嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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「掛け算の順序論争」に終止符を打てるか!

表題通りにかけ算の順序論争に終止符を打てるかどうかは別として、考えねばならないところまで議論を前進させられればと思います。

まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば

「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して

2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。

この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!

さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)

なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。

もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。

もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)

だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。

子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。

つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。

まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。

もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)

最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。

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愛とは何か。

この仕事をしていて、いつも痛切に感じられるのは親御さんが自分のお子さんのためにどれほど懸命に努力をされるか、ということです。自分の子供に対して本当に自分のことのように思い悩み、身を削ってなんとかしようとするその努力に対していつも心を打たれます。特に同じく2児の親でありながら、自分の子供を他人の子供よりもよけいに愛することの出来ない僕にとってはなおさら、ひとりひとりの親御さんの献身的・超人的な努力と愛が本当に眩しく見えます。

それとともにこの仕事をしていて痛切に思うのは、その愛情がいかにすれ違いしか引き起こさないか、という残酷な現実でもあります。どのように努力や思いを尽くそうとも、子供は親の思うとおりには育ちません。もちろん、方向性が親の望むそれでなかったとしても、その違う方向性へと向かう熱量が大きければそれはそれで子育ての「成功」であると僕は思いますが、それですらもなかなかに難しい、というのが現状であるのだと思います。その厳しい現実に傍目から傍観者として見るのではなく、そのすれ違う思いを何とか噛みあわせるためにこそ塾というのはあると思っていますし、その点で親御さんの協力者であるだけでも子どもたちの代弁者であるだけでもダメで、その両方をやりながら、何とかそのすれ違う思いを噛みあわせていきながら、子どもたちに自分たちの人生を自力で切り開く力をつけてもらいたいと思って日々やってはいるのですが、それがどのりょうに努力しようとも、本当に難しいことであると日々思い知らされています。こんなしんどい仕事だと最初からわかっていれば、絶対に選ばなかったのに!という思いで毎日全力でやっています(まあ、これは嘘ですね。初めから知っていて覚悟を決めて飛び込んだつもりでした。しかし、当初の僕の覚悟しかないのなら、とっくにやめているほどしんどいことだとは気づいていなかったというのが本当のところです)。

ただ、この仕事を続けていく中で、僕の中では「愛する」という言葉の定義がだんだんとわかってきているように思っています。自分が正しいと思うものを相手に伝えてそれを実行してもらおうとしても、相手がそれを正しいとは信じられない時にはそれは伝わり得ないわけです。それに対して「相手の考えがわけがわからない」とするのではなく、自分の中での「正しさ」の定義をそこでもう一度疑い直せるかどうかこそが、愛情の深さなのではないかな、と思うようになりました。その点でどのように懸命に相手を自分の理想とする「型」にはめようとしても、それが自分が相手にはめようとする「型」自体が本当に正しいのか、そのモデルが自分にはぴったりと合ったとして、違う人間である我が子にもピッタリ合うかどうかは実はわからない、という疑いをもてるかどうかこそがとても重要であるのだと思います。

もちろん、そもそも相手が何も頑張ろうとはしていない、あるいは頑張ろうとしていることのその密度が圧倒的に足りない、などということは批判をすべきでしょう。それをせずして「違う人間であるから何でも認める。」という姿勢をとるのは、単純に責任を放棄しているだけです。自分が必死に何らかの価値を追求し、そのために努力をしていることがそもそも必要です。しかし、それを必死に追求してきた自分の人生に一点の曇りがないとしてもなお、違う道へと同じかそれ以上の努力の密度で挑もうとする子どもたちを「選ぶルートが自分とは違うから」という理由で否定をしてはならないのだ、と思います。だからこそ、本当に子どもたちを愛する親や教師というのは、絶えず自分の価値観を疑うことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが親や教師として鍛えられる、ということとも同義であると思います。一つの真理や正義に安住するわけにいかない、という悩みこそが人間性を深めるものであると思うからです。

だからこそ、自分が何かの方向へと懸命に自分の人生を懸けて努力をすることは、その方向を疑うためでなければあまり意味がないのだと思います。方法的懐疑が目的へと堕した瞬間に懐疑は自己目的化してしまい、検証を伴わない懐疑がすべての努力の足を引っ張るだけという情けない事態になってしまいます。しかし、人間というのはどうしても心の弱いものであるので、自分が懸命にそれこそ人生をかけてやってきたことについては、そこに価値があると信じたくなるものですし、逆に何かを頑張りたくない人間にとってはその自分が頑張りたくないと思うものに価値が無いと信じたくなるものです。しかし恐らく現実は、どのような学問もどのような技術もどのような社会貢献も、私達が人生をかけてそこに投資をするほどには価値の無いもの(必ずその限界を伴うもの)でありながら、しかし、私達がそれを全くしないよりは価値が有るものであるのだと思います。その残酷な現実を少しでも検証していくために、私たちは私達の信じるものがそれほど信じるに値しないことを知るためにこそ、必死に努力をしていかねばならないのだと思っています。それこそが、一つの中心へと「帰依」や「信仰」のように収斂していくものではない、本当の愛情なのではないかと思います。その意味で愛は拡散的であるがゆえに、打ち捨てられゆくものであると言えるのではないでしょうか。広がり、打ち捨てられ、踏みにじられることを恐れずに、様々な作業仮説を疑うための努力を今日もしていこうと思っています。

もちろん、このように偉そうに言う僕が生徒たちの思いを踏みにじっていないのかと言えば、失敗ばかりであるのでしょう。僕は生徒達に話を聞いてもらうために叱る、あるいは怒るという手段をほぼ使いませんが(よく怒る教師は自らその武器を奪うことになります。オオカミ少年になってしまいますよね)、それでも「ここでこそ怒らなければならない!」とかなり精密に計算をして叱ったつもりが、その真意が全く伝わらずにただ相手の感情を踏みにじるだけになってしまう、という失敗だってよくあることです(まあ他の先生方と比べれば少ないのかもしれませんが)。しかし、叱ること、叱らないこと、あるいは相手を型にはめようとすること、あるいは型にはめようとしないこと、そのすべてが相手に対しての暴力になっていないかどうかについては、絶えず自覚的にチェックしていかねばならないと思っています。何が暴力で何が愛情であるのかは時と状況と相手によってすべて変わっていきます。だからこそ、「これが愛情だ!」「これが暴力だ!」などという安直な決め付けを自分に許さずに、絶えず考えぬいて行きたいと思います。

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教育経済学のすきま

しばらく書いていなかったのですが、嚮心塾にはホームページもなくてこのブログしかない上に、そもそもそのブログもたまにしか更新されないは、書いてあることも塾の様子とか受験のこととかではないわけで(何しろ、最新のエントリがどくんごの東京公演の感想ですからね!そもそもどくんごって何だよ!というのが一般的な反応ですよね。。)、全くこのような塾を探してご連絡をいただけるお父様、お母様方の努力には本当に頭が下がる思いです。ということで今回は少し反省して、久しぶりに教育について書いてみたいと思います。

教育経済学が中室牧子先生のおかげで少しずつ日の目があたってきていることは僕は素晴らしいことだと思いますし、成果のはっきりしない思い込みに基づく指導法をevidence -basedにしていく事自体はとても大切なことです。しかし、それがもっと普及すべきであることには諸手を挙げて賛成できるとしても、その先にまた別の難しい問題が残るのが「教育」という取り組みの難しさであると僕は思います。

塾生の勉強への姿勢や質が変わってきているのに、通塾を打ち切られることというのが非常に多いのでついついこちらとしては嘆きがちなのですが、教育においてはどうしても結果は最後まで出てこないものです。たとえば、塾生の変化の仕方を見てもまずは勉強への意識が高くなり、次に勉強時間を増やすようになり、次に勉強の質を高めることになっていき、最後に結果が出る、ということになります。この①勉強に対する意識の変化→②自発的な勉強時間の増大→③勉強の質の向上→④(成績向上などの)結果が出る、というプロセスには、現在勉強に苦しんでいる子たちはほぼ共通するプロセスであるというだけでなく、この一つ一つのプロセスのどれもが決して省略できないものでもあります。たとえば、よく親御さんに塾の役割として求められるのは③の「勉強の質の向上」であるのですが、これは端的に言えば①→②のプロセスを本人が踏んでいなければ、こちらがいくら様々な方法論を伝えようとも決してうまくいかないものであることをほとんどの親御さんは誤解していると言えるでしょう。(「いや!うちの子は勉強時間はこれ以上とれないくらいとっている!ただ効率が恐ろしく悪いのだ!」という反論をよくされるのですが、まず勉強時間を無理に睡眠を削らない範囲で可能なだけとっている小中高生自体がほぼいませんし、仮に勉強時間を物理的にそれだけとっているとしても、それらが自発的なものではなく強制させられている以上、子供というのは机に向かって鉛筆を動かしていても、いくらでもサボれるものであるのです。)

なので、まずは①の勉強に対する意識の変化が重要です。勉強というのは学校の教師や親、さらには塾や予備校の講師に無理強いさせられるものではなく、そもそも自分の将来に向けて自分にとって必要であること、またそれを嫌だと感じているのはむしろ勉強がデキる子であっても同じであり、ただ嫌でも必要なものとして諦めて努力する姿勢を身に着けている子とそうでない子との差がついているにすぎないこと、さらにはそのように若いうちに自分が嫌でも必要だと感じることに努力を惜しまず取り組んでは結果を出していくことが自分にとって、現在のような「学校歴社会」がなくなったとしてもとても意味の有ることであること(教育経済学の中室牧子先生もここについては強く主張されていますよね!)、さらにはそもそも日本において学校歴社会がなくなる気配はまだまだ当分ないであろうこと(それはマイナビやリクナビが支配したあとの就職活動においてはなおさら「学校歴による足切り」が厳しくなっており、学校歴は十分条件ではないにせよ、必要条件としてはむしろ以前より厳しく求められるということ)を子どもたち一人一人が理解することが大切です。ここに関してそもそも①に関して勉強の意味を大人たちは子どもたちに理解させるのが面倒くさい、というよりも自分たちも言葉で説明できるくらい理解できていない事が多いのではないでしょうか。子供に勉強をさせたいのなら、まずは大人たちが自分たちが勉強をしてきて(あるいはしてこなくて)うまく行った、あるいはうまく行かなかったということの功罪をしっかりと総括して子供達に自分の言葉で伝えていくことが大切です。それが成功談であれ、失敗談であれ、そのような言葉は子どもたちに強く響きます。特に失敗談の方が強く心に響くと言えるでしょう(マンガ『暗殺教室』でも殺せんせーが「教師とは自分の成功を子供達に伝えたいか、自分の失敗を子供達に伝えたいかのどちらかだ」と言っていましたよね!特に「失敗」の方が子供達の心には必ず強く響くと思います。人は成功を誇るときは傲慢であるとしても、失敗を悔いるときは人間性の最も崇高なものがそこに現れるからです。そのような「大人が自分の失敗を本気で悔いて子供に伝えること」以上の教育を僕は知りません。)。そのことを親や教師があまりにもやらないままに「勉強をしろ!」と言っているのが日本の教育の現状であると僕は思っています。

