
ご無沙汰をしております。試験的にtwitterも使ってみよう!とやり始めてはみたのですが、文章が嫌がらせのように長くなってしまい、卒業生からも「知り合いじゃなかったらリムーブしてる」とまでdisられ、泣く泣くブログに帰ってきました。twitterは使い方がわかるまで、当分ブログの告知ぐらいに使おうと思います。
塾は夏休みで朝から晩までバタバタとしている(のは僕だけで塾の子たちは受験生も非受験生も皆必死に勉強しています。この光景というのは壮観だなあ、と毎回思っています)のですが、他の読むべき本を読み終えてようやく以前から読みたかったRichard Hofstadterの`Anti-intellectualism in Amerian Life`をようやく読み始めているのですが、本代をケチって英語版にしたので日本語ほどは速くは読めずにじっくり読んでいます。
まだまだ初めのほうなので、本自体の感想というのはまた読み終えたらまとめて書こうと思っているのですが、読みながら非常にあれこれと考えさせられる良い本です。というだけでなく、僕にとっては「考えなければならないいくつかの重要な問題のうちの一つ」を考えるためにこの本を読み始めたのですが、読み進めているうちに「僕の人生を定義するような根本的問題」についての本であると気付かされました。僕はルソーの著作の中でも『エーミール』を特に重要な著作の本質であると思っているのですが、一番好きな本は何か、と聞かれたら『学問芸術論』であると答えます。それは『学問芸術論』の(もちろん拙いものとはいえ)問題意識が、僕自身の問題意識と通底するからです。人間にとって学問や芸術とは果たしてプラスになったのか、マイナスになったのかというテーマに対してルソーは環境問題や核の被害など出る前の18世紀に「マイナスだ!」と叫びます。もちろんそれは単なる「逆張り」でサロンの入選論文になることを狙った、と批判することもできるでしょうが、その後の彼の著作を読めば、それはやはり彼自身が感じていた違和感を言葉にしたものではないかと思います。
一方でルソーの『学問芸術論』は学問の発達に対して反省を加えるときに新たなテンプレを導入してしまった、という意味では反知性主義のさきがけであるのだと思います。「学問の発達が人間の徳性を損なうとしたら、それは肯定されるべきなのか」という彼の問いは「その学者に人徳がなければその学問もダメでしょ!」というその学説の功罪を理解しない人間にも批判するその批判の仕方を開いたといえます。その学説が間違っているかどうかをそれを進める人間の「徳性」という観点から批判するというある意味「ちゃぶ台返し」のような批判の仕方は、その学説が間違っているかどうかを吟味する冷静な目をなくしていきます。それはこの前の舛添さんに対するバッシングとも同じですね。民主主義において政策を吟味しては冷静な判断を下せる有権者が将来的にも大多数にはなり得ない構造の中で、「政策を吟味できなければ、人間性で判断すればよい!」ということで決定されていっても本当に不幸な失敗につながらないのかどうか、それは週刊誌などの疑惑報道で容易にコントロールできる「民意」になってしまうのではないか。このような懸念が今まさに生まれているわけですが、それと同様に学問を徳性によって批判をすることが果たして人類全体の進歩につながりうるのか、それとも退化につながってしまうのではないか、という問題をルソーは(それこそ彼が『社会契約論』によって生み出した民主主義とともに)生み出してしまったと言えるかもしれません。(さらに興味深いのはルソー自身が自らの子を5人も孤児院に捨てたことで、このような批判の仕方をまず最初に自身も受けている、というところです。もちろん、彼がそのような批判の仕方の限界を考えさせるために、そこまで計算してやったのだとしたら、さすがに恐ろしいとは思いますが)
「反知性主義」とは、「知性が人間の徳性を妨げることがある」という、至極まっとうながら、しかし、それ以上は建設的ではない批判です。それは必ず既存の知的な進歩へのブレーキとして働きます。それがブレーキとして人間の知性の有り様全体への見直しを迫る限りにおいて、それは必ず起こることであるというだけでなく、極めて大切な異議申し立てです。しかし、問題はそれは決して知性の全面的否定へとは向かうべきではないということにあります。反知性主義はその最良のものですら、ブレーキでしかない。しかし、科学が発達するほどに、その現在の科学への批判や反省を加えること自体がそもそもそれらの科学的素養を前提として必要としていくために、批判や反省を加えることがほとんどの人にとってはできなくなります(これは「知識人の独裁」というだけでなく、同じ知識人であっても分野が違えば全くできなくなっていきます)。その「自分のあずかり知らないどこかで決まっている」ような「科学的事実」への不満は、実はそのような前提を専門家ですら踏まえることが難しくなればなるほどに、「反知性主義」の形でしか表出されなくなっていきます。そのようにして、批判は感情的になり、さらには感情的な批判に対して見直しをすることは専門家にとってもかなり高度な人間性が問われる以上、そこでの「見直し」は本当に正しいかどうかを見直すことではなく、あくまでも「無知な大衆」のための対策になっていくことになります。その異議申し立ての中に考えるべきポイントがあったとしても、です。
