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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

『青チャートをやれば東大に受かる』のウソ。

塾がバタバタと忙しく、その時期にさらに横浜や富士までどくんごを観に行ったものですから、気がついたら7月12日!もう7月半ばです。ここから塾も忙しくなるのですが、またポツポツと書いていきたいと思います。

さて、今回は「受験指導の『常識』を覆す!」ということで、まだまだわかっていない高校の先生方が多く、その犠牲者となってしまっている高校生が塾でもあまりにも多いので、改めて書きたいと思います。

いわゆる「進学校」と自認している高校では、生徒のレベルに合わせて授業をするなどということは「妥協」として拒絶してしまう先生が多いのかもしれません。そのような学校でよくされている数学の指導法としてあるのが「(数研出版の)青チャートをできるようになれば、東大に受かる!」と数学の先生が主唱して、まだまだそれを解くレベルにない子達に、ひたすらそれを周回させることです。しかし、このような指導の結果がどうなるかといえば、高校生の貴重な勉強時間を浪費させては何も実力として残らない、という悲惨な事態になってしまっているケースを非常に多く見かけます。

高校生からすれば、自分の学校の数学の先生がこのような指導をしている限り、それを疑って自分のやり方で勉強するのはなかなか勇気がいるものです。親御さんに至ってはなおさらでしょう。結果としてこのような的はずれな指導法を信じることで、多くの高校生、それも高校受験や中学受験ではがんばって勉強してきた勤勉で優秀な高校生達が時間と労力を無駄にしては、結局自分の将来を閉ざすことになってしまっています。このようなひどい指導法は犯罪的だとすら僕は思います。

なので、この機会にこういった学校のアホな方針に苦しんでいる高校生のために、しっかり反論をしておきたいと思います。高校生の方、そういった先生に直面してしまったら、是非このブログを使って先生に反論して頂けたら!

①「繰り返して覚えれば大丈夫」と言われても理解できないものは覚えられない。
数学においては、そもそも教科書レベルのことがどれだけ定着している、ということがまず大前提であり、
教科書をしっかり読み込んでいる、教科書に書いてある定理や公式の証明や導出が何も見ないで自分の手を動かしてできるレベルである、ということが力をつけていくためには必ず必要となります。
そもそも理解できていないものは覚えられません。多大な時間をかけて無理に覚えても、短期記憶にとどまり、何も残らなくなってしまいます。これはお坊さんがお経を覚えるやり方であり、あるいは円周率を何万桁も覚えている人がストーリーを作って覚えるなりを見れば明白な事実です。(あるいは英語学習において文法の概説書も読まずにネクステージとか問題集ばっかり解かされてる高校生には、身をもってわかるところかと!英語のこの勉強法も本当に最悪です。)

そこがあやふやな状態で青チャートに限らず難しい問題を繰り返すことは、理解できないままに解法をなぞることになってしまい、当然長い時間をかけても定着しません。「何周もすれば覚えられる!」「そもそも覚えられないのはお前の努力が足りないからだ!」と学校の先生は言ってくるかもしれません。しかし、あんな分厚い問題集を何周もすること自体がそもそも他の受験教科に時間を割かねばならない受験生には不可能なことですし、それを仮にやり遂げたとしても効果は極めて薄いのです。

②そもそも青チャートは難しすぎる。

そもそも青チャートは難しすぎます。もちろん、これは青チャートがダメな教材だ、と言っているわけではありません。このレベルの問題集を解くだけの下地ができている子にとってはもちろんとても良い教材となりうるでしょう。しかし、学年全体でこの教材を使えるだけの下地を持っている生徒がマジョリティを占める高校などあるのでしょうか…。開成でも学年全体は明らかに無理です。灘や筑駒ならひょっとしたら…。いや、それでもおそらく学年全体では厳しいとは思います。

というレベルの問題集を、それよりはるかに学力レベルが下(失礼!)の学校で「これだけを繰り返してやれば力がつく!」と根拠のないことを言っては繰り返し、なんなら定期テストにそのまま出る、というこの恐ろしさ。。当然、そのようなやり方では生徒たちも力がつかないので、定期試験に関しては解答を丸暗記になってしまっています。それに一体何の意味があるというのでしょうか。。

もちろん、「青チャートができるようになれば東大に受かる」はそこそこ正しい言明です。しかし、問題は「青チャートだけをやっていれば、青チャートができるようになるのか」ということです。このような方針で指導する数学教師は、おそらくそれについてしっかりと吟味ができていないと思います(しっかりと考えた上でこの結論に達しているのなら…高校教師を辞めたほうが良いと思いますが)。むしろ現実には「青チャートだけをやっているから、いつまで繰り返しても青チャート(どころかもっと簡単な問題も)できるようにならない」というケースが多く、したがって「青チャートをやれば東大に受かる」という言明は偽であるのです。

「青チャートだけをやって私は力がついた!」の検証不可能性

そういった数学教師も「いや、去年の卒業生の○○君は『先生の言葉を信じて青チャートだけをやり込んで東大に合格しました!』と言ってたぞ!だから俺の指導は正しい!」という主張をしてくるかもしれませんが、信じてはいけません。その○○君は本当に数学の勉強に青チャートだけを使っていたのでしょうか?できる受験生ほどに自分がわからないことは丹念に遡って調べるものです。それなのに○○君が青チャートをやっていて、「この単元は教科書レベルでも怪しいな。。」と自分で気づいたときに、果たしてそこで教科書レベルの内容を復習しないでしょうか。そんなはずはありません。必ずそこで○○君(誰やねん)は教科書レベルの内容を復習すると思います。しかし、そういった勉強はおそらく「勉強内容」として○○君はカウントしていないわけです(なぜなら、彼にとってそれは「当たり前の努力」であり、意図的に勉強した内容ではないので)。そして、さらにその数学の先生は○○君と「青チャート以外を復習したら逐一報告する」だの契約を結んでいるわけではないので、彼の無意識な努力が言葉になっていなければ、数学教師はそれには気づかないことになります。
こうして「○○君は青チャートだけで…!」というデマが生まれてしまいます。

