嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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反知性主義について

ご無沙汰をしております。試験的にtwitterも使ってみよう!とやり始めてはみたのですが、文章が嫌がらせのように長くなってしまい、卒業生からも「知り合いじゃなかったらリムーブしてる」とまでdisられ、泣く泣くブログに帰ってきました。twitterは使い方がわかるまで、当分ブログの告知ぐらいに使おうと思います。

塾は夏休みで朝から晩までバタバタとしている(のは僕だけで塾の子たちは受験生も非受験生も皆必死に勉強しています。この光景というのは壮観だなあ、と毎回思っています)のですが、他の読むべき本を読み終えてようやく以前から読みたかったRichard Hofstadterの`Anti-intellectualism in Amerian Life`をようやく読み始めているのですが、本代をケチって英語版にしたので日本語ほどは速くは読めずにじっくり読んでいます。

まだまだ初めのほうなので、本自体の感想というのはまた読み終えたらまとめて書こうと思っているのですが、読みながら非常にあれこれと考えさせられる良い本です。というだけでなく、僕にとっては「考えなければならないいくつかの重要な問題のうちの一つ」を考えるためにこの本を読み始めたのですが、読み進めているうちに「僕の人生を定義するような根本的問題」についての本であると気付かされました。僕はルソーの著作の中でも『エーミール』を特に重要な著作の本質であると思っているのですが、一番好きな本は何か、と聞かれたら『学問芸術論』であると答えます。それは『学問芸術論』の(もちろん拙いものとはいえ)問題意識が、僕自身の問題意識と通底するからです。人間にとって学問や芸術とは果たしてプラスになったのか、マイナスになったのかというテーマに対してルソーは環境問題や核の被害など出る前の18世紀に「マイナスだ!」と叫びます。もちろんそれは単なる「逆張り」でサロンの入選論文になることを狙った、と批判することもできるでしょうが、その後の彼の著作を読めば、それはやはり彼自身が感じていた違和感を言葉にしたものではないかと思います。

一方でルソーの『学問芸術論』は学問の発達に対して反省を加えるときに新たなテンプレを導入してしまった、という意味では反知性主義のさきがけであるのだと思います。「学問の発達が人間の徳性を損なうとしたら、それは肯定されるべきなのか」という彼の問いは「その学者に人徳がなければその学問もダメでしょ!」というその学説の功罪を理解しない人間にも批判するその批判の仕方を開いたといえます。その学説が間違っているかどうかをそれを進める人間の「徳性」という観点から批判するというある意味「ちゃぶ台返し」のような批判の仕方は、その学説が間違っているかどうかを吟味する冷静な目をなくしていきます。それはこの前の舛添さんに対するバッシングとも同じですね。民主主義において政策を吟味しては冷静な判断を下せる有権者が将来的にも大多数にはなり得ない構造の中で、「政策を吟味できなければ、人間性で判断すればよい!」ということで決定されていっても本当に不幸な失敗につながらないのかどうか、それは週刊誌などの疑惑報道で容易にコントロールできる「民意」になってしまうのではないか。このような懸念が今まさに生まれているわけですが、それと同様に学問を徳性によって批判をすることが果たして人類全体の進歩につながりうるのか、それとも退化につながってしまうのではないか、という問題をルソーは(それこそ彼が『社会契約論』によって生み出した民主主義とともに)生み出してしまったと言えるかもしれません。(さらに興味深いのはルソー自身が自らの子を5人も孤児院に捨てたことで、このような批判の仕方をまず最初に自身も受けている、というところです。もちろん、彼がそのような批判の仕方の限界を考えさせるために、そこまで計算してやったのだとしたら、さすがに恐ろしいとは思いますが)

「反知性主義」とは、「知性が人間の徳性を妨げることがある」という、至極まっとうながら、しかし、それ以上は建設的ではない批判です。それは必ず既存の知的な進歩へのブレーキとして働きます。それがブレーキとして人間の知性の有り様全体への見直しを迫る限りにおいて、それは必ず起こることであるというだけでなく、極めて大切な異議申し立てです。しかし、問題はそれは決して知性の全面的否定へとは向かうべきではないということにあります。反知性主義はその最良のものですら、ブレーキでしかない。しかし、科学が発達するほどに、その現在の科学への批判や反省を加えること自体がそもそもそれらの科学的素養を前提として必要としていくために、批判や反省を加えることがほとんどの人にとってはできなくなります(これは「知識人の独裁」というだけでなく、同じ知識人であっても分野が違えば全くできなくなっていきます)。その「自分のあずかり知らないどこかで決まっている」ような「科学的事実」への不満は、実はそのような前提を専門家ですら踏まえることが難しくなればなるほどに、「反知性主義」の形でしか表出されなくなっていきます。そのようにして、批判は感情的になり、さらには感情的な批判に対して見直しをすることは専門家にとってもかなり高度な人間性が問われる以上、そこでの「見直し」は本当に正しいかどうかを見直すことではなく、あくまでも「無知な大衆」のための対策になっていくことになります。その異議申し立ての中に考えるべきポイントがあったとしても、です。

そのような不幸な社会の分断が対立をさらに激化させていきます。「このように科学が発達した時代なのに(水素水のような)ニセ科学がはびこる」のではなく、「このように科学が発達した時代だからこそ、ニセ科学がはびこる」ことになってしまうわけです。

だからこそ、やはり「啓蒙とは何か」「教育とは何か」ということが根本的に大切な問題として浮かび上がってくるように思います(と、ここまで書いてみて、もはやブログですら長すぎですよね。失礼致しました。あと少しだけ書かせてください!)。

やはり知識人にとって必要なのは、その反知性主義の中に自分たちが学ぶべき批判がないかどうかを耳を澄まして聞いてはしっかり考える力であるのだと思います。それらの批判は幼稚で、粗雑で、時に暴力的かもしれませんが、しかしその中に自分たちがより真理に漸近するヒントがあるかもしれません。そのような形を通じてしか異議申し立てができないところへと追い込んでしまっているということに対して、心を砕いて行かねばならないのです。そこをシニシズム的に冷笑しては黙殺するということは、その対立を激化することにしかならないのだと思います。

