fc2ブログ

嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

勉強ぐらい、必死にやれ。

塾では毎日受験生が必死に勉強をしています。今年は懸命に頑張る受験生が例年よりさらに多く、それが相乗効果になっているのか、一人一人の勉強の完成のペースがとても速いと感じています。しかしもちろん、それは決して安心材料ではありません。様々な知識を埋めるだけではダメで、それがどのぐらい瞬時に使えるか、あるいはどのくらいミス無くこなせるかが勝負であるわけです。その意味で、本格的な受験勉強はまさにこれからだと言えるでしょう。

 その一方で、なかなか勉強に前向きになれない子達も塾生の中にも少数ながらいます。特にまだ受験を近くのこと、あるいは不可避のことだと感じられていない子達は、どうしても日々の勉強をどのように効率よくこなし、作った空き時間で他のことをやるかばかりを考えているように思います。そして、「うまくやる」ことを目指しているが故に、うまくいかずに失敗してしまうことが多いようですが、このような取り組み方は本当に「効率がよい」と言えるのでしょうか。「テレビも見て、音楽も聴いて、部活もやって、その上でなお成績がよい。」状態になることを理想としてもつのは構わないとしても、それができていないのであれば、何を自分の人生の中でまず第一に優先していかねばならないかを考えることが大切だと思います。
そして、今の日本において受験勉強をすることは、僕はかなり「楽な」生きる道であると考えています。一般に受験勉強は、17,18の頃の労力に対して得る見返りが純粋に一番多い努力であると思います。たとえば全く勉強をしていない状態から始めても、1年あるいは2年必死に勉強すれば、俗に言う「G-MARCH(学習院・明治・青山学院・立教・中央・法政)」ぐらいは合格できるものです(いやらしい話ですが)。それがほとんどの受験生にできていないのは、適切な指導の欠如と本人のやる気の無さのせいであると思います。たったそれぐらいの努力で、得ることのできる就職機会や生涯賃金を、どうして見殺しにしてしまえるのでしょうか。それでは現実を見ていない態度であると思います。
もちろん、とびきり賢い子が、このような受験勉強と学校歴に基づいた「能力主義」(それが本当に能力を担保しているかどうかがわからないのでかっこつきです)はいずれ(大した根拠のない信仰に基づいているが故に)崩壊する、と見て、別の努力をすることは素晴らしいのです。それを大人達が理解できなかろうと、あるいは、たとえ彼らの見込み通りには世界が動いていかないとしてもなお、そのような若い世代はきっと現実に対応していく力を備えていくでしょう。しかし、そのようでなく、ただ今自分が「やりたいこと」をしていて、受験勉強(あるいはそのような現実を見据えた努力)をしないでいる子ども達は、どのように生きていけるというのでしょうか。ただ食いつなぐことが目標だ、というのは貧しい人間観であるのは間違いないでしょう。しかし、そうは言っても自分の信じる様々な価値をこの社会に実現していくためにもまた、生きていかねばならないし、そのための戦略が必要です。その戦略をどのように立てていくかについて、我々大人は、子ども達を甘やかしていてはならないのだと思います。
もちろん、いきなり子ども達に向かって、「全速力で走れ!」というのは無理な話です。そこは段階を追っていかねばなりません(自分自身のことを思い出してみてください。回り道も多かったでしょう)。あるいは「受験勉強さえしていい大学に入ればおまえの人生安泰だ!」などと固定観念丸出しで言っても、これからの混迷した時代では、説得力がないでしょう。しかし、「何も必死に努力して生きていないのなら、受験勉強くらい必死にやったら?それは少なくともあと幾ばくかの期間はそれなりに有効性が残るのだろうし。わからないことをわかっていくというプロセス自体は、社会がそれへの(現状での)過大評価をこれから見直していくとしてもなお、一定程度には評価されねばならないものなのだから、そんなに「損」のない努力だと思うよ。そういうところでまず、努力して結果を出す練習をしていくとよいのでは?」ということを子ども達に教えていくことは大切だと思っています。塾をやっていていつも感じるのは、子ども達は正しい意見に対して敬虔である点で、大人以上に賢いということです。その子ども達に、考え抜かれた正しい意見や戦略を提供できないのだとしたら、それは大人のせいである、ということを肝に銘じておくことが大切であると思います。
ともあれ、現実を見据えた研鑽の場としての嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいです。大変ですが、一緒に頑張っていきましょう。

2011年11月11日 嚮心塾塾長 柳原 浩紀

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

設立当初の入塾案内

設立当初(2005年4月)の入塾案内が埋もれていたので、このブログにも載せたいと思います。読み直してみて、細部に関してもっと認識が改まったことは多々ありますが、基本的な思いとしては変わっていないと思います。まあしかし、こんな長い文章をパンフレットとして読むのは大変ですよね。

<開塾に当たって>
私たちが勉強をするためには、非情になることが欠かせません。勉強をするには、まず目の前の本や教材へと「集中」しなければ、その内容が身に付かないからです。それでも、そこで行っている営みが本当の集中になっていれば、つまり「どうにもまとまりのつかないこの世界の広さ、あちらを立てればこちらが立たずというその難しさの中で、何を求めていったらよいのか困ってしまうけれども、かといって手をこまねいているのもやっぱりおかしいと思ってとりあえずこれに取り組もう」と思って集中するのであれば、すばらしいのです。しかし、むしろよく行われている「集中」を正確に表現すれば、自分の視野を狭く狭く固定することで得られる心の硬直化を「お、バランスがとれているぞ」と勘違いしてしまうことが多いのではないでしょうか。もちろんこのように狭い範囲しか自分の視野に入れない人間の方が、「集中」をするのは容易です。実際に自分の集中力を誇り、他の人々の集中力のなさを笑う人々も、たいていの場合は、自らの視野が狭いが故に「集中」しやすいだけであることが多いのでしょう。
それに対して、心から他の人のことを心配してしまう人は、なかなか勉強に集中ができません。しかしそれは、特に若いときには、より多くのものを自らの視野に入れているが故に「集中」ができないという理由がほとんどであるのです。もちろんそのような状態を長く続ける中で怠け心を覚えてしまい、自らが「集中」できない視野の広さを持つことを口実として目の前の責務をさぼりたいだけになる、という失敗に陥っている人々が多いことも確かでしょう。そのようなときに自らの怠け心に流されてしまうことを世間の無理解や底の浅さのせいにしてしまうことは、その人本人のためにはなりません。ただ、そのような人々がそこに落ち込むきっかけは、やはり軽々しく「集中」のできる底の浅く視野の狭い人々が幅を利かせているというこの現実に対する失望、さらには絶望であることは間違いありません。勉強が得意な人間は、自らの力を誇る前に、自らの視野の狭さを反省することがまず必要なのです。(もちろんこれは、僕自身への反省でもあります。)

