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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

組織における内部告発の問題①

厚生労働省の郵便不正事件では、朝日新聞のスクープ以降、あの事件の主任検事が証拠品改ざんの容疑で驚くべき早さで逮捕され、さらにはその上司の元特捜部長と副部長までがその主任検事の証拠改ざんをかくまった容疑で逮捕されました。最高検は「徹底解明を目指す」と、自らの自浄作用をアピールするのに必死です。その中で、逮捕された元特捜部長の「最高検のストーリーには乗らない。」という名言が出てきました。今回は、このことについて考えてみたいと思います。

そもそもこの「最高検のストーリーには乗らない。」という言葉が検察官から出てくるということは、もう少し長く説明すれば「我々検察官というのは、常にまずあらかじめストーリーを描き、それに沿って取り調べをしているのであって、決して虚心坦懐に取り調べをしてくる中で事実がどのようであったのかを考えるわけではない。」という暴露であるように、僕には思えます。もちろん、発言した検察官の方は「この場合はそういうおかしな取り調べだ!」というように、この個別の事件について言っているつもりなのでしょう。しかし、このような発言をするということ自体が、彼ら検察官が取り調べをしている過程でやはり「既存のストーリー」を少なからず意識し、そこに沿うように取り調べをしていることを示しているように思います。そうでなければ、このような言葉が出てこないのではないでしょうか。たとえば、最高検と見解の相違について争うとしても、「最高検は事実誤認をしている」とか「最高検は新たな冤罪を作ろうとしている」とか、言い方は他にもあると思います。このような言葉が逮捕直前のインタビューで出てくるということ自体が、検事という職業が既に描いたストーリーに基づいて証拠固めをしていき、その既存のストーリー自体を決して疑わない職業である一つの確かな証拠なのだな、と僕は勝手ながら感じました。

もちろん、そのような決めつけを排し、ただひたすらに真実を知りたいと個人的に願う検事さんも必ずやいるのだと思います。しかし、そのような検事さんの個人的動機をくみ上げるようなシステムに検事さんの世界がなっているのかどうかは、なかなか難しいのではないでしょうか。上司が「おそらくこういう事件ではないか。その証拠固めをしてくれ!」とストーリーを描き、それに従って部下が取り調べをしていく中で、部下が「やっぱりこの最初のストーリーが違うのではないか。」と感じたとしても、それを上司に進言して「なるほど。ありがとう。危うく冤罪をつくるところだったよ。もう一度初めから考え直そう。」と言える上司が果たして、どれほどいるというのでしょうか。これは上司の人間性だけの問題ではありません。たとえば上司の描いた最初のストーリーに沿ってそれを補強する調書をとれる検事と、最初のストーリーを見直させる調書をとれる検事とで、後者の方が高く評価され、「手柄」扱いされるのでなければ、このような冤罪事件はやはりなくすことはできません。なぜかと言えば、最初のストーリーを補強する調書は間違いなくプラスの手柄と考えられるのであれば、そのような見直しを促す調書は(たとえマイナスではないにせよ)ゼロの手柄でしかないのであれば、やはりそのような進言をしようとする検事は(出世を考えれば)いないわけです。それではいくら、寛容に処されたとしても、やはり一向に最初のストーリーの見直しは増えないでしょう。見直しを奨励し、見直しにつながる提言をした検事が逆に出世するための手柄をたてたと見なされる組織。しかし、そんなものが一体可能なのでしょうか。

これは検察組織だけの問題ではありません。真実の追求のために、組織内での内部告発を奨励するのであれば、必ず直面せざるを得ない問題です。ある組織全体で追求している目的があるときに、その目的を追求することのために手柄を立てた人がその組織の内部で評価されていく仕組みを作れば、このようにその「目的」自体の欠陥を気にすることなく、ひたすらにその目的へと奉仕する(この場合は村木元局長を何とか起訴する)という方向へと組織の一員達は働くでしょう。そのような組織においては、暴走を歯止めするものは一人一人の良心しかありません。それは非常に危険な組織です。しかし、かといって、そのような暴走を内部告発する人が評価され、ゆくゆくはトップへと昇進していける組織には別の問題があります。内部告発をする、というのはある意味でその組織のほぼ全体、掲げられた目的を疑いもせずに追求していたほぼ残り全員という大多数を全て敵に回すわけです。もちろん、その中には内部告発自体の必要性を理解してくれる人はいるでしょう。しかし、そのような人であっても、組織の中でその内部告発者が昇進していくこと自体には一抹の不安を覚えるのではないでしょうか。その理由は、内部告発者が評価される組織、というのはある意味で裏切りを奨励する組織、秘密警察による統制をうける組織のようなものになってしまう恐れもまたあるからです。「ある目的のために一丸となる」という組織の定義と、「お互いがお互いを密告して出世しようとする」という裏切り競争の関係とは、やはり原理的に矛盾せざるを得ないわけです。

