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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

2020年度受験を振り返って(その3)

東京大学理科三類合格(進学先)  K・R(慶應義塾高卒)


はじめまして。私は2020年度東京大学理科3類に合格しました。
出身高校は慶應義塾高校で、合格するまでに高校卒業から5年間かかりました。

皆さん、ここまで読んでどう思いますか?
「5年もかかったのかよ。馬鹿だな。時間もったいない。ほかの大学に進学して早く医者になった方がいいんじゃないか。」と思うかもしれません、いや、思うのが当然でしょう。実際、よく言われます。しかし、僕は、この意見に対する自分なりの答えを持っています。それを自分の人生と照らし合わせて説明したいと思います。


勉強を始めたのは中学生からでした。
小学生のときは習い事を毎日のようにやっていました。ピアノ、バイオリン、空手、サッカー、野球、英語、プール、そして器械体操。この中で最も力を入れたのが器械体操でした。当時、池谷幸雄体操クラブの選手コースに在籍し、現在日本代表として活躍されている村上茉愛選手や神本雄也選手とともに週6回、平日は4時間、休日は8時間練習をしていました。遊ぶ時間もあまりなく、学校の授業はいつも爆睡。よく仮病で学校を早退しました。手はまめで血だらけ、骨折もよくしました。ついに恐怖心が体操の向上心を上回ってしまい、初出場の試合をもって体操をやめることにしました。その試合では、鉄棒で失敗してしまい、結果は全国7位。不甲斐ない結果に終わってしまいました。それでも体操から逃げたかった。そこで、逃げた言い訳にしたのが、中学受験でした。
何も勉強していない自分が中学受験など受かるはずもなく、入塾した塾では一番下のクラス。そして、13校受験して受かったのは2校。そのうち目白研心中学校の特進クラスに進学しました。僕の代から共学化し、当時1期生でした。

中学校の入学前、父親に夢を聞かれたことがありました。東大に行きたい気持ちと医者になりたい気持ちがあったので「東大に進学して、卒業したらどこか医学部に入学したい」と、父に伝えました。すると「東大の医学部にいけばいいじゃん。」と言ってきました。当時は、東大理3はきっと難しいだろうと思い込み、受かる自信が持てず、話を濁しました。
医学部にしろ、東大にしろ、受験をするためにはスタートダッシュが重要だと思い、早稲田アカデミーの東大コースに入塾しようと思いましたが、断られ、それならば東進に入塾しようとするも返事の電話が来ませんでした。世の中学歴なんだな、とロマンスカーの中で母と泣きながら帰宅したのを覚えてます。

そんなとき、父が家庭教師の先生を連れてきました。彼は「滅私奉公」の体現者で、当時12歳の私の面倒を無償で、一生懸命見てくださいました。学校に行く前にskypeで勉強を見てくださったり、毎日のようにfaxで添削してくださったり。「最初の文字は大文字で書く!!」「文の最後にはピリオドをつける!!」何度も言われました。そして彼の出身が理3。このとき、この人のようになるために理3にいきたい、と意識するようになりました。
彼のおかげで中学の入学直後の試験では、数学100点、英語100点、国語91点で学年1位をとれて、自分の名前が堂々と張り出されました。勉強を才能的なものだと思い込んでいましたが、努力でなんとかなると知りました。その後、1期生としてサッカー部を設立したり、生徒会長になったりするのですが、それはまた別の話。勉強の楽しみをおぼえた私は、中学のスローペースな勉強に飽き、SEGに入塾しました。そこで中学数学を早く終え、自分に適した環境に進みたいと思い、高校受験を決めました。

高校受験に不向きであったSEGをやめ、中学受験時に通っていた塾に入塾しました。小学生の時は一番下のクラスでしたが、最終的に、高校受験の時は一番上のクラスに進み、先生方に驚かれました。
高校受験では、第一志望の開成高校、第二志望の西高校は落ちてしまい、慶應義塾高校か慶應志木高校に進学するしかなくなりました。これも運命だと思い、慶應義塾高校に進学しました。大学付属高校なので受験勉強の環境としては最悪です。

高校では器械体操部門トランポリン部に所属し、ピョンピョン跳んでいました。器械体操の経験があったので1年の夏にインターハイに出場できたのは幸運でした。
高校の特性上、勉強する人は少なく、それぞれがそれぞれの目標を作って取り組んでいました。そんな環境の中で自分は何をしたいのか、思い直したとき、憧れの人を思い出しました。困っている人に手を差し伸べられる人になるには、自分も苦労をしなければならないと思い、慶應大学の内部推薦を断り、大学受験をすることを決意しました。
その後、鉄緑会に入塾し、トランポリンはインターハイ後に退部し、周りが遊びに夢中のなか、一人で毎日のように勉強し続けました。鉄緑会の先生には君が一番勉強していたといわれるも、クラスは1度も上がらず、「中の中」のまま理3受験を迎えました。もちろん落ちました。消化不良でした。点差は約100点。絶望的でした。

現役での受験を終えたあと、父から「医者になる必要はない」と言われ、自分はどうすればいいのか見失いました。そもそも、自分がなりたいのは「困っている人に手を差し伸べられる人」。必ずしも医者じゃなくてもいい。もちろん、医者だったらそれができますが。

そこで、やりたいことをみつけるために海外の大学に留学しようと考えました。興味があったのは高校での政治経済の授業で扱った、行動経済学。従って、経済学を学びたいと思いました。Facebookで海外留学を支援しているNPO団体、「留学フェローシップ」をみつけ、その責任者に、キャンプに参加させてもらえるよう直談判しました。一方で家庭教師の先生にも相談し、MASK English Academyの塾長である、松井道夫先生を紹介していただき、そこで働く海外の方の助手として、働かせていただきました。また、SATやTOEFL の勉強をしていました。先のNPO団体の募集期日3日前に責任者から返信がきて、急いでエッセイを書き、参加試験に合格して、夏のキャンプに参加できました。そこではアメリカの大学に進んだ日本人の方々にエッセイの書き方教えてもらったり、アメリカ生活について話をうかがったり、お互いがお互いを評価しあって、自分の長所を再認識しました。

どうやら、自分の長所は「知的好奇心の強さ」だったようで、言われるまで気づきませんでした。そして同時に、自分よりもすごい人が多いということに気づけました。彼らと競い合っても敵いっこない。そう思ってしまいました。ならどうすべきか。彼らが日本でも活躍できるよう下準備をすること。当時はそう思いました。そのためには日本の大学でいいから早く進学すべきだと思い、理科2類を受験しました。

しかし、いままで理3志望だったので気が抜けてしまったことと、ブランクが大きすぎて結果は惨敗。敗因がわかっていたので、合格発表当日に本屋さんに行き、基本のキから再開しました。

2浪目は、Z-kaiを利用し、自宅浪人をしました。誰ともコンタクトをとらず、黙々と勉強する。そんな日々が続きました。勉強に疲れたら前年参加した留学フェローシップのことを考えました。本当に日本で活躍できるよう下準備だけでいいのか。やる意思があるのであれば、彼らと比肩するよう持てるすべてを用いて、よりよい社会にするために努めるべきではないか、と。自分の能力はたかが知れているので、親からもらえる環境をフル活用することを目指し、医師になる決意をしました。そして家で一年間勉強するも理3は相変わらず惨敗。70点差。さすがに限界を感じました。

3浪目は、独学では無理だと思い、駿台お茶の水校の東大理系演習コースに在籍しました。いままで受験勉強の友達が一人もいなかったので、新たに受験友達を作ったとともに、当時一番上のクラスに在籍し、通年で成績優秀者になりました。駿台に入学したからには駿台のことしかやらないと決め、東大模試でも成績が出てきて理3でもB判定が出てきました。結果的に、40名のクラスで、ほとんどが東大または医学部に進学するも、落ちたのは自分だけ。点差は40点。再び絶望しました。

4浪目は、予備校に頼っても無駄だと思ったので、またも独学でした。義兄に指導をお願いし、自分の弱さと向き合っていました。「途中計算を粗くするから計算ミスをするんだ。」「ざっとしか読まないから問題文をミスリードするんだ。」こういう感じで性格の矯正まで行っていました。
そんな夏の頃、友人に嚮心塾を紹介されました。塾長がどうやら国語と英語が得意らしいので、わらをもつかむ気持ちで入塾しました。理系科目は義兄に毎日のようにノートを添削してもらい、一方で文系科目は塾長に添削してもらいました。東大模試もB判定が基本的に出るようになりましたが、A判定は1回も出ず。ただ国語と英語の偏差値が70弱に近づきました。
この年の結果は、6点差。普通なら絶望するでしょうが、僕の場合は逆です。100点差の時もあったので「東大からあとちょっとだ、がんばれ。」って言ってもらったぞ、と意気込んでいました。今まで真っ暗闇のなかにいたのですが、かすかに光を感じました。

けれども、さすがに疲れたのは事実。ぼけーっとしていると、両親が気を利かせてくれました。母が自動車免許の学校に入れてくれたのです。自分の生活に新たな風が吹きました。
しかし、免許取得後、どうしても受験勉強に気乗りがしませんでした。そんなとき、今度は父がオンラインで大学の授業が受けられるサイトに僕を登録してくれて、受験勉強とは異なる勉強を6月までしていました。その後、受験勉強を再開しました。

夏の東大模試はA判定とB判定。初めて300点超えができました。その後は毎日のように、セットを解いて添削を受けて反省会、の繰り返し。

秋の東大模試はともにB判定。調子がよかったので、はやめに苦手なセンター試験対策を開始しました。苦戦を強いられましたが、結果はリスニング抜きで837点。そのまま2次試験を迎えました。
国語は以前塾長と議論し合った内容がでて、難なくでき、数学は難しかったですが、3完2半。初日はよくできました。
2日目は、得意の物理で失敗してしまいましたが、その分化学に時間を当て、弱点である計算ミスがありませんでした。英語も何度も塾長と相談した作戦通りにいき、自己採点すると400点弱でした。そして合格発表の3月10日。まず最低点から見ると385点。自己採点通りだったら、なんとかいけると思い、勇気を出して合格者欄を見たら自分の受験番号がありました。
その一週間後の今日、この文章を打っています。


僕も若いとき、理3合格体験記を漁り、「超人がたくさんいるんだなー」と思いました。
ここまで読んでくださった方は、僕に対しても同じことを感じますか?

