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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「きいろ(黄色)い」電車とは何か。

中央線に乗っていると、三鷹駅を通り過ぎる時に電車の好きそうな幼児にお父さんやお母さんが電車を色々教えてあげているシーンに出会います。とても微笑ましい光景ではあるのですが、色々と疑問が湧いてくることもあります。

「あのきいろい電車は総武線だよ」と教えるお父さんに子どもたちはその言葉を受け止めて学習していくわけですが、しかし今の総武線はどう見たって黄色い電車ではありません。「銀色の車体に黄色のラインが入った電車」がより正確な表現ではないでしょうか。同じく中央線も「オレンジ色の電車」ではなく、「銀色の車体にオレンジ色のラインが入った電車」であり、東西線も「青い電車」ではなく、「銀色の車体に青色のラインが入った電車」です。

と書いてみると、「幼児にそんなまわりくどい説明なんかわかるわけないだろ!全く揚げ足取りをして!」と怒られてしまいそうなのですが、幼児の親世代がなぜそのように「黄色い電車」と言うのかを考えてみると、彼らは同じ幼児の頃にはそのように教えられて育ったからなのかな、とも思います。今の銀色に黄色いラインが入った電車を見て「黄色い電車」とは単純化するとしても新たには定義しにくいからです。それはまたその黄色いラインが我々中年世代の幼少期には実際に車体全部が黄色だったりオレンジ色だったり、という車体の名残(あるいは象徴)として残されている、ということを知っていたからそのような定義を幼児の親世代が育んできたのか、それとも丸々黄色やオレンジ色だった車体をもう見ていない世代に完全に移行したとしてもこのような言葉遣いが残っていくのかは面白いところであると思います。中央線の丸々オレンジ色の車体は2009年頃までは運行していたそうなので、今の幼児の親世代が子供の頃にはまだ少しは見たことがあるはずだし、親世代が幼児の頃の図鑑には、丸々黄色やオレンジ色の車体が載っていたのでしょう。しかし、これらが完全に視覚情報としては幼児には手に入れられなくなってしまったあと何年後か、何十年後かの同じく親と幼児の会話の中に「きいろ(黄色)い」電車という言葉が残っているのかどうかに、僕は興味があります。

それはすなわちソシュールが『一般言語学講義』で言うように、「人間の言語は我々が信じたがる合理性以上にはるかに大きな非合理性・恣意性から成り立っている。」ということでもあるのですが、それよりも僕がこのやりとりに興味があるのは、人間は慣習を歴史として引きずり、自らが借り物の言葉しか使えていない中でその借り物の言葉が新たに血の通った定義へと文字通り血を流しては刷新される瞬間、というのをこのような無邪気な親子の愛情溢れるやりとりのうちからもう既に奪われている、と感じるからです。
「きいろい」電車、という言葉に対して「でもあの電車、黄色くないんじゃない?」と感じる感性は、ほぼ銀色の車体に象徴として申し訳なく施された黄色のラインを「きいろい」電車の定義にしていいのだ、と学ばされ、諦めさせられていくことで我々の社会は成り立っています。そのことへの疑念も、よりよい新たな定義も、それは反社会的なものとして一旦は幼児のうちに棄却されていき、棄却されていったことすらも忘れるように育てられていくのです。

芸術は、あるいは学問は、新たな意味を見出し、付与されてきた既存の意味を疑うという点で実は反社会的な営みでもあります。それが社会の中で一定の権威を持ち、国家が税金からそこに援助をするという時代がある程度続こうとも、それが学問や芸術にとって本当に幸福であるのか、あるいは本来的な姿と言えるのか、という緊張関係が根源的にはなければならないものです。(たとえば日本ではよく「フランスでは演劇など芸術に広く多額の助成金を与えていて、本当に素晴らしい!日本も見習うべきだ!」的な主張がよくなされるわけですが、たとえばシルク・イシのようにアンダーグラウンドであることを自分達の表現の大切なバックボーンにしているサーカスのような芸術集団は、国家からの助成金を芸術家がもらうこと自体がその芸術活動の価値や目的を損ねないのか、という議論がなされ、とても慎重であるようです。こうしたところもやはりヨーロッパは何周も先に行っているのでしょう。)。

さて、教育はどうなのでしょう。銀色の電車に黄色いラインが入ったものを「きいろい」電車、と呼ぶことに対して「昔は黄色かったんだよ」という歴史を語ることが教育なのか、その定義と実態とのズレに敏感であろうとするその若い感性を育み、新たな定義を生み出すことをencourageしていくことが教育であるのか、「みんなが『きいろい』電車って言ってるんだから、あれは黄色なんだよ。社会性を身につけろ!」とその疑問を押し殺すのが教育であるのか。

痕跡のように、あるいはexcuseのように、残された黄色いラインを、哀れだと思うのか、押し付けだと思うのか、手がかりだと思うのか。我々が痕跡やexcuseを象徴として受け入れ、その意味については考えないという「大人の」振る舞いでわかったふりをしてやり過ごすというこの習慣の積み重ねにこそ、この日本社会の衰退の根本的な原因があるのかな、と僕は思っています。与えられた定義を疑い、実態に合わない仮初の定義になんとかよりよい形を与えようともがき続けること。それは何も学問や芸術だけに課さられた任務ではないのかな、と思っています。

というのを枕に、向坂くじら『とても小さな理解のための』の書評を書こうとしたのですが、枕がまたまた長くなりました!書評はまた次回に!(と言って書かないパターンにならないようにがんばります!)

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お久しぶりです。

ブログもだいぶ間隔が空いてしまいました。バタバタと忙しい中、何とか目の前の一つ一つを乗り切る日々です。

ブログの間隔が空きやすい原因を自己分析したところ、長い内容を「その1」「その2」と区切って書こうとすると、「これを書きたい!」と思った瞬間に「でも、この前の続き書いていないしなあ。。それ書いてからか。。」と億劫になってしまうからだ、というのがよくわかりました。なので「その2」「その3」はまた気が向いたときに続きを書くか、長くてもまとめて書こうかな、と思っています。

この間、プルーストの『失われた時を求めて』を全て読み終わり、本当に様々な面で感銘を受けたのですが、その中の一節(岩波文庫版だと11巻)で「平板な内面や感情や思想のままに、どこまでも遠く、宇宙の果てにまで我々が旅をしたとしても、私達がその遥か彼方で見られるものはその平板な内面や感情に見える程度のものでしかない。だからこそ、私達は平板な感情や内面や思想を鍛えなければならないのだ。」というものがありました。

プルーストがこう書いていたのは今回初めて知ったわけですがこの言葉にはかなり思い入れがありまして、まさしく僕自身が10代から自分自身について悩み、そのような薄っぺらな自分をどのように少しはまともなものにしていくのか、ということだけをただただもがいていたときに、まさにこの言葉を恩師が文章として書いていたのに感銘をうけたことをよく覚えています。

プルーストもこう書いていたことを不勉強ながらこの年になって初めて知り、感じる気持ちは「あの名言、元ネタあったんかい!」ではなく、自分の言葉にできない悩みを何とか言い表している先人はいないかともがきにもがき続けた結果として恩師は長い長いプルーストまで読まざるを得なかったのだな、という感動でした。結局我々が勉強を生涯し続けざるを得ないのは、自分の感じたり考えたりするこの世界への違和感を人類の歴史の中で先にそれを掘り当てては苦しみ、もがいた先人がいなかったのか、という探究のためです。それは知的好奇心といった浅薄な動機のためではなく、良心的に生存しようとし続けるためには、探さざるを得ないのだと思っています。

