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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その1

先日、人生で初めてアイドルの握手会というものに行ってきました!といっても、それほど大規模なものではなく、CD発売記念にインストアイベントとしてやっているものでした。きっかけは、元塾生で今はアイドルをやっている子から、「明日握手会やるんだけど、来ない?」とお誘いの電話を受け、塾の子をあれこれ誘ったものの、みんな忙しかったため、一番暇な(!)僕が一人で行ってきました。

感想としては、非常に勉強になった、というのが正直なところです。ラーメンの話のところでも書きましたが、自分が「ここにはあまり探究すべきものがない」と浅薄にも判断しているところに、実は様々な深い話がある、ということを改めて思い知らさせられる、という経験をすることが出来ました。

アイドルの握手会というのは、もちろんアイドルですから、みんな美少女だらけです。しかし、本質はそこにはありません。そのような美少女達が僕のようなコミュ障でキモいデブなおっさんに対しても、目を見て親しげに笑顔で話しかけ、積極的に握手をしてくれます。そのことでもたらされる、自己肯定感といったら!異性に対して、あるいは同性に対してすら、自分の言いたいことをはっきり言えず、そのせいで様々に良いところをもちながらも、なかなか理解してもらえずに対人関係で苦い思いを抱いている人々にとっては、彼女たち美少女アイドルは天使です。
「彼女たちよりもかわいくも優しくもない、学校や職場の周りの異性達は、少し自分がうまくしゃべれないくらいで自分たちをバカにして、人の本質なんか少しも見る目がないけれども、それはでも奴らの見る目がないだけで、俺の良さはこの子達にはちゃんと伝わってる!」という自己肯定感は、人とのコミュニケーションが苦手なだけで憂き目を見ている人々にとって(そして、そのような人達の感じる抑圧感というのは、非常に強いと思います。この社会はコミュニケーション能力を不必要なまでに高く評価するからです。それこそ、少なくとも江戸時代の五人組くらいからそうなのでしょう。)、辛い毎日を生き延びるための心の支えになっているのだと思いました。もちろん、僕自身はそういう自分の欠点(コミュ障でキモいデブ)を乗り越えて余りあるくらいの根拠のない自己肯定感(神が人類に与えたもうたこの天才!すみません。)の塊であるので、あまり継続してアイドルの握手会を必要とはしませんが、アイドルは確かに社会を支えているのだな、ということを強く感じました。それとともに、そのために彼女たちが強いられる厳しい努力と犠牲を10代前半かそこらからずっとやり続けている、ということにも感銘を受けました。また、そのように努力を重ねても生き残れる子達はごくわずかである、という厳しい現実にも。その厳しい道を元塾生の子も選び、懸命に頑張っていることに、改めて応援を続けていこうと思いました。

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告である渡邊博史さんが最終意見陳述書で書いていたように、「自身がEXO(韓国のアイドルです)にはまるのがもう少し早ければ、こんな事件は起こさなかったかも知れない。」ということが、たくさんあるのかもしれません。家族や親戚によって支えを受ける、ということが望めないが故に、その外へと助けを求めるためには、それら以外のセーフティーネットがきわめて希薄な日本においては、少なくともコミュニケーション能力が必要とされます。仮に、経済的には必要に迫られて、それがかろうじてできたとしてもなお、精神的なサポートというのは望むべくもありません。そのような時に、たとえばアイドルにはまって、それを応援する、というのは一つの心の支え、生き甲斐になることもまたあるのだと思います。その意味ではアイドルの握手会というのも、もちろん商業ベースで行われてはいるわけですが、広い意味での「社会的包摂」のチャンネルになっていると言えるのでしょう。

それを「握手会のために煽られて踊らされて情けない」とバカにするのは既に自分の人生に於いて自己肯定感をそこそこ持てている人々の浅薄な見識でしかないし、仮にそこで自身で稼いだお金を生活をしていけないくらいまでにCD代に費やしてしまっている人に、生活を立て直してもらいたいと思っても、そのCDを買うという行為だけを辞めさせようとするのは片手落ちに過ぎないのだ、という結論に至り、自身の見方に猛省を強いられました。この機会を与えてくれた元塾生の子に、本当に感謝しています。

と書いたところで、大分長くなってしまったので、次回に続けたいと思います。

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呪われた夢。

先日、スタジオジブリに密着した映画、『夢と狂気の王国』のDVDを見ました。その中で、とても印象的な場面として、宮崎駿監督が零戦を作った堀越次郎の夢の話をして、「飛行機を作りたい、という思いは呪われた夢なのです。それが戦闘機に用いられ、人が殺されざるを得ない、という点で。そういう意味ではこの時代にアニメを作る、というのもまた呪われた夢でしかない。」という話をされているところがあり、その認識に対して本当に共感しました。

戦時に飛行機を作ること、この時代にアニメを作ることだけではなく、現代においてはどのような夢も、ほぼ呪われた夢としてしか存在し得ないのではないかと僕は思っています。ここでいう、「呪われた」とはその夢の実現に向けて自身がどのように誠実に頑張っていこうと、それは自身が望まなかったはずのある種の暴力へと加担せざるを得ない、ということです。学問や芸術は違う、と言いたいところですが、学問という一見生産には関わらないことが社会の中でその経済的非効率性を許されて存続するためには、アカデミアというある種の特権団体に限定される必要があり、そしてそのような団体の存続のためには、真理や美は容易にねじ曲げられるでしょう。ある意味、このような弊害を生まずに一人一人が探求活動をするためには、我々の精神が、自らの生活の中にある芸術や学問の萌芽に対する準備ができていなければならないことになりますが、それは、大学や美術館の中にあるものに対してしか学問や芸術を感じ取ることのできない、多くの鈍い精神には、なかなかに難しいことでしょう。

それは、一時期流行した「社会的企業」についてもまた、同じことが言えるでしょう。社会の欠陥を弥縫(びほう)するためのどのような取り組みもまた、「呪われた夢」であるのです。お金を稼ぐことではなく社会の改善を目指すその動機はすばらしいとしても、ある単一の課題への取り組みに、それさえ改善されれば今の世の中が少しはよくなる、と信じて一心に取り組もうとも、その改善が何を前提にして進んでいくのか、即ち何を犠牲にして進んでいくのかを考えていかなければ、自分が当初掲げたsingle issueが改善していくことは、別の不幸や暴力を生み出すだけのことになるでしょう。

もちろんこれらの指摘から、「夢を持つな」とか「社会の改善を諦めろ」ということを言いたい訳ではありません。大切なのは、すべての夢は「呪われた夢」にすぎなく、その夢の実現が個人としても、あるいは社会全体としてもそれだけでプラスの側面しか生み出さない、ということは決してなく、必ずプラスとマイナスを生み出すのだということを覚悟して、その「呪われた夢」を追求することをしていかねばならない、ということだと思います。自分の夢の追求とその実現がもたらす負の側面に対して心の準備をしては目を背けずに見つめながら、しかしそれでもその夢の実現を目指そうとしていけるか、言い換えれば自分の中で自分の夢をどこまでも信じる自己と自分の夢の犠牲にするもの故に自分の夢をどこまでも憎む自己という、二つの自己という矛盾をどこまで抱え続けられるかどうかが大切であるのだと思います。

