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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「林檎っぽさ」とは何か(試論)

ご無沙汰をしております。塾がばたばたとしているのですが、先日のやりとりを部ログに書いてみました。いずれ、これももっと詳しく書きたいのですが、とりあえず備忘録代わりということで。

先日、「節電テロリスト」という言葉を思いつき、この言葉って「椎名林檎っぽいよね!」という話を塾でしたところ、後日、「椎名林檎の曲名なら熟語部分と外来語部分が同一のアルファベットから始まらねばならない。それなら「停電テロリスト」の方が林檎さんっぽい。」というご批判を受けた。この批判についてどのように考えたらよいだろうか。確かに椎名林檎の命名法では、たとえば「無罪モラトリアム」を例にとれば、これらの熟語と外来語は両方とも「m」というアルファベットから始まるという先述の指摘を踏まえているという記号的なルールだけに着目することはできるが、しかしそれは彼女を貶めることになると考える。たとえば「無罪モラトリアム」であれば、本来モラトリアム(猶予期間)とは「有罪」に対して使われる言葉であり、「無罪」に対して「モラトリアム」があるというのは一見矛盾であり、整合性を感じにくい。しかし、この「無罪モラトリアム」という言葉は、その論理の整合性を超えて、それを聞く私たちに、司法を含めたすべての権力によって私たちが「無罪」とされていること自体もまた一つの判断を受けているのではないか、という不安感を与えてくれる。そこに安住する人々に、「肯定されることが肯定なのか、否定されることが肯定なのか」、「有罪であることが『有罪』なのか、無罪であることが『有罪』なのか」を私たちに突きつけ、「有罪であることを恐れない人にとって、無罪を勝ち誇る君たちはモラトリアム(執行猶予中)にしか見えないのだよ。」と意味内容を持つ主張であると思える。これはシェークスピアの『マクベス』における「fair is foul, and foul is fair」という魔女のせりふにも通じるものである。

 振り返って、今回の「節電テロリスト」という語とその改良版として提起された「停電テロリスト」とどちらが林檎っぽいだろうか。まず「停電テロリスト」についてだが、アルファベットは同一であるものの、テロリストは停電を引き起こす動機を持っている。なぜなら社会を混乱させ、社会に打撃を与えたいが故に。しかし、それは熟語と外来語の組み合わせによってわれわれが信じる価値観自体の限界や狭さへの批判を含みえていない、といえよう。それに対して、「節電テロリスト」という言葉はそもそも「節電」という中途半端な目的のためにテロという極端な行為を引き起こすという意味で語の組み合わせに矛盾を感じることができる。かつ、この二語の組み合わせによって「節電」という一見当たり前すぎて抗いようのない言葉が、急にその暴力性を露呈させるようにも感じさせてくれる。3月11日以降の日本でのこの節電への意識の徹底のされ方は、まさに国家総動員体制であり、その息苦しさに対して少しでも風穴を開けたいと思い悩んだゆえのテロリストなのか、とか、そもそもこのような総動員体制のような「節電」広告の多さ自体が一つのterrorに依存した政治手法という意味でterroristさえ言えるのではないか、などと様々な想像を引き起こしてくれる。この感覚を「椎名林檎っぽい」と僕は表現したのだ。
 もちろん、「ただ熟語と外来語を組み合わせれば『椎名林檎っぽい!』という短絡的なおっさんには辟易している。椎名林檎のことなんか、何もわかっていないくせに!また、こいつもか!」という反応だったのかもしれない。それならばある程度理解のできる反応である。しかし、芸術家のある作品の解釈に際し、「熟語部分と外来語部分とが同じアルファベットから始まらなければならない。そのルールを知らない素人が。」という反応は、自分たち(それに関する)専門家としての知見を誇り、いや、知見そのもの自体をというよりは、その(狭く高度に専門的であるがゆえに)ある種の「メンバーシップ」の代わりとなる知見を誇り、他の可能性を排除する態度であり、真理から目を背けるpedanticな学者への一本道である。「多くを知っている」ということが「何が大切なのか」を考えない自分を肯定してしまう。そして、大切なものは、常に必死にそれを追い求める忠実な人に必ず与えられるわけではない。しかし、その運命の不平等を恨み、その不公平さゆえに真実を曲げてはならない。真理の探究とは、自分ひとりになって必死に正しいものを探しながらも、他人の見出した真理に対して深く頭を垂れる、ということであるのだから。深く頭を垂れなければならない。(これは、もちろん僕自身への自戒もこめて)

