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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

2021年度受験を振り返って(その5)

O・K(立教女学院高3) 
東京外国語大学言語文化学部ロシア・ウズベク・モンゴル学科合格(進学先)



私はこの4月から第一志望校の東京外国語大学に進学することが決まりました。今年受験した唯一の大学でした。

私は中学受験をして、大学附属の中高一貫校に通っていました。この学校は中学から英語教育に力を入れているのが売りで、英語の特別プログラムなどもたくさん用意されており、私はそこそこ楽しんで参加していました。とにかく英語の長文を読ませ、英語に慣れさせることが中心の授業だったため、文法はざっくりとしたことしか勉強していませんでしたが、試験は授業でやった英文を丸々暗記すればなんの問題もありませんでした。恥ずかしながら、私は"本質を理解しないままの丸暗記だけでどうにでもなる"試験で毎回高得点が取れるのをいいことに、(中学3年の時点で英検2級を取得していたのもありますが)中学時代は自分は英語がものすごく得意なんだろうと思い込んでいました。実際全くそんなことはなく、高校に上がると同時に、自分は別に英語ができるわけではなかったということを痛感しました。文法や語法の知識がきちんと身に付いていなかったためにしばしば躓くようになっていたからです。附属の大学には進学せず大学受験をする、と決めたものの、高校1年の間はろくに勉強をしていませんでした。英語は躓いたままでしたが、前より英語ができないな、という程度に考えてあまり気にしていませんでした。

受験勉強を始めたのは高校2年の4月からで、はじめは河合塾に通っていました。受験勉強とはいってもその時は英語だけで、一番上のクラスで受講していましたが、そもそも文法語法の基礎が全くといっていいほど身に付いていなかったため、入試問題をひたすら解くという授業は恐らく今の自分には意味がない、自分はそのレベルに達していない、と思い河合塾をやめました。そして高2の9月から、両親にすすめられた嚮心塾に通うことを決めました。入塾した時点ではもう外大を第一志望に決めていたため、先生と話し合って高2の冬までは配点の大きな英語と苦手な数学を中心に勉強することにしました。受験勉強全体を振り返ると、英語の勉強が7割ほどを占めていたと思います。まずは文法書を読んで英文法を徹底的に、そのあとは構文をつかむという勉強をしていましたが、これらの勉強を進めていくうちに、自分がいかに英語を感覚的に読んでいたかに気付き、精読の大切さを実感しました。自分の中途半端な英語力を過信せず、一から正しいやり方で英語の勉強をし直せたことは、私の受験勉強において大きな成功点だったと思っています。

英語に関しては高2の3月にはセンター試験の過去問を解いていたため、そこそこ学習が進んでいました。8月前半にはセンター試験の過去問を解き終えたので、それ以降はいろいろな国公立の過去問を解くことを始め、それと並行して英作文を10月に始めました。しかし国語と地歴の勉強を本格的に始めたのは高2の3月、公民に関してはゼロからの状態で高3の4月からだったので間に合うかどうかが少し心配でした。とはいえ、英語が最重要科目であり、自分の英語力の伸びに自信がなかったため、共通テスト前までは英語重視の勉強をしていました。共通テストが近くなると、先生と科目ごとの勉強のバランスについてもう一度話し合いました。

私は他に行きたい大学がなく、外大しか受験しない、ここに合格できなければ浪人する、と夏前には決めていましたが、後になってみると、これは苦しい決断でもあったと思います。二次試験直前は、高校の友人からの早稲田大学や慶應義塾大学合格の報告を聞くたび、友人の合格を嬉しく思うと同時に、自分は他大学を受験していないため力試しができず、そして(当たり前のことではありますが)一校も合格を貰えていないため自分に自信を持って本命に望むことができないという現実に改めて直面して、試験の結果よりもむしろ自分のこの決断は本当に正しかったのかということに悩むことがありました。そもそもこれからの人生というものは妥協の連続で、皆思い通りに行かないことがあっても多少の妥協をすることで前に進んでいるのではないか、なのに私はこんなにも頑固に一つのことに拘っていていいものなのか、という疑問も頭の中に湧いてきて、自分の英語力への自信のなさも相まって、心が折れそうにもなりました。自分の精神面の強さについて過信していたのかもしれないと感じましたが、自分の決断には責任を持たなければいけないし、私が決めた自分なりのやり方に対して私だけは疑問を抱いてはいけない、余計なことを考えて諦める瞬間が来ることだけはいけない、自分が今諦めたらこの一年は誰が肯定してくれるんだ、と思ってとても必死でした。

受験が終わった今考えると、第一志望しか受験しないというやり方のメリットは、直前期に多くの学校の過去問を解く必要がなく、本命の対策に時間をたっぷりかけられることです。私の場合は過去問15年分を2周(難しいと感じたものは3周以上)する時間がありました。一方でデメリットは先ほども述べた通り、自分の実力を試せないことや、試験慣れしないことなどがあると思います。特に試験慣れすることは重要で、入試本番は普段の実力通りを出すのはとても難しいことなので(先生にいつもそう言われていました)、本番の緊張感の中で自分が最大限の力を発揮するにはどうしたらいいのかをよく知るためには、本命以外にもいくつかの学校を受けるほうがいいのかもしれないと個人的には思いました。

二次試験直前には、先生に毎日過去問の記述と英作文の添削をしていただいていましたが、その際、試験中の時間の使い方と、そしてもう少し自分に自信を持つことを繰り返し指摘されました。時間の使い方に関しては、先生と相談して、どの問題にどれくらい時間をかけるべきかということや、どのような順番で解けばより高得点を狙えるかなどを話し合い、それは過去問を解いていく中で随分改善されました。ですが、今年は出題形式が変わったことなどから本番にそのまま使える時間配分の練習はできず、自信はあまりないまま当日を迎えました。二次試験当日は差をつけなければいけないはずの英語が思うようにいかず、回答用紙を提出した瞬間から不合格を覚悟していました。世界史は得意な範囲からの出題だったのもあり、満点近く取れたという自信がありましたが、共通テストでも英語が好成績ではなかったため、やはり英語での失敗はカバーできないだろうと思っていました。結果が全く期待できなかったので、先生と話し合い、落ちたつもりでいようということで、試験の2日後から塾で勉強していました。結局、自分の英語力が外大受験のレベルに届いていたのかどうかがよく分からないまま、消化不良で本番が終わってしまったことに少し悔しい気持ちでした。正直気は乗りませんでしたが、とにかく勉強しようと思い、夏にやっていた英文解釈の参考書の復習をしました。6月にはじめた時はひたすら難しかった参考書がスラスラすすんで、この時はじめて自分は英語の実力をしっかり固めることができていたことに気付きました。(もう少しはやくこれに気付いて自信を持てればよかったのですが、、)
努力してきたことが無駄にはならなかったと分かって本当に嬉しかったです。ありがたいことに、後日合格を貰うことができましたが、二次試験が終わってから発表までの9日間がなければ、私はずっと自信をつける機会を見つけられないままだったと思うので、この期間も勉強しようと声をかけてくださった柳原先生には本当に感謝しています。

長くなりましたが、現役で第一志望の国立大学に合格する、ということは、嚮心塾で指導を受けていなければきっと不可能だっただろうと思います。高校2年生の春の時点では外大のレベルには全く届いていなかったであろう私の英語の実力を、合格できるまでに伸ばしてくださった柳原先生には感謝しかありません。勉強の内容だけでなく、試験中の時間の使い方などの細かい部分も先生から的確なアドバイスをいただいたおかげでここまでくることができました。塾生の皆が自分の目標への強い信念を貫いている、嚮心塾という自分にとって最適な環境で勉強ができたことは、本当にラッキーなことだったと思っています。
そしてこれから大学受験を迎える方々、皆さん一人一人の努力が実を結ぶことを心からお祈りしています。今後は学び多き四年間にしたいと思っています。本当にありがとうございました。

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2021年度受験を振り返って(その4)

T・N(桐朋女子高3)
             武蔵大学社会学部合格(進学先)


 私は中学受験をして中高一貫校に入りました。中2からバドミントン部に入り充実していましたが、私は試合のレギュラーメンバーではなく同じ時期に部活に入った1つ下の後輩に負けることもあり高2になって、好きではなく上手くもないバドミントンを続けるか悩んだ結果、部活を辞めることにしました。本来ならこの時から受験勉強を始めれば良かったのですが、当時の私は専門学校に行こうと思っていたので進路のことを深く考えずに遊んでいました。高2の12月になって気づいたら周りのみんなが塾に通っていたので、焦って塾に行くことを決めました。それまでは学校の数学のテストで赤点をとらないようにするために週1で塾に行っていました。その塾は大学受験をするような塾ではなかったので、部活の友達が行っていた嚮心塾に行くことにしました。12月末に塾に行き、1月から入塾しました。