そして、次に②の自発的な勉強時間の増大です。これが「自発的」でなければ意味がないことは最初に少し述べました。強制的に勉強時間を増やしても、結局机に向かってサボる時間が増えるだけになってしまいます。ここでは「質より量」ではなく、まず「量」が優先します(もちろんベルクソンの言うように、「『量』とは注意力を失って注意されなくなった『質』のことである。」という主張を僕はこの上なく正しいと思っています。この言葉はそれこそスターリンの「100人の死は悲劇だが、100万人の死は数字である。」という冷徹な言葉という傍証を引くまでもなく、人間の認識の仕方を見事なまでに的確に描写していると思います)。勉強において、「量」を先に徹底して増やすことが重要であるのはどのような受験生も毎日15時間はなかなか勉強できない、あるいはそれができたとしても毎日18時間や20時間となるとできないわけで、量を増やして間に合わせようとすることには限界があると思い知るためです。これには、勉強をしていない子特有の「自分は努力をしていないだけで、努力すればできるんだ!」という根拠の無い甘えを早々と捨て去ってもらうためという目的もあります。勉強時間を増やさなければならないけれども、それを増やすだけでは決して間に合わないことを自覚して初めて、③の質をどのように上げていかねばならないか、ということに思い至ることができるようになります(もちろん、これはそもそも残り時間が少ないと痛切に感じては必死に勉強している受験生であれば、この②のプロセスを短期間で通過できるケースもあります。ただ、そのような受験生の場合、自然に③のプロセスへと移行していることが多いので、むしろ②のプロセスで止まる受験生というのは極めて少ないように感じています。)。人間というものは、自分が一生懸命に取り組んでいるものがうまくいかない時に初めて真剣に悩み、その打開策を考えようとします。一方で自分が一生懸命に取り組んでいないもので成果が出ない場合には周りのせいにしたり、あるいは自分が一生懸命やればうまくいく、と自己弁護をするものです。そして、学校の勉強、さらには受験勉強というのはほとんどの受験生が自発的に取り組むものではなく受動的に否応なしに取り組まされるものである以上、そのように受動的に始まったものを能動的に捉え直さなければ、決してその質を向上させようとは思わないのです。それは人生と同じで、受動的に始まるものであるのです。吉野弘の『I was born』という詩に見られるように、一人一人は生まれようと思って生まれたわけではないのにもかかわらず、生きようと能動的に決意しなければならないわけです。それは実は学校制度に担保される勉強も全く同じであると僕は思います。

そしてようやく③の勉強時間の質の向上へと繋がります。このプロセスでは自分の勉強の仕方のすべてを疑える子が強くなります。すなわち「自分が今まで「勉強」として定義していたものの再定義」を隅々まで図っていけるかどうか、ということですね。もちろん、受験生の勉強の仕方に対してこちらで疑問を投げかけることでそのような自分が「勉強」だと思い込んでいたものの再チェックをこちらからも促していきます。しかし、そうはいっても、すべての受験生のすべての認識を一人の教師がすべて把握することはおそらくできません。だからこそ、教師のやるべき仕事はそのように「自分のやり方を疑う」ことを教えていくことであるのです。それが本当に効果が高いかそれとも効果が上がっていないかどうかを絶えず自分でチェックするように習慣づけをしていくことが大切です。もちろん、この「自分の勉強の仕方を疑う」というのも程度の問題で、あまりすべてを疑いすぎてしまうのはそれこそ自己免疫疾患のように、自分自身まで攻撃してはかえって逆効果になってしまうのですが、そのあたりのバランスの取り方についても、教師の腕に委ねられていると言えるでしょう。

このようにしてようやく、④の結果が出てきます。もちろん、実際にはここで単純化したように①→②→③というプロセスがくっきりとわかれているわけではありません。実際には残り時間というタイムリミットを見ながら、①のプロセスと②のプロセスを何とか並行できるように苦慮したりしています。また、②と③のプロセスについてはほぼすべての受験生が②を終えてから③に移行できるわけではないので、同時並行になることが多いと言えるでしょう。さらには一つ一つの教科について、この①の段階、②の段階、③の段階がすべて入り混じります。たとえば数学については③まで来ている子も化学については①の時点で挫折していたり、その逆があったりと大変ですし、一つの教科についての気づきやbreakthroughを他の教科にも応用できる子、というのが実はかなり限られるのでその辺りもそれぞれの気付きやbreakthroughが本人の中でつながっていくように、という指導もこちらでしなければなりません。

という諸々があって、ようやく結果が出てきます。本当に大変な道のりですし、そのような諸々をクリアして毎年受験生が難しい大学に合格していくのも本当にすごいことだと思います(誰もほめてくれないので、自分でほめました!自給自足!)。ただ、このエントリの目的は「だから、みなさん、嚮心塾で成績という結果が出てなくても許してね☆」ということではありません。こういったことも含め、塾にすべての責任があるというつもりでこちらは教えています。しかし、このようなプロセスをよほどの天才でない限りいくら迂遠であっても辿らざるを得ないという「不都合な事実」を認めたうえで、どの段階に自分の子供がいるかを親も教師も絶えずしっかり考えていくことが長期的に見た子どもたちの成長にとってはとても重要であるということです(松井秀喜選手がヤンキースに入団した時、名将ジョー・トーリは当初は全く打てていない松井について聞かれ、「そのうち打つよ。彼はボールがよく見えていて、三振の仕方がいい。」と言ったそうです。その後の結果はご承知の通り、トーリの予言通りになったのですが、三振という結果だけではなく、三振の仕方を見ることが「人を育てる」ということであると思います)。それをせずに「結果が出ないから」と改善しつつある取り組みを切るのでは、「無駄」に見える基礎研究を守っていくことの大切さを主張する大隅良典先生に対して、「競争的資金を拡充しますよ!(結果出したらお金あげるよ!)」と的はずれな言葉で応えるとんちんかんな文部科学大臣と、知的レベルにおいて何ら変わらないことになってしまいます。どちらのアホさにおいても、その短絡的な判断の犠牲になるのは、若い人たちであるのではないでしょうか。(もちろん改善が見られないのにそこに予算をかけるべきであるのか、という問題は国の科学予算であれ、卑近な塾や予備校代であれ、また考えなければならないもう一つの大切な問題です。しかし、そこで大切なのは「改善」を見ようとしているかどうか、であるのだと思います。「役に立つ」あるいは「成績が上がる」のは、あくまで最終段階でしかない以上、それ以外の「改善」を見ようとする目が(ジョー・トーリのように)なければ、やはりそれはせっかく育ちつつある芽を潰すことになってしまうのだと思います。)話を戻せば、evidence-basedにしにくいものについては、やはりそれに携わるものの見る目を鍛えるしかない、というところが教育の難しさ、教育経済学のすきまとして絶えず残りうるところなのではないかと思っています。

また、だからこそ僕は嚮心塾に通ってうまくいかなかった生徒たちも嚮心塾をなかったことにはできないと思っています。退塾するにせよ、そのような改善のプロセス自体が少なくとも存在することを知っているのは、その後の人生で真摯に取り組むにせよ、あるいは投げ出して中途半端に生きるにせよ、決して無視の出来ないものとなるはずです。自分の意識を改革できずに努力を積み重ねられなかった子も、努力をしなかった自分というものを決して自己正当化することはできずに残りの人生を生きざるをえないのではないでしょうか。それがいつか、彼ら彼女らの生きる力となれるように、今日も生徒たちにどんなに嫌われようとも、自己正当化のためだけの努力をしっかりと論破していっては、自分を鍛えるための意識と方法とを塾生の中に育てていきたいと思っています。

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愛は惜しみなく掘り崩す。

ブログを書くのが久しぶりになってしまいました。受験生の合格体験記を待つこの季節は、どうしても新年度のドタバタと相まって間隔が空きがちになってしまいます。これからは気をつけて、短いものでも定期的に書いていきたいと思います。

この仕事をしていて常々思うのは、「生徒に尊敬をされる教師は良い教師である。」というのは嘘であるということです。むしろ教師というのは反発を受け、時には憎まれるくらいでなければなりません。なぜなら子どもたちにとって必要なものを彼らが本当に欲している場合というのは極めてまれであるからです。彼らにとって(その狭い価値観から)自分が必要とは感じていないものを、しかしそれが必要だと口を酸っぱくして言い聞かせてはそれをどのように理解してもらえるかを手を変え品を変え、試行錯誤をしていくことが教師に求められる役割です。そのような取り組みに邁進する教師は、子どもたちにとっては、理解の出来ないものをおしつけてくる嫌な大人としてしか見えないでしょう。もちろん、そこで彼らが現在必要とは感じていないものがどうして必要であるのかを理解してもらうために最大限の努力を費やさないのは教師としてはダメなのですが、とはいえ様々なタイムリミットがある中で、理解のための努力だけを行い続けては結果として受験その他に間に合わなくなって改善できなくなってしまうこともやはり教育の失敗です。だからこそ、その理由を説明しきれずに取り組んでもらうようにせざるを得ないことも多々あります。

