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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

劇団どくんご『誓いはスカーレットθ』東京公演の感想

今年もどくんご東京公演を実現できました!たくさんのお客さんに見てもらえたこと、今年は自分自身の地元の小金井公園で開くことができたことなど嬉しいことがたくさんありましたが、さて、感想を書くとなると、すっかり手を付けられないでいました。毎年どくんごの感想を書こうと思うと、とても書きたいことだらけではあるのですが、一方で虚しさも感じてしまいます。どくんごの感想、というのは見た人には伝わる部分もあるとは思うのですが、見ていない人にはほぼ伝わらないものしか書けないわけで、果たしてそれに何の意味があるのか、と考えてしまいます。本来ならば、見たことがない人にどくんごの凄さを伝えられるような感想を書けなければ、僕自身の自己満足でしかないわけで…。という忸怩たる思いもあります。

しかし!独自に発達し、唯一無二の素晴らしい世界を作り出しているどくんごの芝居を、何とか言語化しようとしていくことはこの社会にとって間違いなく必要なことでもあると思います。それをモチベーションにして何とか書いていきたいと思います。


今年のどくんごは濃かった!濃密な場面の連続、とはいえ笑いもおかしみもたっぷりあるのですが、一度客席の心を捉えたら、最後まであっという間に終わってしまう。それほど濃密な時間を味わえました。

一つ一つの場面のテキストが鋭く、深く、おかしみも悲しみも喜びも兼ね備えており、どくんごの特徴である弛緩と緊張、無意味と意味がよりコントラストがくっきりとしていたように思います。無意味と意味への揺り戻しが振幅を広げながら意味の方へと大きくエスカレートしていくあの感覚は、ここ最近の中でも出色のすばらしさでした。後半のソロシーンの連続はまさに「スペクタクルタイム!」という感じでした。

「繋がりはないです!」「出し物です!」「筋なんてないですってば!」と言われながらも、各場面のセリフ同士、さらには昨年までの芝居との繋がりを感じさせ、想像を膨らませてくれるのがどくんごの芝居の特徴ですが、今年はその構造がさらにブラッシュアップされ、我々は見ても聞いてもいない物語を追体験しているような不思議な構成の中で、筋を追うこと・意味を追うことを諦める姿勢を序盤に身につけておきながら、後半になるにつれて、筋や意味があったかのような思い至りを随所に感じる、しかしそれもまた自身の想像や夢かもしれない、と考えるようになっていきます。「見えない部分」を受け手に想起させることで作品が受け手を巻き込み、作品の世界に引き込んで行くというのはそれこそテレビのサスペンスドラマから映画、舞台まで定番の手法であるわけですが、どくんごのそれは作品の世界にのめり込ませていくためではありません(だって、かちっとした作品世界があるわけではないですから)。しかし、その「見えない部分」を随所に想起させることによって、我々の想像力はinspireされ、考えるようになり、そしてそれが現実世界に向いてきます。

それはまさにどくんごのテントが「借景」として公演地の地形をうまく活かしているがゆえにどのような豪華な劇場よりも表情豊かであるのと呼応して、作品世界への想像力のinspireにとどまらない、この世界自体への想像力の扉を開いていく、とも言えるでしょう。だからこそ、「楽しかったね」「素晴らしかったね」でとどまらない何かを持ち帰り、ふとしたときに思い出して考え直し、そしてまた新たな気づきを得る、という経験がどくんごを見たあとに生まれます。

つまり、どくんごの芝居の素晴らしさは、「余白」です。

一人一人の必死のセリフ、意味は分からないが必死の訴えとそれを表現するためのセリフや身体の強さから我々は見るという行為を解釈の媒介とすることからとりあえずありのままに受け入れることへとシフトチェンジしていきます。しかし、ありのままに受け入れていけば行くほどに、先に書いたように各場面の「繋がり」、セリフの「響き合い」、動きの「共通点」などを自分から発見していくことになります。この受け手が「自分から発見していく」(もちろん、この「発見」が正しいかどうかはまた別として。それは妄想かも夢かもしれません。)という触媒としての働きにおいて、そしてそれが単なる芝居の作品世界にとどまらずに現実へと向けられていく補助線としての働きを生み出していくという点において、どくんごの芝居は他の芝居とは大きな違いがある、と思っています。

と言葉にしてみると、「なるほど。余白ね。思わせぶりなセリフをたくさん散りばめて全部は書かないようにすればいいだけでしょ。」と捉えられがちです。しかし、このどくんごの形式においてその「余白」をどのように作るのか、については本当に厳しい試行錯誤が重ねられていると思っています。ストーリーがあれば、ストーリーとして完結している、ということがいわば免罪符となることができます。もちろんその出来不出来があるとはいえ、不出来な舞台であっても「ストーリーとしてはちゃんとしている(破綻していない)」という逃げ道が許されるわけです(もちろんそのような芝居に何の意味があるのかはわかりませんが)。

それに対して、どくんごの芝居は一つ一つの場面の芝居自体の説得力だけで勝負をします。ということは、書かれていない筋について観客が思いをはせることができない以上、何より芝居自体に説得力がなければ、それは余白を支え、考えたり妄想を膨らませたりすることの枠組みとはなりえないのではないかと思います。人は懸命に伝えようとされているものでなければ、意味を考えようとしないでしょう。しかし、一方でその一つ一つの場面の芝居の説得力だけでおわらぬように様々な構成を徹底的に考え抜き、ひっかかりや関連を作り出し、ときにはわざとひっかからないように突き放し、ということで観客を一つの方向に誘導するのではなく、かと言って考えるポイントが何もなくただ並べているのではなく、想像力を様々に触発していきます。この点でも芝居の持つ力を、私達の想像力があちこちへと逍遥するための励起エネルギーへと明確に使おうとしていると思います。(たとえば二人が面と向かって出て来るシーンでの発話が各々の独り言であるかと思えば会話かも、と思わされたり、会話かと思えば独り言かも、と思わされたり。そこでのコミュニケーションの成立と不成立の淡いでもがいたり、あるいは楽しそうに、諦めずに必死に発話していく登場人物たちのやりとりは、私たちにコミュニケーションとは何であるのかについて振り返らせていきます。これもまた、現実への想像力をinspireしてくれるところです)

体験としてはどくんごの観劇は「読書」に近いです(ずいぶんうるさい読書ですが!)。良い本は、それを読みながら精神があちこちへと逍遥し、そして本を離れて(本の内容であれ、他のことについてであれ)考える時間がどんどん生まれていきます。そして「本の内容を情報としてインプットする」ことではなく、精神がそのようにinspireされ、生き生きと働くようになってきます。どくんごも同じです。

だからこそ、どくんごを観たお客さんの感想は、どれもが本当に美しい、と思っています。「あれは何だったのだろうか。」と自らの揺れ動いた心を辿りながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出すとき、それらの言葉は皆美しく、詩が生まれています。詩は詩人のものではなく、誰もが借り物の言葉を脱ごうともがくときに生まれるものであると思うのですが、どくんごを観る、ということは私たちにその勇気と力を与えてくれます。僕も毎年どくんごの感想を書いているので、このブログでの感想文を褒めていただくことが多いのですが、「自分の書いたものこそどくんごの的確な感想文だ!」などとは本当にこれっぽっちも思っていません。それよりも、様々な人がどくんごについて既存のものに結びつけずに(即ち逃げずに)語るとき、その言葉は全て、この上なく美しい、と思っています。それらの言葉は必死に、まだ形にならないものに形を与えようともがいて出て来る言葉であるからです。そしてだからこそ、そのきっかけを作り出すどくんごの芝居、というのがどれほど我々にとって有り難いものであるのか、ということを痛感しています。どくんごの芝居を見たとき、私たちは「語りやすいから語りたい」「うまく語ることができるから語りたい」といういやらしい自分を脱ぎ捨て、「うまく語れないけれども何とか語りたい!」という自己に立ち戻れる気がします。それはまさに赤子が我々の言葉を真似して一生懸命に意味を伴わない、しかし懸命な声を発するときのあの真摯さを、私達の中に呼び起こし、初心を取り戻させてくれるものであると思っています。

伝えたいものを伝えられるものの中からだけ選ぶことによって「社会生活」を無難に営む我々(それは勤め人として、というだけではなく友人関係、家族関係といった親しい仲においてすら。あるいは自分がやりたいはずの表現活動においてすら。)に、そのような限られたものの中からだけではなく、本当に伝えたいものを伝えようとしていくことの大切さ、それが言葉にならなくてもどうにもうまく表現できなくても、でも伝えようとせずにはいられない!という思いをどくんごは引き出してくれます。そして、何よりどくんごの一人一人がそのようにもがき苦しみ続けていく中であのような表現方法になっていった、ということこそが、彼らもまた「伝えられるもののみを伝える」という既存のコミュニケーション(そして、これが言葉の本来の意味でコミュニケーションになっているかどうかは極めて怪しいのです。)と日々戦い抜いていることの証左です。

何かの理論やメソッドがあるわけではありません。ただ徹底的な試行錯誤と反省/考察の結果として観客の思考のきっかけをも支えうるような強靭な「余白」を作り出しています。それが彼らの過酷な旅から来るのか、徹底的に手作りのテントや幕から来るのか、強靭で繊細な芝居から来るのか、新しいツアーメンバーや幕間ゲスト、お客に徹底的に開かれた姿勢から来るのかはわかりません。おそらくはそれらすべてから来るのでしょう。一つの意味に寄りかからぬよう、一つの達成に寄りかからぬよう、一つのコミュニケーションの成立にとどまらぬよう絶えず厳しい探求を続ける彼らの姿勢こそが、余白がないかのようにふるまったりあたかも完成された人間であるかのようなそぶりをしたりすることのバカバカしさを私達に気づかせてくれます。その上で、私達が勝手に諦めていた報われないけれども大切な様々な取り組みへともう一度取り組む力をそっと与えてくれると思っています。

伝えやすいものだけが流通され、語りやすい言葉のみが語られ、叩きやすいもののみを叩き、取り組みやすい行為のみが奨励されることで、それ以外の行為がすべて根絶されつつある、しかもそのことを一人一人がなんの違和感も感じずに受け入れつつあるこの国の中で、あのちっぽけな犬小屋テントは飄々とあちこちに出没しては、そのような(考えなくさせる)流れの中に屹立してはがっきと受け止めては対峙し、そしてその流れに翻弄されることを言い訳にして身を委ねることを自分に許しかけている不誠実な私達に考えることを促す「余白」をこの社会の中に、文字通り命がけで作ってくれていると思っています。そのようなどくんごに感謝するとともに、だからこそ私たちはどのような絶望的な状況に陥ったとしても、諦めるわけにはいきません。今にも諦めたくなるような絶望と苦渋の日々だとしてもなお、私たちにはどくんごがいる。それは僕にとってもまた、死ぬ最後の瞬間まで諦めずに戦い抜こうと思える確かな理由になっています。

今年も本当に素晴らしい芝居をありがとうございました!どくんごの旅はまだまだ続きます。関東圏では今日明日の大宮公演、その後の前橋公演、飯能公演と続きます。どくんごの旅は11月下旬まで続きます。ご予約はこちらから!