しかし、広い視野とやさしさを持つが故に勉強に集中できない人々を、そのままに肯定してよいわけでもありません。僕はそれもまた無責任だと思います。彼らがいくらやさしくても、ただ勉強が苦手だという理由だけで、この社会から冷遇されていきます。そのような暴力に苦しめられる彼らを「やさしい」という理由だけで僕が力の限り肯定し励まそうと、それは彼らにとって「充電」程度にしかならないでしょう。それだけではありません。技術のない技術者がただ彼らのやさしさ故に肯定される社会は、果たして正しい社会であるといえるのかという問題があります。やさしさは、とどまるところを知らぬときにのみ、やさしさであると呼べるのだとしたら、そのような技術や知識に対してもまた思いをやらねば、やはりやさしさとはいえないでしょう。そもそも心の傾向そのものを評価されるだけで生きていける社会とは、とても裕福な社会です。そのような社会は、それを支える奴隷の犠牲があって初めて成り立つ貴族社会のようにしか可能ではないからこそ、それではやはりそのコミュニティーの外に対して、暴力的であるのです。
自らの視野を広げ、あらゆる人や物に思いやりを持とうとすればするほど、ますます目の前の勉強に対して「集中」できなくなります。しかし、その視野を広げ続け、ますます「集中」をしにくくしていくことと、それでもなお、その広がった視野に映るこの世界を何とかしていくためにこそ、集中をする力を付けること、その両方を鍛えることのみがただ一つの正しい鍛え方であると思います。つまり集中をしにくくなることと、それでも集中をする力を付けることと、その両方を鍛え続けていくということです。
そのような両方の力を付けていくこととは、即ち、すべてを見捨てないために目の前の一つをがんばるということです。`Think globally, act locally`という言葉もありますが`Think universally, act personally`とでもいえばよいでしょうか。広く見れば見るほど、自分の無力さに絶望し、狭く見れば見るほど自分のちっぽけな力におぼれます。広く見るが故の絶望を深めて、しかし一つ一つに希望を捨てずに努力を重ねていかねばなりません。

それに対して、昨今の受験勉強では「無駄なものを切り捨てて、効率よくやる」ことが流行しています。しかし、「無駄」かどうかはそんなに簡単に僕達にわかるものではありません。まずそれは何を目的とするかによって、全く変わります。受験にとっては必要ですが生きるのには無駄なことも多いですし、生きるのに必要でも、受験には無駄なものもあります。「生きる」というのも様々です。ただ自らの口を糊するだけの「生きる」と、心に誠実に「生きる」こととで、何が必要であり、何が必要でないかは全く変わってきます。何が無駄であるのかを判断するためには、僕達は子供達にどのように生きてほしいのかをまずはっきりと明確にしなければなりません。
さらにこのことから、「無駄なものは切り捨てる」という姿勢で育った子供たちが大人になったとき、彼らが困っている人々や苦しんでいる人々のために努力することができるかどうかという問題が生じます。「自分は様々なものを切り捨ててきたが故に目の前のことに努力をしてこれたのだ」という自覚のない人間は、困っている人々や苦しんでいる人々を「努力が足りない」という平板な見方しかできないでしょう。そのような切り捨てによる「努力」とは、つまりみんなで山登りをするのに重い荷物をすべて振り捨てて、一人で真っ先に山の頂上に登り、喜ぶようなたぐいのものです。その自分勝手な一人の捨てた荷物を背負い、踏みにじった草花を繕っては、ゆっくりと登っていく人々、あるいは自分たちが踏みにじってきた草花をもう繕えないというその事実に愕然とし、心を痛めてそれでも何とか自分たちにできることはないかと模索し始める人と比べ、どちらが努力しているといえるのでしょうか。
目的をはっきりさせなくてはならないだけではありません。たとえその目的が考え抜かれたものであろうと、「無駄」というのは、恐ろしい言葉であるのです。私たちは、あるものを「無駄だ」と判断するときには必ず、「そのものに価値があるかどうかが今の私にはわからない。」という程度の認識にすぎない自分の愚かさを省みることを忘れてしまっています。僕自身、自分の人生を振り返って、あるいは一人一人の生徒を教えていく中で、自分では「無駄だ」と判断して捨ててしまった自分や生徒の中のある部分に、それにはそうならざるをえない歩みがあり、決して無駄ではないのに、それを「無駄」としてしか見ることのできなかった自分の見方の浅さを、苦い反省を伴って思い知らされるという失敗ばかりでした。
もちろん、だからといって「無駄」を省かずには生きていけないことも確かです。大金持ちの大邸宅には差しあたり必要としないものがいくらでも置けるかもしれませんが、六畳一間に三人暮らしでは、必要のないものを置いている余裕はないでしょう。それと同じ事で、何が無駄であるのかを考えないですべてを肯定する人生は、もはや自分が生き延びられることが保証されている人生においてしか、可能ではありません。ですから無駄として切り捨てることの失敗におびえて、すべてを肯定する、というのもやはり解決にはなっていないのです。まずそれは、自らが正しいと思うもの以外もすべて認めることによって、自分で何が正しいものであるのかを判断できなくなるでしょうし、たとえその判断力を失わないとしてもそれは余裕のある人間にしかできないことです。
しかし、無駄は省かねばならないことを認めたとしても、今日の食費にも窮する身にも、詩や歌や絵は必要であるかもしれません。むしろ、広大な大邸宅にそろう楽器の数々よりも、六畳一間に申し訳なさそうに置かれている一本のギターの方が、その人にとって必要なものであることが多いでしょう。そのギターは稼ぎの道具にならないとしても、無駄ではなくやはり必要なものであるのです。
初めから狭い範囲しか見ていない人間がそこを見るしかできないだけであり、集中力があるわけではないのと同じように、自分の身の周りだけにやさしさをとどめておける人々は、そのために「努力」することをいとわないのも当然です。そのような「努力」ではなく、本当に自らの心のやさしさに正直に、あらゆるものに思いをやり、支えていきたいと思うが故に苦しむ子供たちを支え、鍛えていきたいと思います。

