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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

なぜ問題集を理解する前に解いてはいけないのか。

どうでもいいことは書きたくない!と思うと、なぜこんなしんどいテーマを趣味のようなブログで書こうとしているのか…というくらいに疲弊するようなテーマについて書くことになり、結果、丹念に議論をしなければ危険である、ということになっていっては、忙しい中ではその気力が続かずにお蔵入り…という、このブログ特有の失敗のサイクルに陥りつつあります。(ということで書きかけの記事が今5本!)なので、書いてはブログをアップするハードルを下げるためにも、今日は書きやすい教育のことでも書こうかと思います。

しかし、ほとんどの受験生、特に受験勉強を始めたばかりの受験生が学校でやらされている、理解する前に「問題集を解く」「入試問題を解く」(and解答を覚える)というプロセスでは何も力がつかないことが多いようです。そのために嚮心塾では「数学の教科書を読む!!」「英文法の概説書を読む!!」ということを全教科にひたすら徹底してきましたし、また今でも口を酸っぱくして毎日それを言っています。

これはもちろん理解をする前に「問題を解いて慣れる」ということを目指してしまえば、結局プロセスを理解できていないままに、結果を覚えるだけになってしまうからです。このような覚えるだけの勉強でも定期テストはなんとかなってしまいます(逆に覚えるだけのテストではなんともならないような定期テストを作れば、高校を卒業できない子がたくさん出ててきてしまいます。例えば数学で言えば、青チャートを試験範囲にしている「自称進学校」はとても多いですが、その生徒のうち何%がそれを理解して解けるかといえば、怪しいです。結果解答を理解していないままに覚えるだけになります。しかし、定期試験ではその問題をアレンジすれば誰も解けないため、そのまま出され、覚えているだけでもなんとかなってしまいます)。なので、たとえば「目に映るすべての英文を品詞分解できなければならない」「教科書に乗っている定理や公式の導出をすべて見ないでできなければならない」などと、「理解」とはどういうことかを言語化して、それを新たな目標として生徒たちに徹底する、ということを嚮心塾では徹底しています。

ただ、教えていて常に疑問であったのは、なぜそのように高校生の勉強の質が落ちるのか、ということでした。もちろん、理解も中途半端な生徒に「この問題集さえ周回していれば、実力がつく!」と喧伝しては必要なステップを用意することなく結局解答の丸暗記を強いている高校の教師の指導がひどい暴力であるのはもちろんとして、です。しかし、それを受ける側の高校生がそのようなアホな指導を「ああ、アホだな。。」と思いつつ、一つ一つしっかり理解していけばよいわけです。それをなぜ高校生がしようとしないのか、についてはいまいち動機がつかみにくいな、と思っていました。

それに関して最近理解できてきたこととして、「人間は多量のものに対して、注意力を失っていく」という事実ゆえであるのかな、と考えるようになりました。これはベルクソンがよく書いていたことですが、繰り返しは「質」を吟味することを忘れて「量」としてしか認識させない、とか、「量」とは「質」を失った質である、というものです。

端的に言えば、人間というのはあまりに膨大な量を咀嚼しろ!という命令や強制に対しては自己防衛本能からそれを理解しないように、受け止めないように、という行動パターンを取らざるを得ない、ということであるのだと思います。これはたとえば暴言を家庭内でずっと吐かれ続ければ、相手の言葉の意味をうけとらないようになっていく、とか、口うるさく注意をする母親の注意を子どもたちはすべて聞き流すようになっていく、とかいわゆる「虐待」の現場ではよく見られる症状です。

つまり、大量の問題集を学校の先生に宿題や小テストで強制される高校生たちは「虐待」を受けているのと同じです。これは中学受験でもこなしきれない大量の宿題を出す塾とかではそうですよね。その中で彼らは、「理解しよう!」と思えば思うほどに何も理解できないことにどんどん心が傷ついていくので、自分自身を守るために「これは理解できなくても、覚えればいい!」と誤った学習をしていきます。そしてそれで定期試験は先述の通りなんとかなってしまうので、そのような誤った学習法については反省をする機会を得られません。そして、大学受験になって、その今までの努力が意味のなかったことを突きつけられる、ということになります。

というこれらの事態は、まさに内田義彦が戦後すぐに「「天皇家の家系図など、意味のないものだけどこれは『暗記物』であり、試験に出るから覚えろ。」という教育が連綿となされ続けては考えることを放棄してきたこの国の教育こそが、この戦争(太平洋戦争)を引き起こしたのではないか。」と指摘していたのと、今も変わらない、ということですよね。

さて、それが「大学受験にはそれでも通用しない」ということがあるからこそ、そのような勉強がいかに意味がないかに高校生たちは気づくチャンスを得られています。もちろん、そこまでに無駄にされてきた彼らの努力や時間を無視するわけにはいかないし、そのようなわけのわからない強制をさせてきた教師たちの罪も見逃すわけには行かないにせよ、です。それよりも恐ろしいのは、大学受験までが推薦やAOだけになってしまい、「高校での教師の生徒に対する評価」が進学を大きく左右することになる(現在、高校入試がそうなってしまっているように。。)ということになっていけばいくほどに、このような無意味な努力に若い人たちが気づく契機は永遠に失われていき、教育は文字通り死に絶えていきます。だからこそ、大学入試における一般入試の大切さとともに英語民間外部試験の導入とかe-ポートフォーリオとか、教育産業利権のための、業者のいっちょかみのために入試制度を「改革」しては、せっかく大学の先生達が必死に作ってくれている入試を破壊しては、わけのわからない基準を次から次へと導入していくことは、この社会の根幹を破壊することになってしまうのだと考えています。

