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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

頑張らない。

日々、忙しく追われている中で、とうとう明日は共通テストになりました。
このコロナの感染状況の中で不安を抱えながら受ける受験生たちの最後の追い込みに、てんてこ舞いの状態です。

どうやれば入試で実力が出せるのか、という問いに対してこちらができる最良のアドバイスは「頑張れ!」ではなく、
「頑張らないで!」ということだと考えています。頑張ろうとすればするほどに、精神にこわばりが生じ、うまくいかないことが出てきたときにうまくいってほしいという自分の願望とのギャップに絶望しては、頭が働かなくなるからです。試験とは本来、うまくいかないものです。自分の理想通りの展開になんてなるはずがない。その現実をしっかりと直視し、その上でできることを制限時間の残りの一分一秒まで探し続けていく、ということが大切であるのだと思います。

言い換えれば、試験会場で自分ができる限り普段の実力を発揮するためには、自分にとってその試験がどれだけ大したことではない、と思えるかどうかが重要である、ということだと思います。自身の人生にとって大事な試験だと思えば思うほどに良い結果を出したくなります。良い結果を出すためには「気合い」を入れて必死に頑張ることが大切で、それで失敗した自分なんかイメージしていてはダメだ!!と書いてみると、どこかの首相の精神論でしかない感染症対策のように読めてしまいますが、『失敗の本質』という名著でも詳しく描かれていたように、日本人はとにかく自身の失敗の可能性を考えることが苦手です。自身の失敗の可能性を考えないようにするためにこそ、「気合」という言葉が使われているのではないか、とさえ思えます。

自身の失敗の可能性を徹底的に考えることは、今自分が存在している閉じた世界のその外の可能性を考えることであり、自らの頭の凝り固まりをほぐしてくれます。たとえば共通テストが失敗しても、私立大学受験というチャンスがまだあります。あるいは、失敗した点数で出せる国公立を受ければよいですね。「この大学のこの学部じゃなきゃ行かない!」と決めてしまっていないのであれば、そのように自身が失敗したときの可能性を考えることは有意義です。「失敗したら、すべて終わりだ!」と自分を追い詰めては受験すればするほどに、そのような緊張下では実力も出せなくなってしまいます。

ただ、このような「自身の失敗の可能性を直視して考える」という行為を受験生だけでなく我々大人も苦手であるのは、自身の願望通りに物事が進むことをついつい望んでしまいがちである、という自分への甘さだけではなく、根源的な恐怖ゆえでもあると思っています。「共通テストがダメならもう第一志望は受けられない!」という恐怖と同じように、人は何らかの望ましい結果、それが可能なものであるのか、何なら自分にとって本当に望ましい結果であるのかすらわからないものに執着することで、自身をmotivateし続けています。そこへの執着がなければ、自分が生きている意味すらわからない、となるのはそこへの執着を捨てた自分の中にそれに執着しなければらならなかったreasonableな動機など本来何もないことを自覚しているがゆえの恐怖であるのでしょう。その動機が空っぽである我々は、その執着にmotivateされては結果を出すことでしか、自らの存在意義が保てない。そのような根源的な恐怖が「望ましい自分」にしがみつき、それを「気合」で叶えようとしては、それが失敗したときの自分を想像しない、という蛮行へと自身を駆り立ててしまうのだと思います。

しかし、です。自身が失敗する可能性を直視しようとすることが、とりあえずは目の前の閉じた競争の中で自身が大きく失敗することを防ぐための道具として小賢しく導入されたのだとしてもなお、そのように自身の想定の外部性へと目を向けようとする努力は閉じた競争において自身を利する以上の何らかの結果につながるものであると、僕は信じています。まずは明日明後日の共通テストを塾生たちが自身の失敗の可能性を見つめた上で、最後まで闘い抜けるように、しっかり準備をしていきたいと思います。

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嚮心塾で難関大学を受験する、ということ。

長かった今年の受験もあとは国公立大前期の発表と後期試験、あとは私立医大の後期試験を残すのみとなってきました。
満足の行く結果が出る子も出ない子もいるわけですが、一人一人がこの一年間を必死に戦い抜いた結果であるからこそ、目を背けずにしっかりと受け止めていきたいと思います。

医学部受験生とか東大受験生とかの合格者が多いので、嚮心塾はどうしても「勉強の得意な子に傾注しては、苦手な子を放っておく」かのように思われがちです。ほとんどの塾や予備校はそういう方針ですよね。それは経営としては当たり前で、勉強が苦手な子というのはそもそも勉強に向き合うモチベーションが低いため、勉強量を確保させるだけでもとても手間がかかり、大変です。また勉強の仕方もあまりよくわかっていないことが多いため、教えなければならないポイントがとても多く、手間がかかります。逆に勉強が得意な子というのは、モチベーションも高く、積極的に取り組むからこそ、力がついていきます。またここまでにある程度力のつく勉強の仕方、というものがそれなりにはわかっているからこそ、そのようなやり方ではどこが盲点になりやすいかだけを見抜いてはアドバイスをして修正を加えていくだけで力がどんどんついていきます。

なので、勉強の得意な子は難関大学に合格しやすいです。苦手な子は、どんなにこちらが手をかけても、なかなか難関大学には合格できません。「合格実績」というものが学習塾や予備校の集客の生命線である以上、そして特に嚮心塾のような合格実績以外に集客ツールが一つもない小さな塾では、こちらの1の努力で10の結果が出る勉強の得意な子を優先し、10の努力で2,3くらいの結果しか出ない勉強の苦手な子を「お客さん」として飼い殺しにしておく、というのは経営戦略的には恐らく正しいのでしょう。

しかし、嚮心塾ではそのように塾生の誰かに対して諦めることを一切していません。ついつい塾をサボってしまう子、来ても勉強が手につかない子、勉強のやり方を一から教えなければならない子と様々な受験生がいますが、そういった子達にできる限り時間をかけて説得したり、サボらないための方法を話し合ったり、勉強以外の話題を見つけては人間関係を作っていったり、と様々な努力をしています(今年は家庭訪問もしました!)。もちろんそれが効を奏して「奇跡の合格」をする子もいれば、やはりどうにもならないままに受験を終えてしまう子もいます。それでも、こちらから諦めるわけにはいきません。なぜなら、彼ら彼女らはそうやって誰かに諦められてきた経験を通じて、自分で自分のことすら諦める習慣を身につけてきてしまっているからです。僕が彼ら彼女らを諦めれば、もう彼ら彼女らがこの先に彼らのことを諦めないで接してくれる人とは出会えないかもしれない。うまくいかないことも多いのですが、そのような覚悟で接し、教えています。

