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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

予期せぬことに備えるために。

いよいよ明日から国公立大学入試が始まります。一人一人に出来る限りの準備をしてきました。
しかし、それでも予期せぬことが起こるのが入試です。

こちらが徹底的に様々な準備を尽くしていくのは、入試本番で予期せぬ事態に彼ら彼女らがぶつかったときに、
自信をもってその恐ろしい現実の裂け目を勇気を持って跳躍できるように、です。

入試の中で起きる全てを準備し尽くすことは神でもない限りできません。
しかし、徹底的に準備をし尽くそうと受験生本人とともに心から全力で取り組み続けてきたここまでの
塾での日々が、彼ら彼女らに予期せぬ事態に対して怯まずに立ち向かう理由になれはしないか。
そのように思っています。

もちろん、そこで実際に力を発揮するのは受験生本人です。
しかし、そのように受験生本人が本当にしんどい中で歯を食いしばって少しでも答案を書き進めることに、
ここまでの様々な準備が後押しができるのではないか、と思っています。

『カラマーゾフの兄弟』の最後にアリョーシャが「人生は長く、辛い。だからこそ、幼年時代の楽しい思い出は、その辛い人生を生き抜くために必要なのだ。」というセリフを言っています。
受験もまた、一年間の勉強だけが辛いのではなく、受けている最中こそが本当に精神的にしんどいことの連続です。だからこそ、その瞬間を一人一人が生き抜くことができる力に僕が彼ら彼女らにかけた時間や思いが少しでもなれていれば、と思っています。

あとは信じて見守りたいと思います。(と言いながら、毎年25,26,27日とバタバタと受験生からの電話やメールで忙しいのですが!納得のいく受験ができるよう、最後まで付き添い続けたいと思っています。)

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血塗られた技術。

国公立受験も間近ですが、先日塾のチューターをしてくれている大学生の子に受験生への様々な注意について、どういうことを気をつけるべきかを僕が詳しく説明していたところ、彼が「先生はご自分は一回しか受験していないのに、何でそんなに受験生が試験中にやるべきことに精通しているんですか。」と驚きをもって聞かれました。

そこで僕自身その問いに対する正確な答が出てこなかったので、こうしてブログに書いているわけですが、
恐らく僕がこれらの試験中の解き方についていくらでも語れるのは、毎年毎年落としてはいけない受験生を落としてしまい、それを防ぐためにどんなことができたのか、どんな注意ができたのか、こちらにできることはないか、仮にあるとしてそれをどう伝えるべきか、といったことを必死に分析しているうちにノウハウとして積み上がったものであるのだ、と気づきました。
いわば、血塗られた技術、先人の失敗を何とか次の子たちには味あわせたくない、と悩み、考え抜いた結果蓄積されたノウハウであるのだと思います。

もちろん、そんなやり方を積み上げていき、目の前の受験生に、より的確で精密な指導ができようと、僕の力が足りずに志望校に落ちてしまった受験生たちに罪滅ぼしができるわけではありません。その罪は一生背負い続けるしかないことです。
しかし、その上で目の前の受験生にできることを探していくしかありません。

そのような「血塗られた」ノウハウで、残りわずかとなった国公立受験生との時間を、少しでも彼ら彼女らの合格へと近づけられるように、全力を尽くしていきたいと思います。

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内申点制度という暴力。

明日は都立高入試です。都立高校受験の内申制度ほど理不尽な制度はないと思うのですが、それに対してはあまり疑問を感じていない学校の教師や高校の教師が多く、その問題意識のなさにもびっくりします。結局中学校生活の内申で子どもたちの高校受験の選択肢を狭めさせることで何が可能になっているかといえば、それを材料として中学生をコントロールしたい、という中学校の教師の勝手な言い分を満たすことでしかありません。このせいで、たとえば優秀な生徒が集まる私立中から高校受験をしたいと思っても、内申点の必要な都立高は受けられない、ということになってしまい、そこで苦しんでいる子たちが毎年どれくらいいるのかを考えれば、暗澹たる気持ちになります。

「内申点は普段努力しているかの証!」と思われるのであれば、率直に言って甘いです。学校の先生が自分の感情を抜きにして客観的に生徒一人一人のパフォーマンスを評価できていると思いますか?「中にはそういうひどい先生もいる。」くらいならまだ良いのですが、かなりの確率で何かしら個人的な恨みでもなければこのテストの点数でこの内申はないだろう、というケースと遭遇します。中学校の先生たちは自分の授業を聞かない生徒がテストではしっかりできたとしても「授業態度が悪い」ということを理由に内申点を下げることができてしまいます。しかし、授業内容がわかっている子に授業の内容を聞くよう強制することは暴力でしかありません。そのような内申点による脅迫は生徒の奴隷根性を培う、という点では良いのかもしれませんが、人間を育てる教育ではありません。

このような問題点は自明であるのに、どの都立高校でも内申点を必ず選抜に利用しているというのが本当に飼い犬根性だなあと僕などは思ってしまいます。入試改革をうたって優秀な生徒を集めたいのであれば、まず内申点を入試の評価から外すことが一番効果的です。そのような内申点に苦しんでいる優秀な子は必ず一定層いるからです。その抜本的な努力もせずに、都立トップ校でもグループ作成校の問題を点数の取りにくい自校作成問題に戻しておいて「これで優秀な子が来る!」と喜んでいる校長とかは、知的な能力もちょっと疑わざるを得ません。7(入試問題):3(内申)の割合を変えずに、入試問題を点数を取りにくい難易度の高い問題にすれば、当然内申で勝負が決まってしまうわけですから(もちろん、内申点の点数割合を限りなくゼロに近づけた上で難易度の高い問題を出題するのはまだ理にかなっています。)。

自分たちが本来何と闘って何を変えるべきかを考えることなく、動かしやすいものだけ動かすことを「改革」と呼んで褒めそやしては、結局もっとひどい状態へと堕していってしまう、という日本社会がこの20年ほど陥っている失敗を教育においてもまた同じように繰り返してしまっていると思います。

