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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「勉強が嫌い」という言葉の意味

「この子は勉強が嫌いで…」ということで塾に通い始めてもらった生徒さんの中で、嚮心塾に通いながら、勉強を嫌いのままでいられる子を僕はまだ見たことがありません。もちろん、お力になれないまま退塾する子もわずかながらいるのですが、そのような子達はほとんどが塾にこなくなってしまう、という形をとります。「塾に通っているのに勉強をしない」という状態はほぼありません。

このことについては、実際に通い始めた子の親御さんにはとても不思議がられます。「あの塾は結局塾で遊ばせているのでは?」と疑いをかけられたことも、一度や二度ではありません。(実際に塾を見学に来られて、塾生の皆が僕の目を恐れるのではなく、自分から勉強に打ち込んでいる姿を見て、驚かれる方も多いです。)

どうしてこのような現象が起きるのでしょうか。僕は、「勉強が嫌い!」という子達の足りない言葉を補ってあげると、「(何の役に立つかも分からないし、内容もわかりにくい)勉強(を強制されるの)が嫌い!」ということだと考えています。ですから、その「何の役に立つかも分からない」という部分に対して、しっかりと悩んだ上の自分の考えを説明していく努力を教え手が怠らず、「内容もわかりにくい」という部分に対しては、教え手が一通りの説明の仕方で満足してそれを繰り返しては「分からないのは君のせい」と突き放さずに、分からなければ様々な角度からの説明を考え、そして「強制される」という部分に関しては、できる限り強制をしないでその勉強の必要性に気付いてもらえるように、という努力をしています。

もちろん、これは一般論に過ぎませんので、ときには、強制が必要なこともあります。また、これらの方法にはやはり手間がかかるために、即効性はありません。しかし、まずは塾に来ることが楽しくなり、次に勉強自体に対しても「楽しい」とまでは行かなくてもはるかに前向きになれることが多いのです。

人間の言葉というものは、不完全なものです。「勉強が嫌い!」という子供達の言葉を「いいから、やれ!」と押さえ込むのではなく、彼らが嫌っているものが実は勉強そのものではなく、その「勉強」に付随する様々な抑圧や偏見であることに徹底的に反省を加えた上で、勉強をやらせる学校や塾などの大人には問題があるとしても、勉強には(それほど)罪がないんだよ。ということを一人でも多くの子供達に理解してもらいたいと考えています。そのような経験こそが、子供達の「ものを見る目」を鍛えていくのではないか、と考えています。

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過去のパンフレットの巻頭言です。(その7)

難関大学受験なら、嚮心塾!?

 答えはNoです。嚮心塾には、毎年、様々な学力の子達が通ってくれています。また、通い方も、難関校を目指して勉強する子から、学校の勉強の補習をする子まで様々です。よく、補習塾と進学塾を分ける傾向がありますが、補習を積み重ねていく先に、進学が狙いとしてないのであれば、やはりそのような補習はモチベーションが上がらないでしょう。逆に難しい学校を受ける力のある子であっても、意外と出来ていない基本的なところを補習すべきことも多いです。その意味では、「補習塾」「進学塾」というくくり自体が、わかりやすさを求める顧客のニーズを感じ取って、塾業界が作り上げた商品なのかもしれません。
 とはいえ、そのように分けることは、塾の側から見ると、計り知れないメリットがあります。一般に、難関校受験をする子を教える先生に必要なものは高い学力であり、学校の勉強の補習をする子を教える先生に必要なものは生徒に対する忍耐力です。そして、この両者を兼ね備えている先生を確保するというのは、きわめて難しい条件であるのです。高い学力を持つ先生ほど、辞書や教科書を引けば分かるレベルの生徒の質問に対しては自然と冷淡にならざるを得ません。ましてや、「こんなの、覚えられないよ~」という不平に対しては、「努力して覚えろ!」と一喝したくなってしまうでしょう。逆に、生徒に対する忍耐力を持ち親身になれる人は、普通勉強が苦手(といってもトップクラスではない、という意味です)であることが多いのです(目の前の勉強に集中して学力を身につけてきた人は、他の人のことを考える暇がなかったからです)。