 私は専門学校に行くつもりだったので大学に関する知識もなく、志望校は決めませんでした。また、受験勉強を始めるのも遅かったので私立文系ということだけを決め、英語・国語・日本史が全てゼロからのスタートでした。先生には英語をとにかく集中してやるように言われ1月から8月まで英語しかやりませんでした。まず最初に英語の参考書を何周も読むことを教えられました。それまで勉強をしてこなかった私は「読む」という言葉を鵜呑みにして参考書の文字を目で追って、時間が経つだけで勉強をしている気になり満足していました。しかし、6月に学校で受けた英検の結果が返ってきた時に3月に受けた英検のスコアとほとんど変わっていませんでした。そのことを先生に相談したところ、自分は参考書を何周もして英文の日本語訳を覚えていただけだということが分かりました。その時はすでに6月だったので国語も日本史もゼロ、英語はやり方を間違えていたということで、もう間に合わないのではないかと思いました。夏休みに学校で進路に関しての面談があり、私の通っていた学校は半分以上が学校推薦やAO入試だったので担任にもAOを勧められました。私は志望校を明確には決めていなかったし、6月の時点で全て最初から勉強し直さなければいけないということでAOを受けるかどうか悩み、塾長に相談しました。先生は将来のことを考えたときにAOで受かる学校に行くか一般受験をするかでどちらが自分にとって良い選択になるのかを説明して下さいました。そして、AOは受けずに一般受験だけをすることに決めました。それからは英語の参考書をやり直し、英文は品詞分解して分からないところは徹底的に先生に聞くようにしました。先生に質問すると教科書の解説にはのっていない細かいところまで教えてもらえたり、解説とは違う考え方を知ることができるので1%でも疑問に思ったらすぐに聞くことが大事だと思います。国語は8月から、日本史は9月から始めました。過去問を1月からやり始めましたが、日本史は全然間に合っていなかったので過去問は解かずにひたすら一問一答を繰り返しました。しかし、段々できるようになってきた英語と国語に時間をかけ、日本史をにかける時間は減っていきました。日本史が出来なくても英語と国語を頑張れば受かるかもしれないと思い始めました。そんな状態で2月になり受験当日になりました。過去問を解ける時間が限られていたので受験校は4校に絞って受け、結果は全て不合格でした。自分の考えが甘かったということに気づかされました。その後、2校の中期と後期を受けることを決め後期でなんとか合格することが出来ました。

 勉強全体を通しては、始めは集中力がもたなかったこともありましたが、部活は毎日行ってもなかなか上手くならなかったけれど、勉強は今まで勉強していなかったということもあって正しい勉強法で続ければ身に付いているという実感が持てたので、ネガティブにならずに続けられました。ただ、もっと早く勉強を始めていればよかったという思いもあるので今後の就職や決断は、あとになって後悔しないように行動しようと思います。嚮心塾ではみんなが勉強しているという環境があり、自分の勉強へ対する考え方も変わりました。この塾に入って本当によかったです。1年間ありがとうございました。
 

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2021年度受験を振り返って(その3)

T・A(麻布高3)
 東京工業大学環境・社会理工学院合格(進学先)
 
                      (ほか合格校:東京理科大学理工学部)

まず、中学時代の話をすると、中高一貫校に入学し高校受験もなかったので中学3年間をロクに勉強せずに過ごし、高校にあがる時には、学校の授業中はおろかテストの時でさえ勉強をしていなかった。もちろん天才でもなんでもないわけで、学力はかなり低かった。この時、大手塾に入ろうと考えていたわけだが、それすらも厳しい学力であったので”応急処置”と考え、一時的にこの塾に通う事にした。(この塾は姉2人が通っていたため知っていた)

数ヶ月あと、”Gnoble”の入塾試験に臨んだ。(やはりこれまでの期間必死に勉強していたわけではない)

英語は中一から転々と色々な塾に通っていたおかげか、無事試験を通過できたが、数学は一番下のクラスにも入れないといった具合であった。その結果”応急処置”として通っていたこの塾に引き続き通う事になったのだ。(結果的にはこれが功を奏したのだが)

しかし、高校1年時にはこの入塾試験に落ちた事、学校内での模試の成績が悪い事などに対して全く危機感を持てず、”まだ大丈夫”といった気持ちが大きかった。このように考えているので、勉強に本腰をいれるわけでもなく、部活終わりにほんの少し勉強しに立ち寄るといった感じで過ごした。

高二になると周りが受験の話をし始める。模試も増えてきて実力が露わになり始める。そんな周りの話をやはり他人事のように捉えていた気がする。というのも、自身の勉強不足であるにも関わらず、無意識にそこには目をつぶり、周りのように大手塾に通っていないことが原因で実力がついていないのだと考えていたので、大手塾に入れば周りには自然と追いつき大学に進学できるだろうと楽観視していた。

そして、先生に駿台に行こうかと考えていることを明かした。その時展開した持論は次のようなものだった。この塾には小学生から浪人生まで幅広いの年齢、そして実力の生徒がいる。自分はそのような環境にいるから危機感が持てず勉強に本腰を入れることができないのだ。駿台に行けば、クラス分けされ同じような実力の生徒と切磋琢磨できる。だから駿台に行こうと思っていると。

これに対し、先生は”周りがいてこそのモチベーションならば、受験には落ちる”とおっしゃった。これは受験が終わった今考えると、結局受験の最後は自身の心の持ちようにも大きく左右されるだからだと思う。当時は妙に納得し、駿台にいくことをやめ、この塾で受験を迎えることを決心した。

いよいよ高校3年になるわけだが流石に受験校の話も先生と始める。東工大に行きたい学部はあったものの、東工大は自身の苦手教科であった数学がかなり難しいというイメージがあったので、京都大学を目指すことにした。(実力としては全く受かるようなものではなかったが、目標は高くということで)

この時期から、これまで勉強していた数学に加え(英語はgnobleで中心に勉強)、物理と化学の勉強も始めた。正直1年間で終わるのかという不信感があったことは否めないが、それまで数学や英語が物理と化学を始めるに値するような実力を持っていなかったので自業自得である。

特に高3の1年間、先生とは勉強の進め方について相談をした。

まず、参考書について。物理・化学の始める時期が遅いと考えていた上に、数学も新たな参考書を解き始め、焦りがあったのか”早く”参考書などを終わらせることを重視していた。もちろんこれは全くの間違いで、ほんの少しでもわからないところはしっかりと潰さないといけないのだが、はやる気持ちのせいか、少しわからない部分も目をつぶり、とにかく終わらせる事に焦点を当てていた。これは本質が見えていなかったと大きな反省点である。1つの参考書が終わると次のステップに進んでいいか相談に行くわけだが、先生は自分のその手を抜く癖を見抜いてか、”終わった”の言葉を信用せず、もう一度同じものを解くように勧めてきた。これが結果的にはかなり実力をつける上で役に立った。

また、英語について。英語は上記した通り、大手塾に通えば勝手に実力が伸びると思いgnobleの授業に参加していたわけだが、実際はなかなか英語力はつかなかった。これについても2年間gnobleに通って初めて相談した。それまで感覚的に英語に取り組んでいたわけだが、それが通用しなくなっていたのだ。先生に文法的な英語の捉え方といった的確なアドバイスをもらい、結果英語はかなり実力が上がり、受験当日では安心して受けられる科目にまでなった。

そのように勉強をしていた、12月ごろ受験校の迷いが出てきた。それまで、京都大学に進学しようと勉強を続け、模試も京都大学のものを受けていたが、いざ学部を選ぶとなると特に行きたい学部もないと気づいてしまった。このことと、いまだに東工大には興味のある学部があるということを相談した。直前にこのような相談をするものではないが、先生は丁寧に相談に乗ってくださり、もちろん受験的なものやそれぞれの大学の利点などまで話してくださった。これを経て、第一志望は東京工業大学になった。それまで、大学に行きたいといった強い気持ちはなかったが、このとき初めて、”大学に行きたい”という気持ちが生まれ、モチベーションにつながった。

直前期はもちろん過去問を解くわけだが、最も他塾と違い、そして最も役にたったと感じるのがこの時期である。まず、他塾は直前期は授業がないので、突然自分1人で過去問を解く事になる。しかし、この塾では、普段から自分で勉強するのが中心なので自然に過去問を解き始めることもできるし、そのやり方も迷うことがない。また、過去問をといて自分で採点をして、その採点でわからないことがあればメールのやり取りなどをせずに、その場で”全ての教科について”聞くことができる。的確なアドバイスをもらい、次の過去問を解く時にそれを生かす。同じ間違いを繰り返すときにはそれを特に意識して解く。そうして本番に向けて準備をする。

