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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「目的来店型」の塾。

今年は現役生がだいぶ合格=進学しているので、塾の経営がやばいです!!
それでも合格してくれることには喜びしかない、というのもまた面白いところですね。

さて、ラーメンマニアなら誰でも知っている有名店主さんである渡辺樹庵さんが最近Youtubeを始められて、deepな話を毎回聞けるので僕もチェックしているのですが(話は変わりますが、テレビがこれだけ廃れて、Youtubeがこれだけ発達して芸能人もそこに参入して成功しているのは、一人一人の話を深堀りする、という番組がテレビではもうほとんど絶滅しかけている、ということにもよるのだと思います。最大公約数的に誰もが見るけど誰もが見たいとは思っていない番組を作っていった結果として、一人一人の話を深堀りできなくなったメディアが現在の末期症状的なテレビである、と思います)、その中で「目的来店型」と「衝動来店型」というラーメン屋さんの違いについて話をされていました。

おそらくこのワード自体はミシュラングルメガイドの三ツ星の定義が「旅の目的になるレストラン」というところからきていると思うのですが、コロナ禍で飲食店が苦境に立たされる中で、「とりあえず繁華街で人通り多いところでそこそこおいしくて入りやすいお店開いておけば儲かるでしょ!」といったお店が家賃の高さも相まって閉めざるを得なくなる中で、立地が悪かったり行列ができたりでハードルが高いけれどもそれでも「このお店じゃなきゃ食べられない!」というお店はこのコロナ禍でもその強みを発揮して、あまり影響を受けていない、というお話でした。

とても勉強になるとともに「嚮心塾も目的来店型を目指さなくては!」という気づきを得られて良かったです!


というところで終わると、「あれ?あいつ、とうとうあのうざい長文書けなくなったか!」と悲しまれるコアなファンの方も数人はいらっしゃると思うので、長々と書きますが、たとえばラーメン店にしても目的来店型になるためには、実は「おいしいラーメンを提供する」だけでは無理だと思っています。そこのお店で食べる、ということ自体が味はもちろんおいしいとして、その店主さんの仕事ぶりや空気感、お客さんの雰囲気、その他諸々が他では得られない特異的な体験であるからこそ、そのお店は「目的」になりうるわけです。

面白いのは、ここでそのようなラーメン店主は「感動体験!」を全く目的にはしていないところです。もちろんそういう「あざとい」お店も中にはあるのでしょうが、そういったあざといお店はそれほど感動もできなければ、目的にもなりえません。「お客さんに美味しいものを食べてもらいたい」「お腹いっぱいになってほしい」などといった彼ら彼女らなりの目的へと必死に邁進することが、彼らの「個性」を際立たせていきます(マックス・ウェーバーのSacheですね!)。そのような人生をかけた必死の努力の結果として、その日々の努力やその成果を感じるお客さんが店主さんのその個性を尊重するために、お店自体が一つの「場」としての力をもち、互いに配慮したり様々な不都合(行列が長い、とかサービスが悪い、とか愛想がない、とか)といったものを乗り越えて店主さんの努力している部分を評価し、味わおうとしていく、という表層の部分での評価基準を乗り越えようとする企てが生まれてくるわけです。

これを学習塾や予備校にあてはめれば、「俺の話を聞くと人生が豊かになるぞ!」「感動体験できるぞ!」というバブル期の予備校講師のような「人生の師」となりたがるような授業がその「あざとい」ラーメン屋さんにあたるのでしょう。一方で淡々と授業の質や指導の質、さらには自分自身の勉強を徹底的にやっている講師がいる塾において、もしそのような型に魂を込めることから自己の生き様が溢れ出てきているのであれば、それは「目的来店型」になるのかもしれません。たかがラーメンであるように、たかが受験指導です。そんなくだらないことから「人生に大切な何かを伝える」などと大上段に自己の営みを正当化することは不可能です。所詮は各々の、あるいはその親御さんの「受験勉強頑張っといたらその後より有利な人生を送れるでしょ!」というエゴイズムの道具として機能しているだけにすぎないからです。それが「教育」という衣をまとった瞬間から何らかの意味のある行為に見えてやりがいを感じてしまう教育者というのは、人々の共同幻想に甘えて自己規定をしているだけだと思います。もちろん、嚮心塾の場合は受験指導にとどまらず、様々な生徒の悩みや苦しみを引き受け、サポートしていくことをも目標にしてやっているわけですが、これもそれ自体は何かしらの価値があることではありません。彼ら彼女らに話す相手が周りにいなくて、たまたまそれをこちらが引き受けている、というだけのことです。まあ、「王様の耳はロバの耳!!!」と深い穴に向かって叫ぶ時、その穴が偉いのか、という問題ですよね。それを教師が「一人一人の誰にも言えない悩みを自分は引き受けられている!」といった自己肯定感の根拠としてしまうのは、他者を自らの存在理由に利用する、不誠実な生き方でしかないと思います。

しかし、そのようなくだらないことにも、人生を捧げて、必死に悩み抜き、努力を続け、その結果として生き様が溢れ出ることはできるかもしれません。ラーメンなんかくだらないのと同じで、教育なんかくだらない。ただそこに、人生を懸けないかといえば、懸けて必死に取り組むしかない。そのように考えています。いつか、嚮心塾が「目的来店型」になれるときのために、今年も必死に取り組んでいきたいと思います。

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嘘つきにつける薬。『ディスタンクシオン』

相変わらず塾はバタバタと忙しいのですが、今その合間を縫ってピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいます(「ディスタンクシオン」とはdistinction「区別」のフランス語です)。本当に素晴らしい本であるので、やるべきことを後回しにしては、ついつい読み進めてしまっているところです。。