だからこそ、こんな奴隷制度のような内申点制度に苦しんでいる全ての中3生に言いたいのは、「大学受験はこんな中学の先生の顔色を伺うようなくだらない入試ではなく、君が自分で努力したものがまだ問われる競争だ!」ということです。
もちろん、大学入試もまた推薦入試、AO入試、英語四技能民間試験の利用、とどんどんきな臭くなっていっています。
ここもまた、いずれ教師に従順な生徒しか合格しないような悲惨な制度へ移行していくこともまた目に見えています。
(現に文科省から大学の方にはそのような通達が出てきているそうです。。)
しかし、まだ大学入試は高校入試に比べればフェアな競争と、教師の顔色を伺うこと無く、自分の努力だけで
勝負できる部分が残されています。明日の都立高入試に複雑な思いで臨む子たちもまた、こんなくだらないシステムのせいで、君の将来を諦めてほしくない。そのように願っています。

その上で人間が実力だけで評価される社会を作れるように社会設計を我々大人が頑張らなければ、結局社会全体が
若い人々がやる気を失って海外に流出するだけではないかと思います。今まさにどんどん日本社会の地盤を掘り崩しているのは、教育に話を限れば、たとえばこのような内申点制度という暴力に疑いを持てていない教師や親、塾の教師の責任でもあります。様々な分野でこのように「自由よりは管理を」というシフトが起きていて、そのために努力が報われない社会になっていることが日本社会の活力を失わせていき、今やいつ滅びるかわからないけどプライドだけは高い、というどうしようもない「自称先進国」になってしまっているのだと思います。

このような理不尽な制度に負けずに頑張ろうとする中高生を、心から応援し、徹底的に鍛えていきたいと思っています。

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受験の極意!?ぬりえ方式。

嚮心塾では入塾テストをしていないのですが、もし行うなら時間制限を作って「塗り絵テスト」などをしてみるのが良いかもしれません。これは、文字通り塗り絵を、キツめの制限時間で塗ってもらい、色を塗らなければならない部分の面積の何%を制限時間内で塗ることができるか、「全体の面積の中で塗れた面積が大きいほど合格!」というテストをします。

このようにテストをした場合、一人一人様々な塗り方をするとは思います。ただ、東大受験生、あるいはもっと純粋に理三受験生に塗らせた場合、まず間違いなく、同じ色で塗ることができる領域を一番大きいところから順に塗っていくことになると思います。逆に色をちまちまと塗り分けなければならない細かい領域については、必ず最後に回すでしょう。これを「賢い」と呼ぶのか「せこい」と呼ぶのかは評価が分かれるところだとは思うのですが、単位時間の中で最大のパフォーマンスをあげようとすればそのようにした方が効率が良くなりますし、受験に強い子ほどに、ここに関してはやり方が一つに収斂してくるように思います。

このやり方がこのようなテストにおいてなぜ最適かと言えば、人間の脳みそというのはどうしても様々なことを念頭においた状態では(アプリケーションをたくさん開いているパソコンのようにメモリを食って)処理速度が遅くなるからです。塗り始め、というのはどこを塗っていたとしてもまだ塗り終えていないところまで早く到達しなくては!そもそも到達できるのか?と様々なことが不安になってしまいます。そのように不安を抱えた状態でさらに脳に負荷のかかるような細かいところを塗ろうとしても、なかなか正確には塗ることができず、結局そこに時間がかかってしまっては広いところを塗り終えられなくなってしまいます。だからこそ、このような課題の場合、まずは広い領域からどんどん塗っていくことで精神的な不安を減らしていき、より眼の前の課題に集中できる状況を作ってから、より細かい作業へと移ることが大切です。

塗り絵の話はわかりやすいのですが、これが受験になると、なかなか実践されていません。
だからこそ、これこそが受験において一番大切なことであると嚮心塾では考えています。嚮心塾版「受験の極意」ですね。入試においても上の塗り絵の例と同じように、一周目では決して深追いをせずに、自分の脳への負荷が小さい問題から順に解いていき、難しい、めんどくさい問題などは深追いをしないことが大切です。なぜなら、人生がかかった入試においては、答案が埋まっていない状態ではどのような実力のある受験生でも、冷静な判断などできるわけがないからです。そのようにして、1周目にさらっと埋められる問題がしっかりと埋まってからだと、飛ばした問題に2周目に取り組むときには、1周目とは比べ物にならないほど、目の前の問題への集中力が高まります。だからこそ、1周目にわからない問題に粘ることは愚策でしかありません。

また、この解き方には別のメリットもあります。「難しい!」と思って飛ばした問題が実は受験生の勘違いや問題文の読み間違いで実は簡単な問題なのか、それとも本当に難しくて手が出ない問題であるのかを見分けるのが合否の分かれ目です。しかし、1周目で「難しい!」と思った問題を同じ1周目で粘ってもう一度読み直そう!としても、そこでは先ほど読んだばかりで前の解釈が頭に残っているため、読み直したつもりでも当然前の解釈に引きずられてしまい、せっかく読み直しても結局同じように「わからない!」となってしまうことになります。しかし、1周目で飛ばして他の問題を解いてから戻ってきて2周目を解けば、先程問題文を読んだときの解釈は忘れているので、問題をもう一度読み直すときに自らの勘違いや読み落とし、読み間違いに気づくことができます。この点からも「1周目に深追いせずにさっさと飛ばして、一通り解ける問題を解いてから2周目にもう一度考える!」というこの作戦は非常に有効です。(ちなみにこれは「一周目で粘って問いちゃった方がリード文とか設定を再度読み直さないで済む分、時間短縮になる!」という主張への反駁にもなっています。合格ラインをはるかに越えた実力を持つ受験生であっても、この種の読み間違いや勘違いを入試の最中にどうしてもしてしまうものです。だからこそ、そのような読み間違いや勘違いに気づくための作戦が必要であるのです。)

