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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

過去のパンフレットの巻頭言です。その3

「雑談」は、いたしません。

僕が小学生の頃見た映画で『ベストキッド(原題:The Karate Kid)』という映画がありました。うろ覚えなのですが、主人公の弱虫少年が、なにやら怪しげな老人になにやら怪しげな修行(車の洗車、床磨き、ペンキ塗りなど)を指示され、「こんなので強くなるのかなあ」と思いながら一生懸命練習しているのですが、実はその怪しげな修行がきちんとした力になっていて、見事に宿敵を破り大会に優勝できるというストーリーだったと思います。

この話に対して、教える立場にある先生方は、おそらく非常にうらやましい思いを抱かれる方が多いのではないでしょうか。たとえば個別指導の塾であれば、ふつうは指導報告書というものを教務に提出し、そこで先生方がどこまで生徒のことを把握しているかをチェックされます。また教え方のスタイル、内容などについて保護者の方からご要望をいただくこともとても多いでしょう。学校の先生はまだおおらかなのかもしれませんが、塾の先生がこのベストキッドの老人のように教えようものなら、即座に苦情がくるのではないでしょうか。(受験(空手)と関係ないことを教えるな!などなどです。)
 それに引き替え、嚮(きょう)心(しん)塾(じゅく)ではご父母のご理解をいただき、かなり好き勝手にやらせていただいております。一人一人の塾生の勉強時間もとても多いのですが、僕が塾生一人一人と、一見たわいもないような雑談をするように見える時間も多いと思います。しかし、そのように見えようとも、僕自身は塾を運営していく中で、「雑談」をしているつもりは全くないのです。
 たとえば、子供たちの自由な精神に「何も話さず、ひたすら勉強しなさい」ということを強制するのは、「風邪を引かないように、ビタミンCの錠剤だけ飲み続けなさい。」ということと同じであると考えています。サプリメントだけに栄養を頼ることが人体にもたらす害について、ようやく最近警鐘が鳴らされつつありますが、食事から摂取していた栄養をその栄養分の錠剤でまかなおうとする、というのは人体の化学的過程の一部のみしか見ない視野狭窄であるのはわかりやすいことです。
 そして、人間が関わる活動の中で「それは受験に関係がない」などと明言できるものの方が少ないと僕は考えています。先の『ベストキッド』の例を挙げれば、空手の本質を深く理解している老人は、空手とペンキ塗りとの間の共通性を見抜いた上で、ペンキ塗りをやらせていました。「ペンキ塗りなんか、空手と関係ない!」という矮小(わいしょう)な思いこみからその修行を放棄する人と、「なるほどあのペンキ塗りもこの空手の防御につながっていたんだ!」という発見の感動を味わえる人と、どちらがより自分自身を向上させていこうという意欲をこれからも持ち続けていけるかは、明白なことです。

 もちろん、このように書きますと「こっちはプロなのだから指導方法に素人(しろうと)の親が口を出すな!」「accountability(アカウンタビリティー・説明責任)なんて知ったことじゃない!」という主張だと思われる方もいらっしゃると思います。しかし、嚮心塾はそのような塾ではありません。僕自身、教えていく中でお父様お母様からのご指摘で「確かにそこを考えていかねばならない」と教えられてきた経験は山ほどあり、これからも必ずあるでしょうし、なければならないと思っております。そしてそれを必要に応じて指導に反映していき、お子さんにとって、最善のことを尽くしていきたいと思っています。説明のできることは、ご要望があれば徹底的に説明をしてきたという自負もあります。
しかし、僕の指導方法のすべてを説明することはできない、というのもまた厳然たる事実です。もちろん、僕の指導方法の中でaccountable(説明可能)な部分に関しては、徹底的に説明いたします。しかし、unaccountable(説明不可能)な部分に関しては、「ご信頼いただきたい」というよりほかに仕方がありません。ただ、もしこの嚮心塾という塾が塾生一人一人の人生に何らかの意味で支えや鍛錬となることができているとしたら、このunaccountableな部分の方がaccountableな部分よりもはるかにその支えとなれているのではないか、と思っております。
 「碁は人間が打つものだから、人間自体のレベルをあげなきゃだめだ。」というのは囲碁の藤沢秀行名誉棋聖の名言です。受験勉強において成果をあげるためであっても、様々なアプローチが必要な場合がとても多いと考えています。その鍛錬(たんれん)の場としての、嚮心塾に参加していただけることを心より望んでいます。