と、ここで終えれば「偉い!諦めない教育者!」と自己陶酔で終われるわけですが、そうはいきません。
このようなことに僕がさんざん労力と時間を取られるせいで最も割を食っているのは、難関校を受ける、勉強の得意な受験生であるからです。なぜなら懸命に努力している彼らを教えるのに割くべき時間を削っては、「塾をサボらないためにはどうすればよいか」「勉強中に携帯をいじって勉強できないことを防ぐためにはどうしたらよいか」というレベルの話し合いをしているからです。もちろん、こちらもプライベートの時間もすべてを削って、そのような勉強の得意な受験生に営業時間では教えきれないことも徹底的にフォローはしています。直前期は朝から晩まで教えるのはもちろんとして、帰宅してから、あるいは塾に来る前も添削その他で潰れるため、ほぼ起きている時間はずっとそのような受験生の指導に充てています。しかしそれでも、嚮心塾で難関大学を受験する、ということはそのようにモチベーションが高く努力を惜しまない受験生たちに、ある種の「我慢」を強いることになります。

この点については本当に申しわけないと思っているからこそ、それでも嚮心塾を選んで通おうと思ってくれたそのような受験生達には何とか報いたい、とこちらも必死にならざるをえません。

これも効率だけを考えれば恐らく「棲み分け」るのがよいのでしょう。実際にほとんどの塾や予備校ではそうなっています。東大や医学部を受験する子は決してそのように受験勉強へのモチベーションが低く、努力を怠る子とは同じ教室にいません。当たり前です。その方がはるかに効率が良いからです。しかし、その効率を重視するが故にお互いに違う世界の住人として、お互いの気持ちもわからず同じ人間とも思えず、というようにして社会の分断は進んでいきます。これは僕自身も苦い経験があって、僕は少なくとも高校生とか大学に入ったばかりのときというのは、受験勉強に努力をしない人間のことが全く理解ができないだけでなく、軽蔑すらしていました。自分の努力は自分の手柄である、と傲慢にも思っていたと言えるでしょう。しかし、環境や状況が異なれば、今までできていた「頑張る」ということがあっという間にできなくなるのが
人間です。その若い頃の僕のような視野の狭さを愚かにも引きずったままに大人になっていく、ということを一人一人の塾生にはさせたくない。そのためにも、この塾のスタイルは希少であり、何とか必死に守っていかねばならないと思っています。

今年も難関大学を受験した受験生がこれから合否の結果を迎えることになります。
それぞれに手応えはあるでしょうが、高いレベルでの争いであるからこそ、確実に合格しているとは
言えません。それでも、彼らが局所最適性の追求に陥ることなく全体を引き受けようとしては必死に頑張ったこの一年の結果を、しっかりと見届け、受け止めたいと思っています。

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必要な絶望。

中学受験が終わり、息をつく暇もなく私立高校受験が始まります。またこの間ずっと私立大学入試は続いています。
まだ序盤戦とは言え、思いどおりにはなかなかならない結果が出てくる中で、どのように立て直していくかに神経をすり減らしている日々です。

この短期間で立て直すためには、まずは今までやってきたことを振り返り、受験生に自信をもってもらうことが重要です。しかし、このプロセスがなんとかうまくいっては受験生の気力が回復してきたら、そのままではいけません。それはあくまで、仮の自信でしかないからです。「今まで自分は頑張ってきたから受かるはず!」などという妄言を信じている受験生ほどに、そんなものでは通用しない壁に試験中に直面しては失敗します。それは当たり前で、ライバルもまたみんな努力してきている中での勝負なわけですから、そのような楽観には何も根拠がないわけです。

ではどうすればよいか、と言えば僕は「次の入試までにどれだけ自分の実力の足りなさ、一見よくできているような自分のテストがいかに薄氷の上を通ってたまたま正解しているだけか。」という事実からどれだけ目をそらさずに直視し、そして自分の実力の足りなさに絶望してはそれを少しでも埋めようとしていけるか、が勝負を分けると思っています。

どんなに自身を鍛えたつもりのA判定連発の受験生ですら、穴だらけであるのです。その事実を模試の成績や他の大学の合格などで自分にごまかすことはできるでしょう。しかし、そのようなごまかしは本当に厳しい状況に入試の最中に陥ったときには決して通用しません。

言い換えれば、どのようにできる受験生も第一志望の大学の入試中に絶望してしまう瞬間がこないことを期待するわけにはいかない、ということです。だからこそ、そのとき受験生にとって力となるのは「自分の力を出し切れれば合格するはずだ!」などというありきたりの根拠のない自己肯定の努力にすがろうとするのではなく、その試験日までの毎日の中でどれだけ無力な自分を痛感し、絶望し、しかしそれに抗おうと苦しみ続けたかどうか、であるのです。自身の無力さに絶望してはでもそこから何とか戦おう、という取り組みを回避しては自分にできることだけをなぞり、よしんば自身の無力さに気づくきっかけが今までにたくさんあったにも関わらず、「ま、模試で取れてるからいいでしょ。間違えも計算ミスだし。」と
スルーしてきた子が本番の入試でその絶望を日々噛み締めては戦ってきた受験生に勝てるわけがないのです。

では、「今まではそれをたしかにサボってきた。。でもそれを何とか変えてでも受かりたい!」という受験生はどうしたらよいか。それはこれから一分一秒を惜しんで自分の見たくなかった盲点、できないままに何とかなると軽視してきたところを復習するしかありません。必要な絶望を避けてきた自分を乗り越えるためには、ほんの少しの時間でも必要な絶望を乗り越えて努力をしなければなりません。もちろん急場しのぎのそれでは、みっちりと自分の絶望に向きあい、乗り越えようともがいてきた受験生には勝てないとしても、まだそれに向き合うことを避け続けている受験生には勝てるかもしれません。

嚮心塾はその「必要な絶望」を受験生に日々突きつけ、絶望してもらい、そして乗り越えてもらうための装置です。
と偉そうに言っても、その必要な絶望を直視できるようにと様々お膳立てを用意していっても、結局本人が見たくなければ見ないこともできてしまう、というのが他者を教えるということの難しさです。そのあまりの難しさに僕自身も日々絶望するばかりの毎日ですが、何とかそれを直視しては乗り越えようともがいていこうと思います。



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「安心」を剥がす。

センター試験も終わり、息をつく暇もなく私大医学部入試が始まりました。ここからさらに私大入試、中学入試、高校入試(私立→都立)、そして国公立大入試、と1ヶ月間は勝負所が続いていきます。こちらも朝から晩までずっと塾に詰めている状態です。

ではこの時期に何に注力して塾で教えているのかと言えば、(もちろん勉強の足りないところがまだまだ多い受験生は徹底的に基礎がためをしていくしかないのですが)十分に勝負できるレベルにある受験生に対してはひたすら彼らの思考や勉強の盲点を探し出し、指摘していく、という作業をしています。

