
かなり長いのですが、僕にとっては今までの文章では一番思い入れの深いものです。僕はドストエーフスキーの一連の作品を読み、作家になることをあきらめました。正確には、僕の伝えたいことを彼がこんなにわかりやすく書いてくれている以上は、自分が作家になる必要を感じなくなったと言えます。もちろん、それは過去の判断で、現在は僕自身も小説ではないにせよ、文章を書いて伝えるという取り組みもやはりしていかねばならないとも考えています。
第13回 「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」
前回で発行の遅れをお詫びしておきながら、今回はさらに間があいてしまい、申し訳ありませんでした。そこで出血大サービス、今回は特別拡大バージョンにてお送り致します。(サービスになっているのでしょうか…)
長々しい文章も、とっかえひっかえのイメージも、書いても書いても現実を描けていないという無力感に情けなさを感じながら、それでも何とか表現することをあきらめてはならないと自分を奮い立たせては書いているものです。全ての言葉は衒いのためにしか存在しないと看破する賢い人や賢がる人に笑われようと、それでも言葉を紡ごうとする人々の姿勢に僕はとても勇気づけられてきました。僕の言葉が誰にも響かず終わっていくとしても、それでも無駄に終わる言葉など、ありません。それと同時に自分の言葉を消すこともできません。僕たちは、この世界で生きて行かねばならない。この文章も、誰かにとって少しでもその一助となれるのであれば、こんなにうれしいことはありません。
さて、タイトルにあげたのは、僕が最近出会ったとてもすばらしい文学作品です。といってもこれは、西荻窪駅北口駅前にあるコーヒーショップに張られていた張り紙です。しかし、この文章の美しさ、そこに込められた覚悟や思いやりに、本当に感銘を受けると共に、文学の、すなわち人間の永遠のテーマを表した言葉であると思いました。
この言葉の解説をすれば、喫茶店にはよくコーヒー一杯で粘る迷惑なお客がいます。かくいうこの僕も、その迷惑なお客の常習犯です。勉強、仕事、読書、執筆などその内訳は様々であっても、喫茶店程落ち着く場所というのはなかなかありません。僕も勉強は図書館などでするよりも喫茶店でする方が断然好きです。
しかし、このような客は店側にとっては当然大迷惑です。まだ一杯の単価が高く、長居をされることもあらかじめ計算に入れて値段設定をしている店であれば、そのようにゆったりと過ごしていくお客に快適さを提供することで常連として通ってもらいながら利益を出していくこともできます。しかし、単価が低く、お客さんの回転率で利益を出す形のチェーン店では、いくら常連さんになろうとも、結局長居されることで減る利益の方が多いでしょう。特別な喫茶店ならともかく、混んでいるチェーン店にわざわざ並んで入ろうとするお客さんは少ないのですから。
もちろん、そのように長い時間をそこで過ごさせてもらっていることを本当に有り難く、申し訳なく思うからこそコーヒーのお代わりや食事時にはそこで食事を注文したりもして自分の客単価をあげることで少しはお店の売り上げに貢献しようともする人もいるでしょう。しかしそれでもお店にとってはさっと来て、さっと飲んだり食べたりするお客さんの方が圧倒的に儲かるだろうと思います。
これらのことをふまえると、チェーン店の喫茶店ではやはり「お仕事やお勉強はご遠慮ください」という張り紙が多いように思います。現にこの冒頭の言葉が貼ってある喫茶店と同じ系列のお店は、どこにいってもそのような「ご遠慮ください」方式の張り紙があり、それもまた仕方がないことであるとも思っていました。それだけに、この「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」という張り紙をみたときには、本当に感動させられたのでした。
