
まずは自身の失敗談から。上の娘がお腹にいる頃、今から19年前くらいの話からです。
出産に向けて様々な準備をしていこうと色々と調べているうちに、うちの奥さんは血液型がRH(ー)なので、胎児がRH(+)だと血液型不適合妊娠が起きてしまうおそれがある、ということに気づきました。それを防ぐためには抗D免疫グロブリンという血液製剤を注射するわけですが、それを出産後72時間以内には必ず打つマニュアルに当時からなっていたのですが、妊娠中の感作を防ぐために欧米では念の為妊娠後期(28週)にも打つ(トータル2回打つ)ことが当たり前になっているということも調べていてわかりました。
一方でその頃の日本の病院ではその28週でも打つのはあまり一般的なやり方ではなく、僕らがお世話になっていた産婦人科でも出産後72時間で打つのみというやり方が主流でした。そのやり方はやはり確実では言えないのではないか、と僕が不安になり、妊婦健診で担当してくださっていた医師にも交渉をしたところ、「出身大学の産婦人科にも問い合わせて確認したが、そこでもやはり28週には打っていない」と渋られました。そこでその医師に欧米と日本でRH(ー)の血液型の存在比が大きく違うことを示した上で、「日本ではそもそもRH(ー)の妊婦の存在比が少なすぎるからこそ、たとえその妊娠後期でのグロブリン投与をしていなかったとしても問題にはなりにくいのではないか。欧米のやり方がすべて正しいわけではないが、RH(ー)の妊婦の存在比がはるかに多い欧米でスタンダードになっている方法を取るのがやはり「万全を期す」ということなのではないか。」と説得し、その医師にも了解してもらい、結局28週に打ってもらうことになりました。それが理由かどうかはわかりませんが、血液型不適合妊娠は結局起きず、無事に出産を終えることができました。(今で言えばモンスターペイシェントですね。。本当にすみませんでした。)
その後、日本産婦人科医会でも妊娠28週でのグロブリン投与はRhガイドラインで明記されるようになりました。推奨度も段々と上昇しているようで、あのとき要求したことが的外れではなかったのは(モンスターペイシェントながらも)よかったとは思っています。
というのを塾ではたまに話したりしていました。ただ、これを(お恥ずかしいことに)「俺SUGEEE!!」という自身の慧眼についてのエピソードとして話していたのですが、年を取って考え続けていくうちに、これも一種の「争点化」にすぎなかったのかな、と反省する部分もでてきました。
コストとベネフィットを比べてみれば、あそこで28週に免疫グロブリンを打たない(自費診療なので3万円くらいしました)という選択肢もある。実際にそれを打たなくてもなんともなかった可能性の方がむしろ大きかったかもしれない。安全な出産のためにはその費用ぐらい出したい!という気持ちももちろんある。とはいっても、実際に母子感作が起きたとしてもそれはその当時の医学的常識では「仕方のない」結果であったと言えるし、医療訴訟で医療ミスを争ったとしても間違いなく負けるはず。もちろん僕自身、たった一度の出産をそのように確率を考えることで「これが起きちゃったら仕方ない」と言わないためにあらゆる可能性を尽くしたかった、というのはあるとして、しかし、その「あらゆる可能性」はもっと他のことではなかったのか。たとえば病院の近くに住んで通院時の事故リスクを下げるとか(これはもちろん実行しましたが。)その他諸々あったはず。その中でなぜ、僕がこの28週でのグロブリン投与にこだわったのか。そこに母子を心配する以外の動機がなかったと果たして言えるのだろうか。
上の段落でごちゃごちゃ書いたように、僕の対応が最適解であるかどうかは(それが日本産婦人科医会のガイドラインにその後採用されてきたとしてもなお)、わかりません。そのわからないことの中で、僕がその方向性を選んだのには「これは争点化できる!」といういやらしい自己演出の動機がなかったとは言いきれないのです。もちろんその自己演出が母子の安全な出産とは矛盾する方向になされているのであれば、本当の人でなしであり、僕が基本的には情が薄い人間であるとはいえ、さすがにそこまで人でなしにはなれないのですが、しかし、母子の身体を安全へと近づける方向を徹底して目指した上で、そういういやらしい動機が本当に少しもなかったのか、様々なことを調べていてこの事実に気づいたときに、このような主張をすべきであるということを自分の存在意義として喜ぶ気持ちがなかったのかといえば、やはり、ありました。この事実に気づいたときに僕は血液型不適合妊娠による感作をどう防ぐか、という妻や子への不安や心配だけでなく、出産に関して無力な自分の存在意義を少しは見つけられたといういやらしい気持ちがありました。
このような「争点化」は虚栄心からなされるものです。そしてそれは自己の存在理由を客観性をもって主張するための格好の材料として実行されるものです。研究において、様々な論文が先行研究の中での自身の研究の位置づけを最初に主張するのもこのいやらしい「争点化」と同じです。それは必要なことであるし、またそのいやらしさを通じて人類が発達してきたということもまた事実だと思います。ただ、一方でそれが卑しい行為であることもまた認めねばならないと思っています。「誰もこれを主張していない!」と気づいたときにそれが目の前の人の幸せに繋がるかどうかだけでなく、それは社会的に意義のあることだ、ということまで考えてしまい、「争点化すべきだ!」と考えてしまう自分がまさに卑しさの塊であるのです。(もちろんこのような卑しさからでなく、義憤や問題意識からまだ社会の中で取り組まれていない課題に取り組み、虐げられているもののために命がけで人生を費やし、そして報われなくてもそのように必死に取り組み続けて道半ばでなくなっていく人もいます。研究者にもまたそういう人もいるでしょう。しかし、最初はそうであったとしても、それをずっと続けることはできません。真心や義憤、初期衝動から始まったはずの社会改良運動や研究や創作が、いかにそれ自身を自己目的化しては当初の「魂」を失った後もあたかもそれが燃え続けているかのように振る舞いつつ、続けられていくのか。ベルクソンはそのことを辛辣にも的確に書いていましたが。)
という点では研究者は全て卑しいのです(偏見)。また、芸術家だって全て卑しいのです(これまた偏見)。新しいものを探す、他と差別化する、この世界の中での存在意義を作ろうとする、ということには絶えずこのいやらしさが伴います。ということをJ.J.ルソーも『学問芸術論』で言いたかったのだと思っています(あまり理解はされていませんが)。知性というのは不誠実でいやらしく、目の前の人を真剣に心配しているときもなお、遠くを見つめているものであるのだと思っています。それ故に人間は進歩してきたという事実があるとしても、知性のこのいやらしさを正当化できるわけではありません。この知性偏重社会においては、知性が長い目で見て生み出すリターンに目がくらみ、目の前の一つ一つに対しては不誠実であることを正当化しようとしてきた、という全体の方向性なのではないか、と思います。もちろん「自然に帰れ!」と言ったって仕方ないし、そもそもそれは間違っている(そしてルソーもこんなこと言ってない)わけですが、このいやらしさ、不誠実さを結果から正当化しない、ということもまた知性がその価値を保つために残された最後の一線であるように思っています。
そしてこうした知性のいやらしさ、すなわち「争点化」への意欲は政治において、顕著な形で失敗として現れてくるのだと思っています。
さて、政治においてこの「争点化」といういやらしい動機がどのように政治をダメにしていくか、ということを書こうと思ったのですが、いつもどおりまた長くなってしまいましたので、続きはまた次回に。政治においてこそ、この「争点化」といういやらしい動機が激しく機能しては内ゲバを生み出し、どうでもいいことを争点として仕立て上げていく、ということを次回は何とか書いてみたいと思います。
出産に向けて様々な準備をしていこうと色々と調べているうちに、うちの奥さんは血液型がRH(ー)なので、胎児がRH(+)だと血液型不適合妊娠が起きてしまうおそれがある、ということに気づきました。それを防ぐためには抗D免疫グロブリンという血液製剤を注射するわけですが、それを出産後72時間以内には必ず打つマニュアルに当時からなっていたのですが、妊娠中の感作を防ぐために欧米では念の為妊娠後期(28週)にも打つ(トータル2回打つ)ことが当たり前になっているということも調べていてわかりました。
一方でその頃の日本の病院ではその28週でも打つのはあまり一般的なやり方ではなく、僕らがお世話になっていた産婦人科でも出産後72時間で打つのみというやり方が主流でした。そのやり方はやはり確実では言えないのではないか、と僕が不安になり、妊婦健診で担当してくださっていた医師にも交渉をしたところ、「出身大学の産婦人科にも問い合わせて確認したが、そこでもやはり28週には打っていない」と渋られました。そこでその医師に欧米と日本でRH(ー)の血液型の存在比が大きく違うことを示した上で、「日本ではそもそもRH(ー)の妊婦の存在比が少なすぎるからこそ、たとえその妊娠後期でのグロブリン投与をしていなかったとしても問題にはなりにくいのではないか。欧米のやり方がすべて正しいわけではないが、RH(ー)の妊婦の存在比がはるかに多い欧米でスタンダードになっている方法を取るのがやはり「万全を期す」ということなのではないか。」と説得し、その医師にも了解してもらい、結局28週に打ってもらうことになりました。それが理由かどうかはわかりませんが、血液型不適合妊娠は結局起きず、無事に出産を終えることができました。(今で言えばモンスターペイシェントですね。。本当にすみませんでした。)
その後、日本産婦人科医会でも妊娠28週でのグロブリン投与はRhガイドラインで明記されるようになりました。推奨度も段々と上昇しているようで、あのとき要求したことが的外れではなかったのは(モンスターペイシェントながらも)よかったとは思っています。
というのを塾ではたまに話したりしていました。ただ、これを(お恥ずかしいことに)「俺SUGEEE!!」という自身の慧眼についてのエピソードとして話していたのですが、年を取って考え続けていくうちに、これも一種の「争点化」にすぎなかったのかな、と反省する部分もでてきました。