このように考えると、「検察はしっかりしろ!」と言っているだけではやはり何も解決しないようです。人々が所属している組織全てに、同じような問題が内在しているからです。この対処法としてはいわゆる第三者委員会のような独立機関を設置して、それにチェックさせるというのが一番良いのでしょうが、この社会におけるあらゆるある程度以上の規模の組織すべてに第三者委員会を作る、ということはまず不可能でしょうし、たとえば権力機関全てに対してそれを作ることですらなかなかに難しい、というのが実情でしょう。(さらにはそれらの第三者委員会に対するチェックはまた、どうしたらいいの?などと訳が分かりません。)

また、第三者委員会だらけでいいんかい(!)ということとは別に、誤った目的を掲げてしまう可能性をもつ組織にとって、内部告発は結果として組織の存続を正当化する確かな手段であるのにもかかわらず、組織の内部で内部告発を評価するシステムを作れば、その組織自体が自壊するか、あるいは有用なものになりにくい、というディレンマについては仕方がないものとしてしまってよいのか、という問題についても考える必要があります。長くなりましたので、また次回に続きます。結論は見えませんが、引き続き考え続けたいと思います。
(追記)
科学者が仮説(hypothesisですが、これも一種の「ストーリー」です)をたてては検証していく作業を、検事が自分の仕事と同じだと考える気持ちがあまり納得のいくものではない理由として、科学者には真実に対する敬虔(けいけん)な気持ちがあるのにもかかわらず、検事には真実に対する敬虔な気持ちが薄いまま社会の秩序を維持するという目的をそれより優先している、という主張も、特に科学者の間ではあると思います。しかし、もちろん僕はそういう部分もあるとは思いますが、それよりも「同じストーリーを追う科学者達は組織ではない(世界各国で違う組織で、その仮説を検証している人々が居る)が、同じストーリーを追う検事達は組織である」という理由の方が、大きな理由であると思います。逆に科学者でも、一つの組織として同じストーリーを立証しようと追求しているときにはねつ造がおきやすいのではないかと思います。

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出版バブルの背景にあるもの。

 先日、ネット上で興味深いニュースがありました。ブックファースト川越店の店長さんが「最近は池上彰ブームで池上さんの著作がたくさん並んでいるけど、このバブルはいつまで続くのだろうか。過去にも勝間(和代さん)バブル、茂木(健一郎さん)バブルがあった。この池上バブルは一体どこまで続くのだろうか。そもそも出版業界も著者も「こんなに無理してたくさん書かなくてもいいのに」と思うレベルの著書まで出て、バブルがはじけるというのはいかがなものか。」という興味深い提言を自身のブログに書いたというものです。
 さらに、これに対してこれまた売れっ子著者の内田樹さんが「ウチダバブルの崩壊」とブログで書き、確かに流されて出版ラッシュになっていたことを反省して、これからは企画を厳選して、じっくり質の高い本を書きたい旨を述べられると、当の名指しされた茂木さんや勝間さんも自身のブログで、「それぞれの本はいただいたチャンスを最大限に活かして、全力で書いている。(なので、バブルをねらったものではない。)」という反論をされていました。
 このような話し合いが今までに無かったこと自体がまずは気持ち悪いと思います。なので、積極的に意見を表明したおのおのの方の態度自体をまずはすばらしいとは思うのですが、それをふまえた上で僕はやはり茂木さんや勝間さんのような立場はとてもナイーブなものであるように思います。
 いわゆる「出版不況」と呼ばれる中、出版社にとって一番リスクが低いのは「この人の本なら売れる!」という企画を立ち上げることであるわけです。そのような状況が新たな書き手を発掘するというリスクをとるよりも半ばテレビタレント化して知名度の高く、かつそれなりにヒットした本の書き手である「知識人」に出版企画が殺到する理由になっています。そのような背景を深く考えずに、「せっかくチャンスをいただけるわけだから。」と(自分が自信を持って書けない分野に関しても)さまざまなことについて書く、というのは、すなわち「自説の必要性が社会の中で高まっているから」出版機会が増えていることを利用しているのではなく、「新たな書き手を探すというリスクをとりたくないために」出版機会が増えることを利用していることになってしまいます。いやしくも、出版業界の未来やまだ見ぬ良い本を世の中に生み出したい、というこの出版文化自体への思いが少しでもあれば、そのようなナイーブな仕事の引き受け方自体がどのような悪影響を生み出しうるか(新しい書き手の発掘・育成に資源がまわらなくなること)について考えていないのは、あまりにも考えが足りないと思います。その点では、僕は内田樹さんの立場の方がはるかに思慮深いように思えます。