この言葉には、(勝手に想像するに)「せっかくこの自分の店を気に入って来てくれる常連さんを大切にしてあげたい。彼ら彼女らが勉強や仕事、読書をするそのひとときはたとえ長居をして店側が困るとしても、それでも彼ら彼女らにとって、あるいはこの社会にとっても、とても大切な時間だ。しかし、かといってそれを大切にするあまり客の回転が悪くなり、この店がつぶれてしまっては私も路頭に迷うし、彼ら彼女らだって困るのではないか。何か名案はないだろうか。……………そうだ、彼ら彼女らのように長居するお客さんが二人席や四人席を一人で占領して長居をされてしまうことはさすがにこちらも困るけれども、一人席で荷物も机の下にしまって、『ここで勉強させてもらうのは申し訳ないけれども、それでも私は勉強する場所が他にないんで、すみません。』という思いで勉強してもらえるのであれば、快く提供しようじゃないか。」という思いが込められているように思います。ここには、「もうからないから追い出しちまえ。」というのでもなく、「つぶれてもいいからやるんだ。」でもない、本当にぎりぎりの、自分の生存をかけて伝えたい思いや心意気が見事に現れていると思います。
この短い言葉が最近の日本のどの小説家の言葉よりも「文学」という言葉に値すると思うのは、唯物論者の出した「一篇のシェークスピアは、1つの長靴にまさるのか(シェークスピアの作品がどんなに美しくても飢えで苦しんでいる人にとってはそんな詩よりも長靴の方が命が助かるという点で役に立つ、という主張)」という本質的な問いに対して、真剣に命を懸けて答えている言葉であると思うからです。もちろん「プロレタリア文学だけが文学だ」などというつもりは毛頭ありません。文学作品が、虐げられている人を直接描いていなければならない、ということではありません。しかし、この「一篇のシェークスピアは一つの長靴にまさるのか。」という問いは、芸術かそれとも生活かという二者択一を迫るものでは決して無く、むしろ人間は何のために生きるのか、あるいは生命は何のために存在するのかという根本的な問いに関わるものであると思います。(ちなみに僕は現在の日本に文学など存在しないと思っています。かろうじて価値のある物は在日朝鮮人と沖縄の人の書く物、即ち現在もなおこの社会の中で虐げられている人の書く物にしか文学が無いと思います。このように書くと、「文学」について頭の固い古い人間だと言われるかもしれませんが、言葉を換えれば現代の小説家の書く小説は人間が生きるのには必要がないものにすぎないということです。生命を最高の善として疑わないが故に、その中で生じる微細な感覚と死だけが問題であるかのように記述するというだけのものになってしまっています。つまり、ドラマなど、どこにもないというわけです。アーレントの言う「労働する動物の勝利」でしょう。)
ここでこのテーマについて考えるために、ドストエフスキーの『悪霊』の一節から、引用してみましょう。著名な文化人でありながら新しく出てきた社会主義的な批判に対応できず、もはや彼のいうことは聞くに値しないとみんなから見られているステパン氏という登場人物が、自分の言葉が時流から外れて笑われるのを恐れてしゃべれないままに嘲笑を受けていた長い歳月を断ち切って、社会主義に浮かれる大衆に向かって演説をする場面です。ステパン氏の言葉と聴衆のやりとりをせりふだけで再構成してみます。(新潮文庫版:江川卓訳、聴衆の反論部分は※をつけて区別しています)
「諸君!この興奮はなんのためでありますか、私の耳にするこの憤激の叫びは何のためでありますか?私は橄欖の枝をたずさえてきたのです。私は最後の言葉をたずさえてきたのであります。この問題についての最後の言葉は私の手中にあり、これによってわれわれは和解しうるのあります。」
※「引っ込め!」「静かにしろ、言わせてみろ。終わりまで言わせてみろ」
「諸君、この問題についての最後の言葉--それは寛容の精神であります。私は、すでに自身の時代を終えた老人でありますが、ここにおごそかに宣言いたします。生命の霊気は依然として息吹き、若き世代の生命の力はなお涸れてはいないと。現代の青年の熱狂は、われわれの時代のそれと同じく、清純であり、光に充ちております。変わったのはただ一つ、すなわち目的の変換、一つの美の他の美による置換えであります!いっさいの誤解の因はつぎの問いの中に含まれます、すなわち、いずれが美であるのか、---シェイクスピアか長靴か、ラファエルか石油か?」
※「それは密告か?」「誘導尋問だぞ!」「挑発者め!」
「しかしながら私は宣言します。」