さらに、高2のときに持っていた勝手な偏見の”この塾ではモチベーションが続かない”ということは全くなかった。というのも、もちろん個々人で受験する大学を違えど、その人にとってのレベルのチャレンジであり、受験を迎える皆が集中していたおかげか、そこから自分も頑張ろうという気持ちが生まれ、最後まで実力を高めることができた。

そして迎えた東工大の試験日。1日目は数学と英語。英語は難なく解けたが、数学は大問5問中0完、書けるとこを部分点狙いで書いたといった感じで正直数学の配点が大きいこの入試では正直終わりを覚悟して、試験終わりに嚮心塾に寄った。そこで先生に”入試は2日目が勝負。あきらめないで頑張れ”と言われ、かなり気持ちが軽くなり、2日目の科目の準備をしっかりとすることができ、その結果2日目の物理と化学では大きな失敗を防ぐことができた。これが合格に結びついたと思う。

受験はもちろんのこと、勉強以外の事にも質問がしやすく、的確なアドバイスをもらい、その人にあった勉強をできるというのがこの塾の強みの一つだと思う。そのような場所を提供する柳原先生、そして何度も質問に答えてくださったチューターの皆さん、改めて本当にお世話になりました。

(ここからは、中学受験と大学受験について僕個人の観点から少し書いていこうかと思う。完全に独り言のようなものなので、無視してもらっても問題ない。

まず、なぜ僕が麻布を受けたのかは今となっては覚えていない。というより、中学受験自体を自分からしたいを言った覚えはない。むしろ中学受験をする小学生などこのような人が多いのではないだろうか。つまり、中学受験とは親の意向といったものが大きく反映される。受験校もそうだが、特に塾に関しては子供が決める余地はほとんどないように思う。自分がその塾に向いている、向いてないなどといったことは考えもせず、勉強すると決められた空間に行き、テストなどを受け、その結果で一喜一憂する。それのゴールが中学受験とはまったく意識せずに塾側から出された宿題や授業を受ける。今でもそうだが、僕は視野が狭いので、それが自分にとって正しい道なのか、もっというとそれが楽しいのかすらわからなかった。

僕の小学校のときの塾はまだその当時は小さく、コミュニティーとしてはかなり心地よい空間だった。それゆえに、”勉強”といったものは苦ではなく、必死に勉強したつもりもなく、受験を迎え、麻布中学という世間では名門と言われる学校に入った。(実際は…)

これに対し、大学受験において、他人(特に親)の意向というものが薄れ、それよりも自分の考えの影響力が大きいと考える。例えば、僕の場合、上に書いた中学受験の時の感覚は大学受験を迎えるにあたって大きな障壁となった。中学時代、高1、高2のなめきった態度というのは、中学受験のときと同じようになんとなく周りに合わせて勉強をして、なんとなく受かってしまったのが原因だと考える。受験というものは周りと同じようにペンを動かしていれば、乗り越えられるものだろうと。結局大学受験を迎えるような年齢だと、いろいろな感情や考え(特に勉強を阻むような類)が生まれてきて、中学受験より合格のハードルがぐんと上がると感じる。

そういった意味でも大学受験とは”自分自身との戦い”なのだろうと考えている。
(僕は単独で”自分自身との戦い”に勝ったのではなく,先生からの多くの自分では気づかない弱点の指摘など多くのサポートがあったことも忘れてはいけない)

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2021年度受験を振り返って(その2)

M・S(都立昭和高卒)   青山学院大学理工学部電気電子工学科合格(進学先)
                    ほか合格校:工学院大学建築学部

 私は小学校2年生から野球を始め、それから高校3年生までずっと野球中心の生活を送ってきました。中学校までは練習が土日のみだったので、そこそこ勉強との両立はできていました。しかし高校では、毎日野球。週一のオフの日も「自主練」という名の半強制練習をしていたので、入学時に半分より上だった成績は2年生になる時には下から数えてすぐの所まで落ちていました。
 
 そのまま2年の冬になり、いよいよまずいと塾を探しているときに、母から嚮心塾を教えてもらいました。初めこの塾は、毎年何人もの生徒を難関大学に合格させている敏腕の先生がやっていると聞いていたので、きっとつま先のとがった靴を履いている塾長に、私の野球中心の生活を否定され、やめるよう言われるんだろうと思っていました。しかしいざ話してみると、そんなことはなく、私の意志を尊重し、週一ながらその中でできることを模索してもらえました。そこらへんの大手塾ではしてもらえない対応だと思うので、とてもありがたかったです。
 塾へは週一回プラステスト前のオフを使って通っていました。しかし、大会前はテスト前でも練習があったり、私の通う高校は自称進学校の部類に入るので、課題が多く、答を写すのに時間を取られたりと、なかなか思うように勉強できていませんでした。ちなみにこの時、部活引退後からでも死ぬ気でやれば何とかなるだろうと思っていました。これぞまさに野球で培ってきた間違った根性論です。
 7月後半になりようやく部活動が終わり、そこからすぐに勉強をスタートしました。ネットでよく見る「半年で逆転合格!」なんて言葉を信じて勉強を進めていきましたが、4ヶ月後には浪人を覚悟していました。なので一個下の代に、今から差をつけるぞ!というモチベーションでガツガツ勉強していきました。結果はMARCH以上の大学5校を受けて、全落ちでした。
 現役を終えた段階で、まだやりきれていない参考書がたくさんあったので、浪人に対しては嫌悪感なくスムーズに勉強を始めることができました。しかし浪人開始から5ヶ月ほど経った頃、思ったほど参考書が進んでいなかったことと、残りの期間がさほど長くないことへの焦りからやる気がなくなってしまいました。そういう時は、先生に進捗状況を説明し、全体の勉強の量やバランス、やり方などの具体的なアドバイスをもらうことで、やる気を取り戻しました。
 その後9月頃に初めて模試を受け、改めて絶望することがありました。このままではまずいと先生に、今年から勉強していた化学をやめ、3教科の勉強時間を増やしたいと提案しました。しかしその時点で、ある程度時間をかけてきているので問題はやり方の方にあると言われました。実際、初めは知識0だったので、やればやるだけ力がついていましたが、そのときは無意識のうちに避けていたり、理解しているつもりになっているところを一つ一つ潰していく作業が必要な状態でした。
 当たり前のことだと感じると思いますが、今まで勉強してこなかった私にとっては盲点でしたし、指摘されなければずっと伸び悩んでいたと思います。このような勉強の当たり前を自分の当たり前にできたことは、今後の勉強を考えても大きいことだったと思います。
 その後は過去問を解いたり、模試を受ける中でだんだんと伸びている実感が湧いてきて、少し安心したのか11月頃には現役時代からの寝付きの悪さがようやく改善されました。
 試験直前は膨れ上がってくる不安感と、結果への期待感でなんだかふわふわしていました。今考えると浪人一年間でこのときが一番つらかったように感じます。なので長距離走のようにペースを徐々に上げるのではなく、初めからしっかりやっておいて良かったと思っています。
 私は第一志望には合格できませんでしたが、確実にレベルアップできましたし、物事を学ぶ上での基本姿勢を嚮心塾の一貫した指導の下で身につけられたと思います。これから自分の専門分野を深めていき、かつそれ以外の事にも学ぶ姿勢を貫いていけたらと思います。
 2年間ありがとうございました。

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2021年度受験を振り返って(その1)

A・M(成蹊高3)日本獣医生命科学大学獣医学部合格(進学先)
        (ほか合格校:麻布大学獣医学部、北里大学獣医学部、北里大学海洋生命学部)

一度受験を諦めたことがある。中2の時、一度は高校受験をしようと予備校に入ったが、半年ほどで諦めて辞めてしまった。私は年がら年中体調を崩しているので、何度も授業を休んでしまい、授業についていけず、宿題も全然こなしきれない状況に限界を感じてのことだった。そもそも学校と学校の宿題だけであっぷあっぷしている自分に受験は無理なの
ではないかと思った。でも、大学でどうしても学びたい学問があったため、大学受験は諦めたくなかった。体力的に予備校には通えないし、どうしたものかと頭を悩ませていた時に嚮心塾に出会った。
私は中高とずっと定期テストでそこそこ良い点数をとり、そこそこの成績をもらい、本当に恥ずかしいことだが、なんとなく自分は勉強ができる気でいた。授業は真面目に聞いていたし、テスト勉強もそれなりには頑張っていたと思う。ただ、それらは本当に定期テストのためだけの、表面的でその場限りの暗記で乗り切っていたもので、本質的には全く、悲しいことに本当に何一つ理解してはいなかった。ということを突きつけられたのが高3の4月頃、本格的に受験勉強を始めた時だった。