来年のツアーはお休みです。というより、毎年毎年ここまでツアーができている事自体が本当に奇跡的です。こんな過酷な半年間のツアーをメンバーを集め、鹿児島から釧路まで行きまた鹿児島に戻るというとてつもない移動距離を事故もなく移動し、30回を超えるテントの建てとバラシを行いつつあのハードなステージを年間70〜80公演やりつつ無事に(といっても今年はメンバーの入院もありました)終える、というこの奇跡的な努力を今年見られるのもあと僅かです。だからこそ、ぜひお近くで、あるいは遠くまで足を運んででも見ていただきたいと思っています。

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劇団どくんご『誓いはスカーレットΘ』東京公演の極私的紹介

夏休みに入ってあまりの忙しさにヒイヒイ言っていたら、どくんご東京公演まで後1ヶ月!
しかも今年は僕のミスでチラシ、ポスターを開演時間を間違えて発注してしまい、それを今から修正して配らなければならない、という追い込まれた状態です。。告知もここから本腰入れて、徹底的にやっていきたいと思います。

どくんご東京公演『誓いはスカーレットΘ』
8月28,29,31,9月1日の毎夕19時開演(開場は30分前)
(一部で「19時半開演」のチラシがありますが誤りです。申し訳ありません。)

場所は小金井公園いこいの広場
詳細はどくんごホームページで。

さて、どくんごの紹介を書こうと思ったのですが、去年もビギナー向けにこのようなものを書きました。また、どくんごの感想についても、さんざん書いています(これも先程のリンクから追えるようになっています)。

では、何を書こう!感想?(実は今年はもう3回見ています)とも思ったのですが、今年の感想はやはり東京公演でまとめて見た後に書きたいなあと思ったので、なぜここまで僕が劇団どくんごを推し、塾生のチケット代を自腹で大量に払い、遠くまで観に行き、とうとう東京の場所取りや営業までやっているのか、についてちらりと書こうかな、と思います。(恐らく他の素晴らしい作品を見て感銘を受けても、僕はここまで「推そう!!」とはならないです。)


端的に言えば、どくんごは全ての人々にとって「希望」そのものであると僕は思っています。自分のやりたいことをやろうと生きていく際に立ち上がる様々な制約の一つ一つに対して、徹底的に真摯に向き合い、何とか彼らなりの回答を出そうと何も揺るがせにすることなく取り組んできた、その結晶がどくんごのあの舞台であるのだと思っています。

観客の側における芸術と生活との乖離、商業演劇の可能性と不可能性(殆どは補助金漬け、キャラメルボックスですら、続き得ないわけです。。)、一つの演目をどこまでブラッシュアップできるか、という商業的にはうまくいきようのないチャレンジへの取り組み、その目的のための年間80公演、さらには鹿児島から釧路までの旅公演。
全国各地への旅公演を30年続けてきた、という事実に象徴されるように、彼らは自分たちが面白い!と信じる芝居をどう実現するかを追求し、そこで直面してきた一つ一つの乗り越えるべき課題をどのように乗り越えるか、を模索してきた結果、このような独自の存在に辿り着いた、ということです。

演者自身がすべて手作りの美術やセットやグッズ。チラシ、ポスターデザイン、その全てが演者の手作りであるということ。これらはあの芝居が観客の目に触れるまでにそれぞれの稽古以外にどれほどの時間を積み重ねて実現しているのか、の現れでもあります。それはまた、あの練度の稽古にかかった時間も含め、とてつもない時間と努力の結晶です。(もちろん、これは他のどの劇団であっても多かれ少なかれ似た状況でしょう。)

そして、彼らにとって理想とする芝居のために各地に自前のテント劇場を建てる、という解決策は、新たに悪天候や土地を借りる交渉といった舞台の外の要素との闘いを彼らに強いることになりました。これらをも取り組むべき対象として丹念に取り組み続けてきているわけです。

これらをざっくりまとめて言えば、自分たちがしたい芝居に必要なすべてを役者さんたちが自前でやっていく、という点では(言葉は悪いですが)高校や大学の演劇部のようなものです(大学はもう分業体制に別れるかもしれませんが)。役者は役者、美術は美術、として分業をするのが「プロ」であるのだとしたら、アマチュアリズムの塊です。しかしそれを、どこまでも本気で、どこまでも妥協なく、そしてどこまでも協力してやっていった結果として、それは「ただ、板の上に載せてもらってその上で演じる」役者のどのような「名演」ともまた違うものを我々に伝えてくれます。

その「違うもの」とは何か。私たちは何を求めるつもりだったのか、ということに気付かされる、ということです。
私達が求めていたものを実現していくためには、あまりにも「整備された道」とそれ以外のものとの落差が大きすぎます。
だからこそ私たちは、自分が求めていたものを実現するために、と信じて、あるいは信じられなくなってからは必死に自分に言い聞かせては、その「整備された道」を行くことで何とか自分は志を失ってはいない、という外観を保ち続けようとします。

しかし、そのように意固地に「既に挫折している」ことを認めないままになされるすべての努力を通じて私達自身が心の蓋を閉ざし続けようと、そのような整備された道など最初から打ち捨てては、愚直に自分たちの信じる道だけをやり続けてきた彼らの舞台を見れば、それはこじ開けられざるを得ないわけです。そこに解放感、希望を見出す人もいれば、不快感を感じる人もいるでしょう。

その「整備されていないが、しかし自分達が信じる道を行く」とは、物理的、経済的な側面だけではなく、伝達、という側面においてもです。彼らは理解をしてもらうことを、正確には理解をしてもらいに行くことを捨てて、「これが面白い(intresting!)!」を徹底的に作り上げていきます。それなのに/それだからこそ、その結果として何かが観客にも伝わる瞬間が生まれる。しかも、何かを伝えようとする作品よりも。ここにおいても希望を感じさせてもらえることについては、僕が毎年書いている他のどくんご観劇記事(去年のはこれです。)でも書いたところです。

このように、どくんごは、「道なき道」の方向へと正しいものを感じては生きるすべての人にとって、希望です。
だからこそ、彼らとツアーを一緒にした若い役者さんたちが触発されて、
テント芝居ブームが再燃している、ともいえるでしょう。
(今年はベビー・ピーも小金井公園で(どくんごの一週間前に)、マタヒバチも秋以降に恐らく関東どこかでやる予定です。)

そして、それは役者さんだけに限りません。様々な方向で整備された道に乗っかろうとするのではなく、
道なき道を行こうと、もがき苦しんでいるすべての人にとって、どくんごは一つの希望であると思っています。
もちろん、かれらのとてつもない努力に自分の夢を託してはおしまい!ではなく、自身の信じる道を追求するために、こういう先達がいるのだ!という心の支えや叱咤激励として。
だからこそ、多くの人に、そして特に若い人たちに見てもらいたいと思っています。

東京公演の予約は絶賛受付中です!予約はどくんごホームページからでも、嚮心塾にご連絡いただいても大丈夫です!

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劇団どくんご『誓いはスカーレット』感想

どくんごにハマってしまった結果として、東京受け入れのメンバーの一人となりました!
そして、関わりが深くなればなるほど、どくんごの感想が書きにくくなります。それは、何も「身内だから欠点に言及しにくい」という理由ではなく、どくんごを構成しているのは舞台の上だけではないことがあまりにもよくわかってきてしまうからです。場所取り、宣伝、旅の道中、テントの立て、公演、打ち上げ、そしてバラシと、その全てがどくんごの重要な要素である以上、舞台についてだけを書けば、どうしても「片手落ちどころではない!何も書けていない!」という気持ちになってしまいます。

だがしかし!深く知れば知るほど舞台の上だけで終わらないどくんごが、最も大切にしている舞台について感想を書かない、というのではやはり駄目だと思うので、今年も頑張って書きたいと思います。



今年のどくんごは、序盤の繰り返しがとにかくエグかったです!「どくんごとはこういうもの」という意識があるからこそ集中して聞いていこう、となるわけですが、初見の方とかはあそこでうんざりしてしまう方もいるのでは、と見ていてちょっとハラハラしました。

しかし、その「繰り返し」もよく聞いていくと完全な繰り返しではなく、微妙に内容が違っていたり、さらには発話者が変わったり、一人から全体へと共有されていったり、とそこで様々なバリエーションが生まれています。それを見ている我々は、段々とその繰り返しの差異に気づけるように、集中して聞いていくことになっていきます。

それは他のシーンでの一つの擬態語・擬声語が様々な意味で使われていること、あるいは複数のシーンで同じ名称が様々なものを表す(あるいは、それが同一の人物?だとしたら…という妄想を開いていく)ことに使われていることなどからも、そのように考えさせるきっかけを散りばめていきます。