「私は宣言するものです、シェイクスピアとラファエルは--農奴解放より上である、国民精神より上である、社会主義より上である、若き世代より上である、化学より上である、ほとんど全人類より上である、なぜなら彼らはすでにして成果、全人類の真の成果であり、おそらくは、存在しうるかぎりの最高の成果だからであります!すでに達成された美の形態、いや、この達成なくしては、生きることをさえ、おそらく、私は肯んじないでありましょう……おお、なんたることだ!」
「十年前、私はまさしくこのとおりのことを、ペテルブルグの演壇上から叫んだことがあります、このとおりのことを、そっくり同じ言葉で。そしてそのときも、いまと同様、彼らは何ひとつ理解せず、嘲笑し、野次を浴びせました。愚かな人たちよ、これを理解するのに何が足りないのです?しかしながら、しかしながら、知ってほしい、イギリス人なしでも人類はなお生存しうる、ドイツがなくても良い、ロシア人などはむしろいないにこしたことはない、科学なしで結構、パンなしで結構、ただ一つ、美なくしてはいかんともしがたい、なぜならばこの世界においてなすべきことが何もなくなってしまうからです!秘密のいっさいはここに、歴史のいっさいはここにあります!科学といえども、美なくしては一刻たりとも存続しえないのです、---諸君はこのことを知っているのですか、あざ笑う者たちよ、美なくして科学は奴隷になりさがり、釘一本考えつけなくなるということを!……私は引きさがりはしないぞ!」
※「据え膳食ってるおまえらはいいだろうさ、甘ったれやろうめ!」
「私ですぞ、私ですぞ、若き世代の熱狂も、かつてと同じく、清純で光に充ちておりそれが危機に瀕しているのは、たんに美の形態を取りちがえたからにほかならないと、たったいま宣言したのは!これでも諸君は不満ですか?何より、このように宣言したのが、打ちのめされ、辱められた父親の世代であることを考えるなら、--おお、愚かなる諸君、--これ以上に公平で冷静な見方は求め得べくもないのではないですか?……恩知らずな……理不尽な諸君……どうして、どうして諸君は和解を望まないのですか!……」
ステパン氏は、美こそが人類の存在する目的だ、といいます。人間がその美をいかにもてあそび、いかにそのためにパンや生命を無駄にしてきたかということを考えれば、そのような目的を掲げることを忌まわしく感じてしまうかもしれないけれども、しかし、目的を見失ってはならないと訴えます。もちろん、この必死の訴えも、その直後に、彼がトランプ賭博で負けたカタに売り飛ばした使用人が生活に苦しみ自分が生きるためには殺人でも何でもする人間になってしまったことを暴露されることで、嘲笑を受けます。どれほどの生命が、たとえば美を目的とすることでこのように無為に失われてきたのか、その事実をあまりにも軽く見過ごしすぎている、という批判がたとえば唯物論や共産主義であるのでしょう。しかし、その事実を見つめ、考えることが必要不可欠であるにせよ、パンは、あるいは人間の生存それ自体は決して人間にとっては目的には成り得ない、そのことをステパン氏は伝えようとして、しかしそれがそこまでに強いられてきた大きな犠牲のためになかなか伝わらない様子をこの場面は描いていると思います。
もちろん、生きる目的は美でなくてもよいのです。精神の自由のため、真理のため、愛のため、やさしさのため、など何でもよいでしょう。しかし、人間には目的がいる。それも国家だの、宗教だの、金銭だのという人工物ではない目的が必要であるのです。(それがステパン氏のいう「ロシア人などいないにこしたことはない」ということでしょう。)
そしてそれは、必要であるだけでなくまた人間に課せられた責任でもあります。なぜ生産者としての植物を莫大に犠牲にする食物連鎖の頂点に我々人間がいるのか、我々はこの大量な消費に対してどのように責任をとることができるのか、それを考えれば、先のステパン氏の言葉を「自分が食っていく余裕のある貴族の戯れ言だ!」などと切って捨てるのは誤りであるのです。人間全体がこの食物連鎖から言えば貴族であり、はやりの言葉で言えば人間全体がニートであるのです。飢えて死んでいく人間もバリバリ働く人間も、酸素も栄養も自分では作り出せずに他の生き物が作ったものを吸い、他の生き物が作ったものを食べているのですから。その不労所得を得ているこの身をどのように用いるべきかを問うことは、我々人類という名のニートにとって、やはり考えて行かねばならないことではないでしょうか。
