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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

内面へと切り入るために。

いやあ、ブログ書くの、すっかり忘れてました!
忙しいにもほどがあるだろ!というくらい6月はバタバタしていた(もうすぐ6月が終わる…)のですが、それもようやく落ち着いてきました。また少しずつ書いていきたいと思います。

教える、ということには生徒の内面に切り入る瞬間を必ず必要とします。
表面を撫でるだけで知識をつけるだけで合格できれば、一番良いのですが、入試というのは極限状況であり、
そのような人生がかかった勝負ではどのように粉飾しても必ずボロが出ます。だからこそ、本当に合格する確率を上げたければ、そこでボロが出てもなお戦えるように、地金(じがね)の部分を鍛えていかねばならないわけです。

しかし、それが本当に難しい。
「あなたの地金、鍛えさせてくださいね。」「わっかりましたー!」とスムーズにいけばよいのですが、
そんなことは一度もありません。

それは当たり前でその「地金」の部分というのは多くの人にとって、自分が触られたくない、考えたくない、
そもそも存在していることに気づきたくもない部分であるからです。そのように存在すら黙殺したくなるような部分が、
しかし、いずれ彼や彼女にとって極限状況で時限爆弾のように爆発してしまわないように、それを何とかまず存在に目を向けさせ、認識してもらい、さらには少しでも変えられるように、とやっていかねばなりません。

「時限爆弾」というたとえを使いましたが、このように生徒の内面に切りいる瞬間というのは、まさしく爆発物処理班のような気持ちです。どこか一本でも切断する線を間違えたら爆発する!という緊張感の元に手探りで話していく必要があります。

もちろん、爆発物処理班との違いは、爆発物処理班と爆弾の間には信頼関係はないですが(本当のカリスマ爆発物処理班の方にはあるのかもしれませんが)、教師と生徒の間には時間をかけて信頼関係を作っていくことができる、ということです。しかし、そのように時間をかけて、丁寧に信頼関係を築いていき、「さて、ここらでそろそろ踏み込んでいくか!」という途端に「もう辞めます!」と言われてしまったりもします。内面へと切り入ることがただ難しいだけではなく、そのためにどれほどの信頼関係が必要であるのか、さらにはその必要な信頼関係を築くことに汲々としては切り入る前に終わってしまうということのないように、と様々な難しさがここにはあるわけです。

このように書くと、あたかも僕が熟練の爆発物処理班(もうこのたとえ、わかりにくいですかね?)であるかのように聞こえるわけですが、実際にはなかなかうまくいくものではありません。
今回も、丁寧に時間をかけて、その上で徐々に勉強のクオリティを上げていけるようにどのタイミングで切り入るか、と準備をしていた子にさっさと「辞めまーす。」と言われ、本当に落ち込みました。

自分自身の人生観、価値観が変わるような努力ができなければ、受験勉強をする意味などない!とまあ僕自身は思っているわけですが、それは別に受験生に強要しても仕方がありません。ただ実際には、そのような自分の価値観を温存するようなやり方は「合格する確率を0.01%でも上げる」ような準備をしていこうとすることと根本的には矛盾します。untouchableな弱点を温存したまま戦うことになるからです。

しかし、ほとんどの受験生は自分自身の人生観・価値観を変えないように努力するわけで、このあたりが本当に難しいところです。だからこそ、疎まれても嫌われても、このように入念に準備しているのにさっさと捨てられても、こちらの準備が無駄になることばかりだとしても、引き続き、内面へと切り入る瞬間のために準備をしていこうと思います。

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太陽の孤独。

こちらが必死に悩み、取り組み、もがき、練った上で放たれた言葉が生徒たちの内面を少しもかすりもせずに、何もうまくいかない、ということが続いていて、だいぶ滅入っています。と書くと、心配をされてしまうかもしれないのですが、まあ平常運転ということです。

自身を鍛えていくためには、自身がなんとなく大切にしているものを疑わなければならない状況が必ず生まれます。もちろん、それには大きなエネルギーが必要であるので、なかなか一人ではそこに立ち向かいたくない、あるいは他の可能性を徹底的に潰してからそこに向き合いたい、と一人一人の受験生は「言い訳」をします。その「言い訳」をこちらが論破して承服させていくことは簡単ではあるのですが、それでは本人にとっては、僕にやらされているだけの勉強であり、あまり力になりません。ときにその過ちに付き合い、過ちに付き合うことを僕がその受験生自身に責められながらも、「やはりここを頑張ることを避けては通れないのだ。」という事実を理解してもらわなければなりません。事実をして語らしめる、というやつですね。しかし、そのような努力をこちらが徹底的にやろうとしても、自分の乗り越えなければならない壁を乗り越えたくない子どもたちにとっては、引き続き楽な方に逃げるために「塾を変える」という選択肢をとられることも多々あるわけです。

このようなときには、端的に言えば死にたくなります。「思いをやる」ことの不可能性、楽な方へと逃げる彼ら彼女らの愚かしさ、さらにはその愚かしさに少しでも理があるかのように思ってしまう親御さんのアホさに、そして何より、結局事実から目を背け、何も頑張らずに生きていく人生へと一人一人が陥ることを、どのような手管を尽くそうとも止めることができなかったという自分の無力さに、打ちのめされるからです。