おそらく感じないはず。

なぜなら、5年間の失敗があるからです。何度も絶望しました。何度も泣きました。けど、諦めなかった。信念を貫いた。僕は天才じゃない。受験勉強においては才能もない。あったのはただ、諦めの悪さだけです。


さて、最初の問題提起に対する自分なりの回答を示して終えたいと思います。


もちろん、はやく医者になれれば多くの人を救っていたかもしれない。
だけど、絶望や失敗を経験してないと、「いい人間」にはなれない。病気や苦しみのせいで、明日の希望が見えない「人間」を、どうしてそういった経験のない人間が助けられようか。弱者に対して差し伸べる手が偽善となってしまわないか。そう思ったから何度も理3受験を続けてきました。事実、こと受験勉強においては、頑張っているが結果が出ないという人と自分とを同一視してしまいます。なんとか力になってあげたい、つらさを知っているだけにそう感じます。自分の持ちうるすべてを使って助けてあげたいし、受験勉強に限らず、困っている人がいて、自分がなんとか力添えができるのであれば、誰に対しても、すべてを駆使して手伝いたい。

これを読んでいる方は基本的に受験生だと思います。そんな君たちに、この言葉を贈ります。

「浪人?上等だよ。やってやる。」
1年延びようが10年延びようが、自分の信念を諦めることに比べたらたいしたことない。


駄文ですが、いま絶望している人がすこしでも「私も、もう少しがんばってみよう」と思っていただければ幸いです。

応援しています。

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2020年度受験を振り返って(その2)

立教大学経済学部合格(進学先)O・Y(横浜市立東高卒)

(ほか合格校:専修大学経済学部)
「体験記を書いてくれ」と言われても何を書けばいいのか思いつかなかったので参考にはなるかわからないけれど高3、浪人の二年間を振り返って自分語りをしようと思います。
僕は現役の時は塾には行かずに独学で家や図書館などで勉強していた。立教大学を第一志望にして勉強していたが、結果は不合格、さらに滑り止めだと思っていた日東駒専の大学まで一つも受からないという結果だった。なぜそんな結果になったのかを考えてみると、独学だったため自分に勉強の決定権がすべてあり間違えた方向に向かっていることを止める存在が無かったことだと思う。現役の僕は秋くらいまではとても順調で普段の勉強や模試の点数でも実力がついていってる事が実感でき勉強も楽しく努力を続けることができていた。しかし、冬くらいから模試の点数が伸び悩むどころか下がっていくようになってしまった。
低い点数を取ることは全く悪いことではなくその原因を探すことで点数を上げるチャンスなはずなのだが、秋ころになまじいい点を取れてしまっていたので「自分が低い点数を取ったのはたまたまだ。自分のやり方は間違ってない!」と一回の成功体験にしがみついて、自分のできていないところに向き合うという嫌な作業から逃げだした。そんな状況で実力が伸びていく訳もなく勉強へのモチベーションも比例して下がっていき12月の後半くらいからは全く勉強もしなくなり、「どーせ、このまま入試を受けても受かるわけないし浪人してから頑張ればいいや」と諦めて家族や友達にはずっと勉強しているフリをして無意味に日々を消化していた。今、考え直してみても現役の1年目は散々なもので全落ちしたのも当然だと思う。
そして、僕は高校を卒業した後の3月の後半からこの塾に入塾した。その理由は 大きく分けて四つある。
一つ目は高校の担任の先生に、「宅浪は本当に厳しく、あなたはどこでもいいから塾や予備校に所属した方が良い」と言われた事。高2、高3の2年間その先生にはお世話になっていて、頻繁に遅刻をし1限をサボったり、ひどい時期は体育の授業がある日しか登校していなかったなどとても怠惰な生活を送っていたのでそう思われて当たり前だと思うし自分でもそう感じていた。
二つ目はこの塾に通っていた友達にとても良い塾だとすすめられた事。中学の時は別に頭が良いと思っていなかったその友達がどんどん力をつけていったのを間近で見ていたのでとても説得力があった。
三つ目はとても月謝が安い事。大手の予備校の半額くらいの値段でこんな素晴らしいサービスが受けれるのはおかしい事だと思うが、そのおかげで親も入塾を許可してくれたと思う。
四つ目は授業をせずに一人ずつに合わせて勉強の計画を先生と考えて自主学習で出た疑問を先生にすぐに質問をできるという事。これは元々、授業を受けずに自習学習で勉強してきた自分に合っていて授業を受けるよりも効率的だと思い、一週間の体験期間でそれは確信に変わり、往復約3時間と家から遠いが入塾を決めた。僕は基礎もボロボロだったので最初はとにかく英語の基礎(文法、英文解釈、単語、熟語)を固めていった。前述した通り僕は怠惰な性格で努力を継続することがが苦手でなかなか毎日通う事は出来ていなかったが、実力が伸びていってる事を実感できてる事もあり3月後半から8月の終わりまでで1000時間以上勉強でき、そのうち700時間くらいは英語を勉強した。この基礎固めが凄く大きかったと思う。現役の時は世界史が好きで英語を疎かにして世界史ばっかり勉強してしまったのも独学での間違った判断だった。先生と一緒に自分に合った勉強の計画を立てる事ができたので正しい方向に努力を続ける事ができたと思う。
8月からセンター試験の英語の過去問を始めた。この塾では過去問を解いた後に毎回、先生とその試験の反省をするのだが、初めて反省会をした時に先生に「この問題を間違えた原因は何だと思う?」と聞かれたのがとても印象に残っている。僕はサッと答えることができなかった。その時に自分がいかに何も考えずに問題を解いているかを思い知らされ、そこから問題に取り組む時の意識が変わったと思う。回数を重ねる度に点数を取れるようになっていき、センターでなんとか8割が安定してきて、記述模試でもそこそこ良い結果が出せた。
このように夏までは割と順調に勉強できてたように見えるが、それは塾に行けた日だけの話で、僕は怠惰な癖に一丁前に完璧主義だったので、朝から家を出れなかった日は勉強する気が起きずに家にこもってダラダラしてしまった。先生はこんな僕にも「昼からでも、なんなら夜からでも良いから毎日、塾に来て勉強しよう。」と策を考えてくれた。自分でも短い時間でも良いから毎日、塾に来て勉強したほうが良いのは頭ではわかっていたし、塾に行った日はちゃんと勉強していたので、ただ毎日家から出て塾に行くことができれば解決した問題なのに、結局、夏の間もなかなか毎日通える事ができなかった。そんな自分と、毎日朝から晩まで勉強している同い年の塾生達とを比較してしまいどんどん自己嫌悪になっていき、勉強せずに家でふさぎ込む日が増えていき、そして、また自分が嫌いになっていく負のループになってしまった。結局9月はほとんど塾に行けず「このままじゃダメだ、現状から何かを変えなきゃいけない」と思った僕は、所属しているのにほとんど行けてないので先生にも迷惑と心配かけてしまっているし、お金を出してくれている親にも申し訳ないし何かしらアクションを起こさなきゃといけないと思い、「片道1時間半の通塾で勉強へのハードルが上がってしまっている」という今思うとよくわからない理由で塾を辞めたいと先生に相談した。その時、先生は「夏までは基礎の時期でここから過去問を解く回数も増えていく、ここからが本番なのに今辞めるのはもったいない。」と間違った方向に進もうとしている自分を止めようとしてくれていたのに、「何かアクションを起こさないといけない。」と思考停止してしまっていた僕は忠告を聞かずにその時は辞める決断をした。そんな僕に先生は「今、このままつらい事から逃げて辞めて独学を始めてもけっきょく勉強でも自分の嫌な教科や嫌いな作業から逃げてしまい絶対成功しないから9月最後の一週間だけでも通って克服してからにしよう。」と言ってくださった。なのにその時の僕はその一週間すら通うことができなかった。そんな約束すら守れなかった僕は先生に合わせる顔も無いし、自分の事がさらに嫌いになり家にふさぎ込んでしまった。全く勉強もせずに家でダラダラと引きこもり、現実逃避して朝から晩までゲームをしていた。その時の自分は現役の時の繰り返しのように嫌な事から逃げているだけで、自分の判断は間違っていて先生の判断が正しい事が頭では解っていたのに家から出て塾に行くという他の人にとっては当たり前の事ができなかった。
結局そんな生活を11月の後半まで続けた。塾に二か月くらいぶりに行った時、約束を破って二か月も連絡をせずにいたので先生にめちゃめちゃ怒られると思っていた。しかし、怒るどころか9月から11月の後半まで勉強をサボっていたどうしようもない僕なんかのために、今の状況から受かるための計画を 立ててくださった。その時、自分はこんなにも生徒の事を思ってくれている先生を裏切ってしまった自分が恥ずかしく思い、そこから気持ちを入れ替えまた基礎の復習から始め直した。そして、ある程度復習を終えて、またセンターの過去問を解いてみたら夏の点数を意外と維持できていて、過去問を解いて反省会を重ねていく度に点数も上がっていき、12月には9割も取れるようになっていった。夏までに基礎をしっかり固めたおかげで基礎が定着していたので、勉強から離れていた期間があっても忘れずにいられたのだと思う。センター当日では、緊張などもあり、練習通りの時間配分では解けなかったのですが、練習の時に短い時間で解く練習をしていたおかげで、英語174 現代文83 古文35 世界史89 という点を取ることができた。英語は文法と発音アクセントで多く落としたがそれ以外の部分では1ミスに抑える事ができ、平均点が下がった中で健闘できたと思う。国語は苦手な古文が低い点を取ってしまったのだが、センター利用は現代文のみの学校に出していたのでセーフだったと思う。世界史にはあまり時間が使えず、当日までに間に合うか不安だったが、センター前一週間に世界史の時間をかなり増やして何とか間に合ったので良かった。私立の過去問は12月の途中から解き始めて、最初はなかなか点が取れなかったりしたが、センターの過去問で解く時に時間がかかる問題を飛ばして一周目の時間を減らし見直しの時間を長くするという練習のおかげと、英語の長文を解くときにメモを取る事で見直す時の手がかりを増やして、見直しの質を上げる練習のおかげで点数が取れるようになっていった。自分はサボっていた分、他の受験生よりも遅れていたので、滑り止めの大学はセンター利用だけにし、私立の一般試験はMARCHの学校だけにして、少しでも勉強時間を確保した。
私立の入試本番では、最初の数回は全然練習通りの時間で解けずに、苦戦した。でも、「入試は連戦になるので一日一日気持ちを切り替えることが大切だから、試験終わった後は勉強しなくても良いから塾に来てその日の事を報告してほしい」と先生に言われて、それを実践してみたら失敗した日でもその日のミスを反省し、それを話す事で冷静になれて次の日の試験で、1周目に問題を飛ばすのを練習の時のように徹底でき、また失敗した日は慎重になりすぎて不必要なメモを取りすぎていたのことに気づき、メモを最低限にして、見直しの時間を多く確保することをできるようになった。苦手な古文でも失敗した日の反省を生かして試験の前に文法を復習し直したり、主語をしっかり確認することでミスを減らせた。
そして結果は、公式の回答で自己採点をしてみたらネット上の配点で英語84% 国語88% 世界史74% としっかりと自分の実力を出せて 現役の時から第一志望だった立教大学にどん底の日々から逆転合格することができた。
こんな僕でも結果を出せたのは夏前に基礎をしっかりと固めるという正しい努力をする事と、過去問を解く度の反省会で、問題を間違えた原因に向き合い、それを一つずつ克服する事ができたからだと思う。これは独学の時や秋に引きこもってしまった嫌なことから逃げていた自分では絶対できなかった。一人一人に親身に寄り添って勉強の計画を一緒に立てたり、勉強の質問などに答えてくれたりしたり、また、9月の時に僕が塾を辞めるという誤った判断をした時に止めてくださった先生のおかげだと思う。先生が「勉強は自分のダメなところに向き合う事」と言っていたように、僕は大学での生活の中で、継続して努力するのが苦手な事と、自分の嫌な物や、めんどくさい物に向き合わずに逃げてしまう事を克服するのがこれからの課題だと思う。と口では簡単に言えるけれど、今も体験記を書くのをめちゃめちゃ後回しにしてしまっていたので実際にこの課題を克服するのはとても難しいだろう。でも4年間かけて少しずつ頑張ります。
最後に、柳原先生、一年間本当にお世話になりました。ありがとうございました!

