嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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言葉は誰のものか。

ご無沙汰をしています。通常の新年度のバタバタに加え、今年は何かとトラブルが多く、ようやく塾が軌道に乗り始めたところです。「忙しいからブログを書く気になれない」というのは嘘で、忙しいときほど書きたい題材は山ほど浮かんでくるのですが、しかしその前にやらねばならないと自分で自分を縛るものが多く、それとどちらを優先するかでブログを後回しにしてしまったところがあります。

目の前の人に対する義務や責任を果たすことで、目の前にいない人に対する義務や責任を放棄することにつながる、というこの社会の失敗を、僕もブログを更新しないことで加担してしまっていたと言えるでしょう。もちろん目の前の義務や責任を果たすことが目の前にいない人への義務や責任を決して正当化し得ない、ということはまた事実です。それに関して正当化しうると思ったことはないのですが、一方で目の前の生徒たちに対する自分の無力さを感じれば感じるほどに、そこでの力をつける努力にどうしても集中したくなります。特に教育という仕事はやっていけばやっていくほどに、どんなに自分自身が力をつけても自分の至らなさ、失敗の多さを思い知らされるものであるからこそ、そのようになりがちです。

もちろん、塾での懸案事項が劇的に改善をしたわけではありません。相変わらず、まだまだ手が足りていないところは多いと思います。まあ、両方とも再び進めていきたいと思います。

端的に言えばこのブログは、「嚮心塾に来る必要のない人」のために書いている、とも言えるでしょう。もう既にminorityとしての人生をもがき苦しんでいる人、その中で何とか自分の人生を形にしようとしている人々に、このような僕でも何とか生きている、ということを伝えるために書いています。もちろんある部分においてminorityとして抑圧を受けている人々が、別の部分においてはまさにmajorityとしてその部分におけるminorityである別の人々へと抑圧を与えている、などということはよくあることです。その人がある部分においてminorityであることによって、その人のmajorityである部分までの人格のすべてが肯定されるものではありません。しかし、僕はそれがたとえ欺瞞であると言われようとも、minorityの立場に立ち続けたいと思いますし、自分の中のmajorityである部分における暴力性に対して、絶えず敏感でありたいと思っています。

唐突ですが、言葉は誰のものでしょうか。言葉を使えるようになるには学問をある程度修めなければならないという以上、それは知識人のものです。しかし、その言葉を誰よりも必要としているのは、権力に連なる知識人ではなく(権力に言葉は必要ありません。むしろ国会の審議での安倍首相のように「何も実のあることは答えないで押し通す」という戦略は権力側のみに許されたものです)、むしろそこから疎外されていく人々にこそ言葉は必要となります。その点で、言葉を高度に習得するためには既存の知識体系に浸かり、その中でエリートとして訓練を受けなければならない(なぜなら知識というものはそのようなエリートの選抜と育成のためにずっと使われてきたからです。)一方で、そのような知識や語彙を使うことで初めて可能な正鵠を射る言葉、というものは社会からはみ出たものによってこそ、とてもよく用いられうる、という矛盾があるように思います。

もちろん、これは科挙の失敗による「人生の落伍者」こそが漢詩という世界において、素晴らしい詩人たちとなっていった、ということがわかりやすいその具体例でしょう。漢詩があれだけ発達するためには語彙や知識を駆使する知的能力を持つ人々が、その時代の俗世の中で報われない必要があったと言えるのでしょう。もちろん、これが当事者にとって、あるいは後の人類にとって不幸なことであったのか幸せなことであったのかは簡単には判断できないとしても、です。

あるいは日本の近代文学を見ても、夏目漱石から始まって、芥川龍之介、太宰治や有島武郎とどの作家も落ちこぼれた超エリートです。高い教養とそれにも関わらずの社会からの疎外こそが、彼らを作品に向かわせることになったと言えるでしょう。

言葉を自在に使えるようになるためには教養が必要だとしても、その言葉を時間や場所を超えて真に活かせるのはその教養を鍛える仕組みから疎外されていった人々である、というこの矛盾を私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。言葉は弱者にとっての最後の武器、としての意味しか持たないのでしょうか。そこでの一人一人の悲劇としか言いようのない悲惨な人生からなるけものみちのような頼りない隘路を通ってしか我々が人間性を回復できないのだとしたら、果たしてその悲しい事実を我々はどのように評価をすればよいのでしょうか。

あるいは忌野清志郎さんが生前によく書いていたように、「全ての良い音楽はブルースである(blues、すなわち人間の生きる上での憂鬱(blue)を歌ったもの)」だとしたら、今生きている表現者としての私たちもまた、自分の生きる上での苦しみを表現するために、生きるために培った技術や知識を総動員することになります。それが良い芸術であり、良い作品であることは確かであると僕も思いますし、そのようなものが一人一人の人生にとってかけがえの無いものであるとも思いますが、それは果たして敗北者が日々自分を慰める以上のことになっているのでしょうか。

知識や技術が権力の基盤となって久しいこの社会においてもなお、少なくとも言葉は弱者のためのものであり続けます。しかし、そのような言葉が弱者を慰撫することにしかつながらないのであれば、それは人々に寄り添われる言葉がカタルシスを生むことによって、この権力構造を別の形で支え続ける装置にすぎなくなるのかもしれません。その危険性に対して悩みのない全てのbluesは、やはり大したbluesではないのだと思います。もちろんこれは言葉に限らず、芸術全般に言えることです。芸術が芸術として存在価値を認められ、生きる場所を与えられている社会というのは、もはや芸術によっては何も成し遂げ得ない社会であると言えるでしょう。カミーユ・ピサロが言った「ルーブル(美術館)は芸術の墓場だ!」というときの「ルーブル」が社会全体へと拡大していっただけであるように思います。

俗世から疎外された知識階級からうまれた弱者の武器としての言葉がやがて、この社会においてその一定の価値を認められていくがゆえに、弱者のためのものですらなくなっていく、というこの事実の悲しさといったら、耐え難いものがあります。

話を広げすぎました。結論を述べれば、僕は真理の一端をうがつ本当の言葉とは、それが生まれるまでにそのような悲しい来歴をもとうとも、今ある現実に対して極めて無力であろうとも、それが多くの場合単なる慰撫として誤用されようとも、しかし、そのような言葉自体には意味があるかもしれないと思っています。逆に言えば、人類の本当の終わりとは、このような残酷な現実に心が負けて、本当の言葉を紡いでいこうと思えなくなったときであると思います(もちろん、ここでいう「言葉」は言語だけでなくて他の媒介物でも構いません)。人間の知性とは、人類社会を良くしていくためにあるのはもちろんですが、それだけでなく僕は人類社会を看取り、それへの弔辞を述べるためにもある、という役割もとても大切なのではないかと思っています。私達が良くしようと努力を重ね、議論を重ねても、それでも人間は同じ過ちをより大きなスケールで繰り返しては、結局破滅の道に行くのかもしれません(もちろん行かないのかもしれません)。あるいは自らの手で滅ぼさないとしてもいずれタイムリミットがきて(今の予想では50億年後には太陽の膨張と消滅に巻き込まれます。それまでの間に太陽系から脱出するすべが見つからなければ)滅びることはどちらにせよ、(それこそ私達一人一人が誰も自らの死を免れ得ないのと同様に)決まっているし、既に私たちはそのことをわかっているわけです。しかし、そのようになろうとも、本当の言葉を紡ごうとする努力は、少なくとも他の知的生命体にとっては無駄ではないかもしれません。だからこそ、どのような状況であろうと本当の言葉を紡ごうとする努力を諦めるわけにはいかないと僕は思います。ずいぶん飛躍しましたが、だからこそブログもまたしっかり書いていきたいと思います。

以上、「ブログ書くの、久しぶりだよね。」ということから長々と書きました!

そして、表現が様々なものへと絡め取られることに絶望しきっているとしても、それでも表現することを諦めたくないと思っているすべての人にとって、劇団どくんごの劇はとてつもない勇気を与えてくれます!今年は東京公演が今のところまだ未定なので、往路の公演は東京近郊だと6月23,24日の木更津公演か、6月27、28日の横浜公演です!本当におすすめです!塾でも横浜公演にみんなで見に行く予定です。
どくんごのホームページはこちら
ホームページから予約できますので、ぜひ!

