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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

天気予報、携帯無料ゲーム、塾。

皆さん、お久しぶりです。久しぶりと言えば、今日の東京は久しぶりに雨が降りました。ところで、僕は天気予報での、「今日はあいにくの雨です。」とか「週末はお天気が崩れます(雨が降ります)」という言い方が大嫌いです。あの言い方は、雨をバカにすることを通じて都市に住む人間の思い上がりを示していると思います。これだけ科学が発達しただのなんだのいばってみても、ちょっと雨が降らなければすぐに生活に使う水がなくなってしまうのが、我々人間の文化の脆弱さであるのに、さらには雨が降らなければそもそも農業自体もなりたちえないのに、「雨を嫌がる」気持ちと、それに迎合する天気予報とに対して、表面に浮かぶ感情だけでの言説を繰り返している気がしてならないのです。

もちろん、僕だって、生活の中で雨が降ると面倒くさいことは多々あります。洗濯物は部屋干しか乾燥機にしなければならないし、娘のお迎えだって自転車が使いにくいです。しかし、それは僕の都合であり、結局はあまり大切なことではなく、様々な支障は生じるものの、決して生きていくのに根本的な障害となるものではありません。しかし、雨が降らずに飲み水がなくなる、あるいは農業がやっていけなくなる、というのは、めぐりめぐって僕が生きていくのに根本的な障害となるものです。

このように考えればわかるものの、それがなぜテレビ画面の中では「あいにくの雨」「お天気が崩れる」という言い方になるのか。それはやはり、1000万人の都民の不快は、少数の人々にとって生存にかかわるかもしれないものよりも、優先されやすい仕組みができあがってしまっているのだと思います。たとえば一人の人にとっての生死の問題が1000のインパクトをもつ(仮に生死の問題を一人の抱えるインパクトの上限と想定しています。)として、おそらく「ある一日に雨が降って不快だ・いろいろ困る」というのは、冷静に考えればその1000分の一以下でしょう。仮にそれを大きめに1と見なすと、前述の予報士のコメントになるのは、「1000万人が感じる1の不快は、総計1000万になり、大きなインパクトをもつので、それに沿ったコメントをすべきだ」という圧力が何らかの形で働いているからであるのだと思います。もちろん、この計算で行くと、「1000万人にとっての1の不快」は「1万人の死」に等しくなってしまうわけで、単純な理論モデルの作り方としてもかなり雑ではあるのかもしれません。しかし、そのような計量的な考え方が(もちろん具体的にそのような手法をとらなくても)何らかの形で影響を及ぼしている結果として、あのような天気予報のコメントになっているのであれば、やはりそれは多数者の大して重要ではないリクエストに、少数者の重大なリクエストがどうしても負けざるを得ない、というちょっとぞっとするような社会構造があるのではないでしょうか。

ビジネスでもそういうことはあるようで、「十人から1万円を集めるビジネス」よりは、「千人から100円ずつ集めるビジネス」の方が、同じ10万円でも、1万円を出すことに対してはみんな慎重になりやすいものの、100円であればとりあえずやってみようか今後はより儲かりやすいわけです。グリーやモバゲーは、そのようにして今は破竹の勢いで儲かっていますね。そして、そのように拡大すればするほど、さらにテレビCMをたくさん流し、巨大な影響力を持っていきます。一人一人の人生にとって、グリーやモバゲーの占める重要度というのは、どんなにはまっている人でも、たいしたものではないでしょう。しかし、それを何百万人がやることで、社会の中ではその「ひとりひとりにとってたいしたものではないもの」こそが、もっとも巨大な権力として存在することになってしまいます。

「それが民主主義だ。」「それが市場経済だ。」と言い張るのは簡単なことであるとは思います。僕も別に社会主義がいいだの市場経済がだめだの言うつもりは全くないのですが、しかし、上に述べたような欠陥が少なくともこの私たちの社会にあることは自覚しておいた方がいいことには間違いがないのではないか、と思います。

学習塾というのは、グリーやモバゲーとは対極の商売です。一人あたりの単価が高く、何万人単位で指導することは出来ません。その意味では、時代に逆行する、やがては絶滅する商売であるのでしょう。しかし、僕は学習塾のグリーやモバゲー化を目指すのではなく、一人一人の人生全体を1000としたとき、そのうちの、500とは言いませんが、大部分を占めるような重大なリクエストに一つ一つ応えていきたいと考えています。そのような取り組みこそが、世の中をよくしていく、ということにつながるのではないか、と考えています。