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2020 年度受験をふりかえって(その1)

           2020年度受験をふりかえって

大阪大学医学部医学科合格(進学先)    O・Y(城北高卒)
(ほか合格校;慶應大(医)、日本医科大(医)、慈恵医大(1次合格)、順天堂大(医)(1次合格))

この塾には中3の3月から高1の7月まで入っていて、遠かったのでやめました。その後浪人時に1年間通いました。365日中340日は行ったと思います。(残りのうち20日は模試やSEGでの数学、5日は主に高3の3月分の遊び)塾に入ってない時期どう勉強してたかについてもかなり言及しています。他塾に関してはここで言及しときますが、自分には駿台の英語の授業はあまり意味がなく、SEGの数学は評判通りかなり良かったです。わかりづらいですが、目的に合わせて読んでもらえたら幸いです。最後に総括として伝えたいことを書いときます。
※人に合うものは違うので真似すべきじゃないです。振り返ると、英語をサボったりと良くないところがたくさんありました。常に最善を探していくのが受験勉強です。先生とよく相談して勉強を進めてください。

高校の時に比べ、中学は勉強時間が少なかったため、下のようにサボってるのがアピールされてますが、試験一週間前からはしっかりと勉強をし、提出物も全部出し、睡眠は毎日7時間以上はとっており、授業も全く寝ずに聞いてました。
勉強に本腰をいれた時期からは、僕の場合はyoutuberは冷静に考えるとつまらないし、無駄に時間が過ぎるだけだと自分に言い聞かせ、youtubeを見ないようにしたら、勉強時間を増やせました。(ゲームは楽しいけど、長時間はやってられず、飽きてしまうタイプだった。)

【城北中学校・高校時代】
小学生の頃から算数、理科は強く、国語はできなかった。
中学受験は開成 、海城、城北を受け、城北だけ受かり進学。
中学は部活はサッカーで1年時は週5日(平日1日、日曜休み)
2、3年時は週6日 (平日1日休み)
高校は部活はソフトテニスで部活は週5日(平日2日休み)
【中1】
2学期の実力テストで5位以内ならスマホをかってもらう約束で必死に勉強をし4位
携帯を買ってもらってからは週5の部活終わってはyoutubeを見て、部活ない日も遊んだり、携帯いじったり。睡眠は8時間くらいはして授業は寝ずに聞いてた。
【中2】
勉強しなさすぎで、中1の貯金がなくなっていく、成績は降下
中3から315人中45人の選抜クラスがあり、それに入らないと親に怒られるという状況でした。その選考基準が中2の成績。一学期の実力は85位。
ヤバイとは思ったけど、結局夏もあまりやらず、徹夜で受けた2回目の実力で 前回215位の国語がまさかの1位で、全体は6位でした。奇跡がおきた。
三学期はしっかりやって19位
選抜入れた。そして約束のps4を手にいれる。
【中3高1】
高1には選抜クラスが2つになるため、基準が甘くなったためサボった。
ぼくが中3の冬に、自分の兄がこの塾で学んで、医学部に入ったので、親に行けと言われ、この塾に来ました。学校から遠く、部活がある日はいけなかったので、週2回ぐらい行ってました。やる気のなかった僕のやる気を奮い立たせようとしたのか、僕に東大医学部を目指そうと先生は言ってきたが、まだ受験のことはそんなに考えてなかった。そろそろ英語頑張るかと思い、とりあえず目の前の受験で使うだろう教科の中間テストの勉強はいつもよりやるようになりました。塾では数学の予習をやってはいましたが、全然進まなかった。英語ができないから、しっかりとやろうとはしてたのですが、あまり進まず。あんまりこれないし、遠いから夏頃に塾をやめました。また、高1夏は勉強しようと思ってたが、部活とyoutubeに費やしてしまった。このときぐらいから慶応医学部に行きたいなとは思いました。高1の模試では数学、国語、英語のみであり、数学のおかげで慶応の理工はA判、慶応医学部はE判だったと思います。それでも、それほどやる気はおきない。
【高1冬~高2】
高1の冬から駿台の英語を受けていた。このときぐらいから学校の自習室も解放され毎日勉強をしはじめた。勉強にかなり力をいれたのは高2の夏から 部活の練習は出ず、楽しい合宿だけいった。
あとは家族旅行5日間、それ以外は基本的に駿台の自習室にこもっていた。50日で300時間はやりました。10月前半には部活をやめ、放課後学校で4時間勉強し、家に帰ってできたら1時間勉強(家ではサボりぎみ)8時間睡眠ぐらい。高2の最後の実力テストは理系で1番になれましたが、ほんとの実力は学校では5番ぐらいだったと思います。
【高3春】
理科は高3前の春休みから名門の森や化学の新演習をとき始めました。部活をやっている人よりは早いスタートをきれて、最初のよかった駿台模試では医科歯科C判定ぐらいでした。悪いときはどの医学部もE判でした。数学と理科は自信はあったのですが、英語はイディオムとかは他の人より覚えてるはずなのに負けるという状況がずっと続きました。夏はサボる日も数日ありましたが、50日で500時間勉強しました。
9月は行事があり、やる気出ず、学校の授業抜いて月の勉強時間は90時間
10月以降は150時間(1日5時間)でした。
10月最後に防衛医科大学の試験があり、マーク式はまあまあ、記述式はできたかなと思いました。マーク式がある程度とれてないと、記述が採点してもらえないので、マーク式が受かってれば合格だなと思ってました。(問題は回収されるので自己採点ができない。)11月後半の発表で不合格でした。(1年後解答を見たら、国語が10点中3点とかしかとれてない)それでも、そんなに気にせず勉強してました。
模試はだいたい物理で失敗して医科歯科はD判、慶医はE判だと思います。
【センター前】
センター国語の練習では120点が通常で、140点の壁を越えることはほとんどなく、センター国語が取れなければ、センター配点低いところを受けざるを得ない、でも、取るに越したことはないという状況で、国語と社会だけセンター勉強を朝にやり、後はひたすら2次の勉強をしてました。(慶應医学部はセンター関係ないため。)
センター自己採点は地理83 国語151(かなり簡単な年)英語筆記185 リスニング38 数学1・A98 数学2・B100 物理100 化学84
国語が簡単である程度とれて良かったですが、化学が難しいこと考えすぎて事故りました。
千葉と医科歯科で迷ったのですが、医科歯科の過去問が結構とれたので医科歯科に出願しました。練習で慶応理工を受け、試験場できたと思ってたのですが、自己採点は悪かった。その後の慶応医学部は数学できず、英語も解き終わらず落ちたのを確信しました。その後理工の発表は実際補欠であり、回ってきませんでした。後期の千葉も足切り(800点)にひっかかり、残るは前期のみとなりました。これらを踏まえて、落ちたら浪人だけど受かってくれと期待をしながら医科歯科受けました。

医科歯科は1科目目の数学ができず、知り合いと話して簡単になったはずなのに解けなかったわとなり、次の理科で挽回するのかー。でも、挽回しようと思って点数上がるもんなのかと思い、挽回しようと思わないでいいと言い聞かせ、試験スタート 。
ムズそうな問題を読まずにとばしてたら、かなりとばして1周目が終わり、その後あまり点数を伸ばせず。
英語は一番苦手だし、やることやるしかないなって思い終える。先ほどの友達と帰って、これ確実に落ちたな、こんなんで受かる大学じゃねーもんと話した。医科歯科は浪人1年で勉強したものを反映しやすい問題ではないから、その時阪医を目指そうと思った。
【受験後、こっからこの塾に通います。】
結果はわかってないが、3日後からこの塾に電話をかけて行きました。基礎の授業を受ける時間はもったいないと思っていたので、落ちたら授業のないこの塾に行こうといのは受験前から考えてました。そっからは可能な限り塾に行きました。先生が休みの日にも行って、好きな理科や数学をやったり、塾生と話したりしました。時にはまんがを読んでしまった日もありました笑
入ってからは、英語は解釈教室、数学はやさしい理系数学、理科は高3時使ってたものの復習を進めた。全ての分野が復習できたわけではない、磨きがかかってないなと思ってる状態で河合の全統模試を5月中旬に受けました。その後は磨く勉強という意味で実践勉強です。5月中旬から理科と数学は過去問を北海道、名古屋、東北、(数学は九州も)をやりました。詳しくは先生に聞いてほしいのですが、頭が働きにくい入試本番で使える解き方をその時から練習してました。
理科はこのときから時間を短くしても高得点が取れる感じでした。数学は理科ほどがっちりしてる感じはなく、典型問題は計算問題or思い出す問題、他は場当たり的にこうかなーと当てはめる感じで理科ほどはしっかりしてない。(小学校の頃公文で算数に通ってましたが、計算力はなく、文字の展開や計算は間違えるので、何回も確認して答えを合わせにいくのは高3の2学期くらいからやってました。これは高2の夏から最後まで通ってた数学の塾SEGの青木先生の指導方針でした。)
毎回過去問をやるごとに各大問にどのくらいの時間がかかったのかの時間経過を先生に話し、解くべき問題だったか、そうでなかったかなどの反省点を話し合いました。

