嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

自称進学校に騙されるな!その2

前回の続きです。

前回はいわゆる自称進学校の特徴として、

①大量の宿題・小テスト・補講、その他を強制し、生徒の自由に自習できる時間を際限なく奪ってくる。受験生の時間を管理さえすれば受験がうまくいくと勘違いしている。
②自校の生徒のレベルに合った教材ではなく、一般に難関大学受験に必要とされる教材をひたすら繰り返しすことを要求する。それで力がつかなければ受験生本人の努力が足りないことにされる。
③理解よりも暗記を重視する。
④これらの指導に対して全く反省がないことの証左として、そもそもカリキュラムの見直しすらあまり行われていない。そのくせ、「うちの学校でしっかり勉強していれば塾や予備校は必要ない!」と豪語する。

という特徴を挙げました。自分の通っている高校が、このような特徴をもっていると感じる高校生は間違いなく今すぐ逃げた方が良い、またそのときにどのように自己防衛をしていくか、ということも書きました。

今回は、では「自称」ではない進学校、誰もが知っている有名進学校はそのあたりのことをちゃんとクリアしているのでしょうか。(もちろん僕自身の通った経験だけでなく、教える中で見聞きする「有名進学校」の進め方を踏まえてのものですが、個人的な観測の範囲での考察に過ぎない点はご容赦いただけたら。)

これも結論から言うと、あまり良い指導をしているとはいえません。
上の①から④の問題点のうち、有名進学校でその問題点を免れているのは①と、かろうじて③です。①に関しては、高校生の自由になる時間が自称進学校よりはだいぶ多いと思っています。また、③に関しては意識的ではないにせよ、
そもそも授業を行う能力の高い先生が多いことから自然とそうなっているかもしれない、という弱い傾向はあるように思います。

一方で②の教材選びやカリキュラムづくりの雑さ、④の「学校の授業をきちんと聞いていれば…」という根拠のよくわからない自信に関しては、いわゆる有名進学校でも同じです。結局①の受験生に自由に自習する時間を多くすることと、母集団のレベルの高さで進学実績に差がついている程度で、実は有名進学校であってもカリキュラムに関してはかなり雑であり、あまり教師の力量や計画設定とその学校の進学実績とは関係がないと思っています。

そもそもこれらの有名進学校では塾や予備校に通っていない子の方がはるかに少ないわけで、(僕の通っていた学校でも塾や予備校に行かないで受験をする子、ましてやそれで合格する子というのは恐らく学年の1%いるかいいないかであったと思います。)自称進学校の先生たちが真似をするのであれば、有名進学校の先生の真似をしてもあまり意味がないわけです。そこをわからずに教材だけを真似して、この中でいちばん重要な要素である①を削ってそれを叩き込めば有名進学校にも負けない合格実績が出る!と思ってしまっていることが自称進学校の失敗であると思っています。真似をするべき対象が違うだけでなく、有名進学校で唯一その学校が受験生の勉強に役に立っている「自由時間」を削ってしまっているわけですから。

また教材選びの失敗、というのも極めて根の深い問題です。どのような教材もどのレベルの受験生にとっても「この一冊さえ完璧にすれば!」というものはありません。言い換えれば受験生のレベルに応じてその教材が最適であるかは変わってきます。自分のレベルにあっているのであれば、先に上げた青チャートやNEXTAGEもまた、素晴らしい教材になります。逆に合っていなければ、どのように素晴らしい教材も受験生にとっては時間の空費になってしまうことになります。教師にとって必要なのは、一様な教材を全ての生徒に同じように押し付けることではなく、一人一人の生徒の現況を精密に把握し、その上でその子にとって必要な教材を紹介してはそれを進めていくように促していくことであると思います。

小テストや宿題それ自体が悪いわけではなく、そのようにその子の実力に合った教材を進めていく上でのペースメーカーや
強制力になるのであれば、それはまた有効なツールでもあります。問題は、一人一人のレベルを把握し、その一人一人に合ったレベルの教材を選べていない状態で行われる全ての宿題や小テストは、受験生の時間の空費にしかつながらない、ということであるのです。

つまり、この自称進学校の失敗、というのは実は自称進学校に限らない根の深い問題を提示してくれていると思っています。自称進学校であれば、有名進学校であれ、あるいは有名予備校であれ、このように今自分が鍛えていくべきレベルから外れたものをやらせる時間、というのは基本的には全て無駄になる以上、教師にとって必要なのは教える力以上に、その子にとって何が必要であるのかを分析し、見抜いていく力であるということです。

だからこそ、高校での進路指導の先生、あるいは予備校でのチューターという制度の軽視が僕は問題であると思っています。一人一人の生徒の各科目の(あるいは科目ごとに一人でも構いませんが)力を把握するだけの力量のある教師が各学年に一人、つけられれば、そしてその子にとって今必要なトレーニングが何であるかを的確に答えられ、指導できるのであれば、それこそ進学実績は驚くほど上がるはずです。ケンブリッジ大やオックスフォード大でもsupervisor(tutor)とlecturerとを両方用意していて、tutorも非常に重視されているらしいですよ!(これは以前に書きました。こちらを参照していただけたら!
日本ではlectureが全てで、lecturerだけが偉い!と勘違いしている分だけ、supervisor(tutor)としての役割というのがあまり鍛え上げて来られることなかったため、教育システム全体が上意下達のいびつになってしまっていると思います。そこはケンブリッジやオックスフォード、あるいは嚮心塾(!)に学んでも良いのではないでしょうか。

そしてこのことは実は受験生の自由時間のこととも関連しています。教師がそのように一人一人の生徒に今彼ら彼女らがやるべきことを的確に提示できるのであれば、自由時間が多くても、受験生は自分から努力するものです(嚮心塾を見学に来る親御さんは皆、塾での受験生たちの真剣に勉強している様子に驚きますが、これは僕がはっぱを掛けているからではなく、彼ら彼女らにとって「今やるべきもの」を提示していくことによるものだと思っています。)。「受験生が努力をしていない!よし!小テストだ!補講だ!宿題だ!」と近視眼的な解決を目指すのではなく、受験生が努力をしていない理由は自分たちのカリキュラムがその子にとって合っていないのではないかと悩み、一人一人に対してより的確なカリキュラムを練り直していく謙虚さのある教師こそが必要とされているのだと思います。逆に言えば、大人は勉強をしたいと思う高校生の邪魔をしないことが大切であるのです。

話が長くなりました。自分にとって何が足りないかを分析しては、それを埋めるための努力をしていく、という
こと自体は実は受験勉強に限らず一生必要なことです。大学受験はそのような姿勢と方法を学ぶとてもよい契機であるからこそ、高校生の皆さんには、自称進学校であれ、有名進学校であれ、どのような高校に通おうとも学校側の押し付けをまるごと信用せずに、一つ一つ吟味し、自分に足りないものを分析した上で、しっかりと自分自身を鍛えてほしいものだと思っています。

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自称進学校に騙されるな!その1

twitter でも書いたのですが、より精密に書こうと思ってブログに書きます!
https://twitter.com/kejekichi/status/984952914308460545
こういうのって当たり前すぎて、つい繰り返し言いたくなくなるのが僕の悪い癖なのですが、しかし繰り返し言っていかないと犠牲者が増えていってしまいます。僕の敬愛するサンボマスターの山口隆さんは「愛!」「平和!」「死ぬな!」とバカみたいな熱量でバカみたいに繰り返してばかりなのですが、その「大切なことは何度でも繰り返して主張する」という「バカさ」がこの社会には大切であり、必要であるのだと思っています。特に勉強の仕方に悩む高校生に読んでもらえたら嬉しいです!

発端はtwitterで高校生が自分の学校で「勉強部」(という名目の生徒に全生徒に強制的に勉強をやらせるしくみ)が発足したことを受けて、これが「決定的な自称進学校の証」!として見せていたのに暗澹たる気分になったことでした。これに関してはわかりきっていることとは言え、現役の高校生たちは何を信じていいのかわからないだろうから、しっかり書き残しておきたいと思います。

自称進学校の特徴として、

①生徒の自由な時間をとにかく奪う。小テスト、強制的な「自習」時間、長い授業、宿題などなど。大学受験生にとって一番必要なのは自分で勉強をする時間です。その受験生の弱点は受験生本人が一番良くわかっているからです。その時間を奪うことで合格率が上がると考えている高校はまず怪しいと思ってください(これは予備校にも言えることです。講義をひたすらとることを推奨する予備校も同じです。自分で勉強する時間を十分に作ることが受かるためには必ず必要です)。

②しかし、そこでやらせている教材が極めて的外れである。出口から逆算して「これができれば東大にも受かる!」(目の前の生徒たちにとって今それが必要かどうかは考えていない)という主張を繰り返し、レベルにあっていなくても繰り返せばそのうちできる!と話し合う余地がない。もしそれをやっても力がつかなければ「それはお前の努力が足りなかったからだ!できる子はできるようになっている!」と生徒のせいにする。「数学なら青チャートをやれば大丈夫!」「英語ならNEXTAGE(vintageでも可)をやれば大丈夫!」と言っている指導は、ほぼ的外れです。嚮心塾ではこれを「青チャート信仰」「NEXTAGE信仰」と呼んでいます。