僕は「一点刻みの入試の残酷さ」よりも比べるべくもないくらい、さらに残酷なのは、「子どもたちが教師の好き嫌いとそれに基づく主観的評価によって人生を左右されてしまう社会の残酷さ」であると思っています。なんとかそのようにならないためにも、色々ともがき、戦っていきたいと思います。

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苦手なこと。

今年の卒塾生の体験記が全く集まってこないので、塾の宣伝をしようにも、宣伝が全く進みません。。このままだと「理三・阪医合格者を出しておいて倒産する」という新たな伝説を作ることになるのでしょうか!(それはそれで面白いですが)
仕方ないので、体験記の代わりに、できる限り僕がブログを書いていきたいと思います。(まあ、僕が書けば書くほど集客という観点で見たら逆効果なのでしょうが!)

さて、何が苦手といえば、この教えていた子が受験で第一志望に合格した後のことほど、苦手なことはありません。
なぜかというと、あまりそれを一緒に喜ぶことができない、という自身の欠陥が僕にはあるからです。
もちろん、様々な思いがあったとしてもそれらを見せずに徹底的に喜ぶ!という役者のような役割をまっとうする
ことが教師としては必要であるのだ、と思います。そう思って色々と努力はしているのですが、やはりまだまだぎこちないままです。

根本的には、僕は人間の喜びにはあまり興味がなく、人間の苦しみ・悲惨さに興味がある、と言えます。「興味がある」という言い方は不謹慎なだけでなく不正確で、もちろんそれを喜んだり、面白がったり、ということではありません。誰かが困っていたり、苦しんでいたりすることに対して「自分に何ができるか」を考えては行動することにしか興味がなく、その結果その難局をその人が乗り越えられたとしたら、もちろんその成功自体は僕にとっても極めて嬉しいことではあるのですが、しかし「僕の役割はとりあえず終わった。」としか思わない、ということがより正確な表現かもしれません。

そこで難局を乗り越えあった人同士が互いの親交を深める、とか、塾で言えば「一生恩師として崇め奉られる」とかには全く興味がありません。新約聖書のイエスの言葉を借りれば、それは「神のことではなく、人のことを心配している」ということでしかないのかな、と思っています。だからこそ、卒塾生に別に会いたいとも思わないし、たとえば卒塾生が「あのときのあの先生のおかげで何とかやれています!」というように挨拶に来てくれたとしても、そこにやりがいを感じたり、嬉しさを感じたり、絆を感じたり、ということよりも(もちろんそれらの感情が全くないわけではないのですが)、目の前の困っている子、あるいは卒塾生であれ、彼ら彼女らの今困っていること、苦しんでいることに対して、自分が何らかの力になることができないか、にしか意識が向かない、という傾向があります。(なので、卒塾生と世間話をする、ということはなく、卒塾生と顔を合わせるたびに彼ら彼女らの何らかの相談に乗る、ということしか僕にはありません。)

突き詰めて言えば、僕は誰かに感謝を受けるためにこの仕事をしているわけではない、という思いがあります。
もちろん、第一志望に合格すればまるで神様のように感謝され、滑り止めにも合格しなければそれこそ人でなしのように
扱われるこの仕事の中で、その相手からの毀誉褒貶をどちらも真に受けていてはならない、という思いもあります。
ただ、それ以上に僕自身があくまで探究しなければならないのは、目の前の子たちが少しでもまともな大人になれるかどうか(それは人間性のみならず学力の面でも、ですが)ただそれだけです。そこに関しては教える僕自身の自己満足的評価を
排さなければならないだけでなく、教わる生徒自身の評価すら、ときには疑い、厳密に吟味していかねばならないときも
あります。

そして、そのような吟味にとって愛着や郷愁、思い出というのはときに評価を誤らせます。
もちろん、「卒業生は皆友達だ!」的に仲良く付き合いを続けていくような関係性のすべてが
まずいわけではありません。そのような関係性だからこそ、腹を割って話せることもあるでしょう。
それがときには、このようなスタンスの僕よりも彼ら彼女らにとっては力になることができるかもしれません。

ただ、それはまた互恵的・あるいは相互に意義深くない人間関係に正当性があることを認めることになってしまうようにも思います。権威が個々人に思考停止を迫るのは、そのようなプロセスによるのではないか、と思っています。
だからこそ、僕自身は一人一人の直面している「問題」に、徹底的に取り組んでいきたいです。
その「問題」に協力して取り組むこと以外に相手との関係性を担保するものが一つも残らないように、ですね。
逆に喜びや楽しみを誰かと共有することは、この世界にとってはあまり生産的ではないと思えてしまいます。
その生産的ではないことに誰かと時間を共有する暇があれば、その時間を他の人が「問題」に取り組む苦しみを手伝うことに充てたい。そのように考えています。

