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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「偏差値○○UP!」という広告をしない理由

塾の広告というのは、たいてい「偏差値○○ UP!」というフレーズがよく出ています。しかし嚮心塾では、そのように景気のいいお話を広告に載せたことはありませんし、またこれからも載せることはありません。

もちろん、それはそのような実例がないから、という訳ではありません。というよりむしろ、偏差値10くらいのアップであれば毎年受験生の誰かもしくは複数に起きている現象です。偏差値20のアップというのもたまにあります。しかし、実際に起きているとしても、僕にはどうもこのようなフレーズを使うことが過大広告であるように思えてしまいます。

なぜなら、まず「偏差値10UP!」であっても、当然その偏差値10のUPが「40→50」と「50→60」、「60→70」さらには「70→80」では、当然難しさの質が全く違うからです。全く勉強をしていなかった子が勉強にまじめに取り組むことを始めれば、「40→50」はほぼ、誰にでも起こる現象です。「50→60」もまじめに勉強に取り組んでいて、教える側が指導の仕方すら間違えなければ、ほぼ、3分の1くらいの生徒に起こることであると思います(もちろん、それすら目標としていない塾が多いことは情けない限りですが。)しかし、「60→70」ましてや、「70→80」となってくると、これは教える側にもよほど力がいります。基本的な知識を教えていればいい段階を超え、生徒の側に出来ている部分が増えれば増えるほどに、数少なくなる弱点がどこにあるかを見抜く力と、その弱点を埋めるためにどのような指導をすればよいかを考える力が教師に問われてくるからです。

もちろん、これは「40→50」という偏差値の上げ方が簡単だ!という話ではありません。勉強が苦手な子ほどに、前段落の「勉強にまじめに取り組むことを始める」ことが、きわめて難しいからです。「40→50」という鍛え方と「70→80」という鍛え方は、ベクトルが全く違う努力が必要であるのだと思います。それは運動のコーチにたとえると、「40→50」という鍛え方は、メタボな人に「ラーメンと一緒にチャーハンとか食べちゃうと太るから気をつけてね。」という生活習慣の改善を絶えず促すような(「もう!チャーハンじゃなくても餃子とか一緒に食べちゃだめだよ!」的な)努力であり、「70→80」という鍛え方は食事制限も筋力トレーニングも自らの意志で率先して行うオリンピック選手に、それでも世界一になるために何が足りないかを考え、新たな課題を考えるような努力であるといえます。この、全く方向の違う、しかしそれぞれに尊い努力の結果を「偏差値10UP!」と乱暴な言葉で一緒にくくることは、僕にはできません。

そしてもう一つの理由は、こちらの方が大きな理由なのですが、同じ「偏差値40」の子が二人いるとして、その二人が同じように努力し、同じ時間勉強したとしても、その成果は全く異なってくるのがむしろ当たり前であると僕が考えているからです。なぜなら、たとえば「国算社理」で同じ偏差値40の二人の子であっても、それはそのような学力テストで計れる部分において、たまたま同じ成績であるだけです。それはその子の教養や人格のごくごく一部であり、本当に「氷山の、ごくわずかな一角」である以上、そのような学校や塾のテストで計れない部分においてどれほどの差があっても、「同じような成績」としてしか認識されていません(もちろん、この認識の仕方がそもそも大人の見る目のなさであるのですが)。そして、爆発的に成績が伸びる子、というのはやはり「受験勉強以外において様々な教養や思考習慣が形成されているものの、たまたま受験勉強については何らかのきっかけで嫌いになっている子」であることが多いのです。ですから、「昨年当塾ではA君の偏差値が10上がりました。」という情報は、一般に思われているよりも遙かに、ほとんど参考にならない情報なのではないかと思います。もちろん、「さまざまなよい条件がそろった際に、その好機をとらえてしっかりと生徒の成績を伸ばすことが出来た」ということは塾への一つのプラス評価の材料になるのかもしれません。しかし、そのように冷静に判断していただけないかもしれない可能性が残る以上は、僕はそのような「偏差値○○UP!」という広告は、過度に親御さんの期待を刺激しては財布のひもを緩くしようとする、なされるべきではない過大広告であると考えています。