この本の何が素晴らしいって、本当に容赦のない、何ら手心を加えることのない考察の数々ですよね。私達自身が自分の「個性」や「長所」だと思っているものがいかに、それ自体の内容を気に入っているかのように私達がうやうやしく振る舞おうとも、それが他の階級との差異を生み出すために選択されたコード(code)にすぎず、その内容について実は私達はさほど興味ももっていないし理解もしていない、ということを暴露してくれます。私達が「運命の出会い」と信じたいであろう自分のパートナーとの出会いですら、いかに打算に満ちたものであるのか、いかに暗黙の了解としての所属集団のハビトゥスに囚われたものであるのか、を示してくれます。自分のidentityとして信じたいものを私達は信じようとしているだけであり、しかしそれは社会の中での所属階級(それは現在所属している階級であるだけでなく、自身がそこに所属したいと思っている階級)への帰属感を示すためである、という意味ではそれはむしろ自分自身ではないために用いられるものであるわけです。

この本は私達が「私」や「貴方」として信じたいと思っているものがいかに一人称や二人称ではないのか、徹底的に外被を剥ぎ取っていきます。この本の中に出てくる様々な人々が「自分の趣味や好みを語るパート」の残酷さといったら!彼らが自慢気に語る自らの「趣味」や「思想」、「芸術観」といったその全てが、社会学者の冷徹な目によっていかに彼ら自身のものではないかが浮かび上がる、という仕組みです。本当に性格が悪いったらありゃしないですよね。

しかし、それが本当に素晴らしい。何より、言葉がこんなに容赦なく、真理を穿つために用いられ続けることに感動を覚えます。私達はとかく嘘をついては自分自身の立場を擁護するために言葉を使い続けてしまっているので、この社会全体にもそのような嘘の言葉ばかりが、政治でも仕事でもその他全ての人間関係の中にも充満して、あたかも本当のことをしゃべること自体が何か「空気の読めない」「社会人ではない」かのように非難されてしまう、という狂気の沙汰になってしまっています。そんな中で、これほどに言葉をひたすら、私達の信じたいもの、そうであってほしいと願うものを容赦なく剥ぎ取っては、私達自身のアイデンティティがいかに空虚で無内容なものでしかないかを描くために用いてくれていることに、本当に深いところから呼吸させてもらえる気がします。

嘘は、本当のことを伝えるために使われるとしてもなお、嘘であり続けます。その嘘に内包された善意によって一時的に正当化されたとしても、その内包されていたはずの善意すらも嘘は自分の都合の良いように定義し直してしまいます。そのようにして、不正に手を染める誰もが「これは仕方のないことだ」とゴールポストを動かし続けることになり、それを何とか正当化し続けようとする人生になっていきます。

私達に必要なのは、自分が見たいものを見たり信じたいものを信じたりするために嘘を吐き続けることではなく、自分の見たくないものを容赦なく見ようとしていくことなのではないでしょうか。言葉はこれだけ嘘を吐くことに用いられ続けてもなお、嘘を吐かないために用いることもまたできるのです。

衒(てら)い、とは自己イメージを作り上げては見せびらかすためであり、つまりそれは他者との「差異」を作るために内容を必要とする、ということです。これは前衛的な芸術を追い続ける、という態度にもまた現れるのだと思います。

どのような熱烈な「信仰」告白も、私達が追い求めるその価値が、「差異」を示すための「アクセサリー」あるいは「IDカード」以上の何かを内包していることを自明には示しえません。僕が信じる価値も、僕がそもそもこういった本を自分で「読まねばならない!」と感じて読もうとすることも、ブルデューの言うように僕の人格の奥底にインストールされた、自己を他者と弁別しては優位性を保つための権力意識に引きずられて行われる行為であるのかもしれません。それは光るものを集めるカラスのように、意味を理解しないままに習性として行われる、悲しい行為であるのかもしれません(もっともカラスに聞いてみたら、彼らには彼らなりの内実のある動機があって、我々人間の方がよほど内実のない動機から「文化的」に振る舞おうとしているのかもしれませんが。。)。

しかし、それでもなお、嘘の言葉ばかりが溢れかえる中で、このように本当のことを語ろうとして紡がれるむき出しで命がけの言葉には、誠実であらねばならないと感じます。そのような言葉には僕自身が「差異」を作ることでこの社会の中で立ち位置を確保しては生きていくためなどという低俗で下らない目的よりも、はるかに大切な価値があると信じています。それが、マタイの福音書でイエスがペテロを「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱ったときの「神のこと」であるのかな、と考えています。もちろん僕はそれを「神のこと」とは言いませんが、「人のこと」より大切なものがあることもまた確かである、とは思っています。


という本当に素晴らしい本である『ディスタンクシオン』がなんと、岸政彦先生の解説でNHK教育テレビの『100分 で名著』で12月に4回に分けてやります!!大部の本ですし、読むのは大変ですが、テレビは必見です!!

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立ち位置を決めることの功罪について。

今年は受験生が多いので大変だなー、とは思っていたのですが、予想以上に大変です!!
これは12月、1月、2月なんてどうなっちゃうのか、ちょっと想像しちゃうと辛くなるので…。という感じで一日一日に集中しています。

さて、立ち位置を決める、という振る舞いが賢いことや戦略的であるかのように語られる風潮、というのはありますよね。「競合を避け、自分の強みをどう活かすか」を分析することで生き残ることができる、みたいな。ビジネス界隈ではよく言われることですし(使い古された「レッドオーシャン」「ブルーオーシャン」とか)、政党なんかも立ち位置を決めて、「こんな主張だと受け皿になってる政党ないんじゃね?」と考えては自党の主張をそちらに寄せていく、とかよくあることです。新しい国民民主党とかはそういう感じですよね。

ただ、この「立ち位置を決める」というのは一見賢そうに見えて、色々と問題があると思っています。
なぜなら、生き延びていくために相対的にどの位置取りをするか、という行動様式はどうしても自分自身の初期衝動や理念からは遠いものになることを肯定せざるを得ないからです。

「そうは言っても、生き延びるためには仕方がないんだ!」と開き直ることはできるでしょう。しかし、自分が当初大切にしようとしていた理念や思いを捨ててまで生き延びることに何の意味があるのでしょうか。そのようにして、「生き延びる」ことを目的としては何のために生き延びるのかがよくわからないようなゾンビ状態になりがちな組織、あるいは個人、というのは山程います。