それはまた、職業訓練や子どもの立身出世のために社会からは何となくフワフワ肯定されてしまっている「教育」という試みの副次的効果でもあると思っています。受験のための勉強をきちんと身につけていくためには、とりあえずわけのわからないまま暗記をしたり盲目的に練習することではなく、しっかりと理解し、自分の言葉で説明できるようにしていくことが一番の近道です。しかし、この近道も受験を通るため、で終わるのであればあまり大した意味はないことなのでしょう。誰が勉強ができるようになり、誰が立身出世をしようと、それが人類に新たな知見をもたらすかどうかは極めてあやしいことです。所詮は階層移動が少し活発になることくらいでしょうか。(もちろんその程度の風通しの良さすら、徐々に失われていっているのが今の日本社会ではあるわけですが)

しかし、そのように意味を考えたり自分の言葉で説明していけるように、という習慣自体はキリのないものです。そのような習慣はやがて、当たり前とされている学説、芸術、社会の有り様、人間関係その他諸々に対して疑いを持つようにさせていく力をも持っています。そのようにして教科書が書き換わり、常識が書き換えられ、社会はより包摂を目指してしんどいことも考えていくようになります。そのようにして人間は進歩をし続けるしかないのですが、その原動力、というのは結局人間の良心的生存のための探究心であり、そしてそれは「意味はわからないけどとりあえず覚えよう」というしぐさとは対極の学習習慣がその入口になるのだと思っています。

さて。僕自身も塾に通ってくれる子たちに少しでもより精密な答を答えられるようにするためには、必死に勉強をし続けるしかありません。それは受験勉強の内容のことでもあり、またこの社会や政治、学問、芸術のことでもあり、さらには死を運命づけられた我々人間という存在者が生きることを選ぶ理由にどのようなものがあるのか、という根本的なことまであります。子どもたちのその純粋で真剣な問いに、自分自身がお茶を濁した解答をしないで済むように、愚かな僕は勉強をし続けなくてはなりません。先にプルーストの書いてくれたような「薄っぺらな内面が薄っぺらな内面を疑うことなくどこまでもそれを拡張していったのが人類の歴史であり、フロンティア獲得運動である」というかなり正しい定義に対してもまた、それに疑問を感じた先人を伝え、その人達の書いた言葉を伝え、作品を紹介し、その上で我々はその(in vitro をin vivoへ、あるいは地球的常識をその外へと、延長し外挿できると信じる)一面的な取り組みの結果として発達した科学技術の恩恵を受けて豊かな生活が出来ている自分の人生をどう生き直していくのか、という難題への僕なりの答を、絶えずバージョンアップし続けていかねばならないのだ、と思っています。(ちなみに僕の人生を通じての最推し劇団、劇団どくんごのブログ名は「そのころ地球では」です!!たった8文字で、「辺境としての地球」という必要な相対化を見事に表現しているのは、さすがどくんご!としか言いようがないです!今年はそんな劇団どくんごの2年ぶりの公演が10月に鹿児島で!!)

こうした諸々を考え合わせれば、僕のような浅学非才のものにこんな難しい仕事ができるわけがない、としか思えないのですが、しかしそれは僕自身の能力とは関係なくやらねばならないことである以上、やはり死ぬ瞬間まで諦めずに少しでも自身の「平板さ」を乗り越えられるように、必死に取り組んで行きたいと思っています。

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「ブルシット・ジョブ」としての教育業

デイビッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』は厳密性とかはさておき、問題提起とその為の概念を提示したという意味では読むべき本だと思います。

読んでいない方のためにざっくり要約すると
「世の中って何のためになってるかよくわからない仕事ほど給料高いよね。投資銀行とか証券会社とかファンドマネージャーとか。金持ちの財産をより増やす仕事が一番給料高いって、それ、この社会的にどうなの?それに携わる本人も悩んでる人多いし。それに対してやりがいがあったり、相手から感謝をされる仕事ほどに給料低いよね(保育士や教師、看護師とか)。」

って感じです(雑な要約でグレーバーさん、ごめんなさい)。

これがやっかいなのは、たとえば最近売れてるマイケル・サンデルの『実力も運のうち』で書かれているように、「収入が高いということはそれがこの社会の中では有能であると見做される根拠となる」せいで、そのような収入の格差が「この社会って本当に見る目なくて、どうでもいい仕事に高い給料払ったり、大切な仕事には低い給料しか払わなかったりで本当に見る目ないよね。。」という突き放した見方をもつことが難しいことです。「労働市場」においてはより「価値が高い」ものに高い値段がつく、というかなり怪しい仮説をみんなそれなりに信じてしまっているので、「収入が低い」ということは「自分に能力がないor自分が努力していない」ことを意味しているかのように思い込まされてしまい、人間としての尊厳までも奪われていってしまう、という問題があります。

「収入が低い」ということは本来その人の様々な努力や能力、素晴らしさの中でたまたまマネタイズできる部分が少ないだけで、そのマネタイズの評価基準自体が極めて偏っているからこそ、それは人間としての価値には何も関係がないものです。ただ、この「マネタイズの評価基準」自体の不確かさ、根拠のなさには実は高給取りの人間たちも薄々は気づいているからこそ、そのような無意味な仕事の対価として高い給料をもらうことの納得のいかなさから精神的に変調をきたしてしまう、というのがグレーバーの観察です。もちろん、このグレーバーの観察はかなり偏っていると僕は思っていまして、その「マネタイズの評価基準」のよくわからないまま、現在の評価基準の中で高い給料をもらえている人の大部分は、「自分が高い給料をもらえている」ことから「自分の仕事は低い給料の人よりも社会に貢献しているに違いない」と思い込み、サンデルの批判するメリトクラシーの熱烈な信奉者になるか、あるいは自分の家庭や友人へのsincerityを代償行為として徹底することで免罪符を得ようとするか、のその2つのパターンの方が不当な高い給料に思い悩む人よりは圧倒的に多いのではないか、と僕は思っています。

さて。「だから投資銀行とか、コンサルとか高い給料もらってるけどこの社会に必要な仕事じゃない!」とか「だから自分は教育を選んだんだ!」とか主張しては自分の選んだ道を「高潔な選択」として正当化し続けられるのであれば、僕も少しは生きやすいのでしょう。しかしこれに関してはたとえばグレーバーの「低い給料だがやりがいのある仕事」として挙げられるcare-giverの代表例である教師なども投資銀行やコンサルと社会的存在意義としては五十歩百歩であり、ブルシット・ジョブであると思っています。

なぜそう思うかと言えば、教育には限界があるからです。たとえば学習習慣ができていて、勉強に必死に取り組み、何よりも自分の力を向上させて受験を乗り切ろうとしている子たちを教えることはたやすいのです。その子達に足りないものを見抜き、それを鍛えていくためのプログラムを考えればよいだけであるからです。これも普通の教師はなかなかできないのでしょうが、それでもある程度の能力がある人が教えることに真剣に向き合い続ければそれなりに身につく力ではあると思います(そのような教師の絶対数が少なすぎる、というのは確かに問題ではあるのですが)。