それは、なぜなのか。それは人間の歴史自体が一つの試行錯誤の歩みでしかないからです。
ある人が掲げることになる夢には、必ずその必然性があります。また、その夢が抱える限界もまた、必ずあります。新たな暴力を引き起こさないためにそもそも何もしない、というのではその試行錯誤すら止まってしまうからです。どのような天才であれ、少なくとも人類にとって未来永劫正解として持ち続けるような正解にたどり着いて生きることはできないとしても、次につながる失敗をすることはできます。呪われた夢であろうと、その「呪い」を恐れるあまり、何もしないよりはそれを追求する方が前進することはできます。
それと同時に、その「呪い」を強く自覚していることが、その「夢」のもたらす失敗に気づきやすくしてくれます。ある時代の正義や真理がその有効性を失ってもそれが今までに獲得してきた権威のために自らを守ろうとして、結局それを差し替えるために大きな規模の暴力を招かざるを得なかった、という歴史もまた人類の歴史でしょう。
その差し替えにかかる時間やそのために必要とされる暴力を少なくしていくためには、その「呪い」への痛切な自覚が必要となります。

自らの夢が、呪われた夢であることに気づいてもいない人々は、もっと目を凝らしてよく自分の夢を実現するためにどのようなものが犠牲とされているのかを見た方が良い。僕は、彼ら彼女らに対してはかなり厳しい意見をもっています。正直考えないで生きていないと、そのように夢をもつことはできないとさえ、思っています。しかし、自らの持とうとする、どのような夢も既に呪われていることに絶望する人々は、何でもいいからえいやっと、やってみるのも良い手ではないかと思います。それによってでてきた不具合や起こしてしまった暴力については、それを防ぎ乗り越えていくために次にどうしていくべきかを考えていけば良いではないですか。

とかく前者(夢を追い求め、その呪いには鈍い子)はもてはやされ、それを批判する能力がない大人と、それゆえ後者(呪いに敏感なあまり、夢をもてなくなっている子)の苦しみに対しては理解することのできない大人ばかりの世の中ですが、嚮心塾が(もちろんどちらに対しても力になりたいものの)本当に力になりたい、と強く思っているのは、後者の子達です。呪われた夢が、呪われていることを深く知り抜きながら、それをえいやっとつかみ、必死に追い求め、その上で「呪い」の部分をどう乗り越えていくかに対して、共に知恵と勇気を振り絞ることができるような塾でありたいと思っています。君たちが、自分の夢を「呪われた夢」と感じることができているなら、それは追い求めるに値する夢です。それはちょうど、自らの人生を呪われた人生であると感じられるのであれば、それは生きるに値する人生であるのと、同じことですね。まあ、しんどいでしょうが、お互い頑張りましょう。

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ビットコインについて

現在、世間をにぎわしているビットコインについて、現時点での僕の考えをまとめておきたいと思います。

まず、不正なのか、それともセキュリティの脆弱さ故なのかはわかりませんが、一つの取引所がこのように破綻しただけで、鬼の首でもとったかのように「だからこんな怪しいものは信じちゃだめだ!」という結論に至るのはもったいない。ましてや、ほかの詐欺事件(円天とかですね)と比べるというのは無理解故の悪意すら感じます。円やドルに比べてビットコインが「怪しい」要素が果たしてあるのかどうか、素人考えながらいくつかの論点に分けて書いていきたいと思います。

①もともと実体のないビットコインが価値を持つなんておかしいのか。
というビットコインへの批判は、そのまま円やドルにも当てはまります。現代の貨幣は金本位制などの何らかの物質的価値に担保されることのない、信用貨幣です。であるが故に、「アメリカ政府が出しているから安心」「日本政府が出しているから安心」という考えは(たとえそれらの政府が巨額の徴税権をもっているとはいえ、それを帳消しにしてあまりある債務を抱えている以上は)あまり正しくないと言えます。さらに、です。各国の貨幣流通量がそのときの中央銀行の政策によって大きく変動するのに対して、ビットコインはどのようなカーブを経て、最終的にどのような量へと収束するかも定められています。つまり、「今不況だからとりあえずお札刷ろうぜ!」というアベノミクスだのヘリコプター・ベン(前FRB議長のベン・バーナンキのあだ名ですね。)だのの影響を受けない訳です。一国の経済状況に左右されて大規模な金融緩和が各国政府の権限で無秩序に行われる、ということ自体はこのアベノミクスを「成功」と各国の中央銀行がとらえれば、ますます増えていくでしょう。それが世界全体にどのような信用の低下を引き起こすかについては未知数のままに緩和合戦になっていくとして、そのような各国の貨幣よりもビットコインの方が怪しい、というのは単に私たちが今までの習慣からお札やコインを「お金」だと思っているという以上の根拠はないことであると思います。

②そもそもビットコインは貨幣の代替物なのか。
将来的な総量が決まっていること、あるいは「採掘」というアナロジーが暗示するようにビットコインは貨幣との比較だけでは語れません。むしろ、金やプラチナなどの稀少金属との比較で語る観点が重要であると思います。採掘や精錬にはコストがいるものの、そもそも地球上にそんなに多くは存在しない(かつピカピカしていてきれい)であるが故に、一定の価値の象徴として、これらの金属は長年に渡って貨幣経済の基礎となってきました。金本位制を本格的に人類が手放したのはいつとみるべきでしょうか。最終的な決別がニクソンショック以降、と考えればまだ40年くらいしか経っていません。これらの稀少金属の軛(くびき)から貨幣を自由にせざるを得なかったのは、それらに担保された財政規模では間に合わないような債務を現代の国家が担わなければならなかったでしょう。単純に言えば金(きん)をもっている以上に紙幣を刷らないと間に合わないくらいにお金を使うようになった、ということです。
ただ、一方でこれらの希少金属にも大きな難点がありました。それはまず埋蔵量に限界があること(限界があるからこそ、稀少金属であるわけですが、しかしそれでは足りないような財政規模に現代の国家はなってきました。)、次にやはりモノですから、そもそも保有するのにもコストがかかります。さらには取引コストも実際に金を移動しなければならないとしたら、大変なことです。
ビットコインはこの金やプラチナなどの稀少金属の問題点を解決するために考えられた制度であると言えるでしょう。取引コストの少なさ、タイムラグの少なさなどはその点で見事に解決できていると思います。もちろん、ビットコイン自体が信用を得るためにその埋蔵量に限界を作ることは当然必要であった訳ですが、このシステムがうまくいくのであれば、第二、第三のビットコインを作っていけば、人工的な、そして取引コストのきわめて小さい稀少金属の代替物を用意していくことができるわけです。その意味で、まさに稀少金属の稀少性のみに注目し、(いわゆる細密な電子部品に使われる「レアメタル」のように実用性があり、かつ稀少であるがゆえに高価な金属とは違って)実用性がない稀少金属は仮想通貨で代替しうる、という大きな社会実験となっている訳です。

世界史を見ても、たとえばヨーロッパの価格革命のように、ヨーロッパで産出される銀の量で銀の価値が決まっている状況に新大陸から大量の銀が流れ込み、銀の価値が大きく下落する、ということがありました。たとえば各国の中央銀行が発行する貨幣が技術的制約(お札をこれ以上刷れないという技術的制約はないでしょう)というよりは信用の最大値による制約を受けていて、逆に金やプラチナなどの稀少金属が流通量の最大値による制約というよりは技術的な制約(どこまでも深く掘れば金やプラチナを今よりもさらにとることはできるでしょう。ただ、それだけの技術があるかどうか、さらにはそれだけのコストが金やプラチナの価格に見合うかどうか(当然大量にとれれば稀少性は減るので))を受けているとすれば、ビットコインについては将来到達すべき最大値が示されているという点で流通量の最大値による制約を、また「採掘」に(少なくとも現段階では)コストがかかるという点で、技術的制約をもっています。それら二つが二つともにビットコインの稀少性を担保しているとすれば、僕たちが円やドル、あるいは金やプラチナをビットコインよりも信用するための、少なくとも理性的な理由はない、ということになります。


