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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

peer review 社会について。

人間というのはどうしても心が弱いもので、近くの人に対しては、つい目をつぶりたくなります。近くの人、というのは自分の家族、親しい人、仕事でお世話になっている人、その他様々ですが、そのような人の不正に対してはどうしてもそれが自分にとってより遠くの人にとって害悪であったとしても、なかなか糾弾できるものではありません。それは即ち、自分にとって今味方してくれている人を敵に回すことになれば、自分が受ける不利益があまりにも大きくなってしまうからです。

だからこそ、そのような逡巡を乗り越えて「ダメなものはダメだ。」「違うものは違う。」と言える人、というのは
本当に尊敬できる人物であると思います。そのような人たちこそ、お互いの立場に分かれて議論をする際にも、
立場の違いを乗り越えて、何が正しいかを我々が考えることのヒントを与えてくれると思います。

最近、そのような研究者の方をまた一人見つけて、前々から知ってtwitterでフォローもしていたものの、改めてすごいなあと感心させられています。

「何が正しいか」を人間関係よりも優先しようとするこのようなしんどい努力の全てに、僕は敬意を払います。
「研究者は真理を探求するもの」と我々はつい思いがちですが、研究者にも自身の「真理探求活動」を保証してくれる制度してのアカデミアとそこでの仲間意識というものに対してはできるだけ批判をしないようにしたい、という動機が常に働かざるを得ません。これも当たり前で、彼らのやっていることは(専門性が高く、門外漢には理解がしにくい)研究者同士のcommunityでのみ評価が可能であるからこそ、(論文がpeer reviewを受けるように)彼ら自身もpeer review(仲間からの評価)が重要であるわけで、そのためには門外漢に同意するよりは、研究者仲間を互いに守り合っておく方が無難だとつい思ってしまうという誘惑は常に強いのではないでしょうか。もちろん、先に挙げた方のように、その誘惑に抗して「違うものは違う!」という姿勢をとられる研究者の方もいることは本当に素晴らしいと思いますが、その誘惑は常に強く働いていると思います。

そして、もちろんこのような事態は現在の日本ではどこにでも見られるようです。peer(仲間)からの評価さえ高ければ非科学的でトンデモな主張を信じる知的レベルの人でも、国会議員になれる日本社会ですから。

peer review(仲間からの評価) を公正な制度でなくしていくためには、peer を抱き込んでいけばよいことになります。もちろん、本来の語源である論文の査読に関してはそういうことをさせないためにこそ、匿名の査読者を用意しなければならないわけですが、まあそれにもあまりにも細分化した学問の世界において、分野が違えばそもそも評価ができない、という限界があるためにpeer reviewを有意義な論文であるかのチェックにしようとするか、そうではなくpeerを抱き込んで自分の立場の安定を図るだけの共犯関係におとしめてしまうかは、結局真理に対しての論文筆者本人の襟の正し具合に左右されてしまう、という部分が残らざるをえないのかもしれません。

さらに、です。どこまでがpeer であるかを狭くとっていけば、このような真実を歪めて互いにかばい合う、という自分たちがやっている不正が不正であることにすら、気づけなくなっていくわけです。医学部不正入試問題での順天堂大学の「女子はコミュニケーション能力が高いから、面接点を下げた!」のように、ですね。あれを「科学的根拠がある」と大学のホームページで言い張り続けているのも、医学研究者というpeerの中では「アホなこと書いてますが、素人向きにはこういうこと言っとかないと仕方ないんだよ。素人なら『科学的根拠』って言ったら黙るでしょ。。」と苦笑しあっているのかもしれません。しかし、それに対する批判が驚くほど同業者からは出てきません。
あれほどひどいものでないとしても、非専門家を排除し、彼らのliteracyの低さを嘲笑することに後ろめたさを感じなくなった専門家は全て似たような轍を踏んでいる恐れがある、と言えるでしょう。

社会学が、まさに(国家や家庭といったわかりやすい集団ではなく)目には見えない人と人とのつながり、同じ空の下の人同士のつながりとしての「社会」を発見するものから始まったのだとすれば、peer を丸め込み、抱き込み、その中での互いの不正に互いに目をつぶる姿勢とは、「社会」を抹殺するものです。そのような姿勢を皆がとる社会を「peer review 社会」と呼ぶのであれば、それはまさに「社会」という概念が絶滅された後に樹立されるものとなります。

そして、その社会学によって発見された「社会」のように、互いにpeer ではない人々がどのように共に生きるかを模索し合うときにこそ、何が正しいのか、という追求こそが重要になってくるわけです。逆に何が正しいのか、何が真理であるのかを求めなくなった社会というのは、閉じたpeer 同士の共犯関係によって全てが決められていく社会です。去年の森友問題や加計問題とかを見れば、この国がもはやそうなっていることはよくわかるとは思います。しかし、それは何も長期政権だけが悪いわけではありません。政治的なprotestや投票行動は取るべきだとして、それとは別に私達自身のpeer review しか私達が気にしない、という内向きな姿勢の結末が、現在の状況である、という残酷な事実にもまた、しっかりと目を向けて徹底的に反省すべきであると僕は思っています。

だからこそ、仲間うちでの評価を超えて、正しいものが何かを探そうとする方たちを僕は心から尊敬しますし、自身もその姿勢を出来る限り貫けるように、必死に努力していきたいと思っています。

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しんどいことにこそ。

たとえばある学習塾が東大合格者数を増やしたければどうしたらよいか。
一番うまい作戦は入塾テストをして、有名高校の生徒限定で入塾許可を出し、そして
その有名高校の生徒を出来る限り集めるのが一番良いでしょう。もちろんそういった高校の生徒が集まってくるためには
様々な良い評判を流布しなければなりませんが、そんなのはいろいろな手立てがあります。
理系の院生を雇って大学の勉強の先取りができることをうたうのでも、大手の優秀で有名な先生を引き抜いて来るのでも、いくらでも手立てはあります。そのようにして初期投資さえかなりかければ、後は
優秀な生徒が集まり、そして「あの塾に行けば…」と勝手にみんなが信じてくれるようになるので、
商売としてはうまく行きます。

このように、教育産業において一番重要なのは母集団です。僕がどんなにノウハウを積み重ね、その辺の大学生講師では
できないような指導ができていたとしても母集団が違えば結果は大きく劣ることになります。
それこそ、その辺の東大生が教える有名高校の受験生の方が、どんな熟練の講師が教える普通の高校の受験生よりも
大学受験において結果を出す確率が高いのです。だからこそ、教育産業においては「カリスマ」になることが成功の秘訣で、そのカリスマが根拠や効果があろうとなかろうと、そのカリスマ性によって母集団の質さえ整えば、後は普通の道具立てさえ用意しておけば東大・医学部合格者などいくらでも稼げます。