6月上旬のレベルの高い駿台全国模試では、理科は良い、数学は練習不足もありかなり低い、英語は英作以外はまあOKという感じでした。
毎日理科、数学の過去問を解くと勉強時間がかなり稼げるので、(肩こりとかはありますが)楽だなーという感じでした。英語は好きじゃないのでサボり気味でした。阪大の過去問は理科、数学ともに8月ぐらいから解いてたと思います。理科は最初は自分にあってないなーという感じでしたが、だんだん慣れてきた。(化学は理論化学がきつくて、すぐ飛ばしたりして、簡単な有機の答えをほぼ出す、物理は簡単な問題が多くそれらを解いてそれなりに時間がかかる。その後化学戻って…みたいな感じで2周して、物理の熱で大気圧を忘れるなどの間違えを高得点という感じでした。しかし、化学で最初に大きく飛ばすのは本番で使えるやり方なのかの不安はありました。)
阪大数学は問題集でやったことある問題などもあり、自分の苦手な分野(確率、断面とか考える体積など)でなければある程度解けてたと思います。
阪大の模試は夏にはないので、8月中旬に東北医、8月下旬に京医の模試を受けました。
東北医学部は英語以外は良かったです。その後の気の緩みはありませんでした。
京都医学部の模試は化学は良い、物理は良くない、数学は良い、英語は自分が得意な英訳とかだから他の模試とかよりは偏差値をとれる、みたいな感じでした。C判定でした。先生から志望校を京大にする?とも言われましたが、その時点で100~200番の間に入っていて、定員外だったため、医学の勉強がしたく、2浪はしたくなかったので、より受かりやすい大阪で行きますと言いました。(現役時の受験結果から、本番力が出せないタイプだと周りから思われ、自分も粗い勉強だったしそうなのもしょうがないかなとは思ってましたが、現役時よりは志望校を下げたくなかったので大阪です。)
【浪人夏以降】
9月10月11月も旧帝の過去問をといてました。国語の評論の勉強を9月から、古文、漢文、地理は11月から一応始めました。他の教科が楽しく、あまり気が乗らずたまにぐらいでした。地理は現役時しっかりやってたので、電車内で参考書読むくらいで塾ではやってない。10月末の防衛医大の2週間前からは対策をよくやって、試験はまあ受かっただろうとはなりました。その1週間後に阪大オープン、実践の医学部が2日連続で2個の模試があり、数学、理科はできたが、英作が点がひどいという感じでした。(結局、オープンは数学が簡単めで差がつかず、全教科で80~90番、実戦は数学はオープンより難しいが、点数とれて全教科で19位という結果でした。)
11月末の河合のセンタープレはあまり準備ができてなくて900点満点で760点ぐらいだと思います。去年のセンタープレは800点ぐらいだったので、甘く見てたと反省しそっからは避ける自分を抑えて、やや頻度高くやりました。(やっぱり数学理科の2次対策の方が楽しいし、センター直前にセンターだけやりまくれば大丈夫だろと思い、センター国語毎日やることはできない。)
地理はバス内で去年解いた15回分くらいを(直近の本試10年、追試5年)時間はからず、もう一回白紙の状態から解き直しました。(電車内で英単語とかがはかどらない人はこれはかなり時間効率良い、◯×つけるぐらいで、手を動かせるから。)
センター前はやることが多い、塾までの通学時間往復2時間は無駄だが、塾に行かないと勉強やる気はおきないという感じで12月からは親に無理を言って、西荻窪で一人暮らしをはじめました。朝9時30分に行って、夜も9時30分に帰って、飯を食べ、単語をやったりして眠くなるまで勉強をして0時30分ぐらいに寝てました。睡眠とらないときつく、9時間ぐらい寝てました。
12月はセンター対策(国語は過去問を2日に1回やろうとはしてた、地理は過去問やり直しの点数が良かったのでさぼる、英語はセンター対策そんないらない、理科はやったことない年度の過去問を時間短くして高得点とれるまで練習、数学は予備校のセンター問題集をやるが満点がとれないし、時間が短くならない、という感じでした。)
私大(日本医科、順天堂、慈恵)の過去問を全ての教科解きました。全教科4年分くらいはやり、慣れました。
そんな感じで12月末に慶医の英語をやり、英単語の読み取り間違い、cluelessnessは無知という意味なのだが、cruel(残酷な)の派生語だと思うミスをした。先生との相談の結果、英単語はサボってたから、そういうのも間違える、あとは語源をもっと意識すれば間違いを防げるとなり、一応言われたことをやりました。(そっからは単語の音声をご飯食べてるときに聞くなどをし、入試までしっかり勉強しました。たぶん効果あった)
1月7日くらいからは私大の過去問をストップして、センター勉強ばかりしました。
センター当日は地理易化、国語、特に古漢がかなり易化、英語は最後まで悩んだのが1つあるくらいだと思い、結構できたはずだ、よしと思ってました。(もちろん採点はしてません。)2日目は数学1・Aで大きな勘違い(分母が分数の上の数だと思って、答えがおかしくて、条件に合わない)をして、3周目でやっと間違いに気づいたのもあり、データでしっかり考えられなかった問題がありました。2・Bは全部合ってるかなとは思いました。物理は知らないときついなー、こう考えればいいのかと腹をくくった問題が1つあってたが、過去問演習ではちゃんと合ってたので自信はあった。その後の化学も特に問題なしという感じでした。

自己採点は地理85国語171英語筆記189リスニング40 1・A 90 2・B 96
物理95 化学100 の900点換算で820.2点でした。 数学とかリスニングとか突っ込みどころはありますが、国語が良くて良かったです。
前期は大阪、後期は千葉でいくことにしました。阪大はセンター対2次が1対3なので、油断はしなかったのですが、そっからはなぜかあんまりやる気が出ず、1週間ぐらいしっかりと集中して勉強するということができませんでした。 塾にはもちろん行って勉強はしてましたが。
やっとエンジンがかかったと思ったら1月31日から一週間ほど風邪を引いてしまいました。今まで解いたものの復習は頭が回らず捗らないので、新しい過去問を解きました。あまり復習のできてないそんな状態で日医、順天堂、慈恵を受けました。体調は試験にはそんな響かなかったかなとは思ってます。日医と順天はある程度できていて、受かってるだろうとはなりました。慈恵は化学で時間を食って点数が取れない最悪のことを起こしてしまい、理科は失敗、数学はかなりできた、英語は超難化、設問が難しいよ、できないという感じでした。結果、一次試験は全て通ってました。日医の2次は正規合格なのを慶応の試験の前にわかり、とりあえず大学には行けるとなりました。

慶医は理科ができて、数学も最終問題の答えをやったことがあって覚えててできた、英語は時間は足りて全部埋めれたという感じでした。数学は計算がめんどくさいところは結局あってなく、簡単で時間をかけずできなかったのを落としてまい、判断難しいところではあるが、もっととれたねという話にはなりました。去年より易化ではあるが、自己採点は1次試験の去年の合格最低点よりはかなり高かったため、1次は確実に通ってて、あとは正規の下のほうか、補欠の上の方じゃないと先生と話し合いました。阪大が第1志望なのだから、気持ちを阪大に切り替えるという話になりました。
慶医の2日後、つまり、大阪の4日前くらいに順天の発表があり、補欠にも入っておらず落ちてました。一般入試もとれたし、センター利用も出してたので、これは面接小論文落ちだという話になりました。その日は落ちたことが頭によぎるのに苛立ちながら勉強してました。
その次の日に慈恵の発表があり、補欠にも入らない不合格でした。元々筆記が低いし、面接はちょっと特殊だし、小論も得意ではないため、当然の結果ではあります。しかし、かなり精神的にやられました。そして次の日、寝るときの温度管理不足で、少し体調が悪くなったりしてだるく、直前に風邪を引く自分が嫌になり、先生にどう気持ちを保てばいいかなどを相談しながら一応勉強しました。
阪大試験の前々日には体調が悪く、午後3時頃には家に帰ってその日はずっと寝てました。体調は万全ではなかったのですが、前日の新幹線で数学の過去問を解き、ホテルで英語の長文一つ、理科を20分だけ、あとは、ここ1ヶ月で急にできなくなってきた数学をやりました。11時くらいには寝て次の日6時30分ぐらいに起きました。
【阪大試験当日】
試験当日は体調も回復しました。数学が簡単になり、しっかりでき、次の英語は良い感じに進められ、時間に余裕を持ちながら解き進められました。最後の理科は、初め、化学の大問1、2が全くできなかったのですが、今までの練習から考えても、この大問はかなり難しい、飛ばそう、この判断をした自分を信じろと言い聞かせ、その後を進めました。有機化学は簡単めで、そこで落ち着き、物理をあまりつまることなく進められました。そして、2周目で空いてるところを埋めることができ、点数が伸ばせたと思います。理科の自己採点では練習の時よりもミスは少なく、しっかりと解くべき問題を解いたという話に先生となりました。
過去問は理科の演習が一番大事だと先生はずっと言っていて、5月からずっとやってきたのが結果に出て良かったです。
面接は点数化はされてなく、重要視されてないと感じました。
その日に慶應が一次合格だったのがわかったので、そっから3日間ぐらい、主に小論文の勉強をしました。

【総括】
第一志望の大阪大学医学部に無事合格しました。慶應は補欠でした。(3月13日補欠合格)
この塾には去年の3月1日くらいからずっときて、340日ぐらいは来たと思います。先生には主に英語、国語の質問をし、過去問後の反省会は全教科先生としました。他の塾とは違い、先生は自分の全教科を把握していて、教科のバランスを考えた適切な指導をしてくれたと思います。イディオムや単語などの英語の知識はたくさんもっているのに成績が上がらない自分の弱点を的確に指摘し、こう進めれば絶対に伸びると断言してくれたのはためになりました。(学校の先生のアドバイスは、しょうがないところもありますが、全部やればいいという感じで、時間もないので、結局自分がこれかなと思ったのを不安ながら進めてしまった。)
英作文や小論文での添削では直接ここが良い、だめと指摘され、それを修正して次の課題も早くやりたいという気持ちにさせられました。(学校の先生は小論文の書く気をなくさせるようなことばかり言ってきて、最悪でした。)
先生は全教科教えられますが、文系教科が得意であり、僕の読解力では理解できない解説を様々な知識からわかりやすく説明してくれ、全ての教科に通ずる読解力を鍛えられたのは良かったです。
僕は物理は東大のチューターに、化学は農工大のチューターに聞いてました。どちらも週1以上の頻度で塾に来ていて、気楽に話せ、ためになりました。
数学は高校の時からお世話になってた学校の先生にLINEで聞いてました。
肩こりがひどい僕にシャー芯の硬さを変えようと提案してくれたり、線路沿いで電車の音が気になると言ったら、全ての窓を二重窓に変えてくれたり、様々な相談にのってくれた先生に感謝です。
学校の先生は生徒一人一人の勉強をずっと見ることはできないので、相談しても無駄だと思い、高校時代は自分が思ったままに勉強をして、最後の方成績は伸びませんでした。自分で考えることは大切なことではありますが、それを発信して確認してもらう相手が必要だとこの受験を通して感じました。その相手は受験に精通していて、しっかりと考えてくれる人である方がいいはずです。
何人もの生徒の全ての教科を一人で指導してきた人はこの塾の先生以外にはなかなかいません。
今塾にいる人はもっと質問をして、先生を困らせてあげてください。僕は自然に質問は平均1日1回以上はしてました。
塾に入ってなくて気になった人は一週間の体験があるのでぜひ来てみてください。
大手予備校とは違い受験生は少ないですが、休憩時には色んな面白い話が入ってきて楽しかったです。また、朝早く起きなくてすみ、睡眠を取らないと僕はだめなので、10時くらいにいって昼寝をせずに最後までやれば十分勉強できたのも良かったです。(浪人生には朝は早くくるが、たまにやる気がなくなったといい丸一日休む人もいたが、それをするよりは朝は少しゆっくりして、その代わり絶対に毎日来るというのが良いと思い、僕はそれを徹底しました。)
勉強のバランスが一人一人考えられていて、無駄が少なく自由のあるこの塾は最高の塾です。

( 開示結果に関する話を追加させていただきます。(令和2年 5月31日))
※僕の意見は一個人の見解なので、何百人もの生徒を見てきた先生を信頼してください。

大阪大学医学部医学科18位
総合 1719.05/2000 (85.9%)
数学500/500 (100%)
物理227.5/250 (91%)
化学162.5/250 (65%)
英語375/500 (75%)

センター 454.05/500(阪大医学部の配点)
国語171/200 地理85/100 数ⅠA 90/100 数llB 96/100 物理95/100 化学100/100
英語 筆記189/200 リスニング40/50

センターは自己採点とズレがなく、マークの仕方まで先生と議論した甲斐がありました。
2次試験の結果は、過去問練習をしている時も含めても最も力を出せた回でした。英語はそれほど得意でなく、化学は難しかったです。