そのようにして、「チャーハンと餃子だけじゃなくて、天津飯もラーメンと一緒にたのんじゃだめだよ!このままの体型で君は本当にいいのかい?」という初歩的ながら動機付けが難しい作業を一方でしながら、もう一方で、「平泳ぎのキックの膝から下の角度をもう0.5度だけ、外側に蹴ってみようか。」というマニアックですが動機付けは比較的いらない作業をしているのが、嚮心塾だと思っていただけると、だいたい正しいのではないかと思います(どんな塾やねん!という話ですが)。もちろん、この二つは切れた話ではなく、「『食事制限』から始めてでも、『オリンピック』を目指したい!」という生徒さんも大歓迎です。

最後に、自分の塾のPRもちゃっかり書いてはみたのですが(「広告しません!」という広告。ドモホルンリンクル方式です。)、それ以上に大切なこととして、この「偏差値○○UP!」という粗雑な言葉がなくなるような受験業界になっていくと、よりすばらしいのではないかと思っています。

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世代間対立という悪循環を防ぐために。

生命科学での日本の第一人者の一人である(そうです。僕は寡聞にしてまだご本を読んだことがありません。これから読みたいと思います。)、京大名誉教授の柳田充弘先生が、ご自身のブログ(「生きるすべ」)で、科研費申請時のヒアリングで、決めつけに基づいたきわめて不公正な審査を受け、そのせいで科研費が下りずにご自身の京大の研究室を閉めざるを得なくなった経緯について、悲しみと批判を述べていらっしゃいます。年齢を理由に(今年69歳になられたそうです)、柳田先生の科研費申請を「犯罪的だ!」と別の場で面と向かってののしった人が科研費申請時のヒアリングでも座長であり、結局申請に提出した論文をまともに吟味する(そもそも読んでいなさそう)ことなく、ヒアリングが終わり、結果として科研費申請が却下されたそうです。

僕はこの件自体を本当に残念なこと、許してはならないことだと思います。特に、その研究の内容によって判断するのではなく(実力によってではなく)、勝手な思いこみと決めつけによって判断をするというのは、大局的な観点から見て確実に日本の科学技術のレベルを下げることであると思います。年齢など関係なく、科研費の審査は内容(実力)によって判断しなくてはなりません。しかし、冷静に考えなくてはならない点もあると思うのは、このような決めつけた判断を行った側もまた、「科研費の審査は、内容(実力)によって判断しなくてはならない。」という思いからこのようなひどいことをしたのではないか、と考える必要があると感じるからです。

その座長は、このように考えていた可能性もあると思います。「日本の若手研究者は、不遇すぎる。なぜなら、どんなに良い内容の研究で科研費を申請しても、結局科研費を獲得するのはこれまでに実績を上げてきたいわゆる『大家』になってしまうからだ。審査をする側は、そもそもその新しく申請される研究の価値を判断するということが(その研究が新しいが故に)きわめて難しい以上、「科研費をどこの馬の骨とも知らない人に与えるよりは、実績をすでにいくつももっている研究者に与える方が、後で『あの科研費は無駄だった。』と批判される可能性はより少ないはずだ。」と考えがちだ。そのせいで、無名の研究者はせっかく有望な研究内容で申請しても、チャンスを与えられないで苦しんでいる。何?また、この大家が科研費を申請してきたのか。よーし、ここは、若い人のためにおれが一肌ぬごうではないか…」ここでの彼の動機は、「科研費の審査は、(これまでの名声や実績によってではなく)内容(実力)によって判断しなくてはならない。」という思いだったかもしれないわけです。

「科研費は、(過去の実績ではなく)内容(実力)によって判断しなければならない」と考えた座長が、そのpolicyに基づいて柳田先生の申請を却下し、その結果として柳田先生が「内容で判断してほしい」と批判せざるを得ない。そのような複雑な問題であるのだと思います。

これはたとえば、成果主義と年功賃金の関係性など、簡単に分けるわけに行かないものを二分論によって是非を問うことの問題性を示してもいます。しかし、より大きな問題は、この座長が、一つの正しい思い(「若手にチャンスを!」)を優先するあまりに、その正しい思いを機械的にどんな対象に対しても適用しなければならないと考えたその硬直性にあると思います。

