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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

沈黙の大切さについて。

昨日の話の続きと言えば続きなのですが、結局みんなに興味が有ることをとっかかりとして話そう、としていく姿勢だったはずなのに、だんだんとみんなが興味あるものを追うことだけに忙殺されてしまい、そしてそれ以外の問題意識を失ってしまう、という失敗が多いように思います。

学問とは何らかの問題意識から始まったものであるのにもかかわらず、何かの学問をする、というのもそのように問題意識を失わせることにも繋がりがちです。ある部分について考えることだけを繰り返されるからこそ、それ以外の部分に関しては、ただ自分が評価できないというだけではなく、「このように日々必死に頭を働かせている自分が理解できないということは考える価値の無いものなんだ!」という乱暴な類推をしてしまいがちです。もちろんある分野について必死に頭を働かせて自分の足りなさを思い知っては努力している人、というのはその分野についてはとても鍛えられているわけですが、しかしそれはその部分に関してだけであり、別の部分に関してもそのように一部について鍛えたことが転用できるかといえば、それはかなり怪しいと思っています。

このことがある専門分野についての碩学(せきがく)が別の分野に対してもつ意見に価値はあるのか、というよく我々が直面する難しい問題にもなっていると思います。もちろんこれは、だからといって専門分野をもたない人のほうがより幅広い分野について正しい判断ができる、ということでもありません。

人間はどこまでいっても愚かであり、一生勉強し尽くしても一つの分野すら極められないだけでなく、ましてや他の分野まで鍛えることなど、という話でもあります。だからこそ、我々にとって必要なのは、自分がそのような「素人判断」をしていないかどうかについて、絶えず慎重になるしかない、という姿勢です。

しかし、更に難しいのは、一方で、素人判断が偏見に凝り固まった「プロ」の見方を覆し、新たなブレイクスルーへと繋がることもまた、あるということです。

つまり、まとめれば、

「私たちは自分がよく知らない分野についても自分が知っている分野の類推が有効であり、そこで何らかの有益な判断をなしうる、という思い上がりを捨てねばならないとともに、自分がよく知っている分野については自分の専門的な知識からした判断が門外漢の判断よりも必ず正しいと言えるかといえば必ずそうというわけでもなく、更にだからといって何も専門性を持たなければ正しい判断ができるわけでもない。」

ということになります。つまりこれは、「人間にはほぼ何もわからない。」と言っているのと同じようなものです。

こう考えるとソクラテスの言う「無知の知」というのは、人間にとってとてつもなくよくできた、極めて残酷な檻(おり)であるようにも思えます。「無知の知」から一歩でも出ようとする人間はことごとく間違いに陥るしかないのにも拘(かかわ)らず、それ自体は実は何も生み出しません。

賢しげに何かを語ろうとする知識人の足を引っ張る哲学者、という構図(「哲学者とは人類のまどろみを邪魔するうっとうしい虻である」)は、それこそソクラテスの頃からの定番なのですが、結局私達に必要なのは、「ほぼ何もわからないけれども、何とかわかろうとしていく。」という態度であるのでしょう。

だからこそ、何かがわかったかのように饒舌に語り出す前の沈黙、じっと見つめては悩むその沈黙を大切にしていかねばならないのではないかと思っています。その沈黙を共有できることが僕は賢さであると思うし、その沈黙に陥らざるをえない感覚が理解できない人は、どのように饒舌に論理を組み立てようともあまり賢くないと思えてしまいます。

生徒たちに、これをどのように伝えるか、ですね。しっかり頑張っていきたいと思います。

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何を捨てるか。

それについて考えることがもはや考えるべき対象について考えることを逸らすだけではなく、考えるべき対象について考えていない自分を肯定することにもつながってしまうがゆえにそれについて考えていてはいけないもの、というものが世の中にはあります。

というより、結局そのように「考えなければならないもの」を新たにどんどん作っていくことで、もっと我々が生きることの根幹と繋がっている考えなければならないものから目を逸らさせようとするのが、現代社会であるとさえ言えるでしょう。