③さて、これから生じると考えられるであろうビットコインの問題点
さて、ここまではビットコインの可能性について書いてきましたが、当然問題点があります。それについて、これからおそらく問題になるであろう点をいくつか挙げていきたいと思います。
1)「技術的制約」についての見通しの不確かさ。
コンピューターの発達によってビットコインの「採掘」の技術的ハードルが下がれば下がるほどに、ビットコイン自体への信頼性も下がっていきます。また、そもそもアメリカのような超大国がスパコンを使ってその「採掘」に没頭していったとすれば、個人の採掘の「余地」などなくなるでしょう。保有するコンピューターの性能の差は、ビットコインにおいても貧富の差となり、富める国はますます富み、貧しい国はますます貧しくなるでしょう。技術的なことは僕にはよくわかりませんが、しかしコンピューターの性能が日進月歩で進む以上、現在の理論的な「技術的制約」が今後何十年にも渡って予測通りに制約であり続けるかはわからないのではないでしょうか。
2)そもそも貨幣は国家と強く結びついている、ということ。すなわち各国の中央銀行の(恣意的な)信用創造に対して、代替の選択肢を用意してしまうビットコインを歓迎する政府はない、ということ。
これについては、わかりやすいのではないでしょうか。少なくとも、この試みを保護したり推進したりする動機が
そもそもどの政府にもありません。
3)パソコンとインターネットを必要とする以上、デジタル・ディバイドによる貧富の差がさらに拡大していくこと。
4)稀少性、というだけでそもそも価値を担保できるのか。
これは頭で考えればわかるけれども、それをモノで媒介できないときにどこまでそれが受け入れられるのか、ということでもあります。貨幣の歴史を考えれば、貝とか布とか、「お!きれい!」という感覚的なものが先に立つところから生まれて生きている訳です。あるいは金や銀にしてもあんなピカピカしたものでなければ、いくら稀少であってもこのようにあれらを基礎とした経済ができたかは疑問です。案外、人間は頭で考えるよりも見て奇麗だと思ったり、感性に左右されるところがあります。もちろん、今のお札や硬貨を奇麗と思う人が多いかどうかは意見が分かれる訳ですが、すくなくともモノとして存在している以上は、そこに対するフェティシズムも可能になります。頭で稀少性を理解するだけでそれが、どこまで広がるかは、人間の偶像崇拝の歴史を見ても、限界があるかもしれません。

などなど、まあ問題点はいくらでもあります。ただ、大切なのは、こういう取り組みの意味をしっかり考えていくことだと思います。現在の貨幣経済が歴史の終点ではなく、現在の貨幣経済にも必ず大きな失敗があるわけです。その欠点に気づき、修正し、考えていくための一つのチャレンジとして、僕はビットコインを「何かうさんくさいもの」とみるのではなく、そのよいところを汲み、悪いところを反省しては、次につなげていくことが大切かな、と思います。

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つなぐ。

ご無沙汰しております。今、少し長い記事を書いていて、そのつなぎとして短い記事を書きたいと思います。

ゲーム理論において、応報戦略(しっぺ返し戦略)が全員の利益を最大化するとしても、それは利益しか見えていないわけです。少なくとも相手のした通りにしっぺ返しをしようという心のさもしさ、「冷たく当たられれば冷たく返す」という壁を作り、それが何らかの理由でひどいことを繰り返ししている人には、出口を無くしていきます。「そういう人は冷たく当たられることで、学習していくから良いのだ。」と人ごとなら言えますが、自分が精神的にどん底まで落ち込んでいるときに、それが故に人に対して冷たく接してしまい、しかし、そこで「これは自分の態度が悪かったのだな。」と学習する姿勢を発揮することを一人一人に求めてしまうのは、僕はあまりにも要求水準が高すぎることであると思います。人間は、この僕も含め、そんなに賢くはありません。

そういった「どうしようもない(と他人に見られるまでに虐げられ、屈折せざるを得ない)人」を描き、共感のきっかけにするのが文学であったわけですが、それも最近はどうなのでしょう。クロポトキンがドストエフスキーを「精神異常者ばかりの登場する小説を書く。」と批判していましたが、僕は文学とはそうあるべきであると思うので、それ故にドストエフスキーの小説には価値があると思っています。天才や狂人と凡人との間の橋渡しをするのが文学です。言い方を変えれば、天才や狂人は凡人を理解しているからこそ、凡人が天才や狂人を理解するための補助線となるのが文学です。彼らが何故孤立し、何故一見ひどい振る舞いをするのかには理由がある。いわば、彼らは鋭敏であるが故に、社会の「毒」の影響を真っ先に感受し、それでおかしくなってしまうわけです。炭坑のカナリヤです(カナリヤが人間より有毒なガスに鋭敏かはわかりませんが)。彼らの苦しみと屈折とそれ故の暴力への道筋を理解することで、僕たちは自分たちの人間性を奪っていくものについて前もって理解をできるわけです。
しかし、最近の小説は、狂人を描かない。あるいは狂人を描いたとしても、その狂人が狂人になる必然性を描かない。(もちろん、これは批判ではなく、自戒を込めてです。僕はこんな風に文学を語りながらも小説家になることは捨てて、教育に取り組んでいるので、僕自身にも責任があると思っています。)

「しっぺ返し戦略」以外の取り組みがきわめて細く狭くなってきていることを強く感じています。それは最近の小説にも見出し得ないし、昔の小説にたどりつくまでには、長いハードルがある。そもそもそれは周りの人が誰も読んでいないからこそ、そこにたどり着くまでにはある程度の教養をもってそれを指し示す大人や先輩、同級生が近くにいるか、本人の懸命な努力によってそこまで自力で到達するかのどちらかです。しかし、それはどちらにせよ、きわめて確率の低いことであるでしょう(ドストエーフスキーの小説を読んだことがある大人は結構いたとしても、その小説の意義を苦しんでいる若い世代に語れる人が、どのくらいいるでしょうか。)。かといって、人間関係においては、「しっぺ返し」以外の戦略は見る陰もありません。メールだけでなくFacebookやtwitterやLineなどコミュニケーションの頻度が高くなればなるほどに、広範囲に「共感」可能な言葉以外はしゃべれなくなっていくという傾向があると思います。たとえば、一対一でその人に向けてしか話せないような言葉、話しても意味が通じなく曲解されるであろう言葉を話し、そういった言葉を鍛える場自体はむしろかなり減ってしまっているのではないでしょうか。誰にも傷つけられず、誰をも傷つけない言葉以外を話す場を持ち得ないがゆえに、誰かを傷つけるものの、ものの本質に迫る言葉を鍛える場や人間関係をもちえていません。そのような中では自分からは破綻的な攻撃性を示さないものの、誰かに攻撃されればとたんに攻撃的になる、という戦略を採らざるを得ないでしょう。しかし、それでうまくやって行っているつもりでも、言葉や思考は力を失っていくわけです。

