捜部長の「最高検のストーリーには乗らない。」という名言が出てきました。今回は、このことについて考えてみたいと思います。

そもそもこの「最高検のストーリーには乗らない。」という言葉が検察官から出てくるということは、もう少し長く説明すれば「我々検察官というのは、常にまずあらかじめストーリーを描き、それに沿って取り調べをしているのであって、決して虚心坦懐に取り調べをしてくる中で事実がどのようであったのかを考えるわけではない。」という暴露であるように、僕には思えます。もちろん、発言した検察官の方は「この場合はそういうおかしな取り調べだ!」というように、この個別の事件について言っているつもりなのでしょう。しかし、このような発言をするということ自体が、彼ら検察官が取り調べをしている過程でやはり「既存のストーリー」を少なからず意識し、そこに沿うように取り調べをしていることを示しているように思います。そうでなければ、このような言葉が出てこないのではないでしょうか。たとえば、最高検と見解の相違について争うとしても、「最高検は事実誤認をしている」とか「最高検は新たな冤罪を作ろうとしている」とか、言い方は他にもあると思います。このような言葉が逮捕直前のインタビューで出てくるということ自体が、検事という職業が既に描いたストーリーに基づいて証拠固めをしていき、その既存のストーリー自体を決して疑わない職業である一つの確かな証拠なのだな、と僕は勝手ながら感じました。

もちろん、そのような決めつけを排し、ただひたすらに真実を知りたいと個人的に願う検事さんも必ずやいるのだと思います。しかし、そのような検事さんの個人的動機をくみ上げるようなシステムに検事さんの世界がなっているのかどうかは、なかなか難しいのではないでしょうか。上司が「おそらくこういう事件ではないか。その証拠固めをしてくれ!」とストーリーを描き、それに従って部下が取り調べをしていく中で、部下が「やっぱりこの最初のストーリーが違うのではないか。」と感じたとしても、それを上司に進言して「なるほど。ありがとう。危うく冤罪をつくるところだったよ。もう一度初めから考え直そう。」と言える上司が果たして、どれほどいるというのでしょうか。これは上司の人間性だけの問題ではありません。たとえば上司の描いた最初のストーリーに沿ってそれを補強する調書をとれる検事と、最初のストーリーを見直させる調書をとれる検事とで、後者の方が高く評価され、「手柄」扱いされるのでなければ、このような冤罪事件はやはりなくすことはできません。なぜかと言えば、最初のストーリーを補強する調書は間違いなくプラスの手柄と考えられるのであれば、そのような見直しを促す調書は(たとえマイナスではないにせよ)ゼロの手柄でしかないのであれば、やはりそのような進言をしようとする検事は(出世を考えれば)いないわけです。それではいくら、寛容に処されたとしても、やはり一向に最初のストーリーの見直しは増えないでしょう。見直しを奨励し、見直しにつながる提言をした検事が逆に出世するための手柄をたてたと見なされる組織。しかし、そんなものが一体可能なのでしょうか。

これは検察組織だけの問題ではありません。真実の追求のために、組織内での内部告発を奨励するのであれば、必ず直面せざるを得ない問題です。ある組織全体で追求している目的があるときに、その目的を追求することのために手柄を立てた人がその組織の内部で評価されていく仕組みを作れば、このようにその「目的」自体の欠陥を気にすることなく、ひたすらにその目的へと奉仕する(この場合は村木元局長を何とか起訴する)という方向へと組織の一員達は働くでしょう。そのような組織においては、暴走を歯止めするものは一人一人の良心しかありません。それは非常に危険な組織です。しかし、かといって、そのような暴走を内部告発する人が評価され、ゆくゆくはトップへと昇進していける組織には別の問題があります。内部告発をする、というのはある意味でその組織のほぼ全体、掲げられた目的を疑いもせずに追求していたほぼ残り全員という大多数を全て敵に回すわけです。もちろん、その中には内部告発自体の必要性を理解してくれる人はいるでしょう。しかし、そのような人であっても、組織の中でその内部告発者が昇進していくこと自体には一抹の不安を覚えるのではないでしょうか。その理由は、内部告発者が評価される組織、というのはある意味で裏切りを奨励する組織、秘密警察による統制をうける組織のようなものになってしまう恐れもまたあるからです。「ある目的のために一丸となる」という組織の定義と、「お互いがお互いを密告して出世しようとする」という裏切り競争の関係とは、やはり原理的に矛盾せざるを得ないわけです。

このように考えると、「検察はしっかりしろ!」と言っているだけではやはり何も解決しないようです。人々が所属している組織全てに、同じような問題が内在しているからです。この対処法としてはいわゆる第三者委員会のような独立機関を設置して、それにチェックさせるというのが一番良いのでしょうが、この社会におけるあらゆるある程度以上の規模の組織すべてに第三者委員会を作る、ということはまず不可能でしょうし、たとえば権力機関全てに対してそれを作ることですらなかなかに難しい、というのが実情でしょう。(さらにはそれらの第三者委員会に対するチェックはまた、どうしたらいいの?などと訳が分かりません。)

また、第三者委員会だらけでいいんかい(!)ということとは別に、誤った目的を掲げてしまう可能性をもつ組織にとって、内部告発は結果として組織の存続を正当化する確かな手段であるのにもかかわらず、組織の内部で内部告発を評価するシステムを作れば、その組織自体が自壊するか、あるいは有用なものになりにくい、というディレンマについては仕方がないものとしてしまってよいのか、という問題についても考える必要があります。長くなりましたので、また次回に続きます。結論は見えませんが、引き続き考え続けたいと思います。
(追記)
科学者が仮説(hypothesisですが、これも一種の「ストーリー」です)をたてては検証していく作業を、検事が自分の仕事と同じだと考える気持ちがあまり納得のいくものではない理由として、科学者には真実に対する敬虔(けいけん)な気持ちがあるのにもかかわらず、検事には真実に対する敬虔な気持ちが薄いまま社会の秩序を維持するという目的をそれより優先している、という主張も、特に科学者の間ではあると思います。しかし、もちろん僕はそういう部分もあるとは思いますが、それよりも「同じストーリーを追う科学者達は組織ではない(世界各国で違う組織で、その仮説を検証している人々が居る)が、同じストーリーを追う検事達は組織である」という理由の方が、大きな理由であると思います。逆に科学者でも、一つの組織として同じストーリーを立証しようと追求しているときにはねつ造がおきやすいのではないかと思います。

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