 しかし、まあ、このようなバブルは「池上」「勝間」「茂木」の前にも「養老(孟司さん)バブル」とか「齋藤(孝さん)バブル」などとあったわけです。だから昨今の「出版不況」のせいだけではなく、やはり二匹目のドジョウを狙う気持ちというのは、著者の側にも出版社の側にもどのような状況であっても強く働くのでしょう。しかし、出版業界がどのような状況にあろうと、著者の側で常に考えねばならないことがあると僕は思います。それは自らの不勉強さ、不完全さについてです。もちろん、自らが不勉強であることや不完全であることを口実にして、社会に対して担うべき責任を担おうとしないのであれば、やはりそれは問題です。その意味では、その当時のあるいは歴史を通じての人類最高の知性であっても、全てを見渡す事が出来ない以上は不勉強であり不完全であるわけですから、「自分は不勉強であり不完全であるから著作を書かない」という逃げ口上を言っていてはならないわけです。しかし、このように多作な方々がどうなのかはわかりませんが、僕などは勉強をすればするほどに、自分が不勉強であることを思い知らされます。もちろん、こうした方々もたくさんの本を読んでいらっしゃるのは確かでしょうが、そもそも、そのような意味で勉強をしておられるのかどうか、きわめて疑問であると思ってしまいます。なぜなら、自らが一番他者に伝えたいと思うテーマこそが、本当に正しいかどうか分からない、という姿勢をどこかで失ってしまっているように思えるからです。「勉強」というのは、自分の伝えたいことをどのように伝えるかという手段や道具を獲得するために行われるのでは、やはり、底が浅くなってしまうのです。自分の一番伝えたいことそのものが、本当に正しいのか、それとも間違っているのか、それを絶えず検証し続ける姿勢を失ってしまえば、どのような勉強も既に決定した結論への「証拠固め」となってしまいます。自分が一番伝えたいテーマ自体がそもそも正しいのか間違っているのかへの吟味のない勉強、というのは、たとえれば、検察官の思い描くストーリーになるように無理矢理証拠固めをしていくような努力であるのだと思います。そのような捜査が恐ろしい冤罪を生みかけていたのは、この前の厚生労働省の村木元局長に対する凜の会事件でも明らかになりましたが、あのような検察の態度を自分の身を省みた上で批判できるだけの言論人が、日本に一体何人いるのかを、僕は知りたいと思っています。

 ただ、率直に言えば、僕の本心は別の所にあります。もちろん、より多様な書き手に開かれた出版文化、というものにこの苦しい状況の中でも少しでも近づけてほしいと僕は思いますし、そのこととの関係をふまえて、言論人の方々には自分の立ち振る舞いを再考していただきたいと思っています。しかし、僕の中でもっと率直な意見としてあるのは、人はそんなに簡単に本を読んだだけでは変わらない、ということを本の書き手も、読み手も自覚しておくことが大切であるということです。