③とにかく理解よりも暗記を強いてくる。二言目には「覚えろ!」と言う。これも青チャート信仰やNEXTAGE信仰と通底するものです。これは、暗記はすぐに抜けるが理解はなかなか抜けない、という勉強のセオリーを無視したやり方です。

④そして、これらは彼ら自称進学校が「塾や予備校の要らないサービス」として提供しているつもりであるので、
むしろそれによって進学実績がでていることを盲信する。自分たちのカリキュラムの不備についての反省を少しもしない。

というのが主なものでしょうか。このような特徴に当てはまる高校に通っている高校生の皆さんは、今すぐ逃げたほうがよいです。「逃げる」というのは、(もちろん高校をやめられればよいですが)現実的には難しいと思うので、学校の先生の言うことを聞かずに自分で自分の勉強に何が足りないかを考え、それを補えるような勉強をしていく、ということです。その際に重要なのは

①勉強に王道はないことを肝に銘じることです。基礎ができていない子がいきなり東大レベルだの発展レベルだのを繰り返してもできるようにはなりません。だからこそ、どのレベルからやるかを迷うのであれば、必ず基礎レベルから固めたほうが良いと思います。(これもごくたまにとても優秀な子は難しいものを繰り返すだけでできるようになります。しかし、それは僕の指導経験からいってもきわめて稀なケースです。かつ、(結局難しい教材をじっくり読み込んだり調べたりしていかなければならなく、かつ繰り返しを必要とするので)そもそもそれがあまり時間短縮になっていないケースが多いです。難しい教材から始めることは、実力がつく可能性が低く、かつ可能なときにもそんなに効率的ではありません。)

②学校は卒業できる程度に成績さえとっておけばよい、と割り切ることです。推薦入試とかを狙うのでない限り、学校の成績で受験の合否に影響はありません。あなたが既に学校の成績が優秀であるなら学校の勉強で基礎を作っておいて、そこから受験勉強をしていく、という道もありますが、一旦学校の勉強についていくのが精一杯、となるとむしろ学校の勉強は落第をしないぐらいにとどめておいて、①に書いたように自分の弱点を基礎から積み上げていくことのほうが受験にとってははるかに有益です。また、それがしっかり積み上がっていけば、学校の試験も何もせずに成績も上がっていきます。

③暗記よりもとにかく理解を優先していくこと。もちろん基本的な公式や定理は覚えなければなりませんが、それ以外の覚えるべきものは直前でも間に合います。逆に理解をしていなければ、いくら覚えても覚えたものはすぐに抜けていきますし、穴の空いた水槽に水を注ぎ込むように、努力が実力に結びつかないまま時間を空費することになります。

④この①②③をご両親に理解してもらうことです。基本的に親御さんは学校の成績を気にします。学校の成績が良くても大学受験には通用しないとしても、です。だからこそ、これに関しては自分の計画や今やっていることを説明して理解してもらわないと、「自称進学校」の(間違った)「熱血指導」に対して、親御さんも敵にまわしてしまうことになってしまいます。親御さんに理解してもらい、味方になってもらうことが大切です。

以上のことに気をつけて、自分の将来をしっかりと自衛していくことが大切です。
「俺の言うとおりに勉強すれば受かる!」とあなたに青チャートやNEXTAGEを強制する学校の先生たちもそれを忠実に守るあなたが受験に失敗したとしても、何のお詫びも言ってくれません。何か補償をしてくれることもありません。むしろ「方法は正しかった。お前の努力が足りなかった!」と言わんばかりです。そしてそれは当たり前であるのです。彼ら彼女らに、受験に合格するための方法などわからないからです。だからこそ、自分の将来は自分で自衛することが大切です。

そして、それを一人でやっていくことに自信がなければ、是非嚮心塾に!というのは宣伝なのですが、
僕としてはそのような自称進学校が少しでも減っていってくれることを切に願っています。
若い世代の貴重な時間をあまりにも無駄なことに空費しすぎている。。そのことで彼ら彼女らがどれほど
可能性のある将来を諦めざるをえなくなっているのか。このことに関してはこういった指導に疑問を抱かない
高校の先生の行いを僕は犯罪的である、とすら思っています。

ではいわゆる有名進学校で行われる指導は正しいのか?についてはまた続編を書きます!

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自分で考える、ということ。

今年の受験生の「受験を振り返って」を読んでいくと、様々な発見があってとても面白いです。毎日接してきた彼ら、彼女らの中でこのような言葉が生まれてくる、というだけでも一年間必死に取り組んできたことが報われる思いをしています。

その中でも、今年東大に合格した子の文章には嚮心塾の本質的なところが表されていると思い、感心しました。引用すると、
「私の思考プロセスを読み解いてその弱点を補うためにどうすればよいかレクチャーしてくださいました。これは、先生にとっては生徒がわからないところを教えるよりも難しく手間のかかる作業だと思いますが、このやり方をまねして地学の他の分野や別の科目に応用することで勉強への取り組み方が改善され、入試で通用する力をつけることができました。」
(引用おわり)
僕はよく生徒たちに話すのは「知識を聞くな。本に書いてあることを聞くな。そこは調べろ。」そして「本に書いてないことを聞け。」です。これはより高度な知識、ということではなく(どのような高度な知識も検索範囲を広げれば本に書いてある知識です。)そこに至るプロセスや考え方の部分をこそ、聞いてもらいたい、ということです。さらに言えば、
自分がなぜ努力をしていてもこのようにうまく行かないのか、自分の思考プロセスをチェックして盲点を探していくこと、
そこを探しても自力で見つけられないのであればそのことについて僕に聞くことを求めています。
それを一つの教科について考えることができるようになれば、それを他の教科に応用することもまた可能です。
人間には必ず思考プロセスにおいて特有の傾向があるからです。そのような特徴によって出て来る長所と短所を自分自身で把握すればするほどに自分がどのようなミスを犯しやすいのか、どのような陥穽にはまりやすいのかがよく分かるようになってきます。

どのような受験生も志望校の合格、という目標のために必死に努力しています。しかし、自分では最適だと思って勉強しているその仕方が、局所的、あるいは短期的には最適であったとしても、最終的な目標の実現にとってはかえってマイナスである、ということもまた多々あるわけです。だからこそ、僕の仕事はその局所最適性、あるいは短期最適性をより全体、あるいは長期の最適性へと向かう方向へと軌道修正をすることであると思っています。

というこの説明ではまだ片手落ちで、長期的な最適性のために短期的な最適性を追求したほうが良い場合もまたあります。それは局所と全体での最適においてもまた言えます。そもそも短期・あるいは局所の成功体験がなければ人は努力などできないものです。だからこそ、そのような成功体験がない子にとっては仮にそれが受験勉強全体から見れば遠回りになろうとも、まずはそのように短期・あるいは局所最適解を導く方法を指導します。しかし、そのような成功体験に閉じこもり、その短期・あるいは局所最適を目指す傾向が小さな成功にこもるようになり、最終的な目標を阻害する局面になってきた場合には、そのような短期・あるいは局所最適しか目指していない彼ら・彼女らの思考プロセスに批判を加えていきます。
このようにして、受験勉強を通じて小さな成功を積み重ねていくこと、しかし小さな成功がより大きな成功を妨げていないかどうかを絶えずチェックすることなどを思考習慣として身につけていく、ということができれば受験勉強もスムーズにいきます。一人一人に必要なものが違うだけでなく、同じ子であってもその発達の段階によって何が必要であるのかが変わってくる、ということが本当に難しいところであると思います。

このような手法は結局プログラムを書くことと似ているのかな、と思っています。

このような指導ができる嚮心塾というのは相当稀有な存在なのでは…と自負はしているのですが、なかなか評価されません。しかし、同時にこのような指導法というのは大きな限界を持っている、という事実にもまた直面しています。それは、自分で考える習慣のある子には大きく貢献できるものの、その習慣がない子にはほぼ役に立たない、ということです。だからこそ、このような指導法は指導対象が優秀であればあるほどより効果が大きいという、指導上の限界もあります。(アスリートやプロ棋士や学者さんを指導できると一番効果的かもしれません。)

本来は自己の思考プロセスを可視化してチェックする、ということ自体はどんな子にとっても有効な手法であると思っています。しかし、残念ながら幼いころにはあれこれと考えていたはずの子たちが小学生、中学生くらいには自分で考える、ということができなくなってしまっている、もしくはそれをいけないことだと思ってしまっているというケースも多いのです(特に親御さんが厳しいとそうなってしまう傾向が強いと思います)。

ネットによって何でも検索できる時代に、塾や予備校の価値などどこにあるのか。それこそ優秀な社会の先生や理科の先生、数学の先生のどんな素晴らしい講義も、ネットで検索して調べることのほうがより正確な内容に行き着けてしまうのがこの時代であると思います。僕が持っている知識もまた、生徒たちがネットを駆使して調べることのほうが(調べ方さえ間違えなければ)正確であるに決まっています。その中で教師が子どもたちに教えるべきこととは何か。それは「自分で考え、自分で調べる」というただそれだけの姿勢であると思っています。そして、「自分で考える」とは「自分で考えること自体についても考える」ということをも含みます。そうでなければ考えれば考えるほどに、目指すべき目標からはどんどん遠くなってしまっている自分をチェックすることができないからです。そのような契機に嚮心塾が、少しでもなることができていれば、本当に嬉しいと思っています。