勉強の盲点については比較的わかりやすく、入試問題を解いては弱い分野の復習、ということを徹底させていくことで補えていきます(もちろんこれも細かいことを言えば、実は難しい作業もあります。たとえば高校範囲の中で弱点を発見した大学受験生にその復習をさせることは比較的容易ですが、中学範囲、あるいは小学生の範囲において弱点が見つかったとき、それをどこまで復習させるかについては極めて難しいものです。それがスムーズな解答プロセスに於いてどのくらいボトルネックになってしまっているかの度合いとそれを練習して習熟するのにかかる時間との兼ね合いの中で、最適な復習方法を考えていかねばなりません。かつてはそれで直前期に東大受験生に中学の連立方程式を練習させたり、医学部受験生に二桁×一桁の掛け算を練習させたり、ということもしてきました。(そしてこの二人とも受かりました!))。

もっと難しいのは思考の盲点の方です。不安な立場で答えのわからない入試を解かねばならない受験生にとって一番ほしいのは「安心」です。だからこそ直前期の勉強は必然的に「これだけできるから大丈夫!」「ここはできるから大丈夫!」と自分にとって得意な方ばかりにどんどん偏っていきます。これは不得意科目を避け、得意科目ばかりをやる、という比較的わかりやすいものから、一つの科目の中で得意分野ばかりが解いた入試問題に出たときは高得点であることに安住しては、苦手分野がたまに出て失点したことをさかのぼって復習しない、というわかりにくいものまで、さらには同じ分野であっても自分が引っかかりやすいプロセスを試験時間内に何とか乗り越えて間に合わせることができているだけなのに、それを結果としての「高得点」にかまけてそのプロセスを集中的に練習しない、などといったものもあります。こうした受験生にとっての「安心」をいかに掘り崩し、その中に確実に含まれているリスク要因を特定して名前を与えては、鍛えていく、という「性格の悪い」作業を徹底していくことで受験生の合格率が全く変わってくるわけです。

こう書くと「すべてお見通し!」の状態で教えられているようにも聞こえますが、教える側としても全てが見えているわけでは当然ありません。一人ひとりの受験生の思考を徹底的にトレースして、その中でどのような盲点がうまれやすいか仮説を立てます。徹底的な受験生との議論や相談の末にようやく「鍵」となるようなその子の盲点が、入試直前に見えてくることも多々あります。また、仮にその仮説が正しいとしても、それを受験生が受け入れられるかどうかも問題です。なぜならそれは受験生にとっては一番うけいれたくないものであり、自身が不安の中でなんとか固めた、なけなしの(しかし偽りの)「安心」という名の足場を徹底的に疑い、掘り崩していく作業であるからです。その作業を納得して、徹底してもらっていくためには、教えるこちら側との揺るぎない信頼関係こそが必要になります。そうでなくとも受験生は「俺はこうしたから受かった。おまえもこうすれば必ず受かる!」という、根拠も何もないn=1の自己満足的な「アドバイス」を親や兄弟、教師からさんざん受けては苦しんでいるわけで、そんなしんどい状況の中で「これをやれば安心!」という詐欺的なアドバイスではなくむしろ「ここはできているはず!」という安心を掘り崩しては「見たくない現実」へと漸近していこうとする、というこの嫌な作業をともにしていかなければ、やはり受験はうまくいきません。

もちろん思いつきで、あるいはソクラテスぶって何でも根本から懐疑的アプローチをすればよい、というものでもないのが難しいところです。こちらが一人ひとりの受験生の受験や人生を必死に考え、徹底的にトレースした上で出てくる必然的なかつ精密な懐疑でなければ、伝わるべくもありません。

今年もそのような受験生の「安心」を剥がしては現実に少しでも漸近してもらう作業を徹底していくために、日々考え抜いていきたいと思います。

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この身をうち震わせてでも。

センター試験初日が終わりました。うまくいくこともいかないこともありますが、
その中で黙々と明日の準備をしている受験生に囲まれて今これを打っています。

受験は厳しいものです。徹底的にあらゆる想定のもとに準備をしてきたつもりであっても、その我々人間の卑小な想像力を超えるような失敗が当然起こりえます。ときには自身のこれまでの頑張りなど、何も意味がなかったかのように思えるかもしれません。しかし、それでも前を向いて何とかどうにもコントロールしきれないその現実に対して何とか戦おうとする彼ら、彼女らの姿は本当に美しいと思っていますし、それは僕にとっては、人間の可能性を諦めない理由である、とも言えます。

何故僕が商売というだけでなく、この受験という仕事に関わり続けているのかと言えば、そのようにどうにも思い通りには行かない現実に立ち向かおうとする彼ら彼女らは、僕にとっては同志である、という理由からであると思っています。それは血縁やその他のつながりなどを超えて、はるかに深く語り合えるものがあります。

もちろん、いつまでもそこを語り合えるわけではありません。ある種の極限状況である受験もまた、そのような極限状況に陥らないために努力されるものである以上、「受験に成功する」ということは、より困難な現実へと立ち向かわずに済むための「切符」を手に入れようとする、ということでもあります。「切符」を手に入れた後の彼ら彼女らが絶望に直面し続けることを選ぶ必要は一般にはありません。

しかしそれでも、今この瞬間に自身の無力さと直面しては絶望に打ち震えてでもそれでも何とか跳躍しようともがく受験生に何かが伝えられるのであれば、それがうたかたの夢に終わろうとも、あるいはその繰り返しの僕の人生が虚しく何も成さずに終わっていくことであったとしても、僕は構わないと思っています。それは何も僕の信仰の告白ではなく、仮説の検証として僕の人生を用いることができる、という喜びでもあります。

明日のセンター試験も、その後本格化する入試も、絶望に押しつぶされそうになる瞬間は幾度となくくるでしょう。
しかし、それを受け止めては乗り越えていくためにこそ、ここまで多くの時間を費やしてきました。
一人ひとりの塾生がそこで、自分から陥りたがる絶望からは踏みとどまれるように、必死に戦ってきてもらいたいと思っています。

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『青チャートをやれば東大に受かる』のウソ。

塾がバタバタと忙しく、その時期にさらに横浜や富士までどくんごを観に行ったものですから、気がついたら7月12日!もう7月半ばです。ここから塾も忙しくなるのですが、またポツポツと書いていきたいと思います。

さて、今回は「受験指導の『常識』を覆す!」ということで、まだまだわかっていない高校の先生方が多く、その犠牲者となってしまっている高校生が塾でもあまりにも多いので、改めて書きたいと思います。

