fc2ブログ

嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

向坂くじら『とても小さな理解のための』書評!?

今年7月に出版された、向坂くじら第一詩集『とても小さな理解のための』が卒塾生の詩集であるという贔屓目を差し引いてもなお、とても素晴らしいのです!ということでその詩集のレビューをいつもどおりの長文で書こうと思います。

まずはこの話から。(当分書評に入りません。申し訳ないです)
ベルクソンは我々が現実だと思っている現実というのは、あくまで現実の中のごく一部でしかないことを指摘します。そして我々はあまりにも多様な現実の中でごくごくわずかなその一部分のみを取り出して、それを現実と呼ぶことで何とか情報処理をパンクさせないようにして暮らしている、ということを指摘しています。

ベルクソンによるとそうした多様で膨大な現実の中で、我々が自分にとって現実を絞り込む基準となっているのは「有用性」である、ということです。我々は自分の生存にとってそれが道具として、材料として、その他のものとして、それが役に立つかどうかだけを考え、その役に立つかどうかという側面しか見ないことで、何とかこの多様で膨大な現実の中で情報を取捨選択して生きている、ということですね。

これは物に対してだけでなく、人に対してもそのような見方でついつい見てしまっているのが我々なのかもしれません。どのように自分にとって役に立つかだけを考えてはそれだけでついつい見てしまう、というのは私達が人を物扱いしているというだけでなく、物をもまた物そのものとして扱えているのではなく、有用性という見地から物の様々な側面を捨てて認識してしまっている、ということなのでしょう。

さて、「しまっている」と否定的ニュアンスを込めて書きましたが、「そうしなきゃ行動も生活もできないんだから、仕方ないじゃないか!!」「むしろそのように有用性だけを絞り込めることにこそ人間の賢さがあるのではないか!!」という主張もあるとは思います。ただ、このように自分の周りを自分にとっての有用性のみで意義付けし、そしてそれを「うまいこと」使って生きていこうとする、というのは人間に特有の能力ではなく、むしろ人間以外の全ての動物に見られる共通の特徴でもあります。つまり、この「うまいこと利用する」は人間を人間たらしめるものではない、ということです。

ならば、人間を人間たらしめるものはなにか、といえば知性の発達とそれ故の意識の発達により、我々が周囲の世界を有用性以外の観点から見られるようになったということであると思います。この「短期的有用性の奴隷」状態からの人間の脱却と、無駄に見えること、意味がないように見えることにも意義を見出し、それについても考えたり試行錯誤をしたり、その一見無駄に見えたことがのちのち大きな有用性を持つことに気づいた結果として、人間の文明はそもそも直接的な有用性へと敏感な本能をはるかに発達させている他の動物や昆虫よりも、より遠くへと行くことができたのでしょう。その点で、無駄なものなど何もなく、我々がとりあえず役に立たないとしているものについても、本当に役に立たないかどうかはわかりません。だからこそ、私達が自らをその短絡的な有用性の奴隷へと自らを貶めることは、単に世界観の貧しさという点で劣っているだけではなく、実は有用性の新たなる発掘という点においてもなお、人間の可能性をどぶに捨てている、と言えるのだと思います。

さて、そのように整理してみると、自らが日常の有用性に基づいて世界を狭く狭く切り取っているときに、その狭さに気付かさせてもらえる媒介になるようなものとは何なのか。その一つが芸術であり、詩であるのでしょう(ようやく詩の話になってきました!)。何かしら大事なものを日々を生きていく中では必要ないものとして切り捨てないと、私達は生活を送ることができない。しかし、それが片手落ちどころかほぼほぼ全て落としており、決してそのまま生活できていればいいや!とは思えないほどに人間の精神には自らが現実のほんの一側面しか切り取らないで生きている自分に違和感を覚える機能がある。そしてそれはまさに人間固有の「喪失感」として人間を人間たらしめてくれるものである。でも私達は自分では何を捨てているのかについてなかなか気づくこともできないし、現代社会の忙しさと高度に発達した魔法のような文明は、むしろ私達に「すべてのことをわかっている必要も考える必要もないんだよ。ただ、それが便利に使えていればいいじゃない。」という方向へと私達を飼い慣らしていきます。

こうしてみると、人間の知性から生まれたはずの「直接的有用性の奴隷状態からの離脱」が生み出したはずの我々の高度な文明は、我々自身に「直接的有用性の奴隷状態」になることを、以前とははるかに比べ物にもならないペースと圧力で要求してくるようです。有用性を最大限に利用するためには無駄なことをしている暇などないわけです(中学に入学したらすぐに大学受験のための予備校に行くように。)こうして人類の黄昏はやがてくるのでしょう。考えないで良いことは考えないようにしよう。少なくとも我々は何を考えるべきかについてはもう十分に知っているはずだ。だから、考えるべきことだけを考えれば良く、それ以外のことを考えることは無駄に過ぎない、という合理性の名の下に。

このようにして、私達は考えることに無駄すら許されなくなります。学問ですら、「競争的資金」という有用性競争によってそのような「有益な」研究を生み出せという圧力を受け続けます(そして、日本の研究機関はその圧力で壊滅的になっています)。

このような中で唯一無駄に考えることを許されているのは芸術家です(といっても芸術に国家の補助金も入ってしまっていますが)。さらにはその中でも何の役にも立たない詩人なんかはまさにその最たるものでしょう。そもそも何の役にも立たない存在として見捨てられているからこそ、無駄に考えることを許されている。それは、人間にとっての唯一の抵抗の根拠となりうるものかもしれません。


さて、ようやく書評に入れるわけですが、向坂くじらさんのこの詩集は、私達が「考えても仕方のないこと」「それはそういうものとして受け入れていること」「生きていくこととはそういうこと」に徹底的に引っかかり、違和感を述べ続けます。それはまさに、有用性を求めて生きられる生活の中で光を当てられていない世界の別の側面に光を当てるものが詩である、という詩の真っ当な定義に沿ったものであると思います。

ただ、それだけではないのがこの詩集の恐ろしいところです。この詩集は「こんなふうにも考えられるよね?」と私達の日常への狭い見方を解きほぐしてくれるだけではありません。「こんなふうにも考えられるよね?(って言わないと私は生きていけないのだ。)」というその言葉を発せねばならない詩人の必然性に満ち満ちているように感じられます。私達が有用性のもとに踏みにじっている現実の別の側面に対して、踏みにじられる側の痛みと苦しみとやるせなさとに満ち満ちているのです。それはあるいはフェミニズムという言葉で見えてくるものであったり、あるいはLGBTQという言葉で見えてくるものであったり、あるいは…。と様々です。このように行間から立ち上がる何かが、向坂さんが踏みにじられている当事者だからなのか、踏みにじられている人にどこまでも共感してしまうからなのか、またはその両方なのか、という内実はわかりません。ただ、これを可能にしているのが文学的想像力だと言えるのであれば、そして人は自らの体験からしか語り得ないとする実存主義的立場が振りかざされるのにはくっきりと抵抗している、と言えるのではないかと思います。

もちろん、我々はある点でふみにじられるminorityでありながら、別のある点ではふみにじるmajorityでもあります。どの点でもminorityである人は存在しません。それを志すこともまた、ある意味で属性によって自身の特権的言論を確保しようとするいやらしい試みでもあるわけです。むしろ私達はどんなにminorityとして踏みにじられる部分を様々な面で感じ続けようとも、自らのmajorityとしての特権性へと耐えず目を向け続けていかねば、容易に道を踏み外していきます。