そしてベルクソンもまた『道徳と宗教の二源泉』の中でこのことにふれています。「全ての生命は、人間の精神のためにある」というその言葉は、人間の傲慢さの現れでも何でもなく、生命の中で特権的な地位に生きる全ての人間にとって、その責任を感じて何とか責任をとろうとしていかなければならない一つの厳然たる事実を示しているのではないでしょうか。ゴッホはテオにあれだけ無駄飯をくわせてもらいながらも、彼のすごいところは自分の絵が売れたらその生活費や絵の具代を全て返すつもりでいたことであると思います。彼の絵は、自分の犠牲にしてきた全ての物を直視しながらも、しかしそれを使うその目的へと努力する姿のその痕跡です。
もちろん、何も作品など残さないでも良いのです。ノーベル賞もいりません。むしろ、そんな「ほら、私の努力は無駄飯を食うのに値いするくらいすごいでしょ!」と押しつけがましく生きている人の努力よりも、「私なんてどうせバカだから」と自分で自分を決めつけていた子が「私だってがんばればできることがあるんだ!」と涙するその心の方が、よほどゴッホに通じる物があるように思います。そこでのその心の動きは、生命にとってその目的となる、精神が自由になる運動そのものであるように僕は思うのです。
冒頭の「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」という言葉に戻れば、自分の店がどこまでもうけが必要か、でもどこから先は心意気を大切にしたいかに思い悩むその姿勢は、全ての人類が日々直面し、考えねばならない問題に対する一つの、その店主なりの答えであるのだと思います。もちろん、このような例を見て元気をもらうことや感心して教えられることがあったとしても、これを模範解答としたり解答例として真似をしても意味がありません。この問題への取り組みは、本当に私たち一人一人が自分で考えていくしかないことです。しかし、僕はこのような喫茶店主さんの心意気は、たとえばビル=ゲイツ(マイクロソフトの創業者。億万長者)と比べると、よほど確かな取り組みなのにあまりにも皆が気づかなさすぎているのではないかと思います。もちろんビル=ゲイツは彼なりに悩み、彼の巨額の私有財産を投じて「ゲイツ財団」を作っては世界の貧困問題に取り組もうとしているのでしょうが、ゲイツの言葉よりも、この喫茶店の張り紙の方が、よほど深く心に届く言葉になるのはただの偶然ではないと思います。何千億円寄付しようとももう二度と取り戻すことのできないものを、破壊してしまう前に大切にしていこうとするそのさしのべられた手の温かさを感じるからでしょうか。ゲイツの寄付は、彼がお金をそれだけ稼いだときと同じように、さらっと使われている感じがします。もちろん、彼がそんな寄付すらしない多くの日本の金持ちよりはまだまともであることは確かです。
たえざる外部にとっての、すなわち全体にとっての良いものを求めていく仕組みが自分の周りにあらかじめ存在することはまれであり、部分の利益を最大化することで結局全体や外部へとそのツケをしわ寄せする仕組みばかりがまわりに存在していることばかりであると思います。そのような有り様の中で生きざるを得ないことに心を痛めていようと、自分が心を痛めることで怠惰になればなる程に、既存の仕組みに従って生きるしかなくなっていきます。これが暴力の連鎖を生み出していきます。そのような全体に異を唱え、他のありようを模索していくその一つの姿が「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」という文であるのです。昨今の政治状況に絶望を感じたくなる気持ちはわかりますが、そもそも用意してもらった仕組みの中で競争をすれば、それは用意をする側に賛成する方が強いのは当たり前のことです。そのようなできあいの機会の中に批判の機会があるなどと期待せずに、この喫茶店の店主さんのような言葉を一人一人が紡ぎ出しては、自分の心意気を大切に生きていくこと、それこそが社会全体の活力や批判力となるでしょうし、何よりも閉じた内部の利益を最大化することに腐心する人間達にはあらがいようのないやり方ではないかと思います。あきらめてはならないようです。 2007年4月9日