「判断を下す」ということは、とても難しく、恐ろしいことです。そこで、自分が申請者の過去の実績に目がくらんで、目の前の申請を精密に評価できないのであれば、それはやはり若い研究者の芽をつむことになります。しかし、この例のように、その若い研究者の芽をつむことだけを恐れてしまえば、その申請自体の価値を不当に(年齢によって)評価し、それは結局科学技術全体の地盤沈下を招くかもしれません。もちろん、さらに難しい要素として、大家(たいか)の80点の申請と、若手の30点の申請とのどちらを評価すべきなのか、という問題もあります。この申請自体は30点ぐらいしかつけられないとしても、これからいくらでも伸びるかもしれない部分を評価すべきなのか、それともあくまで若手が80点をとることを要求することで、その若手に奮起を促すのか。しかし、奮起を促すつもりで却下をしたことのせいで、その若手が研究を続けられなくなる可能性もまた出てくるわけです。かといって、「芽」は若者の研究にだけあるわけではありません(現に、柳田先生は「今が一番新しいことをうみだせそうだ」という趣旨のことをおっしゃっています)。

本当に難しく、また自分が判断を下すのが恐ろしいくらい責任重大なことです。このようなことすべてを考慮した上で、正しい判断を下すことなど、おそらく人智をこえているのでしょう。しかし、だからこそ、少しでも正しい判断へと近づくことが出来るように、謙虚に考え抜かねばならないのだと思います。この件に関して、やはり最大の問題は、そのヒアリングの時に、審査をする側の座長の先生がしっかりと論文を吟味をしないで自分の思いこみに基づく正義感に頼ったことが、やはりこのように考えてみても、一番の問題であったのだと思います。

人間の判断するものですから、当然この科研費のような決定には間違いがつきものです。しかし、審査をする側は、これだけ難しく、これだけ責任の重い決定であることを肝に銘じた上で、様々な観点から悩み抜くことが必要であると思います。その審査の結果の正当性に信頼を置こうとする姿勢を僕は危険であると思います(なぜなら、それは常に間違いを含まざるを得ないだけでなく、そのとりあえずの結果に対する疑いを排除する方向に働くからです)。しかし、その審査のプロセスに正当性をおけなくなるとしたら、やはり科学は衰退するしかなくなるのではないでしょうか。

本来わかり得ないかもしれないおのおのの研究の価値を、分かろうとするために必死に互いに努力するという姿勢を、世代間の争いを超えて、互いの世代の共通認識として共有していくことがまず何よりも大切であると考えています。特にこのことを、不遇な研究環境に苦しむ若い世代にこそ、理解してもらわねばなりません。彼らが若く、「実績がない」とされるが故に現在不遇に苦しむことが不当だとしても、その解決方法として逆の年齢差別(「年寄りは研究費をもらうな!」という態度)を歓迎してしまうことは、結局いずれ彼ら自身の首を絞めることになってしまいます。自分自身が不当で差別的な評価に苦しむあまり、不当な逆差別を歓迎してしまえば、それは結局、研究の価値によって研究者を評価するという当たり前の機能をこの社会が持ち得なくなってしまうことにつながります。若い世代も年長の世代も、「自分の研究をその内容で評価してほしい」と(どんなに苦しくても)胸を張って言い続けるつもりで、研究をしていかねばならないのではないでしょうか。

もちろん、このような理想論を許さないほどに、現状は厳しく、研究者達は疲弊しているのでしょう。それは部外者たる僕にはうかがい知れぬ所です。しかし、それでも、あるべき社会の有り様を忘れて、不当な冷遇に対しても厚遇に対しても、(現実的にはそれを甘受せざるをえないとしても)「本当はこれではいけないんだ。」と言えなくなるのであれば、何のための研究であるのかはわからなくなります。

それとともに、研究者達にそのような超人的な忍耐を要求しないでもすむような社会を、私たちは目指していかねばならないとも思っています。

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おすすめミュージシャンその1:サンボマスター

日頃、塾生にお勧めしきれていない、僕がすばらしいと思うミュージシャンの方々をご紹介したいと思います。

その第1回は、サンボマスターです。「そんなの今さら。もう知ってるよ。とうにピークは過ぎたんじゃない?」
などと言わないでほしいのです。僕は彼らのメジャーデビュー一枚目のアルバムから聴いていますが、おそらくこのフルアルバムとしては5枚目(この4月に出た『きみのためにつよくなりたい』)がサンボマスター史上最高のアルバムだと思います。そして、それは一つの到達点としてあとは下降していくのではなく、この先も本当に期待できる頑張り方だと思います。

