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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

失敗を失敗ととらえるために。

大学受験で志望校に合格したばかりの大学生など、「自分には何でもできる!」と、一歩引いて見れば恥ずかしい万能感に包まれているわけで、そのような状態の教え子たちに苦言を呈しては現実に目を向けさせることが自分の役割だと思ってやっています。とはいえ、僕自身も恥ずかしく、また忘れられない苦い思い出があります。

大学受験で自分が落ちることなど考えてもいなかった尊大な僕は、第一志望の大学しか受けていませんでした。それがうまくいき、教え始め、教えていけば教えていったで、他の東大生よりはまだ視野が広い分、より一人一人にコミットして教えられるわけで、教えるアルバイト自体が自分の「万能感」にも繋がる、という悪循環でもありました。もちろんそのことに自分では気づかず、です。

その当時働いていた塾では、校舎の教室長の先生が我々大学生チューターに仕事の裁量権を広く任せてくれていたおかげで、自分から仕事を見つけては一人一人の生徒の役に立てないか、ということを拙いながらもやり始めていました。そのときに、映像授業をとるために通ってくれていた社会人の医学部再受験生の生徒と出会い、彼の勉強の現在のレベルと受けている映像授業のレベルとの乖離から、このままではせっかく続けていても力がつかない!と思い、出来る限り僕が今の彼に必要な勉強をデザインし、教えるということをやり始めました。

その生徒は社会人の学生であったため、自分の仕事が終わってからようやく勉強ができます。勉強の開始が20時、21時からとかになり、当然その塾を閉めるまででは長く教えることもできないために、連日泊まり込みで教えては、家に帰るのは週に1,2回ということが続きました。朝まで教えて、そのまま大学の講義を聞きに行き、また塾に来て教える(もちろんその夜遅くになるまでは他の生徒も教えていました)という生活の繰り返しの中、「こんなゆるい進級条件なのに、更に自分がサボるためにシケプリ(「試験のプリント」の略語。講義をクラスの各学生が分担してノートを取ることで講義をサボる制度で、東大には残念ながら根付いています。)とかやってるなんて、頭の悪い東大生は本当に救いようがないな!」と入学時に全てのシケプリを拒絶して自分で勉強していた僕は、大学の勉強に手が回らなくなり、大学の試験前日も徹夜で塾で教えてはその足で試験を受けに行っていたため、ドイツ語の単位を一つ落として留年することになりました。

しかし、それほどに心血を注いで教えていても、その当時は所詮ハタチ前後の大学生なわけで、教える勉強の内容はわかっても、どのように力を伸ばすかについてはまだまだ圧倒的に自分の理解が足りていませんでした。もちろん、社会人として働く彼のトータルの勉強時間も彼自身がどんなに努力する人であったとしても限界があるわけで、かといって生活のためには仕事を辞めるor休んで受験勉強に専念する、ということも物理的に不可能でした。その状態を続けていても、やはり彼の学力は伸びず、入試でも点数が取れず不合格に終わりました。

そして、年度の終わりに、これをいつまで続けていくのか、ということを改めて彼と話し合いました。
僕が自分の教える力の不足を詫び、改めて次の一年をどうするかを相談したときに、彼から

「ここまでしてもらったからには、先生がどうすべきだと思うように決めてください。このまま続けていけば合格できると先生が判断するのであれば、しんどくても続けていくし、逆にこれを続けても無理だと先生が判断するのであれば、諦めます。」と言ってもらいました。

そこで僕は、
「残念ながらこのままの状況を続けていったとしても、医学部に合格できるとは思えません。仕事を休んで受験勉強に集中できるのであればまだ可能性が見えてくるとしても、この状況の中で歯をくいしばって勉強したとしても、今の学力から仕事をしながら医学部に合格するのは難しいと思います。」と言いました。

それを受けて彼は、
「わかりました。きっぱり諦めます。今まで有難うございました。」
と言って退塾していきました。

そのときの僕がどういう気持であったのかは一概にはわかりません。もちろん保身の気持ちもあったでしょう。自分自身が少なくとも多大な労力と犠牲を払って、それでも力になれなかったという事実から距離を置きたいという気持ちがなかったかと言えば、嘘になります。しかしそれ以上に、だいぶ年下の僕に彼がそのように自分の人生を左右する判断を委ねてもいいと言ってくれたことに対して、その場しのぎの嘘をつくわけには絶対にいかない、という思いだけは覚えています。

そしてそれは、僕自身にとって人生で初めての挫折でした。自分が努力をして結果を出すことなど勉強であれスポーツであれ、その他何であれ、極めて容易なことであると思っていたその当時の僕にとって、
自分が必死に努力したにも関わらず、一人の心ある、努力を惜しまない人のなけなしの努力、かけがえのない努力を自分の力量が足りないがゆえに見殺しにしなければなりませんでした。僕自身は自分や自分の家族の人生を生きるくらいなら十分に余力があるとしても、その外の人を支え、力になっていくためにはこの上なく無力で愚かであり、
偉そうな自己満足のような「努力」をいくら言い訳のように積み重ねたとしても、その自身の無力さや愚かさは決して拭えはしないという事実に気付かされました。

もちろんこれを自分の失敗ととらえないことはできます。恐らく多くの人は
それを自分の失敗とはとらえないことで、何とか傷つかないように生きているのかもしれません。しかし、
たった一度の自分の人生において、これはやはり僕の失敗ではないのか。これを僕の失敗ではないと切り離して
生きるとして、それで僕に親しい友人や家族は皆幸せそうに暮らすことができたとして、果たしてそのような人生に
何の意味があるのか。

