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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

引っ越しやさん。

引っ越しネタが続いてしまって恐縮ですが、今回も引っ越しの話です。

この25年くらいで特にインターネットの発達により大きく社会は変わった、というのが一般的な見方であるわけですし、この解釈はこの解釈で一理あるわけですが、ほぼ何も発達していないところも多いと僕は思っています。
その一つが、引っ越し屋さんです。

いやいや、見積もりをネット上で複数の見積もりをいっぺんにとれるようになった!とか引っ越し帰りのトラックを利用したり同じ方向への引っ越しするトラックの空きを利用して安く引っ越しを頼めるサービスが生まれたり、といわゆる「情報」の部分ではこの業界も大きく変わったとはいえます。ただ、肝心の荷物を運ぶ、という段階になってくると、やはり鍛え抜かれた引っ越し作業員の皆さんの筋肉とチームワークに頼らざるをえないわけで、これに関してはこの25年くらいで何も変わっていないところであると思います。

一般に情報技術の発達による「革命」はハード面での発達を置き去りにしているのが、現在の状況である、と言えるのかもしれません。ネットでクリック一つで自宅に届く、といえば非常に先進的な経済のように思えますが、そこで運んでくれるのはクロネコヤマトや佐川急便のお兄さんの身体です(もっともアマゾンはドローンを使った配達サービスの実験をしているらしいので、これもまだ変化する余地があるかもしれません。)。引っ越し屋さんしかり、ですね。雨の日に我々が使うものも傘や合羽と、これも何十年、下手したら百年ほど変わっていないのかもしれません。

だからこそ、「情報(特に視覚情報)」面での発達によってこの社会の発達を測ろうとすればするほどに、それでは社会の進化の度合いを過大評価することになります。アマゾンの巨大な倉庫で働く人(これも最近は機械化されているそうですが)、それを運ぶ宅急便の配達員の人、引っ越し屋さんの作業員さん、そういった物理的な「作業」を軽減するような革命というのはほとんど起きていない、という視点を忘れないことが大切であると思っています。

だからこそ、逆にこれからの技術革新においてブルーオーシャン(未開拓の分野だからこそ先行者利益が得られる分野)は、そのような物理的作業をいかに軽減できるような装置を作っていけるか、というところになるわけです。その点ではアマゾンのドローンを使った配達サービスなんかはかなり筋がよいことになります。食洗機などもその流れではやはりひとつの革命でした。逆に「日本にGAFA(google,amazon,facebook,apple)が生まれないのは何故だ!」と言っては情報産業にこれからもイノベーションが起きる、とそちらに投資ばかりをしているのでは大局を見誤っている、とも言えるでしょう。

そのような文脈を踏まえていれば、この洗濯した後の衣類をたたむ機械、というのは将来的にビジネスとしてとても大きく膨らんでいく可能性があった、と言えるでしょう。かつての全自動洗濯機や食洗機が(主として女性の)家事労働を減らすことに繋がったのと同じように、です。まず全世界で必ず必要となる機械であり、しかも先に述べた物理的な「作業」を軽減する方向に、という意味ではこの社会の発達の中で取り残されている部分のレベルを上げることにもなったはずです。これをたった一種類の衣類をたためないがゆえに出資元の大企業がお蔵入りにしてしまい、この機械を作ろうとしていたベンチャー企業が破産手続きをせざるをえなくなる、というところに、日本の企業の二匹目のドジョウを狙うこと以外にはできない大局観のなさが現れている、と言えるでしょう。このようにして、日本社会はせっかく生まれた有望な芽を育てることができず、そしてどんどん地盤沈下していくしかない、という本当に残念な一例になってしまっています。

もちろん、どこに革新的なものがあるのかを見つけることは極めて難しいことです。外部から見ればこのようにどうしようもなくアホな失敗を、今私達が目の前でしていないかといえば、決してそうではありません。だからこそ、私たちは必死に目を凝らし、その意味を考え、その上でどのような取り組みに対して自分が命をかけて伸ばしゆこうとするのかを必死に考えていかねばならないわけです。自分のそのような伸びゆく芽を見逃す愚かしさを恐れるからこそ、必死に勉強してはこの一瞬一瞬を大切にしていくしかありません。

太宰治が「『キリストの時代に私達が生きていれば、決してキリストを殺させやしなかった。』と言っているお前がまさに現代において目の前の「キリスト」達を殺しているのだ。」ということを書いていました。人間は自分とは違う思想に対して違和感を感じ、それを排斥する理由を見つけようと躍起になってしまうものです。その異物を排斥するための理由が、「常識」です。だからこそ、常識を疑う力をつけていくために、一人一人を鍛え抜いていかねばならないですし、そのことの遠い帰結が実はイノベーションの土台となっていくのだ、と思っています。(もちろん、その「常識」を疑えない人が会社組織あるいは官僚組織において出世しやすい、という社会構造上の問題点がそもそもこのような愚かな失敗を量産している、ということについてはまた別の機会に書きたいと思いますが。まずは、疑える人が増えることが必要である、と思っています。)

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社会変革など起こし得ないとしても。

巷では『意識高い系」学生のカリスマ的存在が、実は東大卒と学歴詐称していた!という話題で持ちきりです。もちろんこの「意識高い系」学生の存在については、何も疑いも持たずに、かと言って大したこともやらずに、自分たちが優秀/やる気がある/社会貢献できると思っているものの、結局やっていることと言えば有名人との繋がりを作ろうとしているだけで、本当に空虚なものであることが多くの人にもよくわかったと思います。このあたりは小保内太紀さんのこの記事にもありますし、僕も全く同感です。(そもそもこの小保内さんは、そのような「意識高い」系の大学生が集まるG1サミットという、まあこれも軽薄なイベント(参加したことのある教え子もいるのであまり文句は言いにくいのですが…)へ小保内さんが参加した上で、いかにそこでの議論が薄く、内容がないのに参加している学生たちが全能感に浸っていることへの批判も前々からされていて、見識が高い学生さんもいるなあ、と感心させられたものです。もちろん、小保内さんのような批判ができる学生があまりにも少ないことこそが問題ではあります。)

そもそも「社会変革」「社会貢献」その他何でも自分や家族の糊口をしのぐ以上の仕事をしようとすれば、どのような「天才」であっても、もがき苦しまざるをえないだけでなく、目に見える成果などなかなか容易には出し得ないことなど、古今東西の先例を少し勉強すればわかります。たとえば明治期の日本を代表する知識人である中江兆民は、政府の不正や欺瞞を追及するはずの清廉な野党議員が貧しさ故に政府側に買収されていくことに苦慮した結果、彼らが買収を拒絶できるように売春宿を経営しようとして、結局失敗しました。彼のとった手段が適切ではなかったのかどうかについては議論の余地があるとは思いますが、彼が何とか社会を良くしようとしたこと、その上で必死にあれこれやっていたことは確かです。そして彼ほどの知の巨人であっても、その努力もうまくいかなかったこともまた。

