嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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教え続ける理由

よく、「塾をやっている」というと、「教えるのが好きなんですね。」と言われたりします。一応そこで「はい。」と答えたりするのですが、厳密には少し違って、僕は教えるのは好きではありません。「教える」ってとても偉そうな感じですよね。僕の夢は、僕が一生涯塾生や卒塾生に教え続けるのではなく、逆に「えー。先生、こんなこともわかってないの。」と言われて、「ごめん、ごめん。負けないように、僕も猛勉強するよ。」と言いたい、ということです(なかなか、そうなりません。卒塾生・塾生の皆さん、頑張ろう!)。ですから、教えていて、あまり「楽しい」と思ったことはありません。

では、なぜ教え続けているのか。それは、大人であれ、子供であれ、人間が自分の間違いを認めて恥じ、その上でその情けない自分を乗り越えようとする姿勢こそが、この上なく美しいと僕は思うからです。その間違いに気付いてもらうまでに、つらい思いをしながら耐えねばならない時間も、とても長いのですが、それでも自らの過ちに気付いて、その上でそれをどのように乗り越えようかを相談してくれるときには、心の底から、その尊い志(こころざし)を応援したいと思います。その志には、確かに地球どころか宇宙に匹敵するような重みがあるように僕は感じます。

ソクラテスが「無知の知を説いた」と倫理の教科書には載っていて、実際プラトンの本を読むと、ソクラテスは大分偉そうに「俺は無知の知を知っているからおまえらより賢い!」的に主張する人のように、プラトンに描かれちゃっている気がするのですが、「自分が無知である」ことを実感したときのソクラテスは、情けない自分にウンザリする以上に、きっと深い感動によって「またここから、がんばろう。」と思っていたと思うのです(つまり、「無知の知」は他者と関係なくあくまでも自己に向けてのものであると思います)。

僕が教え続けている理由は、そのような成長を見たいし、サポートしたい、というただ一点にあるように思います。
そしてまた、僕自身もそのように、成長し続けたい、という思いもあります。

今日もまた、塾生の一人に、そのような経験をさせてもらいました。本当に有り難う。全力でサポートしていきます。
そして、情けない自分の中に沈んでいる他の人達へ。僕と一緒に、情けない君自身と戦いませんか。
いつまででも、待っています。

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自己紹介

これだけ記事を書き連ねながら、僕自身の具体的な自己紹介を全くしていませんでした。
プロフィールも、わかりづらいですよね。

1976年生まれ、二児の父親です。
公立小から中学受験をして開成中高と通い、東京大学の法学部を卒業しました。
(大学受験は現役合格でしたが、大学に入学してから教えることにのめりこんでいたため、
一年留年一年休学していました。)
その後、プロの家庭教師を4年程してから2005年にこの塾を始めました。

指導歴の始まりは高校生の頃から同級生を集めて補習授業やプリントを作ったりしていたことです。対価をいただいて教え始めたのは大学一年生からですので、指導歴は15年ほどです。

塾の紹介として、このような説明が妥当だとは思えません。嚮心塾の実力は(その良さも悪さも)、僕の指導歴の長さや出身校から推し量れるようなものではないと思うからです。「イチローは愛工大名電高卒だからすごい」わけではなく「イチローはイチローだからすごい」わけですし、「○○はPL学園高卒業なのに、こんなものか。」ということも、また当然あるわけです。(注:愛工大名電高もPL学園高も高校野球の名門校です。)

感嘆するにせよ、落胆するにせよ、嚮心塾を見て、ご自身の目と頭で判断していただけると本当に有り難いです。
塾の見学や1週間の無料入塾はいつでもお待ちしております。

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ミイラ取りがミイラに、という終わりなき旅

トップの文章が長すぎるので、トップページが長くならないように短く書けそうなテーマを選んだつもりが、書いているうちにまた長くなり、という繰り返しをしてしまっています。うーん。取り切れない責任を何とか取ろうとし続けざるをえないなんて、人生の縮図だ!
しかし、読みにくくて、すみません。

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難しい本の読み方

高校生以上の子達にお薦めしているのは、背伸びをして「古典」と呼ばれる本を何か読むことです。たとえば、世界史でも日本史でも倫理でも、その勉強の中で内容紹介などを読んで「読みたい」と思った本には、多少難しくてもチャレンジをすることが大切だと思います。しかし、そのチャレンジの仕方がわからなくて、途中で挫折してしまう場合も多いようです。そこで、難しい本の読み方として、

