嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

腐心塾

塾生一人一人について微力ながら腐心(ふしん)する毎日です。
ところで、なぜ苦心することを「腐心(ふしん)」というのかを漢和辞典で調べてみると、

腐心:①胸をたたいて悲しむ。胸をたたいて恨み憤る。②苦心する。(漢辞海 三省堂)

ということでした。一方、国語辞典で調べてみると

腐心:心をなやますこと。ひどく心を使うこと。苦心すること。(日本国語大辞典 小学館)

と書いてあります。比べてみると、漢和辞典の意味の方が「恨み憤る」などとマイナスイメージが強いようです。
ただ、実際に毎日悩んでみると、僕には国語辞典の定義はちょっとキレイゴトに聞こえてしまいます。本当に「心をなやま」し、「ひどく心を使」い、「苦心し」ていれば、当然そのような原因となる人に対して、「胸をたたいて悲し」んだり、「胸をたたいて恨み憤」ったりせざるをえないように思います。そして、それを決していけないことであるとは僕は思いません。それより、誰かのために「ひどく心を使」っているのに、悲しみや恨み憤りが生まれてこないのは、僕には嘘くさく思えます。なぜなら、そのような超人的忍耐は、それはその人のために「ひどく心を使う」ことから結局何らかの(金銭的、あるいは感情的な)見返りを期待しているがゆえにできることであると思うからです。

もちろん、「それはお前のように心の狭い人間だからそうなってしまう。世の中には誰かのためを思って真剣に思い悩んでいても、そのように負の感情がたまらない人格者がいっぱいいる!」と言われれば、そうかもしれません。僕も自分の人格にそれほど自信があるわけではないのですが、しかし、そのような「人格者」が実は目に見えないところで様々な形で「見返り」を期待していることというのは、僕は多いように思います。ただ、それに気付いていない、というケースが多いのではないでしょうか。(このことに関して、僕は教え子と結婚する教育者がかなり多いことなどは、その最たる現れなのではないか、と思っています。もちろん、全てのそのようなカップルがそうだとは言いませんが、少なくとも僕は教えていて、自慢ではありませんが教え子に「もてた」経験が15年間ほどの指導歴の中で全くありません。それは僕が「notイケメンだから。」とか「デブだから。」とか、「不潔だから。」などと生徒に意見を求めれば、いくらでも(僕が泣きたくなるような)他の理由が返ってくるわけですが、少なくともそれらの外面的マイナスをもたない頃ですら、そのようにもてたことがありません。それは他の人はどうかはわかりませんが、「この一線を越えて、相手の人生に対して真剣に思い悩むと、もてなくなる」という一線を少なくとも教えていたり、話していたりして僕は感じていて、そこを相手のためと思えば超えてしまうからであると(自分では)考えています。)

ともあれ、僕は毎日、腐心しています。胸こそたたきませんが(痛いので)、楽な方に流れる生徒達のために悲しんでいます。胸こそたたきませんが(やっぱり痛いので)、楽な方に流れる生徒達を恨(うら)み憤(いきどお)っています。そのような僕の姿は、醜いものであるのでしょう。しかし、そのようであるからこそ、本気で生徒達のことを思いやれるのだと思います。逆にそれが僕の中に無くなれば、僕は学習塾という自らが従事するものを「お金を稼ぐための職業」と見なし、そこで得る見返りのために、「感情を表すのは得策ではない」となってしまっているのだと思います(そうなる危険性は、常にあると思っています)。居酒屋風に「はい!喜んで!」と生徒達を思いやる先生を目にしたら、まずその先生は君たち自身ではなく、別の見返りを見ることで君たちとつきあっているのだと思っていいのではないかと思います。その点でも、リンクさせていただいている小橋塾の小橋先生は、すばらしいです。徹底的に生徒のために、怒っています。