僕自身も中3くらいには、自分と家族、友人くらいに範囲をとどめてその内部に貢献できるような人生など、自分のスペックであればまあ容易だな、と気づいていました。しかし、そこからがしんどかったです。そういった個人的な人生を享受するのではなく、少しでも社会貢献、社会変革に繋がるような「仕事(≠職業)」を自分ができるか、と何度自問自答しても、どんなに調べたり勉強したりしてもなお、自分の力では極めて不可能に近いとしか思えませんでした。「自分にできるかどうかを考えるのではなく、やらないと自分が死ぬ時に死んでも死にきれないから、やるしかない。。」と(馬車の車輪が直ってしまい、イライラしながら自己を滅ぼす道に向かう『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように)決意して始めてからもなお、今に至るまで、本当にうまくいかないことだらけで、悪戦苦闘の毎日です。

特に優秀な人々であったとしても、いや、優秀であればあるほどに、そのように自分一人の力ではこの社会は何も変えられないという事実に絶望した経験が必ずあると僕は思っています。時にそれは「もうそんな誰にも理解されない思いなど捨てて、自分と家族の幸せだけを考えていたい!」と思うほどに(バートランド・ラッセルが『My philosophical development』の中でそのように「絶望して人類への愛という方向性を諦めた」と誰か(ヴィトゲンシュタイン?完全に忘れました…。ググっても出てこないのでまた読み直します…)を批判していたと思います)。
そして、そのようにもがき苦しみながらも、それでもなお諦めずに努力している人々は、決して「社会変革」などという大仰な言葉を使いません。「自分が好きでやっていることだから。」「自分にはこの道しか選べないから。」などとそれを選んでいることがあくまで個人的な動機のように語ります。そのような姿勢においては「個人」と「社会」がつながっているわけですが、それよりも大切なことは、彼らは「社会変革」という理念が他人に共感を得られるとは毛頭思っていない、ということです。人間は保守的である以上、それが仮により良い方向への変革であったとしても、それをすぐに皆が理解できるわけがありません。

逆に「社会変革」というお題目を唱えれば信者を獲得してビジネスになる、あるいは何かしらの大義名分を得られることで少しは自分のパッとしない人生に彩りを与えることが出来る、と思ってしまう人ほどに「社会変革」を語りたがります。上に書いたように地道に努力し続ける人、社会変革への思いを「自らの動機」と読み替えて生きる人(これはすなわち、伝わらないものは伝わらない、あるいは語り得ないものは語り得ないという慎重な態度でもあります)が声高には語らないからこそ、「社会変革」を声高に語る人々に若い子たちは騙されるし、容易に飛びつき、そしてさらにはその自分たちの軽挙妄動を「失敗するチャンスがある!」などと自己正当化することになってしまいます。

そして自分一人で絶望的な努力を重ねる努力をする前から、「一人の力では足りない!」とわかったかのように「ネットワークづくり」へと走ってしまえば、有名人とツーショット写真を撮れば箔がつき、それを利用してあたかも「すごい人」であるかのように振る舞うことで、フォロワーを獲得してビジネスを回す、という(まあこれだけ書くと学生に限らないようにも思いますが)仲間づくりだけが目的の人間になってしまいます。

そのような行為からは、決して何も生まれません。仲間が必要だとしても、その仲間は大きな岩にトンネルを掘るかのような地道で報われずさらには成功するかどうかもわからない作業において、黙って一緒に穴を掘り続けてくれる仲間でなければならないのです。

漫画『暗殺教室』(本当に名作です!)の中で、「教師になる動機には自身の成功を伝えたい場合と自身の失敗を伝えたい場合とがある。」という名言がありましたが、大人が若い世代に対してできること、というのは僕は教師に限らず「自身の失敗を伝える」ということだけであるのだ、と思います。それも昔の失敗だけでは駄目です(それすらもできる大人は親にも教師にもなかなかいませんが)。絶えず取り組み、絶えずチャレンジし、絶えず失敗に終わる。これは、社会の問題点を変えようと必死にもがき、取り組み続けている人なら誰でも日々感じている繰り返しだと思いますが、それを若い世代に伝えていく、ということが若い世代にとっては一番の財産になると思います。それはまた、僕自身が子供時代にそのような大人に(親や教師を含めて)一人の恩師以外には出会えなかった、という自身の個人的な動機にも拠るものです。

だからこそ、今日も意味のあることを為せるように取り組み、今日も失敗し、その上でそれを伝えていきたいと思っています。若い世代の無知や無謀さを、諌めるだけで何もしないのでも、煽(あお)って利用して小銭を稼ぐのでもなく、ただただまずは自分自身が社会の課題だと思うものに、どんなに失敗しようとも無謀にも取り組み続け、「大きな岩」にもトンネルを掘るつもりで必死に戦っては、その失敗を若い世代に伝えていきたいと思っています。

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恩寵とは。

最近の私生活の近況としては、僕自身の願いとしては狭いマンション暮らしを一生続けたかったのですが、義父母の介護など止むにやまれぬ事情が出てきて、一軒家に引っ越しをすることになりました。貯金もない中で新たに住宅ローンを組むわけですが、そうは言っても僕の両親にも家内の両親にも金銭的サポートをしてもらえるだけ、まだ何とかやっていけそうです。

という自分の立場になってみて初めて、親のありがたさがわかるとともに、その恩恵を受けることができない中で生きていかねばならない、という人たちのしんどさを改めて痛感しています。特にこの20年で実質賃金はダダ下がりなわけで、その中で明らかに2、30年前の親世代と我々の世代との間で、そして今の20代とではさらに庶民の生活レベルがどんどん厳しくなっていってしまっているわけです。それでも両親からの援助が見込めるような我々世代はまだ何とかなるにせよ、同じ世代であっても両親からの援助は見込めない人、さらには下の世代になればなるほどに厳しくなっていってしまいます。

僕自身、塾を開いてから様々な相談に乗ったり力になろうとしてきたわけですが、それらというのは大抵「親がいるから」子供が苦しむ、という類の悩みでした。それはそれで(虐待として明確化しないとしても)様々な問題があり、それに取り組んできているつもりでしたが、「親がいないから」の苦しみに対しては塾としてはなかなか対処ができていない、というのは事実です。具体的に対処ができていないだけではなく、そもそも実感を持ってその状況でこの社会で生きていくしんどさを理解できるのか、と言われればそれはやはり理解しようとしていても全く理解できていない、というのが現実であると思います。