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過去のパンフレットの巻頭言です。その2

質より量?いえいえ、量から質です。

「何であの子は部活もやっててあんなに忙しそうなのに、成績もいいんだろう。」という疑問を持ったことはありませんか。勉強には何かしら秘訣というものがあって、それがわかっている子は短時間で大きな成果をあげ、わかっていない子は一生懸命やってもなかなかうまくいかない。そのように考えがちであると思います。それを心配して親御さんが 「この子に勉強のうまいやり方を教えてください。」という思いから、学習塾にお子さんをゆだねるというケースが大半だと思います。

そのニーズを踏まえて、いわゆる学習塾だけでなく、効果的な勉強法の紹介本、あるいは教材販売まで、「この秘伝の方法をマスターすれば、誰でも成績が上がります。」的なキャッチフレーズが多いものです。最近では脳科学者の茂木健一郎さんの本も有名ですね。しかし、僕が教えてきた限りでの結論から言いますと、勉強にうまい方法はありません。いえ、正確には魔法のようにうまい勉強方法をお伝えすることはできません。

 このような言葉を無責任に感じられる方も多いかと思います。「うまい勉強方法を子供たちに伝えることこそが学習塾の仕事じゃないか。」と。そして、もちろん嚮心塾でも、必死に子供たちの努力が成果へと結びついていくための勉強法を一人一人について模索し続けています。しかし、一人一人の理解の中で、「なるほどこの基本的なところがわかっていなかったので、全体としてよくわからなかったんだな。」という穴を発見し、埋めていくことはできるものの、何らかのうまい方法を伝えることで全体的にうまくいく、ということが起きるとはほぼ期待していません。一人一人に対して地道に一つ一つ、理解していないところの穴を埋めていき、そしてそのように穴が埋まっていく中で、各人の中で理解がつながっていくことを待つしかないと思っています。
というのも、やはり勉強に限らず、「やり方(方法)」というのは、一つの残骸にすぎないのですから、誰かにとって本当に有効な方法であろうと、それが自分の創意工夫の中から生まれていないのであれば、やはり身に付かないものです。「やり方のコツさえつかめばあとは何とかなるでしょ。」とお子さんに期待するのは、ある意味乱暴で残酷なことでさえあると思います。

 ですから、嚮心塾ではうまいやり方を最初からバンバン教えて、「ほら成績上がりましたよ。」というたぐいの指導をいたしません。まずは、塾に来るのが楽しいと思えるようになってもらって、できる限り塾で勉強をする習慣をつけていただきます。その中で、各塾生の自分なりの雑な勉強方法に対して、丁寧にしかし断固として訂正をしていきます。その意味では、「こんなに塾に行ってるのに、成績が上がらない。一体塾で何をしてるんだろう。」という疑問もよくいただきます。しかし、その壁を越えて通い続けていただいているお子さん方には「勉強するのが楽しい。」とか「なるほど。こうやって勉強していくといいんだね。」という発見と、それに伴う成果がでてきています。

 アンリ・ベルグソンは「人間にとって質と量との違いは注意力の違いだ。人間があるものを注意して観察をするとき、それは質を伴い、その注意力が減退するときその観察対象をもはや同質のものの繰り返し、すなわち量としてしか感じない。」と言いました。しかし、人間はそもそもそこに存在しないものに対して、注意を働かせようとするだけの想像力を持ちにくいものです。たとえば長い時間、自分が勉強を重ねてもなかなかにわからないという苦しみを抱えて初めて、それをどのようにしたらよいのか、という意識が働き始めます。そこで初めて、「量」は「質」への道を歩み始めるのです。
 