教える、というのはつらいことです。どこまでも自分が努力をしていきながら、それとともによちよち歩きの子供達をしっかりと待ち続けなくてはなりません。どこまでも自分が勉強をしていくことは、ある意味簡単であるのです。あるいはどこまでも自分がよちよち歩きをすることも。どこまでも自分では努力をしながら、しかしよちよち歩きの生徒達を時には励まし、時には叱咤激励し、一緒に歩もうとすることの難しさは、ほぼ自分が遙か遠くの二つの点へと引き裂かれ続ける仕事であるのだと思います。しかし、その無限とも思える程離れては、さらに離れ続ける二点に、連続性が無ければならない。どこまでも自分が努力することが「趣味」であってはならないし、どこまでも待ち続けることが「商売」であってはならない。そのような割り切りが教える側にできてしまえば、もう本当の意味での教育は死に絶えるのだと考えています。目の前のよちよち歩きも、遙かなる高みへとつながる一歩でなければならないし、遙かなる高みもまた、目の前のよちよち歩きを勇気づけるものでなければならない。その苦しみも、またそれ故の意義の大きさももろともに、「腐心」という一語には現れているように僕は思っています。

と書いてみて、「嚮心塾(きょうしんじゅく)」を「腐心塾(ふしんじゅく)」にすれば、よかったかな、と、ちょっと後悔の念が出てきました。もちろん、「腐」という字を開業当初から入れていれば、ここまで長く続くことなく、2年目くらいでつぶれていたかもしれません(あんまり良いイメージは一般にないですよね)。
5年前の自分の不明を、恨むべきなのか。それとも(塾がやっていけているという意味で)喜ぶべきなのか。
難しいものです。(もちろん、「嚮心塾」という名前は変えませんのでご安心を。)

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楽な方に、流れるな。

二学期が始まり、いよいよ受験が近づいてきます。また、この秋は受験生にとって志望校を決定するために模試を受験していく季節です。その意味でもまた、一段とギアの上がった受験生を前にして、忙しい毎日を送っております。

一方で、嚮心塾では、受験学年ではない塾生の子達が、そのような雰囲気の塾に足を運んで、日々の勉強をしているわけです。このように必死になって実際に受験勉強に取り組む受験生を下の学年の子達が見られるということが何よりも、塾という場の存在意義として大切なことであると考えています。家や学校でも、「○○君はA大学に合格したんだよ。△△さんはB大学だって。二人ともすごいね!」という話を知り合いや先輩、友達に対してすることはあるとしても、その年上の○○君や△△さんと、机を並べて真剣に勉強することはほとんどの場(学校・塾・家庭)では出来ないでしょう。そして、そのようにそれらの先輩が実際に努力する姿勢を見なければ、「だって、○○君や△△さんは頭いいし。僕とは違うよ。」と安易に片付けて決して自分は努力しようとは思わないお子さんが多いのではないでしょうか。
でも、「頭がいい」というだけで、受験勉強を乗り切れるのは、本当にごく一部の受験生です。自分がそのような受験生であることを期待するよりは、宝くじを買って一等が当たる方がまだ可能性は高いかもしれません。ほとんどの受験生は、たとえトップレベルであっても、必死に努力を重ね、自分が同じ間違いを繰り返すことに絶望しては何とかそのような間違いを二度と繰り返さないように覚え、出来る問題はより早く解けるように練習を重ね、出来ない問題については悩み抜く、という泥臭い毎日を送っているわけです。そのような毎日の中で、不安と戦い、疑問に思ったことは相談しては、乗り越えていこうとするその彼らの泥臭い姿を見られることは、下の学年の生徒達にとって、何よりもよい刺激になると思っています。

しかし、嚮心塾がこのような刺激のある環境だからこそ、勉強をしたくない非受験生にとっては居づらいところもあるのかもしれません。同級生の皆はまだまだ遊んでいるのに、なぜ自分だけ勉強しなければならないのかという甘えが、子供達に見られることが多いです。真剣に取り組む受験生の姿と、自分の属する学校の同級生とのぬるい日常とのギャップの大きさに、ついつい楽な方へと逃げたくなるのも、もちろんよくわかることです。

ただ、そのような「逃げ」が結果としてどのように長い間誰からも批判されないとしても、やがて自ら目覚めるしかなくなる時が必ず来ます。その一つの契機が、上の学校への進学を考える人々にとっては、受験であるのです。もちろん、あまり功利主義的に「将来のためには勉強しておいて損はない」などと考える小中高生も確かに、何か大切なものが欠落しているかもしれません。しかし、この受験というものがつきものの日本社会において、「学校歴」によって人間の価値が判断されるという不合理を批判していく態度は大切なことであるにせよ、しかし、そのような制度が存在するという事実に目を背けて、自分に都合のいい意見だけを聞いて友達と互いにさぼりあう、というのでは、やはりこの現実に対しての説得力ある生き方には成り得ていないと思います。