しかし、です。そんな塾って経営者の私腹を肥やす以外に何か存在意義があるのか?ということを僕などは思ってしまいます。それこそ元々優秀な子達はその塾に行こうと、大手予備校に行こうと、何なら自学自習しようとそんなにひどい結果にはなりません。そのような母集団を集めておいて、「うちの塾に通えば大丈夫!」と言うことなど、この社会にとって何か意味があるようには僕には思えません。だからこそ、優秀な高校からしかとらない塾など、実はあまり存在意義がないと思っています(正味の仕事はゼロです!)。

翻って元々勉強が得意ではない子達を鍛えてその子達が勉強ができるようになれば、それは必ずその子達自身の人生が大きく変わるだけではなく、社会全体にとっても大きな意味があると思います。可能性を諦めずに努力をすることの価値が広く理解されるだけではなく、実際に社会階層の移動まで伴うのであれば、それは社会にとっても活力を生み出します。社会にとっての一番の敵は階層の固定化によって皆が自分の人生を諦め、活力を失っていくことであるからです。

さらに、そのように元々得意でない子を鍛えよう!という塾が非常に値段が高く、親の経済力がなければその塾に通えない
のであれば、それはまた優秀な高校の子しか入れない塾とは別の面でやはりあまり社会的に意味のないことをしているだけになります。つまりそれは親の経済格差がそのまま子供の教育格差になるだけであるからです。このような塾は一つ一つの場面では非常に意味のある教育ができているかもしれませんが、一方で社会に持つ意味としてはやはり階層の固定化にしかならないでしょう。

このように考えると、低廉な月謝で、元々勉強が苦手な子を徹底的に鍛える塾、という(まあ嚮心塾のような)塾がこの社会には必要となるわけですが、こんなの、誰もやりたくありませんよね。僕もやりたくありませんでした。今だって毎年毎年「何でこんなしんどいことを自分はしてるんだろう…。」と思う毎日です。しかし、これがこの社会に対して意味を持つための最適解なのだから、仕方がありません。

わかりやすい例として学習塾のことを書いてきましたが、一般に「しんどいこと」ほどに問題の根本にがっきと取っ組み合いになっていることが多いように思います。そして、そのような活動に身を粉にして取り組み続けている先達の方々には、本当に頭が下がります。結局一人一人が自らの生き方を、この社会から切り離さずに考えることができるかどうか、がこの社会の豊かさではないかと思っています。逆に言えば、自らの生き方、ありようをこの社会から切り離して考えた上での「成功」というのは極めて無意味なものでしかないように僕は思います。そこがどんどん掘り崩されていっている、というのが僕がここまで生きてきている中での実感なのですが、それでも僕よりももっともっとしんどいことに人生を懸けて取り組んできた先達の方々に、僕は本当に頭を垂れざるを得ませんし、自分自身ももっともっとそれができるように努力していかねばならないと思います。

しんどいことにこそ、意味がある。しんどいことをうまく切り取って避けた後の「成功」など僕には意味がありません。ただ、しんどいことにもっと深く取り組み、少しでも改善し続けられるように、努力していきたいと思います。

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もう、がっかりしない。

トップスイマー中のトップスイマーである競泳の池江璃花子さんの白血病の告白、それに対しての桜田五輪相の「がっかり」発言は大きな話題となりました。ただ僕はこれに関してはあまり桜田五輪相を責めるのはどうかと思っています。たとえばテニスファンは錦織選手が四大大会とかであっさり負ければ「がっかり」するでしょうし、野球ファンは大谷選手が怪我をすれば「がっかり」するでしょう。もちろん、この「がっかり」という言葉は白血病という命にかかわる病気とこれから闘おうという一人の若い人に対して使ってはならない言葉だとは思いますが、桜田五輪相がポロッとこぼしたその「がっかり」は、スポーツ選手やスターなど他人の頑張りに自分の憂さ晴らしを託しては、日々つまらない現実には真剣に取り組み、何とかしようとはしていない我々の愚かさの現れでもあると思っています。あの「がっかり」という言葉を、自分に疚しいところがなく心から批判できる人間が、果たしてこの社会にどれほどいるのでしょうか。もし、それが一定数いるのであれば、こんなにスポーツニュースや芸能ニュースばかりのテレビ番組構成にはならないのでは、とも思います。

さて、自分自身の愚かさについても話さなければなりません。
僕が大学生のときに初めて付き合った彼女が、「南米に一人で1ヶ月短期留学に行きたい!」と言ったとき、僕は「これは別れることになるなあ。」と直観的にわかったのですが、まあでも行きたいのなら仕方がない、ということで、その準備を手伝いました。一番の難関は彼女のご両親が短期留学に南米に行くことを女の子一人で行くには危険だから、ということで猛反対をされていたことで、話が立ち消えになりそうになっていたので、僕は彼女の自宅まで行ってご両親と2時間話し合い、説得しました。「若い人が危険を冒してやりたい!ということを止めるべきではない。親子は日本と南米に離れていても、親子だが、彼氏など向こうでかっこいい男を見つければ、途端に彼氏ではなくなる。それでも僕は彼女のチャレンジを応援したい。お父さん、お母さんも許してあげてもらえないでしょうか。」と丁寧に説得したかいもあり、最終的には「柳原さんがそこまでおっしゃるなら…(今考えると僕の立ち位置がかなりおかしい感じですが!)」と海外留学を許可してもらいました!

そして、彼女は1ヶ月南米に短期留学して予想通り向こうで好きな男ができ、見事に僕はフラれるわけです。このような経緯もあって、僕は相当がっかりしました。その言葉を明示的に彼女に言ったかどうかは覚えていないのですが、その雰囲気は伝わっていたと思います。

その後、2年ほど僕も人生に迷い(これは失恋が原因ではないのですが)、再び教育という道に自分の人生を費やしていこう!と決意を固めたときに、真っ先に思いついたのが、元彼女と連絡をとろう、ということでした(これはヨリを戻そうとか、とはちょっと違っていて、あの時諦めてしまったコミュニケーションの先が今はできるかなと思ったからです)。電話で話してみて、もはや通じ合える部分がほとんどないことがよくわかるような会話しかできなかった後に、最後に一度会って話し合えないか、という話をしたところ、元彼女に「またがっかりさせちゃうから…。」と言われました。そのときに、僕は自分でも驚くくらいの勢いで「僕はもうがっかりしない。それは君に対してだけでなく、誰に対しても、だ。」と瞬間的に断言したことを覚えています。もちろん、その言葉は虚しくしか響かず、その後は何と言って電話を切ったのかすら覚えていませんし、二度と連絡も取りませんでした。

そこから20年近くが経った今も、僕が人生を通じて何をしたいのかと言えば、あのとき言った「僕はもうがっかりしない!」をどこまで他者に対してできるのか、ということです。あのときよりも比べ物にならないくらいはるかに努力し、自分を律し、長い時間を費やし、それを全て受験生に注ぎ込んでも尚、うまくいかないときはうまくいきません。その結果に受験生本人も親御さんも「がっかり」するでしょう。しかし、僕は決してがっかりしません。がっかりする暇があれば、次に彼ら彼女らに対してできることを手を打ちたいし、そのために自分に足りていない努力を少しでもやっていきたいと思っています。