そのような不幸な社会の分断が対立をさらに激化させていきます。「このように科学が発達した時代なのに(水素水のような)ニセ科学がはびこる」のではなく、「このように科学が発達した時代だからこそ、ニセ科学がはびこる」ことになってしまうわけです。
だからこそ、やはり「啓蒙とは何か」「教育とは何か」ということが根本的に大切な問題として浮かび上がってくるように思います(と、ここまで書いてみて、もはやブログですら長すぎですよね。失礼致しました。あと少しだけ書かせてください!)。
やはり知識人にとって必要なのは、その反知性主義の中に自分たちが学ぶべき批判がないかどうかを耳を澄まして聞いてはしっかり考える力であるのだと思います。それらの批判は幼稚で、粗雑で、時に暴力的かもしれませんが、しかしその中に自分たちがより真理に漸近するヒントがあるかもしれません。そのような形を通じてしか異議申し立てができないところへと追い込んでしまっているということに対して、心を砕いて行かねばならないのです。そこをシニシズム的に冷笑しては黙殺するということは、その対立を激化することにしかならないのだと思います。
それは教育で言えば、子供の理不尽なように見える異議申し立てに対して、耳を澄ましてはしっかりとその異議申し立ての意味を考える、ということと同じであると思います。各家庭でそれが出来なければ、社会全体でそれを期待すること自体がそもそも無理であると言えるでしょう。
同様に、反知性主義はブレーキ以上のものにはなりません。人間は少しでも、今よりマシにならなければなりません。
徳性を鍛える必要がないと考えるのも愚かであれば、徳性を伴わない知性については考えるに値しないと考えるのも愚かであるわけです。そのことを教育を通じて伝えていければ、と思っています。と同時に、このテーマについてはまとまった文章を書かなければならないという必然性を感じているので、また何とか時間を作っては書いていきたいと思います。
塾は夏休みで朝から晩までバタバタとしている(のは僕だけで塾の子たちは受験生も非受験生も皆必死に勉強しています。この光景というのは壮観だなあ、と毎回思っています)のですが、他の読むべき本を読み終えてようやく以前から読みたかったRichard Hofstadterの`Anti-intellectualism in Amerian Life`をようやく読み始めているのですが、本代をケチって英語版にしたので日本語ほどは速くは読めずにじっくり読んでいます。
まだまだ初めのほうなので、本自体の感想というのはまた読み終えたらまとめて書こうと思っているのですが、読みながら非常にあれこれと考えさせられる良い本です。というだけでなく、僕にとっては「考えなければならないいくつかの重要な問題のうちの一つ」を考えるためにこの本を読み始めたのですが、読み進めているうちに「僕の人生を定義するような根本的問題」についての本であると気付かされました。僕はルソーの著作の中でも『エーミール』を特に重要な著作の本質であると思っているのですが、一番好きな本は何か、と聞かれたら『学問芸術論』であると答えます。それは『学問芸術論』の(もちろん拙いものとはいえ)問題意識が、僕自身の問題意識と通底するからです。人間にとって学問や芸術とは果たしてプラスになったのか、マイナスになったのかというテーマに対してルソーは環境問題や核の被害など出る前の18世紀に「マイナスだ!」と叫びます。もちろんそれは単なる「逆張り」でサロンの入選論文になることを狙った、と批判することもできるでしょうが、その後の彼の著作を読めば、それはやはり彼自身が感じていた違和感を言葉にしたものではないかと思います。