たいていの場合、非受験学年生のどのような日々の勉強も、受験学年生のそれと比べれば、質、量ともに比較にならないくらいレベルの低いものです。周りを見渡しては、「同学年の友達よりは自分は勉強しているし、成績もいい。」と安心して努力の手を休めているお子さんにこそ、嚮心塾は研鑽の場を提供できる、と考えております。もう、同級生と比べては安心する、という不毛なブレーキはやめましょう。それをやっているのは、たとえ学校で1位の成績であっても、楽な方に流れているだけです(受験とは、他の学校の人との競争であるわけですから。学校で1位など、学校の数だけいるわけですから。)。それよりも、自分の受験まであと何年何ヶ月かをしっかりと計算した上で、その中でどのように自己を鍛え抜いていくかに意識を集中して努力していくことが大切です。

周りより高いことも、周りより低いことも、気にすることなく、ただただ自分自身を今以上に鍛えていくことが大切です。たとえ世界一、いや宇宙一であっても、それが理由で自分の鍛錬を止めるような人間では、やはり大したことがないのです。そのような研鑽(けんさん)の場としての嚮心塾に、興味を持っていただけると本当にうれしいです。楽な方に流れたくなる自分の弱さを直視した上で、それを乗り越えられるように、ともに頑張っていきましょう。

2010年9月22日 嚮心塾塾長 

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先日の追記とその他もろもろ。

前回僕が書いた内容については僕も名前を挙げた内田樹さんが『街場のメディア論』(光文社新書)という本で、同じような内容を書いているようです。(僕はまだ読んでいませんが、これから読む予定でいます。)

まだ読んでいないのですが、書評によると、メディア(媒介)の劣化ではなく、その媒介によって伝えられる内容の劣化が著しい、というのがそ本の主張の眼目らしいです。それについては僕も全面的に賛成します。

ただ、本に過大な期待をしてはならないのだと僕はやはり思います。森有正がどこかで、「フランスにはデカルトの『方法序説』を読む必要のない(注:読まなくても、そのすばらしさを体得している)農民がたくさんいる。そのような国だからこそ、デカルトが生まれたのだ。」というようなことを書いていたと思います。ある意味、勝間さんや茂木さんやその他大勢の著作物がありがたがって読まれる、というのは日本人の知的(あるいは人間的)レベルがその程度だということを指し示しているのではないでしょうか。問題は彼らだけに、あるいは彼らにそのような努力を強いる出版業界だけに、あるのではありません。

「そうはいっても本を読まなければ、知的レベルひいては人間的レベルなんてあがらないじゃないか。」という反論もあるでしょう。僕は、まずは本を読まずに本当に直面する問題の全てについてしっかりと考えるという姿勢からいくらでも自分自身は鍛えられるのだと思いますが、しかし、これはまあ難しいものです。本を読む方が確かに手軽です。そこで、おすすめするのは、「皆が読む本」ではなく、「皆が読まない本」を読むことです。あとは古い本しか読まない、というのもおすすめです。そのようにして手近に投げかけられる情報をキャッチするのではなく、むしろ「こんな本自分しか読まないだろう」という研究をするつもりで一人一人が本を選ぶのがよいのだと思います。もちろん、そんなマニアックな本は専門家じゃないと手に入らない!と思うかもしれませんが、みんな意外と古典は読んでないものですよ。その意味でも古典を読むのはお薦めです。

ともあれ、すばらしい本と運命的な出会いをするためには、自分がその本にふさわしいくらい、真剣に苦しんで生きている必要があるわけです。そのことを何よりも、大人達は忘れてはならないと思います(若い世代は比較的このことに自覚的で、「まだ自分にはわからない」と言えます。むしろ大人の方が自分に分からないものを無価値だと決めつけてしまいがちなので、気をつけねばなりません)。自分にわからない本というのも、その「自分」の方が間違っている可能性も多々あるのですから。


