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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

魂を、売れ。

私立大受験も大詰めで、早慶の入試がこれから始まります。その後はすぐに国公立前期入試です。もちろん都立高入試もあります。一年の集大成のこの時期だからこそ、一人一人の受験生が最後まで力を尽くせるように、こちらも朝から晩まで塾に缶詰状態で、さらにはその前や帰宅してからも添削に追われる毎日です。(今日は(この後の最終盤のために)一ヶ月ぶりに塾に来て教えない(しかし添削はする)オフの日にしようと思ったのですが、「面接の練習を入試直前にしたい!」とのことで朝から塾に来たものの、それをすっぽかされてブログを書いています。ちなみに、すっぽかされ、裏切られ続けることが教育の実践でもあると思っていますのでノーダメージです!)

さて。どうしてもこの時期は受験についての話題が増えてしまうので、別の話題を。
先日卒塾生の披露宴に参加した際に、他の卒塾生と色々と話しました。僕自身、他人と話すときに雑談というものができないので、どうしても話す内容となると進路相談、人生相談、人間関係の相談など、その子達の今抱えている悩みに対して、僕から言えることがないか、というしんどい話ばかりになります。

その中である一人の卒塾生に「魂を、売れ。」という話をしました。これはどういうことかというと、何か一つに人生を懸けている人間には、何もかもをできようとする人間は決してかなわない、という話です。

世の中には「万能の天才」信仰というものが根強くあります。あるいは、このように学問も技術も高度に発達したがゆえに細分化され、たとえば世界最高の数学者ですら数学の全体像は見渡せないこの時代においては、この信仰というのがダ・ヴィンチの時代を「失われた理想」として強化されているのかもしれません。

あるいはそんな遠くを見なくても、学校生活においては「文武両道」がいまだにもてはやされます。どの親御さんも自分の子供が勉強ができるのはもちろん望むとして、スポーツや楽器や委員会活動やその他なにか他のことも(より高いレベルで)できればできるほどに「自慢の子供」であるように思うでしょう。

医学部在学中に司法試験に合格する学生もいます。サラリと東大に入った上で音楽でプロになる人もいます。また逆のパターンで何かのプロになるためのトレーニングを幼少期から積んできた中でその道を断念せざるを得ずに大学受験で難関大学に入る人もいます。これらはある意味当たり前で、一定以上の量の努力ができること、その努力を結果へとつなげる方法論の構築、そのような忍耐によって得られる成功体験への確信、というものが揃っていれば、ある分野で結果を出せる人間が他の分野でも結果を出せることは自明であるからです。

しかし、このような「文武両道」「万能の天才」感におぼれて、「自分には何でもやればできる!」と思ってしまうと、その人の人生は非常に惨めなものになります。結局人生においては、何か一つのことに「魂を売」っている人間には敵うわけがないからです。その事実に気づかないままに、キャリアを華々しく、あるいは自分の「能力」を華々しく身に着けていこうとする人間ほどに、偽物になるしか道がなくなります。そうなってしまえば、自分を偽物であると自覚したままにそのような目先に騙される人々を騙す詐欺師になるか、あるいは自分を偽物であるとは自覚しないままにピエロとして生きていくしかない、という悲喜劇になってしまうと言えるでしょう。

恐らく、このような記述には誤解が生じると思います。「専門家には勝てない」的な理解をされてしまいがちかと。しかし、僕は専門家であっても、何かができるわけではない、と思っています。学問であれ、技術であれ、芸能であれ、職人であれ、どのような世界においても一つのことに専心し、そのために人生を徹底的に費やしてでもなお、できることは本当に少なく無力さを味合わされるしかないのが人生であると思っています。他者と比較して「あいつよりはできる!」「この業界では上位だ!」と言ったとしても、客観的に見れば大したことはできません。イチローですら、6割以上は失敗なわけですから。だから、専門家に何かができるわけではありません。専門家にも何もできないし、専門家でない人にも何もできない。この両者は何もできない、という意味では対等であると言えるでしょう。その中で多少の誤差はあるとしても、しかし本当に微々たる誤差であるとは思います。しかし、その「何もできない」自分の無力さをどのように捉えるか、というところで態度が変わらざるを得ないのが、専門家と専門家でない人の違いである、と思います。(ちなみに、なのですがここでは「専門家」を「その分野で飯を食っている人」という意味では使っていません。世の中にはお金を稼ぎやすい分野と稼ぎにくい分野があるからこそ、自分が「魂を売る」分野がたまたま稼ぎにくい分野であれば、生計を立てるための職業につかざるを得ず、見た目は「兼業」にならざるを得ないからです。しかし、むしろこのような場合にはその分野で生計を立てている人よりもはるかに、その分野に「魂を売っている」人が多いこともまた事実です。主に俳優とか音楽家、舞踏家、芸術家、あるいは在野の研究者は皆このたぐいの「魂を売っている」人たちです。)

あることに「魂を売っている」人間にとって、それができないという事実は自分という存在の全否定であり、どうにも避けられない事実です。その絶望を何かで紛らわすことはできません。それに対して、様々なことができるという人間にとってある分野でできないことは、避けることのできる事実であるように思えてしまいます。そして、自分という存在が全否定されることにどのように向き合い、どのようにそれを乗り越えようともがいていくかのみが人間の価値である以上、自己を全否定しないで生きていくことのできる人間が全否定をせざるをえない人間よりも素晴らしい何かを生み出せるわけがありません。それは自明のことであると思います。

であれば、何かに「魂を売る」ことを決めている子たちにとって、受験勉強など無駄なものです。先に言ったように、自分が魂を売る分野が生計を立てることが難しい分野である場合に、生計を立てながらそれを続けていくために必要であることくらいでしょうか。しかし、ほとんどの高校生はそのように自分が「魂を売る」べき対象を未だ見つけられていないのが一般的です。そのような際には、受験勉強は一つのトレーニングになります。努力をすること、努力を結果へと結びつけるための方法論、その上でそれを続けていけば成功できるという成功体験への確信。それはいずれ自分が魂を売るべき対象を見つけたときに、必ずプラスになるでしょう。