向坂さんの詩を発するその必然性に、嘘がないとは言いません。想像力とは、嘘の別名であるからです。しかし、閉じる膜のような家庭に、恋愛と結婚へと結び付けられてしか語られない愛に、社会的役割によってしか定義されない自己に、生活へと取り込まれた動物の死体の摂取(食事)に、その他様々な有用性ゆえに要求される一面的解釈という暴力に踏みにじられるその痛みにこの詩人が抗議するとき、それは自分のために怒りつつ、他人のために怒っていて、そこではもはや自他の区別はないように読み取れます。

もちろん、このように読者に感じ取れるこの詩人の「切実さ」もまた、想像力の産物なのかもしれません。そこにこの詩人の実存を読み込もうとする読み方も、実存主義をひそかに導入しているという点では卑怯な論考であるようにも思います。しかし、その切実さへの想像力がもし可能であるのなら、単に作品を生み出す、詩を書く、ということよりももっと大切ななにかに繋がるものであるとも思います。その「嘘」への懸命な、祈りのようでさえあるチャレンジを、一行一行に感じることができるのではないか、と思います。

私達が有用性のために見る暇がないと思っていたものに対してただ気づかせてくれるだけではなく、それらに目を向けなければいけない切迫性にも、「そんなことに目を向けてなんかいられない!」という余裕の無さにも、どちらにも寄り添ってくれるような詩の数々です。人間は「余計なこと」ばかりを考えると同時に、人間は「余計なこと」を考えてちゃいけないと自分を追い詰めて生きざるを得ません。先に長々と書いたように、現実を有用性という側面だけで評価せずに「余計なこと」を考えられるのが人間のアイデンティティだとしても、そのアイデンティティが生み出した文明によって人間はさらに「余計なこと」を考える余裕を失うところに追い詰められてもいるわけです。その中で詩のもつ可能性は、実はとても大きなものではないか。そのことを教えてくれるような詩集だと思います。

私はあなたではない。それは絶望なのか。それとも希望であるのか。

この事実を絶望にしないためにこそ、人間の想像力はあると思います。決して届きえない手を何とか届けようと手を伸ばし続けるために。そのようにもがくすべての人にとって、この詩集は大切な本になるのでは、と思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

『子どもの算数、なんでそうなる?(谷口隆著・岩波科学ライブラリー)』書評

友人の、神戸大学数学科の谷口隆先生が初の単著を出しました!!
この本が「友人の著作」という贔屓目を抜きにしても本当に素晴らしいです!!
親御さんや教育関係者はもちろん、何より教育を受ける中で考えることを奪われては覚えさせられてばかりしてきた若い世代にこそ広く読んでほしい本です。塾でも大量購入して、できる限りみんなに読んでもらえるように配っています。

比較的読みやすく、かつ内容も読みやすいだけにとどまらずに色々と深く考えさせてくれる本なので、僕がくどくど書かずに「詳しくは是非お読みください!」で終わらせるのが一番野暮ではないのですが、せっかくなので僕もこの本で触れられたいくつかの論点について、読んだ感想を書いていこうと思います(全国の数少ない長文ブログマニアの皆様!久々に超長文です!)。

①第1話の「イジワル問題」での位どりについて、このような「イジワル問題」自体は昔からあったものの、何故そのような「イジワル問題」に子どもたちが心を奪われて一時期大流行するのか、一方でその「イジワル問題」が何故高学年になればあっという間に廃れていき、もはや誰も口に出さなくなっていくのか、についてこれほど整合的かつ説得力のある解釈自体がとても斬新でした。

子どもたちが自分たちの中ですぐには理解できずにフラストレーションを感じる学習内容に対して、「それならこれもいけるじゃん!!」というように「イジワル問題」を出してくるのは、彼らなりに直感的には理解しにくい内容を受け入れていく、という痛みを伴うプロセスの中で必要な代償行為であり、それを「正しい理解を邪魔するから、こういうこと考えちゃ駄目!」と頭から否定すること自体が子どもたちにとって学ぶプロセスを阻害する、ということについては全くそのとおりであると思います。習った新しい知識を鵜呑みにしようとする子よりも、今までの自分の常識から演繹的に引き出される別の結論についても考えてみて、そしてその両者の齟齬について悩み、考えることこそ子どもたちにとっては教わる内容が「神聖不磨の内容」ではなく、なじみのあるもの、自らの理性を向けてよい対象として考える習慣を育みます。逆に言えば、それなしに「正しい結論のみを覚える」ということを繰り返していく中で、「自分などは考えても無駄で学校で習う正しい理論を覚えて使いこなせるようになればよい」という諦めをもってしまい、その結果としてその子の成長をもいずれ阻害していきます。「イジワル問題」についてのこの本での考察は、小学校低学年の子にとどまらずあらゆる学習プロセスにおける人間の学び、というものについても考えさせてくれます。(たとえばカール・マルクスは微分について彼の『数学ノート』の中で違和感を述べ、「こんなのごまかしだ!!」と書いていたわけですが、その内容の当否は別として、それは彼なりの数学を学ぶ際の代償行為であったり、「イジワル問題」であったのでしょう。そのマルクスの不明を現代の(あるいは当時ですら)見地から批判することは簡単ですが、彼がそのように自分の中の考えを演繹してはそれと学ぶべき確立した数学体系との齟齬を率直に表明したこと自体はやはり大切なことだと思います。まあ、マルクスの場合、「俺の方が正しい!」という主張っぽくなっちゃうのは難点なのですが!)

②第3話のマルとペケについては、とにかく「ペケ」の捉え方について、特に親御さんにわかっていただきたい内容でした。間違い(ペケ)をして叱られると、子どもたちはその間違いについて深く考えることを止めてしまいます。「叱られる」というのは彼らにとっては加害を受ける、ということであり、それを受けた時点で問題なのは自分が犯した間違いではなく、この場をどう切り抜けるか、どうしたら次の加害(叱責)を防ぐことができるか、に彼らの問題意識が焦点を合わせていくようになるからです。第一章で書かれていたように、「ペケ」が生まれる、ということは、自らのこれまで踏まえてきたものから出てくる推論と、現実や体系だった理論との齟齬が生まれた瞬間であり、それこそが学習者にとっては学習に繋がる最大のチャンスです。しかし、それを外部から叱責をすればするほどに、「そのような間違いがない方がいい。」となっていってしまいます。間違えた部分を隠したり、あるいは間違いの多いテストを隠したり。はたまた間違えた問題について「これはケアレスミスだから(大したことはない)」と強弁したり。こうしたペケをペケとして価値中立的、むしろ肯定的に評価する、という姿勢がなければ、そこから学ぶことはできなくなってしまいます。

これはまた、子どもや学習者だけではなく、大人も同じです。たとえばCOVID-19に対するこの一年の日本政府の対応がどうだったか、というのももうほとんど答え合わせができるほどになってきているとは思うのですが、それでも政治的責任をとらされることを恐れては「間違いはないほうがいい」とするあまりに、「適切に対応している」と強弁しながらほとんど何もしない、という事態が続いてしまっています。「ペケを叱責する」という文化は「叱責されないためにはペケがない方がいい」ということになり、ペケを隠蔽したり、それが大したものではない、心配する必要のないものであると強弁したりするという行動様式に繋がります。もちろん、それでは現実(その学習内容が理解できていないという現実、あるいは感染拡大が防げないという現実)は変えられないわけですが、それでも叱責を恐れる当事者にとっては、今この瞬間に叱責されないためになら、どんな不正をも働くことになってしまいます(もちろんこのアナロジーは家庭の中で弱い立場でしかない子どもたちと社会の中で圧倒的に強い立場を持つ政府とを同一視している点に難があります。またご家庭での叱責は基本的に失敗にしかつながりませんが、政府の施策に対する批判はむしろなければ健全ではない、といった違いもあります。ただどちらも考え、取り組むべき「問題」そのものを見たり考えたりすることなく、自分を批判する「人」だけを見ていて、その相手をどう誤魔化せばよいかにしか意識が向いていない、というところでは共通点があります)。