しかし、このように自分が自分の存在意義を疑わざるをえないほどに、全力を懸けては裏切られ、打ちのめされているときにこそ、「死にたい。」「どうしようもなくなってしまった。」などという相談が来ることが多いのも面白いものです。そのようなとき、こちらもそんな余裕はないのですが、それでも自分に鞭を打って何とか応えようとしても、実際に相談してくる人の力になれているかどうかはあやしいのですが、それでも何とか歯を食いしばっては必死に目の前の相談に応えようとする、という繰り返しです。

卒塾生から、恐れ多くも僕自身のことを「太陽のような存在」と言われたことがあります。それをとりあえず鵜呑みにして心を奮い立たせられるほどには僕は人間のコミュニケーションというものを信頼できてはいないのですが、それでも太陽の孤独については思いを馳せてきたところがあるので、その表現には感心させられました。それはまた、僕自身が理想としてもってきた像であるからです。

人間の「温かい」「冷たい」の感覚は自分よりも温度が高いものと接しているときにはそれを温かく感じ、自分よりも温度が低いものと接しているときにはそれを冷たく感じるということに気づいたとき、僕は何よりもまず、太陽の感じる孤独を想像し、打ちのめされました。この太陽系を温め続けている太陽は、他を温めても温めても、誰よりも「寒さ」を感じ続けるしかないのだと。(まあ今冷静に突っ込むと伝導と放射は違うのでしょうが。)人が他の人に思いをやり、何かを与えよう、伝えよう、わかってほしい、と思うとき気持ちの「温度差」が必ずあるわけですが、誰に対しても思いやりをもとうとし、誰に対してもその人のために伝えようとし続ける人は、誰よりも「寒い」思いを感じ続けざるを得ない人であるのだ、とも。自分にとってその現実は、決して直視したくない、しかし目をそらすこともできない残酷なものでした。

その残酷な現実から逃げて生きる道を諦めて、少なくとも僕からは決して見限りはしないことを決め、この仕事を始めたわけですが、しかしそれでもうまくいかないことだらけ、本当に情けない限りです。

ただ、それでも言えるのは、人との関係において必死に思いやっては裏切られたり理解されなかったりで、しんどい、辛いと追い詰められて「もうこんな人生やっていられない!」と思っているときには、誰かを温め得ているのかもしれない、ということです。もちろん、それはそれだけで「生きよう!」と思える動機になるほど、人間は強くはありません。けれども、それもまた事実である、ということには目を向けておかねばならないと思っています。それはまた、僕が生徒たちによく言っている「生きることがしんどくなってからが、君の人生の始まりなんだよ。」という言葉の意味でもあります。

もちろん、他者を自己が存在し続けるための理由にするのであれば、それは単なるエゴイズムでしかないでしょう。
しかし、自分のしんどさが自分だけのものであり、自分が消えればなくなる単なる無駄なものであるのか、それとも他を温めようとしてはエネルギーを吸い取られてしんどくなっているのかは、ぜんぜん違うことであると思います。
しんどいときにこそ、私達は「太陽の孤独」に目を向けては、それが本当に意味のないことであるのかどうかを見つめ直すことが大切だと思います。

僕も、どんなに理解をしてもらえずに打ち捨てられ続けようとも、生徒たちが自身を鍛えられる人生のために、何とかもう少しだけこちらから語りかけ続けていきたいと思います。

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洗濯機の備え付け方。

先日引っ越しをしました。まだ何も片付いていないのですが、引っ越しして一番最初に困った大問題が洗濯機が大きすぎ、また排水口の位置が防水パンの真ん中にあり、洗濯機が設置できず洗濯ができない、ということでした。。排水口が真ん中にある場合には洗濯機用の台を買ってその上に洗濯機を載せればいい!ということまでは調べてわかり、準備をしたのですが、そこからその洗濯機用の台に一人で載せるまでが大変でした。

洗濯機を台に載せるために様々な試行錯誤をしてはいたのですが、どれも失敗です。重い洗濯機を何度もずらして動かしては汗だくになりつつも、決め手が見えないままに1時間半ほど格闘し、深夜1時を周ったときにはさすがに(ケチな僕であっても)「業者さんに頼むしかないのか…。」と思ったのですが、そこでふと、「そういえばまだ洗濯機を持ち上げていないな。」ということに気づきました。

家にあるのはかなり大きな洗濯機(おそらく80キロくらい)なので、「どのように(持ち上げないで)ずらすか」という作戦をアレコレ考えてはいたのですが、結局そこでの試行錯誤はすべて「洗濯機が完全に地面から離れる瞬間を少しも作らない。」という前提の上での試行錯誤でした。

もちろんその前提は、「この洗濯機は一人で持ち上げるにはかなり厳しい重さである」という事実認識ゆえのものです。その事実認識に間違いはないのですが、その制約ゆえに「この洗濯機は重くて一人で地面から持ち上げられないから」という理由で自分が切り捨てていた方法について検討すべきであることに気づき、それを選択肢に入れて改めて検討してみると10秒位で「なんだ、これでいけるじゃん!」と思いつきました。そして、そこからは、2,3分で無事洗濯機が洗濯機用の台に収まりました。