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映画『この世界の片隅に』の感想を書きました。

『この世界の片隅に』がとてつもなく素晴らしい映画であることなどは、もう僕のような映画オンチが語らなくても、国内のありとあらゆるクリエーターから映画評論家の方までありとあらゆる「うるさ方」が皆が激賞していることからもその凄さがわかるわけで、興行収入もだんだん「事件」と言えるくらいの伸びを見せていますし、改めてその紹介記事なんかこの受験も間近の忙しい時期に書くこともないかな、と思っていたのですが、そうは言っても塾の子や卒塾生に言葉の限りおすすめをしたところ、中には「そんなに言うほどいい映画?」という反応もあったため、「教え子の不明を鍛えるのが教師の役割!」「弟子の不始末は師匠の不始末!」とばかりに燃えてきてしまいました。なので、このとてつもなく忙しい時期に(本当にこんな記事を書いている場合ではないのですが)それでもその素晴らしさを紹介したいと思います。


とはいえ、「徹底した時代考証ゆえに、リアルさをつきつけられて実感してしまう!まるでタイムマシンみたいだ!」とか、「戦時下の普通の人の暮らしを丹念に描くことでかえって戦争の恐ろしさを実感させてくれる!」とか、「主演ののんちゃんの声と演技力が素晴らしい!」とか、巷で言われていることは言いません。もちろんそれらすべてに首を激しく振って同意したいところなのですが、そんなことはいろいろとネット上にある記事あるいはパンフレットやユリイカを読めばわかるでしょう。またクラウドファンディング云々、この素晴らしい映画を完成させるのに片淵監督を始めとして製作者の方々がどれほど「良い作品をこの世に出したい!」という思いでやってきたか、それが絶望的な状況からどのように奇跡を起こし続け、現在の大ヒットにまでつながったのか、あるいは主演ののん(能年玲奈)さんがテレビでの告知が事実上できない状態でそれでも彼女を主演に選んだということもまあ、いろいろ取材記事があるでしょう。それらも本当に激しく同意し、また心より感嘆と賞賛の声を上げたいのですが、それもここでは省きます。ここでは、そうした『この世界の片隅に』に対して起きる様々な賞賛以外の、僕の生徒たちに見てほしいと思う点のみに絞って書いていきたいと思います(なにせ、受験間近で時間がないですから!多少ネタバレもあります。ご容赦を。)。


僕が一番伝えたいことのいとぐちとして、容易に「感動した!」も「面白い!」も「泣ける!」も言えずに(事実として滂沱の涙を流しているお客さんはいるものの)皆、上映が終わったら無言で出て行く、というこの映画の凄さがあると思っています。アニメ映画というよりは、一人の人のドキュメンタリーを見せられたような、あるいは一人の人の半生をずっと聞かされたかのような重みをもって誰しもが映画館をあとにすることになります。そこでの捉え方はもちろんお客さん一人一人で違うのでしょう。しかし、その重みを抱えて、軽々しく「評価」をできない、という気持ちは恐らく見た人は誰でも抱えてしまうのではないでしょうか。


もちろん、映画は人の人生を描くものです。それは同じような時代を描いたアニメの『風立ちぬ』もそうでしたし、そもそもほとんどの映画は(英雄的であれ、喜劇的であれ、悲劇的であれ)一人の人の人生を描いた映画というものが圧倒的に多いでしょう。しかし、この映画ほどにその主人公の人生を感じさせられる映画というのは非常に少ないのだと思います。それが非実在の主人公であることを忘れて、私たちは自分の母親や祖母であるかのように主人公の人生を重く受け止めざるを得ません。それがアニメーションの技法によるのか、細かい日常の生活を描いていることによるのか、主義や主張ではない部分を描く時間が多いからなのか、何よりもそれらすべてを裏付ける徹底的な時代考証によるものなのか、そのどれもが原因であるのかはわかりません。しかし、主人公の人生を突き放して見ることのできないという印象を強く与えられることは間違いがありません。


世界は絶望に満ちているとしてもなお、絶望を希望とみなすことはできる。それをニーチェがキリスト教を揶揄したように「奴隷の道徳」とけなすことは簡単でしょう。服従が前提となる中での努力は抵抗への可能性を放棄しているがゆえの超人的な努力であればこそ、それは肯定されるべきものではなくむしろ否定されるべきである、というのもまた一つの聞くべき主張であると思います。しかし、この映画はその上でその批判に簡単には負けない強さがあります。戦争や革命など大きな歴史上の何かによっては決して変え得ない人間一人ひとりの中の何かを信じる強い気持ちが現れた生活が描かれています。だからこそ、そのようにすべてが茶番だと知りながら戦争に協力することも、そのために苦しい生活を強いられることも、すべて耐え抜けるのです。戦艦大和もまた茶番です。すべてが茶番だと知りながら、しかしその茶番の根底にはもっと深い何か、もっと譲れない何かがあることを信じていたわけです。しかし、それは生活者の茶番とは違い、国家の茶番の中には何もなかったと感じ、それに対して憤るあのシーンは、まさに一人の人間とそれが貢献すべきより大きな目的との齟齬を前にして、我々が常にぶつかる根本的な問題であると思います。一人の人間のために世界があるわけではない、ということの例証として導入されるあらゆる主義主張ですら(それは社会契約説のようにこの社会の成り立ちを正当性の観点から問いなおすことを始まりとして、民主主義や人権のような我々が最終的な答えとして今のところ受け入れているものですら)、一人の人間の懸命な生活と実感を超えるものではない、というこの知的生命体としての人間に課せられた矛盾。自身の存在を超える何かに恋い焦がれ、身悶えし、自分をも他人をもすべてを犠牲にして、それに対してこの身を捧げながらもまた、しかし、そこでどのように洗練された主義主張ですら一人の人間の懸命に生きる生活実感とくらべてどちらが重いのかが、実はかなり怪しいというこの「正義」を求めざるを得ない人間の原理的な限界と悲しさというものを、生活に心血を注ぎ、生活によってこの上のない破壊をも乗り越えようとしていく市井の人の姿としての主人公の人生は見せてくれます。その意味で、この映画は「地に足をつけさせてくれる」映画であると言えるのです。頭でっかちに「何が正しい」「何が間違っている」「何が良い」「何が悪い」というすべての議論を肉体としての一人の人間、生活者としての一人の人間へと引き戻す(恐ろしいほどの)力を持った映画であると言えるでしょう。その意味で、あらゆる批評を拒絶する力を持っていて、だからこそ皆「素晴らしい」しか言えなくなるのだと思います。


しかし、一方でこの映画は生活の中にこそ、また希望があることも最後に見せてくれます。失ったものがあるからこそ、得られる関係性もあるのだということにもまた。率直に言って僕は希望を持たせる映画というのは嫌いでした。以前に『風立ちぬ』をデイビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』と比べて書いた時にも、『ドクトル・ジバゴ』くらいの絶望の中に最後わずか光る希望、あのバラライカ(これは是非『ドクトル・ジバゴ』の映画を見てください!)くらいが僕にとっては人生の定義として精密であるように思いました。どんなに必死に生きてもどんなに努力しても、報われずに死んでいく中で、しかし、それが無駄死に、犬死にでも少しは伝わるものがあると信じることはできるのではないか、それがここまで40年生きてきた中での僕の実感にも近いところであると思っています。ただ、その違いは大した違いではありません。この『この世界の片隅に』という映画は生き続けることがどれだけ残酷であるとしても、生活とは生きるための手段ではなく、生きることそのものであるのだ、ということを私たちに見せてくれます。(「登場人物の死」を用いて「人生」を描くのか、「登場人物の生」を用いて「人生」を描くのか、という違いでしかないように思います。)


その意味で、『この世界の片隅に』は先に書いたようにあらゆる批評を拒絶します。どのようなこの映画の解釈もまた、一つの解釈であるとともに一つの解釈にすぎず、だからこそその文脈で語れば批判や不満を語ることができるものの、それではこの映画を語りきれないことになります。それはまるで多様な側面を持ち様々な功罪を持つ一人の人の人生を、ある側面から批判するかのような物足りなさを私たちに残します。先に挙げた卒業生の反応もまた、そのような一つの文脈から見て「このような映画あるよね〜」というものに過ぎません。それは部分的には正しいのですが、それだけにとどまらずにもっと様々な側面とそれを私たちに問いかける切実さを持つがゆえに、そのように一つの感想、一つの批評で片付けることのできない余韻を私達の中に残すのであると思います。


もちろん、どのような作品も完全ではありません。原作からの改変についての批判はまた別として、最も有効である批判としてはそもそも「一次資料に基づいた徹底的な時代考証によってリアルさを追求した」『この世界の片隅に』はあの時代の「正史(正しい歴史として認定されるもの)」になりえてしまうという恐ろしさがある、ということです。どのような切り口も、どのような徹底的な調査も、それによって描けていない部分、埋もれている事実に対して免れ得るものではありません。もちろんそれを作り手の方々はよく自覚して作られていると思います。ただし、あれだけのインパクトをもった名作になってしまうとどうしてもそれが「正史」になってしまい、それ以外の事実に関しては見落としてよいものだと肯定されてしまうところがあるかもしれません。それはこの作品が本当に素晴らしい作品であるからこそ、引き起こしてしまう問題です。