もちろん、受験勉強の弊害としては「何かに魂を売る」という決断をしなかったとしても、それなりに「成功」を得られてしまう、という歪んだ成功体験を得てしまうことがあると思います。いわゆる東大生や医学部生、あるいはその出身者の何もできず、何も知らない自身を省みることのない「全能感」を引きずった、イタい状態というのは、本当に見ていて恥ずかしいものです。端的に言えば、それは一つの成功であるとはいえ、その後の人生すべてで成功を保証するものではありません。というより、どのように優秀でどのように努力を惜しまない人であったとしても、一つの分野に魂を売っては人生のすべてを注ぎ込んだとしても達成できるものはごく僅かであり、失敗に次ぐ失敗の連続であるのです。人生のすべてを彫刻に捧げ続けた彫刻家のジャコメッティは最晩年に、「あと1000年生きたい。あと1000年あれば、私の彫刻も少しはまともなものになるはずなのに。」と言いました。問題はそのように「失敗」を感じ続けることができるか、絶望を感じ続けることができるか、です。

失敗を感じ続けられ、絶望を感じ続けられる中でそれに対してどう抗い続けるかを模索する人生だけが、人間として死んでいく唯一の道である、と思います。そしてそのためには、自分に何ができるかを探し続けた上で、どこかの時点で自分は何に魂を売るのかを考えては自分の退路を絶たねばなりません。

これに関しては僕自身の幼少期を振り返っても苦い思いが残ります。僕はなにかに魂を売ることなく、何もかもをできることが自分の自由に繋がる、と思って生きていた子供でした。それは自身の臆病さだけでなく、この世界の(学問的)細分化への嫌悪感、専門職への社会的高評価への疑い、細分化された社会による人間疎外への懸念など、個々を見れば首肯すべき要素はあったものの、結果として自身の人生を「分化」させること、即ち魂を売っては一つの「歯車」(それが「勝ち組」であれ、「負け組」であれ。総理大臣ですら、一つの歯車です。)になってしまうことへの恐れを温存しすぎてしまっていたと思っています。それはある意味で魂を既に売っている同年代の友達から見れば、卑怯な立ち位置であったと思っています。そのような自分への苦い思いから、教育へと「魂を売る」ことを決意し、ただの一教育者として死んでいくことを決意してもがき始めてから20年以上が立ちますが、いまだに失敗ばかりです。

恐らく、その一つ一つの失敗をどのように乗り越えようか、というこの僕の人生は失敗続きで終わることが予定されています。どのように工夫し、どのように努力しても自分の無力さを思い知らされ続ける毎日でしょう。それでも僕は努力を続けることを辞めはしないし、そのように「失敗」として終わっていく自分の人生を、「失敗を感じとり、失敗し続けられた」という意味では幸せである、と定義したいと思っています。僕にとってはたとえばベートーベンの第九も、「喜びを謳った歌」ではなく、「この苦難や滑稽さにまろび続ける自らの人生を「喜び」と定義しよう!」という定義の歌であると感じ取れれるように、ですね。

今年も最後まですべての失敗を自分の失敗として捉え続けられるように、必死に闘い抜きたいと思います。そして、
このようにともにもがき合う受験生たちの一人一人が、いずれは「魂を売れる」人生を生きられるように。その思いを込めて必死にやっていきたいと思います。

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結婚式のスピーチ

昨日、卒塾生の結婚式に参加してきました!本当に素晴らしい結婚式でした!
そこで読んだ僕のスピーチをこちらにも載せます。

(スピーチここから)
ただいまご紹介にあずかりました、新婦、Sさんの通っていた塾を主催する柳原と申します。
このたびは、Hくん、Sさん、ご結婚おめでとうございます。
ご両家のご両親はじめ、ご親族のみなさま、心より御祝いを申し上げます。
と、ここまでは型を踏まえてみたのですが、「型を踏まえる」という行為は真情の吐露を避けるためになされることが多いのかもしれません。ここからはいつもどおりに話したいと思います。

さて、Sさんを教え始めたのは彼女が高2のときからですが、その当時から「この子はただものではない。」と思っていました。飛び抜けて輝く個性や人格、才能とともに、どうにもアンバランスで危うい全体。そのSさんに対して、自分に何ができるのか。それは僕にとっても日々自問自答しながら教える日々でした。

「世の中とは残念ながらこういう風になってしまっている。その中で君がどう生き抜くかを考え、準備していかねばならない…」と戦略的に生き延びていくことを彼女に語るとき、そのような陳腐な戦略を説くことが彼女の天才性を抑えつけることになってしまってはいないだろうか。僕は常にそのように恐れおののきながら教えていました。自分のやっていることは、天駆ける可能性を持つ才能につまらない鎖をつけるだけのことではないかと。

幸いなことに、彼女は努力して自分自身の道を切り開いただけではなく、世間的「成功」にとらわれることなく、伸びやかに成長していきました。先程僕について「恩師」とご紹介を受けたかもしれませんが、Sさんはあらゆることにセンスオブワンダーを見出し、誰であっても自らの教師として学ぶ力があります。そのうちの一人が僕に過ぎなかったということです。

そのようなSさんがHくんと付き合い始められたことは本当に素晴らしいことでした。Hくんの包容力がSさんにとっては確かに必要であり、またSさんの感性がHくんには必要であると思います。その事実をお互いに理解し合い、互いに違うタイプの人間同士であるからこそ互いの存在をかけがえがないと感じて付き合い続けておられるお二人は、本当に誰もが認めるベストカップルであると思います。

しかし、です。そのようなお二人にも、「互いに違う人間である」という事実に直面するときが、いずれ来るかもしれません。どのように思いやろうとも、違う人格として生きる相手を本当の意味で理解できることはないのかもしれません。そのようなときのために、有島武郎のこの言葉を贈りたいと思います。

