
塾生一人一人について微力ながら腐心(ふしん)する毎日です。
ところで、なぜ苦心することを「腐心(ふしん)」というのかを漢和辞典で調べてみると、
腐心:①胸をたたいて悲しむ。胸をたたいて恨み憤る。②苦心する。(漢辞海 三省堂)
ということでした。一方、国語辞典で調べてみると
腐心:心をなやますこと。ひどく心を使うこと。苦心すること。(日本国語大辞典 小学館)
と書いてあります。比べてみると、漢和辞典の意味の方が「恨み憤る」などとマイナスイメージが強いようです。
ただ、実際に毎日悩んでみると、僕には国語辞典の定義はちょっとキレイゴトに聞こえてしまいます。本当に「心をなやま」し、「ひどく心を使」い、「苦心し」ていれば、当然そのような原因となる人に対して、「胸をたたいて悲し」んだり、「胸をたたいて恨み憤」ったりせざるをえないように思います。そして、それを決していけないことであるとは僕は思いません。それより、誰かのために「ひどく心を使」っているのに、悲しみや恨み憤りが生まれてこないのは、僕には嘘くさく思えます。なぜなら、そのような超人的忍耐は、それはその人のために「ひどく心を使う」ことから結局何らかの(金銭的、あるいは感情的な)見返りを期待しているがゆえにできることであると思うからです。
もちろん、「それはお前のように心の狭い人間だからそうなってしまう。世の中には誰かのためを思って真剣に思い悩んでいても、そのように負の感情がたまらない人格者がいっぱいいる!」と言われれば、そうかもしれません。僕も自分の人格にそれほど自信があるわけではないのですが、しかし、そのような「人格者」が実は目に見えないところで様々な形で「見返り」を期待していることというのは、僕は多いように思います。ただ、それに気付いていない、というケースが多いのではないでしょうか。(このことに関して、僕は教え子と結婚する教育者がかなり多いことなどは、その最たる現れなのではないか、と思っています。もちろん、全てのそのようなカップルがそうだとは言いませんが、少なくとも僕は教えていて、自慢ではありませんが教え子に「もてた」経験が15年間ほどの指導歴の中で全くありません。それは僕が「notイケメンだから。」とか「デブだから。」とか、「不潔だから。」などと生徒に意見を求めれば、いくらでも(僕が泣きたくなるような)他の理由が返ってくるわけですが、少なくともそれらの外面的マイナスをもたない頃ですら、そのようにもてたことがありません。それは他の人はどうかはわかりませんが、「この一線を越えて、相手の人生に対して真剣に思い悩むと、もてなくなる」という一線を少なくとも教えていたり、話していたりして僕は感じていて、そこを相手のためと思えば超えてしまうからであると(自分では)考えています。)
ともあれ、僕は毎日、腐心しています。胸こそたたきませんが(痛いので)、楽な方に流れる生徒達のために悲しんでいます。胸こそたたきませんが(やっぱり痛いので)、楽な方に流れる生徒達を恨(うら)み憤(いきどお)っています。そのような僕の姿は、醜いものであるのでしょう。しかし、そのようであるからこそ、本気で生徒達のことを思いやれるのだと思います。逆にそれが僕の中に無くなれば、僕は学習塾という自らが従事するものを「お金を稼ぐための職業」と見なし、そこで得る見返りのために、「感情を表すのは得策ではない」となってしまっているのだと思います(そうなる危険性は、常にあると思っています)。居酒屋風に「はい!喜んで!」と生徒達を思いやる先生を目にしたら、まずその先生は君たち自身ではなく、別の見返りを見ることで君たちとつきあっているのだと思っていいのではないかと思います。その点でも、リンクさせていただいている小橋塾の小橋先生は、すばらしいです。徹底的に生徒のために、怒っています。
教える、というのはつらいことです。どこまでも自分が努力をしていきながら、それとともによちよち歩きの子供達をしっかりと待ち続けなくてはなりません。どこまでも自分が勉強をしていくことは、ある意味簡単であるのです。あるいはどこまでも自分がよちよち歩きをすることも。どこまでも自分では努力をしながら、しかしよちよち歩きの生徒達を時には励まし、時には叱咤激励し、一緒に歩もうとすることの難しさは、ほぼ自分が遙か遠くの二つの点へと引き裂かれ続ける仕事であるのだと思います。しかし、その無限とも思える程離れては、さらに離れ続ける二点に、連続性が無ければならない。どこまでも自分が努力することが「趣味」であってはならないし、どこまでも待ち続けることが「商売」であってはならない。そのような割り切りが教える側にできてしまえば、もう本当の意味での教育は死に絶えるのだと考えています。目の前のよちよち歩きも、遙かなる高みへとつながる一歩でなければならないし、遙かなる高みもまた、目の前のよちよち歩きを勇気づけるものでなければならない。その苦しみも、またそれ故の意義の大きさももろともに、「腐心」という一語には現れているように僕は思っています。
と書いてみて、「嚮心塾(きょうしんじゅく)」を「腐心塾(ふしんじゅく)」にすれば、よかったかな、と、ちょっと後悔の念が出てきました。もちろん、「腐」という字を開業当初から入れていれば、ここまで長く続くことなく、2年目くらいでつぶれていたかもしれません(あんまり良いイメージは一般にないですよね)。
5年前の自分の不明を、恨むべきなのか。それとも(塾がやっていけているという意味で)喜ぶべきなのか。
難しいものです。(もちろん、「嚮心塾」という名前は変えませんのでご安心を。)
