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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

今秋の東京公演に向けて劇団マタヒバチ紹介!!

去年、今年とどくんごツアーはないわけですが、しかし、このコロナ禍であっても各地で公演をしているテント芝居は多いのです。その中でも京都に本拠地を置く劇団マタヒバチを今年の秋に東京に呼べることに決まりました!!

10月9日(土)、10日(日)、11日(月)19時開演(開場は30分前)です。

場所はJR中央線東小金井駅徒歩2分コミュニティステーション東小金井という線路高架下のイベントスペースに特設テント劇場が立ちます!アクセスが抜群に良いので、ぜひぜひお越しください!!!

さて、そこで、マタヒバチって何?となりがちな東京の皆さんに雑駁ながらご紹介をできれば、と思います。
もちろん芝居なんて見るに限るわけで、言葉で紹介するなんてのがもう野暮でしかありません。ただ一方で、僕自身去年はマタヒバチの芝居を複数回観ているのにもかかわらず、このブログで紹介したのはこの記事ぐらいなので、僕自身のまとめとしても、ですね。是非お付き合いいただけたら。

①とにかくしゃべくる!!そしてめちゃくちゃ緻密なアホらしさ!!
めちゃくちゃ喋ります。っていうと、小難しく聞こえてしまうかもしれませんが、基本ひたすらアホらしいです。
しかし、この「ひたすらアホらしい」セリフの応酬を、どんだけ練り込んでるんだ!!!と思うくらいに緻密に構成しては徹底的に演じる、というこの姿勢。このアホらしさへの常軌を逸したこだわり、作り込みがなんというか、素晴らしいのです!!

これはどくんごの劇評とかでも書いたと思うのですが(これです)、坂口安吾の『茶番に寄せて』で描かれるような「茶番をどこまでも徹底的に真剣に演じようというその合理精神の凄み」というものをマタヒバチのこのしゃべくりからは感じます。もちろんこんな時代に舞台、ましてやテント芝居するなんて、メタ構造で見たってそういった「茶番をどこまでも徹底的に、という合理精神」であるわけですが、それが芝居の作りにおいても「アホやるぞ!!」というその徹底度合いがかなり肚が据わっています。そのような追求の仕方があるからこそ、それが「破れるとき」に大きなドラマが生まれるわけです。その道化を徹底するという覚悟をマタヒバチの芝居からは強く感じます。

②筋があるのに筋から離れる。だがしかし、それがいい。
筋があるのに筋から離れてよくわからないところがクローズアップされ、異常に盛り上がっていきます。しかし、それがとても良いのです。筋があって結びに向かっていくということは、個々のシーンがそれ自体独立した意味よりも結びのためのパーツや伏線としての役割をもたねばならなくなります。もちろんその構築や伏線の巧みさに唸らされる、というのも芝居の醍醐味であるのかもしれませんが、一方でそれは「リアルタイムで目の前で演じられる」という情報量過多の中では、「それやったらこういう芝居やるとオモロイから筋とか関係なくもっとゴリゴリやったらええんちゃう?(エセ関西弁ですが。。)」と言わんばかりに入って来る「やりたいシーン」がとても素晴らしいです!!

結局こうしたシーンが芝居全体の中でどのような位置づけであるのか、ということもまた深く考えさせられます。もちろん
ここに深い意図があるのかないのか、というのはどちらでもよいことです。「作り手としてはその一見逸脱したシーンが全体のテーマに接続する深い意図がなければならない!」というのは作り手としての倫理観としてはとてもよくわかる話ではあるのですが、一方でその意図を設定することはどうしても「説教臭く」なりがちです。マタヒバチは(あくまで僕の観た感想ですが)芝居を作っていく中で、「こっちの方がオモロイ!」という直観に対しての根本的な信頼感があるように思っています。むしろその直観を何とか筋と接続するようにもっと修正しなくてもいいんじゃない、とまで僕は思います。(まあ、このあたりは個人の好みもあるでしょうが。)

③そして「オモロイ!」だけではない!
「なるほど。オモロイのね。」というところで油断してはいけません。マタヒバチの芝居はそれだけしゃべくりながら、時に幻想的であり、ときに風刺的であり、ときに詩的であり、と現実との境目をいったりきたりします。何かの既存の大きな物語にイメージを借りることなく、物語を語ろうとするその姿勢は、真正面から「物語」とぶつかり合おう、という心意気を感じます。時を超えた古典にすべてが語られ尽くしている中で人はそもそも新しい物語を紡ぐことができるのか、という難問に対して向き合い、本歌取りやモチーフを作ることなく、新たな物語を語ろうという覚悟と決意に満ち満ちています(これは野らぼう、ベビー・ピーといった劇団もすべてそうです。本当に素晴らしい覚悟で物語を紡ぐことに取り組んでいる、と思っています)。そのような困難に取り組むということは、もちろんうまくいくときもあれば、大きく失敗する、というときもあるでしょう。しかし、「このハイパーリンクでこういった有名作品のコンテクストを追っておいてくれると、ほら、うちの芝居もわかってくるでしょ?」という('Augmented Reality 'ならぬ'Augmented Play'のようには)言い訳を一切許さないその姿勢は、あらゆるものが語り尽くされてしまったかのような現代においてなお、どう創作に関わるか、という難問に対する一つの確固たる態度であり、またそれが成功する瞬間も確かに立ち上がっている気もします。

自分たちが「オモロイ!」と思ったことへの直観を信じて作り込みながら、しかし、物語を紡ごうとすることもまた諦めない、というこのマタヒバチの芝居を、是非多くの方に観ていただきたい!そのように思います。

ご予約はこちらのマタヒバチ予約フォームまたは嚮心塾までご連絡ください。ご予約お待ちしております!!

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4月21日、嚮心塾で前田斜めさんの流し芝居が観られます!

ヤバイ!春休みめっちゃ忙しいです!

塾でも新しい子が多く、勉強が軌道に乗るまで忙しいのですが、それに加えて間近に迫った引越の手続きの諸々、さらにはその他の仕事(どくんごの場所取り交渉、その他生徒以外の相談ごと)が多く、気がついたらもう4月5日。「みんなの『どうせ毎日書くとかいってすぐに飽きるだろ。』という期待を裏切って4月も毎日ブログ書くぞー!」とひそかに決意してたのに、あっという間に時間が経ってしまいました。。

ということで慌てて告知なのですが、来る4月21日17時〜嚮心塾で、前田斜めさん(2013,14,,16の元どくんごメンバー「ちゃあくん」)の流し芝居が観られます!10分間の短いお芝居で、塾生以外は投げ銭制ですが、もし興味のある方は是非!

塾生を連れてどくんごを観に行っているときに、塾生の一番人気はこの前田斜めさんでした。
本当に素晴らしい役者さんであり、今も様々な実験的な芝居を普段は松本市でされていて、東京に住む方はなかなか観に行けないと思うのでこのチャンスを是非お見逃しなく!