 嚮心塾では、そのどちらの生徒さんも教えていて、学校の補習レベルから東大理Ⅲレベルにまで対応しております。もちろん、「私は高い学力と他者への忍耐を兼ね備えたすばらしい教師です。」などというつもりは(少ししか)ありません。その両方のレベルの生徒をともに同じ場で教えることは、教える側にとっては苦痛の大きなものであるのに間違いはなく、塾を開いて以来、日々悪戦苦闘をしては、自らの力不足を猛省する中で、少しずつ成長を感じる毎日の5年間でした。しかし、勉強をする子供達にとっては、この場が本当にかけがえのない場となっていることを強く感じているため、この形式をより鍛えて、守っていきたいと考えていますし、そのために僕自身ももっと勉強を重ねていきたいと考えております。

 そのように考えるのは、僕自身の苦い反省があるからです。僕の通っていた高校は東大に現役で毎年100人受かるような受験高校でした。そのため、受験生になると「東大にあらずんば、人にあらず」的な雰囲気が蔓延していました。その当時、同級生の一人が慶應大学に進学することになり、「あんなバカばかりの大学に行ったら高校の時みたいにまともに話し合える友達なんか作れない。」と泣いていたのを今でも覚えています。そのとき僕は、その友達の偏見に対して「その考え方はよくない!」と反論をしましたが、しかし、僕はそのような偏見を表立って表明することはよくないことだとわかっているだけで、僕自身が同じ偏見を持っていなかったかと言えば疑問です(現に僕は私立大学を一つも受験しませんでした)。高校生の時の僕は、その友達を批判しながらも、東大に入れる程度の学力が賢さの証明であるかのようにいばったりさぼったりする人間はどうしようもなくアホだけれども、しかし、「東大に入れる」というのはやはり賢さの最低限の条件なのでは、という浅薄な認識であったと思います(もっともその認識は入学後3日くらいで修正せざるを得なかったのですが)。
 人は、環境に染まります。その環境によって形成された自分の価値観を否定することは自分の人生の一部、あるいは全部を否定することだからこそ、苦痛を伴うのです。しかし、そのように環境によってのみ形成された価値観を自己の価値観とすることは、偏見に基づいた大きな暴力に、知らず知らず加担することになってしまうと思います。あのときの彼や、僕のようにです。

 教える仕事に、15年程携わって、今では確信を持って言うことが出来ます。
一人一人の子供達に多様な人生があるが故に、一人一人の受験にも多様な受験があり、「意味のない合格」もあれば、「意味のある不合格」もあるのだということを、です。また、同じ「東大」や「慶應」でも、意味のある「東大」と、意味のない「東大」、意味のある「慶應」と意味のない「慶應」がある、ということを、です。その上で、「意味のある合格」を目指して、徹底的に鍛えていく塾でありたいと考えております。

今年の合格実績を「合格実績」のカテゴリに載せておりますが、この中には偏差値の高い学校も低い学校もあります。しかし、どの塾生の受験に関しましても、受験勉強を一生懸命頑張ることを通じて、塾生と一緒に苦闘しなかったことはありません。その意味で、第一志望に合格できた塾生もそうでない塾生もいますが、どの結果に対しても、僕自身は心の底から彼ら彼女らのがんばりに誇りを持っております。         2010年3月11日