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第16号 歴史を学ぶ意味について

第16回 歴史を学ぶ意味について

先日、コンラート・ローレンツの『攻撃』を読み返していたら、このような記述に出会いました。「生物の行動様式についてはいわゆる反復説(注1)は成り立たない。各個体は様々な過程を経て生み出された行動様式を、生まれた瞬間から身につけている。」という記述です。この本でローレンツはハイイロガンを例に取り、ハイイロガンの友好的なあいさつが実は敵対的な威嚇から発達したにもかかわらず、生まれたばかりのガンのひなはもう既にその「あいさつ」の意味(友好的であること)を知っていて、卵からかえるとあいさつをする、という話でした。(注1:反復説とは「個体発生は系統発生を繰り返す」という学説で、「一個体の発生の初期にその種が下位の種から発生してくるときに通過したプロセスを必ず通過する」という考えで、ほ乳類、鳥類、は虫類などで胎児の初期の形状が似ていることなどがその例としてあげられます。まあ、この説が正しいかは確かめようがないものの、「上手いこといって結構当たってるね!」的な学説です。)

これがとても興味深い記述だと思った理由は、人間にも同じようなことがあてはまるのではないか、と思ったからです。いわゆる一般的な理解の仕方として、人間は長い年月をかけて蓄積してきた行動様式(すなわち「文化」ですね)を個体にとっての環境としての社会に蓄積し、それを個体の成長過程において教育を通じて学び取っていく、というイメージがあると思います。(ロックの言うような『白紙(タブラ・ラサ)』という状態はちょっと極端だとしても、このようなイメージは比較的共有されているのではないでしょうか。「何も知らない子供」とか「大人は人生経験を積んでいるから」などという常套句はよく聞きますね。)

しかし、僕は、ローレンツがハイイロガンについて教えてくれているように、人間の赤ちゃんもまた、「おぎゃあ!」と生まれた瞬間にはこの人間のいい面も悪い面も含めてのさまざまな発達の影響を受けているのではないかと思います。その意味では生まれたばかりの赤ちゃんもまた「現代人」であり、良いものであれ、悪いものであれ、様々な前提、人類のたどってきたこの歴史をふまえてしまっているように僕は思います。もちろん、ここで言っているのは、今の時代の赤ん坊が生まれたときから携帯電話やインターネットを使いこなせる、という荒唐無稽な話では決してありません。ただ、それらのものを利用している我々の間に生まれる赤子は、そもそもそのようなものがない時に生まれる赤子とは、どこかが決定的に違ってしまっているかもしれない、ということです。ちょうど、威嚇に近い行動を「あいさつ」と定義づけた後に生まれてくるハイイロガンのひなのように、です。

もちろん、これは失われた過去を美化して懐かしむためにこのようなことを言っているわけではありません。そのような変化には良いも悪いもなく、実際に起きてしまっていることです。威嚇をあいさつに転化できたハイイロガンの中で同種同士の殺し合いが減ったかどうかは分かりませんが、もしそうだとしたらプラスの側面でしょうし、一方で同種同士での争いがなくなる分だけ、異種に対しては闘争力をなくしたハイイロガンは劣位に立たざるを得なかったかもしれません。このように行動様式の変化自体には必ずプラス面とマイナス面があるでしょう。人間の将来に関しては、バラ色の未来を声高に語る少数の有力者と、暗い未来をぼそぼそと語る多数の有力ではない人、という構図が続いているのでしょうが、そのどちらも一面的であり、様々な変化は、間違いなくその両面とももたらすでしょう。ですから、そのような変化がどちらにころぶかを固唾をのんで見守っているという姿勢はあまり意味がありません。大切なのは、我々は生まれた瞬間から「現代」に条件付けられていて、様々な可能性を考え、あらゆる可能性を尽くしているつもりでありながら、その行動の意味が生成してくる過程を理解することなく、その行動の意味を信じて生きているがために陥る失敗もあるのではないか、と考えていくことであると思います。