嚮心塾で勉強を教える以外にやっていることはこれだけです。もちろん、この解き方には受験生一人一人で向き不向きがあるので、一人一人に最適化していけるように、細かな点でカスタマイズはしていきます(たとえば、2周目にはどのくらい粘るのか、を飛ばした問題の多さによって変えることなど。このあたりも解き方が単純であれば単純であるほどに、受験生の脳への負担は小さくなるので、「最も点数が高くなる解き方」と「最も解き方自身に頭のメモリを使わなくてよい解き方」(プログラミングで言えば、「行数の少ないコードで表現できるか」ですね!)の2つのパラメーターの中で最適解を一人一人に探していきながら決めていくことになります。)。ただ、どのようにバリエーションをつけるとしても「1周目でしっかり粘ってバチッといい点をとろう!」というやり方には絶対にしません。それくらい、入試において1周目の精神状態というのは異常なものであり、その状態で難しい問題やめんどくさい問題に取り組むことは自殺行為であると思っています。

ちなみに、なのですが、この話を書くと(細かいカスタマイズはともかく、「しんどい問題を飛ばす」ことについては)恐らく「そんなの、当たり前じゃん!」という子たちと「ええ!?そうなの!」という子たちとにきれいに分かれます。僕自身、こんなことは自分が受験生のときには(もちろんそうした方がより良い理由がここまで言語化はできていなかったものの)当たり前のことと思っていました。この点において、恐らくいわゆる「有名進学校」の生徒と「それ以外の学校」の生徒との間でスキルの差が大きいのかな、と思います。ただそのスキルの差というのはなかなか可視化されない(有名進学校ではみんな当たり前のこととして自分で勝手に身に着けてやっている一方で、それ以外の学校の子たちはそのような無形のスキルを学ぶ場がない)からこそ、有名進学校以外の子たちが真面目に勉強して力は十分にあってもなかなか東大や医学部に合格しにくい、という差がついてしまうようにも思っています。その差を嚮心塾では何とか埋めたいし、そのためにもこのように勉強以外の様々な要因をも徹底的に言語化し、伝え、鍛えていけるようにしていきたいと思っています。国公立入試は最後の追い込みです。一人一人の受験生が本番で力を出せるように、最後まで徹底的に考え抜いていきたいと思います。

(なので、最初に書いた「制限時間つき塗り絵テスト」を入塾テストにした場合、現状で同じ偏差値であるなら、ちまちました難しいところから塗ってしまう子の方が、やり方を変えるだけで一気に伸びる、ということになります。実はこういう「偏差値○○アップ!」は見る人が見れば、とても簡単に達成できてしまいますがまやかしです、というお話でした!)

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月4万円で医学部に!「激安」医学部受験。

私立医大受験もいよいよ佳境になってきています。ここまでに私立医大を受けている塾の浪人生たちは全員がどこかの私立医大で1次合格をしているので、思い通りではないにせよ、まずまず順調であるとは言えます。もちろん2次試験に通るかどうかは予断を許しません。最後までしっかりと対策をしていきたいと思います。

しかし、その浪人生たちも高3の秋時点では本当にひどいものでした。みんな(? 一人怪しい子もいましたが!)真面目に勉強はしていたものの、全く学力が足りなく、何をしていいかが全く間違っている、というところからこちらがアドバイスして努力を積み上げて、そしてこのレベルにまで来ました(去年医学部に合格した子もそうでした!彼の高校では少なくとも過去10年間医学部合格者はいませんでした)。そもそも嚮心塾から医学部を目指す子たちのほとんどは、高校も有名進学校ではないこと、あるいはそこに在籍していても成績が極めて悪い状態から地道に鍛えていき、私立医に受かるレベルにまで達していることを考えると、彼ら彼女らのその努力には本当に頭が下がります。それと同時に、適切な方向へと努力を積んでいけば必ず学力はつくもので、そのことをほとんどのケースでは見殺しにしておきながら「うちの学校からは無理」「君の今のレベルからは無理」という「呪いの言葉」を垂れ流してしまっているのだと思います。

医学部受験は異常に過熱していて、医学部受験のためだけの予備校の学費は高いところだと年間300万ではきかない(年間400万、500万もザラです。。)中、月に4万円のお月謝(年間48万円!)でこれだけ鍛えられる塾というのはなかなかないとは思うのですが…。面白いもので、安すぎて「こんな塾じゃ受からないんじゃない?」と怪しまれ、あまり医学部受験生が集まらないという悲しい運命を嚮心塾は辿っているようにも思います。そもそも私立医学部が学費がバカ高いからこそ、それを賄えるご家庭というのは経済的に余裕があるわけで、その受験を「年間48万円で鍛えて必ず合格させます!」というのと「年間500万円で鍛えて必ず合格させます!」というのでは(教育内容がわからない保護者の方には)信頼度が違うわけです(彼女の誕生日にレストランに行ってお店の人に「この1万円のワインはこちらの10万円のワインよりもはるかに美味しいです!」と仮に薦められたとして、そこで1万円のワインを選べるか、という問題ですよね。。高い方を買っておけば仮に失敗したとしても、お金を出す自分(親)の努力が足りないせいではなくなり、受験生本人、あるいは高い医専予備校のせいにできる。受験でも親御さんのそのような心理が結局このような学費の高騰を招いてしまっていると思います。もちろん、高い学費を払っても全くうまくいかないケースも多々あるわけで、だからこそワインと違って塾はしっかりと選ぶべきだと思います。)。
塾のマーケティング戦略としてはむしろ「プレミアム東大・医学部コース」とか名前をつけて、お月謝は通常の倍の8万円です!などとやるともう少し信頼してもらえるのかもしれません(それでもまだ比較するとだいぶ安いですが)。

でもいいんです!!大切なのは医学部に行き、医者になっていく彼ら彼女らが、くだらない特権意識を持たずに受験に受かる、ということだと思います。自分の努力は周りの人の支えや環境の良さがあったからこそ形になっただけなのに、それがあたかも自分の努力であるかのごとく勘違いしては、人生がうまくいかない人を「努力の足りない人」と見下すことがないように、他の受験生と隔絶した空間としてではなく地続きの空間として嚮心塾があり続けることが大切なのではないか、と考えています。(もう少し嚮心塾にも医学部受験生が来てもらえるとなお嬉しいですが!)