そこからの僕は、様々な紆余曲折があろうとも、結局は「自分にもっと力がなければ、目の前の人たちを救えない。」という動機に衝き動かされてここまで生き永らえてきた、と言えます。そうは言っても「だからもう今の僕は力がついたので、誰でも救えます!」となっていればよいのですが、23年前のあの頃の自分と比べて、
できるようになったことはとてつもなく増えてはいます(増えたのは体重だけではありません!)し、
力になれる子の幅もはるかに広がっているとは思うのですが、できるようになればなるほどに、
それでもまだまだ無力感を感じることばかりです。
しかし、その失敗を相手のせいにするのではなく、あくまでも自分の失敗としてとらえ、どう乗り越えようとしていくか、
という課題については恐らく死ぬまでずっと取り組み続けることになると思っています。


ということを書こうと思ったのは、あの23年前の再受験生のお子さんが今年嚮心塾に入塾してくれたからでした。
久しぶりの再会に照れくさそうに「娘が先生のところの塾を気に入ってさ。」と話す彼に、
僕はいつもの軽口を出すこともできずに、深く頭を下げることしかできませんでした。

あれからも僕はたくさんの失敗をしてきました。そのたびに打ちひしがれ、必死に反省し、何とかできることを増やそうとしてきました。それらの試行錯誤を彼のお子さんの力にも変えていけるように、必死に教えていきたいと思います。

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「暗記」とは何か。

「暗記よりも理解!」「暗記はすぐに頭から抜けるけど、理解は決して頭から抜けない!」というのは塾で教えるときに繰り返し繰り返し話している鉄則です。また大まかな勉強全体の方針も、それに沿ってやっていくことで問題ないと思います。

しかし、「そうは言っても英単語は暗記だよね。」「そうは言っても漢字は暗記だよね。」と、「青チャートの解法全部覚える!」的な無意味な暗記は排除してもなお、受験において「仕方がない暗記」というものは肯定されているように思います。もちろん、僕自身も暗記すること全体を否定するつもりもありません。
しかし、実際には「暗記」とは何か、という定義は一人一人の生徒で全く違っています。また教師の側でその「暗記」の定義を押し広げ、やり方を変えていくこともできます。
そのような一人一人の定義をどのように押し広げていくか、が教育の役割でもあります。

たとえば英単語を例にとりましょう。塾では受験生に毎回英単語テストをすることが多いのですが、これは実は英単語を定着させるためにしているのではありません。もちろん、その目的は表面的な目的として、本当の狙いは
その受験生が「暗記する」という概念をどのように捉えているか、その認識の仕方をこちらが把握するためにやっていることです。

英単語を覚えるときに意味を無理やり覚えている子ほどに、英単語帳での「場所」によって覚えているため、近いところにある英単語の意味を取り違えたりします。このような子はその英単語の文字の意味をじっくりと味わうことなく、ただ場所だけで覚えることを「暗記」と定義しているがゆえにこのような誤りをおかすため、単語の接頭辞や接尾辞、語源を辞書で調べることを徹底させます。

これはまた「似たようなスペル」の単語を取り違える子にも言えることです。似たようなスペルの単語同士でも必ず違う語義の語幹があったりするわけで、その違いを辞書で調べていく、ということまで指導していきます。
そのように指導していけば、接頭辞・接尾辞・語幹の意味を増やしていくことになり、それがまた他の単語を覚えるときにも類推をききやすくしていきます。

また、英単語と関連して、英熟語の覚え方でも単純暗記なのか、単語のイメージや前置詞のイメージからその熟語の意味を引き出してこれるのか、で大きく定着度が変わってきてしまいます。英熟語を「覚えるもの」と思っている受験生は意外と多く、単語や前置詞のイメージから熟語のイメージを引き出してこれないままに英熟語の訳語だけを覚えては結局何も定着しない、ということも多いです。また、この点からも英単語の意味や前置詞のイメージが定着していない子に英熟語をやらせる指導の仕方、というのも大きく間違っているといえると思います。英単語をしっかり身につけてから、英熟語を始めていく方が効果的であるからです。

もちろん、これらのやり方は教師が教えなくてもできる子は自然にやっていることです。しかし、できる子は自分の「暗記」の仕方の中で辞書を引いたり接頭辞・接尾辞・語幹を覚えていくのが当たり前のことだと思っているので、こういった努力全体を含めて「暗記」と呼ぶ言葉遣いをしていきます。だからこそ、

できるA君:「英単語は結局暗記(ただし辞書で引くのは当たり前!)だよね!」
できないB君:「やっぱ、そうかあ(辞書に触りもしない)。。」

という誤解が生まれ、B君としてはできるA君と全く同じように勉強しているつもりであっても
全く身につかないままに終わっていくということになってしまいます。

もちろん、どのような受験生も最初からはこのような勉強法はできません。また、ある教科についてこの「暗記」の内実を解きほぐしては理解をしようとしていくことをできている受験生であっても別の教科、特に自分の苦手な教科については
なかなかそれができていない、ということもまたよくあることです。嚮心塾で殆どの受験生に単語テストをしていくのは、一人一人の生徒の頭の中での「暗記」「理解」という言葉の定義をそのように確認していき、それについて正しい方法を鍛えていき、さらにはその一つの単元についての正しい方法を他の教科にも応用しようとしていける子か、それともそうではないかを観察しては次の指導を考えていく、というその子のpersonalityへの理解を他の教科の指導に活かしていくために、単語テストをしています。そのようにして一人一人の生徒の言う「暗記」の定義を揺るがしていくことが勉強に関しては正しいアプローチであると思っています。

このように、「勉強法を言葉で伝える」というのは極めて難しいことです。なぜなら、その言葉の定義が一人一人の中で大きく違うものであるからです。だからこそ、勉強の仕方を正しい方向へと修正していくためには、まず生徒たちがどのような定義で認識をしているのかを確認していきながら話をしていく必要があります。

となると、いわゆる巷であふれる「勉強法」の本、あるいはその生徒の中での定義を確認することなくなされる全ての教師のアドバイスはいいかげん極まりないものであるのでは、と思ってしまいます。勉強のできる同級生からのアドバイス、とかなおさらです!(塾ではよく「東大に受かった同級生が『この参考書をやれば受かる!』と言ってた」的な雑なアドバイスをいちいち論破しなければならないこともあるのですが、このような雑なアドバイスが多くの場合において有害でしかないのは、今回の話からもおわかりいただければ嬉しいです!)