一方で、「生徒に憎まれている教師はすべて良い教師である」というわけではないこともまた当たり前のことです。そもそも生徒との間に信頼関係や尊敬がある程度なければ、そのような浅い関係性しか結んでいない大人の言うことを子どもたちが聞くわけがありません。そのような信頼関係を得ようとすることなく自分の主張だけを繰り返す教師や大人というのは、そもそも子どもたちにその内容をわかってもらおうと本気で目指しているのではなく、「自分は保護者・監督者として最低限の義務は果たしている。」という自己満足や責任回避のためという動機から、そのように行動していることが多いのではないでしょうか。そのような姿勢をとる教師から生徒が何かを学び取ることがないとは言いませんが、それはあくまでも生徒側の力量によるものであり、大半の生徒にとってはそのような教師から学ぶことは難しいのだと思います。

つまり、「ずっと生徒に尊敬されている教師」は生徒の歓心を得ながらも、それを何に用いるかを考えていないという点で怠惰であり、「ずっと生徒に憎まれている教師」はそもそも「自分は話すべきことを話している」という自己満足に陥ってはそれが相手に伝わっていない現実から目をそらしている点で怠惰であるということになります。だからこそ、理想の教師は「生徒との間に信頼関係を築きながらも、その信頼関係を築いたり尊敬を受けたりということを目的にはせずに、そこでできた信頼関係を資本として掘り崩しては(生徒のために必要だがしかし彼ら彼女らが受け入れたくないと思っている)彼らの改善点を指摘し、修正していく教師」ということになります。

これは嫌ですよね。日々そのように自分に肝に銘じてやっているつもりですが、このように書き起こすと改めてしんどくなります。端的に言えば、「嫌われるために、愛される」ことを目的としなければならないというのが何よりも辛いことです。人間はずっと愛されることが辛くないのはもちろんとして、ずっと嫌われていることも楽なのです。ある意味、そこに期待をしなくて済むからです。あるいは誰かにずっと嫌われている人も、また別の誰かからはずっと愛されていたりするわけで、そこで精神のバランスを保つことが出来るでしょう(先に挙げた自己満足のような言葉しか離さない教師も家庭に戻れば良きパパやママとして愛されているのでしょう)。しかし、「いずれ嫌われるために、愛される」という目的をもって一人一人の子どもたちと接するのは、例えて言うなら「失恋をするために恋をする」ようなものです(どんな人でも、失恋をした瞬間は「こんなしんどい思いをするなら、もう2度と恋なんてしない!」と思った経験があると思います。良い教師とは、それを意図的に一人一人に対してやっていかねばならない、ということであるのです)。

そんなにしんどい思いをしてまで、なぜそれをやっていかねばならないのか。それは教師から見える、生徒の認識の限界を押し広げていくことが結局その生徒にとって必要なことであるからです。その認識の狭さを肯定することからしか良好な関係は作れないでしょうし、むしろその認識の狭さを疑いたくないと思っている状態というのは、自己肯定感が極めて少ないからこそそのように「バリア」を張っては、これ以上自分のidentityを掘り崩したくないと心が傷ついている状態なのかもしれません。しかし、それを一時的に外側から肯定することと、いつまでもそれを肯定し続けることは意味が違います。そのような認識の限界が、彼や彼女自身の能力や世界の限界をいずれ作っては、その狭い世界の中で生きては浅はかに絶望したり希望を抱いたり、という悲劇をうむことに対して、教師はそれを永遠には肯定してはならないのです。

有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』を借りれば、「愛は惜しみなく掘り崩す。」とでも言えるのでしょうか。
「愛を」ではないところが、とても重要だと僕は思っていて、相手との愛を掘り崩す動機もまた相手への愛である以上、これ以上正確な「愛」の定義は僕には今のところ思いつけていないと思っています。

もちろん、僕は生徒を教える立場として生徒や卒業生に対してだけではなく、このような姿勢を子どもたちや奥さん、数少ない友人達に対しても、しんどいですが徹底していきたいと思っています。それが僕の、死ぬために生まれたことの意味であると思っているからです。今日も、受容され愛されていることを伝えるべき内容の伝達へと緩みなく資することができているかどうか、疎まれ憎まれていることが伝えるべき内容の伝達を阻害していないかどうかを、絶えず一人一人に対して考えぬいていきながら教えていきたいと思います。

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監視と観察の違いについて

今年はビリギャルが(一人一冊として)4,5冊書けるくらいのドラマティックな合格が多かったので、素晴らしい合格体験記の数々を期待していたのですが、実はまだ誰一人書いてくれていません。。悲しいので皆さんにはご迷惑でしょうが、合格体験記が届くまでに僕が長い記事を書いて、その悲しみと間を埋めていこうと思います。

塾のパンフレットでは、「見えないものを、見よう。」と書いたのですが、今回はその「見る」ということについて、一般に流布している勘違いが多いように思うため、それについて書きたいと思います。「あの先生は生徒のことをよく見ている。」「あの先生は生徒のことをしっかり見ていない。」ということは親御さんの間でもよく話されることではあると思うのですが、そこでの「見る」という言葉の意味は対面してまさに会話している親御さん同士であっても、おそらく定義が違うのではないかと僕は思っています。

一般に「子供が良いことをしているかどうか、あるいは良くないことをしていないかどうかを監視する」するという意味の「見る」と「子供が何をしているか、それにはどのような意味があるかを観察する」という意味の「見る」があるとすると、どうしても前者の「見る」を親御さんは教師に求めがちになります。「うちの子がサボっていないかどうか、ちゃんと見てほしい!」というリクエストがなされるときの「見る」は監視という意味になります。そして、これは実は当たり前であり、例えば生まれたばかりの幼児がなにか危険な目に遭わないかどうかを(特にお母さん方は)必死に気をつけて育ててきたわけですから、そのようなnurseryの時期が過ぎたとしても、子供に対しての配慮といえば(言葉は悪いですが)「監視」をして、何か危険なことやいけないことをしていないかどうかをチェックしようとするわけです。
そして、その同じ「子供を監視する」という役割を学校の教師や塾の教師へと果たしてもらおうと要求します。これはもちろん、危ない目に遭わないようにする、という意味では乳児や幼児のときほどでなくても、必要な配慮であると言えるでしょう。

しかし、一方で、educationというのは、「ちゃんとやっているかどうか、サボっていないかどうか」を「見る」(すなわち監視する)こととは実は矛盾するものです。なぜなら、「監視する」という行為自体はそもそもその監視の基準となる価値観を疑わないことで初めてできるものである以上、監視をしているときにはある人や物の振る舞いが、ある基準に照らし合わせてみて正しいかどうかを判断すること以上の判断ができません。なぜなら、その基準に沿っているかどうかを素早く判断するためには、その基準を疑っていたり、その基準に照らしあわせて理解の出来ないものについて考えている暇はないからです。しかし、educationというものがeduce(外へと引き出す)という行為の名詞であるためには、すなわち子どもたちが自発的にしようとしていることを引き出していくためには、彼ら彼女らが何をしようとしているのか、それがどのような点では肯定されるべきであり、どのような点では改善されるべきであるかということを注意深く観察することこそが必要であり、一つの判断基準に即して判断をするだけの監視では、対応ができなくなってしまいます。「あぶないことをしないように」というnurseryにおいて、必要だった監視を自分で取り組まなければ効果の極めて低い学習へとそのまま適用すれば、「さぼっていないかどうか」を監視しては無理やり取り組ませるだけのことになります。そこでは、そもそもその学習主体がなぜサボるのか、ということについては考えもしなくなりますし、監視してとりあえず机の上で勉強に向き合わせることだけを目標とすることになってしまいます。

このように体裁だけ完璧を繕っても、人間の精神というのは様々な逃げ道を見出すものです。このように本人に内発的な動機がないままに監視されることを続けていった結果として、監視されてきた子どもたちはどのようにその監視をかいくぐっては目の前のやるべき勉強をサボるかに知恵を絞りますし、そのように自覚的ではなくても、自然にサボり方を見つけるようになります。なぜなら、親に叱られないために勉強している子どもたちにとっては、親に叱られることを防ぐための最も効率の良い手段は勉強をしているふりをすることであるからです。もちろん、そのような振りをしていても、結局は定期テストや模試、受験結果などで実際にはその勉強に意味がなかったことがバレてはしまいます。しかし、とりあえず今日叱られずに生き延びては定期試験後に叱られるまで先延ばしにできるのであれば、勉強することの意義を理解していない子どもたちにとっては上出来であるのです。懸命に勉強しているふりさえしていれば、学校の先生や塾の先生の教え方が悪いという言い訳もすることが出来ます。そのようにして、ただノートに写経のように写すけれども何も頭に入らない、という勉強の仕方を身につけるようになります。これは一見外側から見ればノートに向かってペンを動かしていて、かつ落書きもしていないので、外部の監視の目を完全にすり抜けることになります!しかし、本人は頭を使っていないし、そもそも勉強というものを監視されずにやったことがないので、結局このやり方が勉強だと思ってしまい、自分でその高度な勉強しているふりを抜け出したくても、抜け出し方がわからない、という悲惨なことになってしまいます。しかし、このように「勉強しても成績が上がらない」という悲しい悩みを抱えている子供というのは、その責任はたいてい親や教師が「監視」しかしてこなかった、ということによってそのようになってきてしまったのだと思います。勉強をさせたいのであれば、勉強することの意味をどんなに迂遠であろうとも説き続けなければならないし、わかるまで繰り返し話していかねばなりません。もちろん、それを子どもたちがすぐにわかることは難しいとしても、意味がわからないままに監視によってそれを強制させることは、やはり無理であるのです。