がっかりができるのは、その人の結果に対して自分が何もするつもりのないのに、その結果の恩恵だけは何とか得られないかと期待している人間だけです。そのような無責任な態度を僕はどこまでも自分には許したくないし、どこまで徹底的に相手のためにやってもなお、がっかりしないでいられるか、にこそ僕のつまらない人生の価値がかかっていると思っています。これから先、受験生のどのような結果が出ようとも、決して僕はがっかりしません。そこにほとんどすべての私生活を犠牲にして朝から晩まで時間と努力と労力を注ぎ込んでいるわけですが。そのように彼ら彼女らが結果を出そうと必死に努力したことは、とてつもなく価値のあるものであることに間違いないからです。だからこそ、受験生本人だけは結果にがっかりしないで、胸を張ってほしいと思います。そして、そのことこそが、塾を通して僕が塾生に伝えたいことでもあります。

桜田五輪相の「がっかり」を彼だけを批判するのではなく、オリンピックそのものに寄せる期待やスポーツイベント、芸能イベント、それら全てに寄せる期待を持ち続けている大衆としての我々、もはやそのために自分が何も努力をしていないのにその恩恵にだけは預かり、喜ぶことで、日々の現実を乗り切ろうとする我々のその卑怯さへの批判として受け止められるような社会へと少しでも近づけると良いな、と思っています。そして他者の結果に対して「がっかり」することがどれだけ相手の気持ちを深く傷つけるのかに対しても、もっと敏感にならなければならないと思います。その上で、諦めずに少しでも良い結果を残せるように、国公立の追い込みの最後まで、徹底的にあがき続けたいと思います。

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知らないものを味わおう。

どくんごを見るようになって、テント芝居の奥深さにすっかりハマり、去年はマタヒバチも彩星学舎も見てきて、知れば知るほど、本当にとてつもない奥深い世界と、それを作り出している皆さんの熱意に頭が下がるばかりです。とてつもなく高いクオリティのものを、ただ自分たちがやりたい!という思いで徹底的に作り込むだけでなく、それがしっかりとファンを掴んでいる。これはもちろんテント芝居にかぎらず、様々なこのようなものがこの社会にはあると思うのですが、凄まじい努力と工夫をしてとてつもないクオリティのものを作りながらも、それが大多数の人たちには認知されていない世界というのがあるのだなあと、改めて教えられています。

来年は東京オリンピックがあるわけですが、東京オリンピックであれ大坂万博であれ、そのような既存の権威を誘致することでできる振興策、というのは実は手垢がついていて費用も膨大にかかる上に、大した成果は生み出せないようにも思います。それよりも、現在のこの日本で歯を食いしばって必死にとてつもないクオリティのものを作り出している人たちは芸術家であれ、職人であれ、(多くの人に知られてはいないとしても)様々な形で存在しているわけで、その人達を支援したりせめて足を引っ張らないような政策がとれるといいとは思うのですが…。現実は真逆であるようにも思います。

こういうと「今の政権が悪い!」という気持ちになってしまうかもしれません。もちろん森友学園の事件でわかるように、自分たちの依怙贔屓を隠し切るために公文書まで改ざんする政府が発表する「景気回復」がいかに怪しいものであるかは今回の厚労省の毎月勤労統計の偽装でもよくわかるとは思います。公文書や統計は国の根幹である以上、そこに手を加えるというのは既にもう近代国家としての基盤を掘り崩す方向へと我々が来てしまっている、ということでもあるわけで、現在の政権が政治的公正さの観点で言えば、大きな問題を抱えていることは明らかではあると思います。

一方で、「オリンピック!」「万博!」という盛大な旗振りの前に、とてつもないクオリティを草の根で維持している様々な人々の活動を踏みにじることになってしまっているのは、何も現在の政権だけのせいではなく、私達自身の中に内在している「知らないものを知ろうとしない」という愚かさの現れであるのだと思います。そもそも、そのような盛大な旗振りに踊らされやすいのは戦前からずっと続いている我々自身の愚かさでもあります。一様な価値観の中で、序列を比べることだけに終始しては価値判断をしてしまったり、「自分たちが見逃している素晴らしいものがこの社会には必ずまだあるはずだ!」とは思えずに「自分たちが知らないということはきっと大したものではないのだろう。」と傲慢にも思ってしまったりする私達自身の愚かさを反省し、そのような失敗を自分たちが犯しやすいことに注意深くなければならないと思います。

これはまた、インターネットの発達で情報化社会が進めば進むほどに、「(私が)知らないということはそれが大切ではないからだ。」という先入観が強くなってしまっているというところもあると思います。例えばラーメン屋さんで言えば(たとえが全てラーメンですみません。。)、今や食べログやその他ラーメンデータベース、その他様々なレビューサイトがあるからこそ、そこに載っていない、あるいはそこでの評価が低いものはあたかも存在しない、あるいはそのようなサイトに載っているお店よりは劣っているかのごとく思われる、という減少があると思います。しかし、知られていない名店があるように、大多数の人にとっては知られていない世界で、とてつもない努力でとてつもないクオリティの創作や仕事をしている方々は多々いるわけで、その可能性を自分が知らないという理由で否定することは愚かです。これは、単に素晴らしいものと出会えずにその人が損する、という以上に(オリンピックや万博的な動かし方以外の施策をとりにくくさせていくという点で)この社会の基盤を掘り崩すようなことにつながってしまうのではないかと思っています。

私達が目の前の知らないものに対して、自分の頭と心とをフル稼働してそれをしっかりと吟味する、ということをサボっては既存のレビューに頼れば頼るほどに、そのような行動をとる私達が生きる社会は、的はずれなもので動員しようとしては、多くの無駄と素晴らしいものへの犠牲を生んでいくような社会になっていってしまうのだと思います。その点では、私達自身がサボらずに、目の前の異質なもの、自分の知らないものをしっかりと考え、感じて受け止めていくことがとても大切だと思っています。もちろん、これはそのような可能性を考えずに頭でっかちに判断していた自分自身への自戒を込めて、そう思っています。

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浪人制度を守ろう!