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過去のパンフレットの巻頭言です。その6

当塾では、指導方法に日々悩んでいます。

 広告の冒頭からこのように言うのもおかしな話なのですが、僕はこの「広告」というものが、どうにも苦手です。広告のおかげで様々な方にこの塾の存在を知っていただけるとしても、そもそもその「広告」するのに値する自分や塾であるのか、という反省がついてまわります。
 しかし、どの学習塾・予備校の広告でも、その塾の指導方法に非常に自信がありそうな広告が多いように思います。もちろん、プロとして仕事をしている以上、それなりの方法論の蓄積がないのではやはり困りものです。しかし、それまで様々な生徒を教え、実績を上げてきた先生であっても、次に新たに出会う生徒に対して今までのノウハウだけでその生徒を鍛えていくことが出来るかどうかは、決して自明のことではありません。それなのになぜ、新しく来る生徒を鍛えることに対して「自信」をもてるのでしょうか。
 嚮心塾では「必ずお子さんの成績をあげます!」とか「お子さんを絶対に志望校に合格させます!」といった、威勢のいい約束をご説明の際にいたしません。それは、一人一人の力を伸ばし、志望校に合格してもらえるようにもしていく、ということがどれほど難しいことであるかについて、決してたか多寡をくくってはならないと思うからです。それとともに、指導方法についても、今までの指導経験から大まかなお話は出来ますが、実際に勉強をしていく中で不断に修正を繰り返していきます。その意味で、当塾では一人一人の塾生の指導方法に、絶えず悩み続けています。それはプロとして恥ずかしいことでは決してなく、むしろ本当のプロであれば必要不可欠な姿勢であると考えるからです。(もちろん、それで十分ではないにせよ、です。)
 それ故にいつも説明に苦しむのが、当塾のカリキュラムについてです。入塾の際に一人一人にあわせて大まかな枠組みを作るものの、塾生に日々通っていただき、指導を続ける中で、教えている側にも日々発見があります。その新たな発見をもとに、今までこちらの気付いていなかった、鍛えるべきポイントを織り込み、指導していくため、当初に決めた勉強の優先順位を覆して、「これがわかっていないのなら、そこまでさかのぼらなきゃ!」と復習していくケースが多いのです。僕は教えれば教えるほどに、人間というのは分からないことが残っているうちには決して新しいことを深く理解することが出来ないのだということを痛感させられています。わかっていないところを、学ぶ側はもちろん、教える側も決して避けて通ることはできないのだと考えています。ですから、このような勉強方法が力をつけていただくための結局最短距離であると思いますし、その結果は当塾の合格実績にも現れつつあると思います。
 もちろん、嚮心塾に通っていただいたすべての方にご満足いただいたわけではないこともまた、事実です。しかし、一生懸命に通っていただいている塾生に、何とか力をつけてもらいたいという思いをあきらめたことは一度たりともありません。塾生が、自分を鍛えるために悩み続けるのなら、教師もまた塾生を鍛えるために徹底的に悩み続けたいと思います。そのような研鑽の場としての嚮心塾に、興味をお持ちいただけるとうれしいです。 
                   2009年6月8日

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過去のパンフレットの巻頭言です。その5

それでもやはり、勉強をしよう。

 受験も間近に控え、塾では受験生達が、日々必死に勉強に取り組んでいます。一口に「必死」といってもその取り組み方は一人一人異なり、脇目もふらずまっしぐらに取り組む子もあれば、つらい勉強に嫌気がさしながらも何とか自分を勇気づけてがんばっている子もいます。
 そのように一人一人の勉強に対するスタンスが違う中で、同じ学校を受けるのであればペーパーテストで測れる実力に関しては、同水準のものが要求されるわけです。指導していてやはり感じるのは、この受験というシステム自体がどれほどの才能を取りこぼしているのか、というその一点に対する苦い反省です。測られる部分だけを特化して鍛えることに疑念を持たなければ持たないほどに、受験には向いているわけです。むしろ受験の中では計りえない部分に人間性の本質を感じる鋭敏な子達は、初めからこの受験社会の中ではハンディを負っています。
 もちろん、現行のテストを批判するだけでは仕方がありません。あらゆるテストが不完全であり、人間のごく一部しか計れないのは、当たり前のことです。問題は、その認識を皆がある程度共有しているかのように思われていながら、実はそうでもない(つまり、「測れている」と思っている)というところにあると思います。それはテレビのクイズ番組によくいる東大・京大出身のタレントを期待する視聴者としての我々の態度(「東大出て頭が良くてもあれじゃあ…」という見方をしているだけで、「東大出なんて頭が悪い!」とは言い切れない自信のなさ)にも現れているのではないでしょうか。