【阪大本番の数学の実況】(長いです)
※ネタバレを少し含むので阪大理系数学2020を解きたい人は見ない方がいいかもです。
数学は大問5個150分の試験です。
1周目では、①(数Ⅲ微分・グラフ)、②(確率)はやることはわかるが計算は仕切らず、合わせて所要時間19分、③(証明問題)は5分考えて今はできなそうと思いやめる。④(積分)⑤(回転体の体積)は10分、9分ずつ進めてやめる。1周目は43分です。
そして、2周目。典型題の①は4分で答えを出しきる。②は答えがおかしく、2分でやめる。③は5分考えてわからないのでやめる。④の答えを出す、⑤を考える。(⑤はこの時点で考え方は難しくないが文字が多くて計算に時間がかかる&ミスが出やすいと判断できる問題です)で20分です。2周目終わって合計74分、答えを出したのは①と④です。
さあ次は3周目です、残り76分。(本番でのペースを知るために練習同様時刻を記載していたのですが、これ以降は大問ごとの時間経過は記載してません。)②で問題文の確率の定め方を大幅に間違って解釈しているのに気づき、動揺したので飛ばしました。次の③はもう一度図を書いたら、条件を図に反映するのを間違えていることに気づきました。そっからある程度のところまでは進んだのですが、うまくできません。そして⑤は他の解けてない問題を進めてからやろうと決めます。
次は4周目ですね。間違っていた解釈を直して②を解き進めます。幸い、間違って解き進めていたときに漸化式を使うというポイントがわかっていたので、説明は軽くして答えを優先して出しました。③はもう一度考え直し、解ける形に式を直せて、できました。この時点で残り40分ぐらいだと思います。見直しをしてない①④の問題文をもう一度読み、求めるものを間違ってないかのチェックをした後、⑤はやはり計算をするしかないと思い、⑤をやりました。途中で計算ミスをして直したりと大変だったのですが、特定の値を文字に入れたときに答えが合致したので、合ってると思いました。この時点で残り15分ぐらいだと思います。そして①から順番にチェック(計算できるところはもう一回する)していって、最後は②の確率で説明を補足しました。

1時限目の数学の試験が終わり、「時間長く感じたなあ、全部できたかも。ただし④の数値が今になるとおかしいような気がする。」と思いました。失敗はしてないので次の苦手な英語は時間だけ気をつけて、気負わずに受けれると思いました。それで英語が失敗せずに、理科も焦らずにできたのかもしれません。(ただし、先生は良くても悪くても前の教科の出来に引っ張られるなと普段から言ってました。)

長くなりましたが、何が言いたいかというと、こんだけ試験中につまづいても点数は取れるんです。
この方法の万能さを信用してください。また、この方法の練習をする時間が必要なので、早い段階から勉強を進める方が良いです。
※この方法を使わなくても受かる人はもちろんいると思いますが、それの大半は早めから有名進学塾に通い、演習を人一倍してきた人、進学校で優秀な成績を取り続けた人、演習時間の余裕があった浪人生(僕も1浪で、演習時間に余裕があったのは事実です)だと思います。その人たちもこの方法を使えばもっと点数が取れたと思います。

【最後に】
勉強以外にもすべき大切なことはたくさんあると思いますが、大学受験以降は大学受験ほど休みなしで長期的に努力をすることはないと思うので、勉強をしていれば誉められるこの良い時期に勉強をするのをオススメします!

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2019受験を振り返って(その4)

H・T(都立西高卒)   進学先:北里大学医学部医学科
他合格校:東京医科歯科大学看護学類、埼玉医大医学部医学科

 私はこの塾に10年通いました。自分でも怖いです。途中、河合塾にも通いましたが、とりあえず今年の受験にしぼって書きたいと思います。

 私が医学部を目指し始めたきっかけは、周りに勧められたからでした。元々文系科目が得意だったし、教師や声優になりたいと考えていましたが、(要約してしまえば)周りに反対され、それを説得することができず、医学部を目指すことになりました。医学部を目指す人は(口では違うことを言っていても)「親が医者だから」「安定していて儲かるから」という理由で志望している(もちろん、医師がかっこいいと思ったから、患者さんを一人でも多く救いたいから、ということはよく言われますが、それはたまたまドラマや本で医師がかっこよく演出されがちなだけで、他の職業でも唯一無二の存在として人を救うことは可能だし、自分の進路を意識し始めて数年で医師だけが魅力的だと自信を持ってその道を目指すことができるのは本当にすごいと思います。)。だから、皆が一様に疑いもなく医学部を目指すことに大変違和感を感じていました。もちろん、医師という職業の尊さやキャリアが中断しがちな女性にとって魅力的な職業であることは十分理解していたのですが、それでもたった一度きりの人生なのに、「安定した職業」の中から将来の進路を決めることが、私にとってはとても難しかったです。だから自分が「女子だから手に職をつけるべき」という理由で医学部を目指すのは納得できなかったですし、絶対に受かりたいと自らの意志で思うこともできませんでした。自由に文系の道に進む友達が羨ましかった時期もありました。何度も先生や親と話したり、勉強中「自分はこれでいいのか。」と悩み、先生に同じ相談を何度もしました。懲りずに同じ悩みをぶつける私にむきあってくださったことに本当に感謝しています。
結局、私が心から医師を目指そうと思えたのは一浪目の途中からだと思います。(浪人中に親にはいろいろな面で迷惑をかけたので、申し訳ないという気持ちはあるけれど…。)

 私が受験生活で一番きつかったのは「忘れやすい」ということでした。何度同じところを復習しても忘れてしまい、そんな自分が嫌でしたし、周りは難しい問題に取り組んでいるのにいつまで基本的なことをやっているのだろう…としんどかったです。このことを塾で何度も先生に相談(愚痴?)しました。その度に先生はよく話を聞いて下さり、覚え方を工夫したり、理解することの大切さを教えて下さりました。自分があきらめそうになっても、解決方法を根気強く一緒に探して下さるので、気持ちを持ち直すことができました。

 勉強面でも大変お世話になりましたが、様々なことの相談に乗って頂けたらのは本当に助かりました。(良くも悪くも)塾に行くことで精神的にも安定していた部分もありました。

この塾の良いところは、様々な人や知識に出会えること、そして勉強がただの「受験勉強」で終わらないということだと思います。授業形式ではなく、能動的に勉強するため、自ら考え、理解して勉強することの大切さを学んできました。例えば、昔講師の方に「簡単に、『分かった』と言うな。」と怒られたことがあります。小学生の私にはその大切さがわかりませんでしたが、それをずっと覚えており、「わかった」とすぐに言って何となく理解した気にならないよう気をつけました。このような勉強に対する姿勢は進学後も活きてくると思います。

今年は国立を目指して勉強してきましたが、センターで失敗し、私立に懸けて受験しました。センターの結果や受験の途中でわかってくる私大の合否に一喜一憂している暇はなく、ただひたすら目の前の入試のために毎日勉強しました。毎日続く受験は精神力、体力の両方が削られ、気づいたらフラフラになっていて、自分でも驚きました。受験を通して誇れることはほぼありませんが、1,2,3月の受験期は、本当にもがいて勉強できたと思います。(思い出して泣きそうになるくらいに笑)

私は塾の医学部受験生の中で、出来る方ではありません。それでも3月の後期の入試まで欠かさず塾に来て、自分の出来なさを受け止めて復習を重ねた結果、合格できたと思います。何年も医師を目指し勉強する中で、自分の出来なさと向き合うことはとても大変なことです。それでも、不合格が続いても、そこから最大限学んで次に活かし、あきらめないことが次の一歩に繋がるのだと思います。

 この受験を通して、勉強は本人の意志が伴わなければいくら周りが背中を押しても意味がないと感じました。実際自分で医学部を意識して勉強し始めてからは、勉強しているときの感覚が違い、身につき方も違いました。

10年という歳月はとても長く、ここに書ききれないほど多くのことを学んできました。それらをうまく言葉で表現できないので、とても残念です。私がまだ小さかった頃に先輩方や講師の方におっしゃって頂いた言葉は今でも覚えています。私は他の生徒に比べてご迷惑をおかけすることも多かったと思います。特に、先生と先生のご家族にはただただ頭が下がる思いです。また、母には不安な思いをさせ、迷惑をかけてきてしまいました。それでも毎日お弁当を作って私を応援し続けてくれたことに本当に感謝しています。

今は、子どもと関わることと医師という仕事が両立できるような道を自分で見つけ、それを目指しています。本当に悩んで迷ってきた3年間でした。

私は今まで多くの方々に支えられてきました。
今回、それが合格という形で少しはお返しできたかな、と思います。

長い間、お世話になりました。本当に、本当に、ありがとうございました。

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2019受験を振り返って(その3)

M・Y(都立西高卒)   進学先:北海道大学医学部医学科


この塾に入塾する事を検討する際、まず多くの人が気になるのは、この塾の一番の特徴でもある、授業がないということだと思います。

僕は比較的、多くの予備校や塾に通ってきた方だと思うのですが、通う中で一番感じていた事は、授業を受ける忙しさ故に自分で考える事を放棄しがちになってしまう、ということでした。
勿論、授業を受けて自分なりに咀嚼し、それを活かす事が出来る人もいるとは思いますが、僕と同じような悩みを抱えながら予備校や塾に通っている人も少なくないのではないでしょうか。

そんな僕にとってこの嚮心塾はまさに最適な環境でありました。

授業がないこの塾では、何をすべきか、まずはそれを自分で考えて計画をたてる必要があります。さらに、大抵の場合その計画は自分のやりたい勉強ばかりに時間を割き、本当にやるべき事をないがしろにしていることが多いので(僕がそうでした)、指導経験豊富な塾長に修正してもらい、それを遂行する…。

最初の方は、今まで効率が悪いと思いこんでいた勉強を提示されたり、自分の考えの甘さを指摘されたりして、嫌々ながらやっていた僕でしたが、しっかりとこのプロセスを踏んで勉強することで着実に成績は伸びていきましたし、何より自分が今までかなり偏った考えで勉強をしていたという事実を認識できたのは、本当に貴重な経験でした。

最後になりましたが、塾長を始め、丁寧に質問対応に応じてくださった先生方、そして励ましあいながら一緒に勉強を頑張ってきた塾の友人達に心から感謝申しあげます。

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2019受験を振り返って(その2)

T・F( 神奈川県立元石川高3) 進学先:立教大学経済学部
他合格校:立教大学文学部、東洋大学経済学部、立教大学福祉学部(センター利用)、法政大学経済学部(センター利用)、専修大学経済学部(センター利用)

私は中学生の時、自分の将来について特になにも考えずに高校受験をした。電車に乗るのが嫌で朝起きるのが苦手だから自宅で一番近く偏差値もそれほど高くない公立高校に入学した。高校一年生になっても受験へのモチベーションは全くなく、アニメを見たりゲームをしているうちにあっという間に終わってしまった。高校二年生になる時にさすがにこのままだとやばいと思い、勉強嫌いな姉が嚮心塾に通っていたので気になって私も体験入塾した。体験期間の一番最初に参考書を渡された時に英語のSVOがなんで必要なのかという超初歩的な質問をした。高校受験の時は英文法なんて全く理解せず知っている英単語のゴリ押しでどうにかなってしまったからだ。そして柳原先生は真剣に答えてくれた(高校1年生の時に高校の先生に同じ質問をしたが蔑ろに扱われた)。そしてこの時にこの塾に入ろうと決めた。中学校の英文法から勉強し、いかに自分が基礎をわかっていなかったことに気づけた。