しんどいことしかありませんが、もう少し、塾を続けていきたいと思います。

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形にならないものに、どう寄り添えるのか。

私達が抱える得体の知れない感情をなんらかの形へと言語化することで、私たちはそれに耐えられるようになります。それは「気づき」としても捉えられるもので、言語化できていないことによって自らを押しつぶすような感情を言語化することで、その正体や特性、由来に気づき、そして具体的な対処法を考えることができる、ということです。

しかし、一方でこのような言語化が上手に出来ればできるほどに、逆に苦しくなっていく部分も私達の中には確かにあります。それは「怒り」「悲しみ」「迷い」「恐れ」などといった名前には分類し難いものを、どこかに整理していくことによって、その正体をひどく小さなものへと押し込めてしまったり、そこで貼ったラベルに実態とのずれがあったとしても、それに関してはそれ以上考えないようにしてしまうがゆえに、その違和感が新たなラベルを貼ることへの恐れを生み出すことになります。

いや、それはまだマシな状態なのかもしれません。私たちは自分たちがつける名前と実態とのズレに気づいて名付けることに恐れを抱けるほどに自分の名付けに自覚的であることのほうが遥かに少なく、殆どの場合において自分が名付けた名前からフィードバックを受けて、あたかも自分がその感情を抱いているかのように生きてしまうことの方が多いのでしょう。「この感情を喜びという。」「この感情を悲しみという。」というように定義されたマナーとしての感情、他者に見せるためのものとしての感情を私たちは生きることになります。そして、それは名前を与えられているがゆえに、自分のものではなくなります。

たとえば、最初の段落で書いたような「分析」や「定義」は本来自分自身を把握するためのツールとして導入されたはずであるのにもかかわらず、そのような「分析」や「定義」はやがて自己を疎外して、自分の中の部分を他者にも理解できるような部分へと分解していきます。自分の中のある部分が他者へも理解できるように分解したときには、もはやそれはそもそも自分そのものではなくなるかもしれない、という恐れを一旦は無視して、です。それが「とりあえずはその差異は無視しましょう!」という態度のもとであればよいのですが、そのような定義は自分自身をも縛るものとなっていきます。

そのようにして私たちは自己疎外の状態(自分が自分ではなくなっていく状態)へと陥っていくと言えるでしょう。

しかし、かと言って私達の抱える感情を言語化せずに未分化なまま、放っておくこともまたむずかしいのです。それは、対処できるものまでも致命的なものへと放置してしまうでことにつながります。

人間は自らの感情に名前をつけながら感情を飼いならしていかなければならないと同時に、自らの名前をつけた感情が本当にその名前で合っているのか、全てを汲み尽くせているのかを絶えずチェックしていかねば自分で自分をコントロールしているつもりで自分ではないものへと自分を作り変えてしまっていることになってしまう。本当に難儀な生き物です。

だからこそ、未分化の感情を呼び覚ましてくれるものは、「自分を閉じ込めていた狭い檻はあくまで自分が作ったものにすぎないのだ!」という気づきを与えてくれるだけではなく、また新たに名前をつけよう!定義をしていこう!という勇気を与えてくれるものでもあります。それは自分のことをわかっていたつもりでわかっていなかったことに気付かされ、自分を再定義する力を与えてくれます。それは私達の理性によって私達が把握する自己が全てではない、ということを見せてくれることから、世界の可能性に対してもう一度考え直させてくれる、という力を持ちます。優れた学問、優れた芸術がこのような力を持つということに関しては勿論言うまでもないわけですが、そもそもこのような可能性というのは(当たり前ですが)優れた作品だけに宿るものではなく日々のやり取りの中でもそれを感じさせてくれる人、というのはいるわけです。

嚮心塾で行っていることに少しでも教育的意味があるのだとしたら、僕はこの名前をつけていく作業よりもむしろ、名前をつけ得ないものに寄り添う作業であると思っています。名前をつけて定義していく事自体はとても重要なことではあるのですが、それ自体はまあ多少言葉の力があればできることであるとも思っています。問題は他者の中の「名前をつけえないもの」に対してどう寄り添うのか、それこそが極めて難しい、ということです。それは自分、あるいは相手の未分化の感情に対してどれほどの敬虔さがあるのか、ということでもあります。

それはすなわち人間にとって、理解を伴わない共感とは存在しうるのか、というように言い換えてもよいと思います。相手の思いを理解して、共感をするということが第一のステップだとしたら、相手の思いを理解できないけれども共感をする、ということがどのように人間には可能であるのか、ということが問われているのだと思います。「いやいや、理解して共感するのに越したことはないだろ?」というのはもちろんです。ただ、相手の思いを理解して共感する際には相手の思いを自分の中で理解できているものへと矮小化するという行為がどうしてもつきまといます。そのように相手の全体を理解できるパーツへと細分化し、自分が理解可能な断片へと貶めた上で相手を理解しようとすること自体が、目の前の相手への暴力につながることもまた多いのだと思います。

教育には、相手の全体を受け止める決意が必要になります。もちろんそれはただ寄り添うだけではやはり無責任であり、部分部分をこちらから名付けたり、相手自身にそれを名付ける練習をしてもらったり、という作業の中で茫漠とした悩みに押しつぶされそうになる一人一人にそのような悩みと立ち向かう術(すべ)を身につけてもらうことがとても大切です。しかし、そのような切り取り作業自体が本質であると思えば、「教育術」になってしまい、あまり意味はないのだと思います。そのような切り取り作業はあくまで現実を生きるためのツール、あるいは自己に対するより精緻な全体像へと近づくための仮説の構築にすぎないということを決して忘れないようにする。それが人間に対してとことん向き合うときには必要になってくるのだと思います。

言葉にならなくて苦しむだけではなく、言葉にしてもまた、そのことゆえに苦しまざるをえなくなる。全く人間というのはしんどい生きものです。その形にすることの暴力性にも、形にしないことの暴力性にもしっかりと耳を澄まし、心を開いていきながら、何とかこのしんどい作業に耐え抜いていきたいと思っています。

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「3+1=5」を褒められるか。

ご無沙汰をしております。今年のどくんごも本当に、本当に素晴らしかったので是非その感想も書きたいのですが、まずはしばらく書いていなかったリハビリ代わりに教育のことについて書こうと思います。

紹介が遅くなってしまったのですが、友人の谷口君のウェブ連載がとても良い記事だったので紹介します。いつも読んで勉強させてもらっているのですが、彼のこのお子さんへの指導の仕方には、リアルタイムで聞いたときに本当に感心させられました。詳しくはこちらをどうぞ。

このような話をすると、プロセスが重要であることは比較的理解されやすいとしても、学習の結果が出ていないことへの焦りからどうしても否定的な意見も出てくるものです。「プロセスを理解するのが必要なことは当たり前だろ!その上で結果も合っているに越したことがないじゃないか!」というようにです。しかし、子どもたちというのは大人がどこに重点を置いて見ていてどこを本当は気にしているのかに対して極めて敏感なものです。だからこそ、「プロセスも大事だけど結果が合ってなければ意味がない」というリクエスト自体が建前は別として結局「結果が合っている」かどうかしか大人たちは気にしていないし、チェックもしていないということを敏感に感じ取った子どもたちは、「結果さえ合っていればいい!(だから答えを写す!)」などと間違った学習をしてしまうことにつながります。

ここで問題となるのは「プロセスも答えも両方合っているのが一番良いはずだ!」という何もかもを同時に実現することを求める態度です。これは、プロセスや考え方が合っているかどうかを見るという極めて面倒な作業を教える大人側が回避したいがために便宜上行われているに過ぎない指導方法を、結果の面から正当化したに過ぎない態度です。式をチェックすればいい!と思うかもしれませんが、正しい式を書くことができていたとしても理解ができていないことなどは日常茶飯事です。だからこそ、「プロセスも結果も合っているのが一番良いはずだ!」という態度は容易に「結果が合っているのだからプロセスも恐らく合っているのでしょう。。」というように、結果だけからプロセスの正当性を類推するという態度に堕していき、悲劇を生んでいくのです。

そもそも新たなものを学ぶときに、あれこれと何もかもに気をつけて学ぶことができる、というのはかなり限られた優秀な子です。それに関しては我々大人たちもまた、自分にとって新たなものを学習する際には、何もかもに気を配りながら学んでいく能力はないと思いますし、その点において子ども達のその緩やかな歩みを決して笑うことはできないと思います。だからこそ、まず何が大切で、それができるようになったら、次に何が大切で、とステップを踏んでいくことが大切であるのです。その点においても、谷口君の娘さんへの指導は、本当に素晴らしい指導だと思いました。

もちろん、入試への準備などを考えれば「答を合わせる」ことが重要であるのは当たり前です。しかし、教えていて常々思うのは、受験生たちが「理解しているけど計算ミス」と分類しているものの中に、いかに理解していない部分がまだまだあるのか、仮にそれらを理解しているとしても極めて煩雑な方法で答を合わせているものがあるのか、そういったプロセスの点で改善しなければならない点があまりにも見過ごされてきているという事実です。実は「答を合わせる」ためにも、どこまでもプロセスを徹底的に理解し、改善していく必要がある、ということ自体が伝わることが勉強の面での改善にも役立ちます。「大事なのは答えではなく、そこに至るプロセスだ」という姿勢の徹底こそが、結果として答を合わせることにもつながっていくと思います。