昔の私の信仰の友の中には、今でも私の為めに熱実な祈をして下さる人のあるのを聞かされる。その祈を私は信ずる事が出来ない。しかしその祈を祈るやさしい心を私はしみじみ有難く感ずる。それは私を引き上げる。私の心を明るくする。少くともあなた方と私とは信仰で結ばれずとも心で結ばれている。それだけで今は満足してください。/これから独りで出懸けます。左様なら。(『リビングストン伝 第四版序文』から)

相手への愛ゆえの働きかけが、お互いを傷つけ合い、相手の信じているものが自分には信じられないと思ったとしても、それでも相手を思う気持ちを持ち続けることだけは、心で結ばれる可能性を確かに準備しているはずです。互いに理解はできないかもしれません。それでも心を寄せ合い、思いをやり続けることはできます。そのことを信じ続けてほしい。そのように願っています。

心なき型ばかりが溢れるこの世界の中で、お二人が結婚という名の「型」に、どのように懸命に心を込めていこうとするのか。その難しい取り組みへと勇気を持って踏み込もうとするお二人に、心からの祝福と励ましを送りたいと思います。本当におめでとうございます。

ご清聴ありがとうございました。
(スピーチここまで)

結婚する二人のためにどのような言葉を届けたいか、という思いだけで一心に書いたのに、書き上がったものを自分でチェックすれば祝辞にはNGのワードばかりという。。なんていうか呼吸をしているだけで誰かを傷つけざるを得ない自分の人生の悲しみを感じました。

しかし、死までの過程の中に生があり、別れまでの過程の中に愛があるからこそ、別れを語らずして愛を語ったり、死を語らずして生を語るのは人間の自分勝手な妄想に現実を従えてしまう傲慢な態度でしかないと思います。

そんなうわっつらで嘘っぱちな言葉なんか望んでないだろう!とこれを読んだのですが、新婦のご両親への手紙が期待をはるかに上回るラディカルで素晴らしいもので、最高でした。彼女を信頼して自分のスピーチを「消毒」してしまわなくて、本当に良かった!まあ、司会進行役の方には泡を食わせてしまい、申し訳なかったのですが。(最後の新婦の手紙が一番ラディカルで、司会の方が「お前が一番そうするんかい!」と突っ込みたそうに見えました。)

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見守る、ということ。

塾でお子さんをお預かりして鍛える中で一番多い悩みは、どの親御さんも愛情が強すぎる、ということです。こう書くとまるで「もっと子供を放ったらかせ!」と言っているようで語弊があるのですが、愛情が強すぎるとどうしても我が子に失敗をさせたくない、失敗をする前に何とか成功に導けないか、と先回り、先回りをしていくようになります。

しかし、人間というのは愚かなもので、手痛い失敗をして初めて自分の身につくことが多い以上、このように「転ばぬ先の杖」を徹底すれば徹底するほどに、そのように様々なことをarrangeされて育つ子達というのは、どうしても「考えなくて良い」部分を自分の人生に作ってしまっているからこそ、何が必要かがわからないままに言われたとおりの努力をすることになってしまいます。

たとえば受験勉強というのもそのようなツールとしてまさに人生を失敗しないための「転ばぬ先の杖」としてみんなが取り組んでいるわけですが、面白いものでその「転ばぬ先の杖」としての受験勉強の中では、「どれだけ多くの失敗をしたか」が受験生にとっては血肉となっていきます。逆に言えば、自分で試行錯誤を重ねる前に「正しい方法」を知りたがる受験生ほどに、力が伸びないことになります。

そしてそのような悪循環に陥っている子たちのためにこちらでいろいろな工夫をしていくときには、「失敗を叱らない」ということが一番大切です。自分がチャレンジをして失敗したとき、というのはその失敗の中にこそ自分が学ぶことのできる最良の教材があります。それなのに周りの大人が責めたり不快感を表明したり叱責したり、と子供に対して自分の感情のはけ口を求めて色々とぶつけてしまえば、子どもたちは失敗を味わうことができなくなり、失敗は「見つかったら叱られるから隠した方がよいもの」という誤った学習をしてしまうことになります。

子どもたちが失敗を味わえるように、大人たちは子どもたちの失敗を決してあげつらわないこと、そして子どもたちがその失敗を「自分の失敗」であると認識し、次にその失敗をしないためにはどうしたらよいかを真剣に悩むとき、それに対して何かしらアドバイスを必死に考えること。それらが大人が子どもたちにできる数少ないことではないかと思います。

どこまで子どもたちの「失敗」に対して見守ることができるか、というその一つ一つに親や教師が鍛えられていくようにも思います。子どもたちが自分の人生を生きられる力をつけていくためには、子どもたちが自分の人生を自分のものだと思わねばなりません。そしてそのためには、彼らの失敗を彼ら自身が失敗だと認識していかねばなりません。これだけ書くと当たり前のことなのですが、これが当たり前ではないことが非常に多く、そこが結局この社会の中で「自然」を回復するために様々な工夫を必要とする、というルソーの社会契約論を想起させられるなあと日々感じています。

見守り、そして鍛えていけるように頑張っていきたいと思います。

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絶望をする前に。

入試において一番大切なことは、絶望をしないことです。
過去には(2日制の入試で)「もう今日の試験で失敗したので、明日は受けずに東京に帰ります。」という生徒を2年連続で電話で必死に説得して、次の日の入試を受けさせた経験もあります(しかも二人とも阪大医学部に受かりました!)。

このように明確に言葉に出してくれればまだこちらも対処のしようがあるのですが、ある教科の試験ができなくて、もう無理だと落ち込んでしまい、そして次の教科に対しては全く集中ができずにボロボロになってしまう、ということはどうしても毎年起きてしまいます。

それを防ぐためには、「最後まで諦めるな!」とか「受験は最後まで諦めない受験生が合格する!」と言い聞かせるだけでなく、まずは生徒たちに、より正しい現実を認識できるように鍛えていく必要があります。