それは教育で言えば、子供の理不尽なように見える異議申し立てに対して、耳を澄ましてはしっかりとその異議申し立ての意味を考える、ということと同じであると思います。各家庭でそれが出来なければ、社会全体でそれを期待すること自体がそもそも無理であると言えるでしょう。

同様に、反知性主義はブレーキ以上のものにはなりません。人間は少しでも、今よりマシにならなければなりません。
徳性を鍛える必要がないと考えるのも愚かであれば、徳性を伴わない知性については考えるに値しないと考えるのも愚かであるわけです。そのことを教育を通じて伝えていければ、と思っています。と同時に、このテーマについてはまとまった文章を書かなければならないという必然性を感じているので、また何とか時間を作っては書いていきたいと思います。

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テキストメッセージングの時代に可能な論理について

ご無沙汰をしています。受験が近づいてきて、塾の空気もだんだんと痛いほど緊張感を増しています。
ブログの露払いに教育のことを書いては、本当に書きたいことを書くだけの気力と時間がなく、そのまま教育についてだけの記事がたまに続く、という失敗を重ねているので、今日は別のことを書きたいと思います。

テキストメッセージング(text-messaging)とは、まあ、電子メール、携帯メールや今の主流でいうとLINEやカカオトークfacebookメッセンジャー、twitterとかですね。いわゆる日常会話を視覚的なメッセージでやりとりするものです。このような文化は20年前くらいからまずは電子メールという形で本格化し、特にここ10年くらいで(携帯電話でメールその他を使えるようになってから)日常会話でも使われるほどに急速に普及し、今では当たり前のものとされています。もちろん、こうした変化は今更変えようのないものですし、このような変化に好意的であれ否定的であれ、この趨勢自体を変えようと思うことはもはや無理でしょう。ただ、一つの変化はまた新たな変化を引き起こすからこそ、このような「日常会話をテキストメッセージでやりとりする」という変化がどのように私たちに影響するのかを考えてみたいと思います。

僕がまず初めに違和感を感じたものとして、話のとっかかりにしたいのは、いわゆる「!」(エクスクラメーション)マークについてです。日本語の散文ではこの「!」や「?」を基本的につけませんでした。しかし、この10年で、ブログその他のネットで読める記事はもちろんのこと、印刷物でも散文に「!」や「?」をつけた文章が極めて多くなってきているように思います。僕はこれをテキストメッセージングの影響であると考えています。これは、たとえば携帯メールの絵文字、LINEのスタンプを考えてもわかるでしょう。そういった感情を表す記号をつけなければ、そのメッセージは感情を込めたいと思えるほど相手に興味がない、あるいは感情を込める余裕がないほどに激昂しているのどちらかに解釈されてしまいます(誰もが絵文字やスタンプを使わないメッセージを送って、「怒ってる?」と返された経験があるのではないでしょうか)。

ここで重要なのは、日常会話でのテキストでのやりとりは(面と向かっての会話でのやりとりと比べて)圧倒的に相手の感情に対する情報が少なすぎるがゆえに、顔文字やスタンプ、あるいはその原初的形態としての「!」マークを話し手に要請する、ということです。これは聞き手が直接要請するのではありません。視覚的なテキストでのやりとりにおいて、そのような話し手の感情という情報をテキストメッセージに添えない、ということ自体がそもそもテキストメッセージングを成立させる共通の文法を破ることになる、ということです。

この圧力が極めて強いことから、書かれたものとしての文字に感情を読み取ろうとする傾向、あるいは書き手が書く文章に感情を込めようとする傾向、というのがこのようなテキストメッセージングの急速な普及によって急速に広がった傾向であると思います。その傾向が冷静な議論をすることができずにいわゆる「炎上」へとつながりがちである、ということはわかりやすいのではないでしょうか。LINEやtwitterほどではなくても、例えばこのブログも含めたすべてのウェブメディアはそのような影響を多かれ少なかれ受けているように思えます。

ただ、ブログやtwitterが「炎上」するだけにこの影響は止まっていないのではないか、と僕は考えています。例えばある意見に対して賛成か反対かのどちらかにコミットすることを問われること、つまりは外側に表出するステイトメント(言葉)の背後にある感情やコミットメント(結局どちらの立場をとるのか)までを問われるような圧力が、実はこのテキストメッセージング全盛の時代において、その影響で強くなってきているのではないか、と考えています。テキストメッセージの他の感情などの情報を「!」や顔文字、さらにはLINEのスタンプで表さざるをえないように、です。

そのような時代においては、敵か味方か、という一点において全てが判断され、「敵」の中の考慮すべき部分や「味方」の中の批判すべき部分については考えることがしにくくなります。なぜなら、双方の言葉のやり取りが、共感しているか、反感を覚えているかを確認することを目的としてなされ、そこではそれ以外の内容は伝わりにくくなっていきます。また、「双方にどのような感情があれ、表出されたものが全てだ。」という妥協点を取りにくい以上は、政治や外交における妥協点の選択肢が極端に狭まってきます(これは例えば、外山恒一さんの指摘する『しばき隊の在特会化』などもその一つであると思います)。

双方の感情や立場を見えるようにしなければならない世界、というのは、端的に言えば違う立場の人間とは衝突をせざるをえない社会、ということです。違う立場の人間との衝突を繰り返す歴史の中で、カール・ポパーの言うように「人間は殺しあう代わりに議論を作り出した。」ということがなされていたはずです。しかし、このテキストメッセージングの時代には、話し合うことすらもはや「感情」(これは本当には感情ではなく、「感情」という名目の記号でしかありません)を伴うステートメントを通じて行わなければならない以上、論理や内容についてのコミュニケーションというのが極めて難しくなってしまっています。