「詰め込みではなく、思考力を鍛えます」というキャッチフレーズの塾も多いですが、その「思考力」重視の主張はあくまで、「受験のためのツールとしてそちらの方が有効だ」「受験の後の人生も思考力がある方が充実して生きていける。」というものでしょう。しかし、このような「思考力」は、ある一つの方向に画一的にそろえられている以上、本当に思考力であるとはいえません。たとえば、人間にとって事実を知ることや考えることの意味は、それが楽しみを越えたところから始まります。知ることが辛い事実を知りたくはないけれども、それでも知らなければならないと思って目を開くとき、その知識には意味がありますし、考えると辛くなることをそれでも考えなければならないと思って必死に考えるとき、その思考には意味があります。それは私たちのこの社会をよりよくすることに最も必要な、勇気に裏付けられた努力です。「思考力を鍛える」といううたい文句があろうと、その思考の「対象」がきわめて限られたものであれば、やはりそれは自らの思考の限界に気づくことのできない人間になるのです。
嚮心塾では、すべてに対して考え抜く力を子供達に鍛えてもらいたいと思います。そのような思考力は対象を限定していないが為に、つらく、時には危うい印象を受けるかもしれません。回り道や失敗をしてしまう可能性も出てくるでしょうし、安易な妥協をできない自分に苦しむことも多いでしょう。しかし、そのように取り組まずにはたどり着くことのできない生き方があります。それを子供達に伝えていきたいと考えています。

最後に、悩んでいる一人一人のお子さんへ。嚮心塾の「嚮心」とは「心に嚮(む)きあう」という意味です。僕は自分の心に嚮(む)き合えば、君たち一人一人の心に決して嘘をつかずに、嚮(む)き合わざるを得ません。しかし、そのように僕が君たちの心に嚮(む)き合うことが、君たち自身が自分の心に嚮(む)き合うきっかけにしてくれれば本当にうれしいし、君たちがそのように自分の心に嚮(む)き合って、決してそれに対して嘘をつかないでいることがまた、僕自身をさらに自分の心に嚮(む)き合い、そこから逃げないように駆り立てます。そのようなコミュニケーションの場としての塾に、一歩を踏み出していただけることを心からお待ちしております。
嚮心塾塾長    柳原浩紀

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

過不足のない受験勉強はできません。

受験生というのは、例外なく、受験に過不足のない(ムダのない)勉強をしたいものです。つまり、「絶対に○○大学(高校・中学)に合格したい!」という子でも、「そのためならどんなにたくさん勉強してもいい!」とはできないものです。しかし、だからといって、「あんた、内心ではたかをくくってるんでしょ!」などと叱らないであげてください。このような気持ちの持ちようは、受験生にとってある程度まで「仕方がない」態度であると言えるからです。

 たとえば、どこまでも徹底的に一年間努力しても、それでも受験に受からない可能性は必ず残ってしまうという冷酷な事実を、勉強を始める前の受験生に伝えてしまったら、一体どうなるでしょうか。まずほとんどの受験生は、受験勉強を諦めてしまうと僕は思います。そのような終わりのない努力は、明らかに自分にとって達成可能なものではないと思ってしまうのが普通の反応であるからです。もちろん、堅く決意をして、終わりのない努力に耐えようとする子達は毎年ごく少数ながら、存在します。しかし、そのような超人的努力を全ての子にいきなり強制することは、非効率的なだけでなく、そもそも不可能なものだと思います。(そのような超人的努力をどうしても親御さんはお子さんに求めてしまいがちです。「私たち大人だってこんなに努力している!」とつい言いたくなる気持ちはもちろん僕もわかります。しかし、大人の努力とは、まずキャリアを形成する過程で「自分の努力が評価されやすい環境」をもう既に選び終えた上でなされているわけですから、「苦手なことを努力させられ、しかもその成果を厳しくチェックされる」という環境自体をそもそも抜け出た後でなされる努力であるわけです(即ち、大人がその職業で生計を得て、子供を養えている時点で、そもそも「決して評価されない努力を無制限に続ける」ことからは部分的にでも逃れ得ているわけです)。また、大人は厳しい努力の合間でも、「自分にご褒美」が可能なのです。しかし、子供達はなかなかそうはいきません。)

 すると、教える側に必要なものとは、受験生の「甘い期待」から来る努力の姿勢(「成績が上がるのなら、少し勉強してもいいかな。」)を少しずつ鍛え、徐々に、その「どこまでも努力しても、決して受験に100%受かるのには十分にはならない」という厳しい現実に耐性を付けていってもらうという戦略です。そのために、今その受験生に何が必要であるのかを丹念に観察し続ける必要があります。どんなに努力しても決してその「100%合格する」ということにはたどり着けないのだと無力感・絶望感にうちひしがれているときには、一歩ずつ足元を固めていくことの大切さを説きながら鍛え、逆に一歩ずつ足元を固めて行きさえすれば、合格するはずだ、と盲目的に信じている場合には、受験がどれほど恐ろしいものであるのかを説き、足りないところを指摘していくことが大切です。

 そして、このように受験生を指導することは、実は受験が終わってからも活きてくる、大切なことだと僕は考えています。どのような一歩も、それがたとえノーベル賞級であろうと、フィールズ賞級であろうと、人間の科学の発達など、何一つ「十分な」ものを作れないことは、たとえばこの東日本大震災でもまた、より深くわかったのではないでしょうか。しかし、それでもそのように一歩一歩自らの認識を歩ませ続けることからしか、人間が成長していく道はありません。受験というものの害を言挙げするのは簡単ですが、しかし、僕は、受験もまた人間の歩みである以上、私たち一人一人の生きる姿勢が問われる1つの場であるとも思うのです。そして、そのような場の中で、自分の無力さから絶望するのでも自分のちっぽけな優位性を過信するのでもなく、どこまでも着実に自己を鍛えていきながら、「想定外」を作らないように徹底的に準備をしていく姿勢を鍛え続けていくことが、その後の一人一人の人生にとっても、ひいてはこの社会にとっても大切であると思います。

 ですから、僕に講師としての力がどれほど鍛えられようとも、「過不足のない受験対策」を塾生に提供することは未来永劫不可能です。なぜなら、一人一人の塾生の思考、認識の仕方など、どれだけ深く接していても、完璧には知り得ない要素が山ほど存在するからです。だからこそ、受験前日の最後の最後まで、何がその子にとって足りないかを(本人と一緒に)徹底的に考え抜いて、「不足のない受験対策」にしていく努力を止めません。気休めのための無責任な言葉をかけては、足りないものについてそれ以上悩まない教師になりたくありません。最後までその子が落ちる可能性を減らす努力が他にできないかを考え抜き、助言と指導を続けていきたいと思います。もちろん、受験が終わった後の塾生に対しても、「この学校に合格したから後の君の人生は大丈夫!」などというごまかしを言うことなく、そのようにサポートし続けたいと思っております。