有島農場を小作人に分配した有島武郎のようにすら、全くできていません。親が残してくれるものに頼らずに生きることすらできない自分自身に不甲斐ない思いをもちます。それとともに、自身が親の残してくれるものに頼らずにそれを分配できてなお、有島が悩んだように自身の中に残る文化的資本は、僕の中から消えないものです。親が金銭的に余裕があり、中学受験の塾に通わせられ、私立の中高に通わせられ、そして大学の学費を払ってくれたからこそ、今の僕があるわけです。この思いは僕自身中高生の頃にもひどく悩んだのですが、年齢を重ねれば重ねるほどに、その差のとてつもない大きさというものを実感していきます。自分の努力によって成し遂げられている部分など、本当に一部で、だからこそ自分が生きられることは決して自分が努力したからではないのです。

だから親孝行を、というと「安全な」思想で、だから社会の格差をなくそう!となってくると「危険な」思想のかもしれませんが、僕はこの「自分自身が生きていけるのは決して自分の力や努力がその理由ではない。」という意識こそが大切であると考えています。もちろん、その意識も今回のことで改めてわかったように、極めて不徹底で何も解ってはいなかったとも言えるでしょう。しかし、それでも自分自身のそのアホさを見つめた上で、自分に何ができるかを再度問い直していくしかないのだと思います。

「原罪」という概念もそのための発明品だと僕は思っているのですが、どのような発明品も、その効用と弊害とがあります。どちらにせよ、自分の力や努力で生きれているわけではない、という事実の認識を元に自分が他の人に何ができるかを考えていくことのほうが、「これだけ稼げるのは俺が有能だからだ!」という姿勢よりは少なくとも生産的であるのだ、と思います。また真の芸術とは、その食っていくこと、と向き合っているかどうかが重要であるとも思います。僕がゴッホの手紙を読んで一番心打たれたのは、あんなに何もお金を稼げないままに死んでいったゴッホが、それでも「絵が売れたら、テオにお金を返したい!」と最期まで思っていた、ということでした。自分が生きられているのは決して自分の努力や力のおかげではなく、誰かのおかげであるとして、その誰かに対して自分がどう生きるか、こそが芸術にとって一番大切なものであるとも思っています。もちろん、それは直接返しても、他の人に返しても、それはそれでどちらでもよいのです。それでも、返そう!という思いがあるかどうかこそが、僕には芸術や作品を通じて、あるいは生きている中での様々な行為を通じて感じ取りたいところだと思っています。

恩寵(おんちょう)とは、それを感じることのできる内面において、初めて意味のあるものです。結局人間の世界を動かすものは、その恩寵を感じることができるかどうかだと思います(もちろん、それが閉じた共同体の中でしか機能しない場合には賄賂とか癒着にもなってしまうわけですが)。
僕自身の様々な努力も、少しでもそのどうにも取り返しのつかない恩寵を何とか取り返そうとすることにも繋がるように、必死にやっていきたいと思います。

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何かに懸命に取り組むとは、別の何かを見殺しにするため。

どのように優れた人でも人間の能力には限りがあるからこそ、何かについて真剣に取り組むことは、別の何かを見殺しにすることになってしまいます。それは一個人にかぎらず、たとえば新聞やテレビの報道というのもどうしても放送時間や紙幅は限られているからこそ、何かについて語る、ということは何かについては語らないことになってしまいます。

「報道機関が流すのは嘘ばかりだ!」というのが誤りだとしても、それは社会にとって喜ぶべきことではありません。なぜなら、嘘をつかなくても、語りたくないものについては語らなければいいだけであるからです。有名芸能人が麻薬で捕まった話さえしておけば、下世話な我々の関心はそこに惹きつけられ、もっと語らなければならないけれども、語ると様々な抑圧を受けたり摩擦が生じるものについては語らないままでいるほうがむしろ視聴者や読者のお望み通りになるわけです。ここでは作り手の「めんどくさいものを作って政府やスポンサーと摩擦を生じたくない。。」という消極的な願いと視聴者や読者の「考えねばならないめんどくさいニュースを見て考えたくない。。」という消極的な願いとの共犯関係によって、テレビや新聞が愚にもつかないことだけを選び抜いて流すようになってしまっているわけです。

これはあるいは思想についてもそうで、何かについて語る、ということは何かについては語らないことを意味します。だからこそ、何かについて語ることで別の何かについては語らない自分を隠蔽することができてしまいます。
饒舌に皆が語る社会、というのはこのように語りたくないことについて語ることを別のことについての饒舌でごまかす社会である、と言えるわけです。これはもちろんマスメディアだけではなく、今書いているこのブログも含め、このような個人ブログこそ、まさにそういったもので、語りたくないものを隠すために他の何かについては饒舌に語り続ける、というこの姿勢の権化のようなものがブログです。インターネットの普及によって、語られる言葉は爆発的に増え、語る人もまた爆発的に増えたのにもかかわらず、それが何も生産的ではない、というのはまさにこのためであると言えるでしょう。

そもそも人間というのは怠惰な生き物なので、語るのがしんどい、めんどくさい、うっとうしい、弾圧されるなど様々なことについては当然避けるものであるのです。テレビ局や新聞社が芸能人の麻薬問題で大騒ぎして、もっと取り扱うべき現在の社会の抱える問題点についてはほぼ素通りしていることを糾弾する前に、自身がそのようにめんどくさいことを後回しにしては語りうる言葉だけを語っていないのか、それについて猛省する必要が私達一人ひとりにはあると思っています。

受験勉強もそのようなもので、勉強をしない受験生、というのは実はそんなにいません。問題はどの勉強をするか、についてであり、ある勉強をすることは別の勉強をしないことになるのにもかかわらず、「まあ、(苦手なものを避けているといっても)勉強をしているから大丈夫でしょ!」と自分をごまかすことで不合格へと近づいていきます。そのように自分が取り組みたくない、そもそも見たくもないような事実から、どのように目を背けさせないようにしていくかが教師の役割であるのだと思いますが、これが極めて難しいです。自分が取り組みたくないものには取り組まない方がむしろうまくいく!という自己正当化をほとんどの受験生は理論武装してしまっていることが多いからです。その彼らの脆弱な自己を現実から守るための理論武装を一枚、また一枚と武装解除をしていっては、自己正当化の鎧をどこまで剥がしていけるのか、が教育であるのでしょう。

翻って、見たいニュース、知りたいニュースだけを知りたがる私達の弱い心は、どのように都合の悪く考えねばならない現実へと目を向けることができるのでしょうか。。
これに関しては僕自身も答がありません。教育にはそのような力がある、と思っているから教育に取り組んでいるわけですが、しかしこれもいつでもうまくいくわけではないだけでなく、若い頃にそのように鍛えたとしてそれが生徒たちの中でいつまで続いてくれるのかも、わかりません。