そして、だからこそ、人間の外部に蓄積された過程としての「歴史」を学ぶ意味があると思います。もちろん、残された歴史には嘘も山ほどあるでしょう。また、歴史から有利な行動様式を学ぼうとしたり、不利な行動様式を学ぼうとしたりしても、それはポパーが『歴史主義の貧困』で丁寧に述べてくれていたように、やはりさらなる失敗を招くでしょう。私たちが歴史を学ぶ意味は、「自由な行動・意志の主体としての自己」にとっての判断材料を求めるためではなく、自己をそのように「自由な行動・意志の主体」であると思いたがる自分自身が、いかに人類のこれまでの歩みによって条件付けられ、自らの「自由意志」などごくわずかな一部分にしか許されないということを学ぶことにあるのだと思います。

難しくなりましたので、ぶっちゃけて言いますと、「自分が自由であるという前提の元に、自由な自分が次の行動のために使える材料として歴史を学ぶ」のではなく、「自分がどれだけ不自由であり、条件付けられているのかに気付くために歴史を学んだ上で、次の一歩には私たちの当たり前としている常識の外にも自由があるかどうかを考えていく」ことが大切なのではないかと思います。

ハイイロガンに話を戻しながら考えていくと、「威嚇→あいさつ」という行動様式の変化自体、攻撃衝動を友好関係へとつなげていくというすばらしい発明であるものの、これはこのような行動様式を共有しない異種の動物にとっては通用しないわけです。すなわち、彼らは威嚇のようなそぶりをあいさつと認識して無防備でいたとしても、異種の動物には単なる威嚇にしか見えず、彼らが無防備になった瞬間に「威嚇」と認識していた異種の動物に殺されてしまう可能性があるわけです。「このような悲劇を、動物たちは防ぐすべを知らないけれども、私たち人間は防ぐすべを知っている!」と言うほどに、私たち人間が自らの行動様式のなりたちを意識し、そのなりたち故の利点と欠点とについて常に自覚的であるとは、僕にはどうも思えません。異種の動物が示す「威嚇」を、自分たちの常識に従って「あいさつ」と解釈しては、「それはもしかして威嚇かもしれない!私たちのあいさつは威嚇から発達してきたのだけれども、それと彼らの文化とは、違う発達の仕方をしてきているかもしれない!」と慎重になるハイイロガンを、「バカだな。そんなの、あいさつにきまってるじゃん。常識のないやつだなあ。」と笑うハイイロガンが多い、そのような恐ろしい光景を、僕は人間社会に暮らしていて、様々な場面で感じたりしています。(たとえば、これは言葉に関してですが、僕は自分のpartnerを「女房」や「家内」、「奥さん」などとは呼びにくいのです。これらの語が慣用的にはpartnerを指すことはもちろん知っているものの、それらの原義からして、これらの語は女性差別か、百歩譲っても不正確な言葉であると思うからです。このような言葉は日本という社会の発達の中で、その中で女性がどのような役割を担ってきたか、あるいは担わされてきたかによってできあがった言葉です。しかし、話し相手に分かるために僕が自分のpartnerのことを「僕の家内が」と言い直さなければならないとき、僕はこの日本社会の負の歴史に従属せざるを得ません。もちろん、単なる言葉狩りになるのではまずいのです。しかし、そのような言葉を「言いにくい」という感覚が一般にないことこそが一番の問題であると思います。その行動様式(としての言葉)を生まれる前に身につけるか、生まれた後に身につけるかは人間の方がハイイロガンよりも複雑な行動様式の分だけ、ものによって違うものの、身につける際にはその行動様式自体への吟味を持ち得ないというこの仕組みこそが、ハイイロガンと同じように本能的であるように感じます。)

僕は、「人間は生まれたときには純真無垢で何の条件付けも受けておらず、成長して行くにつれ自然と社会の中で歴史について学んでいく。」という歴史観ではなく、「人間は生まれ落ちた瞬間から、この我々が通ってきた道(歴史)によってひどく影響された個体であり、その利点と欠点を自覚していっては他の可能性を探るために、私たちは積極的に歴史を学ばねばならない」という歴史観を、もちたいと思っています。自分たちが知らず知らず受けている制約を自覚し、自由になるためにこそ、歴史を勉強するという姿勢を、どの分野についてももっていきたいと思います。

「何でも自然の中に答えがある!」的な安易な自然主義は危険ですが、私たちがもし「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物体としての自身の外見を契機に、このように考えることも少しは意味があるのではないでしょうか。「人類(あるいは○○人)という種の系統発生」に絶えず、思いを凝らすために、歴史を学びたいものです。
                     2010年7月20日 嚮心塾 塾長