 「過不足のない受験対策」を謳う塾や予備校に、是非だまされないでいただきたい。そのような受験対策は世界一の天才講師であろうと、不可能です。日々、どこまでも見つかり続ける不足を埋め続ける毎日こそが、結果としての受験の成功につながるわけですし、それ以外のメソッドを提供する教師は、「これだけやっといたら大丈夫!」という安心を求める気持ちにつけこんでお金を稼ぐ、あるいは手抜きをするという点で、受験生にとっては大敵なのだということを是非、肝に銘じていただきたいと思っています。安心することの難しい現実に対処しようと努力するのに疲れて、安心するためのサービスを偽りでも買おうとするのではなく、「これからまだまだ自分の勉強の穴が見つかり続けるかもしれないけど、それでもそれを1つ1つ徹底的に埋めていこう!」という姿勢こそが勉強をし続ける受験生にとっても、ひいては、人間の文明の進歩にとっても大切だと考えています。その欠点を埋めていくための、アドバイザー、パートナーとして、嚮心塾を選んでいただけると本当にうれしいと思っています。   2011年 5月26日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

先生を信じすぎるな。

今年度は、(中・高・大の)受験生が過去最多であったため、てんてこまいで、3ヶ月に一度書き換えるこのパンフレットも、ほぼ半年間放置してしまい、本当に申し訳ありませんでした。

さて、この時期に現高2、新高校3年生が学校の先生に最もよく言われる言葉として、「塾や予備校に行くな。毎年、学校の勉強を頑張っている受験生が合格する。逆に、塾や予備校に通って、学校をバカにしてる子は落ちている。」があります。実際にこの言葉を信じて、次の一年を学校と自分の力だけで勉強しようとしていらっしゃる新受験生の人も多くいると思いますが、僕はこの言葉をうかつに信じてはならないと考えております。

なぜそう思うのかと言えば、まず高校の担任の先生が自分のクラスの生徒一人一人の受験勉強の進み具合を正確に把握することなど、ほぼ出来ていないであろう、という理由からです。自分が教えている科目一つについてだけでも、生徒一人一人、たとえば1クラス40人だとしてその40人のそれぞれについて、○○さんはどこが得意でどこが苦手か、だからその苦手な部分をどのようにつぶしていくか、ということを全員について把握できている先生はきわめて稀なのではないでしょうか。ましてや、受験とは最低でも3教科、国公立であれば5教科以上の勉強の完成度のバランスが非常に重要なわけです。自分の担当している科目ですら、一人一人完璧には把握できていない先生方が、さらに他の科目とのかねあいを考えながら、どのように受験生に正確なアドバイスが出来るのかは、きわめて疑問です(たとえば、数学が好きで、数学ばかり頑張って力がついている子に対して数学の先生は「これはすごい!この子は合格するな。」と思ってしまうことが多いのではないでしょうか。しかし、「誰にも負けない無敵の数学力」をつけたくても、一般に難しい大学ほど数学の合格ラインが低いものです。なので、数学をそのレベルまで到達させる努力を、他の教科(英語・理科)に向けて鍛える方が遙かに合格する可能性は上がるわけです。もちろん合格だけが全てではありませんが、しかし、大人はそのような目の前のものに集中したがる子ども達の視野の狭さを広げてあげる役割をしなければならないと思います)。その意味で、一人一人の各科目の勉強の進み具合をトータルでチェックしてくれて、相談に乗ってくれる大人がいることは、受験生にとってはかけがえのない機会ではないでしょうか。しかし残念ながら、それをできる高校の先生はかなり稀な存在であると僕には思えます(僕はそのように受験生の全教科について把握しようとしている高校の先生の話を寡聞にしてまだ聞いたことがありません)。
もちろん、そのようなことを本当にやろうとすれば、先生方にとっても、かなりきつい作業になることは確かです。嚮心塾では実際に勉強を教えるだけでなく、僕が受験生一人一人の勉強の進み具合をその子に必要なすべての教科に渡って把握し、相談やアドバイスをしております。それを今年度は大学受験生12人に対して行ったわけですが、本当に大変な一年間でした。これを40人に対して出来るか、と言われれば、全教科それなりには勉強している僕でも、まだ自信が無いところです。ましてや、一つの教科だけを教える高校の先生方にできるとは思えません。
 そして、理由の二つ目は、「そんなこと言っても、学校の勉強だけで合格している受験生は毎年出ている!」と学校の先生方がおっしゃるときのその「具体例」としてあげられる受験生はきわめて特殊な「例」だということが挙げられます。学校の授業だけ受けていても、その予習復習を徹底的にこなし、さらにはわからないところは徹底的に調べ、そしてそれでも足りないところは問題集や参考書で勉強し、わからないところは学校の先生に聞けば、確かに東大・京大でも合格できます。しかし、それを実際にこなせる受験生が一体何%いるのでしょうか。多くの受験生はそこまで勉強のやり方がわからないでいます。どこまで徹底したらよいのか。逆にどこまでスピードを上げたらよいのか。どの部分はさらっとやる方が良くて、どの部分はしっかりとやらなければならないのか。これらを自分で分析をしてできる受験生というのは、ごく一部のきわめて優秀な、自分でもう既に勉強のやり方を鍛えてきている子達です。その子達が学校の授業だけで事足りているから、「みんな学校の授業さえきちんとやっていれば合格できる!」と先生が強弁するのは論理の飛躍でしょう。その、「きちんと」をどこまでやればよいのかがよくわからないのが、大多数の受験生であるわけですから。本来学校の先生が「塾や予備校に頼らずとも、学校の勉強をしっかりやっていれば、必ず合格できる!」というのであれば、それを信じて勉強をしてきた子達の進路調査をして、本当にそれができているかをご自身でチェックするべきでしょう。一人二人の優秀な子を見て生じる、自分の願望も交えた印象論のせいで、毎年毎年多数の新たな受験生が受験に失敗することについては何とかしなければならないと思います。

きつい口調になりました。しかし、これは声を大にして言わねばならないと思うぐらい、このような誤った指導で、しっかりと実力のつかないまま受験生としての一年を終わらせてしまう高校生が毎年山ほどいるのです。その子達の人生にとっても、あるいは本来様々な可能性のあるはずである若い世代がそのような先生方の貧困な思いこみの犠牲になるのをこの社会の一員として、何とかしていきたい。そのように切に願っております。(学校の先生がもし「塾や予備校は営利目的だ(もちろん、そのような塾や予備校が多いことは確かです)。学校の授業だけで合格できる!」と断言するのなら、自分の受け持ちの生徒の指導や、指導が無理なら少なくともその生徒にとって必要な全教科の勉強の進み具合や現時点での課題などを一年間しっかりと把握し続けて、指導していただきたい。それをしないで、「学校の授業だけで合格できる!」と言い張るのは、僕には無責任な態度にしか思えません。)