このときの僕の失敗とは、「洗濯機は一人で持ち上げるにはあまりにも重すぎる」という前提から「ゆえに洗濯機を地面から話す瞬間を少しも作らずに設置する」という誤った結論を導き出し、その誤った結論までを初期条件として、あれこれと試行錯誤をしてしまっていたことでした。

実際には「洗濯機は一人で持ち上げるにはあまりにも重すぎる」→「とはいえ、短い時間、何センチか持ち上げること自体はそんなに不可能ではない。」ということまでを踏まえた上で、どのような方法がベストかを考えればよかったわけですし、実際その縛りをなくしてからは短時間で「正解」が見えたわけです。


「問題を解決するのには試行錯誤こそが大切だ!」という主張については、僕自身、心から同意します。実際に嚮心塾も受験生に試行錯誤してもらっては解決策を見つけてもらうための塾です。しかし、試行錯誤も、そもそも自分が前提としているものを疑わずに行われるとき、やはりそれでは解決につながらないままに時間を空費することになりがちです。

だからこそ、徹底的に試行錯誤をするのはあくまで自分が前提としているものを疑うため、であるのだと思います。
ある前提の下で徹底的に努力をし、それでもうまくいかないのであれば、前提が間違っている可能性を初めてそこで疑うことができます。

もちろんこれは前提が間違っていることを早くから疑うべきではない、ということではありません。特に極度の緊張下であるために問題文の読み間違い、勘違いが多い入試においては、問題文で与えられている前提を自身が誤読していないかをしっかりとチェックしてから問題について考え始める方が、急いで読み取った前提を元に解き進めてしまうよりも、結局時間のロスを防ぐことが出来る、というテクニックはある程度普遍性を持つ、とは思います。

ただ、受験生にとっては日々の勉強において、前提から疑っていくだけでは何も進められなくなってしまいます。
だからこそ、勉強の進め方としては、
①まずある仮説にもとづいて、それを前提として進めていく(そして、これは徹底的にやる)。
②それを徹底したとしてもまだ力がつかないところについては、明確にやるべきものが見えていればいいのですが、
そうでなければ①で立てた仮説の中で自身が「ここは当たり前として…」としている中に、見落としがないかを考える。
③できれば、その②のプロセスを自分だけでなく、誰か他の人と一緒に検証していく。
ということが大切であると思っています。

特に、この③が重要で、たかが洗濯機を台に載せる、ということだけでも相談ができなければ自身の思い込みに気づかないままに試行錯誤をしては結局うまくいかない、というこのような失敗をしてしまうわけです。特に自分が賢いと思っている人ほどにこのような失敗に陥りがちであると思います(まさに僕のような奴ですね…)。

「教師が正解を教え込むのではなく、生徒に試行錯誤をさせることが大切だ!」ということまではだいぶ人口に膾炙してきているとは思うのですが(もちろんこれが教育現場全体を見れば楽観的な見方であることも承知しています。。)、「試行錯誤とは何か」「『正しい』試行錯誤と『誤った』試行錯誤はないのか」という点に関しては、まだまだ皆が手探り状態であるようにも思っています。「前提を疑うためにこそ、試行錯誤を尽くす。」というその姿勢は、リルケの「自らの死に際して絶望して死ねる。私は幸せだ。」という言葉とも通底するように思えるのは僕だけでしょうか(僕だけだったらすみません。。)。

もちろん、受験勉強のように残り時間が限られているときには、自分の思考回路を点検できる機会を作ることが出来る他の人(これこそが教師が果たさなければならない役割です)の存在が極めて重要ではあるわけですが、長い人生、それも誰にも答が見えないしんどい取り組みの中では、そうはいかないこともあると思います。その際にこそ、試行錯誤をしてみてもうまくいかないときには、自分が当たり前のように取り入れている前提を疑うべきである、ということを思い出せるかどうか、ですね。僕自身もそれができるように、必死にあれこれとやっていきたいと思います。

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調べる消費者の必要性。

最近、塾の窓を防音仕様に二重窓にするために工事の見積もりをとりました。その際、4つある窓のうち、2つは窓を閉める金具(クレセント)の柄が長く、二重窓にぶつかってしまうため、ぶつからないように間隔を取って内窓をつけるために追加レールのようなものをつけなければならない、ということでその分見積もりが高くなりました。そこで、「その金具を柄の短いものに変えたら追加レールはいらないのでは?」と業者さんに提案したところ、かなり渋られていたのですが、調べてみたところこれはおそらく金具を変えることでもっと安くかつコンパクトに収まりのいい形になりそうです。

もちろん、向こうとしても商売上利幅の大きいものをオススメする、ということを義務付けられているのかもしれませんが、このように素人でもすぐに思いつくレベルの解決策すら提示してくれないのであれば、その業者さんの提案を信頼することがこちらとしてはできなくなります。結果として長期的に見れば、そのような商売というのは「バカを騙す」モデルであり、あまり持続可能なやり方ではないと思ってしまいます。