一方で、学習習慣のない子、そもそも勉強する意味もよくわからない子、しかし、その子達が何か他の道で生きていく準備ができるかと言えばそれも別になく、ただ怠惰さに流されて楽しいことだけをしている子たちを鍛えることは本当に難しいのです。それでも若いうちはその子達も自身の体力や性的魅力をマネタイズすることはできるでしょう。しかしそれらは高校卒業後、長くもって10年です。その先も働き続け、生きていけるようになるためには、やはりこの社会では「勉強」が必要です。もちろん「有名大学に入らなきゃ!」とか「医学部に行かなきゃ!」といった過熱してしまって、もはや何が目的だったかわからないような目的を彼ら彼女らが持つ必要はないにせよ、資格をとったり、専門職についていくためには勉強をしていくことが必要です。しかし、それを身に着けてもらう、というのは本当に途方もなく長い道のりです。嚮心塾でも諦めずにあれこれ手を尽くしたり、必死にやっているつもりですが、しかしほぼほぼ失敗している、というのが苦い現状です。

さて、受験業における「合格実績」というのはこの前者の子を鍛えるだけで獲得できるものです。また実際に顧客は前者の結果しか見ません。「東大合格!」「医学部合格!」「早慶合格!」を見て親御さんは塾を選ぶわけで、嚮心塾もこんな汚くて小さくて名前も怪しくて、という塾なので唯一この「合格実績」だけで何とかここまで16年存続しています。しかし、それらの合格実績の中で後者のグループからこのような結果を出せた例、というのは本当に数が少ないのもまた情けない事実です。(もちろん「中学受験で進学校に受かったけど中高ずっとさぼって学年ビリでした→医学部合格!」とかは結構あります。あるいは「すごく賢いけど勉強のやり方だけはわからなくて、勉強のやり方を教えたら偏差値40→75」とかもあります。しかしこれは基本的には後者のグループからの移動にはなっていないと思っています。有名な「ビリギャル」も基本的にはこのパターンでしかないと思っています)

逆に後者の子たちはほとんどの塾では教える側が努力するだけムダなのです。まず学習習慣をつけるまでが大変です。仮にそれが習慣づいてきたとしても、そこから勉強のやり方を教えるのが大変です。さらに、「そもそも勉強をしたら自分の人生にとって良いことが増える」ということも繰り返し話しては理解していってもらわなければなりません。そこまでの手間を考えれば、前者のグループの子と比べて、手間は5倍〜10倍くらいになってしまいます。しかし、です。ここまで手をかけたとしてもその子達が「合格実績」として次の生徒獲得につながるような結果を出せることは、本当に稀であるのです。

これらのことを鑑みれば、一番効率の良い塾・予備校経営は「できる子を伸ばし、できない子を放置する」であることがよくわかるでしょう。いわゆるサピックス方式ですね。「できない子は放置する」ではできない子が辞めていってしまうじゃないか、という心配は無用です。できない子の親御さんも「合格実績」は信頼しますから。「この塾から東大と医学部に合格しているのなら、今はうまくいっていない我が子もいずれそうなってくれるのでは…」と期待し続けてしまいます。もちろん、「その期待は浅はかで、うちの子には合っていない」と賢明な判断をできる親御さんも中にはいらっしゃるでしょう。しかしその割合は極めて少ない以上、「できる子を伸ばし、できない子を放置する」戦略が最も効率的な経営となります。

このような業界の事情を振り返ってみれば、この教育業という仕事は「お金持ちの資産をより増やす」仕事に携わる投資銀行やファンドマネージャーと質的に変わらないのではないか、と自嘲せざるをえません。これもまた、ブルシット・ジョブではないか、と。この仕事に社会における意味はほとんどありません。東大に受かる子は仮に僕が教えなくて東大に落ちたとしても早慶には受かるのですから。いやいや、個人的にそのような受験生は泣いて喜んでくれ、心からの感謝の念を伝えてくれるでしょう。しかし、それが自分の資産を投資銀行に増やしてもらったお金持ちよりは多少感情がこもっているとしても、それが社会における意味を担保することにはならず、本質的に無意味な職業です。(ちなみに教師も含めたcare-giverという対面で人と関わる仕事、というのはどうしてもこのような「個人的な感謝」を自らの仕事の価値に繰り込みがちである、という自己欺瞞的要素があると思っています。相手の感謝はあまり関係がありません。それはウォーレン・バフェットだって自分の資産が誰かのアドバイスで増えたら喜ぶでしょう。しかしバフェットの資産がこれ以上増えることは社会にとって意味のあることではありません(むしろ有害かもですよね)。)

かといって、学習習慣の無い子たちを何とか鍛えていこうという試みは絶えず失敗ばかりです。まず嚮心塾にとって退塾者のほとんどはこのパターンです。勉強に行き詰まり、勉強しなくなり、塾に来なくなり、そして辞めていきます。こちらとしてはあの手この手をやったとしても、彼ら彼女らの生活習慣や学習習慣を変えられる事自体がごくまれです。もちろん、決して諦めずに一人一人の人生を何とかしたいと思ってあれこれやっています。ときに東大受験生や医学部受験生を放っておいてまで。しかし、全くうまく行っておらず、結果としては放置して食い物にしている塾とあまり変わらないパフォーマンスしか示せていないようにも思います。そのようにあれこれやっていても、勉強に取り組めるようになる子がゼロではない、くらいでしょうか。

こうした後者の子たちを諦めるのは、教育自体をブルシット・ジョブにしてしまうことであり、それなら教育に携わるべきではないと思っています。一方で「諦めない」ことを言い訳に結果が出せないことを肯定しているのであれば、それはやはり「鍛えるべき子は鍛えているから」に逃げ込んだ卑怯な態度でしかありません。もちろん、この両者をそもそも両方真剣に教えるということが極めて難しいことではあるのですが、それでも諦めないだけではなく結果を残せるように、必死に次の手を考えていきたいと思います。

それとともに、業種によってマネタイズの評価基準が恣意的に偏っているこの社会の中で、自身の仕事を「ブルシット・ジョブ」にしないためには、やはりどのような業種についていようとも、「これが社会にとってどのような意味があるのか」を絶えず問うては、意味のあることに少しでも向けられるように努力していくしか無いのかな、と思います。もちろん今の「労働市場」の評価基準があまりにも偏り過ぎであることには同意します。保育士さんの給料とか、とても重要な仕事であるのにも関わらず、本当にひどい低さの給料です。ただ、それらを改善していくという社会運動は必要として、一方で完全に正当に評価できる社会もまた存在し得ないし、また存在するべきではない(なぜ存在するべきではないのかはサンデルの前掲本がわかりやすいかと)、とも思います。極端な格差を是正することが大切なのと同様に、それが仕事の価値とは結びついていない、という価値基準をもつこと、その上でさらに自分の仕事に価値は本当にあるのかをどのようにpriceをつけられているか、という以外の基準で絶えず厳しく見ていくことが大切なのではないか、と思っています。

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読書メーター始めました。

読書メーターを始めました。

https://bookmeter.com/users/1257540

自分が読んだ本を他人に晒す目的なんて相手にペダンティックにマウントをとるためでしかないと今までは思っていたので、「年間1000冊本を読みます!」的なことからは距離を置きたいな、と思っていました。(ああいうこと言われると、ディオ様でなくても「お前は今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」と言いたくなりますよね。読んだ本の冊数を数えてる時間ほど人生で無駄な時間ってないように思うのですが…。本によっても1冊読むのにかかる時間なんてまるで違うわけですし。。)