人生は長く苦しいですが、しかしそのような「問題」が一人一人にずっとあるわけではありません。
大学受験を最後として、そのような取り組むべき「問題」が消失してしまったかのように振る舞い続ける
大人もたくさんいます(もちろんそれは本当に消失するわけがなく、そのように考えたり取り組んだりしてこなかったことのツケが、政治であれ社会であれ大きな問題として個々人の能力を超えた形でしっぺ返しとなってくるわけですが)。

だからこそ、僕はその「問題」を共有し、共に戦う場としての塾を大切にしていきたいと思い、あまりノスタルジーや愛着の対象にはしたくないと思っています。仮に彼ら彼女らの「問題」が、受験が終われば消失する類いのものであろうとも、
です。「合格(卒業)した後、塾に遊びに行っても柳原は冷たくなった!」とお思いの卒塾生の皆さん!どうか、ご理解をいただきたい。そして、君たちが取り組むべきものに必死に取り組み、戦っていただきたい。その上で打ちのめされたり、困ったことがあれば、いつでも力になり続けたい、と思っていますし、そのために僕自身も必死に勉強し続けたいと思っています。それが愛着に甘んじることのない、愛であるとも思っています。
(うーん。書けば書くほど「集客には逆効果」感が強いですね。。今年の卒塾生のみなさーん。早く体験記書いてくれないと、もっと僕がブログたくさん書いちゃって、本当に塾つぶれるぞー!(まさかの脅迫!))

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教室の模様替えをしました。

今日が国公立前期の最後の発表日で、発表待ちの状態です。落ち着かない気持ちを何とか紛らわそうとブログを書いています。

先日教室の模様替えをして、机を増席しました。去年はおかげさまで通ってくれる子も多く、席が足りなくなりかけることも多々あったところ、同じ建物の下のフロアが空く、というこれまたタイムリーなお話を管理会社さんからいただきまして、「これはとうとう自営業者・経営者の夢見る教室拡張のチャンスか!」と思って真剣に検討していました。ただ、嚮心塾のこの独自のスタイルはどうしても「一つの空間」というところが肝心要でして、これを(物理的な距離が近いとはいえ)もう一フロア借りる!となってくると、明らかに別の塾になってしまうかな、と。

もちろん先生を新たに雇ったりすれば、それはそれで楽しみなこともあるのですが、今この塾で僕がやっていることがあまりにも僕という「人」に依存したシステムを作ってきたしまったために、教室を増やしてどんなに優秀な先生を雇ったとしても、やはりそれは「紛(まが)い物」「嚮心塾風」になってしまうなあという結論に至らざるを得なくなり、諸々考えて、泣く泣く断念しました。代わりにあまりにも無駄なものとスペースが多い今の教室を整理し、無駄なものを処分し、そして増席をした、という次第です。(無駄なスペースめっちゃあったので、結構増席できました!)

たとえば「有名ラーメン店の味をご自宅でも!」というカップラーメンは山ほどあって、それは食べてみれば確かに「有名ラーメン店風」の味は確かにするわけですが、しかし本物とは比べ物になりません。では、麺やスープを直販で売っている「お取り寄せ」で食べれば良いかと言えば、それはそれで調理方法が違うため、やはりお店で食べる味にはなりません。
本物、というのは賞味期限も短く、そこにわざわざ出向いて行かなければ味わえないものです。

一方で、吉野家とか松屋とか、チェーン店の凄さ、というのもあります。あの味をあの値段で全国どこでも提供できる、というのはとてつもなく凄いことです。これに関してはどちらが偉い、とかどちらが凄い、とかではなく、密教と顕教の違いのようなものである、という話は以前にも書きました。大切なのはどちらをやりたいか、どちらが自分には向いているか、です。僕は圧倒的に「密教」寄りの人間なので、事業をスケールする、ということをこれっぽっちも考えていませんが、それを目標にして多校舎展開を、という塾を批判するつもりもありません。それは何を目指すかの違いであると思っています。(もちろん多校舎展開の帰結が、そもそも廉価でそこそこの質の保証のある教育機会の担保、ということには全くなっていないでただ害悪を垂れ流している場合も多々あるとは思いますが。それは同様に「小さな塾」で「面倒見が良い」というイメージにかまけて、それ以上の努力を怠る個人塾も多々あることと同じく、間違っています)

ただ、「密教風」は一番罪深いと思っています。「ここでしか食べられない味がある!」と言っては、さんざんどこででも食べられる料理を提供するようなものですね。嚮心塾にとって教室の拡大、というのはある意味でそのような「密教風」へと堕してしまうことにもなってしまうと思っています。

塾の生命線は、一人一人の生徒の観察にある、と思っています。教える必要はないのです。ただ、どこまでも徹底的に観察をしていくことが大切です。その「観察」のために会話やその他のやり取りも観察のツールとして使っては、一人一人の生徒の思考回路や感情を理解しようと努力できるか、が勝負です。
そしてそのためには、やはり同じ空間にいることがとても大切です。これに関してはたとえばZOOMによるオンライン指導なども感染症対策などのために緊急事態に導入するのならまだ良いのですが、全面的にそれでこのような「観察」を代替できるかと言えば、不可能であると思います。なぜなら、生徒が「会話をしたい」「指導を受けたい」ときだけ話すのでは圧倒的に情報が足りないからです。彼らが勉強しているときに無意識に過ごす中で出ているもの、意外な投げかけをこちらからしたときに、どのように反応するか、そういったすべてを観察するためには、やはり同じ空間で勉強をしてもらうことが必要であると考えています。逆にオンラインのビデオ会話であれ、メールやラインであれ、コミュニケーションを取りたいときにとられるコミュニケーションからはその子の思考回路や感情様式の全体像は決して見えてきません。だからこそ、嚮心塾では、「僕と同じ空間で勉強してもらう」ということを徹底しています。

ということで、多校舎展開は不可能ですね。。申し訳ありませんが、西荻窪まで通っていただくことを塾が終わる最後まで皆さんに強いざるをえないようです。(増席したので、席はたくさんあります!)