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「かわいそう」に逃げ込ませるな。

入試というのは残酷なもので、一点差で落ちても大差で落ちても不合格は不合格です。だからこそ、不合格が続くと自分のこれまでの努力を全否定されたような気持ちになってしまい、「どうせ努力しても無駄なんだ。。」「こんな結果になるのなら、努力なんかしなければよかった。。」「そもそもあんなどうしようもない塾に通ってるから、不合格になるんだ。。」などと、否定的な考えへとどんどん落ち込んでいきます。

ただ、不合格が続いたとしてもごく僅差で届いていないだけかもしれません。ここで大切なのは「どうせ努力しても受からない」と諦めることではなく、「どこを復習すれば入試でもっと点数を取れたか。」「どのような失敗を入試では防ぐべきか」です。もちろん、自分だけでそのように気持ちを切り替え、かつやるべきことへと意識を集中していける受験生、というのはあまりいないので、そのためにこちらは様々な説得をします。その中でよく僕が話すのが、「『かわいそう』に逃げ込むな!」という話です。そのようなキツイ状況はご家族から見れば、どうしても「かわいそう」だからこそ励ましたり、何とかケアをしてあげなきゃいけない、と思いがちです。ですが、そのように励ましたり気を使ったり、とすればするほどに受験生本人は自らの被害者意識をこじらせて、「今何をすべきか。」という当事者意識を持てなくなっていってしまいます。そのように受動的になっている受験生ほどに、次の入試も失敗する可能性が高まります。だからこそ、こちらは心を鬼にして叱咤激励をしなければなりません。

自分が勉強面で次の入試に向けてできる復習はないか、今までの入試でした心理的な失敗をどのように防ぐか、次の入試にはどのような心持ちで望むのか、次の入試対策として苦手分野の復習以外にやるべきことはないか。それらすべては、「ここまでどこも受かっていない自分はなんてかわいそうなんだ。。」と浸っているうちには何一つできないことです。落ちるのは自分のせいだと考えれば、自分が何かしら今足りていないところを埋める努力をしようと思えるようになり、合格する可能性は必ずそれをしないときよりも増えていきます。そのように最後まで諦めない受験生こそが最後の最後に合格する、ということを可能にします。

結局自分の人生で招いてしまった失敗をどこまで「自分のせい」と思えるかどうかが勝負を分けることになります。もちろんそれを他人のせいにするためのロジックなどいくらでも作ることができるでしょう。「塾が悪い」ということにしたければしてもらっても構いません。しかし、それでは受かりません。「自分は正当な努力をしたけれども塾が悪いので落ちた」と思っている受験生は、自分の改善点を見つけられないからこそ、次の入試も同じように失敗する可能性を払拭できません。しかし、そこで今までの入試で自分が何ができていないか、どういう失敗をしてしまっているか、そういったところを必死に探し、埋めようとしていく受験生は次の入試をそれらの点を修正した上で受けられるわけです。その差が合否として現れます。だからこそ、こちらとしては「かわいそう」に逃げ込ませるわけにはいかないのです。

必死に努力をしてきた子でも結果が出ないことはもちろん入試においてはあります。しかし、一年間必死に努力してきたということは、今現実から逃げて良い理由にはなりません。一年間必死に努力してきてもなお、今この瞬間にダメな自分、足りない自分を見つめて歯を食いしばって頑張れるか、が勝負を分けます。そのことを伝えるために、疎まれても嫌われても必死に喋ろうと思います。

そして、何より受験生本人に対して思い出してほしいのは、そのように逃げ腰になって、みんなに慰めてもらって「自分は悪くない!」と言い張ったりごまかしたりしても、入試にそれは通用しません。入試は君の周りの人ほど君を特別扱いして慰めてくれません。あくまで点数という観点から公平に、即ち冷酷に判断するものです。だからこそ今君がやるべきことは、立ち上がって戦うことです。その一番キツイ状況でそれでも立ち上がって戦えるかもまた、「この1年の努力」の中に含まれているのだ、ということを肝に命じて頑張って欲しいと思います。

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「合格しよう!」と思うな。タスクフォーカスの大切さについて。

昨日でセンター試験が終わりました。結果が良かった受験生も悪かった受験生もいますが、いずれにせよそのことを引きずっていても意味がありません。まだできること、次にできることに集中していくことが大切だと思います。

前号くらいの『ハイキュー』(大人気のバレーボール漫画です!)にタスクフォーカスの話が出ていました。これは「自分にコントロールできないことまで含めて良い結果を出そう!」と考えれば、当然迷いや悩みが増えることでパフォーマンスが低下して、結局結果も出せなくなる、という状況を避けるために、自分がコントロールできることに集中する、という意味の言葉です。(古くはイチローさんがよくこのような内容を話していました。「首位打者をとれるかどうかは自分にはコントロールできないことなので、自分が今打てなかった球をどのように打つかだけに集中している。」という一見そっけなく聞こえるあのコメントが、タスクフォーカスの好例でしょう。)

そしてスポーツと同じく受験においてもこのタスクフォーカスが重要です。「合格しよう!」というよくある意気込みは、受験における合格が他の受験生との相対評価であることを考えれば、自分にはコントロールできない状況までを目標に含めている、という点でタスクフォーカスができていないわけです。そのように目標設定をすれば、当然当初の目論見からのズレに対して精神的に修正が効かなくなってきてしまいます。