また、ラーメン屋とかでも「うちのスープは大山鶏を使ってます!!」とかことさらに喧伝するところってだいたい美味しくないです。どんな高級食材を使おうと、それが最初の形なんかなくなって隠し味の隠し味のそのまた隠し味になっていて、それを食べたお客さんが「あれ?これってもしかして○○使ってる?」というところにこそ、心からの出会いがあるわけです。僕が生徒にあやふやなことを言わないように、一つ一つに考えを鍛えていくために様々な本を読まざるを得ないとして、それがどんな「食材」を使っているかなんてどうでもよく、ただ美味しいかまずいかだけが勝負すべきところです。(もちろん教育の場合は「苦いがしかし有意義な言葉」もありますが、それも含めて「美味しい」と定義するとしてです。)そこで「俺はこんなに難しい本orいい本読んでるんだから!」とかいうのはさっきの「スープを大山鶏からとってます」と同じで、不味いことの言い訳にしかなりません。

という理由から、読んだ本の中で素晴らしい本を対面で生徒にお薦めする以外には、自分がどんな本を読んだか、というのはあまり書き留めて来ませんでした。また、一冊一冊レビューする、なんてことになったら、それこそ一冊で何万字になるかわからないからこそ、塾業務が完全にストップしてしまうため、それも記録を残さない理由でした(このブログでも一回やり始めたのですが、「これは塾業務止まりすぎやろ!」ということでやめました。)。

ただ、僕もあと何年同じように活動できるかがわからないような年齢になってきて、卒塾生が「本を読みたい!」というときに手がかりを残していく作業も大切なのかな、と思い始めました。僕自身も親が読むような本とか、学校の先生が薦めてくれるような本、というのはあらかた読んでしまった後に、自分がどのような本を読むべきか、ということでとても苦労しました。そのささやかな手がかりになればいいのかな、と思っています。

今までに読んだ本を全て書いていけるかはかなり難しいとは思う(それこそ塾業務ができなくなります)のですが、リアルタイムで読んだ本、その上で過去に読んだ本でもこれは紹介したいな、という本はときどき掘り起こしながら書いていこうと思います。また、読書メーターは紹介の字数がめっちゃ短くてそれなら続けやすいかな、と。もちろん「長く書かないと気が済まない病」は年々強くなっていっていまして、あんな短い字数では不完全燃焼どころかまだ酸素まだ開始反応も起きていないくらいなわけですが、長く書きたいものはこちらのブログで書くというきっかけにもなるかな、と思います。

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「目的来店型」の塾。

今年は現役生がだいぶ合格=進学しているので、塾の経営がやばいです!!
それでも合格してくれることには喜びしかない、というのもまた面白いところですね。

さて、ラーメンマニアなら誰でも知っている有名店主さんである渡辺樹庵さんが最近Youtubeを始められて、deepな話を毎回聞けるので僕もチェックしているのですが(話は変わりますが、テレビがこれだけ廃れて、Youtubeがこれだけ発達して芸能人もそこに参入して成功しているのは、一人一人の話を深堀りする、という番組がテレビではもうほとんど絶滅しかけている、ということにもよるのだと思います。最大公約数的に誰もが見るけど誰もが見たいとは思っていない番組を作っていった結果として、一人一人の話を深堀りできなくなったメディアが現在の末期症状的なテレビである、と思います)、その中で「目的来店型」と「衝動来店型」というラーメン屋さんの違いについて話をされていました。

おそらくこのワード自体はミシュラングルメガイドの三ツ星の定義が「旅の目的になるレストラン」というところからきていると思うのですが、コロナ禍で飲食店が苦境に立たされる中で、「とりあえず繁華街で人通り多いところでそこそこおいしくて入りやすいお店開いておけば儲かるでしょ!」といったお店が家賃の高さも相まって閉めざるを得なくなる中で、立地が悪かったり行列ができたりでハードルが高いけれどもそれでも「このお店じゃなきゃ食べられない!」というお店はこのコロナ禍でもその強みを発揮して、あまり影響を受けていない、というお話でした。

とても勉強になるとともに「嚮心塾も目的来店型を目指さなくては!」という気づきを得られて良かったです!


というところで終わると、「あれ?あいつ、とうとうあのうざい長文書けなくなったか!」と悲しまれるコアなファンの方も数人はいらっしゃると思うので、長々と書きますが、たとえばラーメン店にしても目的来店型になるためには、実は「おいしいラーメンを提供する」だけでは無理だと思っています。そこのお店で食べる、ということ自体が味はもちろんおいしいとして、その店主さんの仕事ぶりや空気感、お客さんの雰囲気、その他諸々が他では得られない特異的な体験であるからこそ、そのお店は「目的」になりうるわけです。

面白いのは、ここでそのようなラーメン店主は「感動体験!」を全く目的にはしていないところです。もちろんそういう「あざとい」お店も中にはあるのでしょうが、そういったあざといお店はそれほど感動もできなければ、目的にもなりえません。「お客さんに美味しいものを食べてもらいたい」「お腹いっぱいになってほしい」などといった彼ら彼女らなりの目的へと必死に邁進することが、彼らの「個性」を際立たせていきます(マックス・ウェーバーのSacheですね!)。そのような人生をかけた必死の努力の結果として、その日々の努力やその成果を感じるお客さんが店主さんのその個性を尊重するために、お店自体が一つの「場」としての力をもち、互いに配慮したり様々な不都合(行列が長い、とかサービスが悪い、とか愛想がない、とか)といったものを乗り越えて店主さんの努力している部分を評価し、味わおうとしていく、という表層の部分での評価基準を乗り越えようとする企てが生まれてくるわけです。

これを学習塾や予備校にあてはめれば、「俺の話を聞くと人生が豊かになるぞ!」「感動体験できるぞ!」というバブル期の予備校講師のような「人生の師」となりたがるような授業がその「あざとい」ラーメン屋さんにあたるのでしょう。一方で淡々と授業の質や指導の質、さらには自分自身の勉強を徹底的にやっている講師がいる塾において、もしそのような型に魂を込めることから自己の生き様が溢れ出てきているのであれば、それは「目的来店型」になるのかもしれません。たかがラーメンであるように、たかが受験指導です。そんなくだらないことから「人生に大切な何かを伝える」などと大上段に自己の営みを正当化することは不可能です。所詮は各々の、あるいはその親御さんの「受験勉強頑張っといたらその後より有利な人生を送れるでしょ!」というエゴイズムの道具として機能しているだけにすぎないからです。それが「教育」という衣をまとった瞬間から何らかの意味のある行為に見えてやりがいを感じてしまう教育者というのは、人々の共同幻想に甘えて自己規定をしているだけだと思います。もちろん、嚮心塾の場合は受験指導にとどまらず、様々な生徒の悩みや苦しみを引き受け、サポートしていくことをも目標にしてやっているわけですが、これもそれ自体は何かしらの価値があることではありません。彼ら彼女らに話す相手が周りにいなくて、たまたまそれをこちらが引き受けている、というだけのことです。まあ、「王様の耳はロバの耳!!!」と深い穴に向かって叫ぶ時、その穴が偉いのか、という問題ですよね。それを教師が「一人一人の誰にも言えない悩みを自分は引き受けられている!」といった自己肯定感の根拠としてしまうのは、他者を自らの存在理由に利用する、不誠実な生き方でしかないと思います。