もちろん、このような「発言者の立場を決めることを迫らないままに可能な議論」がなくなる環境、というのは戦時下やファシズムの台頭など、政治状況の緊迫化によっても起こりうるわけで、昨今の「まず立ち位置が問われる論争(そして立ち位置以外の内容はあまり興味を持たれない論争)」をそうした政治状況の悪化によるもの、と見ることもできるでしょう。しかし、自分たちが制約がないと思っていたツール(この場合はテクストメッセージングその他、このようなブログも含めたウェブメディアですね)にそのような技術的な傾向や限界があるせいで、議論が二極化しやすいという可能性があるのだとしたら、そしてそれが極めて新しい事態でありまだ分析が追いついていないからこそ(そういう研究ももちろん探せばあるとは思うのですが)、そのような技術の元でなされる「議論」自体が新たな問題を生み出すことに無自覚であるのだとしたら、そのような制約下であることを自覚しないままに議論を積み重ねること自体が、危険であると思います。

それらを踏まえた上で、このような時代に必要なのは、「(写真入りではなく)読まれない可能性があっても長い文章を書こう。」あるいは「長い文章を読もう。」ということであるのではないかと思います。そのようなトレーニングを日々積むことこそが、テキストの内容よりは立場や感情のコミットメントしか見ていないテキストメッセージングやその他ウェブメディアの中から生まれる「議論」の狭さを打開する、地道な取り組みになるのではないかと思っています。結論や相手の感情、立場を類推するためだけに、文章を読んだり書いたりしないトレーニングですね。

その意味でブログやウェブメディアの「進化」とは真逆の方向、文字だけの長くてつまらない文章の論理を追うトレーニングを皆さんもこの嚮心塾日記でしていただければ、と思っております(!)。

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将棋の王座戦第五局について

違うのです。本当は、左派リフレ派が何で存在しにくいのか、という話を、昨日の朝日新聞に載っていたポール・クルーグマンのコラムを手がかりに「正義感」というキーワードで書いてみようと思っていたのですが、その前に、一昨日の将棋の王座戦第五局の棋譜を見ていて、あまりに感動してしまったので、このエントリーを書いています。(僕は将棋は本当にそんなに強くないので、あくまで勝手な解釈です。あと、その左派リフレ派を阻むものについてはまた近々書きます。)

まずはこの局の棋譜をどうぞ。このリンク先から読めます。

この王座戦第五局は羽生王座と豊島さんの共に二勝二敗で迎えたのですが、その最終盤、タイトルを守る立場である羽生さんの135手目、「8二同龍」が本当にすごい手でした。その後紆余曲折があって、結果最後は羽生さんが勝利して防衛したわけですが、この前の豊島さんの8二銀が、「12時間近く戦い抜いた末に少し劣勢になりつつも、まだ粘るぞ!」という覚悟を決めた手であり、その執念に感動しただけに、それに対しての次の8二龍は何というか、「羽生さんという第一人者が、しかしまだこの先へと踏み込むのか…。」というさらなる感動を覚えました。もちろん、この手に関して周りのプロの方々にもその8二龍という手で最後まで寄せきれると見えていなかったのに、羽生さんは見えていて指した、ということも恐るべき事です。しかし、僕がもっと恐ろしいと思うのは、羽生さん自身がその8二龍以降を寄せきれるかどうか完全には見えていなかったのに、そちらに踏み込んだ、ということです。実際にこのあとの9一銀打は局後に「敗着になっていたかもしれない間違い」とご自身で認めておられます。もちろん、そこからその9一銀を補うかのような絶妙な打ち回しで勝利をつかむわけですが、タイトルのかかった最終局で、12時間コツコツ少しでも優位を築こうとねじりあう展開の中で、しかもその長いねじりあいの中で自分が優勢を築きつつある中で、さらに険しい道へと踏み込む、しかも局面が難解すぎて最後の寄せまで完璧に見えているわけではないのに踏み込む、というこの姿勢は、たとえこの踏み込みが正しかろうと間違っていようと、大きなショックを相手の豊島さんに与えたことは事実であると思います。

僕なんか将棋に関して本当にど素人もいいところなわけですが、このように天才中の天才(そもそもプロ棋士であるだけで、東大理三生など及びもつかない天才です。一年間にたった4人しかプロになれないわけですから。その中でも羽生さんは歴史に残る大天才です)である羽生さんが、しかしあの緊迫した状況でさらなる未開の道に踏み込むという姿勢に本当に心打たれました。心から感動し、何というか、元気が湧いてきました。

私たちが厳しい現実を目の前にして、勝手に諦めてしまう前に、まだまだ様々な可能性があるはずであるのです。「この先には道がない」とおもっているところに、道があるかもしれません。そこを最後まで諦めずに懸命に模索し続けなければならないという事実を、この羽生さんの指し手から改めて教えられたように思っています。本当にありがとうございました。
まだまだ頑張っていきたいと思います。

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ラーメン。その2ー信念の曲げ方

前回の話で、ラーメン屋さんの行列に並んでいなければ、あのように深い世界を理解できないままに僕の人生は終わっていたと思いますが、一方で並んだことによって、様々なものも失いました。大きくは時間を。ほかにも健康や、自己を律する力など、失ったものは数知れないでしょう。このような自己の信念の曲げ方を堕落、ないしは自己への背信ととらえるとしたら、このような場合、どのように振る舞うのが正しいと言えるのでしょうか。端的に言えば、信念を曲げないことが正しいのか、曲げることが正しいのか。もちろん、それが時と場合による、ということは言えるでしょうから、どのようなときには曲げるべきで、どのようなときには曲げないべきであるか。そのことについて考えてみたいと思います。

まず、信念を曲げるには、信念をもたねばなりません。そして、これこそが最も重要なことです。生きていく中で信念をもって生活をしている人がどれだけいるでしょうか。信念とは、言い換えればこの世界の正義に対する仮説です。しかし、仮説は真理の探究のためにそれをもっていなければならないが故に意味があるだけであり、仮説自体に何らかの価値がある訳でありません。

話を信念に戻して言えば、信念を持っていなければ、そもそも目の前の事態に対し、「これは正しいか」という考察をしなくなります。そういう意味で、信念をもたない、という状態は何が正しいのかについての真理の探究を諦めた、極めて無責任な態度であると言えるでしょう。しかし、一方で自分が現在抱えている信念が死ぬまで貫くべき正しい信念である、と考えるのもまた正しさについての考察を放棄した態度であると言えるでしょう。なぜなら、どのように賢い人間のもつ信念であれ、その信念がどの状況でもどの相手に対しても正しい、ということはあり得ないからです。ある場面では正しさの判定に極めて有用な信念が、別の場面では目の前の現実に対して正しさの判定を誤らせてしまう、ということは容易に起こりえます。