もはやテレビタレント化した東進ハイスクールの林修先生ですが、そうは言ってもコメントの一つ一つはそこそこクレバーさを失ってなくてかえって信頼を高めているからこそ、テレビ界でも、もちろん本業の方でも長続きしているのでしょう。林修先生は確かに的を外していないコメントが多いと僕も思いますし、その実力で稀有な立ち位置を維持されているのだと思います。ただ、そんな彼のコメントの中で、珍しく僕が全面的に違和感を感じるのは、「大学受験で浪人制度を禁止しよう!」という提言です。これに関しては僕は真っ向から反対です。

「高校の勉強なのだから高校3年間勉強すれば良い。浪人生はズルい!」という彼の主張は、それを阻害する様々な要因が高校生の外部にも現実にはあることを無視しています。たとえば高校生が部活を自発的にやっているかといえば、たいていの場合、「入ったはよいものの、あまりに練習が忙しく勉強もできずに、さらにはそこからやめようとしようものなら顧問に激詰めされる」というブラック部活が多いです。そのような部活に入ったら最後、高3の引退までは部活で忙しく定期試験勉強もおろそかなままに受験生になることになってしまいます。そのような受験生が「入れる大学に入れば良い」というのはあまりにも無責任な話です。(これは運動部だけでなく、吹奏楽部や合唱部などの文化系の部活でも強豪校は本当にひどいです。まるで生徒の将来に大学受験など一ミリも関係ないかのような部活三昧で高校生活を潰し、そしてその結果何も勉強ができていないことには責任はとらないわけですから)。

また、高校に通う間はバイトで家庭の生計を支えながら勉強するしかなく、浪人してから本格的に勉強して学費の安い国公立大に行きたい!という子もいます(塾でもそのような子を何人も見ています)。一人一人が高校3年間の中で十分な受験準備ができるかどうかにはこのように本人の努力以外の要素も必ず入ってくるのにも関わらず、高校3年間の努力だけで大学入学を決めてしまえば、それはやはり受験勉強だけに専念でき、さらには予備校や塾などに通い放題の裕福な層がその後の人生でもアドバンテージを維持できることになるでしょう。それを是としてよいのでしょうか。この問題に関しては、浪人制度を廃止するのは明らかに格差の再生産に繋がってしまうと思います。

このようにやむを得ない事情で高校生活の中で勉強ができない場合だけでなく、高校生が高校生活を自分の判断で勉強以外に費やしたとしても、それでもやはり僕は浪人制度の廃止には反対です。高校生活をどのように過ごしたとしても、一人一人にやり直しの機会があることが大切だと考えています。そのやり直しの機会を奪えばどうなるかと言えば、結局社会の中でいわゆる「高学歴」になる層がどんどん集団として多様性を失っていくことになります。それは結果として社会全体にとっても不利益でしかないでしょう。

たとえば現役で難しい大学に合格した人たちは浪人した人たちのことを「サボっていたんだから自業自得だ。」と今でも見なしがちです。今でもこのような偏見が強いのに、実際に浪人制度の廃止がなされればさらに、行く大学までが高校3年間の努力だけで決まってしまうことになり、当然上位の大学に入った学生たちが下位の大学に入った学生たちを見下すことにさらに拍車がかかることになるでしょう。そのようにして社会的分断は完成してしまうのではないか、と思います。

minorityに対するaffirmative action(少数派優遇措置)に対して一番批判的であるのは、self-madeな(優遇措置なんかなくても社会的に成功した)minorityである、という話は有名ですが、人間は自らの想像力の欠如から、自分の努力によって獲得したと信じているものに対しては横暴であり、他の人がそれを得ていないということはそもそも努力が足りなかったのだ、と類推しがちです(たとえば首都圏から東大に入るよりも地方からmarchに入る方が難しいと思えるくらい、勉強のための環境が日本国内でも格差があると思うのですが、そのように自己の努力の成果を客観視できる東大生は稀です。)。浪人制度の廃止によって高校3年間の努力だけで大学が決まることになれば、脇目も振らずに受験勉強だけをしてきた視野の狭い人間だけがその後のキャリアにおいても優遇を受ける、ということになってしまいます(もちろん今でもその傾向は強いわけですが一層助長することになります)。このような社会は決して望ましいものではないと思います。

自身の視野の狭さに気づき、凝り固まった自己の価値観を打ち捨てて一からやり直したいと思える瞬間こそが、人間の一番美しい姿であると僕は思います。迷いなく選ばれた「正解」になど、何の意味があるのか。だからこそ、そのようなやり直しの機会を多くの若い人たちから奪う浪人制度の廃止には、僕は絶対に反対です。

とはいえ、世の中の風潮は確実にそちらへと動いていっています。英語の外部入試導入もその一つです。また医学部入試不正でも明らかになったように高校の時の成績を入試に入れる、大学入試における高校の調査書重視を進めようとする文科省通達など、やり直しのきかない社会にしていこうという動きは最近どんどん強くなっています。だからこそ、やり直しのきかない社会へと変わっていこうというこの動きに、一つ一つ我々が異を唱えていくことが大切であると思っています。心から自らの愚かさを反省し、やり直そうと思う人々の意欲を削ぐような社会であってはならない。切にそう思っていますし、そのように頑張ろうとする子たちの拠点になれるように、嚮心塾ももっと努力を続けたいと思っています。

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社会人とは。

ホームページを作っていると、書きたいことを削って削って短くする作業なので、「ここをもっと正確に言いたい!」「この議論にはこういう側面もあるから触れておきたい!」とひたすら長文を書きたい欲が高まってしまいます(あのホームページ、あれでも大量に文字を減らしたのです。。それでも長い!と叱られてばかりですが。)。

ということで、ブログの執筆意欲がめっちゃ湧いてきました!皆さんにはご迷惑かもしれませんが、長い文章、書くぞー!

さて、塾の卒業生もだいぶ社会人が増えてきて、彼らの話を聞いたり相談に乗ったり、という機会も増えてきました。みんな各々頑張っていますし、それこそ就活もしなかった社会不適合者の僕から見たら、しんどい中でみんな本当に頑張っているなあと、頭が下がる思いです。

しかし、そもそも「社会人」とは何でしょうか。仕事をしてお金をもらうことが「社会人」なら、そんなに簡単に社会人になれてよいものなのでしょうか。

人間が生きていくためには、社会から与えられる役割を担う必要があります。それだけではなく、社会から与えられる役割を担うこと自体が、一人一人の人間にとっての生きがいにもなります。この社会においては、その「社会の中で役割を担う」ということが多かれ少なかれ金銭という報酬が発生するからこそ、自分がこの社会に役立っているかどうかは金銭という報酬からも逆算ができるようにもなります。

しかし、これはこれで大きな問題をはらんでいます。

まずは高い報酬が得られる人が社会にとって不可欠な仕事であり、低い報酬しか得られない人が社会にとって必要性の低い仕事しかしていない、という誤った推論がなされがちであるということです。
たとえば高収入の職種と保育士のように社会に必ず必要なのに低収入な職種を比べれば、この推論には根拠が無いことがよくわかります。報酬が高い仕事はそこにお金が集まる仕組みがすでに今までの歴史の中で確立している、というだけであり、それは社会の中で必要性が高いのではなく、簡単に言えば「そこにお金を集める仕組みは整備しやすかった!」というだけのことです。「この社会では、社会におけるすべてのニーズを正確に評価し、値付けがなされている。だからこそ、高収入の仕事はそれだけの社会的価値があり、低収入の仕事はそうではない。」という主張は、この社会の制度設計の緻密さをあまりにも過大評価した立場であると思います。

今儲かっている分野には偶然が作用しています。「いやいや、自分は工夫して成功して努力してきた!」と成功者は語るでしょう。しかし、そのような努力、工夫をすべての「失敗者」がしていないといえるでしょうか。そのような工夫、努力が時宜を得て成功をしたのは、あくまで偶然によるものです。どのような分野でもどのようなタイミングでも成功ができる人間などは実はあまり存在しません。