コストとベネフィットを比べてみれば、あそこで28週に免疫グロブリンを打たない(自費診療なので3万円くらいしました)という選択肢もある。実際にそれを打たなくてもなんともなかった可能性の方がむしろ大きかったかもしれない。安全な出産のためにはその費用ぐらい出したい!という気持ちももちろんある。とはいっても、実際に母子感作が起きたとしてもそれはその当時の医学的常識では「仕方のない」結果であったと言えるし、医療訴訟で医療ミスを争ったとしても間違いなく負けるはず。もちろん僕自身、たった一度の出産をそのように確率を考えることで「これが起きちゃったら仕方ない」と言わないためにあらゆる可能性を尽くしたかった、というのはあるとして、しかし、その「あらゆる可能性」はもっと他のことではなかったのか。たとえば病院の近くに住んで通院時の事故リスクを下げるとか(これはもちろん実行しましたが。)その他諸々あったはず。その中でなぜ、僕がこの28週でのグロブリン投与にこだわったのか。そこに母子を心配する以外の動機がなかったと果たして言えるのだろうか。
上の段落でごちゃごちゃ書いたように、僕の対応が最適解であるかどうかは(それが日本産婦人科医会のガイドラインにその後採用されてきたとしてもなお)、わかりません。そのわからないことの中で、僕がその方向性を選んだのには「これは争点化できる!」といういやらしい自己演出の動機がなかったとは言いきれないのです。もちろんその自己演出が母子の安全な出産とは矛盾する方向になされているのであれば、本当の人でなしであり、僕が基本的には情が薄い人間であるとはいえ、さすがにそこまで人でなしにはなれないのですが、しかし、母子の身体を安全へと近づける方向を徹底して目指した上で、そういういやらしい動機が本当に少しもなかったのか、様々なことを調べていてこの事実に気づいたときに、このような主張をすべきであるということを自分の存在意義として喜ぶ気持ちがなかったのかといえば、やはり、ありました。この事実に気づいたときに僕は血液型不適合妊娠による感作をどう防ぐか、という妻や子への不安や心配だけでなく、出産に関して無力な自分の存在意義を少しは見つけられたといういやらしい気持ちがありました。
このような「争点化」は虚栄心からなされるものです。そしてそれは自己の存在理由を客観性をもって主張するための格好の材料として実行されるものです。研究において、様々な論文が先行研究の中での自身の研究の位置づけを最初に主張するのもこのいやらしい「争点化」と同じです。それは必要なことであるし、またそのいやらしさを通じて人類が発達してきたということもまた事実だと思います。ただ、一方でそれが卑しい行為であることもまた認めねばならないと思っています。「誰もこれを主張していない!」と気づいたときにそれが目の前の人の幸せに繋がるかどうかだけでなく、それは社会的に意義のあることだ、ということまで考えてしまい、「争点化すべきだ!」と考えてしまう自分がまさに卑しさの塊であるのです。(もちろんこのような卑しさからでなく、義憤や問題意識からまだ社会の中で取り組まれていない課題に取り組み、虐げられているもののために命がけで人生を費やし、そして報われなくてもそのように必死に取り組み続けて道半ばでなくなっていく人もいます。研究者にもまたそういう人もいるでしょう。しかし、最初はそうであったとしても、それをずっと続けることはできません。真心や義憤、初期衝動から始まったはずの社会改良運動や研究や創作が、いかにそれ自身を自己目的化しては当初の「魂」を失った後もあたかもそれが燃え続けているかのように振る舞いつつ、続けられていくのか。ベルクソンはそのことを辛辣にも的確に書いていましたが。)
という点では研究者は全て卑しいのです(偏見)。また、芸術家だって全て卑しいのです(これまた偏見)。新しいものを探す、他と差別化する、この世界の中での存在意義を作ろうとする、ということには絶えずこのいやらしさが伴います。ということをJ.J.ルソーも『学問芸術論』で言いたかったのだと思っています(あまり理解はされていませんが)。知性というのは不誠実でいやらしく、目の前の人を真剣に心配しているときもなお、遠くを見つめているものであるのだと思っています。それ故に人間は進歩してきたという事実があるとしても、知性のこのいやらしさを正当化できるわけではありません。この知性偏重社会においては、知性が長い目で見て生み出すリターンに目がくらみ、目の前の一つ一つに対しては不誠実であることを正当化しようとしてきた、という全体の方向性なのではないか、と思います。もちろん「自然に帰れ!」と言ったって仕方ないし、そもそもそれは間違っている(そしてルソーもこんなこと言ってない)わけですが、このいやらしさ、不誠実さを結果から正当化しない、ということもまた知性がその価値を保つために残された最後の一線であるように思っています。
そしてこうした知性のいやらしさ、すなわち「争点化」への意欲は政治において、顕著な形で失敗として現れてくるのだと思っています。
さて、政治においてこの「争点化」といういやらしい動機がどのように政治をダメにしていくか、ということを書こうと思ったのですが、いつもどおりまた長くなってしまいましたので、続きはまた次回に。政治においてこそ、この「争点化」といういやらしい動機が激しく機能しては内ゲバを生み出し、どうでもいいことを争点として仕立て上げていく、ということを次回は何とか書いてみたいと思います。



