嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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評価されてもされなくても。

 もう大分前になるのですが、深夜にテレビを見ていて、お笑い芸人のブラックマヨネーズさんとオリエンタルラジオさんの対談がありました。オリエンタルラジオさんといえば、芸歴2年目くらいで爆発的に売れ、CMにもひっぱりだこ、さらには自らの冠番組の司会までやっていたという、奇跡的なブレイクを果たした芸人さんでしたが、その後、冠番組も打ち切りになり、CMも姿を消し、そもそもゲスト出演さえも少なくなって、という「冬の時代」を経て、最近また人気が出てきて、テレビでもよく見るようになりました。その「冬の時代」について、オリエンタルラジオの中田さんが言った言葉が深かったので、まずはご紹介したいと思います。(記憶に頼っているので、いつもの通りのざっくり大意ですみません。)
 「自分たちが売れているときには、わからなかったし、実際に全くテレビに出られなくなったときは、不平不満もあったけれども、今考えてみると、あれでよかった。自分が憧れていたテレビの世界というのがテレビ界の大人や吉本興業が『この若手を俺たちの力で売れっ子にしてやろう(そうしたら大御所を使わないで済む)。』的な作戦でうまくいってしまうような世界だったら、やっぱり夢を失っていた。でも、実際に、駆け出しの僕らでは、いくら周りの大人がお膳立てをしてくれても、通用しない、厳しい世界だということがよくわかった。それがわかったからこそ、もう一度実力を付けて、『絶対にまたトップに立ってやる!』という気持ちになれた。」ということをおっしゃっていました。
 僕が素晴らしいと思うのは、テレビ業界やスポンサーの、ひいては視聴者の冷たさに対して、内心忸怩たるものがオリエンタルラジオのお二人にあったとしても、それでもなお、それを成長の契機としてとらえ直すことができている点でした。その意味で、必死に努力をして、テレビで再ブレイクをしつつあることは本当に素晴らしいことです。
 もちろん、テレビ業界に限らず、この社会全体が努力をきちんと評価できているというよりはむしろ、縁故やその他のestablishment(体制側)の方の勝手な思惑や利害関係によって不公平なひいきがなされ、まだ力を得ていない若い世代が、それに躍らされ、消費されていくということの方が多いのかもしれません。そのような全体に対して、異議を唱えることが正しいとしても、自分自身に言い聞かせなければならないのは、「その不公平さをねじ伏せるほどの圧倒的な実力はまだ自分にはなかった。」ということだと思います。その不公平さが自分にとってプラスの方向であれ、マイナスの方向であれ、それをねじ伏せるほどの圧倒的な実力が自分にはないことこそを、
まずは反省して力を付けていくしかない。そのことを若い世代には是非わかってほしいと思いますし、僕自身も肝に銘じていかねばなりません。
 なぜなら、この社会において、「公正な評価」というのは不可能なことであるからです。人が人を評価する際に完全にreasonableな判断など下せるわけがありません。この社会から縁故による融通も、人々が「家族」というものを持たなくならない限り、決してなくなりません。どのように建前やきれいごとを並べても、人間は動物的で愚かで、自分と近しい人の利益ぐらいしか基本的には考えられていないのです。もちろん、生物学的には、そのような本能的態度は小さな集団で暮らす上ではメリットの方が大きいから、そのように我々はプログラムされているのでしょうが、このように大きな集団で暮らすことに歴史的になったとき、どのように行動すべきかについては、まだ手探り状態である、というのがこの21世紀における人間の現状ではないでしょうか。
 しかし、悲観をすることはありません。人間にはそのように動物的な本能を覆す程に、圧倒的な差に対しては、reasonableなものを無視できない、という根源的傾向もまたあるからです。たとえば、ちょっとの差であれば、縁故やestablishmentの思惑によって評価を左右することが可能であるとしても、きわめて大きな実力の差に対して、その実力の差をなかったかのごとく振る舞うことは、理性(reason)の残っている人間にはできません。「そんなことはない!不正によって、圧倒的な実力をもつ私は苦しめられている!」という方もおられるかもしれません。そういうときには、その選別をなす組織自体に理性(reason)を持つ人がもはや残っていないかもしれません(かのセザンヌもサロンに20回ほど落選したらしいです)。しかし、「まだ圧倒的な力ではないのかも。」と思って自己を鍛えることも大切だと思います。