一つのある目的にそっているかどうかだけには極めて敏感に即座に反応するものの、そのような基準に照らし合わせようのない他のものについては黙殺する、というこの監視のやり方(小学校の宿題で出されるアサガオの観察日記などは、そういう意味ではアサガオの伸長のみを期待してはそれ以外の可能性を排除しているという点で「監視日記」であるがゆえに、なかなかやる気がおきないのではないかと僕は思います)は、もちろん、必要な時と場合もあります。先ほど書いたように、乳幼児のnurseryにおいては、必要であることは間違いが無いでしょう。その他でも予想される緊急事態が極めて選択肢が限られた可能性しかないものの、しかしそれが起きるととても困る、という状況においてはそれは有用な姿勢です。ただ、その「見る」対象が人間のように、時期によって必要なアプローチが変化していく場合にはそのようなアプローチをいつまで続けるべきか、逆にいつから「観察」アプローチにしていくか、というのは極めて難しいものであるのです。しかし、この難しさを多くの人が理解できていないことが教育において失敗が起こりやすい原因なのではないか、と考えています。

一方で「観察する」という意味の「見る」こと、というのは基本的に無責任です。それをするときは対象を何とかしよう、と思っていてはなりません。なぜなら「こうでなければならない」「こうあってはならない」という思い込みは、先入観や偏見を生み出す以上、観察の邪魔にしかならないからです。観察という行為の目的は基本的には瞬時の変化に注目するのではなく、その時点までの来歴や文脈の上でその変化を位置づけることになります。たとえば、「監視」においては「好ましくない」(とされる)変化が出てきた時でも、「観察」はそれをすぐに矯正しようとするのではなく、それを泳がせ、黙認し、その上でなぜそのような「好ましくない」行動を取ろうとするのかを考えます。観察はよく言えば、知的好奇心に富んだ、悪く言えば結果に対して責任を取るつもりのない行為であると言えるでしょう。しかし、学習に自ら子どもたちが取り組んでいく必要がある以上、外側からの監視ではなく、このように観察して彼ら彼女らの動機を理解しては、彼ら彼女らが勉強に取り組む意味を自分で理解してもらえるように説明していくためには、観察という行為は必要なものであるのだと思います。

ここまでに書いてきたように一人の人間には、その発達段階に応じて監視と観察の両方が必要なわけですが、日本の子供に対する教育がどうしても親や教師からの監視という側面が強すぎて、かえってうまくいかなくなってしまうのは、ある意味では日本人の男性が子育ての責任を妻であるお母さんに押し付けているから、という原因もあるように思います。お母さんが責任感をもって子供をまともにしようとすれば、それは乳幼児期のnursery(そしてそれはほぼ全面的にお母さんに押し付けられています)からの連想で、当然子供を監視せざるを得なくなります。一方で、父親というのは基本的に無責任なものです。その無責任さを我々男性は猛省しなければならないこともありますが、一方でその無責任さゆえに監視ではなく観察ができるところも多々あるわけです。日本での教育がどうしても観察よりは監視を重視してはうまくいかなくなってしまう、という失敗をお母さん方のせいにするのは簡単ですが、それだけではなくそもそも父親が仕事にかまけては子育てに対して無関心であることが母親をそのような姿勢へと追い詰めている、ということもあるのではないでしょうか。
ともあれ、このような監視だけの教育から逃れるために、特に先に上げたような「勉強をしているふり」サボタージュは結局テストや入試の結果でバレてしまう以上、子供の取りうる最終的に効果的な策は家庭内暴力、あるいは家出にならざるをえません。つまり親の強制力を排除しようという暴力的な手段に訴えなければならなくなってしまう、ということです。このような悲劇に陥らないためにも、監視ではなく観察が必要であることを親御さんはもちろんとして、教育に携わるすべての大人が肝に銘じなければならないと思います。(注1)

一方でこの監視と観察の違いを理解する必要がある、というのは、教育だけの問題ではないと思います。たとえば最近、「保育園落ちた。日本死ね!」という匿名のブログが話題となり、それが国会でも取り上げられ、再び保育園の待機児童問題がクローズアップされているわけですが、これに関して病児保育だけでなく待機児童の問題にも取り組んでこられたフローレンスの駒崎弘樹さんが「長年審議会で訴えても、全然広がらなかった問題が一つの匿名ブログで広がるのには、結果は良いとしても忸怩たる思いがある」ということをおっしゃっていたそうですが、「社会起業家が権力に擦り寄っても結局はアリバイ作りに利用されるだけで本気で主張を聞いてもらえない」などと穿った見方をしないとしても((注2))、あの匿名ブログがなぜ駒崎さんの日々の懸命の努力よりも影響力が大きかったのかといえば、それは日本全体に対する敵意であったからだと思います。一般にグローバリゼーションに対抗して警察権、徴税権という監視機能を高めていく国家(注3)において、観察機能は衰えていきます。だからこそ、観察のアンテナにはひっかからないものが監視のアンテナには引っかかりやすくなります。つまり、あの匿名ブログがなぜ広まったかといえば、まさに(趣旨に賛同するものであってもその表現には眉をひそめる人も多い)「日本、死ね!」という部分がテロリズム的であったからであるのです。もちろん、実際には「保育園に落ちた」という理由からテロが発生することはおそらく無いでしょう。しかし、あの物言いがテロリズム的な論理を内在していたからこそ、それは警察国家化が強まる日本においては監視のアンテナに引っかかり、無視できないものとして捉えられたといえるのではないでしょうか。保育政策に無関心な人々にとって保育園の待機児童問題は無視をしていればよい問題です。しかし、その無視が敵意として保育園に困っていない人にも向くとしたら、それは無視するわけにはいきません。これはまさに抗議の手段としてのテロリズムが、どんどんとエスカレートしていく構造と同じであると言えるのではないでしょうか。

そして、これこそが不幸な悪循環です。駒崎さんの粘り強い異議申し立てに対してよりもテロリズム(的な言動)に対して敏感に反応する、ということはさらに、より過激なテロリズムを誘発することになります。ただ、問題にすべきはその表現手段のどぎつさではなく、そもそもそのような「テロリズム」でなければ自分たちの主張を聞いてもらえない、という絶望感が蔓延していることこそが問題であるのです。それは、監視を続けられてきた子供が悲鳴のように手を染めてしまう家庭内暴力と同じものであり、子供に責任があるのではありません。そしてそれは、政治や行政が、観察よりも監視を重視する傾向にあることの帰結であるのだと思います。(もちろん、江戸時代の五人組や戦時中の町内会のような相互監視体制こそが最も効率の良い「テロを防ぐ道」です。しかし、そのような(戦時中の特高警察への密告が横行するような)社会はテロがなくなったとして、果たして私達が目指していた社会であるといえるのかは疑問です。)

政治が監視よりも観察を重視するようになるためには、やはり政権交代が絶えず起こるという緊張感があることが大切なのではないかと思っています。民主党政権が様々な下らない失敗をしたとしても、死票が多く国民の意見が正確には反映されにくいこの小選挙区制の中で唯一の利点が政権交代の可能性が高いことであるはずなのですから、政権交代をしていかねばなりません。民主党政権時には自民党が、自民党政権時には民主党が政権交代を絶えず窺(うかが)おうとすれば、丹念な観察からの新しい政策争点の形成ができるはずです。そして、これはまた責任のある与党ではなく、「無責任な」野党だからこそできる観察なのではないかと思います。

翻って嚮心塾では、監視よりも観察をどこまでも徹底していく場として、もっともっとその力を上げていきたいと思います。お子さんの監視はしませんが、観察は致します。その上で、彼ら彼女らの必然性を阻害しないように、しかしそれが社会の要求するneedsに対応する必要や意味を彼ら彼女らにも理解してもらっていこうと説明を尽くしていきたいと思います。こんな小さな場でそのような気の遠くなる努力をどんなに続けようとも、全体の流れを変えることは出来ません。しかし、監視によっては解決などしないのだ、ということを実践していくことは、ルターのいう「明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える。」につながるのではないかと思っております(うーん。多くの予備校や塾が生徒獲得のために広告をバンバン投下しているこの時期に、こんな集客の足を引っ張るような長文を書いていてよいのでしょうか。今年の卒塾生のみなさーん!早く合格体験記を書いてくれないと、こんな訳の分からない長文がずっとトップに居座ってしまうので、塾が潰れますよ!急いで助けてください!)。


(注1)これは素人の浅知恵を書き散らすこのブログでも、本当に僕自身が勉強していないところなので恥を忍んで書くのですが、たとえば統合失調症の症状として被害妄想、特に誰かあるいは複数に監視されているという妄想が典型的である、ということはこの人格形成上での監視と観察の違いとそれぞれの限界とかなり密接なつながりがあるのではないか、と勝手ながら考えています(もちろん、統合失調症の発症機序は全くよくわからないらしいですし、遺伝的要因ではない社会心理的要因に関してはそれこそ様々な根拠の無い説が多いのでしょうから、そこに付け加えることになってしまうとは思うのですが)。すなわち幼少期に自身が親や教師から観察をされていない、ということへの飢餓感が「見られたい」という欲求を強くもつ一方で、自分の側から「見られる」という行為として想像しうるものは「観察」ではなく「監視」でしかありえないために(なぜなら自己を観察する他人の内面を想像することは人間にとって多重人格の形成以上の想像力が必要であるからこそ不可能であるために、「見られる」=「監視される」しかその主体にとってはイメージがつかないために)そのような「監視されている」という妄想を抱きがちになるのではないかな、と勝手ながら考えています。もちろんこれは検証のしようのないことではあるので、たとえば幼少期の親の子育ての厳格さと統合失調症の発症との相関関係を調べるなどすれば、論文のネタにはなるかもしれませんが(既にそのような論文があったらご教示いただけたらうれしいです!)、本当のところはいつまでたってもわからないものです。ただ、一つ言えるのは被害妄想の典型として「監視されている」という妄想が出やすいというのは、それだけ我々は他人の視線に左右されやすい非常に敏感な生き物であるということであり、だからこそ先に上げた監視と観察の違いについても意識的であるべきだと僕は思います。