逆に言えば、受験生の中のそのような「定義」の部分から粘り強く探り、変えていくことができれば子どもたちの能力など(もちろんごく一部の天才は別として)そんなに大差がない、というのが教えている中での僕の実感です。たとえば塾からも難しい大学に合格している生徒はたくさんいますが、阪大医学部に合格した初期の生徒は、彼の高校からはおそらくこれから二度と阪大医学部への合格者は出ないであろう偏差値の高校(実はその高校からは他の子がもう一人慶応医学部に合格しているのですが、これも恐らくその高校からは二度と出ないでしょう。しかしこれも僕の教え子です!)に通っていましたが、しかし彼はその高校(正確には中学受験で入ったので中学ですが)には補欠合格で入りました。つまり、一番ビリで入って、その高校の卒業生でも歴代トップクラスの学力を身に着けた、ということです。

もちろんこれは、そのような一つ一つの勉強についての定義を粘り強く更新する、という作業を誰からもされることなく、
自分でもできないままに、多くの子の才能が日の目を見ずに終わっていっている、という悲惨な事実でもあります。そのようなことをしていけば、どのように鍛えたはずの受験生にも、あるいは「どんなに努力しても力がつかない」と嘆く受験生にも、必ず力がついていくと思っています。

そのように一人一人の生徒の認識の仕方、定義を把握しながら、押し広げていくという作業を僕ももっと瞬時にできるように、自分自身の教える力、観察する能力を鍛えていきたいと思います。

そして、何よりそれを教師からされないでも自分自身にその定義を吟味する目を向けられるような受験生をこそ、育てられるように努力と工夫をしていきたいと思っています。生徒一人一人の思考回路や定義を読んではそれを指導に充てていくこと自体は、それなりに今もできています。しかし、それを生徒たちが自分自身で自分に対してできるようにしていく、というところまではまだまだ道半ばです。しかし、それが(この卒塾生のようにあるいはこの卒塾生のように)できて初めて本当の教育であると思っています。

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宿題は税金。受験勉強は貯金。

どくんご東京公演も無事終わり、バタバタと忙しい中、また塾の日常に戻っています。
あっという間に今年も9月。ここからが受験生の本番です。努力をする姿勢、努力の方向性といったところはだいぶ一人一人の受験生の土台ができてきて、成果も少しずつ見えてきているからこそ、ここからはそれらの必要な努力をしても尚、一人一人の中でどういう部分がこぼれ落ちてきてしまうのかを検証しながら、埋めていく作業になります。
教える側にとっては受験生との対話がますます必要となり、かつこれまでのコミュニケーションの中で蓄積してきた
一人一人の受験生のpersonalityへの理解と踏み込みが問われていくところです。
しっかりとやっていきたいと思います。

さて、どくんごの感想も書かねばならないところなのですが、あまりに久しぶりのブログなので、ここらで筆慣らしに勉強のことでも。(一応学習塾なのです!)

最近の中学や高校はあまりにも宿題が多く、中高生は宿題に忙殺されています。
しかし、その中には学習効果の極めて低い、「理解してもいない分野でいきなり問題を大量に解かされる」「解けなかったら解答を写してくる」などの作業系の宿題も非常に多いわけです。理解してもいないことを丸暗記をさせて、いったいその努力が何に繋がると考えているのでしょうか。

このようなアホな宿題を出す先生の指示など、無視すればいい!と言いたいところではあるのですが、
中学生は内申点に響くから、という理由で脅され、高校生はそれが「平常点」になるから、という理由で脅されて
やらざるを得ない状況に追い込まれています。

ただでさえ、勉強に積極的な意欲を持つにはあまりにも多感な時期の中高生の、なけなしの貴重な学習時間が、
学習効果が低いこのような「作業」にすぎない宿題で奪われていく、ということが犯罪的ですらあると僕は思うのですが、
その中でも中高生の勉強への意識を変えるためによく使っている言葉が、
この「宿題は税金。受験勉強は貯金。」
という言葉です。

税金をいくら支払っても貯金が生まれないのに対して、貯金は貯まれば貯まるほどに税金もそこから払うことができます。
自分にとって力にならない作業をひたすらやっていても、結局受験勉強の力がつかずに受験勉強では立ち往生してしまう(だけでなく実は定期試験も結局点数がとれません。)のに対し、受験勉強の力を地道につけていくことは定期試験もノー勉強で高得点を取れるようになっていきます。
だからこそ、勉強時間を何に充てるか、というときに宿題をやる、試験勉強をするのは愚かしいことであり、受験勉強を地道に普段からやっていく方が圧倒的に賢いわけです。(理想を言えば、宿題や試験勉強を全くしないでも定期試験ではそこそこの成績がキープできるように受験勉強を進めていくのが良いです。もちろん、定期試験には受験に必要ではない科目もあるので、それは試験前にやらなければならないわけですが)

しかし、このような戦略を多くの高校生が取ることができないのにはいくつかの理由があります。
一つは先に書いた、学校の先生からの脅しなわけですが(学校の先生方には生徒を平常点や内申という言葉で脅す前に、そもそも自分たちの出している宿題が適切な量か、それをやることで本当に力がつくのか、他の教科との兼ね合いで今それをやるべきかどうか、など、内容、量、時期などを考えて出していただきたいです。。)、
それ以上に大きな要因として、親御さんの「学校の宿題はやるべきもの」という思い込みがあります。

しかし、昔と比べて今の中高生は圧倒的に宿題の量が増えています。しかも、極めて無意味な作業系の宿題ばかり。。
その事情も理解せず、「宿題をやることが勉強だ!」という強制をするがゆえに、中高生のほんのわずかな
学習意欲も無駄遣いされ、そしてやる気をなくしていきます。