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骨折しました。

この受験直前のクソ忙しい時期(さらには卒塾生の結婚式にも出るという!)に、なんと人生初の骨折をしました。

しばらくはご迷惑をおかけしますが、何とか最後の追い込みを乗り切っていきたいと思います。
片手でキーボードを叩くので、ブログが書けないなー(普段からあまり書いていない)とか、片手だと塾の看板も出せないから宣伝ができないなー(これも普段からあまり出していない)とか、色々ありますが、ブログのネタもできた、と肯定的に捉えてはまあ元気にやっていきたいと思います。

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お久しぶりです。

だいぶ間が空いてしまいました。10月後半くらいから塾がバタバタと忙しく、11月はその合間を縫ってどくんごを見に行くための遠征にも行っていたため、気がついたらもう12月。センター試験までいよいよ1ヶ月あまりとなりました。

例年だとモチベーションを維持してもらうために指導時間の大半を費やさざるを得ない子も多々いるのですが、今年の受験生たちはしんどい思いをしながらも、皆真剣に頑張ってくれています。だからこそ、彼ら彼女らのその頑張りがしっかりと形になっていくように、こちらも知恵を絞っていきたいと思っています。

人間というものは努力の「型」がどうしても今までの人生の中で決まっているものです。ある方向への努力を厭わない子も、別の方向への努力に関しては、それが必要なことすら決して認めようとしないということが多々あります。受験勉強を間に合わせるために自分の足りないところを埋めていく、という作業は、そのような自分の脳内の「努力」にしかすぎないものを、どのように現実、あまりにも残酷でだからこそあまりにもフェアである現実へとすり合わせ、絶望を直視しては対策をしていくか、ということでもあります。

もちろん、それが一人でできる受験生であると、こちらも手がかからなくて有り難いのですが、どのように優秀な受験生であろうと、おそらく全国一位の受験生であろうと、その子の定義における「努力」は必ず現実に必要な努力よりも幅が狭いものです。そのズレを、指摘し、修正し、何とか自分自身の「定義」を乗り越えていける手伝いをするために。
残りの期間を必死に教えていきたいと思います。

やがて、彼ら彼女らが一人で自身の定義の狭さを乗り越えねばならない、そのときのために。
必死にやっていきたいと思います。

朝から晩までほぼ毎日塾に詰めては教えている毎日ですが、できる限りこのブログはまた更新していきたいと思います。

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内面へと切り入るために。

いやあ、ブログ書くの、すっかり忘れてました!
忙しいにもほどがあるだろ!というくらい6月はバタバタしていた(もうすぐ6月が終わる…)のですが、それもようやく落ち着いてきました。また少しずつ書いていきたいと思います。

教える、ということには生徒の内面に切り入る瞬間を必ず必要とします。
表面を撫でるだけで知識をつけるだけで合格できれば、一番良いのですが、入試というのは極限状況であり、
そのような人生がかかった勝負ではどのように粉飾しても必ずボロが出ます。だからこそ、本当に合格する確率を上げたければ、そこでボロが出てもなお戦えるように、地金(じがね)の部分を鍛えていかねばならないわけです。

しかし、それが本当に難しい。
「あなたの地金、鍛えさせてくださいね。」「わっかりましたー!」とスムーズにいけばよいのですが、
そんなことは一度もありません。

それは当たり前でその「地金」の部分というのは多くの人にとって、自分が触られたくない、考えたくない、
そもそも存在していることに気づきたくもない部分であるからです。そのように存在すら黙殺したくなるような部分が、
しかし、いずれ彼や彼女にとって極限状況で時限爆弾のように爆発してしまわないように、それを何とかまず存在に目を向けさせ、認識してもらい、さらには少しでも変えられるように、とやっていかねばなりません。

「時限爆弾」というたとえを使いましたが、このように生徒の内面に切りいる瞬間というのは、まさしく爆発物処理班のような気持ちです。どこか一本でも切断する線を間違えたら爆発する!という緊張感の元に手探りで話していく必要があります。

もちろん、爆発物処理班との違いは、爆発物処理班と爆弾の間には信頼関係はないですが(本当のカリスマ爆発物処理班の方にはあるのかもしれませんが)、教師と生徒の間には時間をかけて信頼関係を作っていくことができる、ということです。しかし、そのように時間をかけて、丁寧に信頼関係を築いていき、「さて、ここらでそろそろ踏み込んでいくか!」という途端に「もう辞めます!」と言われてしまったりもします。内面へと切り入ることがただ難しいだけではなく、そのためにどれほどの信頼関係が必要であるのか、さらにはその必要な信頼関係を築くことに汲々としては切り入る前に終わってしまうということのないように、と様々な難しさがここにはあるわけです。