このケースに関していえば、アルファベットの頭文字をそろえることと、『無罪モラトリアム』のような与えられた価値観の揺らぎを一つの思想として伝えることのどちらが「林檎っぽい」といえるのだろうか。いや、それはどちらを「林檎っぽい」と呼ぶべきか、という当為の問題でもあるわけである。椎名林檎自身がアルファベットをそろえることを、価値観の揺らぎよりも大切であると感じてしまうのなら、それはもはや芸術家ではない。解釈者にとっては、そのような心構えで芸術家と接することが、何もかもを肯定するのではない本当の愛なのではないだろうか。
 

などと、いただいた問題提起を元に考えてみました。またご意見があったらお聞かせください。                    

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おすすめミュージシャンその1:サンボマスター

日頃、塾生にお勧めしきれていない、僕がすばらしいと思うミュージシャンの方々をご紹介したいと思います。

その第1回は、サンボマスターです。「そんなの今さら。もう知ってるよ。とうにピークは過ぎたんじゃない?」
などと言わないでほしいのです。僕は彼らのメジャーデビュー一枚目のアルバムから聴いていますが、おそらくこのフルアルバムとしては5枚目(この4月に出た『きみのためにつよくなりたい』)がサンボマスター史上最高のアルバムだと思います。そして、それは一つの到達点としてあとは下降していくのではなく、この先も本当に期待できる頑張り方だと思います。

彼らの歌詞は一見直情的で、技巧的ではないかもしれません。しかし、楽曲作りにおける真摯さ、その取り組みから生まれる美しい楽曲の数々は、いわゆるCMなどのタイアップで何秒か流れるのを聞くだけでは分からない、一曲全体を通しての組み立てのすばらしさを感じさせてくれます。キャッチーなサビを作ることに腐心しては、他の部分は体裁を整えるだけで大量生産品のように何曲も作るということの対極に、彼らの楽曲はあります。その意味で、楽曲として完成されることなく捨てられた「音」が大量にある中で、本当によいものだけを残して一曲一曲作っていくというきわめて贅沢な曲作りをしていることが本当によく分かる程、練り上げられた楽曲ばかりだと思います。

僕は今、「美しい楽曲」という言葉を使いました。サンボマスターというバンドについて、この表現がなかなかされないことを僕は非常に歯がゆく思っています。彼らのルックスや、シャウトや、直情的な歌詞ばかりが目についてしまうかもしれませんが、僕はどの曲も本当に美しいメロディーだと感動させられます。何らかのきっかけで人気が出た期間を逃さないでCDを売るために、「産地直送です。泥つき野菜ですよ。」みたいな楽曲を垂れ流すというCDセールスの仕組みに飲み込まれないための一つの戦略として、曲を作るということに徹底的に真摯に取り組むというやり方があるのだ、という可能性を気付かせてくれる、それほどすばらしい楽曲ばかりだと僕は思っています。(NirvanaのKurt Cobain がGuns'n RosesのAxl Roseと仲が悪かったのですが、その彼ら二人のアプローチの違い(自分をメジャーにしていくシステム自体を呪詛することで純潔を保とうとするのか、それともそのシステムに乗った上で自分たちがやるべきことをどのように模索するのか)に対する、一つの答え方であるとすら、思えます。)

また、歌詞についても一見「直情的に見える」というだけで、実はとてもすばらしいと思います。自分と世界との切り結び方に悩み、苦しみ、その中で「あなた」への愛をうたう。もちろん実際には、「自分」も「あなた」もこの矛盾を感じる「世界」の一部であり、その意味では被害者ではなく加害者でもまたあるのですが、それは被害を強く感じるからこそ、加害者であることに目を背けられず、かといって、そこで立ちすくむのではなく、何とかこの硬直的な全体に対してもがき、アクションを起こしたい。その思いが「『あなた』への愛を歌う」ことに現れている歌詞だと思います。「あなたへの愛を歌っていればいい。あなたに愛されればそれでいい。」という開き直った姿勢ではなく、「あなたへの愛を歌うよりほかに仕方がない。」という苦しみと、しかし、「本当に小さな一歩だけど、そこから始めようよ。少なくとも僕はあきらめない。」というメッセージ。かなり楽観的に聞こえてしまう歌詞も含めて、それらをメッセージを伝える姿勢として、強い覚悟の上で選び取っているという印象を受けます。「1万人のうち、9999人に『幼稚な歌詞だな。』と冷笑されてもいい。でも、たった一人の心をこの歌詞で勇気づけられるのなら、いくら笑われても構いはしない。」という覚悟を、僕は聞いていて感じるのです。僕は、この姿勢を、本当に尊敬すべき姿勢であると思います。