税金のたとえを出しましたが、宿題と税金の大きな違いは「宿題はやらなくてもよい」ということです。
宿題をやることが今の自分にとって適切な勉強であれば、もちろんやるべきです。しかし、あまりにもレベルが合っていない、あるいはそもそも無意味な作業でしかないような宿題をやるくらいなら、それこそ教科書を読み直す、とか
受験勉強に役立つ他の勉強をすべきです。そして、それを何より親御さんが奨励すべきです。
それだけで、世の中にあるほとんどのいいかげんな個別指導塾など経営が成り立たなくなるくらい、
「学校の授業がよくわからないから塾に行く」という事態は減らせると思っています。

そのように受験を睨んではその子にしっかりと力のつく勉強の方向性を与え、教材を指定し、そしていらない宿題の取捨選択をした上で「貯金」に取り組むとき、ほとんどの「勉強嫌い」と目されていた中高生は、実は自発的に、そして極めて真剣に勉強するようになります。彼ら彼女らを勉強嫌いにしているものは、学校の先生方の考えの足らない宿題、それに盲従することが「勉強」であると信じ込み片棒を担ぐ親御さん方、そしてそれを儲けるためならさらに中高生の力にならないと知っていても片棒をかつぐ学習塾業界、という考えの足らない大人たちです。そのことに対して大人たちはもっと真剣に反省をし、「宿題をしろ!」「試験勉強をしろ!」と間違った方向性を推奨することで、中高生の未来を奪っていないかを反省しなければならないと思います。

嚮心塾も一人一人の中高生に少しでも「貯金」を作っていけるように、何より誤った方向性を大人に提示されているせいでなけなしの努力も無下に浪費されてしまっている(この点でも宿題は税金と似ています。)彼ら彼女らの将来を守っていくためにも、これからも必死に戦っていきたいと思います。

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嚮心塾は英語民間四技能試験に対応しません!

センター試験後継の英語民間四技能試験は多くの致命的な問題点を抱えたまま、来年度から実施されてしまうことになってしまいます。それに対して英語教育・英文学の先生方が反対の署名を届けたばかりですが、この問題については社会の基盤を掘り崩すような大きな改悪であるのに、社会の関心があまりにも薄すぎると思っています。
(問題点の整理に関してはこのブログが比較的まとまっていると思います。)

あまりにも多くの問題点があるずさんな変更であるために、その問題点についていちいち指摘しにくくわかりにくい、ということもあるのですが、それ以上にことをめんどくさくしているのが、「入試」改悪であるということです。

我が子の受験について心配されている親御さんは、「我が子の人生の大事に変更がなされる」と聞けば、それがどのような変更か、改正か改悪かを考える前に、まず「うちの子はそれで大丈夫か」「うちの子はその試験にどう対応するか」ばかりを考えます。これにはまた、教育産業もひどいもので、このような親御さんの不安を「ビジネスチャンス!」とばかりに煽り立てて、「新テストに対応できます!」と売り込もうとします。このようにしてどんなにおかしな改悪であったとしても、それに抗議することよりも前に、「対応」することに忙しく、結果として抗議もせずに黙々と従う、という失敗をおかすことになってしまいます。

このような奴隷根性の日本人が香港のデモを見て「香港加油!」とか言うこと自体が烏滸がましいというか、ちゃんちゃらおかしい話でして、「お前たちもこっちを応援してないで、もっと自分の戦うべき相手と闘ったほうが良いのでは?」と香港の人たちからも心配されてしまうと思うのですが。。(もっと日本人は「怒る」ことを覚えたほうが良いと僕は思っています。)

英語の習得にどこまでスピーキング・リスニングが必要であるかはそもそも何のためにその外国語を学ぶのか、とリンクしているため一般論を話すのが難しいところではありますが、基本的な英文法の徹底無くして英語が上達することは不可能です。これだけは断言ができると思います。それを徹底した上で、自分の鍛えたい分野をさらに特化して鍛えていく、ということが理想なわけですが、このような入試改悪を「ビジネスチャンス!」と見ては利益誘導を図る教育産業やそれと癒着した文科省には、同じ教育に携わるものとして本当にうんざりします。しかし、彼らはどだいそういうものです。私企業が利益を最大化するためにあらゆる手を使うことを「文科省なら拒絶してくれる」と勝手な期待をするのも、どだい人任せな態度でしかありません。

僕が何よりも問題であると思うのは、このような利益誘導をしっかりと情報を集めては批判をすることもなく、「変化」に「対応」しなきゃ!と唯々諾々とその準備をしていく教師・保護者・受験生です。闘うべきときに闘わずに、そのような恣意的な改悪を防げるわけがないではありませんか。

嚮心塾は、「新テストに対応します!」などと口が裂けても言いません。それは英語の習得にとって、明らかに
失敗であると思うからです。英文法を叩き込み、品詞分解を徹底し、(大学受験レベルなら)目に触れる英文全ての構造を分析できるようになってからでも、スピーキングやリスニングをしっかり鍛えることは決して遅くはありません。
ましてや、こんな適当な採点と基準の民間試験もまざった新テスト対策なんて、という感じですね。(もちろん、英検やtoeflはある程度しっかりしたテストです。)そこに関しては子どもたちの学力をきちんと鍛え続けていけるように、頑固にやっていきたいと思います。

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無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため。

受験が終わってようやく一段落!のはずが新しく塾の体験に来てくれている子たちへの応接、さらには引っ越しの準備などでバタバタしていてなかなか時間がとれません。。何とか時間を作ってはやらなければならないことをしっかり進めていきたいと思います。イチロー選手の引退についても書きたいことが山ほどあるのですが、また次回に書きたいと思います。

「今いる場所から、最短距離で。」というのは嚮心塾のホームページを作るときに作ったキャッチコピーなのですが(考案時間30秒!)、なかなか気に入っています。しかし、「最短距離で」というのはどうも誤解を招いてしまうように思っています。それはなぜかと言えば、「最短距離で」と言ってしまうと、どうしても様々な無駄を省いていって、とにかく効率化をすることが嚮心塾の理想であるかのように聞こえてしまうからです。