結局消費者として様々なものに接せざるを得ないこの社会の中で、私達がそのような商売を許さないためには、私達自身が考え、調べ、勉強していくしかありません。逆に言えばそのように「とりあえず利幅の大きいこれを買わせておけば…」ということに対して何の疑いもなく飛びつく、ということは消費者としての責任を果たしていない、とも言えるのだと思います。

もちろん多岐にわたる発達を重ねたこの社会の中で、その一つ一つをいちいち聞いたり調べたりしていく、ということは
本当に面倒なことです。しかし、そこで「おまかせ」にすればするほどに、そのような商売ばかりが増えていくことになり、社会全体としては非効率な商売がたくさん跋扈することになってしまいます。そのようにして、互いの無知につけ込むような商売ばかりがのさばってしまっている社会こそが、内側で悪貨が良貨を駆逐してしまった結果として、他の社会との競争力を失った、落ちぶれていくしかない社会になってしまうのだと思います。それが国際競争力を失い、あとは貯金を食いつぶすだけの現在の日本の状況である、と言えば言い過ぎでしょうか。

と、ここまで書いてみて、これは消費者としての我々にとって必要である以上に、投票者あるいは政治参加者の我々にとってなおさら必要である、とも思い至ります。今は統一地方選の後半戦ですが、一人ひとりの候補者の政策やバックグラウンドについて、どれほどの有権者が調べて投票しているといえるのでしょうか。単に「投票率をあげよう!」というキャンペーンが偽善的でしかないのは、(もちろん「投票することで我々の参政権が行使できている」というのが一つの幻想でしかないとしてもなお)熟慮や下調べを通じて誰に投票するのかをすることなしに上がる投票率には、何の意味もありません。

知らないのなら、調べればいい。調べてわからないのなら、詳しい人に聞けばいい。そういった一つ一つを
受験勉強はもちろんとして、購買行動、政治参加、その他人生におけるすべてにおいて貫き通していく、ということが当たり前にできる人々を少しでも増やしていけるように、今日も塾を頑張りたいと思っています(それはなかなか大変そうですが!)。

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呪(のろ)うことは祝(いわ)うことであること。

昨日の東大の入学式での上野千鶴子先生の祝辞が話題になっています。僕も全文を読んで内容も本当に素晴らしいし、これを聞いて反発している新入生も、勉強をしていく中でその反発を覚える自分のアホさに気付けるようになってくれればいいな、と思います。(もちろん、そうならない可能性の方が圧倒的に高いのが、恐ろしいところですが。一般に東大生が偏りのない見方が出来るかと言えばそれは全く違いますし、むしろ自分たちが受験勉強をくぐり抜けている、という成功体験から自分たちの偏見や幼稚さにすぎないものが少なくとも一顧だに値するかと思い込むような幼稚な態度をとってしまう子たちが多く、そしてそれは大人になってからもあまり変わらない、というのが事実です。東大出身者(これは京大でも早慶でもあまり変わりはしませんが)は「知的エリート」のような社会的認知をえながらも、ほとんどは実際には「自分」(がこれまでに身に着けてきた偏見)を疑うことができないという点では知的エリートではありません。)上野先生の祝辞はこちらから全文が読めます。

論点がいくつもあるので、この祝辞に含まれている論点について述べていくだけでもブログのネタに毎日困らずに連載できてしまうわけですが(笑)、さすがにそれはあざといですし、普段このブログで書いていることとも重複が多い(特に「自分の成功を自分の努力のおかげと思うな。」ということは繰り返し書いていると思います)ので、一点だけについて書きたいと思いました。それは、この上野先生の祝辞に対して「内容が素晴らしいことは間違いがないが、入学生を祝う入学式の祝辞としてふさわしかったか。」という批判について、です。

結局このような祝辞は東大生を選別を受けてきているという「原罪」を入学生に背負わせることであり、それを入学式でやるのか、という批判については、僕はそのような呪いの言葉こそが意気揚々と大学に入ろうとしている子達にとっては一番の良い薬であり、最高の贈り物であると思っています。もちろん、それをうざったいと思う学生が多いことは事実として、そのように呪われる言葉から、少しでも自身のありようについて考えざるをえないこと、さらには自身は考えないとしてもそれを問題視ないし、留保をつける存在がいるのだ、という事実をつきつけられることこそが、自身の認識の枠組みを問い直すきっかけになると思うからです。

たとえば、(これは上野先生も祝辞で触れていましたが)僕自身が入学した20数年前から今もずっと東大では東大男子はどこのサークルでも入れるのに、女子はインカレサークルには入ることができません。インカレサークルの方が圧倒的に多いため、東大女子は東大のサークルにほとんど入れないのです。これは東大男子は他大の女子にチヤホヤされたいところからそうなのでしょうが、今でこそそれが問題視されるものの、依然として改められていないことです。
(僕自身は、この理不尽な仕組みに入学当時憤慨しましたし、だからこそ絶対にそのようなインカレサークルには入らないことは決めて、東大女子も入れるサークルに入りました。それと同時に何の疑いもなくインカレサークルに入る同級生を軽蔑もしていました。しかし、その思いを同級生の男性の誰かに伝えても、ほぼ誰も理解してもらえなかったことをよく覚えています。まあそのせっかく入ったサークルも「東大」という内側は疑いえないアホさにうんざりして行かなくなるわけですが。)

