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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

安心をするための装置。

テレビ番組で「テレビは安心するための装置。だから不都合な真実には決して触れないようにする。」という批判がオンエアされ、それに対して賛否両論だということですが、そんなのは、どんなに国会で一人一人の人生に関わる重要な論戦が行われていようとも、テレビはそんなものには目もくれずに、やれミミズクだの
、やれ舌がんだの、とどうでもいいことをずっとやっているわけですから、まあ当たり前な話です。テレビは人々が考えないための装置として現代では機能しています。

そして、これは別にテレビに限った話ではなく、ネットであれ、youtubeであれ、アプリであれ、何であれ、考えるべきことを見逃さないためには自分が必死に探さなければならず、考える材料を自然に与えてくれる装置などまるでありません。私たちは情報がこれだけ多くなった世の中であるからこそ、自分が真剣に悩むべき問題からは離れられる情報だけを得ることで、四六時中自分の人生から逃げることができてしまいます。その結果として後悔したときにはあとのまつりになるような政治的、経済的、その他様々な改悪についても気づかないフリをすることができてしまいます。

何かについて語る、ということは別の何かについては語らない、ということでもあるからこそ、有限の時間の中で我々は何について語るべきであるのかを取捨選択していかねばなりません。だからこそ、「嘘は吐いていない」としても、語るべき対象をうまく選んで自分が語ると面倒になるところについて本音を語らないように話題を選ぶことで会話を終えてしまえば、それは結局はぐらかしたり、ごまかしたりができてしまうことになります。

そして、これはテレビ番組の作り手のせいだけではありません。私達自身の「面倒なことは考えたくない」「都合の悪いことは考えたくない」というある意味自然な欲求の投影として、テレビはミミズクのことばかり映すようになってしまっているわけです。このようにして、様々な制度の根幹が掘り崩され、そして大きな悲劇へとつながる、という時代に私たちは今生きているのでしょう。

話をそれほど大きくしないでも、たとえば間近に迫った受験に関してもまた、安心をするための装置として勉強が働くことが多々あります。勉強をすることで勉強はサボることができます。即ち、自分の優位性を確認できるような勉強に時間を割くことで、自分ができていないところを勉強することからは目を背けることができてしまいます。このような勉強をしているときは、安心をするための装置として自らの勉強を使っているだけで、結局必要な勉強をしていないからこそ、入試で落ちることにつながります。人間はそれぐらいに見たくないものを見たくないものです。そして、見たくないものを見ないで済むためには、どのような努力でもするものです。そのような人間の心の弱さを受験生を教える教師は熟知した上で、彼や彼女の「勉強」が不都合な現実から目をそらすための手段になっていないか、それがやるべき勉強を避けるための勉強になっていないかどうかを絶えずチェックしていかねばなりません。

結局そのように自分に不都合な現実を直視することこそが、自らの成長のために、あるいは統計の数字をごまかさずに本当に結果を出すためには必要なのだ!と気づけるかどうかが、ミミズクや舌がんばかりのワイドショーをおかしいと思えるかどうかの分かれ目であるのだと思います。受験生一人一人がそのように不都合な真実に目を向けて努力が最後までできるように、しやすい努力を必要な努力をしないための隠れ蓑へと使わないように、最後まで徹底的に批判し、鍛えていきたいと思います。

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「お笑い風」とお笑い。

あまりにも忙しいので、最近はテレビ番組を以前ほどは見ることができなくなってきているのですが、それでも毎週必ず見ているのがテレビ東京の『ゴッドタン』です。これさえ見ておけば、芸人さんの世界の情報を早めにわかるのでは!と思い、毎週録画して見ています(良い子にはあまりお薦めしませんが、)。眉村ちあきさんなど、注目すべき人を取り上げるタイミングが早く、とても勉強になります。

そのゴッドタンでだいぶ前ですが、「お笑い風(おわらいふう)」という言葉が流行りました。これは(お笑いコンビ)ハライチの岩井勇気さんが提唱した概念です。今や芸人さんが出ていないテレビ番組を探すほうが難しく、朝の情報番組から昼のワイドショー、そして夜のバラエティー番組と、どの番組にも芸人さんが必ず出ているわけですが、それらの番組に出ている芸人さんは結局VTRを見て気の利いたコメントを言ったり、ほんの少し笑いをとったり、というだけであくまで「添え物」としての働きしかしていません。そのような露出の仕方を岩井さんは「お笑い風」と呼び、コントや漫才でしっかりとネタを作り込むのではなく、そのような「添え物」として気の利いたコメントをできる芸人さんだけがテレビ業界で売れることを憂え、そして何よりそのような「添え物」の今や第一人者になったハライチの相方澤部さんの売れ方に対する不満をとうとうと述べていました。「本気でお笑いをやりたい芸人は、結局売れないで、お笑い風を我慢できる芸人だけが売れる。」という彼の主張はとても本質を突いていました。