しかし、そのようなくだらないことにも、人生を捧げて、必死に悩み抜き、努力を続け、その結果として生き様が溢れ出ることはできるかもしれません。ラーメンなんかくだらないのと同じで、教育なんかくだらない。ただそこに、人生を懸けないかといえば、懸けて必死に取り組むしかない。そのように考えています。いつか、嚮心塾が「目的来店型」になれるときのために、今年も必死に取り組んでいきたいと思います。

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嘘つきにつける薬。『ディスタンクシオン』

相変わらず塾はバタバタと忙しいのですが、今その合間を縫ってピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいます(「ディスタンクシオン」とはdistinction「区別」のフランス語です)。本当に素晴らしい本であるので、やるべきことを後回しにしては、ついつい読み進めてしまっているところです。。

この本の何が素晴らしいって、本当に容赦のない、何ら手心を加えることのない考察の数々ですよね。私達自身が自分の「個性」や「長所」だと思っているものがいかに、それ自体の内容を気に入っているかのように私達がうやうやしく振る舞おうとも、それが他の階級との差異を生み出すために選択されたコード(code)にすぎず、その内容について実は私達はさほど興味ももっていないし理解もしていない、ということを暴露してくれます。私達が「運命の出会い」と信じたいであろう自分のパートナーとの出会いですら、いかに打算に満ちたものであるのか、いかに暗黙の了解としての所属集団のハビトゥスに囚われたものであるのか、を示してくれます。自分のidentityとして信じたいものを私達は信じようとしているだけであり、しかしそれは社会の中での所属階級(それは現在所属している階級であるだけでなく、自身がそこに所属したいと思っている階級)への帰属感を示すためである、という意味ではそれはむしろ自分自身ではないために用いられるものであるわけです。

この本は私達が「私」や「貴方」として信じたいと思っているものがいかに一人称や二人称ではないのか、徹底的に外被を剥ぎ取っていきます。この本の中に出てくる様々な人々が「自分の趣味や好みを語るパート」の残酷さといったら!彼らが自慢気に語る自らの「趣味」や「思想」、「芸術観」といったその全てが、社会学者の冷徹な目によっていかに彼ら自身のものではないかが浮かび上がる、という仕組みです。本当に性格が悪いったらありゃしないですよね。

しかし、それが本当に素晴らしい。何より、言葉がこんなに容赦なく、真理を穿つために用いられ続けることに感動を覚えます。私達はとかく嘘をついては自分自身の立場を擁護するために言葉を使い続けてしまっているので、この社会全体にもそのような嘘の言葉ばかりが、政治でも仕事でもその他全ての人間関係の中にも充満して、あたかも本当のことをしゃべること自体が何か「空気の読めない」「社会人ではない」かのように非難されてしまう、という狂気の沙汰になってしまっています。そんな中で、これほどに言葉をひたすら、私達の信じたいもの、そうであってほしいと願うものを容赦なく剥ぎ取っては、私達自身のアイデンティティがいかに空虚で無内容なものでしかないかを描くために用いてくれていることに、本当に深いところから呼吸させてもらえる気がします。

嘘は、本当のことを伝えるために使われるとしてもなお、嘘であり続けます。その嘘に内包された善意によって一時的に正当化されたとしても、その内包されていたはずの善意すらも嘘は自分の都合の良いように定義し直してしまいます。そのようにして、不正に手を染める誰もが「これは仕方のないことだ」とゴールポストを動かし続けることになり、それを何とか正当化し続けようとする人生になっていきます。

私達に必要なのは、自分が見たいものを見たり信じたいものを信じたりするために嘘を吐き続けることではなく、自分の見たくないものを容赦なく見ようとしていくことなのではないでしょうか。言葉はこれだけ嘘を吐くことに用いられ続けてもなお、嘘を吐かないために用いることもまたできるのです。

衒(てら)い、とは自己イメージを作り上げては見せびらかすためであり、つまりそれは他者との「差異」を作るために内容を必要とする、ということです。これは前衛的な芸術を追い続ける、という態度にもまた現れるのだと思います。

どのような熱烈な「信仰」告白も、私達が追い求めるその価値が、「差異」を示すための「アクセサリー」あるいは「IDカード」以上の何かを内包していることを自明には示しえません。僕が信じる価値も、僕がそもそもこういった本を自分で「読まねばならない!」と感じて読もうとすることも、ブルデューの言うように僕の人格の奥底にインストールされた、自己を他者と弁別しては優位性を保つための権力意識に引きずられて行われる行為であるのかもしれません。それは光るものを集めるカラスのように、意味を理解しないままに習性として行われる、悲しい行為であるのかもしれません(もっともカラスに聞いてみたら、彼らには彼らなりの内実のある動機があって、我々人間の方がよほど内実のない動機から「文化的」に振る舞おうとしているのかもしれませんが。。)。

しかし、それでもなお、嘘の言葉ばかりが溢れかえる中で、このように本当のことを語ろうとして紡がれるむき出しで命がけの言葉には、誠実であらねばならないと感じます。そのような言葉には僕自身が「差異」を作ることでこの社会の中で立ち位置を確保しては生きていくためなどという低俗で下らない目的よりも、はるかに大切な価値があると信じています。それが、マタイの福音書でイエスがペテロを「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱ったときの「神のこと」であるのかな、と考えています。もちろん僕はそれを「神のこと」とは言いませんが、「人のこと」より大切なものがあることもまた確かである、とは思っています。


という本当に素晴らしい本である『ディスタンクシオン』がなんと、岸政彦先生の解説でNHK教育テレビの『100分 で名著』で12月に4回に分けてやります!!大部の本ですし、読むのは大変ですが、テレビは必見です!!

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立ち位置を決めることの功罪について。

今年は受験生が多いので大変だなー、とは思っていたのですが、予想以上に大変です!!
これは12月、1月、2月なんてどうなっちゃうのか、ちょっと想像しちゃうと辛くなるので…。という感じで一日一日に集中しています。

さて、立ち位置を決める、という振る舞いが賢いことや戦略的であるかのように語られる風潮、というのはありますよね。「競合を避け、自分の強みをどう活かすか」を分析することで生き残ることができる、みたいな。ビジネス界隈ではよく言われることですし(使い古された「レッドオーシャン」「ブルーオーシャン」とか)、政党なんかも立ち位置を決めて、「こんな主張だと受け皿になってる政党ないんじゃね?」と考えては自党の主張をそちらに寄せていく、とかよくあることです。新しい国民民主党とかはそういう感じですよね。

ただ、この「立ち位置を決める」というのは一見賢そうに見えて、色々と問題があると思っています。
なぜなら、生き延びていくために相対的にどの位置取りをするか、という行動様式はどうしても自分自身の初期衝動や理念からは遠いものになることを肯定せざるを得ないからです。

「そうは言っても、生き延びるためには仕方がないんだ!」と開き直ることはできるでしょう。しかし、自分が当初大切にしようとしていた理念や思いを捨ててまで生き延びることに何の意味があるのでしょうか。そのようにして、「生き延びる」ことを目的としては何のために生き延びるのかがよくわからないようなゾンビ状態になりがちな組織、あるいは個人、というのは山程います。

言い換えれば、立ち位置を決める、というのは自身が生き延びることを前提にした態度であるのです。まさに自分が存在しないことを想定していないわけですから。しかし、どのような個人も、どのような組織も、いずれ存在しなくなります。そうであれば、自らが生き延びるために立ち位置を考えていく、ということが自らが生きるに値いする目的を損なうのかどうかを我々は常にチェックしていなければならない、ということになります。そうでなければ、必死に立ち位置を探しては決めたものの、そこに存続し続けるものはガラクタどころかむしろ有害無益なものでしかない、ということになりかねません。