「一つ一つのシーンに意味などありません!いやいや、意味などありませんってば!」と劇団に断言されながらも、そのような差異に、あるいは同一性に気付かされる私たちは、自然にそれらに意味を見出したり、立ち止まって考えたりという引っかかりをたくさん浴びることになります。それはやがて、私達の中に話を聞く姿勢、吟味していく姿勢を準備していくことになります。それはまるで長く一緒に暮らしてきた動物たちの鳴き声に我々が「感情」を見出すように、あるいは赤子の意味不明の声に、我々が感情やメッセージを見出すように。

言語の論理構造だけから意味が生まれるのではなく、そこに込められる思い、声、身振り、表情、その他のものから私たちは意味を汲み取るように、私達の感覚はどくんごを観ている間に解放されていきます。そして、意味などわからなくてもなんとなく心にひっかかるものが確かに役者さんの熱量で私達の目の前に現れたとき、日常生活の中で意味を追うことに倦み疲れた私たちはまた、意味を考える意欲を回復させられます。

殆どの大人たちは「世界が不思議に満ちている」という感覚(センス・オブ・ワンダー)を押し殺して生きているものです。というよりは、「世界が不思議に満ちている。」という感覚にどれだけ背を向けられるかが、「大人」の定義とでも言えるでしょう。「理解可能なものからしかこの世界が成り立ち得ない」という立場を大人たちが固めていくのは、怖いからでしょう。自分にはわからないものが確かに存在していて、そこには素晴らしい価値があるかもしれない、と思うほどに、有限な自分の人生においてはその素晴らしい価値を気づかずに死んでいくのは怖くてたまりません。だからこそ、大人たちは「自分にわからないものには少なくとも価値はない!」という立場を取っていくことになります。そして「自分に理解できないものの意味を考える」ということを止め、「自分に理解できるものだけが意味がある(つまりは考えないように生きる)」という繰り返しで、生涯を終えることになります(研究者や芸術家は違う、と言えたら良いのですが、研究者も芸術家も自分が思考を停止しない分野を狭く区切った上でそこに関してだけはそうしているだけなので、基本的には同じだと思います)。

一方で、子どもたちにとっては最初、この世界には「理解できないもの」しかありません。だからこそ、子どもたちは「理解できないけれども、でも相手が真剣に発話したり提示しているもの」を、懸命に反復しては理解しようという試みを、決して怖がりません。理解できないものだからこそ、その意味を考える。もちろん、考えてもわからないことも多いでしょうが、それでも意味を考えることを無駄だとは思わないものです。そのような子どもたちを、大人がどれだけダメにしてしまっているか…について語ると教育論になってしまうので、ここでは書きませんが、だからこそどくんごは子どもたちにとってはその「世界は不思議に満ちている」という感覚からすれば、ぴったりとハマるものであるのです。

そして、どくんごの凄さは、そのセンス・オブ・ワンダーを大人の中にも回復していくことです。いやいや、観たって意味なんてわからないんです。初めて観たとき僕も後付けで初めて観たときから偉そうに感想を書きましたが、しかし、意味なんてまあわかりません。けれど、強く心に残るものがある。それもひねくれ者の、大人の権化であるような僕ですらです。すると、「これは何だ…?」とまるで赤子のように、センス・オブ・ワンダーが回復されていきます。相変わらず意味はわからない。しかし、「意味がわからないから」という大人じみた卑怯な理由で切り捨てるわけにはいかない何かがある。
その体験が、「理解できない」ということを恥じたり恐れたりしては、それをないものとしていた自分の殻から出ていく勇気を、大人にも引き出してくれます。そして、「わからないなりに感じ取ろう、受け止めよう!」という子供の頃から忘れていた姿勢を私達の中に準備していきます。

そして、そのように準備ができた中で紡がれていく後半のシーンの数々といったら!いやいや、相変わらず意味はわからないのです。わからないのですがしかし登場人物一人一人の懸命な訴え、取り組み、告白、それらすべての必然性を、観ている私達が共有する状態になっていきます。

これはまた、「気持ちが理解できる」「共感できる」というのとは全く違います。たとえば、同じ場面を観てもそれを観て泣いているお客さんもいれば、笑っているお客さんもいることからもそれはわかります。相手に「共感する」というのは(芝居に限らず)「理解できるものを理解する」のと同じように、極めて一方的で暴力的な行為であるとさえ言えるでしょう。しかし、相手と同じ気持ちを味わうことが原理的に不可能であるとしてもなお、その切実さを受け取ることはできる。そのようなむき出しのコミュニケーション、私達がどこかで通ってきたはずの原初のコミュニケーションが存在するのだという事実を私たちに喚び起こしてくれます。(これをたとえるなら、能面が、場面に応じて笑っているようにも怒っているようにも泣いているようにも見えるように(なので能面を「感情を表さない」ことの比喩で使うのは、間違いです!)、むしろ意味がわからないからこそ、そのシーンを単一の意味や記号に落とし込んでわかったふりをすることができずに、そのまま受け止めざるを得ない、ということなのだと思います。そしてそのシーンをそのまま受け止めたときに私達の中に沸き起こる感情は、演者が伝えようとしているものでも、私達が勝手に抱いているものでもなく、演者と私達との間に何かしらの交流が成立しているからこそ立ち上がる「その場にしかない何か」になっていきます。)

と言葉にしてみると、「なるほど意味がわからないシーンを作ればそうなるのね!」という残念な理解になってしまいがちなのですが、このような交流の場としての舞台を作るためにどくんごがやっているのはひたすらな作り込みと常軌を逸する努力、であるのです。どのようなシーンを演じたいか、それをどのように構成していくか、意味がわかりすぎず、わからなさすぎず、つながっているようでつながらず、つながっていないようでつながっていて、どこを舞台とすべきか、どこを舞台とすべきでないか、そして一見意味の分からないシーンにリアリティを出していくためのテキストへのこだわりと演技の徹底的な練習、さらには一つの舞台を年間80ステージも同じメンバーで演じ込んでいく徹底的な探究、楽器・ダンス・歌の徹底的な練習、それらのすべてが私達に目の前のわけの分からない舞台を観させ、聞かせます。

そのクオリティから、これをやる彼ら劇団の必然性を感じ、そこから各シーンでの登場人物の必然性へと引き込まれ、そして…と最初の話に戻るわけです。赤子の「だあだあ」と一生懸命話す「言葉」を「(我々の狭い定義での)意味をなしていないから」、というようには無視できなく、傾聴せざるをえなくなるように。


そして、どくんごの舞台はこの「傾聴する」「受け止める」という姿勢を私達の中に作り出していくために、さらなる仕掛けも作っています。メインの登場人物が演じている間に、他の登場人物がそれを楽しみながら傾聴する姿勢に私達が影響されていくところもあるからです。背景幕の転換から何からすべてを他の登場人物が行うこの忙しい芝居の最中なのに、メインが演じている際にも、他の登場人物は舞台袖でしっかりと聞いています。それは「聞いている姿勢を演じている」部分、それから「本当に素に戻って聞いている」部分と両方あるとしても、その姿勢が私たちに「意味がないから聞かないでいいや!」という多寡のくくり方を思い止める補助線として機能していきます。

さらには、即興パートのシーンではまさに演者同士が言葉を受取り、次のパートを紡ぐ、ということをやっていかねばならないため、彼ら彼女らにとっても他の演者の言葉を聞かざるをえない場面が必ずあるわけです。つまり、そのことによって「演者の間でコミュニケーションがなされているように観客に見えれば良い」というすべての芝居における構造上の必要性だけではなく、「実際に演者間のコミュニケーションが為されている部分」と「作り込まれたそうでない部分」とが混在する一連の舞台になります。自分が舞台上でアウトプットだけをすれば良いのではない、という緊張感を演者に常に与えます。そのことが作り込まれた場面にも迫真さを生み出していきます。

そしてそれはさらに、その演者間の傾聴の姿勢から、作り込まれた各場面が演者の中で消化されていくことで、即興の場面の中にも「構造」が立ち上がることに繋がっていきます。必死に反応しては演じる演者達の即興が、彼ら一人一人の歴史から生み出されるものであるというだけでなく、それまでの他の様々な場面とも響き合ってきます。その立ち上がる「構造」の可能性に、私たちは深く心打たれるのです。

世界を自ら狭くしては受け取るものを限定して生きることで、何とか自分の人生に意味を与えようとする自分の健気ではあるが虚しい取り組みの、その外にある可能性に。「意味の分からない」ものに目を見開き、耳を澄ませ、心を開くことの、あまりにも豊かな可能性に。そのように秩序を求めて無秩序を恐れず、意味を求めて無意味を恐れず、「連帯を求めて孤立を恐れず」と徹底的に開いていった末にまだ残る、共に生きることの可能性に。



今年も本当に素晴らしかったです!本当に有難うございました!
僕は今年はあと2回くらいしか見ることができませんが、最後までツアーを応援したいと思います。関東ではもう終わってしまいましたが、これから中部、四国、近畿、そして九州と周っていきます。お近くの方は是非見て頂けたら嬉しいです!