いわゆる「進学校」と自認している高校では、生徒のレベルに合わせて授業をするなどということは「妥協」として拒絶してしまう先生が多いのかもしれません。そのような学校でよくされている数学の指導法としてあるのが「(数研出版の)青チャートをできるようになれば、東大に受かる!」と数学の先生が主唱して、まだまだそれを解くレベルにない子達に、ひたすらそれを周回させることです。しかし、このような指導の結果がどうなるかといえば、高校生の貴重な勉強時間を浪費させては何も実力として残らない、という悲惨な事態になってしまっているケースを非常に多く見かけます。

高校生からすれば、自分の学校の数学の先生がこのような指導をしている限り、それを疑って自分のやり方で勉強するのはなかなか勇気がいるものです。親御さんに至ってはなおさらでしょう。結果としてこのような的はずれな指導法を信じることで、多くの高校生、それも高校受験や中学受験ではがんばって勉強してきた勤勉で優秀な高校生達が時間と労力を無駄にしては、結局自分の将来を閉ざすことになってしまっています。このようなひどい指導法は犯罪的だとすら僕は思います。

なので、この機会にこういった学校のアホな方針に苦しんでいる高校生のために、しっかり反論をしておきたいと思います。高校生の方、そういった先生に直面してしまったら、是非このブログを使って先生に反論して頂けたら!

①「繰り返して覚えれば大丈夫」と言われても理解できないものは覚えられない。

数学においては、そもそも教科書レベルのことがどれだけ定着している、ということがまず大前提であり、教科書をしっかり読み込んでいる、教科書に書いてある定理や公式の証明や導出が何も見ないで自分の手を動かしてできるレベルである、ということが力をつけていくためには必ず必要となります。

そもそも理解できていないものは覚えられません。多大な時間をかけて無理に覚えても、短期記憶にとどまり、何も残らなくなってしまいます。これはお坊さんがお経を覚えるやり方なり、あるいは円周率を何万桁も覚えている人がストーリーを作って覚えるやり方なりを見れば明白な事実です(あるいは英語学習において文法の概説書も読まずにネクステージとか問題集ばっかり解かされてる高校生には、身をもってわかることかと!英語のこの勉強法も本当に最悪です。)

そこがあやふやな状態で青チャートに限らず難しい問題を繰り返すことは、理解できないままに解法をなぞることになってしまい、当然長い時間をかけても定着しません。「何周もすれば覚えられる!」「そもそも覚えられないのはお前の努力が足りないからだ!」と学校の先生は言ってくるかもしれません。しかし、あんな分厚い問題集を何周もすること自体がそもそも受験に必要な他の科目に時間を割かねばならない受験生には不可能なことですし、それを仮にやり遂げたとしても効果は極めて薄いのです。

②そもそも青チャートは難しすぎる。

そもそも青チャートは難しすぎます。もちろん、これは青チャートがダメな教材だ、と言っているわけではありません。このレベルの問題集を解くだけの下地ができている子にとっては、もちろんとても良い教材となりうるでしょう。しかし、学年全体でこの教材を使えるだけの下地を持っている生徒がマジョリティを占める高校などあるのでしょうか…。開成でも学年全体は明らかに無理です。灘や筑駒ならひょっとしたら…。いや、それでもおそらく学年全体では厳しいとは思います。

というレベルの問題集を、それよりはるかに学力レベルが下(失礼!)の学校で「これだけを繰り返してやれば力がつく!」と根拠のないことを言っては繰り返し、なんなら定期テストにそのまま出る、というこの恐ろしさ。。当然、そのようなやり方では生徒たちも力がつかないので、定期試験に関しては解答を丸暗記になってしまっています。それに一体何の意味があるというのでしょうか。。

もちろん、「青チャートができるようになれば、東大の数学にもある程度対応できる」ならば、正しい言明です。しかし、問題は「青チャートだけをやっていれば、青チャートができるようになるのか」ということです。このような方針で指導する数学教師は、おそらくそれについてしっかりと吟味ができていないと思います(しっかりと考えた上でこの結論に達しているのなら…高校教師を辞めたほうが良いと思いますが)。むしろ現実には「青チャートだけをやっているから、いつまで繰り返しても青チャート(どころかもっと簡単な問題も)できるようにならない」というケースが多く、したがって「青チャートをやれば(「できるようになれば」ではないことにご注意!)東大の数学にもある程度対応できる」という言明は偽であるのです。

③「青チャートだけをやって私は力がついた!」の検証不可能性

そういった数学教師も「いや、去年の卒業生の○○君は『先生の言葉を信じて青チャートだけをやり込んで東大に合格しました!』と言ってたぞ!だから俺の指導は正しい!」という主張をしてくるかもしれませんが、信じてはいけません。その○○君は本当に数学の勉強に青チャートだけを使っていたのでしょうか?できる受験生ほどに自分がわからないことは丹念に遡って調べるものです。それなのに○○君が青チャートをやっていて、「この単元は教科書レベルでも怪しいな。。」と自分で気づいたときに、果たしてそこで教科書レベルの内容を復習しないでしょうか。そんなはずはありません。必ずそこで○○君(誰やねん)は教科書レベルの内容を復習すると思います。しかし、そういった勉強はおそらく「勉強内容」として○○君はカウントしていないわけです(なぜなら、彼にとってそれは「当たり前の努力」であり、意図的に勉強した内容ではないので)。そして、さらにその数学の先生は○○君と「青チャート以外を復習したら逐一報告する」だの契約を結んでいるわけではないので、彼の無意識な努力が言葉になっていなければ、数学教師はそれには気づかないことになります。こうして「○○君は青チャートだけで…!」というデマが生まれてしまいます。

そしてもちろん、その○○君以外の大多数は、「青チャートだけをやっていれば」という指導の犠牲者として、数学ができないままに終わります。そのような子たちが「お前のアホな指導のせいで、僕の/私の数学にかけた時間が無駄になったじゃないか!」と、卒業後にその数学教師に抗議しに来ることは難しいでしょう。苦い思いをすればするほどに、このような数学教師からは距離を置こうと思うはずです。このようにして教師側の認知の歪みができてしまっているわけです。


もちろん、ここでは多くの学校で採用されている教材として青チャートを例に出しましたが、これがフォーカスゴールドであれ、他の教材であれ、理屈は同じです。自分がそれをやって消化できるレベルに達するまでは、決して難しい問題集をただ繰り返すことで力がつくことはありません。勉強に王道はないからこそ、教科書レベルの内容が理解できていないのなら、まずはそこからやっていくしかありません。(厳密に言えば、いきなり難しい教材から始めてもできるようになってしまう子も本当にごく少数ながら、います。しかし、それは東大に受かるレベルの子たちではなく、もっと上のレベルの子たちです。我々凡人は真似をしない方が絶対に良いです!)

そして、このようなひどい指導で貴重な勉強時間を奪われている高校生のみなさん!
逃げてください!

自分が教科書ですらあやふやであるのなら、まずはそこでの理解をしっかりと固めることの方がはるかに役に立ちます!

数学に限らず、ゴールから逆算して自分の実力が追いついていない教材に無理に取り組むのは、凡人である殆どの我々にとっては、時間がかかる割に力が何もつかないことでしかありません。まずは自分が高校や予備校、塾でそのような指導をされていないか、されているとしたらそこにかける時間を極力削る、できればゼロにして自分の今の実力に見合った努力を一から始めていくことが大切です。

またその際にはお父さんやお母さんを味方につけることが大切です。「学校の先生が言ったことに従ったほうがいい」と日本人は刷り込まれていて、その指示が妥当なものか的はずれなものかを判断する勇気がありません。しかし、それに従うことで失われるのは、高校生の皆さん自身の将来です。

だからこそ、自分の状況を説明し、(なんならこのブログのように)それに批判的な大人の意見を紹介し、その上で自分が今やるべき勉強を(決して背伸びをせずに)一からやっていくことが大切です。もちろんそのために塾や予備校を使うのもありですが、まずは教科書を読み返してよく手を動かして理解する、というだけでも状況はだいぶ改善するはずです。

そしてそのように「自分に今必要な勉強」ではない勉強をむりやりやらせようとする教師は、学校であれ予備校であれ、塾であれ、すべて君にとっては敵です。もちろん、自己判断による「自分に今必要な勉強」が間違っている場合もあるのでそれが不安な場合は信頼できる先生に聞くのが良いかもしれません。
ただ一般論として言えるのは、「今やっている教材が難しい」と感じるときにもっと基本的なものへと遡る勉強は、まず間違いなく正しい方向への努力である、ということだと思います。

ということに気をつけて、とにかく自分の勉強時間をアホな大人に無駄に浪費させられないように気をつけて頑張って下さい!

それでも不安なら、嚮心塾にぜひ(結局宣伝!?)!

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「楽しむ」ためには。

トップアスリートがよく使っていることから、大切な試合や受験など、いわゆる本番でのパフォーマンスを上げるために、「楽しみなさい!」というアドバイスはよくされるようになったと思っています。

しかし、このアドバイスはある意味無責任です。そりゃ人生の掛かった本番で「楽しむ」ことができれば、心もリラックスしてパフォーマンスも上がるでしょうが、しかしそれが簡単にできたら苦労しないわけで、「楽しんでね!」というアドバイスは人生の掛かった本番でそのようには思えない人にとっては何も役に立たないし、そのように思える人にとってのみ、よいアドバイスというだけのものであるかもしれません。

なのですが、昨日教えていて、では「楽しめない」とはどういう状態かといえば、「一つの方向や判断基準に自身を押し込めているとき」なのだ、と説明すれば良いと気づきました。人間自体が多様であり、たとえば一つの方向にむかって、それ以外のものを切り捨ててでもその一つの方向で何かを成し遂げようとしているときはどうしてもその成否だけが気になってしまうものです。しかし、そのように研ぎすませていく瞬間にも、人間の認識は必ずその目的に資するものとは別のものを
とらえてしまいます。そのとらえたものを「無駄だ!」と考えれば考えるほどにどんどん焦ってテンパっていくでしょうし、逆に「なるほど、これは面白いねえ。」とその一つの方向から外れたものを評価できるのであれば、それは段々と「楽しむ」ことに近づいている、と言えるでしょう。

つまり、「楽しむ」とは「味わう」ということです。だから、「楽しみなさい!」はもっと精密に話せば、

「人生をかけた勝負の中で、それでも自分が望む方向へと一生懸命やろうとしてもうまくいかないことは出て来るし、自分が実現したい方向性以外の方向性も出てきてしまう。しかし、それらを無駄と感じては今追求している方向性へと何とか戻そうとすればするほどに、そのような「目的」から外れた自分に対する焦りや苛立ちというまた別の「方向性」が生まれてしまい、自分がどんどん分裂してしまう。だからこそ、そのうまくいかないこと、無駄なことをじっくりとあじわいなさい。その勝負に勝つ、という目的地を忘れて、あたかもあてのない散歩をするように。最初設定した目的地への前進がうまくいっていないことも含めて、あなたの散歩であり、あなたの人生なのだから。逆に一つの方向へと自分の意識を向けようと思えば思うほどに、人間とはそのようなものではない、という根本的な拒絶感の根強い抵抗に疲れ果てては、結局集中できないままに終わることになるはずです。」

ぐらいでしょうか。長い!
なるほど、これはみんな「楽しめ!」ぐらいしか言わなくなりそうなものです。
しかし、楽しめる人は最初から楽しめるし、そうではない人はこの言葉一つだけでは難しいでしょう。
だからこそ、自分がしんどくてたまらないとき、自分がどうにもうまくいっていないと感じているときにこそ、
この「一つの方向」だけで自分を評価していないか、そこに自分の魂を押し込めては味わうことを忘れてはいないか、を
自分でチェックすることがとても大切です。

話を広げれば、自分を一つの方向へと駆り立てない、自分を一つの座標軸だけで評価しない、ということはこのように本番でのパフォーマンスを上げるだけでなく、長期的な生き方の面でもとても大切なことです。
僕も教育に携わるようになって長いですが、ほとんどの「やる気のない」子というのは、
親や教師が用意した一つの方向でしか評価されないことに倦み疲れている子であると思っています。

もちろん家の中の煙に気づいた瞬間に「火事だ!逃げろ!」と叫んだ後くらいは、一つの方向に向かっていないと死んでしまうわけです。緊急避難的に一つの方向に向かわなければいけない瞬間というのも人間には多々あります。しかし、根本的にはそれを長期間、しかも自分の意志ではなく他者の意志で行うことは人間にとっては不可能です。

その不可能なことをやらせようとして失敗しているのが、たとえば現在の教育のありようなのではないか。
大学受験がこの日本社会において「緊急時」であることは僕はそんなに間違っていないとは思いますが、では
その勉強をいつからやるか、というときに高3から?高2から?いやいや、これだけ高校受験で生徒を宿題と小テストで虐待する「自称進学校」と母集団の質の高さ以外に教育機関としての能力の低い「都立トップ校」しかない(最後の砦の豊島岡ですら高校受験を辞めます。。)のだとしたら、無理やり中学受験で入れるしかないのでは?
そうしたら、小6から?いや、小4から?

というように、どんどん「一つの方向」へ子どもたちが努力する期間を長くさせようとしていってしまっているわけです。
ましてや、「高校のときは勉強をサボって浪人してから頑張る」ことも許されなくなるような入試改悪が進んでいる将来は、さらにそうなっていきます。

このようにしておいて、「思考力を鍛えろ」というのは他者が無理やり食べ物を口につっこむ期間を10何年も続けていながら、「よく味わえ!」というのと同じでしかありません。控えめに言って虐待、もっと率直に言えば、長い目で見た自殺であるとすら思います。

そのような中で、「学校でやる勉強をやってください!」と何も知らない親御さんからはリクエストされるものの、事実学校の勉強が何も力がつかないレベルの作業や苦行でしかない(僕らが学生の頃は高校の授業は「受験に役に立たない」ものでしたが、現在の高校の授業は宿題が多すぎて「受験勉強の足を引っ張る」ものです。学校の勉強を頑張ることと受験勉強の準備をすることは多くの高校において明確に反対の方向であると思います。)中で、なんとかそのムダを省き、「一つの方向」へと押し込められている子達の精神を少しでもリラックスさせてあげた上で、何とかその一つの方向へと自分から取り組むことができるように、闘い抜いていきたいと思っています。

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問題を解くな。

暗い内容のことだけ書いてしばらく書かなくなると、「あいつ、ヤバくね?」となってしまうので、今日は箸休めに受験勉強のことを書きます!(一応学習塾なので…。)

「non-nativeな我々が英語力を鍛えるためには英文法が重要だ!」という主張は塾で徹底しているだけでなく、繰り返しここでも書いていることなのですが、この意見に「そうだそうだ!」と賛同される方の中でも、「じゃあ英文法ってどうやって勉強する?」と聞くと、「やっぱりここは『Vintage』をやらせるべき!」「いや、『Nextage』がいい!」などと英文法の問題集の名前が出てきます。また、実際にほとんどの高校では「英文法の勉強をさせる」=「英文法の問題集を解かせる」であって、小テストをしたりしてひたすら解かせる、ということをさせているようです。

嚮心塾ではそのような指導を一切否定しています。具体的には英文法の問題集を解かずに、『Forest』とか『Evergreen』とか『Breakthrough』その他何でもよいのですが、概説書を繰り返し読んでもらうことをお勧めしています。もちろん、どれを使うかによってどこまで詳しく読むか、などのアレンジはしていきますが、大切なのは細かな表現を覚えることよりも理解をしっかりと積み重ねていくこと、それとともに「文法的な分類」のための道具立てを自分の頭のなかに作っていくことです。

などとアタリマエのことをわざわざ言挙げするのも恥ずかしいですね。。こんなのは、勉強を教えていれば、すぐに気づくような初歩的な指導法だとは思うのですが、いわゆる「自称進学校」が相も変わらず文法を理解していない高校生に「文法の問題集」を解かせることのみに汲々としている、という事態は塾を開いてからのこの15年ほど、何も変わっていません。それでは英語ができるようになるわけがないと思います(もっともこういう先生方は「問題集を解いて、わからないところは概説書で参照するのが当たり前で、そもそもそれは生徒の努力不足だ!」と主張するのでしょうが、何も理解できていない状態で問題だけを解かせて答えを覚えさせていくことの罪についても、もっと自覚的になってもらわなければ困ります)。実態を伴えていない現実から目を背けて、自分の理想を押し付けては結局生徒を鍛えられてはいない、というのは、やはり現実を直視する勇気のないままに「理想」に逃げることでしかないと思います。

逆に英文法の概説書を読んで理解するところからしっかりと積み上げていけば、英語が極端に苦手な子であっても、しっかりと力がついてきます。それこそ、英語だけできない浪人生が前年のセンター試験100/200から一年で180/200にジャンプアップした!などは塾ではよくある例です。受験勉強の指導において、受験生本人は努力しているのに英語の力を伸ばすことができない、というのはやり方がまちがっているしか理由がありません。「英語は暗記」という教え方は「数学は暗記」と同じくらい、非効率的な教え方であると思います。

ただ、この「とりあえず問題を解かせれば良い。」という指導者の誤謬は結構根深くて、恐らく教える側はその科目を得意だった人しかいない、ということと繋がっているのでは、と思っています。英語であれ、他の教科であれ、それを受け持つ先生は当然その教科について自分が自信を持てるだけの実力があるわけです(とは高校の先生も限らない、という現実はもちろん承知していますが、絶対評価においてその教科で「力不足」な先生方も、自分が勉強してきた教科の中では教えている教科は「できる」教科であったわけです。さすがに自分が指導する教科を自分がいちばん苦手な教科を教える、という先生はまずいないでしょう。)。だからこそ、そのように自分が得意だった教科に関して「問題を解く」ということは、大枠を理解をしていることは当然の前提として、細部のチェックとして問題を解いてきているわけです。あるいは解いてみた後にまた概説書に戻るとしても、ほとんどのところは理解できている中で、後は弱い部分だけを詰めていけばよい、というところにまでは来れたはずです。そのような場合、「問題を解く」というプロセスは先生方の受け持つ教科(つまり先生自身にとっての得意教科)の個人的な学習史の中では「非常に効果的」であった可能性が高くなります。

しかし、その科目を学ぶ生徒は多様です。英語の先生が教える生徒が英語が苦手だった場合、問題集を解いても一対一の雑多な知識の羅列をひたすら覚えることにしかならず、理解が何もできていない状態であるかもしれません。だからこそ、教える先生は自分の担当科目を苦手としている子にどう教えるか、ということに関しては自分自身の学習史の中で得意であった科目(たとえば英語)についての勉強方法ではなく、自分自身が苦手であった科目について自分なりの勉強方法で効果的であったものをアドバイスする方がよほど効果的かもしれない、ということです。

と、このように客観的に分析ができればまだよいのですが、たとえば英語の先生が英語の苦手な子から「英語が苦手な自分がどのように勉強したらよいか。」と問われて、そこで自分の専門である「英語の勉強法」を教えるのではなく、自分が苦手だった教科(たとえば数学)の勉強法から着想してアドバイスをする、ということをできるのか、という問題ですよね。何もわかっていなければ、問題を解く前にまず教科書で一から読めばいい、ということはどの教科でも言えるし、文字が読める子であれば、恐らくかなり有効であると思うのですが、それを「英語の勉強法」を聞かれた時に英語が「得意」なまま生きてきた英語の先生が引き出せるかどうかは…。なかなかできない先生が多いのでしょう。

と考えると、全ての教科を僕が教える、という嚮心塾のシステムは一見、怪しいように思われたりばかりなのですが(15年やってて、合格実績を出してきてもまだそういう反応が多いです…。)実は結構理にかなっているのでは!と思います。

さらに、このような「ひたすら問題集を解け!」的な的はずれな指導が未だに温存されてしまっている理由の中に実は、受験生の側の共犯関係もあります。

たくさん問題集を解く、鉛筆を動かす、できない問題にチェックを付けて、それをやり直す、理解していなくてもぐるぐる周回する、といったこれら一連の「努力」は、概説書を読んで「ふむふむ」と理解していくよりも、努力をした気になることができてしまいます。この「努力」が、自分のやり方が正しいかどうかをチェックする目を曇らせます。「努力をしているから、必ずこれで力がつくはずだ。」という自己陶酔から、結果としての不合格として出てくる前に気づいて抜け出すことのできる受験生というのは実は、ほぼいないと言えます。もちろん、このような誤ったやり方を平気で進めてくる教師の側にこそ第一義的な責任があるのは当たり前として、受験生本人もどこまで自分自身の「努力」が的はずれなものになっていないか、をどうしようもない不安の中で絶えず疑い続けていかねばなりません。

「たくさん問題を解く」ことが基本的なことを理解をできていない自分から目をそらすために使えてしまうように、私たちは現実と立ち向かうためのどのような方法をも、現実から目をそらすために使うことができてしまう弱い生き物であることへの自覚がとても大切であると思っています。その上で、少しでも見たくない現実へと切り入ってはその現実と悪戦苦闘できるように、生徒一人一人と取っ組み合い、叱咤激励をしていきたいと思います。

(しかし、高校の先生方には授業の時間を意味のあることに使って頂きたいです。問題集を解く段階に達していない子に問題集を解かせておいて、「今までにちゃんと概説書をやっていないやつが悪い!」と居直る(まあ、そもそも高1、高2の授業など講義などしないで、概説書を毎回一緒に輪読していくだけの授業でも今より遥かにマシな教育になると思います)のは、受験生の貴重な時間を奪う時間泥棒であり、虐待であると思います。もちろん、授業を一人一人のレベルに合わせて行うのは難しいとしても、「君は僕の授業聞いたり問題集解いたりしなくていいから、授業中この教科書を読んどくといいよ!」ぐらいはやれるとは思うのですが…。)

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第一志望に不合格のときにこそ。

気がつけば、5月も10日が過ぎているというこの恐ろしさですね。。忙しい毎日の中で何とか必死にあれこれやりくりしているうちに、ブログの方も放置してしまっていました。毎日は難しいとしても、また定期的に書いていきたいと思います。

話題としては少し古いのかもしれませんが、武田塾という参考書を使って勉強方法を教えるという塾(なんか似たようなシステムでやっている小さな塾がどこかにあった気もしますが。。ちなみに、うちの方が2005年5月開業なので、開業はこちらの方が早いです!)がとても繁盛していて全国展開をしているのですが、そこに所属する職員がyoutubeで法政大学の入学式で「法政大学が第一志望だった人は0人説」という失礼極まりないインタビューをしては動画を挙げ、炎上していたようでした。それを真摯に糾弾されている中野先生のブログもあります。

僕も中野先生と同じ思いです。その大学が第一志望であろうとなかろうと、様々な思いを抱えた上で前向きにその大学の入学式に臨もうとする新入生に、そのようなひどい質問を投げかけてはネタにする、という行為自体が本当に教育に携わる機関として言語道断です。仮に受験に少しでも関わった経験があるのであれば、「第一志望に合格する」ということがどれほど難しいか、ということに直面せざるを得ません。自身の受験で余裕を持って第一志望に合格できた教師であろうと、「教え子すべてが第一志望に合格できる」ことなど不可能です。間違いなく日本一、いや恐らく世界一の先生である物理屋さんですら、教え子の第一志望合格率は100%ではないわけですから。

だからこそ、教師がしなければならない仕事は、もちろん「第一志望に合格させるためにできることを徹底的にやる」のは当たり前の当たり前の当たり前として、仮にそれが実現できなかった時その現実に打ちのめされる生徒に対して、それでも何を語らなければならないのか、を準備していくということでもあります。人生は思い通りにならず、思いやりや努力が報われるわけでもない。(さぼっていて結果が出なかったのならともかく)必死に頑張ってもそのような現実に打ちのめされる教え子たちに、どのような言葉をかけるかこそが重要であるわけです。

それを受け入れる余裕のない教え子たちにどのように偽善者と思われようとも、彼ら彼女らが必死にもがいた努力の中で成し遂げ得なかったものだけに目を向けては成し遂げ得たものをすべて放擲することのないように。あるいは、この悔しさを糧にして、より長い視野で自分の人生を捉え直すことができるように。このように色々と身悶えしながら考えては、なけなしの言葉をかけるとき、僕は自分自身の偽善者ぶりを強く感じながらも、でもその偽善者としての役割を果たさなければならないと強く感じます。大切なのは、受験生が自分では自分の努力を全否定したくなるようなそのときにたってなお、その子のためにその努力を肯定できるかどうか、であると思うからです。その「肯定」が嘘くさく思われようと、バカにされようと、本人に怒りと軽蔑をもってあしらわれようと、受験生が自分自身ですら自分を否定せざるをえないその瞬間に、その受験生本人の肯定をしないのであれば、教師など存在する意味はないどころか、存在していてはならないでしょう。

そして、そのように嘘くさく見え、拒絶されることを覚悟しては、それでも自己が全否定されたと感じてしまっている受験生を何とか自分だけでも肯定しようという「絶望的な偽善」を引き受けたことのある人間であるのなら、そのような自己の全否定から何とか再び本人が歩き始めようとしている入学式において、「企画」としてこのようなことは絶対にできません。それが全てです。炎上かどうか、世間をお騒がせしているかどうか、法政大学とその学生に失礼かどうか、という論点は些末なものであり、それらをどのように言い繕って謝罪をしようと、受験生の絶望的な自己の全否定を何とか少しでも一緒に引き受けようともがいた経験のない人間が教務にいる塾が武田塾である、ということは事実でしかありません。(もちろん、これはほとんどの予備校や塾にもあてはまるとは思いますが。。)

もちろん、第一志望に合格すれば、その後の人生においても絶望から逃れられる、ということではありません。
東大や京大に合格した凡百の東大生・京大生が感じるのは、自分がいくら努力をしたとしてもどうにも追いつきようのない人間たちが目の前にいる、という事実です。あるいはその中で優越感をもっていた少数の子たちも、より視野を広げれば、現実から目を逸らさない限り、必ず絶望につきあたります。

だからこそ、そのような、最後の砦である自分ですら自分を全否定せざるをえないかのように思ってしまうときにどう寄り添うか、は人を教える仕事に携わる人間にとっては必ず考えなければならないことであると思っています。もちろん、そんなとてつもなく難しい役割は、どのような天才であろうと、どのような聖人であろうと、決してろくに役に立てないような難しいものです。でも、あるいは、だからこそ、その役割を誰かが果たそうとしていかねばならないし、そこでの自分の無力さ・嘘くささを踏まえてなお、苦しんでいる本人の存在を引き受けていかねばならないと思います。

嚮心塾も「華々しい合格実績」的な情報も出していかないと生徒が集まらないのがこの業界の苦しいところではありますが、一方で大切にしていることがあります。それは、第一志望に合格した卒塾生しか卒塾後に塾に遊びにこれないような学習塾であってはならない、ということです。第一志望に合格した受験生は自らの「成功」体験と塾がリンクしているわけですから、それはこの場をかけがえのないものと思いがちです(もちろんそれは錯覚であることも多々あるとは思いますが)。そうでなかったとしても、それでも「あのおっさんに今の話を話してみようかな。。」と思ってもらえる塾でないのであれば、存在意義などないと考えています。

一人一人に第一志望に合格してもらう、というのは誤解を恐れずに言えば、目的ではなく、手段です。
生徒一人一人が今後の人生をよりよく生きるためのあくまで一つの手段でしかありません。
そのことをしっかりと伝えられるように教えることを肝に銘じて、しっかりと鍛えていきたいと思います。

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なぜ「元劣等生」は受験本番に強いのか。

たまには受験のことも書きます!様々な受験生を教えていて思うのは、「本番に強い」子とそうでない子というのがやはり分かれる、ということです。もちろんこちらでもそのような「本番に強い」子はどういうところが強いのかを分析して言語化し、それをどのような生徒にも教えられるように、ということを心がけていますが、それでもやはり個人差が出てきます。

端的にいうと「本番に強い」子の特徴というのは、元劣等生が多い、ということが言えると思っています。元々成績が悪かった子が勉強して知識や理解が追いついてくると、入試本番ではとても強いです。逆にコツコツ勉強してきて、ずっと良い成績をキープしてきた子、というのは本番に弱いところがあります。

これはなぜか、といえば、入試本番では「自分の期待や予想以上に、問題が解けない」ことが圧倒的に多いからです。そのようなときに、元々あまり成績が良くなかった子、というのはそのような「絶望的な闘い」をすでに中学生や高校生のときに様々な試験で経験しているので、「まあ、解けるのがどれか探してそれだけ解こう!」と思うことができます。そして、入試においてはその「まず解ける問題を探して解く。」が唯一の正解であり、「解けない問題を(本当は解けるレベルの問題だから)粘って解く」は絶対の禁忌事項です。元々成績が良くなく、だからこそ「全部はできるはずのないテスト」を散々受けてきた子、というのはそのような絶望的な闘いにある意味慣れているからこそ、入試本番においていちばん大切なそのような解き方が自然に身についている、と言えるのでしょう。

逆にコツコツ勉強をしてきた優等生は、「テストは解けるもの」というイメージがあります。もちろん、東大のように合格点が半分くらいのような入試であれば、すべての問題が解けるわけではないことは事実としては知っているつもりですが、しかしそれでも「全く解けないテストの中で一問でも二問でも解ける問題を探して解いていく」ということに関しては圧倒的に経験値が足りません。だからこそ、頭では「解けない問題を飛ばして解こう!」という戦略はわかっていたとしても、「解けないで飛ばしている問題が最後まで解けなかったらどうしよう…。」という思いが最後まで意識から消えずに、目の前の問題に集中できずに失敗する、というケースが多いようです。

だからこそ、こちらで受験に対してしていく準備としては、特に優等生タイプの子ほどにそのように「絶望的な闘い」の中でどのように点数をかき集めていくか、そもそも何も解けていない状況で目指すべき目標は「合格点を取る」ことではなく、「まずはどれか解ける問題を一問でも解く」ことであることの理解をどこまで徹底できるか、ということになってきます。その点では「合格しよう!」という思いは邪魔でしかありません。「合格しよう!」と思えば当然「合格点まであと何点足りないから、最低何問は解かなくては!」と自分に縛りをかけることになり、そして頭が働かなくなります。目の前の一問一問に集中できるように「落ちてもいいから一問は解こう。」とどこまで本気で思えるかが勝負です。(これはたとえばスポーツとかとも似ていますね。テニスで言えば「勝ちたい!」と思うのではなく、目の前の一ポイント一ポイントに集中している方が結果として勝てる、というのと全く同じことです。逆に「勝ちたい!そのためにあと何ポイント!」と思うと失敗します。)

そして、もちろんこれには受験生本人だけの問題ではありません。親御さんや教師など周りの大人からの期待、プレッシャーを掛けること、などのすべてがそのように「絶望的な闘い」を切り抜けようと受験生がもがくときに、必ず足を引っ張ることになります。逆に「結果はどうでもいい」ということを(仮に本心では違うとしても)お子さんに見せられているかどうかで、受験生がその「絶望的な闘い」で最後まで諦めずに戦い抜けるか、それとも途中で精神的に限界を迎えてしまうかが大きく別れてしまうと言えるでしょう。

ということを考えると、ずっと成績が良いというのも考えものだと僕は思うのですが…。まあ自然に成績が良くなってしまう子はわざわざ下げる必要はないとして、中高一貫だったら進級さえできれば逆にそういう「絶望的な闘い」での度胸というのはつくので、あとは勉強を真剣にやる時期さえ来れば、それはそれで本番に強く、かつ実力もある子になれると思います(もちろん、勉強しないで合格できることはないです!)。

もちろん、これは受験だけのことではありません。真摯な人ほどにうつ病に陥りやすいこともこの一例です。受験が自分の予想通りうまくいかないのと同じように、人生も自分の予想通りうまくいきません。自分が努力と善意をもって生きていれば、何とか穏やかに暮らせるくらいにはなるはずだ、というささやかな希望は、くだらないものによって容易に踏みにじられていくのが人生です。だからこそ、この「(受験とは、あるいは人生とは)うまくいかないものだ。」という姿勢を早くから学んでは粘り強さ、しなやかさを身に着けていくこと、というのはとても大切だと思います。

均質な理想空間をどこまでも敷き詰めていくことで問題を避けようという、「地表をすべてアスファルトで固めれば車が通りやすいでしょ!」的な発想には必ず人間の予期せぬ限界がある、ということを学ぶことが本当の賢さであると思います。
是非、お子さんがずっと優秀で非の打ち所のないままに学校期間を終える、ということが理想だと考えておられるご家庭ほどにこのことを理解していただければ、と思っています。

それとともに、僕自身もその受験本番で起きる「不測の事態」「絶望的な闘い」に受験生を備えさせるためにも、今日も受験生の受験勉強をあれこれ邪魔していき、鍛えていきたいと思います(もちろん、勉強はそれ以上に鍛えます!)。

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