第13回 「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」
前回で発行の遅れをお詫びしておきながら、今回はさらに間があいてしまい、申し訳ありませんでした。そこで出血大サービス、今回は特別拡大バージョンにてお送り致します。(サービスになっているのでしょうか…)
長々しい文章も、とっかえひっかえのイメージも、書いても書いても現実を描けていないという無力感に情けなさを感じながら、それでも何とか表現することをあきらめてはならないと自分を奮い立たせては書いているものです。全ての言葉は衒いのためにしか存在しないと看破する賢い人や賢がる人に笑われようと、それでも言葉を紡ごうとする人々の姿勢に僕はとても勇気づけられてきました。僕の言葉が誰にも響かず終わっていくとしても、それでも無駄に終わる言葉など、ありません。それと同時に自分の言葉を消すこともできません。僕たちは、この世界で生きて行かねばならない。この文章も、誰かにとって少しでもその一助となれるのであれば、こんなにうれしいことはありません。
さて、タイトルにあげたのは、僕が最近出会ったとてもすばらしい文学作品です。といってもこれは、西荻窪駅北口駅前にあるコーヒーショップに張られていた張り紙です。しかし、この文章の美しさ、そこに込められた覚悟や思いやりに、本当に感銘を受けると共に、文学の、すなわち人間の永遠のテーマを表した言葉であると思いました。
この言葉の解説をすれば、喫茶店にはよくコーヒー一杯で粘る迷惑なお客がいます。かくいうこの僕も、その迷惑なお客の常習犯です。勉強、仕事、読書、執筆などその内訳は様々であっても、喫茶店程落ち着く場所というのはなかなかありません。僕も勉強は図書館などでするよりも喫茶店でする方が断然好きです。
しかし、このような客は店側にとっては当然大迷惑です。まだ一杯の単価が高く、長居をされることもあらかじめ計算に入れて値段設定をしている店であれば、そのようにゆったりと過ごしていくお客に快適さを提供することで常連として通ってもらいながら利益を出していくこともできます。しかし、単価が低く、お客さんの回転率で利益を出す形のチェーン店では、いくら常連さんになろうとも、結局長居されることで減る利益の方が多いでしょう。特別な喫茶店ならともかく、混んでいるチェーン店にわざわざ並んで入ろうとするお客さんは少ないのですから。
もちろん、そのように長い時間をそこで過ごさせてもらっていることを本当に有り難く、申し訳なく思うからこそコーヒーのお代わりや食事時にはそこで食事を注文したりもして自分の客単価をあげることで少しはお店の売り上げに貢献しようともする人もいるでしょう。しかしそれでもお店にとってはさっと来て、さっと飲んだり食べたりするお客さんの方が圧倒的に儲かるだろうと思います。
これらのことをふまえると、チェーン店の喫茶店ではやはり「お仕事やお勉強はご遠慮ください」という張り紙が多いように思います。現にこの冒頭の言葉が貼ってある喫茶店と同じ系列のお店は、どこにいってもそのような「ご遠慮ください」方式の張り紙があり、それもまた仕方がないことであるとも思っていました。それだけに、この「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」という張り紙をみたときには、本当に感動させられたのでした。