 そもそも、現在の子供達が以前ほどには勉強をしなくなったのは、この時代状況もあると僕は考えています。たとえば、僕自身が小学生だったのは25年前ですが、その当時、今と同じようにこのようにたくさんのゲーム機と携帯電話、インターネットがあふれていたら、活字を追って懸命に内容を理解する楽しみなどを身につける前にそれらの電子機器の用意された楽しみを追うことに忙しく、勉強も読書も手につかなかったのではないかと思います。
 さらには、「受験勉強をしていい大学に入れば安定した就職ができる」という神話自体が幻想であることはだいぶ明らかになってきていると思います。その瀕死の神話の最後のものとして、現在の大学受験では医学部志望熱が過熱しているわけですが、それもいつまで続くでしょうか(公認会計士は、合格者の人数を増やしたら早速の就職難だそうですが)。このような状況の中で、子供達に「勉強をしなさい。そうじゃないと将来生きていけないよ。」という言葉にどれだけの説得力があるのでしょうか。大人達が自らの個人的な成功体験(それは大いに、その当時の時代状況に依存しています)にしがみつき、「自分は勉強したからうまくいった。おまえもそうしろ。」といわれても、そもそも初期条件(ゲーム、ケータイ、インターネット)も違うわけですし、ましてや、それが何らかのcareerにどうつながっていくのかも見えにくいこの時代の子供達には空疎にしか響かないのかもしれません。

 このように、先が分からない時代の中、大人達が子供達に欠けるべき言葉は、「いいからだまされたと思って勉強しろ。後でいいことあるからさ。」ではなく、「それでもやはり、勉強をしよう。」という促しである必要があると僕は思います。受験勉強は確かに欠陥の多いものなのですが、しかしゲームが上達するよりは遙かに意味もあり、応用の利くものであると僕は考えています。そしてそのように始めた勉強は、受験のためのものを超えていくこともできるはずです。自分の興味関心を掘り下げて調べ、考えていくことは、単なる大学に入るだけのための勉強とは違って、入った大学の名前が通用しなくなるような時代が来ようと、子供達の手に残るものであると思います。
 福沢諭吉の『学問のススメ』があの当時あれだけのベストセラーになったのは、江戸時代から明治時代となり、人々がどのように生きていけばわからなかったが故でしょう。現在も、行き詰まっているが故に、そのようなプチ『学問のススメ』ブームであるのだと思います。そのブームを「勉強(学問)をすれば生きていけるに違いない!」と思いこませたりするのに利用するのではなく、「それでもやはり、勉強をしよう。」という姿勢の大切さを子供達にどこまで伝えられるかが、大人にとって担うべき責任であると考えています。
 
 嚮心塾で、しっかりと勉強をしていきましょう。頑張ろうという一人一人の気持ちに対して、決して裏切ることのない指導を心がけています。              2009年12月18日