「自分が傷つけられたから、相手を傷つける。」という行為の連鎖からは何も生まれません。もちろん人間の心は弱いので、そのような反射的な行動をしてしまうこともあるでしょう。そして、そのような行為をした自分を正当化する何百もの理由も見出すことが出来るでしょう。それはもしかして、しっぺ返し戦略の説くように「全体の利益を最大化する」ことに資するかもしれません。しかし、その負の連鎖を続けることをどこかで断ち切る自己がいてもいいとは思うのです。しかも、「それが全体の利益に資するかどうかなんてしゃらくせえ!俺は自分が傷つけられた腹いせを他人にしたって気が晴れねえんだ!」という態度こそが、実は意志の力を必要としない応報戦略(相手からよいことをされたら、相手によいことをする。相手から悪いことをされたら、相手に悪いことをする。)よりも、意志の総量を地球上に増やしている、という意味では実は正しい戦略なのかも知れません。生存効率だけを考えるのなら、昆虫のように本能だけで全てを管理できることこそが一番良いはずなのですから。しかし、本能に抗うノイズのようなものである意志を発達させた人間が、このように発展してきたということこそが、意志を必要としない「もっともらしい戦略」が、その戦略によって最大化される利益だけによってそれを正当化できるかどうかを疑う一つの根拠なのかな、とも思います。全体の利益の最大化にとって、無駄なものだけをhumanityと呼ぶのだとも思います。

人類史上最高の天才の一人とされるフォン・ノイマンの大成させたゲーム理論も、結局は人類史上最高の天才程度の作ったものにすぎません。それが人間の認識の限界の最先端であるとしても、人間の認識自体が外界に対してきわめて小さいもの、小指の爪の先ほどのものでしかないものであることを忘れてはなりません。精緻(せいち)にくみ上げられた人間の知の体系もまた、一つのお題目にすぎない。つまり、それは一面の真理にすぎないじゃないか、そんなものを俺たちに押しつけるな!という心の叫びの表明がロックンロールです。つまり、「俺たちはバカだ!でも、バカだからってだまっちゃいねえんだ!」という叫びです。

ということで、嚮心塾ではしっぺ返しをいたしません。生徒達よ、何度でも僕を裏切ればよい。何度でも僕をごまかせばよい。君たちがとっているその脆弱な「最適化」戦略が、いかに子供だましか、いかに真理づらした自己正当化かを、君たちが思い知るその日まで、僕は諦めません。たとえ、新聞紙上の人生相談で美輪明宏さんですら、「バカは自分で懲りるまでほっとけ」とアドバイスするという絶望しきった時代であったとしても。
あるいは、たとえ、君たちの周りの大人達が、今の君たちと同じように「世の中ひどい奴だらけなんだから、ごく少数の家族や親友以外は、良くしてくれた相手にはよくして、冷たい相手には冷たくしていればいいの。」という戦略を採用している人ばかりだったとしても。君たちをそんなくだらない大人にはさせません。

そして、僕自身も暴力の連鎖を自分の意志で止められる人間に、今以上になっていかねばなりません。
この決意を固めてから、早15年くらいはたっているのですが、あの頃想像していた以上に、この道が
やればやるほどさらに逃げ場がなくなっていくだけでなく、誰からも理解されないということがしんどいところですが、まあ、それはさぼる理由にはなりませんね。頑張っていきたいと思います。

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ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法(就職する君へ)、現場一流トップ三流 その1

 下働き、雑用、と言われるものをほとんど全ての若い子達は嫌がります。「こんなことをしても意味がない!」「そもそも自分に何のメリットもない!」という反応がほとんどではないでしょうか。また、そうでなく下働きを嫌がらない子達も、それは何らかの「社会への奉仕」なり「自分の属する共同体への奉仕」を1つの美徳として、幼いときからすり込まれているが故にそれらに対して肯定的であるわけです。しかし、僕はそのどちらの態度も間違っていると思います。下働き、雑用を徹底的にすることは、自分が力が付くという意味で、純粋に自分のためになります。

 僕がそれに気付いたのは中学三年生くらいでしょうか。結局何かをよく知っている人に任せる、ということがこの社会における分業を作り出しているとしても、その「よく知っている人」というのはほとんどの場合「凡才にはわからないような高度な内容を専門的に勉強してきた人」である必要が無い場合が多いと思います。つまり、「ちょっとIpadの使い方がわからなくて…」とか、「ちょっとパスポートの取り方がわからなくて…」ぐらいのことは、言ってみればそれをやろうという意志と、そのやり方を調べる努力、さらにはそれをやる際に起こる些細な細かい手違いに耐える忍耐強ささえあれば、誰にでも身につくものであるわけです。しかし、実際には若い子はともかく、大人であってもそのように今までの自分が経験してきていない作業に関しては、二の足を踏んでしまい、結局誰かに聞かざるを得ない、あるいは聞いてもできなくてお金を払ってお願いしたりせざるを得ない、ということが多いのではないでしょうか。
 そして、下働き、雑用とはそのような何かをしていく際の煩雑な手続きその他を自分にそれをやる必要が無くてもこなす機会を与えてもらえるわけですから、そのような作業を徹底的にやり、様々なことの手順に精通していくことが、どんどん自らの「力」になっていきます。自分が普通に生きていく中では決して関わることの無かった手続きやプロセスに習熟する機会を得られ、しかもそれをやることによって、周りの人からは感謝を受ける。これほど「お得」なことはないわけです。だからこそ、若い世代には、学校のことであれ、部活のことであれ、ボランティアのことであれ、その他様々なことに取り組み、どれ1つ面倒くさがらずにやっていってほしいと思います。みんなが嫌がる仕事を率先して徹底的にやっていけば、みんなからの人望を得られるという小さな利益以上に、君たち自身の中に、さまざまな手続きに習熟し、それに対する心理的抵抗感がなくなっていきます。それこそが何よりも君たちの頼もしい力になるでしょうし、この残酷な社会の中で君たち自身が一目置かれ、生きていくためのスキルとなるでしょう。(就職によって身につくことはそれなのかな、と僕は思っています。「自分のやりたくない仕事をしたくない!」と飛び出すのは上に述べたような「くだらない仕事」の数々がいかに人々の意識を支配し、それをできるかできないかによって、その人が周りから重宝されるかどうかを決定するという事実をあまりに軽視していると思います。しかし、だからといって、そのような雑用を決して嫌がらない姿勢やそれが自分の力に確かになっていく、それぐらいほとんどの人々は自分の習熟していない雑用を乗り越えることができずに暮らしている、ということを学んだ人間がその後もなお、その「奴隷」生活を送るべきかどうかは僕には疑問です。この意味でも就職にもまた効用の限界があると思います。)

 話を戻すと、僕は少なくとも高校生の3年間はそれに気付いていて、それに気付かない周りの同級生達が「雑用」をいやがっては勉強したがるのを「なんてアホなんだ!」と思いながら、自分は徹底的に働いていました(今考えると、嫌な奴ですね。すみません。もちろん勉強もできました。なおさら嫌な奴です。さらにすみません。ただ、弁解をしますと、このことに気付けない子達がいくら勉強をしても、このことに気付ける子には勝てない。それは厳然たる事実だと思いますし、教えていてもその違いを感じます。視野を狭く狭くとって「ここだけが受験に出るのだからここだけやっていれば大丈夫!」ということを子供達の感性を殺さないよう戦略的にやるのではなく、一人一人の感性まで根こそぎ殺してしまうかのようにやってしまうのでは、やはり限界があるわけです。「感じるな!考えるな!覚えろ!」という勉強方法ではやはり上限ができてしまうと思います)

 その後ヘーゲルを読み、『精神現象学』における、彼の「主人と奴隷の弁証法(注1)」について知ったときにも、「こんな僕みたいな子供にもわかることをおおげさに言うだけで大哲学者と呼ばれるなど、楽なものだなあ。」と不遜にも思った覚えがあります。(もちろん、力を蓄え独立を準備していく奴隷と、奴隷に依存していく主人との間での力関係の逆転が起こるということを、その当時の僕はたとえば日本の平安時代から鎌倉時代に移行する過程での貴族から武士の権力の推移などと結びつけて社会経済的な観点から肯定していただけでした。それがヘーゲルの言うように内面の問題としての自由となるかどうかについては、かなり難しいと思います。ニーチェの言うようにそれが「奴隷の道徳としてのキリスト教」的な側面、つまり「奴隷が奴隷労働を通じて精神的な自由を獲得できる」が故に、「奴隷は(精神的に)自由だ!」という主張は、「だから奴隷はそのまま奴隷でよいのだ!」という主張へと容易に置き換わるわけです。個人的な心情としては僕はヘーゲルの言うこと(彼の言う「自由」)がよく分かるのですが、それを主張することはこの社会における戦略としてはあまり正しくないと思います。そして、このことについては以下で触れていくつもりです。)