やはり、大切なのは、どのような姿勢で生きているかであるようです。自らの価値観に沿ったものを、すばらしいとして評価していくのか。それとも、自らの価値観を揺らしてくれるような出会いの中で、まだ矮小な自らの価値観を疑わせてくれるものを、すばらしいとして評価していくのか。もちろん、これはそう単純な話ではありません。自らの価値観が大揺れに揺れているときには、逆に安定化させてくれるものがほしくなるかもしれません。逆に徹底的に安定してしまった状態になったときにはちょっとの刺激として揺らしてくれるものをほしくなるかもしれません。ただ、自分の考え方の限界に対して、絶えずそれを思い知らせてくれるような多様な現実と接し続けていければ、その人の人生は非常に努力を要するものの、とても意味のある人生になることは間違いがないと言えるのではないでしょうか。逆に、自らの固定化したちっぽけな価値観に周りを合わせていこうとすること、あるいはそれにぴったりと合うもののみを選び取ろうとすることは、結果として当人達に予測もつかない悲劇を引き起こすように思います。特に親子の間では、そのような失敗というのは多いようです。僕には、その悲劇の予兆が見えることが多いのですが、ではそれを完璧に防げているのかと言いますと、まだまだ力不足で、防げる場合もあれば、そうでない場合も多く、日々無力感を味わっています。

ホワイトヘッドがB.ラッセルの人生を評して「ラッセルは一つのプラトン的対話である。」と言った話は(それにK.R.ポパーがかみついて、「『ラッセルは一つのソクラテス的対話である』と言うべきだ」といった話とともに)有名ですが、その言葉を借りていうのなら、「嚮心塾で行われている教育は、一つのソクラテス的対話である。」といえることを目指してやってはいるのですが、なかなか先は遠いようです。ラッセルのように、一人の人格として「ソクラテス的対話」という表現ができる人物ももちろん、きわめてまれなすばらしい人格であるのですが、それ以上に、ソクラテス的対話は「市場」における「商品」とは原理的に矛盾するように思います。このあたりが、難しいようです。市場経済にはないものを、ポランニーの努力のように考えていく必要があるようです。

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出版バブルの背景にあるもの。

 先日、ネット上で興味深いニュースがありました。ブックファースト川越店の店長さんが「最近は池上彰ブームで池上さんの著作がたくさん並んでいるけど、このバブルはいつまで続くのだろうか。過去にも勝間(和代さん)バブル、茂木(健一郎さん)バブルがあった。この池上バブルは一体どこまで続くのだろうか。そもそも出版業界も著者も「こんなに無理してたくさん書かなくてもいいのに」と思うレベルの著書まで出て、バブルがはじけるというのはいかがなものか。」という興味深い提言を自身のブログに書いたというものです。
 さらに、これに対してこれまた売れっ子著者の内田樹さんが「ウチダバブルの崩壊」とブログで書き、確かに流されて出版ラッシュになっていたことを反省して、これからは企画を厳選して、じっくり質の高い本を書きたい旨を述べられると、当の名指しされた茂木さんや勝間さんも自身のブログで、「それぞれの本はいただいたチャンスを最大限に活かして、全力で書いている。(なので、バブルをねらったものではない。)」という反論をされていました。
 このような話し合いが今までに無かったこと自体がまずは気持ち悪いと思います。なので、積極的に意見を表明したおのおのの方の態度自体をまずはすばらしいとは思うのですが、それをふまえた上で僕はやはり茂木さんや勝間さんのような立場はとてもナイーブなものであるように思います。
 いわゆる「出版不況」と呼ばれる中、出版社にとって一番リスクが低いのは「この人の本なら売れる!」という企画を立ち上げることであるわけです。そのような状況が新たな書き手を発掘するというリスクをとるよりも半ばテレビタレント化して知名度の高く、かつそれなりにヒットした本の書き手である「知識人」に出版企画が殺到する理由になっています。そのような背景を深く考えずに、「せっかくチャンスをいただけるわけだから。」と(自分が自信を持って書けない分野に関しても)さまざまなことについて書く、というのは、すなわち「自説の必要性が社会の中で高まっているから」出版機会が増えていることを利用しているのではなく、「新たな書き手を探すというリスクをとりたくないために」出版機会が増えることを利用していることになってしまいます。いやしくも、出版業界の未来やまだ見ぬ良い本を世の中に生み出したい、というこの出版文化自体への思いが少しでもあれば、そのようなナイーブな仕事の引き受け方自体がどのような悪影響を生み出しうるか(新しい書き手の発掘・育成に資源がまわらなくなること)について考えていないのは、あまりにも考えが足りないと思います。その点では、僕は内田樹さんの立場の方がはるかに思慮深いように思えます。