だからこそ、現代社会において必要なのは「何についても考える」という姿勢ではなく、「何については考えないか」という取捨選択であると思います。

本当に考えるべきものについてのみ、考える。それ以外のものについては世の中の多くの人がそれについて考えたり、口の端にのぼらせているものについては極力無視する。これがとても大切です。

しかし、これを実際にやろうとするとこの前提を共有できていない人たちには、どのように伝えるのかが極めて難しくなります。「テレビでこれだけ大騒ぎしてるから…」「ネットで…」「会社で…」「学校で…」
などと、その無駄なものについて悩むことを正当化する理屈はいくらでもつけられるだけでなく、それについて語ったり考えたりしないことは他人と違うという意味で(右へ倣えの日本人にとっては)恐怖心を覚えさえするからです。

以上はまあ明日発表の新元号についての話ではあるのですが、これと似たような失敗は勉強においても多いようです。

たとえば、公立中で行う単語テスト。春休み明けは公立中では単語テストをどこでもやらせるらしく、宿題を出さない代わりに単語を覚えてきてね、と言われます。すると、「学校の勉強さえちゃんとやっていれば大丈夫!」(本当はまったくそうではないわけですが)と信じている親御さんや中学生は単語テストの勉強ばかりしたがります。

春休みは2週間、今からだって1週間あります。その時間があれば、仮に英語に話を絞ったとしても単語の練習だけひたすらやるなど愚かな話で、そんなのは一日30分でいいから、英文法の予習復習をやった方がはるかに力がつきます。
あるいは英語以外の教科、数学や国文法など鍛えることは山ほどあるわけで、春休みの貴重な勉強時間を英単語の練習のみに充てるなど、時間の無駄遣いである以上、狂気の沙汰です。

しかし、「学校で言われたこと」をこなすことが勉強だと考え、それだけやることが勉強だ、と信じ込んでいる子や親御さんではどうしてもこればかりをやらせることになります。それをこちらで必死に説得しても、学校の言うことにさえ従っていればいい、と思っている中学生をその洗脳から目を覚まさせるのは本当に難しいことです。

このような失敗を生み出すのであれば学校は春休み明けに英単語テストをやらないほうが、はるかに学習効果が高くなるわけです。この点でも学校の先生の「年度替わりで宿題出せないし…単語テストでもするか!」程度の思いつきが、結局それを疑うことを知らない中学生の貴重な勉強時間を奪っていくことになります(もちろん、これはそれを疑わない中学生や親御さんにも問題があるわけですが、しかしそれを疑う力を中学生本人はもちろん、親御さんでも身につけるのはなかなか難しいと思います。)。

だからこそ、何をやるかではなく、何を捨てるか、こそが重要です。

やるべきこことの取捨選択に関しては特に東京では二極化していて、「(大学であれ高校であれ)受験をにらんで準備をしていくことが大切で、学校の勉強はその付属物にすぎない。」という正しい認識を持てるご家庭と、「学校の成績をとることがまず大切でそれさえとっていれば受験もなんとかなる。」という誤った認識に陥っているご家庭との情報格差があまりにも大きいと思っています。

そして、そのご家庭での情報格差がさらにお子さんの学力の差につながっていき、前者は力をつけ、後者は学校の成績もとれないままに、受験には為す術もない、という悲惨な事態に陥っていきます。

塾ではそのような将来が見えるからこそ、全力で説明して説得をするのですが、結局聞いてもらえず、というケースが多いです。

だからこそ、何を捨てるか、についてもっと真剣に考えてもらう機会を作っていくことが大切で、「とりあえず学校の言うとおり勉強していればいい」といった思考停止こそが、一番お子さんにとっては有害でしかない、と思っています。
それとともに、学校の先生にはそれだけ盲信しているご家庭が多いのだから、もっと正確な方向付けをできるように努力をしていただきたいとも思うのですが…。

ともあれ、こちらでも信じてもらえなくても本当のことを話し続けるとともに、どうしたらそれが伝わるのかについても
必死に模索し続けていきたいと思います。

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「家族」を拡げるために。

趣味が同じとか、好きな音楽が同じとか、共通点のある人だと初対面でも打ち解けられたり、という経験をもつ人も多いと思います。僕はコミュ障で初対面の人と打ち解けるのはかなりハードルが高いのですが、それでも「これを好きな人にハズレはいない!」というくらい面白いジャンルがいくつかあります。