それとともに、もう一つ問題であるのは生活は人間の手段ではなく目的である、という主張と実践がどのように説得力を持とうとも、思想を持たざるをえない存在としての人間に対しての答えにはなり得ない、ということです。思えばディビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』は思想と生活との分裂(をラーラの元カレと今カレ(ジバゴ)の二人の登場人物を通じて対比させる)という悲劇を描いた作品でもありました。『この世界の片隅に』は原作のもつ思想性を削ってしまっている部分が、見方を変えれば「生活からの反撃」としてとても強力な作品になってしまったとも言えるでしょう。空疎な理想や言葉によって多くの人が犠牲になるということのバカバカしさを描けたとしてもなお、そのような失敗を踏まえてもなお、理想や言葉を持つことで人類史が進んできたこと、その中で我々は多少なりとも自由になってきたことは否定できません。あまりにも呆気ない敗戦を目の前にして、「そんなことのために戦ってきたわけではない」のが全く正しいとしても、「では何のために戦うべきなのか」という問いを放棄して「何のためにも戦わない」ことが正解になるわけではありません。それこそがアーレントの言うような「労働する動物の勝利」になってしまうでしょう。人間は知性を持て余し、その知性によって様々な暴力を生み出してはもっと大切なもの(生活、ひいては命)を踏みにじることは愚かしいことだし、許されることではない。しかし、だからといって考えないこと、正しいものとは何かを求めないことは人間にはできません。そのような「蓋(ふた)」の仕方からは、必ずいびつな形での表出を求める運動が始まってしまうでしょう。『この世界の片隅に』は地に足のついていないすべての言葉を破壊するという意味で、本当に素晴らしい映画です。しかし、そこから私たちはそれでもなお、どのような言葉を語りうるのかを模索していかなければならないし、その「それでも語りうる言葉」があの映画がもつ生活と人生の重みへと拮抗しうるものへまで鍛えていかねばならないと思います。戦後70年の日本の歩みというものは「生活」の再建のためにすべての正しいものを求める気持ちを捨ててきた歴史であると僕は捉えていますが、「生活できることが幸せ」という思考停止が暴力に加担しないわけではないこともまた、この70年の歴史の歩みからもまた明白なのではないでしょうか。その反動として日本会議、右翼、あるいは左翼などの浅薄な「正義」がその歪みや限界を認識される前に「そもそも正義を追求している!」というだけで一定の支持を得るというおかしな状況になってしまっているようにも思います。『この世界の片隅に』が描いた「ささやかな一人のささやかな生活を蹂躙することを正当化できるほどの正義などない。」という事実は、一方で「だから生活することだけが大切なのだ。」という主張にはなりません。知性の発祥(「発症」と最初誤変換で出ましたがそれも正しいかもしれません)から、人類史の終焉まで、私たちは曲りなりとも少しは賢くなって滅びていかねばなりません。なぜなら、その賢くなることだけが、「こんなもののために戦っていたわけではない」という悲劇を避けるための唯一の方法であるからです。その中で私たちは、どのように正義がその母体としての一人一人の人間を蹂躙してきた歴史に恐れおののこうとも、この正義ではないとしたらどの正義が正しいのかについて少しでも賢くなっていかねばならないのだと思います。生活を蹂躙する正義はもちろんのこと、生活から切り離された正義もまた無意味であることは確かであるとしてもなお、それは正義の探求、真理の探求をしなくて良いことにはなりません。その探求は知性を持つ人間にとってはかなり根源的な欲求である以上、そこでの考えの足りなさが粗悪な代替品の採用へとつながってしまうからです。そのような取り組みを怠れば、また「こんなもののために戦ってたわけではない」という悲劇が忘れられた頃に繰り返されてしまうことになります。それを防ぐためにも、この素晴らしい作品は「究極的な議論の終わり」ではなく、「議論の始まり」にしていかなければならないと思います。


ともあれ、まだ見てない人は絶対に見るべきです!僕も(既に4回見ましたが)またあと何回か見に行きたいと思います。

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劇団どくんご『愛より速く』東京公演の感想

今年も劇団どくんごの東京公演を見てきました!2年ぶりのどくんごの舞台は懐かしく、切なく、本当に素晴らしかったです!今年はあれほど作りこまれた舞台を1回だけ見に行って感想を書くのも申し訳ないと毎年思っているので、越谷公演と、東京公演を三回の計四回見てきて、またそのうち一回は塾生を連れて大勢で見に行きました。各回、本当に素晴らしかったです!

どくんごの劇の素晴らしさは「意味がある」と思えば意味がなく、「意味が無い」と思えば意味があり、観客にとって全く「気が抜けない」劇であるということだと思います。ナンセンスな笑いを笑っていたはずなのに、あれ?ここはさっきのこれとつながっているのか?という疑問が自分の中に見ながらどんどん出てきます。また最初の文脈で意味を成し得なかった言葉が次の文脈で繰り返されるときには、意味を持ってきます。そのように「意味が無い」と聞き流すこともできなければ、「すべて意味がある」と
傾聴することもできない、その観客側の態度を決められなさが、逆に心地よくなってきます。意味を考える事の喜びを私たちはうんざりするかのような意味の押し付けの前には自己防衛のためにどうしても拒絶をしなければならなくなりますが、このように意味があるかないかもわからないものをこちらに押し付けないようにそっと、しかし彼ら彼女らの懸命さは伝わる形で置かれていくたびに、私たちはその意味を食い入るように見つめ、考えたくなってきます。そのような、(おそらく私達が言葉を獲得していく際に持ち続けていた)意味をわかろうとする喜びを私達の中に回復していくのがどくんごであると思います。

このように書くと、言葉だけが魅力的である劇であるかのように聞こえてしまいますが、どくんごの劇において言葉は主要な要素ではありません。むしろその鍛えぬかれた演技、音楽、装置、そして何よりもその考えぬかれた演出にこそ、どくんごの魅力があります。それらに我々が心をひらいていく中で、言葉が突き刺してくるわけです。そもそも人間のコミュニケーションはおそらく言語以外の部分に大きく依存をしていると思います。それはたとえば同じ内容を喋っているとしても声のトーンや速さ、さらには話し手のたたずまいや表情などによってその説得力が大きく違ってくるわけです。そんな小難しいことを言わなくても、「なんとなくこのおっさんの言うことは信頼できるな。」とか「なんとなくこのおっさんの言うことは怪しいな。。」などと、判断していることは日常の中でかなり多いのではないでしょうか。その意味で、どくんごの劇は言葉を回復していく過程を私たちに味あわせてくれます。言葉によらないコミュニケーションに基礎をおいていた私達が、しかし言葉ですべてを表現することを求められるようになったのが人類の発展の歴史であると言えるでしょう。それは、文化だけでなく、政治においても学問においてもそうであるのです(たとえば議会制民主主義というのは言葉で闘うことを前提としている以上、どれだけよどみなくしゃべることができるかがその国会議員の質とされてしまいます)。しかし、それだけ言葉が達者な人間たちが幅を利かせることが人類の歴史の一つの行きつく先であるとしても、それ以外の部分が本当に人間にとって必要ではないのか、端的に言えば「偉そうな言葉が話せれば偉いのか。」といえば、そうではないこともまた、我々は直観的に感じ取っているのではないでしょうか。どの国会議員を連れて来ても表面上立派でよく考えていそうな言葉は喋れるとして、さてそれで「このおっさんは信頼できるな。」と思えるのかどうか、ですよね。その意味で現代は言葉が支配している社会であるからこそ、その言葉の意味を額面通りに受け取ることができなくなっている社会である、といえるのではないでしょうか。(こう言うとジョージ・オーウェルの『1984年』に描かれるようなdouble speak(二重言語)を懸念するのかもしれませんが、double speakとは実は言葉が世界を支配した後に、言葉の意味を受け取れなくなった人間達に言葉の機能主義的(あるいは構造主義的)側面だけがうけとられるようになった世界に成立するものであると思います。その意味で、そのような「言葉の支配」による「意味の死」には、実は独裁的な権力はあまり必要ではないと僕は思います。)

よくある「ペンの力を信じよう。」「言葉の力を信じよう。」という言葉は、この言葉の持つ権力的側面に対して無自覚であるという意味で、僕は闘うべき問題を間違っているのだと思います。そもそも、言葉の力という意味でたかがマスコミが、法令の解釈に血道を上げては横車を通そうとする国家官僚に(能力の点でも努力の点でも)勝てるわけがないではありませんか。言葉が権力として、そしていずれは権威として機能してしまうのは、言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくからです。そして、なぜ言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくのかといえば、それは権力を追認させようとする横車に限らず、言葉の意味を取るというコミュニケーションに対して我々が疲れきっているからであるのです。言葉の意味を取るにはあまりにも我々は自己中心的にすぎる。意味を取ろうとしても、辛いだけだ。そのような失敗の積み重ねの中で、意味を取ろうとし続けることに対して、私たちは倦み疲れ、そして諦めていきます。国会での議論においてその場しのぎの答弁が多くなるのも、言葉が死んでいるからではなく、言葉しかそこにないからだと僕は思います。言葉が媒介するはずであった意味を汲み取ろうとする心の余裕が我々の中になくなればなくなるほど、言葉による議論は意味を伝え合うものではなく、結論が決まったあとに、儀礼として交わされるだけのceremonyになってしまいます。国会の空転を嘆く前に、そのように結論を全面的に見直す気持ちのない言葉のやり取りの中でどのような私達も生きているというこの現実をこそ何とかしていかなければ、国会の空転など変わるわけがないと言えるでしょう。言葉が死んでいるのではなく、言葉しか残っていないのです。そこに意味を伝え合おう、分かり合おうという姿勢がなくなっていくことが、社会が社会である必要をなくすものであると言えるでしょう。

(長くなりましたが)そして、どくんごの劇はそのように「意味を伝えよう」とか「意味をわかろう」とすることに疲れきっている私達だからこそ、心の芯にまで響いてきます。様々な点で、社会からずれた登場人物たちの、滑稽でも真剣で、だからこそ物悲しい一つ一つのモノローグは、最初は笑って見ているだけなのに、段々と、「あれ?私って、こんな風にしゃべってたかな。。」「いつからこんな風にしゃべれなくなったんだろう。。」「いや、この人達がどんなに笑われてもおかしいと思われても真剣に語るのに、私はもっとつまらないことも伝わらないと思って我慢してるのでは。。」と、どんどん自分が意味を伝えることに臆病になっていることに気付かされていきます。
あるいは、赤ん坊の「だあだあ」と一生懸命話しかけてくれることを思い出してみるのもよいかもしれません。彼ら彼女らの伝えたい内容はこちらに全く分からないにせよ、赤ん坊の言葉の拙さなど全くにすることのない健気な語りかけは、我々の心を打ちます。そして、その意味内容など全く分からないにせよ、それを「分かりたい!」と思って一生懸命に聞くようになります。そこで私達が赤ん坊に語りかけてそれに対して赤ん坊の声がまた返って来て、というそのやりとりは共感の回路を形成し、意味を伝え合いたい、と思うようになっていきます(伝わらないとしても、です)。

だからこそ、どくんごの劇を見続けていくと、「もっとその一人一人の役者さんのモノローグを聞きたい、意味をわかりたい!」とのめり込んで聞いていくようになります。もちろん、だからといって一生懸命聞いても、その場面場面のセリフの意味はわからないのですが、その中で、また彼らの意味のないと思っていた言葉の中にまた意味や符牒、脈絡が見事なまでに遠い場面をまたいで散りばめてあるので(今回の劇で言えば僕が気づいた中だけでも「蝶」「バス停」「宇宙だって…」などなどたくさんあります)、そこで再び意味を考えようという気持ちがさらに掻き立てられます。そのようにして、私たちは意味を考える勇気を、そこから進んで意味を伝えようとする勇気をどくんごの劇からinspireされるのだと思います。(さらに言えば、この「意味を聞く態勢が徐々に観客の中にできていく」中でなお、意味をストレートに伝えようとしない終盤の構成、というのが本当に考えぬかれた演出であると僕は思います。お客さんの心を開いておいて伝えたい内容をぶっこんでくるのではなく、心を開きながらもなおもそっと寄り添うというのでしょうか。一昨年や一昨々年に見た時はもうちょっとこの終盤がストレートだった気がして、それはそれで本当に素晴らしかったのですが、今回はより強い覚悟を決めて寄り添う(すなわちお客さんに委ねる)ことに決めた感じがして、よりどくんごらしいのでは、と勝手ながら感じました。そのおかげで劇を見たあとの余韻がより複雑なもの、しかし、後を引くものになっていると思います。)

もちろん、各モノローグやメインでやっている役者さん以外の様々な演出も何回もどくんごを見ていく中で何回でも楽しめるポイントです。演技なのか、演技でないのか、舞台設定も自分たちで全てやらねばならないことも演技の中に組み込み、どこからが演技でどこからが演技でないのかがわからなくなってきます。またお盆として舞台で使っていたものを月に使ったりと現実と空想との境目もわからなくなってきます。もちろんテントの中だけでなく、その外も大胆に使うということもふくめ、そのすべてが、境目をなくしては未分化の状態へと私達を投げ込み、それ故に劇場を出れば終わる「感動」ではない余韻が我々の日常生活の中にどんどん浸潤していくように思います。さらには、テントを組むことでそこで暮らす日常がどくんごのある風景になり、またテントをバラして移動すれば、そこにはどくんごがもういない、ということもまたこのような異世界感を作っている重要な要素であると思います。今回は東京の井の頭公演以外にも、待ちきれず往路の越谷公演も見ましたが、北越谷駅前の広場で開かれるどくんごは、「駅」という日常にどくんごのテントとさらには駅前にまで繰り広げられる様々な劇が本当に日常の景色を一変させてしまう、素晴らしい公演でした。それは役割を細分化され、それぞれの役割を果たすことに閉じ込められていった現代の我々、さらにはその象徴の最たるものとしての「駅」を、あざ笑うかのような、非日常の現出!という印象を受けました(まあ、そんな難しい言葉で言わなくても、駅前であのどくんごの公演(想像以上にすごい光景です!)ができるなら、もっと私たちは道端で何やってもいいんじゃない?と自由になれると思います)。

と、ここまで長々と書いてきましたが、もちろん、どくんごの劇は言葉にしきれません。(今回どくんごの皆さんとお会いして、以前の僕の感想文を過分にもほめていただけて本当にうれしかったのですが)このような本当に素晴らしいものを言葉にしようと思うたびに、自分の言葉の拙さに打ちのめされます。しかし、だからこそ、どくんごの劇を言葉で表現しようともしていかないといけないと僕は思っています。この言葉が支配する世界の中では、言葉にはならないけれども大切なものを言葉にもおとしこんでは評価していかねばならないと思うからです。それはたとえば、とても人間的に素晴らしい子たちに学歴をつけていくのと同じです。人を自分の目や頭でではなく、学歴を通じてしか評価できない人と同じように、言葉を通じてしか判断ができない人を僕は「バカ」と呼ぶわけですが、そんな人たちにもどくんごを知る入り口を作ってあげたいですよね(というと、反感を買ってしまって入り口になれない気がしますが)。ぜひここからの残りの公演にもお近くの方もそうでない方も、足を運んで実際に見ていただけたら本当に嬉しいです!来年もまた塾生を連れて、(ご迷惑でしょうが)大挙して見に行きたいと思っています。

それとともに、どくんごの劇を見て、意味を伝え合わない人間関係だけが人間関係であると思い込んでは諦めているすべての人々に、できることを徹底的にやっていくような塾であり続けたいと改めて思いを強くしました。意味を伝え合わないような関係性は、人間関係ではありません。「伝えようとして伝わらなくても、そのことがどのような齟齬や軋轢を生もうとも、それでも伝えたいと思うのは、分かり合いたいからだ!」と(どくんご風に)諦めずに取り組み続けることこそが、実は政治であれ学問であれ、あるいは他のすべてのことであれ今、必要なことなのではないか、と思っています。

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鴨居玲展@東京ステーションギャラリーの感想

帰宅途中の車中の中吊り広告で、なんと鴨居玲(かもい・れい)の絵が5月末から東京で見れる!ということを知り、東京駅の東京ステーションギャラリーに早速行ってきました!そもそも鴨居玲の絵を見るためだけに家族旅行を金沢にしようとして、子供たちの猛反対(子供向けではないですよね)にあってやめたこともあるくらいなので、東京で見れるなんて望外の喜びでした。

何枚かの有名な絵以外は初めて見るものが多かったのですが、本当に素晴らしかったです!鴨居玲の絵は、初期のデ・キリコ風のものやゴヤ風のものももちろん素晴らしいのですが、最晩年の自画像シリーズが本当に素晴らしいのです!いや、「素晴らしい」という言葉でごまかしてはなりません。その最晩年の自画像シリーズは本当に、この上もなく悲痛なものです。パリやスペインで老婆や廃兵の絵を描く中で、人間から虚飾を剥ぎ取った本質を描くことに目覚めた鴨居が、日本に帰ってきてからの(社会的成功と裏腹の)芸術的不遇の末に、自分をモデルに描き始めたということの意味を痛切に考えさせられました。ロダンが『麗しきオーミエール』で老いさらばえた老婆の彫像を作り、「これこそが美だ!」と宣言したのだとしたら、鴨居玲はさらに老婆や廃兵をデフォルメしていきます。我々が人間の特徴としてぱっと飛びつきがちなものが何も残っていない彼ら、彼女らの中にこそしかし、何よりも気高く残っている人間性を鴨居玲の絵は捉えていると思います。
その鴨居玲の絵は、「人間はどこまで人間であるのか」ではなく「人間はどこからが人間であるのか」、という問いへの一つの答え方ではないかと思います。私たちが人間の生活というときにまっさきに思い浮かべるような、知性、恋愛、美しさ、社会的成功、出産、子育て、家族、その他もろもろが全て終わった後の、あるいはそれらを全て奪われた後の廃兵や老婆を鴨居が描いたときの強烈なまでの存在感は、かえって世間から疎外され、もはや必要のない人間としてただ存在しているかのような彼ら、彼女らこそが逆に人間の本質ではないのか、という動揺を僕たちの中に引き起こしてくれます。人間としての生活の社会的奴隷として忙しく立ち働く我々が、そのような全てから疎外された人々の表情に強く感銘を受けるわけで、それは何かや誰かのために彼や彼女が存在しているのではなく、ただそのものとして人間もまた存在しうるのだという驚きと感動、そして反省を与えてくれるからであると思います。鴨居玲は風景画を描かなかったことでも有名です(彼は「私が興味があったのはただ人間だけだ」と言っていたそうです)が、彼は人間を「風景」として描いたのだと思います。私たちが風景画に感銘を受けるのは、その風景が私たちの見ている普段の景色を超えて「自己の認識する世界の外に存在しうるもの」としての可能性(まあ、つまり自己のvirtual realityではないrealityが存在する可能性ですね)を感じさせてくれるからであると僕は考えているのですが、鴨居玲の描く人間はそのように私たちの認識する人間への自己のvirtual realityの外のrealityを感じさせてくれる、という意味で人間を「風景」のように描いているのだと思います。

このような絶頂期を迎えた後、帰国してからの鴨居玲の絵は、一転して苦しい。描けども描けども、そのようにヨーロッパで出会った人間の本質をとらえるような絵がまるで描けないことに苦しみ続けているのです。今回の展覧会のストーリー付けもそのように企図されていますが、それは強引な解釈ではなく、この時期の鴨居の絵を見れば明らかであると思います。
何を描いても、人間の存在そのものに迫るような人物画が描けない。あのヨーロッパで描けていた人物を描いた「風景画」が描けない。その苦悩の末に、自画像へと行き着く鴨居の歩みは、「このように『人間の存在そのものに迫るような絵が描けない』と苦しみぬいている私を描くこともまた、人間の存在そのものに迫るような絵につながるのではないか。」という彼の最後の、悲痛な取り組みへとつながっていきます。そこから彼は、とりつかれたかのように自画像を描きまくります。食料のなくなった動物が自らの手足を食べるかのように。ときにはそのような自らの取り組み自体にシニカルになったり、疑心暗鬼になりながら。そして、その末に自死を選びます。

鴨居玲が「人物画」を描けなかった70年代、80年代の日本は僕自身も子供として過ごしてきた時代です。彼にそのような人間存在の本質に迫るような絵を描かせなかったものが何であるのかを僕たちは考えなければならないと思います。そして、それにもかかわらずそのような本質的な絵を描くことを諦めずに自画像を描き続けたという鴨居玲の超人的な努力にも、思いを馳せなければなりません。彼は最後まで、人間存在の本質を描くことを諦めようとはしなかった。そのために狂気の自分をすら、目をそらすことなく描き続けました。彼の最晩年の『勲章』という絵には、ビールの王冠が勲章のように胸に付けられた彼の自画像が描かれていますが、それは何も(説明文に書かれているような)権力的なものへの批判とかではなく、そのようにうらぶれ落ちぶれ、追い詰められた人生の中でそれでも描きたいと思える絵を描こうと最後までもがき苦しんだ彼自身に、彼が与えた「勲章」であるのだと思います。それを世間の人がどう評価するのであれ、あるいはそれを私的にお祝いするほどの金銭的な余裕はないとしてもなお、私は私に勲章を与えるのだ、と。

僕も、人生の最後にそのように自分で自分に勲章を与えられるように、鴨居に恥ずかしくない生き方をしなければならないと改めて思わされました。芸術鑑賞とは美しいものを楽しむことではなく、自分自身の小さな世界を破壊してくれるものだと信じたい人にとって、本当にオススメだと思います。
東京ステーションギャラリーのサイトです。)

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劇団どくんご2014『OUF!』東京公演の感想

劇団どくんごの東京公演、見てきました!また内容について説明するのが難しい劇ですが、しかし、その魅力に僕の言葉が耐え得ないのを覚悟の上で、感想を書きたいと思います。あのような熱量の高い、素晴らしい劇を見て、何もしゃべらないのは、言葉を持つものの怠慢であると思うからです。

「ここは双子星のうちの一つ」と登場人物が語る場面がありました。つながりが失われていることを知る前は、自分たちが失ってしまったとは思いません。つながっていたはずなのに、それを失うからこそ、悲しみが生まれてくる訳で、そもそもつながっていないときには失っていることに気づきません。最後の「田中君」のエピソードもそれと通底していると思います。このエピソードから、全体を読み解いていきたいと思います。

今回の劇は脚本がある劇、ということでしたが、去年の『君の名は』が「つながっていないようで、つながっている」作品だとしたら、今年の『OUF!』は、「つながっているようで、つながっていない」作品であると感じました。宇宙、SFという設定は共通しているものの、つながっていないのです。

山下陽光さんの「全力で30点をとりにいく」劇団だ、という評価が正しいと思います。何故、全力で30点をとりにいくのか。それは、何が100点かわからないからです。相手が求める100点が、本当に100点かどうかは、その相手が国家であろうと、あるいは人類社会全体であろうと、それらにとって100点である、ということが本当に正しいことであるかはわかりません。その「30点」に全力でこだわることの方が、実は人間社会への大きな貢献につながっているかもしれません。

それはすなわち、伝わらないものを何とか伝えようという行為であるのです。偏執狂じみた、あるいはどこかずれた一人一人の登場人物は、みな、必死に何かを伝えようとします。それは私たちにとって、伝わらないのに必死にそれに取り組む彼らを見て、その滑稽さ、ベルクソンの『笑い』のような機械運動が生の現実を外れて、自動運動に入るとき、(その存在意義を見失うという意味で)我々は滑稽さをそこに感じるのだ、という、あれです。しかし、どくんごの一つ一つの場面は、滑稽さだけを湛えているのではありません。彼らが必死に伝えようとしている姿勢に私たちは心を打たれます。なぜなら、それはある特定のディスコミュニケーションを描いているのではなく、伝わらないけれども、懸命に伝えようとする、というその姿勢こそが、コミュニケーションの本質を体現しているからであるのだ、と思います。

私たち自身が親しい友人や家族、それどころか大志を共有できるような同志のような存在の友人と腹を割って会話をしているときにでもなお残る、互いに理解できない部分に対して、どうしても私たちは足を踏み入れることを恐れがちです。そこに踏み込んでしまえば、結局お互いにけんか別れするしかなくなるのではないか、けんか別れをしてまた新たな友人とここまでの関係が果たして持てるだろうか、という逡巡のもとに、結局私たちは本当に一番親しい友人の、しかし、ここから先は自分には理解できないという一線を超えて踏み込むことを諦めていることが多いのではないでしょうか。相手に対して、遠慮しては踏み込めないだけでなく、少なくとも自分にはそういった理解され得ない部分が存在するという事実をこちらから親しい相手に話すことすら、なかなかできていないのではないでしょうか。

もちろん、このおかげでうまく行っていることも山ほどあります。小異を捨てて、大同につくのは政治や社会活動の基本であるでしょうし、あまりにも異なる一人一人の違いに拘泥すれば、それこそセクト主義になってしまって、ごくわずかな差異を巡っての、絶え間ない相互攻撃しか生み出さないかもしれません。その意味で、我々は皆、異端としての心を持ちながらも、しかしそれをどこかカミングアウトできずに生きている、と言えるでしょう。セクト主義への恐怖故に、自らが独自の意見を持つことを恐れ、そしてそれを隠している。このような姿勢には相手の異端としての部分を理解できないという恐怖以上に、自分の異端としての部分を理解され得ないことへの恐怖が大きな原因となっているのだと思います。

もちろん、そのような動機に支配されない人々もいます。それは、「狂人」です。彼ら、彼女らは決して
相手におもねることなく、自分の言いたいことを言い続けているでしょう。もちろん、この「狂人」というのは
世間的に見て、ということであり、人々に理解しがたい(がしかし、優れている)内容を語る、という意味ではイエスやその他の思想家、革命家達も「狂人」であるといえるでしょう。

ここまでを踏まえて、どくんごの劇に戻りましょう。
どくんごの劇において、各場面での一人一人は、懸命に彼らの思いを伝えようとします。その懸命さ、その彼らの確信は、社会的コミュニケーションに慣れきった私たちにとって、その彼らのコミュニケーションの稚拙さ、現実からの乖離は笑いの対象でしかありません。「この社会の中でうまくやっている私たち」に比べて、何と愚かなもの達か!という優越感さえ感じさせてくれます。その意味ではまさに「道化」を演じているように最初は感じてしまいます。しかし、様々な場面で、様々な登場人物達が彼らの思いを必死に伝えようとしているのを見ているうちに、自分の中の「社会的コミュニケーション」が実はコミュニケーション本来のもつエネルギーを失っていることを徐々に思い知らされてくるのです。
聞いてもらえないなら、話さない。聞いてもらっても、わかってもらえないのなら、話したくはない。そのように、私たち一人一人が「自分語り」を諦めて、生きていることを振り返るきっかけを、彼ら一人一人が与えてくれます。このどくんごのテントに集まる我々は、「狂人」を見に来ているようで、実はどちらが狂人かがわからなくなります。自分を見失い、コミュニケーションを諦めている私たちは確かに「100点」「90点」とこの社会の中でされているものをとっているのかもしれないが、しかし、それは「30点」を全力でとっている彼らに、胸を張れるような振る舞いであるのか。そのような問いが、つきつけられます。

去年に見たときも感じましたが、そういう意味で、どくんごの劇への反応は見事にまっぷたつに別れると僕は思っています。それは100点や90点とされるものを踏まえていないことに不満を感じる人間と、それに固執していた自分を笑い飛ばせる人間と、にです。人類の歴史が様々な文化や制度を生み出し、それが長い年月の間に蓄積され、一つの見るべき形になったとはいえ、それは唯一の正解ではありません。どくんごの劇は、その意味が組み立てられていった結果として社会の中でがんじがらめになって生きる私たちを、その意味が成立する前の太古の原初へと立ち返らせてくれ、意味を初めから、考えていくことを促してくれます。自分の思いが恥ずかしいものであれ、理解されないものであれ、それを伝えようとしていいのだ、と強く励まされます。
その、人類社会が積み重ねてきては、自分の中に堆積してきた様々な偏見が引きはがされていくことを快感と感じずに苦痛と感じる人にとっては、つらいかもしれません。

聞いてもらえない、あるいは聞いてもらえても理解されないからしゃべらないのではなく、聞いてもらえなくても、あるいは相手がどんなに一生懸命聞いてくれてもなお理解されないという悲劇の中に我々が生きているとしても、それでもなお私達は自分の中の「異端」を話していかねばならない、という責任感をどこかに持ち続けているのではないでしょうか。それは、「自分が相手に理解される」という心地よい心理的報酬のため、という動機を諦めた後に、相手を愛する、ということにつながります。まるで、人類が自らの言葉を理解できずに自らを迫害する、とわかっていて、それでも話したイエスのように。そして、そのような迫害は、決して昔々の愚かな人類だけが犯してしまった過ちでは決してありません。現在もなお、同じように理解の範疇を超えているが故の迫害は続いていると言えるでしょう。

ここまで話を広げなくても、どくんごの劇は、様々なレベルで「伝わらないから、諦めてきた。」という私たちの悲しい諦めを揺り動かし、勇気を与えてくれます。それは、まるで、生まれたばかりの赤ん坊がまだ言葉を覚える前に、声を出したり、泣いたり、じたばたしたり、懸命に何かを伝えようとする、あの姿に似ているのだと思います。私たちは、言葉を覚え、うまく嘘までつけるようにもなりました。しかし、伝わるかどうかわからないとしても、伝えようとするあの赤子の一生懸命さを、それらの手管を覚えれば覚えるほどに、自分を傷つけない為にもたないようにしてきてしまったと言えるでしょう。彼ら彼女ら赤子が、伝えられるかどうかを少しも不安に思わず、伝えたいという思いだけから様々な働きかけをする、あの姿勢に、私たちは勇気づけられます。どくんごの劇は、意味と無意味の間を自在に飛び越えながら、自分の外の社会の不自由を内在化しては、伝わらない言葉はしゃべらないようにしよう、と悲しい決意をもつ私たちに、それが唯一の可能性ではないのだ、ということを優しく教えてくれるようです。

私たちは、こんなにまで社会の規範を内面化し、自分が言いたいことも言えないままにぐっと我慢しては物わかりの良い人として生きていかなくたってよいのではないか。相手を思いやることも愛だとしても、自分の中に確かに感じるこの感情、この思想、この衝動、その他諸々を表現しようとすることもまた、愛なのではないだろうか。

切り離された双子星の一つとして、外界から切り離されたこの地球という牢獄の中で、私たちは失ったものにしか
気づくことなく、鈍感ながらも生きている訳です。しかし、それでもなお、失ったものには気づくことができる。
それに気づきさえすれば、ほんの少し勇気を出して、伝わらないかもしれない言葉をぽつり、ぽつり、と話していくことができるかもしれません。

と、ここまで書き連ねてきても、うまく説明できている気がしません。まあ、でも、よいのです。
どくんごの劇を見て、誰でも何かを語りたくなる、ということ自体が、どくんごの皆さんがやっていることの
本当の凄さであるわけですから。今年も素晴らしい劇を、本当にありがとうございました。

(ようやく書き上げて初めて、来年のどくんごの旅がおやすみになるということを知り、ショックを受けていると共に「やはりそうか。」という気持ちがあります。本当に素晴らしいものは、どくんごに限らず、長く続けるのが本当に難しいものです。あのような厳しい旅を毎年続ける、ということのものすごさと共に、その困難さは外から想像できる以上のものであるのだと思います。再来年の旅を心から楽しみに待つとともに、その劇団の皆さんの凄まじい努力に恥ずかしくない何かをまた再来年持ち寄れるように、頑張りたいと思います。)

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『風立ちぬ』と『ドクトル・ジバゴ』

昨日のブログを書いた後、買っておいた『風立ちぬ』のDVDを見ましたが、去年映画館で見て以来一年ぶりに見たというのに相変わらずボロボロ泣いて、下の子にも「何でそんなに泣いてるの?」と聞かれる始末でした。しかし、(ボロボロ泣きながらも)二回目に見てようやく、「そうか!これはデイヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』と同じなんだな!」と気づき、その共通点をブログに書こうと思って、まてよ、その指摘を誰か先にしている人はいないかな、とちょっと検索してみたら…何と、ジョン・ラセターが先にしていました。。また、宮崎駿さん自身も作りながら、そう思っていたそうです。さすが、巨匠ジョン・ラセター!僕と同じ意見にたどり着いていたとは、なかなかやります(本当すみません)。

もちろん、『ドクトル・ジバゴ』のラストシーンのあのバラライカが、懸命に生きて懸命に人を愛して、それでも報われないジバゴの人生を、「それでも何かは残っていくのではないか」と感じさせる素晴らしい(がきわめて厳しい。あれを「希望」ととれるのは、自分の人生が何も残せないことを覚悟しながらも日々苦しみ戦っている人だけでしょう)ラストになっているのと比べると、『風立ちぬ』はファンタジーを活かしている分だけ、解釈の逃げ場のあるラストではあるのでしょうが、それでも素晴らしいことには変わりません。

ということで、『風立ちぬ』に感動した人は是非、『ドクトル・ジバゴ』も(長いですが)映画で見てみるとよいかと思います。

一人の人間の努力など、どんな天才であろうと、時代の荒波の前には無力でしかありません。それは、堀越二郎であろうと、ドクトル・ジバゴであろうと、あるいは凡百の我々にとってはなおさらそうであるのです。しかし、それでも、懸命に取り組んだ何かは、どのような形でかはわからないとしても、あるいはそもそもそれがその人によって残された何かだと、後の人々は知らないままであろうと、何かほんの少しは残るかも知れません。そのような、残酷にしか終わりえない自分の人生を、どこまで愛せるかが人としての価値を決めるのだと思っています。

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どくんごの感想追記:坂口安吾の『茶番に寄せて』と江頭2:50さんと道化の概念

ご無沙汰しております。塾はきわめて忙しいながらも、元気にやっております。

以前に劇団どくんごの公演を見た際に、どくんごの劇を拙い言葉でなんとか表現しようとしてみましたが、
坂口安吾の『茶番に寄せて』を読んでいる際に、これはどくんごの劇評としてぴったりなのではないか、と思うようなくだりを見つけたので、長くなりますが、ご紹介します。


(以下引用)
(前略)正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを否定し揶揄するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶のうちにそっくり昇天させようというのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了(しま)おうというわけである。
(中略)
だから道化は戦い敗れた合理精神が、完全に不合理を肯定したときである。即ち、合理精神の悪戦苦闘を経験したことのない超人と、合理精神の悪戦苦闘に疲れ乍らも決して休息を欲しない超人だけが、道化の笑いに鼻もひっかけずに済まされるのだ。道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない。そこまでは合理の国で悪銭苦闘していたのである。突然ほうりだしたのだ。むしゃくしゃして、原料のまま、不合理を突き出したのである。
(以下略、引用ここまで)


まさに劇団どくんごの劇はこのような舞台であるがゆえに、われわれが存在し、必死に努力する毎日の悲しみとおかしみ、そして喜びを表していたのだと思います。それとともに、ナンセンスがナンセンスとして意味を持つためには、そこまでの懸命な意味を追求する努力がなければならない、ということをここまで明確にテーマ化できている文章があろうとは。坂口安吾のこの『茶番に寄せて』は、小品ながらすばらしい文章です。Kindleでも無料で読めるので、ぜひ読んでみていただけると嬉しいです。

ちなみに、この文章を塾で説明するときには芸人の江頭2:50さんのことを例に出しながら、「江頭さんがみんなを笑わせようと必死に努力しても全く笑わせることができず、切羽詰まってタイツを脱ぐ。そのとき、戦い破れた合理精神が非合理を丸ごと受け入れて、道化となり、笑いが生まれるのだ!あれは最初からタイツを脱いでも全く面白くないし、中途半端な努力で笑わせようとしてから途中で脱いでもダメだ。誰よりも必死に笑わせようとして、でも笑わせられず、切羽詰まってタイツを脱ぐから、大きな笑いが生まれるのだ!」と話しました。だいぶうまく説明できたと思ったのですが、「タイツを脱ぐ」ところばかりが、印象に残ってしまって、よく理解してもらえなかったかもしれません。まったく、合理精神というものは、戦い破れてばかりのようです。まあ、めげずに少しでも正しい説明へと漸近していきたいと思います。


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劇団どくんご『君の名は』東京公演の感想

「意味は無意味、無意味は意味。無意味は無意味で、意味は意味。」

先日、吉祥寺の井の頭公園で劇団どくんごの東京公演を見てきました。どくんご自体はそれこそ5,6年前から存在を知っていて、是非見に行きたいと思い続けていたのですが、子供が小さいこと、夜に野外でやること、公演地も遠くが多いことでなかなか見に行けないことが続いていました。ということで、最近多忙にかまけてチェックを忘れていたのですが、ひょんなことから井の頭公園でやっていることを知り、慌ててチケットを取り、(受験生を除いて)卒塾生でも演劇に興味ありそうな子には連絡して伝えたり、などしてようやく見ることができました。(佐々木敦さんのツイートで有名になったのか、予約は一杯で、キャンセル待ちのお客さんも多かったようです。)

劇は、本当に素晴らしかったです。感動と「また何回も見たい!」との思いで、この1,2週間は大変でした。塾さえなければ、どくんごを追っかけて、何回でも見たいと思いました。それ以上に、彼らがこの30年間もこういう芝居をずっと、それこそ手弁当で続けてきたという事実に僕は打たれました。これほど高密度の、これほど熱量の高い劇を作り込み、しかもそれが商業ベースに乗らなければ乗らないで、自分たちでバイトをしてでも公演を続けてきた、という事実の重みに、ただただ頭が下がる思いです。

既存の道に可能性がないのなら、自分で作ればよい。という思いをここまで当たり前のこととして取り組み続け、かといってそのように歩む自分たちの取り組みに酔うことなく徹底的に「質」を高めていくというこの劇団どくんごの姿勢に本当に心を打たれました。こう言うと何か、まじめで難しいように聞こえてしまいますが、笑えて楽しい劇なのです。実際、僕の子供達もげらげら笑っていました。だけれども、そこにかける作り込みのすごさ、さらにはその作り込み自体が全く押しつけがましくなく、「気付かないなら気付かないでよい」というスタンスを徹底しているその自然さ、何もかもが尋常ではない努力を感じさせられます。そして、同じような道を歩み続けようと思っている(演劇を、ということではありません。大多数の人々に理解されにくいとしても、大切なことは譲れないという仕事を、です)僕自身にとって、非常に励まされると共に、まだまだ自分の取り組みの中で独りよがりな部分、理解されない道で努力しているから、という理由で自分の努力を甘く評価しがちなその甘さに対しても深く反省させられました。自分の人生に苦闘し、頑張っている人には必見の劇だと思います(今度は名古屋公演、その後はだんだん西へと移動していくようです詳しくは、こちらから)。

と、ここで終えると自分が傷つかないで済むわけですが、「見たら感動して人にお薦めできるけど、どう良いかを人に説明するのがきわめて難しい」どくんごの劇の内容についても僕なりの解釈を書きたいと思います。もちろん、一度しか見てないので全てを汲み尽くせるわけは当然ないですし、「どくんごがこの時代に存在すること自体がそもそも意義があるのだ。」という外山恒一さんの解釈ももちろんきわめて正しいわけですが、かと言って内容について誰もがしゃべらなくなってしまうのは僕はやはりよくないと思うので、拙いながらも「どくんご試論」を書きたいと思います。

どくんごで見た劇を頭の中で反芻しているときに僕が強く思い出したのは、やはりシェークスピアの『マクベス』の魔女の台詞「Fair is foul, and foul is fair …」のくだりでした(この話はこのブログでも何回かしてますよね。ワンパターンですみません)。この言葉が我々を既成概念に縛られている日常から我々を自由にし、価値の転倒を引き起こす(そしてそれは、逆説的だがしかしきわめて正しい事実を表している)役割を担っているのだとしたら、一般の不条理劇というのは、「意味は無意味、無意味は意味」という姿勢で観客の価値観の動揺を引き起こし、そこによって日常の常識に凝り固まった偏見を疑わせる、ということを目的にしたものであると思います。
即ち、それは「メッセージ」というもの自体が本来持つ暴力性を暴くことに焦点を合わせたものではないでしょうか。
 
 しかし、どくんごの劇はそこで終わらない。様々なナンセンス、ひどく凝り固まっているがゆえに真剣に取り組んでいることが現実とずれ、そこにおかしみと悲しみとを体現する(この辺りはベルグソンの『笑い』にまさに通じるところです。あるいは江頭2:50さんの芸風とも。真剣だからこそ、そして、それが現実とずれているからこそ、そこに悲哀とユーモアが立ち上る。)人々の場面を描きながらも、観客は、やがて気付かされていきます。「あれ?これは、私たちなのではないか?」と。

先の言葉とつなげれば、「意味は無意味、無意味は意味。」だけでなく、その後に「無意味は無意味、意味は意味。」とつながっているのが、どくんごの劇だと思います。そこには「意味は無意味、無意味は意味。」とメッセージの暴力性を破壊した後に、(そのことから普通陥りがちな)「一切は無意味だ」と決めつけるニヒリズムを超えて、しかし、「無意味は無意味であり、意味は意味である。少なくとも私たちはその両者を選んで良いのだ」という自由を見せてくれます。

「自由」という言葉を使いました。しかし、これは恐ろしいものです。硬直的な「意味は意味、無意味は無意味」という大多数の思考停止と判断放棄も、それは自分で解釈する余地を残してしまえば、責任を取らねばならないという「自由」を恐れるがあまりの硬直化でしょう。あるいは、「無意味は意味、意味は無意味」というナンセンス礼賛、あるいはそこから生じるニヒリズムもまた同じものです。「メッセージの暴力性、定義され終えた意味の暴力性を批判していさえすれば自由だ」という発想自体は、それがどのようにその暴力性に虐げられてきたが故の態度であれ、やはり別の硬直化を招いていると言えるでしょう。

どくんごの劇はそのどちらも、超えていきます。無意味に思えることにこだわる劇中人物に、親しみといとおしみを感じさせ、意味があると思われる台詞と動きの横に、無意味な機械的運動をとりまぜ、我々が無意味と感じるものを頭では排除しながらもいかに、意味以外の部分で判断し、生きているかを感じさせます。それと共に、我々が意味と考えているものがいかに無意味なものに我々自身が貼り付けたレッテルでしかないこともまた、感じさせます。その上で、最後の場面では狂人の戯言としか思えていなかったものにも、深い意味を見出すことができることを、突きつけて行きます。そこで、私たちは気付かされるわけです。ある時代の常識は、別の時代の非常識であり、地球の常識は宇宙の非常識であるかも知れず、我々が定型的に判断しているその全てが実は、正しいもの、意味があるものにはなりえないのだということを。そして、何が正しいのか、何が意味があるのかなどは、誰にも分からないのだということを。別の時代、別の星からみればきわめて無意味な、滑稽なことに懸命に生きる我らは、劇中のどこかずれたことに懸命にこだわる彼らと同じであるのかも知れないということを。

しかし、どくんごの劇はただその批評性の根源的鋭さにとどまるのではありません。私たち自身の、そのような絶対的に立脚する基盤のない、標(しるべ)なき人生を歩まねばならない運命への共感に満ちています。押しつけるのでもなく、諭すのでもなく、攻撃するのでもなく、必死に生きる全ての者に寄り添った上で、彼らの劇はこう問いかけるかのようです。

「意味は無意味、無意味は意味。かといって無意味は無意味だし、意味は意味。さて、あなたはどれを選ぶ?」

もちろん、それはどの選択肢かが正解であるというわけでは、全くありません。正解など、誰にも分かるわけがありません。ただ、「それを自分で選ぼうよ。たった一度しかない君の人生なのだから、誰かのせいにしている暇はないよ。」ということです。「君の夢は、君しか見れない。」「僕の夢は、僕しか見れない。」という最後の場面での繰り返しは、私たちが確かな外部(神や国家、思想、科学その他何でもです)に依拠することは永遠に出来ないのだという絶望と、しかしそれは何よりも大きな希望でもある、ということの現れであるように思いました。自分のことを根源的には誰にも理解してもらえるはずがない、という社会的な絶望は、しかし、敗北と失敗にまみれるこの人類の歴史の中に、それでも自分が人生を懸けて取り組むべきテーマはある、少なくとも我々一人一人が違う夢を見て生きている以上は、という希望の裏返しであるのだと思います。

まあ、これもまた、僕の勝手な解釈であり、僕の「夢」であるのでしょう。「僕の夢は、僕にしか見えない。」正邪や正誤を判断する前に、まずはその夢の意味を一人一人が考え抜くことが大切だと思います。

ゲーデルの「不完全性定理」もまた、同時代の数学者を何人も自殺においやったとはいえ、それは絶望ではなく、希望であるのです。無矛盾性をを公理系の内部からは示すことができないからこそ、希望があるわけです。ここまでの数学全体も、あるいは人間の科学や思想の全体もまた、人類が見てきた一つの夢かもしれない。だからこそ、そこに価値を置くかどうかは、どこまでいっても一人一人の人間の判断が必要になる、という意味でそれは希望であるのです。

劇団どくんごの劇は、是非お薦めです。こんな小難しいことを言わないでも、誰でも見た後に、見る前よりも、自由になれることは確かです。もちろん、その新たに生じた「自由」を、見た人がうれしがるか、嫌がるかは人によって分かれるでしょうが。

来年、また東京公演があれば、是非見に行きたいと思います。

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『風立ちぬ』を見ての感想

みんなが書きたいトピックについて語るというのは、どのような発言をしようとも注目され、そしてそもそも注目されることだけで一定のメリットを得られるわけで、僕はそのようなことにかまけてはいられないと普段は思っています。

しかし、ジブリの新作『風立ちぬ』については、僕が見たジブリ作品の中では一番素晴らしかったので、是非それについては書きたいなあ、と思いつつ、他の人の書いたので共感できるものがあったら紹介するぐらいかなあ、と思ってチェックすること、はや1ヶ月強、全くそれが見つからずに時間を空費し、「もう自分で書いた方が早いかな。」と思っていたのですが、とうとう見つけました。ということでご紹介したいです。このブログの記事です。

ここに書かれていることに関しては、全く同感です。しかし、このブログでは「ほら、やっぱりクリエーターの上から目線なんだよ。」という批判に対しては答えられていません(もちろん、この筆者の方は、それでよいと考えているでしょう。それは一つの肯定しうる立場です)。

しかし、僕はこの映画に関して、クリエーター/クリエーターでない人という差別や、前者の特権的意識が
見えるというよりはむしろ、人類全体の残酷だがいとおしい運命を描こうとしたように思っています。知性をもって生まれ、本能のままには生きられないが故に、かえって様々な迷いを持ち、よかれと思って必死にやったことの結果、もっとひどい結果を引き起こしては絶望する、というこの悲しみ。「男性/女性」や「クリエーター/クリエーターでない人」という対立を超えて、僕はこの映画の主人公の抱える悲しみに、人類全体が本来的に抱える悲しみを感じました。

私たちは、どんなに真剣に悩み苦しみ、考え抜いたとしても最善の行動を選ぶことが出来ない。それは昆虫のように種の存続のために個体が機能するようにプログラムされているのであれば、ある意味で幸せであるのです。なぜなら、考えることなく最善の行動をとれるからです。そのような生き物には選択も自由意志もない、という意味では人間には耐え難いように思えるかも知れませんが、しかし、そうなればそうなったで暴力も大惨事も起きなくなるわけです(というより、種の存続のために行われるあらゆる暴力を「暴力」として認識しうる主体がいなくなる、ということになります。これはSF小説でも伊藤計画(本来は旧字体です)さんの『ハーモニー』などはそのような着想ですよね)。

このこと自体はそれこそ、聖書の「エデンの園」から禁断の知恵の実を食べて追放された人間、というたとえ話からこのかた、人間を悩ませ続けた問題です。知性や意志などというものが中途半端に存在することで、確かに人間は一つの種としてはあり得ないほどの様々な成功を収めてきました。もちろん、それがもたらす人間の解決能力を超えた大きな問題にも次々と直面せざるを得ないのが人間の歴史であり、生物種というものの中に「人種」、さらにはより人工的な「国家」というものを発明することで大きな問題を引き起こしたのもまた人間の歴史です。それらは全て、中途半端な知性や意志が、その中途半端な意志が拠り所を必要とするために、その拠り所として機能する新たなしくみを知性によって作り出していく、という欺瞞の歴史であるわけです。果たして、知性や意志を持ったが故に、人間は幸せになれたのか、それとも不幸せになったのか、と暗澹たる気分で考えなければならないのは、ルソーの『学問芸術論』を引くまでもなく、誰でも(特に福島の原子力発電所の事故以降は)思い当たる経験ではないでしょうか。

人間は愚かだ。人間は大切なものと、大切ではないものを簡単に見誤る。そして、人類に善かれと思って、懸命に人生をかけた取り組みが、結局人類に善かったのか悪かったのかわからないままに死んでいく。善いものを志し、探し、そしてそれに何もかも、本当に愛する人の幸せすら、うち捨てて取り組み続けたとしても、結果としてそれが本当に善いものを生み出したのか、それとも悪いものを生み出したのか、よくわからないが、