(注2)もちろん、このような穿った見方もとても大切です。一般に社会起業というのが「行政サービスの先駆的代替」である以上、そのようなsingle issue の取り組みは他の政治的意図に利用されやすいと言えます。たとえば社会保障の充実に極めて熱心であったナチスドイツのように。それとは別に、そもそも社会的企業が行政サービスの先駆的代替である以上、それは内政問題の改善であって、外交あるいは国際社会上の問題については自国の存在や安定を前提とせざるを得ない以上、対外政策については国益の保護という主張に与し易いという弱点があるということも言えるでしょう(第一世界大戦の際の第二インターナショナルの分裂などはわかりやすい事例ですよね。あれは一応インターナショナルだったはずなのですが、現在の社会起業と同じ問題点を抱えていると思います。それはまたハロルド・ラスキやシュトゥルムタールが指摘したことでもあります)。そのことは社会起業家自身が自覚しなければならない課題であることはまた事実です。「社会」の改良、という目的自体が国家と社会の緊張関係に無自覚に追求されるのであれば、それは暴力をも生み出してしまうことにもなるでしょう。

(注3)グローバリゼーションが進む中で、国家機能が比較的強固である先進国政府にとってそのグローバリゼーションとの戦いは端的に徴税権と警察権の強化という形を取るのではないかと思っています。すなわち、資本の租税回避のための自国企業の多国籍企業化に対抗して課税をしていくための徴税権の強化と国家間の戦争ということが先進国同士では現実的ではなくなった(それは理想的な戦争の消滅ではなく、どこまで行っても先進国と途上国との力関係は覆しようがなくなったために、帝国主義的な「下克上」政策がとりにくくなったことにより)すべての戦争は大国からの分離/独立を求める内戦か、あるいは軍事的には勝利し得ない先進国に対して民間人を標的にするテロリズムかのどちらかの形を取らざるを得なくなります。その結果として先進国はそれに対抗するために警察権を強化していきます。そのように徴税権・警察権の強化による管理社会というのはある意味でグローバリゼーションによってその存在意義を根底から問われている先進国国家の最後のあがきである、とも言えるでしょう。しかし、そのあがきの中で個々人は徹底的に管理を強化される方向へと否応なしに進んでいくことになってしまいます。たとえば昨年のパリでの大規模なテロが示したように、あるいはまさに起きたばかりのベルギーでのテロが示しているように、多様性をもつ国民というのは国家が監視をする際には極めて邪魔なものです。しかし、このような多様性への抑圧と徴税権・警察権の強化という国境を以前よりも屹立させようとする取り組みは、結果として内戦が続き悲惨な状態の続くシリアと平穏な先進国との「位置エネルギーの差」がある以上は決してテロリズムを引き起こす運動エネルギーの妨げになるものではありません。それゆえに、警察権の強化による「テロリズムとの戦い」は、その「位置エネルギーの差」(としてのシリアで起きている悲惨さ)と何とか取り組んでいかなければ、どのように、それこそ我々のすべての自由を放棄してもなお、それによっては決してテロを防ぐことが出来ないという敗北へと収束していってしまうものではないかと僕は考えています。

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宿題を全部やってちゃ、だめだ。

中学や高校でよくある間違った教育方法として、課題の分量をとにかく多くする、というものがあります。嚮心塾では学校の勉強がうまくいっていない子に対して、指導することも多いのですが、そのときに真っ先にやることは勉強する教材を増やすことではなく、減らすことや、同じ教材を使うとしても、解くべき問題の範囲を絞ることをしています。その理由はあまりにも多くの問題を解けば、当然それらを3周、4周するだけの時間的余裕はなくなり、とりあえず1周、頑張る子でも2周くらいしかできなくなるからです。しかし、新しく学ぶ単元の問題集を1周か2周でできるようになる子、というのは教えていてもそう多くはありません。言葉を換えれば、それは1周で勉強内容が定着してしまう「天才」のみに許される勉強方法です。なので、そのようにやろうとしては失敗している子に対しては、「1周あるいはせいぜい2周でといたすべての問題が身につくなんて、もしかして君は天才かい?」と冗談交じりの意地悪い質問をしては、「天才でないのなら、解く問題の数をできる限り、しかも基本的なレベルのものに絞って、それを繰り返して穴がないところまで徹底しよう!」という指導をしています。

人間の記憶力に限界がある以上、このような(「選択と集中」という方針の)勉強方法がおそらく勉強に困っている全ての子にとって必要だと僕は考えていますし、勉強が得意な子であっても苦手な分野についてはこのような取り組みが必要です。しかし、このような勉強法を妨げているのは、「学校の宿題となっている問題集の範囲はすべてやるべきものである。」とか「ワークブックはすべてやるべきものである。」という一見正しそうな倫理観です。このような倫理観を学校の先生やときには親御さんがもっているがゆえに、そして子供達はその倫理観にしたがってまじめにやりさえすれば勉強ができるようになると思い込んでいるがゆえに、かえって課題はまじめにやっているものの、学習内容が身につかないという矛盾が生じることになります。しかし、これは少し落ち着いて考えれば当たり前のことで、膨大な試験範囲や課題をまじめにやっているからこそ、それらをすべて完璧にできるわけもなく、テストで点数がとれないということになってしまっているわけです。

さらに事態を複雑にしているのは、いわゆる「面倒見が良い先生」というのは一般的に 、課題の量を厳選して絞っては繰り返しやらせることにはまったく興味がなく、課題の量をとにかく増やせば良く、その膨大な課題をやっているかどうかさえチェックしていればよい、と思っているという事実です。実際に課題をちゃんとやったかどうかのチェックはするものの、その課題をやることで一人一人に力が付いているのかどうかのチェックというのに、学校の先生方はあまり興味がありません。下手すると、成績が悪かったら「課題が足りない!」とばかりにもっと課題を増やすという先生方も多いです。しかし、一般的な量の課題すら消化しきれていない子に、さらに課題を増やすのは愚策を通り越していじめでしかないと僕は考えています。

もちろん、これに関しては学校の先生だけを責めるわけにはいきません。このようなずさんな学校教育を助長しているのは、実は親御さんの側の責任でもあると僕は考えています。なぜなら、親御さんは自分の子供に大量の宿題が出ることで安心するものであるからです。宿題を出さない教師というのはそれだけで「サボっている」かのような印象をもたれがちです。しかし、大量の課題は(大量の処方薬と同じように)メリットだけではなく、デメリットも多いものです。生物学での刺激に関するウェーバーの法則のように、咀嚼できないほど大量の課題を出されれば、当然子供達はそれを適当にやります。「適当に」というのは、つまり頭で考えずにマルのついたものは自分がわかっているものと見なすことです。分量が多ければ、そのように処理することを覚えざるをえないでしょう。しかし、そこでたまたまマルがついたものについての理解が浅ければ、そのような積み重ねでどんどん勉強がわからなくなってくる、というわけです。

「宿題はすべて完璧にやるべきだ!」という倫理観を子供に対して振りかざすのなら、それをやってさえいれば本当に力が付いていくかどうか、そもそも初学者が自分の立てたプログラムで本当に力がつくのかをしっかりと考えぬいたり実験を重ねた上でそのような主張をすべきです。こちらから見れば、とりあえず分量さえこなせばよい!としか考えていないような、つまり何も根拠のない分量の課題を子供に押し付け、真面目にやっても何周も繰り返すことができるわけもなく定着しようがないようにやらせておきながら、「努力が足りない」と平気で言う教師を信用してはならないと思います。そして、そのような教師をのさばらせるのは、宿題を大量に出してもらって安心している親御さん自身であることも反省すべきであると思います。

さらに、ですね。嚮心塾では受験をにらんで、まったく勉強をしていない状態から勉強を始めていくときには、できる限り科目をしぼって、始めていきます。私大文系なら英語だけ、理系なら数学と英語だけ、中学入試なら国算だけ、というところから始めていきます。これは勉強のし始め、というのは(いままでやっていなかった勉強を急に始めたからこそ)すぐに成果がでないと勉強へのモチベーションが上がりにくい、という受験生側のモチベーションを保つ手段であるとともに、そもそも「わかる」とか「徹底する」ということがどこまでしっかりやらなければならないのかを一教科について把握できれば、それを他の教科に応用することは比較的簡単であるのに対し、各科目を満遍なく勉強していればその満遍なく勉強していて忙しいという事実に満足してしまい、どこまで勉強を徹底しなければならないのかについては受験生本人が鈍くなりがちである、ということからこのように受験勉強の手順を踏んでいくことが一番効果的であると感じているからです。

このように、「選択と集中」という戦略がたとえば勉強の力をつける、というだけのことにおいても、とても大切であると考えています。うーん。ここに書いたことをご家庭で実践するだけでも、ほとんどの個別指導型の学習塾など、この社会に必要なくなってしまうかもしれませんね。

本当にそれで個別指導型の塾が必要なくなるのであれば、社会が少しは改善されると思いますし、それで嚮心塾が潰れるのなら、それはそれで本望なのです。しかし、なかなかそううまくはいきません。それぐらいに、学校の先生の権威は強く、みながそれを信じているせいで、賢い子が「こんなの全部やったって覚えられないから、絞って典型的な問題だけやっていい?」と聞くのに対して、先生も、それを信じる親御さんも、「何言ってる!宿題は全部やるものだろう!」と叱り飛ばしては結局身につかない苦行としての(写経のような)勉強を強いられては、勉強を嫌いになってしまっていると思います。

中高生のお子さんが、そのような愁訴をしてきたときに、少しはこの記事の内容を思い出してもらえたら幸いです。
嚮心塾も学校の教師からも親御さんからも白い眼で見られながらも、これからも「宿題は全部やらないほうがいい!」という主張を続けていきたいと思います。

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良い教師の条件。

ご無沙汰をしています。あれこれと忙しく過ごしている間に、前回の記事から一ヶ月ぐらい経ってしまいました。
日々、心を消耗させられることばかりなのですが、「ブログ読んでますよ!」という声をいただいたりで少し元気が出てきました!また、ちょこちょこ書いていきたいと思います。

さて、今回は良い教師の条件について書きたいと思います。塾を開いてから10年、家庭教師その他他の塾で教えているところから数えれば20年は教えてきたわけで、その中でできあがってきた良い教師の僕なりの理想像をこの機会にまとめてみたいと思います。もちろん、僕がこの「理想の教師」である!などと主張したいわけではありません。それに近づこうと努力していきたい、というだけです。