故に私たちは、信念をまず持たねばならない。しかし、それを持つ理由は、その信念に依ることで一生をすごす判断の源泉とするためではなく、いつかその信念を捨てるためにそれまではその信念を貫かねばならない、という態度をとることが大切です。その信念の限界を現実に即して痛切に感じるその瞬間のためだけに、その信念を信じる、ということですね。いつか必ずくる別れのために、相手を愛する、ということでしょうか。

もちろん、そのように自分の信念を曲げることは何よりつらいことです。身を切るよりつらい。なぜって、今まで馬鹿にし、攻撃していたその相手と表面上は同化することになるわけですから。だからといって、「何も信じない!」という態度をとって「ああ、これもあるよね」という安全なところからの判断だけにしていくことは、結局何が正しいのかについての判断力を鈍らせていくことになります。自分が現在抱える信念をしっかりと信じているからこそ、それと目の前の現実における正義とが齟齬をきたしているときに、その矛盾の前に真剣に悩まざるを得なくなります。それこそが、ある信念(仮説)を脱し、次の信念(仮説)へと脱皮していく大きなチャンスであると思います。逆に言えば、何も信じない、という態度からは真理への漸近は決して生まれません。自らの信念を
、一つの仮説としてその限界を迎えるいつかまで、懸命に守り抜き、しかしその限界を迎えたときには、それを涙を飲んで捨てていく。そのような姿勢が大切だと思います。

とはいっても、一人の人間の中でこれ(「自らの信念を、いずれ別れるために真剣に愛する」)をすることが極めて難しいからこそ、学説同士の論争による科学史になっているのでしょう。一人の人間の中でそのように振る舞うことが難しいとしても、人類全体としてはそのように科学は進んでいるのかもしれません。しかし、科学について仮説とその検証という姿勢が根付いてきているとはいえ、一人一人の人生において、そのような姿勢が定着していかない以上は、やはり戦争というのは起きざるを得ないのかな、と思っています。

塾や予備校、あるいは家庭教師などの教師、というのもまさに「別れるために愛する」職業ですね。その子達と(もしかして永遠に)別れるために全力を尽くす、という職業だと思います。(ここは、学校の先生との大きな違いでしょう。)自分の信念を、いつかその寿命がくるときのために真剣に愛するかのように、塾は生徒一人一人が塾を打ち捨てることができるように、彼ら、彼女らのことを真剣に思いやります。ある意味予備校のカリスマ講師の方々の、「俺ほどすごい奴はなかなかいないぜ!」アピールというのは、その寂しさの裏返しであるのかもしれませんね。過去の僕自身を振り返ってみても、そのように思っていたと思いますし、それを振り返ると非常に恥ずかしい思いをもちます。

今は違います。卒塾生にとって、嚮心塾も僕自身も「いずれ捨て去るべき仮説」であることが大切であると僕は思っています。彼ら彼女らが5年も10年も懸命に生きて、嚮心塾にこだわるのだとしたら、それは彼ら彼女ら自身の努力が足りないのです。(本当は大学でのアカデミックな師弟関係もそのように言えれば一番良いのですが、なかなかそうはなっていないようですね。狭いコミュニティの中で「師」達の方が人事権を握っていてはなかなかそれが難しいかもしれません。あるいは、職を得ることと関係なくても、例えば数学の佐藤幹夫先生のお弟子さんのお話などを以前新聞で読みましたが、やはり偉大な先生に習うということは、思考も不自由になりがちであるようです。)

その上で、今年もまた、懸命に一人一人の生徒たちに、全力を尽くしていきたいと思っています。
彼ら彼女らが塾や僕を打ち捨てるその瞬間に、少しでも真理へと漸近できるように。
そのように役に立てるのなら、それは打ち捨てられて砂をかけられて、本望といえるものでしょう。

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ラーメン。その1

ご無沙汰をしております。いろいろと、精神的に滅入ることが多く、それにかまけてブログの更新もさぼってしまっていて、申し訳ありませんでした。しかし、復活!したのも、自分のブログの過去記事を読み直していて、「やっぱりまだまだ書かなければならないことがたくさんあるなあ。」と思い返したからです。どうも、自分大好き人間です。すみません。

という枕はいいとして、今回はラーメンの話です。嚮心塾といえば、ラーメンの話題、もはや合格体験記にも出てくるくらいラーメン大好きデブとして有名な僕ですが、実は今から14年前までは、全くラーメンというものに執着がありませんでした。それどころか、いわゆる「行列のできるラーメン屋」さんに並ぶ人々を心の底から馬鹿にしていました。「人生は短いのに、たかが快楽のために無為な時間を長く自分に許容するのは、結局一生を通じて達成したいと思う人生の目的がないからだ。」「そもそも、あのような恥さらし、『自分は食欲の奴隷です』と見せ物になるかのような行列に並ぶ時点で、羞恥心のかけらもない、人間のクズだ!」などと思っていましたし、実際にそう広言していました。

その頃は大学を卒業してプロの家庭教師をしていたのですが、教える先に駅から歩いて行くときに、どうしても毎回そのわきを通らねばならない、行列のすごいラーメン屋さんがあり、その脇を通るたびに、「ここに並んだら僕の人生は終わりだ。」と自分に言い聞かせ、あるいは現に並んでいる人々を馬鹿にするかのようにわざと早足で通り過ぎていました。

ところが、ある日自分の中で徐々に疑問が生じました。果たして、このラーメン屋さんに、本当に並ぶ価値がないのか、自分はそれを偏見で決めつけているだけではないだろうか、と。そこで恥ずかしいながら並んでみることにしました。並び途中も、「こんなくだらないこと、いつでも俺は捨てられるぜ!」というポーズをとり、いざ、自分の番がきたときには、そこでやめようかとも改めて思ったものの、えいやっと、入ってみた訳です。

