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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

争点化というごまかしについて。その1

まずは自身の失敗談から。上の娘がお腹にいる頃、今から19年前くらいの話からです。

出産に向けて様々な準備をしていこうと色々と調べているうちに、うちの奥さんは血液型がRH(ー)なので、胎児がRH(+)だと血液型不適合妊娠が起きてしまうおそれがある、ということに気づきました。それを防ぐためには抗D免疫グロブリンという血液製剤を注射するわけですが、それを出産後72時間以内には必ず打つマニュアルに当時からなっていたのですが、妊娠中の感作を防ぐために欧米では念の為妊娠後期(28週)にも打つ(トータル2回打つ)ことが当たり前になっているということも調べていてわかりました。

一方でその頃の日本の病院ではその28週でも打つのはあまり一般的なやり方ではなく、僕らがお世話になっていた産婦人科でも出産後72時間で打つのみというやり方が主流でした。そのやり方はやはり確実では言えないのではないか、と僕が不安になり、妊婦健診で担当してくださっていた医師にも交渉をしたところ、「出身大学の産婦人科にも問い合わせて確認したが、そこでもやはり28週には打っていない」と渋られました。そこでその医師に欧米と日本でRH(ー)の血液型の存在比が大きく違うことを示した上で、「日本ではそもそもRH(ー)の妊婦の存在比が少なすぎるからこそ、たとえその妊娠後期でのグロブリン投与をしていなかったとしても問題にはなりにくいのではないか。欧米のやり方がすべて正しいわけではないが、RH(ー)の妊婦の存在比がはるかに多い欧米でスタンダードになっている方法を取るのがやはり「万全を期す」ということなのではないか。」と説得し、その医師にも了解してもらい、結局28週に打ってもらうことになりました。それが理由かどうかはわかりませんが、血液型不適合妊娠は結局起きず、無事に出産を終えることができました。(今で言えばモンスターペイシェントですね。。本当にすみませんでした。)

その後、日本産婦人科医会でも妊娠28週でのグロブリン投与はRhガイドラインで明記されるようになりました。推奨度も段々と上昇しているようで、あのとき要求したことが的外れではなかったのは(モンスターペイシェントながらも)よかったとは思っています。

というのを塾ではたまに話したりしていました。ただ、これを(お恥ずかしいことに)「俺SUGEEE!!」という自身の慧眼についてのエピソードとして話していたのですが、年を取って考え続けていくうちに、これも一種の「争点化」にすぎなかったのかな、と反省する部分もでてきました。

コストとベネフィットを比べてみれば、あそこで28週に免疫グロブリンを打たない(自費診療なので3万円くらいしました)という選択肢もある。実際にそれを打たなくてもなんともなかった可能性の方がむしろ大きかったかもしれない。安全な出産のためにはその費用ぐらい出したい!という気持ちももちろんある。とはいっても、実際に母子感作が起きたとしてもそれはその当時の医学的常識では「仕方のない」結果であったと言えるし、医療訴訟で医療ミスを争ったとしても間違いなく負けるはず。もちろん僕自身、たった一度の出産をそのように確率を考えることで「これが起きちゃったら仕方ない」と言わないためにあらゆる可能性を尽くしたかった、というのはあるとして、しかし、その「あらゆる可能性」はもっと他のことではなかったのか。たとえば病院の近くに住んで通院時の事故リスクを下げるとか(これはもちろん実行しましたが。)その他諸々あったはず。その中でなぜ、僕がこの28週でのグロブリン投与にこだわったのか。そこに母子を心配する以外の動機がなかったと果たして言えるのだろうか。

上の段落でごちゃごちゃ書いたように、僕の対応が最適解であるかどうかは(それが日本産婦人科医会のガイドラインにその後採用されてきたとしてもなお)、わかりません。そのわからないことの中で、僕がその方向性を選んだのには「これは争点化できる!」といういやらしい自己演出の動機がなかったとは言いきれないのです。もちろんその自己演出が母子の安全な出産とは矛盾する方向になされているのであれば、本当の人でなしであり、僕が基本的には情が薄い人間であるとはいえ、さすがにそこまで人でなしにはなれないのですが、しかし、母子の身体を安全へと近づける方向を徹底して目指した上で、そういういやらしい動機が本当に少しもなかったのか、様々なことを調べていてこの事実に気づいたときに、このような主張をすべきであるということを自分の存在意義として喜ぶ気持ちがなかったのかといえば、やはり、ありました。この事実に気づいたときに僕は血液型不適合妊娠による感作をどう防ぐか、という妻や子への不安や心配だけでなく、出産に関して無力な自分の存在意義を少しは見つけられたといういやらしい気持ちがありました。