私が嚮心塾に通い始めたのは高2の秋。まず英語の文法書を読むこと、数学の教科書を読むことを勧められ、塾に行っては少しずつ読み進めていたが、全く身が入っていなかった。というのも、私の学校は教科書反対派(?)の先生が多く、中学生の頃から耳が腐るほど「教科書を読むことには何の意味もない」「教科書を読むのは時間の無駄」と聞かされていて、見事にそう信じていたからだ。自分で教科書を開いて確かめようともしなかった私自身にも呆れるが、とにかく色眼鏡で見ていたので、姿勢の上で教材をめくってはいたが、全く真剣に学びつつ読んでいたわけではなかった。
そんな中、冬になり、大きく体調を崩し、パタリと塾に行かなくなってしまった。この間学校も行っていなかったので、4-5ヶ月の間、ほぼ全く勉強をしていなかったことになる。とにかく毎日一日中何もせず、ただひたすら寝て過ごしていた。少し調子が良く、体を起こせる日は文法書や数学の教科書をパラパラしてみてはいたが、勉強時間の内には入らな
いレベルだった。だんだんと体を起こしている時間が長くなり、きちんと勉強をし始めたのは高2の3月半ばだった。もう絶対受験には間に合わないだろうと思っていた。
そうこうしてようやく真剣に勉強を始めて、それでやっと気づいた。教科書も、文法書も、驚くほど分かりやすかった。例えば英語だったら、そもそも品詞になにがあるかや、OとCの違いすら分かっていなかった私は、自分のレベルの低さに初めて気づき、愕然とした。数学も本当に基礎的なことが記されている教科書を読むだけでかなりの時間がかかっ
てしまった。それから今に至るまで、受験生活は勉強すればするほどに、自分の出来なさ加減をつきつけられる毎日だった。一つの参考書や問題集を終わらせ、次に進むたびに、できることに比べて、出来ないこと、分からないこと、覚えていないことがいかに膨大にあるかを見せつけられた。なにより、中高約5年間、これまで勉強時間として割いてきた
時間がほとんど何も生み出してはいなかったこともショックだった。新型コロナにより学校が休校だったので、横になりつつの時間も含めてではあるが、毎日12時間程度は勉強するようになった。この勉強時間が確保できたのも柳原先生のおかげだった。机に向かうことが勉強と思っていた私に、横になってでも出来ることはたくさんある、と何が出来るかを考えてくださったのだ。勉強ができない日や、ほとんど机に向かえない日があっても勉強を続けられたのは、その言葉の支えがあったからだ。また、たくさん本を貸していただけたこともとても有難かった。普段自分では読まない分野のものが多
かったので、勉強になりとても面白かったし、気分転換にもなった。

学校が再開してから勉強時間はまた減ってしまったが、秋までそうして勉強を進めていた。ところが、10月に入り、またガクンと体調を崩してしまう。詳しい説明は省くが、私は高3の夏で体調は完全に良くなると信じていたので、かなりショッキングな出来事だった。なぜそう信じていたかといえば、今後ずっと自分の体調と向き合い続けなくてはいけないかもしれない、という事実を直視するのが怖かったからだと思う。そして、体調が良くなったら勉強時間ももっととれるし、より集中できるだろうから挽回できるかもしれない!という希望にしがみつきたかったのかもしれない。この時、やっと初めて自分の体調のことと向き合い、真剣に考えるようになった。これまで、自分の体調と勉強のことについて誰かに相談した時、反応は大きく分けて2パターンだった。ひとつは、体調を理由にするんじゃない、なんとか食らいついて勉強するしかない、というもの。もうひとつは、体調が悪いのだったら仕方がない、無理をしない範囲でやるのがいい、というもの。アドバイスは本当に有難かったが、結局自分はどうすればいいのか、という結論には全くたどり着けずにいた。いくら気力で頑張ろうともどうしても他の受験生に比べ、机に向かう時間は少なくなってしまう。一方で、何もしないで寝ているだけでは大学に受かるはずもない。受験本番が刻一刻と近づく中、どんどん焦る気持ちが大きくなり、私は考えがまとまらないままに柳原先生に相談のメールを送った。

この時までは、上記のような反応だったらどうしよう…と思うと怖くてなかなか相談できずにいたのだ。その後いただいた返事はとても丁寧かつ分かりやすく、今後私がどうすればいいのかが一気に明確に見えてくるものだった。正直、体調のことを前提にした上で、ここまで実践に無理がなく、かつきちんと勉強ができるアドバイスをいただけるとは思っ
ていなかった。驚いたし、大げさでなく、本当に感動した。また、ただただ他の勉強の相談をした時のように、あたかも勉強方法の選択肢として当たり前に存在するかのような対応をしてくださったこともなんだかとても嬉しかった。嚮心塾に通っていて、最も心に残っている出来事である。

過去問をやっと解き始めてからが一番きつかったように思う。解くたびに自分があまりにできないことに失望し、受験勉強においても結局自分がどれ程、分かったつもりでいたのかを突きつけられた。このままでは絶対にどこにも受からない…と思いながら、先生からアドバイスをいただきつつ、勉強の穴を埋めていった。受かりっこないのに何で今私は勉強しているのだろう…と思ってしまうことも多々あった。去年までだったら何もしないで寝ているような体調の時に勉強を続けることはそれなりに辛かった。どうせ現役合格なんてできないのだし、今年の受験を諦めて寝てしまいたい、体を休めたいという思いが何度も頭をかすめた。一方で、何もできずに寝ている時もそれはそれで辛く、他の受験生はきっと今この瞬間も必死で勉強しているのに。全然まだ自分の実力は足りていないのに。と、常に焦りが心を占め、やはり受験から何度も逃げたくなった。しかし、先生が真っ直ぐに私の体調のことと向き合ってくださっていたこと。それから、今後もこの体とともに生きていくなら、体調を崩すたびに全てを諦めて休んでいるわけにはいかないという思いが背中を押し、情けないことだがなんとか勉強をし続けられた。

これから、大学に入っても、なかなか周りの人と同じような勉強時間をとり、机に向かって勉強することはおそらく難しいと思う。だが、そこで無理に周りの人と同じようにやろうとするのでも、体調が悪いからいいやと全てを諦めるのでもなく、その時の自分にできる最大限の形を探して、勉強をし続けたいと思う。

最後になりましたが、嚮心塾に通っていなかったら、志望校に合格することはもちろん、きっと大学受験をすることすら叶わなかったと思います。柳原先生には本当にお世話になりました。心の底から感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。

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2020年度受験を振り返って(その6)

日本社会事業大学社会福祉学部合格(進学先)   S・H(都大泉高3)

私は有名大学には一つも合格することができませんでしたが、とても明るい未来を想像しています。私が勉強についてどのような悩みを抱えてきたか、受験を終えての気持ちなどを伝えたいと思います。

私は中学生の頃から勉強をする習慣がないことに危機感を持ちつつ、なかなか変わることができない自分に苦しみ続けていました。部活や行事など、興味のあることには積極的に取り組みましたが、勉強が全てでは無いと考えていた私は、中高一貫校で高校受験がなかったこともあり、高3までにどうにかすればいい、と思っていた面もありました。両親も、私の強みを理解していたからか、成績について口出しをすることはありませんでした。自分なりに工夫して勉強をしようとしたことも何度もありますが、どれも三日坊主でした。

そして私はそのまま受験生になってしまいました。将来は福祉の分野で人の役に立ちたいと思い大学を探しました。第一志望は国公立大学にしましたが、偏差値が低くても福祉を専門的に学べる大学が近所にありました。このことは私にとって安心材料であると同時に、怠慢の原因にもなりました。成績が悪いことはもちろん気になりましたが、それ以上に、焦りや不安を抱えながらもなかなか勉強に取り組めない自分がとても嫌でした。この嫌な気持ちを抱えたまま受験を終えたくない、今こそ変わらなければいけない!という思いで塾を探し歩きました。勉強するということへのハードルが高くなっていた私でも頑張れそうな塾は、嚮心塾しかありませんでした。