その上で、そのような「何となく勉強する」という一年ではなく、必死に勉強する一年を過ごしたい受験生は是非、嚮心塾に来ていただきたいと思っております。「やる気はあるけど勉強のやり方がわからない」という方とこそ、徹底的に自己を鍛える一年をともに過ごせるとうれしいです。
根拠のない学校の先生の意見に左右されたり、決まり切った予備校のサービスを享受するのではなく、自分の頭と手で勉強の仕方を作り上げていきませんか。そのために、嚮心塾は全力でサポートをしたいと思っております。
その上で、徹底的に勉強を重ねてきた受験生は僕のアドバイスに対しても、「そのやり方は一般的にはよいが、もうちょっと自分はこうした方がよいのではないか。」と疑問を差し挟んでくれるようになります。そのようになってくると、自分で勉強のやり方を鍛え、本当に素晴らしい実力がついてきたと言えるでしょう。その意味でも、その「先生」が仮に僕であったとしても、「先生を信じすぎるな。」と僕は言いたいと思っております(もちろん、自分が初学者であるのにもかかわらず勉強のやり方に文句を言うのはあまり生産的ではないこともつけ加えておきますが。しかし、そのように疑問をもつことは大歓迎です。)。
2011年3月3日 嚮心塾塾長

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

楽な方に、流れるな。

二学期が始まり、いよいよ受験が近づいてきます。また、この秋は受験生にとって志望校を決定するために模試を受験していく季節です。その意味でもまた、一段とギアの上がった受験生を前にして、忙しい毎日を送っております。

一方で、嚮心塾では、受験学年ではない塾生の子達が、そのような雰囲気の塾に足を運んで、日々の勉強をしているわけです。このように必死になって実際に受験勉強に取り組む受験生を下の学年の子達が見られるということが何よりも、塾という場の存在意義として大切なことであると考えています。家や学校でも、「○○君はA大学に合格したんだよ。△△さんはB大学だって。二人ともすごいね!」という話を知り合いや先輩、友達に対してすることはあるとしても、その年上の○○君や△△さんと、机を並べて真剣に勉強することはほとんどの場(学校・塾・家庭)では出来ないでしょう。そして、そのようにそれらの先輩が実際に努力する姿勢を見なければ、「だって、○○君や△△さんは頭いいし。僕とは違うよ。」と安易に片付けて決して自分は努力しようとは思わないお子さんが多いのではないでしょうか。
でも、「頭がいい」というだけで、受験勉強を乗り切れるのは、本当にごく一部の受験生です。自分がそのような受験生であることを期待するよりは、宝くじを買って一等が当たる方がまだ可能性は高いかもしれません。ほとんどの受験生は、たとえトップレベルであっても、必死に努力を重ね、自分が同じ間違いを繰り返すことに絶望しては何とかそのような間違いを二度と繰り返さないように覚え、出来る問題はより早く解けるように練習を重ね、出来ない問題については悩み抜く、という泥臭い毎日を送っているわけです。そのような毎日の中で、不安と戦い、疑問に思ったことは相談しては、乗り越えていこうとするその彼らの泥臭い姿を見られることは、下の学年の生徒達にとって、何よりもよい刺激になると思っています。

しかし、嚮心塾がこのような刺激のある環境だからこそ、勉強をしたくない非受験生にとっては居づらいところもあるのかもしれません。同級生の皆はまだまだ遊んでいるのに、なぜ自分だけ勉強しなければならないのかという甘えが、子供達に見られることが多いです。真剣に取り組む受験生の姿と、自分の属する学校の同級生とのぬるい日常とのギャップの大きさに、ついつい楽な方へと逃げたくなるのも、もちろんよくわかることです。

ただ、そのような「逃げ」が結果としてどのように長い間誰からも批判されないとしても、やがて自ら目覚めるしかなくなる時が必ず来ます。その一つの契機が、上の学校への進学を考える人々にとっては、受験であるのです。もちろん、あまり功利主義的に「将来のためには勉強しておいて損はない」などと考える小中高生も確かに、何か大切なものが欠落しているかもしれません。しかし、この受験というものがつきものの日本社会において、「学校歴」によって人間の価値が判断されるという不合理を批判していく態度は大切なことであるにせよ、しかし、そのような制度が存在するという事実に目を背けて、自分に都合のいい意見だけを聞いて友達と互いにさぼりあう、というのでは、やはりこの現実に対しての説得力ある生き方には成り得ていないと思います。

たいていの場合、非受験学年生のどのような日々の勉強も、受験学年生のそれと比べれば、質、量ともに比較にならないくらいレベルの低いものです。周りを見渡しては、「同学年の友達よりは自分は勉強しているし、成績もいい。」と安心して努力の手を休めているお子さんにこそ、嚮心塾は研鑽の場を提供できる、と考えております。もう、同級生と比べては安心する、という不毛なブレーキはやめましょう。それをやっているのは、たとえ学校で1位の成績であっても、楽な方に流れているだけです(受験とは、他の学校の人との競争であるわけですから。学校で1位など、学校の数だけいるわけですから。)。それよりも、自分の受験まであと何年何ヶ月かをしっかりと計算した上で、その中でどのように自己を鍛え抜いていくかに意識を集中して努力していくことが大切です。

周りより高いことも、周りより低いことも、気にすることなく、ただただ自分自身を今以上に鍛えていくことが大切です。たとえ世界一、いや宇宙一であっても、それが理由で自分の鍛錬を止めるような人間では、やはり大したことがないのです。そのような研鑽(けんさん)の場としての嚮心塾に、興味を持っていただけると本当にうれしいです。楽な方に流れたくなる自分の弱さを直視した上で、それを乗り越えられるように、ともに頑張っていきましょう。

2010年9月22日 嚮心塾塾長 

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

自分を見つめ続ける力をつけよう。

自分を見つめ続ける力を、つけよう。


最近、勉強を教えていて、次のようなうれしい会話がありました。

塾生「先生、僕が計算が遅いのは、九九が遅いんじゃないかな。たとえば七六 四十二が出にくいときに、結局六七 四十二を計算しちゃってるけど、これで大丈夫なのかな?」
僕「それはいいところに気がついたね。九九を覚えるときに、みんな一つ一つを完璧には覚えないで、自分の苦手なものは逆の方で計算できるから覚えなくていいや、って子が多いんだよ。でもそれは結局計算のスピードを要求される時にはどうしてもタイムロスになってしまうんだ。だから、計算のスピードを上げるためには、八十一通りを全部すらすら出てくるように練習をした方がいいよ。実際に、そこをちゃんと出来ていないせいで、自分の計算スピードの上限が上がらない、という受験生も結構居るんだよ。」
という会話でした。