毎年塾で観に行っている劇団どくんごはもちろんとして、マタヒバチ、ベビー・ピー、そしてこの前田斜めさんと、とてつもないセンスと知性のある方たちが、とてつもない努力を積み重ねに積み重ねて、そして自前の舞台や芝居をやっている、というこの事実の重みというのを、知れば知るほどに感じるようになります。この社会には様々な「仕事」があって、それらの仕事は「世の中に必要とされているからお金が入る。」という建前にはなっているのですが、中には「世の中にさして必要でなくてもお金が入りやすい」仕事もあれば、「世の中にめちゃくちゃ必要だけれどもお金はあまり入らない」仕事もあるわけです。

「市場が完璧に機能して、社会にとって必要なものにはしっかりと利益が配分されるような世の中である」とナイーブに考えるのはあまりにも愚かしいと僕は思っています。それなのに「儲かっているということはこの仕事は社会にとって必要なことだ!」という類推を強制されるのは、本当に心外なところです(もちろん儲かる、ということは社会的に意義を見出しにくい仕事が多いからこそ、「自分の仕事は儲かってるから社会的意義があるのが伺えるでしょ?」という自信のない態度になりがちな人が多いのだとは思いますが)。

その中で、このように芝居に人生を懸けている方たちは、世の中にとって本当に必要な(とてつもなく必要で、この10分の芝居、あるいは2時間弱の芝居一つで人生への捉え方が変わるようなとてつもない)仕事をしながらも、それが社会からはなかなか金銭的に評価されにくい、ということになってしまっていると思います。これは端的に私達の社会のもつ大きな欠点であると僕は思っています。だからこそ、この素晴らしいものに人生を懸けて必死にやっている役者さんたちを応援したいし、それはまた彼らのためだけではなく、私達自身のため、この社会全体をよりよくするためでもあると思っています。

これはまた、僕自身のしている学習塾という仕事についても言えることで、「儲かっているから存在意義がある」わけでもないし、「儲かっていないから存在意義がない」わけでも全くありません。「儲かることよりも社会に意義のある仕事を。」というコンセプトで嚮心塾を作り、運営してきているわけですが、そうは言ったって「学習塾」という業種は、芝居をやるよりはまあ生活ができてしまいます。その点で、本当に素晴らしい芝居を人生を懸けて追求している方たちには、この社会に必ず必要ではあるけれどもしんどいことをして頂いていることに感謝以上に負い目を感じざるをえませんし、だからこそ何とか応援したいと思っています。

まあ、ごたくは良いのです!ともあれ、是非お近くの方は観に来て頂けたら!

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『ラ・ラ・ランド』のラストについて。

毎朝娘の高校受験の付き添いで朝早く出るので、さすがに毎日朝8時前から夜9時半まで塾で教えていると疲れ果てます。
しかし、受験生も残り僅かな日々の中で、また不安な気持ちを乗り越えて必死に受かろうと努力しているので、それを見るとこちらも必死にやらねば、と奮い立たされる毎日です。

教育の効果というものは目に見えないものです。だからこそ、何かしらの形にならないと不安であり、そこでどうしても形に現れてほしい!という思いが強くなるあまり、「形に現れていない教育の効果など全て無駄だ!」という極端な態度が生まれてしまうようにも思います。「合格」という形で現れる前でも、「成績」という形で現れなければ、どのような努力もまたそこでついた力もなかったかのように思えてしまいます。しかし、まずいのはそのように「形」だけを求める態度は子どもたちの学習意欲を削いでしまうケースがほとんどであるという事実です。

もちろん、これには形にはなかなか現れにくいことをいいことに「今鋭意鍛えております!」といい顔だけをしながらも、全く預かっている生徒を鍛えるつもりのないような悪徳塾が多いからこそ、それに対して警戒しなければ!という姿勢をとられる親御さんが多いのでしょう。しかし、一方でまだ形にはなっていないものの、勉強への取り組み方や認識の仕方が変わりつつあり、「これからどんどん良くなる!」というところで結果が伴わないが故に塾を変えられる、ということは多々あります。こちらとしては悔しい限りですが、しかしそれもまた大したことではありません。彼ら彼女らが他の塾に行った後にその可能性を芽吹かせていけるのであれば、この社会全体には貢献できていることになります。

多くの人にとって「見えない」ものを見ようとすることはときに現実逃避になることもあるのでしょうが、現実を正しく理解し、対処していくためには必ず必要となる姿勢であると思います。そして、自分に他の人には見えていない何かが見えている、ということは、自分もまた他の人には見えているものが見えていないかもしれない、というところまでくれば、それはまた現実の多様性の前に頭を垂れることへの入り口であるとも言えるでしょう。

僕はまた、生徒たちにとって現実の多様性を認識させる契機となりうるような他者になることができているのでしょうか。
「もうこれ以上はいいから!もうちょっと普通でいて!」という出会い方をする生徒もいれば、「全然普通ですよ。」という出会い方をする生徒もいます。自身が教育に可能性を感じてきたのは前者のような出会い方が教育の場では起こりうる、という確信があったからなわけですが、どのような「見えない」ものも、見えるようにすることはできるわけで、そして、見えるようにできた後にはそこには大したものは残っていません。それが「見えない」ときに感じていた無限の可能性は、一つの不可能性へと分化するわけです。それは死骸、という言葉が言い過ぎであれば分化した後の体細胞、あるいはベルクソン風に辛辣に言えば「痕跡」であるのでしょう。

そしてだからこそ、見えるようにしていかねばならないのだと思っています。誰かに痕跡を残すために私たちは死ぬまで生きるわけではないにせよ、私達が最期の瞬間まで生きるのは他の誰かにとってではなくても、少なくとも自分自身にとってはそれが何らかの痕跡にはなりうる、と信じてであるからです。

まあ何が言いたいかというと、この前テレビでデミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』がやってて最後の方だけ見たわけですが、やっぱり最後のあのファンタジーシーンははいらないなあと、ついつい思ってしまいました、ということでした。あれさえなければ、二人が愛し合い、互いのお陰で生きることができ、そしてすれ違って生きていく、でもう本当に素晴らしい映画になったと僕は思います。なぜならそれこそが人生の正確な描写であると思うからです。まるで『ドクトル・ジバゴ』のように(まあ、『ラ・ラ・ランド』はそのすれ違った後の死まで描かないので、(ファンタジーシーンが無くても)さらに描写としては『ドクトル・ジバゴ』よりは甘いのですが。)。人と人との間の全てのドラマも関係性も、決して永遠のものではなく、どのように深く魂と魂が触れ合う瞬間があってもなお、それは関係性が永遠に続くことなど決して担保しません。しかし、それは心から愛さない理由にはならない。

そのことが人間の持つ最も尊い可能性の一つなのではないか、と思っています。だからこそ、『ラ・ラ・ランド』の終わり方がもう少しスッとすれ違った人生がもう二度と交わり得ないことをも二人ともに噛み締められることを(二人の脳内を描かずに)表情だけで映画で描いてくれたらなあ、と思いました。もちろん、これは僕の好みなので、恐らくそうしてしまうとあれほどの大ヒットにはならなかった気もします。

言ってみれば、『ラ・ラ・ランド』のラストが二人の脳内を描かないでも大ヒットできるような世の中に近づけられるように、見えないものを見る力を僕は一人一人の生徒たちに鍛えていってあげたいし、自分ももっと鍛えねばならないと思っています。

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詩とは何か。現実とは何か。

中学受験が一段落し、次は高校受験です。そうこうしているうちに私立医大受験が佳境を迎えつつあり、また私大受験がいよいよ忙しくなってきました。そんな中、今日は唐突ですが詩について書こうと思います。

言葉というものはどうしても不完全で片手落ちになるので、それが表現したいものを表せていないイライラを内包するものです。一方で言葉によって事実を摘示するという機能だけではなく、言葉によって事実が作られていく、という唯名論的な作用も言葉にはあるわけです。詩はこの言葉のもつ2つの特徴をフルに使っているものではないか、と考えています。

つまり、言葉の「どんなに正確に言い表そうとしても正確には言い表せやしない」という性質を逆手にとり、「では(事実の摘示としては)全く的はずれなものにその言葉を向けたとき、果たしてそれは何者をも表していないか。」とチャレンジする試みが詩であると思います。そんなふうにチャレンジしてみると、全く的はずれなものに向けたはずの言葉が何らかの現実を描いていたりするものです。そのように全く的はずれなものに向けられたはずの言葉に隠れていた「現実」を私達が見出すとき、詩は生まれ、私達の胸に迫ります。