 しかし、今回の福島の原発事故でもよく言われた、「現場一流、トップ三流」という言葉を考えてみると、僕はどうも、ヘーゲルの言葉の含蓄をくみ出し切れていなかったのではないか、そこにまだまだ学ぶものがあるのではないか、と思っています。それは社会経済的にも、あるいは精神的にもです。

 この「現場一流、トップ三流」という言葉はトップの情けなさを揶揄し、現場のすばらしさをたたえることで、ますます現場の人に頑張ってもらおうという意図でよく使われていると思います。しかし、そもそも「現場一流、トップ三流」であれば、やはりシステムとしてはうまく機能していないと言えるのではないでしょうか。もちろん、逆よりはまだましにせよ、「現場一流、トップ三流」という言葉をことさらに言い出して、トップを揶揄してもあまり建設的ではないように思います。

そうそう。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」にもどれば、奴隷が様々なことが出来るようになり、自由を感じ、能力も高まることはもちろん当たり前の事実であるわけです。「主人は奴隷の奴隷となり、奴隷は主人の主人となる。」うんうん。その通りでしょう。しかし、問題はそのように最前線で働くが故に英知も技術も鍛えられる人々の意見が、全体には反映されていかないというこの仕組みをどのように変えていくことができるか、という困難な問題に対して、まだ人類社会は答えを出せていないということなのではないでしょうか。奴隷と主人との間でどうしてもそのような鍛えられ方の差ができてしまうとしたら、そこで主人と奴隷が入れ替わらなければならない。それをたとえば暴力的な革命に依らないとしたら、他の方法を私たちはまだ見いだせていないのではないでしょうか。

「国会議員は国民の中から選ぶから、主人と奴隷の入れ替えがおきているはずだ。」というのは建前としてはわかりやすいのでしょうが、世襲議員はもちろんのこと、そうでなくとも実はこの建前は破綻していると僕は思います。たとえば各業界団体の中で国会議員候補として祭り上げられる人たちは、(それが日本医師会であれ連合であれ)大体現場で働くことから離れて、その団体の政治活動に熱心である人たちが多いわけです。あるいはメディアでの露出が多い人もまた、国会議員になりやすい。あるいは地方議会を経て、ステップアップして国政へ、という人も政治という現場では働いてきているのでしょうが、社会の現場では働いていない。即ち、現在の日本に於いては、何か1つの職業を徹底的に極め、一人の職業人(政治家・メディア露出の多い職業を除く)としてキャリアを積んできた人が国会議員になるのはきわめて難しいわけです。この例外といえば、起業家ぐらいでしょうか。

では、会社はどうでしょうか。会社でもやはり、出世コースがあると聞きます。たとえば東京電力では、福島第一原発の所長は出世コースなのでしょうか。東京電力では、本当かどうかわかりませんが、「東大法卒、総務畑」が社長コースだと言われているそうです。というと、やはり出世コースからは外れているのかもしれません。そんなことを言わないまでも、そもそも今実際に福島の第一原発で体を張って作業をされている作業員の方々の一体誰が将来東電の幹部になれるのでしょうか。いや、そもそもその作業員の方々は東電の正社員ですらない場合がほとんどかもしれません。そのような事実を鑑みると、そしてこれが東電だけではなく、広く日本企業に蔓延している総合職と一般職、さらには派遣労働者という身分差別、さらには官庁におけるキャリアとノンキャリアの差別などを総合して考えれば、やはり「奴隷」は「主人」になりえないシステムしか我々は作り得ていないのではないか、という忸怩たる思いを持たざるを得ません。

 本当に「現場一流、トップ三流」に問題意識を感じるのなら、そもそも就職試験に「大卒」という要件を外す大企業が増えるべきでしょう。あるいは初期の選抜でそのようなものがそれなりには必要であるというのなら、社員の評価制度を整え、コースをもっと流動的にすべきでしょう。しかし、そのような議論にはならない。それは結局「現場一流、トップ三流」と揶揄されようと今の仕組みを変えない方が、現在の「偽装能力主義」を変えずに済む点で、(現在の仕組みに慣れている人々にとっては)ありがたいという合意があるのではないでしょうか。現場を賞賛し、トップは揶揄に耐えさえすれば、奴隷は労働に自由を見いだし、主人は奴隷に隷属するという精神論によって、身分の変更を避けることができてしまうわけです。まさにニーチェの批判したとおり、「奴隷の道徳」の徹底のためのスローガンが僕は「現場一流、トップ三流」という言葉なのではないかと疑わざるをえません。

そのように考えると、ヘーゲルの言葉も、もちろんニーチェの批判した側面はあるものの、奴隷的立場に居た人々に対する応援歌であったようにも聞こえてくるわけです。「今は苦しいかもしれないが、君たちにはどんどん力がついていく。そして、その力はいずれこの社会のありようも変えて、君たちを今の立場から解き放ってくれるだろう。それも必然的に。そのときを待とうではないか。彼ら(主人)はやがて、力を失っていく。しかし、その力を失う前に、無理矢理反抗をしてはならない。それは結局君たちの命を粗末にするだけだ。君たちは今、自分対に力が付いていき、彼らからは力が失われていく、というただその一点を心の支えにして、頑張れ!」という、応援歌だったのかもしれません(ちょっと好意的な解釈すぎるとは思いますが)。

 しかし、私たちはその後の時代に生きています。人々が現場で苦しみ、どのように力を付けようと結局それが組織全体に響いていかずに、主人は主人、奴隷は奴隷の関係が決して入れ替わることのないシステムを、皆が信じている時代に生きています。どのような努力も、苦労も、それが次の英知を生み出す母体となる前に(人もその人達の経験も)使い捨てられていく社会に生きています。そのような社会に於いては、主人と奴隷の弁証法を信じることは、もはやその最良の意味に於いてすら、ごまかしにしかなりません。この辺りが、現代の抱える閉塞感なのではないでしょうか。このような社会では、結局身分関係を維持し続けるために、現場で生まれた英知は社会全体にフィードバックされることなく闇に葬られていくわけです。その結果として、社会全体がより、様々なことへの対応能力を失う方向へと退化して行かざるを得ない。それが、現在の私たちが抱える問題であると思っています。

その意味で、「福島の人たちを見殺しにするな。」「現場の人たちを見殺しにするな。」という意見は、単なる同情を超えて、思想的に意味のある言葉であるわけです。

と書いて、力尽きました。次回に続きます。

 

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無知を笑っていてはいけない。

 今回の東日本大震災で、特に福島の原発事故後には、様々な専門家の方がテレビや新聞に出て解説をしてくれました。その需要は今でも、続いています。僕自身もまた、「原発など、人間の乏しい知恵と有限な存在ではどだい無理なのだ。つまり、原子力発電とはその無理を押して行われていることなのだ。」と昔、高木仁三郎さんの著書を何冊か読んで結論づけてから、しばらく不勉強のまま放置していたので、とても勉強になりました。
 しかし、僕がテレビで見ていて気になったのは、たとえば震災後、首都圏でおきた物の買いだめなどに対し、否定的、もっと言葉を悪くすると、冷笑的な態度が多かったことです。もちろんそれ自体は愚かしく、無知のなせるわざであるかもしれません。しかし、そのようなニュースについて、私たちが考えねばならないのは、「どうしてこのようなことが起きてしまうのか。」であると思います。
 