このように自分で自分の欠点に気づけたことを僕は本当にすばらしいと思いますが、もっとすばらしいと思うのは、この子が医学部合格を目指す、たくさん勉強してきた大学受験生であり、そもそも彼の言う「計算が遅い」もハイレベルな問題だと時間がきついという意味であり、現時点でもおそらく平均的な受験生や、少なくとも今年度の塾生の誰よりも計算が速いことは確かであるのにもかかわらず、このことに気付いたからです(数学も得意教科です)。

普通、そのようにそれなりに勉強が得意な子がまさか小学校で習った九九の中に自分の弱点があるかも、とは思えない、あるいはちらっと思ったとしても、「まさかそんなはずがない!」と思って押し殺してしまうでしょう。しかし、僕が教えてきた経験上、そのような九九の不得手な部分は確実に時間のロスを作り、時間制限の厳しい日本の大学入試では、そこで勝負が分かれてしまうこともあるわけです。このようなことを相談するのには教師と生徒との信頼関係が必要であるとともに、教える側が常識にとらわれずに目の前の生徒について考える力が必要です。「大学受験は大学受験の範囲さえ勉強していればいい」という指導の仕方が、実はそれ以前に改善しなければならない重大なポイントがその生徒の勉強の仕方にあるとしても、それを見殺しにしてしまい、結局力がついてこない、ということは多々あります。教える側の人間はそのような思いこみこそを何よりも敵だと考え、絶えず考え抜いていくことが大切であると思います。

もちろん、このようにうまくいく事ばかりではありません。しかし、嚮心塾では、自分を徹底的に見つめ直し、少しでも疑問に思ったことは自由に聞いてもらいたいと思っていますし、そのような、何でも聞きやすい環境を作ることに、腐心しています。一人一人を鍛えていく中で、何がその子にとって「失われた1ピース」であるかを見抜く力を教師がつけることは当然です。しかし、どのような教師も、生徒に24時間付き添うことが出来ない以上、生徒が自分で勉強をしていく中で感じた疑問点に対して、それを無視して硬直的な勉強計画を押しつけるのではなく、絶えず、その疑問点がどのような意味を持ち、それが何かその子にとっての「失われた1ピース」につながるものにはならないか、と考え続ける鋭敏さを保ち続けることこそが、何よりも大切であると思います。

自分を見つめ続ける力を、一緒に鍛えていきましょう。
そのための研鑽の場としての、嚮心塾に興味をお持ちいただけると有り難いです。

2010年6月4日

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

過去のパンフレットの巻頭言です。(その7)

難関大学受験なら、嚮心塾!?

 答えはNoです。嚮心塾には、毎年、様々な学力の子達が通ってくれています。また、通い方も、難関校を目指して勉強する子から、学校の勉強の補習をする子まで様々です。よく、補習塾と進学塾を分ける傾向がありますが、補習を積み重ねていく先に、進学が狙いとしてないのであれば、やはりそのような補習はモチベーションが上がらないでしょう。逆に難しい学校を受ける力のある子であっても、意外と出来ていない基本的なところを補習すべきことも多いです。その意味では、「補習塾」「進学塾」というくくり自体が、わかりやすさを求める顧客のニーズを感じ取って、塾業界が作り上げた商品なのかもしれません。
 とはいえ、そのように分けることは、塾の側から見ると、計り知れないメリットがあります。一般に、難関校受験をする子を教える先生に必要なものは高い学力であり、学校の勉強の補習をする子を教える先生に必要なものは生徒に対する忍耐力です。そして、この両者を兼ね備えている先生を確保するというのは、きわめて難しい条件であるのです。高い学力を持つ先生ほど、辞書や教科書を引けば分かるレベルの生徒の質問に対しては自然と冷淡にならざるを得ません。ましてや、「こんなの、覚えられないよ~」という不平に対しては、「努力して覚えろ!」と一喝したくなってしまうでしょう。逆に、生徒に対する忍耐力を持ち親身になれる人は、普通勉強が苦手(といってもトップクラスではない、という意味です)であることが多いのです(目の前の勉強に集中して学力を身につけてきた人は、他の人のことを考える暇がなかったからです)。

 嚮心塾では、そのどちらの生徒さんも教えていて、学校の補習レベルから東大理Ⅲレベルにまで対応しております。もちろん、「私は高い学力と他者への忍耐を兼ね備えたすばらしい教師です。」などというつもりは(少ししか)ありません。その両方のレベルの生徒をともに同じ場で教えることは、教える側にとっては苦痛の大きなものであるのに間違いはなく、塾を開いて以来、日々悪戦苦闘をしては、自らの力不足を猛省する中で、少しずつ成長を感じる毎日の5年間でした。しかし、勉強をする子供達にとっては、この場が本当にかけがえのない場となっていることを強く感じているため、この形式をより鍛えて、守っていきたいと考えていますし、そのために僕自身ももっと勉強を重ねていきたいと考えております。

 そのように考えるのは、僕自身の苦い反省があるからです。僕の通っていた高校は東大に現役で毎年100人受かるような受験高校でした。そのため、受験生になると「東大にあらずんば、人にあらず」的な雰囲気が蔓延していました。その当時、同級生の一人が慶應大学に進学することになり、「あんなバカばかりの大学に行ったら高校の時みたいにまともに話し合える友達なんか作れない。」と泣いていたのを今でも覚えています。そのとき僕は、その友達の偏見に対して「その考え方はよくない!」と反論をしましたが、しかし、僕はそのような偏見を表立って表明することはよくないことだとわかっているだけで、僕自身が同じ偏見を持っていなかったかと言えば疑問です(現に僕は私立大学を一つも受験しませんでした)。高校生の時の僕は、その友達を批判しながらも、東大に入れる程度の学力が賢さの証明であるかのようにいばったりさぼったりする人間はどうしようもなくアホだけれども、しかし、「東大に入れる」というのはやはり賢さの最低限の条件なのでは、という浅薄な認識であったと思います(もっともその認識は入学後3日くらいで修正せざるを得なかったのですが)。
 人は、環境に染まります。その環境によって形成された自分の価値観を否定することは自分の人生の一部、あるいは全部を否定することだからこそ、苦痛を伴うのです。しかし、そのように環境によってのみ形成された価値観を自己の価値観とすることは、偏見に基づいた大きな暴力に、知らず知らず加担することになってしまうと思います。あのときの彼や、僕のようにです。

