嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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デート。

先日、塾の休みの日に、上の娘と二人で喫茶店で本を読んで来ました。子供が生まれる前から、僕はそのような時間をすごしたいと思っていたため、本当に僕にとってはこの身に余る、ぜいたくなデートの時間でした。

僕にとってこのような時間が「一緒に旅行に行く」などということよりも「ぜいたくな時間」と感じる理由は、子供との過ごし方に限らず、そもそも、僕は誰か他の人と過ごす時間、あるいは異性とのデートというものをどこか楽しい所にいき、遊びを共有するということに使う意味があまりわからないからです。「本当に必要なのは、一緒に遊ぶ仲間ではなく、一緒にこの人生という苦しみに協力して支え合える仲間であるはずなのに。そして、そのような仲間がほしいのなら、「一緒に遊ぶ」というのは、そもそもそのような仲間を捜すために何も役立ちはしないことくらいはわかりそうなものなのに。」そのような違和感を中学生くらいから抱えてきましたが、その違和感を表に出すと「変な人」扱いをされる時期を経て、そのようにつきあえる人としか友人も異性もつきあわない、という偏狭なつきあい方しかできないようになりました。そのような僕にも、信頼できる友人が数少ないながら何人かはいることは、本当に有り難いことです。

僕が塾に通う子達にも伝えたいと思うのは、たとえば僕のような人とのつきあい方であっても、いや、それだからこそ結べるような深い関係性はあるのだということです。他の人とつきあっていくときに、それが友人であれ、恋人であれ、嫌われることを恐れ、相手の気に入らないことをしないようにつきあってしまうことがあまりにも多いように思います。どんな相手とでも楽しいこと、お金を払って楽しませてくれるもの(遊園地やその種の映画など)を共有することはたやすいものです。しかし、それは、いずれ向き合わねばならない様々な困難に対して、互いに信頼し合い、支え合えるような関係を築いていくことに一歩でも二歩でもつながっていると言えるのでしょうか。
もちろん、1000人の人と広く浅くつきあうことを自ら望んでいるのなら、それは一つの生き方であると思います。しかし、本心ではそのようなつきあい方を望んでいなくても、学校、テレビなどという場やメディアから受け取る情報の中には、別の友人とのつきあい方に関する情報自体がそもそもないですし、「苦しみをともに生き抜けるような友達だけを探したい!」と実際に振る舞っているごく少数の人々は必ずいるとは思うのですが、たいていはそのような振る舞い方は決して理解されずに、むしろバカにされる方向にあるように思います。そのような子達、あるいはそのような子達をバカにするような子達にも、人とのつきあい方には様々なありようがあるし、そのための一つの(極端な)例として、僕を見てくれれば、と思っています。

もちろん、僕と娘との読書の時間も、それが互いに読書という楽しみを共有しているだけにとどまれば、あまり遊園地と変わりがありません。しかし、本を読むということは自分の楽しみのためにではなく、自分の直面する課題と向き合い、それを乗り越えるために力を蓄えることにも向けていくことが出来るわけです。そのような時間の使い方を共有できるような関係になれるといいな、と思っています。

それとともに、僕にとって塾とは、生徒達とそのように共闘する場所です。自分を磨き続けて人生の難題に取り組む、という努力をまずは受験に向けてともに行い、受験が終わった後もそのような姿勢で自分を鍛え続けて生きていってほしいという願いを持っています。「受験が終わったので、遊んじゃってま~す。」という時期も少しくらいならよいですが、東大の理Ⅲに首席で入ろうと、この世界にはまだまだ学ぶものだらけですし、この世界の抱える課題を解決するのには、圧倒的に実力が足りません。塾生の一人一人には、その現実に目を背けることなく、自己を鍛え続けていってほしいと心から思っていますし、そのための触媒に僕がなれるように、もっと努力をしていきたいと思っています。

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相談について。

お久しぶりで、申し訳ありません。相も変わらず、ばたばたと忙しく過ごしております。

昨日、塾に相談にきてくれた方に(遠いところをお越しいただいてばかりですみません。)、「先生は誰かに相談しないんですか。」と聞かれました。確かに、僕は受験生相手に限らず、他の人の相談に乗るばかりで、自分の抱えている課題を誰かに相談する、ということが全くありません。それは何も、他の人には自分以上の知恵はだせるわけがない、と見下している訳ではありません。たとえば、僕よりも遙かに優れている部分、あるいは全体を持つ、と心の底から認めているような幾人かの友人や先生に対しても、僕は相談というものをしません。