そして、この問題はAI(人工知能)の発達によってさらに複雑な問題になってしまったように思います。AIの発達によって、私たちはそこに至るプロセスを理解することなく答を知ることができる時代に生きることになりました。答をどのように導いたのかについてはAIは完全に人間の想像力や理解力を超えてブラックボックスであり続けるわけですが、しかしどのような賢い人間が考えるよりも「正しい」答を恐らくAIが提示していることは確かです(それは先の将棋電王戦で佐藤天彦名人がPONANZAに為す術なく敗れたことからも、あるいは囲碁で柯潔九段が為す術なく敗れたことからもわかるでしょう)。しかし、私達がその「正しい」答を採用するかどうかを考える際に、私達の推論能力ではその正しい答に至ることができないとしたら、私達はどのようにその正しい答を吟味することができるのでしょうか。あるいはその正しい答を選ぶことをどうやって正当化できるのでしょうか。

もちろん、そこで理由を考えることこそがAIの出す答えを人間が選び取るときのツールになりうる、などという楽観的なことは言えません。人間の理性は様々な正当化を生み出すことができるので、理屈がついているということが直ちに正しい結論へと到達できていることにつながるかどうかはわからないからです。しかし、一方で、理由を考える事、プロセスを考えることを人間が答をAIに与えられるから、という理由で放棄するのだとしたら、それこそSFが描いてきたディストピアのように人間が気づかなかった初期条件の違いやその他からAIが引き出す誤った答やあるいはAIにとって有利(で人間にとって不利益)な答に対して、それを信じるしかなくなる、という状況に陥ることになります。

これからどんどんブラックボックスとしてのAIによって答えだけが先に与えられ、それを教師として人間が学習を進めていく際に、しかし、その結論を人間がどのように吟味するのかについては、確実な手段がないと言えるでしょう。しかし、その中でプロセスを突き詰めていくというその思考方法は少なくともそのような時代における一つの踏むべきステップになると言えると思います。もちろん、そこで「理由」を求めることが全体として見れば局所的な「偏見」を生み出し、我々がより良い解へと到達することを遠ざけてしまうという失敗はあるかもしれませんが、そのような失敗を乗り越えてなお、理由を求め続け、プロセスを重視していくことの重要さがさらに増していくのではないかと思います。

正しい答が出せないあるいは「正しい」答を出したつもりがそれが誤答であることをすぐに思い知らされるという意味では、AIの進んだ時代に生きる我々は実は、「3+1=5」と答える幼児と同じ立場にあるとも言えるのです。名人や世界ランク一位という我々にとっての(同じ集団に属すると言挙げするのも烏滸(おこ)がましいほどの)天才たちも、AIから見れば幼児レベルになった時代が現代であるのです。大切なのは、私達の出した答が正しくないとしても、それならどのように正しいものを求めていくかという方法を学ぶこと、そのような方法が既存のものとしてなければそれを模索し続けること、そして何よりもまず、正しいものとは何かを探し求める姿勢を諦めないことであるのだと思います。最後のことについて言えば、人間全体が、あるいは個々の個人が、仮に自分の力では正しい結論にたどり着けないとしても、それでもそのような事実から目を背けることなく、結論の正しさを愛せるかどうかこそが一人一人に求められているのだと思います。そして、そのような時代であるからこそなおいっそう、答えを目指そうとするプロセスへと目を向ける教育こそがなおさら子どもたちにとっては必要とされるのではないかと思います。我々は理由を考え続けることを通じてしか、「正しさ」を認識できないからです。

褒めるべき「3+1=5」に正しい反応と指導ができるように、何より正しいものを求めようとする彼ら彼女らの心と頭の動きを局所的な「正解」によって押し殺してしまうことのないように、今日も必死に生徒たちの思考へと耳を澄まして教えていきたいと思っています。

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「掛け算の順序論争」に終止符を打てるか!

表題通りにかけ算の順序論争に終止符を打てるかどうかは別として、考えねばならないところまで議論を前進させられればと思います。

まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば

「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して

2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。

この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!

さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)

なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。

もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。

もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)

だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。

子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。

つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。

まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。

もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)

最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。

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愛とは何か。

この仕事をしていて、いつも痛切に感じられるのは親御さんが自分のお子さんのためにどれほど懸命に努力をされるか、ということです。自分の子供に対して本当に自分のことのように思い悩み、身を削ってなんとかしようとするその努力に対していつも心を打たれます。特に同じく2児の親でありながら、自分の子供を他人の子供よりもよけいに愛することの出来ない僕にとってはなおさら、ひとりひとりの親御さんの献身的・超人的な努力と愛が本当に眩しく見えます。

それとともにこの仕事をしていて痛切に思うのは、その愛情がいかにすれ違いしか引き起こさないか、という残酷な現実でもあります。どのように努力や思いを尽くそうとも、子供は親の思うとおりには育ちません。もちろん、方向性が親の望むそれでなかったとしても、その違う方向性へと向かう熱量が大きければそれはそれで子育ての「成功」であると僕は思いますが、それですらもなかなかに難しい、というのが現状であるのだと思います。その厳しい現実に傍目から傍観者として見るのではなく、そのすれ違う思いを何とか噛みあわせるためにこそ塾というのはあると思っていますし、その点で親御さんの協力者であるだけでも子どもたちの代弁者であるだけでもダメで、その両方をやりながら、何とかそのすれ違う思いを噛みあわせていきながら、子どもたちに自分たちの人生を自力で切り開く力をつけてもらいたいと思って日々やってはいるのですが、それがどのりょうに努力しようとも、本当に難しいことであると日々思い知らされています。こんなしんどい仕事だと最初からわかっていれば、絶対に選ばなかったのに!という思いで毎日全力でやっています(まあ、これは嘘ですね。初めから知っていて覚悟を決めて飛び込んだつもりでした。しかし、当初の僕の覚悟しかないのなら、とっくにやめているほどしんどいことだとは気づいていなかったというのが本当のところです)。

ただ、この仕事を続けていく中で、僕の中では「愛する」という言葉の定義がだんだんとわかってきているように思っています。自分が正しいと思うものを相手に伝えてそれを実行してもらおうとしても、相手がそれを正しいとは信じられない時にはそれは伝わり得ないわけです。それに対して「相手の考えがわけがわからない」とするのではなく、自分の中での「正しさ」の定義をそこでもう一度疑い直せるかどうかこそが、愛情の深さなのではないかな、と思うようになりました。その点でどのように懸命に相手を自分の理想とする「型」にはめようとしても、それが自分が相手にはめようとする「型」自体が本当に正しいのか、そのモデルが自分にはぴったりと合ったとして、違う人間である我が子にもピッタリ合うかどうかは実はわからない、という疑いをもてるかどうかこそがとても重要であるのだと思います。

もちろん、そもそも相手が何も頑張ろうとはしていない、あるいは頑張ろうとしていることのその密度が圧倒的に足りない、などということは批判をすべきでしょう。それをせずして「違う人間であるから何でも認める。」という姿勢をとるのは、単純に責任を放棄しているだけです。自分が必死に何らかの価値を追求し、そのために努力をしていることがそもそも必要です。しかし、それを必死に追求してきた自分の人生に一点の曇りがないとしてもなお、違う道へと同じかそれ以上の努力の密度で挑もうとする子どもたちを「選ぶルートが自分とは違うから」という理由で否定をしてはならないのだ、と思います。だからこそ、本当に子どもたちを愛する親や教師というのは、絶えず自分の価値観を疑うことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが親や教師として鍛えられる、ということとも同義であると思います。一つの真理や正義に安住するわけにいかない、という悩みこそが人間性を深めるものであると思うからです。

だからこそ、自分が何かの方向へと懸命に自分の人生を懸けて努力をすることは、その方向を疑うためでなければあまり意味がないのだと思います。方法的懐疑が目的へと堕した瞬間に懐疑は自己目的化してしまい、検証を伴わない懐疑がすべての努力の足を引っ張るだけという情けない事態になってしまいます。しかし、人間というのはどうしても心の弱いものであるので、自分が懸命にそれこそ人生をかけてやってきたことについては、そこに価値があると信じたくなるものですし、逆に何かを頑張りたくない人間にとってはその自分が頑張りたくないと思うものに価値が無いと信じたくなるものです。しかし恐らく現実は、どのような学問もどのような技術もどのような社会貢献も、私達が人生をかけてそこに投資をするほどには価値の無いもの(必ずその限界を伴うもの)でありながら、しかし、私達がそれを全くしないよりは価値が有るものであるのだと思います。その残酷な現実を少しでも検証していくために、私たちは私達の信じるものがそれほど信じるに値しないことを知るためにこそ、必死に努力をしていかねばならないのだと思っています。それこそが、一つの中心へと「帰依」や「信仰」のように収斂していくものではない、本当の愛情なのではないかと思います。その意味で愛は拡散的であるがゆえに、打ち捨てられゆくものであると言えるのではないでしょうか。広がり、打ち捨てられ、踏みにじられることを恐れずに、様々な作業仮説を疑うための努力を今日もしていこうと思っています。

