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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

その3。教育という行為の意義。そして、その限界を迎えるとき。

今日は嚮心塾恒例の「年越しだし、終電まで勉強しようぜ!」企画中です。
塾では受験生も非受験生も必死に勉強しているのですが、その横でこっそりと、ずいぶん、間が空いたこのシリーズ、続きを書きたいと思います。

前回は「個体発生は系統発生を繰り返す」というエルンスト・ヘッケルの一見深そうで、しかし検証しようのない生物学上の仮説を紹介しました。その生物学上の真偽は別として、この考え方は人間にとって文化の継承プロセスを示しているように思います。

たとえば人間社会で生まれるどのような天才も、生まれた瞬間に学問が身についているわけではありません。どのような天才も、成長に応じて、自らの努力によって学問を身に付けていく必要があるわけです。その意味で、人間という種は「系統発生」していたとしても、各々の個体はまた一から文化を身に付けていかねばならない、というきわめて効率の悪い発達の仕方を繰り返しているわけです。今までの人間の文化の成果を生まれてくる子に伝える技術が発達していたら、人間の学問や芸術は今頃どれほど進歩しているでしょうか。私たちが追求すべきは個々の学問における真理ではなく、そのような人間の文化の成果を胎児に伝える技術をこそ、全英知を結集して目指すべきなのかもしれません。

しかし、僕はこの一見遠回りでしかないような「個体発生は系統発生を繰り返す」的な文化の継承の仕方こそが、効率が悪いようでいて非常に大切であるのだと思います。一人一人が今までに形成された壮大な学問の体系を一から学ぶとき、それを学ぶ人間は常に、その学問の体系ととっくみあい、もがき苦しみ、そしてわからないことには純粋にわからないと思った上で学んでいくわけです。そのとき、一人一人の頭脳や精神の中で、今までに組み上がった学問体系が絶えず検証されていきます。その過程で、今までに完成品とされ、間違いがないかもしれないと思っていた学問の体系にほころびが見えたり、あるいはその学ぶべき体系以上の何かが見えたりというようなことがあるわけです。(たとえば、マルクスの『数学ノート』のように。あれは素人意見でしかないのでしょうが、しかし素人が「正しい」とされるものに異議を唱えることが出来るということ自体が、学問の発展の多様性を示してくれていると思います。)

種としての伝達の効率を考えて、今までにできた学問の体系を胎児の脳にダウンロードできてしまえば、それらを自明のものとして受け取る一人一人からは、今までの学問に対する批判も新たな視点も生まれ得なくなる可能性があるわけです。だからこそ、このような一見非効率的に見える文化伝達の仕組みは、今のところうまくいってきた、と言えるかもしれません。

しかし、このような文化伝達の仕組みが、別の行き詰まりをもたらしていることも確かです。
次回はその行き詰まりについて書き、最後にそれらをまとめて教育の意味について書いていきたいと思います。

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その2。エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」

大分、間が空いてしまったこのシリーズですが、続きを書きたいと思います(前の方から読みたい方は「「教育」という行為の存在する意味」のエントリを順に読んでいただければ有り難いです。といっても、これが実質二つ目の記事なのですが)。

さて、話題は大分変わるのですが、僕が高校生の頃、生物がとても好きでかなり熱心に勉強していた中で、一番感心させられたのは、このエルンスト・ヘッケルの反復説(「個体発生は系統発生を繰り返す。」という仮説)です。どういうことかと言いますと、各生物の個体(一匹一匹ですね)の発生の過程というのはどのように違った生物であってももとはきわめて類似した形をたどって発生していく、ということから、これはたとえば系統樹のような進化過程を私たち生物が経てきたとして、その種としての進化過程を個体の発生過程の上でなぞらえるように発生して来るからこそ、成体になると全く違う特徴を持つ動物同士が、胎児であるときにはきわめて似た特徴をもっている、という仮説です。