この塾には小学生から浪人生まで色んな人がいた。自分より遥かに頭の良い医学部や国公立受験生の先輩が多かったので「すげーなー。俺ももう少しだけ頑張ってみよ。」とよく刺激をもらった。寝坊して朝から塾に行けないことも度々あったが塾にいる間は集中して勉強し、分からない問題があったらすぐに先生に聞きに行った。家では全く勉強しないことが自分でもよく分かったので塾の行き帰りの電車に乗っている時間などでも勉強するようになり、少しずつ隙間の時間で勉強する習慣がついた。英単語や文法などの基礎の部分を覚える作業はもどかしく、覚えては忘れ覚えては忘れの繰り返しで時々嫌気がさした。だが模試や過去問で自分の点数が確実に上がっていることを実感できたのは本当に嬉しかった。しかしもっと先生に自分から質問・相談すべきだったことを受験シーズンの終盤になってすごく後悔した。先生はよく教室をウロウロして「何か困ったことはない?」と声をよくかけてくれた。私は分からない問題はすぐに先生に聞きに行ったが勉強のスケジュールの立て方とかこの教科が特に弱いからどうすればいいか、とかそういった類の質問はほとんど無理に自己解決してしまったり後に引き伸ばしてしまった。その結果センター試験の1週間前にセンター国語を急いで対策し始めたり、漢文のテキストを変えたりとバタバタする形になってしまった。
嚮心塾は予備校のように先生が講義して板書を取るスタイルではないしノートや課題の提出も無い。だけど自分にはこれが合っていたと思う。自分の弱い部分と向き合いながら効率よく勉強できたからだ。家族にはどこの大学にも受からないんじゃないかと思われていたし、正直自分もそう思っていたので浪人も考えていた。だけど自分が行きたい大学に受かって本当に良かった。第一志望の大学は補欠止まりという悔しい結果になってしまったけど、この結果を受け止めて大学でも頑張ろうと思う。こんなゴミみたいな自分に救いの手を差し伸べてくれた柳原先生には感謝の言葉しかありません。二年間本当にありがとうございました。

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2019受験を振り返って(その1)

R・M(都立西高卒)              進学先:青山学院大学(文)

合格した大学:青山学院大学(文)、学習院大学(文)、成蹊大学(文)、成城大学(文)、東京女子大学(文)、日本女子大学(文)


私が嚮心塾に入塾したのは2018年11月28日で、そこから本格的な受験勉強を始めました。
始めるのが遅いのではないか、ということは私自身が1番感じていたことです。

私は高校3年生の時、大学受験をしませんでした。というより私は自分の夢があって、それだけを考えて過ごしていたので、大学受験を全く考えていませんでした。
高校を卒業し、色々なことがあり、考えて、やはり大学受験をしようとなり、大手の予備校に通い始めたのです。
高校時代はテストのためだけに勉強をしていたので、受験のための勉強の知識などほとんどありませんでした。
行きたい大学なんて特にないし、ただどこか、私の高校の同級生が皆行くようなところに受かればいい、そんな気持ちでした。
そこで1年間私なりに精一杯やったのですが、結果はふるわず。
受かるだろうと塾のチューターさんに言われていたレベルの学校に合格できなかったのです。なぜかそれらと同じレベルの地方の大学には受かっていて、東京の大学に行きたかった私はその大学に行きませんでした。
なんでよりによって、この大学だったんだろう、同じレベルなら東京の大学だって受かったはずなのに、とその時は思っていました。

そして見かけは二浪目、私にとっては一浪目の春になっても勉強をする気がさらさら起きなくなってしまっていたのです。
参考書を見るだけでも嫌で、それを開いて解くなんてもってのほか。
5月くらいまでそんな日々を過ごしていました。あんなに休んだのは人生で初めてってくらい何にもしなかった。

嚮心塾を知ったのは、9月頃でした。
高校の時の同級生が、今通ってる塾がね、と話をしてくれたのです。
あの時その人からその話を聞いていなかったら、私は勉強にもう一度真剣に向き合い、色んな大学から合格をいただけるようなことにはならなかったと思います。
その頃まで私は、周りには勉強をしていると言いつつも実際はそこまで頑張っていませんでした。
毎日英単語と英文法と日本史のテキスト、あとは過去問をちょっと解く、みたいな。
自分でも大学受験をしたいのかさえ分からなかった。

それで11月に入って、決めるなら今しかない、ここで決めなかったらもう間に合わないと思い出しました。
その時、嚮心塾のことを思い出し、教えてくれた友達に連絡をし、柳原先生と話をし、体験をしてすぐに入塾しました。
それが11月28日のことです。
この嚮心塾で、柳原先生のもとで頑張れば、自分次第で間に合うかもしれない、と思うことができたのです。
そこから先生が提案してくださった学習プランで毎日勉強していきました。今年受験した大学の大半は、去年は受験しなかったところだったので、過去問も1からやりました。
国語の記述問題、英語の英作文などもやり方と対策を先生に教えていただいて、しっかりと準備をすることができました。
受験直前まで、試験での時間配分のことや気持ちの作り方など全てをサポートしていただきました。
試験期間中も、先生とお話をすることで、試験に向けての自分の気持ちを上手くつくれていたのだと思います。
こうして私は3ヶ月弱の嚮心塾での勉強を経て、無事に大学受験を終えることができ、こうした結果に繋げることができました。

勉強面だけでなく、精神面も最後の最後まで見ていただけたことが大きかったです。
先生が言ってくださったことをひたすら実践していき、最後まで先生を信じてやってきて、本当に良かったです。

私はこれから、自分のやりたいことに向かって進んでいくことができます。
大学生になることは私にとって、4年間という時間をいただける、という意味でものすごく大きなことです。
自分の夢は、大学で学ぶこととは何の接点もありません。大学生になったからといってその夢に繋がることもありません。
けれど、この経験は私の財産です。この2年間で感じたこと、考えたことをずっと忘れずにいたいです。
そう思えるようになったのは、最後まで頑張ることができる環境を作ってくれ、この結果に繋げてくれた嚮心塾と柳原先生のおかげです。
本当にありがとうございました。

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2018年度受験を振り返って(特別版)

特別版です。5年前に塾を卒業し、その後塾でも講師として生徒たちの心の支えになってくれていたK・S先生がこの3月で講師として2度めの卒塾をされます。そのK・S先生がとうとう、「受験を振り返って」を書いていただきました!(苦節5年…)しかも、9000字の大力作です。是非お読みいただければ嬉しいです!


慶應義塾大学文学部合格(進学)         K・S(目黒星美高3)
(肩書は受験生当時のものです。)

 わたしはたいへんよく部屋をちらかす。

 これを読んでくださっているあなたがいま想像したちらかった部屋に、あと三倍ものを増やし、さらにその三倍の紙ゴミを増やし、それらを適正な場所に片付けずにすべて床にぶちまけてほしい。おおよそそれがわたしの部屋です。

 そうなると、使ったものが時系列順に地層状になっている、のかと思いきや、なぜかいきなり小学生のときもらった手紙が最上層に転がっていたり、逆に昨日着た服が本の山の下から出土したりする。わたしは部屋の管理者としての意識が欠如しており、それを自然現象を見るようなきぶんで見ている。雨が降ったり地面が割れたりするのがしかたないのと同様に、わたしの部屋がちらかるのもしかたない、というきぶん。

 高校二年の春、はじめて嚮心塾に見学に来たとき、塾はたいへんよくちらかっていた。面談をしてくれる柳原先生の顔は半分本の山に埋もれていて、わたしが向かいに座ると、先生はわたし側の本だけをざっと横に押しのけた。押しのけられたぶんの本は元に戻されるでもなく、何日経ってもそのままだった。

 それでこの塾に入ろうと決めた。そして、二年ののち、第一志望だった慶應の文学部に合格することになる。



 合格からこの合格体験記を書き始めるまで、五年経ってしまった。そのうち後半の三年は嚮心塾で講師として働いていた。

 先生にときにせっつかれ、ときに本気でがっかりされつつも合格体験記を書かずに来た理由、というか言いわけはたくさんあるのだが、嚮心塾で受験生として過ごした時間があまりに濃密すぎた、ということが大きい。塾にいるあいだ、本当に膨大なことを感じ、考え、養っているという体感はあるのだが、いかんせん受験勉強が本業だから、それらの大半はできるかぎり保留状態で自分の中に置いておく。そうすると、受験が終わったあと、手元にはまだ言語化されていない思索のもとみたいなものだけが大量に残される。さて、受験期間は終わりましたよ、といって、受験勉強よりはるかに難しくはるかに広範な人生全体への宿題を渡され、塾を放り出される感じだ。

 受験を終えてしばらく、これが本当に手に余った。とくに「合格体験記」を書けといわれると、いや、すいません、嚮心塾で学んだことがあることだけはわかるんですけど、いまのわたしに総覧できる感じじゃないんです、となる。なにかを書くということはなにかを書かないということで、まだ自分のなかで消化しきっていないけれど確かにあることを、書かなかったためになかったことにしてしまいそうで怖かった。

 以上がこの合格体験記が五年のブランクを経ている言いわけである。



 この春、わたしは講師としても嚮心塾を離れることになり、気分としては二度目の卒塾になる。まとめてしまうこと、取りこぼしてしまうことをおそれる気持ちはそんなに変わらないものの、ようやくなにかしらを書き残す気になった。たぶん、これまでは講師として直接受験生たちに自分の受験体験を話せたけれど、それがもうできなくなることを惜しむ気持ちによるものだろう。なにかを書くことはなにかを書かないということで、それはとても怖いけれど、わたしがいつ死ぬかもわからないので、先生へのごくごくささやかな恩返しも含め、会えなくなる前に書けることだけでも残していきたいと思う。





 受験期間中はつねに自分のどうしようもなさに苦しめられた。

 受験は終わりのタイミングが決まっており、いつか結果がはっきり出ることがわかっている。そして、自分が努力する以外に結果を出す道はないともわかっているのに、日々の成果は分かりづらく、ともすれば毎日が惰性の中へ溶けていってしまう。わたしと同時期に塾に通っていた友人は、このことを「受験は死に似ている」と表現した。受験生であるあいだ、わたしたちはつねに一年しかない余命に追われつづける。人生が必ず死で締め括られるのと同様、受験生活はかならず合格か不合格のどちらかで

締め括られる。

 そう強く意識しているにもかかわらず、自分は決して自分の思うようには動かず、苦しむ。絶対にやったほうがいいとわかっているテキストがなぜか進まない。目の前のタスクでいっぱいいっぱいになってしまい、「勉強している」ということそれそのものに満足しそうになってしまう。苦手な分野(わたしはまとまった問題を解くのが好きで、見直しやこまごました文法事項が苦手だった)からつい遠ざかろうとしてしまう。サボっていることが自分でわかっているのにそれをなかなか直視できず、毎日の勉強記録をつけられなくなる。