即ち、自分がある教科をできなかったとしてその理由は
①その教科のテストが難しい。
②難しくはないが、自分が失敗してできなかった。
③難しくはないし、失敗をしてもいないが実力がなくてできなかった。
の3つの場合があります。

①の場合には、自分ができないことを全く気にする必要はなく、みんなもできていない以上、この次の科目で頑張れば
それで合格に近づくことになります。
②の場合には、そこで他の受験生と比べてビハインドはできてしまいましたが、しかし、それをクヨクヨしても失敗した教科の点数が上がるわけではないので、次の教科のテストの準備をしたほうがよいことになります。
③の場合には、そもそもどの教科も自分の実力が足りなくて受けている受験生は元からサボっている受験生ですから、何かしらできる教科があるはずです。先程できなかった教科が終わった状況で残っている教科は自分にとっては比較的得意な教科である可能性が高いのですから、次の教科のテストに集中すべきです。

このように、どの場合であったとしても、この状況でやるべきことは、「次の教科を頑張る」ことでしかありません。それが自分の中でどれほどあたり前のこととして定着しているかによって、このような状況での対応力が変わってきます。

とサラサラと書いてきたのですが、では嚮心塾ではそれをしっかりと説明しているから、そのような絶望は起こりにくいんですね!と言われると、自信のないところです。人生がかかる場面で失敗をしたときに、その延長線上で悲観に陥ることの方がはるかに楽なので、どうしてもそのように受験生はなりがちです。失敗をしたときこそ自分を俯瞰することが大切だとこちらが口を酸っぱくして何度も説こうとも、本人が絶望したければ絶望をしてしまいます。そこからどう抜け出してもらうか、そのための必死の説得を何年もやってきてはいるのですが、それでもなお、うまく伝わる場合と伝わらない場合とがあります。

ただ、うまく伝わる瞬間のためには、先に上げたような頭で理解できる説明の仕方だけではなく、こちらが本気でその子の人生に良かれと思ってそう言っているとが伝わることが最低限必要だとは思っています。つまり「絶望するな。」という言葉が、「絶望しないほうが合格する!」を越えて「(僕が諦めていないのに)君が勝手に絶望するな。」という意味になっているかどうかが勝負である、ということです。その理不尽な指摘が、理不尽ではないと思えるほどに教えている側と生徒が同じ目標を持てているかどうかが鍵であるように思っています。

魯迅の言うように絶望も希望と同じく、虚しいものであることはおそらく事実であるのでしょう。
でも、そんなことはみんななんとなくはわかっていて、それでも絶望をしたいのは、絶望をした自分でも共感されるかどうかを確かめたくなるからでしょう。だからこそ、「絶望をしない!」と決意することは自身が人生の受け取り手から、能動的に生きる主体になることであると思います。しかし、その最後のひと押しの、全面的に自分の人生を引き受ける瞬間には教育という行為の働く余地があるのでは、と思ってこの仕事を続けているわけですが、まだまだそう簡単にはできず、なかなかうまくいかないことばかりです。ただ、最後まで諦めないように取り組んでいきたいと思います。

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私愛について。

今年(2019年)のセンター試験の漢文で杜甫にまつわる文章が出てきて、その文章の受験生への解説の中でどうしても「私愛」という言葉の意味がわからない、という話になりました。

杜甫が病弱なのは家の中で住む部屋の運気が悪い、ということで叔母の子と場所を交換してもらった結果として、杜甫は生き残り叔母の子は死んだ、というその話は、果たして叔母の愛情が深いといえるのか。むしろ、我が子に対する酷薄さではないのか。具体的には引き合いに出された魯の義姑の行いですが、自分の子の命よりも兄の子の命を大切にすることがなぜ「私愛を割(た)つ」こととして賞賛されるのか、ということがなかなか受験生には理解しにくいようでした。

僕は次のように説明しました。

「愛情は常に偏る。自分の近しい人は猫っ可愛がりをしていても、遠くの人間が苦しんでいたり、死んでしまおうとも自分の家族、親しい人さえ幸せであればそれでいい、というように人間はどうしても考えてしまう。だからこそ、そのように人間の愛情というものは近視眼的に近くの人間しか愛せなくなるようなエラーを常に引き起こすものとしてそのような偏りを恐れる、という思想が人間の歴史にはずっとあった。それがこの文中で言う『私愛を割つ』だし、キリスト教で言う『隣人愛』などもそうだ。キリスト教もマタイの福音書とかを読めばわかるように、いかに「家族への愛」というものと戦おうとしたかという思想だ。それほどに人間は家族への愛情(「私愛」)の前に屈服する歴史をずっと繰り返してきた。しかし、今やキリスト教さえも、『親と子の間に剣を投げ入れる』本来の意図はすべて消毒されて、家族で仲良く日曜日に礼拝に行くことによって無毒化されているんだよ。」と。

もちろん、我が子を犠牲にすることがより崇高な愛であるわけではありません。どちらも大切であるのです。しかし、我が子と兄の子、あるいは我が子と他人の子の危機を目の前にして、当然我が子を助けるのではやはり、人間として疑いがなさすぎる、と僕は思います。私達が我が子を愛するこの思いも、種の保存のためにプログラムされた一つの恣意的なシステムにすぎないのかもしれません。危機的状況を目の前にして我が子と他人の子とどちらの命を助けるかをまず僕自身が迷い続ける人間であり続けたいし、塾の子たちにもそこで迷える人間になって欲しい、と思っています。(以前もこのようなものを書きました。)

もちろん「私愛を割つ」ことが家族愛より至上の道徳であるかのような価値観を流布すれば、それもまた可能にはなります。しかし、それは単なる支配的価値観の上書きでしかない以上、それに基づいてなされる全ての行いもあまり価値のないものです。「私愛」とは「偏りのある愛」だそうです。自らの愛が偏っていないかどうかを常に疑い続けるのでなければ、愛は容易に硬直化した道徳へと置き換わり、そしてその道徳はまさに愛を殺すためのツールになります。硬直化した道徳を乗り越えるとき、生物種の維持のために必要な社会形成の潤滑油としての道徳を乗り越えるときにこそ、人間の愛情にはその存在意義があるからです。そのようなことが少しでも生徒たちに伝わればよいな、と思います。