言い換えれば、立ち位置を決める、というのは自身が生き延びることを前提にした態度であるのです。まさに自分が存在しないことを想定していないわけですから。しかし、どのような個人も、どのような組織も、いずれ存在しなくなります。そうであれば、自らが生き延びるために立ち位置を考えていく、ということが自らが生きるに値いする目的を損なうのかどうかを我々は常にチェックしていなければならない、ということになります。そうでなければ、必死に立ち位置を探しては決めたものの、そこに存続し続けるものはガラクタどころかむしろ有害無益なものでしかない、ということになりかねません。

一方で、自らの死、あるいは自らの消滅によって自分が生存していたことに何らかの価値を付与しようとすることもまた、傲慢であるとも言えるでしょう。死や消滅は、どのように自らの存続を「美しく」閉じようとも、何らかの価値を新たに付与するものではありません。「醜く生き延びるのであれば、美しく死にたい!」という思いは正しいとしても、それは「死ぬ」ことがそれまでの自分の人生を美しいものへと粉飾することには繋がり得ない、という事実にも思いを馳せねばならないと思っています。

だからこそ私達は生き延びるために自らの志を失う危険性に絶えずさらされながら、かといってその難しさに耐えかねては綺麗に閉じるために死を選ぶことすらできない、ということになります。全く、どんな厳しい罰ゲームであるのか、ですよね。生き延びることだけを自己目的化する方向に堕落することは容易であり、「生き延びない」という決意を見せることで空虚な自分の人生に価値づけをできたかのように錯覚することもまた、容易です。そのどちらにも陥ることなく、日々敗北し続け、失敗し続けては、何とか意味のあることを為そうともがき続ける、というこの罰ゲームは、私達人間の忍耐力のキャパを凌駕してしまっているのでしょう。

しかし、それでも。そのように細い細い綱渡りを、悩みもがき苦しみながら必死に取り組んでいる先達や同時代人がいる以上は、諦めるわけにはいきません。僕自身は、上記のような人生の全体像に気づき始めた頃(高校生)は、「いかに自分がそのような細い細い綱渡り」を諦めてよいか、それをどのように正当化できるか、に傾注していたときでした。「そんなしんどいことをやって生き続けている大人なんか、まわりにはいない!」ということを理由にして、ですね。ただ、数は少ないながら、そのような大人が僕の周りにも一人いちゃったんですよね。いちゃったからには、やらないわけにはいかない。そのように始めてみれば、いやいや。もちろん絶対数としては圧倒的に少ないながらも、しかし、そのようにしんどい道を諦めることなく闘い続ける大人がどれほどいるか、ということに気づき続けることになりました。彼ら彼女らのもがき苦しみとともに。

自分が生徒たちにとってそのような存在になれているかどうかは自信がないところではありますが、今はなれていないとしても、そのようになることを諦めたくはないと思っています。もちろん、そのような存在に僕がなることが、彼ら彼女らにとって極めて迷惑である(ジャン・バルジャンにとって馬車の車輪を直してしまう人のように)ともわかった上で、ですね。

立ち位置を決めることが、既存の社会の中に自らを位置づけようとすることであるのだとしたら、自分が信じる道を歩き続ける、ということは、新たな社会を準備していくことであると思っています。もちろんその「新たな」社会がより良いものになるかどうかは、以前にも書いたとおり、わかりません。「新たな」という言葉が引き起こす幻想でごまかしては前に勧めても仕方のないことではありますが、少なくともそれがこの社会よりはより良いものになるように、という祈りを込めて努力をすることと、それが本当に良くなるのかの検証作業はできるかと思っています。そのどちらもが、(僕も含めて)既存の社会の厚顔無恥さに苦しむ人々にとっては生きる目的になるとは思っています。

賢さ、と対立する概念は愚直さであるのでしょう。この社会に足りないのは、賢さではなく、愚直さである。
そのことを伝えられるように、僕自身がまずは愚直にやっていきたいと思います。

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「先を読む」ということ。

日々忙しくしているのはもちろんなのですが、この9、10月はどうにも絶望するきっかけが多く、精神的にも大変不調でした。もちろん、「絶望するきっかけ」というのはそのようにも解釈しうる、というだけで、絶望するという行為を必然的には意味していません。ただ、自分の中で様々な対象に認識が進んでいくことと、一方で目の前で見せられる幼稚さ、拙さ、考えの足りなさ、覚悟のなさの一つ一つ(それはもちろん他者のだけではなく、自分自身のそれをも含めてです。)とその認識とのギャップとに、だいぶ苦しんでいたと思っています。

もちろん今もまたその状態が何かしら解決するどころか改善はしていないです。むしろ展望としては生き続ければ生き続けるほどに悪化するしかないことではあるのですが、「生き続ければ生き続けるほどに、この乖離は拡がり続けるしかない」という認識を再確認できた上で、生き続けることに日々決断を要するということが(物心ついた頃から変わらず)僕にとっては当たり前のことである、と気づけたのは良かったと思っています。

生きるとは、自分が「根っこ」として大切にしよう、と思っていた部分がいかに空虚で軽薄であるかを気づき続けることであるとともに、しかし自分はいかにその空虚で軽薄な根っこからは逃げることができないか、という事実を直視し続けることであるとも思っています。気づかないようにすることも、気づいて放棄することも、それは生きることを辞めることであると思っています。その「(根っこの)掘り直し」のプロセスが、ときには必要であると思っています。

これだけ書くとご心配をおかけするかもなのですが、まあ平常運転ですね!