では、「自分は良い点をとろう!」はタスクフォーカスできているのでしょうか。それも違います。受験は相対評価であり、自分が良い点をとれなかろうと、他の受験生と比べてそこそこであれば合格できます。
そして、大学受験においては問題の難易度を大学の先生が「間違える」ことは多々あるので、
自分が全然できていなかったとしても、他の受験生ができていなければ合格します。
それなのに「良い点をとろう!」という目標をもってしまっていると、現実の試験でそれが実現できなそうになったとたんに諦める気持ちが生まれてきます。その諦めの気持ちがあるせいで、その後頑張ればうかっていたとしても、
結局粘れず落ちてしまうことになります。

だからこそ、受験においてのタスクフォーカスした目標設定とは「自分にできる問題は見逃さないようにしよう!」ということです。実力があれば、それができれば受かります。それができてもなお、不合格になるとすればそれは自分の実力が足りないからであり、自業自得です。自分の実力以上に出して合格しようと思うことがすべての間違いであるのです。

と、口で言うのは簡単です。それを自分の人生がかかった大勝負のときに、それができるようにするためには「自分にできる問題は見逃さないようにしよう。それがしっかりできて落ちたなら落ちてもしょうがない。」と受験生本人が心底思える状態にならねばなりません。そのときに一番障害となるのが「何とかして受かってほしい」という周囲の期待と「受かって早く受験を終わらせたい」という受験生本人の願望です。もちろん受験生本人はそのような願望と常に戦わざるを得ません。だからこそ、周囲の期待を受験生本人に伝える(言葉で言わなくても、お守りを渡す、とか無言のプレッシャーはありますよね。。)のは愚策中の愚策であるのです。

「合格するための一番の近道は、合格しようと思わないこと。」などとまとめると禅問答っぽいのですが、これはタスクフォーカスという観点から見ても正しいといえるでしょう。

さて。終わったセンター試験の点数は良かろうと悪かろうと、今さら変えることはできません。
それについて悩んだり、もっと取れていればと悔やんだり、あるいは良い点数で喜んだり、というその全てが
自分がこれ以上コントロールできないことに思考の対象を向けている時点で、やるべきことをやれていない、
タスクフォーカスができていない状況だとも言えるでしょう。だからこそ、これからできることに目を向けて
そこに時間を必死に費やしていくことが大切です。

どのような絶望にも、最終的な絶望などはありません。絶望のその先にこそ、可能性がある。
それを見逃さないように、前を向くことが大切です。一人一人の受験生がそのように思えるように、
こちらも全力を尽くしていきたいと思います。

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中学受験を地獄にしないための2つのポイント。

中学受験も真っ盛りのシーズンになってきて、塾でもその対応に追われています。首都圏では埼玉受験が始まり、2月1日からの東京受験に向けて、どの受験生も最後の追い込みをしているところだと思います。

首都圏では中学受験が過熱しているため、中学受験をさせなければ不安であるのとともに、それに必死になるあまり親子関係が崩壊したらどうしよう、という懸念も親御さんの中には多いと思います。また少し前にバズった東大生の記事のように、中学受験というとどうしても「暴力をふるってでも親が子供に無理やりさせる」というイメージが強く、また実際にそのようなケースも多々あるため、中学受験をさせるにしてもさせないにしても悩ましいところです。

しかし、僕は2つのポイントを満たせば、中学受験は必ず子供の成長にとってプラスになると思っています。もちろん毎年中学受験生を抱えている受験塾の経営者がこんなことを言っても「そりゃ、お前が儲かるからだろ!」という話になるわけですが、その満たすべき2つのポイントを書いていきたいと思います。塾選びの参考にしていただけたら嬉しいです。

①家で宿題をしない。させない。

中学受験に詳しい保護者の方であれば、これを①に持ってくる時点で「非常識なことを!」とお怒りになるかもしれません。しかし、これは絶対条件です。先に上げた中学受験が親子関係を破壊する一番の原因は、「膨大な量の宿題を塾から出され、それを家で子供にやらせようとして母親と子供がどんどん険悪になっていく」ということです。塾で勉強して疲れて帰ってきているのに、家では塾から出される膨大な宿題を(殆どの場合)母親に無理やりやらせられることで、子どもたちはストレスが爆発します。それを避けるだけでも中学受験の結果、親子関係が崩壊して家庭内暴力に至ったり、せっかく中学受験に成功したものの、お子さんが勉強にウンザリしてしまって中高6年間を少しも勉強しないで過ごす、ということが避けられます。

教える側から見ても最近の中学受験塾の宿題はあまりにも多すぎると思っています(「ブラック中学受験塾」ですね。)。とりあえずあれもこれもやらせておけば!と雪だるま式に膨れ上がり、結局真面目な親御さんほどにそれをお子さんに消化させるので精一杯で精神的にすり減っていく、という悲劇を生んでしまっていると思います。

また学習効果の観点から見ても、たくさんの宿題をイヤイヤながら何とかこなす、ということはその勉強の質が非常に悪くなる(子供は無理やりさせられたときに目の前の勉強に頭を使うことはできません。)ため、効果もとても低いものになります。親子関係を崩壊させ、嫌がる子供のために「子供の将来のためには仕方ない!」という決意で無理やり大量の宿題をやらせているのに/から、成績はどんどん下降していく、という悲劇的な状況を僕も教える仕事についてから何度も見てきました。この状況だけは避けねばなりません。

だからこそ中学受験塾を選ぶときにはまず宿題の量を聞いて確認し、宿題が多くない塾、できれば宿題がない塾を探すべきです。嚮心塾はそのような観点から家での宿題をほぼゼロにして長いですが(ちょびっと宣伝!)、大手でなくても同じような問題意識をもってそのような指導をしている中学受験塾はきっとあります。それを探すべきです。