しかし、です。高収入の人が「高収入を得ている自分がしていることは社会にとって意味がある。」と思うincentive以上に、低収入しか得ていない人が「低収入しか得ていない自分は社会にとって何の意味もない」と思わせられるincentiveは強いように思います。これは、金銭が自分に対する社会的価値評価を具体物化したもの、という通念、ひいては市場経済はかなり精密に機能している、という信仰があるからであるように思います。(もちろん、最低限の生活をするための費用は誰にとってもゼロにはならない、という生活費の下方硬直性もその原因の一つではあると思いますが。)

生活保護受給者に対する視線が冷たく、行政の水際作戦(窓口で生活保護申請に来た人を理由をつけて断り、生活保護受給者を少しでも減らそうとすること)に対する批判が、いまいち広がりにくいのも、もちろん「自分たちは必死に安月給で頑張っている!」というやっかみもあるのでしょうが、それ以上に「自分たちは頑張っているから何とか生活できている。(つまり、あいつらは頑張っていないから生活ができない)」という思い込みがあるのだと思います。もちろん、そこでの一人一人の努力は間違いなくあるのでしょう。しかし、その努力の方向性や分野の選び方によっては、我々は家族が生きていくだけの報酬さえ得られなくなります。それを決定しているのは自分の努力だけではなく、様々な偶然的な要素でもあること、つまり、生活保護を受給しているのは「努力をしない彼ら」ではなく、「努力をしても選んだ分野や方向性故にうまくいかない、もしかして自分であったかもしれない彼ら」であることについての理解があまりにも足りていないように思います。

と偉そうに書く僕もまた、たまたま東京に住んでいて、たまたま中学受験をして私立中高に通わせる資力が親にあり、たまたま大学進学の費用を気にしないだけの家庭に生まれている、という偶然の産物であるわけです。もちろん、そのときどきで自分から努力をしてきました。しかし、このような恵まれた環境でなかったとしても結果は変わらない、といえるだけの努力には程遠いです(この事実には中学生くらいから気づいていたのにも関わらず、です)。その点で僕が学歴から何らかのアドバンテージを得られているとすれば(他の東大卒業生に比べれば僕はそれを就職面ではなから捨てていますが、しかしそれでもアドバンテージが存在していることは事実です。)、それは決して僕の努力の成果ではなく、偶然の産物であり、たまたま僕はラッキーであっただけです。同じかそれ以上の努力をしても、うまくいかない高校生はおそらくいっぱい居ます。今僕が塾をやって、それなりに何とか暮らしていけるのも、決して僕の努力によるものだけではなく、たまたまラッキーであったことに依るものです。(アメリカでもAfrican-american に対するaffimative actionに対して一番厳しい意見をもつのは、self-madeなAfrican-americanである、ということを聞きます。既にself-madeな彼らは現に自分たちが努力してその差別の壁を乗り越えてきたからこそ、affimative actionに対して「努力が足りない!」と思いがちなのでしょう。しかし、彼らがself-madeになれたこともまた、様々な壁を乗り越えてきたとは言え、ラッキーだった、というところがあるのです。大切なのは、自分の努力できる環境がラッキーによるものかもしれない、と疑い続けることであると思います。)


話を戻せば、市場経済がある程度以上の信頼を得ているこの社会においては、社会の中で働いて報酬を得られないことは単に生活に困るというだけでなく、自分の存在意義自体が掘り崩されるような疎外感を感じざるをえなくなります。しかし、これは、誤りであるのです。この社会に必要なことには必ず報酬が伴っているか、それもその必要度に応じて報酬が高くなるように厳密な評価ができるような高度な設計がなされた社会には、私達は住んでいません。まずはこの事実を再確認することです。仮にそれを否定しなければ、自分のラッキーさを認めたくない人々が大多数だとしても、その彼らの価値基準を内面化しないことが大切です。

その上で、社会人とは、を再定義するとすれば、「社会に必要とされる存在」という定義は残すとしても、その「社会」を既存の社会と限定しないことが大切であるようにも思います。「このように誠実に頑張る人間を評価せず疎外し、追いやるのだとすれば、そのような既存の社会はその存立の正当性が疑われる」と思えるとき、そのような人の存在は、既存の社会の限界を知らしめてくれる、という意味ではむしろ誰よりも「社会人」と言えるのではないか、と考えています。

そのような「社会人」として、芸術家・知識人などがその具体例としては一般に想像しやすいのですが、実際には職業としての芸術家や知識人は既存の社会の不完全さへの疑いを示すよりはむしろ、既存の社会を肯定する方向でしか収入が得られないものです。私達の社会では、そのような人はむしろ「狂人」扱いをされてしまうことが多いと思います。クロポトキンがドストエフスキーの作品群を「何であんな狂人ばかり描くのかわからない。」と言ったのは、そして、それにもかかわらずドストエフスキーの描く「狂人」達が私たちに人間性とは何かを思い起こさせてくれるのは、このようなことであったのではないか、と思っています。(中井久夫さんも『分裂病と人類』で「健常者」と分裂病患者との連続性、むしろ分裂病患者の方にこそ正しさがあるのではないか、と書いてくれています。また、自閉症では東北大の大隅典子先生もまた「自閉症」と「健常者」の連続性を主張されています。切り分けて、隔離したり排除したりするのではなく、むしろ私達に足りないものがあることを学ぶ姿勢が大切であると思います。)

もちろん、「みんなで狂人になろう!」とか「この評価経済はは間違っているのだから、みんなで無収入になろう!」と言いたいわけではありません。ただ、社会から疎外されている人たちに対して、「あれは社会人ではない!社会人としての責任を放棄している!」と思う前に、彼らを社会人にしていないのは、彼らなのか、それとも私達自身であるのかを問い直すべきである、ということです。その疑いのない「社会的包摂」は全て、(彼らの私達に対する、ではなく私達の彼らに対する)一方的搾取でしかないと考えています。

その上で、僕自身もまた既存の社会を押し付けるだけで済ませようとしない社会人として、何とか責任を果たしていきたいと思っています。

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フィレンツェ。

先日、テレビで『マツコの知らない世界』を見ていたら、「青春食堂」と銘打った高校生の思い出のお店、という特集で、僕も高校生のときにあるいは卒業後に何度か行った西日暮里のフィレンツェというお店が出ていました。馴染み深いお店であり、卒業してからも卒業生の集まりなどでは必ず行くお店であるので、懐かしさと、幾分かの誇らしさをもって番組を見ていました。

このお店は食事ができる、というだけでなくゲームも置いてあり、それこそ開成生が何時間でも話したり、やりたくもないゲームをしたり、たまり場として青春時代を過ごしたお店です。行き場のない、やるせない気持ちを持つ高校生たちがたむろする姿は、今も変わらず、という様子でした。