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東京公演のためのどくんご再紹介

いよいよ、2年ぶりのどくんご東京公演まで、残り2ヶ月を切りました!このブログでも何度かどくんご観劇の感想を書いてきました(2013年2014年2016年2017年)が、あまりに長い文章なので、改めてどくんごを見たことがない方のために、東京公演の前にどくんごの魅力を紹介し直したいと思います。


魅力その1 一人一人の役者さんの全力、全身、全霊の舞台。

劇団民藝の故大滝秀治さんが、先輩の故滝沢修さんに「君のは熱演と言えばよく聞こえるけど、過不足で言えば『過』だよ。」とダメ出しされた、という話をどこかで読みました。この話は「演じ手が一生懸命やっているのはアタリマエのことで、むしろその一生懸命さを観客に悟られているようでは伝えるべきものが伝えられない。」ということだと思いますし、それは一つの確かな思想であると思います。しかし、筋を伝えていくために役者の身体や存在が消されることを理想だとすれば、そもそもそれはストーリーを文字で追うのとどう違うのか、という難問も出てきてしまいます。

どくんごの舞台はその逆です。筋を味わうための役者ではなく、役者を味わうための舞台です。一人一人の役者さんがこれでもか、これでもか、と様々な形でそのエネルギーをぶつけられることになります。そこには笑いあり、哀しみあり、ユーモアあり、と様々な感情が湧き起こるわけですが、その一つ一つのシーンの意味、というよりは、ただ目の前の役者さんの全てを味わえばよい、というところが実は演劇ファンだけでなく、多くの人にとって間口が広い舞台であると思います。

その一人一人の役者さんの懸命な演技は、意味がわかるかといえば、わかりません。かといって、全くわからないかといえば、わかる気もします。そのような彼ら彼女らの演技に目を凝らし、耳を澄ませていけばいくほどに、徐々に自分の中に様々な感情が立ち上がってきます。意味を追い求めるのでなく、ただ目の前の人々の必死さに対して心を開くことにつながっていきます。


魅力その2 しかし、全く役者頼みではない構成と演出。

魅力その1だけを読めば、「なるほど。要は、ちょっと頑張ってる一人芝居のオムニバスっぽいやつなのね。そんなの、一本一本、独立して見れば良くない?」という意見も出てくるはずです。しかし、その一人一人の役者さんの奮闘が、繋がっていないようで繋がっているのが、どくんごのまたもう一つの凄みです。音楽も照明も(広義の)舞台も幕もテントも、その全てがひとつながりのものとして、機能しています。ここ5年は毎年見ている僕が、「あの場面が好き」「あの演技が好き」という以上に、毎年毎年「どくんご」として一続きの完成された舞台を見る感動を与えられるというのは、やはり改めてふりかえってみても、本当にすごいことであると思います。

言い換えれば、どくんごは、はじめから全体の絵を描いておいて、それを細分化して一つ一つのピースを作る、というジグソーパズル的な構成ではありません。「Aというピースをやりたい」という役者と「Bというピースをやりたい」という別の役者さんとの組み合わせをいくつもすりあわせていく、という途方もない作業を丹念にやり抜いていった、自然物の岩を活かした巨石積みの石垣を見るときのような感動があります。部分が全体のために作られているのではなく、各部分がそれ自体のために存在しながら、それらを補助線としての「全体」がなぜか浮き上がってきます。それはまた、お互いに違う他者同士が共に生きていくための共生の作法ではないか、と感じさせられる感動が生まれるのです。

それだけでなく、一人で演じるシーンが多いとはいえ、複数人で演じるシーンには複数人で演じることの必然性がしっかりとあります。「ここは一人ではないほうがいい」と考え抜かれて複数人で演じられる場面は、役者さん一人一人の夢想を、我々の目の前に顕現するために徹底的に考え抜かれた作りをしています。

さらに、です。「板の上」で人が演じるだけで様々な場面を伝えることができるのが演劇の醍醐味であるのなら、どくんごはその「板の上」から全てが生み出せるとしてもその「板の上」であることもまた一つの制約になっていないか、までとことん疑いぬいた舞台であると言えるでしょう。その点でも、役者さんの演技を楽しむだけではとどまらない、多くの魅力があります。

このように、一人一人の役者さんの演技を堪能するだけでなく、観れば観るほどその全体の構造が浮かび上がってくる、本当に奥の深い舞台であると思います。(なので、僕のように年に何回も観てしまうどくんごファンが出てきてしまいます。。去年は8回も観てしまいましたが、僕などまだまだ熱烈などくんごファンのほんのはしくれ、上には上がいます。)


魅力その3 見る場所によって全く別の面白さがある。

どくんごは野外にテントを張って公演をする劇団だからこそ、公演地ごとに様々に背景が変わります。市街地の雑踏の中で行われる公演が、私達一人一人の日常をこじあけてくれるなら、広い海を背景に行われる公演はどこまでも幻想的な世界になります。また、その公演地の背景の違いによって、同じ場面、同じセリフもまた、違う響きを持ってくるのが驚きです!これにハマると…様々な公演地に見に行ってしまいます!

「借景」という概念があります。庭園の内部だけでなく、庭園から見えるその外の他の景色がうまく映えるように庭園を作ることで、それもまた庭園の景色の一つにする、という造園法です。どくんごの世界はまさにその「借景」を使うからこそ、あの小さなテントを、どのような設備の揃った大劇場よりも豊かな舞台へと変えていきます。その妙といったら!

これも庭園の借景にも言えることなのですが、素晴らしい景色がそもそも最初から内部にあるのと、外から「借りて」くるときとで、その景色との出会い方が変わってくるのですね。内部に組み込まれているときとは違って、借景にはさっきまで見ていた遠景に新たな意味を与えられる、という再発見の感動があります。それを演劇で実現しているのは、とてつもないところです。

魅力その4 劇団がアツい。ファンが濃い。

どくんごは一年かけて、全国各地をツアーで周ります。鹿児島から車3台で出発して北海道の東端、釧路まで行き、そしてまた南下して鹿児島まで戻っていきます。これだけ聞いても、ちょっと何言ってるかわからないです。

さらに今年は実質7ヶ月で年間80ステージ(!)、公演地も33の場所で行います。単純計算で7ヶ月間、平均すると2.6日に1ステージ以上はやっている計算です(車なので移動に大きく時間がかかることをお忘れなく!)。それをただ演じるだけでなく6人のメンバーで、テント設営から証明設営、チケット販売から客入れ、そして終演後の打ち上げまでやっています。ますます、わけがわかりません。一体いつ寝ているんだ。

さらに、33の公演地では各地にいるどくんごファンが「ただどくんごを自分が見たい!」というだけの理由で、公演地の場所取りの交渉から宣伝、さらには当日のボランティアスタッフまでやっています。これも今年僕が受け入れをやってみて、一番驚かれたのは交渉口で公園の管理担当の方々に「で、あなたは劇団のメンバーではないんですね!」ということでした。数多くの劇団が公演するような公園でも、「ファンの方が場所取りに来る劇団、というのは聞いたことないですね。。」というお話でした。しかし、それを全国33箇所!しかも30年間続けてきているわけです。


まだまだ魅力が語り尽くせません。
とにかく、今この時代の日本に生きていて、どくんごを見たことがないなんて、本当にもったいない!僕なんか、一年間必死に教えてあれこれ手を尽くして第一志望に合格させた受験生に、「この塾に入って本当に良かったです!どくんごを観ることができたんで!」と言われたくらいです(これはちょっと悲しい。)。

今年の東京公演は、9月8,9、11,12日と葛西臨海公園で行います。詳しくは劇団ホームページで。
東京公演の予約は嚮心塾でも受け付けています。
是非、どくんごを見逃すな!

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劇団どくんご『愛より速く 2号』公演の感想

だいぶ感想を書くのが遅くなってしまったのですが、劇団どくんごの『愛より速く 2号』公演を観てきました!今年は前半と後半で役者さんが一人入れ替わり、もう折り返しの『愛より速く FINAL』の公演が現在東北から南へと下ってきている状況です。両方観てから書いた方がいいかな、でもそうするとツアーのかなり終わりの方になってしまうな、と悩んでいるうちにもう北陸、そして関東へとツアーが下ってきていて、あわててこのタイミングで2号公演の感想を書きたいと思います。

僕が観たこの何年かの中で、間違いなく今年がベストであったと思っています。もちろん全ての年が本当に素晴らしかったのですが、しかし今年は「本当に、本当にとてつもなかった!」と思いました。

芸術に何を求めるのか、というのは本当に難しいことであると思っています。巧みに仕組まれた精緻な構造物としての完成度にその価値を求めるのか、それともその精緻さすべてを「仕組まれたもの」としてぶち壊すような初期衝動の爆発を求めるのか、それは人によっても違うでしょうし、また同じ人であってもどのような心の状態にあるかによってどちらの方がより深く刺さるかが変わってくるものであると思います。もちろん、初期衝動が精緻な構造への動機として機能し、精緻な構造への動機が初期衝動を改めて喚起し、というその相互作用がある事自体は全ての芸術が実際にとっていく発展の仕方であるとしても、たとえば精緻さを追求すればするほどに、「少なくとも自分は初期衝動のままには創作を続けていない」というただそのことだけを理由として自己を正当化するという失敗に陥ってしまいがちです。一方で洗練を自らに許すことなくストイックに初期衝動だけを表現し続ける、ということ自体にもまたいずれ限界が来ます。繰り返される「初期衝動」は、もう既に初期衝動ではありえなくなるからです。そこでは自らの意図で洗練を拒んだはずでありながら、精緻さを今更求められない、あるいは求めても得られなくなり、精緻ではないことから初期衝動が存在することを類推してもらうしかない、という落とし穴にはまることになってしまいます。

どくんごのとった道は、この難題に対して、常に一人ひとりの初期衝動を活かしていきながら、しかし精緻に構築していく、ということであり、即興の初期衝動と精緻な戯曲の巧みな構成とのその両者を徹底的にせめぎ合わせている、ということであると思っています。「役者がやりたいことをやる」即興と「一人の脚本家が精緻に作り上げた作品に皆が参加する」ということのそれぞれの素晴らしさと限界とをよくわかりながら、しかし、その両者をただ混ぜ合わせるのではなく、互いに屹立させ、混在させ、それらがどちらがどちらかすらもわからなくしていく中で、それを観る私たちは、精緻な構造を意味から読み解くのでもなく、初期衝動に共感からほだされるのでもないような見方を回復させられます。それが脚本家のいないどくんごにとって「演出家」の役割の大きさを示しています。一人一人の役者さんがやりたいことをしながら、しかし、それが一つの劇へとなっていくというこの奇跡的な業こそがまさにどくんごには、演出家しか「いてはならない」理由であるのだと思います。

言い換えればどくんごは、役者さんを追い込みに追い込み、役者さんの限界をその底から引き出してくる一つの装置になっていると思います。だからこそ、そこでのアドリブにはただ面白い、というだけでなく、その役者さんの人間性が引きずり出されます。そこに我々は深く感動するのです。