話を教育に戻せば、お子さんが自らの誤りを直視しないことに嘆く前に、彼ら彼女らがそれを直視しない原因として自らの叱責や態度がその原因ではないのか、ということに関しては教育者や親御さんが広く反省しなければならないことであると思います。そして、誤りを肯定的に捉えなくなってしまうことは、子どもたちにとっては学習の機会を逃し続けることとなり、そして、自らのこれまでの理論と新しい学習内容との齟齬を考える機会を失っては、学習意欲自体を失っていくことに繋がります。

③第4話での「子供の思考は往々にして十分に表現されていない」「しかし、その中には鋭い指摘がある」は、教育に携わる人間が肝に銘じておかねばならないことであると思います。彼らの拙い言葉による異議申し立てや違和感を「プロトコルが整っていない」という理由で却下することは簡単であるのです。しかし、そのような表現力の不備や手順や手続きの不備ゆえにそれらの異議申し立てや違和感を却下すること自体が、子どもたちの考える力を奪っていくものであると思います。教育者にとって必要なのは、彼らのその言葉足らずを補い、補助線を引き、彼らの異議申し立てを最良の形へと精製していった上で、それに対してどう応答していくかを悩むことであると思います。

もちろん、このような態度をとる教師や親は、威厳を保つことはできないのかもしれません。さらに、子どもたちの質問をそのように「精製」していけばいくほどに、実は深くて答えられない質問というのは多くなり、結果として答につまる教師が増えるでしょう。この辺りも「何でもパッと答えられる教師が優秀」というステレオタイプを捨てて、「むしろ丁寧に子供の質問を聞いた上で悩んだり考え込んだりときには答えられない質問も多い教師のほうがむしろ優秀」というように我々の価値観もアップデートしていかねばならないと思います。

④第5話、第6話で印象的だったのは、子どもにとってある合理性を徹底したことが「誤り」とされる結果に繋がっているときに、それは「誤り」として一から否定してよいものなのか、というこの本の問いかけでした。仮に正解とされるものを合理性や論理性の追求なしにバラバラに受け入れていくとすれば、そのような博物的な「正解群」の収集からは知らないことに対する判断能力、というのは鍛えられていきません。だからこそ、誤った結果が出てくるとしても、ある合理性や論理を追求していった結果として出てきたものに対しては相応の評価をして、そのような取り組み自体をしっかりと評価しては励まし、その上で理論上での「正解」とはどこが原因でズレが生じたのかを探していく、ということが教育においてはとても大切だ、という主張には完全に同意です!

と書いてみると簡単なのですが、これが非常にやりにくくなってしまっているのが現在の日本の教育だと思っています。これはやはり「正解」かどうかを誰でもさっと調べられる、ということが一つの欠点になってしまっていると思います。

子どもたちが今出している結論が誤りであったとしても、誤りをどの段階で訂正していくのか、ということはこの本にもある通り難しいものです。実際に教える際に、たとえばいくつかのそうした誤りを今訂正するべきではないな、と思って放置しておく、ということをたとえば塾でも意図的に行うことがあります。それは「学び初めのうちに『とにかく正確に!』という方向にあまり口を出しすぎてしまうと、そもそも勉強の全体像がひどく難しいものだと怖気づいてしまわないように、わざと誤りを放置しておく」という戦略が有効なことが多々あると思っているからです。その放置しておいた誤りに生徒自身がやがて自分で気付けることが一番の理想です。自らの合理的な推論をより精緻にしていけば、そのように自分で自分の誤りに気づいていけるようになっていきます。また、気づけていないままだとしたら、残り時間との兼ね合いの中でどの段階でそれを訂正していくのか、ということをこちらも考えながらやっていく、ということになっていきます。

イメージとしては家具とかを作るときに一つ一つのパーツをネジ止めする際に最初はあまりきつく締めすぎないで「仮止め」するのと同じですね!それが学習においても必要なステップであると考えています。

一方で親御さんは常に「自分の子供が勉強をわかっていないのでは」という不安に駆られているものなので、「正解だけを教えてほしい!」というようにどうしても思いがちです。あるいはそのような焦燥感を内面化してしまっているお子さんもまた一定数います。そのような学習者あるいは学習者の保護者からすれば、「正解」とされているものにたどり着く道筋がわかっていなくても「とにかく正解を教えてもらえればいい」ということになります。「正解をくれるのが良い先生」「正解ではないことを言うのは駄目な先生」という二分法で判断するようにもなってしまいます(もちろん、このようになってしまうのには本当にいいかげんな教師も一部ながらいる、ということがその理由ではあるのですが…。)。このような場合、「正解である」というのは「だから、それ以上考えなくて良い」という免罪符のように機能してしまいます。これが「正解を与える」ことが成長を阻害することの理由であると思います。

お子さんの論理プロセスの発達段階を見て、「最初からベストの方法や答」を教えるということがその子の成長に繋がらないとこちらが判断した場合、迂遠ながらも一つ一つ彼らがそのプロセスを積み上げていけるようにしていかねばなりません。そのようにして積み上げた勉強は、「天から降ってきた正しい答をとりあえず鵜呑みにする」という学習法とは違って、迂遠ながら決して後戻りすることのない実力をつけていくことに繋がります。一方でそのようなやり方はときに「誤りを放置している」「ちゃんと見ていない」と短絡的に判断され、結局「初めから正解を叩き込むことをなんでちゃんとやらないのか!!」という抗議をうけやすくなります。

これは学習内容だけでなく、実は学習態度についても言えることです。「スマホをたくさんいじって勉強できない」「家でダラダラして勉強しない」など、親御さんがお子さんの学習に不満を感じることばかりでしょう。しかし、これらもまた彼らなりの合理性ゆえにそのような行動様式に至っているのだ、と言えます。だからこそ、これらを「スマホをいじらずに空いている時間は全て勉強をするのが正解だ!」を様々な手段でお子さんに押し付けること自体が「正解」を彼らが理解できないままに強制することでしかありません。彼らの合理性にはどこまで整合性が有り、どこからはやはりそれでは通用しなくなるのか、を迂遠だとしてもとことんまで付き合っては一緒に考えていくのでなければ、結局は何らかの「暴力」によって子どもたちに「正解」を強制するだけになってしまいます。その強制のタガが外れれば、自分からは努力できない人間になるだけであると思います。

話が実践的な方にだいぶ逸れました。この第5話、第6話で述べられたような教育をどう実践していくか、については非常に難しいことでしょうが、それでも追求されるべき価値のあることであり、それをこのように明記されているのは、本当に素晴らしいと思っています。(社会学者の岸政彦先生がよく言う「他者の合理性」を、子どもたちに対してもしっかりとその存在を仮定しては尊重していけるかどうか、であると思います。)

⑤第7話のかけ算の順序論争については、議論のたたき台として、とても説得力のある内容になっているのではないか、と思います。かけ算の順序論争といっても、「順序はある!」と言って、へんてこな理屈をこねくり回してしまう小学校の先生方(というよりそのイデオローグですね)がまずは大きな問題であるとは思うのですが、一方で「マルだろ!」という抗議には「かけ算で理不尽なバツをつけられて子どもたちが可哀想!これは虐待だ!」という感情も入りがちなので、議論が難しいです。コミュニケーションとは言葉の定義の不正確さをある程度許容することで、相手の言いたいことを把握しようとし続けていく、という営みだと思うのですが、この辺りは慎重に議論できる土台ができることがとても大切であると思います。この第7話はその確かな土台になると思います。