これはたとえばその両方をこなすおぎやはぎさんや劇団ひとりさんのような人たちにも言えることです。たとえば彼らがゴールデンやプライムタイムの番組に出ていればちょっと気がよくて面白い人くらいの印象しかないわけですが、ゴッドタンでの彼らはとてつもなく面白く、天才的で、また徹底的に攻めた笑いを目指します。ゴッドタンにかぎらず、深夜帯での尖った笑いもゴールデンでのいい人そうなふるまいも両方をできる人もいるのでしょうが、面白い漫才やコントは作れても、ゴールデンタイム用のバラエティーの仕事ができずに大きくはブレイクしない、という芸人さんも多いのかもしれません。(もっともハライチの岩井さんはそこから「腐り芸人」という地位を確立し、自分が「お笑い風」を許せない、ということをも芸風として活かそうとしているわけで、本当にたくましい限りです)

この問題というのは「最近のバラエティ番組ってのはこれだからつまらないんだ!」と批判的になるまでもなく、昔から悩ましい問題であり続けているように思います。多くの人に受け入れられるものはどうしても角(かど)が立たないものになりますし、芯を食った言葉からは遠くなります。とはいえ、少数派向けのみに本当の言葉を語り継いでいくことは果たしてその解決策になっているのか、それだけで社会に何か良い影響を及ぼせるのか、という問題です。古くは最澄と空海の頃から顕教(けんきょう)と密教(みっきょう)の違いとして、多くの人に広まっていく宗教(顕教)と一部の人にしかその秘奥を伝えない宗教(密教)の違いとして存在しました。また、もっと前にはプラトンだって「大事なことはアカデメイア(彼の主催する学園ですね。)でしかしゃべらない。大事じゃないことだけ私は本に記す!」と言って密教的なものと顕教的なものを使い分けていたわけです(それにしてはプラトンは著作の数が異様に多いですが)。

どちらが優れている、どちらが劣っている、というのはもちろんないわけですし、どちらも社会にとって必要なものであることは間違いがありません。しかし、どうしても閉じていて少数の人々に伝承されたり評価されたりするもの、というのは社会からの迫害や無理解に苦しむことが多く、また開いていて多くの人に広まっていくものとのチヤホヤのされ方、お金の集まり方が大きく違う、といううらみつらみはあります。それがあまりにも非対称すぎて少数派の方を選ぶ側には被害者意識が生まれがちです。これは僕自身もとてもよくわかる気持ちです。

まあしかし、そもそもそこで少数派の方を選ぶ人、というのはそちらに関心が強いので、最初から多くの人に広まる道は歩けないことが多いのではないかと思います。岩井さんなら「ネタの面白さ(ハライチのネタは全て岩井さんが書いているそうです)」を追求したいからこそ、それとは無縁のバラエティ番組に出るのにはなかなか食指が動かなかったのでしょう。となると、自分が結局何をしたいのか、ですよね。僕も嚮心塾を開く前にはお誘いを頂いて、「出資するんでうちの経営する塾で塾長としてやりませんか。」的なありがたいお話も頂いたのですが、全くその気にはなれませんでした。僕は(ラーメンマニアではあるのですが)日高屋とか幸楽苑とか本当にすごいと思っていて、あの値段であのクオリティのものを提供できるのは、一つのvalueであると思うのですが、では自分が日高屋や幸楽苑のような会社を作りたいかといえば、全くその気はないですし、また全く向いていないと思います。塾をやるとしても同じで、たとえばある程度の指導のクオリティを保ちながら多校舎展開をしている塾があれば、それはそれで本当に素晴らしいことだと思いますし、そのような塾は必ずこの社会に必要だとは思いますが、一方でそれを自分がしたいともまたできるとも思っていません。おそらくそれを僕がやろうとすれば、必ず失敗するでしょう。岩井さんがVTRを見ながらワイプ画像で抜かれるときの笑い顔が作れずに、番組に呼ばれなくなるのと同じように。(「ここでしかできない教育を」「講師を増やすことでは決して真似出来ない教育を」と追求してきた結果として、嚮心塾はとてもユニークな、ここでしかできない指導ができ、かつそのことで生徒たちが大きく力をつけられるようにはなってきているとは思うのですが、しかしまあ多校舎展開は(自分に嘘をつかない限り)絶対にできなくなりました。密教確定です。そして、儲かる道もなくなったなあとは思います。)