なぜ、そのようであるのかを、その方が帰られた後も振り返り続けていたのですが、結論としては、「自分がその課題に取り組むことをだれにもじゃまされたくない」という思いが僕にはあるようです。ただ、「じゃま」という言葉には語弊があります。助言を受けることで、明らかに自分には到達できない高みにたどり着くことも出来るからです。しかし、そのような高みにいけたとしても、僕にはそのような到達を「もったいない」と感じる精神構造があるようです。自分の抱える課題に苦しむことは、僕にとっては明らかに、人生そのものであり、あえて言いかえれば、「喜び」であるのでしょう。そこを他の人に相談するのは、他の人に自分の人生を生きられてしまう、そのような感覚があるように思います。解決し得ない課題に直面し、取り組んで、苦しむ。そのこと以上に、生きていると感じられる瞬間があるでしょうか。(勝手ながら、僕はベートーベンの第九交響曲(通称「歓喜の歌」)にもそのようなものを感じます。あの曲は、一人の叫びがやがて人類全体へと響いていく、という朗らかな理想に先だつ独唱のパートが、僕には「この僕の苦しみを、僕は『喜び』と定義したい!」と聞こえてきます。それは与えられた意味の中で置換をすることで現実から目を背ける、マゾヒスティックな倒錯ではなく、むしろ与えられた意味を抜け出ていき、新たな定義をしていくことで現実と再び別の角度から向き合おうとする態度であると思うのです。)

もちろん、このように書くのは、僕のあり方が唯一正しいなどと主張するつもりでは毛頭ありません。それどころか、このようなやり方はやはり自分が気付き得なかった部分を指摘されることに対して、どうしても反応が遅れます。その意味では、欠陥を抱えていることは間違いがないといえるでしょう。しかし、僕はどうもこのやり方でなければ、とたんに力も意欲も失ってしまうようです。ですから、このような自分から始めて、足りないものに対しては耳を澄ましていく、という意識的な努力はしていくものの、そもそもその根本的なやり方自体を変えようとすることはかえって効率が悪いと思っています。

同様に、全く別のタイプの人もいるでしょう。繰り返しになりますが、それはどちらのタイプが優れている、というものではなく、お互いにかけがえがないタイプであるのだと思います。しかし、一番の悲劇はそのように一人一人の根本的な傾向というものに対する理解を深めようという努力はほとんどなされないままに、ある一定の「理想型」へと向かって、その人格をむりやり落とし込んでいこうとしてしまうことを「教育」と呼んでしまっている事実があまりにも多い、ということであるのです。そのような失敗を、学校や塾、予備校の教師も、また親もしてしまいがちです。人間というのはどうしても自分の成功体験を勝手に一般化しては、そこに誰にとってもあてはまる真理があるように錯覚しておきたい動物ですから、このような悲劇は枚挙のいとまがなく、今この瞬間も起き続けています。

このような悲劇を避けるためには、まずは大人も子供も、自分自身をしっかりと見つめることが大切です。そして、自分はどのような長所を持ち、どのような短所をもつのか、という功利的な側面での観察から始めて、自分自身の特徴の根っこを一歩一歩理解しようとしていかねばなりません。しかし、現代人は、あまりにも自分を観察する暇が少なすぎるようです。自分自身の教育を、学校や塾や親などに頼らずに、まずは自分でやっていくつもりが
ないと「さぼっているよりはこの型にはまれ!」と言われてしまいます。また、大人になってからは、忠告してくれる貴重な人間関係が周りになければないほどに、自分自身を絶えず見つめ、自分で反省を加えて行かざるを得ません。そのように絶えず自己を観察し、根本的な傾向をのびゆかせながら、反省を加えては修正を重ねていくという努力こそが、老若男女を問わず、大切であると考えています。

「相談」というテーマに戻れば、結局僕の結論としては、自分自身を理解し、反省を加えていくプロセスの中で、他人への相談が必要であるならばすればいいし、そもそもそんなに必要性を感じなければしなければよいと思います。しかし、それがどれくらい必要かはそれこそ人によって全く違うでしょうから、それを現実に対する自分の挫折の度合いから、謙虚に反省していければよいのではないでしょうか。ここでいう、「謙虚に」とは心構えの問題ではなく、「事実に対して謙虚に」ということであり、自分がそもそも反省を自分自身に対して十分に加えておらず、それで事実として明らかに失敗をしているのに、それでも自分をいいくるめてしまうということがないようにしていかねばならないということです。

と、書いてはみたのですが、そもそも、自分自身に対して反省を加えなくなればなるほどに、事実をありのままに見ることは難しくなります。「自分自身を変えねばならないなら、事実認識を(無意識のうちに)ねじ曲げる(見たい事実だけを見て、見たくない事実は見ない)」などということはよくあるようです。そのようになればなるほどに、自分が掲げる「理想型」とのギャップばかりが気になり、その「理想型」が本当に正しいかどうかのチェックも出来なくなります。そのような段階に陥っている人々に、何ができるのか。それは僕自身も、塾としても、まだまだ良い手段を講じ得ていない難題だと日々痛感しております。

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