すると、そこはラーメン屋さんでありながら、単なる飲食店ではありませんでした。もちろん、その味のすばらしさももちろんなのですが、お客さんの雰囲気、皆がこのお店を大切に思って、このかけがえのない場を守るために様々な配慮を見せていることなど、本当に感動をしました。このような場があったのかと、思いました。

もちろん、味はすばらしくおいしいのです。しかし、それ以上にお店がお客さんに応えようとし、それに対してお客さんがお店に感謝し、応えようとするというその相互作用が見事なまでに根付いていました。

それとともに、本当に反省しました。このような深い世界を(作り手も買い手も)「食べもの」に執着する「愚かな」人々と見下していた、自分の考えの狭さに、です。そこにはお金と商品のやりとりだけにとどまらないinteractionがありました。もちろん、汚いお店なのです。のれんだってのれんかぼろ布かわかりゃしない。お金をかけて立派にしている訳でもありません。しかし、それでもラーメンの味、ということには徹底的に考え抜いて作り上げられていて、その芸術作品のような一杯を食べるために、お客さんは皆、並ぶことも含めて、様々な不都合を当たり前のものとして、受け入れ、そしてそれでもその店を愛している。

大げさに言って、僕はその店に市場経済を超える何かを感じたのでした。設備を整え、広告を打ち、その上で商売を成り立たせるのだとしたら、そもそもそういった経費を前提にした品質のものしか、市場には出まわらないことになってしまいます。しかし、あんな汚い店で(失礼!)全く広告も出さずに、しかし商売が成り立つのであれば、それはそういった諸々の「必要(とされる)経費」ぬきでも、商売が成り立つが故に、それを前提とした市場ではありえないほどのクオリティーの商品を提供できることになります。

僕自身の進む道について、そのような既存のやり方に沿って成功すること自体にはそんなに心配はしていなかったものの、本当にそのような「成功」でよいのかどうか悩んでいた僕にとって、そのお店に勇気を出して入ったこと、そしてそのようなすばらしい場が存在すると教えてもらったことは、本当にかけがえのない財産でした。

現在の嚮心塾は、広告も打たず、設備投資もせず、最近は看板すら出さない、というある意味まったく「企業努力」に欠けている塾である訳ですが、しかしそれはあのラーメン屋さんのような商売をしたい、というただ一念からそのような戦略をとっているのです。塾業界の経費はほぼ広告費に消えるらしいのですが、嚮心塾は今までも、これからも、一切広告費をかけません。その代わり、質をどこまでも高めていけるように努力をしていきたいと思います。嚮心塾があのラーメン屋さんのような、「どこにもないラーメン(教育)」ができているか、と言えば、
胸を脹れる部分と、まだまだ修行が足りない部分とがまだ両方ある訳ですが、しかし、よい教育ができていれば、塾が存続するし、駄目な教育しかできていないなら、塾がつぶれる、というのが本来の姿でしょう。
そこを宣伝によって延命しようとしても、それは生きる価値のない組織にしかならないのだと思います。

という、嚮心塾にとってもrole modelであった、そのラーメンの名店べんてん(高田馬場)さんが、今月の28日で閉店される、ということを先日、卒業生から教えてもらいました。何とか一度は行きたいと思っているのですが、あまりの行列になかなか並ぶ時間が作れない、ということだけでなく、僕があのお店で学んだことは消えないし、それをむしろ塾として質を高めていくしかないのかな、とも思っています。いつか、僕の塾で学んだ子達が、「市場経済」の様々な前提が実は思い込みにすぎず、この世界はまだまだ可能性に満ちていることに気づけるようになるためにも、僕はこの場所で頑張っていこうと思います。

閉店までに行けるかどうか、わかりませんが、本当に感謝しています。僕もこの程度の塾で満足せずに、もっともっと質を高めていけるよう、頑張っていきたいと思います。様々な「常識」という名の偏見に対しての、確固たる外部として、ですね。

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ジュリアノ・メール・ハミス監督を悼んで

2007年に塾で上映会をした映画『アルナの子どもたち』の監督であるジュリアノ・メール・ハミス監督が今年の4月に暗殺されていたことを、遅ればせながら最近になって知りました。もちろんこのような危険と常に隣り合わせの中で覚悟の上で彼はthe freedom theatreの活動をされていたと思うのですが、それでも本当に断腸の思いです。

身内への愛情故に「敵」を憎しみ合う単純な精神をmajorityとする社会においては、ユダヤ人とパレスチナ人の融和を目指す彼の活動はどちらの側からも危険なminorityとして攻撃されざるを得ないわけです。その問題は、パレスチナにおいてだけではなく、ここ日本においてもまた、majorityの抑圧にminorityは身の危険や精神の崩壊の危機を感じて生きざるを得ない訳です。

「家族を他人より優先するのなんて当たり前だ!家族を敵に殺されれば、お前だってそんな綺麗事など言えないはずだ!」という繰り返されるstereotypeな主張は、何よりユダヤ人の母とパレスチナ人の父をもつジュリアノさんにとっては何の意味ももちません。自分の家族を、人為的・概念的な「~人」というfictionによって分断されざるを得なかった彼の悲劇に対する想像力の欠如は、日本人もまた猛省すべきことですが、しかし、彼はそれを自らのidentityとして捉え直し、ユダヤ人とパレスチナ人の融和を目指して活動を続けてこられました。その一個の人生が暗殺によって終わらせられても、しかし彼が苦悩の中からそのように決断したこと、さらには『アルナの子どもたち』という素晴らしい映画を残したことは消せません。

そして、『アルナの子どもたち』という映画に対して、「パレスチナ問題を理解するため」などという限定的な文脈における理解にとどまってほしくないと僕は思っています。僕はこの映画を、「書かれなかった(ドストエフスキーの)『カラマーゾフの兄弟』の第二部」のようなものだと思っています。あれほど清純なアリョーシャ(三男ですね)が、皇帝暗殺を狙うテロリストに変貌せざるを得ない、というドストエフスキーの構想しか残っていないその第二部、最も心優しい者こそが、暴力に手を染めざるを得ないというのがこの世界の現実の残酷さであるという事実を描こうという彼の試みは彼の死によって挫折したわけですが、しかし、私たちは『アルナの子どもたち』を見ることでその一端に触れることはできるはずです。その上で、このようなあまりにも残酷な世界の現実を、どのように乗り越えうるのかについて、私たちは足りない頭を総動員して考えていかねばなりません。「大変なところもあるんだね」ではなく、私たちが今生きているこの世界こそがまさにその「大変なところ」であるわけです。

塾でも再び、教室を使って『アルナの子どもたち』の上映会を開きたいと思います。またその告知はこのブログでもさせていただきたいと思っています。

最後に、ジュリアノ監督、本当にお疲れ様でした。僕も(どのように死ぬにせよ)いつか死ぬそのときまで、最後まで一人一人の狭い認識の壁を乗り越えさせられるように、何より僕自身が自分の狭い認識の壁を乗り越え続けられるように、歩み続けたいと思います。

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守・破・離

 先日、英作文を教えていて、「決まった型の英文を覚えてそれを使っているだけでは決して上達しない!自分の中でできあがってしまった型をさまざまに壊すというchallengeを経て、初めて真の実力が付くのだ!その意味で、様々な型式の英文に言い換えよう!」という話を受験生にしたところ、空手をかなり本格的にやっているその塾生が、「先生、それは『守・破・離』ですね。師匠によく言われます。」と教えてくれました。調べてみたところ、ここでいう「守」とは、師匠に教えられたことを正しく守ってしっかりと身につけること、「破」とは、教えられたことをベースに自らの境地を見つけること、「離」とは、何物にもとらわれないことを言っているらしいです。なるほど、この言葉は武道ではかなり定着しているようです。

 同じようなことは、芸術家も結構言っていて、彫刻家のロダンなどは「(画家の)レンブラントの晩年の絵は彼のすばらしさであった精密さを失っているとよく批判される。しかし、それは決して退化ではない。あの若いときの精密さを経てきたレンブラントが晩年になり、あのような(茫漠とした)絵を描くからこそ、素晴らしいものができるのだ。」(『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)にあります。引用しないで大意をいい加減に(!)僕が書きました。)とか、日本でも世阿弥が『至花道書』(これも岩波文庫)で、「闌位事(たけたるくらいのこと)」として、「能というのも初学者は勝手なことしちゃだめなんだけど、何十年もやってきてその演目を知り抜いた上手が、元々の舞歌から外れるのは、逆に已に定められた舞歌を予想している観客を驚かせて、すばらしい!だけど、それをぺーぺーがまねするなよ。「正しいものが何か」を知っている人が、それを知った上でわざとそれを外すことにすばらしさが現れるのだから。」的なことを言っています。(これも僕のざっくり大意です。間違ってたらごめんなさい。)

 これらの言葉の大切さは、それこそシェークスピアの『マクベス』のあの魔女の台詞、「Fair is foul, and foul is fair.」という一語にその精髄が集約されるのでしょう。「正しい」とされるものは間違っていて、(その「正しい」とされるものを打ち破る、逸脱する意味で)「間違い」こそが正しい、というのは、初めの精神を忘れて硬直化したものにとらわれて生きる、人間にとっては絶えず言い聞かせなければならない大切な教訓であるのだと思います。人が様々な技術を身につけていく際に、やはりだんだんとそのように硬直化していく、そのことに賢い人たちは気付いていて、「レンブラントの晩年の絵、いいよね!」とか、「熟練の能楽師は、外すのもまた味があるよね!」と言ってきているわけです。時代や場所を越えて、あるいは自己を鍛えていく分野の違いを超えて、このような共通理解があるというのは、何とも面白いし、また、それだけ人間が「fair」とされるものの中に逃げ込みたいという願望を絶えず抱えているという事実の現れであるのだと思います。(ちなみに、この(後ろの)foulは僕的には「ロック(ミュージック)」と訳してみたいですね。'Fair is foul, and foul is fair.'を僕が訳すとしたら、「お利口なことこそが罪深く、ロック(i.e.はみ出ること)こそが正しいんだ!」なんてどうでしょう。)(ちなみに、上の意味でのrock'n rollもまたいずれfairになっていくわけです。ということは、'Rock'n roll is dead' ということがロックになったり、さらには「rock'n roll is deadじゃねえ!今こそロックだ!」ということ(即ち、'Rock'n roll is dead' is dead)がロックになったり、となっていきます。ややこしいですが、結局我々が硬直した意味に縛られることを自らに許さない姿勢のみが、可能性を内包している、ということだと思います。それは流行の循環(loop)であれば不毛ですが、くるくる回っているように見えてらせん(spiral)のように深化していくのであれば、人間の文化のあるべき発達の仕方であると思います。)

 そして、このように伝えるべき内容自体はよくあるものであるとしても、「守・破・離」という言葉には、なかなか良く練られた戦略を僕は感じます。結局習い始めの初心者は、なぜ、先生の言うことを守らないのかといえば、習い始める前の自分の習慣や考え方を優先しているからです。逆に習っていけば行くほどに、その(習得した技術の)体系を離れることに恐怖を感じます。その段階においては、習ったとおりの体系をふまえることがその人にとっては習慣となっているからです(そして、与えられたものを「破る」よりは「離れる」ことの方が、遙かに恐ろしいことは離れたことがある人にとってはわかりやすいのではないでしょうか。)。つまり、この言葉は、「今までの自分でいるな!(Fair is foul, and foul is fair)」というわかりやすそうで具体的にどう実行するかは悩ましい真理を、実践的にわかりやすく言い換えた言葉であり、しかもそれぞれのプロセスにおいては一見違うこと(守≠破≠離)をやるかのように言い換えることで、より目の前の目標に集中しやすくしてあります!
何とすばらしい。これは、全ての研鑽のプロセスを見事に言い表せていて、塾名を「守破離塾(しゅはりじゅく)」に変えたくなるくらいです。

しかし。それでもなお、難しさは残ります。いつまでが「守」で、いつからいつまでが「破」で、いつからが「離」なのかは継続年数とかで機械的に決められるものではありません。一人一人、また、同じ人であっても、取り組む分野によって全く変わってきます。理想的な教育にはこの「守破離」が全体として実現されていることは間違いがないとしても、それをマニュアルのようにしていくことは難しいというより不可能です。やはり教師が(そしてもちろん学習者本人こそが)悩まねばならないことは山ほどあるようです。