たとえば卒塾生が関わっているポエトリーの世界、というのもその一つでポエトリーリーディングに関わっている人ってほぼ素晴らしい人ばかりだなあと様々な人に会う度に思います。ポエトリーリーディング好きかどうかで会社に採用するかどうか決めればいいんじゃないかと思うくらいです。

あるいは僕が追いかけている劇団どくんごのファンの方々も、本当にみんな素晴らしい方ばかりで、その確かさと言ったら、本当に全く外れがありません。これもまた、大学入試とかどくんごファンかどうかで合否を決めればいいのに、くらい思えてしまいます。

もちろん、これは自分の知っている分野での例を出しただけであり、そのような分野がこれ以外に他にもたくさんあるのでしょう。基本的に手弁当でやっているところ、お互いがお互いの必要性を痛感して感謝し合うようなコミュニティが形成されているところでは、そこに属するというだけで様々な覚悟や努力を強いられるわけで、それはコミュニティの成員のレベルも大きく上がってしまうよね、と言えるのではないかと思います。

逆にそのコミュニティに属するかどうかがあまり本人の努力によらない、あるいはそのコミュニティに属すことが出来るか否かは成員の努力によるとしてもお互いの支え合いにはなっていないようなコミュニティというのは、基本的にそうはならないことが多いのではないかと思います。恐らく、そこではコミュニティは狭く閉じられているコミュニティであるがゆえに意味があるものとされてしまうからでしょう。

人間というのは鈍感で、自分がしんどい思いをしなければ相手のしんどさがわからない、ということは紛れもない事実です。僕も日々そのような自分の愚かしさに絶望するわけですが、そのしんどい思いをしてでもなお、「このコミュニティには意味がある!」と思ってコミュニティを維持しようとするというのは、ざっくり言えば「家族を増やす」ようなものです。そのような「家族」概念の拡大をしようと試みているかどうか、それともそうではないか、という分かれ目は結局血縁や経済的利益その他何となく皆が信じているもの以上の何かに心を奪われた経験があるかどうか、というところで分かれてしまうようにも思います。たとえばそれが数学の美しさであれば、数学の美しさを同じように感じる人々のために何かをしたい、という動機は経済的利益や既存の共同体を超えて働くことでしょう。それが演劇であれ、詩であれ、他の学問であれ、あるいはもっと別のことであれ、何かに心を奪われた経験のある人は、やはりそれを蔑ろにするわけにはいかない!という思いでしんどいものを引き受けていくことになります。

逆に「家族」概念が拡大していかない、というのは何物にも心を奪われないように生きていく、ということに等しいのかもしれません。それは楽で、「成功」しやすいとは思うのですが、やはり僕はそれでは生きる意味がないようにも思います。

結局自分の力をつけることの目的など、そのように自分にとって何かが大切だと気づいたときに、それを守れる力をつけるためでしかないと思います。何が大切かを探そうともせず、自分の人生が有利になることのためだけに力をつけることに何の気恥ずかしさも感じない人間たちの群れの中で、それでも力をつけていこう!と決意することは本当に困難なことではあると思うのですが、それでもそのような美しい決意に翼を与えられるように、こちらも必死に努力していきたいと思います。

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パスを覚える。

毎日ブログを更新し続けるつもりだったのですが、塾の休みに合わせたわけではないのでしょうが想定外の深刻なトラブルがあり、バタバタと追われていました。なんとか目処もたったこと、今日から塾も再開したこともあって、また書いていきたいと思います。

この年令になって思うのは、人間は一人では何もできない、ということです。どのように「万能の天才」がいたとしても、その人に見えるもの、できるものは必ず限られています。だからこそ、互いに協力をすることが必要である、という事実です。

もちろん、これだけを取ってみれば「そんなの当たり前じゃん!」という話なのですが、一方で人間と人間の結びつきを初めから前提としてしまえばそこには癒着や不正、さらにはお互いに頼り合うことによって質が下がっていく、という様々な問題が出てくるわけで、若い頃というのはとかくそのような問題点に対して潔癖であり、だからこそ自分自身がそのような「弱い個人」であることをまず何とかしようと思うものではないでしょうか。かくいう僕もそのような典型的な態度で若い頃は生きてきたと思います。