①親の言いなりにならない。

塾や家庭教師、もちろん学校の先生方も含め、親御さんとの距離には苦労することが多いと思います。もちろん普段間近でみている親御さんからの情報は極めて大切です。そこには子供達に対してどのような指導が有効かのヒントがたくさん眠っていると言えるでしょう。ただ、親御さんのお子さんに対する評価をそのまま鵜呑みにしてはいけない、ということがとても大切であると思います。「この子はこういうふうにダメなんです!」という言葉をそのまま鵜呑みにしてしまって、それをなんとか改善していこうとするのであれば、子供にとっては新たな迫害者がまた一人生まれるだけです(一般に親御さんはお子さんに対して接する時間が長いからこそ、厳しい目で見がちです。それもたとえば成人である自分の24時間に誰か別の観察者がついて、「ここはスマホゲームとかで時間をムダにしなくてすんだ!」と突っ込まれる鬱陶しさを考えれば、子供達の気持ちがわかるのではないでしょうか)。端的に言えば、その子の欠点はその子の個性と根深く結びついています。つまり、視点を変えればその子の良さにもつながるところです。それを完璧を目指して「欠点を直せ!」というプレッシャーによって変えようとしていくということは、暴力にしかならず、また結局子供達もその欠点に向き合ったり乗り越えようとしたり、ということにつながりにくいと思います。その子の欠点はその子の個性と根深くつながっているところを意識した上で、そういう自分にとって苦手な部分も必要に応じて鍛えていかなければならないことを、本人に理解していってもらうことがとても大切であると僕は考えています。また、そのためには「その欠点をいますぐ直せ!」と外から言うことは実は逆効果でしかないことも多々あります(大人だって自分でもわかっている欠点を他人から指摘されたら不快なものですよね!意地を張って直したくない、と思ってしまうのではないでしょうか。それは特に感受性の強い若い時にはそうであると僕は思っています)。もちろん、その欠点の克服には「受験」や「就職」などの外部からのタイムリミットがあるわけで、そこにどう間に合わせていくかを睨んでいかねばならないわけですが、それを焦るあまりに外部からのプレッシャーを与えれば与えるほどに、子供達は体裁だけを取り繕い、外見上は頑張っているかのように見せかけるようになります。これがいわゆる「勉強しているふり」をする段階です。「ノートに5回書いた」とか「問題集の解答を写した」ということをする子は、その行為をとがめても仕方がありません。そのような無益なことが無益だとわからなくなるのは、外部からのプレッシャーがきつすぎるあまり、自己防衛のためにそのような策を覚えていくだけであるからです。つまり、それは教育の失敗の原因ではなく、結果であると言えるでしょう。そのような暴力に、教師は手を貸してはなりません。

②子供のいいなりにならない。

では、子供の言うことをなんでも聞けば良いのでしょうか。それは違います。なぜなら、人間は努力を強いられなければ、楽な方に流れる生き物であるからです。だからこそ、①に挙げたような外部からのプレッシャーを弱めただけでは、子供達は単純にさぼるようになるでしょう。しかし、その結果として彼らが直面するのは、後からどんなに頑張ろうとも取り返しのつかないという厳しい社会の現実です。たとえば受験勉強がこの不確かな時代においてもなお、そこそこの有効性を信頼され、就活でもそれが活きてくるというこの社会において、いやそもそも「○◯大学卒」が新聞であれ、本であれ、ウェブであれ、人物を紹介するときに必ず付いて回るという現実を目にすれば、受験勉強は極めて報われやすい努力であると思います。おそらく、野球やサッカーのようなスポーツや囲碁や将棋のようなマインドスポーツ、さらにはその他のあらゆる分野と比べて、極めて報われやすい努力です。その極めて報われやすい努力ですら、目の前の楽しいことにかまけてできない
子達が多いのではないでしょうか。人間は弱いものです。目の前のことにかまけて、将来のことを考えて努力する習慣をつけていくのには、やはり意識的な努力が必要となります。そして、それは誰のためでもなく、自分のために必要なことです。そのことを子供達に理解してもらい、頭では理解していたとしてもそれを行動にはうつしにくいところをなんとか鍛えていけるのが、良い教師です。それは、外からの動機ではなく、自分の動機で行動する人間に鍛えていく、ということでもあります。その意味でも教師は子供のいいなりになってはいけません。

ここまでをまとめれば、良い教師というのは親からも子供からも疎まれる存在でなければならない、と言えるでしょう。
もちろん、教師の動機としては子供達のため、ひいては親御さんのために全力を尽くすのですが、しかし、その一つ一つの努力は親御さんからは「子供を甘やかしている。」と見られ、子供からは「口うるさい。正論でせめてくるからうざい。」と見られるわけです。だからこそ、僕は「親御さんに評判がいい」教師も「子供に評判がいい」教師も、あまり信用していません(もちろん、これは、「親と子のどちらからも評判が悪い教師は必ず良い教師である」という意味でもありません。)「連帯を求めて、孤立を恐れず。」ですね。

③自分の家族のいいなりにはならない。

このようにどちらからも疎まれながらも、しかし、自分の家族よりも教え子を優先しなければならないのが良い教師です。
これは「自分の子の入学式と教え子の入学式、どちらを優先すべきか?」ということが以前問題にもなりましたが、そのようなことで心底葛藤するようでは、教師としては二流でしょう(もちろん、親が子に与えるべき愛着を自分が教師であるがゆえに与えきれていないという問題についてはまた考えなければなりません。)
なぜか。それは、子供達は教師の自分の子供への姿勢を見て、自身が家庭で甘やかされることに多寡をくくっているからです。「この先生だって、どうせ教え子より自分の子供が可愛いんでしょ。」という教師への見透かしは、同時に「自分がどんなにダメなことをしても、親は許してくれる!」という甘えへとつながってしまいます(この点を子供達はとても鋭く見ていると僕は日々感じています)。もちろん、そのような愛着は時と場合によっては逆に必要なこともありますが、「どうせ親からは愛される」という多寡をくくった甘えの姿勢は、子供達の成長にとって基本的に有害です。それは努力や成果によって評価されざるを得ない実社会の厳しさに対して、準備をする気を無くさせてしまうと思います。だからこそ、自分の子供を教え子よりも愛する教師は、やはり教え子達に誤ったメッセージを与えてしまうのです。

④自分の願望のいいなりにはならない(速やかに忘れ去られねばならない)。

このような報われない職業である教師にとって唯一の希望は、教え子にとって「人生の恩師」となることでしょう。卒業後もそのように慕われることこそが唯一心の支えとなっている、頑張っておられる先生方も多いのではないでしょうか。もちろん、僕にもそれこそ一生かけても越えられないような人生の恩師がいます。しかし、本当に良い教師とは、その存在を教え子に忘れられなければなりません。すなわち「先生のおかげで(受験・その他の難局を)乗り越えられました!先生がいなければ、どうなっていたかわかりません!」と教え子に言われるよりは、「自分の力で乗り越えてきた!」と教え子に思ってもらえる方が、より良い教師であるということです。なぜならそのように自分の力で乗り越えてきた、という自信こそが、必ずその子達の力としてさらに困難な事態についても歯を食いしばって頑張る原動力になり得るからです。教師は子供達に一生そばにいてあげることができません。大体の場合は、教え子より先に死ぬでしょう。そのあとも教え子達が一人で生き抜いていく力をつけていくことこそが、良い教師にとっての目標でなければなりません。逆に「あの先生のおかげで…」といつまでも思われているうちは、その子に対する教師にとっての教育は不完全であるのです。二宮尊徳も「最も良い仕法家とは、人々が困難を自分の力で乗り越えられた、と感じさせることのできる仕法家である。」と言っていたらしいのですが、まさにそれこそが理想の教育者であると思います。あるいは途上国支援もそうですね。自分たちの力で生き抜けるように支援しなければ、結局無意味な支援になってしまいます。

と書いてみると、改めて、しんどくなりますね。まあ、選んでしまった以上はその理想に少しでも近づいていけるように、全力を尽くしていきたいと思います。それとともに、教えていく中で教師にとって一番のハードルは実は④なのかな、と思ってきています。忘れ去られていくことが理想と思いつつも、卒塾生が塾を訪問してくれればやはり嬉しくはなります。いや、正確には忘れ去られて打ち捨てられてもいい、という思いでやっていることを、忘れないでいようとしてくれることに感動を覚える、というのでしょうか。これにはもちろん、④のような思いを僕が徹底できていないがために、まだまだ教師として力が足りなく、卒塾生が訪れてしまっているのかもしれない、という可能性ももちろんあります。
どちらの可能性も考えながらも、もっと理想に近づけるように努力をしていきたいと思います。

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「勉強をやり直すのにもやっぱりお金が必要なのか」と諦めている若い世代に。

少し前に不登校の子の教育支援NPOの特集記事が朝日新聞に載っていました。そのNPOについては、設立当初から僕も注目していましたし、取り組み自体は本当に素晴らしいと思うのですが、その最初の記事で「週一回の1科目90分授業が月に4回で24000円」とか、「母子家庭のこの子は計4科目で月に96000円」を自分では払えず祖父の支援で支払って通っていた。という記事の内容を見て、うーん、と考え込んでしまいました。これを「素晴らしい取り組み」と言って、手放しで賞賛するわけにはいかないと思うからです。

母子家庭の平均所得は国民生活調査の結果で年間243.4万円です(平成25年度)。月にして20万円。家賃や光熱費、最低限の食費を引いたら、「塾代に月10万円」というのはかなり厳しい状況なのではないでしょうか。もちろん経営を安定させなければ継続的に支援できなくなってしまうため、ある程度の金額をもらわなければならないことは同じように学習塾を経営している僕にとってもよくわかる話です。しかし、少なくとも、教育支援をうたっていて、このような大きな負担をご家庭に強いていることに対して内部で疑問が生じない、というのは問題なのではないかと思います。そもそも、そこで働く人々は母子家庭の平均所得を把握しているのでしょうか。母子家庭に月10万円の負担を強いている、という事実に悩まないのだとしたら、その志についても疑問に思わざるを得ません。