嚮心塾はアットホームな雰囲気で、勉強のことはもちろん、生活リズムや人間関係のことなど、どんな些細な悩みでも一人ひとりの声をしっかりと聞いてくださるので、勉強嫌いな私でも塾を嫌いになることはなく、毎日通うことができました。基礎の基礎から勉強を始め、夏休みが終わった頃、自分のペースで少しずつ成長していることを嬉しく思う反面、このペースでは受験に間に合わないという焦りが再び現れました。しかし、その漠然とした不安を言葉にできず、塞ぎ込むようになりました。冬になる頃、不安はついに爆発し、先生と話しながら大泣きしてしまいました。それまでは先生に言われた通りに勉強をするだけで、どのように勉強したら良いか、自ら考えることができていませんでした。受け身の姿勢ではぐんと成長することはできないと理解しました。しかし、どうしたらいいのだろうと考えては脳内がグルグルになり、一皮剥けることができず苦しかったです。その後も頑張れる日と頑張れない日を繰り返しました。受験直前になっても、先生と話しては塾で泣き出すことが多く、他の塾生の皆さんに迷惑をかけたことは、本当に申し訳なく思います。そして気がつくと私の受験は終わっていました。

受験を終えても、私には大きな悩みが残りました。それは進学するか、浪人するか。合格したのは先ほど述べた近所の大学のみでした。総合大学で様々な人や学問に触れたいという気持ちもあったため、小さな専門的な大学への進学に迷いがありました。あと一年勉強すれば、国公立は難しくても、もう少し名の知れた総合大学に合格できるのではないかとも思いました。

私は本当にやりたいことは何かを考え直しました。そして、どこの大学に通うかということと、どんな大学生活を送るかということは、同じ問題ではないと気付きました。仮に私が総合大学に通ったとしても、主体的に学ぶことができなければ進路に迷ってしまうでしょう。それよりも、本来興味のある福祉を専門的に学びながら、他に興味を持ったことは自ら大学を飛び出して挑戦したいと思いました。受け身の姿勢ではなく、自ら学び成長したいと思ったのです。私は進学することで、受験期に乗り越えることのできなかった壁を乗り越えることを決めました。

嚮心塾には勉強が得意な人も苦手な人もいますが、分け隔てなく相談に乗ってくれます。勉強のことはもちろん、人生において大切なことをたくさん教えてくれる塾だと思います。そのため、どの大学に進学する人も、浪人する人も、その選択が自分の将来のためになると信じて進むことができます。自ら学ぶ姿勢を身につけ、充実した大学生活と輝かしい未来を掴むことで、塾への恩返しになればと思います。そして福祉の専門家として多くの人の役に立てるよう、頑張ります。読んでくださりありがとうございました。

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2020年度受験を振り返って(その5)

日本大学医学部医学科合格(進学先) Y・K(佼成学園高卒)

今回、大学受験を通して思ったことは、高校のときから入試のことを考え、早くから勉強していかないとかなり苦労するなと思いました。高3から始めると、とうてい受験勉強が間に合わないと思いました。ただ早くから勉強をしたとしても、何を勉強していかないといけないかを考えていかないと、自分の実力が上がっていかないということをこの塾に通う中で学びました。また、特に進学校でない人は、周りが勉強をしていないという環境であるので、なかなか勉強をしていくという習慣がないので、塾など周りが勉強するなどという環境でないと、モチベーションを維持していくことが難しいな、と自分の経験から思いました。この受験勉強で思ったのは、大学受験は本人の才能というよりも、自分がどれだけ努力したのか、そしてその努力の仕方がどれだけ今の自分に必要なものだったのかが重要なことだと思いました。

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2020年度受験を振り返って(その4)

慶應義塾大学文学部合格(進学先)  A・T(穎明館高卒)

 僕が、嚮心塾に入ったのは中2と、中高一貫生にしては、早い時期だったと思います。ただ、本格的に勉強を始めたのは、高2の秋冬。まず、その時期までを振り返ってみたいと思います。
 
 僕は、中学受験時代全くと言って良いほど、勉強というものをSAPIX での授業以外しませんでした。だから、クラスはいつも下の方でした。けれども、何だかんだで受かってしまったので、「勉強しなくてもどうにかなるもんだ」と、受験というものをナメていたと思います。
 そんな調子の僕は、高校受験もなかったこともあって中学・高校時代は部活や文化祭実行委員に熱中し(そこで得たものはたくさんありましたが)、休日はカラオケ・ボーリング・映画と勉強しませんでした。中2から塾に在籍こそしていましたが、行くのは月に数回。月謝を払うために行くという感じでした。もちろん、定期テストの対策もしなかったので、成績は学校でもいつも下の方でしたが、特に気にすることなく、遊び呆けてました。
 ただ、家が転勤族で、小4までに3年以上同じ場所に住み続けた事もなく、台湾に2年住んだり、高校でアメリカ・カナダにホームステイ行ったりと、いろんな人間と関わったり、多くの文化に触れたりする事が多かったのもあってか、世の中の様々なことに興味を示して、アンテナを張っていたと思います。

 そして、最後の文化祭がを終わった高2の9月。さすがの僕も重い腰を上げて勉強に取り組もうと思ったのですが、まず目の前にあるのは、それまでやってこなっかった中高時代の内容でした。遂に、ツケが回って来たのでした。さらに、僕を苦しめたのはそもそも勉強するということに慣れてないことでした。自分の勉強法もなければ、集中力もなかったので、高校の友人に追い付くことは難しく、彼らも本腰を入れ始めたので、差はなかなか縮まりませんでした。河合塾にも通ってましたが、当然1番下のクラス。自分の志望校を見据えた授業はされませんでした。
 そうして迎えた、高3。嚮心塾にいくペースも週に数回(これでは足りないのですが)になり、集中力が足りないので、場所を変えてみたりと、自分なりに工夫しながら勉強時間だけでも人並みになろうとしました。けれでも、偏差値こそ少し上がりましたが、志望校には程遠く、夏過ぎたあたりからは浪人が常に頭の中でチラついてました。そんなマインドの中迎えた、受験。やはり、結果は散々でした。

 高校を卒業して浪人生活が始まるわけですが、時間にルーズで自分に甘い性格の僕は、毎日のルーティンが簡単に崩されてしまいそうだったことと、刺激の多い環境があった方がいいと考え、河合塾の大学受験科(浪人コース)の早慶上文系コースに昼間は通いながら、嚮心塾に通うという生活を送ることにしました。この生活は、僕には合っていたように思います。どんなにやる気のない日でも、とりあえず朝から授業を聞かされれば、強引にも頭を勉強モードに切り替えることができる上、午後から場所を変えて勉強することにより、効率よく集中できたと思います。
 
 ただ、浪人生活中はやはり思い悩むこともありました。現役で行った連中の華々しく見える、キャンパスライフに苛立つこともありましたし、そもそも、何でわざわざ高い偏差値の大学に行かなければならないのか、学歴至上主義に疑問を抱いた事も度々ありました。でも、なにより自分自身がその学歴至上主義に飲み込まれて、難関大を目指そうとしてしまっているというアンビバレントな状況に陥った事もありました。これについての明確な答えは、受験が終わった今でもはっきりしていませんが、多分、プライド以外の何物でもなかったと思います。その、たかが個人のプライドを守るために浪人した自分は、つくづく、小せぇ人間だなと思います。でも、この1年間はその小せぇ人間をほんの少しだけ成長させてくれたと思います。
 特に成長したなと思える点は、世の中への興味関心が強くなったことにあると思います。それまではただ機械的に問題を解くために読んでいた、現代文や小論文、英語の長文も数をこなしていくのにつれ、その内容をより深く知りたいと思い、先生と話すことで知見を深めたり、1冊の本をじっくり読む時間はないと思ったので、興味が湧いたものについては、ネットで色んな記事を読んだりしました。その結果、現代文などについては、最初の数行を読んだだけで話の全体像を掴むことが出来るようになりました。
 もう1つ、浪人時代で得た成果を挙げるなら、自分自身の長所でもあり、最大の短所と言ってもいい、自分のアバウトさ、雑さ、に気づけたことです。これは受験生になる前から、親に言われていたことではありますが、人に言われたことがあまり響かない僕にとって、今後、死ぬまで付き合っていかなければならない自分の性格に、改めて自分で気づけたということは、浪人して得た最大のものではないかなと思います。