一方で、自らの死、あるいは自らの消滅によって自分が生存していたことに何らかの価値を付与しようとすることもまた、傲慢であるとも言えるでしょう。死や消滅は、どのように自らの存続を「美しく」閉じようとも、何らかの価値を新たに付与するものではありません。「醜く生き延びるのであれば、美しく死にたい!」という思いは正しいとしても、それは「死ぬ」ことがそれまでの自分の人生を美しいものへと粉飾することには繋がり得ない、という事実にも思いを馳せねばならないと思っています。

だからこそ私達は生き延びるために自らの志を失う危険性に絶えずさらされながら、かといってその難しさに耐えかねては綺麗に閉じるために死を選ぶことすらできない、ということになります。全く、どんな厳しい罰ゲームであるのか、ですよね。生き延びることだけを自己目的化する方向に堕落することは容易であり、「生き延びない」という決意を見せることで空虚な自分の人生に価値づけをできたかのように錯覚することもまた、容易です。そのどちらにも陥ることなく、日々敗北し続け、失敗し続けては、何とか意味のあることを為そうともがき続ける、というこの罰ゲームは、私達人間の忍耐力のキャパを凌駕してしまっているのでしょう。

しかし、それでも。そのように細い細い綱渡りを、悩みもがき苦しみながら必死に取り組んでいる先達や同時代人がいる以上は、諦めるわけにはいきません。僕自身は、上記のような人生の全体像に気づき始めた頃(高校生)は、「いかに自分がそのような細い細い綱渡り」を諦めてよいか、それをどのように正当化できるか、に傾注していたときでした。「そんなしんどいことをやって生き続けている大人なんか、まわりにはいない!」ということを理由にして、ですね。ただ、数は少ないながら、そのような大人が僕の周りにも一人いちゃったんですよね。いちゃったからには、やらないわけにはいかない。そのように始めてみれば、いやいや。もちろん絶対数としては圧倒的に少ないながらも、しかし、そのようにしんどい道を諦めることなく闘い続ける大人がどれほどいるか、ということに気づき続けることになりました。彼ら彼女らのもがき苦しみとともに。

自分が生徒たちにとってそのような存在になれているかどうかは自信がないところではありますが、今はなれていないとしても、そのようになることを諦めたくはないと思っています。もちろん、そのような存在に僕がなることが、彼ら彼女らにとって極めて迷惑である(ジャン・バルジャンにとって馬車の車輪を直してしまう人のように)ともわかった上で、ですね。

立ち位置を決めることが、既存の社会の中に自らを位置づけようとすることであるのだとしたら、自分が信じる道を歩き続ける、ということは、新たな社会を準備していくことであると思っています。もちろんその「新たな」社会がより良いものになるかどうかは、以前にも書いたとおり、わかりません。「新たな」という言葉が引き起こす幻想でごまかしては前に勧めても仕方のないことではありますが、少なくともそれがこの社会よりはより良いものになるように、という祈りを込めて努力をすることと、それが本当に良くなるのかの検証作業はできるかと思っています。そのどちらもが、(僕も含めて)既存の社会の厚顔無恥さに苦しむ人々にとっては生きる目的になるとは思っています。

賢さ、と対立する概念は愚直さであるのでしょう。この社会に足りないのは、賢さではなく、愚直さである。
そのことを伝えられるように、僕自身がまずは愚直にやっていきたいと思います。

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「先を読む」ということ。

日々忙しくしているのはもちろんなのですが、この9、10月はどうにも絶望するきっかけが多く、精神的にも大変不調でした。もちろん、「絶望するきっかけ」というのはそのようにも解釈しうる、というだけで、絶望するという行為を必然的には意味していません。ただ、自分の中で様々な対象に認識が進んでいくことと、一方で目の前で見せられる幼稚さ、拙さ、考えの足りなさ、覚悟のなさの一つ一つ(それはもちろん他者のだけではなく、自分自身のそれをも含めてです。)とその認識とのギャップとに、だいぶ苦しんでいたと思っています。

もちろん今もまたその状態が何かしら解決するどころか改善はしていないです。むしろ展望としては生き続ければ生き続けるほどに悪化するしかないことではあるのですが、「生き続ければ生き続けるほどに、この乖離は拡がり続けるしかない」という認識を再確認できた上で、生き続けることに日々決断を要するということが(物心ついた頃から変わらず)僕にとっては当たり前のことである、と気づけたのは良かったと思っています。

生きるとは、自分が「根っこ」として大切にしよう、と思っていた部分がいかに空虚で軽薄であるかを気づき続けることであるとともに、しかし自分はいかにその空虚で軽薄な根っこからは逃げることができないか、という事実を直視し続けることであるとも思っています。気づかないようにすることも、気づいて放棄することも、それは生きることを辞めることであると思っています。その「(根っこの)掘り直し」のプロセスが、ときには必要であると思っています。

これだけ書くとご心配をおかけするかもなのですが、まあ平常運転ですね!

さて。受験生の中でスタディサプリとかN予備とか、映像授業のサブスクリプションをとっている子も多いとは思います。映像授業といえば、東進が先駆けなのでしょうが、これだけ安価で日本全国に広がってきていることは基本的には素晴らしいことであると思っています。コロナ禍での大手予備校の映像授業へのシフトは中途半端に終わってしまいましたが、これはとても残念なことであると思っています。もちろん「ライブ講義」でなければ質が担保できない、という超・超一流講師の方も存在するとは思うのですが、参加者に応じて毎回毎回違う授業をできる超・超一流講師の方、というのは基本的にはそう多くはないと思うので、基本的には動画の方がむしろ何回でも再生できて生徒がわからないところを繰り返せる、という点でも優れていると僕は思います。

もちろん映像授業の著作権は誰にあるのか、とか報酬はライブ授業と比べてどうするのか、とか、クリアすべきところはあって、それが急速に進んでは現在頑張っておられる予備校講師の方の生活が脅かされるのであれば、それは問題であると思います。そういった点はクリアしていかねばならないとは思います。(まあ、それを言うならそもそも学校の講義とかすべて動画でよくない?というのはあります。動画なら先生にやる気のない/力のない講義は見ないこともできますからね!)