さて。受験生の中でスタディサプリとかN予備とか、映像授業のサブスクリプションをとっている子も多いとは思います。映像授業といえば、東進が先駆けなのでしょうが、これだけ安価で日本全国に広がってきていることは基本的には素晴らしいことであると思っています。コロナ禍での大手予備校の映像授業へのシフトは中途半端に終わってしまいましたが、これはとても残念なことであると思っています。もちろん「ライブ講義」でなければ質が担保できない、という超・超一流講師の方も存在するとは思うのですが、参加者に応じて毎回毎回違う授業をできる超・超一流講師の方、というのは基本的にはそう多くはないと思うので、基本的には動画の方がむしろ何回でも再生できて生徒がわからないところを繰り返せる、という点でも優れていると僕は思います。

もちろん映像授業の著作権は誰にあるのか、とか報酬はライブ授業と比べてどうするのか、とか、クリアすべきところはあって、それが急速に進んでは現在頑張っておられる予備校講師の方の生活が脅かされるのであれば、それは問題であると思います。そういった点はクリアしていかねばならないとは思います。(まあ、それを言うならそもそも学校の講義とかすべて動画でよくない?というのはあります。動画なら先生にやる気のない/力のない講義は見ないこともできますからね!)

ただ、嚮心塾がオンラインで存続することについては、不可能であると思っています。この形式の受験勉強というのを東京に住んでいる人だけではなく全国に広められれば地域間の教育格差は必ず縮小できる(なぜなら低コストな勉強方法であるからです)と確信しているのですが、僕自身、生徒の立ち居振る舞い、表情、行動パターン、言葉の使い方、お菓子の食べ方、視線の動かし方など、様々な情報を観察、収集した上で、どのようなアドバイスをしていくのかを考えています。これをオンラインでZOOMなどを使って行うのは無理である、と思います。

もちろん、それを「嚮心塾」である、と再定義をすれば可能であるでしょう。コンビニで売っている「名店の味」のカップラーメンのように、ですね。それは広告となり、認知度を上げることにもなるでしょうし、更にはクオリティに目をつぶれば儲かることにもなるでしょう。いえいえ。大義名分だって立ちます。世間に溢れかえっている眉唾の、主語の限定性への意識薄弱でそれを唱える人間の知性を疑わざるを得ないような「東大生の勉強法」的な粗悪な情報よりは、まともなものを提供できることもまた事実ではあります。しかし、それは僕が人生を費やすべきことではありません。

教育というのは本当に難しいものです。一人一人に対してその子の状況に応じて良かれと思うアドバイスをする、などというのは当たり前の当たり前の当たり前のこと(もちろんそれですら、ほぼどこの高校でも予備校でもできていないわけですが)で、それをしたとしても、どのような部分で引っかかり、どのように理解しているのか、その「誤解」や「理解」の一つ一つをときほぐしていかねばならない、という課題が絶えず残り続けます。本人が努力を怠るのならまだしも、本人も教師も必死に努力してもなお、伝えられないものが残り、伝わっていると思っているものが誤解され、そして結局それが受験の失敗という形で現れます(もちろん、受験には成功したとしても人間としての教育という部分での失敗が残る、というケースまで含めれば、なおさら難しいです)。

その難しさに目をつぶり、あたかも「このやり方さえ踏まえれば、大丈夫!」と断言するという粗雑な行為を、受験生へのプラセボ効果を期待しているというこれまた大義名分のために自分に許し、そのやり方をその一人の受験生がどのように踏まえられないのか、どうして踏まえてもうまくいかないのかについては思考停止をした上で、「自分は最善の方法を提示している!(からそれ以上は本人の責任だ!)」と開き直るのが教育であるのであれば、そのような教育など滅びた方がいい。しかし、僕はあまり自分を信用していません。コンタクトレンズではなくメガネをしているだけでもレンズの向こう側とこちら側とを分けては自分の思考に籠もりたいくらいに、本来的には他者への関心を持っていません。そんな僕が、画面を通して得られる限定的な情報に「歯がゆさ」を感じないために、ここまでに書いた様々な大義名分で自分を説得し始めては粗悪なものを垂れ流しては、自分と生徒との間の認識の齟齬に悩まなくなるのにも、そう時間はかからないでしょう。

少子化が進み、さらにコロナ禍でリモートが進み、という中でこの「直接来てもらう」「対面で教える」という教え方はいずれ絶滅するのでしょう。それが来年なのか、5年後なのか、10年後なのか、もうちょっと猶予があるのかはわかりません。ただ、そこで「先を読む」ことをして、そこに対応できるように仕事の形態を変えていく、ということがそもそもその仕事の意義を損なうものだとしたら、そこで「先を読む」ことは、「ここに意味がある!」と思って始めた仕事を、それが生計を立てるために必要だという理由で、意味がなくても続けることになってしまいます。そのような仕事には、あるいはそのような人生には、僕自身はあまり意味がないと思っています。もちろん旧態依然とした今までの有り様をただ惰性ゆえに変えたくない!としがみつくのもまた愚かな振る舞いです。ただコロナ禍で「新しい生活様式」「新しい仕事の有り様」と「新しい」を連呼しては、今までのやり方の意味や限界についてしっかりと考えることを排除していこうとするこの流れは、やはり僕には全体主義的である、としか思えません。

「新しさ」や「前衛的」、「先」を何か価値があることの根拠として語る人間、というのは、基本的には詐欺師です。「改革」ブームに国民が踊らされた結果、郵政民営化によってとうとう土曜日の郵便配達までなくなるそうですね。これが我々が望んでいた結果なのでしょうか。「新しさ」は決して、何もその新しいことの価値を保証しません。新型コロナによって我々が距離を保った生活を強いられるとして、それを「新しい生活様式」と呼んでは何かそれに対応できることが偉いかのように振る舞うのは、それが我々が自発的に選ぶべき価値があるものであるかのように宣伝することで、政府自身の無作為から目を逸らさせるためのものです。