このように書くと、あたかも僕が熟練の爆発物処理班(もうこのたとえ、わかりにくいですかね?)であるかのように聞こえるわけですが、実際にはなかなかうまくいくものではありません。
今回も、丁寧に時間をかけて、その上で徐々に勉強のクオリティを上げていけるようにどのタイミングで切り入るか、と準備をしていた子にさっさと「辞めまーす。」と言われ、本当に落ち込みました。

自分自身の人生観、価値観が変わるような努力ができなければ、受験勉強をする意味などない!とまあ僕自身は思っているわけですが、それは別に受験生に強要しても仕方がありません。ただ実際には、そのような自分の価値観を温存するようなやり方は「合格する確率を0.01%でも上げる」ような準備をしていこうとすることと根本的には矛盾します。untouchableな弱点を温存したまま戦うことになるからです。

しかし、ほとんどの受験生は自分自身の人生観・価値観を変えないように努力するわけで、このあたりが本当に難しいところです。だからこそ、疎まれても嫌われても、このように入念に準備しているのにさっさと捨てられても、こちらの準備が無駄になることばかりだとしても、引き続き、内面へと切り入る瞬間のために準備をしていこうと思います。

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太陽の孤独。

こちらが必死に悩み、取り組み、もがき、練った上で放たれた言葉が生徒たちの内面を少しもかすりもせずに、何もうまくいかない、ということが続いていて、だいぶ滅入っています。と書くと、心配をされてしまうかもしれないのですが、まあ平常運転ということです。

自身を鍛えていくためには、自身がなんとなく大切にしているものを疑わなければならない状況が必ず生まれます。もちろん、それには大きなエネルギーが必要であるので、なかなか一人ではそこに立ち向かいたくない、あるいは他の可能性を徹底的に潰してからそこに向き合いたい、と一人一人の受験生は「言い訳」をします。その「言い訳」をこちらが論破して承服させていくことは簡単ではあるのですが、それでは本人にとっては、僕にやらされているだけの勉強であり、あまり力になりません。ときにその過ちに付き合い、過ちに付き合うことを僕がその受験生自身に責められながらも、「やはりここを頑張ることを避けては通れないのだ。」という事実を理解してもらわなければなりません。事実をして語らしめる、というやつですね。しかし、そのような努力をこちらが徹底的にやろうとしても、自分の乗り越えなければならない壁を乗り越えたくない子どもたちにとっては、引き続き楽な方に逃げるために「塾を変える」という選択肢をとられることも多々あるわけです。

このようなときには、端的に言えば死にたくなります。「思いをやる」ことの不可能性、楽な方へと逃げる彼ら彼女らの愚かしさ、さらにはその愚かしさに少しでも理があるかのように思ってしまう親御さんのアホさに、そして何より、結局事実から目を背け、何も頑張らずに生きていく人生へと一人一人が陥ることを、どのような手管を尽くそうとも止めることができなかったという自分の無力さに、打ちのめされるからです。

しかし、このように自分が自分の存在意義を疑わざるをえないほどに、全力を懸けては裏切られ、打ちのめされているときにこそ、「死にたい。」「どうしようもなくなってしまった。」などという相談が来ることが多いのも面白いものです。そのようなとき、こちらもそんな余裕はないのですが、それでも自分に鞭を打って何とか応えようとしても、実際に相談してくる人の力になれているかどうかはあやしいのですが、それでも何とか歯を食いしばっては必死に目の前の相談に応えようとする、という繰り返しです。

卒塾生から、恐れ多くも僕自身のことを「太陽のような存在」と言われたことがあります。それをとりあえず鵜呑みにして心を奮い立たせられるほどには僕は人間のコミュニケーションというものを信頼できてはいないのですが、それでも太陽の孤独については思いを馳せてきたところがあるので、その表現には感心させられました。それはまた、僕自身が理想としてもってきた像であるからです。

人間の「温かい」「冷たい」の感覚は自分よりも温度が高いものと接しているときにはそれを温かく感じ、自分よりも温度が低いものと接しているときにはそれを冷たく感じるということに気づいたとき、僕は何よりもまず、太陽の感じる孤独を想像し、打ちのめされました。この太陽系を温め続けている太陽は、他を温めても温めても、誰よりも「寒さ」を感じ続けるしかないのだと。(まあ今冷静に突っ込むと伝導と放射は違うのでしょうが。)人が他の人に思いをやり、何かを与えよう、伝えよう、わかってほしい、と思うとき気持ちの「温度差」が必ずあるわけですが、誰に対しても思いやりをもとうとし、誰に対してもその人のために伝えようとし続ける人は、誰よりも「寒い」思いを感じ続けざるを得ない人であるのだ、とも。自分にとってその現実は、決して直視したくない、しかし目をそらすこともできない残酷なものでした。

その残酷な現実から逃げて生きる道を諦めて、少なくとも僕からは決して見限りはしないことを決め、この仕事を始めたわけですが、しかしそれでもうまくいかないことだらけ、本当に情けない限りです。

ただ、それでも言えるのは、人との関係において必死に思いやっては裏切られたり理解されなかったりで、しんどい、辛いと追い詰められて「もうこんな人生やっていられない!」と思っているときには、誰かを温め得ているのかもしれない、ということです。もちろん、それはそれだけで「生きよう!」と思える動機になるほど、人間は強くはありません。けれども、それもまた事実である、ということには目を向けておかねばならないと思っています。それはまた、僕が生徒たちによく言っている「生きることがしんどくなってからが、君の人生の始まりなんだよ。」という言葉の意味でもあります。

もちろん、他者を自己が存在し続けるための理由にするのであれば、それは単なるエゴイズムでしかないでしょう。
しかし、自分のしんどさが自分だけのものであり、自分が消えればなくなる単なる無駄なものであるのか、それとも他を温めようとしてはエネルギーを吸い取られてしんどくなっているのかは、ぜんぜん違うことであると思います。
しんどいときにこそ、私達は「太陽の孤独」に目を向けては、それが本当に意味のないことであるのかどうかを見つめ直すことが大切だと思います。

僕も、どんなに理解をしてもらえずに打ち捨てられ続けようとも、生徒たちが自身を鍛えられる人生のために、何とかもう少しだけこちらから語りかけ続けていきたいと思います。

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洗濯機の備え付け方。

先日引っ越しをしました。まだ何も片付いていないのですが、引っ越しして一番最初に困った大問題が洗濯機が大きすぎ、また排水口の位置が防水パンの真ん中にあり、洗濯機が設置できず洗濯ができない、ということでした。。排水口が真ん中にある場合には洗濯機用の台を買ってその上に洗濯機を載せればいい!ということまでは調べてわかり、準備をしたのですが、そこからその洗濯機用の台に一人で載せるまでが大変でした。

洗濯機を台に載せるために様々な試行錯誤をしてはいたのですが、どれも失敗です。重い洗濯機を何度もずらして動かしては汗だくになりつつも、決め手が見えないままに1時間半ほど格闘し、深夜1時を周ったときにはさすがに(ケチな僕であっても)「業者さんに頼むしかないのか…。」と思ったのですが、そこでふと、「そういえばまだ洗濯機を持ち上げていないな。」ということに気づきました。

家にあるのはかなり大きな洗濯機(おそらく80キロくらい)なので、「どのように(持ち上げないで)ずらすか」という作戦をアレコレ考えてはいたのですが、結局そこでの試行錯誤はすべて「洗濯機が完全に地面から離れる瞬間を少しも作らない。」という前提の上での試行錯誤でした。

もちろんその前提は、「この洗濯機は一人で持ち上げるにはかなり厳しい重さである」という事実認識ゆえのものです。その事実認識に間違いはないのですが、その制約ゆえに「この洗濯機は重くて一人で地面から持ち上げられないから」という理由で自分が切り捨てていた方法について検討すべきであることに気づき、それを選択肢に入れて改めて検討してみると10秒位で「なんだ、これでいけるじゃん!」と思いつきました。そして、そこからは、2,3分で無事洗濯機が洗濯機用の台に収まりました。

このときの僕の失敗とは、「洗濯機は一人で持ち上げるにはあまりにも重すぎる」という前提から「ゆえに洗濯機を地面から話す瞬間を少しも作らずに設置する」という誤った結論を導き出し、その誤った結論までを初期条件として、あれこれと試行錯誤をしてしまっていたことでした。

実際には「洗濯機は一人で持ち上げるにはあまりにも重すぎる」→「とはいえ、短い時間、何センチか持ち上げること自体はそんなに不可能ではない。」ということまでを踏まえた上で、どのような方法がベストかを考えればよかったわけですし、実際その縛りをなくしてからは短時間で「正解」が見えたわけです。


「問題を解決するのには試行錯誤こそが大切だ!」という主張については、僕自身、心から同意します。実際に嚮心塾も受験生に試行錯誤してもらっては解決策を見つけてもらうための塾です。しかし、試行錯誤も、そもそも自分が前提としているものを疑わずに行われるとき、やはりそれでは解決につながらないままに時間を空費することになりがちです。

だからこそ、徹底的に試行錯誤をするのはあくまで自分が前提としているものを疑うため、であるのだと思います。
ある前提の下で徹底的に努力をし、それでもうまくいかないのであれば、前提が間違っている可能性を初めてそこで疑うことができます。

もちろんこれは前提が間違っていることを早くから疑うべきではない、ということではありません。特に極度の緊張下であるために問題文の読み間違い、勘違いが多い入試においては、問題文で与えられている前提を自身が誤読していないかをしっかりとチェックしてから問題について考え始める方が、急いで読み取った前提を元に解き進めてしまうよりも、結局時間のロスを防ぐことが出来る、というテクニックはある程度普遍性を持つ、とは思います。

ただ、受験生にとっては日々の勉強において、前提から疑っていくだけでは何も進められなくなってしまいます。
だからこそ、勉強の進め方としては、
①まずある仮説にもとづいて、それを前提として進めていく(そして、これは徹底的にやる)。
②それを徹底したとしてもまだ力がつかないところについては、明確にやるべきものが見えていればいいのですが、
そうでなければ①で立てた仮説の中で自身が「ここは当たり前として…」としている中に、見落としがないかを考える。
③できれば、その②のプロセスを自分だけでなく、誰か他の人と一緒に検証していく。
ということが大切であると思っています。

特に、この③が重要で、たかが洗濯機を台に載せる、ということだけでも相談ができなければ自身の思い込みに気づかないままに試行錯誤をしては結局うまくいかない、というこのような失敗をしてしまうわけです。特に自分が賢いと思っている人ほどにこのような失敗に陥りがちであると思います(まさに僕のような奴ですね…)。

「教師が正解を教え込むのではなく、生徒に試行錯誤をさせることが大切だ!」ということまではだいぶ人口に膾炙してきているとは思うのですが(もちろんこれが教育現場全体を見れば楽観的な見方であることも承知しています。。)、「試行錯誤とは何か」「『正しい』試行錯誤と『誤った』試行錯誤はないのか」という点に関しては、まだまだ皆が手探り状態であるようにも思っています。「前提を疑うためにこそ、試行錯誤を尽くす。」というその姿勢は、リルケの「自らの死に際して絶望して死ねる。私は幸せだ。」という言葉とも通底するように思えるのは僕だけでしょうか(僕だけだったらすみません。。)。

もちろん、受験勉強のように残り時間が限られているときには、自分の思考回路を点検できる機会を作ることが出来る他の人(これこそが教師が果たさなければならない役割です)の存在が極めて重要ではあるわけですが、長い人生、それも誰にも答が見えないしんどい取り組みの中では、そうはいかないこともあると思います。その際にこそ、試行錯誤をしてみてもうまくいかないときには、自分が当たり前のように取り入れている前提を疑うべきである、ということを思い出せるかどうか、ですね。僕自身もそれができるように、必死にあれこれとやっていきたいと思います。

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調べる消費者の必要性。

最近、塾の窓を防音仕様に二重窓にするために工事の見積もりをとりました。その際、4つある窓のうち、2つは窓を閉める金具(クレセント)の柄が長く、二重窓にぶつかってしまうため、ぶつからないように間隔を取って内窓をつけるために追加レールのようなものをつけなければならない、ということでその分見積もりが高くなりました。そこで、「その金具を柄の短いものに変えたら追加レールはいらないのでは?」と業者さんに提案したところ、かなり渋られていたのですが、調べてみたところこれはおそらく金具を変えることでもっと安くかつコンパクトに収まりのいい形になりそうです。

もちろん、向こうとしても商売上利幅の大きいものをオススメする、ということを義務付けられているのかもしれませんが、このように素人でもすぐに思いつくレベルの解決策すら提示してくれないのであれば、その業者さんの提案を信頼することがこちらとしてはできなくなります。結果として長期的に見れば、そのような商売というのは「バカを騙す」モデルであり、あまり持続可能なやり方ではないと思ってしまいます。

結局消費者として様々なものに接せざるを得ないこの社会の中で、私達がそのような商売を許さないためには、私達自身が考え、調べ、勉強していくしかありません。逆に言えばそのように「とりあえず利幅の大きいこれを買わせておけば…」ということに対して何の疑いもなく飛びつく、ということは消費者としての責任を果たしていない、とも言えるのだと思います。

もちろん多岐にわたる発達を重ねたこの社会の中で、その一つ一つをいちいち聞いたり調べたりしていく、ということは
本当に面倒なことです。しかし、そこで「おまかせ」にすればするほどに、そのような商売ばかりが増えていくことになり、社会全体としては非効率な商売がたくさん跋扈することになってしまいます。そのようにして、互いの無知につけ込むような商売ばかりがのさばってしまっている社会こそが、内側で悪貨が良貨を駆逐してしまった結果として、他の社会との競争力を失った、落ちぶれていくしかない社会になってしまうのだと思います。それが国際競争力を失い、あとは貯金を食いつぶすだけの現在の日本の状況である、と言えば言い過ぎでしょうか。

と、ここまで書いてみて、これは消費者としての我々にとって必要である以上に、投票者あるいは政治参加者の我々にとってなおさら必要である、とも思い至ります。今は統一地方選の後半戦ですが、一人ひとりの候補者の政策やバックグラウンドについて、どれほどの有権者が調べて投票しているといえるのでしょうか。単に「投票率をあげよう!」というキャンペーンが偽善的でしかないのは、(もちろん「投票することで我々の参政権が行使できている」というのが一つの幻想でしかないとしてもなお)熟慮や下調べを通じて誰に投票するのかをすることなしに上がる投票率には、何の意味もありません。

知らないのなら、調べればいい。調べてわからないのなら、詳しい人に聞けばいい。そういった一つ一つを
受験勉強はもちろんとして、購買行動、政治参加、その他人生におけるすべてにおいて貫き通していく、ということが当たり前にできる人々を少しでも増やしていけるように、今日も塾を頑張りたいと思っています(それはなかなか大変そうですが!)。

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呪(のろ)うことは祝(いわ)うことであること。

昨日の東大の入学式での上野千鶴子先生の祝辞が話題になっています。僕も全文を読んで内容も本当に素晴らしいし、これを聞いて反発している新入生も、勉強をしていく中でその反発を覚える自分のアホさに気付けるようになってくれればいいな、と思います。(もちろん、そうならない可能性の方が圧倒的に高いのが、恐ろしいところですが。一般に東大生が偏りのない見方が出来るかと言えばそれは全く違いますし、むしろ自分たちが受験勉強をくぐり抜けている、という成功体験から自分たちの偏見や幼稚さにすぎないものが少なくとも一顧だに値するかと思い込むような幼稚な態度をとってしまう子たちが多く、そしてそれは大人になってからもあまり変わらない、というのが事実です。東大出身者(これは京大でも早慶でもあまり変わりはしませんが)は「知的エリート」のような社会的認知をえながらも、ほとんどは実際には「自分」(がこれまでに身に着けてきた偏見)を疑うことができないという点では知的エリートではありません。)上野先生の祝辞はこちらから全文が読めます。

論点がいくつもあるので、この祝辞に含まれている論点について述べていくだけでもブログのネタに毎日困らずに連載できてしまうわけですが(笑)、さすがにそれはあざといですし、普段このブログで書いていることとも重複が多い(特に「自分の成功を自分の努力のおかげと思うな。」ということは繰り返し書いていると思います)ので、一点だけについて書きたいと思いました。それは、この上野先生の祝辞に対して「内容が素晴らしいことは間違いがないが、入学生を祝う入学式の祝辞としてふさわしかったか。」という批判について、です。

結局このような祝辞は東大生を選別を受けてきているという「原罪」を入学生に背負わせることであり、それを入学式でやるのか、という批判については、僕はそのような呪いの言葉こそが意気揚々と大学に入ろうとしている子達にとっては一番の良い薬であり、最高の贈り物であると思っています。もちろん、それをうざったいと思う学生が多いことは事実として、そのように呪われる言葉から、少しでも自身のありようについて考えざるをえないこと、さらには自身は考えないとしてもそれを問題視ないし、留保をつける存在がいるのだ、という事実をつきつけられることこそが、自身の認識の枠組みを問い直すきっかけになると思うからです。

たとえば、(これは上野先生も祝辞で触れていましたが)僕自身が入学した20数年前から今もずっと東大では東大男子はどこのサークルでも入れるのに、女子はインカレサークルには入ることができません。インカレサークルの方が圧倒的に多いため、東大女子は東大のサークルにほとんど入れないのです。これは東大男子は他大の女子にチヤホヤされたいところからそうなのでしょうが、今でこそそれが問題視されるものの、依然として改められていないことです。
(僕自身は、この理不尽な仕組みに入学当時憤慨しましたし、だからこそ絶対にそのようなインカレサークルには入らないことは決めて、東大女子も入れるサークルに入りました。それと同時に何の疑いもなくインカレサークルに入る同級生を軽蔑もしていました。しかし、その思いを同級生の男性の誰かに伝えても、ほぼ誰も理解してもらえなかったことをよく覚えています。まあそのせっかく入ったサークルも「東大」という内側は疑いえないアホさにうんざりして行かなくなるわけですが。)

そのような排除の仕組みに対して、疑問を投げかけることは内側からはどうしても出てきにくいため、この上野先生の祝辞のような「呪い」があって初めて、考える切っ掛けをもらうことができると思っています。

それとともに、このような「呪い」の言葉を投げかける、ということは根本的には相手を信頼している、という姿勢の現れでもあります。今はわからなくとも、いずれわかってもらえるときが来るのではないか、そのためならば今は嫌われ、憎まれ、厭われようとも、それでもこの「違和感」を伝えなければならないのではないか。そのような懸命な思いを伝えるためには、ただ「おめでとう!」ということよりも何万倍もエネルギーがいることであり、だからこそ何万倍も愛情のこもった言葉であるのだと思います。これはたとえ、アホな東大出身者がこの祝辞の意味をわからないままに、その視野の狭い生涯を終えたとしてもなお、上野先生の愛情に価値が有ることには変わりがない、と僕は思います。「祝(いわ)う」とはどのような行為かが、相手を愛する気持ちが入っているかどうかによって定義されるのであるとすれば、このような「呪(のろ)いの言葉」の中には形式的なお祝いの言葉の何万倍も相手を愛する気持ちが込められているからこそ、何よりも「祝(いわ)いの言葉」であるのだと思います。

もちろん、この素晴らしい祝辞を話す上野先生も彼女の持つ別の内側の論理(移民排除)を北田暁大先生から批判された(『終わらない「失われた20年」』(筑摩選書))こともあったり、と現実には内側の論理のもつ暴力性というのは一筋縄にはいきません。ある暴力を告発する人が別の暴力には積極的に加担してしまう、というのは私達人間が視野が狭く愚かであるからこそ、どのような知性を持つ人にとっても容易に陥りやすい過ちであるのだと思います。(もちろん、これに関しての上野先生の反省は知的誠実さの現れであると感心しました。)

しかし、だからこそ、そのような内側の論理に陥らないように、何とかその自分の暴力性を直視しては乗り越えようとする姿勢こそが人間性の必要条件であると僕は考えています。僕自身の目標としても、「東大合格者何人!」とか「医学部合格者何人!」とかには全く興味がないのですが、「自分を疑うことのできる東大合格者何人!」とか「自分を疑うことのできる医学部合格者何人!」とかにはとても意味があると思いますし(自分を疑う賢さがある子は受験勉強なんかやらないものなので…。逆に言うと受験勉強を抵抗なく出来る子は、あまり頭がよくありません。これはかつての僕自身も含めて、ですが。)、それがかなえられるように、まずは僕自身が自己を徹底的に疑い続ける姿勢を貫いては、自身を鍛えていかなければならないと思っています。

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