ただ、嚮心塾がオンラインで存続することについては、不可能であると思っています。この形式の受験勉強というのを東京に住んでいる人だけではなく全国に広められれば地域間の教育格差は必ず縮小できる(なぜなら低コストな勉強方法であるからです)と確信しているのですが、僕自身、生徒の立ち居振る舞い、表情、行動パターン、言葉の使い方、お菓子の食べ方、視線の動かし方など、様々な情報を観察、収集した上で、どのようなアドバイスをしていくのかを考えています。これをオンラインでZOOMなどを使って行うのは無理である、と思います。

もちろん、それを「嚮心塾」である、と再定義をすれば可能であるでしょう。コンビニで売っている「名店の味」のカップラーメンのように、ですね。それは広告となり、認知度を上げることにもなるでしょうし、更にはクオリティに目をつぶれば儲かることにもなるでしょう。いえいえ。大義名分だって立ちます。世間に溢れかえっている眉唾の、主語の限定性への意識薄弱でそれを唱える人間の知性を疑わざるを得ないような「東大生の勉強法」的な粗悪な情報よりは、まともなものを提供できることもまた事実ではあります。しかし、それは僕が人生を費やすべきことではありません。

教育というのは本当に難しいものです。一人一人に対してその子の状況に応じて良かれと思うアドバイスをする、などというのは当たり前の当たり前の当たり前のこと(もちろんそれですら、ほぼどこの高校でも予備校でもできていないわけですが)で、それをしたとしても、どのような部分で引っかかり、どのように理解しているのか、その「誤解」や「理解」の一つ一つをときほぐしていかねばならない、という課題が絶えず残り続けます。本人が努力を怠るのならまだしも、本人も教師も必死に努力してもなお、伝えられないものが残り、伝わっていると思っているものが誤解され、そして結局それが受験の失敗という形で現れます(もちろん、受験には成功したとしても人間としての教育という部分での失敗が残る、というケースまで含めれば、なおさら難しいです)。

その難しさに目をつぶり、あたかも「このやり方さえ踏まえれば、大丈夫!」と断言するという粗雑な行為を、受験生へのプラセボ効果を期待しているというこれまた大義名分のために自分に許し、そのやり方をその一人の受験生がどのように踏まえられないのか、どうして踏まえてもうまくいかないのかについては思考停止をした上で、「自分は最善の方法を提示している!(からそれ以上は本人の責任だ!)」と開き直るのが教育であるのであれば、そのような教育など滅びた方がいい。しかし、僕はあまり自分を信用していません。コンタクトレンズではなくメガネをしているだけでもレンズの向こう側とこちら側とを分けては自分の思考に籠もりたいくらいに、本来的には他者への関心を持っていません。そんな僕が、画面を通して得られる限定的な情報に「歯がゆさ」を感じないために、ここまでに書いた様々な大義名分で自分を説得し始めては粗悪なものを垂れ流しては、自分と生徒との間の認識の齟齬に悩まなくなるのにも、そう時間はかからないでしょう。

少子化が進み、さらにコロナ禍でリモートが進み、という中でこの「直接来てもらう」「対面で教える」という教え方はいずれ絶滅するのでしょう。それが来年なのか、5年後なのか、10年後なのか、もうちょっと猶予があるのかはわかりません。ただ、そこで「先を読む」ことをして、そこに対応できるように仕事の形態を変えていく、ということがそもそもその仕事の意義を損なうものだとしたら、そこで「先を読む」ことは、「ここに意味がある!」と思って始めた仕事を、それが生計を立てるために必要だという理由で、意味がなくても続けることになってしまいます。そのような仕事には、あるいはそのような人生には、僕自身はあまり意味がないと思っています。もちろん旧態依然とした今までの有り様をただ惰性ゆえに変えたくない!としがみつくのもまた愚かな振る舞いです。ただコロナ禍で「新しい生活様式」「新しい仕事の有り様」と「新しい」を連呼しては、今までのやり方の意味や限界についてしっかりと考えることを排除していこうとするこの流れは、やはり僕には全体主義的である、としか思えません。

「新しさ」や「前衛的」、「先」を何か価値があることの根拠として語る人間、というのは、基本的には詐欺師です。「改革」ブームに国民が踊らされた結果、郵政民営化によってとうとう土曜日の郵便配達までなくなるそうですね。これが我々が望んでいた結果なのでしょうか。「新しさ」は決して、何もその新しいことの価値を保証しません。新型コロナによって我々が距離を保った生活を強いられるとして、それを「新しい生活様式」と呼んでは何かそれに対応できることが偉いかのように振る舞うのは、それが我々が自発的に選ぶべき価値があるものであるかのように宣伝することで、政府自身の無作為から目を逸らさせるためのものです。

「先を読む」ことが、自身が何を大切にしていたのかを失うことに繋がるのであれば、目的を忘れて生存し続けることを自己目的にすることになってしまいます。また、「先を読まない」で旧態依然とした制度にしがみつく人間であることを恐れるあまり、「先」や「新しさ」に何らかの価値があることを当然の前提として生きるのは、自身が嫌悪した旧態依然とした人間と同じく思考停止している状態でしかない、と言えるでしょう。ことほどさように、人間にとって考え続けることは難しい。人間は自身が考え続けないですむためのあらゆる逃げ道を探し続けている、とも言えるのだと思います。

そのような愚かしさに塗れたこの我々の歴史の中で、考え続けようともがき続けることは苦痛と苦悩しか生み出さないとしても、それでも考え続けていかねばならないと思っています。

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絶望をしないために、絶望をし続ける、ということ。

気がつけば、もう9月も後半です。いつもここからが早いのですが、今年は特に受験生が多く、日々を忙しく過ごしている間にあっという間に時間が経ってしまいます。とはいえ、ブログも何とか書いていきたいと思います。

安倍政権も終わりました。終わってみて改めて気がつくのは、「安倍さえ辞めれば世の中は少しはマシになる!」という希望を抱くことがいかに儚いか、です。私達はどうしてもそのように「これさえ変われば!」と儚い期待をしてはみるものの、その一つが変わったとしても全体としては何も変わらずに裏切られては絶望する、という失敗をしがちではないでしょうか。

減量する、という意味でのダイエットも同じです。「これだけ食事制限をしている!」「これだけ運動をしている!」という自分の努力ばかりに目をやっては、そのことだけから「こんなに努力してたら、一週間で3キロは痩せちゃうな!」などと勝手な期待をしてしまいます。もちろん、それとは別にアイスを食べてるとか、糖質制限をしてもその分肉を食べる量を増やしている、とかいった負の側面には目を向けないで、です。そしてそのような都合の良いところだけをかき集めてはようやくそのように定義できるレベルの「努力」を続けても結果が出ないことに勝手に絶望し、そしてさっさとその目標を諦めます。

これはまた、受験勉強もですね。努力をしたことがすぐに結果にでるわけがないのが受験勉強です。学校の小テストや定期試験は努力すればそれなりにすぐに結果が出ます(その代わり、その努力は実力としてはほとんど残りませんが)。それに対し、受験勉強にはそのように短期間にガーッと頑張ったらすぐに結果が出る、ということがありません。また、勉強量や時間としては十分であっても正しい方向性の努力でなければ、結果は出ません。そのようにすぐには結果が出ないことに対して、自身の努力の仕方や量が間違っているかどうかをしっかりと反省をすることなしに「どうせやってもムダなんだ!」と性急な結論を導き出しては絶望する。誰にでも経験のあることではないでしょうか。

ことほどさように、私達は絶望したがっているのです。あまり絶望先生(久米田康治先生の名作です)を笑えませんね。多様な事実の断片を都合よく取り出しては、自分の努力がいかに報われないか、自分がいかに悲劇の主人公であり自分に非はないか、などと自分が諦めていい理由を探し続けています。人間の理性は、そのように自分が努力をしないためにならフル回転をしてくれます。一方で、そのような厳しい現実をどのように切り開くのか、についてはかなりお尻を叩いてもあまり働こうとしてくれないのに、です。

そのような人間の情けなさ、だらしなさに対して、しかし受験だけは言い訳がききません。どんなに「私は頑張った!」と言い張ろうと、落ちればそれはその子の努力が足りなかったことを表します。もちろんこれはどこの大学に進むかに極めて大きな価値がある、ということではありません。この尺度をこの社会がどのように不当に高く評価しようとも、その尺度では測れない努力や実力があることもまた厳然たる事実です。しかしそれは、言い訳がきかない。先生に気に入られてごまかせるものでもない(最近の推薦入試やAO入試の拡大はそれを掘り崩すものでもありますが)。そのように自分がちっぽけな努力を言い訳にして諦める理由を見つけては背を向ける、ということを許さないだけの一つの関門が受験である以上、それは自らが絶望をする理由を探すことをやめて、諦めないで必死に結果を出そうとする、というトレーニングにはなるはずです。