彼らの歌詞は一見直情的で、技巧的ではないかもしれません。しかし、楽曲作りにおける真摯さ、その取り組みから生まれる美しい楽曲の数々は、いわゆるCMなどのタイアップで何秒か流れるのを聞くだけでは分からない、一曲全体を通しての組み立てのすばらしさを感じさせてくれます。キャッチーなサビを作ることに腐心しては、他の部分は体裁を整えるだけで大量生産品のように何曲も作るということの対極に、彼らの楽曲はあります。その意味で、楽曲として完成されることなく捨てられた「音」が大量にある中で、本当によいものだけを残して一曲一曲作っていくというきわめて贅沢な曲作りをしていることが本当によく分かる程、練り上げられた楽曲ばかりだと思います。

僕は今、「美しい楽曲」という言葉を使いました。サンボマスターというバンドについて、この表現がなかなかされないことを僕は非常に歯がゆく思っています。彼らのルックスや、シャウトや、直情的な歌詞ばかりが目についてしまうかもしれませんが、僕はどの曲も本当に美しいメロディーだと感動させられます。何らかのきっかけで人気が出た期間を逃さないでCDを売るために、「産地直送です。泥つき野菜ですよ。」みたいな楽曲を垂れ流すというCDセールスの仕組みに飲み込まれないための一つの戦略として、曲を作るということに徹底的に真摯に取り組むというやり方があるのだ、という可能性を気付かせてくれる、それほどすばらしい楽曲ばかりだと僕は思っています。(NirvanaのKurt Cobain がGuns'n RosesのAxl Roseと仲が悪かったのですが、その彼ら二人のアプローチの違い(自分をメジャーにしていくシステム自体を呪詛することで純潔を保とうとするのか、それともそのシステムに乗った上で自分たちがやるべきことをどのように模索するのか)に対する、一つの答え方であるとすら、思えます。)

また、歌詞についても一見「直情的に見える」というだけで、実はとてもすばらしいと思います。自分と世界との切り結び方に悩み、苦しみ、その中で「あなた」への愛をうたう。もちろん実際には、「自分」も「あなた」もこの矛盾を感じる「世界」の一部であり、その意味では被害者ではなく加害者でもまたあるのですが、それは被害を強く感じるからこそ、加害者であることに目を背けられず、かといって、そこで立ちすくむのではなく、何とかこの硬直的な全体に対してもがき、アクションを起こしたい。その思いが「『あなた』への愛を歌う」ことに現れている歌詞だと思います。「あなたへの愛を歌っていればいい。あなたに愛されればそれでいい。」という開き直った姿勢ではなく、「あなたへの愛を歌うよりほかに仕方がない。」という苦しみと、しかし、「本当に小さな一歩だけど、そこから始めようよ。少なくとも僕はあきらめない。」というメッセージ。かなり楽観的に聞こえてしまう歌詞も含めて、それらをメッセージを伝える姿勢として、強い覚悟の上で選び取っているという印象を受けます。「1万人のうち、9999人に『幼稚な歌詞だな。』と冷笑されてもいい。でも、たった一人の心をこの歌詞で勇気づけられるのなら、いくら笑われても構いはしない。」という覚悟を、僕は聞いていて感じるのです。僕は、この姿勢を、本当に尊敬すべき姿勢であると思います。

同時代そして同世代に、こんなにがんばっているミュージシャンの方がいることを、僕は本当に有り難く思っています。まだ聞いたことのない人は、是非聞いていただけると本当にうれしい限りです。