もちろん、受験とは時間との闘いであるからこそ、無駄な勉強をしている暇はありません。今やっている勉強の中でうまくいっていないもの、力をつけることにつながっていないものはさっさとやめてしまって、自分がやるべき勉強に集中すべきです。その点では嚮心塾は「無駄を省く」ことをひたすらやっていく塾であるとは言えると思います。

しかし、このように自分の力になっているかどうかわからないものをさっさと排除し、確実に足りない部分を埋めるような勉強だけに専念して、無駄を排して、徹底的に勉強していった先に僕が受験生に何を要求するのかと言えば、「どれだけ無駄なことをやれるかが合否をわける!」ということを説いていくことになります。

ここはなかなか伝えにくいところです。自分の勉強がうまくいっていないとき、というのはたいていあれこれ「やりすぎ」です。だとすると、このようなときに必要なアプローチは無駄なものをとにかく排除して必要なものを最小限に絞り、それを定着するところまで徹底して繰り返していく、ということになります。
しかし、です。そのアプローチによってある程度力がついた後は、どうしたらよいかと言えば、そのように「無駄」として切り捨ててきたものの中に自分にとって今なら意味のあるものがないかを探しては埋めていく、という作業が必要になります。「東大にこんなのは出ないから。」「MARCHではこんなの出ないから。」と言って、様々なものを切り捨てていく子と、それもまた無駄にはならない、と思って丹念にそういったものを一つ一つ消化していく子とで更に合否が分かれていくことになります。無駄な勉強など、実は一つもないのです。

だからこそ、教える側としてはある段階までは無駄を徹底的に切り捨てて身につけるべきものを繰り返し咀嚼できる環境を受験生に整えてあげながら、しかし、段々と最初はまさにその受験生に「こんなの無駄だから、やらなくていいよ!」と言っていたものを後から「これもやった方がよいにきまってるじゃん!」と手のひら返しをしていかねばなりません。もちろん、「この手のひら返し」がその場の思いつきや気分でなされるのであれば、全く信頼をえられないわけですが、受験生の発達段階を見ながら、必要な時期にそのように彼らの評価基準を押し広げることができていければ、それはより強固な力となっていくわけです。

というのは受験指導の話ですが、「無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため」というのは教育に関わらず、どの分野でも言えることであるのだと思います。たとえば演劇などの表現においても徹底的に「無駄」を排した演出でありながら、しかし一見「無駄」に見えるものが入ってきたとたんに我々はその「無駄」の意味を考えるようになります。そしてそのとき、「無駄」は決して無駄なものではなくなってきます。それはまた、最初からゴテゴテと無駄があるときには愛せなかった無駄を愛せるようになっている、ということでもあります。(この極致が僕にとってはどくんごの芝居です!)

つまりこれは「外」の世界と出会い、それを受け止めるためには、内部を突き詰めることが必要となる、ということであるのでしょう。その突き詰めがないままに「外」を取り入れようとするのは、外が外のままでおわってしまい、(取り入れてもその「無駄」の意味がわからないという点で)「無駄」が無駄のままで終わってしまいますし、その突き詰めを徹底した後に「外」を取り入れようとしないのもまた、(その「無駄」の意味がわかるようになっているのにそれと向き合おうとしないという点で)やはり「無駄」が無駄のままで終わってしまいます。

だからこそ、徹底的に無駄を省くのは、無駄を愛し、その無駄の意味がわかるためでもあるのです。受験勉強の内部で無駄な受験勉強を省く必要があるだけでなく、受験勉強ということ自体が生活や人生の他の部分を排除しては特権的な受験勉強、というもののために他のすべてを「無駄」と定義する営みでもあります。それはまた、暴力的であるとさえ、言えるでしょう。しかし、そのように無駄を省くことが、自身を磨き、その一旦は「無駄」と定義した外界を愛し、意味を受け取るために用いることができるのなら。。
そのような願いを込めて、日々しっかりと生徒たちに向き合い、このような姿勢を伝えていければ、と思っています。

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「個別指導」の定義について。

「個別指導」という看板を出している塾は山ほどあって、嚮心塾ももちろん「個別指導」をうたっているわけですが、「生徒一人に先生一人」あるいは「生徒2〜3人に先生一人」というのが個別指導であるのだとすると、嚮心塾は「生徒30人〜40人に先生一人」なわけで、こんなの詐欺だ!となってしまいます。

ですが、こちらでは個別指導の定義をそのように考えていません。むしろ、真の個別指導とは、「勉強とは何かについて、生徒一人一人の認識の枠組みを変えることができる指導」であると考えています。これはすなわち、勉強とは何か、それはどこまで徹底することが効率が良いのか、逆にどこでサボることは効率が悪いのか、そういったすべてを一つ一つ手取り足取り改善していく、という意味では嚮心塾ほどに「個別指導」をしている塾はそんなにないと思います。人数だけ一対一でも教師が知っている知識を垂れ流し、それを生徒が吸収するための姿勢ややり方を持っていれば身につくし、もっていなければ何も身につかない、ということではやはり「個別」に「指導」できているとは言えないと僕は思います。

「学習について生徒一人一人の認識の枠組みを変える」というのはすなわち、どのようにすれば勉強ができるようになるか、どうして自分は勉強ができていないのかに気づかせていく、ということです。勉強をしない子は、実はそんなにいません。子供というのは様々な空気を読んでついつい勉強してしまうものです。しかし、その際に、どういうところはサボってはならないか、逆にどういうところはサボっても大丈夫かといったところをわからないままに自己流でやれば、結局勉強はしていたとしても何も力がつかないことになってしまいます。

