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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

うつ病の認知行動療法と教育の相関について。Half a cup of tea。

今月号のNatureダイジェストをパラパラと見ていたら、うつ病の認知行動療法(CBT:cognitive behavioral therapy)について書いてありました。今までの抗うつ剤のように薬に頼るのではなく、一つの現実についての見方、考え方をトレーニングすることによって、鬱状態からの脱却を目指すという治療法で、それが薬を使った治療よりもまた鬱状態になりにくい、という記事でした。もちろん、この認知行動療法はそもそも、ピタッとはまることが難しく、さらにはそもそもどうしてそれが有効なのかもよく分からないというものらしいので(しかし、そもそも抗うつ剤もまた、なぜそれがうつ病に効くのかはよくわかっていないそうです。50年前に偶然別の病気のために使った薬がたまたまうつ病の症状の改善にきいただけで、そこから50年間現在に至るまで、その最初に見つかった二つの薬の毒性を弱めた似たような成分の抗うつ薬しかつくれておらず、他の薬で効くものが見つかっていないどころか、そもそもその最初に見つけた二系統の薬がなぜうつ病に効くのかもよくわかっていないまま、現在でも使い続けているということなので、これは薬の方が「科学的」であるわけでもないようです)、まだまだこの治療法にも課題が多いらしいのですが、僕はこのような方向の治療法の模索というのはとても良い方向なのではないかと思います。うつ病ならそこに至るまでの精神的な態度や癖というもの自体を、変えていくように練習していかなければ、薬で改善しようとするのはその場しのぎでしかないと思うからです。もちろん、その場しのぎが必要な場面は多々あります。しかし、その場しのぎだけを「治療」と言ってしまうのは、やはり無責任であると思います。

(ちなみに、この認知行動療法について、僕が望ましいと思うのはいわゆるpositiveな(とされる)思考習慣を身につける、ということではありません。それは一種の洗脳でしかないでしょうし、だからこそ短期的には効果が高いものの、長期的にはやはり効果がなくなってくると思います。大切なのは、一つの事象について、自分のとりがちな悲観的な見方が、実はそれほど必然的なものではないということに思い至れるようにする、というトレーニングが大切であると思います。魯迅の言う「絶望の虚妄なることは、希望(が虚妄であるの)と同じである」ですね。そんなに簡単に絶望も希望もできない、ということに思い至れる練習が大切なのではないでしょうか)

このように僕が考えるのは、受験生を毎年教えていて一番鍛えなければならないのが実は勉強面ではなく、精神的な態度であることが多い、という事実を毎年痛感するからです。しっかりと勉強していて知識やその応用ができる子であっても、ほんの少しのことで悲観してしまい、結果として力が出し切れないということがあまりに多いのです。例えば、「本番で数学ができなかった」という事実から、「もうこの入試はダメだから、諦めよう。」という結論に至るまでには多くの飛躍があります。まずは、その数学の問題ができなかったのは、自分だけであるのか、という観点が必要です。当然ながら周りの子も同じようにできていなければ、そこで差はつきません(もちろん、逆もそうです。自分ができたからと言って楽観もできません。)。次に、その科目で自分が周りの子よりできていないとしても、他の科目で取り返せている可能性はないのか、ということも考えなければなりません。ここまで考えてきて悲観的な推論しか立たないとしても、そもそもそれらは推論であり、しかも合否という結果が出るまではかなり確実さの低い推論であるわけです。それなのに、その一教科ができなかったくらいで、「残りのテストを受けないで帰ってきていいですか?」というかなり本気の電話を、毎年のように違う受験生からもらいます。(卒塾生のみなさん。心当たりがありますよね!)しかし、その不確かな推論に基づいて残りの試験を受けなければ、確実に不合格になるわけです。現実の意味は極めて多面的であり、それを的確に捉えることは特に冷静さを失っているときには難しいものです。だからこそ、それを自分の思い込みによって判断してしまわないこと、自分が事実だと思っていることが実は自分の不確かな推論にすぎないこと、さらにはそこから出てくる自分にとって恐ろしい結末もまた、一つの可能性にすぎないことをわかれば、実は試験の勝負所は一つ目や二つ目のミスではなく、その先にあるということもわかるわけです。しかし、それが本当に難しいと思っています。
ここからの受験直前の時期は、そういったところまで徹底的に鍛えていくこと、そういった絶望的な状況を思考実験しては、その状況がいかに絶望的に見えてもまだいくらでもチャンスがあるか、その状況を絶望的であるとみなして努力を止めるが故に、本当に絶望に変わってしまうのか、ということを口を酸っぱくして具体的なケースについて、教えていきたいと思っています。これは、受験に限らず、彼ら彼女らのこれからの人生においても必ず必要なことであると思うからです。

ちょっと話はかわるのですが、今でも印象に残る物語として、確か、James Kirkupか誰かのHalf a cup of teaという短編がありました(ちょっと今検索してみたら見当たらなかったのでうろ覚えなのですが)。お茶をなみなみと注ぐのでもなく、少ししか注がないのでなく、ちょうどカップの半分くらいをついでくれる思いやりのある女性と結婚したい、と思っている主人公がカップの半分だけを注いでくれるそのような女性と出会ったと思い、めでたく結婚して幸せなまま長年連れ添ってから、人生の最終盤にあのときのことを話したら(「カップ半分注いでくれた君の思いやりに感銘を受けて、君を選んだおかげで君と幸せな日々を過ごせたよ」的なセリフだったかと)、「ああ、あれはポットの中のお茶がちょうどカップ半分しか残っていなかったのよ。」と言われてしまう、という短編です。この結末については人と人とが分かり合えているようで実は全然分かり合えていない、というシニカルな見方をすることもできるとは思いますし、実際にいくら親しい友人同士であれ、あるいは家族同士であれ、長年連れ添った夫婦であれ、このようにお互いに深くは分かり合えないままに生涯を終えていくことの方が圧倒的に多いのだと僕は思います。しかし、同時にこの短編の結末は、僕にとっては一つの小さな希望でもあります。私たちはとかくこの世界に絶望し、あれこれと不平を並べてしまうのだけれども、それは本当に現実を少しでも正しく捕らえられているのか。それほどに、人間の物の見方というのは欠陥だらけで、まったく違うことを勝手に決めつけては突き進む、ということだらけなのではないか。本当ににっちもさっちもいかないくらいに追い詰められているかのように見えても、ものの見方や考え方を転換することで、そこに何らかの希望があるのではないか。そのようにこのラストは感じさせられます。

私たちは、一生をかけて信じてきた価値観が実は大したものではないことを死ぬ間際になってようやく気付くことになるかもしれません。それは外から見れば、滑稽であり取り返しのつかない悲劇であるかのように見えるかもしれませんが、僕はそのような気づきには、希望があると思います。

現実についての多様な見方を、人生のかかった受験の中で、自分が追い詰められる局面だからこそ、身につけてほしいと思っています。この世界は、世界中の最高の天才たちが思い描く以上に、豊かな可能性をもっているのです。ましてや、凡百の我々風情の推論通りになるわけがないではありませんか。自分を信じる必要などありません。その現実の多様性を信じ、自分のちっぽけな思い込みにとらわれないようにして最後まで戦い抜けるように、みんなには頑張ってもらいたいと思いますし、そのために僕も残りわずかな日々をしっかり教えていきたいと思います。

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