 教える仕事に、15年程携わって、今では確信を持って言うことが出来ます。
一人一人の子供達に多様な人生があるが故に、一人一人の受験にも多様な受験があり、「意味のない合格」もあれば、「意味のある不合格」もあるのだということを、です。また、同じ「東大」や「慶應」でも、意味のある「東大」と、意味のない「東大」、意味のある「慶應」と意味のない「慶應」がある、ということを、です。その上で、「意味のある合格」を目指して、徹底的に鍛えていく塾でありたいと考えております。

今年の合格実績を「合格実績」のカテゴリに載せておりますが、この中には偏差値の高い学校も低い学校もあります。しかし、どの塾生の受験に関しましても、受験勉強を一生懸命頑張ることを通じて、塾生と一緒に苦闘しなかったことはありません。その意味で、第一志望に合格できた塾生もそうでない塾生もいますが、どの結果に対しても、僕自身は心の底から彼ら彼女らのがんばりに誇りを持っております。         2010年3月11日

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

過去のパンフレットの巻頭言です。その6

当塾では、指導方法に日々悩んでいます。

 広告の冒頭からこのように言うのもおかしな話なのですが、僕はこの「広告」というものが、どうにも苦手です。広告のおかげで様々な方にこの塾の存在を知っていただけるとしても、そもそもその「広告」するのに値する自分や塾であるのか、という反省がついてまわります。
 しかし、どの学習塾・予備校の広告でも、その塾の指導方法に非常に自信がありそうな広告が多いように思います。もちろん、プロとして仕事をしている以上、それなりの方法論の蓄積がないのではやはり困りものです。しかし、それまで様々な生徒を教え、実績を上げてきた先生であっても、次に新たに出会う生徒に対して今までのノウハウだけでその生徒を鍛えていくことが出来るかどうかは、決して自明のことではありません。それなのになぜ、新しく来る生徒を鍛えることに対して「自信」をもてるのでしょうか。
 嚮心塾では「必ずお子さんの成績をあげます!」とか「お子さんを絶対に志望校に合格させます!」といった、威勢のいい約束をご説明の際にいたしません。それは、一人一人の力を伸ばし、志望校に合格してもらえるようにもしていく、ということがどれほど難しいことであるかについて、決してたか多寡をくくってはならないと思うからです。それとともに、指導方法についても、今までの指導経験から大まかなお話は出来ますが、実際に勉強をしていく中で不断に修正を繰り返していきます。その意味で、当塾では一人一人の塾生の指導方法に、絶えず悩み続けています。それはプロとして恥ずかしいことでは決してなく、むしろ本当のプロであれば必要不可欠な姿勢であると考えるからです。(もちろん、それで十分ではないにせよ、です。)
 それ故にいつも説明に苦しむのが、当塾のカリキュラムについてです。入塾の際に一人一人にあわせて大まかな枠組みを作るものの、塾生に日々通っていただき、指導を続ける中で、教えている側にも日々発見があります。その新たな発見をもとに、今までこちらの気付いていなかった、鍛えるべきポイントを織り込み、指導していくため、当初に決めた勉強の優先順位を覆して、「これがわかっていないのなら、そこまでさかのぼらなきゃ!」と復習していくケースが多いのです。僕は教えれば教えるほどに、人間というのは分からないことが残っているうちには決して新しいことを深く理解することが出来ないのだということを痛感させられています。わかっていないところを、学ぶ側はもちろん、教える側も決して避けて通ることはできないのだと考えています。ですから、このような勉強方法が力をつけていただくための結局最短距離であると思いますし、その結果は当塾の合格実績にも現れつつあると思います。
 もちろん、嚮心塾に通っていただいたすべての方にご満足いただいたわけではないこともまた、事実です。しかし、一生懸命に通っていただいている塾生に、何とか力をつけてもらいたいという思いをあきらめたことは一度たりともありません。塾生が、自分を鍛えるために悩み続けるのなら、教師もまた塾生を鍛えるために徹底的に悩み続けたいと思います。そのような研鑽の場としての嚮心塾に、興味をお持ちいただけるとうれしいです。 
                   2009年6月8日

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

過去のパンフレットの巻頭言です。その5

それでもやはり、勉強をしよう。

 受験も間近に控え、塾では受験生達が、日々必死に勉強に取り組んでいます。一口に「必死」といってもその取り組み方は一人一人異なり、脇目もふらずまっしぐらに取り組む子もあれば、つらい勉強に嫌気がさしながらも何とか自分を勇気づけてがんばっている子もいます。
 そのように一人一人の勉強に対するスタンスが違う中で、同じ学校を受けるのであればペーパーテストで測れる実力に関しては、同水準のものが要求されるわけです。指導していてやはり感じるのは、この受験というシステム自体がどれほどの才能を取りこぼしているのか、というその一点に対する苦い反省です。測られる部分だけを特化して鍛えることに疑念を持たなければ持たないほどに、受験には向いているわけです。むしろ受験の中では計りえない部分に人間性の本質を感じる鋭敏な子達は、初めからこの受験社会の中ではハンディを負っています。
 もちろん、現行のテストを批判するだけでは仕方がありません。あらゆるテストが不完全であり、人間のごく一部しか計れないのは、当たり前のことです。問題は、その認識を皆がある程度共有しているかのように思われていながら、実はそうでもない(つまり、「測れている」と思っている)というところにあると思います。それはテレビのクイズ番組によくいる東大・京大出身のタレントを期待する視聴者としての我々の態度(「東大出て頭が良くてもあれじゃあ…」という見方をしているだけで、「東大出なんて頭が悪い!」とは言い切れない自信のなさ)にも現れているのではないでしょうか。

 そもそも、現在の子供達が以前ほどには勉強をしなくなったのは、この時代状況もあると僕は考えています。たとえば、僕自身が小学生だったのは25年前ですが、その当時、今と同じようにこのようにたくさんのゲーム機と携帯電話、インターネットがあふれていたら、活字を追って懸命に内容を理解する楽しみなどを身につける前にそれらの電子機器の用意された楽しみを追うことに忙しく、勉強も読書も手につかなかったのではないかと思います。
 さらには、「受験勉強をしていい大学に入れば安定した就職ができる」という神話自体が幻想であることはだいぶ明らかになってきていると思います。その瀕死の神話の最後のものとして、現在の大学受験では医学部志望熱が過熱しているわけですが、それもいつまで続くでしょうか(公認会計士は、合格者の人数を増やしたら早速の就職難だそうですが)。このような状況の中で、子供達に「勉強をしなさい。そうじゃないと将来生きていけないよ。」という言葉にどれだけの説得力があるのでしょうか。大人達が自らの個人的な成功体験(それは大いに、その当時の時代状況に依存しています)にしがみつき、「自分は勉強したからうまくいった。おまえもそうしろ。」といわれても、そもそも初期条件(ゲーム、ケータイ、インターネット)も違うわけですし、ましてや、それが何らかのcareerにどうつながっていくのかも見えにくいこの時代の子供達には空疎にしか響かないのかもしれません。