⑥第8話については、これもとても本質的な問題提起をしてくれている章だと思っています。それは「術」としての理解なのか、「理論」としての理解なのか、という違いについてです。これは「算数教育」という話題にとどまらず、そもそも我々が何かを「マスターした!」と感じる時、それは「術」として使えるようになったに過ぎないのではないか、その学問を理解できてなど全くいないのではないか、という問題提起を含んでいると感じました。理解できているかどうかの尺度を「使いこなせる」という基準でとどめ、それがどのような意味を持つかを考えることはむしろ余計なものとして切り捨てていく、というような教育、いや、それは初等教育の話にとどまらずに、人間にとってこれだけ高度に発達した学問というのは、たとえばごく狭い専門分野についてですら、かつそれに寝食を忘れて没頭する天才たちですら、それを「術」として使える以上の「理論としての意味」を考えるということができているのか、という問題があります。

たとえば我々がスマホを使いこなせているものの、そのスマホの社会経済的、あるいは工学的「意味」がわかるかどうかはもちろん考えてすらいないままに、しかしそれは便利であり、有用な結果が出てくるし、その使い方さえわかっていればよい、としています。道具についてはそれで良いとして、様々な学問体系というものは我々にとって何が大切か、何が真理であるかのとりあえずの指標となるものです。それが「術」としての理解とその運用にとどまり、それ以上の意味については誰も考えないままにただ「有用な」結果だけが出てくる、ということに安住してそれ以上意味を考えないのだとしたら、そのような「術」しかわかっていないものを使い続けていくことの意味は、より決定的で取り返しのつかないものとして具体化していったときに初めて気づくしかなくなります(たとえば経済学で言えば、ミルトン・フリードマン的なマネタリズムが「術」として金融工学を生み出し、それが結果として一部の者への冨の還元という「結果」を生み出していったことの結果がやがてサブプライムローンの破綻によるリーマンショックへと繋がったときのように。あるいは彼らを源流とする新自由主義がどれだけ社会基盤を掘り崩したか、ですよね。それはまた、特に日本においては大学という基盤をも掘り崩しています。)。ノーベル経済学賞はフリードマンやロバート・ルーカスにお墨付きを与えました。それは同時に「術」が「術」でしかなく、その意味を考えないという姿勢が学問においてすら一歩間違えれば蔓延してしまう、ということの現れでもあると思います。

我々が幼児の算数の「理解」の仕方があくまで一面的な「術」でしかない、と気づくときというのは、そのような批判の眼を我々自身の学び方についても向けることのできる大きなチャンスである、とも思います。

⑦第9話の「普通のパンだと「3つに分ける」と「3等分」の区別に関心を持てないお子さんが、こよなく愛するメロンパンだと急に「等分」に対して関心をもつ!」というのも本当に大切な視点です。結局人間というのは、自身が関心を持っている対象についてでなければ、違いを意識しようとしないものです。だからこそ、教えるときにはその子にとって興味のあるものを通じて教える内容が伝わるように、という工夫をしていかねばならず、「100人いれば100通りの教え方」が必要になります。

塾での実例を挙げると、「絵踏」の話について、ある受験生が「先生、こんなのでキリスト教信者なんてあぶり出せるの?ウソつきゃいいじゃん。」という質問をしてくれたことに対して、こちらはその子が電車に造詣が深く、またNゲージの蒐集家でもあることを知っていたので、「ではこの国が鉄道マニアを弾圧するようになって、鉄道マニアかどうかを判別するためにNゲージを踏ませる、という選別をしていったときに、君は自分の身の可愛さゆえにNゲージを踏めるかい?」と問うたところ、「踏めるわけがない…。」と真っ青になっていたことがありました。

たとえばある概念について生徒の理解が追いついていない状態は、そもそもその生徒がその対象に対して真剣に思考するだけの動機づけを感じ取れていないからなのかもしれません。言い方を変えれば、それを「生きている中で自分が直面している(いく)問題」とは捉えられていない、とも言えるでしょう。生きている中で自分が直面している(いく)問題とは感じていないものに対してそれなりに努力をするのは、そのような努力が進学や就職その他で後で必ず報われる、という功利主義的な動機によらないと難しいでしょう。

しかし、理解が追いついていない状態をそのような功利主義的な動機によって埋め合わせをしようとしていくことは、結局何一つ直接自分の問題とは捉えられないままの状態で「転ばぬ先の杖」としての学習をする、という習慣をつけることになっていきます。それはやがて、自分の人生が安泰だな、と思った瞬間に学ぼうとする姿勢を放棄する、ということでもあります。大学入学時なのか、就職活動が終わった後なのか、tenureを得た後なのか、は人それぞれであるとしても、です。

そのような長いスパンで見たときの停滞は、やはり目の前の考えるべきとされる課題を、ただ「それが必要だから」ということで子どもたちに押し付けてしまうことの結果であるのかもしれません。もちろん、入試まで、というタイムリミットがある中で、受験に必要なすべての教科について、「それらの内容自体が自分の人生で直面して取り組むべき問題である。」と認識できて取り組める子はごく一部のとても賢い子でしかないでしょう(それこそ、このような子は東大に受かる程度の子ではありません。)。しかし、少しでもそのように「この子にとって何が『メロンパン』なのか。」を探し続けていくことは、周りの大人が担うべき責務であると思います。

⑧結びについて、です。誤りを楽しむためには、その誤りについて考えるだけの余裕がなければなりません。そのためには周りの大人たちが子どもたちに誤りについて責め立てる、ということが絶対にあってはいけません。ただ、実践面でこのように「誤りについて責めない!」という規範を親御さんや教師が持とうとするのは、自分を必死に律しなければならない点で、非常に実現が困難であるように思います。

そうではなく、この本にあるように、誤りを肯定的なものとして捉え、子どもの誤りを「楽しむ」という姿勢がとても大切だと思います。

というと、「いやいや!そんなの無理!」と学齢期の親御さんはついつい思ってしまいがちですが、その何年か前まで、幼児期や少なくとも乳児期には子どもたちの言い間違いや認識の間違いについて、「なんて可愛いんだ!!!」「めっちゃ天才じゃん!!!」などと感動したり、面白がったり、たくさん肯定的にとらえてこられたはずです。それを思い起こしては、子どもたちの誤りを学齢期だろうとなんだろうと、「楽しむ」ことが大切です。

「いやいや、それじゃ受験に間に合わないじゃん!!」と思われるかもしれませんが、このように「子供の誤りを楽しむ」ご家庭で育ったお子さんは、実は教える側からしてもとても教えやすく、力が付きやすい、ということも事実としてあります(もちろん、だから「誤りを楽しんだ方がいい!」というのはまた本末転倒な気もしますが。我が子の将来が不安なときの心の持ちようにはなります!)。なぜならそのようなお子さんは、自分の誤りを開陳することでひどく叱責される、ということにビクビクしていないために、自らが誤りを何かしら吐露することを恐れずに、意欲的に喋り、聞いてきます。そのようにしてくれればくれるほどに、こちらとしてはその子をどのように教えるかについて、ヒントを沢山もらうことができ、結果として実力が伸びていきます。

逆に誤りを犯すことを許されない家庭で育ったお子さんは、そもそも「この大人も誤りを見せれば、叱責なりしてくる加害者だ!!」という姿勢で勉強をします。だからこそ、自分がわかっていないことをとにかく見せないように、隠すように、していきます。誤りがバレないためにはどうしたらよいでしょう?ひたすら黙秘ですね!そのようにしてとにかく尻尾を掴まれないように、ということばかり顔色をうかがっては考えてしまいます。。

そのようなお子さんに対してこちらがまずやらなければならないことは、「この場ではむしろ自らの誤りや足りない部分を積極的に開陳しても、誰も責めないどころかむしろとても素晴らしい姿勢として肯定される!」という環境であることを徹底的に理解してもらっていくことから始めていかねばなりません。そのように、「誤り」をその子を攻撃する材料として使うのではなく、その子の中の誤りを一緒に楽しみ、その上でどのように改善していくか、という相談をしていく、という信頼関係を作っていくまでが本当に大変です(その信頼関係を築き上げては、誤りをオープンにしていくことが本人にとって実りあるものである、ということを理解してもらうまでにさんざん苦労する、という子が毎年塾でもいます)。

学齢期であれ、あるいは何歳になろうと「誤りを楽しむ」という姿勢はとても創造的な結果へと繋がる、と実感しています。この本の結びは、「誤り」に対して我が子の将来を心配するがゆえについつい誤りを叱責してしまう世の親御さんたちにとって一つの歯止めになりうる素晴らしい提言だと思います。

⑨さて、ということで長々と書いてきたのですが、本当に素晴らしい本なので、是非読んでいただけたら!