このような「争点化」は虚栄心からなされるものです。そしてそれは自己の存在理由を客観性をもって主張するための格好の材料として実行されるものです。研究において、様々な論文が先行研究の中での自身の研究の位置づけを最初に主張するのもこのいやらしい「争点化」と同じです。それは必要なことであるし、またそのいやらしさを通じて人類が発達してきたということもまた事実だと思います。ただ、一方でそれが卑しい行為であることもまた認めねばならないと思っています。「誰もこれを主張していない!」と気づいたときにそれが目の前の人の幸せに繋がるかどうかだけでなく、それは社会的に意義のあることだ、ということまで考えてしまい、「争点化すべきだ!」と考えてしまう自分がまさに卑しさの塊であるのです。(もちろんこのような卑しさからでなく、義憤や問題意識からまだ社会の中で取り組まれていない課題に取り組み、虐げられているもののために命がけで人生を費やし、そして報われなくてもそのように必死に取り組み続けて道半ばでなくなっていく人もいます。研究者にもまたそういう人もいるでしょう。しかし、最初はそうであったとしても、それをずっと続けることはできません。真心や義憤、初期衝動から始まったはずの社会改良運動や研究や創作が、いかにそれ自身を自己目的化しては当初の「魂」を失った後もあたかもそれが燃え続けているかのように振る舞いつつ、続けられていくのか。ベルクソンはそのことを辛辣にも的確に書いていましたが。)

という点では研究者は全て卑しいのです(偏見)。また、芸術家だって全て卑しいのです(これまた偏見)。新しいものを探す、他と差別化する、この世界の中での存在意義を作ろうとする、ということには絶えずこのいやらしさが伴います。ということをJ.J.ルソーも『学問芸術論』で言いたかったのだと思っています(あまり理解はされていませんが)。知性というのは不誠実でいやらしく、目の前の人を真剣に心配しているときもなお、遠くを見つめているものであるのだと思っています。それ故に人間は進歩してきたという事実があるとしても、知性のこのいやらしさを正当化できるわけではありません。この知性偏重社会においては、知性が長い目で見て生み出すリターンに目がくらみ、目の前の一つ一つに対しては不誠実であることを正当化しようとしてきた、という全体の方向性なのではないか、と思います。もちろん「自然に帰れ!」と言ったって仕方ないし、そもそもそれは間違っている(そしてルソーもこんなこと言ってない)わけですが、このいやらしさ、不誠実さを結果から正当化しない、ということもまた知性がその価値を保つために残された最後の一線であるように思っています。

そしてこうした知性のいやらしさ、すなわち「争点化」への意欲は政治において、顕著な形で失敗として現れてくるのだと思っています。

さて、政治においてこの「争点化」といういやらしい動機がどのように政治をダメにしていくか、ということを書こうと思ったのですが、いつもどおりまた長くなってしまいましたので、続きはまた次回に。政治においてこそ、この「争点化」といういやらしい動機が激しく機能しては内ゲバを生み出し、どうでもいいことを争点として仕立て上げていく、ということを次回は何とか書いてみたいと思います。

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「無責任な野党」という批判の誤りについて

マタヒバチ東京公演が大盛況のうちに無事終わり、塾も防衛医大を皮切りに入試シーズンに突入しつつ、とバタバタしていて気がついたらもう10月が終わろうとしています!!総選挙前に政治のことも書いておきたかったのですが、日々に追われて投票日二日前にこれを書くという。。手遅れかもしれませんが、書かないよりはマシなので書いていきたいと思います。

さて、今度の10月31日は衆議院議員総選挙です。ここまでの与党の説明責任をひたすらごまかした政権運営によってさんざん虐げられ、蔑ろにされてきた人のほうがはるかに多いのにもかかわらず、「やっぱり野党は責任能力がないから自民党か、お灸をすえるために維新…?」のような投票行動をする有権者も多いのでしょう。選挙情勢は与党にとって厳しいものの決定的ではまだないようです。

なんかでも、この「野党は無責任!」という主張(そもそも野党は何でも反対しているわけではなく、立憲民主党で約8割、共産党でも約5割の法案には賛成しています。当たり前で明らかに変えるべき法律の改正案に関しては、与野党一致することのほうが多いのです。この事実もあまり踏まえていない有権者は多いのでしょう。)を自民党や公明党、維新はことあるたびに言うわけですが、野党というのは日本の議会政治史上責任能力などをもったことがなく(そもそも持てる仕組みではなかった(後述します))、むしろ政権運営に対して批判を続けることでその政権運営がフリーハンドにならないようにブレーキを掛ける、という役割を担ってきました。これはたとえば2009年からの民主党政権のときにもまさに自民党が野党としてそれを徹底してきました。なので、「野党は無責任!」は当たり前であり、「政権運営能力がない」→「だから与党に投票する」という投票行動自体がこのような日本なりの議会政治の歴史を踏まえていないままに導入された「小選挙区制→二大政党制」という幻想に基づいた建前論でしかありません。実際に小選挙区制は野党が分立してしまえば勝ち目がなくなるわけで、今回のような選挙協力を野党はせざるをえません。非常に欠陥が大きい制度であるとともに、野党が不当にも受けている「政権運営能力がない」「無責任だ」という声高な批判はこのような小選挙区制→二大政党制という幻想を疑えていない、非常に浅はかな態度であると思っています。

と書くと「いやいや。55年体制のいわゆる『1.5大政党(一つの強い与党とその半分くらいの弱い野党)』をそもそも『日本の議会政治の原型』と見ている時点でそれは議会史の中のある部分を固有のものと見なしてしまっているだけだ!」という反論も来るとは思うのですが、このような「政府を批判することで政権運営に緊張感をもたせるが政権運営はできない(そもそも情報量が違う)」という自体は明治憲法下からそうだったみたいだ、ということを坂野潤治先生の『日本近代史』を読んでいたら最近学びました。まあ、そもそも明治憲法だと議院内閣制ではないですしね、とざっくりそうであろうとは思っていたのですが桂園時代とか、立憲政友会と立憲民政党とか、なんか二大政党っぽさがあるのかな、という雰囲気だと高校の教科書とか読んでるとついつい錯覚してしまっていました。しかし、明治以降日本に「どちらも政権を担える二大政党制」などというものは議会史上成立したことはないようです。

だからこそ、野党には55年体制下での「反対野党」のような戦い方で政権運営に緊張感をもたせる、というやり方以上のものが存在しない文脈の中にむりやり小選挙区制を導入して二大政党制を目指す!と「無理ゲー」な目標をいきなり導入したことのつけとして野党がひたすら「責任能力がない」などとアタリマエのことを口実にさんざん叩かれては、有権者もそれに踊らされて与党に入れる、その結果として緊張感のない政権運営が続き、ネポティズムや露骨な利益誘導、情報開示を徹底的に避ける、という不透明な政権運営が野放しになってしまっているのが現状であると思っています。(そもそも野党に責任能力がないのはあたりまえで、官僚組織をフルに使える与党と、国会議員やその事務員が必死に手弁当で調べる野党で情報格差がありすぎるのは当たり前なのです。それをもって「責任能力がない」批判をするなら中国共産党のように一党独裁をしたほうがより良いことになってしまいます。「野党に責任能力がない」という批判の浅はかさがこの一点をとっても気付けないのは不幸なことです。)

政治学用語で言うviscosity(粘着性)というのはこのような「制限選挙によらない自発的一党独裁」という世界的にも類を見ない日本の自民党一強体制の中で、議会政治がどのように機能しうるのかを模索してきた与野党議員による国会運営の中で注目されてきた概念なわけですが、今の日本の議会政治というのはこのviscosityを失ったものの、二大政党制とは程遠い状態(そもそもそれが日本の議会政治史で存在したことないわけなの)で、1.5大政党制のメリットを失い、2大政党制のメリットを享受できていないままに、政権運営の恣意性を野党はもちろん与党内ですらチェックできなくなってしまった、というのが現状です。(もちろん二大政党制が理想でないのと同様に、1.5大政党制が理想であるわけではありません。それが成立していたのは日米安保体制に守られているがゆえ…など、これも複雑です。ただ、現状としてはそのように議会政治自体がどちらのメリットも享受できないままに危機に瀕している、というのが日本の現状であると思います。)

この現状を分析してみれば、「野党は責任能力ないからやっぱり与党に投票!」という投票行動がいかに愚かか、がわかります。

と書いてみるのは簡単なのですが、これをすべての有権者がしっかり勉強して分析して、正しく投票行動をする、ということ自体が本当に難しいですよね(ということであれこれリンクを貼りましたが、これでもなかなか高校生だと読むのが難しいでしょう)。。だから「勉強」(というと主に受験勉強になってしまいますよね)ができる人が偉い!とか言いたいわけではなくて、東大や京大出身の大人やその学生も、全くこういうレベルでは教養不足、勉強不足な人ばかりです。だから彼らは自身の勉強不足を隠しては知ったかぶりをできるように、容易に現状維持のシニシズムに加担します。それはたとえば、twitterでの医師クラスタや元官僚クラスタ、あるいは理系学者達が彼らのその意見を維持し続けるのにどんなマイナス材料があっても基本的には与党支持の姿勢を崩さずに自らのそうした意見の客観性を主張するところを見ればわかりやすいと思います。
そしてこのような政治史を教える教育機関、というものが日本にはほとんど存在しません。唯一、外山恒一さんが手弁当でやっておられるくらいしか僕は寡聞にして知りません。

投票一つとってもこれだけ色々考えて勉強して投票しなければならない、となるとほとんどの人には荷が勝るものであり、そうなると「政治についてしっかり勉強した人だけが投票できる制限選挙が一番良い!」という主張に傾きがちです。ただこれはこれで難点もあり、その「しっかり勉強」する内容の公平性や中立性をどう担保するか、というのはこれまた難しい問題であり、これが手弁当の私塾の域を超えて公的な制度になればなるほどに、勉強内容自体への干渉が(たとえば竹島問題についての駿台予備校への干渉のように)入ってくることになってしまいます。そうなれば結局はドグマティックになってしまいます。(たとえば財務省在籍者・出身者の均衡財政への執着は、僕はもはや「宗教的」としか思えないのですが、あれはやはり「それを目標とする組織でそのような教育を徹底的に施せばどんなに優秀な学生たちもそれしか見えなくなる」ということの好例(悪例?)だと思っています。「有権者教育」やそれに基づく「制限選挙」も気持ちはよくわかるのですが、しかしそのようにならない理由がないとも思っています。)

本当に難しい問題です。それでも教育にはこうしたことにも批判力や判断力を養っていく責任があると信じて、やれることをやっていきたいと思います。

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「リアリスト」とは。

検察庁法改正、というあまりにも恣意的な人事を許す法案をなんとか止められたことは、本当によかったことだと思います。とはいえ、これについてもまだまだ油断することができません。今の政府というのは選挙での連戦連勝状態で、もはや自民党内部の意見すら聞くことなく政策決定をしてしまっているので、党と政府との緊張感が全くない状態です。野党は力が弱すぎますし。だからこそ、権力分立の観点からすれば、全くチェックが効いていない状態であり、自分たちに都合がいいものを何でも法案を通しては慣例をうちやぶっていく、ということができてしまうわけです。それにまずは自民党が逆らえない。ましてや、野党など、ですね。

これについては、この検察庁法改正に対する反対運動のように、やはり国民一人一人がしっかりと勉強し、
厳しくチェックをしては声を挙げて行かねばなりません。どの党が政権を握ろうと、権力とは常に歯止めが効きにくくなるものだ、というつもりでチェックをしていくことが大切であると思います。

ということをこの何日間かは注視していたわけですが、昨日のこのテーマでのネット上の討論番組で、日本維新の会の音喜多議員が「自分はこの法改正に反対だし、党内でもそう主張しているけれども、強行採決を止めることはできないから、リアリストとして付帯決議を勝ち取る方向を目指している。」という話をされていて、その認識の偏りに非常に悲しくなりました。もちろん、これを本気で主張されるほど音喜多議員は愚かではないと信じたいし、恐らくは様々な野党がある中で「うちは他の野党とは違いまっせ。建設的な提案でっせ。」という差別化戦略をとることで得票したい日本維新の会の戦略であるとは思います!ただ、このように「リアリスト」という言葉を使うのであれば、それはもう現状追認のごまかしでしかありません。

受験生を教えていても、「『現実』を知れ!」という言葉を叱咤激励として、親御さんや学校の先生から塾生が言われることがよくあります。しかし、「現実」って何なんですかね。それってそんな簡単に知ることができるものであれば、苦労しないと思うのですが…。恐らく、それらの言葉は「今受けても受からない」とか「このままやっても間に合わない」とかを伝えたくて言われているわけですが、受験生の心を不要に傷つけるだけではなく、そもそも「現実」に対する認識を誤らせるものだと思います。

たとえば受験生の例で話すなら、今その子に何ができていて何ができていないか、ということを精密に把握することは、とても難しいです。ましてや、その「何ができていて、何ができていないか」が仮に把握できたとして、そこから「これからどうなるか」などを予測するのは、本当に神の如き所業であるわけです。一流のプロであったとしても「今うちの子がどういう状態であるかについても把握できてる!」とは親御さんには思わないでいただきたい、と毎回思います。いやいや、もちろんそれは親御さんの想像されるよりは、はるかに詳細に把握できているとは思います。しかし、教えている側としては、教えている子たちについて「さっぱりわからない…。」と思いながら、少しでも把握しようと日々接している、と言えます。ましてや、受験生本人においては、ですね。

つまり、「現実を知れ!」という言葉は、現実とは我々が知ろうとすれば知ることができるもの、という前提故に発せられるものです。しかし、それがとてつもなく難しい。受験生だってE判定しか取れていなかった子が適切な努力をしっかりと積んでいって合格することもあれば、A判定ばかりの受験生が落ちることもあります。模試やその他の指標くらいで、あるいは過去問が解けているかどうかくらいで、現実など、わかるわけがないのです。だからこそ、受験生本人も指導する教師もその一見うまく行っているように見える「現実」が本当はどうであるかを少しでも正確につかもうと必死に悩み、考え続けるわけです。

このように「現実」は知ろうと思ったらすぐに知ることができるものどころか、徹底的にそれを知ろうと努力してもなお、その全体像が全くわからないもの、それはたとえば受験生一人の内面や能力についてという限定された範囲ですらほぼわからないわけで、いわんや、政治とか社会とか、経済とか大きなくくりの中で複数のプレイヤーがいるところなど、現実が何かなどわかるわけがないのです。

だとすれば、自分を「リアリスト」と称して、「現実的にこうするしかない!」と主張する殆どの人間は「自分が『これが現実だ』と信じたいもの」を信じて行動しているだけでしかなく、実はrealistではなく、ideologistでしかありません。だからこそ、「自分はリアリストだから…」という主張をする人がいたら、受験生であれ、彼氏であれ、社長であれ、政治家であれ、その他なんであれ、「ああ。この人は自分が現実だと信じたいものを現実と思えてしまう、アホな人なんだな。」と判断してしまってよいと思います。また、「それをあたかも『俺って大人!』であるかのように喋れてしまうイタい人なんだな。」とも、ですね。

現実なんてそんな簡単にわかるわけがない。人類史上最高の天才であっても、そんなものがわかるわけがありません。
だからこそ、自分の追い求める方へと少しでも近づけるために、もがき苦しむしかないのです。もちろん、それはうまくはいかないでしょう。たとえば受験勉強のような、自分ひとり頑張ればよいものであってすら、なかなか思うようには結果が出ないものです。ましてや、この社会とか、政治とか、経済とか、その他のもっと大きなものにぶつかっては、自分が感じる課題点の修正のために必死に努力したとしても、それが変えられるかどうかはあやしいのかもしれません。

しかし、それでもなお、変えられないその状況を「現実」と呼んではならない、と思います。現実の全体像が我々のような
残念な知性しかもたない人間風情に、わかるわけがないのです。わかるわけがないままに「現実主義」をとろうとすれば、
それは私達の勝手な思い込みに基づいて「自分が諦めているが故に失敗する」という決められた轍を踏むだけであると思います。現にこの検察庁法改正への反対運動も、誰もこれが一時的であれ止められるとは思っていなかったと思います。

それでも許せないものは許さない。おかしいことにはおかしいと声を上げていく。諦められないことには努力を続けていく。そういった一人一人の、わかりもしない「現実」になんか気にもとめずに努力し続けていく姿勢こそが、自分の人生を切り開くものでもあり、この社会を良くしていくものでもあると思います。逆に言えば、「現実はこうなのだから」と語る人間は、皆さんをその人の頭の中での「現実」へと従属させようとする詐欺行為へと加担していると言えるでしょう。

というと、「でも教師ってそういう奴じゃね?」という痛い批判を受けることになります。。
確かに僕自身も生徒に向かってそういう「現実的」戦略を説かなければならない役割のときには、説きます。
「現実には無限の可能性があるから!」という態度は、往々にして、単に夢を見たいという現実逃避のためのツールになることもまたあるからです。しかし、一方でそのように「現実的」戦略を説くときの自分が、いかにそこで語られる「現実」を嘘くさいものだと思えるのか、その「現実」的戦略を越えようとする一人一人の思いに対して謙虚に接することができるのか、が教師が偽善によって抑圧を重ねる存在になるのか否かの微妙な分かれ目であるとも思っています。

realistがideologistに過ぎないように、ideologistもideologistでしかない場合も多いのです。では、realとは何か?realistとはどう生きるべきなのか?という、答の出ない問に向き合い続けることこそが真のリアリストではないでしょうか。
そして、そのように取り組む人は、自らのことを「リアリスト」とは呼べない。むしろ、誰にも信じてもらえない夢を信じ続けてはもがき続けるideologistこそが、真のrealistへの道を模索する主体である、と言えるのかも知れません。

僕自身がそのように生きて死んでいけるように、また教える一人一人の生徒たちが、そのように取り組む瞬間を作れるように、今日も現実とはなにか、についてもがき続けていきたいと思っています。

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冷笑主義について。

冷笑主義というのは、自分が既にわかっていることを誰かが言ったとき、それを鼻で笑う態度のことです。「そんな初歩的なことを今更言ってるの?」「そんなことみんなわかった上で議論してるんだよ。」などと笑っておけば、自分が相手に対して優位に立つことができます。

しかし、限られたメンバーの中でそれをするのならともかく(それをすればメンバー内で確実に嫌われるだけなので、冷笑主義の話者に何のメリットもありませんが)、大勢の中で話しているはずのネットではなぜか「どちらがより相手の言うことを冷笑できるか」「どちらが相手の言うことを一顧だにしないか。」勝負!というところがあるようです。ここでも理性的な態度としては、そのように冷笑しては「けっ。素人め!」とやるのではなく、そういった参加者を排除しないようにしていくほうが議論としては盛り上がり、部外者の理解も深まると思うのですが、「自分のほうがより知的であること」を演出するためには、相手の主張がいかに的はずれであるのかを鼻で笑うほうが、そのような的外れな主張に対して真剣に説明して包摂していこうとするよりも、有効であるという判断からなのか、専門家が門外漢をはねつけることがとても多いように思います。

このようにして集合知を実現するはずだったインターネットが、実は各専門知を持つ専門家が非専門者に対してマウントをとるための道具にしかなりえていない、というディストピアが現代であるのでしょう。そこでは素朴な疑問を発することすら許されなくなっていきます。そのようにして、言葉を狩り、素人の疑問を封殺することで、結局は専門家が覇権を握ることになります。(もちろん、ある分野で正しいことを発信している専門家が別の分野ではトンチンカンなことを言っているのがダダ漏れなのもインターネットの特徴ではあるので、それを笑うだけのリテラシーがある人々にとっては集合知に近づいていると言えるのかもしれません。)

私たちは、ある分野の専門家が別の分野にまで正しい判断ができているかどうかは極めて怪しいことを我々が肝に銘じること、だからこそ誰か、とても賢い人の言っていることを真似さえすれば自分が間違えないはずだ!と手を抜かないことが大切であると思います。

それとともに、冷笑することで非専門家の意見を退けようとする人間は、仮にその分野において専門家であったとしても、
あまり信用をしないほうがいいことも確かです。真理の探求とは極めて難しいものであることに畏れのない人間は、
容易に様々なことにおいて事実の重みを見くびっては誤った判断を下します。彼や彼女の専門においてすら、です。

冷笑主義は自分を賢く見せる極めて有効なツールでありながら、それを使うことで自分がこれ以上は一ミリも賢くならなってしまう禁断のツールでもあります。そこに手を染めている人間が果たして本当のことに対して虚心坦懐に探そうとし続けられるのか、と言えばそうではないでしょう。

これはまた属人的に言えることでもありません。途中まではそうではなかった人も、どこかでこの冷笑主義に魂を売り、
それ以上考えようとしなくなってしまうことも多々あります(逆はなかなか起きえません。)。そして、そのように彼または彼女が自身の知っていることの限界を疑うのを止めたとき、そのような主体は、仮に世界中の様々な学問やその他のものに通暁するとてつもない知性をもっていようとも、あくまで人類にとっては有害な存在になってしまうのだと思います。