ところで、なぜ苦心することを「腐心(ふしん)」というのかを漢和辞典で調べてみると、
腐心:①胸をたたいて悲しむ。胸をたたいて恨み憤る。②苦心する。(漢辞海 三省堂)
ということでした。一方、国語辞典で調べてみると
腐心:心をなやますこと。ひどく心を使うこと。苦心すること。(日本国語大辞典 小学館)
と書いてあります。比べてみると、漢和辞典の意味の方が「恨み憤る」などとマイナスイメージが強いようです。
ただ、実際に毎日悩んでみると、僕には国語辞典の定義はちょっとキレイゴトに聞こえてしまいます。本当に「心をなやま」し、「ひどく心を使」い、「苦心し」ていれば、当然そのような原因となる人に対して、「胸をたたいて悲し」んだり、「胸をたたいて恨み憤」ったりせざるをえないように思います。そして、それを決していけないことであるとは僕は思いません。それより、誰かのために「ひどく心を使」っているのに、悲しみや恨み憤りが生まれてこないのは、僕には嘘くさく思えます。なぜなら、そのような超人的忍耐は、それはその人のために「ひどく心を使う」ことから結局何らかの(金銭的、あるいは感情的な)見返りを期待しているがゆえにできることであると思うからです。
もちろん、「それはお前のように心の狭い人間だからそうなってしまう。世の中には誰かのためを思って真剣に思い悩んでいても、そのように負の感情がたまらない人格者がいっぱいいる!」と言われれば、そうかもしれません。僕も自分の人格にそれほど自信があるわけではないのですが、しかし、そのような「人格者」が実は目に見えないところで様々な形で「見返り」を期待していることというのは、僕は多いように思います。ただ、それに気付いていない、というケースが多いのではないでしょうか。(このことに関して、僕は教え子と結婚する教育者がかなり多いことなどは、その最たる現れなのではないか、と思っています。もちろん、全てのそのようなカップルがそうだとは言いませんが、少なくとも僕は教えていて、自慢ではありませんが教え子に「もてた」経験が15年間ほどの指導歴の中で全くありません。それは僕が「notイケメンだから。」とか「デブだから。」とか、「不潔だから。」などと生徒に意見を求めれば、いくらでも(僕が泣きたくなるような)他の理由が返ってくるわけですが、少なくともそれらの外面的マイナスをもたない頃ですら、そのようにもてたことがありません。それは他の人はどうかはわかりませんが、「この一線を越えて、相手の人生に対して真剣に思い悩むと、もてなくなる」という一線を少なくとも教えていたり、話していたりして僕は感じていて、そこを相手のためと思えば超えてしまうからであると(自分では)考えています。)
ともあれ、僕は毎日、腐心しています。胸こそたたきませんが(痛いので)、楽な方に流れる生徒達のために悲しんでいます。胸こそたたきませんが(やっぱり痛いので)、楽な方に流れる生徒達を恨(うら)み憤(いきどお)っています。そのような僕の姿は、醜いものであるのでしょう。しかし、そのようであるからこそ、本気で生徒達のことを思いやれるのだと思います。逆にそれが僕の中に無くなれば、僕は学習塾という自らが従事するものを「お金を稼ぐための職業」と見なし、そこで得る見返りのために、「感情を表すのは得策ではない」となってしまっているのだと思います(そうなる危険性は、常にあると思っています)。居酒屋風に「はい!喜んで!」と生徒達を思いやる先生を目にしたら、まずその先生は君たち自身ではなく、別の見返りを見ることで君たちとつきあっているのだと思っていいのではないかと思います。その点でも、リンクさせていただいている小橋塾の小橋先生は、すばらしいです。徹底的に生徒のために、怒っています。
教える、というのはつらいことです。どこまでも自分が努力をしていきながら、それとともによちよち歩きの子供達をしっかりと待ち続けなくてはなりません。どこまでも自分が勉強をしていくことは、ある意味簡単であるのです。あるいはどこまでも自分がよちよち歩きをすることも。どこまでも自分では努力をしながら、しかしよちよち歩きの生徒達を時には励まし、時には叱咤激励し、一緒に歩もうとすることの難しさは、ほぼ自分が遙か遠くの二つの点へと引き裂かれ続ける仕事であるのだと思います。しかし、その無限とも思える程離れては、さらに離れ続ける二点に、連続性が無ければならない。どこまでも自分が努力することが「趣味」であってはならないし、どこまでも待ち続けることが「商売」であってはならない。そのような割り切りが教える側にできてしまえば、もう本当の意味での教育は死に絶えるのだと考えています。目の前のよちよち歩きも、遙かなる高みへとつながる一歩でなければならないし、遙かなる高みもまた、目の前のよちよち歩きを勇気づけるものでなければならない。その苦しみも、またそれ故の意義の大きさももろともに、「腐心」という一語には現れているように僕は思っています。
と書いてみて、「嚮心塾(きょうしんじゅく)」を「腐心塾(ふしんじゅく)」にすれば、よかったかな、と、ちょっと後悔の念が出てきました。もちろん、「腐」という字を開業当初から入れていれば、ここまで長く続くことなく、2年目くらいでつぶれていたかもしれません(あんまり良いイメージは一般にないですよね)。
5年前の自分の不明を、恨むべきなのか。それとも(塾がやっていけているという意味で)喜ぶべきなのか。
難しいものです。(もちろん、「嚮心塾」という名前は変えませんのでご安心を。)