さらに、ここの個別指導では必ず一コマで一教科と決まっているらしく、一コマの中で複数教科の指導は禁止されているそうです。だから、たとえば週に一コマだけをとり、そこで複数教科について相談やアドバイスを受ける、ということもできないそうです。一科目で受けられる大学受験などほぼない以上、最低でも月5〜7万はかかる、ということですね。
講師代にお金をかけているならそれでもまだわかるのですが、「ドロップアウトしてしまった子たちを助ける!」という美しい名目で有名大学に通う大学生の講師を集め、最低賃金すれすれぐらいの講師代で「やりがい搾取」をしてしまっていることも問題であると思います。

「お金がない家庭の不登校生は救えないけれども、お金がある家庭の不登校生は救えるのだからいいじゃないか!」というのはもちろんなのですが、問題はその不登校の要因が本人由来だけでなく、家庭の経済状況由来(家計を支えるためにバイトをたくさん入れてしまい、学校に追いつけなくなって結局辞めてしまうというケースです)の不登校生の割合がかなり多い、ということにあるのです。つまり「経済的に困窮していない家庭の不登校生のケア」というのは「不登校生のケア」に対して、どれほど本質的な取り組みになっているのか、ということが問題であると思っています。そして、「やり直し」をその組織の目標として掲げる教育支援のNPOであればできればその問題にも取り組んでもらいたいし、それが不可能かといえば、嚮心塾などは月々2、3万くらい(もちろん、この金額ですらご負担を強いていることを申し訳なく思いますが)で全教科を見ているわけで、それで一ヶ月通い放題ですし、各教科の指導も(もちろんそれぞれの教科のトッププロの先生方にはおそらくはるかに及ばないとしても)おそらく件のNPO の学生講師よりはどの教科もクオリティは高いと思っています。つまり、やろうと思えば、そういう環境は作れるわけです。(実際に嚮心塾では自分でアルバイトをしてお金を貯めてからそのバイト代で通う、という高卒認定試験受験生や大学受験生が一定数います。そのようなことは、おそらくあのNPOの金額設定ではできないと思うのです。)

うーん。宣伝めいてしまいましたね。ただ、僕は塾を始めて以来10年間、どこかの塾をライバルだと思ったことはありません。これは不遜な物言いですが、事実だから仕方がありません。この社会にとって決定的に足りないピースを埋めるために、学習塾をしていますし、このエントリも競合相手をくさすつもりはありません。違うジャンルのものであると思っています。

ただ、このような新聞記事のせいで、勉強のやり直しと再出発をしようとしても「そうか、やっぱり月に10万は払えないと勉強もやり直せないんだな。」と思ってしまう若い子達が傷ついては諦めることをなんとか防ぎたいと思います。そのことに対してあまりにも無自覚に「美談」あるいは「意義ある取り組み」として紹介されるのには、率直に言って我慢がなりません。仮に志をもって事業を始めたのなら、自分たちの現在のビジネスモデルが何を食い物にし、何を掘り崩そうとしているのかについて猛省をしていただきたい、と思っています。

勉強をやり直すのに、お金はまずはそんなに必要ありません。高卒認定試験の問題など、教科書の文章さえ読めれば、あとは独学でどうにでもなります。はっきり言って僕はこのNPOに限らず高卒認定試験のために高い月謝をとる教育産業というのは、ドロップアウトした子供達やその親の不安につけこんだビジネスにすぎないと思っています。

しかし、それらに食い物にされる子があまりにも多いのは、やり直しをしようとする子達の努力しようとする姿勢が足りないからです。そのような不安を抱えてそういう塾や予備校に通う前に、まずは一教科でも教科書を全部読みましたか?読んだ教科書の科目について高卒認定試験の問題を解いてみましたか?高卒認定試験の合格ライン(あの簡単なテストを半分とれれば合格です!)を知っていますか?自分の人生のやり直しを決意しているはずなのに、その自分の人生のやり直しを決意したそばから何も自分で努力をせずに「伴走者」を探そうとするその心の弱さをこそ、大人たちにつけ込まれているのです。高卒認定試験の合格くらいなら、教科書と市販の薄い問題集で事足ります。だからこそ、お金がないから、という理由でそれを諦めないでもらいたいと思います(そして、そんな相談ならいつでも無料で乗ります。気軽にメールしてきてください!)。

その上で大学受験に関して言えば、(高卒認定試験とはあまりにもレベルがかけ離れているため)やはり独学では限度があります。そのために良心的な価格の塾、それも教えてもらう教科の枠を超えて、自分の受験勉強全体について相談できる信頼のおける先生のいる塾を探す(嚮心塾のようにシステムとしてそのようなものを備えている塾は少ないかもしれませんが、個人的にそのように対応してくれる良心的な学校の先生や塾の先生は数少ないながら、必ずいると思います。)、というのが良いのではないでしょうか。ただ、ここでも言えることは大学受験もまた、どこの塾に通ったかではなく、自分がどれだけ一生懸命勉強したかによって決まる、ということです。

今までの自分を反省し、それをやり直そうと思う気持ちは、人間にとって一番尊い感情であると僕は思っています。だからこそ、そのような気持ちをまずは徹底的に自身で突き詰め、努力することです。その中で、どうしても自分だけでは乗り越えられない壁があるものについてのみ、それを他の人や学習塾などの力を借りて、乗り越えていくことが大切です。自分が目の前の試練を誰かに依存して乗り切ろうとすればするほどに、そのような甘えた態度を利用しようとする相手が出てくるからこそ、それに騙されてはなりません。まずは、自分でしっかり頑張っていきましょう!そのように頑張ろうとするすべての受験生に、少しでも力になり続けていきたいと思っています。

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にんじんの食べさせ方。

読み終えてたまっている本の書評を書きたいのですが、このFC2ブログでのアマゾンリンクがまだ復旧していないので、仕方なく教育のことについてまた書こうと思います(しつこいようですが、実は学習塾なのです!)。

さて、にんじんの嫌いな子供に栄養面からにんじんを食べさせたい!と思う時、次のうち、どのようなアプローチがベストでしょうか。

①子供の好きなメニューににんじんを細かく刻んで少量だけ入れて、気づかないように食べさせる。後からにんじんが入っていたことを伝え、「にんじんって結構美味しいでしょ!」と伝える。
②こどもが嫌いなにんじんの調理法を避け、にんじんの美味しさが一番引き立つ調理法を考え、にんじんはこういう風に美味しいんだよ!と伝える。
③にんじんのもつ栄養素をとることの大切さ、さらにそれをただ味や風味が気にくわないだけで食べないことのもつデメリットを伝え、「だからにんじんを食べよう!」と言って放置する。

こんな読みやすさもへったくれもない長文ブログですから、シンキングタイム(このthinking は動名詞ですね!これは生徒への説明に使いやすそうです。)なんてとらずに書いていこうと思います。
一般に上手く行きやすいのは①から③の順に上手く行きやすいでしょう。こどもの思い込みとは非常に強いものです。たとえば③のようなアプローチでこどもを説得できると思っているのは(特に男親はついこのような失敗をしがちですが)大きな勘違いで、そもそもこどもにとっての嫌いな「にんじん」、というのはもはや記号化された象徴としてのにんじんであるため、にんじんの味が美味しいかどうか、ましてやそれに栄養があるかどうかなんてこどもにとってはどうでもよいわけです。「にんじんという(自分が嫌いな)ものを食べさせられる」という状況自体が子供達にとっては嫌なことであるわけですから、気づかないように食べさせては、その心理的ハードルを下げていく、ということが一番良いということになります。

しかし、これで全てが解決するほど単純ではないのが、人を育てる、ということの難しさです。子供達は成長していかなければなりません。そして、成長をする過程で自分が嫌いだけれども必要なものを、気づかれないように自然に摂取させてくれるようなお母さんのような存在を教師や会社の上司に求め続けていく、というのは極めて難しいでしょう。というか、ほぼ無理なことです。あるいは運良くそのような人々に恵まれて行ったとして、果たしてそのように育てられた人間は、そもそも「力のある人間」であるのか、という問題が残ります。幼児ににんじんを食べさせるためには先の①、②、③の順に成功する確率が高かったわけですが、それをいつまでも続けていけば、その幼児は自分から苦手なものへは取り組むことのできない、極めて脆弱な人間にならざるを得ません。

だからこそ、教育においてはこの順番はまるっきり、逆になります。たとえば③で成功するのなら、それが一番教育としてはその子を鍛える手段になっていると思います(「にんじん」を「数学」に置き換えて考えてみてください)。それから、②、①となるに従って、その科目の内容は身につくものの、そもそもそのように丁寧に解きほぐして教えてくれる人がいなければ勉強もできないような人間になってしまう、というわけです。しかし、先に考えたにんじんを食べさせる時のように、①、あるいは②ができる先生を親御さんたちは「良い先生」と評価します。(たとえば予備校の先生の講義としては、①、あるいは②が良い授業と評価されるでしょう。)③を行う先生はどちらかといえば「無能な先生」「ただ、理想が空回っている先生」として非常に評価が低いのが現実ではないでしょうか。それは子供達の短期的な学力の向上を考えれば、確かに正しい評価であるのです。
しかし、長い人生の中で、そのようにハンバーグににんじんを気づかないように入れてくれる、あるいは思いもよらない美味しいにんじんの調理法を見せてくれる先生ばかりがいる時期は極めて短いものです。その意味では、教育の目標とは、自分で学ぶ力をつけること、③のように拙い説得に対しても、それに共感する部分を生徒の中に育て、そしてその調理法を生徒自身が自分で見つけていけることをサポートできることではないでしょうか。もちろん、そうは言ってもまるっきりにんじんを拒絶する相手に、③のアプローチだけをとることは、たとえ相手が大人であったとしてもまずうまくいくことはないでしょう。

これらを踏まえて「良い教師」を再定義するのなら、先の①から③を、③が理想だとしてもその子に受容可能な段階はどれであるかを的確に見抜き、そして少しずつそのハードルを上げていく(さらには①から③のアプローチをミックスさせながら、その配合を少しずつ変えていく)、ということで彼ら彼女らの、必要な問題に自分から取り組む姿勢を鍛えていくことのできる教師であると思います。その意味では①から③の全てができた上で、かつどれが今のその子に必要であるかを見抜く力が大切です。