これはもちろん、的外れでありさえすればよい、ということではありません。言葉を事実の摘示から外そうとすることで、(ベルクソンが『笑い』で書いたような)機械的なものから剥がれ落ちる瞬間を捉えた笑い、というものを引き起こすこともあります。事実の摘示から言葉が離れるとき、それは「現実」とずれているがゆえに、おかしみを湛えます。しかしある現実からずれたはずのその言葉が、それとは違う隠れていた現実を浮かび上がらせるとき、おかしみだけではなく、そこに詩が生まれています。

面白いのは、このようにして詩を通して現実を感じるときは、私達が現実を普通に受け入れるときよりもより自身がその現実を自身で発見したものであるかのように積極的に受け止めることになるということです。詩的現実は言葉によって作られた現実であるにもかかわらず、それが私達の無意識下にあり言語化できていなかった現実と響き合うことで、目の前にある具体物以上に私達にとって意味を持つようになります。

このような詩的言語の役割が古くから現在まで変わらないというのは、私たちが「現実」の多様性を非常に狭く局限して普段は生きているということの現れではないかと思います。それは日常の生活の必要性という個人的な動機による局限もあれば、あるいはここまでの人間の文化や科学、芸術が与えてきた「現実」の意味付けというもっと大きな主語による局限もあります。そのようにして意味が与えられ、決められ、そしてそれ以上の意味はないとされる「現実」の中に、実はまだまだいくらでも気がついていないけれども大切な意味が隠れているわけです。そこに気づかせてくれるのが、詩的言語であるのだと思います。

言ってみれば詩とは記号化され、内包を失った一つ一つの「現実」に新たな意味を見出すことです。言語の性質から詩の話を書き出しましたが、そのように意味を局限され内包を失った「現実」に新たな意味を見出そうとする行為は言語によらないとしてもなお、詩的行為であると思います。もちろんそれは芸術と言い換えても良いです。大切なのは現実を記号化しないこと、現実の多様性に常に心を開き続けていくことだと思います。この社会の中で使われる「現実的」という言葉はこの意味で現実の多様性には目を背けた意味しかもっていないことが殆どであるので、「現実的」という言葉は「現実風(げんじつふう)」であって、現実そのもではありません。「お笑い風」がお笑いそのものではないように。現実は「現実的」も「非現実的」も全てを飲み込んで、人間にとっては無限の多様性を持ち続けます。それを我々人間の愚かさ故に現実がわかったかのようにならないためのツール、それが詩であるようにも思います。(昔なだいなださんが「非人間的なのも人間だと理解することが大切だ。」ということを書いておられましたが、「非現実的」であることも現実だと理解しようとしていくことが大切だと思います。(こう書くとオカルトチックで誤解を招きそうですが!))

というのは長い枕で、昨日教えてもらった卒塾生がやっているこのアカウントの写真が本当に詩的だなあと、思って見ながら感心していました。良かったらぜひ見てもらえると嬉しいです!

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マタヒバチ『ホワイトゴーブラックバババーン』の感想

今更ながらの感想なのですが、昨年10月に井の頭公園で劇団マタヒバチの『ホワイトゴーブラック ババババーン』というテント芝居を見てきました!
マタヒバチ自体は過去のどくんごツアー参加者の役者さん達が所属しておられるということで、存在はずっと知っていたのですが今年初めて見させていただきました。

本当に楽しく、またすごく作り込まれていて本当に素晴らしいお芝居でした。とにかくセリフがとてつもなく多い!それなのに頭で考えるというよりはしっかりと目の前の芝居を見させてもらえるような身体がしっかりしていて、それに感心させられました。また、一つ一つの場面を楽しめるように、ということだけでなく、縦糸としてのストーリーがあり、そのことから生まれる緊張感や風刺というものも感じさせてくれる芝居でした。

僕はどくんごばかり見ているので、いわゆる「ストーリーを追っていく芝居」というのにはあまり興味がなく、まあそれを見るなら本を読めばいいや、となってしまうので、マタヒバチも見る前は楽しめるかどうか心配だったのですが、一つ一つの場面がしっかりと工夫が凝らされていて。それら一つ一つの場面が、ストーリーや設定を忘れさせるほどのインパクトがあったと思います。その点ではどくんご好きの方は必ず楽しめると思います。

一方で、かろうじてつながっていく縦糸としてのストーリーや設定が批評性をもっているところもまたよいと思いました。説教くさくなく、しかし、しっかりと毒がある。見ていて楽しいだけでなく、何か後にひっかかりを残すような芝居になっている。それは縦糸があるからこその仕掛けであり、そのような独自性を追求するチャレンジングな取り組みに勇気を持って踏み込んでいて、それもまた本当に素晴らしいとも思いました。

マタヒバチの芝居を見て考えさせられたのは、物語やセリフが批評性をもつとき、観客から見て役者と自分との同一視がどこまでできるかどうかが、その批評の刃が自分に向くかどうかを大きく分けるということについてです。もちろん、ここでいう「同一視」とは完全に一体とみなすことではなく、同一の部分を見つける、ということです。共感する、と言い換えてもいいかもしれません。演者のセリフの中に、観客が自分自身を見いだせなければ、そのセリフの批評性は結局閉じた批評であり、観客自身を刺すものにはなりません。一方で役者に自己と同一の部分を見つけるためには、役者に感情移入しなければなりません。

だからこそ、批評性を持つ、考えさせる芝居が正しく機能するためには、実は共感を生むための(広い意味での)装置がなければならないと思います。マタヒバチの一つ一つの場面は本当に面白かったのですが、いくつかの場面では「面白い!」が共感へとは繋がっていきにくい気がしました。それ故に虚構の中に自分たちが身につまされる共感できる部分を見つけ、そしてそれがさらに批評をより痛切なものにする、というその一連のダイナミズムが少し弱いかな、と思ったところもあります。もちろん、これはとてつもなく難しいことです。どくんごはまさにそのような共感を誘発する装置としてとてつもない域にあると思いますが、それでも批評性をあの中にテキストとして入れようとすると、とたんに難しくなってしまうようにも思います。

登場人物に観客が共感できるか、ということを言い換えれば、登場人物の感じている必然性が観客に伝わるのか、ということでもあると思います。今年のどくんごで例を出せば、「行かなければ!」という言葉の必然性が最初は滑稽に聞こえながらもだんだんと哀しみと共感を喚び起こしていくように、です。文脈がないからこそ共感ができる場面はどくんごの真骨頂ですが、文脈を作ることで全体的な批評性が強くなったとしても共感は遠のきがちである(それもマタヒバチのあの熱量と密度をもってしても、です。本当に一人一人の役者さんの熱量も力量も半端なかったです)、というのは本当に難しいところだな、と強く感じさせられました。

ごく個人的な意見を言えば、僕は批評性をテクストやストーリーそのものに求めなくても良いのかな、と思っています。いやもちろん、批評性があることそのものは極めて大切です。政治運動や社会運動から切り離された芸術がもはや抜け殻としてコンテンツとして消費されるしかないのと同様に、批評性をもたない演劇、というのはもはや何の意味もないわけです(それさえあればよい、というわけではもちろんないです)。これはまた「全ての良い音楽は(社会に虐げられる側の苦しみを歌った)ブルースでなければならない」(by忌野清志郎)とか「全ての文学は虐げられる側の苦しみを描いている文学でなければならない」(by 太宰治)とかと同じことです。

一方で共感がただの共感で終わらずになぜか批評性を帯びていく、という瞬間は確かにあるわけで、それは決してテキストやストーリーを突出させない創作においてもまた可能であるのでは、と思っています。もちろんそれはとてつもなく難しいことであるとは思うのですが。(これは芝居に限らず人と人が接するときは常に難しいですよね。。伝えたいことを受け取ってもらうためには共感可能になってもらわなければならない。一方でそのような状態というのは批評に開かれる関係性にはならずに、むしろ批評を排除する関係性になりがちです。「言葉が必要ない関係性になるのは、言葉を伝えるためだ!」と思って僕も毎日もがいているのですが、長い時間生徒たちと接していてもなかなかに難しいです。それを一つの舞台の中で「できるかも!」という瞬間が作れているだけでもどくんごやマタヒバチの芝居の凄さがよくわかります。)

ともあれ、とてつもない量の試行錯誤の末に練り上げられていることのよくわかる、本当に素晴らしい舞台でした!もっと何回も見たかった!何より、本当に難しいことに必死に取り組んでいこうとしているという点で、ずっと応援し続けたい劇団だと思いました。また来年も是非見に行きたいと思います!

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言葉は誰のものか。

ご無沙汰をしています。通常の新年度のバタバタに加え、今年は何かとトラブルが多く、ようやく塾が軌道に乗り始めたところです。「忙しいからブログを書く気になれない」というのは嘘で、忙しいときほど書きたい題材は山ほど浮かんでくるのですが、しかしその前にやらねばならないと自分で自分を縛るものが多く、それとどちらを優先するかでブログを後回しにしてしまったところがあります。

目の前の人に対する義務や責任を果たすことで、目の前にいない人に対する義務や責任を放棄することにつながる、というこの社会の失敗を、僕もブログを更新しないことで加担してしまっていたと言えるでしょう。もちろん目の前の義務や責任を果たすことが目の前にいない人への義務や責任を決して正当化し得ない、ということはまた事実です。それに関して正当化しうると思ったことはないのですが、一方で目の前の生徒たちに対する自分の無力さを感じれば感じるほどに、そこでの力をつける努力にどうしても集中したくなります。特に教育という仕事はやっていけばやっていくほどに、どんなに自分自身が力をつけても自分の至らなさ、失敗の多さを思い知らされるものであるからこそ、そのようになりがちです。

もちろん、塾での懸案事項が劇的に改善をしたわけではありません。相変わらず、まだまだ手が足りていないところは多いと思います。まあ、両方とも再び進めていきたいと思います。

端的に言えばこのブログは、「嚮心塾に来る必要のない人」のために書いている、とも言えるでしょう。もう既にminorityとしての人生をもがき苦しんでいる人、その中で何とか自分の人生を形にしようとしている人々に、このような僕でも何とか生きている、ということを伝えるために書いています。もちろんある部分においてminorityとして抑圧を受けている人々が、別の部分においてはまさにmajorityとしてその部分におけるminorityである別の人々へと抑圧を与えている、などということはよくあることです。その人がある部分においてminorityであることによって、その人のmajorityである部分までの人格のすべてが肯定されるものではありません。しかし、僕はそれがたとえ欺瞞であると言われようとも、minorityの立場に立ち続けたいと思いますし、自分の中のmajorityである部分における暴力性に対して、絶えず敏感でありたいと思っています。

唐突ですが、言葉は誰のものでしょうか。言葉を使えるようになるには学問をある程度修めなければならないという以上、それは知識人のものです。しかし、その言葉を誰よりも必要としているのは、権力に連なる知識人ではなく(権力に言葉は必要ありません。むしろ国会の審議での安倍首相のように「何も実のあることは答えないで押し通す」という戦略は権力側のみに許されたものです)、むしろそこから疎外されていく人々にこそ言葉は必要となります。その点で、言葉を高度に習得するためには既存の知識体系に浸かり、その中でエリートとして訓練を受けなければならない(なぜなら知識というものはそのようなエリートの選抜と育成のためにずっと使われてきたからです。)一方で、そのような知識や語彙を使うことで初めて可能な正鵠を射る言葉、というものは社会からはみ出たものによってこそ、とてもよく用いられうる、という矛盾があるように思います。

もちろん、これは科挙の失敗による「人生の落伍者」こそが漢詩という世界において、素晴らしい詩人たちとなっていった、ということがわかりやすいその具体例でしょう。漢詩があれだけ発達するためには語彙や知識を駆使する知的能力を持つ人々が、その時代の俗世の中で報われない必要があったと言えるのでしょう。もちろん、これが当事者にとって、あるいは後の人類にとって不幸なことであったのか幸せなことであったのかは簡単には判断できないとしても、です。

あるいは日本の近代文学を見ても、夏目漱石から始まって、芥川龍之介、太宰治や有島武郎とどの作家も落ちこぼれた超エリートです。高い教養とそれにも関わらずの社会からの疎外こそが、彼らを作品に向かわせることになったと言えるでしょう。

言葉を自在に使えるようになるためには教養が必要だとしても、その言葉を時間や場所を超えて真に活かせるのはその教養を鍛える仕組みから疎外されていった人々である、というこの矛盾を私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。言葉は弱者にとっての最後の武器、としての意味しか持たないのでしょうか。そこでの一人一人の悲劇としか言いようのない悲惨な人生からなるけものみちのような頼りない隘路を通ってしか我々が人間性を回復できないのだとしたら、果たしてその悲しい事実を我々はどのように評価をすればよいのでしょうか。

あるいは忌野清志郎さんが生前によく書いていたように、「全ての良い音楽はブルースである(blues、すなわち人間の生きる上での憂鬱(blue)を歌ったもの)」だとしたら、今生きている表現者としての私たちもまた、自分の生きる上での苦しみを表現するために、生きるために培った技術や知識を総動員することになります。それが良い芸術であり、良い作品であることは確かであると僕も思いますし、そのようなものが一人一人の人生にとってかけがえの無いものであるとも思いますが、それは果たして敗北者が日々自分を慰める以上のことになっているのでしょうか。

知識や技術が権力の基盤となって久しいこの社会においてもなお、少なくとも言葉は弱者のためのものであり続けます。しかし、そのような言葉が弱者を慰撫することにしかつながらないのであれば、それは人々に寄り添われる言葉がカタルシスを生むことによって、この権力構造を別の形で支え続ける装置にすぎなくなるのかもしれません。その危険性に対して悩みのない全てのbluesは、やはり大したbluesではないのだと思います。もちろんこれは言葉に限らず、芸術全般に言えることです。芸術が芸術として存在価値を認められ、生きる場所を与えられている社会というのは、もはや芸術によっては何も成し遂げ得ない社会であると言えるでしょう。カミーユ・ピサロが言った「ルーブル(美術館)は芸術の墓場だ!」というときの「ルーブル」が社会全体へと拡大していっただけであるように思います。

俗世から疎外された知識階級からうまれた弱者の武器としての言葉がやがて、この社会においてその一定の価値を認められていくがゆえに、弱者のためのものですらなくなっていく、というこの事実の悲しさといったら、耐え難いものがあります。

話を広げすぎました。結論を述べれば、僕は真理の一端をうがつ本当の言葉とは、それが生まれるまでにそのような悲しい来歴をもとうとも、今ある現実に対して極めて無力であろうとも、それが多くの場合単なる慰撫として誤用されようとも、しかし、そのような言葉自体には意味があるかもしれないと思っています。逆に言えば、人類の本当の終わりとは、このような残酷な現実に心が負けて、本当の言葉を紡いでいこうと思えなくなったときであると思います(もちろん、ここでいう「言葉」は言語だけでなくて他の媒介物でも構いません)。人間の知性とは、人類社会を良くしていくためにあるのはもちろんですが、それだけでなく僕は人類社会を看取り、それへの弔辞を述べるためにもある、という役割もとても大切なのではないかと思っています。私達が良くしようと努力を重ね、議論を重ねても、それでも人間は同じ過ちをより大きなスケールで繰り返しては、結局破滅の道に行くのかもしれません(もちろん行かないのかもしれません)。あるいは自らの手で滅ぼさないとしてもいずれタイムリミットがきて(今の予想では50億年後には太陽の膨張と消滅に巻き込まれます。それまでの間に太陽系から脱出するすべが見つからなければ)滅びることはどちらにせよ、(それこそ私達一人一人が誰も自らの死を免れ得ないのと同様に)決まっているし、既に私たちはそのことをわかっているわけです。しかし、そのようになろうとも、本当の言葉を紡ごうとする努力は、少なくとも他の知的生命体にとっては無駄ではないかもしれません。だからこそ、どのような状況であろうと本当の言葉を紡ごうとする努力を諦めるわけにはいかないと僕は思います。ずいぶん飛躍しましたが、だからこそブログもまたしっかり書いていきたいと思います。

以上、「ブログ書くの、久しぶりだよね。」ということから長々と書きました!

そして、表現が様々なものへと絡め取られることに絶望しきっているとしても、それでも表現することを諦めたくないと思っているすべての人にとって、劇団どくんごの劇はとてつもない勇気を与えてくれます!今年は東京公演が今のところまだ未定なので、往路の公演は東京近郊だと6月23,24日の木更津公演か、6月27、28日の横浜公演です!本当におすすめです!塾でも横浜公演にみんなで見に行く予定です。
どくんごのホームページはこちら
ホームページから予約できますので、ぜひ!

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映画『この世界の片隅に』の感想を書きました。

『この世界の片隅に』がとてつもなく素晴らしい映画であることなどは、もう僕のような映画オンチが語らなくても、国内のありとあらゆるクリエーターから映画評論家の方までありとあらゆる「うるさ方」が皆が激賞していることからもその凄さがわかるわけで、興行収入もだんだん「事件」と言えるくらいの伸びを見せていますし、改めてその紹介記事なんかこの受験も間近の忙しい時期に書くこともないかな、と思っていたのですが、そうは言っても塾の子や卒塾生に言葉の限りおすすめをしたところ、中には「そんなに言うほどいい映画?」という反応もあったため、「教え子の不明を鍛えるのが教師の役割!」「弟子の不始末は師匠の不始末!」とばかりに燃えてきてしまいました。なので、このとてつもなく忙しい時期に(本当にこんな記事を書いている場合ではないのですが)それでもその素晴らしさを紹介したいと思います。


とはいえ、「徹底した時代考証ゆえに、リアルさをつきつけられて実感してしまう!まるでタイムマシンみたいだ!」とか、「戦時下の普通の人の暮らしを丹念に描くことでかえって戦争の恐ろしさを実感させてくれる!」とか、「主演ののんちゃんの声と演技力が素晴らしい!」とか、巷で言われていることは言いません。もちろんそれらすべてに首を激しく振って同意したいところなのですが、そんなことはいろいろとネット上にある記事あるいはパンフレットやユリイカを読めばわかるでしょう。またクラウドファンディング云々、この素晴らしい映画を完成させるのに片淵監督を始めとして製作者の方々がどれほど「良い作品をこの世に出したい!」という思いでやってきたか、それが絶望的な状況からどのように奇跡を起こし続け、現在の大ヒットにまでつながったのか、あるいは主演ののん(能年玲奈)さんがテレビでの告知が事実上できない状態でそれでも彼女を主演に選んだということもまあ、いろいろ取材記事があるでしょう。それらも本当に激しく同意し、また心より感嘆と賞賛の声を上げたいのですが、それもここでは省きます。ここでは、そうした『この世界の片隅に』に対して起きる様々な賞賛以外の、僕の生徒たちに見てほしいと思う点のみに絞って書いていきたいと思います(なにせ、受験間近で時間がないですから!多少ネタバレもあります。ご容赦を。)。


僕が一番伝えたいことのいとぐちとして、容易に「感動した!」も「面白い!」も「泣ける!」も言えずに(事実として滂沱の涙を流しているお客さんはいるものの)皆、上映が終わったら無言で出て行く、というこの映画の凄さがあると思っています。アニメ映画というよりは、一人の人のドキュメンタリーを見せられたような、あるいは一人の人の半生をずっと聞かされたかのような重みをもって誰しもが映画館をあとにすることになります。そこでの捉え方はもちろんお客さん一人一人で違うのでしょう。しかし、その重みを抱えて、軽々しく「評価」をできない、という気持ちは恐らく見た人は誰でも抱えてしまうのではないでしょうか。


もちろん、映画は人の人生を描くものです。それは同じような時代を描いたアニメの『風立ちぬ』もそうでしたし、そもそもほとんどの映画は(英雄的であれ、喜劇的であれ、悲劇的であれ)一人の人の人生を描いた映画というものが圧倒的に多いでしょう。しかし、この映画ほどにその主人公の人生を感じさせられる映画というのは非常に少ないのだと思います。それが非実在の主人公であることを忘れて、私たちは自分の母親や祖母であるかのように主人公の人生を重く受け止めざるを得ません。それがアニメーションの技法によるのか、細かい日常の生活を描いていることによるのか、主義や主張ではない部分を描く時間が多いからなのか、何よりもそれらすべてを裏付ける徹底的な時代考証によるものなのか、そのどれもが原因であるのかはわかりません。しかし、主人公の人生を突き放して見ることのできないという印象を強く与えられることは間違いがありません。


世界は絶望に満ちているとしてもなお、絶望を希望とみなすことはできる。それをニーチェがキリスト教を揶揄したように「奴隷の道徳」とけなすことは簡単でしょう。服従が前提となる中での努力は抵抗への可能性を放棄しているがゆえの超人的な努力であればこそ、それは肯定されるべきものではなくむしろ否定されるべきである、というのもまた一つの聞くべき主張であると思います。しかし、この映画はその上でその批判に簡単には負けない強さがあります。戦争や革命など大きな歴史上の何かによっては決して変え得ない人間一人ひとりの中の何かを信じる強い気持ちが現れた生活が描かれています。だからこそ、そのようにすべてが茶番だと知りながら戦争に協力することも、そのために苦しい生活を強いられることも、すべて耐え抜けるのです。戦艦大和もまた茶番です。すべてが茶番だと知りながら、しかしその茶番の根底にはもっと深い何か、もっと譲れない何かがあることを信じていたわけです。しかし、それは生活者の茶番とは違い、国家の茶番の中には何もなかったと感じ、それに対して憤るあのシーンは、まさに一人の人間とそれが貢献すべきより大きな目的との齟齬を前にして、我々が常にぶつかる根本的な問題であると思います。一人の人間のために世界があるわけではない、ということの例証として導入されるあらゆる主義主張ですら(それは社会契約説のようにこの社会の成り立ちを正当性の観点から問いなおすことを始まりとして、民主主義や人権のような我々が最終的な答えとして今のところ受け入れているものですら)、一人の人間の懸命な生活と実感を超えるものではない、というこの知的生命体としての人間に課せられた矛盾。自身の存在を超える何かに恋い焦がれ、身悶えし、自分をも他人をもすべてを犠牲にして、それに対してこの身を捧げながらもまた、しかし、そこでどのように洗練された主義主張ですら一人の人間の懸命に生きる生活実感とくらべてどちらが重いのかが、実はかなり怪しいというこの「正義」を求めざるを得ない人間の原理的な限界と悲しさというものを、生活に心血を注ぎ、生活によってこの上のない破壊をも乗り越えようとしていく市井の人の姿としての主人公の人生は見せてくれます。その意味で、この映画は「地に足をつけさせてくれる」映画であると言えるのです。頭でっかちに「何が正しい」「何が間違っている」「何が良い」「何が悪い」というすべての議論を肉体としての一人の人間、生活者としての一人の人間へと引き戻す(恐ろしいほどの)力を持った映画であると言えるでしょう。その意味で、あらゆる批評を拒絶する力を持っていて、だからこそ皆「素晴らしい」しか言えなくなるのだと思います。


しかし、一方でこの映画は生活の中にこそ、また希望があることも最後に見せてくれます。失ったものがあるからこそ、得られる関係性もあるのだということにもまた。率直に言って僕は希望を持たせる映画というのは嫌いでした。以前に『風立ちぬ』をデイビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』と比べて書いた時にも、『ドクトル・ジバゴ』くらいの絶望の中に最後わずか光る希望、あのバラライカ(これは是非『ドクトル・ジバゴ』の映画を見てください!)くらいが僕にとっては人生の定義として精密であるように思いました。どんなに必死に生きてもどんなに努力しても、報われずに死んでいく中で、しかし、それが無駄死に、犬死にでも少しは伝わるものがあると信じることはできるのではないか、それがここまで40年生きてきた中での僕の実感にも近いところであると思っています。ただ、その違いは大した違いではありません。この『この世界の片隅に』という映画は生き続けることがどれだけ残酷であるとしても、生活とは生きるための手段ではなく、生きることそのものであるのだ、ということを私たちに見せてくれます。(「登場人物の死」を用いて「人生」を描くのか、「登場人物の生」を用いて「人生」を描くのか、という違いでしかないように思います。)


その意味で、『この世界の片隅に』は先に書いたようにあらゆる批評を拒絶します。どのようなこの映画の解釈もまた、一つの解釈であるとともに一つの解釈にすぎず、だからこそその文脈で語れば批判や不満を語ることができるものの、それではこの映画を語りきれないことになります。それはまるで多様な側面を持ち様々な功罪を持つ一人の人の人生を、ある側面から批判するかのような物足りなさを私たちに残します。先に挙げた卒業生の反応もまた、そのような一つの文脈から見て「このような映画あるよね〜」というものに過ぎません。それは部分的には正しいのですが、それだけにとどまらずにもっと様々な側面とそれを私たちに問いかける切実さを持つがゆえに、そのように一つの感想、一つの批評で片付けることのできない余韻を私達の中に残すのであると思います。


もちろん、どのような作品も完全ではありません。原作からの改変についての批判はまた別として、最も有効である批判としてはそもそも「一次資料に基づいた徹底的な時代考証によってリアルさを追求した」『この世界の片隅に』はあの時代の「正史(正しい歴史として認定されるもの)」になりえてしまうという恐ろしさがある、ということです。どのような切り口も、どのような徹底的な調査も、それによって描けていない部分、埋もれている事実に対して免れ得るものではありません。もちろんそれを作り手の方々はよく自覚して作られていると思います。ただし、あれだけのインパクトをもった名作になってしまうとどうしてもそれが「正史」になってしまい、それ以外の事実に関しては見落としてよいものだと肯定されてしまうところがあるかもしれません。それはこの作品が本当に素晴らしい作品であるからこそ、引き起こしてしまう問題です。


それとともに、もう一つ問題であるのは生活は人間の手段ではなく目的である、という主張と実践がどのように説得力を持とうとも、思想を持たざるをえない存在としての人間に対しての答えにはなり得ない、ということです。思えばディビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』は思想と生活との分裂(をラーラの元カレと今カレ(ジバゴ)の二人の登場人物を通じて対比させる)という悲劇を描いた作品でもありました。『この世界の片隅に』は原作のもつ思想性を削ってしまっている部分が、見方を変えれば「生活からの反撃」としてとても強力な作品になってしまったとも言えるでしょう。空疎な理想や言葉によって多くの人が犠牲になるということのバカバカしさを描けたとしてもなお、そのような失敗を踏まえてもなお、理想や言葉を持つことで人類史が進んできたこと、その中で我々は多少なりとも自由になってきたことは否定できません。あまりにも呆気ない敗戦を目の前にして、「そんなことのために戦ってきたわけではない」のが全く正しいとしても、「では何のために戦うべきなのか」という問いを放棄して「何のためにも戦わない」ことが正解になるわけではありません。それこそがアーレントの言うような「労働する動物の勝利」になってしまうでしょう。人間は知性を持て余し、その知性によって様々な暴力を生み出してはもっと大切なもの(生活、ひいては命)を踏みにじることは愚かしいことだし、許されることではない。しかし、だからといって考えないこと、正しいものとは何かを求めないことは人間にはできません。そのような「蓋(ふた)」の仕方からは、必ずいびつな形での表出を求める運動が始まってしまうでしょう。『この世界の片隅に』は地に足のついていないすべての言葉を破壊するという意味で、本当に素晴らしい映画です。しかし、そこから私たちはそれでもなお、どのような言葉を語りうるのかを模索していかなければならないし、その「それでも語りうる言葉」があの映画がもつ生活と人生の重みへと拮抗しうるものへまで鍛えていかねばならないと思います。戦後70年の日本の歩みというものは「生活」の再建のためにすべての正しいものを求める気持ちを捨ててきた歴史であると僕は捉えていますが、「生活できることが幸せ」という思考停止が暴力に加担しないわけではないこともまた、この70年の歴史の歩みからもまた明白なのではないでしょうか。その反動として日本会議、右翼、あるいは左翼などの浅薄な「正義」がその歪みや限界を認識される前に「そもそも正義を追求している!」というだけで一定の支持を得るというおかしな状況になってしまっているようにも思います。『この世界の片隅に』が描いた「ささやかな一人のささやかな生活を蹂躙することを正当化できるほどの正義などない。」という事実は、一方で「だから生活することだけが大切なのだ。」という主張にはなりません。知性の発祥(「発症」と最初誤変換で出ましたがそれも正しいかもしれません)から、人類史の終焉まで、私たちは曲りなりとも少しは賢くなって滅びていかねばなりません。なぜなら、その賢くなることだけが、「こんなもののために戦っていたわけではない」という悲劇を避けるための唯一の方法であるからです。その中で私たちは、どのように正義がその母体としての一人一人の人間を蹂躙してきた歴史に恐れおののこうとも、この正義ではないとしたらどの正義が正しいのかについて少しでも賢くなっていかねばならないのだと思います。生活を蹂躙する正義はもちろんのこと、生活から切り離された正義もまた無意味であることは確かであるとしてもなお、それは正義の探求、真理の探求をしなくて良いことにはなりません。その探求は知性を持つ人間にとってはかなり根源的な欲求である以上、そこでの考えの足りなさが粗悪な代替品の採用へとつながってしまうからです。そのような取り組みを怠れば、また「こんなもののために戦ってたわけではない」という悲劇が忘れられた頃に繰り返されてしまうことになります。それを防ぐためにも、この素晴らしい作品は「究極的な議論の終わり」ではなく、「議論の始まり」にしていかなければならないと思います。


ともあれ、まだ見てない人は絶対に見るべきです!僕も(既に4回見ましたが)またあと何回か見に行きたいと思います。

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鴨居玲展@東京ステーションギャラリーの感想

帰宅途中の車中の中吊り広告で、なんと鴨居玲(かもい・れい)の絵が5月末から東京で見れる!ということを知り、東京駅の東京ステーションギャラリーに早速行ってきました!そもそも鴨居玲の絵を見るためだけに家族旅行を金沢にしようとして、子供たちの猛反対(子供向けではないですよね)にあってやめたこともあるくらいなので、東京で見れるなんて望外の喜びでした。

何枚かの有名な絵以外は初めて見るものが多かったのですが、本当に素晴らしかったです!鴨居玲の絵は、初期のデ・キリコ風のものやゴヤ風のものももちろん素晴らしいのですが、最晩年の自画像シリーズが本当に素晴らしいのです!いや、「素晴らしい」という言葉でごまかしてはなりません。その最晩年の自画像シリーズは本当に、この上もなく悲痛なものです。パリやスペインで老婆や廃兵の絵を描く中で、人間から虚飾を剥ぎ取った本質を描くことに目覚めた鴨居が、日本に帰ってきてからの(社会的成功と裏腹の)芸術的不遇の末に、自分をモデルに描き始めたということの意味を痛切に考えさせられました。ロダンが『麗しきオーミエール』で老いさらばえた老婆の彫像を作り、「これこそが美だ!」と宣言したのだとしたら、鴨居玲はさらに老婆や廃兵をデフォルメしていきます。我々が人間の特徴としてぱっと飛びつきがちなものが何も残っていない彼ら、彼女らの中にこそしかし、何よりも気高く残っている人間性を鴨居玲の絵は捉えていると思います。
その鴨居玲の絵は、「人間はどこまで人間であるのか」ではなく「人間はどこからが人間であるのか」、という問いへの一つの答え方ではないかと思います。私たちが人間の生活というときにまっさきに思い浮かべるような、知性、恋愛、美しさ、社会的成功、出産、子育て、家族、その他もろもろが全て終わった後の、あるいはそれらを全て奪われた後の廃兵や老婆を鴨居が描いたときの強烈なまでの存在感は、かえって世間から疎外され、もはや必要のない人間としてただ存在しているかのような彼ら、彼女らこそが逆に人間の本質ではないのか、という動揺を僕たちの中に引き起こしてくれます。人間としての生活の社会的奴隷として忙しく立ち働く我々が、そのような全てから疎外された人々の表情に強く感銘を受けるわけで、それは何かや誰かのために彼や彼女が存在しているのではなく、ただそのものとして人間もまた存在しうるのだという驚きと感動、そして反省を与えてくれるからであると思います。鴨居玲は風景画を描かなかったことでも有名です(彼は「私が興味があったのはただ人間だけだ」と言っていたそうです)が、彼は人間を「風景」として描いたのだと思います。私たちが風景画に感銘を受けるのは、その風景が私たちの見ている普段の景色を超えて「自己の認識する世界の外に存在しうるもの」としての可能性(まあ、つまり自己のvirtual realityではないrealityが存在する可能性ですね)を感じさせてくれるからであると僕は考えているのですが、鴨居玲の描く人間はそのように私たちの認識する人間への自己のvirtual realityの外のrealityを感じさせてくれる、という意味で人間を「風景」のように描いているのだと思います。

このような絶頂期を迎えた後、帰国してからの鴨居玲の絵は、一転して苦しい。描けども描けども、そのようにヨーロッパで出会った人間の本質をとらえるような絵がまるで描けないことに苦しみ続けているのです。今回の展覧会のストーリー付けもそのように企図されていますが、それは強引な解釈ではなく、この時期の鴨居の絵を見れば明らかであると思います。
何を描いても、人間の存在そのものに迫るような人物画が描けない。あのヨーロッパで描けていた人物を描いた「風景画」が描けない。その苦悩の末に、自画像へと行き着く鴨居の歩みは、「このように『人間の存在そのものに迫るような絵が描けない』と苦しみぬいている私を描くこともまた、人間の存在そのものに迫るような絵につながるのではないか。」という彼の最後の、悲痛な取り組みへとつながっていきます。そこから彼は、とりつかれたかのように自画像を描きまくります。食料のなくなった動物が自らの手足を食べるかのように。ときにはそのような自らの取り組み自体にシニカルになったり、疑心暗鬼になりながら。そして、その末に自死を選びます。

鴨居玲が「人物画」を描けなかった70年代、80年代の日本は僕自身も子供として過ごしてきた時代です。彼にそのような人間存在の本質に迫るような絵を描かせなかったものが何であるのかを僕たちは考えなければならないと思います。そして、それにもかかわらずそのような本質的な絵を描くことを諦めずに自画像を描き続けたという鴨居玲の超人的な努力にも、思いを馳せなければなりません。彼は最後まで、人間存在の本質を描くことを諦めようとはしなかった。そのために狂気の自分をすら、目をそらすことなく描き続けました。彼の最晩年の『勲章』という絵には、ビールの王冠が勲章のように胸に付けられた彼の自画像が描かれていますが、それは何も(説明文に書かれているような)権力的なものへの批判とかではなく、そのようにうらぶれ落ちぶれ、追い詰められた人生の中でそれでも描きたいと思える絵を描こうと最後までもがき苦しんだ彼自身に、彼が与えた「勲章」であるのだと思います。それを世間の人がどう評価するのであれ、あるいはそれを私的にお祝いするほどの金銭的な余裕はないとしてもなお、私は私に勲章を与えるのだ、と。

僕も、人生の最後にそのように自分で自分に勲章を与えられるように、鴨居に恥ずかしくない生き方をしなければならないと改めて思わされました。芸術鑑賞とは美しいものを楽しむことではなく、自分自身の小さな世界を破壊してくれるものだと信じたい人にとって、本当にオススメだと思います。
東京ステーションギャラリーのサイトです。)

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『風立ちぬ』と『ドクトル・ジバゴ』

昨日のブログを書いた後、買っておいた『風立ちぬ』のDVDを見ましたが、去年映画館で見て以来一年ぶりに見たというのに相変わらずボロボロ泣いて、下の子にも「何でそんなに泣いてるの?」と聞かれる始末でした。しかし、(ボロボロ泣きながらも)二回目に見てようやく、「そうか!これはデイヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』と同じなんだな!」と気づき、その共通点をブログに書こうと思って、まてよ、その指摘を誰か先にしている人はいないかな、とちょっと検索してみたら…何と、ジョン・ラセターが先にしていました。。また、宮崎駿さん自身も作りながら、そう思っていたそうです。さすが、巨匠ジョン・ラセター!僕と同じ意見にたどり着いていたとは、なかなかやります(本当すみません)。

もちろん、『ドクトル・ジバゴ』のラストシーンのあのバラライカが、懸命に生きて懸命に人を愛して、それでも報われないジバゴの人生を、「それでも何かは残っていくのではないか」と感じさせる素晴らしい(がきわめて厳しい。あれを「希望」ととれるのは、自分の人生が何も残せないことを覚悟しながらも日々苦しみ戦っている人だけでしょう)ラストになっているのと比べると、『風立ちぬ』はファンタジーを活かしている分だけ、解釈の逃げ場のあるラストではあるのでしょうが、それでも素晴らしいことには変わりません。

ということで、『風立ちぬ』に感動した人は是非、『ドクトル・ジバゴ』も(長いですが)映画で見てみるとよいかと思います。

一人の人間の努力など、どんな天才であろうと、時代の荒波の前には無力でしかありません。それは、堀越二郎であろうと、ドクトル・ジバゴであろうと、あるいは凡百の我々にとってはなおさらそうであるのです。しかし、それでも、懸命に取り組んだ何かは、どのような形でかはわからないとしても、あるいはそもそもそれがその人によって残された何かだと、後の人々は知らないままであろうと、何かほんの少しは残るかも知れません。そのような、残酷にしか終わりえない自分の人生を、どこまで愛せるかが人としての価値を決めるのだと思っています。