一方でこのような形式はどうしても、精緻ではない言葉も生み出します。即興であるからこそ生まれる言い間違いや聞き間違い、思いのすれ違いによって舞台上の空気が緩和する瞬間は当然あります。あるいはどくんごだからこそ起きる、公演地によっての様々な違い、ぶれが必ずあります。それをどう捉えるか、というところで評価も分かれるのかもしれません。しかし、このように徹底的に作り上げようとして、それでも作り上げ得ないところにこそ、えも言えない悲しみとおかしみが溢れ出てくるように僕は思います。それは我々がその構造の精緻さに感銘をうけるすべての人工物もなお、どのような天才にも予想できないような要素によって影響を受け、なんならすべて台無しになってしまうかもしれないという私たち人間自身の存在の不確かさ、危うさをすっくと引き受けて懸命に演じられているように感じられます。小さく区切った中での完璧さをついつい求めてしまう私達の、必死の努力ゆえに可能な部分の小ささと、それに反してその外に広がる不可能さに満ちた外界の圧倒的な豊かさ、それを思い知らせることで私達を元気にさせてくれる、そのような力をどくんごの舞台は持っています。

それはひとえに、どうにも形にならない一人ひとりの原初的な衝動を何とか形にしおえてもなお、まだまだどうにも互いに折り合うことのできない一人ひとりの舞台上の登場人物が、互いに理解できないとしても共感や共存はできるということがその細やかで懸命なやりとりから伝わり、そして最後は皆が…というこのどくんごの構成自体に、私達が求めてやまない社会のあり方を思い知らされるからであるように思います。本当のことを喋れるわけでもないし、仮にうまく喋れたからといって伝わるわけでもないし、と諸々のことを諦めていく中で、それでも何とか一緒に生きていきたい、と思いながらもどこかでそれを諦めている私達もまた、このような交歓ができる瞬間をどこかでずっと求め続けている、という私達自身の奥底にある願いを強く思い知らされるように思います。「全く異なる者同士が、共に生きていくための技術こそが「政治」である。」という言葉を借りれば、どくんごの舞台はまさにその意味において「政治的」であると思っています。

毎年毎年、本当にどの役者さんも素晴らしいのですが、一方で即興で出てくる言葉の鋭さ、というのはどうしても毎回変わってきてしまいます。もちろん、これも鋭ければ良い、意味が有りげなのが良い、ということではなく、意味と無意味との間をどのように飛び交うか、というところにその役者さんの人生のすべてが凝縮して現れる、本当に恐ろしい即興であると思います。その中で、たとえば若い役者さんゆえの即興の怖さを感じる瞬間は去年の『愛より速く』を観ていて確かにありました。これは外山恒一さんの雑誌を読ませていただいて、舞踏青龍会の原田さんのご指摘でなるほどと首肯させられたところです(もちろん、これについて僕が言うのも極めておこがましいことは当然のこととして、です)。ただ、僕はここにこそ、どくんごの素晴らしさがあるとも思っています。創設からのまさにどくんごの思想と実践を体現されてきた役者の方々がする即興との違いがあるとしても、そのような若さを(もちろん徹底的にブラッシュアップしていった上で)受け入れようとしていくこと、この点においてどくんごは一つの思想に、あるいは言葉を変えれば一つのシステムになったと思っています。それは即興において、それを即興と全体とを貫く針として成立させるだけの言葉が出て来ない瞬間があるとしてもなお、それを受け入れて演出して一つの舞台にしていく、という覚悟に基づいた行為であり、まさに民主主義の原点というか、民主主義と共に死のうという覚悟を決めている、というところが本当にとてつもないことであると僕は思っています。即興と精緻な構築物とがせめぎあうこの形式において、即興がゆるくなるということがどれだけの恐怖であるのか。もちろん毎年毎年、その年の演目を演じる役者さん自身が誰よりもそのプレッシャーを感じておられて皆さん本当に死に物狂いでやっておられると思うのですが、それでも毎年新しいメンバーを迎えてそのように続けよう、というその覚悟にこそ、少しの安定のために多くの自由を投げ売りしてしまう私達の覚悟のなさを思い知らされるようなものすごい覚悟を、演出のどいのさんの姿勢からは知れば知るほどに感じさせられます。それは、人生をかけて必死で実現しようとしているその理想すらも、他者に委ねる、という覚悟であるのです。委ねるとは人任せにする、ということではありません。自分の全存在をかけて追求するものを、しかし他者と共有しようとしている、ということです。共に生きる、ということへのとてつもない覚悟の凄みがそこからは立ち上がっているように思います。

その上で、今年のどくんごに話を戻せば、本当に濃密で、思想として肉体を離れたものが再び受肉したかのような凄みを感じました。久しぶりに得た肉体の自由さを満喫するかのように、叙情が溢れ出ていて、必死さが当たり前のようにあふれていて、そして何よりも再び人間を愛そうと思えるようになる、本当にとてつもない舞台でした。さいたま公演は9月8,9,10日(追記9日はもう売り止めになってしまったそうです!)です。もう予約も少なくなってきているらしいので、是非多くの方に観てもらえたらうれしいです!

僕自身も教育に携わろうと考えたのは、何よりも、これが一番(先の「異なる他者がどのようにともに生きていくのかを模索する技術」という意味での)「政治的」な行為であると考えたからでした。一人一人に自分たちの中で大切にすべきものに自信をもつことと、それをブラッシュアップしていくこと、その中でどのように他者とともに生きていくのかを模索していくことには教育しかないと思っています。しかし、その覚悟という点において、どくんごの取り組みは本当に大きな心の支えと共に、自分自身が決して中途半端なことができないという励みとなっています。毎年毎年、見れば見るほどにその自分自身の覚悟を問われ直されるという意味で、本当にありがたい経験をさせていただいています。本当に今年もありがとうございました。日々目の前の生徒たちとどのように共存していくべきであるのかを真剣に悩みながら、僕ももっと頑張っていきたいと思います。

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劇団どくんご『愛より速く』東京公演の感想

今年も劇団どくんごの東京公演を見てきました!2年ぶりのどくんごの舞台は懐かしく、切なく、本当に素晴らしかったです!今年はあれほど作りこまれた舞台を1回だけ見に行って感想を書くのも申し訳ないと毎年思っているので、越谷公演と、東京公演を三回の計四回見てきて、またそのうち一回は塾生を連れて大勢で見に行きました。各回、本当に素晴らしかったです!

どくんごの劇の素晴らしさは「意味がある」と思えば意味がなく、「意味が無い」と思えば意味があり、観客にとって全く「気が抜けない」劇であるということだと思います。ナンセンスな笑いを笑っていたはずなのに、あれ?ここはさっきのこれとつながっているのか?という疑問が自分の中に見ながらどんどん出てきます。また最初の文脈で意味を成し得なかった言葉が次の文脈で繰り返されるときには、意味を持ってきます。そのように「意味が無い」と聞き流すこともできなければ、「すべて意味がある」と
傾聴することもできない、その観客側の態度を決められなさが、逆に心地よくなってきます。意味を考える事の喜びを私たちはうんざりするかのような意味の押し付けの前には自己防衛のためにどうしても拒絶をしなければならなくなりますが、このように意味があるかないかもわからないものをこちらに押し付けないようにそっと、しかし彼ら彼女らの懸命さは伝わる形で置かれていくたびに、私たちはその意味を食い入るように見つめ、考えたくなってきます。そのような、(おそらく私達が言葉を獲得していく際に持ち続けていた)意味をわかろうとする喜びを私達の中に回復していくのがどくんごであると思います。

このように書くと、言葉だけが魅力的である劇であるかのように聞こえてしまいますが、どくんごの劇において言葉は主要な要素ではありません。むしろその鍛えぬかれた演技、音楽、装置、そして何よりもその考えぬかれた演出にこそ、どくんごの魅力があります。それらに我々が心をひらいていく中で、言葉が突き刺してくるわけです。そもそも人間のコミュニケーションはおそらく言語以外の部分に大きく依存をしていると思います。それはたとえば同じ内容を喋っているとしても声のトーンや速さ、さらには話し手のたたずまいや表情などによってその説得力が大きく違ってくるわけです。そんな小難しいことを言わなくても、「なんとなくこのおっさんの言うことは信頼できるな。」とか「なんとなくこのおっさんの言うことは怪しいな。。」などと、判断していることは日常の中でかなり多いのではないでしょうか。その意味で、どくんごの劇は言葉を回復していく過程を私たちに味あわせてくれます。言葉によらないコミュニケーションに基礎をおいていた私達が、しかし言葉ですべてを表現することを求められるようになったのが人類の発展の歴史であると言えるでしょう。それは、文化だけでなく、政治においても学問においてもそうであるのです(たとえば議会制民主主義というのは言葉で闘うことを前提としている以上、どれだけよどみなくしゃべることができるかがその国会議員の質とされてしまいます)。しかし、それだけ言葉が達者な人間たちが幅を利かせることが人類の歴史の一つの行きつく先であるとしても、それ以外の部分が本当に人間にとって必要ではないのか、端的に言えば「偉そうな言葉が話せれば偉いのか。」といえば、そうではないこともまた、我々は直観的に感じ取っているのではないでしょうか。どの国会議員を連れて来ても表面上立派でよく考えていそうな言葉は喋れるとして、さてそれで「このおっさんは信頼できるな。」と思えるのかどうか、ですよね。その意味で現代は言葉が支配している社会であるからこそ、その言葉の意味を額面通りに受け取ることができなくなっている社会である、といえるのではないでしょうか。(こう言うとジョージ・オーウェルの『1984年』に描かれるようなdouble speak(二重言語)を懸念するのかもしれませんが、double speakとは実は言葉が世界を支配した後に、言葉の意味を受け取れなくなった人間達に言葉の機能主義的(あるいは構造主義的)側面だけがうけとられるようになった世界に成立するものであると思います。その意味で、そのような「言葉の支配」による「意味の死」には、実は独裁的な権力はあまり必要ではないと僕は思います。)

よくある「ペンの力を信じよう。」「言葉の力を信じよう。」という言葉は、この言葉の持つ権力的側面に対して無自覚であるという意味で、僕は闘うべき問題を間違っているのだと思います。そもそも、言葉の力という意味でたかがマスコミが、法令の解釈に血道を上げては横車を通そうとする国家官僚に(能力の点でも努力の点でも)勝てるわけがないではありませんか。言葉が権力として、そしていずれは権威として機能してしまうのは、言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくからです。そして、なぜ言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくのかといえば、それは権力を追認させようとする横車に限らず、言葉の意味を取るというコミュニケーションに対して我々が疲れきっているからであるのです。言葉の意味を取るにはあまりにも我々は自己中心的にすぎる。意味を取ろうとしても、辛いだけだ。そのような失敗の積み重ねの中で、意味を取ろうとし続けることに対して、私たちは倦み疲れ、そして諦めていきます。国会での議論においてその場しのぎの答弁が多くなるのも、言葉が死んでいるからではなく、言葉しかそこにないからだと僕は思います。言葉が媒介するはずであった意味を汲み取ろうとする心の余裕が我々の中になくなればなくなるほど、言葉による議論は意味を伝え合うものではなく、結論が決まったあとに、儀礼として交わされるだけのceremonyになってしまいます。国会の空転を嘆く前に、そのように結論を全面的に見直す気持ちのない言葉のやり取りの中でどのような私達も生きているというこの現実をこそ何とかしていかなければ、国会の空転など変わるわけがないと言えるでしょう。言葉が死んでいるのではなく、言葉しか残っていないのです。そこに意味を伝え合おう、分かり合おうという姿勢がなくなっていくことが、社会が社会である必要をなくすものであると言えるでしょう。

(長くなりましたが)そして、どくんごの劇はそのように「意味を伝えよう」とか「意味をわかろう」とすることに疲れきっている私達だからこそ、心の芯にまで響いてきます。様々な点で、社会からずれた登場人物たちの、滑稽でも真剣で、だからこそ物悲しい一つ一つのモノローグは、最初は笑って見ているだけなのに、段々と、「あれ?私って、こんな風にしゃべってたかな。。」「いつからこんな風にしゃべれなくなったんだろう。。」「いや、この人達がどんなに笑われてもおかしいと思われても真剣に語るのに、私はもっとつまらないことも伝わらないと思って我慢してるのでは。。」と、どんどん自分が意味を伝えることに臆病になっていることに気付かされていきます。
あるいは、赤ん坊の「だあだあ」と一生懸命話しかけてくれることを思い出してみるのもよいかもしれません。彼ら彼女らの伝えたい内容はこちらに全く分からないにせよ、赤ん坊の言葉の拙さなど全くにすることのない健気な語りかけは、我々の心を打ちます。そして、その意味内容など全く分からないにせよ、それを「分かりたい!」と思って一生懸命に聞くようになります。そこで私達が赤ん坊に語りかけてそれに対して赤ん坊の声がまた返って来て、というそのやりとりは共感の回路を形成し、意味を伝え合いたい、と思うようになっていきます(伝わらないとしても、です)。

だからこそ、どくんごの劇を見続けていくと、「もっとその一人一人の役者さんのモノローグを聞きたい、意味をわかりたい!」とのめり込んで聞いていくようになります。もちろん、だからといって一生懸命聞いても、その場面場面のセリフの意味はわからないのですが、その中で、また彼らの意味のないと思っていた言葉の中にまた意味や符牒、脈絡が見事なまでに遠い場面をまたいで散りばめてあるので(今回の劇で言えば僕が気づいた中だけでも「蝶」「バス停」「宇宙だって…」などなどたくさんあります)、そこで再び意味を考えようという気持ちがさらに掻き立てられます。そのようにして、私たちは意味を考える勇気を、そこから進んで意味を伝えようとする勇気をどくんごの劇からinspireされるのだと思います。(さらに言えば、この「意味を聞く態勢が徐々に観客の中にできていく」中でなお、意味をストレートに伝えようとしない終盤の構成、というのが本当に考えぬかれた演出であると僕は思います。お客さんの心を開いておいて伝えたい内容をぶっこんでくるのではなく、心を開きながらもなおもそっと寄り添うというのでしょうか。一昨年や一昨々年に見た時はもうちょっとこの終盤がストレートだった気がして、それはそれで本当に素晴らしかったのですが、今回はより強い覚悟を決めて寄り添う(すなわちお客さんに委ねる)ことに決めた感じがして、よりどくんごらしいのでは、と勝手ながら感じました。そのおかげで劇を見たあとの余韻がより複雑なもの、しかし、後を引くものになっていると思います。)

もちろん、各モノローグやメインでやっている役者さん以外の様々な演出も何回もどくんごを見ていく中で何回でも楽しめるポイントです。演技なのか、演技でないのか、舞台設定も自分たちで全てやらねばならないことも演技の中に組み込み、どこからが演技でどこからが演技でないのかがわからなくなってきます。またお盆として舞台で使っていたものを月に使ったりと現実と空想との境目もわからなくなってきます。もちろんテントの中だけでなく、その外も大胆に使うということもふくめ、そのすべてが、境目をなくしては未分化の状態へと私達を投げ込み、それ故に劇場を出れば終わる「感動」ではない余韻が我々の日常生活の中にどんどん浸潤していくように思います。さらには、テントを組むことでそこで暮らす日常がどくんごのある風景になり、またテントをバラして移動すれば、そこにはどくんごがもういない、ということもまたこのような異世界感を作っている重要な要素であると思います。今回は東京の井の頭公演以外にも、待ちきれず往路の越谷公演も見ましたが、北越谷駅前の広場で開かれるどくんごは、「駅」という日常にどくんごのテントとさらには駅前にまで繰り広げられる様々な劇が本当に日常の景色を一変させてしまう、素晴らしい公演でした。それは役割を細分化され、それぞれの役割を果たすことに閉じ込められていった現代の我々、さらにはその象徴の最たるものとしての「駅」を、あざ笑うかのような、非日常の現出!という印象を受けました(まあ、そんな難しい言葉で言わなくても、駅前であのどくんごの公演(想像以上にすごい光景です!)ができるなら、もっと私たちは道端で何やってもいいんじゃない?と自由になれると思います)。

と、ここまで長々と書いてきましたが、もちろん、どくんごの劇は言葉にしきれません。(今回どくんごの皆さんとお会いして、以前の僕の感想文を過分にもほめていただけて本当にうれしかったのですが)このような本当に素晴らしいものを言葉にしようと思うたびに、自分の言葉の拙さに打ちのめされます。しかし、だからこそ、どくんごの劇を言葉で表現しようともしていかないといけないと僕は思っています。この言葉が支配する世界の中では、言葉にはならないけれども大切なものを言葉にもおとしこんでは評価していかねばならないと思うからです。それはたとえば、とても人間的に素晴らしい子たちに学歴をつけていくのと同じです。人を自分の目や頭でではなく、学歴を通じてしか評価できない人と同じように、言葉を通じてしか判断ができない人を僕は「バカ」と呼ぶわけですが、そんな人たちにもどくんごを知る入り口を作ってあげたいですよね(というと、反感を買ってしまって入り口になれない気がしますが)。ぜひここからの残りの公演にもお近くの方もそうでない方も、足を運んで実際に見ていただけたら本当に嬉しいです!来年もまた塾生を連れて、(ご迷惑でしょうが)大挙して見に行きたいと思っています。

それとともに、どくんごの劇を見て、意味を伝え合わない人間関係だけが人間関係であると思い込んでは諦めているすべての人々に、できることを徹底的にやっていくような塾であり続けたいと改めて思いを強くしました。意味を伝え合わないような関係性は、人間関係ではありません。「伝えようとして伝わらなくても、そのことがどのような齟齬や軋轢を生もうとも、それでも伝えたいと思うのは、分かり合いたいからだ!」と(どくんご風に)諦めずに取り組み続けることこそが、実は政治であれ学問であれ、あるいは他のすべてのことであれ今、必要なことなのではないか、と思っています。

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劇団どくんご2014『OUF!』東京公演の感想

劇団どくんごの東京公演、見てきました!また内容について説明するのが難しい劇ですが、しかし、その魅力に僕の言葉が耐え得ないのを覚悟の上で、感想を書きたいと思います。あのような熱量の高い、素晴らしい劇を見て、何もしゃべらないのは、言葉を持つものの怠慢であると思うからです。

「ここは双子星のうちの一つ」と登場人物が語る場面がありました。つながりが失われていることを知る前は、自分たちが失ってしまったとは思いません。つながっていたはずなのに、それを失うからこそ、悲しみが生まれてくる訳で、そもそもつながっていないときには失っていることに気づきません。最後の「田中君」のエピソードもそれと通底していると思います。このエピソードから、全体を読み解いていきたいと思います。

今回の劇は脚本がある劇、ということでしたが、去年の『君の名は』が「つながっていないようで、つながっている」作品だとしたら、今年の『OUF!』は、「つながっているようで、つながっていない」作品であると感じました。宇宙、SFという設定は共通しているものの、つながっていないのです。

山下陽光さんの「全力で30点をとりにいく」劇団だ、という評価が正しいと思います。何故、全力で30点をとりにいくのか。それは、何が100点かわからないからです。相手が求める100点が、本当に100点かどうかは、その相手が国家であろうと、あるいは人類社会全体であろうと、それらにとって100点である、ということが本当に正しいことであるかはわかりません。その「30点」に全力でこだわることの方が、実は人間社会への大きな貢献につながっているかもしれません。

それはすなわち、伝わらないものを何とか伝えようという行為であるのです。偏執狂じみた、あるいはどこかずれた一人一人の登場人物は、みな、必死に何かを伝えようとします。それは私たちにとって、伝わらないのに必死にそれに取り組む彼らを見て、その滑稽さ、ベルクソンの『笑い』のような機械運動が生の現実を外れて、自動運動に入るとき、(その存在意義を見失うという意味で)我々は滑稽さをそこに感じるのだ、という、あれです。しかし、どくんごの一つ一つの場面は、滑稽さだけを湛えているのではありません。彼らが必死に伝えようとしている姿勢に私たちは心を打たれます。なぜなら、それはある特定のディスコミュニケーションを描いているのではなく、伝わらないけれども、懸命に伝えようとする、というその姿勢こそが、コミュニケーションの本質を体現しているからであるのだ、と思います。

私たち自身が親しい友人や家族、それどころか大志を共有できるような同志のような存在の友人と腹を割って会話をしているときにでもなお残る、互いに理解できない部分に対して、どうしても私たちは足を踏み入れることを恐れがちです。そこに踏み込んでしまえば、結局お互いにけんか別れするしかなくなるのではないか、けんか別れをしてまた新たな友人とここまでの関係が果たして持てるだろうか、という逡巡のもとに、結局私たちは本当に一番親しい友人の、しかし、ここから先は自分には理解できないという一線を超えて踏み込むことを諦めていることが多いのではないでしょうか。相手に対して、遠慮しては踏み込めないだけでなく、少なくとも自分にはそういった理解され得ない部分が存在するという事実をこちらから親しい相手に話すことすら、なかなかできていないのではないでしょうか。

もちろん、このおかげでうまく行っていることも山ほどあります。小異を捨てて、大同につくのは政治や社会活動の基本であるでしょうし、あまりにも異なる一人一人の違いに拘泥すれば、それこそセクト主義になってしまって、ごくわずかな差異を巡っての、絶え間ない相互攻撃しか生み出さないかもしれません。その意味で、我々は皆、異端としての心を持ちながらも、しかしそれをどこかカミングアウトできずに生きている、と言えるでしょう。セクト主義への恐怖故に、自らが独自の意見を持つことを恐れ、そしてそれを隠している。このような姿勢には相手の異端としての部分を理解できないという恐怖以上に、自分の異端としての部分を理解され得ないことへの恐怖が大きな原因となっているのだと思います。

もちろん、そのような動機に支配されない人々もいます。それは、「狂人」です。彼ら、彼女らは決して
相手におもねることなく、自分の言いたいことを言い続けているでしょう。もちろん、この「狂人」というのは
世間的に見て、ということであり、人々に理解しがたい(がしかし、優れている)内容を語る、という意味ではイエスやその他の思想家、革命家達も「狂人」であるといえるでしょう。

ここまでを踏まえて、どくんごの劇に戻りましょう。
どくんごの劇において、各場面での一人一人は、懸命に彼らの思いを伝えようとします。その懸命さ、その彼らの確信は、社会的コミュニケーションに慣れきった私たちにとって、その彼らのコミュニケーションの稚拙さ、現実からの乖離は笑いの対象でしかありません。「この社会の中でうまくやっている私たち」に比べて、何と愚かなもの達か!という優越感さえ感じさせてくれます。その意味ではまさに「道化」を演じているように最初は感じてしまいます。しかし、様々な場面で、様々な登場人物達が彼らの思いを必死に伝えようとしているのを見ているうちに、自分の中の「社会的コミュニケーション」が実はコミュニケーション本来のもつエネルギーを失っていることを徐々に思い知らされてくるのです。
聞いてもらえないなら、話さない。聞いてもらっても、わかってもらえないのなら、話したくはない。そのように、私たち一人一人が「自分語り」を諦めて、生きていることを振り返るきっかけを、彼ら一人一人が与えてくれます。このどくんごのテントに集まる我々は、「狂人」を見に来ているようで、実はどちらが狂人かがわからなくなります。自分を見失い、コミュニケーションを諦めている私たちは確かに「100点」「90点」とこの社会の中でされているものをとっているのかもしれないが、しかし、それは「30点」を全力でとっている彼らに、胸を張れるような振る舞いであるのか。そのような問いが、つきつけられます。

去年に見たときも感じましたが、そういう意味で、どくんごの劇への反応は見事にまっぷたつに別れると僕は思っています。それは100点や90点とされるものを踏まえていないことに不満を感じる人間と、それに固執していた自分を笑い飛ばせる人間と、にです。人類の歴史が様々な文化や制度を生み出し、それが長い年月の間に蓄積され、一つの見るべき形になったとはいえ、それは唯一の正解ではありません。どくんごの劇は、その意味が組み立てられていった結果として社会の中でがんじがらめになって生きる私たちを、その意味が成立する前の太古の原初へと立ち返らせてくれ、意味を初めから、考えていくことを促してくれます。自分の思いが恥ずかしいものであれ、理解されないものであれ、それを伝えようとしていいのだ、と強く励まされます。
その、人類社会が積み重ねてきては、自分の中に堆積してきた様々な偏見が引きはがされていくことを快感と感じずに苦痛と感じる人にとっては、つらいかもしれません。

聞いてもらえない、あるいは聞いてもらえても理解されないからしゃべらないのではなく、聞いてもらえなくても、あるいは相手がどんなに一生懸命聞いてくれてもなお理解されないという悲劇の中に我々が生きているとしても、それでもなお私達は自分の中の「異端」を話していかねばならない、という責任感をどこかに持ち続けているのではないでしょうか。それは、「自分が相手に理解される」という心地よい心理的報酬のため、という動機を諦めた後に、相手を愛する、ということにつながります。まるで、人類が自らの言葉を理解できずに自らを迫害する、とわかっていて、それでも話したイエスのように。そして、そのような迫害は、決して昔々の愚かな人類だけが犯してしまった過ちでは決してありません。現在もなお、同じように理解の範疇を超えているが故の迫害は続いていると言えるでしょう。

ここまで話を広げなくても、どくんごの劇は、様々なレベルで「伝わらないから、諦めてきた。」という私たちの悲しい諦めを揺り動かし、勇気を与えてくれます。それは、まるで、生まれたばかりの赤ん坊がまだ言葉を覚える前に、声を出したり、泣いたり、じたばたしたり、懸命に何かを伝えようとする、あの姿に似ているのだと思います。私たちは、言葉を覚え、うまく嘘までつけるようにもなりました。しかし、伝わるかどうかわからないとしても、伝えようとするあの赤子の一生懸命さを、それらの手管を覚えれば覚えるほどに、自分を傷つけない為にもたないようにしてきてしまったと言えるでしょう。彼ら彼女ら赤子が、伝えられるかどうかを少しも不安に思わず、伝えたいという思いだけから様々な働きかけをする、あの姿勢に、私たちは勇気づけられます。どくんごの劇は、意味と無意味の間を自在に飛び越えながら、自分の外の社会の不自由を内在化しては、伝わらない言葉はしゃべらないようにしよう、と悲しい決意をもつ私たちに、それが唯一の可能性ではないのだ、ということを優しく教えてくれるようです。

私たちは、こんなにまで社会の規範を内面化し、自分が言いたいことも言えないままにぐっと我慢しては物わかりの良い人として生きていかなくたってよいのではないか。相手を思いやることも愛だとしても、自分の中に確かに感じるこの感情、この思想、この衝動、その他諸々を表現しようとすることもまた、愛なのではないだろうか。

切り離された双子星の一つとして、外界から切り離されたこの地球という牢獄の中で、私たちは失ったものにしか
気づくことなく、鈍感ながらも生きている訳です。しかし、それでもなお、失ったものには気づくことができる。
それに気づきさえすれば、ほんの少し勇気を出して、伝わらないかもしれない言葉をぽつり、ぽつり、と話していくことができるかもしれません。

と、ここまで書き連ねてきても、うまく説明できている気がしません。まあ、でも、よいのです。
どくんごの劇を見て、誰でも何かを語りたくなる、ということ自体が、どくんごの皆さんがやっていることの
本当の凄さであるわけですから。今年も素晴らしい劇を、本当にありがとうございました。

(ようやく書き上げて初めて、来年のどくんごの旅がおやすみになるということを知り、ショックを受けていると共に「やはりそうか。」という気持ちがあります。本当に素晴らしいものは、どくんごに限らず、長く続けるのが本当に難しいものです。あのような厳しい旅を毎年続ける、ということのものすごさと共に、その困難さは外から想像できる以上のものであるのだと思います。再来年の旅を心から楽しみに待つとともに、その劇団の皆さんの凄まじい努力に恥ずかしくない何かをまた再来年持ち寄れるように、頑張りたいと思います。)

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どくんごの感想追記:坂口安吾の『茶番に寄せて』と江頭2:50さんと道化の概念

ご無沙汰しております。塾はきわめて忙しいながらも、元気にやっております。

以前に劇団どくんごの公演を見た際に、どくんごの劇を拙い言葉でなんとか表現しようとしてみましたが、
坂口安吾の『茶番に寄せて』を読んでいる際に、これはどくんごの劇評としてぴったりなのではないか、と思うようなくだりを見つけたので、長くなりますが、ご紹介します。


(以下引用)
(前略)正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶のうちにそっくり昇天させようというのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了(しま)おうというわけである。
(中略)
だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に不合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは合理の国で悪銭苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突き出したのである。
(以下略、引用ここまで)


まさに劇団どくんごの劇はこのような舞台であるがゆえに、われわれが存在し、必死に努力する毎日の悲しみとおかしみ、そして喜びを表していたのだと思います。それとともに、ナンセンスがナンセンスとして意味を持つためには、そこまでの懸命な意味を追求する努力がなければならない、ということをここまで明確にテーマ化できている文章があろうとは。坂口安吾のこの『茶番に寄せて』は、小品ながらすばらしい文章です。Kindleでも無料で読めるので、ぜひ読んでみていただけると嬉しいです。

ちなみに、この文章を塾で説明するときには芸人の江頭2:50さんのことを例に出しながら、「江頭さんがみんなを笑わせようと必死に努力しても全く笑わせることができず、切羽詰まってタイツを脱ぐ。そのとき、戦い破れた合理精神が非合理を丸ごと受け入れて、道化となり、笑いが生まれるのだ!あれは最初からタイツを脱いでも全く面白くないし、中途半端な努力で笑わせようとしてから途中で脱いでもダメだ。誰よりも必死に笑わせようとして、でも笑わせられず、切羽詰まってタイツを脱ぐから、大きな笑いが生まれるのだ!」と話しました。だいぶうまく説明できたと思ったのですが、「タイツを脱ぐ」ところばかりが、印象に残ってしまって、よく理解してもらえなかったかもしれません。まったく、合理精神というものは、戦い破れてばかりのようです。まあ、めげずに少しでも正しい説明へと漸近していきたいと思います。


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劇団どくんご『君の名は』東京公演の感想

「意味は無意味、無意味は意味。無意味は無意味で、意味は意味。」

先日、吉祥寺の井の頭公園で劇団どくんごの東京公演を見てきました。どくんご自体はそれこそ5,6年前から存在を知っていて、是非見に行きたいと思い続けていたのですが、子供が小さいこと、夜に野外でやること、公演地も遠くが多いことでなかなか見に行けないことが続いていました。ということで、最近多忙にかまけてチェックを忘れていたのですが、ひょんなことから井の頭公園でやっていることを知り、慌ててチケットを取り、(受験生を除いて)卒塾生でも演劇に興味ありそうな子には連絡して伝えたり、などしてようやく見ることができました。(佐々木敦さんのツイートで有名になったのか、予約は一杯で、キャンセル待ちのお客さんも多かったようです。)

劇は、本当に素晴らしかったです。感動と「また何回も見たい!」との思いで、この1,2週間は大変でした。塾さえなければ、どくんごを追っかけて、何回でも見たいと思いました。それ以上に、彼らがこの30年間もこういう芝居をずっと、それこそ手弁当で続けてきたという事実に僕は打たれました。これほど高密度の、これほど熱量の高い劇を作り込み、しかもそれが商業ベースに乗らなければ乗らないで、自分たちでバイトをしてでも公演を続けてきた、という事実の重みに、ただただ頭が下がる思いです。

既存の道に可能性がないのなら、自分で作ればよい。という思いをここまで当たり前のこととして取り組み続け、かといってそのように歩む自分たちの取り組みに酔うことなく徹底的に「質」を高めていくというこの劇団どくんごの姿勢に本当に心を打たれました。こう言うと何か、まじめで難しいように聞こえてしまいますが、笑えて楽しい劇なのです。実際、僕の子供達もげらげら笑っていました。だけれども、そこにかける作り込みのすごさ、さらにはその作り込み自体が全く押しつけがましくなく、「気付かないなら気付かないでよい」というスタンスを徹底しているその自然さ、何もかもが尋常ではない努力を感じさせられます。そして、同じような道を歩み続けようと思っている(演劇を、ということではありません。大多数の人々に理解されにくいとしても、大切なことは譲れないという仕事を、です)僕自身にとって、非常に励まされると共に、まだまだ自分の取り組みの中で独りよがりな部分、理解されない道で努力しているから、という理由で自分の努力を甘く評価しがちなその甘さに対しても深く反省させられました。自分の人生に苦闘し、頑張っている人には必見の劇だと思います(今度は名古屋公演、その後はだんだん西へと移動していくようです詳しくは、こちらから)。

と、ここで終えると自分が傷つかないで済むわけですが、「見たら感動して人にお薦めできるけど、どう良いかを人に説明するのがきわめて難しい」どくんごの劇の内容についても僕なりの解釈を書きたいと思います。もちろん、一度しか見てないので全てを汲み尽くせるわけは当然ないですし、「どくんごがこの時代に存在すること自体がそもそも意義があるのだ。」という外山恒一さんの解釈ももちろんきわめて正しいわけですが、かと言って内容について誰もがしゃべらなくなってしまうのは僕はやはりよくないと思うので、拙いながらも「どくんご試論」を書きたいと思います。

どくんごで見た劇を頭の中で反芻しているときに僕が強く思い出したのは、やはりシェークスピアの『マクベス』の魔女の台詞「Fair is foul, and foul is fair …」のくだりでした(この話はこのブログでも何回かしてますよね。ワンパターンですみません)。この言葉が我々を既成概念に縛られている日常から我々を自由にし、価値の転倒を引き起こす(そしてそれは、逆説的だがしかしきわめて正しい事実を表している)役割を担っているのだとしたら、一般の不条理劇というのは、「意味は無意味、無意味は意味」という姿勢で観客の価値観の動揺を引き起こし、そこによって日常の常識に凝り固まった偏見を疑わせる、ということを目的にしたものであると思います。
即ち、それは「メッセージ」というもの自体が本来持つ暴力性を暴くことに焦点を合わせたものではないでしょうか。
 
 しかし、どくんごの劇はそこで終わらない。様々なナンセンス、ひどく凝り固まっているがゆえに真剣に取り組んでいることが現実とずれ、そこにおかしみと悲しみとを体現する(この辺りはベルグソンの『笑い』にまさに通じるところです。あるいは江頭2:50さんの芸風とも。真剣だからこそ、そして、それが現実とずれているからこそ、そこに悲哀とユーモアが立ち上る。)人々の場面を描きながらも、観客は、やがて気付かされていきます。「あれ?これは、私たちなのではないか?」と。

先の言葉とつなげれば、「意味は無意味、無意味は意味。」だけでなく、その後に「無意味は無意味、意味は意味。」とつながっているのが、どくんごの劇だと思います。そこには「意味は無意味、無意味は意味。」とメッセージの暴力性を破壊した後に、(そのことから普通陥りがちな)「一切は無意味だ」と決めつけるニヒリズムを超えて、しかし、「無意味は無意味であり、意味は意味である。少なくとも私たちはその両者を選んで良いのだ」という自由を見せてくれます。

「自由」という言葉を使いました。しかし、これは恐ろしいものです。硬直的な「意味は意味、無意味は無意味」という大多数の思考停止と判断放棄も、それは自分で解釈する余地を残してしまえば、責任を取らねばならないという「自由」を恐れるがあまりの硬直化でしょう。あるいは、「無意味は意味、意味は無意味」というナンセンス礼賛、あるいはそこから生じるニヒリズムもまた同じものです。「メッセージの暴力性、定義され終えた意味の暴力性を批判していさえすれば自由だ」という発想自体は、それがどのようにその暴力性に虐げられてきたが故の態度であれ、やはり別の硬直化を招いていると言えるでしょう。

どくんごの劇はそのどちらも、超えていきます。無意味に思えることにこだわる劇中人物に、親しみといとおしみを感じさせ、意味があると思われる台詞と動きの横に、無意味な機械的運動をとりまぜ、我々が無意味と感じるものを頭では排除しながらもいかに、意味以外の部分で判断し、生きているかを感じさせます。それと共に、我々が意味と考えているものがいかに無意味なものに我々自身が貼り付けたレッテルでしかないこともまた、感じさせます。その上で、最後の場面では狂人の戯言としか思えていなかったものにも、深い意味を見出すことができることを、突きつけて行きます。そこで、私たちは気付かされるわけです。ある時代の常識は、別の時代の非常識であり、地球の常識は宇宙の非常識であるかも知れず、我々が定型的に判断しているその全てが実は、正しいもの、意味があるものにはなりえないのだということを。そして、何が正しいのか、何が意味があるのかなどは、誰にも分からないのだということを。別の時代、別の星からみればきわめて無意味な、滑稽なことに懸命に生きる我らは、劇中のどこかずれたことに懸命にこだわる彼らと同じであるのかも知れないということを。

しかし、どくんごの劇はただその批評性の根源的鋭さにとどまるのではありません。私たち自身の、そのような絶対的に立脚する基盤のない、標(しるべ)なき人生を歩まねばならない運命への共感に満ちています。押しつけるのでもなく、諭すのでもなく、攻撃するのでもなく、必死に生きる全ての者に寄り添った上で、彼らの劇はこう問いかけるかのようです。

「意味は無意味、無意味は意味。かといって無意味は無意味だし、意味は意味。さて、あなたはどれを選ぶ?」

もちろん、それはどの選択肢かが正解であるというわけでは、全くありません。正解など、誰にも分かるわけがありません。ただ、「それを自分で選ぼうよ。たった一度しかない君の人生なのだから、誰かのせいにしている暇はないよ。」ということです。「君の夢は、君しか見れない。」「僕の夢は、僕しか見れない。」という最後の場面での繰り返しは、私たちが確かな外部(神や国家、思想、科学その他何でもです)に依拠することは永遠に出来ないのだという絶望と、しかしそれは何よりも大きな希望でもある、ということの現れであるように思いました。自分のことを根源的には誰にも理解してもらえるはずがない、という社会的な絶望は、しかし、敗北と失敗にまみれるこの人類の歴史の中に、それでも自分が人生を懸けて取り組むべきテーマはある、少なくとも我々一人一人が違う夢を見て生きている以上は、という希望の裏返しであるのだと思います。

まあ、これもまた、僕の勝手な解釈であり、僕の「夢」であるのでしょう。「僕の夢は、僕にしか見えない。」正邪や正誤を判断する前に、まずはその夢の意味を一人一人が考え抜くことが大切だと思います。

ゲーデルの「不完全性定理」もまた、同時代の数学者を何人も自殺においやったとはいえ、それは絶望ではなく、希望であるのです。無矛盾性をを公理系の内部からは示すことができないからこそ、希望があるわけです。ここまでの数学全体も、あるいは人間の科学や思想の全体もまた、人類が見てきた一つの夢かもしれない。だからこそ、そこに価値を置くかどうかは、どこまでいっても一人一人の人間の判断が必要になる、という意味でそれは希望であるのです。

劇団どくんごの劇は、是非お薦めです。こんな小難しいことを言わないでも、誰でも見た後に、見る前よりも、自由になれることは確かです。もちろん、その新たに生じた「自由」を、見た人がうれしがるか、嫌がるかは人によって分かれるでしょうが。

来年、また東京公演があれば、是非見に行きたいと思います。

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