また、どうしても自宅の近くには宿題の多い大手塾しかない、という場合にはその塾に通うとしてもご家庭でやる宿題を厳選して「宿題をすべてやらない」ということが大切です。目安としては1日30分くらいで終わる量を上限にして、それを毎日繰り返すというのがよいでしょう(塾によっては5分の1〜10分の1くらいになります!)。またレベルとしては基礎的なものに限ることが大切です。これは基礎的なものから発展的なものまで全てをムリヤリ宿題で一周するよりは基礎的なものを3周する方が学習効果は高いからです。また、発展的なものであればあるほどにお子さん自身が解けないこと、さらにはそれをご家庭で教えようにも教えられないこと、さらに発展的なレベルの宿題に時間をとられて勉強時間が長くなること、など様々な宿題由来のストレス要因が増えてしまいます。「宿題は量もレベルも徹底的に絞って、それを繰り返す」ことが大切です。

②模試であれ、受験であれ、出てきた結果に対して絶対に叱らない。

たとえば職場であなたが一生懸命している仕事で結果が出なかったときに、上司から「結果が出ないのはお前が真剣に仕事していないからだ!」と言われて「その通りだ!」と思えるでしょうか。悪い結果がでたときに「一生懸命さ」「努力」を問題にすることは、まずパワハラであり、仮に厳しい言葉を使わなかったとしてもそのような評価のされ方をすれば、当然部下としてのあなたは「この上司、無能だな。」と思い、仕事へのモチベーションが更に下がることは間違いないでしょう。
有能な上司は結果が出なかった原因を分析し、その対策を一緒になって考え、その上で部下の方で改善すべきポイントがあればそれを具体的に指示するものです。決して部下に「一生懸命さ」「努力」を強要したりしません。

しかし、この当たり前のことが、中学受験においてご家庭で守られることは極めて少ないです(「ご家庭で」だけではなく、中学受験塾自体でもこのようなパワハラまがいのことをしている場合もあります。)。。結果が出ないときはまず間違いなく、勉強法が悪いのです。決してお子さんを叱って改善する問題ではありません。そこを親御さんだけではわからないとすれば、通っている塾で聞いていくのが良いでしょう(この際に「気持ちが足りないんです!」と根性論を唱える塾、さらには「うちで出している宿題を全部やれば大丈夫!」という塾は怪しいです。勉強がうまくいっていないときに、勉強をより網羅的にやろうとするのは下策中の下策であるからです。勉強がうまく行っていないときはとにかく勉強内容を基礎的なレベルのものに絞り、それだけを徹底することが大切です)。

このように結果が出ないときに叱られ続けることで、子どもたちは勉強へのモチベーションを失っていきます。それは最初に出した例を考え合わせれば、大人も理解しやすいことだと思います。さらには親御さんはお子さんと接する時間が長いからこそ、子どもたちの勉強していない時間の粗(あら)ばかりが目についてしまいます。しかし、自身を振り返れば家でもバリバリ仕事しないでリラックスする時間ありますよね?子どもたちが家でリラックスできない、その状況がいかに異常であるのかについてしっかりと考えなければならないと思います。そのようなとき、家庭はパワハラの横行する「ブラック家庭」になってしまっていると思います。

結果が出ないときに絶対に叱らないこと、その暇があれば、勉強方法の中での改善ポイントを探すべきであること、決してそれをお子さんの努力不足という理由にしないことが大切です。そして、中学受験塾は根性論や「うちのカリキュラムに従って宿題を全てこなせば大丈夫!」(この言葉はつまり「私にはお子さんが力がつくための理路がわからないし、探す気もありません」という意味です)それを一緒に探してくれる塾を選ぶべきです。


以上の二点を厳守するだけでも中学受験はかなり「地獄」になりにくくなるはずです。
中学受験など、一つの手段であり、決して目的ではありません。
卑俗な人生設計という観点から見たとしても重要なのは大学受験であり、中学受験はそのための手段でしかありません。
大切なのは、中学受験を通じて、お子さんが勉強する意欲や姿勢、またその方法を鍛えていくことであり、それは一生を通じて学ぶことの一つの土台となっていきます。その先に勉強する意欲を根こそぎ刈り取ってしまうような中学受験はどのような観点からも有害でしかないからこそ、上記の2つの特に重要なポイントを守って行われるべきだと思います。

そんな塾なんてない?いえいえ、嚮心塾はこの方針でずっと中学受験対策をやっています(2回めの宣伝)!しかし、嚮心塾にかぎらず、探せばお住いのお近くにそのような良心的な塾は必ずあります。ここでも大切なのは「中学受験塾で宿題がないなんて!」という常識を疑う勇気であると思います。

その上で、その地獄のような中学受験の結果、苦しみ傷ついてしまい、勉強への意欲を失ったお子さんは、是非嚮心塾に通っていただけたら嬉しいです。自分が勉強していくことは、親の名誉欲を満たすためだけでも「将来安定した職業」に就くためだけでもなく、純粋に自分の人生を豊かにするものです。たとえ強制から始まり、散々苦しまされてきたとしても、しかし勉強に罪はありません。どうか勉強自体を嫌いにならないでいただきたい。自分の人生を台無しにすることが自分をひどく苦しめた親への仕返しだなんて思わないで、あなたの人生をあなたのためにこそ大切にしてほしい。
そのためにこそ、こちらも出来る限りのことを尽くしていきたいと思っています。

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進学先としての学習院大学がお薦めな理由。

毎年毎年、受験生に学習院大学をお薦めしては、その親御さんに「そんなGーMARCHでも影が薄い大学、絶対に許しませんからね!」と怒られる、という経験ばかりですので、この機会にそのお薦めの理由をブログに書いてまとめておきたいと思います。