 言葉を換えれば、嚮心塾とは一人一人の生徒と教師との失敗の場です。苦労して努力しては、失敗に終わり、「なぜこのような失敗になってしまったのか」を徹底して反省しては努力していくことで、その子にとってよりよい勉強方法やがんばり方を見出していきたいと思っています。10勝0敗の華麗ですが脆弱な勉強法よりは、100勝100敗の泥にまみれたからこそ力強い勉強法を鍛えていきたいと思っております。そのような歩みの場としての嚮心塾に、興味を持っていただけると本当にうれしいです。                 2008年10月3日
 

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過去のパンフレットの巻頭言です。その1

中学受験に、お金を使いすぎてはいませんか?

 受験にお金をたくさん使うことで、「苦しいけどがんばっている」と満足していませんか?
 親は、どんなに苦しい思いをしても、子どものことを支えてあげたいと思うものです。しかし、それこそが高い料金の塾につけこまれる原因となっています。その結果が納得のいくものになれればいいのですが、塾からは放ったらかしで、イライラのたまる、お金を使うばかりの後悔の残る中学受験をしてしまいそうになっていませんか?

 参考までに、嚮心塾での受験で、受験生がこの6月から来年の1月に受験をするまでの費用を計算してみましょう。
6月初めから1月末までの8ヶ月間で
入塾金20000円…①
月謝 33000円(通常月)×4+36000円(7,8,12,1,月)×4=276000円…②
合計(①+②)29万6000円となります。(平均で、月に37000円です)

 一ヶ月あたりとしては、高いように思われるかもしれませんが、この他には教材費、夏期講習費、冬期講習費などは一切かかりません。(模試は各自でお申し込み頂いておりますので、実費がかかります。)
塾によっては、6年生の夏期講習費だけで20万円弱ほどするところが多いです。また夏期の合宿で十万円前後というところもあります。それを考えれば決して安いとは言えないものの、比較的納得のいく金額なのではないでしょうか。

 もちろん、大切なお子さんの大切な一回きりの受験ですから、お金に糸目をかけず、後悔のない受験をさせてあげたいと思うのが親心であると思います。特に中学受験では、この傾向が強くなります。しかし問題は、

「お金をかければ本当に質の高い受験ができるのか。」

ということです。

 たとえば講師の質という観点からみると、いわゆる大手の個別指導塾では指導歴の長い講師を雇う事はできません。単純に考えて、生徒に一対一で講師をそろえる、あるいは少人数授業で教師をそろえる、というためには講師の頭数をそろえねばならない分、一人一人に高い給料を講師に払うわけにはいかなくなります。大手であれば、大教室での大人数授業にて、初めて質の高い講師を高給で確保する事が出来るわけです。
個人経営の個別指導塾だからこそできる、高い指導の質とリーズナブルな月謝の両立。同じ受験生でも一人一人の勉強の進み具合に合わせて練られる個別のカリキュラムと、それがうまくいっているかどうかの絶えざる見直し。それが嚮心塾での受験であるとお考え頂ければ、正しいのではないかと思います。

 なぜ嚮心塾ではこのような料金設定をしているのか。それは、実際には、中学受験が終わってからがお子さんにとっては本当に大変であると考えているからです。公立の小学校とは違い、私立の中学校は小学校終了時点で勉強のレベルが近い子達が集まるわけですから、中学入学後にさぼってしまえば、結局それ以上のびる事はなくなります。実際に僕が家庭教師をしていた頃にも、中学受験に全力をささげすぎて、入学後に「燃え尽き症候群」のように、なってしまい、せっかく入った中学をやめてしまうという例も見受けられたのです。
 教育とは、勉強習慣、生活習慣、思考習慣の改善です。勉強への悪い取り組み方とは、言ってみれば生活習慣病ですから、それは短期間に改善出来るものでは決してありません。だからこそ、ねばり強く丹念に改善を続けていくことと、それが持続可能なコストであることが必要であるのです。(嚮心塾では中学入学後も引き続き塾に通い続けていただくご家庭も多いです(非受験学年は24000円/月~となっております))。受験生の一年間にバカ高い金額をとる塾は、「火事場泥棒」的なのですが、しかし残念ながら、そのような「火事場泥棒」にがんばってお金を払うことを「親の愛情」だと親御さんが思いがちであることが、そのような「火事場泥棒」がはびこる原因であるように思います。