しかし、このようなケースで子どもたちを責めることは一番してはならないことです。子どもたちは彼らの考える「最善」を尽くしていることが多いからです。ただ、彼ら彼女らの考える「最善」が現実からはずれていて、やるべき勉強を後回しにしてはやらなくてもいい勉強ばかりをしているからこそ、「勉強しているのに力がつかない!」という状態になってしまっています。そこを解きほぐし、どのようなことをやるべきかに気づかせていくのが指導者の力量であり、「(真の)個別指導」にしかできないことであると思います。

特に一般に子どもたちは考えなく手を動かすことを「勉強」と定義してしまうことが多いです。彼らの言う「勉強」は漢字の練習であれ、英単語の綴りの練習であれ、自分がその漢字や英単語を覚えているか、とは関係なくただノートが埋まっていくことに快感を覚えます。
また理解できているかどうかには興味がなく、「何となくこんな感じだった。」と解けた問題については一顧だにしません。その上で、間違った問題について真剣に考えるかと言えばそうではなく、間違ったものは何でも「ケアレスミス」というように分類して、次は自分ができる気でいます。その中で本当に「ケアレスミス」であるものはほとんどありません。
(もちろん、これらの特徴について、「子どもたち」は生まれつきそういうものだ、とは僕は思っていません。どこかで何らかの誤った教育によってそのようになってしまっているだけだとは思います。)

このような誤った学習習慣を粘り強く変えていくこと、さらにはそのように変えたほうが結局彼ら彼女らにとっても勉強の力はつくし、結局理解してしまえばテストの点も良くなってお母さんに怒られないし、その上受験にも役立つ!というようにほんのちょっと、努力の方向性を変えることで彼らの努力が「勉強しているフリ」から、「実際に彼ら自身の人生を支える力」になっていくという事実を伝え、説得していかねばなりません。

そこまでしてこそ初めて「個別指導」であると僕は考えています。だからこそ、僕はほとんどの個別指導の塾というのが
「先生対生徒の人数比」という建前を隠れ蓑にして、結局そのような生徒の改善すべき内面や思考には入って行けていないと思っています。もちろん、そこまでの力量、あるいはやる気のある先生が安い時給で集められるわけがないので、そこは仕方がないわけですが、しかし、「個別指導」というやり方にはもっと可能性があるはずなのに、あまりにもつまらない個別指導しかないこの状況は本当に残念です。嚮心塾だけはそのような本当の個別指導をより磨き抜いていけるように、必死にやっていきたいと思っています。

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英文法至上主義のススメ。

嚮心塾では中学生からしっかりと、また高校生には特に英文法を徹底的に勉強します。その勉強の仕方、というのは毎年ブラッシュアップして無駄を省いたり、よりよい教材を探したりは試行錯誤をしているのですが、英文法をやらない、という選択肢はありません。それはなぜかと言えば、英文法をしっかりとやり、品詞分解が隅々まででき、そして文型をとれるようになれれば、英語は必ずできるようになるからです。それができないままに他の「より楽な」ルートを探す、ということが勉強の方向性としてはかなり可能性が薄いと思っています。

もちろん、英語力のスタートラインは人によって違うので、帰国子女、あるいはそれ以外の理由でも英文法をしっかりとやってこないままに英語がそこそこ身についている子であれば、そのたびに別のルートを模索します。
ただ、今のところの結論としては「結局、英文法をしっかりとやった方が力がつくのが早い。」という結論に至ります。

これは結局私達が英語を勉強するとき、あまりにも英語の用例が足りていないため、英文法というツールを使わずして理解できないものがあまりにも多い、ということに拠るのだと思います。

そして英文法を学習するときは(数多の高校での誤った「英文法」の勉強法のように)決して問題集を解きません。英文法の問題集を解くのはあくまで受験間近の知識確認であり、概説書を読んで理解を固めることの方が読むためにははるかに重要です。そのようにして、英文法→品詞分解→構文把握、という一連の流れができてくるようになれば、英語ができないままに終わる受験生、というのはいません。そこに関しては本当にひどい状態から英語の勉強をする子であっても、この手順で必ずできるようになると言えるでしょう。

こんなことは僕のような英語教育の素人が語るまでもなく、英語教育の専門家の方たちなら誰もが一致する結論であると思います。しかし、日本の英語教育は逆の方向に進んでいます。とりあえずたくさん読んだり聞いたり話したり、で慣れてしまえばいい、という方向へと進んでしまっています。これは小学校での英語教育の低年齢化、さらには民間四技能試験の拙速でいい加減な導入など、様々な理由があるとは思いますが、基本的に英語を勉強し続けていない大人達が英語の教育の仕方を決めてしまっている、あるいはそのような適当な英語教育の旗を振っていた方が儲かる大人がそちらへと誘導している、と言えると思います。読み書きの能力を鍛える、そしてそのための英文法をしっかりと勉強する、ということは今の世の中では「流行に合わない」英語教育として廃れつつあるように思います。

だからこそ、嚮心塾では英文法の大切さを説き、それを鍛えていくことで受験生に受験を切り抜けることのできる力を
鍛えていきたいと思っています(もちろん、これも大学受験が大きく変質してしまい、今よりも読む能力に関係なくリスニングやスピーキング主体のテストばかりになってしまえば、この指導では受験にも受からないことになってしまいます。しかし、英語の民間四技能試験の導入の仕方を見ても、東大を始めとして各大学はそこに関しては抑制的でアホな文科省の方針に形式上参加するだけで今のところ逆らおうとしてくれている、と思っています(大阪大は違いますが)。)結局アホな文教政策で子どもたちの英語力が衰えていけば、そのツケはこの社会全体が払わねばなりません。

このように、アホな方向への「変化」「改革」に対して、どのように抵抗をしていけるか、が現代の問題であると言えるでしょう。それは入試の英語に限らず、です。このようなときに「変化」や「改革」に適応することだけを考えていけば、結局社会を改悪していくことに手を貸すことになってしまいます。どのように抵抗するか、を大学の中にいる人達も外にいる人達も必死に考えていかねば、子どもたちの未来は危ういと思っています。