それでも諦めずに、そしてまずは自分自身がそのような「見たいものを見る」という過ちを犯さないように、必死にもがいていきたいと思います。







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peer review 社会について。

人間というのはどうしても心が弱いもので、近くの人に対しては、つい目をつぶりたくなります。近くの人、というのは自分の家族、親しい人、仕事でお世話になっている人、その他様々ですが、そのような人の不正に対してはどうしてもそれが自分にとってより遠くの人にとって害悪であったとしても、なかなか糾弾できるものではありません。それは即ち、自分にとって今味方してくれている人を敵に回すことになれば、自分が受ける不利益があまりにも大きくなってしまうからです。

だからこそ、そのような逡巡を乗り越えて「ダメなものはダメだ。」「違うものは違う。」と言える人、というのは
本当に尊敬できる人物であると思います。そのような人たちこそ、お互いの立場に分かれて議論をする際にも、
立場の違いを乗り越えて、何が正しいかを我々が考えることのヒントを与えてくれると思います。

最近、そのような研究者の方をまた一人見つけて、前々から知ってtwitterでフォローもしていたものの、改めてすごいなあと感心させられています。

「何が正しいか」を人間関係よりも優先しようとするこのようなしんどい努力の全てに、僕は敬意を払います。
「研究者は真理を探求するもの」と我々はつい思いがちですが、研究者にも自身の「真理探求活動」を保証してくれる制度してのアカデミアとそこでの仲間意識というものに対してはできるだけ批判をしないようにしたい、という動機が常に働かざるを得ません。これも当たり前で、彼らのやっていることは(専門性が高く、門外漢には理解がしにくい)研究者同士のcommunityでのみ評価が可能であるからこそ、(論文がpeer reviewを受けるように)彼ら自身もpeer review(仲間からの評価)が重要であるわけで、そのためには門外漢に同意するよりは、研究者仲間を互いに守り合っておく方が無難だとつい思ってしまうという誘惑は常に強いのではないでしょうか。もちろん、先に挙げた方のように、その誘惑に抗して「違うものは違う!」という姿勢をとられる研究者の方もいることは本当に素晴らしいと思いますが、その誘惑は常に強く働いていると思います。

そして、もちろんこのような事態は現在の日本ではどこにでも見られるようです。peer(仲間)からの評価さえ高ければ非科学的でトンデモな主張を信じる知的レベルの人でも、国会議員になれる日本社会ですから。

peer review(仲間からの評価) を公正な制度でなくしていくためには、peer を抱き込んでいけばよいことになります。もちろん、本来の語源である論文の査読に関してはそういうことをさせないためにこそ、匿名の査読者を用意しなければならないわけですが、まあそれにもあまりにも細分化した学問の世界において、分野が違えばそもそも評価ができない、という限界があるためにpeer reviewを有意義な論文であるかのチェックにしようとするか、そうではなくpeerを抱き込んで自分の立場の安定を図るだけの共犯関係におとしめてしまうかは、結局真理に対しての論文筆者本人の襟の正し具合に左右されてしまう、という部分が残らざるをえないのかもしれません。

さらに、です。どこまでがpeer であるかを狭くとっていけば、このような真実を歪めて互いにかばい合う、という自分たちがやっている不正が不正であることにすら、気づけなくなっていくわけです。医学部不正入試問題での順天堂大学の「女子はコミュニケーション能力が高いから、面接点を下げた!」のように、ですね。あれを「科学的根拠がある」と大学のホームページで言い張り続けているのも、医学研究者というpeerの中では「アホなこと書いてますが、素人向きにはこういうこと言っとかないと仕方ないんだよ。素人なら『科学的根拠』って言ったら黙るでしょ。。」と苦笑しあっているのかもしれません。しかし、それに対する批判が驚くほど同業者からは出てきません。
あれほどひどいものでないとしても、非専門家を排除し、彼らのliteracyの低さを嘲笑することに後ろめたさを感じなくなった専門家は全て似たような轍を踏んでいる恐れがある、と言えるでしょう。

社会学が、まさに(国家や家庭といったわかりやすい集団ではなく)目には見えない人と人とのつながり、同じ空の下の人同士のつながりとしての「社会」を発見するものから始まったのだとすれば、peer を丸め込み、抱き込み、その中での互いの不正に互いに目をつぶる姿勢とは、「社会」を抹殺するものです。そのような姿勢を皆がとる社会を「peer review 社会」と呼ぶのであれば、それはまさに「社会」という概念が絶滅された後に樹立されるものとなります。

そして、その社会学によって発見された「社会」のように、互いにpeer ではない人々がどのように共に生きるかを模索し合うときにこそ、何が正しいのか、という追求こそが重要になってくるわけです。逆に何が正しいのか、何が真理であるのかを求めなくなった社会というのは、閉じたpeer 同士の共犯関係によって全てが決められていく社会です。去年の森友問題や加計問題とかを見れば、この国がもはやそうなっていることはよくわかるとは思います。しかし、それは何も長期政権だけが悪いわけではありません。政治的なprotestや投票行動は取るべきだとして、それとは別に私達自身のpeer review しか私達が気にしない、という内向きな姿勢の結末が、現在の状況である、という残酷な事実にもまた、しっかりと目を向けて徹底的に反省すべきであると僕は思っています。

だからこそ、仲間うちでの評価を超えて、正しいものが何かを探そうとする方たちを僕は心から尊敬しますし、自身もその姿勢を出来る限り貫けるように、必死に努力していきたいと思っています。

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しんどいことにこそ。

たとえばある学習塾が東大合格者数を増やしたければどうしたらよいか。
一番うまい作戦は入塾テストをして、有名高校の生徒限定で入塾許可を出し、そして
その有名高校の生徒を出来る限り集めるのが一番良いでしょう。もちろんそういった高校の生徒が集まってくるためには
様々な良い評判を流布しなければなりませんが、そんなのはいろいろな手立てがあります。
理系の院生を雇って大学の勉強の先取りができることをうたうのでも、大手の優秀で有名な先生を引き抜いて来るのでも、いくらでも手立てはあります。そのようにして初期投資さえかなりかければ、後は
優秀な生徒が集まり、そして「あの塾に行けば…」と勝手にみんなが信じてくれるようになるので、
商売としてはうまく行きます。

このように、教育産業において一番重要なのは母集団です。僕がどんなにノウハウを積み重ね、その辺の大学生講師では
できないような指導ができていたとしても母集団が違えば結果は大きく劣ることになります。
それこそ、その辺の東大生が教える有名高校の受験生の方が、どんな熟練の講師が教える普通の高校の受験生よりも
大学受験において結果を出す確率が高いのです。だからこそ、教育産業においては「カリスマ」になることが成功の秘訣で、そのカリスマが根拠や効果があろうとなかろうと、そのカリスマ性によって母集団の質さえ整えば、後は普通の道具立てさえ用意しておけば東大・医学部合格者などいくらでも稼げます。