 このように書くのも、他の塾への批判だけではなく、自分自身への反省も込めてのことです。僕が家庭教師センターに登録していたとき、僕の一時間あたりの指導料金はどんどん上がり、最終的には1時間で15000円というとんでもない金額になってしまいました。このような高い料金設定にもかかわらず、仕事の紹介は切れる事がありませんでした。やはり火事場泥棒的になっていたわけです。
 そのことへの反省も含め、「良質の指導を低料金で」ということを実現するために自分でこの塾を開きました。所属していた家庭教師センターの社長さんから、「うちも塾業務をやりたいので、ぜひ塾長として働きませんか。」ともお誘いを受けたのですが、それでは「低料金」ということを実現できないと思い、お断り致した次第です。

 開塾以来、3年が経ちました。おかげさまで、気に入って通って頂いている方も多く、本当に有り難いことであると思っております。

 
 親が子どもに愛情を持ち、どんなことでもしてあげたいと思う、それは本当にすばらしいことであると思います。しかし、高いお金を無理して出すことが本当に子どもへの愛情であると言えるのでしょうか。高いお金を無理して出すことで「私、がんばっている」と思いこむのではなく、子どもにとって本当に良い教育とは何かを絶えず考え抜く姿勢こそが、大切なのではないでしょうか。
 嚮心塾では無料入塾(1週間)をいつでも受け付けております。まずは今の塾と併用で通われてみてください。違いを感じて頂きたいと思います。当塾では勧誘も引き留めも一切致しません。本当に良い塾を選び、後悔のない受験生生活を送って頂きたいからです。また、入塾を前提とされなくても現状の受験体勢に対する、セカンドオピニオンや受験相談も(1回60分3000円にて)受け付けております。お問い合わせ頂ければ、有り難いです。

※嚮心塾は中学受験以外にも、小学生、中学生、高校生、大学生、大学院受験の社会人まで、様々な目的の様々な生徒が通っている塾です。ご興味をおもちでしたら、お問い合わせ下さい。詳しくご説明致します。
     嚮心塾(きょうしんじゅく)

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最近のさぼり状況について。

まとめて、今までに書いた文章をのせました。文章を書く、というのにはどうしてもエネルギーがいるため、最近は書こうと思ってもなかなか最後まで書けずに、途中で断念してしまうことが多いです。書きたいテーマについては山ほどたまっているのですが。また、このブログをきっかけに、書いていきたいと思っています。

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通信第14号

バイオエタノールについては、もてはやされ、さらにその問題点が指摘され、ということが一巡した感じはありますが、それが化石燃料に頼り続けるという我々の文明や歴史自体へのreviewにつながっていないのは依然として同じであると感じています。

第14回 そんなの解決じゃねぇ!(小島よしお風に)