この言葉には、(勝手に想像するに)「せっかくこの自分の店を気に入って来てくれる常連さんを大切にしてあげたい。彼ら彼女らが勉強や仕事、読書をするそのひとときはたとえ長居をして店側が困るとしても、それでも彼ら彼女らにとって、あるいはこの社会にとっても、とても大切な時間だ。しかし、かといってそれを大切にするあまり客の回転が悪くなり、この店がつぶれてしまっては私も路頭に迷うし、彼ら彼女らだって困るのではないか。何か名案はないだろうか。……………そうだ、彼ら彼女らのように長居するお客さんが二人席や四人席を一人で占領して長居をされてしまうことはさすがにこちらも困るけれども、一人席で荷物も机の下にしまって、『ここで勉強させてもらうのは申し訳ないけれども、それでも私は勉強する場所が他にないんで、すみません。』という思いで勉強してもらえるのであれば、快く提供しようじゃないか。」という思いが込められているように思います。ここには、「もうからないから追い出しちまえ。」というのでもなく、「つぶれてもいいからやるんだ。」でもない、本当にぎりぎりの、自分の生存をかけて伝えたい思いや心意気が見事に現れていると思います。
この短い言葉が最近の日本のどの小説家の言葉よりも「文学」という言葉に値すると思うのは、唯物論者の出した「一篇のシェークスピアは、1つの長靴にまさるのか(シェークスピアの作品がどんなに美しくても飢えで苦しんでいる人にとってはそんな詩よりも長靴の方が命が助かるという点で役に立つ、という主張)」という本質的な問いに対して、真剣に命を懸けて答えている言葉であると思うからです。もちろん「プロレタリア文学だけが文学だ」などというつもりは毛頭ありません。文学作品が、虐げられている人を直接描いていなければならない、ということではありません。しかし、この「一篇のシェークスピアは一つの長靴にまさるのか。」という問いは、芸術かそれとも生活かという二者択一を迫るものでは決して無く、むしろ人間は何のために生きるのか、あるいは生命は何のために存在するのかという根本的な問いに関わるものであると思います。(ちなみに僕は現在の日本に文学など存在しないと思っています。かろうじて価値のある物は在日朝鮮人と沖縄の人の書く物、即ち現在もなおこの社会の中で虐げられている人の書く物にしか文学が無いと思います。このように書くと、「文学」について頭の固い古い人間だと言われるかもしれませんが、言葉を換えれば現代の小説家の書く小説は人間が生きるのには必要がないものにすぎないということです。生命を最高の善として疑わないが故に、その中で生じる微細な感覚と死だけが問題であるかのように記述するというだけのものになってしまっています。つまり、ドラマなど、どこにもないというわけです。アーレントの言う「労働する動物の勝利」でしょう。)
ここでこのテーマについて考えるために、ドストエフスキーの『悪霊』の一節から、引用してみましょう。著名な文化人でありながら新しく出てきた社会主義的な批判に対応できず、もはや彼のいうことは聞くに値しないとみんなから見られているステパン氏という登場人物が、自分の言葉が時流から外れて笑われるのを恐れてしゃべれないままに嘲笑を受けていた長い歳月を断ち切って、社会主義に浮かれる大衆に向かって演説をする場面です。ステパン氏の言葉と聴衆のやりとりをせりふだけで再構成してみます。(新潮文庫版:江川卓訳、聴衆の反論部分は※をつけて区別しています)
「諸君!この興奮はなんのためでありますか、私の耳にするこの憤激の叫びは何のためでありますか?私は橄欖の枝をたずさえてきたのです。私は最後の言葉をたずさえてきたのであります。この問題についての最後の言葉は私の手中にあり、これによってわれわれは和解しうるのあります。」
※「引っ込め!」「静かにしろ、言わせてみろ。終わりまで言わせてみろ」
「諸君、この問題についての最後の言葉--それは寛容の精神であります。私は、すでに自身の時代を終えた老人でありますが、ここにおごそかに宣言いたします。生命の霊気は依然として息吹き、若き世代の生命の力はなお涸れてはいないと。現代の青年の熱狂は、われわれの時代のそれと同じく、清純であり、光に充ちております。変わったのはただ一つ、すなわち目的の変換、一つの美の他の美による置換えであります!いっさいの誤解の因はつぎの問いの中に含まれます、すなわち、いずれが美であるのか、---シェイクスピアか長靴か、ラファエルか石油か?」
※「それは密告か?」「誘導尋問だぞ!」「挑発者め!」
「しかしながら私は宣言します。」
