
日々、忙しく追われている中で、とうとう明日は共通テストになりました。
このコロナの感染状況の中で不安を抱えながら受ける受験生たちの最後の追い込みに、てんてこ舞いの状態です。
どうやれば入試で実力が出せるのか、という問いに対してこちらができる最良のアドバイスは「頑張れ!」ではなく、
「頑張らないで!」ということだと考えています。頑張ろうとすればするほどに、精神にこわばりが生じ、うまくいかないことが出てきたときにうまくいってほしいという自分の願望とのギャップに絶望しては、頭が働かなくなるからです。試験とは本来、うまくいかないものです。自分の理想通りの展開になんてなるはずがない。その現実をしっかりと直視し、その上でできることを制限時間の残りの一分一秒まで探し続けていく、ということが大切であるのだと思います。
言い換えれば、試験会場で自分ができる限り普段の実力を発揮するためには、自分にとってその試験がどれだけ大したことではない、と思えるかどうかが重要である、ということだと思います。自身の人生にとって大事な試験だと思えば思うほどに良い結果を出したくなります。良い結果を出すためには「気合い」を入れて必死に頑張ることが大切で、それで失敗した自分なんかイメージしていてはダメだ!!と書いてみると、どこかの首相の精神論でしかない感染症対策のように読めてしまいますが、『失敗の本質』という名著でも詳しく描かれていたように、日本人はとにかく自身の失敗の可能性を考えることが苦手です。自身の失敗の可能性を考えないようにするためにこそ、「気合」という言葉が使われているのではないか、とさえ思えます。
自身の失敗の可能性を徹底的に考えることは、今自分が存在している閉じた世界のその外の可能性を考えることであり、自らの頭の凝り固まりをほぐしてくれます。たとえば共通テストが失敗しても、私立大学受験というチャンスがまだあります。あるいは、失敗した点数で出せる国公立を受ければよいですね。「この大学のこの学部じゃなきゃ行かない!」と決めてしまっていないのであれば、そのように自身が失敗したときの可能性を考えることは有意義です。「失敗したら、すべて終わりだ!」と自分を追い詰めては受験すればするほどに、そのような緊張下では実力も出せなくなってしまいます。
ただ、このような「自身の失敗の可能性を直視して考える」という行為を受験生だけでなく我々大人も苦手であるのは、自身の願望通りに物事が進むことをついつい望んでしまいがちである、という自分への甘さだけではなく、根源的な恐怖ゆえでもあると思っています。「共通テストがダメならもう第一志望は受けられない!」という恐怖と同じように、人は何らかの望ましい結果、それが可能なものであるのか、何なら自分にとって本当に望ましい結果であるのかすらわからないものに執着することで、自身をmotivateし続けています。そこへの執着がなければ、自分が生きている意味すらわからない、となるのはそこへの執着を捨てた自分の中にそれに執着しなければらならなかったreasonableな動機など本来何もないことを自覚しているがゆえの恐怖であるのでしょう。その動機が空っぽである我々は、その執着にmotivateされては結果を出すことでしか、自らの存在意義が保てない。そのような根源的な恐怖が「望ましい自分」にしがみつき、それを「気合」で叶えようとしては、それが失敗したときの自分を想像しない、という蛮行へと自身を駆り立ててしまうのだと思います。
しかし、です。自身が失敗する可能性を直視しようとすることが、とりあえずは目の前の閉じた競争の中で自身が大きく失敗することを防ぐための道具として小賢しく導入されたのだとしてもなお、そのように自身の想定の外部性へと目を向けようとする努力は閉じた競争において自身を利する以上の何らかの結果につながるものであると、僕は信じています。まずは明日明後日の共通テストを塾生たちが自身の失敗の可能性を見つめた上で、最後まで闘い抜けるように、しっかり準備をしていきたいと思います。
このコロナの感染状況の中で不安を抱えながら受ける受験生たちの最後の追い込みに、てんてこ舞いの状態です。
どうやれば入試で実力が出せるのか、という問いに対してこちらができる最良のアドバイスは「頑張れ!」ではなく、
「頑張らないで!」ということだと考えています。頑張ろうとすればするほどに、精神にこわばりが生じ、うまくいかないことが出てきたときにうまくいってほしいという自分の願望とのギャップに絶望しては、頭が働かなくなるからです。試験とは本来、うまくいかないものです。自分の理想通りの展開になんてなるはずがない。その現実をしっかりと直視し、その上でできることを制限時間の残りの一分一秒まで探し続けていく、ということが大切であるのだと思います。
言い換えれば、試験会場で自分ができる限り普段の実力を発揮するためには、自分にとってその試験がどれだけ大したことではない、と思えるかどうかが重要である、ということだと思います。自身の人生にとって大事な試験だと思えば思うほどに良い結果を出したくなります。良い結果を出すためには「気合い」を入れて必死に頑張ることが大切で、それで失敗した自分なんかイメージしていてはダメだ!!と書いてみると、どこかの首相の精神論でしかない感染症対策のように読めてしまいますが、『失敗の本質』という名著でも詳しく描かれていたように、日本人はとにかく自身の失敗の可能性を考えることが苦手です。自身の失敗の可能性を考えないようにするためにこそ、「気合」という言葉が使われているのではないか、とさえ思えます。
自身の失敗の可能性を徹底的に考えることは、今自分が存在している閉じた世界のその外の可能性を考えることであり、自らの頭の凝り固まりをほぐしてくれます。たとえば共通テストが失敗しても、私立大学受験というチャンスがまだあります。あるいは、失敗した点数で出せる国公立を受ければよいですね。「この大学のこの学部じゃなきゃ行かない!」と決めてしまっていないのであれば、そのように自身が失敗したときの可能性を考えることは有意義です。「失敗したら、すべて終わりだ!」と自分を追い詰めては受験すればするほどに、そのような緊張下では実力も出せなくなってしまいます。
ただ、このような「自身の失敗の可能性を直視して考える」という行為を受験生だけでなく我々大人も苦手であるのは、自身の願望通りに物事が進むことをついつい望んでしまいがちである、という自分への甘さだけではなく、根源的な恐怖ゆえでもあると思っています。「共通テストがダメならもう第一志望は受けられない!」という恐怖と同じように、人は何らかの望ましい結果、それが可能なものであるのか、何なら自分にとって本当に望ましい結果であるのかすらわからないものに執着することで、自身をmotivateし続けています。そこへの執着がなければ、自分が生きている意味すらわからない、となるのはそこへの執着を捨てた自分の中にそれに執着しなければらならなかったreasonableな動機など本来何もないことを自覚しているがゆえの恐怖であるのでしょう。その動機が空っぽである我々は、その執着にmotivateされては結果を出すことでしか、自らの存在意義が保てない。そのような根源的な恐怖が「望ましい自分」にしがみつき、それを「気合」で叶えようとしては、それが失敗したときの自分を想像しない、という蛮行へと自身を駆り立ててしまうのだと思います。
しかし、です。自身が失敗する可能性を直視しようとすることが、とりあえずは目の前の閉じた競争の中で自身が大きく失敗することを防ぐための道具として小賢しく導入されたのだとしてもなお、そのように自身の想定の外部性へと目を向けようとする努力は閉じた競争において自身を利する以上の何らかの結果につながるものであると、僕は信じています。まずは明日明後日の共通テストを塾生たちが自身の失敗の可能性を見つめた上で、最後まで闘い抜けるように、しっかり準備をしていきたいと思います。