番組を見ているうちに、「なるほど。始めたときは気づかなかったけれども、僕は自分の塾をこのフィレンツェのような場所にしたいと思ってやっているのだな。」ということがよくわかってきました。やり場のない思い、どうにもわりきれない気持ち、誰にも話せないしんどさを抱えて、しかもそれを合理的に解決するだけではなく(塾なので、多少はそれをやらねば潰れますが)、寄り添い、放置し、そして彼ら彼女らが回復するための避難所となる。それをしたかったのだ、ということに改めて気付かされました。

もちろん、これは容易な道ではありません。フィレンツェは、コーヒー一杯で高校生を何時間でもいさせてくれるお店でした。そのような営業で大きく儲かるわけがありません。(卒業生が集まるときに利用する、というリターンはあるのかもしれませんが、その際の値段設定を聞いても、ちょっと儲かるような値段設定にしてもらえた覚えがありません。。)経営コンサルタントが相談に入れば真っ先に「とにかく回転率を上げろ!」と怒られるような営業方法であると思います。さらに言えば儲からないだけでなく、「勉強しなさい!」というプレッシャーに追い込まれている高校生を長々と滞在させる、ということは店にとって下手すれば学校や親からは(「おたくのお店に長々といるせいでうちの子が勉強しない!」という)クレームが来る可能性だってあったわけです。今から考えれば、こんなことを店主さんに許してもらえていた、ということがあまりにも有り難い、奇跡的なことでした。

しかし、お金のない高校生にとって、家と学校以外にそのような行き場があり、そこで長い時間を過ごせた、ということは本当にかけがえのない社会的包摂を得られていた、ということであるのだと思います。そして、それは経営や利益という観点では必ず見落とされがちである、目の前の中高生に対面したときの店主さんの人間としての優しさ、温かさ故に我々はそのような貴重な時間をあの場所で過ごせた、という奇跡に、本当に感謝するばかりです。

高校生の時から20年以上立って、実際に自分がそのような社会的包摂の場所を作ろうともがき苦しんできて改めて感じるのは、そのような取り組みを維持することがどれほど自分自身の人生を経済的に困窮させるのか、そのような取り組みがいかに社会からは評価されずに捨て置かれているのか(むしろ「合理的な経営ではない」という理由で駆逐されつつあります)、そしてそれらにも関わらず、そのような取り組みがいかにこの社会にとって必要であるのか、です。そして、世の中には無数の『フィレンツェ』が存在することもまた。

それは何も場所を作る、ということだけが正解なわけではありません。場所とはつまり、人のことであるからです。たとえばフィレンツェが店主さんのお人柄によってあの場が形成されているのと同じように、既存の組織、仮にそれがどのように大きな組織であったとしても、その中で自分自身が他者にたいしてそのような「場」となることはできるはずです。

時代はめぐります。「局所的な最適解のために、外部不経済を積極的に是認する」というこの趨勢が、その「内部」をどこまでも狭めていっては外部を拡大していくことで、どうにも立ち行かなくなりつつある古いモデルを何とか延命を図ろうとする、という我々の時代において、「コーヒー一杯で粘る、家に帰りたくない高校生」を「外部」と見なさずに受け入れてくれた、というそのフィレンツェの取り組みは、実は新しい公共のヒントになるのかもしれません。

嚮心塾も13年続けているので、卒塾生、あるいはその友人、友人の友人までが様々な報告や何らかの忸怩たる思いを抱え、話しに来てくれる場になりつつあります。「こんなこと、誰に相談したらいいんだろう。。」という若い世代の思いを(僕がそれに的確な答を出せるかどうかは別として)何とか必死に受け止め、少しでも寄り添っていきたいと思っています。(ヒポクラテスの’Cure sometimes, treat often, comfort always.’というやつですね。)

僕達はそのように既に愛され、庇護されてきました。商売の枠組みを超えた、あのように誰からも理解されにくいが、しかしとても必要な取り組みの恩恵を既に受けて、その愛情に守られて、何とか大人になれたのだと思います。それをどのように次の世代にまたバトンを渡していくのかは、そのように守られてきた僕達自身の責任でもあると思っています。

僕自身も相変わらず、儲かるわけのない塾をやっているわけですが、誰かを、あるいは何かを「外部」として切り捨てることのないように、必死に頑張って行こうと思っています。

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嘘をつく、ということについて

最近の国会を見ていると、嘘を平気でつき通そうとし、それで世間の関心が過ぎ去ってくれればラッキー!というケースが非常に多いように思います。子どもたちを教えていても、嘘をつくことが常態化してしまっているお子さんというのは一定数います。人はなぜ嘘をつくのか、なぜ嘘を嘘と認められないのかについて考えてみました。

人はなぜ嘘をつくのか。そのきっかけは必ず「ある特定の人からの圧力」であると思います。嘘をつくことで現実の全てが変えられるわけがありません。それは当然嘘をつく側も最初はわかっているのです。しかし、ある特定の人からの追及あるいは要求が厳しく、それさえを凌ぐことができればいい、と感じる時、その特定の人に対して嘘をつくことが合理的な判断になります。なぜなら、その人の追及や要求さえ乗り越えることができれば、都合の悪い現実を変えようとすることよりも楽に結果を変えられるからです。あるいはそもそもそのように要求される現実が自分にとってまずい事態だと本人が感じていなければ、なおさら嘘をつく動機というのは強くなります。

これは具体的には「勉強しなさい!」と口うるさく厳しい親や教師に対して嘘をつく子供を考えてみればイメージがし易いと思います。子供にとっては勉強をしないでいることで自分が被る不利益や失敗、というのは全く具体的にイメージができていません。その状態で親や教師が口うるさく「勉強しなさい!」と言えば、当然勉強をしているフリ、あるいはしているという嘘をつくようになります。

このような事態を避けるためには、子どもたちになぜ勉強をした方がよいのか、そもそも勉強をしないとどのように困るのか、あるいは勉強をしたふりをしていたとしても、結局それでは通用しなくなる時期が(たとえば入試などのように)必ず訪れるはずであり、そのように嘘をついてはその場をやり過ごすことが結局問題の先送りになるだけであり、何も事態の解決になっていない、ということを理解してもらえるようにしっかりと説明していくことが必要となります。

裏を返せば、子どもたちがそのように嘘をつく時、その嘘をつかせているのは子どもたち自身にその意味を納得させることなく、努力を強要している親や教師である、という事実に親や教師は目を向けるべきであるということです。自分ではそれをやる意味を感じられないことを強要されてもそれを努力する、ということは子どもたちにとってもまた合理的な行動ではありません。

「自分が必要性を感じないことであっても、ある特定の人達はそれについて努力するようにうるさく言ってくる。だからこそ、そういう人だけやり過ごすために嘘をつくのが一番合理的だ。」このように考えるからこそ、彼ら彼女らは嘘をついてサボるようになるのだと思います。