もちろん、このように偉そうに言う僕が生徒たちの思いを踏みにじっていないのかと言えば、失敗ばかりであるのでしょう。僕は生徒達に話を聞いてもらうために叱る、あるいは怒るという手段をほぼ使いませんが(よく怒る教師は自らその武器を奪うことになります。オオカミ少年になってしまいますよね)、それでも「ここでこそ怒らなければならない!」とかなり精密に計算をして叱ったつもりが、その真意が全く伝わらずにただ相手の感情を踏みにじるだけになってしまう、という失敗だってよくあることです(まあ他の先生方と比べれば少ないのかもしれませんが)。しかし、叱ること、叱らないこと、あるいは相手を型にはめようとすること、あるいは型にはめようとしないこと、そのすべてが相手に対しての暴力になっていないかどうかについては、絶えず自覚的にチェックしていかねばならないと思っています。何が暴力で何が愛情であるのかは時と状況と相手によってすべて変わっていきます。だからこそ、「これが愛情だ!」「これが暴力だ!」などという安直な決め付けを自分に許さずに、絶えず考えぬいて行きたいと思います。

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教育経済学のすきま

しばらく書いていなかったのですが、嚮心塾にはホームページもなくてこのブログしかない上に、そもそもそのブログもたまにしか更新されないは、書いてあることも塾の様子とか受験のこととかではないわけで(何しろ、最新のエントリがどくんごの東京公演の感想ですからね!そもそもどくんごって何だよ!というのが一般的な反応ですよね。。)、全くこのような塾を探してご連絡をいただけるお父様、お母様方の努力には本当に頭が下がる思いです。ということで今回は少し反省して、久しぶりに教育について書いてみたいと思います。

教育経済学が中室牧子先生のおかげで少しずつ日の目があたってきていることは僕は素晴らしいことだと思いますし、成果のはっきりしない思い込みに基づく指導法をevidence -basedにしていく事自体はとても大切なことです。しかし、それがもっと普及すべきであることには諸手を挙げて賛成できるとしても、その先にまた別の難しい問題が残るのが「教育」という取り組みの難しさであると僕は思います。

塾生の勉強への姿勢や質が変わってきているのに、通塾を打ち切られることというのが非常に多いのでついついこちらとしては嘆きがちなのですが、教育においてはどうしても結果は最後まで出てこないものです。たとえば、塾生の変化の仕方を見てもまずは勉強への意識が高くなり、次に勉強時間を増やすようになり、次に勉強の質を高めることになっていき、最後に結果が出る、ということになります。この①勉強に対する意識の変化→②自発的な勉強時間の増大→③勉強の質の向上→④(成績向上などの)結果が出る、というプロセスには、現在勉強に苦しんでいる子たちはほぼ共通するプロセスであるというだけでなく、この一つ一つのプロセスのどれもが決して省略できないものでもあります。たとえば、よく親御さんに塾の役割として求められるのは③の「勉強の質の向上」であるのですが、これは端的に言えば①→②のプロセスを本人が踏んでいなければ、こちらがいくら様々な方法論を伝えようとも決してうまくいかないものであることをほとんどの親御さんは誤解していると言えるでしょう。(「いや!うちの子は勉強時間はこれ以上とれないくらいとっている!ただ効率が恐ろしく悪いのだ!」という反論をよくされるのですが、まず勉強時間を無理に睡眠を削らない範囲で可能なだけとっている小中高生自体がほぼいませんし、仮に勉強時間を物理的にそれだけとっているとしても、それらが自発的なものではなく強制させられている以上、子供というのは机に向かって鉛筆を動かしていても、いくらでもサボれるものであるのです。)

なので、まずは①の勉強に対する意識の変化が重要です。勉強というのは学校の教師や親、さらには塾や予備校の講師に無理強いさせられるものではなく、そもそも自分の将来に向けて自分にとって必要であること、またそれを嫌だと感じているのはむしろ勉強がデキる子であっても同じであり、ただ嫌でも必要なものとして諦めて努力する姿勢を身に着けている子とそうでない子との差がついているにすぎないこと、さらにはそのように若いうちに自分が嫌でも必要だと感じることに努力を惜しまず取り組んでは結果を出していくことが自分にとって、現在のような「学校歴社会」がなくなったとしてもとても意味の有ることであること(教育経済学の中室牧子先生もここについては強く主張されていますよね!)、さらにはそもそも日本において学校歴社会がなくなる気配はまだまだ当分ないであろうこと(それはマイナビやリクナビが支配したあとの就職活動においてはなおさら「学校歴による足切り」が厳しくなっており、学校歴は十分条件ではないにせよ、必要条件としてはむしろ以前より厳しく求められるということ)を子どもたち一人一人が理解することが大切です。ここに関してそもそも①に関して勉強の意味を大人たちは子どもたちに理解させるのが面倒くさい、というよりも自分たちも言葉で説明できるくらい理解できていない事が多いのではないでしょうか。子供に勉強をさせたいのなら、まずは大人たちが自分たちが勉強をしてきて(あるいはしてこなくて)うまく行った、あるいはうまく行かなかったということの功罪をしっかりと総括して子供達に自分の言葉で伝えていくことが大切です。それが成功談であれ、失敗談であれ、そのような言葉は子どもたちに強く響きます。特に失敗談の方が強く心に響くと言えるでしょう(マンガ『暗殺教室』でも殺せんせーが「教師とは自分の成功を子供達に伝えたいか、自分の失敗を子供達に伝えたいかのどちらかだ」と言っていましたよね!特に「失敗」の方が子供達の心には必ず強く響くと思います。人は成功を誇るときは傲慢であるとしても、失敗を悔いるときは人間性の最も崇高なものがそこに現れるからです。そのような「大人が自分の失敗を本気で悔いて子供に伝えること」以上の教育を僕は知りません。)。そのことを親や教師があまりにもやらないままに「勉強をしろ!」と言っているのが日本の教育の現状であると僕は思っています。

そして、次に②の自発的な勉強時間の増大です。これが「自発的」でなければ意味がないことは最初に少し述べました。強制的に勉強時間を増やしても、結局机に向かってサボる時間が増えるだけになってしまいます。ここでは「質より量」ではなく、まず「量」が優先します(もちろんベルクソンの言うように、「『量』とは注意力を失って注意されなくなった『質』のことである。」という主張を僕はこの上なく正しいと思っています。この言葉はそれこそスターリンの「100人の死は悲劇だが、100万人の死は数字である。」という冷徹な言葉という傍証を引くまでもなく、人間の認識の仕方を見事なまでに的確に描写していると思います)。勉強において、「量」を先に徹底して増やすことが重要であるのはどのような受験生も毎日15時間はなかなか勉強できない、あるいはそれができたとしても毎日18時間や20時間となるとできないわけで、量を増やして間に合わせようとすることには限界があると思い知るためです。これには、勉強をしていない子特有の「自分は努力をしていないだけで、努力すればできるんだ!」という根拠の無い甘えを早々と捨て去ってもらうためという目的もあります。勉強時間を増やさなければならないけれども、それを増やすだけでは決して間に合わないことを自覚して初めて、③の質をどのように上げていかねばならないか、ということに思い至ることができるようになります(もちろん、これはそもそも残り時間が少ないと痛切に感じては必死に勉強している受験生であれば、この②のプロセスを短期間で通過できるケースもあります。ただ、そのような受験生の場合、自然に③のプロセスへと移行していることが多いので、むしろ②のプロセスで止まる受験生というのは極めて少ないように感じています。)。人間というものは、自分が一生懸命に取り組んでいるものがうまくいかない時に初めて真剣に悩み、その打開策を考えようとします。一方で自分が一生懸命に取り組んでいないもので成果が出ない場合には周りのせいにしたり、あるいは自分が一生懸命やればうまくいく、と自己弁護をするものです。そして、学校の勉強、さらには受験勉強というのはほとんどの受験生が自発的に取り組むものではなく受動的に否応なしに取り組まされるものである以上、そのように受動的に始まったものを能動的に捉え直さなければ、決してその質を向上させようとは思わないのです。それは人生と同じで、受動的に始まるものであるのです。吉野弘の『I was born』という詩に見られるように、一人一人は生まれようと思って生まれたわけではないのにもかかわらず、生きようと能動的に決意しなければならないわけです。それは実は学校制度に担保される勉強も全く同じであると僕は思います。

そしてようやく③の勉強時間の質の向上へと繋がります。このプロセスでは自分の勉強の仕方のすべてを疑える子が強くなります。すなわち「自分が今まで「勉強」として定義していたものの再定義」を隅々まで図っていけるかどうか、ということですね。もちろん、受験生の勉強の仕方に対してこちらで疑問を投げかけることでそのような自分が「勉強」だと思い込んでいたものの再チェックをこちらからも促していきます。しかし、そうはいっても、すべての受験生のすべての認識を一人の教師がすべて把握することはおそらくできません。だからこそ、教師のやるべき仕事はそのように「自分のやり方を疑う」ことを教えていくことであるのです。それが本当に効果が高いかそれとも効果が上がっていないかどうかを絶えず自分でチェックするように習慣づけをしていくことが大切です。もちろん、この「自分の勉強の仕方を疑う」というのも程度の問題で、あまりすべてを疑いすぎてしまうのはそれこそ自己免疫疾患のように、自分自身まで攻撃してはかえって逆効果になってしまうのですが、そのあたりのバランスの取り方についても、教師の腕に委ねられていると言えるでしょう。

このようにしてようやく、④の結果が出てきます。もちろん、実際にはここで単純化したように①→②→③というプロセスがくっきりとわかれているわけではありません。実際には残り時間というタイムリミットを見ながら、①のプロセスと②のプロセスを何とか並行できるように苦慮したりしています。また、②と③のプロセスについてはほぼすべての受験生が②を終えてから③に移行できるわけではないので、同時並行になることが多いと言えるでしょう。さらには一つ一つの教科について、この①の段階、②の段階、③の段階がすべて入り混じります。たとえば数学については③まで来ている子も化学については①の時点で挫折していたり、その逆があったりと大変ですし、一つの教科についての気づきやbreakthroughを他の教科にも応用できる子、というのが実はかなり限られるのでその辺りもそれぞれの気付きやbreakthroughが本人の中でつながっていくように、という指導もこちらでしなければなりません。

という諸々があって、ようやく結果が出てきます。本当に大変な道のりですし、そのような諸々をクリアして毎年受験生が難しい大学に合格していくのも本当にすごいことだと思います(誰もほめてくれないので、自分でほめました!自給自足!)。ただ、このエントリの目的は「だから、みなさん、嚮心塾で成績という結果が出てなくても許してね☆」ということではありません。こういったことも含め、塾にすべての責任があるというつもりでこちらは教えています。しかし、このようなプロセスをよほどの天才でない限りいくら迂遠であっても辿らざるを得ないという「不都合な事実」を認めたうえで、どの段階に自分の子供がいるかを親も教師も絶えずしっかり考えていくことが長期的に見た子どもたちの成長にとってはとても重要であるということです(松井秀喜選手がヤンキースに入団した時、名将ジョー・トーリは当初は全く打てていない松井について聞かれ、「そのうち打つよ。彼はボールがよく見えていて、三振の仕方がいい。」と言ったそうです。その後の結果はご承知の通り、トーリの予言通りになったのですが、三振という結果だけではなく、三振の仕方を見ることが「人を育てる」ということであると思います)。それをせずに「結果が出ないから」と改善しつつある取り組みを切るのでは、「無駄」に見える基礎研究を守っていくことの大切さを主張する大隅良典先生に対して、「競争的資金を拡充しますよ!(結果出したらお金あげるよ!)」と的はずれな言葉で応えるとんちんかんな文部科学大臣と、知的レベルにおいて何ら変わらないことになってしまいます。どちらのアホさにおいても、その短絡的な判断の犠牲になるのは、若い人たちであるのではないでしょうか。(もちろん改善が見られないのにそこに予算をかけるべきであるのか、という問題は国の科学予算であれ、卑近な塾や予備校代であれ、また考えなければならないもう一つの大切な問題です。しかし、そこで大切なのは「改善」を見ようとしているかどうか、であるのだと思います。「役に立つ」あるいは「成績が上がる」のは、あくまで最終段階でしかない以上、それ以外の「改善」を見ようとする目が(ジョー・トーリのように)なければ、やはりそれはせっかく育ちつつある芽を潰すことになってしまうのだと思います。)話を戻せば、evidence-basedにしにくいものについては、やはりそれに携わるものの見る目を鍛えるしかない、というところが教育の難しさ、教育経済学のすきまとして絶えず残りうるところなのではないかと思っています。

また、だからこそ僕は嚮心塾に通ってうまくいかなかった生徒たちも嚮心塾をなかったことにはできないと思っています。退塾するにせよ、そのような改善のプロセス自体が少なくとも存在することを知っているのは、その後の人生で真摯に取り組むにせよ、あるいは投げ出して中途半端に生きるにせよ、決して無視の出来ないものとなるはずです。自分の意識を改革できずに努力を積み重ねられなかった子も、努力をしなかった自分というものを決して自己正当化することはできずに残りの人生を生きざるをえないのではないでしょうか。それがいつか、彼ら彼女らの生きる力となれるように、今日も生徒たちにどんなに嫌われようとも、自己正当化のためだけの努力をしっかりと論破していっては、自分を鍛えるための意識と方法とを塾生の中に育てていきたいと思っています。

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愛は惜しみなく掘り崩す。

ブログを書くのが久しぶりになってしまいました。受験生の合格体験記を待つこの季節は、どうしても新年度のドタバタと相まって間隔が空きがちになってしまいます。これからは気をつけて、短いものでも定期的に書いていきたいと思います。

この仕事をしていて常々思うのは、「生徒に尊敬をされる教師は良い教師である。」というのは嘘であるということです。むしろ教師というのは反発を受け、時には憎まれるくらいでなければなりません。なぜなら子どもたちにとって必要なものを彼らが本当に欲している場合というのは極めてまれであるからです。彼らにとって(その狭い価値観から)自分が必要とは感じていないものを、しかしそれが必要だと口を酸っぱくして言い聞かせてはそれをどのように理解してもらえるかを手を変え品を変え、試行錯誤をしていくことが教師に求められる役割です。そのような取り組みに邁進する教師は、子どもたちにとっては、理解の出来ないものをおしつけてくる嫌な大人としてしか見えないでしょう。もちろん、そこで彼らが現在必要とは感じていないものがどうして必要であるのかを理解してもらうために最大限の努力を費やさないのは教師としてはダメなのですが、とはいえ様々なタイムリミットがある中で、理解のための努力だけを行い続けては結果として受験その他に間に合わなくなって改善できなくなってしまうこともやはり教育の失敗です。だからこそ、その理由を説明しきれずに取り組んでもらうようにせざるを得ないことも多々あります。

一方で、「生徒に憎まれている教師はすべて良い教師である」というわけではないこともまた当たり前のことです。そもそも生徒との間に信頼関係や尊敬がある程度なければ、そのような浅い関係性しか結んでいない大人の言うことを子どもたちが聞くわけがありません。そのような信頼関係を得ようとすることなく自分の主張だけを繰り返す教師や大人というのは、そもそも子どもたちにその内容をわかってもらおうと本気で目指しているのではなく、「自分は保護者・監督者として最低限の義務は果たしている。」という自己満足や責任回避のためという動機から、そのように行動していることが多いのではないでしょうか。そのような姿勢をとる教師から生徒が何かを学び取ることがないとは言いませんが、それはあくまでも生徒側の力量によるものであり、大半の生徒にとってはそのような教師から学ぶことは難しいのだと思います。

つまり、「ずっと生徒に尊敬されている教師」は生徒の歓心を得ながらも、それを何に用いるかを考えていないという点で怠惰であり、「ずっと生徒に憎まれている教師」はそもそも「自分は話すべきことを話している」という自己満足に陥ってはそれが相手に伝わっていない現実から目をそらしている点で怠惰であるということになります。だからこそ、理想の教師は「生徒との間に信頼関係を築きながらも、その信頼関係を築いたり尊敬を受けたりということを目的にはせずに、そこでできた信頼関係を資本として掘り崩しては(生徒のために必要だがしかし彼ら彼女らが受け入れたくないと思っている)彼らの改善点を指摘し、修正していく教師」ということになります。

これは嫌ですよね。日々そのように自分に肝に銘じてやっているつもりですが、このように書き起こすと改めてしんどくなります。端的に言えば、「嫌われるために、愛される」ことを目的としなければならないというのが何よりも辛いことです。人間はずっと愛されることが辛くないのはもちろんとして、ずっと嫌われていることも楽なのです。ある意味、そこに期待をしなくて済むからです。あるいは誰かにずっと嫌われている人も、また別の誰かからはずっと愛されていたりするわけで、そこで精神のバランスを保つことが出来るでしょう(先に挙げた自己満足のような言葉しか離さない教師も家庭に戻れば良きパパやママとして愛されているのでしょう)。しかし、「いずれ嫌われるために、愛される」という目的をもって一人一人の子どもたちと接するのは、例えて言うなら「失恋をするために恋をする」ようなものです(どんな人でも、失恋をした瞬間は「こんなしんどい思いをするなら、もう2度と恋なんてしない!」と思った経験があると思います。良い教師とは、それを意図的に一人一人に対してやっていかねばならない、ということであるのです)。

そんなにしんどい思いをしてまで、なぜそれをやっていかねばならないのか。それは教師から見える、生徒の認識の限界を押し広げていくことが結局その生徒にとって必要なことであるからです。その認識の狭さを肯定することからしか良好な関係は作れないでしょうし、むしろその認識の狭さを疑いたくないと思っている状態というのは、自己肯定感が極めて少ないからこそそのように「バリア」を張っては、これ以上自分のidentityを掘り崩したくないと心が傷ついている状態なのかもしれません。しかし、それを一時的に外側から肯定することと、いつまでもそれを肯定し続けることは意味が違います。そのような認識の限界が、彼や彼女自身の能力や世界の限界をいずれ作っては、その狭い世界の中で生きては浅はかに絶望したり希望を抱いたり、という悲劇をうむことに対して、教師はそれを永遠には肯定してはならないのです。

有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』を借りれば、「愛は惜しみなく掘り崩す。」とでも言えるのでしょうか。
「愛を」ではないところが、とても重要だと僕は思っていて、相手との愛を掘り崩す動機もまた相手への愛である以上、これ以上正確な「愛」の定義は僕には今のところ思いつけていないと思っています。

もちろん、僕は生徒を教える立場として生徒や卒業生に対してだけではなく、このような姿勢を子どもたちや奥さん、数少ない友人達に対しても、しんどいですが徹底していきたいと思っています。それが僕の、死ぬために生まれたことの意味であると思っているからです。今日も、受容され愛されていることを伝えるべき内容の伝達へと緩みなく資することができているかどうか、疎まれ憎まれていることが伝えるべき内容の伝達を阻害していないかどうかを、絶えず一人一人に対して考えぬいていきながら教えていきたいと思います。