教育に携わる、というのは日々各ご家庭の私愛と向き合う、ということでもあります。入試前日の、受験生の人生の掛かった勉強よりも、大して緊急ではない自分の子供の勉強を優先して見てほしい、という私愛に絶えずさらされ、そのリクエストを満たさなければさっさと見捨てられることも多いです(嚮心塾では体験入塾期間だけいい顔をして「入試直前でも入試関係ない子をじっくりとつききっきりで教えるよ!」という指導は致しません。それは詐欺にあたると思うからです。日常の塾では受験間近には当然受験生を優先しますし、それに納得して入っていただきたいと思っています。)。自分の子の受験には大騒ぎをするのに、そのように今しんどい中でもがき苦しんでいる「他の子の受験」については想像力を働かせないご家庭が多い中で育った子どもたちは、やはり「私愛を割つ」必要性というのは理解しにくいのでしょう。だからこそ、少しでも僕自身の取り組み方からそれが伝わるように、必死に努力を続けていきたいと思います。

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ノイズの必要性とその伝達可能性について。

塾では様々な学年の子が様々な勉強をしているので、他の子が僕に教わっている内容が当然耳に入ります。慣れるまではそれが嫌でイヤホンなどをする子も多いのですが、こちらでは最初はそれを許容しても慣れてきたら徐々にそれを外していけるように、と指導をしています。これにはノイズに対して自らの意志で集中を回復できる力を鍛えたい、という狙いがあるのですが、これはなかなか理解をしてもらえないことが多いです。

たとえば音楽を聞いたり、自分の部屋にこもったりして勉強することでそのようなノイズをゼロにしようとすれば、自分にとって不必要な音は聞こえなくはなり、一見「効率」も上がります。ただ、そこで落とし穴となるのは、そのようなノイズの存在しない環境というのは試験場では決して実現しえない、という事実を忘れているということです。試験中に隣の人の解答用紙をめくる音や鉛筆の書く音が気になってしまって集中を乱してしまった、という経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

外部からのノイズを完全に遮断することで集中の効率を上げることができたとしても、それは受験本番では通用しないような作戦でしかありません。だからこそ、仮に他の人の声や音で集中を乱されたとしても、その中で自分がどのように集中を取り戻すかの練習を普段からしている方が、より「やわらかい」集中、つまり集中が一旦乱されたとしても再び集中した状態に自分の意志で復帰しやすい集中ができるようになります。

もちろん、それが理想だとしても最初は他の人の話ばかり気になって、自分の勉強が手に付かない、ということではまずいでしょう。だからこそ、一人一人がどのように集中して自分の勉強に取り組めているか、その様子を絶えず見ながら一人一人に違うアプローチをしていくことになります。

逆にまた、塾の教室で生じるくらいのノイズに対してはもう対応ができているけれども模試ではなかなかうまくいかない、というときにはそのノイズのレベルを上げる練習もしていきます。入試問題を解く際に、放課後の街中のファーストフード店のように皆が大きな声でしゃべっているようなお店に入試問題を持っていってもらい、そこで時間を計って解く、というような練習をしていきます。このような中でも集中して問題を解けるところまで鍛えた受験生は、本番でのパフォーマンスがかなり高く、またどのような事態にも動じなくなります。

などと、色々苦労をして何とか受験生が受験本番で力を発揮できるようにあれこれと手管を尽くしているつもりではあるのですが、このような指導が意味を持つためには、結局僕が提案するこのような常識はずれのアドバイスが、有用であるということを信じてもらえるだけの信頼関係を受験生との間に築いていかねばなりません。この点でも、結局伝えにくい内容を伝えるためには、粘り強く人間関係を築いていくことこそが一番大切である、という事実に直面します。

その点で非常に興味深いのは、そのような「非常識だがしかし有用なアドバイス」を聞いてもらえるような信頼関係を構築していくためには、まずは「常識的で有用なアドバイス」を積み重ねていく必要がある、ということです。常識的で有用なアドバイスを積み重ねることで、こちらが決して奇をてらったり思いつきで喋っているのではない、ということを理解していってもらった上で、機が熟したときにそのように非常識だが有用なアドバイスを伝えていこうとしていかねばなりません(三国志やキングダムの世界で言う、正攻法と奇策の関係性のように、ですね!奇策だけを連発するのは、決して通じるわけがなく、したがってそのような将は名将ではないのでしょう。)。

そしてそのタイミングは一人一人違います。この直前期は(ノイズの必要性に限らず)そのようにじっくりと準備してきた言葉を、直前期だからこそ言わねばならないし、また言うことで伝達できる可能性がある時期でもあります。その点では、教師と生徒が同じ「合格」という目標を共有できているからこそ、そのような形式や慣習、常識を越えたコミュニケーションに立ち入れる瞬間があります。そこでの伝達可能性を信じているからこそ、僕はこの仕事をしているのかな、とも思っています。

振り返れば、僕は2,3歳くらいから「お前の言っていることはよくわからない。」と両親に言われて育ってきました。そのせいか、意味を込めて定型的以上のコミュニケーションを他者と成立させようとしても決して理解されないのだと、小中高と自分自身にブレーキをかけて生きてきたところがあります。それ故に、極限状況だからこそ剥き出しの意味を必要性に迫られることで伝えられる可能性をもつこの仕事は、僕にとっては生き永らえる目的であるとも思っています。

残りわずかですが、少しでも一人一人の合格可能性を上げられるように、徹底的に伝えるべきことを伝えていきたいと思います。

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思い通りにならない、ということ。

ご無沙汰をしております。あっという間に今年もセンター試験を迎えました。昨日、今日と塾の受験生たちも真剣に取り組んでいます。なんとか頑張って欲しいと思いますし、一人ひとりに対して出来る限りの準備をしてきたつもりです。