しかし、です。そんな塾って経営者の私腹を肥やす以外に何か存在意義があるのか?ということを僕などは思ってしまいます。それこそ元々優秀な子達はその塾に行こうと、大手予備校に行こうと、何なら自学自習しようとそんなにひどい結果にはなりません。そのような母集団を集めておいて、「うちの塾に通えば大丈夫!」と言うことなど、この社会にとって何か意味があるようには僕には思えません。だからこそ、優秀な高校からしかとらない塾など、実はあまり存在意義がないと思っています(正味の仕事はゼロです!)。

翻って元々勉強が得意ではない子達を鍛えてその子達が勉強ができるようになれば、それは必ずその子達自身の人生が大きく変わるだけではなく、社会全体にとっても大きな意味があると思います。可能性を諦めずに努力をすることの価値が広く理解されるだけではなく、実際に社会階層の移動まで伴うのであれば、それは社会にとっても活力を生み出します。社会にとっての一番の敵は階層の固定化によって皆が自分の人生を諦め、活力を失っていくことであるからです。

さらに、そのように元々得意でない子を鍛えよう!という塾が非常に値段が高く、親の経済力がなければその塾に通えない
のであれば、それはまた優秀な高校の子しか入れない塾とは別の面でやはりあまり社会的に意味のないことをしているだけになります。つまりそれは親の経済格差がそのまま子供の教育格差になるだけであるからです。このような塾は一つ一つの場面では非常に意味のある教育ができているかもしれませんが、一方で社会に持つ意味としてはやはり階層の固定化にしかならないでしょう。

このように考えると、低廉な月謝で、元々勉強が苦手な子を徹底的に鍛える塾、という(まあ嚮心塾のような)塾がこの社会には必要となるわけですが、こんなの、誰もやりたくありませんよね。僕もやりたくありませんでした。今だって毎年毎年「何でこんなしんどいことを自分はしてるんだろう…。」と思う毎日です。しかし、これがこの社会に対して意味を持つための最適解なのだから、仕方がありません。

わかりやすい例として学習塾のことを書いてきましたが、一般に「しんどいこと」ほどに問題の根本にがっきと取っ組み合いになっていることが多いように思います。そして、そのような活動に身を粉にして取り組み続けている先達の方々には、本当に頭が下がります。結局一人一人が自らの生き方を、この社会から切り離さずに考えることができるかどうか、がこの社会の豊かさではないかと思っています。逆に言えば、自らの生き方、ありようをこの社会から切り離して考えた上での「成功」というのは極めて無意味なものでしかないように僕は思います。そこがどんどん掘り崩されていっている、というのが僕がここまで生きてきている中での実感なのですが、それでも僕よりももっともっとしんどいことに人生を懸けて取り組んできた先達の方々に、僕は本当に頭を垂れざるを得ませんし、自分自身ももっともっとそれができるように努力していかねばならないと思います。

しんどいことにこそ、意味がある。しんどいことをうまく切り取って避けた後の「成功」など僕には意味がありません。ただ、しんどいことにもっと深く取り組み、少しでも改善し続けられるように、努力していきたいと思います。

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もう、がっかりしない。

トップスイマー中のトップスイマーである競泳の池江璃花子さんの白血病の告白、それに対しての桜田五輪相の「がっかり」発言は大きな話題となりました。ただ僕はこれに関してはあまり桜田五輪相を責めるのはどうかと思っています。たとえばテニスファンは錦織選手が四大大会とかであっさり負ければ「がっかり」するでしょうし、野球ファンは大谷選手が怪我をすれば「がっかり」するでしょう。もちろん、この「がっかり」という言葉は白血病という命にかかわる病気とこれから闘おうという一人の若い人に対して使ってはならない言葉だとは思いますが、桜田五輪相がポロッとこぼしたその「がっかり」は、スポーツ選手やスターなど他人の頑張りに自分の憂さ晴らしを託しては、日々つまらない現実には真剣に取り組み、何とかしようとはしていない我々の愚かさの現れでもあると思っています。あの「がっかり」という言葉を、自分に疚しいところがなく心から批判できる人間が、果たしてこの社会にどれほどいるのでしょうか。もし、それが一定数いるのであれば、こんなにスポーツニュースや芸能ニュースばかりのテレビ番組構成にはならないのでは、とも思います。

さて、自分自身の愚かさについても話さなければなりません。
僕が大学生のときに初めて付き合った彼女が、「南米に一人で1ヶ月短期留学に行きたい!」と言ったとき、僕は「これは別れることになるなあ。」と直観的にわかったのですが、まあでも行きたいのなら仕方がない、ということで、その準備を手伝いました。一番の難関は彼女のご両親が短期留学に南米に行くことを女の子一人で行くには危険だから、ということで猛反対をされていたことで、話が立ち消えになりそうになっていたので、僕は彼女の自宅まで行ってご両親と2時間話し合い、説得しました。「若い人が危険を冒してやりたい!ということを止めるべきではない。親子は日本と南米に離れていても、親子だが、彼氏など向こうでかっこいい男を見つければ、途端に彼氏ではなくなる。それでも僕は彼女のチャレンジを応援したい。お父さん、お母さんも許してあげてもらえないでしょうか。」と丁寧に説得したかいもあり、最終的には「柳原さんがそこまでおっしゃるなら…(今考えると僕の立ち位置がかなりおかしい感じですが!)」と海外留学を許可してもらいました!

そして、彼女は1ヶ月南米に短期留学して予想通り向こうで好きな男ができ、見事に僕はフラれるわけです。このような経緯もあって、僕は相当がっかりしました。その言葉を明示的に彼女に言ったかどうかは覚えていないのですが、その雰囲気は伝わっていたと思います。

その後、2年ほど僕も人生に迷い(これは失恋が原因ではないのですが)、再び教育という道に自分の人生を費やしていこう!と決意を固めたときに、真っ先に思いついたのが、元彼女と連絡をとろう、ということでした(これはヨリを戻そうとか、とはちょっと違っていて、あの時諦めてしまったコミュニケーションの先が今はできるかなと思ったからです)。電話で話してみて、もはや通じ合える部分がほとんどないことがよくわかるような会話しかできなかった後に、最後に一度会って話し合えないか、という話をしたところ、元彼女に「またがっかりさせちゃうから…。」と言われました。そのときに、僕は自分でも驚くくらいの勢いで「僕はもうがっかりしない。それは君に対してだけでなく、誰に対しても、だ。」と瞬間的に断言したことを覚えています。もちろん、その言葉は虚しくしか響かず、その後は何と言って電話を切ったのかすら覚えていませんし、二度と連絡も取りませんでした。