そのような排除の仕組みに対して、疑問を投げかけることは内側からはどうしても出てきにくいため、この上野先生の祝辞のような「呪い」があって初めて、考える切っ掛けをもらうことができると思っています。

それとともに、このような「呪い」の言葉を投げかける、ということは根本的には相手を信頼している、という姿勢の現れでもあります。今はわからなくとも、いずれわかってもらえるときが来るのではないか、そのためならば今は嫌われ、憎まれ、厭われようとも、それでもこの「違和感」を伝えなければならないのではないか。そのような懸命な思いを伝えるためには、ただ「おめでとう!」ということよりも何万倍もエネルギーがいることであり、だからこそ何万倍も愛情のこもった言葉であるのだと思います。これはたとえ、アホな東大出身者がこの祝辞の意味をわからないままに、その視野の狭い生涯を終えたとしてもなお、上野先生の愛情に価値が有ることには変わりがない、と僕は思います。「祝(いわ)う」とはどのような行為かが、相手を愛する気持ちが入っているかどうかによって定義されるのであるとすれば、このような「呪(のろ)いの言葉」の中には形式的なお祝いの言葉の何万倍も相手を愛する気持ちが込められているからこそ、何よりも「祝(いわ)いの言葉」であるのだと思います。

もちろん、この素晴らしい祝辞を話す上野先生も彼女の持つ別の内側の論理(移民排除)を北田暁大先生から批判された(『終わらない「失われた20年」』(筑摩選書))こともあったり、と現実には内側の論理のもつ暴力性というのは一筋縄にはいきません。ある暴力を告発する人が別の暴力には積極的に加担してしまう、というのは私達人間が視野が狭く愚かであるからこそ、どのような知性を持つ人にとっても容易に陥りやすい過ちであるのだと思います。(もちろん、これに関しての上野先生の反省は知的誠実さの現れであると感心しました。)

しかし、だからこそ、そのような内側の論理に陥らないように、何とかその自分の暴力性を直視しては乗り越えようとする姿勢こそが人間性の必要条件であると僕は考えています。僕自身の目標としても、「東大合格者何人!」とか「医学部合格者何人!」とかには全く興味がないのですが、「自分を疑うことのできる東大合格者何人!」とか「自分を疑うことのできる医学部合格者何人!」とかにはとても意味があると思いますし(自分を疑う賢さがある子は受験勉強なんかやらないものなので…。逆に言うと受験勉強を抵抗なく出来る子は、あまり頭がよくありません。これはかつての僕自身も含めて、ですが。)、それがかなえられるように、まずは僕自身が自己を徹底的に疑い続ける姿勢を貫いては、自身を鍛えていかなければならないと思っています。

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対話の可能性について。

自分の見方と違う見方を理解するのは難しいことです。それは僕自身も「そのような見落としをしないように」と心がけながらも、いともたやすくその失敗に陥ることからもよくわかります。それほどに人間というのは与えられた環境に応じて「自分の見方」が決まってしまう(すなわち、「自分の見方」がいかに自分のものではないか、ということでもあるのですが)のだと思います。

ただ、人間の理性には限界があるからこそ、そのような失敗についつい陥りがちではあるとしても、それでも自分の見方と違う見方を理解しようと思えているかどうか、というのは一つ重要な違いであると思います。その自分の見方とは違う見方を理解しようと思えているかどうか、によって対話ができるかどうか、ということが大きく変わってきます。

前までは僕はこの違いを「知性の違い」と捉えているところもあったのですが、どうやら知性ではないのですね。
極めて高い知性を、違った立場の意見を理解しないで自己の見方を正当化するためだけに使う人々がどれほど多いかを考えれば、それは明らかです。

大切なのは「自分の見方」「自分の考え方」として自分が守っているものが、自分の環境や立場、職種、その他の要因によって決まっているだけかもしれない、ということにもっと疑いを持つことであると思います。
その姿勢がある人同士ならば、対話ができます。しかし、それは自分の理性には限界があることを前提としていなければならない以上、実はかなり厳しい前提でもあるわけです。

そういった中で、どのような生徒、どのような親御さんとも対話をしていこう!という姿勢で塾をやってはいるわけですが、なかなかに難しいご家庭もあります。対話をするには、「自分」とされるものを疑わなければならない。しかし、「自分」とされるものを疑うことができるのは、ある程度精神的に余裕がある状態になければならない、ということになります。

結局、「自分」とされるものを疑い続けるためには、外部からの定義をどのように積み重ねていったとしても、自身はそれによっては定義され得ない、という覚悟が必要であるようです。それはまた、永遠に自己を定義し得ない、という苦しみでもあります。それを引き受ける、ということは恐らく殆どの人にとってはしんどすぎることでもあるのでしょう。僕自身も「早く外部から定義をしてもらいたい。」という願望は常に抱えながら、生きているところはあります。