 あるいは、放射線量についての人々の過敏な反応を笑う(「それよりタバコや飲酒(最近の話題では携帯電話)の方がよっぽど発がんリスクが高い」云々)知識人達にも僕は腹が立っています。彼らは現在の医学について、多少情報を得やすいだけです。そもそも、その現在の医学自体が、どれほどまでがんのことを理解できているというのでしょうか。小指の爪の先ほどのリスク想定に基づいて原子力発電を擁護していた人々が、また小指の爪の先
ほどの人間のがんに対する医学的知識を振りかざしては冷静になることを主張しているのを見ると、僕は悩んでしまいます。もちろん、ヒステリックな反応をするよりは、冷静な反応の方が良いとは思います。しかし、何も信じられないというパニックを、何かを信じる人々が止めたとしても、それは単なる理不尽な「蓋(ふた)」になっているかもしれない、と思っています。

 大切なのは、そのように「本能的」に見える多くの人々の反応もまた、(戦略的には失敗が多いとしても)事実としては、あながち間違いではないと思えるかどうかだと思います。そのように自らが信じるもの(科学)に対して、その信仰を疑い、歩み寄ろうという立場をとれる人たちの言葉でなければ、やはり本当には科学の有用性も伝わりにくいのかもしれません。その意味では、決して人々の無知を笑ってはいけません。むしろ、他の人の無知を少しは改善できるようにその人々に語りかけることができていないのは何故かを自問自答することが、専門家には大切な姿勢なのではないでしょうか。

 そして、教育関係者は、莫大な学校での子供達への教育、さらには学校が終わった後の塾通い、それらの全てが、一人一人が(とりあえずは)理性的な行動をとることに何ら繋がりえていなかった、という事実に対して、猛省が必要なのだと思います。高みの見物をする前に、科学的知見の効用と限界とを冷静に分析する姿勢を教育が大多数の人々に与えられていないことを、もちろん僕自身も含めて、猛省しなければなりません。人々の無知を笑って、自分の知を誇る人間など、僕は何の役にもたたないと思っています。人々の無知を無知でなくしていくことが、教育なのですし、何かについての「知」を持つものが「無知」なものを笑うということは、その「知」を持つ人の存在意義が社会全体にとってはほとんどない、ということでもあると思うからです(直接的であれ、間接的であれ、ある部分についての特化した詳細な知識をもつ人々というのは、ものを作るなり、家事をするなり、様々な活動を他人に依存しなければそのような知識を持ち得ていないわけですから、自分が知っていることについて無知な人を笑う資格がありません。ある人がある分野について無知なのは、そのことについてよく知っている自分自身の努力が足りていないからです)。

もちろんそのような取り組みは、同輩の知識人からも、あるいは自分が教えようとしているその相手の人々からも、双方から異端視され、石もて追われる、ということになりがちなのが人間の歴史であるのかもしれません。その学問や文化の価値を分からない人に、その価値を伝えることほどつらいことはないですし、逆にそれを伝えられる側にとっても自分が「わからない」と放棄したものを話されることは、やはり苦痛であるからです。それでもその「断絶」を自らの身をもって埋めていこうとする姿勢が、僕は何よりもこの社会に著しく欠けているが故に、大切であると考えています。自分がある分野について詳しく、しかもそれが重要であると考えているとき、他人の無知を笑う暇があるのなら、それを少しでも伝える努力をしていかねばならないのだと思います。

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ベルマークの謎を追え!②

お待たせしました。続きを書きたいと思います。

という前に、一昨日の記事で間違いをご指摘いただいたので、訂正したのですが、その確認のために色々ネット上で調べてみると、結構このベルマーク運動に関しての批判もあったようなので、そのこともご紹介したいと思います。古くは花森安治さんが『暮らしの手帖』の中で、批判されていたようです。また、最近では、ブロガーの柳下玲優さんの日記でも詳細に批判が書かれています。どちらもざっと見ただけですが、きわめて正しい批判であると思います。

さて、ベルマーク運動の担い手たる専業主婦への「(ベルマークを集めるという)低賃金労働(注1)」の強制、商売としてあこぎであること、という上記の先駆者の方々の批判は正しいとして、末端ながら教育に携わっている僕として、「なぜに文部科学省が「教育的」として奨励してるの?」「なぜに朝日新聞が「教育的」として奨励してるの?」というところが気になってくるわけです。

(注1)たとえば、僕の娘の小学校では、半年間で13000点ほど(13000円相当)集め、応募したそうです。半年間で学校に行く日を少なめに見積もって100日、そこで毎回3人のお母さんが1時間ずつ作業したとして(いずれもかなり少なめの見積もりです)、100×3×1=300時間の労働で、時給換算にすると時給44円ほどになってしまいます。これなら、お母さん方が時給800円でパートをして、そのお金から募金をして学校に寄付した方がよほど学校にもお母さん方にもお互いにとってプラスになるわけです。もちろん、それは「子供が参加できないので、教育的でない」という批判は可能なわけですが、ベルマーク運動が本当に教育的といえるかどうかは後述いたします。


先述の花森安治さんがベルマーク運動に反対した理由として、「教育を商売に利用するな!」と(何と1970年という早い時期から)おっしゃっていて、僕はもちろんそれに大賛成なのですが、「そもそもベルマークを切って集めて景品をもらうのが教育なのか?」というところにこそ、一番ひっかかってしまいます。もちろん、それを「ベルマーク運動など『教育のため』というのは建前で、企業が売り上げを伸ばすために過ぎないんだ!」と批判するのは簡単ですが、文部科学省なり、学校なりが、これだけこの運動に深く関わっている、あるいは実際に学校の現場でこれが(献身的ボランティアによって!)為されているということは、何かしら「教育的」であるとこの運動がとらえられているからでしょう。

では、どういう部分が「教育的」なのでしょうか。どうやらベルマーク運動を検証することで、日本の文部科学省や朝日新聞、各学校の「教育観」が見えてきそうですね。ですから、もう一度丁寧に追ってみましょう。
①みんなのために、(膨大なベルマークを切り貼りする、そもそもマークの付いた商品を買う)努力をする。(しかし、それが非効率であること、あるいはそれは企業の購買誘導策にだまされていることに関しては異議を唱えない)
②その膨大な(しかしあまり意味のない)収集作業を通じて、親と親、親と子、子と子との間の連帯感を高める。
(同時に、そのような意味のない収集作業に異を唱える人を排除する)
③その努力の結果が景品というごほうびになる。(そこでの自分たちの費やした時間や努力を鑑みれば、買った方が早かったなどとは決して言ってはならない。)

かなり、意地の悪い補足をしましたが、まとめてみると、文部科学省やベルマーク運動に参加している学校で理想とされる「教育」とは、
「その努力が何のためであるのか、その努力が本当にその方法で一番効率がよいのか、そもそもその努力の目的はその努力に見合うものになりうるのか、あるいはその努力が外部の他の勢力にうまく悪用されていないかをチェックすることについては子供達を無関心にし、さらにはそのような異論自体を差し挟まないような集団を形成した上で、子供達を徹底的に努力させる。」
ということになってしまうのではないでしょうか。