 本を買う人は、この自分の(それは社会からの圧迫も個人の内面も)閉塞した状況の打開策のヒントが、毎月出版されるなにがしかの本の中に少しでもあると思うことをやめた方がいい。本の書き手も、そのようなヒントを毎月刊行される自分の本によって少しでも伝えられると考えることをやめた方がいい。誰かが自らの閉塞した状況をどのように打開してきたか、を本に書いても、それは読み手のほとんどにとっては感動の対象にはなるものの、決してヒントにはならない。逆に書き手がどんなに人類の命運は自分の文章にある、という悲壮感をもって書いたとしても、そのような決意で生きている人間自体が少ない以上、その内容が伝わるわけがない。その身も蓋もない冷酷な事実をまず直視し、おのおのがそれぞれの問題に対して真剣に悩むことをまずやっていかねばならないのだと思います。茂木さんや勝間さんは、他の人にヒントをあげている場合ではない。自分がまさに今、(出版不況に伴う彼らへの依存という)閉塞した状況に追い込まれているわけですから。多くの人が本を読むのは、「本の中に何らかのヒントがある」ことを期待しての行動です。しかし、僕はこの「本を読めばヒントがもらえる」「本を書けばヒントが与えられる」という希望への過剰な期待(幻想とでもいえるでしょうか。)が、かえって、人々の本に対する姿勢をきわめて不健康なものにしているように思えてなりません。

自分の抱える問題が、そのように毎月出る、書店で何千円かで買える本によって少しでも前進する程度のものであるのだとしたら、それは問題に取り組む自分の努力が、圧倒的に足りないのです。今出ている本など、100年後という短いスパンですら、一体何%が(国会図書館以外に)残っていると言えるのでしょうか。そのような本によって、ヒントがたやすく買えるのなら、その程度の努力しかできていない自分を恥じて、懸命に問題そのものを悩んだ方がよいのではないでしょうか。あまりにも「自分自身が考え抜く」、という姿勢をおろそかにしては本に頼る人が増えているために出版界が盛り上がるのであれば、それ自体もまた、生産的ではない「バブル」であると思います。そのような本の買い方自体に僕は異議を唱えたいです。

もちろん、この「『本を読むこと(書くこと)』によっては問題は解決し得ない」というのは、古典(岩波文庫など)に関しては少しだけ別なわけです。古典は何百年もの吟味を経て、今僕たちの手に残っているという意味では、確かに価値のあるものばかりであると思います。それを「読んでも価値がない」とは断じません。しかし、古典を読むこと自体を問題への取り組みであると勘違いしてしまっては困ります。むしろ自分が日々直面する問題に徹底的に取り組んでいなければ、私たちに古典の価値などわかるわけがありません。オーギュスト・ロダンは「厳しく自己を鍛えた人間でなければ、美術館を見るな。」と言いましたが、これは単に「見ても、わかるわけがないから。」であるのです。それは古典と言われる価値のある本についてもまた、同じように言えることです。

 様々な出版バブルに対して、僕が思うのは、「もう、他の人の考えに答を求めるのはやめて、自分の目で観察して、自分の頭で考えませんか。」という提案です。誰の本が何万部売れたかは知りませんが、そんなのを買って読んでいる暇があるなら、自分で悩みましょうよ。といいたいものです。悩めば悩むほどに、古典と呼ばれる本の価値も、現代的意義も、わかるようになるでしょう。そして、書き手は、自分の本がそのような古典に100年後になれるかどうかを、自分の著作としての最低ラインとして(自分のチェックは甘いものですから)検証した上で、勉強し続けては、それだけの質のものを書いていこうと努力していくのがよいのではないでしょうか。そうしたら、バカ売れは減るでしょうし、そもそも「今、話題の本!」という売り文句自体に反応しなくなる人が増えるでしょう。おのおのの取り組む問題に、効果的な「共通の薬」があるわけがないことがよくわかるはずでしょうから。そのような社会に少しでも近づけると、健康的なのではないか、と思っています。(そうなると僕も、「老後は印税生活でゆったりと…」というバラ色の計画は捨てねばなりませんね。残念です。でも、それが正しいと思います。)