「先を読む」ことが、自身が何を大切にしていたのかを失うことに繋がるのであれば、目的を忘れて生存し続けることを自己目的にすることになってしまいます。また、「先を読まない」で旧態依然とした制度にしがみつく人間であることを恐れるあまり、「先」や「新しさ」に何らかの価値があることを当然の前提として生きるのは、自身が嫌悪した旧態依然とした人間と同じく思考停止している状態でしかない、と言えるでしょう。ことほどさように、人間にとって考え続けることは難しい。人間は自身が考え続けないですむためのあらゆる逃げ道を探し続けている、とも言えるのだと思います。

そのような愚かしさに塗れたこの我々の歴史の中で、考え続けようともがき続けることは苦痛と苦悩しか生み出さないとしても、それでも考え続けていかねばならないと思っています。

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絶望をしないために、絶望をし続ける、ということ。

気がつけば、もう9月も後半です。いつもここからが早いのですが、今年は特に受験生が多く、日々を忙しく過ごしている間にあっという間に時間が経ってしまいます。とはいえ、ブログも何とか書いていきたいと思います。

安倍政権も終わりました。終わってみて改めて気がつくのは、「安倍さえ辞めれば世の中は少しはマシになる!」という希望を抱くことがいかに儚いか、です。私達はどうしてもそのように「これさえ変われば!」と儚い期待をしてはみるものの、その一つが変わったとしても全体としては何も変わらずに裏切られては絶望する、という失敗をしがちではないでしょうか。

減量する、という意味でのダイエットも同じです。「これだけ食事制限をしている!」「これだけ運動をしている!」という自分の努力ばかりに目をやっては、そのことだけから「こんなに努力してたら、一週間で3キロは痩せちゃうな!」などと勝手な期待をしてしまいます。もちろん、それとは別にアイスを食べてるとか、糖質制限をしてもその分肉を食べる量を増やしている、とかいった負の側面には目を向けないで、です。そしてそのような都合の良いところだけをかき集めてはようやくそのように定義できるレベルの「努力」を続けても結果が出ないことに勝手に絶望し、そしてさっさとその目標を諦めます。

これはまた、受験勉強もですね。努力をしたことがすぐに結果にでるわけがないのが受験勉強です。学校の小テストや定期試験は努力すればそれなりにすぐに結果が出ます(その代わり、その努力は実力としてはほとんど残りませんが)。それに対し、受験勉強にはそのように短期間にガーッと頑張ったらすぐに結果が出る、ということがありません。また、勉強量や時間としては十分であっても正しい方向性の努力でなければ、結果は出ません。そのようにすぐには結果が出ないことに対して、自身の努力の仕方や量が間違っているかどうかをしっかりと反省をすることなしに「どうせやってもムダなんだ!」と性急な結論を導き出しては絶望する。誰にでも経験のあることではないでしょうか。

ことほどさように、私達は絶望したがっているのです。あまり絶望先生(久米田康治先生の名作です)を笑えませんね。多様な事実の断片を都合よく取り出しては、自分の努力がいかに報われないか、自分がいかに悲劇の主人公であり自分に非はないか、などと自分が諦めていい理由を探し続けています。人間の理性は、そのように自分が努力をしないためにならフル回転をしてくれます。一方で、そのような厳しい現実をどのように切り開くのか、についてはかなりお尻を叩いてもあまり働こうとしてくれないのに、です。

そのような人間の情けなさ、だらしなさに対して、しかし受験だけは言い訳がききません。どんなに「私は頑張った!」と言い張ろうと、落ちればそれはその子の努力が足りなかったことを表します。もちろんこれはどこの大学に進むかに極めて大きな価値がある、ということではありません。この尺度をこの社会がどのように不当に高く評価しようとも、その尺度では測れない努力や実力があることもまた厳然たる事実です。しかしそれは、言い訳がきかない。先生に気に入られてごまかせるものでもない(最近の推薦入試やAO入試の拡大はそれを掘り崩すものでもありますが)。そのように自分がちっぽけな努力を言い訳にして諦める理由を見つけては背を向ける、ということを許さないだけの一つの関門が受験である以上、それは自らが絶望をする理由を探すことをやめて、諦めないで必死に結果を出そうとする、というトレーニングにはなるはずです。

そして、そのためには厳しい現実を見つめ続け、日々絶望し続けなければなりません。自分のちっぽけな努力では何も動かないことを直視し、それでも方法を工夫したり、時間や量を増やしたり、他に改善できるポイントがないかどうかを探し続ける、ということをやっていっては、再び自分に実力がない、という現実に絶望を突きつけられる。この「何とかしよう!」とするがゆえの日々の絶望を、どれだけ毎日毎日、いや毎瞬間毎瞬間繰り返すことができているのか。そこにこそ、希望があると思っています。

翻って、政治についてもまた同じですよね。ささいな努力に何らかの効果を期待してはそれがうまくいかずに絶望するのでは、三日坊主のダイエットやすぐに諦める受験生と何も変わらないといえるでしょう。日々絶望し続けては、しかしより良い方向へと変えられないか、努力をし続ける。その一人一人の地道な積み重ねを通してしか、変わりようがないのです。圧倒的に、日々の絶望が足りない。それを自分にも生徒たちにも言い聞かせては、必死にやっていきたいと思います。

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なぜ問題集を理解する前に解いてはいけないのか。

どうでもいいことは書きたくない!と思うと、なぜこんなしんどいテーマを趣味のようなブログで書こうとしているのか…というくらいに疲弊するようなテーマについて書くことになり、結果、丹念に議論をしなければ危険である、ということになっていっては、忙しい中ではその気力が続かずにお蔵入り…という、このブログ特有の失敗のサイクルに陥りつつあります。(ということで書きかけの記事が今5本!)なので、書いてはブログをアップするハードルを下げるためにも、今日は書きやすい教育のことでも書こうかと思います。

しかし、ほとんどの受験生、特に受験勉強を始めたばかりの受験生が学校でやらされている、理解する前に「問題集を解く」「入試問題を解く」(and解答を覚える)というプロセスでは何も力がつかないことが多いようです。そのために嚮心塾では「数学の教科書を読む!!」「英文法の概説書を読む!!」ということを全教科にひたすら徹底してきましたし、また今でも口を酸っぱくして毎日それを言っています。