とはいえ、思い通りにならないのが試験です。自分の予想を超える問題、見慣れない問題、自分が普段できていることができなくなるという焦り、その他もろもろのものと受験生は必死に戦わざるを得ません。そのように努力と意志を尽くして懸命に戦ってもなお、思い通りの結果が出ないのが入試であるとも言えます。

この仕事を続けて長く経ちますが、どのようにこちらが準備を尽くしても、それでも思い通りの結果にならないことは
多々あります。今日のセンター試験を終えてみると、一年間必死に頑張ってきた受験生でもいつもとれている点数には程遠く、悔しい思いをするかもしれません。その自分の一年間の努力がすべて無に等しいことを宣告されるような点数に打ちのめされてしまうかもしれません。

しかし、それでも、思い通りにならない結果を直視して、そのことをしっかりと反省した上でそこからまた頑張り始めるという姿勢を、一人一人の受験生には貫いてほしいと思っています。それは、次の入試に備えればそちらの方がより正しい戦略である、という以上に、思い通りにならない事の連続が人生であると思うからです。思い通りにならないことに直面して、そのことに対してどのように取り組むかこそに、その人の人間性が現れます。つまり、その瞬間こそが正念場であり、思い通りにならない事に直面したときの自分の態度の集積こそが自分がどのような人間であるのかを決定する、ということであると思うからです。

もちろん、僕自身もこれに関しては不本意な結果に直面してくじけてしまう生徒たちのことを笑うことなどできない人間であると思っています。僕自身、こちらがどのように努力や善意を尽くしても、うまくいかないこと、思い通りにならないことに直面し続ける毎日であり、そのたびに日々打ちのめされています。しかし、そのようにうまくいかないことに直面し続ける人生であるからこそ、生徒たちにもまた同じ立場から「何とかがんばろう!」と言えるのではないかと思っています。

どんなに努力しても努力しても、それでも結果が出ない。一年間必死に勉強したはずなのに、去年よりも点数が低くなってしまった。そのような理不尽さ、残酷さに逃げずに直面した上で、それでもそこからどのように頑張るのか、生徒たちと一緒に僕ももがき苦しんでいきたいと思っています。

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理不尽さから学ぶということ。

今年、塾で四浪していた受験生が国立大の医学部に合格しました!多浪したあとに嚮心塾に来る、あるいは再受験のためにという形で塾に通ってくれる医学部受験生はこれまでも数多くいたのですが、その子は現役生の頃から塾に通ってくれており、かつここまで結果が出せずにいたのにも関わらず塾を見捨てずに通い続けてくれ、そして本当に悔しい結果が続く中でも腐らずに人一倍誰よりも努力してきた受験生であるので、本当に塾を開いてから一番と言えるくらい嬉しい合格でした!他の塾生たちもあまりにも悔しい不合格にもめげずに頑張り続ける彼の姿勢を目の当たりにして、自分の努力の足りなさ、考えの甘さを反省させられては努力の仕方を覚えていくという子たちばかりだったので、彼の合格の知らせには皆が飛び上がったり泣いたりするほどでした。本当に素晴らしかったです。

その努力家で温厚な彼が今年の受験生生活の中で一番声を荒げて憤慨していたのは、試し受験で受けた早稲田の先進理工学部の入試を受けた次の日でした。(物理もかなり難しかったですが)生物の問題はあまりにも難しく、かつ考察問題ばかりで時間が足りるわけもなく、生物が非常に得意な(名大オープンでは二回とも全国2番でした!)彼にとっても3割も取れないような入試でした。「生物受験者を取る気がないのか!」「こんなひどいのは、初めてです!」と珍しく憤慨する温厚な彼に、試験問題を見て僕ももちろん同意したのですが、その上で次のように言いました。

「確かにこの問題はひどい。率直に言って入試で出したら担当者を入試担当から外すべきレベルだと思う。しかし、だったらその試験時間を化学に充てて(比較的解きやすかった)化学の点数をもっと伸ばすことができたはず。つまり、(両方ともできますが生物がより得意である彼の)『得意な生物の点数はしっかり取らなきゃ!』という思い込みに妨げられて、このような理不尽な問題に対してベストパフォーマンスを出せなかったことが、国立入試に向けての反省材料じゃないかな。逆にいえば、それをこの早稲田の理工の入試は教えてくれたと考えれば、理不尽な難易度だとしてもそんなに腹も立たないのではないか。」というようにです。
それに対して彼は、なるほどと深くうなずき、そこからの国立大学に向けての練習の中で、得意な生物が難しくて困ったときに化学を解く時間を削って生物を解かないように、という練習をしっかりとしていました。

理不尽なことは人生の中でこれからも起こるでしょう。いや、人生とは理不尽さの連続であるとさえ言えるでしょう。しかし、その理不尽さに直面した時に、それを呪詛することで自分を向上させることを忘れる人間と、その理不尽さに接してなお、自分がまだまだ改善すべきことを見つけていこうとする人間とで大きく結果が変わってくるわけです。努力が報われずに何度も浪人をせざるを得ないという現実をつきつけられてなお、このような僕の厳しい「指導」に対して深く頷くことのできる彼の素晴らしい人間性を見たからこそ、彼のこの合格は、この社会にまた一つの素晴らしい魂をadaptできた、という喜びの深いものでした。