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天気予報、携帯無料ゲーム、塾。

皆さん、お久しぶりです。久しぶりと言えば、今日の東京は久しぶりに雨が降りました。ところで、僕は天気予報での、「今日はあいにくの雨です。」とか「週末はお天気が崩れます(雨が降ります)」という言い方が大嫌いです。あの言い方は、雨をバカにすることを通じて都市に住む人間の思い上がりを示していると思います。これだけ科学が発達しただのなんだのいばってみても、ちょっと雨が降らなければすぐに生活に使う水がなくなってしまうのが、我々人間の文化の脆弱さであるのに、さらには雨が降らなければそもそも農業自体もなりたちえないのに、「雨を嫌がる」気持ちと、それに迎合する天気予報とに対して、表面に浮かぶ感情だけでの言説を繰り返している気がしてならないのです。

もちろん、僕だって、生活の中で雨が降ると面倒くさいことは多々あります。洗濯物は部屋干しか乾燥機にしなければならないし、娘のお迎えだって自転車が使いにくいです。しかし、それは僕の都合であり、結局はあまり大切なことではなく、様々な支障は生じるものの、決して生きていくのに根本的な障害となるものではありません。しかし、雨が降らずに飲み水がなくなる、あるいは農業がやっていけなくなる、というのは、めぐりめぐって僕が生きていくのに根本的な障害となるものです。

このように考えればわかるものの、それがなぜテレビ画面の中では「あいにくの雨」「お天気が崩れる」という言い方になるのか。それはやはり、1000万人の都民の不快は、少数の人々にとって生存にかかわるかもしれないものよりも、優先されやすい仕組みができあがってしまっているのだと思います。たとえば一人の人にとっての生死の問題が1000のインパクトをもつ(仮に生死の問題を一人の抱えるインパクトの上限と想定しています。)として、おそらく「ある一日に雨が降って不快だ・いろいろ困る」というのは、冷静に考えればその1000分の一以下でしょう。仮にそれを大きめに1と見なすと、前述の予報士のコメントになるのは、「1000万人が感じる1の不快は、総計1000万になり、大きなインパクトをもつので、それに沿ったコメントをすべきだ」という圧力が何らかの形で働いているからであるのだと思います。もちろん、この計算で行くと、「1000万人にとっての1の不快」は「1万人の死」に等しくなってしまうわけで、単純な理論モデルの作り方としてもかなり雑ではあるのかもしれません。しかし、そのような計量的な考え方が(もちろん具体的にそのような手法をとらなくても)何らかの形で影響を及ぼしている結果として、あのような天気予報のコメントになっているのであれば、やはりそれは多数者の大して重要ではないリクエストに、少数者の重大なリクエストがどうしても負けざるを得ない、というちょっとぞっとするような社会構造があるのではないでしょうか。

ビジネスでもそういうことはあるようで、「十人から1万円を集めるビジネス」よりは、「千人から100円ずつ集めるビジネス」の方が、同じ10万円でも、1万円を出すことに対してはみんな慎重になりやすいものの、100円であればとりあえずやってみようか今後はより儲かりやすいわけです。グリーやモバゲーは、そのようにして今は破竹の勢いで儲かっていますね。そして、そのように拡大すればするほど、さらにテレビCMをたくさん流し、巨大な影響力を持っていきます。一人一人の人生にとって、グリーやモバゲーの占める重要度というのは、どんなにはまっている人でも、たいしたものではないでしょう。しかし、それを何百万人がやることで、社会の中ではその「ひとりひとりにとってたいしたものではないもの」こそが、もっとも巨大な権力として存在することになってしまいます。

「それが民主主義だ。」「それが市場経済だ。」と言い張るのは簡単なことであるとは思います。僕も別に社会主義がいいだの市場経済がだめだの言うつもりは全くないのですが、しかし、上に述べたような欠陥が少なくともこの私たちの社会にあることは自覚しておいた方がいいことには間違いがないのではないか、と思います。

学習塾というのは、グリーやモバゲーとは対極の商売です。一人あたりの単価が高く、何万人単位で指導することは出来ません。その意味では、時代に逆行する、やがては絶滅する商売であるのでしょう。しかし、僕は学習塾のグリーやモバゲー化を目指すのではなく、一人一人の人生全体を1000としたとき、そのうちの、500とは言いませんが、大部分を占めるような重大なリクエストに一つ一つ応えていきたいと考えています。そのような取り組みこそが、世の中をよくしていく、ということにつながるのではないか、と考えています。