大切なのは、広まっていくものはその背後に閉じているもののありがたみを感じ、閉じているものはその裾野を広まっていくものが耕してくれていることのありがたみを感じる、という相互作用があるかどうか、ではないかと思います。その相互作用があれば、両者が両者ともに社会的役割を果たしていることが、つながってくるようにも思いますし、両者がいがみ合えば結局それは社会全体にとっても不幸なことです。これはハライチの澤部さんと岩井さん、あるいは一ツ星ラーメン店とチェーンのラーメン店、多校舎展開の塾と一つしかない塾などだけではなく、たとえば科学ジャーナリズムと科学との関係性、とか企業と大学の関係性とか、さまざまなことにも言えるのではないでしょうか。広まっていくこと、あるいは閉じていることそのものを互いに批判し、いがみ合うのではなく、お互いがお互いの手の回らないところを支え合っていて、そのうえで相互にフィードバックがなされるべきである、という共通理解があることがとても大切だと思います。

冒頭に挙げたゴッドタンでは澤部さんが「俺がお笑い風の番組に出るのは、ハライチをみんなに知ってもらって岩井の漫才を見てもらうため!」というラブコールでこの相互作用があることを示唆して伏線が回収されるわけですが、コンビ愛に基づかなくても、そのような相互作用が起こりうるのがより健全な社会ではないかと考えています。
(そして、僕も劇団ひとりさんのように、「お笑い風」も「お笑い」も両方できる人になりたいです!このあたり、まだまだ修行が足りません。)

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評価されてもされなくても。

 もう大分前になるのですが、深夜にテレビを見ていて、お笑い芸人のブラックマヨネーズさんとオリエンタルラジオさんの対談がありました。オリエンタルラジオさんといえば、芸歴2年目くらいで爆発的に売れ、CMにもひっぱりだこ、さらには自らの冠番組の司会までやっていたという、奇跡的なブレイクを果たした芸人さんでしたが、その後、冠番組も打ち切りになり、CMも姿を消し、そもそもゲスト出演さえも少なくなって、という「冬の時代」を経て、最近また人気が出てきて、テレビでもよく見るようになりました。その「冬の時代」について、オリエンタルラジオの中田さんが言った言葉が深かったので、まずはご紹介したいと思います。(記憶に頼っているので、いつもの通りのざっくり大意ですみません。)
 「自分たちが売れているときには、わからなかったし、実際に全くテレビに出られなくなったときは、不平不満もあったけれども、今考えてみると、あれでよかった。自分が憧れていたテレビの世界というのがテレビ界の大人や吉本興業が『この若手を俺たちの力で売れっ子にしてやろう(そうしたら大御所を使わないで済む)。』的な作戦でうまくいってしまうような世界だったら、やっぱり夢を失っていた。でも、実際に、駆け出しの僕らでは、いくら周りの大人がお膳立てをしてくれても、通用しない、厳しい世界だということがよくわかった。それがわかったからこそ、もう一度実力を付けて、『絶対にまたトップに立ってやる!』という気持ちになれた。」ということをおっしゃっていました。
 僕が素晴らしいと思うのは、テレビ業界やスポンサーの、ひいては視聴者の冷たさに対して、内心忸怩たるものがオリエンタルラジオのお二人にあったとしても、それでもなお、それを成長の契機としてとらえ直すことができている点でした。その意味で、必死に努力をして、テレビで再ブレイクをしつつあることは本当に素晴らしいことです。
 もちろん、テレビ業界に限らず、この社会全体が努力をきちんと評価できているというよりはむしろ、縁故やその他のestablishment(体制側)の方の勝手な思惑や利害関係によって不公平なひいきがなされ、まだ力を得ていない若い世代が、それに躍らされ、消費されていくということの方が多いのかもしれません。そのような全体に対して、異議を唱えることが正しいとしても、自分自身に言い聞かせなければならないのは、「その不公平さをねじ伏せるほどの圧倒的な実力はまだ自分にはなかった。」ということだと思います。その不公平さが自分にとってプラスの方向であれ、マイナスの方向であれ、それをねじ伏せるほどの圧倒的な実力が自分にはないことこそを、
まずは反省して力を付けていくしかない。そのことを若い世代には是非わかってほしいと思いますし、僕自身も肝に銘じていかねばなりません。
 なぜなら、この社会において、「公正な評価」というのは不可能なことであるからです。人が人を評価する際に完全にreasonableな判断など下せるわけがありません。この社会から縁故による融通も、人々が「家族」というものを持たなくならない限り、決してなくなりません。どのように建前やきれいごとを並べても、人間は動物的で愚かで、自分と近しい人の利益ぐらいしか基本的には考えられていないのです。もちろん、生物学的には、そのような本能的態度は小さな集団で暮らす上ではメリットの方が大きいから、そのように我々はプログラムされているのでしょうが、このように大きな集団で暮らすことに歴史的になったとき、どのように行動すべきかについては、まだ手探り状態である、というのがこの21世紀における人間の現状ではないでしょうか。
 しかし、悲観をすることはありません。人間にはそのように動物的な本能を覆す程に、圧倒的な差に対しては、reasonableなものを無視できない、という根源的傾向もまたあるからです。たとえば、ちょっとの差であれば、縁故やestablishmentの思惑によって評価を左右することが可能であるとしても、きわめて大きな実力の差に対して、その実力の差をなかったかのごとく振る舞うことは、理性(reason)の残っている人間にはできません。「そんなことはない!不正によって、圧倒的な実力をもつ私は苦しめられている!」という方もおられるかもしれません。そういうときには、その選別をなす組織自体に理性(reason)を持つ人がもはや残っていないかもしれません(かのセザンヌもサロンに20回ほど落選したらしいです)。しかし、「まだ圧倒的な力ではないのかも。」と思って自己を鍛えることも大切だと思います。

 その上で、よりreasonableな判断ができるように、評価を下す側は努力をしていかねばなりませんね。入試などというのは、「公正」と皆が信じていながら、かなりチェックが効いていないところです。それでも就職活動などよりはまだましなのかもしれませんが。ともかく、圧倒的な実力をつけられるよう、お互いにがんばっていきましょう。それは「不公正な評価に不平を言う」よりも、遙かに生産的なことですし、それこそが人類全体を豊かにしてくれるものであると思うからです。その結果として、たとえゴッホのように誰からも評価されない一生を終えようと、僕はその道を生きたいと思っています。

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『きたなシュラン』、あるいは『もやもやさまぁず』

昨日、東京ではとんねるずさんの番組で、僕の好きな企画「きたなシュラン」に僕の自宅付近の洋食屋さんが出ていました。この企画は「汚いけれど、ウマイ」店を堪能するという企画で、とても個性のあるお店が多く出てきて、見ていてとても勉強になります。このお店は昨年の年末の「もやもやさまぁずスペシャル」でも紹介されていたのですが、この番組もその周の特集される地域の「もやっとする(一見不思議な、しかし味わいのある)」お店やスポットなどを紹介する番組で、以前からとても興味深い番組だと思って見ていました。

この二つの番組に共通するのは、「なんか変だけど、しかしそれがいい」というお店に対する番組の作り手の愛情です。整っていて広い空間を提供できるわけではないけれども、しかし、自分の人生をかけてそのお店をやってきたご主人のこだわりは、味であったり、あるいは他の要素であったり、何らかの形で見るべきものを確かに生み出していて、そしてそれ故に地域に根付いているという姿は、「個人」というもののこの社会におけるあり方、存在の仕方の可能性を豊かに提示してくれていると思います。

これらの番組に映る個性的な店主さん達の姿が、僕にはとても活き活きとしてすばらしく見えるのですが、あれを無様であるという見方もまた出来ると思います。「あんな汚い店にしがみついて。」などと思う方もいるのかもしれません。しかし、僕はこの社会の中で個人として生きていく、というのは、外から見ればあの番組で「汚い!」とか「もやっとしてる!」とか茶化されずにはいられないのではないか、と考えています。

それは別に個人事業主だけではありません。どのような大きな組織に所属しても、結局「汚い!」とか「もやっとしてる!」と言われて、平準的ではないとされる部分こそが実はその人にとっての個性であるのかもしれません。もちろん、「これが俺の個性だ!」などと肩肘を張るのではやはり見捨てられてしまうのでしょうが、「ごめん。うちは外見は汚いんだ。でも、その分旨いものくわせるからさ。」という姿勢で懸命に努力する以外には、やはり一人の人間としては存在し得ないのではないでしょうか。

ミュージシャンの桑田佳祐さんは、「僕は人間としてだめなやつだから、せめていい音楽を届けねばならない」という姿勢で努力していらっしゃることを以前テレビで話していました。そのように、元朝青龍関も「ごめん。俺血の気が多くて、けんかっ早いだめなやつなんだ。その分、相撲は誰にも負けないよう、頑張るからさ。」と言えば、許してもらえたのかもしれません。何もかもを平均的に頑張ることはできない人が、それでも「このことだけは誰にも負けないように頑張ろう。」と頑張る姿勢に対して、それを正確に評価していく寛容な社会こそが実は、creativeな社会なのではないかと考えています。一人一人の欠点に見えるものこそが同時にその人の美点の源であることは、教えていても多々あります。どのようにその人の美点を殺さぬようにして、欠点を伸ばしていくかは、きわめて難しく慎重さのいる作業であり、欠点が見えればそれをみんなで非難するという稚拙な手段からは、決して改善しえないのだと思います。

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