 ここまで、ダラダラと色々書いてきましたが、今年もそんなに良い入試ではありませんでした。GMARCH・関関同立を合わせて12回、早慶で4回も受けたわけですが、結果は補欠繰り上げ合格の1つの身で、それ以外は全滅。その唯一受かったのが第一志望の大学だったので、結果オーライなのですが、ほんとうに自分は運のいい奴だと思います。GMARCHあたりは過去問の感触も悪くなかったので、「どっか1つくらい受かるだろう」と、高を括っていたのでしょう。ここでも、自分の雑さから来る詰めの甘さが響いたんだと思います。補欠繰り上げを待った2週間は、まだ19ではありますが、人生で1番長く感じた2週間でした。自分の雑さに改めてお灸を据えられました。
 でも、あえて自分の褒められるべき点を挙げるとすれば、自分を疑わなかったことです。入試を進めていく中で、不合格の通知が来るわけですが、必ず受かると思い続けることができたことが、この結果にこぎつけることに繋がったのだと思います。

 受験というのは、なんなのでしょうか。将来、飯を食うのに困らないため。家族を幸せにするため。自分の夢を実現するため。まあ、色々あるんでしょうが、僕は将来の夢みたいなものもなければ、未来の自分のため、なんて言うたいそれた物では、自身の受験する大義名分みたいなものは得られませんでした。僕にとってこれはプライドという、クソの役にも立たないものでしたが、周りに流されたり、借りてきた言葉よりはマシだったのかと思います。学歴至上主義に悩んだあの葛藤も今では、良かったのかななんて思ったりします。
 受験に限らず、人生にはその都度その都度、目指すべきものが現れると思います。もちろんそれが、自発的に生まれた目標だったら良いのですが、そうでない事の方が多いと思います。人から与えられた目標ほど、面倒臭いものはありません。けれども、それから逃げられないのも確かです。だから、目標から目指す理由を作り出すのも良い事だと思うんです。こうでもしないと、受験勉強なんてやってられません。こういう解決策もアリなのではないでしょうか。

 最後に、この塾には色んな人がいます。もちろん、小学生から浪人生まで同じ空間で勉強するという珍しい環境であることはさることながら、同じ大学受験を目指していても国立医学部志望から私立文系志望が一緒にいることは、予備校、ましては高校でも文系・理系でクラスが別れるので、滅多にないことではないでしょうか。さらに、それぞれに異なったバックグラウンドを持った人が集まることがこの塾のいい所なのではないかと思います。ここで、肌身で感じ取った事は、僕の人生に良い意味で大きな影響を与えてくれます。もし、このまとまりの無い、長い文章を読んでくれている方で、入塾に悩んでいる方がいたら、1回見に行ってみてください。普通じゃない塾の環境に最初は戸惑うかもしれませんが、慣れてしまえば、これほどやりやすい環境はありません。困っていることがあれば、それが受験や勉強以外のことで合っても、先生は親身になって相談してくれます。自身の人間性や人生に深みを持たせることが出来る。これは、そうそう経験できるものではない。さらに、大手予備校に行くと、ただの「お客さん」で終わってしまうような、成績がイマイチな生徒を先生は見捨てません。出来る子にも丁寧な指導をしてくれます。
 
 このような環境を用意してくれた、嚮心塾にはとても感謝しております。ありがとうございました。


 

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2020年度受験を振り返って(その3)

東京大学理科三類合格(進学先)  K・R(慶應義塾高卒)


はじめまして。私は2020年度東京大学理科3類に合格しました。
出身高校は慶應義塾高校で、合格するまでに高校卒業から5年間かかりました。

皆さん、ここまで読んでどう思いますか?
「5年もかかったのかよ。馬鹿だな。時間もったいない。ほかの大学に進学して早く医者になった方がいいんじゃないか。」と思うかもしれません、いや、思うのが当然でしょう。実際、よく言われます。しかし、僕は、この意見に対する自分なりの答えを持っています。それを自分の人生と照らし合わせて説明したいと思います。


勉強を始めたのは中学生からでした。
小学生のときは習い事を毎日のようにやっていました。ピアノ、バイオリン、空手、サッカー、野球、英語、プール、そして器械体操。この中で最も力を入れたのが器械体操でした。当時、池谷幸雄体操クラブの選手コースに在籍し、現在日本代表として活躍されている村上茉愛選手や神本雄也選手とともに週6回、平日は4時間、休日は8時間練習をしていました。遊ぶ時間もあまりなく、学校の授業はいつも爆睡。よく仮病で学校を早退しました。手はまめで血だらけ、骨折もよくしました。ついに恐怖心が体操の向上心を上回ってしまい、初出場の試合をもって体操をやめることにしました。その試合では、鉄棒で失敗してしまい、結果は全国7位。不甲斐ない結果に終わってしまいました。それでも体操から逃げたかった。そこで、逃げた言い訳にしたのが、中学受験でした。
何も勉強していない自分が中学受験など受かるはずもなく、入塾した塾では一番下のクラス。そして、13校受験して受かったのは2校。そのうち目白研心中学校の特進クラスに進学しました。僕の代から共学化し、当時1期生でした。

中学校の入学前、父親に夢を聞かれたことがありました。東大に行きたい気持ちと医者になりたい気持ちがあったので「東大に進学して、卒業したらどこか医学部に入学したい」と、父に伝えました。すると「東大の医学部にいけばいいじゃん。」と言ってきました。当時は、東大理3はきっと難しいだろうと思い込み、受かる自信が持てず、話を濁しました。
医学部にしろ、東大にしろ、受験をするためにはスタートダッシュが重要だと思い、早稲田アカデミーの東大コースに入塾しようと思いましたが、断られ、それならば東進に入塾しようとするも返事の電話が来ませんでした。世の中学歴なんだな、とロマンスカーの中で母と泣きながら帰宅したのを覚えてます。

そんなとき、父が家庭教師の先生を連れてきました。彼は「滅私奉公」の体現者で、当時12歳の私の面倒を無償で、一生懸命見てくださいました。学校に行く前にskypeで勉強を見てくださったり、毎日のようにfaxで添削してくださったり。「最初の文字は大文字で書く!!」「文の最後にはピリオドをつける!!」何度も言われました。そして彼の出身が理3。このとき、この人のようになるために理3にいきたい、と意識するようになりました。
彼のおかげで中学の入学直後の試験では、数学100点、英語100点、国語91点で学年1位をとれて、自分の名前が堂々と張り出されました。勉強を才能的なものだと思い込んでいましたが、努力でなんとかなると知りました。その後、1期生としてサッカー部を設立したり、生徒会長になったりするのですが、それはまた別の話。勉強の楽しみをおぼえた私は、中学のスローペースな勉強に飽き、SEGに入塾しました。そこで中学数学を早く終え、自分に適した環境に進みたいと思い、高校受験を決めました。

高校受験に不向きであったSEGをやめ、中学受験時に通っていた塾に入塾しました。小学生の時は一番下のクラスでしたが、最終的に、高校受験の時は一番上のクラスに進み、先生方に驚かれました。
高校受験では、第一志望の開成高校、第二志望の西高校は落ちてしまい、慶應義塾高校か慶應志木高校に進学するしかなくなりました。これも運命だと思い、慶應義塾高校に進学しました。大学付属高校なので受験勉強の環境としては最悪です。

高校では器械体操部門トランポリン部に所属し、ピョンピョン跳んでいました。器械体操の経験があったので1年の夏にインターハイに出場できたのは幸運でした。
高校の特性上、勉強する人は少なく、それぞれがそれぞれの目標を作って取り組んでいました。そんな環境の中で自分は何をしたいのか、思い直したとき、憧れの人を思い出しました。困っている人に手を差し伸べられる人になるには、自分も苦労をしなければならないと思い、慶應大学の内部推薦を断り、大学受験をすることを決意しました。
その後、鉄緑会に入塾し、トランポリンはインターハイ後に退部し、周りが遊びに夢中のなか、一人で毎日のように勉強し続けました。鉄緑会の先生には君が一番勉強していたといわれるも、クラスは1度も上がらず、「中の中」のまま理3受験を迎えました。もちろん落ちました。消化不良でした。点差は約100点。絶望的でした。

現役での受験を終えたあと、父から「医者になる必要はない」と言われ、自分はどうすればいいのか見失いました。そもそも、自分がなりたいのは「困っている人に手を差し伸べられる人」。必ずしも医者じゃなくてもいい。もちろん、医者だったらそれができますが。

そこで、やりたいことをみつけるために海外の大学に留学しようと考えました。興味があったのは高校での政治経済の授業で扱った、行動経済学。従って、経済学を学びたいと思いました。Facebookで海外留学を支援しているNPO団体、「留学フェローシップ」をみつけ、その責任者に、キャンプに参加させてもらえるよう直談判しました。一方で家庭教師の先生にも相談し、MASK English Academyの塾長である、松井道夫先生を紹介していただき、そこで働く海外の方の助手として、働かせていただきました。また、SATやTOEFL の勉強をしていました。先のNPO団体の募集期日3日前に責任者から返信がきて、急いでエッセイを書き、参加試験に合格して、夏のキャンプに参加できました。そこではアメリカの大学に進んだ日本人の方々にエッセイの書き方教えてもらったり、アメリカ生活について話をうかがったり、お互いがお互いを評価しあって、自分の長所を再認識しました。