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電子書籍の時代に考えねばならないこと

ipad だのiphoneだのipod touchだのしゃらくせえ!と何も目くじらを立てることはないのでしょう。とても便利なものですし、何よりも活字を読んでいく事へのハードルが低くなることは、教育という観点から見てもよいのでだとは思います。

ただ、一つ考えていかなくてはならないのは、そのような電子データ化された書籍を作るためのコストを、誰が負担すべきか、という問題です。これはipadとは関係がないのですが、もう中高生であれば当たり前に保有している電子辞書を例にとって考えてみましょう。教えていて、わざわざ紙の辞書を新たに購入するというご家庭は非常に少ないように思います。電子辞書自体は一台2万円以上する高価な買い物ですが、親御さんもやはり「ゲーム」というとお金を出したくないと思っていても、「電子辞書」と聞くと、「勉強に使うものだし、これで我が子が勉強が出来るようになるなら安い投資かも…。」と財布のひもがゆるくなる傾向があるようです。

しかし、この電子辞書のデータを電子辞書メーカーはいくらくらいで出版社から買っているか、皆さんご存じでしょうか?たとえば、あの有名な岩波書店の広辞苑を書店で買えば8000円弱しますが、出版社がデータを電子辞書メーカーに売るときには、聞いた話では、何と1台あたり100円(!)で売っているそうです。これだけ電子辞書が普及してしまえば、力関係では電子辞書メーカーの方が強く、出版社はそのような低い値段でも電子辞書に収録してもらって、いくらかのお金を得られればまだましである、という状況がこのような値段を生み出しているのでしょう。もちろん、紙の辞書の売れる部数が減らないで、それに加えて電子辞書の売り上げから1台100円が入ってくるのなら、出版社も有り難い話です。しかし、おそらく電子辞書の普及によって紙の辞書の実売部数は激減しているはずです。そしてその分だけ、8000円で売れていたものが、100円しか手元に入ってこないということになってしまう。現在のいわゆる「出版不況」とは、この電子化の時代への対応の仕方を出版社の自助努力に任せてしまった結果として、出版社がそのように追い込まれざるを得ない流れが出来てしまっているが故であるかもしれません。

もちろん、上にあげた「広辞苑が一部100円」という事実もショッキングでしょうが、まだこれは出版社に現存するデータをコピーすればするほど100円入る、という意味ではましな話です。さらに大きな問題は、このような状況が続けば続くほどに、新しい辞書を作ることはもはや出来なくなる、ということです。先に挙げた『広辞苑』は新村出さんが『辞苑』という辞書を20年かけて改訂して作ったものですが、それほど大規模であったり長期間でなくても、新しい辞書の編纂というのは当然5~10年くらいはかかるわけです。そして、そこでは大量の研究者を動員しなくてはなりません。出版社は辞書が発売されるまでのその期間、この編集作業にかかる人件費を全て、しかも長期間にわたって丸抱えするわけです。このような経営的にきわめてリスクの高い事業を行っても、それが紙の辞書としてそれなりの利益を含んで売り出すことが出来れば、回収のめどがたっていました。しかし、この電子辞書全盛の時代において、電子辞書に入っていない紙の辞書が広く売れることはまずないでしょうし、かといって新しく編纂した辞書のデータを電子辞書メーカーに売ったとしても、結局広辞苑ですら100円しか入らないような雀の涙のような金額しか入りません。これでは、新たな辞書を編集して売り出すことは、出版社には不可能なこととなり、今までのデータを使い回すだけの状態となるでしょう。そしてそれは、日本語について学問的により研究が進んだとしても、その最先端の知見を辞書に反映して、広く一般の人々がその成果を享受するということはきわめて困難になってしまいます。これが現状であるのです。