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監視と観察の違いについて

今年はビリギャルが(一人一冊として)4,5冊書けるくらいのドラマティックな合格が多かったので、素晴らしい合格体験記の数々を期待していたのですが、実はまだ誰一人書いてくれていません。。悲しいので皆さんにはご迷惑でしょうが、合格体験記が届くまでに僕が長い記事を書いて、その悲しみと間を埋めていこうと思います。

塾のパンフレットでは、「見えないものを、見よう。」と書いたのですが、今回はその「見る」ということについて、一般に流布している勘違いが多いように思うため、それについて書きたいと思います。「あの先生は生徒のことをよく見ている。」「あの先生は生徒のことをしっかり見ていない。」ということは親御さんの間でもよく話されることではあると思うのですが、そこでの「見る」という言葉の意味は対面してまさに会話している親御さん同士であっても、おそらく定義が違うのではないかと僕は思っています。

一般に「子供が良いことをしているかどうか、あるいは良くないことをしていないかどうかを監視する」するという意味の「見る」と「子供が何をしているか、それにはどのような意味があるかを観察する」という意味の「見る」があるとすると、どうしても前者の「見る」を親御さんは教師に求めがちになります。「うちの子がサボっていないかどうか、ちゃんと見てほしい!」というリクエストがなされるときの「見る」は監視という意味になります。そして、これは実は当たり前であり、例えば生まれたばかりの幼児がなにか危険な目に遭わないかどうかを(特にお母さん方は)必死に気をつけて育ててきたわけですから、そのようなnurseryの時期が過ぎたとしても、子供に対しての配慮といえば(言葉は悪いですが)「監視」をして、何か危険なことやいけないことをしていないかどうかをチェックしようとするわけです。
そして、その同じ「子供を監視する」という役割を学校の教師や塾の教師へと果たしてもらおうと要求します。これはもちろん、危ない目に遭わないようにする、という意味では乳児や幼児のときほどでなくても、必要な配慮であると言えるでしょう。

しかし、一方で、educationというのは、「ちゃんとやっているかどうか、サボっていないかどうか」を「見る」(すなわち監視する)こととは実は矛盾するものです。なぜなら、「監視する」という行為自体はそもそもその監視の基準となる価値観を疑わないことで初めてできるものである以上、監視をしているときにはある人や物の振る舞いが、ある基準に照らし合わせてみて正しいかどうかを判断すること以上の判断ができません。なぜなら、その基準に沿っているかどうかを素早く判断するためには、その基準を疑っていたり、その基準に照らしあわせて理解の出来ないものについて考えている暇はないからです。しかし、educationというものがeduce(外へと引き出す)という行為の名詞であるためには、すなわち子どもたちが自発的にしようとしていることを引き出していくためには、彼ら彼女らが何をしようとしているのか、それがどのような点では肯定されるべきであり、どのような点では改善されるべきであるかということを注意深く観察することこそが必要であり、一つの判断基準に即して判断をするだけの監視では、対応ができなくなってしまいます。「あぶないことをしないように」というnurseryにおいて、必要だった監視を自分で取り組まなければ効果の極めて低い学習へとそのまま適用すれば、「さぼっていないかどうか」を監視しては無理やり取り組ませるだけのことになります。そこでは、そもそもその学習主体がなぜサボるのか、ということについては考えもしなくなりますし、監視してとりあえず机の上で勉強に向き合わせることだけを目標とすることになってしまいます。

このように体裁だけ完璧を繕っても、人間の精神というのは様々な逃げ道を見出すものです。このように本人に内発的な動機がないままに監視されることを続けていった結果として、監視されてきた子どもたちはどのようにその監視をかいくぐっては目の前のやるべき勉強をサボるかに知恵を絞りますし、そのように自覚的ではなくても、自然にサボり方を見つけるようになります。なぜなら、親に叱られないために勉強している子どもたちにとっては、親に叱られることを防ぐための最も効率の良い手段は勉強をしているふりをすることであるからです。もちろん、そのような振りをしていても、結局は定期テストや模試、受験結果などで実際にはその勉強に意味がなかったことがバレてはしまいます。しかし、とりあえず今日叱られずに生き延びては定期試験後に叱られるまで先延ばしにできるのであれば、勉強することの意義を理解していない子どもたちにとっては上出来であるのです。懸命に勉強しているふりさえしていれば、学校の先生や塾の先生の教え方が悪いという言い訳もすることが出来ます。そのようにして、ただノートに写経のように写すけれども何も頭に入らない、という勉強の仕方を身につけるようになります。これは一見外側から見ればノートに向かってペンを動かしていて、かつ落書きもしていないので、外部の監視の目を完全にすり抜けることになります!しかし、本人は頭を使っていないし、そもそも勉強というものを監視されずにやったことがないので、結局このやり方が勉強だと思ってしまい、自分でその高度な勉強しているふりを抜け出したくても、抜け出し方がわからない、という悲惨なことになってしまいます。しかし、このように「勉強しても成績が上がらない」という悲しい悩みを抱えている子供というのは、その責任はたいてい親や教師が「監視」しかしてこなかった、ということによってそのようになってきてしまったのだと思います。勉強をさせたいのであれば、勉強することの意味をどんなに迂遠であろうとも説き続けなければならないし、わかるまで繰り返し話していかねばなりません。もちろん、それを子どもたちがすぐにわかることは難しいとしても、意味がわからないままに監視によってそれを強制させることは、やはり無理であるのです。

一つのある目的にそっているかどうかだけには極めて敏感に即座に反応するものの、そのような基準に照らし合わせようのない他のものについては黙殺する、というこの監視のやり方(小学校の宿題で出されるアサガオの観察日記などは、そういう意味ではアサガオの伸長のみを期待してはそれ以外の可能性を排除しているという点で「監視日記」であるがゆえに、なかなかやる気がおきないのではないかと僕は思います)は、もちろん、必要な時と場合もあります。先ほど書いたように、乳幼児のnurseryにおいては、必要であることは間違いが無いでしょう。その他でも予想される緊急事態が極めて選択肢が限られた可能性しかないものの、しかしそれが起きるととても困る、という状況においてはそれは有用な姿勢です。ただ、その「見る」対象が人間のように、時期によって必要なアプローチが変化していく場合にはそのようなアプローチをいつまで続けるべきか、逆にいつから「観察」アプローチにしていくか、というのは極めて難しいものであるのです。しかし、この難しさを多くの人が理解できていないことが教育において失敗が起こりやすい原因なのではないか、と考えています。

一方で「観察する」という意味の「見る」こと、というのは基本的に無責任です。それをするときは対象を何とかしよう、と思っていてはなりません。なぜなら「こうでなければならない」「こうあってはならない」という思い込みは、先入観や偏見を生み出す以上、観察の邪魔にしかならないからです。観察という行為の目的は基本的には瞬時の変化に注目するのではなく、その時点までの来歴や文脈の上でその変化を位置づけることになります。たとえば、「監視」においては「好ましくない」(とされる)変化が出てきた時でも、「観察」はそれをすぐに矯正しようとするのではなく、それを泳がせ、黙認し、その上でなぜそのような「好ましくない」行動を取ろうとするのかを考えます。観察はよく言えば、知的好奇心に富んだ、悪く言えば結果に対して責任を取るつもりのない行為であると言えるでしょう。しかし、学習に自ら子どもたちが取り組んでいく必要がある以上、外側からの監視ではなく、このように観察して彼ら彼女らの動機を理解しては、彼ら彼女らが勉強に取り組む意味を自分で理解してもらえるように説明していくためには、観察という行為は必要なものであるのだと思います。

ここまでに書いてきたように一人の人間には、その発達段階に応じて監視と観察の両方が必要なわけですが、日本の子供に対する教育がどうしても親や教師からの監視という側面が強すぎて、かえってうまくいかなくなってしまうのは、ある意味では日本人の男性が子育ての責任を妻であるお母さんに押し付けているから、という原因もあるように思います。お母さんが責任感をもって子供をまともにしようとすれば、それは乳幼児期のnursery(そしてそれはほぼ全面的にお母さんに押し付けられています)からの連想で、当然子供を監視せざるを得なくなります。一方で、父親というのは基本的に無責任なものです。その無責任さを我々男性は猛省しなければならないこともありますが、一方でその無責任さゆえに監視ではなく観察ができるところも多々あるわけです。日本での教育がどうしても観察よりは監視を重視してはうまくいかなくなってしまう、という失敗をお母さん方のせいにするのは簡単ですが、それだけではなくそもそも父親が仕事にかまけては子育てに対して無関心であることが母親をそのような姿勢へと追い詰めている、ということもあるのではないでしょうか。
ともあれ、このような監視だけの教育から逃れるために、特に先に上げたような「勉強をしているふり」サボタージュは結局テストや入試の結果でバレてしまう以上、子供の取りうる最終的に効果的な策は家庭内暴力、あるいは家出にならざるをえません。つまり親の強制力を排除しようという暴力的な手段に訴えなければならなくなってしまう、ということです。このような悲劇に陥らないためにも、監視ではなく観察が必要であることを親御さんはもちろんとして、教育に携わるすべての大人が肝に銘じなければならないと思います。(注1)