一方でルソーの『学問芸術論』は学問の発達に対して反省を加えるときに新たなテンプレを導入してしまった、という意味では反知性主義のさきがけであるのだと思います。「学問の発達が人間の徳性を損なうとしたら、それは肯定されるべきなのか」という彼の問いは「その学者に人徳がなければその学問もダメでしょ!」というその学説の功罪を理解しない人間にも批判するその批判の仕方を開いたといえます。その学説が間違っているかどうかをそれを進める人間の「徳性」という観点から批判するというある意味「ちゃぶ台返し」のような批判の仕方は、その学説が間違っているかどうかを吟味する冷静な目をなくしていきます。それはこの前の舛添さんに対するバッシングとも同じですね。民主主義において政策を吟味しては冷静な判断を下せる有権者が将来的にも大多数にはなり得ない構造の中で、「政策を吟味できなければ、人間性で判断すればよい!」ということで決定されていっても本当に不幸な失敗につながらないのかどうか、それは週刊誌などの疑惑報道で容易にコントロールできる「民意」になってしまうのではないか。このような懸念が今まさに生まれているわけですが、それと同様に学問を徳性によって批判をすることが果たして人類全体の進歩につながりうるのか、それとも退化につながってしまうのではないか、という問題をルソーは(それこそ彼が『社会契約論』によって生み出した民主主義とともに)生み出してしまったと言えるかもしれません。(さらに興味深いのはルソー自身が自らの子を5人も孤児院に捨てたことで、このような批判の仕方をまず最初に自身も受けている、というところです。もちろん、彼がそのような批判の仕方の限界を考えさせるために、そこまで計算してやったのだとしたら、さすがに恐ろしいとは思いますが)
「反知性主義」とは、「知性が人間の徳性を妨げることがある」という、至極まっとうながら、しかし、それ以上は建設的ではない批判です。それは必ず既存の知的な進歩へのブレーキとして働きます。それがブレーキとして人間の知性の有り様全体への見直しを迫る限りにおいて、それは必ず起こることであるというだけでなく、極めて大切な異議申し立てです。しかし、問題はそれは決して知性の全面的否定へとは向かうべきではないということにあります。反知性主義はその最良のものですら、ブレーキでしかない。しかし、科学が発達するほどに、その現在の科学への批判や反省を加えること自体がそもそもそれらの科学的素養を前提として必要としていくために、批判や反省を加えることがほとんどの人にとってはできなくなります(これは「知識人の独裁」というだけでなく、同じ知識人であっても分野が違えば全くできなくなっていきます)。その「自分のあずかり知らないどこかで決まっている」ような「科学的事実」への不満は、実はそのような前提を専門家ですら踏まえることが難しくなればなるほどに、「反知性主義」の形でしか表出されなくなっていきます。そのようにして、批判は感情的になり、さらには感情的な批判に対して見直しをすることは専門家にとってもかなり高度な人間性が問われる以上、そこでの「見直し」は本当に正しいかどうかを見直すことではなく、あくまでも「無知な大衆」のための対策になっていくことになります。その異議申し立ての中に考えるべきポイントがあったとしても、です。
そのような不幸な社会の分断が対立をさらに激化させていきます。「このように科学が発達した時代なのに(水素水のような)ニセ科学がはびこる」のではなく、「このように科学が発達した時代だからこそ、ニセ科学がはびこる」ことになってしまうわけです。
だからこそ、やはり「啓蒙とは何か」「教育とは何か」ということが根本的に大切な問題として浮かび上がってくるように思います(と、ここまで書いてみて、もはやブログですら長すぎですよね。失礼致しました。あと少しだけ書かせてください!)。
やはり知識人にとって必要なのは、その反知性主義の中に自分たちが学ぶべき批判がないかどうかを耳を澄まして聞いてはしっかり考える力であるのだと思います。それらの批判は幼稚で、粗雑で、時に暴力的かもしれませんが、しかしその中に自分たちがより真理に漸近するヒントがあるかもしれません。そのような形を通じてしか異議申し立てができないところへと追い込んでしまっているということに対して、心を砕いて行かねばならないのです。そこをシニシズム的に冷笑しては黙殺するということは、その対立を激化することにしかならないのだと思います。
それは教育で言えば、子供の理不尽なように見える異議申し立てに対して、耳を澄ましてはしっかりとその異議申し立ての意味を考える、ということと同じであると思います。各家庭でそれが出来なければ、社会全体でそれを期待すること自体がそもそも無理であると言えるでしょう。
同様に、反知性主義はブレーキ以上のものにはなりません。人間は少しでも、今よりマシにならなければなりません。
徳性を鍛える必要がないと考えるのも愚かであれば、徳性を伴わない知性については考えるに値しないと考えるのも愚かであるわけです。そのことを教育を通じて伝えていければ、と思っています。と同時に、このテーマについてはまとまった文章を書かなければならないという必然性を感じているので、また何とか時間を作っては書いていきたいと思います。