また、嘘を嘘と認められないのは、それを認めてしまえば最後、自分が嘘をついたという罪を認めるだけではなく、自分の現状認識、自分の世界認識の誤りをも認めざるをえないからです。嘘をついた相手に対しての罪の意識があるのはもちろんとして、そもそもそのような嘘が自分の現状認識や世界認識自体の誤りから来ることを認める、というのは自分自身のidentityを根底から覆される苦痛を伴います。だからこそ、一度嘘をついた人はそのような現状認識、世界認識を継続することの誘惑に屈し続けていくのです。

だからこそ、親や教師に求められるのは、子供が嘘をつくことをあげつらったり批判したりする態度ではなく、子どもたちの現状認識、世界認識に働きかけていかなければ結局根本的には改善しないといえるでしょう。それでも受験生は「受験」というごまかしの効かない壁とぶつかって不合格になります。その意味では自分の誤った現状認識に気づく機会を強制的に与えられているだけ、大人よりは自分の誤った認識に気づきやすいのかもしれません。


翻って国会の話に戻れば、なぜ官僚が嘘をつくのか、といえばそれは恐らく官邸からの指示があるのでしょうが、なぜそのような指示を官邸が出すのかと言えば、「うるさく言ってくる特定の人(この場合は野党や一部の国民)さえやりすごせば、今までの行いを変える必要がない。」と認識しているからです。つまりネポティズムも公文書改ざんも日報隠蔽もセクハラも本質的には改める必要のない問題だと認識をしており、ただそれが「うるさい人たちからは追求される材料である」ことだけは自覚をしているので、嘘をつく(官僚につかせる)、という構造になってしまっているように思います。このような嘘がつかれ続けている、という事実自体が嘘をつかせている側がどのような認識で政治を行っているのかを如実に語っていると思います。教育であれば、その本人の認識を変えるように親や教師は努力をしなければならないわけですが、政治においてここまでの経緯を見てくれば、そのような本人の現状認識を変えることは難しそうです。

だからこそ、個別の戦術として「嘘をつくこと」をあげつらうことは野党側にも必要なのかもしれませんが、より根本的な問題としては「なぜこのような嘘をつくのか」というそのattitudeの方を問題にしていくことが大切であると思います。嘘をつく、とは「嘘をついてうるさい人さえやりすごせば現状のままで問題がない」という認識の現れであり、それがネポティズムも公文書改ざんも日報隠蔽もセクハラもまるごと追認することになっている、という暗示を含んでいるからです。

嘘をつき続けているという事実こそが、圧力をかけてきている「特定の誰か」さえやり過ごせればよくて根本的には反省し改善をしていくつもりがない、ということを示しています。逆に言えば(追い込まれて渋々認めるのではなく)自発的に嘘をつくのを辞めたときこそが、今までの自分たちの現状認識を改めようと決意した瞬間になるのだと思います。現状の政治状況について言えば、残念ながらそうなっていないだけでなく、そうなる兆しも全く見えていないことについては、やはり我々一人一人が決してゆるがせにすべきではないと考えています。

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めんどくさい要求にも、真摯に対応すべきであること。

ごぶさたをしております。あまりの忙しさに、肥満体にムチをうちながら必死に毎日過ごしております。

先月のNatureダイジェストを読んでいて、考えさせられる記事(ここの「輸血を減らして命も救う」という記事です。購読していないと読めないかもしれません。)がありました。
現在の医療における輸血は、実は輸血のしすぎであり、それを少なくすることで輸血費用を抑えられて病院経営面での利点があるほか、そもそも輸血というのはどうしても患者の体内に異物を入れることになり、体への負担がかかるものであるので、輸血の量を減らすことで回復して退院するまでの日数も改善する、というものでした。もちろん、医療現場ではその「ギリギリの量」というのを見極めて輸血するのは病状がどう急変するかわからないリスクを考えれば怖いため、つい過剰に輸血せざるを得ないわけですが、たとえばそのように必要量を超える輸血をするときには、本当に必要かどうか、医師にいちいち確認するシステムを開発すれば、輸血費用も抑えられ、患者の回復も早まるのではないか、という話でした。これ自体も目からウロコな話ですが、さらに考えさせられたのは以下の話です。

他人の血液を使わずにその患者の手術中にでた血液を回収し、本人の体内に戻すことで輸血をしないで治療をするという「術中回収式自己輸血」がその「制限的輸血戦略」には有効であるそうなのですが、その「術中回収式自己輸血」というやり方がどうして生まれたのかというと、エホバの証人という他者からの輸血を拒む宗教団体の信者たちを助けるために発達したそうなのです!これにはかなり驚きました。もちろん、エホバの証人の信者達が輸血を拒むという事実は知っていたのですが、それに対してそのような対応を医療者が必死にしてきたこと、さらにはそれがこのように医学の進展によって輸血に対する新たな見方が生まれた時に、(一部の人のコアな要求にだけでなく)誰にとっても役に立つような工夫に実はなっていた!ということにとても感銘を受けました。

もちろん、このような見直しを「だから他者の血液が汚いというエホバの証人の主張は正しかったのだ!」ということにしてはならないと思います。それは結果として合っていただけで、根拠がない状態でその主張を信じることは、やはり多くの人にとってはすべきではないことであると思います。そもそも最低限の輸血はやはり必要である以上、かたくなに他者の血液を拒むことは理性的な態度ではありません。ただ、社会の中でそのようなマイノリティが存在し、その主張は理解し難いものであったとしても、それに対して「輸血がいやならもうどうなっても知りません。」などと突き放すことなく、そのようなマイノリティが医療を受けられるように工夫していく、という姿勢が、医学の進展により医学自身のさらなる洗練を前もって準備することにつながっていた、といえるでしょう。

「クレームが次のビジネスチャンスになる!」という話はよくされるわけですが、それも同じことですね。そこにおいて、クレームをつける方が正しいわけではないのです。その中には正当なものもあるでしょうが、ほとんどはまったくの言いがかりに近いのではないでしょうか。しかし、そのような言いがかりに近いクレームも、今の商品やサービスの足りないところについて、考えるきっかけを作ってくれるという意味では、極めて重要な機会を与えてくれるわけです。そこでしっかりと考える人と、「あれは単なる言いがかりだから」で終わらせる人とで成長できるかどうかが大きく違ってしまいます。
そして、医学と同じように私たちの常識というものもまた、間違っていることが多々あります。その常識の間違いに気づいた時には、そのような一見理不尽に見えるクレームについてもしっかりと考えてきた社会と、そうでない社会とで大きく対応の速度が変わってくるのだと思います。