どのような理不尽さからも学ぶべきものを学ぶことはできます。それを阻害しているのはあくまで、その自らが見舞われた理不尽さを呪詛したくなる自分の弱い心、すなわち被害者意識です。しかし、私たちはどのような事態に対しても被害者であるだけでなく、加害者でもあるわけです。その加害者としての自分をどのようなときでも見つけ、そしてそこを改善できないかを苦慮する人間こそが、真に成長し続けることのできる人間であると言えるでしょう。今日はあの東日本大震災からちょうど5年ですが、私たちはあの理不尽さの極みとも言える自然の猛威による被害者であるだけでなく、たとえば避難の遅れ、津波に対する備え、原発事故の加害者でもあるわけです。それはもちろん被災地に住む人だけではありません。すべての日本人がたとえばあのようなずさんな原子力発電所の津波対策を、その原子力発電所の恩恵を享受することを通じては許してきたという意味で、あるいはたった5年経てば「経済のためには再稼働もやむをえない」「世界で一番厳しい安全規制です」などと平気で言えてしまう、あるいはそれを黙認してしまうという意味で、加害者でもあるわけです。それらの言明が正しいか正しくないかは別として、少なくとも理不尽さに直面してなお、自分の改善点を必死に探す彼のような受験生の態度とは対極にある、「まあ何とかなるんじゃない?」と楽観視するだらしない態度であることは間違いのないことであると思います。

理不尽な事態に対してと同様に、素晴らしい人間は、どんなにダメな人間からも学ぶところを見つけ、学ぶことが出来ます。それとは逆に、ダメな人間ほどに自分が他の人から学ぶべきことがたくさんあるとしても「でも、あいつのこういうところはダメだから。」と難癖をつけては、自分にはない彼や彼女の長所を学び取ろうという努力を怠ります。ある意味で自分のダメなところを克服し少しでも「良い先生」になろうとする教師の努力は、そのように他の人の欠点を見つけては難癖をつけることでさぼることを覚えてしまった生徒たちに逃げ場をなくすための努力でしかありません。それは教育の導入としては必要なことではあるのですが、そのような教師に接して初めて努力をする人間など、他の教師になった途端に当然サボることが目に見えている以上、それだけでは全く教育としては不十分であるのです。むしろ教育の出口としては、教師がどんなにダメであっても生徒たちはそのような教師からもしっかりと学ぶべきところは学び、見習うべきではないところは反面教師として教訓を得る、という姿勢を生徒自身が身につけていけるように取り計らっていくことであると思います。この後者の点に関しては、教育に携わる人々は教師もそれ以外も含め、かなり意識が低いところではないかと僕は思っています。つまり、まだ理想を失っていない先生方も「良い先生になる」という個人的な目標にすぎないものが教育の効果についても最大の成果を上げる、と信じがちであるけれども、実際はそうでもないことも多いということです。一人一人の人生をふりかえってみても、「あの教師みたいな人間にはなりたくない。」「あの先輩みたいにはなりたくない。」という反面教師のほうが、子供心にmotivateする力が強いことって結構ありますよね。もちろん、「良い先生」になるための努力をしたくないがために「自ら学び取る生徒の自主性を育てているのだ!」という振りをしては怠惰を決め込んでいるのも、同様にダメな教師であることもまた事実です。圧政に耐えては自由を求めることがその国の民主主義を鍛えるとしてもそれは圧政自体が正当化されるわけではないからです。教師はその子にとって今何が必要かを絶えず感知しては、そのどちらの役割をもflexibleに担えるようになっていかねばならないと思います。

alpha goに苦しい勝負を強いられている囲碁界のスーパースター、天才の中の天才でありながら、幼少期からすべてを囲碁に捧げてきたものの、その囲碁においてdeep learningの前に屈せざるを得ないというイ・セドルさんの感じるその理不尽さもまた、その理不尽さからイ・セドルさんが何を学ぼうとするかによって意味のあるものになるのだと思います。それは文字通り岡目八目で好き勝手なことを言う我々よりも、はるかに深い意味をもつはずです。何かに真剣に打ち込んだ末にそれが理不尽なものによって蹂躙されてなお、そこから何らかの意味を汲んでは再び努力をするためにこそ、我々は努力すべきなのです。誤解を恐れずに言えば、理不尽さと直面するためにこそ、私たちは努力すべきであるのです。「人物を入試で見る」などという下らない話が主流になりつつありますが、何かの技術や知識の習得に徹底的に打ち込み、打ち込んでもなお様々な要因から来る理不尽さに打ちのめされ、そこで打ちのめされてなお、その理不尽さの意味を考え自分がもっと改善すべきところを見つけていくというそのプロセスを経て初めて「人格」や「人物」がそこに立ち上がってくる、などという当たり前のことは、別にマックス・ウェーバーの『職業としての政治』の「Zache(事物)への専念を通じて個性が立ち上がる」などという言葉を借りなくても、私達が普段スポーツ選手や芸術家、プロ棋士、あるいは職人の方々の高い精神性を見るたびに思い知らされるものではないでしょうか。

人間は生まれながらに死ぬことが運命づけられています。他の動物はどうかはわかりませんが、少なくとも人間は自らの死が存在することを自覚できる以上、どのような努力もいずれ「死」という理不尽さによって奪われるということを知った上で我々はどう生きるかを考えていかねばなりません。その意味では、理不尽さからもまた何かを学ぼうとする姿勢、というのは実はソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」というときの「哲学」と同じものであるのかな、と僕は思っています。

そのような姿勢を受験勉強の最後の最後まで貫いた彼には、大学に入ってからも是非その姿勢で努力を続けて欲しいですし、もちろん僕もその姿勢を最期まで貫き通していけるように頑張りたいと思っています。

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幸せな人生とは。

ご無沙汰をしております。毎日忙しく、教えています。

先日、塾の生徒と進路相談をしていて気付かされたのですが、僕は今の自分をだいぶ幸せだと感じているのだなあと思いました。その理由はただ一点、「自分の力の足りなさ」を日々実感させられる、という点においてだと思います。
もちろん、ある人の人生が幸福であることを測る為の尺度は、お金や名声、愛、その他様々なものがあるのでしょう。しかし、それらのものというのはもちろん最低限必要なものではあるとしても、人生のすべてをかけていつまでも追い求められるものではありません。「足るを知る」ことで、折り合いをつけていくものでしかないといえるでしょう。