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手を使う必要のあるスポーツ、足を使う必要のあるスポーツ。

サッカーワールドカップもようやく終わりました。これから夏休みであり、受験生を指導する立場としてはここから勉強に余念なく集中してもらえることが、何よりもうれしく、また身が引き締まる思いです。

ただ、サッカーワールドカップを見ていても、とても考えさせられることが多くありました。まず一つ目は、「サッカーは手を使う必要のあるスポーツなのでは?」という疑問です。今までもマラドーナの現役時代の「神の手」ゴールがありましたし、今大会でもブラジルのルイス・ファビアーノの手を使ったトラップの後のゴール(「人の手」ゴール)もありました。そして、何より決定的にそう思えたのは、準々決勝のガーナ-ウルグアイ戦で延長後半ロスタイムにスアレスがシュートを手で防ぎ、その後のPKをガーナのジャンが外し、結局PK戦でウルグアイが勝ち上がった試合でした。(もちろん、始まる前にも欧州予選でのフランスのアンリのハンドもありましたね。)

「サッカーは手を使ってはいけないスポーツだ。」というのは、サッカーの大原則となるルールです。ルールというよりはもはや「定義」と言ってもよいぐらい、根幹にかかわるルールでしょう。しかし、それをワールドカップという大舞台で、効果的に破ることによって成果を出すというこれらの行為を「スポーツマンシップに反する」という批判をするのでは僕は浅薄であると思いますし、小さい頃から「足を使うスポーツとしてのサッカー」を必死にやってきてそれで一流になった人間が、あのような決定的な場面で手を使うことを思いつくことの創造性の高さに、むしろ僕などは感心してしまいます。サッカーのルールの中でプレイをしながら、その外の可能性にまで思いをやるその一瞬のひらめきがすばらしいと思います。

もちろん、サッカーというスポーツが、フィールドプレイヤーが絶えず故意に手を使ってしまっては成り立たないスポーツである以上、故意のハンドは厳罰です。得点に絡まない場合でもイエローカードでしょうし、得点に絡む場合であれば、一発レッドカードです。実際、ウルグアイのスアレスも一発レッドカードで退場になりました。しかし、彼がもしあそこで手で止めていなければ、そもそもガーナに得点が入り、残り時間もわずかでしたから必ず負けていたわけです。それを、彼が手で止めることで彼は退場になってもまずPKになり、そこでもしかしたら相手のキッカーが外すかもしれないという可能性を作りました。(実際にも外したわけですが、外さなかったとしても敗戦という結果が確定すさせず、そこに別の不確定要素を挟み込んだだけでも意味があったわけです。)このことは、自分が退場になるという厳罰よりも遙かに見返りが大きいとあの瞬間に判断がなされたわけです。それはルールに則りながら、しかしルールに支配されないでその外の現実を冷徹に見つめる、という高度の知性が働いているように思います。

このようないわゆる「ずるさ」に僕が感心するのは、このような態度が「サッカーは手を使ってはいけない」というルールを「所詮は人間が決めたものに過ぎない。」とどこか冷静に見ているように思えるからです。もちろんサッカーの試合で勝つためには、大部分はそのルールに従っていく方がメリットがあるわけですが、しかし、ここぞというところではそのルールを無視する、あるいはルールを無視していることをばれないようにする、という振る舞いこそが良い結果を残すこともあるのだということを彼らはよく分かっているのだと思います。翻って、日本のサッカーが本当に強くなるのは、そのように「手を使える」選手が出てくるときだと思うのですが、日本人はあるルール自体が正しいかどうかについては極端に無関心であるのに、そのルール違反者に対してはそれこそめくじらをたてて集団的につるし上げる国民ですので、「手を使える」選手の出現はなかなかに難しいのかもしれません。(本田選手は直前の強化試合で少し手を使っていましたが。あれももしかしてその練習だとしたら、やはり彼はたいしたものです。)