 しかし、まあ、このようなバブルは「池上」「勝間」「茂木」の前にも「養老(孟司さん)バブル」とか「齋藤(孝さん)バブル」などとあったわけです。だから昨今の「出版不況」のせいだけではなく、やはり二匹目のドジョウを狙う気持ちというのは、著者の側にも出版社の側にもどのような状況であっても強く働くのでしょう。しかし、出版業界がどのような状況にあろうと、著者の側で常に考えねばならないことがあると僕は思います。それは自らの不勉強さ、不完全さについてです。もちろん、自らが不勉強であることや不完全であることを口実にして、社会に対して担うべき責任を担おうとしないのであれば、やはりそれは問題です。その意味では、その当時のあるいは歴史を通じての人類最高の知性であっても、全てを見渡す事が出来ない以上は不勉強であり不完全であるわけですから、「自分は不勉強であり不完全であるから著作を書かない」という逃げ口上を言っていてはならないわけです。しかし、このように多作な方々がどうなのかはわかりませんが、僕などは勉強をすればするほどに、自分が不勉強であることを思い知らされます。もちろん、こうした方々もたくさんの本を読んでいらっしゃるのは確かでしょうが、そもそも、そのような意味で勉強をしておられるのかどうか、きわめて疑問であると思ってしまいます。なぜなら、自らが一番他者に伝えたいと思うテーマこそが、本当に正しいかどうか分からない、という姿勢をどこかで失ってしまっているように思えるからです。「勉強」というのは、自分の伝えたいことをどのように伝えるかという手段や道具を獲得するために行われるのでは、やはり、底が浅くなってしまうのです。自分の一番伝えたいことそのものが、本当に正しいのか、それとも間違っているのか、それを絶えず検証し続ける姿勢を失ってしまえば、どのような勉強も既に決定した結論への「証拠固め」となってしまいます。自分が一番伝えたいテーマ自体がそもそも正しいのか間違っているのかへの吟味のない勉強、というのは、たとえれば、検察官の思い描くストーリーになるように無理矢理証拠固めをしていくような努力であるのだと思います。そのような捜査が恐ろしい冤罪を生みかけていたのは、この前の厚生労働省の村木元局長に対する凜の会事件でも明らかになりましたが、あのような検察の態度を自分の身を省みた上で批判できるだけの言論人が、日本に一体何人いるのかを、僕は知りたいと思っています。

 ただ、率直に言えば、僕の本心は別の所にあります。もちろん、より多様な書き手に開かれた出版文化、というものにこの苦しい状況の中でも少しでも近づけてほしいと僕は思いますし、そのこととの関係をふまえて、言論人の方々には自分の立ち振る舞いを再考していただきたいと思っています。しかし、僕の中でもっと率直な意見としてあるのは、人はそんなに簡単に本を読んだだけでは変わらない、ということを本の書き手も、読み手も自覚しておくことが大切であるということです。

 本を買う人は、この自分の(それは社会からの圧迫も個人の内面も)閉塞した状況の打開策のヒントが、毎月出版されるなにがしかの本の中に少しでもあると思うことをやめた方がいい。本の書き手も、そのようなヒントを毎月刊行される自分の本によって少しでも伝えられると考えることをやめた方がいい。誰かが自らの閉塞した状況をどのように打開してきたか、を本に書いても、それは読み手のほとんどにとっては感動の対象にはなるものの、決してヒントにはならない。逆に書き手がどんなに人類の命運は自分の文章にある、という悲壮感をもって書いたとしても、そのような決意で生きている人間自体が少ない以上、その内容が伝わるわけがない。その身も蓋もない冷酷な事実をまず直視し、おのおのがそれぞれの問題に対して真剣に悩むことをまずやっていかねばならないのだと思います。茂木さんや勝間さんは、他の人にヒントをあげている場合ではない。自分がまさに今、(出版不況に伴う彼らへの依存という)閉塞した状況に追い込まれているわけですから。多くの人が本を読むのは、「本の中に何らかのヒントがある」ことを期待しての行動です。しかし、僕はこの「本を読めばヒントがもらえる」「本を書けばヒントが与えられる」という希望への過剰な期待(幻想とでもいえるでしょうか。)が、かえって、人々の本に対する姿勢をきわめて不健康なものにしているように思えてなりません。