(付論)ネット経由での音楽配信の普及によってCDが売れなくなり、レコード会社にとってはなおさら「すぐに売れるCD」「すぐに売れるミュージシャン」を近視眼的に求めざるを得なくなる圧力が強まりつつあるのでしょうが、一方で僕はこのサンボマスターのニューアルバムのようにすばらしい曲を作ることに徹底していくことは、CDの可能性を追求することでもあると思います。僕の中高生のころを振り返っても、よいCDは、友達に勧めて、聞いてもらいたくなるものでした(中には、自分のお薦めの曲をわざわざテープに落としてくれて、「~ BEST」のようにオリジナルのベストを作ってくれる友人もいました)。ネット配信という今の主流の音楽の楽しみ方は、以前のCDやレコードのように、「友人にお薦めして貸す」という方向には向かない、きわめて個人的な楽しみ方に特化した発達の仕方であると思います。しかし、本当にすばらしいものは他の人にも勧めたくなるというのが、人間の心に根ざす深い傾向であると思うので、やはり人に薦めたくなるような良い音楽の入ったCDというのは、これからも必ず需要があるのではないでしょうか。逆に、「人から薦められてCDやレコードを借りる」という習慣がなくなってしまえば、従来の自分の好みに従った音楽のみしか聴けなくなるわけです。「こんなの、絶対たいしたことないって。」と思っては聞かなかった楽曲を友人が「絶対いいから!」と押しつけるように貸してきて、仕方がないので義理立てして一回は聴こうと思って聴いたら、実は自分の聴かず嫌いでしかなく、自分の人生に深く影響を与えるような音楽だった!というような経験は、このネット配信が進む先にはどんどん減っていくわけです。
それはやはり一人一人が聴く音楽の幅を狭くしていき、一人一人が楽曲を吟味し、鑑賞する力を衰えさせていってしまうのではないでしょうか。(「ジャケ買い」やこういった友人のお薦めからの)様々な楽曲との偶然の出会いがなくなればなくなるほど、人間の芸術における鑑賞力やそれ故の創作力も衰えていく危険性もあると思います。
また、古いレコードを探す人が感じているように、時代を超えて良い音楽を求めたいと思う人間の気持ちに応えるという意味でもやはり、音楽配信には出来ないことがCDやレコードにはできると思います。「音楽配信が成立する以前の過去の楽曲を音楽配信のシステムにのせよう」という動機が働くためには、その過去の楽曲に対するニーズが現実に存在しなければビジネスとして成立しないでしょう。しかし、その過去の楽曲が広くは知られないまま時が過ぎてしまっていれば、どのような名曲も掘り起こされることなく、その名曲に対するニーズも(いったん広く知られれば生まれるとしても)現存することなく見捨てられていくでしょう。つまり、音楽配信だけしか残らない、という時にはCDやレコードからの過渡期で必ず、過去のまだ評価されていない楽曲は廃棄されていくこととなります。しかし、それらの良さが100年後や200年後に再発見される可能性は、CDやレコードを発掘することができなくなれば、不可能となってしまうわけです。

音楽配信の広まり方が性急すぎるせいで、CDやレコードのこういった役割を無視してしまうといった事態を恐れていかなければならないと思います。もちろん、安く手軽な音楽配信のおかげで一人一人が聴くことの出来る音楽の曲数は増えるようになる、というメリットもあるわけですから、それを考慮に入れた上で、先に挙げたような二つのデメリットも考え合わせ、どちらの方がより大切かを考えていくことが必要です。ただ、僕自身は、「自分の好み」を固定化した上でそれに沿うものばかりをたくさん聴くよりは、「自分の好み」が思わぬ出会いによって変化していく方が、成長の契機をより多く含むのではないかと考えています。