翻って、自身が経験や知識を得ることが、僕自身が真理に漸近することの妨げになっていないか、わかったような態度をとっては根底から考えるべきことを既に結論が出たものとして冷笑していないかどうか、絶えず疑って行かねばならないと思っています。塾生たちに、そのような賢しげな冷笑主義を決して身につけないでもらうための、一つのもがき苦しみ続ける人間のテストケースとして、あらねばならないと僕は思っていますし、それができなくなるのであれば、それこそ塾などさっさと辞めなければ有害でしかないとも思っています。

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国会での足の引っ張り合いは無益か。

安倍内閣でも、鳴り物入りの女性大臣の二人が有権者への利益供与の疑いで辞任しました。これに関しては、追及する側の民主党議員でも、政治資金の記載があやしいところもあって、安倍首相が「打ち方やめになればいい」と言ったの言わないのだのも問題になっています。

このようなことがあるたびに、私たちの常識的な反応としては「そんなくだらないことで相手を攻撃するのなんてばからしい。それこそ、そんな低レベルの追及合戦はやめて、政策論争にこそ真剣に取り組むべきだ!」的な感想をついもってしまいがちです。しかし、僕はそのような感想を持つことこそが無責任であると思います。なぜなら、このような「くだらない追及の仕方」こそが実は高度な民主主義社会においては、不可避であると思うからです。

それがなぜかと言えば、これだけ様々な社会の抱える問題が高度化、複雑化している中で、個別の政策論争をいくら政治家同士がかまびすしくやったとしても、それに我々国民はついていけないからです。与野党で主張が大きく別れるような政策論争上の争点が仮にあるとして、それについてどのように各陣営が互いの主張の正しさ、相手側の主張の欠点を説こうとも、肝心の我々国民にはそのどちらの主張がより正しいのかを判断する能力がありません。「能力」という言葉は実はさらにごまかしで、それを判断しようという意図がそもそもないと言えるでしょう。それほど私たちは、日々の生活に追われ、目の前の仕事に追われ、その中で政策論争の双方の主張をしっかり勉強しては、そのどちらが正しいのかをいちいち、多岐にわたる分野において精査することなどする気にもなれないでしょう。

日常生活が安定している中では、当然個別の政策への関心は薄れます。あるいは、安定していない状態にある人で、その状態の政治的解決を目指す人々は、その単一の課題に全力を尽くします。結果として、一人一人にとってkeenである政策(即ちそれは、その政策の対象とする範囲の人々が極めて狭いもの)以外に関しては、ほとんどの国民は関心を持たないといえるでしょう。

そのような「無関心」の中では、野党側がいかに個々の政策論争で与党よりもよい提案をしようとも、それを理解し評価できる有権者などはほとんどいないわけですから、そのような地道な努力が与党の力による独断専行にブレーキをかけられることはありません。たとえ、それを個別の政策についてしっかりと観察し、評価する国民がいるとしても、それはごく少数であり、選挙の大勢には全く関係がないでしょう。このような状況の中で、野党として与党の独断専行を防ぐためにとれる方策は、「政策論争などの勉強していない人でもわかる論点で戦うのではなく、国民の誰にでもわかるような部分で与党を批判する。」という作戦しかありません。それが即ち、「カネ」「女性あるいは男性」スキャンダルであるわけです。これならば、一人一人の倫理観の問題であるがゆえに、個々の政策について吟味する気力も意図もない国民にとっても、わかります。「こんなカネに汚い人に政治は任せられない」「こんな異性にだらしない人に政治は任せられない」という言説は、それが命題として正しいかどうか、そもそも検証可能な命題であるのかどうかをさておいたとしても、有権者にとって訴え、かつ理解してもらえる数少ないチャンネルの一つであるのです。だからこそ、「そんなあら探しではなく、政策論争を!」という一見理性的なかけ声を私たち国民が、訳知り顔で言っているうちはこの状況は変わらないと言えるでしょう。野党の国会議員もバカではないのです。むしろ、そのような主張ならマスコミも大きく扱ってくれて、国民も問題視してくれるというこの状況を苦々しく思っているでしょう。しかし、他に権力の抑制のために訴えられる手法が極めて限られているため、結局そのような手法をとらざるを得ない。そのジレンマに苦しんでいるのだと思います。