ということで終わらないのがこのブログ!!
ここからは僕がこの本にインスパイアされて考えたことをもうちょっとだけ書きたいと思います。

このブログでも何回か書いているように、教育というのはとても効率の悪い作業です。知識や理論の外部化によって、人類は本能を代替してきました。しかし、外部化する、ということはそれを新たな個体が生まれるたびに学び直さなければならないわけで、非常に時間がかかり、効率が悪いプロセスです。もちろん学問の進歩によって我々は「巨人の肩に乗る」ことができているわけですが、しかし、そもそも生まれた瞬間に脳みそにダウンロードできるような技術が発達すれば、あるいはそもそも脳みそを付け替え可能な何らかの記憶媒体で代替できるのであれば、このように「学習」とか「教育」という無駄なプロセスを必要とせずに、人間は生まれた瞬間から誰もがそこまでの学問の到達点を使いこなせる状態からスタートできるわけです。もちろん、それが技術的に可能なのか、という問題点は残るとしても、それが人類にとって理想である、という考え方もいずれ出てくるのかもしれません。

ただ、そのようなことが技術的に可能になったとしてもなお、僕はそれは人類にとって理想ではなく、むしろ絶対に忌避すべきことであると考えています。なぜなら、我々があたかも「個体発生が系統発生を繰り返す」かのように、種として外部化してきた知識や理論を個体として学びなおしていくそのプロセスにおいて、我々自身が磨かれていくだけでなく、その学んでいく対象としての知識や理論の中にある欠点が気づかれ、その疑問に対してどのように他のアプローチを考えていくか、ということを通じて外部化され蓄積されてきた人類の知識や理論自体が磨かれていくからです。

それはこの本の中で出てくる、「子どもの素朴な質問が鋭い」ということがまさにその可能性を示してくれていると思います。無数の個体が種として生物の外部に蓄えてきた体系をわざわざ個別に学び直していく中で、その体系自身の不完全さに気づき、それを何とか修正しようともがく個体も出てきます。そのような個体の努力で、今ある人類の学問体系自体が今よりもマシなものになっていく可能性を持っています(もちろん劣化する可能性もあります)。学習や教育というプロセスは仮に莫大なコストと時間がかかろうとも、何度も何度も各々の個体によってチェックされ、ときに致命的な欠陥に誰かが気づき、そしてそれがまた新たな理論として体系化されては進化していくために必要であるのです。

逆にそれらが生まれた瞬間に一瞬でダウンロードできて、誰もが共有できるものになったとすれば、仮にここまでの学問体系がどれほど高度に発達したものであったとしても、その中に含まれる「誤り」に我々は気づくことができなくなります。それは皆が共有している前提であり、その体系を学ぶ過程で自身の既存の理論からの演繹との齟齬を味わってきていないが故です。そのような停滞を許すことはまた、ベルクソン的にいえば我々知的生命がなぜ知性を持っているのか、という責任を放棄することにもなってしまうと思います。あるいは、ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物であるステパン氏の「一篇のシェークスピア(精神的価値)は長靴(物質的価値)よりも尊い!」という敢えての宣言をも裏切るものでしょう。(もちろん精神を持つ我々の生命は、何らかの精神的価値を生み出すためである、というこれらの定義が恣意的に過ぎないと感じるとしてもなお、そのような「停滞した」理論はやがて処理しきれない現実の前に大きな災厄を被らざるを得なくなっていくと思います。)

その点では、「子供の素朴だが鋭い疑問」は彼らの健全な成長に必要なだけではなく、私達人類がとりあえず今信じている学問体系自体が更に誤りを修正していくためにも、必要不可欠なものなのではないか、と思います。子どもたちの誤りを楽しむことは、決して「子どもたちの理解者であれ!」といった「子どもに優しい」大人であれ、ということではないのです。彼らの誤りを楽しむことは、私達自身の誤りを楽しむことでもあり、ひいては人類の誤りを楽しむことでもある。そのような態度からしか、新たなものは生まれ得ないのではないか、と思います。

逆に、子どもたちに「正解」を押し付ける、ということはすなわち、今は技術的にはできない「とりあえず正解を脳みそにダウンロード」を擬似的に行うような教育方法でしかなく、それは教育という極めてめんどくさいながらもしかし不可欠なプロセスを台無しにすることであるとともに、ゆくゆくはそのような教育を受けた子たちばかりが成長したら、「やっぱりいちいち誤りが出るよりは全部ダウンロードした方が効率よくない?」という意見がmajorityになってしまうようにも思います。この本は身近な我々の振る舞い方だけでなく、そのように教育という行為の意味についても考えさせてくれる(?だいぶ僕の妄想も入りましたが!)本であると思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

第3回 レヴィ・ストロース『悲しき南回帰線』(講談社学芸文庫)

待っていても、アマゾンのリンクが直らないようなので、たまりにたまった書評を書いていきたいと思います。

この本の存在はもちろん、それこそ中学生くらいから知っていたのですが(僕の中学、高校生時代は構造主義ブームでした。)、そのときに構造主義の解説本をあれこれ読んだせいで、なんとなくわかっている気になっていて、その後レヴィ・ストロースの著作を読むことはありませんでした。この歳になってようやく読んだわけですが、感想としては、この本をもっと早くに読んでいなかったことをとても後悔しました。(これもまたブログで記事にして書きますが、読書をするときの大切な心がけは「誰かの思想について書かれた本」を読むのではなく、その当の本人の書いた本を読む、ということです。たとえばカントについて何冊もの解説書を読む暇があったら、カントの本を一冊読むほうがよほど実りがあると思います。それをつい初学者は「難しいのでは」と避けてしまうわけですが、それらの歴史に残るテキストの方がはるかに内容が豊かであり、また(ここが重要なのですが)解説書にまとめきれないような様々な他の要素を含みます。解説書はその元のテキストを「こういうことを言おうとしているのだ!」と勝手に定義して切り取ってくるわけですが、その解釈は当然時代によって変わります。しかし、そのテキストがなぜ人間の歴史に残らざるを得なかったかは、実はそういう解釈の外にあることが多いと思います。たとえるなら、解説書を読んで元のテクストを読まない、というのは、ベストアルバムだけ聞いて、そのアーティストについて理解した気になるようなものだと思います。何が「ベスト」か、という話です。)

前半の各部族についての分析と考察はもちろん、それが貴重な資料的価値をもつ、という以上に彼の本質へと切り込んでいく考察力が感じられる、とても素晴らしいものです。彼らの習慣や風俗の細部に対して意味を見出し、考察していくそのアプローチは感動的ですらあります。

しかし、今回初めて読んで、僕が圧倒されたのは、最後の何章かです。ここではまさに、優れた社会学や文化人類学のテクストという範疇を超えて、「なぜ社会学が必要であるのか」「なぜ文化人類学が必要であるのか」という社会学や文化人類学の存在意義についての彼なりの非常に説得力のある洞察がなされています。社会学や文化人類学というのは、しばしば非常に興味深すぎるがゆえに、興味本位からなされてしまう学問なのではないかと僕は思っています。しかし、レヴィ・ストロースはそれを、私たちが、そこに産み落とされてそれを当たり前だと感じているこの社会を相対化していくために必要であるのだ、という社会学や文化人類学の目的を示したのだと言えます。

その社会学や文化人類学の目的である「自分の社会の相対化」とは、もちろん自分の社会に当たり前に内在してしまっている暴力への批判のツールとともに、まさにルソーが『社会契約論』で描いていた、「人間が社会状態で生きざるを得ないとしたら、何が正当なものとして認められうるのか」という問いそのものです。そのような考察は今までの社会への批判のツールとして機能してきた、というだけではなく、これから未来永劫、人類が社会を形成していく中で必ず陥りがちな様々な暴力に対しての批判のツールとなりうる、ということでもあるのです。ルソーが理想的で正当な社会とは何かを考えることで、現存の社会の不当性に目を向けさせる努力をしたのと同じように、です。よくある誤解として、ここでの「ルソーの理想とする社会が成立したら全体主義的でおそろしい」とかがあるのですが(カール・ポパーもこのように誤解していました)、あれは永遠に完成しないものですし、そもそも正当な社会がどう成り立ちうるのかについてのルソーの考察が全て正しいわけではありません。部分的におかしいところはたくさんあるのだと思います。しかし、そのような「社会状態における理想」を考えることこそが、現存する社会の欠点を批判する運動の絶えざる源泉となりうる、ということが彼が『社会契約論』で描きたかったことだったのだと思います。まさにレヴィ・ストロースはそのメッセージを真正面から受け取り、ルソーの時代にはヨーロッパ人には到達することのできなかった地域に入り、ヨーロッパとは違う進歩の道筋を考察し、そして人間社会の普遍的条件とは何か、そこにどうしても含まれてしまう暴力とそれを克服するために何が必要であるのかについて、懸命に考察したと言えるでしょう。

個人的にはレヴィ・ストロースのルソーへの理解、『社会契約論』の必要性とそこに至るまでのルソーの思想の歩みが、僕がルソーを読んで考えたのと同じように記されていた、という感動もありました(僕は学部の頃、ルソー研究をしたかったのですが、ルソーの研究書を読み漁れば漁るほどに絶望していました。こんなに何も理解できていないものが「研究」として評価されるのなら、あまり研究者になっても仕方がないなあ、と。あの頃に、このレヴィ・ストロースのルソー理解について読んでいれば!全く勉強不足というのは恐ろしいものです。この本の中ではディドロとルソーの根本的な違いについても触れられていますが、これも本当にレヴィ・ストロースのいうとおりで、僕もゼミの先輩の院生に「ルソーを自分もやろうと思ったんだけど、ルソーは研究多いからディドロからルソーにつなげたいと思ってディドロをやっている。」と言われて、「ディドロとルソーなんて、似て非なるもので、思想として共有できるものなんか一つもないのに!」とその理解の浅さを耐え難く思ったという体験を思い出しました)。

また、他にも(といって挙げ出すとキリがないのですが)、レヴィ・ストロースが文字のない社会の酋長に文字を書いて見せたところ、その酋長だけは部族の他の構成員と違って、文字を使うということの「政治的意味」を察知し、もちろんフランス語なんかわからないのだけれども、同じ部族の仲間の前では(自身の権威を増進するために)フランス語の文字の意味を解し、それで彼ら文化人類学者とコミュニケーションがとれているかのように振る舞った、というエピソードも極めて示唆の多いものでした。

本当におすすめの本です。何より、「この本の概要は解説書とかで知ってるからいいや。」という大学生のときの僕のアホみたいな失敗を、若い皆さんには繰り返してほしくないと思います。

もちろん、「未開の奥地」も物理的にはなくなりつつある現代において、私たちが自分たちの置かれた社会の必然性と偶然性、その社会の伴う、なくすことのできる暴力となくすのが難しい暴力への考察はレヴィ・ストロースのようにはもうできないのかもしれません。ある意味で、文化人類学とはショック療法のようなもので、皆が自分たちとはまるで違うかのように見える「未開の奥地」という社会を初めて知り、それについて学ぶ中で見える共通点と相違点から自らの社会について考える、というのはエキゾチズム、あるいはサイードの言葉を借りれば、オリエンタリズムがあるからこそできる手法であると言えるでしょう。「こんな遠くの、一見全く違う発達をしてきた人々の社会との共通性が!」という感動はその「遠さ」を実感できる時と、あまりその遠さを実感できなくなってからとでは説得力が変わってくるものです。すなわち、相互の「違い」を感じることができるからこそ、共通部分についての感動が深くなります。その意味では、「300万年に実は火星に移住していた人類と同じ起源をもつ生物の社会もまた地球上の人類社会とこのような共通点が!」みたいなことがなければ、このようなアプローチは難しいかのように一見思えるかもしれません。

しかし、ヨーロッパ人が反省するのに、南米の奥地までいかねばならないことについて、レヴィ・ストロースもまた批判的であるように、地球人が自分たちの批判をするのに火星まで行くことが必要であるのなら、それは絶望でしかないでしょう。反省や考察に必要なのは、そのような自分たちの社会にとっての絶えざる外部を求め続けるエキゾチズムではなく、自身の所属する社会の様々な前提について、徹底的に疑っては考察していく力なのではないでしょうか。そのこともまた、このレヴィ・ストロースの本は感じさせてくれる(彼自身もそのような「外のものをもってくることで初めて相対化できる」という安直な考え方には批判的であったと思います)、という意味では文化人類学の始まりでありながら、しかし文化人類学にとどまらない可能性を示してくれるのではないでしょうか。

翻って、日本では、ですね。自らの足りないところに気づくために「アメリカでは」「ヨーロッパでは」を繰り返してしまいがちなところは、明治期以降のもはや習慣なのでしょうが、それをやっている以上はいずれ行き詰まります。むしろ、日本が直面している課題には様々な「課題先進国」ともいえる課題・難題がたくさんあるのですから、それに真正面から取り組むことを(広く外部に学ぶことは排除しないまでも)自らの頭で疑い、考えていくことこそが大切であると思います。将棋の羽生名人のように、「難解を楽しむ」(by豊島将之七段)ですね!

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

マルセル・モース『贈与論』

贈与という行為がもらった側の精神を縛り、反対給付(受け取った側がお返しをすること)を要求していく様子を、文化人類学的に分析した本です。それは単なる心理的義務を超え、その贈与された物自体、あるいはそこに宿った「精霊」というものがその反対給付を具体的に要請する、ということについての言及は、私たちがお中元やお歳暮、年賀状に関して感じている感覚を、各々の主観的な感覚ではなく、客観的事実として社会の中に根付かせようとしていた原始社会の知恵を教えてくれます。

なぜ、その感覚を社会の中に根付かせようとしたのかといえば、それこそが社会の結びつきの基盤であると考えられていたからでしょう。贈与とそれに対する反対給付の繰り返し、というのは、終わりのないことです。与える側は常に受け取ったよりも多くを与え、それによって直近の贈与で受け取った側は常に負債感をもたざるをえないからこそ、さらなる反対給付を続けることによって、関係性が途絶えることがない、というのがこの贈与による社会の結びつきを強くしていく仕組みです。

それにたいして交換は、「等価交換」であるがゆえに、その一回の交換で関係性を断絶することができてしまいます。言い換えれば、交換をいくら重ねていっても「相手に対する敬意や負債感」というのは(感受性が豊かでない限り)育まれない、ということです。