つまり、これは「鬼畜米英が本土に上陸してきたら、竹槍で応戦だ!」という軍国教育と、本質的には何も変わっていないのです。そもそもアメリカ人やイギリス人が悪なのか。竹槍で銃に応戦することにどの程度勝ち目があるのか。あるいはそもそもこの軍国教育によって、本当に得をするのは誰なのか。それは本当に「みんな」のためになっているのか。そういった点は全く吟味されないままに、竹槍を作り、敵を迎え撃つ訓練に励んでいたこととベルマーク運動との違いが、僕にはわかりません。

誤解しないでいただきたいのは、そのような運動に従事する一人一人の善意を茶化したり、けなしたりしたいのではない、ということです。こうした諸々の運動が善意から為されていることを僕は間違いがないと思っています。しかし、それだけになかなか批判するのが難しい。「そのような努力の仕方は、かなり危険ですよ!」と言っても、「この怠け者!」と「この非国民!」と同じトーンで言われてしまいそうです。現実に、ベルマーク運動は現在広範に広がり、私たちの足下でも「善意」によって広がっていきます。しかし、それこそが太平洋戦争中の日本で起きていたことなのではないでしょうか。私たちは「善意」を持っているだけではだめで、冷静に観察する眼や、考え抜く頭が必要なのではないかと思います。

私たちが警戒すべきは、ただ、私たち自身の愚かさであるのです。そのことを自戒を込めて、教えていきたいと思います。それと共に、「何でもいいからただ努力する姿勢さえ、子供達に伝えられればいい。それが教育だ。」的な言い回しを、学校教育や受験勉強の正当化によく大人は使ってしまいがちなのですが、子供達の「なぜ勉強をしなければならないの?」という深い問いに対して、より考え抜いた答えを出せるように、努力していかねばなりません。そのような努力を、教育に携わる人間は続けていき、子供達に、あるいは子供達のことを深く思うお母さん方に、意味のない努力、誰かに利用されてしまうような努力をさせていてはならない。そのように強く思っています。日本史で学んだ軍国主義を防ぐための努力とは、僕にとって、大上段な政治運動ではなく、このように日常に潜む思考停止から自らを切り離そうと努力し、丹念に考え抜く姿勢を自らの中にも、教え子達の中にも鍛えていくことであると考えています。(それが完璧にできているかと言えば、まだまだ穴だらけなのですが。)

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ベルマークの謎を追え!①

 ベルマークって知ってますか?商品の包装紙にベルの絵がついていて、あれを切り取って沢山集めては送ると色々と景品がもらえるという奴です。僕の小学生時代からありましたが、僕自身がそもそも全くそういう活動に興味がないのと、「まめに努力して集める」というのが不可能な位の不精者なので、全く実態を知らないままに、大人になってしまいました。

 そうしたら、娘の小学校で、今ベルマーク運動がアツいわけです!小学生もその親達も一生懸命ベルマークを集めていて、娘もベルマークの付いているお菓子を選びたがる。そこで、全く関わりも関心も無かった僕ですが、これがどのような団体によって運営されていて、どのような仕組みであるのかを今回初めて知りました。そのご報告と分析、さらには考察をしていきたいな、と思っております。(ベルマーク運動についての僕の説明は、ベルマーク教育助成財団のホームページを見てまとめております)

 ベルマーク運動は、「ベルマーク教育助成財団」という財団が運営しています。そこが協賛する企業からベルマーク一点につき、1.25円の「市場調査費」を受け取り、その内の1円を「教育設備助成費」(つまりこれが子供達が集めたベルマークを何らかの景品とかえてもらうためのお金となります)として、0.25円をベルマーク教育助成財団の運営費として使われる、ということです。その「市場調査費」の実績は2009年度で6億円程度だそうです。また、そもそもこのベルマーク運動自体は、1961年に始まり、当初は2000校・団体からスタートし、現在では、28000校・団体が参加しているそうです(単位に「校」が付くのはやはり学校が多いのでしょうね)。またその役員の出自を見てみると、学校団体関係者、文部科学省の元役人、それと朝日新聞出身者が大半を占めています。面白いですね。大分偏った構成です(具体的にはベルマーク教育助成財団のホームページをご覧下さい)。

さて、これって一体何のためなんでしょうか?まず、企業がお金を出すのは分かりやすいですね。名目も「市場調査費」とかなりストレートに言ってくれています。つまり、「他社の競合製品を買うかもしれない購買者に、ベルマークのついているうちの製品を買わせたい!」という目的でしょう。それに、「教育への助成」などと高尚な目的が付けられるのですから、安いものです。単純に金額だけを見ても、協賛企業全ての「市場調査費」の総額が一年間で6億円程度(最初は6300万円と書きましたが、これはベルマーク財団の寄付している寄付金の総額でした。ご指摘有り難うございます。)、これは広告費としてはかなり安いのではないでしょうか。もちろん「そんな、ベルマークつけたくらいで他社の競合商品よりも優先して選んでもらえるのか?」と疑問に思う方も多いでしょう。実際この協賛企業も結構出入りが激しくて、協賛をやめる企業も、また新たに始める企業も結構いれかわりが大きいわけです。しかし、皆さん。子供の純真な心をバカにしてはいけません。子供達は、「ベルマークを頑張って集めよう!みんなで沢山点数を集めれば、学校に○○がもらえて、みんなのためになるよ!」という大人の宣伝を信じて、自分たちのおやつを買うときにもベルマークの付いている商品を必死に探すわけです。親御さんも子供達の喜ぶ顔が見たいので、ついつい、買ってしまいます。そのようにして、販売促進しているわけです。

と、書いたところで時間が無くなってしまいました。続きはまた水曜日に。

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つなぎ2。国会ではなぜ言葉尻をつかまえるのか。

2週間もご無沙汰している間に、民主党閣僚の失言をめぐって国会論議が紛糾(ふんきゅう)しているようです。官房長官の「暴力装置」発言、法務大臣の「二種類答弁で十分」発言など、話題が多いです。
もちろん、それぞれの発言(失言?)がなぜ生まれるのか、その発言者側の意図と、それを糾弾(きゅうだん)する側の意図を分析して解説しようか、とも思ったのですが、まあそういうのは折に触れて書いているので、今回はなぜこのような言葉尻をつかまえることが日本の国会ではよくなされるのか、ということを考えてみたいと思います。

もちろん、国会はテレビ中継されている(ものもある)わけですから、国会議員にとってこのような糾弾によって謝罪なり、あるいは辞任させるなりができれば、自分の知名度も上がり、仕事もした気分になれ、次の選挙も安心ということはあるでしょう。その意味では、今の自民党の民主党政権に対する糾弾と同じようなことを、民主党も野党時代はやっていたわけで、低レベルであることに憤慨したくなるのはわかりますが、まあどっちもどっちであるということだと思います。(むしろ「政権交代をすれば何かが変わる」という幻想を破るのにはちょうどよいのではないでしょうか。)

大切なのは、ここで政権担当側は必ず、ひたすら低姿勢に出て、「不謹慎」な「失言」を謝り倒し、それで何とか乗り切ろうとしていることです。それに対して野党は当然失言をした閣僚の辞任を要求します。どちらの主張が結果として通るにせよ、ここでは何かしらの意味のあるやりとりがなされているのでしょうか。

いえ、僕は違うと思います。大切なのは、ここでのやりとりはどちらが勝つにせよ、まったく政治の根幹とは関係がない、ということであるのです。これらは壮大な暇つぶし、メディアの力によって国中を巻き込んだ暇つぶしであることを気付いた上で、もっとやるべきことがあることに目を向けねばなりません。たとえば現在国会で審議している内容は予算案であるわけです。国家の予算をどのようにしていくかについて、より精密な吟味をしていかねばならない場をあのような(与党と野党の両者による)茶番で浪費していることを私たちは怒らねばなりません。