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伝わる瞬間を見届けられなくても。

先日最終回を迎えた話題のドラマ、『3年A組』も第二回からずっと見ていました。言葉の重みのあるセリフが多く、
とても良かったのですが、教育に長年携わっている立場からすると、「伝わる」ということがあまりにも瞬時に起きてしまうので、そこがどうしても感情移入しにくいところでした。

これは別の教育系のドラマでも、それこそ『金八先生』とかからそうなのでしょう(僕はあまり金八先生を見ていないので詳しくは知らないのですが)。教育において、先生からのメッセージが生徒に伝わり、生徒が何かをつかむ瞬間が一番「劇的」である以上、そのシーンのない教育系のドラマというのはもはや視聴者を引きつける見どころが何もないものになってしまいます。だからこそ教育をエンターテイメントにするためには、生徒に「伝わる」瞬間がどうしても必要になるのは仕方のないことです。

しかし、たとえば僕がどんなに必死に努力してどんなに何かを伝えようとしても、それが生徒たちに伝わるのは、控えめに見積もっても僕の目の前では起こり得ないでしょう。それどころか、塾を卒業するなり辞めるなりして、さらに生徒たちがそれぞれの人生を必死に取り組んでは苦しみ、いいかげん年齢を重ねておじさん、おばさんになったとき、あるいはおじいさん、おばあさんになったときに初めて、「そういえばあの口うるさいおっさんがこんなこと言ってたな…。」くらいに思い出すのかもしれません。恐らくこれが、「伝わる」タイミングの中でも最速(!)くらいではないかと思っています。

だからこそ、教育というのは根本的に「相手に伝わっている」という確信を持つことができないままに、伝えようとする側は死んでいくものです。もちろん、目の前の生徒に「伝わったな。」「素晴らしいな。」と思えるような瞬間を目の前で起こすことができないのは、僕の教える側としての力量不足であり、もっと素晴らしい先生たちならそのような魔法のような瞬間を引き起こせるのかもしれません。

しかし、それもまた錯覚である可能性は十分にあります。だからこそ、伝えようとする側としては必ず、「この、こちらが真剣に伝えようと思って喋ることが仮に伝わらなくても、あるいは伝わったとしてもなお、その伝わった瞬間を見届けられないとしてもなお、自分は喋らねばならない。」という覚悟を常に持ち続けては喋らねばなりません。逆に言えば「伝わる瞬間」を目指して教師をやるのであれば、どのように「伝える」力のある教師であっても、いずれ夢破れ、教えるという行為に絶望をする瞬間が来てしまうように思います。

全く伝わらない可能性ばかりで、伝わるとしてもなお、その伝わった瞬間を見届けることはたいていの場合にはできないままに自分は死んでいくとしてもなお、伝えなければならないことを伝えようとできるかどうか、そこにこそ教育に関わる人間に真に覚悟を迫るものがあると思います。

マルティン・ルターの言うように「明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える。」という姿勢が大切です。
教育とは即ち、そのような虚しさを前にして、私達がどう生きるか、の問題でもあるのだと思っています。それはまた、教育に携わる人に限らず、生まれた瞬間から自身の死を運命づけられている我々にとっては普遍的な問題であるとも思っています。

今年も様々に塾に通う子たちが受け入れがたい提案をしてきました。彼ら彼女らの想定する自己を乗り越えてもらうことが、受験に受かるためにも必要であったからです。そして、受験が終わってもなお、そこでのこちらの問題提起は響いてくれるのでしょうか。それがどうなるかはわからないにせよ、僕もまた引き続き、決して諦めないように、伝わる瞬間を柊先生のようには見届けられなくても、最期まで伝えようとし続けていきたいと思います。

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無理強いをしないこととすることのバランスについて。

国公立大の合格発表は今日から始まっていますが、塾の受験生が受けた学校の合格発表は明日から順次続いていきます。
もちろん、全員に合格していてほしいと強く願っていますが、どのような結果であれ、目を背けないようにしっかりと受け止めていきたいと思います。

嚮心塾に見学に来る方の多くが最初に驚くのは、塾生たちが必死に勉強をしているその空気です。これについては初めて来られる方には驚かれることが多いです。これは何も最初から努力をする子ばかりが塾に通っている、ということではありません。最初は努力をしていなかった子たちも通い続けていく中でだんだんと勉強に集中し、ペースが上がっていきます。

ではこちらで何か魔法のようなことをしているのか、というとそうではありません。
その子にとって適切なレベルの教材と適切な目標設定をするだけで、よほど中学受験でムリヤリ勉強させられて、勉強にうんざりしていてどのようにそこから逃げ出すかばかり考えている子以外なら、自然に勉強に取り組むようになります。

このことが意味しているのは「子どもたちが勉強を自発的にはしない」と大人が嘆くとき、必ずそこには勉強をしないだけの理由がある、ということです。もちろん、そばにゲームとかyou tube とかよりハードルの低く、誘惑の強いものが
あればそれに負けて勉強しないのは誰でも同じであると言えるでしょう(これに関しては大人も同じですよね。)。
しかし、そういったものを遮断してなお、勉強に子どもたちが自発的に取り組めないとき、というのはたいていは今使っている教材のレベルが合っていないか、あるいは的確な目標設定ができていない、ということであるのだと思います。子どもたちは正直です。(難しすぎるのであれ、簡単すぎるのであれ)「こんなことやっても意味がない!」と思った瞬間から、全くやらなくなります。そのような状態で無理に勉強をさせようとするのは害悪でしか無く、子供も大人も疲弊し切った後に何も残らない、という悲劇につながります。だからこそ、適切な課題を的確に目標設定していく、という能力こそが教師には必要であるのです。

と偉そうに書きましたが、僕自身もこれだけ長いこと、様々な子たちを教えてきてもなお、最初から的確にその子の課題や目標設定を間違えないことはできません。しかし、設定してはその反応を聞きながら微調整をしていくと、やがてフィットしてきてから後は、勝手に進めてくれます!それくらいに子どもたちはみな、勉強をして解ったり力がつくことに対して、
大人が想像するよりもはるかに貪欲であると言えるのです。