実際に発生途中の様々な動物の胎児の写真を見ると、きわめて説得力のある説であるように僕はその当時感じました。生物のなりたちなど我々卑小な人類にその個々の小さなプロセスは分かったとしても、長い時間での大きな変化には何の洞察も見いだし得ない、とどこか諦めていた僕にとって、このヘッケルの言葉は人間の想像力がここまで生命現象全体に対して深い洞察をなしうるのか、という感動を与えてくれたものでした。何をもって「深い洞察」と感じたかと言えば、その言葉はきわめて示唆的で、大きな全体の中での自分が生きる意味が少しはあるのではないか、と感じさせてくれたからです。もちろん、科学上の仮説に何かしら示唆的な「意味」を求めてしまう、という態度が科学的であるかといえば、それはかなり怪しいわけです。私たちの卑小な現実、卑小な社会にとって示唆的である豊かな内容を目指して、何も示唆しない単調な現実を叙述する仮説を排除してしまうことは、ありのままの現実、人間の理解と想像を超えた現実を少しでも理論化しようとする意欲的な取り組みを絶えず足を引っ張ることになります(つまり、「葦(よし)の髄(ずい)から世界を見ているという自覚を失わせ、「葦の髄」の広さを世界の広さと勘違いさせてしまいます)。ただ、世界の成り立ちというものに人間が意識を向けるその初めには、宗教や哲学があったように、自分たちに分かる小さな内容から始めていかなければ、世界や宇宙という大きなものへと意識を向けようという動機自体を維持し続けることは難しいものです。僕自身、普通に勉強をしていたとはいえ、絶えず意味を感じる前に小さな内容の積み重ねを続けざるを得ないことにdiscourageされていたことが多かった分、この言葉は衝撃的だったのを今でも覚えています。

もちろん、この「個体発生は系統発生を繰り返す」という言明自体、そもそも検証しようのないという意味では、ポパーの言うように反証可能性をもたない、という意味で非科学的なのでしょう。声高に「それが正しい」と叫ぶのも、あるいは「そんなのいくらでも反例が見つかる」と反論するのも、あまり無意味で、現在では放置されているというところなのでしょう。ただ、この考え方を生物の進化ということではなく、人間の教育・文化・社会の歴史的発達と個人におけるそれらの発達との関係において考えるヒントにしてみると、有益なのではないかと思っています(といっても、社会優生学的ではないですよ!)。

というところで、また次回に続きます(今度は間を空けませんので、ご心配なく)。

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「教育」という行為の存在する意味その1~SFから~

 人間って、本当に非効率的な生き物です。ある人がどんなに必死に勉強したって、それが決してその子孫に伝わるわけではないし、他の人に伝わるわけではない。だから、次の世代、あるいは勉強をしていない他の人たちは同じように勉強をしなければならないわけです。これを一人が勉強したことが他の人も「同期」できるような仕組みになっていれば、世の中からどれほど「バカ」が減るでしょうか。結局王様や貴族やその他諸々をなくして「民主主義こそが人類普遍の原理だ!」などと声高に言うのは勝手ですが、それでは結局必死に勉強をしていない大多数のアホな意見が反映されてしまいます(なぜなら、何かを必死に勉強することは誰にとってもつらいことである以上、自分の生活を維持すること以外に社会の一員として勉強をしていく動機を強く保ち続けることができるのは、きわめて少数の人々であるからです)。それが本当の意味でうまく機能するためには、このある個体が獲得した知識や経験、技術を他の個体にも瞬時にダウンロードできるような仕組みが必要なわけです。だから國分功一郎さんが指摘するように、民主主義自体に閉塞感が漂っていることを私たちは直視しなければならないということには僕も全く大賛成なのですが、だとしたら効率の悪い「教育」とか「教育学」などもうやめて、誰かひたすらに勉強する勉強担当の人と、その人の脳のデータを他の人にダウンロードするシステムを研究する優秀な人に、ひたすら資金も人手も割き、あとの凡人はそのシステムができるまではしょうがないから勉強するしかないですが、システムができあがるために税金をひたすら働いて納め、そのシステムができたら、世界一優秀な頭脳を持つ人たちから様々な分野の知識や技術その他必要なものをダウンロードしてもらえばいいわけです。すると、一票の価値がまさに均等になり、どの人も同レベルの知的水準を保つが故に、熟慮や討議を重ねて候補者が選ばれるわけです。これこそ、民主主義の理想型なのではないでしょうか。また候補者だって同じような知的レベルになるわけです。そうすれば、優秀なだけでなく、有権者から見ても「あいつはダメだ」と言えない。なぜって自分と同じものをダウンロードしているわけですから。だから、その政治家に何もできなければ、そもそも人類全体の知見がまだその問題を解決するところまで来ていないと(確信をもって)言えるわけです。それなら、「あいつが悪い。」「いや、お前だ。」などと揚げ足取りの連続という不毛な政治的ゲームに費やす資源をムダにせず、そのような困難な問題を解決するために研究を進めるというより建設的な方向へと使うことができるようになるわけです。