どうやら、自分の長所は「知的好奇心の強さ」だったようで、言われるまで気づきませんでした。そして同時に、自分よりもすごい人が多いということに気づけました。彼らと競い合っても敵いっこない。そう思ってしまいました。ならどうすべきか。彼らが日本でも活躍できるよう下準備をすること。当時はそう思いました。そのためには日本の大学でいいから早く進学すべきだと思い、理科2類を受験しました。

しかし、いままで理3志望だったので気が抜けてしまったことと、ブランクが大きすぎて結果は惨敗。敗因がわかっていたので、合格発表当日に本屋さんに行き、基本のキから再開しました。

2浪目は、Z-kaiを利用し、自宅浪人をしました。誰ともコンタクトをとらず、黙々と勉強する。そんな日々が続きました。勉強に疲れたら前年参加した留学フェローシップのことを考えました。本当に日本で活躍できるよう下準備だけでいいのか。やる意思があるのであれば、彼らと比肩するよう持てるすべてを用いて、よりよい社会にするために努めるべきではないか、と。自分の能力はたかが知れているので、親からもらえる環境をフル活用することを目指し、医師になる決意をしました。そして家で一年間勉強するも理3は相変わらず惨敗。70点差。さすがに限界を感じました。

3浪目は、独学では無理だと思い、駿台お茶の水校の東大理系演習コースに在籍しました。いままで受験勉強の友達が一人もいなかったので、新たに受験友達を作ったとともに、当時一番上のクラスに在籍し、通年で成績優秀者になりました。駿台に入学したからには駿台のことしかやらないと決め、東大模試でも成績が出てきて理3でもB判定が出てきました。結果的に、40名のクラスで、ほとんどが東大または医学部に進学するも、落ちたのは自分だけ。点差は40点。再び絶望しました。

4浪目は、予備校に頼っても無駄だと思ったので、またも独学でした。義兄に指導をお願いし、自分の弱さと向き合っていました。「途中計算を粗くするから計算ミスをするんだ。」「ざっとしか読まないから問題文をミスリードするんだ。」こういう感じで性格の矯正まで行っていました。
そんな夏の頃、友人に嚮心塾を紹介されました。塾長がどうやら国語と英語が得意らしいので、わらをもつかむ気持ちで入塾しました。理系科目は義兄に毎日のようにノートを添削してもらい、一方で文系科目は塾長に添削してもらいました。東大模試もB判定が基本的に出るようになりましたが、A判定は1回も出ず。ただ国語と英語の偏差値が70弱に近づきました。
この年の結果は、6点差。普通なら絶望するでしょうが、僕の場合は逆です。100点差の時もあったので「東大からあとちょっとだ、がんばれ。」って言ってもらったぞ、と意気込んでいました。今まで真っ暗闇のなかにいたのですが、かすかに光を感じました。

けれども、さすがに疲れたのは事実。ぼけーっとしていると、両親が気を利かせてくれました。母が自動車免許の学校に入れてくれたのです。自分の生活に新たな風が吹きました。
しかし、免許取得後、どうしても受験勉強に気乗りがしませんでした。そんなとき、今度は父がオンラインで大学の授業が受けられるサイトに僕を登録してくれて、受験勉強とは異なる勉強を6月までしていました。その後、受験勉強を再開しました。

夏の東大模試はA判定とB判定。初めて300点超えができました。その後は毎日のように、セットを解いて添削を受けて反省会、の繰り返し。

秋の東大模試はともにB判定。調子がよかったので、はやめに苦手なセンター試験対策を開始しました。苦戦を強いられましたが、結果はリスニング抜きで837点。そのまま2次試験を迎えました。
国語は以前塾長と議論し合った内容がでて、難なくでき、数学は難しかったですが、3完2半。初日はよくできました。
2日目は、得意の物理で失敗してしまいましたが、その分化学に時間を当て、弱点である計算ミスがありませんでした。英語も何度も塾長と相談した作戦通りにいき、自己採点すると400点弱でした。そして合格発表の3月10日。まず最低点から見ると385点。自己採点通りだったら、なんとかいけると思い、勇気を出して合格者欄を見たら自分の受験番号がありました。
その一週間後の今日、この文章を打っています。


僕も若いとき、理3合格体験記を漁り、「超人がたくさんいるんだなー」と思いました。
ここまで読んでくださった方は、僕に対しても同じことを感じますか?

おそらく感じないはず。

なぜなら、5年間の失敗があるからです。何度も絶望しました。何度も泣きました。けど、諦めなかった。信念を貫いた。僕は天才じゃない。受験勉強においては才能もない。あったのはただ、諦めの悪さだけです。


さて、最初の問題提起に対する自分なりの回答を示して終えたいと思います。


もちろん、はやく医者になれれば多くの人を救っていたかもしれない。
だけど、絶望や失敗を経験してないと、「いい人間」にはなれない。病気や苦しみのせいで、明日の希望が見えない「人間」を、どうしてそういった経験のない人間が助けられようか。弱者に対して差し伸べる手が偽善となってしまわないか。そう思ったから何度も理3受験を続けてきました。事実、こと受験勉強においては、頑張っているが結果が出ないという人と自分とを同一視してしまいます。なんとか力になってあげたい、つらさを知っているだけにそう感じます。自分の持ちうるすべてを使って助けてあげたいし、受験勉強に限らず、困っている人がいて、自分がなんとか力添えができるのであれば、誰に対しても、すべてを駆使して手伝いたい。

これを読んでいる方は基本的に受験生だと思います。そんな君たちに、この言葉を贈ります。

「浪人?上等だよ。やってやる。」
1年延びようが10年延びようが、自分の信念を諦めることに比べたらたいしたことない。


駄文ですが、いま絶望している人がすこしでも「私も、もう少しがんばってみよう」と思っていただければ幸いです。

応援しています。

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2020年度受験を振り返って(その2)

立教大学経済学部合格(進学先)O・Y(横浜市立東高卒)