①わからない部分があるのは仕方がないと思って、わかる部分を探して読む。
②最後まで読み通す。
③書き込む。

という3点が大切だと思います。
①については、たとえば何かのテーマについて懸命に悩み抜いて生きた人が書き残した本を、僕らが片手間に読んでわかるわけがありません。これは高校生に限ったことではなく、たとえば僕自身今までに様々な本を読んできているつもりですが、まだまだ分からない部分が残る本がいっぱいあることに驚かされます。「専門家じゃないからわからない」のではなく、「専門家であってもわからない(意見が分かれる)」ものもまた、多々あるのです。これに関しては、僕たちは子供の頃から、子供向けの「わかる本」を与えられて育つ中で、中学生や高校生、あるいは大学生のある段階でいきなり「わからない本」を読むことを強要されるのがそもそも問題であると思います。「わからない本」を読むためには、わからないなりに、自分の思いに響くところを探していく、という姿勢がとても大切です。そのような読み方でも、いくつか残るフレーズを頼りに、自分の経験が深まり、「もしかしてあの本に書いてあったのは、このことかも!」と気付いたときに読み返せるとすばらしいと思います。
②わからないなりに最後まで読み通すことも大切です。①のような姿勢で読んでいったとしても、途中で止めてしまうと、その本自体が「苦い思い出」として残ってしまい、もう一度読み返すこと自体に心理的抵抗感が生まれてしまいます。逆に「一応全部読んだけど、わけがわからなかった。」という時には他のきっかけを通じて、「もう一度読んでみようかな。」と思えるものではないでしょうか。
③書き込むと、能動的に頭を使います。書き込む内容は分からない部分の言い換えでもいいですし、その文章の内容はわかったとしても、「だとしたらこういうことになるのでは?」と次に考えを進めたり、逆に「ここはこの本が間違っている!」とかでもよいです。この書き込みというのは、ニコニコ動画にコメントでつっこみをいれる感じ、というと、若い世代には分かりやすいようです。さらに、書き込んでおくと、二回目以降読み直すときには一回目の自分の読解を頼りに出来たり、逆に間違いに気付いたり、ということで二回目の理解度が格段に違うというメリットもあります。

以上のように、難しい本を読むときには、「わかる本」を読むときとは違う工夫が必要です。もちろん、上に書いたような工夫ですら、大変すぎてやる気が起こらないという人が多いかもしれません。しかし、僕は「(簡単には)わからない本を苦労して読む」ということは、ともすれば独善的になりやすい10代、20代、ひいては大人にとっても大切な自己省察の機会であると思います。自分はまだ何もわかっていないということを知るために、難しい本にチャレンジしてみることをこれからもお薦めしていきたいと思いますし、まずはその模範になれるように僕も努力していきたいと考えています。

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信頼とは。

サッカーの日本代表がワールドカップ前の日韓戦で0-2で負け、さらには敗戦後のインタビューで自らの進退伺いをしていたとか、いや、それは冗談だったとかで、非難ごうごうのまま日本を旅立った岡田監督と日本代表チームです。僕がこの件に関して一点だけ思うのは、「たとえ戦術面での間違いがいろいろとあったとしても、岡田監督は信頼できる人なのでは。」と思う、ということです。もちろん直接お会いしたこともないのに、このような判断をするのには限界があるのですが、しかし彼が朝青龍の引退の際に、「みんなが聖人君子じゃなきゃいけないのかな。」ときわめて残念そうな意見をコメントされていたのを思い返すと、やはり信頼できる人であるのでは、と思います。

もちろん、「いくら人格が信頼できる人であってもワールドカップで勝てる監督じゃなければダメだ。」とか、「そもそもそのような人格への同情論が日本のサッカーファンの見る目を鈍らせることが日本のサッカーのレベルを停滞させるのだ。」などという批判はできると思います。しかし、「目の前のワールドカップで勝つことを最大目標にする」という努力を4年ごとに繰り返し、そのために、監督をその4年間の中で最大のパフォーマンスを起こせそうな人に選び、そしてワールドカップ後はそれがまたリセットされた状態でゼロからスタートするということをいくら繰り返しても、僕はあまり成長がないと思うのです。批判をするにせよ、擁護するにせよ、岡田監督を育てよう、という教育的視点をもつファンがいったい何人いるのかが、僕は疑問であるのです。

たとえば、僕は98年のワールドカップで、当時の岡田監督がカズ(三浦知良選手)を直前にワールドカップの代表から外したときは、「カズを外してまで日本代表が勝っても仕方がないのが、この監督はわからないのか。」とがっかりした覚えがあります。その失敗を、岡田監督自身はこの12年間で学び、今回代表に川口能活選手を入れたのだと勝手ながら思っています。僕はそのような岡田監督自身の成長にこそ、興味があるし、何よりもすばらしいことであると思います。

その意味では、どのワールドカップも、どのオリンピックも、それがそれに関わる選手や監督にとって成長をする契機とならないのであれば、たとえ優勝してもあまり意味がないのでは、と思ってしまいます。もちろん、高い目標を掲げるからこそ、何となく参加するよりも遙かに成長する、という事実も当然のことです。しかし、高い目標を達成することに目がくらんで、そこまでの過程で人々を使い捨てようとするのであれば、やはりその代償は大きいと思うのです。僕自身は、サッカーというのは、戦争の代替品としてヨーロッパが開発した深い文化の一つであると思いますが、それが文化としての意味を損なわずに日本に根付いていくためには、やはりサッカーを契機として、人を育て合う、という視点が大切なのではないかと考えています。

もちろん、育て合う、といっても、相手に本気で頑張るつもりがなければ、その信頼はただ裏切られるだけであるでしょう。その信頼の根拠として、僕が大切だと思うのが、冒頭に述べた(岡田監督の)「人格」であるのです。「この人は我々の期待する結果を出すはずだ。」という気持ちは、信頼では決してありません。単なる投機的な予測でしょう。「たとえ結果として我々の期待とは違う結果になっても、そのことに対して心苦しいと本心で感じ、それをまた彼自身の成長の糧としてくれるはずだ。」という思いこそが、真の信頼であると思います。日本のサッカーファンは、もちろん僕も含め、そのような姿勢でワールドカップを見られるとよいのでは、と思っています。

教育とは、生徒に裏切られることが仕事です。生徒を信頼しては、その信頼が裏切られることを繰り返す。その痛みを裏切る本人に痛切に感じてもらうことを通じて、強制されて行うのではない、心からの努力が生まれると思っています。

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