そしてもちろん、その○○君以外の大多数は、「青チャートだけをやっていれば」という指導の犠牲者として、数学ができないままに終わります。そのような子たちが「お前のアホな指導のせいで、僕の/私の数学にかけた時間が無駄になったじゃないか!」とその数学教師に抗議しに来るかといえば、できないでしょう。苦い思いをすればするほどに、このような数学教師からは距離を置こうと思うはずです。このようにして教師側の認知の歪みができてしまっているわけです。


もちろん、ここでは多くの学校で採用されている教材として青チャートを例に出しましたが、これがフォーカスゴールドであれ、他の教材であれ、理屈は同じです。自分がそれをやって消化できるレベルに達するまでは、決して難しい問題集をただ繰り返すことで力がつくことはありません。勉強に王道はないからこそ、教科書レベルの内容が理解できていないのなら、まずはそこからやっていくしかありません。(厳密に言えば、いきなり難しい教材から始めてもできるようになってしまう子も本当にごく少数ながら、います。しかし、それは東大に受かるレベルの子たちではなく、もっと上のレベルの子たちです。我々凡人は真似をしない方が絶対に良いです!)

そして、このようなひどい指導で貴重な勉強時間を奪われている高校生のみなさん!
逃げてください!
自分が教科書ですらあやふやであるのなら、まずはそこでの理解をしっかりと固めることの方がはるかに役に立ちます!

数学に限らず、ゴールから逆算して自分の実力が追いついていない教材に無理に取り組むのは、凡人である殆どの我々にとっては、時間がかかる割に力が何もつかないことでしかありません。
まずは自分が高校や予備校、塾でそのような指導をされていないか、されているとしたらそこにかける時間を極力削る、できればゼロにして自分の今の実力に見合った努力を一から始めていくことが大切です。

またその際にはお父さんやお母さんを味方につけることが大切です。「学校の先生が言ったことに従ったほうがいい」と日本人は刷り込まれていて、その指示が妥当なものか的はずれなものかを判断する勇気がありません。しかし、それに従うことで失われるのは、高校生の皆さん自身の将来です。

だからこそ、自分の状況を説明し、(なんならこのブログのように)それに批判的な大人の意見を紹介し、
その上で自分が今やるべき勉強を(決して背伸びをせずに)一からやっていくことが大切です。
もちろんそのために塾や予備校を使うのもありですが、まずは教科書を読み返してよく手を動かして理解する、
というだけでも状況はだいぶ改善するはずです。

そしてそのように「自分に今必要な勉強」ではない勉強をむりやりやらせようとする教師は、学校であれ予備校であれ、
塾であれ、すべて君にとっては敵です。もちろん、自己判断による「自分に今必要な勉強」が間違っている場合も
あるのでそれが不安な場合は信頼できる先生に聞くのが良いかもしれません。
ただ一般論として言えるのは、「今やっている教材が難しい」と感じるときにもっと基本的なものへと遡る勉強は、まず間違いなくハズレがなく正しい方向の努力である、ということだと思います。

ということに気をつけて、とにかく自分の勉強時間をアホな大人に無駄に浪費させられないように気をつけて頑張って下さい!

それでも不安なら、嚮心塾にぜひ(結局宣伝!?)!

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「楽しむ」ためには。

トップアスリートがよく使っていることから、大切な試合や受験など、いわゆる本番でのパフォーマンスを上げるために、「楽しみなさい!」というアドバイスはよくされるようになったと思っています。

しかし、このアドバイスはある意味無責任です。そりゃ人生の掛かった本番で「楽しむ」ことができれば、心もリラックスしてパフォーマンスも上がるでしょうが、しかしそれが簡単にできたら苦労しないわけで、「楽しんでね!」というアドバイスは人生の掛かった本番でそのようには思えない人にとっては何も役に立たないし、そのように思える人にとってのみ、よいアドバイスというだけのものであるかもしれません。

なのですが、昨日教えていて、では「楽しめない」とはどういう状態かといえば、「一つの方向や判断基準に自身を押し込めているとき」なのだ、と説明すれば良いと気づきました。人間自体が多様であり、たとえば一つの方向にむかって、それ以外のものを切り捨ててでもその一つの方向で何かを成し遂げようとしているときはどうしてもその成否だけが気になってしまうものです。しかし、そのように研ぎすませていく瞬間にも、人間の認識は必ずその目的に資するものとは別のものを
とらえてしまいます。そのとらえたものを「無駄だ!」と考えれば考えるほどにどんどん焦ってテンパっていくでしょうし、逆に「なるほど、これは面白いねえ。」とその一つの方向から外れたものを評価できるのであれば、それは段々と「楽しむ」ことに近づいている、と言えるでしょう。

つまり、「楽しむ」とは「味わう」ということです。だから、「楽しみなさい!」はもっと精密に話せば、

「人生をかけた勝負の中で、それでも自分が望む方向へと一生懸命やろうとしてもうまくいかないことは出て来るし、自分が実現したい方向性以外の方向性も出てきてしまう。しかし、それらを無駄と感じては今追求している方向性へと何とか戻そうとすればするほどに、そのような「目的」から外れた自分に対する焦りや苛立ちというまた別の「方向性」が生まれてしまい、自分がどんどん分裂してしまう。だからこそ、そのうまくいかないこと、無駄なことをじっくりとあじわいなさい。その勝負に勝つ、という目的地を忘れて、あたかもあてのない散歩をするように。最初設定した目的地への前進がうまくいっていないことも含めて、あなたの散歩であり、あなたの人生なのだから。逆に一つの方向へと自分の意識を向けようと思えば思うほどに、人間とはそのようなものではない、という根本的な拒絶感の根強い抵抗に疲れ果てては、結局集中できないままに終わることになるはずです。」

ぐらいでしょうか。長い!
なるほど、これはみんな「楽しめ!」ぐらいしか言わなくなりそうなものです。
しかし、楽しめる人は最初から楽しめるし、そうではない人はこの言葉一つだけでは難しいでしょう。
だからこそ、自分がしんどくてたまらないとき、自分がどうにもうまくいっていないと感じているときにこそ、
この「一つの方向」だけで自分を評価していないか、そこに自分の魂を押し込めては味わうことを忘れてはいないか、を
自分でチェックすることがとても大切です。

話を広げれば、自分を一つの方向へと駆り立てない、自分を一つの座標軸だけで評価しない、ということはこのように本番でのパフォーマンスを上げるだけでなく、長期的な生き方の面でもとても大切なことです。
僕も教育に携わるようになって長いですが、ほとんどの「やる気のない」子というのは、
親や教師が用意した一つの方向でしか評価されないことに倦み疲れている子であると思っています。

もちろん家の中の煙に気づいた瞬間に「火事だ!逃げろ!」と叫んだ後くらいは、一つの方向に向かっていないと死んでしまうわけです。緊急避難的に一つの方向に向かわなければいけない瞬間というのも人間には多々あります。しかし、根本的にはそれを長期間、しかも自分の意志ではなく他者の意志で行うことは人間にとっては不可能です。

その不可能なことをやらせようとして失敗しているのが、たとえば現在の教育のありようなのではないか。
大学受験がこの日本社会において「緊急時」であることは僕はそんなに間違っていないとは思いますが、では
その勉強をいつからやるか、というときに高3から?高2から?いやいや、これだけ高校受験で生徒を宿題と小テストで虐待する「自称進学校」と母集団の質の高さ以外に教育機関としての能力の低い「都立トップ校」しかない(最後の砦の豊島岡ですら高校受験を辞めます。。)のだとしたら、無理やり中学受験で入れるしかないのでは?
そうしたら、小6から?いや、小4から?

というように、どんどん「一つの方向」へ子どもたちが努力する期間を長くさせようとしていってしまっているわけです。
ましてや、「高校のときは勉強をサボって浪人してから頑張る」ことも許されなくなるような入試改悪が進んでいる将来は、さらにそうなっていきます。

このようにしておいて、「思考力を鍛えろ」というのは他者が無理やり食べ物を口につっこむ期間を10何年も続けていながら、「よく味わえ!」というのと同じでしかありません。控えめに言って虐待、もっと率直に言えば、長い目で見た自殺であるとすら思います。

そのような中で、「学校でやる勉強をやってください!」と何も知らない親御さんからはリクエストされるものの、事実学校の勉強が何も力がつかないレベルの作業や苦行でしかない(僕らが学生の頃は高校の授業は「受験に役に立たない」ものでしたが、現在の高校の授業は宿題が多すぎて「受験勉強の足を引っ張る」ものです。学校の勉強を頑張ることと受験勉強の準備をすることは多くの高校において明確に反対の方向であると思います。)中で、なんとかそのムダを省き、「一つの方向」へと押し込められている子達の精神を少しでもリラックスさせてあげた上で、何とかその一つの方向へと自分から取り組むことができるように、闘い抜いていきたいと思っています。

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問題を解くな。

暗い内容のことだけ書いてしばらく書かなくなると、「あいつ、ヤバくね?」となってしまうので、今日は箸休めに受験勉強のことを書きます!(一応学習塾なので…。)

「non-nativeな我々が英語力を鍛えるためには英文法が重要だ!」という主張は塾で徹底しているだけでなく、繰り返しここでも書いていることなのですが、この意見に「そうだそうだ!」と賛同される方の中でも、「じゃあ英文法ってどうやって勉強する?」と聞くと、「やっぱりここは『Vintage』をやらせるべき!」「いや、『Nextage』がいい!」などと英文法の問題集の名前が出てきます。また、実際にほとんどの高校では「英文法の勉強をさせる」=「英文法の問題集を解かせる」であって、小テストをしたりしてひたすら解かせる、ということをさせているようです。

嚮心塾ではそのような指導を一切否定しています。具体的には英文法の問題集を解かずに、『Forest』とか『Evergreen』とか『Breakthrough』その他何でもよいのですが、概説書を繰り返し読んでもらうことをお勧めしています。もちろん、どれを使うかによってどこまで詳しく読むか、などのアレンジはしていきますが、大切なのは細かな表現を覚えることよりも理解をしっかりと積み重ねていくこと、それとともに「文法的な分類」のための道具立てを自分の頭のなかに作っていくことです。

などとアタリマエのことをわざわざ言挙げするのも恥ずかしいですね。。こんなのは、勉強を教えていれば、すぐに気づくような初歩的な指導法だとは思うのですが、いわゆる「自称進学校」が相も変わらず文法を理解していない高校生に「文法の問題集」を解かせることのみに汲々としている、という事態は塾を開いてからのこの15年ほど、何も変わっていません。それでは英語ができるようになるわけがないと思います(もっともこういう先生方は「問題集を解いて、わからないところは概説書で参照するのが当たり前で、そもそもそれは生徒の努力不足だ!」と主張するのでしょうが、何も理解できていない状態で問題だけを解かせて答えを覚えさせていくことの罪についても、もっと自覚的になってもらわなければ困ります)。実態を伴えていない現実から目を背けて、自分の理想を押し付けては結局生徒を鍛えられてはいない、というのは、やはり現実を直視する勇気のないままに「理想」に逃げることでしかないと思います。

逆に英文法の概説書を読んで理解するところからしっかりと積み上げていけば、英語が極端に苦手な子であっても、しっかりと力がついてきます。それこそ、英語だけできない浪人生が前年のセンター試験100/200から一年で180/200にジャンプアップした!などは塾ではよくある例です。受験勉強の指導において、受験生本人は努力しているのに英語の力を伸ばすことができない、というのはやり方がまちがっているしか理由がありません。「英語は暗記」という教え方は「数学は暗記」と同じくらい、非効率的な教え方であると思います。

ただ、この「とりあえず問題を解かせれば良い。」という指導者の誤謬は結構根深くて、恐らく教える側はその科目を得意だった人しかいない、ということと繋がっているのでは、と思っています。英語であれ、他の教科であれ、それを受け持つ先生は当然その教科について自分が自信を持てるだけの実力があるわけです(とは高校の先生も限らない、という現実はもちろん承知していますが、絶対評価においてその教科で「力不足」な先生方も、自分が勉強してきた教科の中では教えている教科は「できる」教科であったわけです。さすがに自分が指導する教科を自分がいちばん苦手な教科を教える、という先生はまずいないでしょう。)。だからこそ、そのように自分が得意だった教科に関して「問題を解く」ということは、大枠を理解をしていることは当然の前提として、細部のチェックとして問題を解いてきているわけです。あるいは解いてみた後にまた概説書に戻るとしても、ほとんどのところは理解できている中で、後は弱い部分だけを詰めていけばよい、というところにまでは来れたはずです。そのような場合、「問題を解く」というプロセスは先生方の受け持つ教科(つまり先生自身にとっての得意教科)の個人的な学習史の中では「非常に効果的」であった可能性が高くなります。

しかし、その科目を学ぶ生徒は多様です。英語の先生が教える生徒が英語が苦手だった場合、問題集を解いても一対一の雑多な知識の羅列をひたすら覚えることにしかならず、理解が何もできていない状態であるかもしれません。だからこそ、教える先生は自分の担当科目を苦手としている子にどう教えるか、ということに関しては自分自身の学習史の中で得意であった科目(たとえば英語)についての勉強方法ではなく、自分自身が苦手であった科目について自分なりの勉強方法で効果的であったものをアドバイスする方がよほど効果的かもしれない、ということです。

と、このように客観的に分析ができればまだよいのですが、たとえば英語の先生が英語の苦手な子から「英語が苦手な自分がどのように勉強したらよいか。」と問われて、そこで自分の専門である「英語の勉強法」を教えるのではなく、自分が苦手だった教科(たとえば数学)の勉強法から着想してアドバイスをする、ということをできるのか、という問題ですよね。何もわかっていなければ、問題を解く前にまず教科書で一から読めばいい、ということはどの教科でも言えるし、文字が読める子であれば、恐らくかなり有効であると思うのですが、それを「英語の勉強法」を聞かれた時に英語が「得意」なまま生きてきた英語の先生が引き出せるかどうかは…。なかなかできない先生が多いのでしょう。

と考えると、全ての教科を僕が教える、という嚮心塾のシステムは一見、怪しいように思われたりばかりなのですが(15年やってて、合格実績を出してきてもまだそういう反応が多いです…。)実は結構理にかなっているのでは!と思います。

さらに、このような「ひたすら問題集を解け!」的な的はずれな指導が未だに温存されてしまっている理由の中に実は、受験生の側の共犯関係もあります。

たくさん問題集を解く、鉛筆を動かす、できない問題にチェックを付けて、それをやり直す、理解していなくてもぐるぐる周回する、といったこれら一連の「努力」は、概説書を読んで「ふむふむ」と理解していくよりも、努力をした気になることができてしまいます。この「努力」が、自分のやり方が正しいかどうかをチェックする目を曇らせます。「努力をしているから、必ずこれで力がつくはずだ。」という自己陶酔から、結果としての不合格として出てくる前に気づいて抜け出すことのできる受験生というのは実は、ほぼいないと言えます。もちろん、このような誤ったやり方を平気で進めてくる教師の側にこそ第一義的な責任があるのは当たり前として、受験生本人もどこまで自分自身の「努力」が的はずれなものになっていないか、をどうしようもない不安の中で絶えず疑い続けていかねばなりません。

「たくさん問題を解く」ことが基本的なことを理解をできていない自分から目をそらすために使えてしまうように、私たちは現実と立ち向かうためのどのような方法をも、現実から目をそらすために使うことができてしまう弱い生き物であることへの自覚がとても大切であると思っています。その上で、少しでも見たくない現実へと切り入ってはその現実と悪戦苦闘できるように、生徒一人一人と取っ組み合い、叱咤激励をしていきたいと思います。

(しかし、高校の先生方には授業の時間を意味のあることに使って頂きたいです。問題集を解く段階に達していない子に問題集を解かせておいて、「今までにちゃんと概説書をやっていないやつが悪い!」と居直る(まあ、そもそも高1、高2の授業など講義などしないで、概説書を毎回一緒に輪読していくだけの授業でも今より遥かにマシな教育になると思います)のは、受験生の貴重な時間を奪う時間泥棒であり、虐待であると思います。もちろん、授業を一人一人のレベルに合わせて行うのは難しいとしても、「君は僕の授業聞いたり問題集解いたりしなくていいから、授業中この教科書を読んどくといいよ!」ぐらいはやれるとは思うのですが…。)

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第一志望に不合格のときにこそ。

気がつけば、5月も10日が過ぎているというこの恐ろしさですね。。忙しい毎日の中で何とか必死にあれこれやりくりしているうちに、ブログの方も放置してしまっていました。毎日は難しいとしても、また定期的に書いていきたいと思います。

話題としては少し古いのかもしれませんが、武田塾という参考書を使って勉強方法を教えるという塾(なんか似たようなシステムでやっている小さな塾がどこかにあった気もしますが。。ちなみに、うちの方が2005年5月開業なので、開業はこちらの方が早いです!)がとても繁盛していて全国展開をしているのですが、そこに所属する職員がyoutubeで法政大学の入学式で「法政大学が第一志望だった人は0人説」という失礼極まりないインタビューをしては動画を挙げ、炎上していたようでした。それを真摯に糾弾されている中野先生のブログもあります。

僕も中野先生と同じ思いです。その大学が第一志望であろうとなかろうと、様々な思いを抱えた上で前向きにその大学の入学式に臨もうとする新入生に、そのようなひどい質問を投げかけてはネタにする、という行為自体が本当に教育に携わる機関として言語道断です。仮に受験に少しでも関わった経験があるのであれば、「第一志望に合格する」ということがどれほど難しいか、ということに直面せざるを得ません。自身の受験で余裕を持って第一志望に合格できた教師であろうと、「教え子すべてが第一志望に合格できる」ことなど不可能です。間違いなく日本一、いや恐らく世界一の先生である物理屋さんですら、教え子の第一志望合格率は100%ではないわけですから。

だからこそ、教師がしなければならない仕事は、もちろん「第一志望に合格させるためにできることを徹底的にやる」のは当たり前の当たり前の当たり前として、仮にそれが実現できなかった時その現実に打ちのめされる生徒に対して、それでも何を語らなければならないのか、を準備していくということでもあります。人生は思い通りにならず、思いやりや努力が報われるわけでもない。(さぼっていて結果が出なかったのならともかく)必死に頑張ってもそのような現実に打ちのめされる教え子たちに、どのような言葉をかけるかこそが重要であるわけです。

それを受け入れる余裕のない教え子たちにどのように偽善者と思われようとも、彼ら彼女らが必死にもがいた努力の中で成し遂げ得なかったものだけに目を向けては成し遂げ得たものをすべて放擲することのないように。あるいは、この悔しさを糧にして、より長い視野で自分の人生を捉え直すことができるように。このように色々と身悶えしながら考えては、なけなしの言葉をかけるとき、僕は自分自身の偽善者ぶりを強く感じながらも、でもその偽善者としての役割を果たさなければならないと強く感じます。大切なのは、受験生が自分では自分の努力を全否定したくなるようなそのときにたってなお、その子のためにその努力を肯定できるかどうか、であると思うからです。その「肯定」が嘘くさく思われようと、バカにされようと、本人に怒りと軽蔑をもってあしらわれようと、受験生が自分自身ですら自分を否定せざるをえないその瞬間に、その受験生本人の肯定をしないのであれば、教師など存在する意味はないどころか、存在していてはならないでしょう。

そして、そのように嘘くさく見え、拒絶されることを覚悟しては、それでも自己が全否定されたと感じてしまっている受験生を何とか自分だけでも肯定しようという「絶望的な偽善」を引き受けたことのある人間であるのなら、そのような自己の全否定から何とか再び本人が歩き始めようとしている入学式において、「企画」としてこのようなことは絶対にできません。それが全てです。炎上かどうか、世間をお騒がせしているかどうか、法政大学とその学生に失礼かどうか、という論点は些末なものであり、それらをどのように言い繕って謝罪をしようと、受験生の絶望的な自己の全否定を何とか少しでも一緒に引き受けようともがいた経験のない人間が教務にいる塾が武田塾である、ということは事実でしかありません。(もちろん、これはほとんどの予備校や塾にもあてはまるとは思いますが。。)

もちろん、第一志望に合格すれば、その後の人生においても絶望から逃れられる、ということではありません。
東大や京大に合格した凡百の東大生・京大生が感じるのは、自分がいくら努力をしたとしてもどうにも追いつきようのない人間たちが目の前にいる、という事実です。あるいはその中で優越感をもっていた少数の子たちも、より視野を広げれば、現実から目を逸らさない限り、必ず絶望につきあたります。

だからこそ、そのような、最後の砦である自分ですら自分を全否定せざるをえないかのように思ってしまうときにどう寄り添うか、は人を教える仕事に携わる人間にとっては必ず考えなければならないことであると思っています。もちろん、そんなとてつもなく難しい役割は、どのような天才であろうと、どのような聖人であろうと、決してろくに役に立てないような難しいものです。でも、あるいは、だからこそ、その役割を誰かが果たそうとしていかねばならないし、そこでの自分の無力さ・嘘くささを踏まえてなお、苦しんでいる本人の存在を引き受けていかねばならないと思います。

嚮心塾も「華々しい合格実績」的な情報も出していかないと生徒が集まらないのがこの業界の苦しいところではありますが、一方で大切にしていることがあります。それは、第一志望に合格した卒塾生しか卒塾後に塾に遊びにこれないような学習塾であってはならない、ということです。第一志望に合格した受験生は自らの「成功」体験と塾がリンクしているわけですから、それはこの場をかけがえのないものと思いがちです(もちろんそれは錯覚であることも多々あるとは思いますが)。そうでなかったとしても、それでも「あのおっさんに今の話を話してみようかな。。」と思ってもらえる塾でないのであれば、存在意義などないと考えています。

一人一人に第一志望に合格してもらう、というのは誤解を恐れずに言えば、目的ではなく、手段です。
生徒一人一人が今後の人生をよりよく生きるためのあくまで一つの手段でしかありません。
そのことをしっかりと伝えられるように教えることを肝に銘じて、しっかりと鍛えていきたいと思います。

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なぜ「元劣等生」は受験本番に強いのか。

たまには受験のことも書きます!様々な受験生を教えていて思うのは、「本番に強い」子とそうでない子というのがやはり分かれる、ということです。もちろんこちらでもそのような「本番に強い」子はどういうところが強いのかを分析して言語化し、それをどのような生徒にも教えられるように、ということを心がけていますが、それでもやはり個人差が出てきます。

端的にいうと「本番に強い」子の特徴というのは、元劣等生が多い、ということが言えると思っています。元々成績が悪かった子が勉強して知識や理解が追いついてくると、入試本番ではとても強いです。逆にコツコツ勉強してきて、ずっと良い成績をキープしてきた子、というのは本番に弱いところがあります。

これはなぜか、といえば、入試本番では「自分の期待や予想以上に、問題が解けない」ことが圧倒的に多いからです。そのようなときに、元々あまり成績が良くなかった子、というのはそのような「絶望的な闘い」をすでに中学生や高校生のときに様々な試験で経験しているので、「まあ、解けるのがどれか探してそれだけ解こう!」と思うことができます。そして、入試においてはその「まず解ける問題を探して解く。」が唯一の正解であり、「解けない問題を(本当は解けるレベルの問題だから)粘って解く」は絶対の禁忌事項です。元々成績が良くなく、だからこそ「全部はできるはずのないテスト」を散々受けてきた子、というのはそのような絶望的な闘いにある意味慣れているからこそ、入試本番においていちばん大切なそのような解き方が自然に身についている、と言えるのでしょう。

逆にコツコツ勉強をしてきた優等生は、「テストは解けるもの」というイメージがあります。もちろん、東大のように合格点が半分くらいのような入試であれば、すべての問題が解けるわけではないことは事実としては知っているつもりですが、しかしそれでも「全く解けないテストの中で一問でも二問でも解ける問題を探して解いていく」ということに関しては圧倒的に経験値が足りません。だからこそ、頭では「解けない問題を飛ばして解こう!」という戦略はわかっていたとしても、「解けないで飛ばしている問題が最後まで解けなかったらどうしよう…。」という思いが最後まで意識から消えずに、目の前の問題に集中できずに失敗する、というケースが多いようです。

だからこそ、こちらで受験に対してしていく準備としては、特に優等生タイプの子ほどにそのように「絶望的な闘い」の中でどのように点数をかき集めていくか、そもそも何も解けていない状況で目指すべき目標は「合格点を取る」ことではなく、「まずはどれか解ける問題を一問でも解く」ことであることの理解をどこまで徹底できるか、ということになってきます。その点では「合格しよう!」という思いは邪魔でしかありません。「合格しよう!」と思えば当然「合格点まであと何点足りないから、最低何問は解かなくては!」と自分に縛りをかけることになり、そして頭が働かなくなります。目の前の一問一問に集中できるように「落ちてもいいから一問は解こう。」とどこまで本気で思えるかが勝負です。(これはたとえばスポーツとかとも似ていますね。テニスで言えば「勝ちたい!」と思うのではなく、目の前の一ポイント一ポイントに集中している方が結果として勝てる、というのと全く同じことです。逆に「勝ちたい!そのためにあと何ポイント!」と思うと失敗します。)

そして、もちろんこれには受験生本人だけの問題ではありません。親御さんや教師など周りの大人からの期待、プレッシャーを掛けること、などのすべてがそのように「絶望的な闘い」を切り抜けようと受験生がもがくときに、必ず足を引っ張ることになります。逆に「結果はどうでもいい」ということを(仮に本心では違うとしても)お子さんに見せられているかどうかで、受験生がその「絶望的な闘い」で最後まで諦めずに戦い抜けるか、それとも途中で精神的に限界を迎えてしまうかが大きく別れてしまうと言えるでしょう。

ということを考えると、ずっと成績が良いというのも考えものだと僕は思うのですが…。まあ自然に成績が良くなってしまう子はわざわざ下げる必要はないとして、中高一貫だったら進級さえできれば逆にそういう「絶望的な闘い」での度胸というのはつくので、あとは勉強を真剣にやる時期さえ来れば、それはそれで本番に強く、かつ実力もある子になれると思います(もちろん、勉強しないで合格できることはないです!)。

もちろん、これは受験だけのことではありません。真摯な人ほどにうつ病に陥りやすいこともこの一例です。受験が自分の予想通りうまくいかないのと同じように、人生も自分の予想通りうまくいきません。自分が努力と善意をもって生きていれば、何とか穏やかに暮らせるくらいにはなるはずだ、というささやかな希望は、くだらないものによって容易に踏みにじられていくのが人生です。だからこそ、この「(受験とは、あるいは人生とは)うまくいかないものだ。」という姿勢を早くから学んでは粘り強さ、しなやかさを身に着けていくこと、というのはとても大切だと思います。

均質な理想空間をどこまでも敷き詰めていくことで問題を避けようという、「地表をすべてアスファルトで固めれば車が通りやすいでしょ!」的な発想には必ず人間の予期せぬ限界がある、ということを学ぶことが本当の賢さであると思います。
是非、お子さんがずっと優秀で非の打ち所のないままに学校期間を終える、ということが理想だと考えておられるご家庭ほどにこのことを理解していただければ、と思っています。

それとともに、僕自身もその受験本番で起きる「不測の事態」「絶望的な闘い」に受験生を備えさせるためにも、今日も受験生の受験勉強をあれこれ邪魔していき、鍛えていきたいと思います(もちろん、勉強はそれ以上に鍛えます!)。

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思考停止して、失敗を正当化することについて。

塾でも新規の問い合わせが多く、体験入塾生が多いのですが、この時期になるとどうしても「ちゃんと合格したいのでしっかり予備校に通おうか悩んでいて…」みたいなことを言われます。これは「予備校ならばしっかりと勉強ができる」という思い違いによるのですが、どうしてもこの考えは根強いですよね。。

ただよく考えてみれば、誰もが知っている大きな予備校と嚮心塾のような小さな塾とでどちらの方が生徒を合格させたいというインセンティブが強いかを考えれば、当然それは小さな塾です。小さな塾から合格実績をとったら何も残りません。だからこそ、必死に教え、あの手この手を使ってでも合格させようとするわけです。だからこそ、カリキュラムも毎年毎年ブラッシュアップしたり、使う参考書も様々なものを読んでアップデートしたり、もちろん僕自身も教える力を上げられるように、日々勉強し続けているわけです。

一方で大きな予備校というのは基本的に合格実績が高いかどうか、ということは集客には全く関係がありません。
もちろんこれにはいわゆる大手の予備校の「合格実績」が(テスト生・無料生などで優秀な層を集めては実績を稼いで)形骸化してしまっている、という問題もあるわけですが、そもそも大手の予備校の合格実績などしっかり調べて子供を入学させる親御さんなどいません。大手の予備校は大手の予備校である、というだけで信頼され、そこにいけば合格するものだと
思って通わせられるわけです。実際にはそうでもないどころか、ぐだぐだと浪人生同士でつるんだり、結局授業の予習復習以外の勉強はさぼってやらなかったり、で大して力がつかないケースも多いです。

嚮心塾でも塾をやめて、大手の予備校に行って、その方が難しい大学に合格した!というケースはほぼありません。それは当たり前でオーダーメイドのものからレディメイドのものにするわけですから、仮に真面目に勉強していたとしても、飛躍的な伸び率というのは期待できないと思います。実際に、自分で勉強をして合格しようという受験生ほどに、予備校に通うことのデメリットを感じて嚮心塾に通ってくれることが多いです。

しかし、です。大手の予備校に通わせていれば親御さんとしては「天下の○○に通わせて合格できなかったのだから、仕方がない。本人の努力不足だ。」と思考停止ができるわけです。このようにして、お子さん自身も、あるいは親御さんも名前があるものに寄りかかれば、たとえ結果は出なかったとしても、その選択について反省をしなくて済むことになります。
このようにして、多くの受験生が浪人生としての貴重な一年間を徹底的に自己を鍛えることにつなげられずに終わっていく、ということになってしまいます。

大切なのは、結果としての失敗を正当化できるような手段を安全策として選ぶことではなく、成功するためにどのように全力を尽くし、一つ一つの判断に責任をもって取り組んだか、であるのだと思います。もちろん、「結果としての失敗を正当化できるような手段を安全策として選ぶ」ことのために嚮心塾に通うのであれば、それもまた失敗です。自分にとって何が足りないのかを受験を前にして徹底的に考え、そして足りないものを何とか埋めようと必死に取り組み続けることが大切です。逆にそのような努力をせずに、「うちのカリキュラムに沿って何となく勉強していれば、まあだいたい受かるよ!」というのこそが詐欺的であると思います。

翻って嚮心塾でも一人一人の受験生に対して、教える側の経験値が上がれば上がるほどに類型的に判断したくなるという誘惑が出てきます。そこで楽観的な推論をせずに、徹底的に合格する可能性を1%でも上げられるように、最後まで疑いぬく塾でありたいと思っていますし、それができないのであれば、結局嚮心塾も「うちはオーダーメイドですよ!」と羊頭狗肉を掲げるレディーメイドの塾でしかありません。「手間暇かけてスープを仕込んでます!」的な文字書きのあるセントラルキッチンのラーメン屋みたいに、です。

今年もまた、一人一人の受験生に徹底的に悩み抜き、何が最善であるのか、何が足りていないのか、その中に見落としがないのかを絶えず疑いながら鍛え抜いていきたいと思います。

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諦めないことは、学べる。

昨日に続き、今日はたくさんの学校を受け、それらの不合格にもめげずに最後まで緊張感を切らさずに努力し続けた子が、国公立と私立医学部の1次試験と両方共合格しました。力があっても形にならないことが多いのが医学部受験であるので、その子が一つの結果を出せたことは本当に素晴らしかったです。

受験というと学力だけで決まるかのように考えられがちなのですが、最後まで諦めないかどうか、というのはかなり重要な要素になります。特に医学部受験のように厳しい受験ですと、ちゃんと勉強していて本当に惜しいところまで来ているとしてもそれでも周りとの比較で不合格になることが多々あります。そのときに、その不合格を「こんなにやっても無理なんだ…。」と思うのか、それとも「惜しいところまでは来ているはずだから、次の試験は頑張ろう!」と思えるかで、結果も大きく変わってきます。
今年は彼女よりも力のある医学部受験生が多い中で、最後まで諦めずに必死に努力して、このように結果を出せたということは本当に素晴らしいことであると思います。

一方で、力があってもいくつかの不合格で「どんなに頑張っても俺は合格できないんだ。。」とあきらめモードになってしまい、結局力を出しきれずに不合格を重ねてしまう受験生もいます。その子達にはなかなか口を酸っぱくして「最後まで諦めないことが絶対に必要なのだ!」と繰り返し話しても、結局諦めたがってしまっては失敗を重ねることになります。自分が結果に期待しないでおけば、残念な結果が出たとしても心が痛まずに済みます。そのようにして予防線を張っては自分の心が傷つかないように、ということを覚えてしまえば、しんどい結果、残念な結果が出れば出るほどに「次もどうせダメなんでしょ。。」と予測をすることで自分自身の行動も鈍ってきてしまうわけです。
そのような状態で受けて合格できる入試などありません。
だからこそ、このような状態に陥らないように、こちらではあれこれと話したり様々な策を講じるわけですが、
それでもうまくいかないことが多いです。

大切なのは、そのように落ち込む自分、弱い自分を変えないままに何となくうかるのでは、という甘い期待を今すぐ捨てることであるのです。全身全霊で準備した学校の不合格はそこで自分の全てを否定されたかのように思えてしまいますが、そのように自分のすべてを否定されたときになお、そこから立ち上がって次の試験の準備をできるか、そうではなくふてくされたままでいるのか、という違いこそが結果を分けることになります。

今日の2つの合格は最後まで立って戦い続けた受験生ゆえの合格でした。彼女は他の受験生に、その取り組む姿勢において範を示した、とも言えると思います。しかも、この塾生も元からそのような粘り強い生徒であったわけでは決してありません。むしろ諦めが早く、すぐに投げやりになってしまっていた子が、受験を通じてこのように粘り強く最後まで戦いぬけるようになり、そして結果を出した、ということに本当に望外の喜びを覚えます。

人間は、変われます。諦めないことは、学べます。それはまだ弱い自分へと逃げ込んでは自分を甘やかし続けている全ての受験生にもまた言えることです。その手助けをできるように、こちらもまた必死に取り組んでいきたいと思います。

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予期せぬことに備えるために。

いよいよ明日から国公立大学入試が始まります。一人一人に出来る限りの準備をしてきました。
しかし、それでも予期せぬことが起こるのが入試です。

こちらが徹底的に様々な準備を尽くしていくのは、入試本番で予期せぬ事態に彼ら彼女らがぶつかったときに、
自信をもってその恐ろしい現実の裂け目を勇気を持って跳躍できるように、です。

入試の中で起きる全てを準備し尽くすことは神でもない限りできません。
しかし、徹底的に準備をし尽くそうと受験生本人とともに心から全力で取り組み続けてきたここまでの
塾での日々が、彼ら彼女らに予期せぬ事態に対して怯まずに立ち向かう理由になれはしないか。
そのように思っています。

もちろん、そこで実際に力を発揮するのは受験生本人です。
しかし、そのように受験生本人が本当にしんどい中で歯を食いしばって少しでも答案を書き進めることに、
ここまでの様々な準備が後押しができるのではないか、と思っています。

『カラマーゾフの兄弟』の最後にアリョーシャが「人生は長く、辛い。だからこそ、幼年時代の楽しい思い出は、その辛い人生を生き抜くために必要なのだ。」というセリフを言っています。
受験もまた、一年間の勉強だけが辛いのではなく、受けている最中こそが本当に精神的にしんどいことの連続です。だからこそ、その瞬間を一人一人が生き抜くことができる力に僕が彼ら彼女らにかけた時間や思いが少しでもなれていれば、と思っています。

あとは信じて見守りたいと思います。(と言いながら、毎年25,26,27日とバタバタと受験生からの電話やメールで忙しいのですが!納得のいく受験ができるよう、最後まで付き添い続けたいと思っています。)

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血塗られた技術。

国公立受験も間近ですが、先日塾のチューターをしてくれている大学生の子に受験生への様々な注意について、どういうことを気をつけるべきかを僕が詳しく説明していたところ、彼が「先生はご自分は一回しか受験していないのに、何でそんなに受験生が試験中にやるべきことに精通しているんですか。」と驚きをもって聞かれました。

そこで僕自身その問いに対する正確な答が出てこなかったので、こうしてブログに書いているわけですが、
恐らく僕がこれらの試験中の解き方についていくらでも語れるのは、毎年毎年落としてはいけない受験生を落としてしまい、それを防ぐためにどんなことができたのか、どんな注意ができたのか、こちらにできることはないか、仮にあるとしてそれをどう伝えるべきか、といったことを必死に分析しているうちにノウハウとして積み上がったものであるのだ、と気づきました。
いわば、血塗られた技術、先人の失敗を何とか次の子たちには味あわせたくない、と悩み、考え抜いた結果蓄積されたノウハウであるのだと思います。

もちろん、そんなやり方を積み上げていき、目の前の受験生に、より的確で精密な指導ができようと、僕の力が足りずに志望校に落ちてしまった受験生たちに罪滅ぼしができるわけではありません。その罪は一生背負い続けるしかないことです。
しかし、その上で目の前の受験生にできることを探していくしかありません。

そのような「血塗られた」ノウハウで、残りわずかとなった国公立受験生との時間を、少しでも彼ら彼女らの合格へと近づけられるように、全力を尽くしていきたいと思います。

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内申点制度という暴力。

明日は都立高入試です。都立高校受験の内申制度ほど理不尽な制度はないと思うのですが、それに対してはあまり疑問を感じていない学校の教師や高校の教師が多く、その問題意識のなさにもびっくりします。結局中学校生活の内申で子どもたちの高校受験の選択肢を狭めさせることで何が可能になっているかといえば、それを材料として中学生をコントロールしたい、という中学校の教師の勝手な言い分を満たすことでしかありません。このせいで、たとえば優秀な生徒が集まる私立中から高校受験をしたいと思っても、内申点の必要な都立高は受けられない、ということになってしまい、そこで苦しんでいる子たちが毎年どれくらいいるのかを考えれば、暗澹たる気持ちになります。

「内申点は普段努力しているかの証!」と思われるのであれば、率直に言って甘いです。学校の先生が自分の感情を抜きにして客観的に生徒一人一人のパフォーマンスを評価できていると思いますか?「中にはそういうひどい先生もいる。」くらいならまだ良いのですが、かなりの確率で何かしら個人的な恨みでもなければこのテストの点数でこの内申はないだろう、というケースと遭遇します。中学校の先生たちは自分の授業を聞かない生徒がテストではしっかりできたとしても「授業態度が悪い」ということを理由に内申点を下げることができてしまいます。しかし、授業内容がわかっている子に授業の内容を聞くよう強制することは暴力でしかありません。そのような内申点による脅迫は生徒の奴隷根性を培う、という点では良いのかもしれませんが、人間を育てる教育ではありません。

このような問題点は自明であるのに、どの都立高校でも内申点を必ず選抜に利用しているというのが本当に飼い犬根性だなあと僕などは思ってしまいます。入試改革をうたって優秀な生徒を集めたいのであれば、まず内申点を入試の評価から外すことが一番効果的です。そのような内申点に苦しんでいる優秀な子は必ず一定層いるからです。その抜本的な努力もせずに、都立トップ校でもグループ作成校の問題を点数の取りにくい自校作成問題に戻しておいて「これで優秀な子が来る!」と喜んでいる校長とかは、知的な能力もちょっと疑わざるを得ません。7(入試問題):3(内申)の割合を変えずに、入試問題を点数を取りにくい難易度の高い問題にすれば、当然内申で勝負が決まってしまうわけですから(もちろん、内申点の点数割合を限りなくゼロに近づけた上で難易度の高い問題を出題するのはまだ理にかなっています。)。

自分たちが本来何と闘って何を変えるべきかを考えることなく、動かしやすいものだけ動かすことを「改革」と呼んで褒めそやしては、結局もっとひどい状態へと堕していってしまう、という日本社会がこの20年ほど陥っている失敗を教育においてもまた同じように繰り返してしまっていると思います。

だからこそ、こんな奴隷制度のような内申点制度に苦しんでいる全ての中3生に言いたいのは、「大学受験はこんな中学の先生の顔色を伺うようなくだらない入試ではなく、君が自分で努力したものがまだ問われる競争だ!」ということです。
もちろん、大学入試もまた推薦入試、AO入試、英語四技能民間試験の利用、とどんどんきな臭くなっていっています。
ここもまた、いずれ教師に従順な生徒しか合格しないような悲惨な制度へ移行していくこともまた目に見えています。
(現に文科省から大学の方にはそのような通達が出てきているそうです。。)
しかし、まだ大学入試は高校入試に比べればフェアな競争と、教師の顔色を伺うこと無く、自分の努力だけで
勝負できる部分が残されています。明日の都立高入試に複雑な思いで臨む子たちもまた、こんなくだらないシステムのせいで、君の将来を諦めてほしくない。そのように願っています。

その上で人間が実力だけで評価される社会を作れるように社会設計を我々大人が頑張らなければ、結局社会全体が
若い人々がやる気を失って海外に流出するだけではないかと思います。今まさにどんどん日本社会の地盤を掘り崩しているのは、教育に話を限れば、たとえばこのような内申点制度という暴力に疑いを持てていない教師や親、塾の教師の責任でもあります。様々な分野でこのように「自由よりは管理を」というシフトが起きていて、そのために努力が報われない社会になっていることが日本社会の活力を失わせていき、今やいつ滅びるかわからないけどプライドだけは高い、というどうしようもない「自称先進国」になってしまっているのだと思います。

このような理不尽な制度に負けずに頑張ろうとする中高生を、心から応援し、徹底的に鍛えていきたいと思っています。

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