もう一つ。サッカーは足を使うスポーツです。「何をいまさら」ではありません。オシム前日本代表監督が「日本のキーパーはパスが下手だ。11人目のフィールドプレイヤーとして、パス回しにキーパーが参加できる技術がなければ、結局キーパーがボールを保持してもそこからサッカーを組み立てることが出来ない。強豪国は皆キーパーのキックの技術が優れている。だから、私は日本代表監督の時に、キーパーのキック練習を取り入れた。」という趣旨の話をしていました。これは逆のことであり、「足を使わねばならないスポーツであるサッカーで、唯一手が使えるポジションであるキーパー」という定義に甘えて、日本ではキーパーがパスの技術を鍛えることがおろそかになっていたということを表しているのではないでしょうか。結局サッカーとは、その進化の過程で、フィールドプレイヤーも手を(場合によっては)使うスポーツであり、キーパーも足を使うスポーツになってきたようです。

以上のことからわかるのはやはり、より質の高いものを作り出していくためには、既成の概念にとらわれることなく、何がよりよいものであるかを絶えず考え続ける必要がある、ということなのではないでしょうか。もちろんこれは言うは易く行うは難しです。しかし、まずはサッカーチームの指導者が大事な試合でハンドの反則をした少年を声高に責める前に、「どう考えてこの場面でハンドをしたの?」と聞いてあげることが大切であると思います。また、キーパーの少年が「僕もパス練習に加わりたい!」と言ったときに「キーパーはキーパーの練習だけやっておけ!」ではなく、「どうしてそう考えるの?」と聞いてあげて、それが先に挙げたようなしっかりとした理由であれば、そこで指導方法を柔軟に変えていくことが大切でしょう。もちろん、指導者や教育者はこのような最先端のサッカーの進化を絶えず研究あるいは勉強し、子供達の「非常識」な提案に含まれる真理を見抜くことが出来るように準備をしていなければなりません。しかし、私たち愚かな人間が既成の概念の奴隷になりやすく、特に大人になればなるほどにその傾向が強くなる以上、その研究や勉強以上に大切なのは、大人達は子供達の自由な発想から絶えず教わろうとする心の準備をしておくことであると思います。
 勉強や研究を、「知っていることを懸命に増やして知らないことと出会わないようにしていばるため」に行うのではなく、「知っていることを懸命に増やしていくのは、自分の知らないことと出会ったときにその大切さを理解するためだ。」という姿勢でやっていくのもまた、既成の概念にとらわれないためには必要な姿勢です。Karl.R.Popperの自叙伝の通り、'Unended Quest'(『終わりなき探求』)が大切なようです。
(Unended 'Dragon Quest'はダメですよ!ゲームだけは終わりがある方が良いようです。人生にはやるべきことが多すぎるのですから。)

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電子書籍の時代に考えねばならないこと

ipad だのiphoneだのipod touchだのしゃらくせえ!と何も目くじらを立てることはないのでしょう。とても便利なものですし、何よりも活字を読んでいく事へのハードルが低くなることは、教育という観点から見てもよいのでだとは思います。

ただ、一つ考えていかなくてはならないのは、そのような電子データ化された書籍を作るためのコストを、誰が負担すべきか、という問題です。これはipadとは関係がないのですが、もう中高生であれば当たり前に保有している電子辞書を例にとって考えてみましょう。教えていて、わざわざ紙の辞書を新たに購入するというご家庭は非常に少ないように思います。電子辞書自体は一台2万円以上する高価な買い物ですが、親御さんもやはり「ゲーム」というとお金を出したくないと思っていても、「電子辞書」と聞くと、「勉強に使うものだし、これで我が子が勉強が出来るようになるなら安い投資かも…。」と財布のひもがゆるくなる傾向があるようです。

しかし、この電子辞書のデータを電子辞書メーカーはいくらくらいで出版社から買っているか、皆さんご存じでしょうか?たとえば、あの有名な岩波書店の広辞苑を書店で買えば8000円弱しますが、出版社がデータを電子辞書メーカーに売るときには、聞いた話では、何と1台あたり100円(!)で売っているそうです。これだけ電子辞書が普及してしまえば、力関係では電子辞書メーカーの方が強く、出版社はそのような低い値段でも電子辞書に収録してもらって、いくらかのお金を得られればまだましである、という状況がこのような値段を生み出しているのでしょう。もちろん、紙の辞書の売れる部数が減らないで、それに加えて電子辞書の売り上げから1台100円が入ってくるのなら、出版社も有り難い話です。しかし、おそらく電子辞書の普及によって紙の辞書の実売部数は激減しているはずです。そしてその分だけ、8000円で売れていたものが、100円しか手元に入ってこないということになってしまう。現在のいわゆる「出版不況」とは、この電子化の時代への対応の仕方を出版社の自助努力に任せてしまった結果として、出版社がそのように追い込まれざるを得ない流れが出来てしまっているが故であるかもしれません。