そこから20年近くが経った今も、僕が人生を通じて何をしたいのかと言えば、あのとき言った「僕はもうがっかりしない!」をどこまで他者に対してできるのか、ということです。あのときよりも比べ物にならないくらいはるかに努力し、自分を律し、長い時間を費やし、それを全て受験生に注ぎ込んでも尚、うまくいかないときはうまくいきません。その結果に受験生本人も親御さんも「がっかり」するでしょう。しかし、僕は決してがっかりしません。がっかりする暇があれば、次に彼ら彼女らに対してできることを手を打ちたいし、そのために自分に足りていない努力を少しでもやっていきたいと思っています。

がっかりができるのは、その人の結果に対して自分が何もするつもりのないのに、その結果の恩恵だけは何とか得られないかと期待している人間だけです。そのような無責任な態度を僕はどこまでも自分には許したくないし、どこまで徹底的に相手のためにやってもなお、がっかりしないでいられるか、にこそ僕のつまらない人生の価値がかかっていると思っています。これから先、受験生のどのような結果が出ようとも、決して僕はがっかりしません。そこにほとんどすべての私生活を犠牲にして朝から晩まで時間と努力と労力を注ぎ込んでいるわけですが。そのように彼ら彼女らが結果を出そうと必死に努力したことは、とてつもなく価値のあるものであることに間違いないからです。だからこそ、受験生本人だけは結果にがっかりしないで、胸を張ってほしいと思います。そして、そのことこそが、塾を通して僕が塾生に伝えたいことでもあります。

桜田五輪相の「がっかり」を彼だけを批判するのではなく、オリンピックそのものに寄せる期待やスポーツイベント、芸能イベント、それら全てに寄せる期待を持ち続けている大衆としての我々、もはやそのために自分が何も努力をしていないのにその恩恵にだけは預かり、喜ぶことで、日々の現実を乗り切ろうとする我々のその卑怯さへの批判として受け止められるような社会へと少しでも近づけると良いな、と思っています。そして他者の結果に対して「がっかり」することがどれだけ相手の気持ちを深く傷つけるのかに対しても、もっと敏感にならなければならないと思います。その上で、諦めずに少しでも良い結果を残せるように、国公立の追い込みの最後まで、徹底的にあがき続けたいと思います。

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知らないものを味わおう。

どくんごを見るようになって、テント芝居の奥深さにすっかりハマり、去年はマタヒバチも彩星学舎も見てきて、知れば知るほど、本当にとてつもない奥深い世界と、それを作り出している皆さんの熱意に頭が下がるばかりです。とてつもなく高いクオリティのものを、ただ自分たちがやりたい!という思いで徹底的に作り込むだけでなく、それがしっかりとファンを掴んでいる。これはもちろんテント芝居にかぎらず、様々なこのようなものがこの社会にはあると思うのですが、凄まじい努力と工夫をしてとてつもないクオリティのものを作りながらも、それが大多数の人たちには認知されていない世界というのがあるのだなあと、改めて教えられています。

来年は東京オリンピックがあるわけですが、東京オリンピックであれ大坂万博であれ、そのような既存の権威を誘致することでできる振興策、というのは実は手垢がついていて費用も膨大にかかる上に、大した成果は生み出せないようにも思います。それよりも、現在のこの日本で歯を食いしばって必死にとてつもないクオリティのものを作り出している人たちは芸術家であれ、職人であれ、(多くの人に知られてはいないとしても)様々な形で存在しているわけで、その人達を支援したりせめて足を引っ張らないような政策がとれるといいとは思うのですが…。現実は真逆であるようにも思います。

こういうと「今の政権が悪い!」という気持ちになってしまうかもしれません。もちろん森友学園の事件でわかるように、自分たちの依怙贔屓を隠し切るために公文書まで改ざんする政府が発表する「景気回復」がいかに怪しいものであるかは今回の厚労省の毎月勤労統計の偽装でもよくわかるとは思います。公文書や統計は国の根幹である以上、そこに手を加えるというのは既にもう近代国家としての基盤を掘り崩す方向へと我々が来てしまっている、ということでもあるわけで、現在の政権が政治的公正さの観点で言えば、大きな問題を抱えていることは明らかではあると思います。

一方で、「オリンピック!」「万博!」という盛大な旗振りの前に、とてつもないクオリティを草の根で維持している様々な人々の活動を踏みにじることになってしまっているのは、何も現在の政権だけのせいではなく、私達自身の中に内在している「知らないものを知ろうとしない」という愚かさの現れであるのだと思います。そもそも、そのような盛大な旗振りに踊らされやすいのは戦前からずっと続いている我々自身の愚かさでもあります。一様な価値観の中で、序列を比べることだけに終始しては価値判断をしてしまったり、「自分たちが見逃している素晴らしいものがこの社会には必ずまだあるはずだ!」とは思えずに「自分たちが知らないということはきっと大したものではないのだろう。」と傲慢にも思ってしまったりする私達自身の愚かさを反省し、そのような失敗を自分たちが犯しやすいことに注意深くなければならないと思います。

これはまた、インターネットの発達で情報化社会が進めば進むほどに、「(私が)知らないということはそれが大切ではないからだ。」という先入観が強くなってしまっているというところもあると思います。例えばラーメン屋さんで言えば(たとえが全てラーメンですみません。。)、今や食べログやその他ラーメンデータベース、その他様々なレビューサイトがあるからこそ、そこに載っていない、あるいはそこでの評価が低いものはあたかも存在しない、あるいはそのようなサイトに載っているお店よりは劣っているかのごとく思われる、という減少があると思います。しかし、知られていない名店があるように、大多数の人にとっては知られていない世界で、とてつもない努力でとてつもないクオリティの創作や仕事をしている方々は多々いるわけで、その可能性を自分が知らないという理由で否定することは愚かです。これは、単に素晴らしいものと出会えずにその人が損する、という以上に(オリンピックや万博的な動かし方以外の施策をとりにくくさせていくという点で)この社会の基盤を掘り崩すようなことにつながってしまうのではないかと思っています。

私達が目の前の知らないものに対して、自分の頭と心とをフル稼働してそれをしっかりと吟味する、ということをサボっては既存のレビューに頼れば頼るほどに、そのような行動をとる私達が生きる社会は、的はずれなもので動員しようとしては、多くの無駄と素晴らしいものへの犠牲を生んでいくような社会になっていってしまうのだと思います。その点では、私達自身がサボらずに、目の前の異質なもの、自分の知らないものをしっかりと考え、感じて受け止めていくことがとても大切だと思っています。もちろん、これはそのような可能性を考えずに頭でっかちに判断していた自分自身への自戒を込めて、そう思っています。

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浪人制度を守ろう!