いやぁ、お久しぶりです。不死鳥のように復活!なのですが、半年もサボってしまって、すみませんでした。

 さて、タイトルとどうつながるのかをご説明しないまま、まずはバイオエタノールについての話から始めちゃいます。バイオエタノールって何ぞや、という方に説明を簡単に致しますと、バイオエタノールとは植物由来の燃料で、トウモロコシ、サトウキビ、その他小麦の収穫後の茎などから作ることができるそうです。そのバイオエタノールを、それを利用できるエンジンの付いた自動車に入れると、ガソリンの代わりになるというすぐれもので、原油の値段が現在のように高騰したり、原油のとれる量自体に限界があることがわかっている現在、かといって燃料電池(水素を空気中の酸素と結びつけて水にすることでエネルギーを得ます)はまだまだ実用可能となるにはほど遠いこの現状の中、当座の策として急浮上してきたのでした。(バイオエタノール先進国のブラジルではもうずいぶん前から普及しているみたいです。僕も10年以上前にマンガでそれを読んだ覚えがあります)さらにこのバイオエタノールにはもう一つ「良い点」があります。それはその原料となる植物が成長する過程でCO2(二酸化炭素)を吸って光合成をしてきているので、バイオエタノール自体は燃やせば燃やす程CO2を排出するものですが、今の地球温暖化防止の枠組みでは、その排出量から原料となるサトウキビなりトウモロコシなりが生育するのに必要としたCO2を引いて計算することができるのです(この計算方法を採用していて良いのかは、はなはだ疑問が残るものではありますが)。即ち、バイオエタノールを使えば、その生育する間のCO2吸収量分だけ石油や石炭などの化石燃料を使うよりもCO2の排出量を「減らした」ことになるわけです。このような理由からバイオエタノールは燃料不足と温暖化対策の救世主として脚光を浴びています。

 もちろん、新しいエネルギーを様々に工夫していこうとすることは、とても難しい問題であるが故になかなか完全な解決策など見つからないのは当たり前のことです。その欠点をあげつらうだけで、実際にエネルギーが足りないという問題を解決しようとしないのは無責任でしょう。しかし、その点を考慮しても、やはり僕はこのバイオエタノールには大きな問題があるように思えてしまいます。まず考えねばならないのは、食料にまわすことのできる穀物を燃料に用いるというそのことの意味です。単純に考えて、燃料としてのバイオエタノールを用いる人々(即ち自動車を用いる人々)よりは、トウモロコシを食べる人々の方がより貧しいのは明らかなことです。だとすれば、バイオエタノールを人間の食べられる穀物から作れてしまうということは、貧しい人々の日々の糧を奪っては、先進国の人々の自動車の燃料になるということにはならないでしょうか。食物と燃料とでは明らかに食料の方が人間が生きていくのに必要でしょうが、しかし、その当たり前の優先順位よりもむしろ、どちらにお金があるのかが優先されるのが市場社会というものなのですから、燃料としてのバイオエタノールを先進国が安く買いたたいたとしてもまだそれが、市場にはのらない半自給自足社会での食料としての穀物の価格よりも高くなるということにはなり、結局食料用の穀物が減っていってしまうというおそれがあります。最近の穀物価格の上昇はこの懸念がそれほど取り越し苦労ではないことを示しているように思います。
 次に考えねばならない点は、たとえば第一の問題点が何とかクリアできて、人々の食料生産をバイオエタノール生産よりも必ず優先するという仕組みを国際的に何とか作ることができたとします(これ自体がかなり不可能に近い話ではありますが)。そののちに、小麦を収穫後の茎など、本来は廃棄するものからバイオエタノールが作られるのなら、それはそれで食料不足をさほど招かずにうまくいくのではないか、という主張もなされると思います。しかし、このような取り組みがうまくいったとしてもそれは第二の問題、即ちそれが堆肥として地味を肥やすために今まで使われていたのであれば土壌の荒廃を招くという結果を招いてしまいそうです。植物を残さず有効利用しているつもりがやがて不毛な土地ばかりができてしまい、そもそもその頼みの植物さえ生えてこなくなってしまうという笑えない結果を引き起こしてしまうかもしれません。石油が買えず、燃料の足りない途上国限定の燃料としてバイオエタノールを使うという心ある取り組みも生まれていますが、石油を買う事ができないために燃料不足に苦しむ途上国でバイオエタノールを作るということは、確かに先進国でそれを用いること以上に有意義ではあるものの、しかし結局は途上国の土壌の荒廃や森林の伐採を招いてしまうのではないでしょうか。途上国には石油が回らない仕組みそのものを変えて行かねばならないと思います。     
 第三に、そもそも石油や石炭、天然ガスという化石燃料と呼ばれるものは生物の死骸が長い年月を経て高圧や高温によって変質してできたものであるのだとしたら、バイオエタノールを作るためにエネルギーを費やしながらそれをエネルギー源として使っていくというのは、今までは自然の力で作られていたエネルギーを今度は人間の使わせてもらっているエネルギーを使って作り出そうとするということです。それは少なくとも石油や石炭、天然ガスを採掘するよりも遥かに少ないエネルギーで植物をバイオエタノールに変えられるのでなければ、エネルギー収支が赤字になってしまうでしょう。仮にそれができたとしても、何か地球ができてから今までに死んでいった生命でできたその貯金を使い果たしそうになってきたので仕方なくその場で生命を殺してやりくりをしているようで、それが解決策になっているようには僕にはどうも思えません。
 そもそも、化石燃料を使い果たすとはどういう意味を持つのかについて、私たちは考えていかなければなりません。生物の死骸から我々の今用いている化石燃料が生まれているのだとしたら、我々は親の遺産を食いつぶすように地球の生命のあらゆる歴史を食いつぶしているわけです。それが足りなくなったから今生きている他の生物を燃料に変えていこう、というのでは他の生物に対して配慮がなさ過ぎるように思います。