これなどはちょっと前に流行った国際関係論での相互依存論、すなわち、国際的な交易が進めば進むほど相互依存が高まるわけで、そのようになればなるほどに戦争というものは起きにくくなる、という考え方についての有意義な反論を内包していると思います。そもそも(等価の)交換を幾度重ねようとも、それによって関係は深まりはしない、という反論が成り立ちうるからです。

モースは交換と贈与とは別の成り立ちなのではなく、贈与の応酬が次第に交換へとつながっていった、と考えていたようです。もちろん、その仮説は確かめようがないことではあるのですが、先に言ったように贈与の応酬が社会の結びつきを強化する反面、間口を広くどの集団ともその関係を結んでいくのは難しい反面(相手がその応酬に入ることのできるような信頼できる相手かどうかを吟味しなければ応酬が続く前に贈与のための資源が枯渇してしまいます)、交換は等価であるがゆえに相手への信頼を必要としません。そこでの一回限りの交換が自分にとってそんな交換ではないならば、交換をする相手が誰であろうとどうでもよいからです(まあ、ヤフオクのようにそもそもその「等価」での交換が本当に成立しうるのか、というところの問題は残りますが)。しかし、それはtransactionの間口を広くとれる、というメリットができる一方で、その一回一回の交換そのものが、社会の結びつきに何のプラスも与えていかない、というデメリットを内包しているわけです。

まあ、平たく言えば、ネット上で一番安い金額で買えば地元の自転車屋さんで買うより安く手に入るとしても、地元の自転車屋さんと顔なじみになって自転車の不具合を相談したり、ときに自分の子供が見知らぬ大人に危害を加えられそうになったとき、その自転車屋さんが気づいてかばってくれる、とかいうことは起きなくなってしまう、ということです。貨幣と自転車との交換だけを考えれば、地元の自転車屋さんで買うメリットはありませんが、
それは自らの「社会」を細らせて、孤立していく道でもある、ということです。それをたとえばネットで買うのと地元の自転車屋さんで買うのとの差額を「贈与」ととらえれば、それに対しては必ず地元の自転車屋さんも何かしらで反対給付をしてくれます。それによって、人と人との(交換を超えた)結びつきが生まれていく、という感じでしょうか。

他にもドイツ語で「与える」ということは「毒」を意味すること、それには贈与のもつその一回にとどまらず被贈与者に働きかける性質を表している、などとも書いてあり、学ぶことの多い本でした。

その意味で、今もなお、いや、ネットショッピングその他で交換が面と向かって行われることすらなくなってきた、今だからこそ読まれるべき本であると思います。(アマゾンのリンクが今、不具合で貼れないので、また復旧次第貼りたいと思います。こんな話をした後にアマゾンのリンクを貼る、というのがなんとも矛盾ではあるのですが)

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

『ドストエーフスキー覚書』森有正著(ちくま学芸文庫)

さて、予告していた書評の一回目として、森有正の『ドストエーフスキー覚書』について書きたいと思います。もちろん、このブログの読者というマニアックなみなさんなら、「森有正」と「ドストエーフスキー」という二つのワードは何回も出てくることに気づいているわけで、「その森有正がドストエーフスキーについて書いている本なんだから、当然昔から読んだことあるんでしょ?」と思われると思うのですが、実は最近になって初めて読みました。もちろん、森有正全集の中で最初から気になっていたのですが、ドストエーフスキーを全部読むまでは理解の仕方に森有正のバイアスが入るのが嫌だったこと、全部読んでからはむしろ僕の中で勝手に森有正を日本にいる時の「前期森有正」とパリに渡ってからの「後期森有正」に分け、「前期森有正の本を読む必要ってあまりないかも」と思っては後回しにしていたところがあります。

しかし、今回文庫版が出たのを契機に読んでみて反省させられたのは、まずは自分のその下らない弁別の仕方でした。思想家としての森有正の萌芽は、学者としての森有正の中に確かに存在していた、そのことがとてもよくわかるのがこの本です。「覚書」という謙遜からもわかるように、これはドストエーフスキーの作品について、なんらかの学術的視点から分析をしたものではありません。もっと正確に言えば、分析をしていこうとしては、途中で挫折をしてわけがわからなくなっている、という方がよいかもしれません。しかし、そのわけがわからなくなっている部分が、とてもよいのです。そこでのもがきながら言葉を紡ぎだそうとする森有正の苦闘は、ドストエーフスキーの作品に対して、それと同じような重みで応えようとする苦闘であると思います。結局、その語り得ないものをなんとか語ろうとして挫折するその試み自体が、パリという触媒と出会い、彼をして自らの思想を自らの言葉で語ろうともがき苦しむ思想家への道へと引っ張って行ったことがとてもよくわかる本であると思います。その意味で、僕はその森有正のこの本に現れたもがき苦しみ方に、読んでいて何度も涙してしまいました。また、それが確かにドストエーフスキーの作品のテーマと響き合った部分と出会った瞬間には、この上のない感動を覚えました。

ドストエーフスキーについても、僕は彼の作品について書かれた本(で僕が今まで読んだ本)の中で、最もお薦めだと思います。だいたいは、ドストエーフスキーの解説書というのは、彼の作品のわけのわからなさを、わけのわかるように解説しようとしているわけですが(まあ「解説書」なのでそれは当然です)、そもそも解説書でわけがわかるようなものがかけるなら、あんなうっとうしい小説書く必要がないわけです。森有正のこの本はドストエーフスキーの小説の中でひっかかるべきポイントについては、かなり丁寧に網羅できていると思います。もちろん、それらのポイントを説明できるかといえば森有正をもってしても四苦八苦しているわけですが、たとえばドストエーフスキーを読んで、「この小説の何にみんなはそんなに感心したり憤慨したりしてるの?」と何も残らずに読み終えてしまった人は、この本を読むとどこに論点があるのかはよくわかるのではないかと思います(まあ、何も引っかからずに読み終える人は、この本を読んでもよくわからない可能性も高いでしょうが)。

ふう。もっと書きたいことは山ほどあるのですが、一回目なのでこれくらいにして、書きたいことはまたブログの方で書こうと思います。皆さんもよかったら、ぜひ読んでみてください。


ドストエーフスキー覚書 (ちくま学芸文庫)ドストエーフスキー覚書 (ちくま学芸文庫)
(2012/04)
森 有正

商品詳細を見る

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

書評を始めます。

この塾のブログを始めて以来、書きたいことを好き勝手書いてきたわけですが、この方式ですとこのブログを偶然探し当てるのがかなり大変であると思います。まあそれでよいし、それで塾が潰れたら潰れたでいいや、と思ってやってきたわけですが、嚮心塾に新しく入ってくれた塾生が、人が変わったかのように必死に勉強し始めるのを毎年見ていて、「やはりもっと多くの人にこの塾のことを知ってもらった方がよいのではないか!」と(11年目にしてようやく)思うようになりました。そこで、この塾を知らない人の検索にもヒットするような、塾とは関係ない具体的な何かについての内容もこのブログに定期的に書いていこうと考えました。

で、何について書こうかといえば、僕が人より多少詳しいものなんて、ラーメンと本ぐらいしかないわけです。
で、どちらか、あるいは両方を書こうと思ったときに、ラーメンブログは僕もたくさん読んで参考にさせていただいているわけですが、ラーメンブログを書いてしまうと書いている皆さんのようなあのペースでラーメンを食べ続けなければならない、ということに気づきました。ただでさえ不摂生の極みの僕が塾を知ってもらうためにラーメンを食べ続けるのは、塾を広く知ってもらう頃には僕が不摂生で倒れる恐れがあります。さらにはラーメンブログとして有名になったら、ラーメン店主さんに新しいお店の開店試食とかに呼ばれて、ズブズブの付き合いになって、そうすると食べても本当の意見が書きにくくなっちゃって、あるいは「これでいい評価お願いします」とか袖の下を渡されて、でも「僕は真理の追求のために本当の意見を書くんだ!」とか決意したり、「でも自分の書く内容であの店主さんの幼い息子さんが笑って暮らせるなら、むしろ筆を曲げて誉めまくることの方が正しいのではないか」とか夜中に悩んだりして、ちょっと何と戦っているのかよくわからなくなってしまう気がします。あるいは飽きさせないために、様々な地域のラーメン屋さんに食べ歩いてはネタを仕入れてくる、とかやっていくと、そのために塾を閉めざるを得なくなり、ともう本末転倒になりそうです。