対話が難しいのは、外部からの定義に従い、自分ではないものに自己を投影して生きているためだとしても、それがその人の人生すべてであるのであれば、そのような相手とどのように対話ができるかを探ろうとも、それは絶望的に難しいです。
それでも、こちら側でやれることはないのか、こちらが「対話の可能性を探る側」として自分自身を定義することで損なってしまっている対話の機会はないのかどうか、を懸命に探し続けていきたいと思っています。

それとともに、そのように外部からの定義に飛びつくこと無く、自ら自身の人生を定義しようともがき苦しむすべての人の力になれるように、僕自身ももっと努力をしていきたいと思っています。

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沈黙の大切さについて。

昨日の話の続きと言えば続きなのですが、結局みんなに興味が有ることをとっかかりとして話そう、としていく姿勢だったはずなのに、だんだんとみんなが興味あるものを追うことだけに忙殺されてしまい、そしてそれ以外の問題意識を失ってしまう、という失敗が多いように思います。

学問とは何らかの問題意識から始まったものであるのにもかかわらず、何かの学問をする、というのもそのように問題意識を失わせることにも繋がりがちです。ある部分について考えることだけを繰り返されるからこそ、それ以外の部分に関しては、ただ自分が評価できないというだけではなく、「このように日々必死に頭を働かせている自分が理解できないということは考える価値の無いものなんだ!」という乱暴な類推をしてしまいがちです。もちろんある分野について必死に頭を働かせて自分の足りなさを思い知っては努力している人、というのはその分野についてはとても鍛えられているわけですが、しかしそれはその部分に関してだけであり、別の部分に関してもそのように一部について鍛えたことが転用できるかといえば、それはかなり怪しいと思っています。

このことがある専門分野についての碩学(せきがく)が別の分野に対してもつ意見に価値はあるのか、というよく我々が直面する難しい問題にもなっていると思います。もちろんこれは、だからといって専門分野をもたない人のほうがより幅広い分野について正しい判断ができる、ということでもありません。

人間はどこまでいっても愚かであり、一生勉強し尽くしても一つの分野すら極められないだけでなく、ましてや他の分野まで鍛えることなど、という話でもあります。だからこそ、我々にとって必要なのは、自分がそのような「素人判断」をしていないかどうかについて、絶えず慎重になるしかない、という姿勢です。

しかし、更に難しいのは、一方で、素人判断が偏見に凝り固まった「プロ」の見方を覆し、新たなブレイクスルーへと繋がることもまた、あるということです。

つまり、まとめれば、

「私たちは自分がよく知らない分野についても自分が知っている分野の類推が有効であり、そこで何らかの有益な判断をなしうる、という思い上がりを捨てねばならないとともに、自分がよく知っている分野については自分の専門的な知識からした判断が門外漢の判断よりも必ず正しいと言えるかといえば必ずそうというわけでもなく、更にだからといって何も専門性を持たなければ正しい判断ができるわけでもない。」

ということになります。つまりこれは、「人間にはほぼ何もわからない。」と言っているのと同じようなものです。

こう考えるとソクラテスの言う「無知の知」というのは、人間にとってとてつもなくよくできた、極めて残酷な檻(おり)であるようにも思えます。「無知の知」から一歩でも出ようとする人間はことごとく間違いに陥るしかないのにも拘(かかわ)らず、それ自体は実は何も生み出しません。

賢しげに何かを語ろうとする知識人の足を引っ張る哲学者、という構図(「哲学者とは人類のまどろみを邪魔するうっとうしい虻である」)は、それこそソクラテスの頃からの定番なのですが、結局私達に必要なのは、「ほぼ何もわからないけれども、何とかわかろうとしていく。」という態度であるのでしょう。

だからこそ、何かがわかったかのように饒舌に語り出す前の沈黙、じっと見つめては悩むその沈黙を大切にしていかねばならないのではないかと思っています。その沈黙を共有できることが僕は賢さであると思うし、その沈黙に陥らざるをえない感覚が理解できない人は、どのように饒舌に論理を組み立てようともあまり賢くないと思えてしまいます。

生徒たちに、これをどのように伝えるか、ですね。しっかり頑張っていきたいと思います。

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何を捨てるか。

それについて考えることがもはや考えるべき対象について考えることを逸らすだけではなく、考えるべき対象について考えていない自分を肯定することにもつながってしまうがゆえにそれについて考えていてはいけないもの、というものが世の中にはあります。

というより、結局そのように「考えなければならないもの」を新たにどんどん作っていくことで、もっと我々が生きることの根幹と繋がっている考えなければならないものから目を逸らさせようとするのが、現代社会であるとさえ言えるでしょう。

だからこそ、現代社会において必要なのは「何についても考える」という姿勢ではなく、「何については考えないか」という取捨選択であると思います。

本当に考えるべきものについてのみ、考える。それ以外のものについては世の中の多くの人がそれについて考えたり、口の端にのぼらせているものについては極力無視する。これがとても大切です。

しかし、これを実際にやろうとするとこの前提を共有できていない人たちには、どのように伝えるのかが極めて難しくなります。「テレビでこれだけ大騒ぎしてるから…」「ネットで…」「会社で…」「学校で…」
などと、その無駄なものについて悩むことを正当化する理屈はいくらでもつけられるだけでなく、それについて語ったり考えたりしないことは他人と違うという意味で(右へ倣えの日本人にとっては)恐怖心を覚えさえするからです。

以上はまあ明日発表の新元号についての話ではあるのですが、これと似たような失敗は勉強においても多いようです。

たとえば、公立中で行う単語テスト。春休み明けは公立中では単語テストをどこでもやらせるらしく、宿題を出さない代わりに単語を覚えてきてね、と言われます。すると、「学校の勉強さえちゃんとやっていれば大丈夫!」(本当はまったくそうではないわけですが)と信じている親御さんや中学生は単語テストの勉強ばかりしたがります。

春休みは2週間、今からだって1週間あります。その時間があれば、仮に英語に話を絞ったとしても単語の練習だけひたすらやるなど愚かな話で、そんなのは一日30分でいいから、英文法の予習復習をやった方がはるかに力がつきます。
あるいは英語以外の教科、数学や国文法など鍛えることは山ほどあるわけで、春休みの貴重な勉強時間を英単語の練習のみに充てるなど、時間の無駄遣いである以上、狂気の沙汰です。

しかし、「学校で言われたこと」をこなすことが勉強だと考え、それだけやることが勉強だ、と信じ込んでいる子や親御さんではどうしてもこればかりをやらせることになります。それをこちらで必死に説得しても、学校の言うことにさえ従っていればいい、と思っている中学生をその洗脳から目を覚まさせるのは本当に難しいことです。

このような失敗を生み出すのであれば学校は春休み明けに英単語テストをやらないほうが、はるかに学習効果が高くなるわけです。この点でも学校の先生の「年度替わりで宿題出せないし…単語テストでもするか!」程度の思いつきが、結局それを疑うことを知らない中学生の貴重な勉強時間を奪っていくことになります(もちろん、これはそれを疑わない中学生や親御さんにも問題があるわけですが、しかしそれを疑う力を中学生本人はもちろん、親御さんでも身につけるのはなかなか難しいと思います。)。

だからこそ、何をやるかではなく、何を捨てるか、こそが重要です。

やるべきこことの取捨選択に関しては特に東京では二極化していて、「(大学であれ高校であれ)受験をにらんで準備をしていくことが大切で、学校の勉強はその付属物にすぎない。」という正しい認識を持てるご家庭と、「学校の成績をとることがまず大切でそれさえとっていれば受験もなんとかなる。」という誤った認識に陥っているご家庭との情報格差があまりにも大きいと思っています。

そして、そのご家庭での情報格差がさらにお子さんの学力の差につながっていき、前者は力をつけ、後者は学校の成績もとれないままに、受験には為す術もない、という悲惨な事態に陥っていきます。

塾ではそのような将来が見えるからこそ、全力で説明して説得をするのですが、結局聞いてもらえず、というケースが多いです。

だからこそ、何を捨てるか、についてもっと真剣に考えてもらう機会を作っていくことが大切で、「とりあえず学校の言うとおり勉強していればいい」といった思考停止こそが、一番お子さんにとっては有害でしかない、と思っています。
それとともに、学校の先生にはそれだけ盲信しているご家庭が多いのだから、もっと正確な方向付けをできるように努力をしていただきたいとも思うのですが…。

ともあれ、こちらでも信じてもらえなくても本当のことを話し続けるとともに、どうしたらそれが伝わるのかについても
必死に模索し続けていきたいと思います。

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「家族」を拡げるために。

趣味が同じとか、好きな音楽が同じとか、共通点のある人だと初対面でも打ち解けられたり、という経験をもつ人も多いと思います。僕はコミュ障で初対面の人と打ち解けるのはかなりハードルが高いのですが、それでも「これを好きな人にハズレはいない!」というくらい面白いジャンルがいくつかあります。

たとえば卒塾生が関わっているポエトリーの世界、というのもその一つでポエトリーリーディングに関わっている人ってほぼ素晴らしい人ばかりだなあと様々な人に会う度に思います。ポエトリーリーディング好きかどうかで会社に採用するかどうか決めればいいんじゃないかと思うくらいです。

あるいは僕が追いかけている劇団どくんごのファンの方々も、本当にみんな素晴らしい方ばかりで、その確かさと言ったら、本当に全く外れがありません。これもまた、大学入試とかどくんごファンかどうかで合否を決めればいいのに、くらい思えてしまいます。

もちろん、これは自分の知っている分野での例を出しただけであり、そのような分野がこれ以外に他にもたくさんあるのでしょう。基本的に手弁当でやっているところ、お互いがお互いの必要性を痛感して感謝し合うようなコミュニティが形成されているところでは、そこに属するというだけで様々な覚悟や努力を強いられるわけで、それはコミュニティの成員のレベルも大きく上がってしまうよね、と言えるのではないかと思います。