 
 このように、バイオエタノールが解決する問題点とバイオエタノール自身が招く問題点とを考え合わせてみると、僕は学校で質量保存則やエネルギー保存則を習ったとき、「あ、つまり僕がどのように生きようとどんなにがんばろうとそれらは全て徒労でしかないということなんだ。」という深い絶望を感じたことを思い起こします。もちろんそれは、「閉じた系」という考え方が人間の仮説にすぎないということを忘れて現実のありようであると見なすという幼稚な思いこみではあったのですが、しかし、そのことが僕にとってはとても考えさせられるきっかけになったことは確かです。そして、現在の人類に足りないのはひとえにこの絶望であるようにも思います。死によって全てが終わるという言説もまた、一つの仮説に過ぎないのかもしれません。しかし、その仮説は僕にとっては、死後の世界に天国や地獄であれ、六道輪廻であれ、何らかの因果応報によって自分にとっての世界が続いていくと考えることよりも、自分の人生にとって遙かに実りの多い仮説であるように感じます。また、宇宙に目をやれば、もしこのどこまでも広がり続けるとされる宇宙の中で意識を持つ生命体が私達だけだとしたら、私達はどれほど大きな責任を負っていると言えるのでしょうか。もちろんこのように考えることから、その「他の存在者への優越」を誇るという幼稚な姿勢も、最初は現れるでしょう。しかし、その後に来るものはどうにもしようのない孤独と絶望、そして責任の意識でしょう。生命の誕生が「意識」という第二の生命を誕生させたのがただ我々においてのみであるとしたら、我々は全宇宙のその存在を費やしてでも、その与えられた責任とは何かを考えざるをえないわけです。人類は、その責任に、ひどく耐えかねている。それが「宇宙開発」の隠れた動機なのではないかとさえ僕は考えます。