もちろん、上にあげた「広辞苑が一部100円」という事実もショッキングでしょうが、まだこれは出版社に現存するデータをコピーすればするほど100円入る、という意味ではましな話です。さらに大きな問題は、このような状況が続けば続くほどに、新しい辞書を作ることはもはや出来なくなる、ということです。先に挙げた『広辞苑』は新村出さんが『辞苑』という辞書を20年かけて改訂して作ったものですが、それほど大規模であったり長期間でなくても、新しい辞書の編纂というのは当然5~10年くらいはかかるわけです。そして、そこでは大量の研究者を動員しなくてはなりません。出版社は辞書が発売されるまでのその期間、この編集作業にかかる人件費を全て、しかも長期間にわたって丸抱えするわけです。このような経営的にきわめてリスクの高い事業を行っても、それが紙の辞書としてそれなりの利益を含んで売り出すことが出来れば、回収のめどがたっていました。しかし、この電子辞書全盛の時代において、電子辞書に入っていない紙の辞書が広く売れることはまずないでしょうし、かといって新しく編纂した辞書のデータを電子辞書メーカーに売ったとしても、結局広辞苑ですら100円しか入らないような雀の涙のような金額しか入りません。これでは、新たな辞書を編集して売り出すことは、出版社には不可能なこととなり、今までのデータを使い回すだけの状態となるでしょう。そしてそれは、日本語について学問的により研究が進んだとしても、その最先端の知見を辞書に反映して、広く一般の人々がその成果を享受するということはきわめて困難になってしまいます。これが現状であるのです。

僕は電子辞書の存在そのものに反対をしているわけでは決してありません。もちろん、僕自身は使いたいとは全く思わないものの、便利なツールであることには間違いがないでしょう。しかし、あの2万円から3万円の電子辞書を買う中で、広辞苑のデータを100円で出版社が売り渡している、ということにはやはりおかしさを感じるべきであると思います。たとえば紙の広辞苑が8000円弱ならば、せめて1台あたり3000円くらいをメーカーが出版社に払う仕組みを作っていかなければ、出版社が新しい辞書を作ることは不可能になり、その結果何十年も前のかなりあやしい知見を僕たちは最新の電子辞書の中に見いださざるを得ないというおかしな状況になるのではないでしょうか。もちろん、そのような仕組みを作れば、電子辞書も今のように安い値段では買えなくなってしまうでしょう。あれだけ何冊も詰め込めば、最低でも5,6万円、中には10万円を超える機種まででてきてしまうかもしれません。しかし、そのように中に収録されているデータにも正当な評価を与えることこそが、結局は社会全体としても得られる利益は多いように思います。あまりにも目先のことにとらわれるあまりに、結果としてこれまでの先人の蓄積した「知」を使い捨てては、我々自身がそこに新たな知見を築いたり広めていくことには無頓着であるのなら、それこそ子孫達の代に申し訳がないでしょう。

もちろん、電子辞書と電子書籍は違う部分もあります。特に、漫画家の佐藤秀峰先生の「漫画 on Web」のように、出版社を通さない電子書籍というものが作家の出版社からの自立や、出版社に頼らないデビューのあり方を作っていく、というメリットについてはもちろんすばらしいものであると僕は思います。しかし、そのような電子書籍のメリットは個人である作家さんや漫画家さんによって作られる作品には確かにあると僕も思うのですが、一方で辞書の編集のように個人ではない組織が個人ではなしえないような長期的かつ大規模な編集作業を通じて初めて行われるもの、というのは、この電子書籍の時代には絶滅していく恐れがあると思います。このことについて、私たちはどのようにすべきかを考えていかねばなりません。たとえば「そういうものは政府がやればいい!」的な発想もあるとは思うのですが、辞書が中国の皇帝の専権による編纂事業において発達した(『康煕字典』のように)という一つの歴史をふまえてみると、そのような発想は僕は単に後退であるにとどまらず、編集事業の必要性を人々が理解しない状況を生み出しては、それを専制権力によって強制する、というかえってコストのかかる道であるように思えてしまいます。