僕は電子辞書の存在そのものに反対をしているわけでは決してありません。もちろん、僕自身は使いたいとは全く思わないものの、便利なツールであることには間違いがないでしょう。しかし、あの2万円から3万円の電子辞書を買う中で、広辞苑のデータを100円で出版社が売り渡している、ということにはやはりおかしさを感じるべきであると思います。たとえば紙の広辞苑が8000円弱ならば、せめて1台あたり3000円くらいをメーカーが出版社に払う仕組みを作っていかなければ、出版社が新しい辞書を作ることは不可能になり、その結果何十年も前のかなりあやしい知見を僕たちは最新の電子辞書の中に見いださざるを得ないというおかしな状況になるのではないでしょうか。もちろん、そのような仕組みを作れば、電子辞書も今のように安い値段では買えなくなってしまうでしょう。あれだけ何冊も詰め込めば、最低でも5,6万円、中には10万円を超える機種まででてきてしまうかもしれません。しかし、そのように中に収録されているデータにも正当な評価を与えることこそが、結局は社会全体としても得られる利益は多いように思います。あまりにも目先のことにとらわれるあまりに、結果としてこれまでの先人の蓄積した「知」を使い捨てては、我々自身がそこに新たな知見を築いたり広めていくことには無頓着であるのなら、それこそ子孫達の代に申し訳がないでしょう。

もちろん、電子辞書と電子書籍は違う部分もあります。特に、漫画家の佐藤秀峰先生の「漫画 on Web」のように、出版社を通さない電子書籍というものが作家の出版社からの自立や、出版社に頼らないデビューのあり方を作っていく、というメリットについてはもちろんすばらしいものであると僕は思います。しかし、そのような電子書籍のメリットは個人である作家さんや漫画家さんによって作られる作品には確かにあると僕も思うのですが、一方で辞書の編集のように個人ではない組織が個人ではなしえないような長期的かつ大規模な編集作業を通じて初めて行われるもの、というのは、この電子書籍の時代には絶滅していく恐れがあると思います。このことについて、私たちはどのようにすべきかを考えていかねばなりません。たとえば「そういうものは政府がやればいい!」的な発想もあるとは思うのですが、辞書が中国の皇帝の専権による編纂事業において発達した(『康煕字典』のように)という一つの歴史をふまえてみると、そのような発想は僕は単に後退であるにとどまらず、編集事業の必要性を人々が理解しない状況を生み出しては、それを専制権力によって強制する、というかえってコストのかかる道であるように思えてしまいます。

また、昨今の事業仕分けにおいて、学問や科学技術に政府がお金をだすのをケチろうとすることに対して、著名な学者達が抗議していましたが、仕分けのやり方が学問や科学技術に対して無理解すぎる、ということを言っていても仕方がないように思います。むしろ社会の様々なところで、「文化」あるいは「商慣行」としてでも根付いてきたこのような知的生産のしくみを、ひとつひとつ見殺しにしていくことの方が、より大きな問題です。学者達が「大衆にはこの学問の価値を正当に評価することは出来ない」と政府を頼っても、その政府の構成員は(「学問の価値を正当に評価することの出来ない」)大衆の選挙によって選ばれるのですから。僕自身は、学問の価値の理解度とは、「電子辞書にいくら出すか。」という具体的な問題でとりあえず推し量れるものだと思います。そこで、「2万円で買えるのなら、広辞苑のデータ代100円でいいよ!」とか「いや、でも新しい辞書作れなくなるなら、データ代3000円払って、電子辞書5万円になってもいいよ!」とか「だったら紙の辞書の方がやっぱり安いかも!(ちょっと僕の好みの入った結論ですかね。)」という議論になったり、さらには「辞書に5万円なんて、高い!どうせ、学校卒業したら使わないんだし。」という人と「辞書に5万円なんて安い!どうせ一生勉強するんだから一生使うし。」という勉強とその人の人生との関係性をも問い直してくれるきっかけになったりすると、あの事業仕分けについて是非を話し合うよりも、もっと文化というものに実感がわいてみんなが考えやすいのではないでしょうか。

「電子辞書の正当なデータ代の分は高くなっても仕方がない」と思える消費者の多い社会が、学問の価値が広く理解されている社会であると言えるのだと思います。一足飛びにそうなることは難しいとしても、せめてこのような問題点について知り、議論をし、その中で自分はこの問題についてどのように意見をもつべきかを考える人が増えるといいな、と思っています。

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