このように、醜いように見える「足の引っ張り合い」にも必ずその裏に、もっと深い動機があるのだと思います。しかし、です。このような攻撃手法の行き着く先は、やはり地獄です。そもそも、こうした状況を深く理解し、戦略的に行動しているよほど切れ者の議員か、あるいは本当に聖人君子のような議員でなければ、相手をこのような基準で攻撃すれば、当然自分たちも火の粉をかぶることになります。当たり前です。つまり、権力を握っている側の独断専行への対抗策として導入したはずのこのやむをえない攻撃が、結果として自分たちをも傷つけ、そもそもこのような筋の悪い手法をとったのにも関わらず、権力へのブレーキとしてはさして有効なものではなくなる訳です。そして、残るのは双方のこのような下世話な攻撃に慣らされ、さらに愚かになっていった国民、という恐ろしい事態でしょう。もちろん、マスコミがこれを増幅するのがよくない、というのも正しいのですが、所詮マスコミは買い手の求めるものを書くものです。それは朝日新聞であれ、産經新聞であれ同じことです。

ここには、民主主義がそもそも人口が億をこえるような社会において成り立ちうるのか、という壮大な社会実験の成れの果てがあるのかもしれません。これだけ構成員が多い社会で、これだけ様々な社会制度が複雑になってはその概要を一人の人間が把握することなどどんな天才にも難しい、という状況の中で「政策論争」が国民の代表の間で可能であるのか、可能であるとしてもそれが国民の投票行動とどうリンクしうるのか、という難しい問題を抱えているのだと思います。

その上で、私たちはもっと勉強をしなければなりません。「中傷合戦や粗の探し合いはうんざりだ。もっと政策論争を!」と偉そうにいう私たちは、実際に政策論争をされていったときに、その双方の主張を精査しては立場に偏りなく判断できるのでしょうか。そもそも、日々の仕事や家事、育児に追われて、「そのような難しいことはわからない」という姿勢をとってはいないでしょうか。自分の仕事と家庭のことだけを考えているから、政治家に「倫理観とかについて与党を攻撃しないと有権者にはわからないだろう!」と見くびられて(また事実その見くびりは正しいのです)、結果として民主主義の失敗とでも言える事態へと落ち込んでいってしまっています。「下らない追及をしやがって」と憤る前に、あのような下らない追及をするところまで自らの品位を下げてでも、権力を持っている側の独断専行にブレーキをかけようとしている(かもしれない)彼ら野党議員の悲痛な思いに思いを馳せねばならないと思います。たとえ、野党が自民党であれ、民主党であれ、です。そして、考えるべきことにはやはりそれが大きく複雑な問題であっても取り組んでいかねばならないと思います。少なくとも僕は、それを、教育の面からやっていきたいと思っています。

学習塾にとっては、「バカでもわかる卑近な評価基準」とは即ち、合格実績である訳です。教育ジャーナリストのおおたとしまささんが母校の麻布高校のことを振り返ってBLOGOSで書いていて、「麻布の自由が守られる為には麻布は進学実績を出し続けねばならないことを後輩諸君は心して欲しい」ということを書かれていました。これは事実認識としては、その通りである訳ですし、嚮心塾も、広告を出さない、DMも打たない、検索してもこんな文字数が多く塾のことを説明してないブログしか出てこない、最近に至っては看板すら出さない日の方が多い、という中で何とか営業できているのは(改めて書いてみると、我ながらひどいですね。)、ひとえに(毎年の受験生が頑張ってくれた)合格実績のおかげであるわけです。しかし、まあ、そこに満足してしまうのは、結局国会での足の引っ張り合いで満足してしまう国会議員とあまり変わらないのだ、と自戒していかねばならないと思います。もちろん、できる限り全員を合格させてあげたい、という思いはずっと強くありますし、そこにもまだまだ改善の余地があります。ただ、それは手段であって目的ではありません。彼ら、彼女らがそのように真剣に学ぶ塾での日々を通して、勉強にはきりがないこと、社会の中で自分が生き延びるという以上により大きな責任を担っていくためには自分の人生だけがうまくいっているだけでは駄目であること、そしてそこまでを射程に入れてがんばろうとするとき、どのような天才にとっても人生は極めて厳しいのだ、という事実を直視した上で、そこに粘り強く立ち向かう一人一人になっていってほしいと思っています。

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