 ようやく「よし、今日からは気合をいれなおしてがんばるぞ!」と一念発起した翌日、また手を抜き、ごまかし、逃避し始める自分への失望。勉強をしているとなんとなく、現状の「できない自分」から、どこかのタイミングで奇跡的に「できる自分」へと生まれ変わって合格する、ような錯覚にとらわれるが、そんなことは起こらない。ともするとサボり、一度覚えたことでもしばらく経てば抜け落ち、あんなにケアレスミスに気を付けようと誓ってもふたたび油断する、二月に受験会場に行かなければならないのは、他でもないそういうどうしようもない自分だ。そのことは、いくら過去問の点数をあげても変わらない。

 だから、わたしにとって受験生活は、つねにそういう自分と付き合い、くりかえし失望しつづけることだった。



 嚮心塾にいるとき、わたしはしばしば立って勉強したり、床に座って勉強したりした。立って勉強するのはどうしても眠たいとき、床に座るのは紙を大きく並べて日本史の年表やなんかを総覧したいとき、あるいは、本当に心が折れてしまって、泣いている顔を他の生徒に見せたくないとき。わたし以外の受験生も、数時間おきに座る席を変えたり、ギターを持ち込んだり、椅子の座面に立ったり、ブランコに乗りに行ったり、プラナリアを飼ったり、各々ちょっと度を過ぎるくらい自由に振る舞っていた。

 そういうとき、先生がわたしたちを見る目は、わたしがちらかった自分の部屋に向ける目に似ているような気がする。わたしの部屋がひとりでにちらかるように、あるいは雨が降るように、椅子の座面に立つやつは立つ、という距離感。先生はそういうとき、べつに咎めるでもなく、ふらっと理由を聞きに来る。「眠いんです」と答えると、なるほど、という感じで戻っていく。

 ごく自然な対応に聞こえるかもしれないが、わたしが先生以前に出会ってきた多くの教師は、そこで「いや、勉強はきちんと座ってしなさい」というばかりだった。そして、そういう教師の中に、「そもそもなぜ勉強は座ってしなければいけないのか」と立ち止まって考えたことのある人はほとんどいない。それでわたしはつねに教師に飢え渇いており、柳原先生の存在は新鮮な水のように思えた。

 先生は、わたしたちのすべてを理解し、コントロールするなど絶対に不可能であるということを、はなからわかっているらしい。(これも当たり前に聞こえるが、このことをわかっていない教師のいかに多かったことか)かといって、自然現象のようなわれわれに対し、先生があきらめているわけでは決してない。すべてを理解することはできないとわかった上で、「僕は椅子には立たないけれど、君は立つんだね」というごくごく小さな理解を蓄積していってくれる。また、いくらそういう小さな理解を重ねてもすべてを理解できたわけではないとわかっているから、理解しようとしつづけることをやめない。そしてその集積を、たえず生徒の受験勉強や、より根本的で個人的な問題の解決にまで役立てようとしてくれる。

 そういう先生のあり方が、当時のわたしにとって本当に快かった。でもそれは、なんでもかんでも許される、肯定してもらえることの快さではなく、誰にでもあてはめられるきまりごとでない、ひとりひとりに向けられた知性でもって付き合ってもらえるという快さだった。ただ自由にしていいというのではなく、先生はかならず、椅子に立つ理由を聞きに来る。ときに、椅子に立つ以上に突飛な眠気を克服する方法を新たな選択肢として差し出してくれさえする。

(これを読んで、「椅子に立つくらいうちでも認められますよ」と言ってくださる先生方、では、「高校に行きたくない」という生徒に対しても、同様に「椅子は座るものだ」というような固定された視座をただちに捨てることができますか。柳原先生がわたしにしてくれたのはまさにそういうことでし

た。)



 先生のそういう眼差しに晒されていると、次第に自分でも自分自身を自然現象のように眼差す視点を獲得する。自分さえ自分のすべてを理解しコントロールすることはできない、という感覚、そして、そこに立脚し、では、どうしていこうか、とあらためて問い直す感覚。

 前述の「どうしようもなさ」と付き合っていくとき、いちばん支えになったのがこの感覚だった。わたしは往々にしてサボり、慢心し、くじけてしまう、どうやらそれはそういうものらしい。そこであらためて、では、どうしていこうか、と考える。

 そこで出てくる具体的な対策はだいたい地味なもので、結局「早起きをする」「英語長文を読めるようになるために単語を覚える」「ケアレスミスをなくすために見直しをする」というめちゃめちゃに当たり前の結論にたどり着いたりするのだが、意外とそういうところのほうが自分で気が付くのは難しかった。わたしは先生に言われるまで、自分が解いた問題を上から下までざーっと眺めることを「見直し」だと思っていた。「集中がもたない」という生徒の相談が、「眼鏡の度があっていない」という結論で解決したこともある。そんなふうに、先生はわたしたちの問題に基礎も基礎から付き合い、気が遠くなるような細かな修正を重ねていく。

 そもそも「見直し」「暗記」とはなんであるか、ということを、はじめは先生の介助つきで共に疑ってみる。そのうち、ひとりでも疑うくせがついていく。すると今度はより抽象的に、「理解すること」「努力すること」「考えること」などを捉えなおそうと試みることができる。いちおう合格体験記らしいことを書いておくと、そういう考え方を経験できたことが、自分が第一志望に合格できたもっとも大きな要因であると思っている。

 失望しつづけ、疑いつづけ、修正をくりかえす。わたしもまたひとつのちらかった部屋であった。



 さて、「わたしたちがそもそも持っているどうしようもなさ」という問題に向き合うのはしんどいが、受験生として当事者でいるぶんにはまだ楽だった。より困難なのは、講師としていままさに自分の「どうしようもなさ」とぶつかっている生徒に話をするときだ。

 嚮心塾で講師として勤め始めたころ、先生に「もっと勉強の邪魔していいよ」と許可をもらい、わたしは嚮心塾では主に生徒にちょっかいを出すことを職務と思っていた。これは先生から見よう見まねで引き継いだもので、先生は勉強に関係のないことでも生徒にちょっかいを出してはコミュニケーションをはかり、よりよい勉強方法をサジェストしたり、あるいは信頼関係を築くのに役立てる。わたしはとくに勉強計画を立てるわけでもないのになぜかそのパートだけをこまごまと務めていた。そうすると、先生より立場が近いからか、ときどき受験生活に関する弱音を聞く。

「やる気が出ないんですけど、どうしたらいいですか」

 はじめのうちはこの質問に対し、①やる気が出ない原因を考え、②それに対する具体的な対処を考える、というケース対応的な答え方をし、それにときどき自分の体験談を挟む、というスタンスをとっていたが、それだけでは不十分だった。それで一度はやる気が戻ってきたとしても、そこまで間をおかずにあっけなく再び減退してしまう。またそもそも、本人がやる気が出ない原因を正確に理解できていることはごく少ない。というかまず、対処できるほど正確な原因があること自体が少ない。

 だから、どちらかというと「何度やる気がなくなってしまっても、再びやる気が戻ってくるのを信じて待ちつづける方法」や、「やる気のない日の乗り切り方」を生徒と一緒に考えることが多くなっていった。これを生徒に伝えなければいけないのは、なかなかしんどい。「もしやる気が戻ったとしても、またなくなるよ! でも、がんばろうね!」といわれても、受けとめづらいだろう。

 受験はつらい。やる気は何度でもいなくなるし、思ったよりも成果はわかりやすくない。自分だって同じような環境で受験をしているから、受験がつらいことは本当によくわかる。ただそれが「わたしにできたんだからあなたにもできるよ!」だとか、もっと悪ければ、「わたしもつらかったんだから、あなたもつらい思いをしないと!」とかいうメッセージになってしまわないよう、つねに気を払っていた。生徒ひとりひとりが違うように、わたしと生徒とも違う。

 できることなら、「こうすれば受験はつらくないよ!」というふうに教え、導きたい。でも受験はつらく、それでも、がんばりつづけなければいけないのだ。そう教えなければいけないことが、ときに本当にかなしくなった。これが、「人生はつらく、それでも生きつづけないといけない」というようなことを暗示しているように思えるときさえあった。

 受験生でいるときの孤独感を、ときどきひりひりと思い出す。柳原先生というすぐれた指導者を持ち、またわたしが床にくずおれる横で椅子の座面に立つ戦友とも呼ぶべき受験友だちを持ちながら、わたしは孤独だった。これは、結局受験会場に行くときにはひとりぼっちで、最後は誰にも助けてもらえない、自分で乗り越えるしかない、という実感によるものだった。

 ところが、生徒を受験本番に送り出すとき、これを凌ぐ孤独感に襲われておどろいた。本当にがんばってほしいのに、最後の最後はひとりぼっちで送り出すしかない。わたしが生徒の苦しみを代わりに背負うことはできないし、これまではできるかぎり言葉を尽くしてきたけれど、最後にはつきつめればただ「がんばれ」と言うしかできない。

 ひるがえって、わたしが孤独な受験生であったとき、柳原先生がどれほど深い孤独の中にいたのか、考える。当然どれほど考えてもそれがわかる日は来ない。

 そして、そのことが希望のように思える日が、いまのわたしにはある。





 ところで、「受験は死」ではなかった、というのが、大学生になったわたしの出した結論だった。

 先にも書いたが、受験直後、手の中に残ったもののあまりの膨大さ、そして不透明さに、わたしは打ちひしがれた。努力する経験もした、考え、疑う習慣もついた、だから受験勉強から解放されれば、もっと意義ある勉強や創作に打ち込める……と思って受験生活を乗り切ったのに、そううまくはいかなかった。

 考え、疑う習慣がついたのは、いいことばかりではない。つねに自分のしていることに懐疑的になるところまではまだいいが、わたしの場合はそのせいで他人に対して強い疎外感を抱え、ときどき塾に遊びに行っては泣くはめになった。これはわたしばかりの問題ではなく、卒業した生徒から同様の相談をよく受ける。塾では常時真剣に考えながらしゃべってよかったのに大学ではそれが許されなくて居づらいとか、浪人生活を終えて高校の時の友だちと再会したら、会話の内容に意味がないように思えてさみしかった、とか。私を含めたみんな、漠然と「もっと真剣に生きなければいけない」とつねに自分を責めたて、周囲への違和感を抱えつづけている。それなのに、わたしの場合、ありあまった危機感のようなものをなにに向ければいいのかわからず、ただ焦りの中に毎日を空費する期間が続いた。

 死後の世界だ、とわたしは思う。ひとつの目標に向かって努力しきったあと、それとひとつづきの世界がぱっと目の前に現れる。これまでは終わりがはっきりと見えていたけれど、今はそうではない、今度こそはるか遠い本物の「死」が終わりとして存在するばかりで、他にはなにもない。そうなったときに、何をもって自分を奮い立たせ、生命を空費しないように力を注ぐことができるのか。さいわい、というべきか、嚮心塾で過ごした時間で、いかに自分がすぐに怠け、逃避する生き物であるか、ということもよく学んでいる。それを引っぱって努力し続けることが、いかにしんどく、孤独なことであるかも。

 そんな中あらわれる受験後の世界が、どれほど果てしなく、残酷に見えることか。

 この世界が待ち構えているという一点だけで、受験は死とはまるきり違った。



 思い起こせば、最初からそれはわかっていたはずだ。

 塾に入ったころ、わたしの英語と日本史の偏差値は35ほどしかなく、早慶どころかMARCHを受けることさえ想像もしていなかった。勉強のモチベーションもそんなに高くなかったし、高校の留年を免れつつ入れる女子大に入ればいいかな、という気分でいた。もともとあまりステータスに興味がないからか、学歴がほしいと思ったことは一度もなかった。塾の合格実績欄を華やかにすることだけを考えれば放っておいたほうがよほどいいような、いわば「コスパの悪い」生徒だったと思う。実際、当時通って