ということで、書評を書いていこうと思います。もちろん、塾をやりながら、さらには教えるために様々に勉強をしながら空いている時間で読んだ本についてですので、ペースは大したことがありませんが、ときどき書いていこうと思います。また、卒塾生がどんな本を読んだらいいか参考にする際に、このブログを参照できるとよいかな、とも思っています(ラーメン屋さんの情報は直接僕に聞いてください)。

もちろん、書評のブログだって松岡正剛さんの千夜千冊とか、有名で素晴らしいものはたくさんあります(僕は山形浩生さんのこのサイトをいつも参考にさせていただいています。)。
それらに近づくために、毎日生徒をほっぽっておいては必死に本を読み、ブログを書いて文章の推敲に時間をかける、などという本末転倒なことをしてしまうと、ラーメンブログと同じ失敗に陥りますので、あくまで片手間に書いていきたいと思います。
さらには昔読んだ本についても、僕自身まとめとかを全く書いていないので、それも思い出しながら書いていきたいと思います。なんと「(改めては読まないで)思い出して書評を書く」という前代未聞のいいかげんな書評ですね!まあ、今まで読んだ(中で紹介したいと思える)本について書くだけで1日ひとつ書いたとしても、死ぬまでに書き終わるかどうか、ちょっと心配なところです。

真面目な話をすれば、思想史や文学史、あるいは数学史や物理学史の理解としては、「誰が誰の本をどう思っていたか。」というのは、極めて重要な情報であると思います。マルクスがヘーゲルをどう思っていたのか、レヴィ=ストロースがベルクソンやデュルケムをどう思っていたのか、とかです。クロポトキンはドストエフスキーの著作を「精神病者しか出てこない小説」と言いました。その真意がどうであれ、クロポトキンがドストエフスキーをそう評価している、という事実は(そこからどのような結論を引き出すにせよ)考えるに値することであると思います。

なので、僕の書く書評で、僕の各著作に対する理解の深さも浅さもさらけ出していけたらいいと思っています。

まあ、僕が読んできた本を検索してこの塾のブログを見つける時点で、そもそも相当マニアックな層であるようにも思うのですが、そこまで気にして今度は「検索に引っかかりやすい最近売れてる本を読もう!」とか、またこれはこれで貴重な時間を使っているのに、何のために本を読むのかよくわからなくなってしまいますので、読む本の選定基準は、検索にひっかかりやすいかどうかは考慮に入れないで、自分で読むべきだと思った本だけにしていきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

書評『なくしたものとつながる生き方』尾角光美著

2009年に塾でも講演会をしていただいた、尾角光美さんの初めての単著、「なくしたものとつながる生き方』が先日サンマーク出版から発売されました!

献本いただいた後、すぐに読み終えて、とても素晴らしいと思っていたので、感想を書こうと思っていたのですが、あまりの忙しさに忙殺され、書くのが遅くなりました。すみません。

この本は、巷にあふれる「癒し」や「回復」を目指した本ではありません。その意味で、心の痛手から立ち直るヒントを求めて読んでしまうと、拍子抜けするかもしれません。この本に現れている尾角さんの思想は、「痛みを抱えながら、罪を感じながら人はどのように生きていくのか。」ということだと思います。自分自身の「回復しよう」という姿勢、「立ち直ろう」という姿勢自体が、その深い喪失を真剣にとらえている人ほどに、苦しめてしまう事になるということは多いのではないでしょうか。

あるいは「立ち直れたかな?」「乗り越えられたかな?」という他者の思いやりから生まれたはずの言葉もまた、そのかけがえのない喪失に直面した人にとっては、暴力としてしか作用しません。回復できるような悲しみは、そもそもそんなに深い悲しみではありません。回復できない悲しみこそが、「失う」「なくす」という語を使うときでしょう。それに対して、
さんざんに苦しんできた尾角さんが、でも自分はどのように生きていくのか、という一つの姿勢を打ち出したのがこの本であると思います。

端的に言えば、この本はわかりにくい。感涙を誘っては読者のカタルシスに役立つことをどこかでやんわりと拒絶している部分があります。しかし、それがよい。生きるということが様々な痛みを、つまり大切なものや人を次々と失い続けることだけが人生であるのだ(家族や愛する人を一生失わない人間はいません。)、という尾角さんの覚悟が見えます。そこには、「失ったことを乗り越える」という「健常」への偏向や「異常」への拒絶に自分の感情を委ねることなく、その大切な人やものを失うことも含めて、人生を丸ごと愛そうとする覚悟が見えます。「風邪が治る」ようにdepressionからの脱却を「回復」と呼ぶのであれば、大切なことを忘れやすいほどに「心の健康」を維持できることになってしまいます。もちろん、それは事実としてはそうなのでしょうが、「心の健康」を保つ人が正しく、保てない人が正しくないわけでは決してありません。自らの罪を、喪失を抱えて生きざるをえない人間と、それを忘れて生きられる人間と、どちらが人間らしいと言えるのか。僕は前者であると思います。

優しいからこそ、大切な人やものの喪失に深く傷ついている人々にとって、そのような罪や傷を抱えながらも生きている尾角さんの存在は、一つの福音であると思います。もちろん、それがモデルケースではありません。一人一人、罪や傷を抱えながら生きていく、ということはそんなに簡単にまねのできるものではありません。あるいは、尾角さん自身、ここからどうなるかもわかりません。すべての「これをきっかけに私は生きる勇気が出てきました!」という気づきは、そのような気づきにその人自身の心が既に準備されているが故に起きるものです。それは、きっかけをもらうのではなく、何かをきっかけと自ら主体的に見なしているだけですし、そのようなきっかけをこの本に求めても、無駄でしょう。しかし、自分の罪や傷を抱えて生きるために、様々なきっかけを主体的に見いだしている尾角光美という一人の人間の言葉は、外から押し付けられる心ないきっかけを排除し続ける人々にもまた、「他から与えられるきっかけが嘘くさいものだからといって、自分自身が人生を肯定することを諦める理由にはならない。」という一つの灯をともしてくれる、そのような本であると思います。

人間らしく生き続けるのは、難しいことです。ドストエフスキーが『悪霊』で描いたように、キリスト教にもし深い部分があるのだとしたら、それは、罪の自覚を強制されない立場にあるものが、それでもなお、自らの罪を自覚することの中にあるのだと思います。しかし、『悪霊』のスタヴローギンがそうなるように、人間にはそれに耐えるだけの強さがありません。誰かの責めには抗することができても、自分の良心の責めに耐えることはできません。だからこそ、歴史の上でも様々な暴露や革命が可能であったのでしょうが、一人一人の運命を考えるときには、自らの犯してきた罪への深い悔恨という人間性の回復は、その人間の社会生活を困難にしていくでしょう。端的に言えば、自らに対して深い反省をもつような生きるに値する人間こそが、生き続けにくいのです。僕の塾もまた、少しでもそのような人々の支えになれるよう、引き続き努力していきたいと思います。

アマゾンからも買えますので、興味を持たれた方は是非読んでみていただけると嬉しいです。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop