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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「生き残るためには、変わり続けなければならない」的な言葉の愚かしさについて。

忙しくしていたら、もう7月が終わってしまいそうです!!
その間に書きたいことが山程あったのに、すべて山積みのままでした。。


さて、7月頭くらいに(といっても、もう皆さん覚えているでしょうか…)自民党の広報マンガで「『生き残るためには、変わり続けなければならない』とダーウィンも言っていた!」と書いてあって、それが事実誤認である、という指摘がなされていました。いやいや、それじゃダーウィンではなく、ラマルクの用不用説じゃん!みたいな的確なツッコミは散々されているので、それはここでは書かないとして、このような言葉がいかに根強くはびこっていて、繰り返し言われるのか、その原因を考えてみたいと思います。

人間は基本的に変化を嫌がるものです。それは当たり前で、変化に対しては注意を払わなければならないので、疲れてしまうからです(我々ももう、新型コロナウイルス疲れをしていますよね)。しかし、変化を嫌がる自分自身に対しては人間はどこかしら「こんなに自堕落な自分でいいのかな…。」と不安感も抱えています。「不安感」という言葉を言い換えれば、「罪悪感」ですね。「そのように何かしらの変化を嫌がる自分は、もしかして重大な見落としをしているのかもしれない…」という不安な思いも一方で抱えながらそのようなスタンスで生活しているわけです。

そこにこの言葉は響いてきます。つまり、この言葉は変化というものに対して、自身の意識を集中させることのない日々を普段は送っている、という罪悪感故に、あたかも天啓のように重く受け止められ、そして伝えられていきます。この言葉を誰が言ったのか、ということについての不正確さは別として、このような言葉が人々の心に響きやすい、という狙い自体は自民党の広報マンガの戦略としては正しい、ということになります。もちろんそれと憲法改正とを結びつける牽強付会ぶりの是非は別として。

思い起こせば政治において「改革」という言葉がもった響きと全く同じ作用をこの言葉はもつ、と考えてもらえるとわかりやすいかと。本来「改革」は「変えること」でしかなく、それが良い方向に変えることなのか、悪い方向に変えることなのか、こそが重要です。そして、それが実は良い影響を及ぼすのか悪い影響を及ぼすのかは、実際にやってみなければわからないことが多いからこそ、そのような「改革」には必ず事後評価が必要となるはずです。

ただ、普段「変化」を嫌っては安定を求める人々の罪悪感を刺激する言葉としての「改革」は、改革を自己目的化してしまい、「良くなるか悪くなるかではなく、とにかく変えなければならない!」的な強い主張へと人々を惹きつけることになります。小泉政権時の構造改革から、大阪維新の会の大阪都構想まで、それが何のために必要であるのか、変えることで本当によくなるのか、実際に変えてみてそれで良くなったのか、などについては何も考えられないままに、「変えたいんです!」という「熱意ある」主張に何らかの正当性があるかのように振る舞う政治家たちに、私達はずっと踊らされ続けているわけです。そしてそれは、私達自身が日々の生活や仕事、その他の取り組みの中で「変化」に対して臆病な自分に対してどこかしら原罪を感じていて、そこをうまく突かれて利用されている、とも言えるでしょう。

私達にとって必要なのは、自分が「変わり続ける」ことで生き残ることができるのか、それとも「変わらない」ことで生き残ることができるのかが、実は時と場合によるものであり、そこに「これさえ守っておけば大丈夫!」などというセオリーはない、という残酷な現実を直視することであると考えています。変わることで、死に絶えることもあれば、変わらないことで死に絶えることもある。そのどちらが正しいのか、前回取った選択が次の選択に活かせるのか、それとも前回取った選択を繰り返すことで失敗するのかなど全くわからないこの世界の中で、「変わる」ことも「変わらない」こともどちらも自己目的化することなく、一回一回必死に考えては結論を出すしかない、というのがおそらく結論であるのでしょう。

しかし、このような態度を取り続けること(つまり、一つの態度を決めないで生き続けること)は、おそらく「変わらないままでいる」ことや「変わり続ける」ことよりもはるかに注意をはらい続けなければならないものである、というのがとても疲れるところです。とても疲れるところではあるのですが、しかし、日々それをできているかどうかが、このような何らかの思考停止に基づく煽動に対して、自らが疑い続けていくための唯一の道である、ということが本当に生きることの大変さを物語っているのだ、と思います。

またそれは、「保守」か「革新」か、という不毛な二項対立を惹起することとは別に、どのような保守か、どのような革新であるかこそが重要である、という態度を用意することにも繋がりうるものです。だからこそ、何かを「座右の銘」としてはそれに依拠して思考停止をすることなく、一つ一つしっかり考え、疑い抜いていくことが大切であると思っています。(「変わり続けなければならない」という一見定型的なドグマを疑い続けるかのように聞こえる主張もまた、容易に定型的なドグマへと堕するというのが人間の歴史です。イエスの踏み込んだ主張やソクラテスの「無知の知」という根本的な疑いですら、定型化することで無害化した上で、それがあたかも踏まえられてきたかのような顔をしては、踏みにじってきたわけですから。「型」へと依存することで思考停止をしたがるのは人間の常として、私達一人一人はそれと闘い続けようともがき続けることしかなく、しかもその際にはこのように依拠すべき言葉すら持ち得ないのだ、と考えています。)

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トイレの目的はただ一つ。

いくら巷間で取り沙汰されていようと、重要ではないテーマには何もコメントすべきでないと思うのですが(重要ではないことに取り組むということは、重要なことへとは取り組まないという選択でもあるからです)、この渡部さんのスキャンダルのニュースにも、これだけは言いたい!というとても重要なことがあります。それは「多目的トイレ」という名称についてです。

僕はこの名称がどうにも気持ち悪く、このような言葉が流布しているのが許せなくって、今までずっと一人で「ムキー!」と怒ってきました。いやいや、トイレの目的は古今東西「排泄」のただ一つではないか、と。排泄を目的としていないトイレはそもそもトイレではなく、洗面台とか鏡台とか何かしら別のものです。排泄のための便器があるからこそ、トイレであり、それをおむつ替えや化粧直しなどに使える場所があるとしてもそれは「多機能トイレ」であって、「多目的トイレ」ではない!!!このことはこの機会に声を大にして主張したいところです。

ただ、このような目的をごまかした名称というのは日本語においては非常に多いだけでなく、どんどん増えてきています。たとえばトイレに関してだけでも、目的を明確にした「便所」という言葉はすっかり使われなくなり、「化粧室」と言ったり(じゃあ便器を置くな!)、「お手洗い」と言ったり(じゃあ(以下同文)!)、目的をごまかしては、より「キレイな」言い方ばかりが作られていきます。もちろんこれは最近に限ったことではなく、そもそも上代から、天皇のことを「みかど(御門)」と言ったり、大貴族を建物名で言ったり、あるいは今にも残る「奥方」と言ったりと、直接名指しするのは(特にその対象が高貴な身分である限り)失礼に当たる、という風習はあったのだと思います。ただ、そのような言葉の「消毒」が高貴な身分の人に対してだけではなく、日常語の中にこのように入ってきては、言葉を狩られ続けていく私達、というこの事態については、しっかりと考えねばならない問題点があるように思っています。

このような言葉狩りは「死」や「排泄」といった、人間たちにとって負のイメージを引き起こす対象だからなされている、という解釈も一つはあり得るでしょう。それもまた、日本の歴史の中でまた、ずっとあった風習ではあると思います。そういえば日本ではないですが、ハリー・ポッターでもヴォルデモート卿は「名前を言ってはいけないあの人」でしたね!(これは恐らく高貴な人だからではなく、負のイメージだからかと!)しかし、目的とリンクした直截的な名称が使えなくなることは、単なる代替であるだけではなく、その言葉を使う私達のうちに「目的」を見失わせていく、という力を持つものでもあります。そのようにして、目的なき名称が流布していく中で、私達はそのような言葉遣いに慣れていき、言葉を発する、あるいは何かの名前を呼ぶ、という行為は、真実に迫るためではなく、真実から目を背けるためになっていきます。

と、一足飛びに書いてみると、「そんな『多目的トイレ』という名称くらいで大げさな!」と反応されがちではあるのですが、たとえばこのステイホーム期間に多くの人が初めて見たであろう国会中継一つをとっても、いかに内実を語らないか、いかに相手の質問に対していかに答えずにやりすごすかのために、言葉が空費され続けたのはよくわかるのではないでしょうか。「目的」なき言葉や名称に人々が慣れっこになって鈍感になっていく社会、というのは言葉の力が通用しなくなる社会です。そして、その言葉の矛盾や名称の矛盾に人々が鈍感になればなるほどに、むき出しの権力にとっては都合の良い社会になっていく、ということになります。

こういう話ではジョージ・オーウェルの『1984』とかがよく引き合いに出されるわけですが、あの世界で「ニュースピーク」によって事実とは違う言葉が流布し公式に使われている、というのは、つまり一人一人が言葉に対する抵抗感から異議申し立てができなくなってしまったあとの話だということです。しかし、そのようにならないためには、「そのような(言葉を規制する)権力の横暴に抗議しよう!」とか「あんなその場しのぎの言葉を空費する国会での答弁を許すな!」という闘い方だけではなく(もちろん、これらに対して徹底的に抗議し、闘っていくこともまた必要であるとは思いますが)、それよりもこの「多目的トイレ」のような言葉を日常の中で許さない!ということにこそ、地味だけれどももっと大切な闘いがあるのではないかと思っています。なぜなら、これらの「目的」を忘れさせるような言葉遣いの果て、語義や目的という内面を失った、慣用からの転化によって私達の言葉すべてが埋め尽くされては構成されていく事態の結果として、権力はフリーハンドを得られるようになるからです。

極論を言えば、「多目的トイレ」という言葉に違和感を感じない人々ばかりの社会においては、言葉の力で権力を規制するという仕組みをもつ議会政治は不可能である、とまで僕は思っています。もちろんこれはたまたま僕が「敏感さん」として気がついた一つの具体例でしかなく、僕自身もまた見落としているこのような言葉の使われ方、言葉の殺され方が他にもたくさんあるのでしょう。ただ、こういった一つ一つのごまかしを許さないように、ということの先でなければ、民主主義は可能ではないと思っています。理性の源であるかのように見られている言語が不合理と因習の産物でしかないことをソシュールが指摘したことは意味のあることだったとして、しかし私達はその言語によってポパーの言うように「殺し合いをする代わりに議論をすることを発達させてきた」歴史を踏まえて議会制民主主義を採用しているわけですから、そのような不合理と因習から生まれてきた言語に、いかに筋道と合理性を込めていけるかが、私達人間が取り組まなければならないチャレンジであるのだ、と思います。特に日本人は、このことにあまりにも弱すぎると思っています。

トイレの目的がただ一つであることから目を背けて生活ができてしまう私達は、自分の人生の目的がただ一つであることからもまた、目を背けたままに生活ができてしまっているのでしょう。「目的なき生に意味はない」という主張を他者に向けることが様々な排斥を生み出すロジックになりがちであることに注意は払いながらも、しかし、目的を(他者にではなく)自らに問い続ける、ということはやはり私達人間にとってはとても苦手なことであるようです。そのためのツールとして、言葉を不完全ながらも磨き続けていかねばならないと考えています。

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「繊細さん」について。

最近、highly sensitive person (非常に感受性の強い人、「繊細さん」)について、そのままだと社会の中で生きにくい彼ら彼女らが、どのように社会に適応していくのかという、自己理解を進めるための本を読みました。これはこれで必要な本だとは思うのですが、一方で非常に違和感も感じました。それは、結局この本は既存の社会の中でそのような「繊細さん」達がどのように生き延びるか、という観点に立って書かれているだけであり、既存の社会への批判や改善へとはあまりつながらないと思うからです。

たとえば、何かについて敏感な人がごくマイノリティであり、それについては鈍感な人がマジョリティであるのは世の常です。だとすれば、そのマジョリティ側に立って敏感なマイノリティの意見を封殺することや、マイノリティ側がマジョリティの規範を自己の内面に規範化すること、というのはマイノリティを抑圧する、というだけではなく、社会全体としては、せっかく何かに敏感に気がついている人がいるのにも関わらず、その気づきを反映し、社会をアップデートすることができないままに旧態依然の状態を保存していくことになってしまいます。そのような社会は少しはマシになるきっかけを失い、次々と現れる敏感な人を(少なくとも精神的には)皆殺しにしては不完全なことに開き直っては維持されていく社会でしかないでしょう。それは、マイノリティとしての「敏感さん」達が苦しむだけではなく、いずれ必ず社会全体として行き詰まり、大きな破綻を迎えることになると思います。

このことに関しても日本でなかなか理解されていないのは、「多様性」というのは、決してマイノリティのために必要なものではない、という事実です。むしろ多様性を守り続けていくことは、集団が常にアップデートしていくために必要であり、それは「誰か少数派のため」ではなく、純粋に「自分たちのため」です。これはどのような観点からもマジョリティに属す人々に理解されていないだけでなく、ある部分においてはマイノリティに属し、マイノリティとしての痛みを感じながら生きているはずの人たちですら、あまり理解ができていないことでもあります。

「繊細さん」に話を戻せば、彼ら彼女らの繊細さは鈍感な私達にとっては様々な見落としがちなものに気づかせてくれる契機であり、そこでの衝突を通じて、鈍感なマジョリティ側に学ぶ姿勢があればあるほどに、そのような社会はより豊かに、したがって強靭になっていくのだと思います。それができていないがゆえに、「繊細さん」自身に「なるほど。自分は他の人とは違うのだな。」という理解をしてもらい、そして自身の繊細さをコントロールしていってもらっては鈍い方に合わせて営まれる社会になど、率直に言って可能性はないように思います。もちろん、この日本社会がそのようにマイノリティへの抑圧のみから成り立っている、どうしようもない社会であることが事実であるのは間違いがないのでしょうが、しかし、それにしても「繊細さん」にそこまで気を使って生きてもらうのでは、あまりにも情けなさすぎるのでは、と思います。(画家の鴨居玲が、パートナーとインタビューを受けたときに「この人はいつも他人のせいにしてばかりなんですよ。。」とパートナーに言われて、「いや、違う。全部他人のせいなんだ!!」と怒った、という話があります。繊細であるがゆえに鈍感なマジョリティには気づかないことに気づき続けるマイノリティにとっては、この社会で生きていくだけで「暴力」を浴び続けることになります。それに対して、鴨居のように多少乱暴な抗議の声を挙げる人が居たとしても、それをどうごまかさずに受け止めていくか、を我々鈍感なマジョリティは考えるしかないのだ、と思っています。)

「鈍く」なることが「大人」になることであり、「社会性」を獲得することであるのだとしたら、そのようにして自らの感覚を削ぎ落とさなければ入っていけない社会など、人間たちの墓場でしかありません。もちろん僕自身も教育という仕事に携わる以上、既存の社会不適合的な彼ら彼女らの個性を、どのように削ぎ落とすことなく活かした上で、しかし既存の社会の求めるものの中で彼ら彼女らが準備し得ていないものを準備させていくか、という難題に日々直面しています。その一つ一つの実践の中では、こちらがどのようにそれを避けようとしていても、「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまうという失敗の瞬間も必ずあると思います。

しかし、一方で、そのようにある部分について自分を超えて敏感な彼ら彼女らから学び続け、その敏感さが彼ら彼女らの生きづらさの原因となってしまっているとしても、その敏感さが活かされ、反映される社会を目指すことを諦めるのであれば、それこそ僕自身もまた「理解者の顔をした抑圧者」でしかなくなります。一人一人の子どもたちの中にある、そのような繊細すぎる部分に対して、どこまで誠実に向き合っては、それを自らの理想の社会像に反映していけるか、という日々の取り組みこそが勝負であり、そこにおいて「いやいや。こちらの想定する『豊かな社会』には、もう君の繊細さは十分取り入れてあるんですよ〜」と高をくくった時点で、教育者としては死んでいて、有害無益な存在でしかないと思っています。

嚮心塾がなくなるのは、塾が経営面で潰れるときではありません。塾の経営が苦しくなろうと(現在コロナでやばいですが!)、別の仕事をしてでもこれを続けていくことに意味があるうちは、続けていかねばならないと思っています。本当に嚮心塾が死ぬのは、そのような一人一人の既存の社会には包摂されえない繊細さ、敏感さに対して、僕が「知ったかぶり」を始めてしまったときである、と思っています。そのような暴力に加担していることに気づいたときには、どのように繁盛していようと、理三に何人受かろうと、その場で塾を閉めようとも思っています。

そしてそうならないためにも、繊細さんを既存の社会に包摂されるようにトレーニングを積むだけではなく、そもそも彼ら彼女らのそういった部分を理解し評価できていない既存の社会への徹底した批判と、その上でどのような社会を目指すべきであるのかのビジョンとを絶えず考え抜いていきたいと思います。

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「stay home」という暴力。

この緊急事態宣言以降のstay homeというかけ声のもつ暴力性は、たとえば「自粛警察」と呼ばれるような営業している店舗に同調圧力をかけようとする人々の恐ろしさだったり、あるいはhomeを持つことができていない人々への切り捨てだったりと、様々な形で現れました。そういった同調圧力の一つ一つに対して、「緊急時だから仕方がない」ではなく、どのように露呈した問題点に対して取り組んでいくか、ということを私達は考えねばならない、と思っています。

ただ、どうしても見落としがちな悲惨さとして、homeが気の休まらない場所である人もまた、そこに居続けなければならない、ということがあると思っています。親がいる家を「home」とは思えない若い世代もいるわけで、そうした子達が家にいなければならないことの苦痛(それはphysicalな虐待であったり、モラハラであったり様々な形があるとは思いますが)を散々に突きつけられざるを得ない、という事実に対して、もっと一人一人が敏感になる必要があると思っています。そこへの共感や問題意識なしに、「家にいる価値を見直す」的なキャンペーン(これは芸能人とかスポーツ選手とかの善意でなされていたわけですが)が押し付けがましく拡散されていく、という事態に絶望をせざるを得ない若い世代も多かったのではないでしょうか。

介護にせよ、教育費用にせよ、日本において公的制度で支えられている部分というのは非常に小さく、「家庭」がその殆どの機能を担うことに国家が頼り切っているのが現状です。これは新型コロナ対策を「自粛要請」で乗り切り、政府としてはほぼ何もしないのと同じですね。このような状況の中で、その支えとなるべき「家庭」に頼ることができない子たち(家族と死別や離別、あるいは困窮している家庭)は放っておかれています。その子達の苦しみはもちろん、なんとかしていかねばなりません。

さらに言えば、支えとなるべき「家庭」が自分にとってはマイナスでしかない子たちもいます。物理的金銭的援助を得られないとしても、まだそこに共感があるのならばマシです(もちろん経済的困窮が、虐待に繋がりやすいのもまた事実として、ですが。)。しかし、DVや性的虐待その他を受けている、あるいは受けていた子たちにとって、「stay home」というかけ声が、どれだけ絶望的な響きをもっていたか。そのことに対する想像力をもたないままに、なされるすべての感染症対策は、僕には「homeの中に閉じ込めておいた君たちがどうなろうと、それは私達の責任ではない。(だって、私達のhomeは君たちのhomeとは違うから)」という死刑宣告のようなものにしか感じ取れません。

問題であるのは、そういった子たちを救えないことだけではないのです。救うも何もそのような存在にすら思い至らないままに、(僕も含めて)私達のほとんどは生きていくことができて、ちょっとした不便や不自由に文句を言う自由すら享受しています。どのようにひどい扱いを受けようと、子どもたちにとってはそこをhomeと見なして、どんなにひどい親でも愛するしかない。そこを否定することは、そんな親との関係にも何らかの心のやり取りを探そうと苦しみ続けてきた、彼ら彼女らのアイデンティティをも掘り崩すことになるからです。しかし、そのような子たちにとって、「stay home」と言われることの絶望といったら。。

僕自身が何かができているわけではありません。 本当に恥ずかしながら、「stay home」 ができる家庭に育ち、自身もそのような家庭を築いているつもりです(もっとも、僕の子どもたちは全くそうは思っておらず、抑圧や暴力ばかりを感じ取っているかも知れませんが)。しかし、そのように自らの家庭を「幸せ」にすることは、決してその「home」がないことに苦しむ子たちや、その中で苦しむ子たちへの愛情へとは繋がっていかずに、むしろそれらを自分には理解できないものとして視野に入れないことへと繋がっていきます。このことを太宰治は『家庭の幸福』で描いていたわけですが、あれでもまだ片手落ちで、現実の厳しさに抗することができない家庭の悲惨さだけではなく、家庭自身が暴力と束縛の装置として機能している現実に対しては、「自分の家庭の幸福」があるせいで私達は目を向けることができなくなっていきます。

このひどい時代に、子どもたちは少しでも自由に生きてほしい、と希望を繋いでいこうとする「祈り」のようなものが教育であると思っています。しかし、その教育ですら、どのようなhomeに生まれついたかで大きな格差が出てきてしまいますし、学習塾などもそのような格差拡大に加担してしまっているわけです。だからこそせめてでも、塾をhomeにできないか。そのように考えてやり続けているわけですが、この「stay home」の暴力性には、それをも根こそぎ殺されかけている、というのが現状です。それでも何とか、無力さに絶望しがちな自分を鞭打っては、ほんの少しでもhomeに苦しむ子たちの力になり続けていきたいと思っています。

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政治について学ぶことの大切さ。

自学自習の教育のことについて、山程書きたいことはあるのと、またこの状況だとそのような情報を必要とされている方も多いだろうとは思っているのですが、(他にも山程書きたいことがあるのに)それだけをあれこれと書かねばならない、という気持ちでブログに向かうモチベーションが上がらなかったので、今日は少し他のことを書きたいと思います。

さて、僕も一応 twitterをやっていまして、まあ使い方といえばブログの更新の告知と、どくんごがあればどくんごの宣伝くらいしかつぶやいていないのですが、この前久々につぶやいたものが、僕にしては比較的広く読まれました。これについて、
詳しく書きたいと思います。

まず受験生の動向、特に同じ大学の同じ学部を受ける受験生の動向(まあ、入試本番の手応えですね。)を把握するために、僕はよく受験生の twitterを見ています。問題の難易度は問題を見ればわかりますが、それに対して普段の模試でどれくらい取れている受験生がどれくらい点数を取れているかを調べるために、そのように同じ志望学部・大学の受験生のtwitterをチェックしてはその子達の反応を見ることで、受験当日を戦う受験生に的確なアドバイスができるように、とやっています(もちろん、うまくいかないときの励ましがメインなので基本的には「みんな点数取れていないから大丈夫!」というトーンで話さなければならないわけですが、それがいかに「事実に基づいた」励ましであるかこそが大切です。逆にそこが口からでまかせの気休めであれば、人生を懸けて闘っている受験生には、一瞬で露呈します)。

さて、そのように受験生をフォローしていて、そして嚮心塾はどうしても医学部・東大受験が多いので、そういう受験生を多くフォローすることになるのですが、その子達のtweetを遡っては模試の成績とかを見て、「このレベルの子がこれだけ点数取れてる/取れていない」をチェックしていくときに、当然彼らの他のtweetも目に入ります。
そのときに感じるのはこういった「優秀な」大学受験生というのは、圧倒的に自民党支持者が多い、ということです。

「そんなこと言ったって野党よりは自民党の方がマシ!」という態度をそれらの若い子たちは、驚くほど広範に共有しています。もちろんそれが、しっかりと政治について勉強し、国会中継をしっかり見てそこで行われている議論を丹念に追っては考え抜かれたものであれば、それも一つの識見でしょう。しかしまあ、率直に言ってそれらの子たちが政治に関心をもって調べたり本を読んだりしている痕跡はありません。

結局この彼らの「結局、野党よりは自民党がマシ!」というしぐさは、受験勉強に忙しい彼らが、「いかに政治のことについて勉強するという労力を取らないで、賢いふりをするか」という効率性の問題であるように思います。
政治のことについて勉強すれば、とても時間がかかります。それらを端折って、しかし政治は誰の生活にも関わってくる以上、意見や態度表明を求められることが多い。そのような事態にあたって、「最小限の努力であたかも何かがわかっているかのような振る舞いができる」という点でこの、「野党よりは自民党がマシ!」というシニシズムに陥るのだと思います。
(話は逸れますが、このシニシズムは別に若い世代だけではありません。仕事に忙しい30代、40代には特に似たような傾向が見られるとも思います。)

そこではいかに「楽して勝ち馬に乗るか」ということだけが彼らの関心です。もちろんこの「勝ち馬」は、別に国有地を格安で払い下げてもらった、とか首相主催のお花見に招待された、とかそういう具体的な利益ではありません。ただ、「政治について考えたり調べたりすることなく、それなりの意見が言えている体をとれる」という彼らの処世術のようなものです。(もちろん、これは自民党支持だけではなく、「9条改正反対!」さえ唱えていればあたかも自分が政治についてしっかり考えているかのように振る舞える、という別のパターンもあります。問題なのは党派性ではなく、政治的態度が、個々人の、「考えも勉強も足りないままに、いっぱしの意見を言える自分でいたい!」という非常にくだらないサボり心によって決定されてしまっている、ということです。

「まあまあ。若いときってそんなものだよね。」と言えればよいのです。実際に僕自身の若い頃を振り返っても、「自分の意見」として主張するものがいかに人からの借り物でしかなかったか、それなのに、いっぱしの顔してあたかも自分がよく考えて生きているかのように振る舞っていました。まったくお恥ずかしい限りです。
そのような未熟な、調べることも考えることも足りていない態度が、この社会の中で揉まれ、問題に直面しては苦い思いで反省をして、ということの繰り返しで成熟してくるのであれば、そのようなシニシズムに安住して思考停止する態度をことさらに指摘する必要はないのかもしれません。
しかし、日本においてはどうしても経済優先で政治、という問題はあまり考えて生きている大人までが少ない以上、そのまま大人になってしまっている、というケースがどうしても起こりやすいと思います。(これは一つには日本のアメリカに対する従属的関係からスタートした戦後日本が、自らの「民主主義」にも「戦争放棄」にも大きな自己矛盾を抱えていたのにも関わらず、その難題からは目を背けてきた、という歴史にもよると思います。)

専門家が自分の専門外のことについてしゃべる意見は、その専門家がどれほど自分の専門分野での権威であったとしても、
しろうと意見でしかありません。それが合っていることもあれば、間違っていることもあるとは思いますが、それはその専門家がどんなに自分の専門分野で超一流であるか、によって確率が変わることはありません。
それほどに細分化され、各学問の中ですら隣接分野のことがよくわからないような現代において、特に「誰もが素人でしかない」分野が「政治」であるのです。そして日本の戦後の特殊事情から「政治のことはとりあえずおいといて、経済発展目指そう!」という積み重ねによって、日本人は政治について学ぶこと、関わることの大切さをわからないままに育ち、そして安易なシニシズムによって自分が努力せずに一定の政治的意見を持っているかのように振る舞う仕草を身に着けてしまっている、と危惧しています。

仮に東大理三やその他難関大医学部に合格して、その理三の受験での偏差値が80であろうと、その子が政治について語ることに一定の知性が現れているかはわかりません。というより、今のような事情を鑑みれば、むしろそこには知性が発揮されていないことの方が蓋然性は高い、と言えるでしょう(なぜなら彼らがそこに勉強時間というリソースを充てるメリットがこの社会で生計を立てていく上ではあまりないからです)。ただ、その子が医師になり、社会的発言権を持つようになると、それが「識者」の意見として、世間に流布することになってしまいます(ここも僕はあまりよくわからないのですが、なぜ医師や大学教授が「知的職業」とみなされるのか、医療や学問のある特定分野に関してはもちろん彼らは専門家であるとして、それ以外の分野になぜ知性や判断力があるとみなされているのか、が極めて疑問です。)。

「いやいや。ワイドショー以外に医師が医療の事以外にコメントすることなんか、ないでしょ!」とこの影響を甘く見積もるのはまずいです。彼らが専門であるはずの医療のことについて情報発信をするときにすら、彼らの持つバイアスは彼らの立場を必ず規定します。その立場から縛られたままで繰り広げられる彼らの主張に客観性や科学的態度があるかのように思ってしまうと結果として大きな失敗になりうる、ということがこの新型コロナの「専門家」の提案する「対策」についてでも、よく見えたのではないかと思います。(STAP細胞騒動のときにも露呈しましたが、発表される「データ」を学問というのは基本的には信じた上で推論をするしかありません。もちろんその「データ」が改ざんされていたり、隠蔽されていたり、都合のよいものだけを公表したりというその推論の前段階で操作をされてしまっていると、そこに基づく推論、あるいはその推論に基づく対策自体が、最高の知性を集めても的はずれなものにならざるをえません。そして、森友問題や桜を見る会その他の様々な政治的スキャンダルを見ても、コロナ対策においてもまた、今の政府が自分たちに都合の悪い数字を改ざんや隠蔽をしない動機があまりないと思います。森友問題や加計問題、桜を見る会などはネポティズムという腐敗の現れであったとしても、問題としてはそれほど大きな問題ではありません。しかし、その「小さな」問題ですら、公文書改ざん・隠蔽を徹底的にしては、自らの非を認めない政府が果たして、より大きな自らの失政に対してデータや文書を改ざんしたり隠蔽したりしないわけがないのです。「小さな」問題に目くじらを立てない、というある意味日本人の鷹揚さが、コロナ対策に限らずより「大きな」問題に対するチェックをできないものにしている、と言えるでしょう。これも政治について考えることを放棄した帰結です。)

「学べば学ぶほど、自分がわかっていないことに気付かされる」のは、どの学問においてもそうであるわけですが、
しかしましてや、専門外となると、ですね。学ぶべきことは多く、人生はあまりにも短いです。
そしてそれは狭い分野でのちっぽけな成功で「天才」だの「賢い!」だの言われている人間たちにとっても
またそうであるのです。だからこそ、自分の愚かしさを直視して、知らないことを学び、わからないことを調べ、考えていくことが大切であり、専門外のことについて自分が気軽に言える意見は、あまり突き詰めて考えていない誰かの意見の受け売りでしかなく、それを表明することがこの社会にとって害悪を垂れ流すことに繋がっていないかを厳しくチェックしていかねばなりません。そのことを僕自身も肝に銘じて、生徒たちにもしっかりと伝えていきたいと思います。

その上で政治、というテーマはそのように皆が専門に特化する中でみんなにとって盲点となりやすい
ところです。誰の人生にとっても、左右してしまうだけの大きな力を持つのに、です。
その結果が現在の日本の状況である、と思っています。だからこそ、皆が素人ながら学び、調べ、考えては
誰かの受け売りで思考停止する自分を許さぬように、徹底的に疑っていく必要があると思います。

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引っ越しやさん。

引っ越しネタが続いてしまって恐縮ですが、今回も引っ越しの話です。

この25年くらいで特にインターネットの発達により大きく社会は変わった、というのが一般的な見方であるわけですし、この解釈はこの解釈で一理あるわけですが、ほぼ何も発達していないところも多いと僕は思っています。
その一つが、引っ越し屋さんです。

いやいや、見積もりをネット上で複数の見積もりをいっぺんにとれるようになった!とか引っ越し帰りのトラックを利用したり同じ方向への引っ越しするトラックの空きを利用して安く引っ越しを頼めるサービスが生まれたり、といわゆる「情報」の部分ではこの業界も大きく変わったとはいえます。ただ、肝心の荷物を運ぶ、という段階になってくると、やはり鍛え抜かれた引っ越し作業員の皆さんの筋肉とチームワークに頼らざるをえないわけで、これに関してはこの25年くらいで何も変わっていないところであると思います。

一般に情報技術の発達による「革命」はハード面での発達を置き去りにしているのが、現在の状況である、と言えるのかもしれません。ネットでクリック一つで自宅に届く、といえば非常に先進的な経済のように思えますが、そこで運んでくれるのはクロネコヤマトや佐川急便のお兄さんの身体です(もっともアマゾンはドローンを使った配達サービスの実験をしているらしいので、これもまだ変化する余地があるかもしれません。)。引っ越し屋さんしかり、ですね。雨の日に我々が使うものも傘や合羽と、これも何十年、下手したら百年ほど変わっていないのかもしれません。

だからこそ、「情報(特に視覚情報)」面での発達によってこの社会の発達を測ろうとすればするほどに、それでは社会の進化の度合いを過大評価することになります。アマゾンの巨大な倉庫で働く人(これも最近は機械化されているそうですが)、それを運ぶ宅急便の配達員の人、引っ越し屋さんの作業員さん、そういった物理的な「作業」を軽減するような革命というのはほとんど起きていない、という視点を忘れないことが大切であると思っています。

だからこそ、逆にこれからの技術革新においてブルーオーシャン(未開拓の分野だからこそ先行者利益が得られる分野)は、そのような物理的作業をいかに軽減できるような装置を作っていけるか、というところになるわけです。その点ではアマゾンのドローンを使った配達サービスなんかはかなり筋がよいことになります。食洗機などもその流れではやはりひとつの革命でした。逆に「日本にGAFA(google,amazon,facebook,apple)が生まれないのは何故だ!」と言っては情報産業にこれからもイノベーションが起きる、とそちらに投資ばかりをしているのでは大局を見誤っている、とも言えるでしょう。

そのような文脈を踏まえていれば、この洗濯した後の衣類をたたむ機械、というのは将来的にビジネスとしてとても大きく膨らんでいく可能性があった、と言えるでしょう。かつての全自動洗濯機や食洗機が(主として女性の)家事労働を減らすことに繋がったのと同じように、です。まず全世界で必ず必要となる機械であり、しかも先に述べた物理的な「作業」を軽減する方向に、という意味ではこの社会の発達の中で取り残されている部分のレベルを上げることにもなったはずです。これをたった一種類の衣類をたためないがゆえに出資元の大企業がお蔵入りにしてしまい、この機械を作ろうとしていたベンチャー企業が破産手続きをせざるをえなくなる、というところに、日本の企業の二匹目のドジョウを狙うこと以外にはできない大局観のなさが現れている、と言えるでしょう。このようにして、日本社会はせっかく生まれた有望な芽を育てることができず、そしてどんどん地盤沈下していくしかない、という本当に残念な一例になってしまっています。

もちろん、どこに革新的なものがあるのかを見つけることは極めて難しいことです。外部から見ればこのようにどうしようもなくアホな失敗を、今私達が目の前でしていないかといえば、決してそうではありません。だからこそ、私たちは必死に目を凝らし、その意味を考え、その上でどのような取り組みに対して自分が命をかけて伸ばしゆこうとするのかを必死に考えていかねばならないわけです。自分のそのような伸びゆく芽を見逃す愚かしさを恐れるからこそ、必死に勉強してはこの一瞬一瞬を大切にしていくしかありません。

太宰治が「『キリストの時代に私達が生きていれば、決してキリストを殺させやしなかった。』と言っているお前がまさに現代において目の前の「キリスト」達を殺しているのだ。」ということを書いていました。人間は自分とは違う思想に対して違和感を感じ、それを排斥する理由を見つけようと躍起になってしまうものです。その異物を排斥するための理由が、「常識」です。だからこそ、常識を疑う力をつけていくために、一人一人を鍛え抜いていかねばならないですし、そのことの遠い帰結が実はイノベーションの土台となっていくのだ、と思っています。(もちろん、その「常識」を疑えない人が会社組織あるいは官僚組織において出世しやすい、という社会構造上の問題点がそもそもこのような愚かな失敗を量産している、ということについてはまた別の機会に書きたいと思いますが。まずは、疑える人が増えることが必要である、と思っています。)

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社会変革など起こし得ないとしても。

巷では『意識高い系」学生のカリスマ的存在が、実は東大卒と学歴詐称していた!という話題で持ちきりです。もちろんこの「意識高い系」学生の存在については、何も疑いも持たずに、かと言って大したこともやらずに、自分たちが優秀/やる気がある/社会貢献できると思っているものの、結局やっていることと言えば有名人との繋がりを作ろうとしているだけで、本当に空虚なものであることが多くの人にもよくわかったと思います。このあたりは小保内太紀さんのこの記事にもありますし、僕も全く同感です。(そもそもこの小保内さんは、そのような「意識高い」系の大学生が集まるG1サミットという、まあこれも軽薄なイベント(参加したことのある教え子もいるのであまり文句は言いにくいのですが…)へ小保内さんが参加した上で、いかにそこでの議論が薄く、内容がないのに参加している学生たちが全能感に浸っていることへの批判も前々からされていて、見識が高い学生さんもいるなあ、と感心させられたものです。もちろん、小保内さんのような批判ができる学生があまりにも少ないことこそが問題ではあります。)

そもそも「社会変革」「社会貢献」その他何でも自分や家族の糊口をしのぐ以上の仕事をしようとすれば、どのような「天才」であっても、もがき苦しまざるをえないだけでなく、目に見える成果などなかなか容易には出し得ないことなど、古今東西の先例を少し勉強すればわかります。たとえば明治期の日本を代表する知識人である中江兆民は、政府の不正や欺瞞を追及するはずの清廉な野党議員が貧しさ故に政府側に買収されていくことに苦慮した結果、彼らが買収を拒絶できるように売春宿を経営しようとして、結局失敗しました。彼のとった手段が適切ではなかったのかどうかについては議論の余地があるとは思いますが、彼が何とか社会を良くしようとしたこと、その上で必死にあれこれやっていたことは確かです。そして彼ほどの知の巨人であっても、その努力もうまくいかなかったこともまた。

僕自身も中3くらいには、自分と家族、友人くらいに範囲をとどめてその内部に貢献できるような人生など、自分のスペックであればまあ容易だな、と気づいていました。しかし、そこからがしんどかったです。そういった個人的な人生を享受するのではなく、少しでも社会貢献、社会変革に繋がるような「仕事(≠職業)」を自分ができるか、と何度自問自答しても、どんなに調べたり勉強したりしてもなお、自分の力では極めて不可能に近いとしか思えませんでした。「自分にできるかどうかを考えるのではなく、やらないと自分が死ぬ時に死んでも死にきれないから、やるしかない。。」と(馬車の車輪が直ってしまい、イライラしながら自己を滅ぼす道に向かう『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように)決意して始めてからもなお、今に至るまで、本当にうまくいかないことだらけで、悪戦苦闘の毎日です。

特に優秀な人々であったとしても、いや、優秀であればあるほどに、そのように自分一人の力ではこの社会は何も変えられないという事実に絶望した経験が必ずあると僕は思っています。時にそれは「もうそんな誰にも理解されない思いなど捨てて、自分と家族の幸せだけを考えていたい!」と思うほどに(バートランド・ラッセルが『My philosophical development』の中でそのように「絶望して人類への愛という方向性を諦めた」と誰か(ヴィトゲンシュタイン?完全に忘れました…。ググっても出てこないのでまた読み直します…)を批判していたと思います)。
そして、そのようにもがき苦しみながらも、それでもなお諦めずに努力している人々は、決して「社会変革」などという大仰な言葉を使いません。「自分が好きでやっていることだから。」「自分にはこの道しか選べないから。」などとそれを選んでいることがあくまで個人的な動機のように語ります。そのような姿勢においては「個人」と「社会」がつながっているわけですが、それよりも大切なことは、彼らは「社会変革」という理念が他人に共感を得られるとは毛頭思っていない、ということです。人間は保守的である以上、それが仮により良い方向への変革であったとしても、それをすぐに皆が理解できるわけがありません。

逆に「社会変革」というお題目を唱えれば信者を獲得してビジネスになる、あるいは何かしらの大義名分を得られることで少しは自分のパッとしない人生に彩りを与えることが出来る、と思ってしまう人ほどに「社会変革」を語りたがります。上に書いたように地道に努力し続ける人、社会変革への思いを「自らの動機」と読み替えて生きる人(これはすなわち、伝わらないものは伝わらない、あるいは語り得ないものは語り得ないという慎重な態度でもあります)が声高には語らないからこそ、「社会変革」を声高に語る人々に若い子たちは騙されるし、容易に飛びつき、そしてさらにはその自分たちの軽挙妄動を「失敗するチャンスがある!」などと自己正当化することになってしまいます。

そして自分一人で絶望的な努力を重ねる努力をする前から、「一人の力では足りない!」とわかったかのように「ネットワークづくり」へと走ってしまえば、有名人とツーショット写真を撮れば箔がつき、それを利用してあたかも「すごい人」であるかのように振る舞うことで、フォロワーを獲得してビジネスを回す、という(まあこれだけ書くと学生に限らないようにも思いますが)仲間づくりだけが目的の人間になってしまいます。

そのような行為からは、決して何も生まれません。仲間が必要だとしても、その仲間は大きな岩にトンネルを掘るかのような地道で報われずさらには成功するかどうかもわからない作業において、黙って一緒に穴を掘り続けてくれる仲間でなければならないのです。

漫画『暗殺教室』(本当に名作です!)の中で、「教師になる動機には自身の成功を伝えたい場合と自身の失敗を伝えたい場合とがある。」という名言がありましたが、大人が若い世代に対してできること、というのは僕は教師に限らず「自身の失敗を伝える」ということだけであるのだ、と思います。それも昔の失敗だけでは駄目です(それすらもできる大人は親にも教師にもなかなかいませんが)。絶えず取り組み、絶えずチャレンジし、絶えず失敗に終わる。これは、社会の問題点を変えようと必死にもがき、取り組み続けている人なら誰でも日々感じている繰り返しだと思いますが、それを若い世代に伝えていく、ということが若い世代にとっては一番の財産になると思います。それはまた、僕自身が子供時代にそのような大人に(親や教師を含めて)一人の恩師以外には出会えなかった、という自身の個人的な動機にも拠るものです。

だからこそ、今日も意味のあることを為せるように取り組み、今日も失敗し、その上でそれを伝えていきたいと思っています。若い世代の無知や無謀さを、諌めるだけで何もしないのでも、煽(あお)って利用して小銭を稼ぐのでもなく、ただただまずは自分自身が社会の課題だと思うものに、どんなに失敗しようとも無謀にも取り組み続け、「大きな岩」にもトンネルを掘るつもりで必死に戦っては、その失敗を若い世代に伝えていきたいと思っています。

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恩寵とは。

最近の私生活の近況としては、僕自身の願いとしては狭いマンション暮らしを一生続けたかったのですが、義父母の介護など止むにやまれぬ事情が出てきて、一軒家に引っ越しをすることになりました。貯金もない中で新たに住宅ローンを組むわけですが、そうは言っても僕の両親にも家内の両親にも金銭的サポートをしてもらえるだけ、まだ何とかやっていけそうです。

という自分の立場になってみて初めて、親のありがたさがわかるとともに、その恩恵を受けることができない中で生きていかねばならない、という人たちのしんどさを改めて痛感しています。特にこの20年で実質賃金はダダ下がりなわけで、その中で明らかに2、30年前の親世代と我々の世代との間で、そして今の20代とではさらに庶民の生活レベルがどんどん厳しくなっていってしまっているわけです。それでも両親からの援助が見込めるような我々世代はまだ何とかなるにせよ、同じ世代であっても両親からの援助は見込めない人、さらには下の世代になればなるほどに厳しくなっていってしまいます。

僕自身、塾を開いてから様々な相談に乗ったり力になろうとしてきたわけですが、それらというのは大抵「親がいるから」子供が苦しむ、という類の悩みでした。それはそれで(虐待として明確化しないとしても)様々な問題があり、それに取り組んできているつもりでしたが、「親がいないから」の苦しみに対しては塾としてはなかなか対処ができていない、というのは事実です。具体的に対処ができていないだけではなく、そもそも実感を持ってその状況でこの社会で生きていくしんどさを理解できるのか、と言われればそれはやはり理解しようとしていても全く理解できていない、というのが現実であると思います。

有島農場を小作人に分配した有島武郎のようにすら、全くできていません。親が残してくれるものに頼らずに生きることすらできない自分自身に不甲斐ない思いをもちます。それとともに、自身が親の残してくれるものに頼らずにそれを分配できてなお、有島が悩んだように自身の中に残る文化的資本は、僕の中から消えないものです。親が金銭的に余裕があり、中学受験の塾に通わせられ、私立の中高に通わせられ、そして大学の学費を払ってくれたからこそ、今の僕があるわけです。この思いは僕自身中高生の頃にもひどく悩んだのですが、年齢を重ねれば重ねるほどに、その差のとてつもない大きさというものを実感していきます。自分の努力によって成し遂げられている部分など、本当に一部で、だからこそ自分が生きられることは決して自分が努力したからではないのです。

だから親孝行を、というと「安全な」思想で、だから社会の格差をなくそう!となってくると「危険な」思想のかもしれませんが、僕はこの「自分自身が生きていけるのは決して自分の力や努力がその理由ではない。」という意識こそが大切であると考えています。もちろん、その意識も今回のことで改めてわかったように、極めて不徹底で何も解ってはいなかったとも言えるでしょう。しかし、それでも自分自身のそのアホさを見つめた上で、自分に何ができるかを再度問い直していくしかないのだと思います。

「原罪」という概念もそのための発明品だと僕は思っているのですが、どのような発明品も、その効用と弊害とがあります。どちらにせよ、自分の力や努力で生きれているわけではない、という事実の認識を元に自分が他の人に何ができるかを考えていくことのほうが、「これだけ稼げるのは俺が有能だからだ!」という姿勢よりは少なくとも生産的であるのだ、と思います。また真の芸術とは、その食っていくこと、と向き合っているかどうかが重要であるとも思います。僕がゴッホの手紙を読んで一番心打たれたのは、あんなに何もお金を稼げないままに死んでいったゴッホが、それでも「絵が売れたら、テオにお金を返したい!」と最期まで思っていた、ということでした。自分が生きられているのは決して自分の努力や力のおかげではなく、誰かのおかげであるとして、その誰かに対して自分がどう生きるか、こそが芸術にとって一番大切なものであるとも思っています。もちろん、それは直接返しても、他の人に返しても、それはそれでどちらでもよいのです。それでも、返そう!という思いがあるかどうかこそが、僕には芸術や作品を通じて、あるいは生きている中での様々な行為を通じて感じ取りたいところだと思っています。

恩寵(おんちょう)とは、それを感じることのできる内面において、初めて意味のあるものです。結局人間の世界を動かすものは、その恩寵を感じることができるかどうかだと思います(もちろん、それが閉じた共同体の中でしか機能しない場合には賄賂とか癒着にもなってしまうわけですが)。
僕自身の様々な努力も、少しでもそのどうにも取り返しのつかない恩寵を何とか取り返そうとすることにも繋がるように、必死にやっていきたいと思います。

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何かに懸命に取り組むとは、別の何かを見殺しにするため。

どのように優れた人でも人間の能力には限りがあるからこそ、何かについて真剣に取り組むことは、別の何かを見殺しにすることになってしまいます。それは一個人にかぎらず、たとえば新聞やテレビの報道というのもどうしても放送時間や紙幅は限られているからこそ、何かについて語る、ということは何かについては語らないことになってしまいます。

「報道機関が流すのは嘘ばかりだ!」というのが誤りだとしても、それは社会にとって喜ぶべきことではありません。なぜなら、嘘をつかなくても、語りたくないものについては語らなければいいだけであるからです。有名芸能人が麻薬で捕まった話さえしておけば、下世話な我々の関心はそこに惹きつけられ、もっと語らなければならないけれども、語ると様々な抑圧を受けたり摩擦が生じるものについては語らないままでいるほうがむしろ視聴者や読者のお望み通りになるわけです。ここでは作り手の「めんどくさいものを作って政府やスポンサーと摩擦を生じたくない。。」という消極的な願いと視聴者や読者の「考えねばならないめんどくさいニュースを見て考えたくない。。」という消極的な願いとの共犯関係によって、テレビや新聞が愚にもつかないことだけを選び抜いて流すようになってしまっているわけです。

これはあるいは思想についてもそうで、何かについて語る、ということは何かについては語らないことを意味します。だからこそ、何かについて語ることで別の何かについては語らない自分を隠蔽することができてしまいます。
饒舌に皆が語る社会、というのはこのように語りたくないことについて語ることを別のことについての饒舌でごまかす社会である、と言えるわけです。これはもちろんマスメディアだけではなく、今書いているこのブログも含め、このような個人ブログこそ、まさにそういったもので、語りたくないものを隠すために他の何かについては饒舌に語り続ける、というこの姿勢の権化のようなものがブログです。インターネットの普及によって、語られる言葉は爆発的に増え、語る人もまた爆発的に増えたのにもかかわらず、それが何も生産的ではない、というのはまさにこのためであると言えるでしょう。

そもそも人間というのは怠惰な生き物なので、語るのがしんどい、めんどくさい、うっとうしい、弾圧されるなど様々なことについては当然避けるものであるのです。テレビ局や新聞社が芸能人の麻薬問題で大騒ぎして、もっと取り扱うべき現在の社会の抱える問題点についてはほぼ素通りしていることを糾弾する前に、自身がそのようにめんどくさいことを後回しにしては語りうる言葉だけを語っていないのか、それについて猛省する必要が私達一人ひとりにはあると思っています。

受験勉強もそのようなもので、勉強をしない受験生、というのは実はそんなにいません。問題はどの勉強をするか、についてであり、ある勉強をすることは別の勉強をしないことになるのにもかかわらず、「まあ、(苦手なものを避けているといっても)勉強をしているから大丈夫でしょ!」と自分をごまかすことで不合格へと近づいていきます。そのように自分が取り組みたくない、そもそも見たくもないような事実から、どのように目を背けさせないようにしていくかが教師の役割であるのだと思いますが、これが極めて難しいです。自分が取り組みたくないものには取り組まない方がむしろうまくいく!という自己正当化をほとんどの受験生は理論武装してしまっていることが多いからです。その彼らの脆弱な自己を現実から守るための理論武装を一枚、また一枚と武装解除をしていっては、自己正当化の鎧をどこまで剥がしていけるのか、が教育であるのでしょう。

翻って、見たいニュース、知りたいニュースだけを知りたがる私達の弱い心は、どのように都合の悪く考えねばならない現実へと目を向けることができるのでしょうか。。
これに関しては僕自身も答がありません。教育にはそのような力がある、と思っているから教育に取り組んでいるわけですが、しかしこれもいつでもうまくいくわけではないだけでなく、若い頃にそのように鍛えたとしてそれが生徒たちの中でいつまで続いてくれるのかも、わかりません。

それでも諦めずに、そしてまずは自分自身がそのような「見たいものを見る」という過ちを犯さないように、必死にもがいていきたいと思います。







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peer review 社会について。

人間というのはどうしても心が弱いもので、近くの人に対しては、つい目をつぶりたくなります。近くの人、というのは自分の家族、親しい人、仕事でお世話になっている人、その他様々ですが、そのような人の不正に対してはどうしてもそれが自分にとってより遠くの人にとって害悪であったとしても、なかなか糾弾できるものではありません。それは即ち、自分にとって今味方してくれている人を敵に回すことになれば、自分が受ける不利益があまりにも大きくなってしまうからです。

だからこそ、そのような逡巡を乗り越えて「ダメなものはダメだ。」「違うものは違う。」と言える人、というのは
本当に尊敬できる人物であると思います。そのような人たちこそ、お互いの立場に分かれて議論をする際にも、
立場の違いを乗り越えて、何が正しいかを我々が考えることのヒントを与えてくれると思います。

最近、そのような研究者の方をまた一人見つけて、前々から知ってtwitterでフォローもしていたものの、改めてすごいなあと感心させられています。

「何が正しいか」を人間関係よりも優先しようとするこのようなしんどい努力の全てに、僕は敬意を払います。
「研究者は真理を探求するもの」と我々はつい思いがちですが、研究者にも自身の「真理探求活動」を保証してくれる制度してのアカデミアとそこでの仲間意識というものに対してはできるだけ批判をしないようにしたい、という動機が常に働かざるを得ません。これも当たり前で、彼らのやっていることは(専門性が高く、門外漢には理解がしにくい)研究者同士のcommunityでのみ評価が可能であるからこそ、(論文がpeer reviewを受けるように)彼ら自身もpeer review(仲間からの評価)が重要であるわけで、そのためには門外漢に同意するよりは、研究者仲間を互いに守り合っておく方が無難だとつい思ってしまうという誘惑は常に強いのではないでしょうか。もちろん、先に挙げた方のように、その誘惑に抗して「違うものは違う!」という姿勢をとられる研究者の方もいることは本当に素晴らしいと思いますが、その誘惑は常に強く働いていると思います。

そして、もちろんこのような事態は現在の日本ではどこにでも見られるようです。peer(仲間)からの評価さえ高ければ非科学的でトンデモな主張を信じる知的レベルの人でも、国会議員になれる日本社会ですから。

peer review(仲間からの評価) を公正な制度でなくしていくためには、peer を抱き込んでいけばよいことになります。もちろん、本来の語源である論文の査読に関してはそういうことをさせないためにこそ、匿名の査読者を用意しなければならないわけですが、まあそれにもあまりにも細分化した学問の世界において、分野が違えばそもそも評価ができない、という限界があるためにpeer reviewを有意義な論文であるかのチェックにしようとするか、そうではなくpeerを抱き込んで自分の立場の安定を図るだけの共犯関係におとしめてしまうかは、結局真理に対しての論文筆者本人の襟の正し具合に左右されてしまう、という部分が残らざるをえないのかもしれません。

さらに、です。どこまでがpeer であるかを狭くとっていけば、このような真実を歪めて互いにかばい合う、という自分たちがやっている不正が不正であることにすら、気づけなくなっていくわけです。医学部不正入試問題での順天堂大学の「女子はコミュニケーション能力が高いから、面接点を下げた!」のように、ですね。あれを「科学的根拠がある」と大学のホームページで言い張り続けているのも、医学研究者というpeerの中では「アホなこと書いてますが、素人向きにはこういうこと言っとかないと仕方ないんだよ。素人なら『科学的根拠』って言ったら黙るでしょ。。」と苦笑しあっているのかもしれません。しかし、それに対する批判が驚くほど同業者からは出てきません。
あれほどひどいものでないとしても、非専門家を排除し、彼らのliteracyの低さを嘲笑することに後ろめたさを感じなくなった専門家は全て似たような轍を踏んでいる恐れがある、と言えるでしょう。

社会学が、まさに(国家や家庭といったわかりやすい集団ではなく)目には見えない人と人とのつながり、同じ空の下の人同士のつながりとしての「社会」を発見するものから始まったのだとすれば、peer を丸め込み、抱き込み、その中での互いの不正に互いに目をつぶる姿勢とは、「社会」を抹殺するものです。そのような姿勢を皆がとる社会を「peer review 社会」と呼ぶのであれば、それはまさに「社会」という概念が絶滅された後に樹立されるものとなります。

そして、その社会学によって発見された「社会」のように、互いにpeer ではない人々がどのように共に生きるかを模索し合うときにこそ、何が正しいのか、という追求こそが重要になってくるわけです。逆に何が正しいのか、何が真理であるのかを求めなくなった社会というのは、閉じたpeer 同士の共犯関係によって全てが決められていく社会です。去年の森友問題や加計問題とかを見れば、この国がもはやそうなっていることはよくわかるとは思います。しかし、それは何も長期政権だけが悪いわけではありません。政治的なprotestや投票行動は取るべきだとして、それとは別に私達自身のpeer review しか私達が気にしない、という内向きな姿勢の結末が、現在の状況である、という残酷な事実にもまた、しっかりと目を向けて徹底的に反省すべきであると僕は思っています。

だからこそ、仲間うちでの評価を超えて、正しいものが何かを探そうとする方たちを僕は心から尊敬しますし、自身もその姿勢を出来る限り貫けるように、必死に努力していきたいと思っています。

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