そこから20年ばかり過ぎ、若い頃よりははるかに様々なことができるようになり、あの頃の僕と今の僕とでは比べ物にならないくらい今のほうが力があるとは思いますが、それにも増して思い知らされているのは、僕一人の力では何もできない、ということです。だからこそ、協力できることは協力していかなければなりませんし、任せられることは任せていかねばなりません。その上で、僕自身がもっと力をつけることにも貪欲でなければなりません。

そしてそのためには、自分が完璧な人間ではないことは自分でわかっているくせに、他者のちょっとした欠点に対してはすぐにがっかりしてしまう、ということが問題であるのだと思います。少しでもより良い社会へと近づけていくために誰かと一緒にやっていく必要性を感じているのであれば、そこで手段を選んでいる時点でやはり本気ではない、と言わざるをえません。この年令まででできてきたこと以上にできてこなかったことの方が目につく、後悔ばかりの人生なわけですが、それでもなお、少しでもこの社会が今よりは少しはマシな社会になるためには、妥協をしている場合ではないのだ、と思っています。だからこそ、協力できることは協力していく、という姿勢が大切だと改めて痛感させられています。

まあ、端的にいうと(スラムダンクで言えば)「流川がパスを覚えた!」かのように自分のことを思えるとポジティブになれるとは思うのですが、パスを覚えてからの流川君の人生こそが、彼のプレーヤー人生の苦しみの始まりであり、彼も結局バスケを辞めたくなるような毎日になるのかもしれません。頼る、ということはがっかりすることと常に背中合わせであるからです。それでも共に生きていく道を探そうとする姿勢こそが民主主義というものであるとは思っています。民主主義とはたとえ自分では誤った道であるとわかっていたとしても、相手と一緒に誤りを犯すことを辞さない生き方である、と思うからです。

生徒相手にはそれを今までもやろうとしてきているわけですが、それ以外にもその塗炭の苦しみへとさらにもう一歩入っていけるように、無責任に距離を置くのではなく、覚悟を決めて向き合っていきたいと思います(もちろん、相手も僕に対してそう思っているとは思いますが!)。

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人間は、変われる。

大学入試の補欠待ちでジリジリとしんどい日が続いていたのですが、塾の受験生にも補欠が回ってきた子が何人かいて、本当に良かったです!特に医学部の補欠が回ってきた子は最後まで諦めずに努力し続けてきた子、しかも小5から(!)通い続けて来てくれた子だったので、本当に嬉しい合格でした。

人間というのは本当に思いもかけないくらい成長するものです。追い込まれる中で、必死に何とか目の前を切り開こうともがく受験生の姿は、「自分にはどうせ無理だ。。」と決めつけては、楽な方、安易な方へと流れていた昔のその子の姿とは比べるべくもない、本当に素晴らしい努力でした。

このような成長の可能性があるのなら、やはり教育には人生を使って追い求める価値があるということを改めて確認させられました。このようなことがまた次に起こせていけるように、これからも頑張り続けたいと思っています。

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大人扱いの失敗。

今日は予想通りに行かないことの連続で、その後始末に時間がかかり、ようやくこの時間になってブログを書けています。
うまく差配をしているつもりでも、人間の感情や臆見というのは予想外の頑迷さを示すことが多々あります。それについてだいぶ想定ができるようになってきた、とは思っていたのですが、それでもやはり僕の想像もよらないところで、思わぬ障壁というものがあるようです。

このように、他の人の感情や思考を完璧には追い切ることはできません。本当に、「何故そのようなことを気にしているの?」という些細なことが自分の人生のすべてであるかのように感じて生きている人、というのはたくさんいるわけで、と言うと偉そうですが、僕自身もまた他の人から見ればそのように小さなことにとらわれては大きなことを見殺しにしてしまっているのかもしれません。

