
昨日の話の続きと言えば続きなのですが、結局みんなに興味が有ることをとっかかりとして話そう、としていく姿勢だったはずなのに、だんだんとみんなが興味あるものを追うことだけに忙殺されてしまい、そしてそれ以外の問題意識を失ってしまう、という失敗が多いように思います。
学問とは何らかの問題意識から始まったものであるのにもかかわらず、何かの学問をする、というのもそのように問題意識を失わせることにも繋がりがちです。ある部分について考えることだけを繰り返されるからこそ、それ以外の部分に関しては、ただ自分が評価できないというだけではなく、「このように日々必死に頭を働かせている自分が理解できないということは考える価値の無いものなんだ!」という乱暴な類推をしてしまいがちです。もちろんある分野について必死に頭を働かせて自分の足りなさを思い知っては努力している人、というのはその分野についてはとても鍛えられているわけですが、しかしそれはその部分に関してだけであり、別の部分に関してもそのように一部について鍛えたことが転用できるかといえば、それはかなり怪しいと思っています。
このことがある専門分野についての碩学(せきがく)が別の分野に対してもつ意見に価値はあるのか、というよく我々が直面する難しい問題にもなっていると思います。もちろんこれは、だからといって専門分野をもたない人のほうがより幅広い分野について正しい判断ができる、ということでもありません。
人間はどこまでいっても愚かであり、一生勉強し尽くしても一つの分野すら極められないだけでなく、ましてや他の分野まで鍛えることなど、という話でもあります。だからこそ、我々にとって必要なのは、自分がそのような「素人判断」をしていないかどうかについて、絶えず慎重になるしかない、という姿勢です。
しかし、更に難しいのは、一方で、素人判断が偏見に凝り固まった「プロ」の見方を覆し、新たなブレイクスルーへと繋がることもまた、あるということです。
つまり、まとめれば、
「私たちは自分がよく知らない分野についても自分が知っている分野の類推が有効であり、そこで何らかの有益な判断をなしうる、という思い上がりを捨てねばならないとともに、自分がよく知っている分野については自分の専門的な知識からした判断が門外漢の判断よりも必ず正しいと言えるかといえば必ずそうというわけでもなく、更にだからといって何も専門性を持たなければ正しい判断ができるわけでもない。」
ということになります。つまりこれは、「人間にはほぼ何もわからない。」と言っているのと同じようなものです。
こう考えるとソクラテスの言う「無知の知」というのは、人間にとってとてつもなくよくできた、極めて残酷な檻(おり)であるようにも思えます。「無知の知」から一歩でも出ようとする人間はことごとく間違いに陥るしかないのにも拘(かかわ)らず、それ自体は実は何も生み出しません。
賢しげに何かを語ろうとする知識人の足を引っ張る哲学者、という構図(「哲学者とは人類のまどろみを邪魔するうっとうしい虻である」)は、それこそソクラテスの頃からの定番なのですが、結局私達に必要なのは、「ほぼ何もわからないけれども、何とかわかろうとしていく。」という態度であるのでしょう。
だからこそ、何かがわかったかのように饒舌に語り出す前の沈黙、じっと見つめては悩むその沈黙を大切にしていかねばならないのではないかと思っています。その沈黙を共有できることが僕は賢さであると思うし、その沈黙に陥らざるをえない感覚が理解できない人は、どのように饒舌に論理を組み立てようともあまり賢くないと思えてしまいます。
生徒たちに、これをどのように伝えるか、ですね。しっかり頑張っていきたいと思います。
学問とは何らかの問題意識から始まったものであるのにもかかわらず、何かの学問をする、というのもそのように問題意識を失わせることにも繋がりがちです。ある部分について考えることだけを繰り返されるからこそ、それ以外の部分に関しては、ただ自分が評価できないというだけではなく、「このように日々必死に頭を働かせている自分が理解できないということは考える価値の無いものなんだ!」という乱暴な類推をしてしまいがちです。もちろんある分野について必死に頭を働かせて自分の足りなさを思い知っては努力している人、というのはその分野についてはとても鍛えられているわけですが、しかしそれはその部分に関してだけであり、別の部分に関してもそのように一部について鍛えたことが転用できるかといえば、それはかなり怪しいと思っています。
このことがある専門分野についての碩学(せきがく)が別の分野に対してもつ意見に価値はあるのか、というよく我々が直面する難しい問題にもなっていると思います。もちろんこれは、だからといって専門分野をもたない人のほうがより幅広い分野について正しい判断ができる、ということでもありません。
人間はどこまでいっても愚かであり、一生勉強し尽くしても一つの分野すら極められないだけでなく、ましてや他の分野まで鍛えることなど、という話でもあります。だからこそ、我々にとって必要なのは、自分がそのような「素人判断」をしていないかどうかについて、絶えず慎重になるしかない、という姿勢です。
しかし、更に難しいのは、一方で、素人判断が偏見に凝り固まった「プロ」の見方を覆し、新たなブレイクスルーへと繋がることもまた、あるということです。
つまり、まとめれば、
「私たちは自分がよく知らない分野についても自分が知っている分野の類推が有効であり、そこで何らかの有益な判断をなしうる、という思い上がりを捨てねばならないとともに、自分がよく知っている分野については自分の専門的な知識からした判断が門外漢の判断よりも必ず正しいと言えるかといえば必ずそうというわけでもなく、更にだからといって何も専門性を持たなければ正しい判断ができるわけでもない。」
ということになります。つまりこれは、「人間にはほぼ何もわからない。」と言っているのと同じようなものです。
こう考えるとソクラテスの言う「無知の知」というのは、人間にとってとてつもなくよくできた、極めて残酷な檻(おり)であるようにも思えます。「無知の知」から一歩でも出ようとする人間はことごとく間違いに陥るしかないのにも拘(かかわ)らず、それ自体は実は何も生み出しません。
賢しげに何かを語ろうとする知識人の足を引っ張る哲学者、という構図(「哲学者とは人類のまどろみを邪魔するうっとうしい虻である」)は、それこそソクラテスの頃からの定番なのですが、結局私達に必要なのは、「ほぼ何もわからないけれども、何とかわかろうとしていく。」という態度であるのでしょう。
だからこそ、何かがわかったかのように饒舌に語り出す前の沈黙、じっと見つめては悩むその沈黙を大切にしていかねばならないのではないかと思っています。その沈黙を共有できることが僕は賢さであると思うし、その沈黙に陥らざるをえない感覚が理解できない人は、どのように饒舌に論理を組み立てようともあまり賢くないと思えてしまいます。
生徒たちに、これをどのように伝えるか、ですね。しっかり頑張っていきたいと思います。