もはやテレビタレント化した東進ハイスクールの林修先生ですが、そうは言ってもコメントの一つ一つはそこそこクレバーさを失ってなくてかえって信頼を高めているからこそ、テレビ界でも、もちろん本業の方でも長続きしているのでしょう。林修先生は確かに的を外していないコメントが多いと僕も思いますし、その実力で稀有な立ち位置を維持されているのだと思います。ただ、そんな彼のコメントの中で、珍しく僕が全面的に違和感を感じるのは、「大学受験で浪人制度を禁止しよう!」という提言です。これに関しては僕は真っ向から反対です。

「高校の勉強なのだから高校3年間勉強すれば良い。浪人生はズルい!」という彼の主張は、それを阻害する様々な要因が高校生の外部にも現実にはあることを無視しています。たとえば高校生が部活を自発的にやっているかといえば、たいていの場合、「入ったはよいものの、あまりに練習が忙しく勉強もできずに、さらにはそこからやめようとしようものなら顧問に激詰めされる」というブラック部活が多いです。そのような部活に入ったら最後、高3の引退までは部活で忙しく定期試験勉強もおろそかなままに受験生になることになってしまいます。そのような受験生が「入れる大学に入れば良い」というのはあまりにも無責任な話です。(これは運動部だけでなく、吹奏楽部や合唱部などの文化系の部活でも強豪校は本当にひどいです。まるで生徒の将来に大学受験など一ミリも関係ないかのような部活三昧で高校生活を潰し、そしてその結果何も勉強ができていないことには責任はとらないわけですから)。

また、高校に通う間はバイトで家庭の生計を支えながら勉強するしかなく、浪人してから本格的に勉強して学費の安い国公立大に行きたい!という子もいます(塾でもそのような子を何人も見ています)。一人一人が高校3年間の中で十分な受験準備ができるかどうかにはこのように本人の努力以外の要素も必ず入ってくるのにも関わらず、高校3年間の努力だけで大学入学を決めてしまえば、それはやはり受験勉強だけに専念でき、さらには予備校や塾などに通い放題の裕福な層がその後の人生でもアドバンテージを維持できることになるでしょう。それを是としてよいのでしょうか。この問題に関しては、浪人制度を廃止するのは明らかに格差の再生産に繋がってしまうと思います。

このようにやむを得ない事情で高校生活の中で勉強ができない場合だけでなく、高校生が高校生活を自分の判断で勉強以外に費やしたとしても、それでもやはり僕は浪人制度の廃止には反対です。高校生活をどのように過ごしたとしても、一人一人にやり直しの機会があることが大切だと考えています。そのやり直しの機会を奪えばどうなるかと言えば、結局社会の中でいわゆる「高学歴」になる層がどんどん集団として多様性を失っていくことになります。それは結果として社会全体にとっても不利益でしかないでしょう。

たとえば現役で難しい大学に合格した人たちは浪人した人たちのことを「サボっていたんだから自業自得だ。」と今でも見なしがちです。今でもこのような偏見が強いのに、実際に浪人制度の廃止がなされればさらに、行く大学までが高校3年間の努力だけで決まってしまうことになり、当然上位の大学に入った学生たちが下位の大学に入った学生たちを見下すことにさらに拍車がかかることになるでしょう。そのようにして社会的分断は完成してしまうのではないか、と思います。

minorityに対するaffirmative action(少数派優遇措置)に対して一番批判的であるのは、self-madeな(優遇措置なんかなくても社会的に成功した)minorityである、という話は有名ですが、人間は自らの想像力の欠如から、自分の努力によって獲得したと信じているものに対しては横暴であり、他の人がそれを得ていないということはそもそも努力が足りなかったのだ、と類推しがちです(たとえば首都圏から東大に入るよりも地方からmarchに入る方が難しいと思えるくらい、勉強のための環境が日本国内でも格差があると思うのですが、そのように自己の努力の成果を客観視できる東大生は稀です。)。浪人制度の廃止によって高校3年間の努力だけで大学が決まることになれば、脇目も振らずに受験勉強だけをしてきた視野の狭い人間だけがその後のキャリアにおいても優遇を受ける、ということになってしまいます(もちろん今でもその傾向は強いわけですが一層助長することになります)。このような社会は決して望ましいものではないと思います。

自身の視野の狭さに気づき、凝り固まった自己の価値観を打ち捨てて一からやり直したいと思える瞬間こそが、人間の一番美しい姿であると僕は思います。迷いなく選ばれた「正解」になど、何の意味があるのか。だからこそ、そのようなやり直しの機会を多くの若い人たちから奪う浪人制度の廃止には、僕は絶対に反対です。

とはいえ、世の中の風潮は確実にそちらへと動いていっています。英語の外部入試導入もその一つです。また医学部入試不正でも明らかになったように高校の時の成績を入試に入れる、大学入試における高校の調査書重視を進めようとする文科省通達など、やり直しのきかない社会にしていこうという動きは最近どんどん強くなっています。だからこそ、やり直しのきかない社会へと変わっていこうというこの動きに、一つ一つ我々が異を唱えていくことが大切であると思っています。心から自らの愚かさを反省し、やり直そうと思う人々の意欲を削ぐような社会であってはならない。切にそう思っていますし、そのように頑張ろうとする子たちの拠点になれるように、嚮心塾ももっと努力を続けたいと思っています。

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社会人とは。

ホームページを作っていると、書きたいことを削って削って短くする作業なので、「ここをもっと正確に言いたい!」「この議論にはこういう側面もあるから触れておきたい!」とひたすら長文を書きたい欲が高まってしまいます(あのホームページ、あれでも大量に文字を減らしたのです。。それでも長い!と叱られてばかりですが。)。

ということで、ブログの執筆意欲がめっちゃ湧いてきました!皆さんにはご迷惑かもしれませんが、長い文章、書くぞー!

さて、塾の卒業生もだいぶ社会人が増えてきて、彼らの話を聞いたり相談に乗ったり、という機会も増えてきました。みんな各々頑張っていますし、それこそ就活もしなかった社会不適合者の僕から見たら、しんどい中でみんな本当に頑張っているなあと、頭が下がる思いです。

しかし、そもそも「社会人」とは何でしょうか。仕事をしてお金をもらうことが「社会人」なら、そんなに簡単に社会人になれてよいものなのでしょうか。

人間が生きていくためには、社会から与えられる役割を担う必要があります。それだけではなく、社会から与えられる役割を担うこと自体が、一人一人の人間にとっての生きがいにもなります。この社会においては、その「社会の中で役割を担う」ということが多かれ少なかれ金銭という報酬が発生するからこそ、自分がこの社会に役立っているかどうかは金銭という報酬からも逆算ができるようにもなります。

しかし、これはこれで大きな問題をはらんでいます。

まずは高い報酬が得られる人が社会にとって不可欠な仕事であり、低い報酬しか得られない人が社会にとって必要性の低い仕事しかしていない、という誤った推論がなされがちであるということです。
たとえば高収入の職種と保育士のように社会に必ず必要なのに低収入な職種を比べれば、この推論には根拠が無いことがよくわかります。報酬が高い仕事はそこにお金が集まる仕組みがすでに今までの歴史の中で確立している、というだけであり、それは社会の中で必要性が高いのではなく、簡単に言えば「そこにお金を集める仕組みは整備しやすかった!」というだけのことです。「この社会では、社会におけるすべてのニーズを正確に評価し、値付けがなされている。だからこそ、高収入の仕事はそれだけの社会的価値があり、低収入の仕事はそうではない。」という主張は、この社会の制度設計の緻密さをあまりにも過大評価した立場であると思います。