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過去のパンフレットの巻頭言です。その4

積極的な指導・管理≠積極的な勉強。

 嚮心塾では、基本姿勢として、生徒の自主性を出来る限り信頼したいと思っています。なぜなら、たとえば塾が「積極的に」塾生の登塾日を管理しても、そこで塾生は強制されて消極的に通うだけであり、それは全体として良い方向へと向かいはしないからです。塾に行って勉強することが自分にとって必要であることを本人が理解するという過程を省略しても、究極的にはうまくいかないと僕は考えています。また、予備校などは講義を「積極的に」行ってくれて、通うだけでとても勉強した気にはなれるのですが、しかし、それを聞き続けるというのは楽な勉強方法であり、それを喜んでいるうちは自分で勉強をするつもりのない受験生であるといえます。もちろん、これらもケースバイケースで、中には塾に通うことを義務づけてあげた方が上手くいく場合もありますし、勉強を強制してやらせることが必要な場合もあり、嚮心塾でもそのようにすることもあるのですが、ただ、そのような「積極的」方策を行う場合であっても、その功罪を見極めて慎重でなければならないと思います。
 当塾では中学受験をする小学生でさえ、6年生になると徐々に自発的に勉強をしてくれるようになっています。世界王者を何人も育てたボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントさんはよく、「彼は何も教えない。ただ、(選手の心に)火をつけるだけだ。」と評されました。嚮心塾では生徒の心に「火」をつけ、さらには必要に応じて様々なことまで教えており、実際にその成果が上がるお子さんも(エディさんの門下生に占める世界王者の割合よりは)遙かに多いとは思うのですが、受験勉強そのものがボクシングよりも、受動的にその中に閉じこめられ、競わされ、ランキングをつけられてしまうという性質のものであるが故に、勉強へのmotivation(動機)もやはりボクシングジムの門下生ほどは高くなりにくい生徒も多く(当たり前のことですが)、このようなやり方がいまいち理解をしていただけないことがよくあります。
 このような手法、主張に対してよくなされる反論として、「現実にそのようにやってみたが、やっぱり上手くいかなかった。子供なんてそんなものだ。そんな理想論では甘えを許すばかりだ。」というものがあります。しかし、このような「現実論」はいくつかの失敗から出した性急な結論を、唯一の真理と思いこんでいる、という失敗を招きがちです。もちろん、このような性急な結論を出さざるを得ないのは、受験の時期は決して子供の自発的な成長を待ってくれないからです。特に、中学受験や高校受験では「志望校に入れないから浪人します」とはいきにくいために、親御さんはますます焦りを感じざるを得ないのも致し方のないところです。これは何よりもまず、就職とリンクした日本の大学受験自体が、このようなやり直しのききにくいシステムであることこそが問題であるのです。しかし、そのように焦ることがかえって、肝心の受験自体にも悪影響を生んでいる場合も多々あるということを忘れてはならないと思います。
 親であれ、教師であれ、「育てる」とはどういうことであるのか。それを僕は「社会の圧力からこの身を通じて全力で自分の子供を守った上で、『そのようにさぼっていていいのか』と子供達に真剣に考えてもらうこと」であると考えています。「外部からの圧力を断ち切った上で、子供達の心の中へと投げかけて、考えてもらう。」とでも言いましょうか。そのようにしていく覚悟と、勇気とが、すべての育てる立場に立つ大人にとって、不可欠なものだと思います。徹底的に「子供達を守った上で、しかし甘やかさない」、という覚悟です。
 話を元に戻すと、教える側の「積極的な指導」が必ずしも生徒の「積極的な勉強」を促すとは限らないどころか、むしろ逆であることが多いように思います。もちろん、教える側がずっとお茶を飲んでいて、何も教えない、というやり方でも運営できるような教育の場は、そもそも導入段階で生徒に求めるレベルがかなり高いところにある、というのもまた事実です。そのようなやり方にあぐらをかいているのでは、やはり間口の狭い塾になってしまうでしょう。嚮心塾では、そもそも机に向かうのが苦痛である、あるいは鉛筆を持つのも苦痛である、という子達にも、こちらが汗をかき、徹底的に力になりたいと思っております。しかし、ある一人の子との関係において、leturer(講義をする人)やentertainer(楽しませる人)あるいは、administrator(管理する人)としての教師という関係性から僕自身が抜け出していき、よき伴走者となれるとき、僕はeducator(教育者・引き出す人)になれていると感じています。そのように、一歩一歩をしっかりと自分の意志で歩み、努力をして学習していく場としての、嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいと思っております。                  2009年9月19日

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