自分の抱える問題が、そのように毎月出る、書店で何千円かで買える本によって少しでも前進する程度のものであるのだとしたら、それは問題に取り組む自分の努力が、圧倒的に足りないのです。今出ている本など、100年後という短いスパンですら、一体何%が(国会図書館以外に)残っていると言えるのでしょうか。そのような本によって、ヒントがたやすく買えるのなら、その程度の努力しかできていない自分を恥じて、懸命に問題そのものを悩んだ方がよいのではないでしょうか。あまりにも「自分自身が考え抜く」、という姿勢をおろそかにしては本に頼る人が増えているために出版界が盛り上がるのであれば、それ自体もまた、生産的ではない「バブル」であると思います。そのような本の買い方自体に僕は異議を唱えたいです。

もちろん、この「『本を読むこと(書くこと)』によっては問題は解決し得ない」というのは、古典(岩波文庫など)に関しては少しだけ別なわけです。古典は何百年もの吟味を経て、今僕たちの手に残っているという意味では、確かに価値のあるものばかりであると思います。それを「読んでも価値がない」とは断じません。しかし、古典を読むこと自体を問題への取り組みであると勘違いしてしまっては困ります。むしろ自分が日々直面する問題に徹底的に取り組んでいなければ、私たちに古典の価値などわかるわけがありません。オーギュスト・ロダンは「厳しく自己を鍛えた人間でなければ、美術館を見るな。」と言いましたが、これは単に「見ても、わかるわけがないから。」であるのです。それは古典と言われる価値のある本についてもまた、同じように言えることです。

 様々な出版バブルに対して、僕が思うのは、「もう、他の人の考えに答を求めるのはやめて、自分の目で観察して、自分の頭で考えませんか。」という提案です。誰の本が何万部売れたかは知りませんが、そんなのを買って読んでいる暇があるなら、自分で悩みましょうよ。といいたいものです。悩めば悩むほどに、古典と呼ばれる本の価値も、現代的意義も、わかるようになるでしょう。そして、書き手は、自分の本がそのような古典に100年後になれるかどうかを、自分の著作としての最低ラインとして(自分のチェックは甘いものですから)検証した上で、勉強し続けては、それだけの質のものを書いていこうと努力していくのがよいのではないでしょうか。そうしたら、バカ売れは減るでしょうし、そもそも「今、話題の本!」という売り文句自体に反応しなくなる人が増えるでしょう。おのおのの取り組む問題に、効果的な「共通の薬」があるわけがないことがよくわかるはずでしょうから。そのような社会に少しでも近づけると、健康的なのではないか、と思っています。(そうなると僕も、「老後は印税生活でゆったりと…」というバラ色の計画は捨てねばなりませんね。残念です。でも、それが正しいと思います。)

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「解決を目指す」ということに伴う失敗。

ご無沙汰をしております。間隔はあきましたが、こちらは元気にやっております。

先日、本当にうれしいニュースがありました。8月27日の囲碁の碁聖戦第5局で坂井秀至7段が何とあの碁界の第一人者、張う(ちょうう)4冠王を破り、初のタイトルを手にしました!本当に、本当にうれしかったです。また、この日はこの対局が気になって塾にいても上の空でした。(塾生の皆さん、すみません。)

僕が坂井先生を応援している(もちろんこれからも応援し続ける)のは、坂井先生がまだアマチュア時代に僕自身が囲碁を直接教えていただいたご縁がある、というだけではありません(僕は出来の悪い生徒でした)。皆さんもニュースでご存じのように、坂井先生が幼少の頃から囲碁をプロと同じように学びながら、医師資格をもち、囲碁は「プロより強いアマチュア」でやっていこうとされていたこと、しかし、研修医生活が始まる際に、囲碁を打つ時間がなくなることに気づき、自分にとって囲碁かそれとも医師かと厳しい二者択一を迫られた際に、「やっぱり囲碁を打ちたい」と決断をされて、医師の道を捨ててプロ棋士の世界に飛び込まれたこと、無事プロ棋士にはなれたもののトッププロは10代(それも前半)からプロの世界に入るのが当たり前な中で、20代後半からプロになるという厳しい道で苦労をされたこと、その中で本当に努力を重ね、何度も悔しい思いをしながらも、少しずつ少しずつ力をつけて、とうとう一つ目のタイトルを手に入れられたこと、このように列挙してもその一つ一つのことがどれも、坂井先生の生き様の真摯さを確かに表していると思います。その真摯さに何よりも敬意を持たざるを得ませんし、僕ももっと頑張らなければ、と励まされます。