 このように、先が分からない時代の中、大人達が子供達に欠けるべき言葉は、「いいからだまされたと思って勉強しろ。後でいいことあるからさ。」ではなく、「それでもやはり、勉強をしよう。」という促しである必要があると僕は思います。受験勉強は確かに欠陥の多いものなのですが、しかしゲームが上達するよりは遙かに意味もあり、応用の利くものであると僕は考えています。そしてそのように始めた勉強は、受験のためのものを超えていくこともできるはずです。自分の興味関心を掘り下げて調べ、考えていくことは、単なる大学に入るだけのための勉強とは違って、入った大学の名前が通用しなくなるような時代が来ようと、子供達の手に残るものであると思います。
 福沢諭吉の『学問のススメ』があの当時あれだけのベストセラーになったのは、江戸時代から明治時代となり、人々がどのように生きていけばわからなかったが故でしょう。現在も、行き詰まっているが故に、そのようなプチ『学問のススメ』ブームであるのだと思います。そのブームを「勉強(学問)をすれば生きていけるに違いない!」と思いこませたりするのに利用するのではなく、「それでもやはり、勉強をしよう。」という姿勢の大切さを子供達にどこまで伝えられるかが、大人にとって担うべき責任であると考えています。
 
 嚮心塾で、しっかりと勉強をしていきましょう。頑張ろうという一人一人の気持ちに対して、決して裏切ることのない指導を心がけています。              2009年12月18日

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

過去のパンフレットの巻頭言です。その4

積極的な指導・管理≠積極的な勉強。

 嚮心塾では、基本姿勢として、生徒の自主性を出来る限り信頼したいと思っています。なぜなら、たとえば塾が「積極的に」塾生の登塾日を管理しても、そこで塾生は強制されて消極的に通うだけであり、それは全体として良い方向へと向かいはしないからです。塾に行って勉強することが自分にとって必要であることを本人が理解するという過程を省略しても、究極的にはうまくいかないと僕は考えています。また、予備校などは講義を「積極的に」行ってくれて、通うだけでとても勉強した気にはなれるのですが、しかし、それを聞き続けるというのは楽な勉強方法であり、それを喜んでいるうちは自分で勉強をするつもりのない受験生であるといえます。もちろん、これらもケースバイケースで、中には塾に通うことを義務づけてあげた方が上手くいく場合もありますし、勉強を強制してやらせることが必要な場合もあり、嚮心塾でもそのようにすることもあるのですが、ただ、そのような「積極的」方策を行う場合であっても、その功罪を見極めて慎重でなければならないと思います。
 当塾では中学受験をする小学生でさえ、6年生になると徐々に自発的に勉強をしてくれるようになっています。世界王者を何人も育てたボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントさんはよく、「彼は何も教えない。ただ、(選手の心に)火をつけるだけだ。」と評されました。嚮心塾では生徒の心に「火」をつけ、さらには必要に応じて様々なことまで教えており、実際にその成果が上がるお子さんも(エディさんの門下生に占める世界王者の割合よりは)遙かに多いとは思うのですが、受験勉強そのものがボクシングよりも、受動的にその中に閉じこめられ、競わされ、ランキングをつけられてしまうという性質のものであるが故に、勉強へのmotivation(動機)もやはりボクシングジムの門下生ほどは高くなりにくい生徒も多く(当たり前のことですが)、このようなやり方がいまいち理解をしていただけないことがよくあります。
 このような手法、主張に対してよくなされる反論として、「現実にそのようにやってみたが、やっぱり上手くいかなかった。子供なんてそんなものだ。そんな理想論では甘えを許すばかりだ。」というものがあります。しかし、このような「現実論」はいくつかの失敗から出した性急な結論を、唯一の真理と思いこんでいる、という失敗を招きがちです。もちろん、このような性急な結論を出さざるを得ないのは、受験の時期は決して子供の自発的な成長を待ってくれないからです。特に、中学受験や高校受験では「志望校に入れないから浪人します」とはいきにくいために、親御さんはますます焦りを感じざるを得ないのも致し方のないところです。これは何よりもまず、就職とリンクした日本の大学受験自体が、このようなやり直しのききにくいシステムであることこそが問題であるのです。しかし、そのように焦ることがかえって、肝心の受験自体にも悪影響を生んでいる場合も多々あるということを忘れてはならないと思います。
 親であれ、教師であれ、「育てる」とはどういうことであるのか。それを僕は「社会の圧力からこの身を通じて全力で自分の子供を守った上で、『そのようにさぼっていていいのか』と子供達に真剣に考えてもらうこと」であると考えています。「外部からの圧力を断ち切った上で、子供達の心の中へと投げかけて、考えてもらう。」とでも言いましょうか。そのようにしていく覚悟と、勇気とが、すべての育てる立場に立つ大人にとって、不可欠なものだと思います。徹底的に「子供達を守った上で、しかし甘やかさない」、という覚悟です。
 話を元に戻すと、教える側の「積極的な指導」が必ずしも生徒の「積極的な勉強」を促すとは限らないどころか、むしろ逆であることが多いように思います。もちろん、教える側がずっとお茶を飲んでいて、何も教えない、というやり方でも運営できるような教育の場は、そもそも導入段階で生徒に求めるレベルがかなり高いところにある、というのもまた事実です。そのようなやり方にあぐらをかいているのでは、やはり間口の狭い塾になってしまうでしょう。嚮心塾では、そもそも机に向かうのが苦痛である、あるいは鉛筆を持つのも苦痛である、という子達にも、こちらが汗をかき、徹底的に力になりたいと思っております。しかし、ある一人の子との関係において、leturer(講義をする人)やentertainer(楽しませる人)あるいは、administrator(管理する人)としての教師という関係性から僕自身が抜け出していき、よき伴走者となれるとき、僕はeducator(教育者・引き出す人)になれていると感じています。そのように、一歩一歩をしっかりと自分の意志で歩み、努力をして学習していく場としての、嚮心塾に、興味をもっていただけるとうれしいと思っております。                  2009年9月19日

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop