嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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進学先としての学習院大学がお薦めな理由。

毎年毎年、受験生に学習院大学をお薦めしては、その親御さんに「そんなGーMARCHでも影が薄い大学、絶対に許しませんからね!」と怒られる、という経験ばかりですので、この機会にそのお薦めの理由をブログに書いてまとめておきたいと思います。

学習院大学がお薦めの理由
①教授の質が(異常に)高い。
学習院大学といえば、誰を思い出しますか?そう、田崎晴明先生ですよね!その圧倒的な実力、ユーモア、幅広い(Perfumeに限らない)教養、わからないことに対する謙虚な姿勢、そして教育にかける情熱、どれをとっても本当に素晴らしい先生だと思います。Caltechの大栗博司先生の『数学の言葉で世界を見たら』という今度出る本でもわかる通り、一流の物理学者というのは数学もめちゃくちゃできるわけですが(大栗先生は数学科の先生でもあります)、田崎先生も大学で物理を学ぶ人のために大学範囲の数学の教科書を自力で書いて、しかも無償で配布されています(先ほどのWebページにあります。)!数学の教科書を書くことができるという実力だけでなく、それを既存の数学の教科書がわかりにくいので、自分で書いて配布してしまおうというその姿勢は本当にすばらしいと思います。
他にも数学なら飯高茂先生がつい最近まで教えておられました。どの学部でも粒ぞろいだとは思うのですが、特にこの学習院大学理学部の教授の豪華さといったら、下手に早慶に行くよりよっぽど良いのでは、と思ってしまうくらいです。
 また、文系でもたとえば学習院大学の法学部の先生は、ちょっと前まではほぼ僕が東大で習っていた先生(東大名誉教授)ばかりでした。東大を退官して学習院にというおきまりのコースから「東大の養老院」と言われたりするわけですが、そもそも若手の先生たちもこれから東大教授になると見られている人(優秀とされている先輩たち)ばかりです。だからこそ、「東大教授は実力がある」という命題がもし正しいのなら、学習院大学でもほぼ同等の教育を受けられるということになります。しかも、東大より少ない学生数で、です。

②付属の高校が少ない。
「先生は大切だけど、周りの学生のレベルも大事だからね。」というのがよく言われることです。
しかし、学習院大学の学生のレベルは本当に見劣りがするのでしょうか。たとえば学習院大学は付属の高校が2つしかありません。それに対して、たとえば早稲田大学は付属・系属の高校が7校、慶応大学は付属の高校が5校あります。その付属上がりの大学生が多いことを考えれば、そして付属上がりの大学生が一部の上位層を除いて受験生ほどには勉強をちゃんとしてきていないことを考えれば、そんなに平均的なレベルは変わらないと思います。(話は脱線しますが、僕は大学受験を本当はすべての高校生に義務化すべきだと思っています。18歳くらいで必死に努力した経験、というのはやはりとてもその後の人生にとっても大きいと思います。もちろん、スポーツ、芸能活動、将棋(中村太地さんは早実→早稲田政経ですね)、囲碁、その他の自分を大学受験以上に研鑽しなければならない他のことで忙しい中での進学であればよくわかるのですが。そういう特例のみを認めるべきだと思います。実際には「付属校ビジネス」に大学側が走っては系列校を(無分別に)増やしていくということが、特に最近は多いと思います。早稲田や中央のことですが。このまま、すべての中学か高校が早稲田か慶應の系列になってしまったら面白い(!)ですね。(横浜駅SFの)すべての駅が横浜駅になってしまうかのように。)

そもそも、「周りのレベルが低いと刺激が少ない」という理由で勉強をしないような大学生自体が、間違っているといえば間違っています。そんなことを言えば、日本では、東大か京大以外は進学する意味がありません。刺激を与えられる層というのは、どんなに失敗しても東大入試や京大入試で落ちようのない層であるからです。そのような層は早慶には決していません。さらに言えば、これから東大京大を蹴ってHarvardだのYaleだのに進学する層が増えていけば、今度はそっちを目指すのでしょうか。一つ言えることは、他人から刺激をもらわねば頑張れない人間は、おそらくどこに行っても二流である、ということです。これを理由として学習院を蹴るなら、そもそも早慶も蹴らねばなりません。東大や京大だって世界中から集まるIvy Leagueに比べれば刺激が少ないでしょう。優秀な同級生を求めて、そこまで行きますか?僕は、そのような動機で進学している時点で、どこに行こうと二流であると思います。日常の中で、努力をしなければいけない理由や問題を自分で見つけてはそれに取り組むことが何より大切ではないでしょうか。

③就職に強い。
「そんなこと言って就職に強くなければ」というのもまた、どこの大学を出たかが就職のための必要条件となっている日本では重要だと思います。しかし、学習院大学の就職内定率は2013年度で96.5%です。これは、早稲田大学の学部での就職内定率95.7%と比較しても見劣りがしないといえるでしょう(ちなみに、青山学院大で80.4パーセント、立教大学で79.6%です。)。さらに、この「就職内定率」は母集団が問題になります。ほとんどの学部生は大学院に進むか就職活動かを天秤にかけながら、就職がうまくいかなければ大学院に進みますが、その場合は(結果として大学院に進んだということで)母集団から外してカウントしているでしょうからです。全学部生に対しての就職希望者の割合は学習院大学で78.2%、早稲田大学で68.6%なので、院進学に流れる割合も学習院の方が10ポイントくらい低い中でのこの就職内定率はかなり高いといえるのではないでしょうか。

④まとめ
ということで、学習院大学はお薦めです。なので、塾で塾生にお薦めした際に、是非僕に石を投げないでいただけるとありがたいです。大切なのは、①の要素については調べにくいのでなかなか親御さんにわからないのも当然だとは思うのですが、②や③の要素については公開されている情報である程度調べられるわけで、それを調べないで自分のもっているイメージと世間で通用している名前だけで判断されてしまうことであると思います。もちろん、この僕の主張も、もっと細かく調べていけば様々な欠点が見つかるかもしれません。そのように「名前で門前払い」ではない建設的な議論は大歓迎なのですが、あまりにも門前払いを食ってしまうことが多く、そこに関しては残念に思っています。

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努力する、ということ(続き)

何日か前に、努力をさぼる子への叱責の話を書きました。それくらいでやめておこうかとは思ったのですが、
僕自身についてもやはり苦い反省を込めて書かねば卑怯でしょう。僕自身も、小中高ときわめて努力をしない子でした。

勉強であれ、スポーツであれ、自分がやろうと思ったものに関しては努力をしなくてもある程度のレベルに達することは僕にとってきわめて容易でした。もちろん、それで勉強であれあるいはスポーツであれ学校内で満足するのではなく、全国レベル、あるいはワールドクラスを目指す、という選択肢をとらなかったのは、僕の井の中の蛙ぶりでしょう。しかし、中高生の頃の僕というのは、何を頑張っていいのかが本当にわからなくて、みんなが要求するものはたやすくできるけれども、しかし自分がそれをどこまでも追求する気にもなれない、というひねた子供でした。だからこそ、僕は(今では本当に恥ずかしいことだと反省しているのですが)努力をするふりをよくしていました。このブログを中高生時代の同級生がどこまで見ているかはわかりませんが、おそらく彼らの知る僕のイメージは「努力家」ということになっていると思います。しかし、僕は努力をしていませんでした。同級生に見えるところでは勉強をしたりしていましたが、それは彼らに「彼が勉強できるのは努力をしているからだ。」と納得してもらうためのものでしかありませんでした(実際に受験生になるまで、学校の休み時間くらいしか勉強していませんでした。帰宅してからは学校の勉強などする暇を惜しんで、本を読んでいました。)。これは部活についても、言えます。僕は中学に入ったときは運動ができなかったのですが、徐々にできるようになり、持久走に関しては学年でもトップ10に入るところまで行きました。これも、「自宅近くの公園で走る」などの努力をしたというように同級生には言ってきましたが、部活で走っているうちに、より良い足の筋肉の使い方、体重移動の仕方などの走り方がわかってきただけです。実際に自主的に部活以外で走ったのは、おそらく一度か二度しかなかったと思います。運動にせよ、勉強にせよ、それらの全体を自分がどのように認識しており、どのように認識とアウトプットにずれがあり、それをどのように修正していけば良いか、ということを考えるだけで方法を誰かに学ばずとも、できるようになりました。

もちろん、それらの「努力したふり」というのは何も嫌みでやっているのではなく、皆が努力してもできないのに自分が努力せずにできてしまう、という事実に対して、僕なりに悩んだ上での一つの結論でした。人に見せる努力をできる限りすることで、彼らが努力しようとする動機を削がないようにしたい、という配慮でした。(そのような不毛な配慮をすることなく、もっと高みを目指す、ということをなぜ目指さなかったかと言えば、僕はその方向にも可能性がないと絶望していたのです。それについてはまた近いうちに書きたいと思います。)

開成の同級生(もちろん東大の同級生も)がもつものですら、そのように「不自由な能力」にしか見えなかった僕にとって、教え始めてからは本当に衝撃でした。これほど目の前にある事実に気がつかないままに生きているのか、と。これほど努力を重ねては失敗することができるのか、と。

そして、目の前の生徒の問題を自分の問題としてとらえざるを得なくなったとき、それは、僕のちっぽけな優越感を打ち砕き続けました。誰かに劣ったと思ったことは、生まれてから一度もないし、おそらくこの先もそんなにないだろう。しかし、何だ、この無力感は。皆が自分の可能性を必死に信じて努力しているのに、それを努力しないでできる僕は、彼ら彼女らに何か手助けをできるかと言えば、何一つできていない。その意味では僕もまた単に「自分のことはできる」というだけで、彼ら、彼女らに対して少しでも何かが貢献できている訳ではない、という意味では無力に等しいのだ、と。努力が見殺しにされ、誠意が踏みにじられるような才能の違いという、この世界に存在する残酷なギャップを広げることには自分が寄与してしまっているとしても、そのギャップを乗り越えようと努力し続ける目の前の一人一人を少しも手助けすることができないではないか、というあの無力感、絶望感を僕は今も忘れることができません。それとともに、自分の能力に心なく依存し、努力をすることに目を背けては生きてきた自分の情けなさ、自分一人についてのことができるということで、それ以上の責任を担おうとしてこなかった自分の小児性についても。

あれから、20年近くが経ちました。あのときよりも、はるかに一人一人の受験生に様々なことができるようになってきたことは確かであるとはいえ、しかし、あのとき噛み締めた無力さを味あわずに済む年を僕はまだ一度も迎えたことがありません。今年の皆の懸命の努力も、明日からの前期試験の発表でそれぞれにとって一つの結果が出てきます。しかし、中には必死の努力にも関わらず、目的を果たせない受験生もいるでしょう。しかし、今の僕には、彼らを笑うことは、ほんの一部分たりとも、できません。なぜなら、それは、僕自身の無力さでもあるからです。

人間は無力であり、人間は自分に与えられた分を弁えずに多くを望んで努力しても、失望ばかりを得るのでしょう。僕は自分の社会的選抜に関しては、そのようなことを感じれなかったとしても、塾生一人一人の結果を自分の責任であると思うが故に、同じ無力さ、同じ失望を共有してきました。しかし、にも関わらず、人間は努力を止めません。だからこそ、人間は美しいのであると思います。それは、敗北を礼賛しては「奴隷の道徳」を強要することではなく、我々が決して打ち勝つことのできない各々の死に対して、どのように準備するかを教えてくれるからです。ソクラテスは「哲学とは、死ぬための準備だ。」と言いました。あるいは、ルソーは「人間達は、死ぬことを恐れて、生きることを忘れている。」と言いました。どのような競争に打ち勝とうと、最後には100%死ぬ我々にとって、敗北を恐れずに努力し続けることは、死を恐れずに生きることに通ずるのでしょう。

あの頃の僕に、その人間のジタバタの美しさを伝えてくれる大人たちが極めて少ないとしてもいてくれたことで、僕自身が
勘違いした人生を少しは送らずに済んでいるのかもしれません。僕も、塾生一人一人に、それを伝えていきたいと思います。明日からの結果がどうであれ、ですね。

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絶望に直面し続けるために。

昨日も本当に様々なことがありました。
明けて、今日国公立大学の入試です。今まさに、皆が懸命に解いているところです。

この前期試験にくるまでに、様々なことがありました。一人一人をとっても、様々なことがありましたし、
さらには嚮心塾では他の人の不幸や苦しみを、自分とは関係がないと言えない生徒が多い以上、この塾で勉強する、ということはただ勉強だけではなくいろいろなことを考えざるを得ない一年となります。

そのような中で、最後まで努力し抜いた彼ら、彼女らが最後の勝負を今日明日と迎える訳です。
もちろんやれるだけのことは徹底的にやってきたつもりですが、それでもこの二日間は
しっかりと応援し続けたいと思います。

それとともに、受験をするというのは不合格を味わう、ということです。どこも落ちずに第一志望に合格する生徒など毎年一人二人いるだけでしょう。あるいは第一志望以外すべて落ちて、第一志望に合格するならまだしも、どれもうまく行かずに不本意なもう一年を強いられる子もいます。全員合格を建前でなく本気で目指しているとはいえ、僕の力が足らずにそのような失敗をしてしまう受験生も毎年います。

しかし、そのような状況に置かれてからが勝負です。絶望的な状況を前にして、絶望するかどうかは、自分の心一つの問題です。絶望的な状況が目の前に100あろうと、1億あろうと、そこで自分が実際に絶望して努力をやめるかどうかは、純粋に自分の選択の問題であり、意志の問題であるのです。そこには何ら因果関係はありません。

人間が自然法則、生物学的法則にいかに支配されているかを強調することは、自らの自然に対する立場を思い上がっては勘違いしている人間にとって一つの教訓とはなるものの、一方で様々な因果法則を意志にまで及ぼすという誤りを犯しがちです。しかし、意志は自由であるのです。どのように絶望的な状況に直面し続けようとも、自分がその状況において絶望するかどうかは少なくとも自明のことではありません。であるからこそ、「絶望的状況」において絶望する人は、絶望することを自らの意志で選んでいるのだと言えるでしょう。たとえ、その「絶望的状況」が他者と比較して、あるいは自身のこれまでの人生と比較して、比べ物にならないほどに絶望的であろうと、そこから自分がどうするかは、自分自身の意志にゆだねられています。

魯迅がよく引いた「絶望の虚妄なることは、希望がそう(虚妄)であることと同じだ。」という言葉に僕は若い頃、よく励まされてきました。今、僕がこの言葉を言い換えるならば、「絶望ということが心理的な事実としてはあるとしても、あるいはそれを自分の環境へと投影した情景としてはあるとしても、それは自らが自らの心理を投影して描いた一つの世界像にすぎない。」ということでしょうか。

しかし、私たちは残酷なほどに、自由であるのです。絶望に浸っている間に次の絶望の種が襲いかかるほどに、自由であるのです。だからこそ、絶望的な状況に接してそれでも自分が絶望せずに前を向いて戦えるかが、絶望的状況しかないこの世界においては、常に問われていると言えるでしょう。

受験など、たいしたことではありません。大学受験が一生を左右するという脅し文句も、ある意味では正しいでしょうが、そういう面もあれば、そうでない面もあります。少なくとも受験に関わる職業に就く我々は、受験至上主義にならないように視野を広くとる必要があるでしょう(この業界の利益の追求が、真理の探究を妨げるからです。)。しかし、受験を通じて絶望に直面するという機会を擬似的にでも経験できること、そしてそれへと立ち向かう姿勢が問われる、ということは一人一人のこれからの人生にとってこの上ないgiftであるのではないか、と思っています。

今日も明日も、塾生たちが必死に頑張っても、でもうまくいかないことだらけでしょう。特に今日の夜は毎年修羅場です。
合格していった受験生達も何人も「今日のテストでもう落ちることが確定してるから、やめて帰りたい」という弱音を吐いてきました。しかし、最後まで戦い抜いてほしいと思いますし、全力でそれを支えていきたいと思います。自分の無力さをどんなに痛切に感じては絶望的状況に陥ろうとも、その持てる力で頑張るしかない、という状況こそが人生の縮図なのですから。

絶望的状況において、絶望するという選択肢を選ぶのはあくまで自分の意志でしかないということ、絶望的状況故に絶望するという論理関係は少なくともこの世界においては成立していない、あるいは外的な観察による推論としてなら成り立つものの、事象同士の因果関係にはなりえない、ということを、最後まで伝えては励ましていきたいと思います。

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模試の意味について。オリンピックもまた捨てゴマにすぎないこと。

この直前期に書くのもどうかとは思うのですが、あまり模試のないこの時期だからこそ、言えるかと思って書きます。それは、中学受験、高校受験、大学受験において、模試の使い方が親御さんや学校の先生方にはよく理解されていないということです。正確に言えば、「模試によってそこまでの勉強の達成度がわかる。」「模試が良くないのにこのままで受かるはずがない。」という思考様式にほぼ正しいところはない、ということです。

なぜなら、模試を受ける時点で高得点をとれることを期待できるほどに仕上がっている受験生というのは、受験に合格する中でもごくわずかであるからです。また、同じ問題によって様々な層の受験生の実力を測るということ自体が、きわめて雑なはかり方であると言えるでしょう。簡単な問題を大量にこなすことが得意な子、難しい問題にじっくり取り組むことが得意な子など、さまざまなタイプが一つの模試で点数を競うことなど、根本的に無理があるでしょう。それぞれのタイプの子は、もちろん志望校の入試問題で合格点がとれるように努力する中で、自分の弱いところを埋めていく、ということが必要ですが、それをしていくからといって、模試で点数がとれるかどうかはわかりません。むしろ総花的に個性のない模試の問題に自らの力の傾向を合わせていくよりは、志望校の問題に合わせていく方が無駄がないでしょう。

毎年、受験生を教えていると「こんな模試の成績で大丈夫なんでしょうか…。」というご心配をいただくことが多いのですが、純粋に模試の成績は合否とは全く関係がありません。過去問を解いて、その出来具合を見ることが一番です。ましてや、受験学年でない生徒の模試など、当人もそれほど受験に対する準備が出来ているわけでもないのに、他の子と比べて心配になるのは、もったいないことだと思っています。

もちろん、このように書くと「できていないところを知るためには模試を受けた方がよい」という当たり前すぎる反論をいただくでしょう。そして、それはその通りです。冷静に出来ていないところを見つけ、それを穴を埋めるため、というだけであれば模試を受けた方がよいでしょう。しかし、大体の親御さんや先生方はそれができません。点数と偏差値と合格可能性だけを模試の成績表で見るのではないでしょうか。しかし、模試の中でそれらの情報というのは、一番無駄なところです。「合格可能性」の怪しさぐらいはさすがにお気づきの方も多いとは思いますが、点数や偏差値というのも基本的にはその時点で測るのは先に書いた理由から、あまり意味がありません。大切なのは、どのような間違いをしているかそれはどのように復習できて次からは間違えないようになっているか、ただそれだけです。あるいは、その模試の失敗から本人がどのような教訓を汲めているか、と言い換えても良いでしょう。

その意味では、模試の成績はむしろ直前まで悪ければ悪いほどよい、というのは言い過ぎでしょうか。もちろん、一度間違えた間違いを繰り返ししているようであれば、それはそれで問題なのですが(実はそれも一つの有益な情報でもあります。繰り返し間違えるその間違いを訂正することに労力をかけることが果たして有効な勉強方法であるかはきわめてあやしいからです。たとえば「ケアレスミス」を防ぐということについていえば、「ケアレスミス」で多くを失点している子に「とにかくそれを防げ」ということだけ繰り返して言うのは、本人にとって大きなストレスになり、受験勉強が嫌になってしまうでしょう。あるいは、受験生が「どうせ自分はミスが多いから受からない」と諦めることになってしまうかもしれません。しかし、ケアレスミスは緊張感と反比例して減ります。入試が近づき、「絶対に落ちたくない!」という本人の思いが強くなればなるほどに、それを減らすための指導がより効果的になります。)、模試で悪ければ悪いほど、本番の入試で本来出るはずの失敗を事前に明確にできている、ということです。そして、そのように本番の入試前に気付くことが出来ているのであれば対策がとれるという点で、その模試は失敗したことによって有益となっています。(もちろん、それを分析する人がいなくては無意味でしょうが)

これは、模試だけでなく本番の入試にもまた言えます。中学受験、高校受験はまだ短期決戦ですが、国公立だけでなく、私立も受験する大学受験では、かなり長い期間にわたってとびとびに入試を受けねばなりません。だからこそ、どこにピークを持って行くか、逆にどこの入試はそんなに重視せずに受けるだけにするか、ということを考えていかねばなりません。もちろん、高い受験料を払っていただいて、それを「試し受験」のように使うこと自体は親御さんに対して非常に気が引けるわけですが、この直前期の仕上げの時期に、本命校の前に出てくる失敗は、それだけの価値があるのです。逆にそれを「全部受かるつもりで!」などと焦点のぼやけた勉強をすれば、それこそ全部落ちる可能性もあります。その辺りの戦略、どこにピークを持ってくるか、逆にどこはある程度捨て駒としてでもそこから得る教訓を生かしていくか、というところで指導者の力量が問われるわけです。嚮心塾を卒業した生徒なら誰もが、僕のこの話を自分の受験に引きつけて思い当たる節があると思います。

今朝、北京オリンピックのサッカー日本代表の監督だった反町さんの話を今日新聞で読んでいて、このことを書きたくなりました。
北京オリンピックでは日本代表は一次リーグで敗退して、さんざん批判されたわけですが、その代表からは本田選手、香川選手、長友選手、岡崎選手、など日本のサッカー選手の歴史の中でも必ず名の残るような選手達が育ちました。サッカー選手にとっての頂点はオリンピックではなくワールドカップである以上、どんなにオリンピックに国民の注目が集まり、お金が絡んでこようとも、「そこで結果を出すことが全て」では全くないわけです。むしろ、近視眼的にオリンピックでの勝利だけを目指すのではなく、理解のない国民の批判やプレッシャーに耐えながらも、代表選手一人一人の将来をにらんで、かれらにとってのよい経験になるように指導していたとしたら(そして今日のインタビューではその考えが反町監督にはあったことが感じ取れました)、反町監督は「国賊」扱いされようと、名監督であるのです。指導者とは、そうあるべきですし、僕もそうありたいと思っています。オリンピックの時だけちやほやされようと、そこで選手達一人一人の将来を潰してしまうのであれば、意味がありません。現在、社会に流布している(しかし一時的な)評価によって物事の大小を考えるのではなく、長期的な成功とは何かという観点に従って物事の大小を考えられる人間が一流の人間であるのだと思います。その意味ではオリンピックさえ捨て駒にできる人間こそが、超一流なのではないでしょうか。(将棋で言うと、価値のある大駒や金銀を損してでも一手でも早く相手を詰ませた方が勝ちですが、我々凡人ほどに駒得にこだわっては、大局観を持てずに結局負けてしまいますよね。)

受験で言えば、もっと短い期間ではありますが、最後の第一志望の入試までにちやほやされようと、第一志望に受験生が受かることを犠牲にしてしまえば、意味がありません。逆に、受験期間中は様々に失敗を重ねようと、どんなに徹底的に叩かれようと、その様々な失敗を最後の第一志望の合格に繋げられるのであれば、それは耐えていかねばなりません。

あと一ヶ月、そのように一人一人の受験生の志望校の合格にこだわって、徹底的に考え抜いていきたいと思います。

もちろん、「大学受験での志望校の合格」という近視眼的な成功が、その子の人生全体をダメにするようなものであれば、それはまた問題です。何もかもに僕の意を尽くしては失敗を防いでいくことと、一人一人の自主性を育てることとの間のトレードオフ故に、第一志望の合格の可能性を100パーセントにすることを単に目指せばよい、とはいかないところに、教育のさらなる難しさがあります(鉄○会方式でたくさん合格しても、大学入学後伸びないですよね)。ともあれ、あと一ヶ月、全力を尽くしていきたいと思います。

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必要性を伝える、ということの難しさ。

長い記事を書こうと書きためては、新たな要素を加えていくうちに、だんだん書き終えられる自信がなくなってきたのと間隔が空きすぎたために、別のことを書きたいと思います。

現在、日本の小中高の生徒達の中で勉強の必要性を感じ、それを自発的にやっている層というのはおそらくごくわずかなのではないでしょうか。ですので、学校や塾も含め、教育機関のやるべきことはただ生徒の知識欲を満たせばよい、ということではなく、勉強をしていかないとどのように将来不利益を被るかを説いたり、あるいは基礎的な勉強自体が様々な学問への土台として持つ意味を話したり、何とかしてその必要性を子供達に理解してもらわねばならないわけです。もちろん、「それをせずに結果だけ出せれば良い」という先生方もいるのかもしれませんが、僕が教えている手応えとしては、生徒自身がその勉強をやることにどのようなものであれ、意味を感じていかねばやはり実力をつけるとしても(かなり低い)限界があるし、それを感じる力がない子に説明能力の高さやステップの踏ませ方のうまさだけで、実力をつけるというのはとりあえずの緊急避難的にそれをやることが必要な場合はあるとしても、長期的にそれをやっていくのはそもそも良い教師ではないと思います。

しかし、必要性を感じていない子というのは、そもそも情報を得る力と想像力が欠如しているわけです。つまり周りが何となく遊んでいるので、自分も何となく遊んでいて何とかなるのだと思っています。しかし、たとえば本を読めば、どのような新書の作者紹介にも「○○大学卒」というのが書いてあるわけで、少なくとも大人が読むような新書を読む子であれば、作者のプロフィールに必ず最終学歴が書かれ、しかもそれなりの新書であれば大体がその著者の出身大学が東大や京大や早慶ばかりであるという窮屈な社会がこの日本であることを知るはずです。あるいは新聞を読んでいる子であれば、役所の人事異動や大きな会社の人事異動が新聞に載るときに、同じく最終学歴が書かれ、かつ事務次官クラスであればほぼ東大ばかりであることは気付くはずです。
この窮屈な社会で生きていながら、それらのことに気付かずに日常を過ごせてしまっているという点で、「勉強は出来なくても他のことが出来れば…」という可能性をその子がこれからの努力によって実現することが出来る可能性はきわめて低くなってしまっている。芸能人を目指してもそこで接するテレビ局の人間はみな高学歴、漫画家を目指してもそこで接する出版社の人間はみな高学歴であるわけです。

突き抜けた才能に学校歴などはいらない。それは事実です。しかし、その突き抜けた才能を駆使したり、あるいはおこぼれに預かるところには高学歴の人間がうようよと群がっている。その事実を少しでも目を開けば気付くことが出来るはずなのに、そのことにあまりにも鈍感すぎて自分の将来を損なってしまっている若い世代があまりにも多いことに驚きます。そして、このことを口を酸っぱくして説いてもまったく危機感が伝わりません。

もちろん、高学歴ワーキングプアは増えているでしょう。それはポスドクの研究者はもちろんのこと、それ以外でもどんどん増えていると思います。しかし、それは日本人の雇用自体がきわめて不安定になってきている中で、東大や京大卒といってもその全てが安定した職業につけなくなっているというだけの話であり、たとえば卒業生の卒後五年の平均収入や、卒後五年時の低所得者層の割合などのデータがあれば、東大や京大、早慶とその他の大学で
かり有意な差があるのではないかと思います。今まで目に見えなかった高学歴ワーキングプアが存在しつつあるからと言って、「だから学歴は無意味だ」と短絡的判断をするのはかなり危険なわけです。

それはなぜか。人間の能力を測ることなどきわめて難しいからです。だとすれば、大勢の人数の中から有望な候補を選ぶためには何らかの短絡的な指標がほしいと考えるのが採用側の理屈でしょう。そして、大学入試の結果という尺度は、おそらくあと何十年かは日本社会において他の尺度にとって代わられることはないでしょう。それは人間の能力を測る尺度としてはきわめて不十分であるものの、しかし、他の尺度よりは、入試における公正な評価を目指す大学教員の教育者の本能という献身的な努力をその評価の公正性を担保できる資源として広く利用できること、我が子の将来を考えそこに投資したいと思う家庭に育っているという背景を本人が持っていること、そして何より本人が努力を出来る人間であるか、努力をして一定の成果を達成できたことがあるかということなど様々な要素を見極めるのにきわめて有効な尺度であるからです。

僕は、自身が大学受験生であった20年ほど前には、大学受験の成果をいちいち誇る同級生にウンザリしていました。大学受験など人間の一面しか測れないことは目に見えているし、それの成否が人間の価値を決めるということも、ありえないと思っていました。しかし同時に、この日本社会に於いて大学受験を軽視するということがどれほど恐ろしいことであるかを、おそらく大学受験の成否に大騒ぎする同級生よりも理解しているつもりでした。大学に合格したときに思ったのは、「これでこの窮屈で偏狭な社会の中で、一方的に排除されることはないだろう」という安堵感でした。

そこから20年が経ち、改めてその尺度の恐ろしさを痛感しています。もちろん、誰もが大学受験で結果を出せば成功するわけではありません。そもそも「成功」が何かこそが難しい。しかし、僕の高校の同級生がfacebookで各々流してくる「充実した毎日」を表すかのようなニュースフィードは、残酷なまでに学校歴によって閉じたコミュニティーの中で謳歌(おうか)されるものであり、決して平均的な36才のありようではないと思います。僕は彼らの無邪気な言葉、無邪気な幸せや無邪気な充実に嫌悪感を感じます。しかし一方で、そのような例を引いては、何となく日々を過ごしていけば、何となく生きていけると思っている中学生に意識を変えるように何度も何度も説得しても、全く理解されないままに「勉強なんて面倒くさいから」という理由でサボられ続けていくわけです。
受験勉強が自分の今後の人生に密接に関わっているということを何とか伝えようとしても、なかなかにうまくいきません。

こうした状況は特に地元から高校受験をする中学生に多いのです。しかし、誤解を恐れずに言えば、東京都において高校受験をしている、という時点で、(よほど優秀で中学から私立に行くのがもったいないと言って国立や開成に受かる層を除けば)東大や京大に合格するのは高校3年間ずっと必死の努力をしなければ不可能である、ということであるのです。東京都はどこでも私立の中高一貫校が中学生から生徒を抱え込み、そして高校2年までに全ての内容を終わらせるカリキュラムを組んでいます。都立高校は日比谷や西といったトップクラスの高校であれ、数学ⅢCを高3で終わらせます。これで、中学からの一貫教育組に受験で勝てるわけがないのです。実際に西高生が嚮心塾にも通い始めてくれていて、彼ら彼女らが皆とても優秀であるのにもかかわらず、あまりにも受験勉強のトレーニングを受けていないこと、さらには大学受験の準備の大変さにたかをくくっているのに驚きます。都立高入試のトップレベルの子達ですら、その意識から変えていかねばならないわけです。ましてや、他の高校に入学して喜んでいる子達を見ると、僕は本当に心配になります。そして高校受験が終わってからが本当の勝負なのだと言うことを一生懸命、口を酸っぱくして伝えようとするのですが、なかなかに伝わらないで苦労しています。

もちろん、天才は東大や京大にいかなくてもよいのです。しかし、日本社会に於いてまだまだ学歴が尺度として採用される時期が長く続くであろうこと、さらには(様々な例外は双方にあるものの)東大や京大、早慶を出た人々とそうでない人々との格差がまだまだこれからも続くであろうこと、そしてそれは後から気付いても仕方のない格差であるので(一方で就職には年齢差別もあるので)18才、19才、20才ぐらいの時点でそのことに気付いていて、学歴を得るために努力を出来る子とそうでない子の情報格差、親の教育への投資意識の差、またはそれを許す家庭の経済状況が、一生を通じてとりかえしのつかない所得格差として現れてくる、ということは少なくとも僕は学校で広くみんなに教えるべき事実であると思います。そして、学校の授業だけではそれを補い得ないということもまた、学校で教えるべきことであると思います(まあ、絶対にやらないでしょうが)。

嚮心塾は、「親の収入格差が教育格差になり、それが子供の世代が成人した後の貧富の差を拡大再生産する」というその負の連鎖を断ち切る一つの仕組みとして機能しようと、「月々2,3万円程度(受験生と非受験生で違います)で全教科を見る、夏期冬期講習費なし、教材費なし」という値段設定で8年前の創立当初からやっています。それは「私立高校の学費(月4,5万円)+塾や予備校に払う費用(これも月最低4,5万円、高いところだと月10万円以上+講習費)」を3年間ないし6年間払える層でなければ東大や京大、早慶や医学部に行けないという事態を防ぐための塾としてです。おかげさまで、塾自体は様々な方の支えもあって、東京のみならず千葉や埼玉、神奈川からも通っていただいております。しかし、そこで大勢通ってくれている生徒の一人一人は、やはり「受験勉強で努力してしっかりと自分の夢を叶えたい!」と願っている子が多く、「受験勉強なんかやりたくないから、できるだけさぼりたいな」という子の意識を根本的なところから変えていくところまでは、なかなか仕事が出来ていないのというのが苦い現状です。もちろん、僕はそれを諦めません。必要性を伝えることの出来ない自分の言葉の足り無さを練り直し、彼ら彼女らがどのようにそこで苦しめられていく可能性があるのかを丹念に描き、その上で努力をする手助けを少しでも段差を小さくしては取り組みやすくできるようにしていきたいと思っています。

しかし、このことだけは是非皆さんに伝えたいのです。東京都において、高校受験を強いられている時点で、もう大学受験への準備という意味では(一部のトップ層を除いて)差をつけられているのだということを。その中で難しい高校へ合格しようと、簡単な高校へ合格しようと、高校受験の偏差値を信用しないでほしいのです。それは(中高一貫校の囲い込みにより)純粋に選択肢が少ないからこそ、高校からの入り口を維持している高校の偏差値が高くなっているだけのものです。しかし、高校から早慶に行ったとしても、大学受験組よりは学力が圧倒的に低く、学部の四年間でその差はとりかえしのつかないものだということが思い知らされるでしょう。そうなればもはや「早」や「慶」に自分のアイデンティティを重ねるような大人にしかなれません(早慶に行くのなら、東大や京大に落ちて早慶に行くのには意味があると僕は塾でよく話しています)。

東京都での高校入試は、サッカーで言えば海外組が誰も集まれないから集められる日本代表のようなものです。あるいは、奨励会員が出られない将棋の高校選手権のようなもの(囲碁も同じですね。院生が出られない高校選手権のようなもの)です。プロとして一線で活躍する人は出られないのです。そこでの優越を誇ることがいかに本番(この場合は大学入試)では通用しないかがよくわかるでしょう。そして、この事実を中学校の先生はおろか、高校受験用の学習塾も何も言わないことが僕には許せません。高校受験をした子は、そこからが勝負であるわけです。そこから中学受験で着々と大学受験の準備を中2や中3からやっている子達と勝負できるように追いついていかねばなりません。それを「井の中の蛙」のような自己満足で終わらせては、結局才能を磨かずに不本意な大学受験を強いられていくという悲劇を少しでも減らせるように、嚮心塾は努力し続けたいと思っています。
何度話しても伝わらなくても。あるいは、浅い満足感を子供達に与えては、それ以上努力しない方向へと誘導する
大人達がどんなに周りに多くても。


(補足)「これからはアメリカの大学への進学が主流になっていくから、日本の東大・京大なんて…」という声も最近はあります。たとえばIvy Leagueと日本の東大や京大の研究者のレベルや研究環境の差は当然あるわけですが、「日本の優秀な層が皆アメリカの大学に行って東大や京大が空洞化する」ということは僕はまずありえないと思います。その理由の一つはたとえばHarvardであれば、年間300万円くらいは学費がかかるわけで、それが4年間+生活費などを含めれば、東大・京大に通う子のどの家庭でも負担できる額ではないからです。もちろん、向こうの大学は奨学金が充実しているわけですが、しかしアメリカ東海岸の大学でfull scholarshipを得るなどというのは、日本人の中でもきわめて優秀な層、東大、京大のほぼトップクラスでも厳しいのではないでしょうか。それにはやはり他のアジア諸国の優秀な層(しかも彼らは国内の大学に進んでも仕方がなく、アメリカに行かねばならない強い動機がある)が応募してくるからです。

さらには、courselaやedxの発達があります。これは(長い記事で大学というものの意味と将来像についてまとめて書こうと思っていたのですが少し書くと)映像授業の発達により、一流の講師の授業がonlineで世界中で見られれば見られるほどに、それを発信する側の大学とそうでない大学とで役割が明確に変わってきます。一部の「世界大学」と大多数の「地方大学」へと分極していく、ということです。そして東大や京大は(自身は「世界大学」になりたがってはいるでしょうが)明らかに「地方大学」になっていくと思います(日本語という制約があるため)。また、無理に世界大学を目指さない方が逆に良いようにも思います。そのような分極化がこれからますます進んでいく中ではやはり、日本という地方における「地方大学」として東大や京大の権威というのはむしろ局地的に増すのではないかと思います(一歩日本を出ると誰も知らない、という今も揶揄される状況がさらに強まっていくのではないかと思います。)。その意味で、「もう東大や京大なんてlocalな学歴なんて無意味だ」と言いたい気持ちはよくわかるのですが、むしろそこで判断されてしまうという圧力はより強くなっていく可能性もあると思います。

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全てを終えた後に。

今年度の受験も国公立前期の発表、後期試験も終えて残りは後期の発表だけとなりました。今年も様々な受験生が必死に勉強し、周囲から見たら「奇跡的」と言われるような合格を残していきました(もちろんそれは周囲から見ての話です一年間の彼ら、彼女らの努力を見れば、一年前はどうであろうと、それらの結果はむしろ当たり前のことです)。また、残念ながら第一志望への合格、という結果が残せなかった子達も一年間必死に努力し、力がついたこと、さらにはその力が第一志望でなくても別の学校では結果として残ったことなど、必ず得たものがあるはずです。