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寺子屋形式の塾の良いところと悪いところ

 寺子屋形式の塾が今、見直されているようです。嚮心塾でも、2005年の開塾以来その形でやっております。「こうしなさい!そうすれば、成績が上がる!」と一律に言って聞かせるのではなく、一人一人の生徒が自分で勉強を頑張ろうとしていく中で、どうしてもぶつからざるを得ない困難を、その困難にぶつかる度に助言し、一緒に乗り越えていこうとするという教え方であるのが、この寺子屋形式の良いところであると思います。自分がわからなくて困っているという自覚があるからこそ、それを懸命に聞くことで身につけようとする、というこのやり方は相手が分かっていても分かっていなくても「ここが大事!テストに出るからね!」と押しつけるよりも、学習効果は遙かに高いと思います。また、学習に関する意欲もあきらかに違って、みんな勉強をしに、塾に通ってくれています。
 寺子屋形式の悪いところとしては、そもそも「勉強を頑張ろう!」と思っていない子にはどうしようもない、という点があげられます。「勉強しなきゃいけないんだけど、でもわからないしなぁ。」というお子さんには効果があるとしても、「勉強なんてやってるふりしてればいいんだ!うるさい親にばれなきゃいいんだ!」と思っている子には、そもそも自分が勉強をできるようになりたいとは思っていない以上、自分の出来ないところをうめていくことは苦痛以外の何者でもないからです。このようなお子さんには、そもそもこの「学校歴社会」の日本で勉強をしないで生きていくということがどれほどの困難を伴うものであるのかを理解してもらうことが必要となります。それを理解した上で、あえて困難な道を選ぶのであれば、それは勇気あるすばらしい選択になるかもしれません。しかし、たいていの場合、勉強を拒絶する子は、楽な道を選んでいるつもりで、実は一番困難な道に入らざるを得なくなってしまっている場合が多いようです。そのことを丁寧に言葉を尽くして、リアリティーをもってもらうことで、勉強に対する動機をもちにくい子にも勉強をしていく姿勢を伝えられるとよいと考えています。

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『きたなシュラン』、あるいは『もやもやさまぁず』

昨日、東京ではとんねるずさんの番組で、僕の好きな企画「きたなシュラン」に僕の自宅付近の洋食屋さんが出ていました。この企画は「汚いけれど、ウマイ」店を堪能するという企画で、とても個性のあるお店が多く出てきて、見ていてとても勉強になります。このお店は昨年の年末の「もやもやさまぁずスペシャル」でも紹介されていたのですが、この番組もその周の特集される地域の「もやっとする(一見不思議な、しかし味わいのある)」お店やスポットなどを紹介する番組で、以前からとても興味深い番組だと思って見ていました。

この二つの番組に共通するのは、「なんか変だけど、しかしそれがいい」というお店に対する番組の作り手の愛情です。整っていて広い空間を提供できるわけではないけれども、しかし、自分の人生をかけてそのお店をやってきたご主人のこだわりは、味であったり、あるいは他の要素であったり、何らかの形で見るべきものを確かに生み出していて、そしてそれ故に地域に根付いているという姿は、「個人」というもののこの社会におけるあり方、存在の仕方の可能性を豊かに提示してくれていると思います。

これらの番組に映る個性的な店主さん達の姿が、僕にはとても活き活きとしてすばらしく見えるのですが、あれを無様であるという見方もまた出来ると思います。「あんな汚い店にしがみついて。」などと思う方もいるのかもしれません。しかし、僕はこの社会の中で個人として生きていく、というのは、外から見ればあの番組で「汚い!」とか「もやっとしてる!」とか茶化されずにはいられないのではないか、と考えています。

それは別に個人事業主だけではありません。どのような大きな組織に所属しても、結局「汚い!」とか「もやっとしてる!」と言われて、平準的ではないとされる部分こそが実はその人にとっての個性であるのかもしれません。もちろん、「これが俺の個性だ!」などと肩肘を張るのではやはり見捨てられてしまうのでしょうが、「ごめん。うちは外見は汚いんだ。でも、その分旨いものくわせるからさ。」という姿勢で懸命に努力する以外には、やはり一人の人間としては存在し得ないのではないでしょうか。

ミュージシャンの桑田佳祐さんは、「僕は人間としてだめなやつだから、せめていい音楽を届けねばならない」という姿勢で努力していらっしゃることを以前テレビで話していました。そのように、元朝青龍関も「ごめん。俺血の気が多くて、けんかっ早いだめなやつなんだ。その分、相撲は誰にも負けないよう、頑張るからさ。」と言えば、許してもらえたのかもしれません。何もかもを平均的に頑張ることはできない人が、それでも「このことだけは誰にも負けないように頑張ろう。」と頑張る姿勢に対して、それを正確に評価していく寛容な社会こそが実は、creativeな社会なのではないかと考えています。一人一人の欠点に見えるものこそが同時にその人の美点の源であることは、教えていても多々あります。どのようにその人の美点を殺さぬようにして、欠点を伸ばしていくかは、きわめて難しく慎重さのいる作業であり、欠点が見えればそれをみんなで非難するという稚拙な手段からは、決して改善しえないのだと思います。

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