しかし、「自分ができていないことをできるようにしていく」ということに関しては、それこそ死ぬまで終わりがありません。彫刻家のジャコメッティが「あと1000年生きたい。あと1000年生きられれば、私の彫刻も少しはマシになるのに。」と言ったそうですが、その気持ちを最近は特に痛切に感じるようになってきました。それとともに、そのように日々自分の足りないところを感じ、それを埋めていく、あるいは乗り越えていくための人生を選べている僕は、たとえこの先路頭に迷い、どこかでのたれ死にするとしてもなお、幸福であるとも思います。

イチローがメジャーに行った理由というのも、「日本のプロ野球界では自分の理想のプレーに届かなくても結果が出てしまう。」ということだったそうですが、それは決して驕りなどではないわけです。「自分としてはもっと良い仕事ができたはずなのに、それが周りから見れば(他者との比較という観点だけから)高く評価されてしまう」という環境こそが、何よりも自分の成長を阻害するものであるのですから、そのような環境で結果を出し続けることは、決定的に不幸であると言えるでしょう。

僕自身、小学校から高校生までの学生時代はそのように不幸であったと思っています。他者との比較で見ればさほど努力せずに結果が出てしまい、それで褒められることを心の支えにして、結局ちっぽけな自分がいかに努力を重ねてもこの世界の問題など何一つ解決できるわけがないという事実からは目を背けて、さぼっていたところがありました。さらにずるいのは、僕自身、その身の回りでの評価は大したことではないとよくわかっていたということです。もっと自分を必死に鍛えたとしても、自分の才能の限界を思い知らされるまでに徹底的に努力を重ねたとしても、それでもなお、世界の抱える難題を僕程度の力では何一つ解決できるわけがない、という事実に一方では気づいていながらも、「それに目を背けて自分の人生を送りたいなあ。」という卑怯な毎日を暮らしていました。

あれから20年以上がたち、今の僕はおそらく高校生の時の僕よりもはるかに何でもできるようになっているからこそなお、自分の能力の限界を日々思い知らされています。あのときよりもはるかに努力を強いられる日々です。もはや好きで読んでいた本ですら、趣味や興味ではなく単純に義務感から読まざるを得ないようになっています(僕はいわゆる「教養は大切だ!」という教養主義をあまり評価していません。教養は大切なものではなく、義務です。価値のあるものではなく、知らなければならないものです。それを一人一人が知らないがゆえに、同じような過ちを何回もアホみたいに繰り返しているのが人類の歴史であるわけですから)。しかし、それでもなお、そのように自分の至らなさ、実力のなさ、努力の足りなさを思い知らされては必死に努力しなければならないこの日々は、僕にとっては「幸せな人生」です。

もちろん、生徒たち一人一人にそのような人生を生きて欲しい、とまでは願っていません。
ただ、自分がスムーズにこなせることをしてそれなりに評価を受ける、ということに満足する日々の中で
「そういえばあのおっさんがそんなこと言っていたな。」ぐらいには思い出してもらえたら、と思っています。
それは自分にできるところだけに取り組んでいるにすぎないのかもしれないのだ、ということを。
そして自分にできるところだけに取り組み続ける人生というのは、実はあまり幸せな人生ではない、ということも。

もちろん、何もできるところがないのなら、まずは何かをできるようにしていかねばなりません。
しかし、それができるようになったとしても、それはスタートであってゴールではありません。
そのことをしっかりと伝え続けていきたいと思います。

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保育園の卒園式

今日は下の子の保育園の卒園式でした。上の子の時も感じたのですが、親にとって保育園の卒園式ほどに感動的なものはない、と僕は思っています。もちろん、小学校の卒業式、中学・高校の卒業式、大学や専門学校の卒業式と、自分の子供の成長を節目として感じさせてくれるものはこれからもあるのでしょう。しかし、保育園の卒園式は文字通りその何年かを子供と共に生き抜いた、という思いでいっぱいになります。

誰しも子供を小さいときから保育園に入れたくはありません。でも生活のため、あるいは学業のために我が子を保育園に入れざるを得ないわけです。自分の子供に対して親としての務めを100%果たせていない、というそのその後ろめたさから、せめて一緒にいる時間は精一杯接しようとしても、現実は厳しいものです。日々の仕事の中で、どうしても忙しければ忙しいほどに子供に対しては十分に努力を尽くせないことばかりになります。子供と接することのできる短い時間にすら、仕事の疲れから、親としてしっかりと向き合えていないことだらけであるといえるでしょう。

だからこそ、保育園の卒園式では親たちは子供たちに「おめでとう」という気持ちをもつ前に、「ありがとう」さらには「ごめんね。」という気持ちが強く出ます。こんな「親」としては駄目な親であるのに、それでも子供達は先生達と一緒に頑張って何年間かを乗り越えてくれた、という思いで一杯になります。だからこそ、ただ成長を喜ぶ、あるいは別れを寂しがる、ということではなく、自身の存在の根底が揺すぶられるかのように、皆が号泣してしまうのだと思います。

僕自身はですって?もちろん、大いに泣きました。僕自身の10代は、自身がいかに完璧な人間であるかに絶望して、自身の死ばかりを望む毎日でした。それから20年以上を経て、僕は自分がいかに不完全であるのか、いかに何もできていないのかを思い知らされる人生を味わっています。保育園や家庭では、親として何もできていないことを、塾に戻れば教師として何もできていないことを日々味あわされていきます。それらは僕にとって、耐え難い苦しさであり、どうしようもない恥辱であり、自身が存在していることが申し訳ないくらいの消え入りたい情けなさを味あわされる一方で、それを何とかするために生き続けようと決意する理由になっています。

森有正がかつて「ヘーゲルの弁証法とは、哲学的な術語(term)ではなく、生きる過程そのものなのだ。」と書いていました。そのように生きる過程としての弁証法を味わえている、ということに感謝して、少しでもマシな親や教師になれるように、引き続き頑張っていきたいと思います。

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