長々と書きました。伝えたかったのは、学問とは(それまでに継続したありようから自由という意味で)ロックだ!芸術とはロックだ!教育とはロックだ!ということです(こう書くとかなりアホっぽいですね)。浜岡原発の停止は、政治とはロックだ!につながるのでしょうか。浜岡原発の停止自体は正しいことだとしても、アメリカ政府の圧力が最終的な決め手でした、などというクラシカル(古典的)なものでなければよいのですが。ともあれ、政治をロックにするためには、私たちの不勉強を猛省して、乗り越えて行かねばなりませんね。僕も頑張りたいと思います。

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バレンタインデー

先日、2月14日のバレンタインデーに、遅くに帰宅すると、机の上に娘が「パパへ」と書いてくれてチョコレートとチョコクッキーを用意しておいてくれました。もちろん誰からももらえない僕としては、本当にうれしい限りでした。自分が娘を持ち、その娘がすくすくと大きくなり、そしてこのように受験生の面倒ばかり見ていて遅くに帰ってくるにもかかわらず、そんな父親にチョコレートを作って、プレゼントしてくれる。これほどの幸せは、僕の身にあまるものです。

しかし、このような贅沢を味わいながらも、僕は悲しい思いでもあります。なぜかを話すと長くなるのですが、まあ、話させてください。

それは、僕には小さいときからこのようなイベントごとというのが、どうにも嘘くさくて大嫌いであったという理由があります。僕は、お正月も節分もバレンタインデーもひなまつりも端午の節句もクリスマスも大晦日も(多いので途中、はしょりましたが)全て、あまり意味があるものだとは思えません。それは小さい頃から、ずっとそうでした。なぜそれを周りの人々は騒ぎ、準備をするのか、その意味が全く分かりませんでした。

大分大きくなってからは、自分の違和感を次のように整理するようになりました。時間は一年というサイクルでまわるのではなく、むしろ生まれてから死に至るまで直線的であり、一日として同じ一日はないし、「お正月」とか「バレンタイン」というくくりで何かが言えるほどに共通のものなどないわけです。しかし、私たちは人工的な暦を道具として使っているつもりが、だんだんその暦に自らの行動を影響されてしまうようになってしまっている。とりあえず社会的な約束として、人と人とが約束をしたり仕事をする際に都合の良いという理由で決めたカレンダーのはずが、そのカレンダーにあたかも意味があるかのように、「もうすぐひなまつりだ!」などと浮かれる。これこそは人間がいかに自らの作り出した人工物に支配されやすいかの証左であると考えるようになりました。

そして、なぜ、このような(僕にとって)よくわからない行動様式が支配的であるのかを考えれば、やはり人間がやがて来る自らの死から隔絶した日常を送りたい、という動機をもっていることにつきるのではないかと現在は考えています。暦はその意味で、直線的に誕生の瞬間から死へとむかう一人一人の人生を、あたかもspiral(らせん)のように感じさせてくれる非常に便利な道具であるわけです。同じ一年が繰り返される、と考えれば、いずれやってくる自分の死を考えなくても済むからです。そして、さらにはspiral(らせん)からの連想で、loop(輪)のように一年一年を感じられさえすれば、もうそれで自分の人生は怖くなくなります。この閉じた輪がいつまでも続く、そのように感じられれば、人は日々を生きることが怖くなくなるわけです(話は少しずれますが、いわゆる「ハレ」と「ケ」についても、僕はハレがあるのは、このspiralをloopだと錯覚させるためであると考えています)。しかし、それは僕にとってはごまかしでしかないという強烈な感覚が、いつからかはわかりませんが、僕を支配していて、それがそのようなイベントに対する違和感を生じさせていたのでしょう。

昨年の『龍馬伝』で坂本龍馬の「生きるとは、事を成すにあり。(生きるとは、何か仕事をすることだ。)」という言葉もクローズアップされましたが、この言葉のかっこよさだけでなく、怖さ、残酷さをどれほどの人が自覚しているのでしょうか。つまり、この言葉は「今、たとえば日本にいる1億2千万人あまりの人々のうち、一体何人が生きているといえるのか。」という厳しい問いを突きつけているわけです。僕は小学生の時にこの言葉に初めて出会って、心の友を一人見つけた気持ちがしました。それとともに、僕に何が出来るのか、厳しく問われているのがつらいとも思いました。そこから24年くらいがたつわけですが、毎日毎日必死にもがき苦しんではいるものの、まだ全く「事を成」せていないと思っています。たとえばこの坂本龍馬の言葉は、お正月やバレンタインデーに心動かされる人生とは、全く対極のものなのではないかと僕は思います。

そうはいっても、テレビや新聞からは、そのように日々のイベントの情報がひっきりなしに流れてきます。もちろんそれらを商業主義的だと批判することもまた、正しい批判だとは思うのですが(「バレンタインはチョコを売りたいだけだ!」「恵方巻きはコンビニの戦略だ!」)、僕にはそのような文化の全てがきわめてprimitive(原始的)な感じがして、そこに対する批判が人々の人生の中にないことが、苦しいわけです。

と言いながらも、僕の娘もまた、そのイベントの情報の洪水に流され、バレンタインにはチョコを送るものだ、と理解し、その枠組みの中で、僕を思いやってくれている。もちろん僕は、そのように僕を思いやってくれる娘のその心根こそは、本当に尊く、美しいものだと思っているのですが、しかしその枠組みの中での思いやりに対して、僕がどのように反応すべきなのかについては、やはりまだまだ困ってしまいます。自分が10代や20代前半の頃でしたら、「こんなの全部まやかしなんだ!」などと言って、チョコをひっくり返したりしていたでしょう(まあ、それに近いことはしていました)。しかし、それでは、このような定型的な前提に沿って贈られる思いを傷つけてしまう。かといって、そのチョコに込められた思いは尊いとしても、その思いが定型を超え得ないことに対してはやはり何とかしていかねばならないのではないか。せっかく贈ってくれるその贈り手に対しても、それが定型を超え得ないが故にそれによって出来るコミュニケーションには限界があることを伝えることこそがむしろ、僕のもっともすべき返礼であり、思いやりなのではないか。それを僕の娘に、あるいは塾生に、あるいは他の人々に伝わる言葉はないか。伝わる関係性は可能ではないだろうか。このようにいつも悩んでしまいます。

まあ、言ってみると、僕の人生とはその模索と試行錯誤のためにあるようなものかな、とは思っています。

ちなみに、チョコはおいしく食べました。娘には、(これら全てをふまえた上で)心からのありがとうを言いました。娘とはこのことについて、また話し合いたいな、と思っています(面倒くさい父親ですみません)。

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「解決を目指す」ということに伴う失敗。

ご無沙汰をしております。間隔はあきましたが、こちらは元気にやっております。

先日、本当にうれしいニュースがありました。8月27日の囲碁の碁聖戦第5局で坂井秀至7段が何とあの碁界の第一人者、張う(ちょうう)4冠王を破り、初のタイトルを手にしました!本当に、本当にうれしかったです。また、この日はこの対局が気になって塾にいても上の空でした。(塾生の皆さん、すみません。)

僕が坂井先生を応援している(もちろんこれからも応援し続ける)のは、坂井先生がまだアマチュア時代に僕自身が囲碁を直接教えていただいたご縁がある、というだけではありません(僕は出来の悪い生徒でした)。皆さんもニュースでご存じのように、坂井先生が幼少の頃から囲碁をプロと同じように学びながら、医師資格をもち、囲碁は「プロより強いアマチュア」でやっていこうとされていたこと、しかし、研修医生活が始まる際に、囲碁を打つ時間がなくなることに気づき、自分にとって囲碁かそれとも医師かと厳しい二者択一を迫られた際に、「やっぱり囲碁を打ちたい」と決断をされて、医師の道を捨ててプロ棋士の世界に飛び込まれたこと、無事プロ棋士にはなれたもののトッププロは10代(それも前半)からプロの世界に入るのが当たり前な中で、20代後半からプロになるという厳しい道で苦労をされたこと、その中で本当に努力を重ね、何度も悔しい思いをしながらも、少しずつ少しずつ力をつけて、とうとう一つ目のタイトルを手に入れられたこと、このように列挙してもその一つ一つのことがどれも、坂井先生の生き様の真摯さを確かに表していると思います。その真摯さに何よりも敬意を持たざるを得ませんし、僕ももっと頑張らなければ、と励まされます。

それにしても、最近僕が坂井先生の囲碁を見ていて強く感じるのは、「最後まで苦しむ覚悟」です。妥協の出来る安易な道を選ばず、最後の最後まで戦い抜く覚悟、最後まで苦しみぬいてやる、というその強い意志を感じることが多くなりました。もちろん、プロのすごさが分かるほど僕は囲碁が打てるわけではないので、僕の勝手な思いこみかもしれないのですが、「ここまで、頑張るんだ!」という驚きを、ネット中継を見ていて、最近はいただく事が多いように思っています。

 話は変わりますが、学生が受験勉強を一生懸命やるのはなぜなのでしょうか。大多数は、「後で苦しまない」ためではないでしょうか。就職で不利にならないため、資格を取って手に職をつけるため、などでしょう。もちろん、それ自体を批判しているわけではありません。学歴、それから資格なしに生きていくということは、簡単に言えば凡人に出来ることではありません。逆説的に言えば、凡人は東大などに入らないと、生きていけないのです。それを必要としないのは、純然たる天才でしょう。(僕も大学進学している時点で、凡人です。)

 しかし、努力してそのような難関を突破したことで、「もう自分は苦しまないでいいんだ!」と勘違いされては困ります。どのような難関を突破しようと、いや、難関を突破し続ければし続けるほどに、新たな、より手に余る困難と向き合わざるを得なくなるのが、この社会なのではないでしょうか。その中で大切なのは、ある目の前の目標を達成するために「これさえクリアできたら、遊べる!」と自分をごまかしていくことも時には必要かもしれませんが、そうした休憩の時間の最中もまた、その根っこに「最後まで苦しみ抜く覚悟」を持ち続けておく必要があると思います。
 
 それとともに、「解決を目指す」ということの危険性についても考え合わせねばなりません。ある解決が、たとえばヒトラーが「ユダヤ人問題の最終的解決法」として、虐殺を選んだようなことになっているかもしれません。問題に取り組み続けるしかないことを、解決しようとしてしまうことは結果として大きな暴力につながることが往々にして多いようです。もちろん、当面の目標としてある問題を解決したい!というのは大切なことです。しかし、それが最終的な解決になるかどうかは、実はそれが解決になっているかどうかではなく、それを「解決」と見なすことで蓋(ふた)をしてしまうかどうかに依存している部分が多いのでしょう。たとえば、先の囲碁の話で、「もうこの定石(じょうせき)では必ず先手有利」という結論が今までの研究の結果で出てしまっているとしても、そのような結論がさらなる研究の結果覆されることなど、よくあることです。これは将棋などでもとてもよくあることです(最近では広瀬新王位の振り飛車穴熊もその兆しなのかもしれません)。盤上の真理を考え尽くすことに人生を費やしている天才達ですら、このような見落としをしては、またその見落としに気付くという形で「解決」や「結論」を絶えず、見直し続けているわけです。ましてや、私たち凡人が「解決」や「結論」を絶えず考え直さないとしたら、そして私たちのその「解決」や「結論」が下される対象が少なくとも盤上と同等以上には多様であるこの現実世界であるのだとしたら、やはりそれはひどい傲慢(ごうまん)さであるといえるのではないでしょうか。

どのような解決も最終的な解決ではありえないという現実を直視しながら、それでも一歩でも二歩でも本当の事は何かという認識を歩ませていくために、目の前の解決のための努力を続けていく。そのような姿勢を一人一人が持つことが大切であると思います。
僕はそのような姿勢を取り得るという事実に、人間の一つの可能性を感じています。塾もまた、受験勉強を通じてそのような姿勢を鍛えていけるように、がんばっていこうと思います。

最後になりましたが、坂井先生、本当にありがとうございました。ぼくもこれから、もっともっと、頑張ります。

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