それにしても、最近僕が坂井先生の囲碁を見ていて強く感じるのは、「最後まで苦しむ覚悟」です。妥協の出来る安易な道を選ばず、最後の最後まで戦い抜く覚悟、最後まで苦しみぬいてやる、というその強い意志を感じることが多くなりました。もちろん、プロのすごさが分かるほど僕は囲碁が打てるわけではないので、僕の勝手な思いこみかもしれないのですが、「ここまで、頑張るんだ!」という驚きを、ネット中継を見ていて、最近はいただく事が多いように思っています。

 話は変わりますが、学生が受験勉強を一生懸命やるのはなぜなのでしょうか。大多数は、「後で苦しまない」ためではないでしょうか。就職で不利にならないため、資格を取って手に職をつけるため、などでしょう。もちろん、それ自体を批判しているわけではありません。学歴、それから資格なしに生きていくということは、簡単に言えば凡人に出来ることではありません。逆説的に言えば、凡人は東大などに入らないと、生きていけないのです。それを必要としないのは、純然たる天才でしょう。(僕も大学進学している時点で、凡人です。)

 しかし、努力してそのような難関を突破したことで、「もう自分は苦しまないでいいんだ!」と勘違いされては困ります。どのような難関を突破しようと、いや、難関を突破し続ければし続けるほどに、新たな、より手に余る困難と向き合わざるを得なくなるのが、この社会なのではないでしょうか。その中で大切なのは、ある目の前の目標を達成するために「これさえクリアできたら、遊べる!」と自分をごまかしていくことも時には必要かもしれませんが、そうした休憩の時間の最中もまた、その根っこに「最後まで苦しみ抜く覚悟」を持ち続けておく必要があると思います。
 
 それとともに、「解決を目指す」ということの危険性についても考え合わせねばなりません。ある解決が、たとえばヒトラーが「ユダヤ人問題の最終的解決法」として、虐殺を選んだようなことになっているかもしれません。問題に取り組み続けるしかないことを、解決しようとしてしまうことは結果として大きな暴力につながることが往々にして多いようです。もちろん、当面の目標としてある問題を解決したい!というのは大切なことです。しかし、それが最終的な解決になるかどうかは、実はそれが解決になっているかどうかではなく、それを「解決」と見なすことで蓋(ふた)をしてしまうかどうかに依存している部分が多いのでしょう。たとえば、先の囲碁の話で、「もうこの定石(じょうせき)では必ず先手有利」という結論が今までの研究の結果で出てしまっているとしても、そのような結論がさらなる研究の結果覆されることなど、よくあることです。これは将棋などでもとてもよくあることです(最近では広瀬新王位の振り飛車穴熊もその兆しなのかもしれません)。盤上の真理を考え尽くすことに人生を費やしている天才達ですら、このような見落としをしては、またその見落としに気付くという形で「解決」や「結論」を絶えず、見直し続けているわけです。ましてや、私たち凡人が「解決」や「結論」を絶えず考え直さないとしたら、そして私たちのその「解決」や「結論」が下される対象が少なくとも盤上と同等以上には多様であるこの現実世界であるのだとしたら、やはりそれはひどい傲慢(ごうまん)さであるといえるのではないでしょうか。

どのような解決も最終的な解決ではありえないという現実を直視しながら、それでも一歩でも二歩でも本当の事は何かという認識を歩ませていくために、目の前の解決のための努力を続けていく。そのような姿勢を一人一人が持つことが大切であると思います。
僕はそのような姿勢を取り得るという事実に、人間の一つの可能性を感じています。塾もまた、受験勉強を通じてそのような姿勢を鍛えていけるように、がんばっていこうと思います。

最後になりましたが、坂井先生、本当にありがとうございました。ぼくもこれから、もっともっと、頑張ります。

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