いた高校の教師にはそのように見限られ、放っておかれているという体感があった。

 そのわたしに、先生は「確かに学歴ですべてを判断できると思い込むのは浅はかだ」と前置きした上で、それでも学歴があることでいかに生きていきやすくなるかを説得した。同じことを語っていても、学歴があるというだけで聞いてもらえることがある。「本当のこと」を見、語ろうとするなら、いくら君自身が学歴という価値基準それ自体を浅はかだと思うにしても、その価値基準を採用している人と接する時のために、説得力は身につけていたほうがいい、と。そのとおりだと思った。

 わたしははじめから、受験後の人生を生き抜くために先生に教わり、勉強をはじめ、大学を受けたのだった。

 受験本番直前、「このまま終わりが来なければいい」と強く思ったのをよく覚えている。わたしはクリアした参考書を机の上に山積みにしていた(片付けがへた)。その山がこのままどんどん高くなっていって、学力をどんどん上げて、塾だけで暮らしつづけられればいいと思った。それは受験の結果が出てしまうことをおそれたからでもあったし、それ以上に、受験というわかりやすい基準を失ったあとにも自分が生きていかなければいけない底恐ろしさを、うっすら感じとっていたからではなかったか。

 塾だけで生きていっていいわけがない。では、どのように生きていけばいいのか。



 受験後の生徒に、前述した「塾を卒業してからつらいんです」という類の相談をされると、わたしは笑って、「先生に苦情言いな!」と返すことにしている。

 努力し尽くし、疑い尽くす感覚が身体に残る、というのは、嚮心塾が卒業生に残すもっとも残酷な遺産であると思う。つねに自分の至らなさを噛みしめることになるし、またそれを他人に求めてはいけないとわかっていても、誰かこの感覚を分かち合える友人がほしい、とくらいは思ってしまう。疑うことそのものが寄る辺を奪っていくこともある。そりゃあ、つらいだろうし、まあ、それは先生のせいといえばせいだから、苦情を言えばいい。

 でも、裏を返せばそれは、自分は「どうしようもなさ」を抱えながらも、それに打ち克つために力を注いだ経験を持っている、ということに他ならない。卒塾してからも、何度も自分の怠惰さや、考えの貧困さや、優しくなさに絶望するだろう。そういうときに、塾で同様に自分に深く失望し疑うたび、しかし再び希望を見つけ出してきたことがどれほどの支えになるか、わたしはよく知っている。やる気は何度でもなくなり、でもそのたびにちゃんと戻ってきただろう。そのことを、君もよく知っているはずだ。

 そして、ひとりぼっちで試験に向かう生徒たちのうつくしい背中を、思い出す。



 塾を卒業して五年、成長したところも、ぜんぜんしていないところもある。自分のどうしようもなさにぶつかっては打ちひしがれていることはなにも変わらない。それでも生きつづけなければならないのだ、ということを、ときどき考える。とっくのむかしに受験を終えて目標を失い、いまだに人生の目標などという大それたことは語れないけれど、それでも。

 人は誰でもひとつ火を持っていて、それによって誰かをあたためたり、照らして導いたりすることができるとしよう。だいたいの火は家族を養ったり、好きな人を守ったりすることに用いられ、ときどき遠くまで光を放つ明るい火を持つ人もいる。だれにも見つけられないまま消えていく火もあるだろう。柳原先生という人の火はそこまで大きくも明るくもない。嚮心塾は今年受験生が受かりすぎてつぶれそうらしいし、このブログも内容の真剣さに対してあまりにアクセスが少ない。でも、先生はわたしたちをあたためるでも、照らすでもなく、芯から芯へためらいなく自分の火を分けてくれる人だった。

 先生に教わったことや、嚮心塾で学んだあとの人生を、重く、抱え難く感じることもある。苦情を言いたくなることもまあ、ある。でも、わたしの火は先生に分けてもらったものだ。それだけは、どれだけ孤独の底にいる日でも、胸を張って言える。

 生きていくことは果てしなく、怖い。たった一年の受験生活でさえときに終わりが来ることを忘れ、目の前の毎日に呑まれてしまうこともあったのに、この冗長な人生を何を目指して生きていけばいいのかわからない。それでも、ふと、わたしもこれから誰かに先生の火を分けることができるだろうか、と

考える。



 最後に、塾で生徒として出会ってくれたみなさんへ。

 わたしは本当に仕事をしない、教わるばっかりの先生だったと思います。本当に感謝しています。他者であるかなしみを、そして喜びをいちばん教えてくれたのはみなさんでした。決してお互いになることのできないひとりきりの存在として塾でかかわりあえたことを幸せに思っています。わたしには決して生きられない人生を生きてください。

 たくさんの思索のもとを手に塾を放り出されたあと、柳原先生のような人がいなくて絶望するかもしれません。でも、ごくまれではありますが、先生と似たようなエネルギーを放っている人はほかにもいます。火を灯して暮らしていればかならず出会えると思います。そういう人のあいだを星座のようにつないで生きていけば大丈夫です。元気でね。

 そして、先生。踏みつぶされて死ぬのを待つしかない弱い生きものだったわたしに人間のガワをかぶせ、戦うことを教え、紙の上にとどまらないことばを与え、人間世界に送り出してくださって本当にありがとうございました。苦しいときには、先生が苦しんでいることを思い出します。そうするとなんの解決にもならないのですが、ただしずかに、まだ死なないでいようと思えます。二度目の卒塾はさみしいですが、これからもそのように生き延びていこうと思っています。本当にお世話になりました。

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2018年度受験を振り返って(その7)

日本大学医学部医学科合格(進学先) N・M(明治学院高卒)

初めに、ここまでご指導して下さった、柳原先生、K先生、K・S先生、K・K先生、O先生、M先生、そして相談やアドバイスに乗ってくれたI先輩、M先輩、U先輩、I先輩、B先輩、T先輩、K先輩、そして同じ年としてとても刺激を受けた、Iさん本当にありがとうございました。
 自分は、最初医学部志望ではなく、全く違う学校を志望してこの塾に来たのですが、勝手に先生に医学部に変えられて、いつの間にか後に退けなくなって今に至るわけです。
現役が全落ちという結果に終わり、正直な話、ほぼ毎日医学部なんて受けていなければと幾度となく思いました。学校の友達にも医学部を受けると言ってしまい、本当に最悪でした。これもあってか、浪人生活のスタートは、立川のまんがパークで始まりました。2,3,4,5月とかなりの頻度でサボってしまい、先生に注意されました。今思えば、申し訳ないの一点につきます。5月に河合塾の模試があって、6月に結果が帰ってきてそれはもうひどい結果でした。でもこの月を境に、しっかり塾に行きました。それでもやる気のないのが抜けず、先生には本当にお世話になりました。この受験を通して僕が受験で大切だと思うことは、自分に向き合うこと、やる気のトリガーに出会うこと、そしてモチベーションを維持できる方法を知ることだと思います。自分の場合、お恥ずかしながら模試の悪い結果がトリガーで、モチベーションの維持はラーメン二郎でした。そのせいもあってか、体重が8kgも増えてしまいました。この中でも、自分に向き合うことはとても難しく、目を背けがちですが、そこに焦点を当てること、それが一番の受験の近道だと思います。

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2018年度受験を振り返って(その6)

昭和大学薬学部合格(進学先)       K・I (学芸大付属国際中等教育卒)

 僕は、高校卒業と同時に嚮心塾に入塾しました。僕は現役の時「全落ち」だったからです。今考えれば、当たり前だったのではないかと思います。高校時代は周りのことばかり気にして「あの子はこの塾に行っている。この子はこの問題集を解いている。それから、あの子は、、、」と、現役の時に一度も自分の立場、状況など考えたことはありませんでした。「大学受験なんてノリで行ける」と思っていた頃もありました。そして、受験直前に近づくにつれて両親の言葉が尖り始め、言っていることが理解できても、もうどうにもならなくなってしまいました。どうにもならなくなった原因は、受験を通じて一度も自分で自分と向き合わなかったからだと思います。自分の嫌いなこと、弱いことは無意識に自分自身で自分の目に見える範囲から遠ざけて隠し、いいところだけ過大評価し、常に自分を騙し続けていたからです。このことを両親は気づいていろいろと言ってくれていたのにもかかわらず、自分が自分で「自分と向き合う重要性」を理解していなかったため両親の助言を無視し続けている自分がいました。合格した今、改めて両親の助言がわかるようになって両親には本当に申し訳ないことをしていたと痛感しました。

 嚮心塾に入ってから塾長の柳原先生に楽観視している自分を徹底的に鍛えなおしてもらいました。自分の嫌いなこと、弱いことから逃げ出そうとする自分を何度も何度も向き合うように指導してくださいました。柳原先生は僕の弱点の核をあまりにも的確に指摘してくるので苛立ちを覚えることもありました。それでも、ここまで親身になってはっきりと言ってくれる人は今までいませんでした。だから、どんなことを言われてもどんなに辛くても柳原先生についていこうと決めました。今まで逃げてきたことに立ち向かうことは想像していたよりも辛かったですが、それでも諦めずに嚮心塾に毎日通い続けました。
 そしてある日、自分と向き合うことの意味が少し理解できたときに、初めて自分で自分の愚かさに気づき心から悔しいと思いました。「もっと早く気づければ、、、」それだけが頭の中で何度も再生されていました。その日を境に、自分の愚かさのせいで失った時間を取り戻すために手帳に自分がした質問とその答え以外に他の人がした質問とその答えも書き残し、柳原先生からあふれる知識を自分のものにできるように心がけました。また、自分はあまり暗記が得意ではなく、覚えるために他の人の何十倍の練習をしてやっと追いつくという状況でした。そのため、何度も単語テストをすることになり柳原先生には本当に迷惑をかけてしまいましたが、このおかげで英単語は最後まで覚えることができました。最後までやりきることができたのは、先生が最後まで寄り添ってくれたからだと思います。
 この訓練は様々な教科で役に立ちました。覚えることがあっても途中で投げ出すことなく覚えられるまで何度も練習する。わからないことがあったらすぐ覚え直す。このような勉強の核となるようなことを柳原先生から吸収するとともに、自分自身に何が足りないのか。どうすればよりよくなるのか。ということをいつの間にか貪欲に探すようになっていました。
 これは柳原先生が僕の弱点を探し、書き換えるべき箇所を一緒に考えて、それを自分の力で改善していくという、普通の塾にはない凄さがあるからです。嚮心塾を見つけてくれた両親、一緒になって指導してくれた柳原先生にはとても感謝しています。本当にありがとうございました。

 最後に、大学受験合格は単なる通過点に過ぎないと思っています。僕はここから6年間の大学生活の中で、将来なりたい自分を目指すため、多くのライバルと競い合い、多くの困難や壁を突き進み勇往邁進していきたいと思います。浪人中の辛い日々や柳原先生から教わったことを忘れずにこれからも頑張っていきたいと思います。

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