 そして、「問題に取り組む」とはどういうことかを考えて行かねばならないと思います。たとえば以前、僕が尊敬している方の一人が、自分の子どもが小さい頃にさんざんに不注意でガラスのコップを落として割ったことをふまえて、ガラスや陶器ではない割れないコップをお子さんたちに用意した、というお話を聞いたことがあります。その話を聞いたとき、僕はその方の創意工夫とねばり強い努力に本当に感心するとともに、「しかしそれは問題の解決ではない。」(そんなの解決じゃねぇ!)と強く思いました。それではガラスのコップを落として割ってしまっている子どもたち自身がそれを深く反省し、落とさないような人間になるわけではないからです。
 また以前、この通信の第5号でもご紹介した無洗米も、あのフィギュアスケートの荒川静香選手の広告でおなじみの金芽米の会社の社長さんが米のとぎ汁が海を汚しているということに心を痛めて開発したものだそうです。その社長の心の動きや創意工夫の努力には本当に頭が下がります。しかし、それはやはり問題の解決ではない(「そんなの解決じゃねぇ!」)のです。なぜなら、それは「水(下水道)に流してしまえば、後は誰かが何とかしてくれるだろう」と無責任に思いこむ私たち自身の無責任さ、一旦水道が出来てしまえばそれの来し方行く末を考えない私達の無責任さなどがそれによって何か変わるわけではないからです。
 このように小島よしおさん風に「そんなの解決じゃねぇ!」と言ってばかりの僕自身もまた「そんなの解決じゃねぇ!」ことに気づかず、大失敗したことも、もちろんたくさんあります。たとえば、去年の夏頃、僕は今いる自分の娘(当時三歳でした)の下に、もう一人子どもがほしいと思っていました。なぜならうちの娘はとても天真爛漫なところはよいのですが、弱いものへの思いやりがいまいち欠けていると思っていて、そこで下に弟妹ができれば、その点が改善されると思ったからです。そのことを僕の師匠に話したところ、「そんなの問題への取り組みじゃねぇ!」と喝破されました。この場合でいけば、たとえそのことで上の娘が弱い者への思いやりをもてるようになったとしても、僕の娘が目の前に弱い者がいなければ弱い者への思いやりをもてない、あるいは僕が自分の娘に弱い者への思いやりを伝えられない、という問題の解決には決してならないのでした。
 
 バイオエタノールに話を戻せば、先進国が資源を使ってしまって途上国にまわらないのであれば、それをまわるようにしていかねばならないですし、そもそも燃料が足りないのなら、使う量を減らして行かねばなりません。それらの根本的取り組みは、確かにとても困難であるでしょう。しかし、他の解決方法を探ることは結局その問題の解決にはならず(「そんなの解決じゃねぇ!」)、その問題を先送りしていくだけなのではないでしょうか。
私たちは、誰か他の人のブレイクスルーだけでは、何も本当には自分の問題が解決しないということを自覚しなければならないのだと思います。金芽米の会社の社長さんのブレイクスルーは、彼にとって一つの問題への取り組みと解決法であったこと、そしてそれがこの社会にとってこの上もなく貴重で有り難いものであったことは間違いがありませんが、しかしその成果に私たちが頼りさえすれば問題が解決すると考えるのはやはり、問題を先送りにしてしまうことになる(「そんなの、解決じゃねぇ!」)ことになってしまいます。アダム=スミスのいうような「分業に沿って、各々が各々の持ち場で努力してさえいれば自然とよりうまくいく」という考えはまた、彼の意図を超えて、「本当は自分に関わる問題でも自分が解決しなくていいかもしれない」という淡い期待を生み出してきたのかもしれません。しかし、その淡い期待を捨てなければ、一つ一つの問題への真の取り組みは始まらないように思います。
 そのような先送りの歴史の一つの成果として、このような現在の人間の文明が発達してきたのかもしれないとしても、また僕自身も先にご紹介したようにそのような問題一つ一つをがっきと受け止めることを忘れてしまうという鈍感さの中に沈んでしまうという過ちも多いのですが、それでも、自戒を込めて、小島よしおさんのように「そんなの解決じゃねぇ!」と言っては、本当の解決とは何かを考えていかなければならないと思っています。先送りによっていくら他に発達する部分が増えようと、それは肝心の問題については何の解決にもならないということをもういくら何でも気づかねばならないほどに、私達は犠牲を重ねてきてしまっています。
 どんな問題も他の誰かに任せておくだけではだめだというのは、一見面倒ですが、しかしそれはどんな問題も自分に出来る事が何もないわけではない、という事でもあります。沖縄の反米軍基地闘争に携わった阿波根昌鴻さんが世界人権連盟議長のボールドウィンさんに「核戦争を止める方法がありましたら、教えてください」と聞いたとき、彼の「みんなが反対すればやめさせられる。」という答えに心から納得したそうです。その単純な答を、「そんなこと誰でもわかる」と鼻で笑うことなく、深く感じ入る事の出来るその篤実さこそが、むしろより深い賢さの現れであると思います。
      2007年12月6日

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