そして、そのためには厳しい現実を見つめ続け、日々絶望し続けなければなりません。自分のちっぽけな努力では何も動かないことを直視し、それでも方法を工夫したり、時間や量を増やしたり、他に改善できるポイントがないかどうかを探し続ける、ということをやっていっては、再び自分に実力がない、という現実に絶望を突きつけられる。この「何とかしよう!」とするがゆえの日々の絶望を、どれだけ毎日毎日、いや毎瞬間毎瞬間繰り返すことができているのか。そこにこそ、希望があると思っています。

翻って、政治についてもまた同じですよね。ささいな努力に何らかの効果を期待してはそれがうまくいかずに絶望するのでは、三日坊主のダイエットやすぐに諦める受験生と何も変わらないといえるでしょう。日々絶望し続けては、しかしより良い方向へと変えられないか、努力をし続ける。その一人一人の地道な積み重ねを通してしか、変わりようがないのです。圧倒的に、日々の絶望が足りない。それを自分にも生徒たちにも言い聞かせては、必死にやっていきたいと思います。

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なぜ問題集を理解する前に解いてはいけないのか。

どうでもいいことは書きたくない!と思うと、なぜこんなしんどいテーマを趣味のようなブログで書こうとしているのか…というくらいに疲弊するようなテーマについて書くことになり、結果、丹念に議論をしなければ危険である、ということになっていっては、忙しい中ではその気力が続かずにお蔵入り…という、このブログ特有の失敗のサイクルに陥りつつあります。(ということで書きかけの記事が今5本!)なので、書いてはブログをアップするハードルを下げるためにも、今日は書きやすい教育のことでも書こうかと思います。

しかし、ほとんどの受験生、特に受験勉強を始めたばかりの受験生が学校でやらされている、理解する前に「問題集を解く」「入試問題を解く」(and解答を覚える)というプロセスでは何も力がつかないことが多いようです。そのために嚮心塾では「数学の教科書を読む!!」「英文法の概説書を読む!!」ということを全教科にひたすら徹底してきましたし、また今でも口を酸っぱくして毎日それを言っています。

これはもちろん理解をする前に「問題を解いて慣れる」ということを目指してしまえば、結局プロセスを理解できていないままに、結果を覚えるだけになってしまうからです。このような覚えるだけの勉強でも定期テストはなんとかなってしまいます(逆に覚えるだけのテストではなんともならないような定期テストを作れば、高校を卒業できない子がたくさん出ててきてしまいます。例えば数学で言えば、青チャートを試験範囲にしている「自称進学校」はとても多いですが、その生徒のうち何%がそれを理解して解けるかといえば、怪しいです。結果解答を理解していないままに覚えるだけになります。しかし、定期試験ではその問題をアレンジすれば誰も解けないため、そのまま出され、覚えているだけでもなんとかなってしまいます)。なので、たとえば「目に映るすべての英文を品詞分解できなければならない」「教科書に乗っている定理や公式の導出をすべて見ないでできなければならない」などと、「理解」とはどういうことかを言語化して、それを新たな目標として生徒たちに徹底する、ということを嚮心塾では徹底しています。

ただ、教えていて常に疑問であったのは、なぜそのように高校生の勉強の質が落ちるのか、ということでした。もちろん、理解も中途半端な生徒に「この問題集さえ周回していれば、実力がつく!」と喧伝しては必要なステップを用意することなく結局解答の丸暗記を強いている高校の教師の指導がひどい暴力であるのはもちろんとして、です。しかし、それを受ける側の高校生がそのようなアホな指導を「ああ、アホだな。。」と思いつつ、一つ一つしっかり理解していけばよいわけです。それをなぜ高校生がしようとしないのか、についてはいまいち動機がつかみにくいな、と思っていました。

それに関して最近理解できてきたこととして、「人間は多量のものに対して、注意力を失っていく」という事実ゆえであるのかな、と考えるようになりました。これはベルクソンがよく書いていたことですが、繰り返しは「質」を吟味することを忘れて「量」としてしか認識させない、とか、「量」とは「質」を失った質である、というものです。

端的に言えば、人間というのはあまりに膨大な量を咀嚼しろ!という命令や強制に対しては自己防衛本能からそれを理解しないように、受け止めないように、という行動パターンを取らざるを得ない、ということであるのだと思います。これはたとえば暴言を家庭内でずっと吐かれ続ければ、相手の言葉の意味をうけとらないようになっていく、とか、口うるさく注意をする母親の注意を子どもたちはすべて聞き流すようになっていく、とかいわゆる「虐待」の現場ではよく見られる症状です。

つまり、大量の問題集を学校の先生に宿題や小テストで強制される高校生たちは「虐待」を受けているのと同じです。これは中学受験でもこなしきれない大量の宿題を出す塾とかではそうですよね。その中で彼らは、「理解しよう!」と思えば思うほどに何も理解できないことにどんどん心が傷ついていくので、自分自身を守るために「これは理解できなくても、覚えればいい!」と誤った学習をしていきます。そしてそれで定期試験は先述の通りなんとかなってしまうので、そのような誤った学習法については反省をする機会を得られません。そして、大学受験になって、その今までの努力が意味のなかったことを突きつけられる、ということになります。

というこれらの事態は、まさに内田義彦が戦後すぐに「「天皇家の家系図など、意味のないものだけどこれは『暗記物』であり、試験に出るから覚えろ。」という教育が連綿となされ続けては考えることを放棄してきたこの国の教育こそが、この戦争(太平洋戦争)を引き起こしたのではないか。」と指摘していたのと、今も変わらない、ということですよね。

さて、それが「大学受験にはそれでも通用しない」ということがあるからこそ、そのような勉強がいかに意味がないかに高校生たちは気づくチャンスを得られています。もちろん、そこまでに無駄にされてきた彼らの努力や時間を無視するわけにはいかないし、そのようなわけのわからない強制をさせてきた教師たちの罪も見逃すわけには行かないにせよ、です。それよりも恐ろしいのは、大学受験までが推薦やAOだけになってしまい、「高校での教師の生徒に対する評価」が進学を大きく左右することになる(現在、高校入試がそうなってしまっているように。。)ということになっていけばいくほどに、このような無意味な努力に若い人たちが気づく契機は永遠に失われていき、教育は文字通り死に絶えていきます。だからこそ、大学入試における一般入試の大切さとともに英語民間外部試験の導入とかe-ポートフォーリオとか、教育産業利権のための、業者のいっちょかみのために入試制度を「改革」しては、せっかく大学の先生達が必死に作ってくれている入試を破壊しては、わけのわからない基準を次から次へと導入していくことは、この社会の根幹を破壊することになってしまうのだと考えています。

僕は「一点刻みの入試の残酷さ」よりも比べるべくもないくらい、さらに残酷なのは、「子どもたちが教師の好き嫌いとそれに基づく主観的評価によって人生を左右されてしまう社会の残酷さ」であると思っています。なんとかそのようにならないためにも、色々ともがき、戦っていきたいと思います。

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