学習院大学がお薦めの理由
①教授の質が(異常に)高い。
学習院大学といえば、誰を思い出しますか?そう、田崎晴明先生ですよね!その圧倒的な実力、ユーモア、幅広い(Perfumeに限らない)教養、わからないことに対する謙虚な姿勢、そして教育にかける情熱、どれをとっても本当に素晴らしい先生だと思います。Caltechの大栗博司先生の『数学の言葉で世界を見たら』という今度出る本でもわかる通り、一流の物理学者というのは数学もめちゃくちゃできるわけですが(大栗先生は数学科の先生でもあります)、田崎先生も大学で物理を学ぶ人のために大学範囲の数学の教科書を自力で書いて、しかも無償で配布されています(先ほどのWebページにあります。)!数学の教科書を書くことができるという実力だけでなく、それを既存の数学の教科書がわかりにくいので、自分で書いて配布してしまおうというその姿勢は本当にすばらしいと思います。
他にも数学なら飯高茂先生がつい最近まで教えておられました。どの学部でも粒ぞろいだとは思うのですが、特にこの学習院大学理学部の教授の豪華さといったら、下手に早慶に行くよりよっぽど良いのでは、と思ってしまうくらいです。
 また、文系でもたとえば学習院大学の法学部の先生は、ちょっと前まではほぼ僕が東大で習っていた先生(東大名誉教授)ばかりでした。東大を退官して学習院にというおきまりのコースから「東大の養老院」と言われたりするわけですが、そもそも若手の先生たちもこれから東大教授になると見られている人(優秀とされている先輩たち)ばかりです。だからこそ、「東大教授は実力がある」という命題がもし正しいのなら、学習院大学でもほぼ同等の教育を受けられるということになります。しかも、東大より少ない学生数で、です。

②付属の高校が少ない。
「先生は大切だけど、周りの学生のレベルも大事だからね。」というのがよく言われることです。
しかし、学習院大学の学生のレベルは本当に見劣りがするのでしょうか。たとえば学習院大学は付属の高校が2つしかありません。それに対して、たとえば早稲田大学は付属・系属の高校が7校、慶応大学は付属の高校が5校あります。その付属上がりの大学生が多いことを考えれば、そして付属上がりの大学生が一部の上位層を除いて受験生ほどには勉強をちゃんとしてきていないことを考えれば、そんなに平均的なレベルは変わらないと思います。(話は脱線しますが、僕は大学受験を本当はすべての高校生に義務化すべきだと思っています。18歳くらいで必死に努力した経験、というのはやはりとてもその後の人生にとっても大きいと思います。もちろん、スポーツ、芸能活動、将棋(中村太地さんは早実→早稲田政経ですね)、囲碁、その他の自分を大学受験以上に研鑽しなければならない他のことで忙しい中での進学であればよくわかるのですが。そういう特例のみを認めるべきだと思います。実際には「付属校ビジネス」に大学側が走っては系列校を(無分別に)増やしていくということが、特に最近は多いと思います。早稲田や中央のことですが。このまま、すべての中学か高校が早稲田か慶應の系列になってしまったら面白い(!)ですね。(横浜駅SFの)すべての駅が横浜駅になってしまうかのように。)

そもそも、「周りのレベルが低いと刺激が少ない」という理由で勉強をしないような大学生自体が、間違っているといえば間違っています。そんなことを言えば、日本では、東大か京大以外は進学する意味がありません。刺激を与えられる層というのは、どんなに失敗しても東大入試や京大入試で落ちようのない層であるからです。そのような層は早慶には決していません。さらに言えば、これから東大京大を蹴ってHarvardだのYaleだのに進学する層が増えていけば、今度はそっちを目指すのでしょうか。一つ言えることは、他人から刺激をもらわねば頑張れない人間は、おそらくどこに行っても二流である、ということです。これを理由として学習院を蹴るなら、そもそも早慶も蹴らねばなりません。東大や京大だって世界中から集まるIvy Leagueに比べれば刺激が少ないでしょう。優秀な同級生を求めて、そこまで行きますか?僕は、そのような動機で進学している時点で、どこに行こうと二流であると思います。日常の中で、努力をしなければいけない理由や問題を自分で見つけてはそれに取り組むことが何より大切ではないでしょうか。

③就職に強い。
「そんなこと言って就職に強くなければ」というのもまた、どこの大学を出たかが就職のための必要条件となっている日本では重要だと思います。しかし、学習院大学の就職内定率は2013年度で96.5%です。これは、早稲田大学の学部での就職内定率95.7%と比較しても見劣りがしないといえるでしょう(ちなみに、青山学院大で80.4パーセント、立教大学で79.6%です。)。さらに、この「就職内定率」は母集団が問題になります。ほとんどの学部生は大学院に進むか就職活動かを天秤にかけながら、就職がうまくいかなければ大学院に進みますが、その場合は(結果として大学院に進んだということで)母集団から外してカウントしているでしょうからです。全学部生に対しての就職希望者の割合は学習院大学で78.2%、早稲田大学で68.6%なので、院進学に流れる割合も学習院の方が10ポイントくらい低い中でのこの就職内定率はかなり高いといえるのではないでしょうか。

④まとめ
ということで、学習院大学はお薦めです。なので、塾で塾生にお薦めした際に、是非僕に石を投げないでいただけるとありがたいです。大切なのは、①の要素については調べにくいのでなかなか親御さんにわからないのも当然だとは思うのですが、②や③の要素については公開されている情報である程度調べられるわけで、それを調べないで自分のもっているイメージと世間で通用している名前だけで判断されてしまうことであると思います。もちろん、この僕の主張も、もっと細かく調べていけば様々な欠点が見つかるかもしれません。そのように「名前で門前払い」ではない建設的な議論は大歓迎なのですが、あまりにも門前払いを食ってしまうことが多く、そこに関しては残念に思っています。

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努力する、ということ(続き)

何日か前に、努力をさぼる子への叱責の話を書きました。それくらいでやめておこうかとは思ったのですが、
僕自身についてもやはり苦い反省を込めて書かねば卑怯でしょう。僕自身も、小中高ときわめて努力をしない子でした。