「私は宣言するものです、シェイクスピアとラファエルは--農奴解放より上である、国民精神より上である、社会主義より上である、若き世代より上である、化学より上である、ほとんど全人類より上である、なぜなら彼らはすでにして成果、全人類の真の成果であり、おそらくは、存在しうるかぎりの最高の成果だからであります!すでに達成された美の形態、いや、この達成なくしては、生きることをさえ、おそらく、私は肯んじないでありましょう……おお、なんたることだ!」
「十年前、私はまさしくこのとおりのことを、ペテルブルグの演壇上から叫んだことがあります、このとおりのことを、そっくり同じ言葉で。そしてそのときも、いまと同様、彼らは何ひとつ理解せず、嘲笑し、野次を浴びせました。愚かな人たちよ、これを理解するのに何が足りないのです?しかしながら、しかしながら、知ってほしい、イギリス人なしでも人類はなお生存しうる、ドイツがなくても良い、ロシア人などはむしろいないにこしたことはない、科学なしで結構、パンなしで結構、ただ一つ、美なくしてはいかんともしがたい、なぜならばこの世界においてなすべきことが何もなくなってしまうからです!秘密のいっさいはここに、歴史のいっさいはここにあります!科学といえども、美なくしては一刻たりとも存続しえないのです、---諸君はこのことを知っているのですか、あざ笑う者たちよ、美なくして科学は奴隷になりさがり、釘一本考えつけなくなるということを!……私は引きさがりはしないぞ!」
※「据え膳食ってるおまえらはいいだろうさ、甘ったれやろうめ!」
「私ですぞ、私ですぞ、若き世代の熱狂も、かつてと同じく、清純で光に充ちておりそれが危機に瀕しているのは、たんに美の形態を取りちがえたからにほかならないと、たったいま宣言したのは!これでも諸君は不満ですか?何より、このように宣言したのが、打ちのめされ、辱められた父親の世代であることを考えるなら、--おお、愚かなる諸君、--これ以上に公平で冷静な見方は求め得べくもないのではないですか?……恩知らずな……理不尽な諸君……どうして、どうして諸君は和解を望まないのですか!……」
ステパン氏は、美こそが人類の存在する目的だ、といいます。人間がその美をいかにもてあそび、いかにそのためにパンや生命を無駄にしてきたかということを考えれば、そのような目的を掲げることを忌まわしく感じてしまうかもしれないけれども、しかし、目的を見失ってはならないと訴えます。もちろん、この必死の訴えも、その直後に、彼がトランプ賭博で負けたカタに売り飛ばした使用人が生活に苦しみ自分が生きるためには殺人でも何でもする人間になってしまったことを暴露されることで、嘲笑を受けます。どれほどの生命が、たとえば美を目的とすることでこのように無為に失われてきたのか、その事実をあまりにも軽く見過ごしすぎている、という批判がたとえば唯物論や共産主義であるのでしょう。しかし、その事実を見つめ、考えることが必要不可欠であるにせよ、パンは、あるいは人間の生存それ自体は決して人間にとっては目的には成り得ない、そのことをステパン氏は伝えようとして、しかしそれがそこまでに強いられてきた大きな犠牲のためになかなか伝わらない様子をこの場面は描いていると思います。
もちろん、生きる目的は美でなくてもよいのです。精神の自由のため、真理のため、愛のため、やさしさのため、など何でもよいでしょう。しかし、人間には目的がいる。それも国家だの、宗教だの、金銭だのという人工物ではない目的が必要であるのです。(それがステパン氏のいう「ロシア人などいないにこしたことはない」ということでしょう。)
そしてそれは、必要であるだけでなくまた人間に課せられた責任でもあります。なぜ生産者としての植物を莫大に犠牲にする食物連鎖の頂点に我々人間がいるのか、我々はこの大量な消費に対してどのように責任をとることができるのか、それを考えれば、先のステパン氏の言葉を「自分が食っていく余裕のある貴族の戯れ言だ!」などと切って捨てるのは誤りであるのです。人間全体がこの食物連鎖から言えば貴族であり、はやりの言葉で言えば人間全体がニートであるのです。飢えて死んでいく人間もバリバリ働く人間も、酸素も栄養も自分では作り出せずに他の生き物が作ったものを吸い、他の生き物が作ったものを食べているのですから。その不労所得を得ているこの身をどのように用いるべきかを問うことは、我々人類という名のニートにとって、やはり考えて行かねばならないことではないでしょうか。