一方で、その小さなことにとらわれているがゆえに大局観を相手が失っている、と気づいたとしてもその内容をどのように伝えるか、というのは極めて難しいことです。その小さなことがその人にとっては何よりも重要であると思えてしまっているときには、「それは小さなことなんだ。」という説得の仕方はあまり効果的ではないからです。

小さなことにこだわるときには、その全体から見れば「小さなこと」が本人から見ればとても大きなことであることに、どこまで共感できるか、がまず勝負であるのだと思います。そのことへの共感があって初めてそこにとらわれている人たちは聞く耳を回復します。その上で、「それは実は小さなことかもしれないよ。」ということを徐々にわかってもらおうとしていくしかありません。

と、方法論としてはわかっていてもなお、僕自身このようなアプローチに失敗することも多々あります。
それは塾生に対してももちろんなのですが、大人相手だと特に失敗しがちです。「まあ、これぐらいはわかっているとは思うけど…」の前提が大人に対してはどうしても厳しくなりがちなのですね。。これは本当にいけない自分の癖であり、相手が大人であってもそのような判断能力はそんなにない、ということを僕は自らの結婚生活から(!)学んできたつもりでは
いたのですが…。まだまだで、大きな失敗をしてしまいました。

不遜に聞こえるかもしれませんが、大人を大人だと思わないことが大切なのでしょう。何十年生き永らえようとも、自分の殻の中に閉じこもって生きる大人は、幼稚です。そしてそれはまた僕自身がそれをするのであれば、僕自身にもあてはまります。自分の殻に閉じこもらない、というのはすなわち何が大切ではないかを絶えず吟味し続ける、ということです。そこに関して決して妥協をせずに、やるべきことをやっていきたいと思います。

それと共に、生徒一人一人に対して、そのような「大局的には小さいことでもその本人にとって大きいこと」への共感のチャンネルをしっかりと作っていきたいと思います。

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振り付け始め。

塾にも新しく入った子達が通い始めてくれています。
新しく入った子ほどに今までの勉強の中でつい疎かにしてきていることがないかどうかをチェックしながら、勉強の正しい「型」を作っていかねばならないので、一つ一つ注意しながら教えていくことになります。

この「型」というものも、もちろんある程度効率のよい仕組みができているお子さんであれば、その微調整やその学習方法での盲点となりやすいところをどのように鍛えるか、だけにこちらも集中すればよいわけですが、意外と勉強の仕方がまるっきり解っていない子も多く、その場合には最初のたたき台としてどのようにやるべきか、という勉強の方法をまずは型として叩き込んでいくことになります。

もちろん、この「型」はあくまでたたき台ですので、それを受験生本人がより自分の勉強にプラスになるようにカスタマイズしていってくれて構わない、というかむしろしてくれないと困るようなものです。ただ、そのときにそのカスタマイズの方向性が「かかる時間は短くなって効率も上がる」だと最高なのですが、「かかる時間は長くなるが、効率は下がる。」だと最悪です。そのケースは少ないとしても「かかる時間は短くなるものの、効率も下がる」というケースも多々あり、そのような場合にはそのカスタマイズが果たして有効かどうか、などと吟味をしていかねばならなくなります。

しかし、仮にそのような受験生本人のカスタマイズが的を外していてマイナスしかないとしてもなお、そのようにカスタマイズしていこう!という姿勢自体は意味のあるものなので、そのような受験生の(恐らく)的を外した変更を試しにやってみてもらう、ということ自体を否定しまわないように気をつけています。一方で、それが的はずれな方向へとどんどんずれて行ってしまう、あるいはそもそも的外れであることに自身が気づいていない場合には、残り時間をにらみながら、こちらも軌道修正を図らねばなりません。それも無理にではなく、できれば受験生本人と議論する中で気づいていってもらえるように、というのが一番力がつくわけです。

というようにして、様々に神経を使いながら、「受験生本人が作り上げたスタイルでありながら、しかし的を外していない」という勉強姿勢というものを一人ひとりに作っていくことになります。これはこれで、本当にめんどくさい作業でして、「いいから僕の言うとおりにやれ!」とつい言いたくなってしまう毎日なのですが、一人一人の受験生の認識が現実へと近づいていかなければ、そのように無理に方法だけ強制したとしても結局魂がこもらなくなってしまうからこそ、改善しつつも、その改善に自分から気づくことができるようにしていかねばならないわけです。

ということがかなりしっかりできた状態の受験生がいっせいに卒業し、そして新たな受験生にまた一つ一つその振り付けをやっていくという作業が始まっています。しんどい毎日ですが、決して妥協をせずにしっかりやっていきたいと思います。

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塾の良さについて。

受験が終われば終わったで、様々なことに忙しいのが塾というものです。入塾希望の子が塾に頻繁に来てもらえるのは嬉しいことなのですが、一方でこちらとしては「うちに来れば絶対大丈夫!」「大船に乗った気持ちで!」などとは宣伝したくないものの、その子達が他の候補として検討している予備校や塾に比べれば確実に質の高い教育を提供できるという自負はあるために、話し方が本当に難しいところです。

「自分や塾の凄さを宣伝する。」というのは本当に難しいことです。なぜなら、本当に教師として一流であれば、受かった子よりも落としてしまった子の方に意識が向き続けるからこそ、そこで塾の美点を語ることがどうしても自分で嘘くさくなってしまいます。だからこそ、長年塾では塾の体験入塾期間を通じて、「わかる人にわかってもらえればよい。」という姿勢を貫いてきました。一つ一つの事柄に対する説明や全体をデザインする能力、何が幹で何が枝葉であるかについての判断力、などは僕に教われば、それこそ一分も経たずしてわかると思って塾をやってきているのですが…。現実にはなかなかそううまくはいきません。

先日も塾を体験に来た子に「何かアピールポイントはありますか?」と聞かれました。
僕は笑い出すのをこらえては、色々と話しましたが、ここで喜々として自分の塾がいかにすごいかを語れると、
もっと繁盛するのでしょう。

しかし、です。自分や自分の塾の凄さを喜々として語るような人に、習いたいか?と言われたら、僕は習いたくありません。あるいは僕が自分の娘を塾に入れるとして、その塾のメリットを喜々として語る人に預けたいと思えるかといえば、
決してそうは思えません。むしろ、一流であるほどに、自分の足りないところに目を向けてはそれをどう改善するかについて考え続けているため、自分の塾の良さについては語る気にはなれない、というところがあるのではないかと思います。

もちろん、「良さを語ってもらわなければわからない。」というリクエストは多々あります。ただ、良さを語ってもらわなければわからない、というのは結局自身がしっかりと見ようとしていないことを開き直る姿勢に過ぎません。
今日の夕食で使う大根をどっちにする?くらいのことだったら、しっかりと見ようとしないでも「ちゃんとそれぞれの大根の良さを書いてよ!」と怒るのもまだわからなくもないですが、(親御さんは体験授業をうけていないのでまた別として)受験生本人が自分自身の受験の命運をともにしようとするときに、「良さを語ってくれないとわかりません!」と言うのであれば、それはやはりしっかりと見ることを疎かにした態度であると言えるでしょう。

そのようなしっかりと見ることを怠って、相手の言葉で説明させようとする自らの姿勢を直していくことが、実はその子が受験生として力をつけることにもつながるのですが…。それが伝えられるチャンスをまたしっかりと探していきたいと思います。

言葉にしなければわからないことが事実だとしても、それは言葉にされたことのみが考慮に値するということを意味するものではありません。こんな当たり前のことですら、なかなかに伝わらないという思いを日々強く感じてはいますが、何とかその当たり前から伝えられるように、こちらからも必死に行動していきたいと思います。

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それでも人生は続いていく。

昨日で全ての受験結果が出ました。あとは補欠待ちだったりまだ細かく集計できていないところがあるので、そうした状況の変化でまた合格校リストは更新していきたいと思います。

昨日は東大の発表で、最後まで必死に頑張っていた塾生が東大に不合格でした。手応えとしては良かった印象を受けていただけに、改めて受験の厳しさをこちらもまた思い知らされることになりました。

難関大学の受験というのは本当に厳しく、力がある子でもその日の出来で決まってしまうからこそ、こちらとしては万全の準備をしてもなお、さらに見落としがないかを徹底的に探し続けねばならないわけですが、それが信頼関係から受験生本人のスタイルを超えるところまで徹底しきれなかったということに、自分の力不足を感じます。本当に断腸の思いです。

しかし、それでも次の日は来ます。本当に大きな失敗、どんなに痛恨の失敗をしてもなお、人生は続いていきます。
この続いていく人生を残酷であると感じるのか、そこに可能性を見出しうるのか、で一人一人の生き方というのは全く変わってしまうと思います。取り返しのつかない失敗をしてもなお続いていく人生の残酷さに耐えて、私たちはくだらないものを食べ、くだらない本を読み、くだらないことをしてもなお、また生きる姿勢を取り戻さねばなりません。
だからこそ、痛恨の失敗、取り返しのつかない失敗に対してこちらが遠慮するのではなく、何とかそこからやれることはないか、続いていく人生に目を向ける努力をまずは僕自身がしていくことこそが、生徒たちにとってもまた重要であると考えています。

理三合格に司法試験合格と、「うまくいく」ことばかりの人生を送る人もいれば、そうではない人もいます。
「うまくいく」の範囲をどのように広く、あるいは狭く取るかによって自分の人生の定義付けなど「成功」にも「失敗」にもなるのでしょう。僕自身は昨日の塾生の不合格にかぎらず、全ての塾生の失敗や不合格を自分自身の人生の失敗として、受け止め続けていきたいと思っています。そして、そのように「失敗」だらけの僕の人生の中で、どのようにその失敗から立ち直り、取り組んでいくかにおいて、少しでも塾の子たちに闘う背中を見せられれば、と思っています。

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生徒と闘う、ということ。

思いつきで始めたブログの毎日更新ですが、当初は明日3月10日で辞めようと思っていたのですが、これはこれで自分の習慣にしていった方が良いと思い、また続けられる限り続けていきたいと思います。

生徒を教える、ということはつまり生徒とどこまで闘えるか、です。この言葉がわかる教育関係者を僕は信頼しますし、
「教師は生徒の敵じゃないです!」という教育関係者を僕は全く信用しません。

今年も様々に闘いました。闘いに闘いぬいて、それでもこちらの力及ばずに伝えるべきものが伝わらず、受験結果がうまくいかなかった受験生もいます。正しいことを理解してもらうためには、彼らの思いこみがいかに現実からかけ離れているかをつきつけていかなければならないわけですし、彼らの身勝手で都合の良い想定よりもはるかに現実は厳しいことをどう伝えるのか、という勝負です。こちらが「生徒と闘う」ことを通じて、自分の願望や妄想から現実を捻じ曲げることと生徒自身が闘うことを伝えていかねばなりません。

そして僕にとって生徒と仲良くなる、とは目的ではなく、手段です。
彼ら彼女らが決して認めたくはない現実を受け入れて、その現実を直視して立ち向かえるようになるためには、彼ら彼女らが見たくないものを見るべきだ、と言い続ける僕の動機が僕のためではなく、彼ら彼女らのためであることをわかってもらうため、でしか信頼関係を築く意味はありません。

信頼関係を築いていっては、それを掘り崩すように彼ら彼女らの嫌がることを直視させるために信頼関係を用いていく。そのことの繰り返しの中で、やがて僕にそのようにされなくても彼ら彼女らが自らにとって都合の悪い現実を直視し、それに対して対策を練れるようにしていく、ということが僕の目的です。
たとえば受験対策としてもそれこそが教師のすべき仕事であると言えるでしょう。

だからこそ、生徒とどこまで闘えたか、が教師にとっては大切であるのです。生徒のそのような弱い部分と闘う機会を
常に伺っている教師は「教師は生徒と敵ではない」などと寝言を言いません。
しかし、そのように「敵ではない」とずれたことを言う教師と、「生徒と日々闘うことが教師の役目だ。」と自認している教師とのどちらの方が、生徒のことを考えているかは自明であると思います。

今年一年間も散々闘ってきましたが、それも明日の発表で一段落が着きます。
その後は再び次の受験生と休むこと無くまた闘い続けていきたいと思います。

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