勉強であれ、スポーツであれ、自分がやろうと思ったものに関しては努力をしなくてもある程度のレベルに達することは僕にとってきわめて容易でした。もちろん、それで勉強であれあるいはスポーツであれ学校内で満足するのではなく、全国レベル、あるいはワールドクラスを目指す、という選択肢をとらなかったのは、僕の井の中の蛙ぶりでしょう。しかし、中高生の頃の僕というのは、何を頑張っていいのかが本当にわからなくて、みんなが要求するものはたやすくできるけれども、しかし自分がそれをどこまでも追求する気にもなれない、というひねた子供でした。だからこそ、僕は(今では本当に恥ずかしいことだと反省しているのですが)努力をするふりをよくしていました。このブログを中高生時代の同級生がどこまで見ているかはわかりませんが、おそらく彼らの知る僕のイメージは「努力家」ということになっていると思います。しかし、僕は努力をしていませんでした。同級生に見えるところでは勉強をしたりしていましたが、それは彼らに「彼が勉強できるのは努力をしているからだ。」と納得してもらうためのものでしかありませんでした(実際に受験生になるまで、学校の休み時間くらいしか勉強していませんでした。帰宅してからは学校の勉強などする暇を惜しんで、本を読んでいました。)。これは部活についても、言えます。僕は中学に入ったときは運動ができなかったのですが、徐々にできるようになり、持久走に関しては学年でもトップ10に入るところまで行きました。これも、「自宅近くの公園で走る」などの努力をしたというように同級生には言ってきましたが、部活で走っているうちに、より良い足の筋肉の使い方、体重移動の仕方などの走り方がわかってきただけです。実際に自主的に部活以外で走ったのは、おそらく一度か二度しかなかったと思います。運動にせよ、勉強にせよ、それらの全体を自分がどのように認識しており、どのように認識とアウトプットにずれがあり、それをどのように修正していけば良いか、ということを考えるだけで方法を誰かに学ばずとも、できるようになりました。

もちろん、それらの「努力したふり」というのは何も嫌みでやっているのではなく、皆が努力してもできないのに自分が努力せずにできてしまう、という事実に対して、僕なりに悩んだ上での一つの結論でした。人に見せる努力をできる限りすることで、彼らが努力しようとする動機を削がないようにしたい、という配慮でした。(そのような不毛な配慮をすることなく、もっと高みを目指す、ということをなぜ目指さなかったかと言えば、僕はその方向にも可能性がないと絶望していたのです。それについてはまた近いうちに書きたいと思います。)

開成の同級生(もちろん東大の同級生も)がもつものですら、そのように「不自由な能力」にしか見えなかった僕にとって、教え始めてからは本当に衝撃でした。これほど目の前にある事実に気がつかないままに生きているのか、と。これほど努力を重ねては失敗することができるのか、と。

そして、目の前の生徒の問題を自分の問題としてとらえざるを得なくなったとき、それは、僕のちっぽけな優越感を打ち砕き続けました。誰かに劣ったと思ったことは、生まれてから一度もないし、おそらくこの先もそんなにないだろう。しかし、何だ、この無力感は。皆が自分の可能性を必死に信じて努力しているのに、それを努力しないでできる僕は、彼ら彼女らに何か手助けをできるかと言えば、何一つできていない。その意味では僕もまた単に「自分のことはできる」というだけで、彼ら、彼女らに対して少しでも何かが貢献できている訳ではない、という意味では無力に等しいのだ、と。努力が見殺しにされ、誠意が踏みにじられるような才能の違いという、この世界に存在する残酷なギャップを広げることには自分が寄与してしまっているとしても、そのギャップを乗り越えようと努力し続ける目の前の一人一人を少しも手助けすることができないではないか、というあの無力感、絶望感を僕は今も忘れることができません。それとともに、自分の能力に心なく依存し、努力をすることに目を背けては生きてきた自分の情けなさ、自分一人についてのことができるということで、それ以上の責任を担おうとしてこなかった自分の小児性についても。

あれから、20年近くが経ちました。あのときよりも、はるかに一人一人の受験生に様々なことができるようになってきたことは確かであるとはいえ、しかし、あのとき噛み締めた無力さを味あわずに済む年を僕はまだ一度も迎えたことがありません。今年の皆の懸命の努力も、明日からの前期試験の発表でそれぞれにとって一つの結果が出てきます。しかし、中には必死の努力にも関わらず、目的を果たせない受験生もいるでしょう。しかし、今の僕には、彼らを笑うことは、ほんの一部分たりとも、できません。なぜなら、それは、僕自身の無力さでもあるからです。

人間は無力であり、人間は自分に与えられた分を弁えずに多くを望んで努力しても、失望ばかりを得るのでしょう。僕は自分の社会的選抜に関しては、そのようなことを感じれなかったとしても、塾生一人一人の結果を自分の責任であると思うが故に、同じ無力さ、同じ失望を共有してきました。しかし、にも関わらず、人間は努力を止めません。だからこそ、人間は美しいのであると思います。それは、敗北を礼賛しては「奴隷の道徳」を強要することではなく、我々が決して打ち勝つことのできない各々の死に対して、どのように準備するかを教えてくれるからです。ソクラテスは「哲学とは、死ぬための準備だ。」と言いました。あるいは、ルソーは「人間達は、死ぬことを恐れて、生きることを忘れている。」と言いました。どのような競争に打ち勝とうと、最後には100%死ぬ我々にとって、敗北を恐れずに努力し続けることは、死を恐れずに生きることに通ずるのでしょう。

あの頃の僕に、その人間のジタバタの美しさを伝えてくれる大人たちが極めて少ないとしてもいてくれたことで、僕自身が
勘違いした人生を少しは送らずに済んでいるのかもしれません。僕も、塾生一人一人に、それを伝えていきたいと思います。明日からの結果がどうであれ、ですね。

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