と、どのように美しくまとめようとしても、僕には苦い思いが残ります。今年、一番頑張っていた受験生を落としてしまったからです。

もちろん、受験生を「合格させる」「落とす」というのは教師の側の傲慢な考えで、ほとんどの場合「○○先生のおかげで合格できました!」というリップサービスをいかに生徒達が気を利かして、合格体験記で書いてくれようと、その生徒が合格できるかどうかは純粋に本人の努力次第であるわけです。教師がそこに関われる割合など、本当に小さいし、逆にそのことがよく分かっている教師こそが良い教師です。それを「おれが通した!」だの平気で言うのは詐欺師かペテン師です(もちろんそのような詐欺やペテンもまた教育の一環として
それなりの効果を持つことは僕も認めます。プラセボ(偽薬)効果ですよね。しかし、人間は自身が偽薬でしかないことは認めたくないものです。そして、偽薬が自身が偽薬であることを忘れてしまえば、むしろ害の方が大きくなります。)。

しかし、彼が塾に通ってくれたこの2年間は、彼が合格し、この社会の中で再びその力量を発揮することだけをとにかく願い、そのための環境を整えようと必死にやってきました。それくらいに彼の努力と才能、人格をこの社会が見落としていることは、僕は本当にもったいないことでしかないと思いました。彼が2年前に塾に初めて来たときから、「この才能を社会の中で活躍できるように出来るか、それとも埋もれたままにしてしまうかは、ただ一人僕の努力にかかっているのだ。」と思ってきたのに、しかし、それがかなえられませんでした。

どの塾生も、彼と机を並べ、彼の驚嘆すべき努力にinspireされ、彼よりもはるかに恵まれた境遇であるのに
努力を怠る自分を情けないと思い、彼の優しさに励まされ、努力し続けました。その意味で、彼が合格できず、
塾を離れることは塾にとっても大きな柱を失うことでした。

不合格となった今でも、自信をもって保証できます。彼が超一流の人間であること、僕が今までに出会ってきた中で最も賢い人々の中の一人であることを(てるよし君谷口君達のように。)。その上で、彼の努力と才能が再び社会の中で活躍するそのときまで、引き続き応援し、支援し続けていきたいし、直接それが無理でもその支援をする準備を進めていきたいと思っています。

さて。たくさんのお問い合わせや入塾希望を頂いていますが、嚮心塾は、このように力が足りなく、不完全な塾です。勉強していない生徒を魔法のように合格させることができないことは当然としても、誰よりも必死に勉強した生徒を確実に合格させることも、完璧には出来ていません。しかし、ただ一つお約束できるのは、僕はこの痛みに決して慣れることはない、ということです。必死に努力している生徒が不合格になるくらいなら、僕の全存在をかけてそれを避けるための方策を考え、そこを鍛えていくためのスキルを少しでも向上させていきたい。伝わらない言葉を伝えられるようにしたい。既に十何年か教えてきましたが、この先何十年教えようとも、必死に努力する受験生を見殺しにしてしまわないために、もがき続け、もっと力をつけていきたいと思います。

人間が、自らの不完全さを認識して乗り越えようとする姿にこそ、humanityの最も美しい姿があると思います。
あるいは他者のその姿を目の前にしたときに心動かされ、自分自身も努力をしなければならないと思うところにもまた。そのような努力を鍛えていく場にもっともっとできるように、僕自身、もっとしっかりと頑張っていきたいと思います。

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とりかえしのつかないもの。

ご無沙汰をしております。元気にやっております。

塾生にはよくする話なのですが、僕が幼稚園の年長さんの頃、僕の祖父が夜中に亡くなりました。夜中に人の気配がするので起きてみると、父親と母親とがあわただしく動いているので事情を聞いてみると、「おじいさんが亡くなったけれども、もう夜遅いから、お前は寝ていていいよ。」と言われました。どのような言葉だったかは正確に覚えてはいないのですが、そこで僕は「人一人死んだのに、寝てなんかいられない!」とかなりきつく怒ったそうです。

その感情は今でも覚えています。死がとりかえしのつかないものであることはそのときの僕には分かっていたのに、とりかえしのつかない「死」よりも、反復される僕の日常(としての睡眠)を優先しろ、とは一体何事か。僕の両親には大切なものとそうでないものとの区別が何もついていないんじゃないか。幼いながらにそのように憤慨していたことを良く覚えています。振り返ってみると、僕にとってはその頃既に自分が「死」というものとどのように接するかが自分の価値を決めるという思いが強くあったようです。後に本を読んで、ソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」と言っていたことを知っては、我が意を得たり、と喜んだことも覚えています(不遜な僕は、「ソクラテスもなかなかやる。僕と同じことに気付いているのだから。」と思っていましたが)。

 そのような僕が、受験に関わるようになったのも、必然なのでしょう。といきなり言ってもわかりにくいかもしれません。受験もある意味取り返しがつかないものです。どのようなごまかしも、どのような言いつくろいも、不合格という結果によって露呈するわけです。生きている間のどのような虚飾も、死ねば剥(は)がれていくように。もちろん、不合格の全てがごまかしの結果ではないわけですが、不可逆な結果が出てしまう、そしてそのことに対しては事前に必死に努力するしかない、という意味ではきわめて似ていると思います。もちろん、それはどんな仕事も同じ部分もあります。しかし、受験は終わるために努力するわけです。人間が善く生き、善く死ぬために努力するように。自らに終わりがあることを意識するとき、私たちは自らの傲慢な自我をのさばらせている余裕を持ち得ず、現実に、あるいは自然に対して謙虚に努力を重ねるしかなくなると感じます。もちろん、その努力を実際にどこまでなしうるかは別にしても、そのように終わりがあることを意識しているときには、自分が努力していないが故に力がついていないことにもまた、謙虚に認めざるを得ないわけです。

今年の塾生が春先に、(もちろん僕がこう話す前に)「受験とは死に似ている。」とつぶやいてくれていました。
そのように鋭敏な感性をもつ彼も、4月に茫漠とそう思っていたときよりも、遙かに深く自分の言葉の意味を実感しているでしょう。どのように終わるかを選び取るために、努力をするというこの時間を彼らと共有し、鍛えていけることには計り知れない責任の重さと、それ故の喜びを感じています。