 その上で、よりreasonableな判断ができるように、評価を下す側は努力をしていかねばなりませんね。入試などというのは、「公正」と皆が信じていながら、かなりチェックが効いていないところです。それでも就職活動などよりはまだましなのかもしれませんが。ともかく、圧倒的な実力をつけられるよう、お互いにがんばっていきましょう。それは「不公正な評価に不平を言う」よりも、遙かに生産的なことですし、それこそが人類全体を豊かにしてくれるものであると思うからです。その結果として、たとえゴッホのように誰からも評価されない一生を終えようと、僕はその道を生きたいと思っています。

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『きたなシュラン』、あるいは『もやもやさまぁず』

昨日、東京ではとんねるずさんの番組で、僕の好きな企画「きたなシュラン」に僕の自宅付近の洋食屋さんが出ていました。この企画は「汚いけれど、ウマイ」店を堪能するという企画で、とても個性のあるお店が多く出てきて、見ていてとても勉強になります。このお店は昨年の年末の「もやもやさまぁずスペシャル」でも紹介されていたのですが、この番組もその周の特集される地域の「もやっとする(一見不思議な、しかし味わいのある)」お店やスポットなどを紹介する番組で、以前からとても興味深い番組だと思って見ていました。

この二つの番組に共通するのは、「なんか変だけど、しかしそれがいい」というお店に対する番組の作り手の愛情です。整っていて広い空間を提供できるわけではないけれども、しかし、自分の人生をかけてそのお店をやってきたご主人のこだわりは、味であったり、あるいは他の要素であったり、何らかの形で見るべきものを確かに生み出していて、そしてそれ故に地域に根付いているという姿は、「個人」というもののこの社会におけるあり方、存在の仕方の可能性を豊かに提示してくれていると思います。

これらの番組に映る個性的な店主さん達の姿が、僕にはとても活き活きとしてすばらしく見えるのですが、あれを無様であるという見方もまた出来ると思います。「あんな汚い店にしがみついて。」などと思う方もいるのかもしれません。しかし、僕はこの社会の中で個人として生きていく、というのは、外から見ればあの番組で「汚い!」とか「もやっとしてる!」とか茶化されずにはいられないのではないか、と考えています。

それは別に個人事業主だけではありません。どのような大きな組織に所属しても、結局「汚い!」とか「もやっとしてる!」と言われて、平準的ではないとされる部分こそが実はその人にとっての個性であるのかもしれません。もちろん、「これが俺の個性だ!」などと肩肘を張るのではやはり見捨てられてしまうのでしょうが、「ごめん。うちは外見は汚いんだ。でも、その分旨いものくわせるからさ。」という姿勢で懸命に努力する以外には、やはり一人の人間としては存在し得ないのではないでしょうか。

ミュージシャンの桑田佳祐さんは、「僕は人間としてだめなやつだから、せめていい音楽を届けねばならない」という姿勢で努力していらっしゃることを以前テレビで話していました。そのように、元朝青龍関も「ごめん。俺血の気が多くて、けんかっ早いだめなやつなんだ。その分、相撲は誰にも負けないよう、頑張るからさ。」と言えば、許してもらえたのかもしれません。何もかもを平均的に頑張ることはできない人が、それでも「このことだけは誰にも負けないように頑張ろう。」と頑張る姿勢に対して、それを正確に評価していく寛容な社会こそが実は、creativeな社会なのではないかと考えています。一人一人の欠点に見えるものこそが同時にその人の美点の源であることは、教えていても多々あります。どのようにその人の美点を殺さぬようにして、欠点を伸ばしていくかは、きわめて難しく慎重さのいる作業であり、欠点が見えればそれをみんなで非難するという稚拙な手段からは、決して改善しえないのだと思います。

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