 なんて、SFチックに書いてみましたし、現状がこれだけひどいとこのSFについ飛びつきたくなりますが、僕は根本的にこのようなことはそもそも無理であるし、また、すべきではないと考えています。

 結局このようなSFは、「人間の科学なり知識が紆余曲折はあるにせよ、長い目で見れば進歩する」という前提の元に立っていると思います。しかし、この前提をそのままに受け入れがたいのは、その「進歩」が間違いであることなどいくらでもある、ということです。そして、その「進歩」が間違いであることに気付くのには何十年、何百年単位の時間が必要なものもまた、あるわけです。その間違いに気付くことのできる能力を、そのような「ダウンロード」によって画一化された脳をもつ私たちが維持できるのでしょうか。人間は自分の努力によって獲得した知識についてすら、それが誤りであることを認めたがりはしません。ましてや、それが当たり前に自分の吟味を経ないでダウンロードされてインストールされている状態でのそれらの莫大な数の諸々の知識に対して、1つ1つ吟味などできるでしょうか。僕は決してできないと思います。
 
 もちろん、上のようなSFチックな話は、技術的にも倫理的にも問題があるのですが、それらの話を書くと長くなるので割愛いたします。僕がここで強調したいのは、このようなSFチックな解決法が実は技術面や倫理面での問題点という部分でなく、そもそもその手法の目的とする「人類全体にとっての正しい知識と技術の増進」という目的にとってもプラスかマイナスかわからない(長い目で見れば見るほどマイナスであると僕は思います)、ということです。そして、ここにこそ、人間がこのような非効率的な知識や技術の伝達方法である「教育」という行為を(当事者はさんざんに文句を言いながらも)やらざるを得ない理由があると僕は思います。いや、むしろこの非効率が実は効率がよい、という話です。

ということで、話の導入でおわってしまいました。次回に続きます。

(國分功一郎さんの「民主主義についての『資本論』的分析を加えた書物の出現が待たれる!」というご指摘の本こそ、まさに僕が大学を卒業して以来書きたかったものです(その習作的なものは10年前くらいに書いていました)。これもいずれ、よりしっかりと勉強して書かねばならないと思っています(自意識過剰ですね。いえいえ。それが大切なんです。太宰治の言うように「大空を独り支えるアトラスの気概がなければ」生きることに意味なんてありません。))

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「教育」という行為の存在する意味~その0

このブログには「その1」とか「続く」とかばかりで続きを書かないで放置している記事が山ほどあって、ちょっと反省しております。何も書こうと思っていたideaを忘れてしまったわけではないのですが、そもそもブログを書く時間がとれておらず、「自分が死ぬまでに少なくともこれだけは伝えておきたい!」という思いが強すぎて、Aー②とB-①なら、B-①を優先し、それなのにも関わらず、Bー②を書く前にCー①を書いてしまう、という繰り返しであるからです。僕の頭の中にあるものを少しでもはき出したい。それが役に立つか立たないかは別として、少しは人間の考える力の向上になるのではないか、という不遜な思いから書き散らしております。

ですので、何だか「第一回宮崎吾朗監督作品」みたいな煽(あお)りばっかりのブログだな、と思った皆さん。ご期待下さい。『ゲド戦記』がさんざん不評だった宮崎吾朗監督もしっかりと第2回監督作品である『コクリコ坂から』を撮り、しかもなかなか好評ではありませんか。ですので、僕の「その1」だらけのブログも、そのうちそれぞれの「その2」をひょっこり書くかもしれません。

と、冗談はそれぐらいにして、この「『教育』という行為の存在する意味(仮題ですが)」という文章に関しては、上のような書き方をせずに、できる限り、書き継いでいきたいと思っています。という決意がどこまで続くか分からないほど塾はバタバタとはしているのですが、それでも、これは僕が教育という仕事に携わる以上、ずっと考えてきたことであるからです。

まあ、その思い入れの強さが作品作りにプラスになるのかマイナスになるのかは、それこそ宮崎吾朗監督の(原作に思い入れの強い)『ゲド戦記』と(原作に思い入れのない)『コクリコ坂から』を見ても、難しいものです。
だからこそ、出来不出来を気にせずに、次回から書いていこうと思います。

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