国会は言論の場であり、言論を大切にすることは基本中の基本です。しかし、そこでいう言論とは「言葉であれば何でも良い」わけではないのです。これは国会に限らないことですが、「言葉が大事」と言えるのは、言葉を通じて、現実と取り組むことができているときです。現実を無視して、言葉そのものを問題にすることを目的とするとき、あるいは言葉そのものを問題とされることを甘受しているとき、その双方にある意図は「難しい現実には関与しない」という卑怯さであるわけです。あのやりとりをしている間に、困っている人たちが、制度の不備から次々と自殺しているかもしれない、それを国会審議の当人達がrealityとして感じているかどうかが、あのようなやりとりが許されるかどうかなのではないでしょうか。

「理念を語るな。即物的に働け。」と主張したいのではありません。「理念を語る場としての国会」という建前に甘えて、現実を何とかしていくことをあきらめてはいないか、と問いたいのです。大臣を辞めさせて、何の意味があるのか。あるいは、大臣を辞めさせないで、何の意味があるのか。その意味について双方が考えていないようにしか見えないことが、何よりも議会政治の歩みの行き詰まりを感じさせて、きわめて危ういのです。

困難な現実に取り組み続ける道を、もちろん政治家に任せるのではなく、私たち一人一人が歩まねばなりません。「日本でレベルが低いのは、国会議員だけなんだよ。」と私たちが胸を張って言えるとき、初めて日本の国会議員のレベルも少しずつあがっていくのでしょう。頑張っていきましょう。

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組織における内部告発の問題②

大分、間が空いてしまいました。前回は、検察組織の証拠ねつ造に伴うこの一連の事件をきっかけに、組織において内部告発が自浄作用のために必要だということには大筋において皆が合意できるとしても、内部告発がその組織の当面の存在意義としての目的よりも高く評価されなければ、そのような内部告発をしたいと思うincentiveが組織内部で生まれ得ないという一方で、内部告発がその組織の追求する目的やひいては存在意義よりも高く評価される「組織」などというものがそもそも維持しうるのか、それは必ずや崩壊せざるを得ないのではないか、ということについて考えてみました。

それこそ、こんな問題は原核生物が細胞膜を作ってその内側を「自己」と定義したときからさかのぼっては、絶えず問題であり続けるような困難な問題であるわけです。ある組織がその自己を存続させていくためには、不正を犯さねばならない。しかし、その不正があまりに過ぎれば、結局組織同士の淘汰が働いて、全て共倒れになってしまう。しかし、かといって、その不正をなさなければ、その組織自体が維持できない。なんだか、どこででも問題になる、あるいは身近な話で行けば私たち一人一人の生き方にもまた、絶えず問われている難しさであるかもしれません(「強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きていく資格がない。」などという言葉もありました。)。(ちょっと大風呂敷を広げすぎました。すみません。)

ここまで僕が長々と書いてきて気付いたことは、「内部告発が機能するためには、必ず健全たる外部を必要としている。」という事実です。たとえば内部の不正をもう不正とは感じないような「外部」しかない場合には、どこに告発しようと無駄なわけです。これはたとえば、ゾンビ映画でよくある恐ろしいシーンを考えるとわかりやすいのではないでしょうか。「ゾンビがおそってくる!」と恐怖におののいて交番に駆け込み、「おまわりさん、ゾンビが…」と訴えて助けを求めようとしたら、そのおまわりさんももうゾンビ化していて食われそうになり、あわてて逃げ出す、というあのシーンです(交番ではなく、親しい友達や家族のパターンもあります)。あのようなシーンの恐ろしさがどこにあるかといえば、「ゾンビがおそってくる異常事態」に対して、「交番」というものが一種の外部として主人公に認識されていることにあるのだと思います。もちろん、そのゾンビ化に対して、交番(や親友や家族)がそのゾンビ化の外部となっている、ということ自体が主人公の思いこみであるわけです。しかし、自分を脅かすこの異常事態(ゾンビ化)に対して、どこかに外部があるはずだ、という希望が完全に裏切られることに見ている私たちは出口のない恐ろしさを感じるわけです。

内部告発をする側の人間も、そのゾンビ映画の主人公のような気持ちで居るわけですから、当然「主任検事がこんな不正を働いた!」と特捜部長や副部長に言っても、「まあ、君も我々の仲間(ゾンビ)になりなさい。」ととりこまれそうになって、あわてて逃げるわけです。もちろんそれで今回の事件の場合には新聞記者の調査報道があったために、内部告発をした検事も「ようやくゾンビ化していない人間(外部)をみつけた!」と安堵の思いで話し、そしてこのように明るみになりました。その意味では「外部」が機能できて、何とか助かったゾンビ映画のようなものです。(もちろん、最高検が「外部」かどうかはわかりませんよ。ゾンビ映画のよくある怖いラストシーンありますよね。「皆さん、もう安心してください。ゾンビはもう絶滅しました。我々人間はゾンビに勝利したのです!」と演説する英雄もまた、実はゾンビであることを匂わせるラストです。)

まとめれば、内部告発を組織の中で奨励することが難しいのであれば、内部告発を可能にするのは健全な外部が存在し、さらに贅沢を言えば、そこへのチャンネルが確保されていることが必要であるわけです。(ゾンビ化した村が絶海の孤島であれば、そもそも外部へとたどり着く望みはないわけです。)

しかし、このたとえのような問題理解の仕方、そして問題解決の仕方にはざっと考えても、三つの難点があります。一つはその「健全たる外部」など存在しなかったらどうしたらよいのか。そして、二つ目はゾンビにゾンビとしての自覚がなければそもそも内部告発は生まれないということ、そして三つ目は先ほどのチャンネルの確保の問題です。

一つ目の難点については、「健全たる外部」をどこまでも求めるのではなく、「外部は常に健全である」という立場を取ることが良いように思います。すなわち、ある組織に所属する人間がその中で蔓延している違和感を感じるような慣行に皆がどっぷりとつかり、それを何とか指摘したいと考えても、「内部告発をしても自分の所属する組織を傷つけるだけだ、だって外部はもっと汚いのだから。」と隠蔽してしまうのが実は大部分の組織人の動機なのかもしれません。そんなときは、とりあえず外に出してしまいましょう。そのとき、外部がクリーンかどうかはあんまり関係がなく、外に出すこと自体が重要であるのだと思います。ゾンビから逃げるためにたどり着いた隣町がまだゾンビだらけであれば、さらにその外を目指すしかありません。

二つ目の難点については、我々が何らかの組織に属する以上は、我々は常にゾンビとなる危険と隣り合わせであることを痛切に自覚していなければなりません。もちろん、これは検察や官僚批判だけではありません。また、僕のような自営業を礼賛し、企業勤めを批判しているのでもありません。全ての人間は必ず、国家、あるいは家庭という組織に属しています。あるいはそのように有形の組織でなくても、無形の合意形成に何となく参加したことから、組織のように圧力を受ける場合もあります(「普通と違うのは怖い」など)。賢い人ほどに、その危険性を自覚していて、賢くない人ほどに「そんなことはない!私は独立した人格だ!」と強弁したがるのは世の常でしょう。

と書いてきて、力尽きました。この続きについては、また次回書きたいと思います。予告をしますと、三番目の難点については制度として用意する、というだけでは無理で、ここまでに述べた「外部が存在することの必要性」についての共通理解、そしてさらには、外部が存在することで初めて、内部は存在するのだということを社会契約論と絡めて、書いていきたいと思っています。このブログが、均質なこの世界における「外部」に、少しはなりうるように、次回ももう少しがんばって書いてみたいと思います。

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