これはもちろん理解をする前に「問題を解いて慣れる」ということを目指してしまえば、結局プロセスを理解できていないままに、結果を覚えるだけになってしまうからです。このような覚えるだけの勉強でも定期テストはなんとかなってしまいます(逆に覚えるだけのテストではなんともならないような定期テストを作れば、高校を卒業できない子がたくさん出ててきてしまいます。例えば数学で言えば、青チャートを試験範囲にしている「自称進学校」はとても多いですが、その生徒のうち何%がそれを理解して解けるかといえば、怪しいです。結果解答を理解していないままに覚えるだけになります。しかし、定期試験ではその問題をアレンジすれば誰も解けないため、そのまま出され、覚えているだけでもなんとかなってしまいます)。なので、たとえば「目に映るすべての英文を品詞分解できなければならない」「教科書に乗っている定理や公式の導出をすべて見ないでできなければならない」などと、「理解」とはどういうことかを言語化して、それを新たな目標として生徒たちに徹底する、ということを嚮心塾では徹底しています。

ただ、教えていて常に疑問であったのは、なぜそのように高校生の勉強の質が落ちるのか、ということでした。もちろん、理解も中途半端な生徒に「この問題集さえ周回していれば、実力がつく!」と喧伝しては必要なステップを用意することなく結局解答の丸暗記を強いている高校の教師の指導がひどい暴力であるのはもちろんとして、です。しかし、それを受ける側の高校生がそのようなアホな指導を「ああ、アホだな。。」と思いつつ、一つ一つしっかり理解していけばよいわけです。それをなぜ高校生がしようとしないのか、についてはいまいち動機がつかみにくいな、と思っていました。

それに関して最近理解できてきたこととして、「人間は多量のものに対して、注意力を失っていく」という事実ゆえであるのかな、と考えるようになりました。これはベルクソンがよく書いていたことですが、繰り返しは「質」を吟味することを忘れて「量」としてしか認識させない、とか、「量」とは「質」を失った質である、というものです。

端的に言えば、人間というのはあまりに膨大な量を咀嚼しろ!という命令や強制に対しては自己防衛本能からそれを理解しないように、受け止めないように、という行動パターンを取らざるを得ない、ということであるのだと思います。これはたとえば暴言を家庭内でずっと吐かれ続ければ、相手の言葉の意味をうけとらないようになっていく、とか、口うるさく注意をする母親の注意を子どもたちはすべて聞き流すようになっていく、とかいわゆる「虐待」の現場ではよく見られる症状です。

つまり、大量の問題集を学校の先生に宿題や小テストで強制される高校生たちは「虐待」を受けているのと同じです。これは中学受験でもこなしきれない大量の宿題を出す塾とかではそうですよね。その中で彼らは、「理解しよう!」と思えば思うほどに何も理解できないことにどんどん心が傷ついていくので、自分自身を守るために「これは理解できなくても、覚えればいい!」と誤った学習をしていきます。そしてそれで定期試験は先述の通りなんとかなってしまうので、そのような誤った学習法については反省をする機会を得られません。そして、大学受験になって、その今までの努力が意味のなかったことを突きつけられる、ということになります。

というこれらの事態は、まさに内田義彦が戦後すぐに「「天皇家の家系図など、意味のないものだけどこれは『暗記物』であり、試験に出るから覚えろ。」という教育が連綿となされ続けては考えることを放棄してきたこの国の教育こそが、この戦争(太平洋戦争)を引き起こしたのではないか。」と指摘していたのと、今も変わらない、ということですよね。

さて、それが「大学受験にはそれでも通用しない」ということがあるからこそ、そのような勉強がいかに意味がないかに高校生たちは気づくチャンスを得られています。もちろん、そこまでに無駄にされてきた彼らの努力や時間を無視するわけにはいかないし、そのようなわけのわからない強制をさせてきた教師たちの罪も見逃すわけには行かないにせよ、です。それよりも恐ろしいのは、大学受験までが推薦やAOだけになってしまい、「高校での教師の生徒に対する評価」が進学を大きく左右することになる(現在、高校入試がそうなってしまっているように。。)ということになっていけばいくほどに、このような無意味な努力に若い人たちが気づく契機は永遠に失われていき、教育は文字通り死に絶えていきます。だからこそ、大学入試における一般入試の大切さとともに英語民間外部試験の導入とかe-ポートフォーリオとか、教育産業利権のための、業者のいっちょかみのために入試制度を「改革」しては、せっかく大学の先生達が必死に作ってくれている入試を破壊しては、わけのわからない基準を次から次へと導入していくことは、この社会の根幹を破壊することになってしまうのだと考えています。

僕は「一点刻みの入試の残酷さ」よりも比べるべくもないくらい、さらに残酷なのは、「子どもたちが教師の好き嫌いとそれに基づく主観的評価によって人生を左右されてしまう社会の残酷さ」であると思っています。なんとかそのようにならないためにも、色々ともがき、戦っていきたいと思います。

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苦手なこと。

今年の卒塾生の体験記が全く集まってこないので、塾の宣伝をしようにも、宣伝が全く進みません。。このままだと「理三・阪医合格者を出しておいて倒産する」という新たな伝説を作ることになるのでしょうか!(それはそれで面白いですが)
仕方ないので、体験記の代わりに、できる限り僕がブログを書いていきたいと思います。(まあ、僕が書けば書くほど集客という観点で見たら逆効果なのでしょうが!)

さて、何が苦手といえば、この教えていた子が受験で第一志望に合格した後のことほど、苦手なことはありません。
なぜかというと、あまりそれを一緒に喜ぶことができない、という自身の欠陥が僕にはあるからです。
もちろん、様々な思いがあったとしてもそれらを見せずに徹底的に喜ぶ!という役者のような役割をまっとうする
ことが教師としては必要であるのだ、と思います。そう思って色々と努力はしているのですが、やはりまだまだぎこちないままです。

根本的には、僕は人間の喜びにはあまり興味がなく、人間の苦しみ・悲惨さに興味がある、と言えます。「興味がある」という言い方は不謹慎なだけでなく不正確で、もちろんそれを喜んだり、面白がったり、ということではありません。誰かが困っていたり、苦しんでいたりすることに対して「自分に何ができるか」を考えては行動することにしか興味がなく、その結果その難局をその人が乗り越えられたとしたら、もちろんその成功自体は僕にとっても極めて嬉しいことではあるのですが、しかし「僕の役割はとりあえず終わった。」としか思わない、ということがより正確な表現かもしれません。

そこで難局を乗り越えあった人同士が互いの親交を深める、とか、塾で言えば「一生恩師として崇め奉られる」とかには全く興味がありません。新約聖書のイエスの言葉を借りれば、それは「神のことではなく、人のことを心配している」ということでしかないのかな、と思っています。だからこそ、卒塾生に別に会いたいとも思わないし、たとえば卒塾生が「あのときのあの先生のおかげで何とかやれています!」というように挨拶に来てくれたとしても、そこにやりがいを感じたり、嬉しさを感じたり、絆を感じたり、ということよりも(もちろんそれらの感情が全くないわけではないのですが)、目の前の困っている子、あるいは卒塾生であれ、彼ら彼女らの今困っていること、苦しんでいることに対して、自分が何らかの力になることができないか、にしか意識が向かない、という傾向があります。(なので、卒塾生と世間話をする、ということはなく、卒塾生と顔を合わせるたびに彼ら彼女らの何らかの相談に乗る、ということしか僕にはありません。)

突き詰めて言えば、僕は誰かに感謝を受けるためにこの仕事をしているわけではない、という思いがあります。
もちろん、第一志望に合格すればまるで神様のように感謝され、滑り止めにも合格しなければそれこそ人でなしのように
扱われるこの仕事の中で、その相手からの毀誉褒貶をどちらも真に受けていてはならない、という思いもあります。
ただ、それ以上に僕自身があくまで探究しなければならないのは、目の前の子たちが少しでもまともな大人になれるかどうか(それは人間性のみならず学力の面でも、ですが)ただそれだけです。そこに関しては教える僕自身の自己満足的評価を
排さなければならないだけでなく、教わる生徒自身の評価すら、ときには疑い、厳密に吟味していかねばならないときも
あります。

そして、そのような吟味にとって愛着や郷愁、思い出というのはときに評価を誤らせます。
もちろん、「卒業生は皆友達だ!」的に仲良く付き合いを続けていくような関係性のすべてが
まずいわけではありません。そのような関係性だからこそ、腹を割って話せることもあるでしょう。
それがときには、このようなスタンスの僕よりも彼ら彼女らにとっては力になることができるかもしれません。

ただ、それはまた互恵的・あるいは相互に意義深くない人間関係に正当性があることを認めることになってしまうようにも思います。権威が個々人に思考停止を迫るのは、そのようなプロセスによるのではないか、と思っています。
だからこそ、僕自身は一人一人の直面している「問題」に、徹底的に取り組んでいきたいです。
その「問題」に協力して取り組むこと以外に相手との関係性を担保するものが一つも残らないように、ですね。
逆に喜びや楽しみを誰かと共有することは、この世界にとってはあまり生産的ではないと思えてしまいます。
その生産的ではないことに誰かと時間を共有する暇があれば、その時間を他の人が「問題」に取り組む苦しみを手伝うことに充てたい。そのように考えています。

人生は長く苦しいですが、しかしそのような「問題」が一人一人にずっとあるわけではありません。
大学受験を最後として、そのような取り組むべき「問題」が消失してしまったかのように振る舞い続ける
大人もたくさんいます(もちろんそれは本当に消失するわけがなく、そのように考えたり取り組んだりしてこなかったことのツケが、政治であれ社会であれ大きな問題として個々人の能力を超えた形でしっぺ返しとなってくるわけですが)。

だからこそ、僕はその「問題」を共有し、共に戦う場としての塾を大切にしていきたいと思い、あまりノスタルジーや愛着の対象にはしたくないと思っています。仮に彼ら彼女らの「問題」が、受験が終われば消失する類いのものであろうとも、
です。「合格(卒業)した後、塾に遊びに行っても柳原は冷たくなった!」とお思いの卒塾生の皆さん!どうか、ご理解をいただきたい。そして、君たちが取り組むべきものに必死に取り組み、戦っていただきたい。その上で打ちのめされたり、困ったことがあれば、いつでも力になり続けたい、と思っていますし、そのために僕自身も必死に勉強し続けたいと思っています。それが愛着に甘んじることのない、愛であるとも思っています。
(うーん。書けば書くほど「集客には逆効果」感が強いですね。。今年の卒塾生のみなさーん。早く体験記書いてくれないと、もっと僕がブログたくさん書いちゃって、本当に塾つぶれるぞー!(まさかの脅迫!))

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教室の模様替えをしました。

今日が国公立前期の最後の発表日で、発表待ちの状態です。落ち着かない気持ちを何とか紛らわそうとブログを書いています。

先日教室の模様替えをして、机を増席しました。去年はおかげさまで通ってくれる子も多く、席が足りなくなりかけることも多々あったところ、同じ建物の下のフロアが空く、というこれまたタイムリーなお話を管理会社さんからいただきまして、「これはとうとう自営業者・経営者の夢見る教室拡張のチャンスか!」と思って真剣に検討していました。ただ、嚮心塾のこの独自のスタイルはどうしても「一つの空間」というところが肝心要でして、これを(物理的な距離が近いとはいえ)もう一フロア借りる!となってくると、明らかに別の塾になってしまうかな、と。

もちろん先生を新たに雇ったりすれば、それはそれで楽しみなこともあるのですが、今この塾で僕がやっていることがあまりにも僕という「人」に依存したシステムを作ってきたしまったために、教室を増やしてどんなに優秀な先生を雇ったとしても、やはりそれは「紛(まが)い物」「嚮心塾風」になってしまうなあという結論に至らざるを得なくなり、諸々考えて、泣く泣く断念しました。代わりにあまりにも無駄なものとスペースが多い今の教室を整理し、無駄なものを処分し、そして増席をした、という次第です。(無駄なスペースめっちゃあったので、結構増席できました!)

たとえば「有名ラーメン店の味をご自宅でも!」というカップラーメンは山ほどあって、それは食べてみれば確かに「有名ラーメン店風」の味は確かにするわけですが、しかし本物とは比べ物になりません。では、麺やスープを直販で売っている「お取り寄せ」で食べれば良いかと言えば、それはそれで調理方法が違うため、やはりお店で食べる味にはなりません。
本物、というのは賞味期限も短く、そこにわざわざ出向いて行かなければ味わえないものです。

一方で、吉野家とか松屋とか、チェーン店の凄さ、というのもあります。あの味をあの値段で全国どこでも提供できる、というのはとてつもなく凄いことです。これに関してはどちらが偉い、とかどちらが凄い、とかではなく、密教と顕教の違いのようなものである、という話は以前にも書きました。大切なのはどちらをやりたいか、どちらが自分には向いているか、です。僕は圧倒的に「密教」寄りの人間なので、事業をスケールする、ということをこれっぽっちも考えていませんが、それを目標にして多校舎展開を、という塾を批判するつもりもありません。それは何を目指すかの違いであると思っています。(もちろん多校舎展開の帰結が、そもそも廉価でそこそこの質の保証のある教育機会の担保、ということには全くなっていないでただ害悪を垂れ流している場合も多々あるとは思いますが。それは同様に「小さな塾」で「面倒見が良い」というイメージにかまけて、それ以上の努力を怠る個人塾も多々あることと同じく、間違っています)

ただ、「密教風」は一番罪深いと思っています。「ここでしか食べられない味がある!」と言っては、さんざんどこででも食べられる料理を提供するようなものですね。嚮心塾にとって教室の拡大、というのはある意味でそのような「密教風」へと堕してしまうことにもなってしまうと思っています。

塾の生命線は、一人一人の生徒の観察にある、と思っています。教える必要はないのです。ただ、どこまでも徹底的に観察をしていくことが大切です。その「観察」のために会話やその他のやり取りも観察のツールとして使っては、一人一人の生徒の思考回路や感情を理解しようと努力できるか、が勝負です。
そしてそのためには、やはり同じ空間にいることがとても大切です。これに関してはたとえばZOOMによるオンライン指導なども感染症対策などのために緊急事態に導入するのならまだ良いのですが、全面的にそれでこのような「観察」を代替できるかと言えば、不可能であると思います。なぜなら、生徒が「会話をしたい」「指導を受けたい」ときだけ話すのでは圧倒的に情報が足りないからです。彼らが勉強しているときに無意識に過ごす中で出ているもの、意外な投げかけをこちらからしたときに、どのように反応するか、そういったすべてを観察するためには、やはり同じ空間で勉強をしてもらうことが必要であると考えています。逆にオンラインのビデオ会話であれ、メールやラインであれ、コミュニケーションを取りたいときにとられるコミュニケーションからはその子の思考回路や感情様式の全体像は決して見えてきません。だからこそ、嚮心塾では、「僕と同じ空間で勉強してもらう」ということを徹底しています。

ということで、多校舎展開は不可能ですね。。申し訳ありませんが、西荻窪まで通っていただくことを塾が終わる最後まで皆さんに強いざるをえないようです。(増席したので、席はたくさんあります!)

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骨折しました。

この受験直前のクソ忙しい時期(さらには卒塾生の結婚式にも出るという!)に、なんと人生初の骨折をしました。

しばらくはご迷惑をおかけしますが、何とか最後の追い込みを乗り切っていきたいと思います。
片手でキーボードを叩くので、ブログが書けないなー(普段からあまり書いていない)とか、片手だと塾の看板も出せないから宣伝ができないなー(これも普段からあまり出していない)とか、色々ありますが、ブログのネタもできた、と肯定的に捉えてはまあ元気にやっていきたいと思います。

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お久しぶりです。

だいぶ間が空いてしまいました。10月後半くらいから塾がバタバタと忙しく、11月はその合間を縫ってどくんごを見に行くための遠征にも行っていたため、気がついたらもう12月。センター試験までいよいよ1ヶ月あまりとなりました。

例年だとモチベーションを維持してもらうために指導時間の大半を費やさざるを得ない子も多々いるのですが、今年の受験生たちはしんどい思いをしながらも、皆真剣に頑張ってくれています。だからこそ、彼ら彼女らのその頑張りがしっかりと形になっていくように、こちらも知恵を絞っていきたいと思っています。

人間というものは努力の「型」がどうしても今までの人生の中で決まっているものです。ある方向への努力を厭わない子も、別の方向への努力に関しては、それが必要なことすら決して認めようとしないということが多々あります。受験勉強を間に合わせるために自分の足りないところを埋めていく、という作業は、そのような自分の脳内の「努力」にしかすぎないものを、どのように現実、あまりにも残酷でだからこそあまりにもフェアである現実へとすり合わせ、絶望を直視しては対策をしていくか、ということでもあります。

もちろん、それが一人でできる受験生であると、こちらも手がかからなくて有り難いのですが、どのように優秀な受験生であろうと、おそらく全国一位の受験生であろうと、その子の定義における「努力」は必ず現実に必要な努力よりも幅が狭いものです。そのズレを、指摘し、修正し、何とか自分自身の「定義」を乗り越えていける手伝いをするために。
残りの期間を必死に教えていきたいと思います。

やがて、彼ら彼女らが一人で自身の定義の狭さを乗り越えねばならない、そのときのために。
必死にやっていきたいと思います。

朝から晩までほぼ毎日塾に詰めては教えている毎日ですが、できる限りこのブログはまた更新していきたいと思います。

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