同時代そして同世代に、こんなにがんばっているミュージシャンの方がいることを、僕は本当に有り難く思っています。まだ聞いたことのない人は、是非聞いていただけると本当にうれしい限りです。

(付論)ネット経由での音楽配信の普及によってCDが売れなくなり、レコード会社にとってはなおさら「すぐに売れるCD」「すぐに売れるミュージシャン」を近視眼的に求めざるを得なくなる圧力が強まりつつあるのでしょうが、一方で僕はこのサンボマスターのニューアルバムのようにすばらしい曲を作ることに徹底していくことは、CDの可能性を追求することでもあると思います。僕の中高生のころを振り返っても、よいCDは、友達に勧めて、聞いてもらいたくなるものでした(中には、自分のお薦めの曲をわざわざテープに落としてくれて、「~ BEST」のようにオリジナルのベストを作ってくれる友人もいました)。ネット配信という今の主流の音楽の楽しみ方は、以前のCDやレコードのように、「友人にお薦めして貸す」という方向には向かない、きわめて個人的な楽しみ方に特化した発達の仕方であると思います。しかし、本当にすばらしいものは他の人にも勧めたくなるというのが、人間の心に根ざす深い傾向であると思うので、やはり人に薦めたくなるような良い音楽の入ったCDというのは、これからも必ず需要があるのではないでしょうか。逆に、「人から薦められてCDやレコードを借りる」という習慣がなくなってしまえば、従来の自分の好みに従った音楽のみしか聴けなくなるわけです。「こんなの、絶対たいしたことないって。」と思っては聞かなかった楽曲を友人が「絶対いいから!」と押しつけるように貸してきて、仕方がないので義理立てして一回は聴こうと思って聴いたら、実は自分の聴かず嫌いでしかなく、自分の人生に深く影響を与えるような音楽だった!というような経験は、このネット配信が進む先にはどんどん減っていくわけです。
それはやはり一人一人が聴く音楽の幅を狭くしていき、一人一人が楽曲を吟味し、鑑賞する力を衰えさせていってしまうのではないでしょうか。(「ジャケ買い」やこういった友人のお薦めからの)様々な楽曲との偶然の出会いがなくなればなくなるほど、人間の芸術における鑑賞力やそれ故の創作力も衰えていく危険性もあると思います。
また、古いレコードを探す人が感じているように、時代を超えて良い音楽を求めたいと思う人間の気持ちに応えるという意味でもやはり、音楽配信には出来ないことがCDやレコードにはできると思います。「音楽配信が成立する以前の過去の楽曲を音楽配信のシステムにのせよう」という動機が働くためには、その過去の楽曲に対するニーズが現実に存在しなければビジネスとして成立しないでしょう。しかし、その過去の楽曲が広くは知られないまま時が過ぎてしまっていれば、どのような名曲も掘り起こされることなく、その名曲に対するニーズも(いったん広く知られれば生まれるとしても)現存することなく見捨てられていくでしょう。つまり、音楽配信だけしか残らない、という時にはCDやレコードからの過渡期で必ず、過去のまだ評価されていない楽曲は廃棄されていくこととなります。しかし、それらの良さが100年後や200年後に再発見される可能性は、CDやレコードを発掘することができなくなれば、不可能となってしまうわけです。

音楽配信の広まり方が性急すぎるせいで、CDやレコードのこういった役割を無視してしまうといった事態を恐れていかなければならないと思います。もちろん、安く手軽な音楽配信のおかげで一人一人が聴くことの出来る音楽の曲数は増えるようになる、というメリットもあるわけですから、それを考慮に入れた上で、先に挙げたような二つのデメリットも考え合わせ、どちらの方がより大切かを考えていくことが必要です。ただ、僕自身は、「自分の好み」を固定化した上でそれに沿うものばかりをたくさん聴くよりは、「自分の好み」が思わぬ出会いによって変化していく方が、成長の契機をより多く含むのではないかと考えています。

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