今儲かっている分野には偶然が作用しています。「いやいや、自分は工夫して成功して努力してきた!」と成功者は語るでしょう。しかし、そのような努力、工夫をすべての「失敗者」がしていないといえるでしょうか。そのような工夫、努力が時宜を得て成功をしたのは、あくまで偶然によるものです。どのような分野でもどのようなタイミングでも成功ができる人間などは実はあまり存在しません。

しかし、です。高収入の人が「高収入を得ている自分がしていることは社会にとって意味がある。」と思うincentive以上に、低収入しか得ていない人が「低収入しか得ていない自分は社会にとって何の意味もない」と思わせられるincentiveは強いように思います。これは、金銭が自分に対する社会的価値評価を具体物化したもの、という通念、ひいては市場経済はかなり精密に機能している、という信仰があるからであるように思います。(もちろん、最低限の生活をするための費用は誰にとってもゼロにはならない、という生活費の下方硬直性もその原因の一つではあると思いますが。)

生活保護受給者に対する視線が冷たく、行政の水際作戦(窓口で生活保護申請に来た人を理由をつけて断り、生活保護受給者を少しでも減らそうとすること)に対する批判が、いまいち広がりにくいのも、もちろん「自分たちは必死に安月給で頑張っている!」というやっかみもあるのでしょうが、それ以上に「自分たちは頑張っているから何とか生活できている。(つまり、あいつらは頑張っていないから生活ができない)」という思い込みがあるのだと思います。もちろん、そこでの一人一人の努力は間違いなくあるのでしょう。しかし、その努力の方向性や分野の選び方によっては、我々は家族が生きていくだけの報酬さえ得られなくなります。それを決定しているのは自分の努力だけではなく、様々な偶然的な要素でもあること、つまり、生活保護を受給しているのは「努力をしない彼ら」ではなく、「努力をしても選んだ分野や方向性故にうまくいかない、もしかして自分であったかもしれない彼ら」であることについての理解があまりにも足りていないように思います。

と偉そうに書く僕もまた、たまたま東京に住んでいて、たまたま中学受験をして私立中高に通わせる資力が親にあり、たまたま大学進学の費用を気にしないだけの家庭に生まれている、という偶然の産物であるわけです。もちろん、そのときどきで自分から努力をしてきました。しかし、このような恵まれた環境でなかったとしても結果は変わらない、といえるだけの努力には程遠いです(この事実には中学生くらいから気づいていたのにも関わらず、です)。その点で僕が学歴から何らかのアドバンテージを得られているとすれば(他の東大卒業生に比べれば僕はそれを就職面ではなから捨てていますが、しかしそれでもアドバンテージが存在していることは事実です。)、それは決して僕の努力の成果ではなく、偶然の産物であり、たまたま僕はラッキーであっただけです。同じかそれ以上の努力をしても、うまくいかない高校生はおそらくいっぱい居ます。今僕が塾をやって、それなりに何とか暮らしていけるのも、決して僕の努力によるものだけではなく、たまたまラッキーであったことに依るものです。(アメリカでもAfrican-american に対するaffimative actionに対して一番厳しい意見をもつのは、self-madeなAfrican-americanである、ということを聞きます。既にself-madeな彼らは現に自分たちが努力してその差別の壁を乗り越えてきたからこそ、affimative actionに対して「努力が足りない!」と思いがちなのでしょう。しかし、彼らがself-madeになれたこともまた、様々な壁を乗り越えてきたとは言え、ラッキーだった、というところがあるのです。大切なのは、自分の努力できる環境がラッキーによるものかもしれない、と疑い続けることであると思います。)


話を戻せば、市場経済がある程度以上の信頼を得ているこの社会においては、社会の中で働いて報酬を得られないことは単に生活に困るというだけでなく、自分の存在意義自体が掘り崩されるような疎外感を感じざるをえなくなります。しかし、これは、誤りであるのです。この社会に必要なことには必ず報酬が伴っているか、それもその必要度に応じて報酬が高くなるように厳密な評価ができるような高度な設計がなされた社会には、私達は住んでいません。まずはこの事実を再確認することです。仮にそれを否定しなければ、自分のラッキーさを認めたくない人々が大多数だとしても、その彼らの価値基準を内面化しないことが大切です。

その上で、社会人とは、を再定義するとすれば、「社会に必要とされる存在」という定義は残すとしても、その「社会」を既存の社会と限定しないことが大切であるようにも思います。「このように誠実に頑張る人間を評価せず疎外し、追いやるのだとすれば、そのような既存の社会はその存立の正当性が疑われる」と思えるとき、そのような人の存在は、既存の社会の限界を知らしめてくれる、という意味ではむしろ誰よりも「社会人」と言えるのではないか、と考えています。

そのような「社会人」として、芸術家・知識人などがその具体例としては一般に想像しやすいのですが、実際には職業としての芸術家や知識人は既存の社会の不完全さへの疑いを示すよりはむしろ、既存の社会を肯定する方向でしか収入が得られないものです。私達の社会では、そのような人はむしろ「狂人」扱いをされてしまうことが多いと思います。クロポトキンがドストエフスキーの作品群を「何であんな狂人ばかり描くのかわからない。」と言ったのは、そして、それにもかかわらずドストエフスキーの描く「狂人」達が私たちに人間性とは何かを思い起こさせてくれるのは、このようなことであったのではないか、と思っています。(中井久夫さんも『分裂病と人類』で「健常者」と分裂病患者との連続性、むしろ分裂病患者の方にこそ正しさがあるのではないか、と書いてくれています。また、自閉症では東北大の大隅典子先生もまた「自閉症」と「健常者」の連続性を主張されています。切り分けて、隔離したり排除したりするのではなく、むしろ私達に足りないものがあることを学ぶ姿勢が大切であると思います。)

もちろん、「みんなで狂人になろう!」とか「この評価経済はは間違っているのだから、みんなで無収入になろう!」と言いたいわけではありません。ただ、社会から疎外されている人たちに対して、「あれは社会人ではない!社会人としての責任を放棄している!」と思う前に、彼らを社会人にしていないのは、彼らなのか、それとも私達自身であるのかを問い直すべきである、ということです。その疑いのない「社会的包摂」は全て、(彼らの私達に対する、ではなく私達の彼らに対する)一方的搾取でしかないと考えています。

その上で、僕自身もまた既存の社会を押し付けるだけで済ませようとしない社会人として、何とか責任を果たしていきたいと思っています。

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