これはまた、これから参議院で審議の始まる安全保障関連法案についての抗議もまた同じであると思います。有識者ほどに、それを冷笑する雰囲気が強いようですが、「冷笑する」というのは真摯に対応することの真逆であると思います。
有識者が自らの「知識」という権力を有効に活用するための戦略がまさにこの「冷笑」なわけですが、このような有識者の傾向は一般に(どちらかに加担をしないことによって)政治権力の味方をすることにつながりがちです。抗議の声の稚拙さ、考えの足りなさをあげつらう前に、その抗議の声に対して真摯に考え抜くことを今(「それはもう既に考えた上での結論だ」のように)していないのだとしたら、それはやはりエホバの証人の患者さんを前にして、その患者さんたちが手術を受けられる方法を必死に考え抜いてきた真摯な医療者とは対極の、極めて怠惰な態度であると思います。そのような怠惰さが招くものは、今選び取ろうとしている道が将来(過剰な輸血のように)間違っている、あるいは修正すべきものだと気づいた時にも、それをなかなか修正できないままになってしまう、という失敗の上塗りなのではないでしょうか。
本当に恐ろしい社会とは、ものわかりのよすぎる社会、そのような「めんどくさい要求」が発せられない社会であるのではないか、と僕は思います。もちろん、「めんどくさい要求」をする側が常に正しいわけではないとしても、です。

このように、多様性とは「めんどくさい」ものです。しかし、だからこそ、多様性には失敗からも学ぶ粘り強さが生まれます。そして、人間の知性など限界があり、こうして最新の学説が今までの常識を覆すことがこれからも人類が滅びるまでずっと続いていくであろうからこそ、その粘り強さを保ち続けるために、めんどくさいことを日々しっかりやっていかねばなりません。

塾もまた同じです。どのような「めんどくさい」要求にも、真摯に考え抜いていこうと思っております。

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人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その2

前回の続きです。

アイドルが確かにこの社会で役立っていること、そのために彼女たちは必死の努力をしていることなどを教えられた、という話を前回は書きました。しかし、それはアイドルに限ったことではありません。たとえば芸人のマキタスポーツさんはビジュアル系バンドが何故売れるか、という問いに対して、ビジュアル系バンドの圧倒的なまでの「ファンに対するおもてなしの心」を指摘されていました。CDを買う、というのは、これだけ音楽配信が手軽になった現在に於いては、(自分が聴く音楽の)新たなジャンルの開拓のため、というよりは応援したい対象に対する忠誠心の証としての意味の方が強くなっているのでしょう。そこでは「音楽」が重要なのではなく、真摯にファンサービスをしてくれるヴィジュアル系バンドやアイドルといった彼ら彼女らに対する恩返し、あるいは応援する気持ちを形に表したものとして、CDを購入する、という行為だけが形骸化して残っていると言えるでしょう。それに対して、売上を伸ばすために音楽とは別の付加価値をつけることに異論はもちろんあるでしょうが、そういったファンの間ではむしろ彼ら彼女らの帰依するアイドルやアーティストが演奏し歌っている音楽は二の次の価値しかないのだと思います。

そのような購買行動は昔からあったのでしょう。近所の商店街で買うのは、何もそのお店が近隣のどこよりも品質が高いからではありません。家の近くで入手できるという、という利便性以外にも、よく自宅の前までまとめて掃き掃除をしてくれている、とか、忙しいときにちょっと自分の子どもを見てもらってた、とか、そういった人間関係に対してお金を払っている部分があるでしょう。そのような小さなcommunityが地縁社会の中で成立していたときには、そのような購買行動はむしろ自然だったのだと思います。都市化が進む中で、そのようなcommunityが減ってくれば来るほどに、逆にアイドルやヴィジュアル系バンドのように、広い地域でのそういった擬似communityが必要となってきたと言えるのではないでしょうか。それ自体は(もちろんあまりにも加熱しすぎて犯罪その他につながるのでなければ)批判すべき事ではなく、社会の変化に対してそういった文化の仕掛け人がニーズを感じ取り、対応してきている結果であるのだと思います。また、実際に一人一人の内面に於いて、社会的包摂の一つのチャンネルになっていることは前回書いたとおりです。

ただ、考えなくてはならないのは、このような擬似communityによる「社会的包摂」がその擬似communityの土台となっている社会とどのように接点をもちうるか、であるのだと思います。端的に言えば、地縁社会におけるcommunityは常に国家との関係性を意識させるものであったと思います。communityが国家に対抗しうる根拠となる、などと楽観的なことを言うつもりではありません。むしろcommunityは国家のミニチュアとしての同調圧力、まさに手先としての役割を担うことの方が多かったでしょう。いわゆる「非国民」という言葉がこのことの一つの具体例です。「非国民」は、国家に逆らうから糾弾されるのではなく、近所の迷惑になるから糾弾されていたのだと思います。「そのcommunityの安寧を保つ」ことが、国家規模での勤労・兵役への動員と思想統制の具現化のチャンネルになっていたといえるでしょう。だからこそ、そのような地縁社会におけるcommunityは、ある意味で国家に対する態度決定を要求するものであり、それ故に批判を持つ人も少数ながら存在し得たのだと思います。その意味で、わかりやすい暴力性があったと言えるでしょう(端的に言えば、生まれ落ちた瞬間に、あるcommunityの中に存在する、ということが、それに対して従順であれ、反抗するのであれ、問題意識を涵養する、ということですね。)。
 しかし、擬似コミュニティによる「社会的包摂」は戦う相手を明示しません。そのコミュニティの中での同調圧力に倦み疲れれば、そこから抜けるなり、別の擬似コミュニティを探せばよいだけです。そこでの「同調圧力」という暴力性は、国家という権力の暴力性の代理人ではないがゆえに、国家の暴力性に対する問題意識を育てにくいままに終わるのだと思います。しかし、それは国家という権力が弱くなる、あるいはなくなることとは違います。そうした擬似コミュニティが成立するためには、政府による許認可事業であるテレビ局の影響力がきわめて大きいこともさることながら、そもそもそうした流動的な擬似コミュニティの存続にとって唯一のありうる危険性は、それが政府によって何らかの理由で規制されることであるからです。

これに、さらにはそもそも固定した地縁社会が弱くなり、国籍以外に抜け出ることのできないcommunityというものがなくなっていることこそが、最後の拠り所として「愛国心」を要求し、ことさらに言われるようになっている現状を作り出していることとあいまっての現状は、なかなか問題があると思っています。

もちろん、社会的包摂のチャンネルの多様化自体は好ましいことです。また、地縁社会の影響力の低下も、避けられないことでしょう。しかし、現在進んでいるこれはこれで、また意味を考え、なすべきことを考えていかねばなりません。前回、黒子のバスケ脅迫事件の渡邊博史さんの話を書きましたが、「彼がアイドルを好きになっていればよかったのに。」という話で終わらせてしまってはいけないのだと思います。いやいや、アイドルもビジュアル系バンドも必死になって頑張っていると思います。本当に、素晴らしい努力です。

しかし、その上で思うのは、
社会的包摂をアイドルやビジュアル系バンドだけに任せるなよ、という思いです。それは、彼ら、彼女らの仕事だけでなく
私たちの抱える課題なのではないか、とも思うわけです。所属するcommunityを自由に選べるかのように思えるこの時代だからこそ、異なるcommunity同士をつなぎ合わせていくための工夫がより必要になると思っています。

嚮心塾もそういう一つの場になれれば、と思ってやっていますが、まあなかなか難しいものです。
諦めることなく、頑張っていきたいと思います。

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