そしてベルクソンもまた『道徳と宗教の二源泉』の中でこのことにふれています。「全ての生命は、人間の精神のためにある」というその言葉は、人間の傲慢さの現れでも何でもなく、生命の中で特権的な地位に生きる全ての人間にとって、その責任を感じて何とか責任をとろうとしていかなければならない一つの厳然たる事実を示しているのではないでしょうか。ゴッホはテオにあれだけ無駄飯をくわせてもらいながらも、彼のすごいところは自分の絵が売れたらその生活費や絵の具代を全て返すつもりでいたことであると思います。彼の絵は、自分の犠牲にしてきた全ての物を直視しながらも、しかしそれを使うその目的へと努力する姿のその痕跡です。
もちろん、何も作品など残さないでも良いのです。ノーベル賞もいりません。むしろ、そんな「ほら、私の努力は無駄飯を食うのに値いするくらいすごいでしょ!」と押しつけがましく生きている人の努力よりも、「私なんてどうせバカだから」と自分で自分を決めつけていた子が「私だってがんばればできることがあるんだ!」と涙するその心の方が、よほどゴッホに通じる物があるように思います。そこでのその心の動きは、生命にとってその目的となる、精神が自由になる運動そのものであるように僕は思うのです。
冒頭の「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」という言葉に戻れば、自分の店がどこまでもうけが必要か、でもどこから先は心意気を大切にしたいかに思い悩むその姿勢は、全ての人類が日々直面し、考えねばならない問題に対する一つの、その店主なりの答えであるのだと思います。もちろん、このような例を見て元気をもらうことや感心して教えられることがあったとしても、これを模範解答としたり解答例として真似をしても意味がありません。この問題への取り組みは、本当に私たち一人一人が自分で考えていくしかないことです。しかし、僕はこのような喫茶店主さんの心意気は、たとえばビル=ゲイツ(マイクロソフトの創業者。億万長者)と比べると、よほど確かな取り組みなのにあまりにも皆が気づかなさすぎているのではないかと思います。もちろんビル=ゲイツは彼なりに悩み、彼の巨額の私有財産を投じて「ゲイツ財団」を作っては世界の貧困問題に取り組もうとしているのでしょうが、ゲイツの言葉よりも、この喫茶店の張り紙の方が、よほど深く心に届く言葉になるのはただの偶然ではないと思います。何千億円寄付しようとももう二度と取り戻すことのできないものを、破壊してしまう前に大切にしていこうとするそのさしのべられた手の温かさを感じるからでしょうか。ゲイツの寄付は、彼がお金をそれだけ稼いだときと同じように、さらっと使われている感じがします。もちろん、彼がそんな寄付すらしない多くの日本の金持ちよりはまだまともであることは確かです。
たえざる外部にとっての、すなわち全体にとっての良いものを求めていく仕組みが自分の周りにあらかじめ存在することはまれであり、部分の利益を最大化することで結局全体や外部へとそのツケをしわ寄せする仕組みばかりがまわりに存在していることばかりであると思います。そのような有り様の中で生きざるを得ないことに心を痛めていようと、自分が心を痛めることで怠惰になればなる程に、既存の仕組みに従って生きるしかなくなっていきます。これが暴力の連鎖を生み出していきます。そのような全体に異を唱え、他のありようを模索していくその一つの姿が「お一人様での、お仕事お勉強等は、お一人席にて、お願い致します。」という文であるのです。昨今の政治状況に絶望を感じたくなる気持ちはわかりますが、そもそも用意してもらった仕組みの中で競争をすれば、それは用意をする側に賛成する方が強いのは当たり前のことです。そのようなできあいの機会の中に批判の機会があるなどと期待せずに、この喫茶店の店主さんのような言葉を一人一人が紡ぎ出しては、自分の心意気を大切に生きていくこと、それこそが社会全体の活力や批判力となるでしょうし、何よりも閉じた内部の利益を最大化することに腐心する人間達にはあらがいようのないやり方ではないかと思います。あきらめてはならないようです。 2007年4月9日