(ほか合格校:専修大学経済学部)
「体験記を書いてくれ」と言われても何を書けばいいのか思いつかなかったので参考にはなるかわからないけれど高3、浪人の二年間を振り返って自分語りをしようと思います。
僕は現役の時は塾には行かずに独学で家や図書館などで勉強していた。立教大学を第一志望にして勉強していたが、結果は不合格、さらに滑り止めだと思っていた日東駒専の大学まで一つも受からないという結果だった。なぜそんな結果になったのかを考えてみると、独学だったため自分に勉強の決定権がすべてあり間違えた方向に向かっていることを止める存在が無かったことだと思う。現役の僕は秋くらいまではとても順調で普段の勉強や模試の点数でも実力がついていってる事が実感でき勉強も楽しく努力を続けることができていた。しかし、冬くらいから模試の点数が伸び悩むどころか下がっていくようになってしまった。
低い点数を取ることは全く悪いことではなくその原因を探すことで点数を上げるチャンスなはずなのだが、秋ころになまじいい点を取れてしまっていたので「自分が低い点数を取ったのはたまたまだ。自分のやり方は間違ってない!」と一回の成功体験にしがみついて、自分のできていないところに向き合うという嫌な作業から逃げだした。そんな状況で実力が伸びていく訳もなく勉強へのモチベーションも比例して下がっていき12月の後半くらいからは全く勉強もしなくなり、「どーせ、このまま入試を受けても受かるわけないし浪人してから頑張ればいいや」と諦めて家族や友達にはずっと勉強しているフリをして無意味に日々を消化していた。今、考え直してみても現役の1年目は散々なもので全落ちしたのも当然だと思う。
そして、僕は高校を卒業した後の3月の後半からこの塾に入塾した。その理由は 大きく分けて四つある。
一つ目は高校の担任の先生に、「宅浪は本当に厳しく、あなたはどこでもいいから塾や予備校に所属した方が良い」と言われた事。高2、高3の2年間その先生にはお世話になっていて、頻繁に遅刻をし1限をサボったり、ひどい時期は体育の授業がある日しか登校していなかったなどとても怠惰な生活を送っていたのでそう思われて当たり前だと思うし自分でもそう感じていた。
二つ目はこの塾に通っていた友達にとても良い塾だとすすめられた事。中学の時は別に頭が良いと思っていなかったその友達がどんどん力をつけていったのを間近で見ていたのでとても説得力があった。
三つ目はとても月謝が安い事。大手の予備校の半額くらいの値段でこんな素晴らしいサービスが受けれるのはおかしい事だと思うが、そのおかげで親も入塾を許可してくれたと思う。
四つ目は授業をせずに一人ずつに合わせて勉強の計画を先生と考えて自主学習で出た疑問を先生にすぐに質問をできるという事。これは元々、授業を受けずに自習学習で勉強してきた自分に合っていて授業を受けるよりも効率的だと思い、一週間の体験期間でそれは確信に変わり、往復約3時間と家から遠いが入塾を決めた。僕は基礎もボロボロだったので最初はとにかく英語の基礎(文法、英文解釈、単語、熟語)を固めていった。前述した通り僕は怠惰な性格で努力を継続することがが苦手でなかなか毎日通う事は出来ていなかったが、実力が伸びていってる事を実感できてる事もあり3月後半から8月の終わりまでで1000時間以上勉強でき、そのうち700時間くらいは英語を勉強した。この基礎固めが凄く大きかったと思う。現役の時は世界史が好きで英語を疎かにして世界史ばっかり勉強してしまったのも独学での間違った判断だった。先生と一緒に自分に合った勉強の計画を立てる事ができたので正しい方向に努力を続ける事ができたと思う。
8月からセンター試験の英語の過去問を始めた。この塾では過去問を解いた後に毎回、先生とその試験の反省をするのだが、初めて反省会をした時に先生に「この問題を間違えた原因は何だと思う?」と聞かれたのがとても印象に残っている。僕はサッと答えることができなかった。その時に自分がいかに何も考えずに問題を解いているかを思い知らされ、そこから問題に取り組む時の意識が変わったと思う。回数を重ねる度に点数を取れるようになっていき、センターでなんとか8割が安定してきて、記述模試でもそこそこ良い結果が出せた。
このように夏までは割と順調に勉強できてたように見えるが、それは塾に行けた日だけの話で、僕は怠惰な癖に一丁前に完璧主義だったので、朝から家を出れなかった日は勉強する気が起きずに家にこもってダラダラしてしまった。先生はこんな僕にも「昼からでも、なんなら夜からでも良いから毎日、塾に来て勉強しよう。」と策を考えてくれた。自分でも短い時間でも良いから毎日、塾に来て勉強したほうが良いのは頭ではわかっていたし、塾に行った日はちゃんと勉強していたので、ただ毎日家から出て塾に行くことができれば解決した問題なのに、結局、夏の間もなかなか毎日通える事ができなかった。そんな自分と、毎日朝から晩まで勉強している同い年の塾生達とを比較してしまいどんどん自己嫌悪になっていき、勉強せずに家でふさぎ込む日が増えていき、そして、また自分が嫌いになっていく負のループになってしまった。結局9月はほとんど塾に行けず「このままじゃダメだ、現状から何かを変えなきゃいけない」と思った僕は、所属しているのにほとんど行けてないので先生にも迷惑と心配かけてしまっているし、お金を出してくれている親にも申し訳ないし何かしらアクションを起こさなきゃといけないと思い、「片道1時間半の通塾で勉強へのハードルが上がってしまっている」という今思うとよくわからない理由で塾を辞めたいと先生に相談した。その時、先生は「夏までは基礎の時期でここから過去問を解く回数も増えていく、ここからが本番なのに今辞めるのはもったいない。」と間違った方向に進もうとしている自分を止めようとしてくれていたのに、「何かアクションを起こさないといけない。」と思考停止してしまっていた僕は忠告を聞かずにその時は辞める決断をした。そんな僕に先生は「今、このままつらい事から逃げて辞めて独学を始めてもけっきょく勉強でも自分の嫌な教科や嫌いな作業から逃げてしまい絶対成功しないから9月最後の一週間だけでも通って克服してからにしよう。」と言ってくださった。なのにその時の僕はその一週間すら通うことができなかった。そんな約束すら守れなかった僕は先生に合わせる顔も無いし、自分の事がさらに嫌いになり家にふさぎ込んでしまった。全く勉強もせずに家でダラダラと引きこもり、現実逃避して朝から晩までゲームをしていた。その時の自分は現役の時の繰り返しのように嫌な事から逃げているだけで、自分の判断は間違っていて先生の判断が正しい事が頭では解っていたのに家から出て塾に行くという他の人にとっては当たり前の事ができなかった。
結局そんな生活を11月の後半まで続けた。塾に二か月くらいぶりに行った時、約束を破って二か月も連絡をせずにいたので先生にめちゃめちゃ怒られると思っていた。しかし、怒るどころか9月から11月の後半まで勉強をサボっていたどうしようもない僕なんかのために、今の状況から受かるための計画を 立ててくださった。その時、自分はこんなにも生徒の事を思ってくれている先生を裏切ってしまった自分が恥ずかしく思い、そこから気持ちを入れ替えまた基礎の復習から始め直した。そして、ある程度復習を終えて、またセンターの過去問を解いてみたら夏の点数を意外と維持できていて、過去問を解いて反省会を重ねていく度に点数も上がっていき、12月には9割も取れるようになっていった。夏までに基礎をしっかり固めたおかげで基礎が定着していたので、勉強から離れていた期間があっても忘れずにいられたのだと思う。センター当日では、緊張などもあり、練習通りの時間配分では解けなかったのですが、練習の時に短い時間で解く練習をしていたおかげで、英語174 現代文83 古文35 世界史89 という点を取ることができた。英語は文法と発音アクセントで多く落としたがそれ以外の部分では1ミスに抑える事ができ、平均点が下がった中で健闘できたと思う。国語は苦手な古文が低い点を取ってしまったのだが、センター利用は現代文のみの学校に出していたのでセーフだったと思う。世界史にはあまり時間が使えず、当日までに間に合うか不安だったが、センター前一週間に世界史の時間をかなり増やして何とか間に合ったので良かった。私立の過去問は12月の途中から解き始めて、最初はなかなか点が取れなかったりしたが、センターの過去問で解く時に時間がかかる問題を飛ばして一周目の時間を減らし見直しの時間を長くするという練習のおかげと、英語の長文を解くときにメモを取る事で見直す時の手がかりを増やして、見直しの質を上げる練習のおかげで点数が取れるようになっていった。自分はサボっていた分、他の受験生よりも遅れていたので、滑り止めの大学はセンター利用だけにし、私立の一般試験はMARCHの学校だけにして、少しでも勉強時間を確保した。
私立の入試本番では、最初の数回は全然練習通りの時間で解けずに、苦戦した。でも、「入試は連戦になるので一日一日気持ちを切り替えることが大切だから、試験終わった後は勉強しなくても良いから塾に来てその日の事を報告してほしい」と先生に言われて、それを実践してみたら失敗した日でもその日のミスを反省し、それを話す事で冷静になれて次の日の試験で、1周目に問題を飛ばすのを練習の時のように徹底でき、また失敗した日は慎重になりすぎて不必要なメモを取りすぎていたのことに気づき、メモを最低限にして、見直しの時間を多く確保することをできるようになった。苦手な古文でも失敗した日の反省を生かして試験の前に文法を復習し直したり、主語をしっかり確認することでミスを減らせた。
そして結果は、公式の回答で自己採点をしてみたらネット上の配点で英語84% 国語88% 世界史74% としっかりと自分の実力を出せて 現役の時から第一志望だった立教大学にどん底の日々から逆転合格することができた。
こんな僕でも結果を出せたのは夏前に基礎をしっかりと固めるという正しい努力をする事と、過去問を解く度の反省会で、問題を間違えた原因に向き合い、それを一つずつ克服する事ができたからだと思う。これは独学の時や秋に引きこもってしまった嫌なことから逃げていた自分では絶対できなかった。一人一人に親身に寄り添って勉強の計画を一緒に立てたり、勉強の質問などに答えてくれたりしたり、また、9月の時に僕が塾を辞めるという誤った判断をした時に止めてくださった先生のおかげだと思う。先生が「勉強は自分のダメなところに向き合う事」と言っていたように、僕は大学での生活の中で、継続して努力するのが苦手な事と、自分の嫌な物や、めんどくさい物に向き合わずに逃げてしまう事を克服するのがこれからの課題だと思う。と口では簡単に言えるけれど、今も体験記を書くのをめちゃめちゃ後回しにしてしまっていたので実際にこの課題を克服するのはとても難しいだろう。でも4年間かけて少しずつ頑張ります。
最後に、柳原先生、一年間本当にお世話になりました。ありがとうございました!

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