それとは別の思いとして、年末が近づく度に、僕はあの2003年のイラク戦争のことを思い出します。もう10年近くになるでしょうか。常識的に考えれば言いがかりでしかない主張を押し通してイラクを攻撃したアメリカ合衆国と、それに追随した日本。その追随の理屈こそが、日米同盟(という名の日常)を守るため、でした。とりかえしのつかないものに対して謙虚に襟を正しては真摯に取り組み、決して惰性で流れる日常のせいでその「とりかえしのつかないもの」を台無しにしてしまわないように取り組む姿勢を若い世代に伝えようと思いながらも、そのように偉そうに若い世代に言える大人など、この世界のどこにいるのか、と心苦しい思いを抱きながら、教えています。東日本大震災以降、それまでのことはまるで忘れられてしまったかのような風潮ですが、原発事故に限らず、我々大人達は起きるかもしれない「とりかえしのつかないもの」に対しては目をつぶった上で、日常をこそ優先させて生きてきたわけです。それは「受験」というとりかえしのつかないものから目を背けて今を謳歌しようとする高校生と何ら変わらない、同じように愚かな姿勢であると思います。

彼らが「終わり」を意識してそこまでの間に何が出来るかを自問自答できるような自覚ある受験生になれるように、僕自身も自らが「とりかえしのつかないもの」に対して、限りある残りの時間の中で何ができるかを、日々絶えず考え抜いていきたいと思います。

人間のどのような愚かしい営みやその結果としての破壊をも回復していくのが自然だとすれば、敢えて愚かしい営みを短期的な利益をにらんでする人類というのは、母親に対してどこまでわがままが許されるかを確かめようとする幼児(おさなご)であるのかもしれません。訳知り顔でそれをとがめ立てするのも、幼いが故の振る舞いかもしれませんが、しかし、愛されることを期待して生きるよりはまだましだと思っています。地球の不可逆な死へと向かう歩みの中で、僕達にできる、学問や芸術、その他の認識の進歩の微々たる歩みが何かをもたらすことなどできるのかどうかはわかりませんが、しかし一歩でも前に進めて行かねばならないとは思っています。

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入試は怖い。

ご無沙汰をしております。忙しすぎて、ブログを書く時間がないので、さらっと書ける受験勉強のことを書きたいと思います(というのも、学習塾としてどうかと思いますが)。

大学受験の点数開示ってありますよね。透明性を確保する意味でもとてもよい制度だと思いますし、特に東大は不合格の翌日くらいには自分の科目ごとの点数の詳細がわかるので、とてもよいと思っています。この点は、是非他の大学にも見習っていただいて、どの国公立大学でも不合格の翌日くらいには点数開示をしていただきたいものです。また、私立大学は点数開示制度がまちまちなので、そもそも(補欠などの関係上)迅速でなくてもいいので、点数開示をしていただきたい。それは高い受験料を払って受けてくれる受験生にとって最低限の責務であると思います。

しかし、この素晴らしい点数開示という制度はまた、やっかいな問題も生み出してしまいます。たとえば東大を例にとれば今年10点差ぐらいで惜しくも落ちてしまったとき、この結果は受験生を非常に緩ませるわけです。「この10点を1年で埋めればいいのだから、簡単だ!」などと(口には出さないでも)思ってしまうことが多いのではないでしょうか。また、そのような成績を予備校に持って行くと「この子は東大合格実績を稼げる受験生だ!」と判断されて、授業料がタダになったり半額になったりなどの特典もあるわけで、このことがさらに受験生にとっては「あと1年で10点を埋めればよい!」的な甘えに拍車をかけ、「じゃあ受験勉強はほどほどにして読書しようかな。」とか「大学の勉強を先取りしながら受験勉強をしようかな。」などというスタンスの受験勉強になってしまったりもしがちです。

しかし、断言できるのは、そのような受験生はまず確実に次の年の受験に失敗する、ということです。なぜなら、それらの受験生はその1回のテスト(自分が不合格だったもののしかし惜しい点だった本番の受験)が「まぐれ」であることをしらないからです。

もちろん、完全なまぐれでたとえば東大入試で点数はとれません。それなりの力があるからこそ、その点数がとれているわけです。しかし、それはあくまでその一回に限った結果であり、次の年に受けるときには現役生のときには予想もしなかったようなミスが本番で出てしまうかもしれないわけです。さらには「当たって砕けろ!」的な「受かればもうけもの」という考えで受けるのと、「今年で決めなければならない!」というプレッシャーを背負うのとでは当然自分の思考力のパフォーマンスも変わってきます。さらに、浪人生は「すべり止め」を受けなければいけません。東大受験生だとすれば、早慶をすべり止めで受けるとして、それらのテストの対策をある程度しなければならない以上、現役生のときのように東大だけの対策をする時間は直前期に減ってしまいます。

さらに。入試問題の難易度があります。比較的簡単な問題であれば、それらの悪条件を考慮してもまだ点数は安定しやすいでしょう。しかし、難しい入試問題にとりくまねばならない入試であればあるほど、点数は実力だけでなくその日の出来に左右されやすくなります。東大の入試問題の難易度のぶれに左右されないほどの実力を付けていない限り、ちょっとしたミスや思い違いが命取りになるでしょう。そして、ここまで鍛え上げることが難しいわけです。たとえば東大に合格する層の何%が、そこまで実力をつけた上で合格したといえるのでしょうか。

いくら現役生の時よりは勉強を積んできたとしても、これらの悪条件を鑑みて、それでも「あと10点を1年で埋めれば良い」と安心していられるでしょうか。浪人生は、点数開示による点数や、模試のA判定などを信じることなく、鍛え抜いてください。ぶっちぎりで合格できる力を付けなくては、うからない。そのように自分に言い聞かせて、鍛えていかねばなりません。

「現役でここまでこれたのだから、まあ、一年やれば受かるだろ」という精神的態度は、僕には願望を現実とすり替える幼稚な態度であると思えます。その願望が成就し得ない外部のfactorがいくらでもあると思うからです。もちろん、厳しい受験勉強のさなかにいる受験生が、その自らの願望の頼りなさに自ら気づけるのであれば、本当に素晴らしいと思いますが、なかなかそれは難しいのでしょう。だからこそ、受験生を支える立場にいる大人達は、「君なら大丈夫!」的な無責任なことを言う暇があるなら、1つでも2つでもその子が100%落ちないために何が必要か、何が今のところ足りていないかを必死に探していかねばなりません。

帰納的な考え方自体が、決して何の保証にもならないこと自体はラッセルの有名なたとえ(「毎朝、決まった時間にえさをもらえると思っていた牛は、ある朝、食用肉にするために出荷されてしまった。」)の通りです。前年度の入試での点数も、数々の模試でのA判定も、決してその受験生の合格を保証するものではありません。その厳しい現実を直視できるように、塾生達を徹底的に鍛えていきたいと思います。彼ら、彼女らがやがて、受験などよりもっと厳しいこの世界の現実をも直視していけるように、という思いを込めてです。

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