まあ、言うのは簡単なのですが、これが難しいのです。これはたとえば数学(という一つの科目)の中でも、また分野によって変わってきますし、さらには一つの分野においてもまた、その子にとって受け入れやすい努力と受け入れにくい努力とがあります。サボり方、というのは様々です。たとえばずうっと机に向かって、ずうっとペンを動かしていても(そしてそれが落書きではなく勉強の内容についてであっても)、勉強をサボることは可能です。自分にとって受け入れやすい努力だけを重ねることで、自分にとって受け入れにくい努力をサボっていれば、結局生きていくための力はつきません。しかし、このような「サボり方」は極めて見抜きにくいがために、「うちの子は勉強しているのに、なぜ?」という悩みが生じるわけです。

そのような外面的には見抜きにくいサボり方を見抜いては注意する能力ももちろん教師には必要な力です。しかし、それ以上に教師に求められるのは、そのようなサボり方に自分がなっていないかどうかを生徒本人にチェックする必要を感じてもらうことです。どの生徒をも、24時間365日は見れないからこそ、自分でそのようなサボり方をチェックできる生徒を育てることこそが、教育の真の目的であるといえるでしょう。それこそがにんじんの食べさせ方では最悪である③の重要性であるのだと思います。

もちろん、そのように自分自身を自らの意志でチェックする意志と能力を備えた生徒に対して、教師ができることがないかといえば、それでもまだたくさんあります。そもそも上に上げたような「努力をすることでサボる」というのは本人にとっては自覚のないことであり、そのような世界の認識の仕方の癖を作ってしまっていることが多いからこそ、そこを他者が指摘しては直していく必要があります。
このような意識の「穴」を見つけていくことが、教師にとっての腕の見せ所ではあるのですが、実際にはこのレベルまでいくまでのモチベーションを少しでも上げてもらうための様々な工夫の方が圧倒的に時間と労力がかかるというのが、現状であるようです。

たまには、塾の宣伝もしましょうか。
嚮心塾では、積極的に自分から質問をしにくい子にはこちらから声をかける頻度が高い、というように一人一人に声のかけ方が違うというだけではなく、その子の場への慣れ方、勉強への取り組み方に応じて自分から質問をしにくい子に対していつまでもこちらから声をかける、ということもしません。それは、その子をダメにしてしまうからです。もちろん、最初は自分から質問ができないのは当たり前ですが、場にも僕にも慣れてきてもなお、「先生から声をかけてもらった時に質問をすればよいや」というのは単なる甘えでしかありません。それでは塾という場ではよくても他の場では全く質問ができないままの人間に終わるでしょう。教育産業全体が「サービス」の向上によって、子供たちをspoilする方向へと傾いている中、嚮心塾もその片棒を担ぐのであるのなら、そもそもこんな塾は存在する価値などないでしょう。自分で質問のできる子、自分で勉強の力を向上させようと取り組める子になっていけるように、こちらの知恵と知識と工夫とを徹底的に鍛え抜いて、「常に「不親切な」(すなわち通う子たちにとって常になんらかのハードルを提供し続ける)」塾であり続けたいと思っております。(しまった!宣伝どころか逆効果である気がします。。)

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「ビリギャルはビリじゃなかった疑惑」について考える。

あのベストセラー、通称「ビリギャル」の主人公が実はビリじゃなかった疑惑というのが話題になっています。
(記事はここですね。)

この記事は真っ当だし正しいと思います。そもそも、そんなことは教える側に一度でもたった人間なら、誰でもわかることであると思いますが、あまりにもてはやされ、「誰でも頑張ればそうなれる!」という意見が広まってしまうことに対しての、よいブレーキになるのではないかと思います。

このブログでも何度か書きましたが、一般にどの科目もどうしようもなくできない「勉強の苦手な子」というのは、実はそう多くはありません。その中でも特に、現代文、あるいは数学ができるけど他は壊滅的な子、というのは勉強が苦手だと言っても本人の努力が足りていない、あるいは方法がわからないだけで論理的思考力や読解力はあるので、適切な方法の指導とそれをたゆまず進めていく意志さえあれば、容易に勉強ができるようになります。まあ、一般に数学が得意(で他は全部ダメ)な子は、あまり自分のことを「勉強ができない子」とは見なしていないし、周りもそうは見なしていないため、そういう子が他の教科を頑張って鍛えて合格すると、「あ、やっぱり数学できる子は他のもできるよね。」という反応になります。それに比べて、現代文ができる、というのはあまり「勉強ができる」ことだとは見なされていないため、このような子を他の科目の勉強法を教えた上で鍛えると、「奇跡の合格!」「ビリギャル!」と大騒ぎになるわけです。しかし、これらはどちらも同じことです。ただ、数学は「努力して身につけなければならないもの」であると見なされているのに対し、現代文は「努力しなくても身についているはずのもの」と見なされているため、このような反応の違いが生まれます(実際には現代文も努力しなければ力はつきません。そこまでにどれだけの量の本やマンガを読んできたか、その内容についてしっかり考えてきたかどうか、そこでわからない言葉を調べてきたかどうかがその明暗を分けてしまっています)。

実際に嚮心塾でも、「偏差値45から早慶全部合格!」とか、「部活をハードにやって高3のたった1年で早稲田合格!」とか実例があります。これらはすべて、元々現代文だけはできた子たちです。なので、塾によってはこれを「奇跡の合格!」と売り出すのかもしれませんが、まああまり意味がないことなのでそのような宣伝はしていません。

ここまでの話を踏まえ、「奇跡の合格!」を量産する「奇跡の塾」を僕が演出したいのなら、現代文だけ(これが数学だと、ちょっと奇跡っぽくありません)の入塾テストを行い、そこで現代文だけはできる子たちだけを集め(できれば金髪に染めてもらう(!)のを入塾の条件として)、そしてその子達に他の科目についての受検勉強の仕方を教えていけば、「今年度受験生、全員偏差値30アップの奇跡の塾!」が演出できるわけです(僕は絶対にやりませんが、そういう塾に引っかかってはだめですよ!)。

しかし、上に書いたことが当たり前としても、この本がこれだけ広まっている理由としては、教育に真剣に携わったことのある人にとっては当たり前にわかる「この子はいくらでも伸ばせる」という資質をもった子たちが、かなり多くの割合で見殺しにされている、という事実があるからなのかもしれません。たとえばビリギャルの主人公の女の子が塾に通わずにそのまま学校に通い続けているだけだったら、きっと自分の可能性に気づかないままであった可能性は高いのでしょう。つまり、先に挙げた記事の結論である、

『ビリギャル』は奇跡の大逆転物語などではなく、「中学受験のあと何年か遊んでいても、高いお金を払っていい塾に行けば大学受験はなんとかなる」という、現在の教育格差を象徴する話だったのではないか。(ここまで引用)


をふまえれば、現代の教育格差を生み出しているのは、その伸ばせる可能性のある子にすら気づいていない、ほとんどの学校と、その学校の先生の責任である(それは私立であれ公立であれ)、ということです。しかし、そこで先生の熱意や努力不足を批判するのは単なる無責任な根性論です。それに気づかない理由は端的にシステムの問題であると思います。それはつまり、一人ひとりの生徒を、全教科に渡って把握している先生がいない、ということがその原因であると思います。たとえばクラスの担任を生活担当と勉強担当の二人に増員し、勉強担当の子には総合的にその子の勉強について把握し、アドバイスをする(そのためにその勉強担当の先生は全教科を(完璧には)教えられないとしてもそのそれぞれの科目を鍛えるのにどれくらいの時間がかかり、どういう方法が効果的かを勉強しておく)、という(まあ嚮心塾ではずっとやっている)ことをするだけで、だいぶ違うのではないでしょうか。

「ビリギャル」を感動に紛れては、学習塾業界がお金を稼ぐための契機にするのでは、有害でしかないでしょう。もちろん、すべての勉強に困っている子に対して教える側が必死に教えていくのならよいのです。しかし、この「ビリギャル」と坪田先生の塾の成功は、それとは逆の戦略、すなわち「周りからは勉強ができるとはまだ評価されていないけれども、その可能性が高い子を掘り出しては、その子を集中して鍛える」という戦略を生み出してしまう恐れがあります。一人の「ビリギャル」が生まれることの方が、100人の学力の微増よりも、宣伝効果が高いからです。

それとともに、このような当たり前の結果で大騒ぎするだけでなく、いかに日本の学校制度が機能していないか、という反省点について考えるべきであると思います。野球の世界で「ダイビングキャッチなどのファインプレーは、実は野球が下手なのだ!」という話があります。経験や予測からファインプレーに見えないように、シュアなプレーをすることの方がはるかに大切であるからです。教育もこのビリギャルのような「奇跡」をたたえる前に、そのような「奇跡」が必要のないようなシステムを作ろうとしていくことが大切です。

もちろん、それでもどうしてもとりこぼしてしまうことはあるでしょう。そのとりこぼされてしまった一人一人の子達を鍛えるために、学習塾は必死に頑張らねばならないとは思いますが、本来学校教育の目指すべき道は、「学習塾や予備校の必要のない社会」ではないでしょうか。
そして、そのためには「生徒一人一人の全教科の勉強の状況を、一人の先生が把握する」というシステムを導入することが(特に高校において)学校にも必要なのだと僕は思っています。

病児保育のフローレンスの駒崎弘樹さんが行政に自らのアイディアをパクられて怒っているときに、NPO経営の先輩から「行政にこちらのアイディアをパクらせれば、よりよいものが広範に社会に広まっていくじゃない!」とさとされて気づいたというお話は、僕もとても素晴らしい話だな、と思っています。そろそろ文部科学省も、嚮心塾方式をパクリにきていただいてもよいと思っているのですが‥。まだ、先は長いようです。ケンブリッジでも何百年も前からパクってるらしいですよ!すみません。

そうは言っても、この形式もまだまだいくらでも改善の余地がありそうです。
いつパクられても大丈夫なように、もっと徹底的に鍛えていきたいと思います。

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