「それだからこそ、人間はいとおしい。様々な間違いは起きざるを得ないとしても、それでも僕は人間を愛そう!」というメッセージを僕はあの映画を見て感じました。

それは、その愚かしい迷走も、迷走から始まる努力も、全ては無駄であり、逆に悪いものを生み出すだけであるのだとしても、それが人間であるのだ、という覚悟です。もちろん、それは、間違いを正さなくてよい、ということでは毛頭ありません。しかし、我々が人間である以上、正しいものをめざそうと、常に誤りばかりであることは
避けられない。そして、私たちに課せられたその宿命を、少なくとも私はもう呪ったりはしない。自らが誤り続けることに耐えかねる自分の心の弱さから、絶対的な正しさを求めては、神や国家にすがったりもしない、という姿勢を感じました。

「私たちは、正しいものを求めては、誤り続ける。しかし、それがいくら辛いからといって、決して呪ったり、あるいはたやすく「正しさ」を与えてくれるものにすがりはしない。かといって、正しいものを求めることを諦めもしない。」という、姿勢が一貫して主人公に対してあったのがあの映画だと思います。もちろん、あの映画を見て癒されるクリエーターや企業戦士も、それに対して「結局男はあの主人公のように都合よく女を使い捨てる。」という見方も、まあ合っています。しかし、僕はあの映画の主人公のような人生とは、つまり人類そのものの成功と過ちを必ず伴う歩みを表しているように感じました。

もちろん、映画などは話の種です。僕はあの映画にそのような意図が込められていなくても、善いものを求めては、過ちを繰り返す(もちろん僕を含めた)この愚かな人類が少しでもマシになるように、全力を尽くし続けていきたいと思います。森有正がリルケの末期の言葉を引いて書いていたことがありました。リルケの「絶望して死ねる。これほど幸せなことはない。」という言葉は人類の未来に希望を懸け、そのために死ぬ最後の瞬間まで尽力していたからこそ、出てくる言葉だ、というやつです。「失敗」がチャレンジし続けなければできないのと同じように、「絶望」は希望を持ち続けなければ、やがてできなくなります。

私たちの思考など、生物的本能の単なるvariationでしかないと強調してみても、思考は私たちに罪の概念を与えたことは事実だと思います。その「罪」の概念は、私たちを時に深く反省させ、時に私たちをしばりつけるあまりに暴虐な行動へと駆り立てるという意味で、少なくともその恩恵以上には害悪の源となってきたことは確かでしょう(パレスチナ、エジプト、シリア)。しかし、僕は少なくとも人間が自らの罪を感じるということには可能性があると思っています。たとえ、それが新たな暴虐の種となろうとも。ドストエフスキーの描いたように、「罪」の自覚がChristianityのもっとも深い部分だ、ということに僕も深く同意しますが、「罪」はChristianityなど軽々と超えて、より人間性の根幹を規定するものであると僕は思っています。

そして、その「罪」の概念を決して外側から他人が伝えることなど出来ないのだ、ということもまた伝えたいことです。「罪」という言葉が仰々しければ、「責任」でもよいです。「責任」という概念を他の人が外からいくらなじろうと、説き聞かせようと、それを誰かに伝えることはできません。それは、人間に本来的に内在するものであるにもかかわらず、決して外からは育てることの出来ないものです。まあ、しかし、そこを何とか悪戦苦闘はし続けていこうと思っています。そのためにはドストエフスキーの『悪霊』で、スタヴローギンが陵辱する相手である「少女」に僕はならねばならないわけです。今日も、塾生に対して、徹底的な善意と思いやりを、踏みにじられ続けては、頑張っていきたいと思います(と書きましたが、『悪霊』とか今の子は読まないですよね。。僕はドストエフスキーの小説の中では一番好きで、お薦めです(注))。彼ら、彼女らがさまざまな人の善意を、自分の弱さ故に踏みにじっていることに自分で気がつく、その日まで。

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文学の残酷性について3

前回、文学のもう一つの残酷性、「わかりたくないことをわからざるをえない」ということについて触れ、具体例を交えて書くとお伝えしました。それを書こうと思います。まずは新聞記事の中の事件を紹介したいと思います。

たとえば、2010年の1月、東京都の江戸川区で7歳の少年、岡本海渡君が両親(継父と実母)から暴行を受けた末に亡くなりました。手元の新聞記事によると(朝日新聞東京版2010年12月22日第27面)、日常的にしつけのために暴行が繰り返された末の事件であったこと、さらには継父がこの海渡君を実母と知り合ったときから本当にかわいがり、「自分の子の方が海渡君よりかわいくなったら嫌だから(もう)子どもは作らない。」とまで話していたそうです。それが事件の半年前くらいから、海渡君が継父に対して返事をしないことや謝らないことに両親が悩み、しつけのために暴力が始まったそうです。そのような海渡君の反抗の理由を曾祖母が本人に聞くと、「パパは本当のパパじゃないから。学校で先生に言われた。本当のパパなのに…」という答えだったそうで、実母は学校にも苦情を言ったものの、学校は「そのようなことは言っていないと理解している」と見解を示していて、継父は「海渡が謝らないのは、自分が本当の父親じゃないからではないか」という思いから暴力を押さえられなくなっていったと説明しているそうです。

この事件は一体誰のせいであるのでしょうか。
 短絡的には実母と継父のせいであると言えるでしょう。同じように複雑な関係性であって、やはりその関係性の不確かさに対して悩みがあったとしても暴力に行き着かないで解決ができる家庭はたくさんあるのだとは思います。しかし、この記事から分かる範囲では、継父も実母も懸命な努力をしていたと言えるのではないでしょうか。少なくとも二児の父親として、僕にはこの父親を責めることはできません。僕以上に家庭を維持するために、息子を大切にするために、必死に努力をしていたと言えると思います。
 それでは近所に住む曾祖母など周りの人々が相談に乗ってやればよかったのでしょうか。しかし、他の近所の人はともかく、この曾祖母は記事からもわかるように、間に入っては、事情を聞き解決をしようと試みています。それ以上のことをしろというのは酷でしょう。
 では学校のせいであるのか。確かに学校が不用意に海渡君に血縁関係について教えてしまったことは悔やんでも悔やみ切れないことでしょう(もちろん、これについて学校側は否定しています)。ただ、その伝えてしまったことも、たとえ不用意であったとはしても、海渡君を心配しての言葉だったのかもしれません。また、暴行が始まってから虐待を歯科医が疑い、通報を受けて学校の校長が何度も家庭訪問をした、とも記事にはありますので、それもこのような事件を未然に防ごうという努力だったと言えます。(それが歯止めをかけられなかったのは、やはりこの両親が学校に対して先に(学校で先生に「本当のパパじゃないって言われた」ことによる)不信感を抱いていたせいで、「あんたたちのせいで海渡がこうなったんじゃないか。それを私たちは必死にしつけようとしてるんだ。」と意固地になってしまったのかもしれません。)

 様々な過失はあったにせよ、誰が悪いというのではなく、しかし悲惨な事件はこのようにして起こってしまいました。現実は、このように本当に残酷なものであるわけです。ちょっとした気持ちのすれ違いが、心からの愛を、心からの憎しみへと変えていく。私たち、無知蒙昧な人間はこのような悲劇をほんの少しの幸運で逃れているだけなのかもしれません。それは同時に、一歩間違えればなすすべなく、この負の連鎖へととりこまれていく、ということです。それほどに現実に生きるのは、残酷なくらいに難しい。ただそれを感じると誰も生きることに足がすくんでしまうので、見ないようにしているというのがほとんどの人の生き方なのでしょう。

僕にとって、文学とは、どこまでもこのような現実の残酷さをつきつけてくれるものであってほしいと思っています。「わかりたくないことをわからざるをえない」ことが続けば続くほどに、どのように人と接したらいいのか、どのように親や子と接したらいいのか、どのように先生とあるいは生徒と接したらいいのかが複雑すぎて訳が分からなくなります。また、自分の何気ない言葉や振る舞いの責任の重さ、それがたとえば海渡君のような悲劇を引き起こすかもしれないという責任の重さに押しつぶされそうになります。しかしそれでも、いや、それだからこそ、私たちはこの世界に起こる悲劇の原因の一端が、少なくとも自分の無知蒙昧にあることを自覚できるのではないでしょうか。

優れた文学作品は、残酷であるが故に、この世界の現実の残酷さを予言者のように、私たちにつきつけてくれるわけです(ドストエフスキーの『悪霊』のように。あるいはそれより理解しやすいものとしては、ゾラの『居酒屋』のように。)。それ以外に、架空の物語を読む意味を、僕はあまり感じません。どのような技巧もその一点を欠けば、しょせんはひまつぶしのためでしかありません。

その上で、僕は小説を書かずに、塾をやっています。それは、この現実に苦しむ一人一人に、よりよい提案をしたいからです。海渡君の両親のように悩んでいる人がいるのなら、その相談に乗っていかねばなりません。暴行をしている側を責めることは簡単ですが、それは何の解決にもならないと思います。懸命に生きて、必死にやってもどうにもならないことに直面して初めて、そのような暴力は誘発されるからです。彼らが懸命に頑張っていることをしっかりと認めた上で、すぐには解決出来ないで待たねばならない問題があることを理解してもらい、そのための距離を確保していかねばならないと思います。

 と、偉そうに書きながらも、現実の多様さと複雑さに翻弄される人間として、わずかばかりの知性ではどうにもならない現実に打ちのめされては、自分の愚かさを痛感する毎日です。しかし、自分が愚かでなくなっていくことは、少なくともこの世界に絶えず起こり続けている悲劇を未然に防ぐことに、少しでもつながるのではないか、ということは最期の瞬間まで信じて、やっていきたいと思っています。

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