だからこそ、子供に勉強を無理強いするのは、多くの場合、間違っています。
その子がその勉強をしたがらないということは、今やろうとしている勉強自体がその子の今の状況にはfitしていない
ということでもあるからです。そこを無理強いしてやらせることは、勉強全般に対する苦手意識と嫌悪感を抱かせるという意味で、害悪でしかありません。

というのが一般論だとしたら、受験生にはさらにこの一般論の限界を見極めながら指導していく、という注意深い指導が必要となります。十分に努力をしている受験生に関して言えば、むしろ「無理強い」をしていかねばなりません。
なぜなら、彼または彼女が自発的に取り組むことができる分野に関してはこれ以上伸びない可能性が高いからです。
苦手意識やその他の理由から、彼ら彼女らが放置している部分に目を向けさせ、そこを後回しにする彼ら彼女らの自己正当化の理屈を徹底的に論破した上で、「無理強い」をしていく必要が出てきます。そのようにしていかなければ、結局「たくさん勉強した!」という彼ら彼女らの現実からずれた自己満足を抱えたまま、彼らは入試に臨み、そして試験会場で自分の思い込みがいかに現実からずれていたのかに不合格という代償を払って気付かされることになってしまうからです。

この「無理強いを極力避ける」ことと「無理強いを積極的にしていく」ことのバランスが本当に難しいです。
これは同じ学校を受ける子であっても一人一人バランスが違いますし、一人の受験生であっても科目によってタイミングが
違います。さらに言えば、その子の精神状態によって、そのような手法が取れるかどうかもまた大きく変わってきます。

このようにして、一人の子が勉強を始め、それを自発的にやるようになり、さらにはそれが自分の自己満足にとどまらずにしっかりと結果を出せる力になってくるまでには、教える側がアプローチの仕方を考えなければならない様々なphaseがあります。今年の受験生一人一人について、それを悩み抜き、様々なアプローチをとってきました。
その結果を僕自身も明日からまた、しっかりと受け入れたいと思っています。

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シンクロ率。

国公立受験は終わったのですが、ここから発表まではみなヒイヒイ言いながら自己採点を何回も繰り返してしまう時期です。「最悪の想定」をしては、「やっぱりおちたー!」と悲観的になったり、「最善の想定」をしては「これだけ取れてるんだから落ちようがないよな。」と楽観的になったりと、後期を受けなくて勉強から開放されたはずの受験生でも、遊んでいたりゆっくりしていたとしても、気が気でない状態があと10日ほどは続きます。

何年教えていても、この時期というのはこちらも精神的に疲れます。去年の東大受験生も手応えを聞いて、「まあ、これは受かったな。」と確信はしていましたが、しかし結果が出るまでは安心できませんでした。難易度が高い入試になればなるほどに、合格ラインのあたりに受験生が固まっているので、ちょっとしたミスで合否が分かれることになってしまいます。

だからこそこちらは一人一人の受験生がどの部分では本人ができていると言っていてもそこは信頼すべきではないか、逆にどの部分での自己評価は正確か、というように「受験生の自己評価」の評価をしていく必要があります。

これは何も受験の結果の予想のときだけではなく、普段教えるときから意識してやっていることです。
一人一人の受験生の「わかる」「できる」がいかに怪しいか、についてはこの業界で教えておられる方々なら
よくわかるところだとは思うのですが、「わかる」「できる」が実は何も解っていなく、少しもできていないことをいかに思い知らせていくか、ということが日々の僕の仕事です。その点では彼ら彼女らの「できる」「わかる」を決して信頼しない、ひどい大人であるとは思います。

ただ、長く見ているとさらに「この子の『できる』はこの部分についての自己評価としては正確だな。」とか逆に「この子の「できる」はこの部分についての自己評価については全くあてにならないな。」などと言うように、彼ら彼女らの自己評価自身の傾向というものまで、こちらでは見えるようになってきます。
だからこそ、そのような彼ら彼女ら自身の評価関数の偏りに気をつけながら、彼らが過小評価しがちな弱点を見つけ出し、ほじくり出し、そしてそこを補強していく必要性を徹底する、ということが僕の仕事です。

人間には、どのような超一流のプロフェッショナルにも、必ず思考の「癖」があります。その癖はたいていの場合、
彼や彼女自身を超一流たらしめている原動力でありながら、彼ら彼女ら自身がそこからさらに成長することを阻害している要因にもなっています。受験生も同じで、よくできる受験生ほどに過去の成功体験にとらわれているせいで限界を作ってしまっています。彼ら彼女らのそのような思考の癖を見抜いた上でトレースして、そこを別の可能性もありうる、むしろ別の可能性の方がこの場合は良いことなどを考えてもらっていく必要があります。

そのように一年間やっていくと受験生一人一人の思考回路をトレースし、どのようなところはできるか、逆にどのようなところはできないか、というものがだいぶ見えてきます。深く教えている(これは関わった時間の長さではありません。端的に言えばどれくらい突っ込んで付き合えたか、というところで時間の長短にかかわらず、深くまで突っ込めた)受験生ほどに「シンクロ率」が高くなるので、かなり正確な予想ができる、というところがあります(去年の東大受験生にはその「シンクロ率」の高さへの自信が、受ける前からこちらにもありました)。

その思考回路のトレースにおいて、シンクロ率が高い受験生もいれば、低い受験生もいるため、予想も難しいところです。
「シンクロ率」なんて言うと、ちょっとエヴァンゲリオンっぽいです!
どちらかと言えばシンクロされる方のエヴァンゲリオンに近い身体の大きさの僕ですが(しかもあんなにスリムではありません!)、少しでも生徒の思考回路をトレースしては見逃しがちなところを把握できるように、
来年の受験生ともここからの一年でシンクロ率をどこまで上げていけるかが勝負です。必死に教えていきたいと思います。

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