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『風立ちぬ』を見ての感想

みんなが書きたいトピックについて語るというのは、どのような発言をしようとも注目され、そしてそもそも注目されることだけで一定のメリットを得られるわけで、僕はそのようなことにかまけてはいられないと普段は思っています。

しかし、ジブリの新作『風立ちぬ』については、僕が見たジブリ作品の中では一番素晴らしかったので、是非それについては書きたいなあ、と思いつつ、他の人の書いたので共感できるものがあったら紹介するぐらいかなあ、と思ってチェックすること、はや1ヶ月強、全くそれが見つからずに時間を空費し、「もう自分で書いた方が早いかな。」と思っていたのですが、とうとう見つけました。ということでご紹介したいです。このブログの記事です。

ここに書かれていることに関しては、全く同感です。しかし、このブログでは「ほら、やっぱりクリエーターの上から目線なんだよ。」という批判に対しては答えられていません(もちろん、この筆者の方は、それでよいと考えているでしょう。それは一つの肯定しうる立場です)。

しかし、僕はこの映画に関して、クリエーター/クリエーターでない人という差別や、前者の特権的意識が
見えるというよりはむしろ、人類全体の残酷だがいとおしい運命を描こうとしたように思っています。知性をもって生まれ、本能のままには生きられないが故に、かえって様々な迷いを持ち、よかれと思って必死にやったことの結果、もっとひどい結果を引き起こしては絶望する、というこの悲しみ。「男性/女性」や「クリエーター/クリエーターでない人」という対立を超えて、僕はこの映画の主人公の抱える悲しみに、人類全体が本来的に抱える悲しみを感じました。

私たちは、どんなに真剣に悩み苦しみ、考え抜いたとしても最善の行動を選ぶことが出来ない。それは昆虫のように種の存続のために個体が機能するようにプログラムされているのであれば、ある意味で幸せであるのです。なぜなら、考えることなく最善の行動をとれるからです。そのような生き物には選択も自由意志もない、という意味では人間には耐え難いように思えるかも知れませんが、しかし、そうなればそうなったで暴力も大惨事も起きなくなるわけです(というより、種の存続のために行われるあらゆる暴力を「暴力」として認識しうる主体がいなくなる、ということになります。これはSF小説でも伊藤計画(本来は旧字体です)さんの『ハーモニー』などはそのような着想ですよね)。

このこと自体はそれこそ、聖書の「エデンの園」から禁断の知恵の実を食べて追放された人間、というたとえ話からこのかた、人間を悩ませ続けた問題です。知性や意志などというものが中途半端に存在することで、確かに人間は一つの種としてはあり得ないほどの様々な成功を収めてきました。もちろん、それがもたらす人間の解決能力を超えた大きな問題にも次々と直面せざるを得ないのが人間の歴史であり、生物種というものの中に「人種」、さらにはより人工的な「国家」というものを発明することで大きな問題を引き起こしたのもまた人間の歴史です。それらは全て、中途半端な知性や意志が、その中途半端な意志が拠り所を必要とするために、その拠り所として機能する新たなしくみを知性によって作り出していく、という欺瞞の歴史であるわけです。果たして、知性や意志を持ったが故に、人間は幸せになれたのか、それとも不幸せになったのか、と暗澹たる気分で考えなければならないのは、ルソーの『学問芸術論』を引くまでもなく、誰でも(特に福島の原子力発電所の事故以降は)思い当たる経験ではないでしょうか。

人間は愚かだ。人間は大切なものと、大切ではないものを簡単に見誤る。そして、人類に善かれと思って、懸命に人生をかけた取り組みが、結局人類に善かったのか悪かったのかわからないままに死んでいく。善いものを志し、探し、そしてそれに何もかも、本当に愛する人の幸せすら、うち捨てて取り組み続けたとしても、結果としてそれが本当に善いものを生み出したのか、それとも悪いものを生み出したのか、よくわからないが、

「それだからこそ、人間はいとおしい。様々な間違いは起きざるを得ないとしても、それでも僕は人間を愛そう!」というメッセージを僕はあの映画を見て感じました。

それは、その愚かしい迷走も、迷走から始まる努力も、全ては無駄であり、逆に悪いものを生み出すだけであるのだとしても、それが人間であるのだ、という覚悟です。もちろん、それは、間違いを正さなくてよい、ということでは毛頭ありません。しかし、我々が人間である以上、正しいものをめざそうと、常に誤りばかりであることは
避けられない。そして、私たちに課せられたその宿命を、少なくとも私はもう呪ったりはしない。自らが誤り続けることに耐えかねる自分の心の弱さから、絶対的な正しさを求めては、神や国家にすがったりもしない、という姿勢を感じました。

「私たちは、正しいものを求めては、誤り続ける。しかし、それがいくら辛いからといって、決して呪ったり、あるいはたやすく「正しさ」を与えてくれるものにすがりはしない。かといって、正しいものを求めることを諦めもしない。」という、姿勢が一貫して主人公に対してあったのがあの映画だと思います。もちろん、あの映画を見て癒されるクリエーターや企業戦士も、それに対して「結局男はあの主人公のように都合よく女を使い捨てる。」という見方も、まあ合っています。しかし、僕はあの映画の主人公のような人生とは、つまり人類そのものの成功と過ちを必ず伴う歩みを表しているように感じました。

もちろん、映画などは話の種です。僕はあの映画にそのような意図が込められていなくても、善いものを求めては、過ちを繰り返す(もちろん僕を含めた)この愚かな人類が少しでもマシになるように、全力を尽くし続けていきたいと思います。森有正がリルケの末期の言葉を引いて書いていたことがありました。リルケの「絶望して死ねる。これほど幸せなことはない。」という言葉は人類の未来に希望を懸け、そのために死ぬ最後の瞬間まで尽力していたからこそ、出てくる言葉だ、というやつです。「失敗」がチャレンジし続けなければできないのと同じように、「絶望」は希望を持ち続けなければ、やがてできなくなります。

私たちの思考など、生物的本能の単なるvariationでしかないと強調してみても、思考は私たちに罪の概念を与えたことは事実だと思います。その「罪」の概念は、私たちを時に深く反省させ、時に私たちをしばりつけるあまりに暴虐な行動へと駆り立てるという意味で、少なくともその恩恵以上には害悪の源となってきたことは確かでしょう(パレスチナ、エジプト、シリア)。しかし、僕は少なくとも人間が自らの罪を感じるということには可能性があると思っています。たとえ、それが新たな暴虐の種となろうとも。ドストエフスキーの描いたように、「罪」の自覚がChristianityのもっとも深い部分だ、ということに僕も深く同意しますが、「罪」はChristianityなど軽々と超えて、より人間性の根幹を規定するものであると僕は思っています。

そして、その「罪」の概念を決して外側から他人が伝えることなど出来ないのだ、ということもまた伝えたいことです。「罪」という言葉が仰々しければ、「責任」でもよいです。「責任」という概念を他の人が外からいくらなじろうと、説き聞かせようと、それを誰かに伝えることはできません。それは、人間に本来的に内在するものであるにもかかわらず、決して外からは育てることの出来ないものです。まあ、しかし、そこを何とか悪戦苦闘はし続けていこうと思っています。そのためにはドストエフスキーの『悪霊』で、スタヴローギンが陵辱する相手である「少女」に僕はならねばならないわけです。今日も、塾生に対して、徹底的な善意と思いやりを、踏みにじられ続けては、頑張っていきたいと思います(と書きましたが、『悪霊』とか今の子は読まないですよね。。僕はドストエフスキーの小説の中では一番好きで、お薦めです(注))。彼ら、彼女らがさまざまな人の善意を、自分の弱さ故に踏みにじっていることに自分で気がつく、その日まで。

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