逆にそのコミュニティに属するかどうかがあまり本人の努力によらない、あるいはそのコミュニティに属すことが出来るか否かは成員の努力によるとしてもお互いの支え合いにはなっていないようなコミュニティというのは、基本的にそうはならないことが多いのではないかと思います。恐らく、そこではコミュニティは狭く閉じられているコミュニティであるがゆえに意味があるものとされてしまうからでしょう。

人間というのは鈍感で、自分がしんどい思いをしなければ相手のしんどさがわからない、ということは紛れもない事実です。僕も日々そのような自分の愚かしさに絶望するわけですが、そのしんどい思いをしてでもなお、「このコミュニティには意味がある!」と思ってコミュニティを維持しようとするというのは、ざっくり言えば「家族を増やす」ようなものです。そのような「家族」概念の拡大をしようと試みているかどうか、それともそうではないか、という分かれ目は結局血縁や経済的利益その他何となく皆が信じているもの以上の何かに心を奪われた経験があるかどうか、というところで分かれてしまうようにも思います。たとえばそれが数学の美しさであれば、数学の美しさを同じように感じる人々のために何かをしたい、という動機は経済的利益や既存の共同体を超えて働くことでしょう。それが演劇であれ、詩であれ、他の学問であれ、あるいはもっと別のことであれ、何かに心を奪われた経験のある人は、やはりそれを蔑ろにするわけにはいかない!という思いでしんどいものを引き受けていくことになります。

逆に「家族」概念が拡大していかない、というのは何物にも心を奪われないように生きていく、ということに等しいのかもしれません。それは楽で、「成功」しやすいとは思うのですが、やはり僕はそれでは生きる意味がないようにも思います。

結局自分の力をつけることの目的など、そのように自分にとって何かが大切だと気づいたときに、それを守れる力をつけるためでしかないと思います。何が大切かを探そうともせず、自分の人生が有利になることのためだけに力をつけることに何の気恥ずかしさも感じない人間たちの群れの中で、それでも力をつけていこう!と決意することは本当に困難なことではあると思うのですが、それでもそのような美しい決意に翼を与えられるように、こちらも必死に努力していきたいと思います。

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パスを覚える。

毎日ブログを更新し続けるつもりだったのですが、塾の休みに合わせたわけではないのでしょうが想定外の深刻なトラブルがあり、バタバタと追われていました。なんとか目処もたったこと、今日から塾も再開したこともあって、また書いていきたいと思います。

この年令になって思うのは、人間は一人では何もできない、ということです。どのように「万能の天才」がいたとしても、その人に見えるもの、できるものは必ず限られています。だからこそ、互いに協力をすることが必要である、という事実です。

もちろん、これだけを取ってみれば「そんなの当たり前じゃん!」という話なのですが、一方で人間と人間の結びつきを初めから前提としてしまえばそこには癒着や不正、さらにはお互いに頼り合うことによって質が下がっていく、という様々な問題が出てくるわけで、若い頃というのはとかくそのような問題点に対して潔癖であり、だからこそ自分自身がそのような「弱い個人」であることをまず何とかしようと思うものではないでしょうか。かくいう僕もそのような典型的な態度で若い頃は生きてきたと思います。

そこから20年ばかり過ぎ、若い頃よりははるかに様々なことができるようになり、あの頃の僕と今の僕とでは比べ物にならないくらい今のほうが力があるとは思いますが、それにも増して思い知らされているのは、僕一人の力では何もできない、ということです。だからこそ、協力できることは協力していかなければなりませんし、任せられることは任せていかねばなりません。その上で、僕自身がもっと力をつけることにも貪欲でなければなりません。

そしてそのためには、自分が完璧な人間ではないことは自分でわかっているくせに、他者のちょっとした欠点に対してはすぐにがっかりしてしまう、ということが問題であるのだと思います。少しでもより良い社会へと近づけていくために誰かと一緒にやっていく必要性を感じているのであれば、そこで手段を選んでいる時点でやはり本気ではない、と言わざるをえません。この年令まででできてきたこと以上にできてこなかったことの方が目につく、後悔ばかりの人生なわけですが、それでもなお、少しでもこの社会が今よりは少しはマシな社会になるためには、妥協をしている場合ではないのだ、と思っています。だからこそ、協力できることは協力していく、という姿勢が大切だと改めて痛感させられています。

まあ、端的にいうと(スラムダンクで言えば)「流川がパスを覚えた!」かのように自分のことを思えるとポジティブになれるとは思うのですが、パスを覚えてからの流川君の人生こそが、彼のプレーヤー人生の苦しみの始まりであり、彼も結局バスケを辞めたくなるような毎日になるのかもしれません。頼る、ということはがっかりすることと常に背中合わせであるからです。それでも共に生きていく道を探そうとする姿勢こそが民主主義というものであるとは思っています。民主主義とはたとえ自分では誤った道であるとわかっていたとしても、相手と一緒に誤りを犯すことを辞さない生き方である、と思うからです。

生徒相手にはそれを今までもやろうとしてきているわけですが、それ以外にもその塗炭の苦しみへとさらにもう一歩入っていけるように、無責任に距離を置くのではなく、覚悟を決めて向き合っていきたいと思います(もちろん、相手も僕に対してそう思っているとは思いますが!)。

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