また、昨今の事業仕分けにおいて、学問や科学技術に政府がお金をだすのをケチろうとすることに対して、著名な学者達が抗議していましたが、仕分けのやり方が学問や科学技術に対して無理解すぎる、ということを言っていても仕方がないように思います。むしろ社会の様々なところで、「文化」あるいは「商慣行」としてでも根付いてきたこのような知的生産のしくみを、ひとつひとつ見殺しにしていくことの方が、より大きな問題です。学者達が「大衆にはこの学問の価値を正当に評価することは出来ない」と政府を頼っても、その政府の構成員は(「学問の価値を正当に評価することの出来ない」)大衆の選挙によって選ばれるのですから。僕自身は、学問の価値の理解度とは、「電子辞書にいくら出すか。」という具体的な問題でとりあえず推し量れるものだと思います。そこで、「2万円で買えるのなら、広辞苑のデータ代100円でいいよ!」とか「いや、でも新しい辞書作れなくなるなら、データ代3000円払って、電子辞書5万円になってもいいよ!」とか「だったら紙の辞書の方がやっぱり安いかも!(ちょっと僕の好みの入った結論ですかね。)」という議論になったり、さらには「辞書に5万円なんて、高い!どうせ、学校卒業したら使わないんだし。」という人と「辞書に5万円なんて安い!どうせ一生勉強するんだから一生使うし。」という勉強とその人の人生との関係性をも問い直してくれるきっかけになったりすると、あの事業仕分けについて是非を話し合うよりも、もっと文化というものに実感がわいてみんなが考えやすいのではないでしょうか。

「電子辞書の正当なデータ代の分は高くなっても仕方がない」と思える消費者の多い社会が、学問の価値が広く理解されている社会であると言えるのだと思います。一足飛びにそうなることは難しいとしても、せめてこのような問題点について知り、議論をし、その中で自分はこの問題についてどのように意見をもつべきかを考える人が増えるといいな、と思っています。

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久々の更新ですみません。

「毎日更新したいと思います!」という意気込みも、もはや過去のものであるかのように間が空き、さらにはこうしてつなぎの記事を書くというていたらく。僕の遅筆ぶりを知っている方々は「またか!」とお思いになるでしょう。まったくもって申し訳ありません。

とはいえ、遊んでいるわけではありませんよ。塾が塾生達の試験期間中であり、また、新しく入塾したいと言ってくださる子も多く、なかなか忙しいためです。そこで、今回は、僕が遅筆であることの失敗を考察してみたいと思います。

「忙しい」という言葉の基準は難しいです。「1日18時間仕事をしている」と聞くと、その人が忙しいのはわかりやすいようです。僕はそこまで長く働いてはいないのですが、「あの本を読んでから書こう。」「いや、こちらの考えねばならないことを考えてから書かなくては。」などとやっているうちに、発信をする作業がどうしても後回しになってしまいます。それは「良いものをお届けしたい」という思い故であります。

ただ、このように「良いものをお届けするためにはもっと○○をしなくては。」と自分に強く思いこんでいるときほどに、あまり良い文章が書けないのもまた事実です。そこでは、「良い文章をお届けする」ことを自分に義務として課さねばならないほどに、自分自身や自分の書きたいことに自信を失っていることが多いからだと思います。

なぜ自信を失うのか。それは、ideaというものは「腐る」のだと、僕は考えています。「こういうことを考えるべきなのでは。」とideaがわいたとしても、それは時間が経つにつれて、「どうせそんなことを考えてもこの現実の複雑な問題には何の役にも立たないんだよ。」「きっと他の誰かがもう考えては、やっぱりだめだということを検証しているよ。」という思いに変わっていきます。

しかし、そのようなnegativeな考えは思いついた瞬間の最初の輝き、「こんなことを考えつくなんて、俺って天才かも!」「このことはきっと世界で自分しか気付いてないのかも!」という思い上がりと同じように、間違っています。自分が世界で最初ではないかもしれない。世界で30番目かもしれないし、それ以下かもしれない。しかし、そこでの30番目は、学問であれ、芸術であれ、技術であれ、その他何であれ、それらを推し進めていく際には必ず必要なものであるかもしれません。少なくとも、その必要なものである可能性は含んでいて、それを自分の判断で押し殺してよいものではないことだけは間違いがないのです。

ideaをideaのままでとどまらせ、それ以上形にしていかないということはこのような可能性を見殺しにしてしまっていると言えるでしょう。僕のような遅筆は、その意味において、やはり問題です。

これからは、このように間を空けずに、書いていきたいと思います。

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