一方でこの監視と観察の違いを理解する必要がある、というのは、教育だけの問題ではないと思います。たとえば最近、「保育園落ちた。日本死ね!」という匿名のブログが話題となり、それが国会でも取り上げられ、再び保育園の待機児童問題がクローズアップされているわけですが、これに関して病児保育だけでなく待機児童の問題にも取り組んでこられたフローレンスの駒崎弘樹さんが「長年審議会で訴えても、全然広がらなかった問題が一つの匿名ブログで広がるのには、結果は良いとしても忸怩たる思いがある」ということをおっしゃっていたそうですが、「社会起業家が権力に擦り寄っても結局はアリバイ作りに利用されるだけで本気で主張を聞いてもらえない」などと穿った見方をしないとしても((注2))、あの匿名ブログがなぜ駒崎さんの日々の懸命の努力よりも影響力が大きかったのかといえば、それは日本全体に対する敵意であったからだと思います。一般にグローバリゼーションに対抗して警察権、徴税権という監視機能を高めていく国家(注3)において、観察機能は衰えていきます。だからこそ、観察のアンテナにはひっかからないものが監視のアンテナには引っかかりやすくなります。つまり、あの匿名ブログがなぜ広まったかといえば、まさに(趣旨に賛同するものであってもその表現には眉をひそめる人も多い)「日本、死ね!」という部分がテロリズム的であったからであるのです。もちろん、実際には「保育園に落ちた」という理由からテロが発生することはおそらく無いでしょう。しかし、あの物言いがテロリズム的な論理を内在していたからこそ、それは警察国家化が強まる日本においては監視のアンテナに引っかかり、無視できないものとして捉えられたといえるのではないでしょうか。保育政策に無関心な人々にとって保育園の待機児童問題は無視をしていればよい問題です。しかし、その無視が敵意として保育園に困っていない人にも向くとしたら、それは無視するわけにはいきません。これはまさに抗議の手段としてのテロリズムが、どんどんとエスカレートしていく構造と同じであると言えるのではないでしょうか。

そして、これこそが不幸な悪循環です。駒崎さんの粘り強い異議申し立てに対してよりもテロリズム(的な言動)に対して敏感に反応する、ということはさらに、より過激なテロリズムを誘発することになります。ただ、問題にすべきはその表現手段のどぎつさではなく、そもそもそのような「テロリズム」でなければ自分たちの主張を聞いてもらえない、という絶望感が蔓延していることこそが問題であるのです。それは、監視を続けられてきた子供が悲鳴のように手を染めてしまう家庭内暴力と同じものであり、子供に責任があるのではありません。そしてそれは、政治や行政が、観察よりも監視を重視する傾向にあることの帰結であるのだと思います。(もちろん、江戸時代の五人組や戦時中の町内会のような相互監視体制こそが最も効率の良い「テロを防ぐ道」です。しかし、そのような(戦時中の特高警察への密告が横行するような)社会はテロがなくなったとして、果たして私達が目指していた社会であるといえるのかは疑問です。)

政治が監視よりも観察を重視するようになるためには、やはり政権交代が絶えず起こるという緊張感があることが大切なのではないかと思っています。民主党政権が様々な下らない失敗をしたとしても、死票が多く国民の意見が正確には反映されにくいこの小選挙区制の中で唯一の利点が政権交代の可能性が高いことであるはずなのですから、政権交代をしていかねばなりません。民主党政権時には自民党が、自民党政権時には民主党が政権交代を絶えず窺(うかが)おうとすれば、丹念な観察からの新しい政策争点の形成ができるはずです。そして、これはまた責任のある与党ではなく、「無責任な」野党だからこそできる観察なのではないかと思います。

翻って嚮心塾では、監視よりも観察をどこまでも徹底していく場として、もっともっとその力を上げていきたいと思います。お子さんの監視はしませんが、観察は致します。その上で、彼ら彼女らの必然性を阻害しないように、しかしそれが社会の要求するneedsに対応する必要や意味を彼ら彼女らにも理解してもらっていこうと説明を尽くしていきたいと思います。こんな小さな場でそのような気の遠くなる努力をどんなに続けようとも、全体の流れを変えることは出来ません。しかし、監視によっては解決などしないのだ、ということを実践していくことは、ルターのいう「明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える。」につながるのではないかと思っております(うーん。多くの予備校や塾が生徒獲得のために広告をバンバン投下しているこの時期に、こんな集客の足を引っ張るような長文を書いていてよいのでしょうか。今年の卒塾生のみなさーん!早く合格体験記を書いてくれないと、こんな訳の分からない長文がずっとトップに居座ってしまうので、塾が潰れますよ!急いで助けてください!)。


(注1)これは素人の浅知恵を書き散らすこのブログでも、本当に僕自身が勉強していないところなので恥を忍んで書くのですが、たとえば統合失調症の症状として被害妄想、特に誰かあるいは複数に監視されているという妄想が典型的である、ということはこの人格形成上での監視と観察の違いとそれぞれの限界とかなり密接なつながりがあるのではないか、と勝手ながら考えています(もちろん、統合失調症の発症機序は全くよくわからないらしいですし、遺伝的要因ではない社会心理的要因に関してはそれこそ様々な根拠の無い説が多いのでしょうから、そこに付け加えることになってしまうとは思うのですが)。すなわち幼少期に自身が親や教師から観察をされていない、ということへの飢餓感が「見られたい」という欲求を強くもつ一方で、自分の側から「見られる」という行為として想像しうるものは「観察」ではなく「監視」でしかありえないために(なぜなら自己を観察する他人の内面を想像することは人間にとって多重人格の形成以上の想像力が必要であるからこそ不可能であるために、「見られる」=「監視される」しかその主体にとってはイメージがつかないために)そのような「監視されている」という妄想を抱きがちになるのではないかな、と勝手ながら考えています。もちろんこれは検証のしようのないことではあるので、たとえば幼少期の親の子育ての厳格さと統合失調症の発症との相関関係を調べるなどすれば、論文のネタにはなるかもしれませんが(既にそのような論文があったらご教示いただけたらうれしいです!)、本当のところはいつまでたってもわからないものです。ただ、一つ言えるのは被害妄想の典型として「監視されている」という妄想が出やすいというのは、それだけ我々は他人の視線に左右されやすい非常に敏感な生き物であるということであり、だからこそ先に上げた監視と観察の違いについても意識的であるべきだと僕は思います。


(注2)もちろん、このような穿った見方もとても大切です。一般に社会起業というのが「行政サービスの先駆的代替」である以上、そのようなsingle issue の取り組みは他の政治的意図に利用されやすいと言えます。たとえば社会保障の充実に極めて熱心であったナチスドイツのように。それとは別に、そもそも社会的企業が行政サービスの先駆的代替である以上、それは内政問題の改善であって、外交あるいは国際社会上の問題については自国の存在や安定を前提とせざるを得ない以上、対外政策については国益の保護という主張に与し易いという弱点があるということも言えるでしょう(第一世界大戦の際の第二インターナショナルの分裂などはわかりやすい事例ですよね。あれは一応インターナショナルだったはずなのですが、現在の社会起業と同じ問題点を抱えていると思います。それはまたハロルド・ラスキやシュトゥルムタールが指摘したことでもあります)。そのことは社会起業家自身が自覚しなければならない課題であることはまた事実です。「社会」の改良、という目的自体が国家と社会の緊張関係に無自覚に追求されるのであれば、それは暴力をも生み出してしまうことにもなるでしょう。

(注3)グローバリゼーションが進む中で、国家機能が比較的強固である先進国政府にとってそのグローバリゼーションとの戦いは端的に徴税権と警察権の強化という形を取るのではないかと思っています。すなわち、資本の租税回避のための自国企業の多国籍企業化に対抗して課税をしていくための徴税権の強化と国家間の戦争ということが先進国同士では現実的ではなくなった(それは理想的な戦争の消滅ではなく、どこまで行っても先進国と途上国との力関係は覆しようがなくなったために、帝国主義的な「下克上」政策がとりにくくなったことにより)すべての戦争は大国からの分離/独立を求める内戦か、あるいは軍事的には勝利し得ない先進国に対して民間人を標的にするテロリズムかのどちらかの形を取らざるを得なくなります。その結果として先進国はそれに対抗するために警察権を強化していきます。そのように徴税権・警察権の強化による管理社会というのはある意味でグローバリゼーションによってその存在意義を根底から問われている先進国国家の最後のあがきである、とも言えるでしょう。しかし、そのあがきの中で個々人は徹底的に管理を強化される方向へと否応なしに進んでいくことになってしまいます。たとえば昨年のパリでの大規模なテロが示したように、あるいはまさに起きたばかりのベルギーでのテロが示しているように、多様性をもつ国民というのは国家が監視をする際には極めて邪魔なものです。しかし、このような多様性への抑圧と徴税権・警察権の強化という国境を以前よりも屹立させようとする取り組みは、結果として内戦が続き悲惨な状態の続くシリアと平穏な先進国との「位置エネルギーの差」がある以上は決してテロリズムを引き起こす運動エネルギーの妨げになるものではありません。それゆえに、警察権の強化による「テロリズムとの戦い」は、その「位置エネルギーの差」(としてのシリアで起きている悲惨さ)と何とか取り組んでいかなければ、どのように、それこそ我々のすべての自由を放棄してもなお、それによっては決してテロを防ぐことが出来ないという敗北へと収束していってしまうものではないかと僕は考えています。

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