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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

なぜ定期試験の勉強は受験勉強には繋がらないのか。

のっけから、物議を醸すタイトルで申し訳ないです。なぜこれが物議を醸すかというと、「学校の先生によく言われるセリフ」ベスト1!は恐らく「定期試験を頑張ってきた子は受験も強い!」「定期試験の勉強は受験勉強の基礎!」であるからです。しかし、教えながら最近わかってきたのは、そもそも定期試験の勉強と受験勉強とは全く別の種目である、ということです。方向性の全く違う2つの努力がそのまま接続できるはずがない、ということに世の中の先生方や中高生も保護者の方も、あまりに無頓着であるので、とても危機感を抱いています。

具体的にどのように方向性が違うのか。定期試験というのは、狭い範囲の内容をチェックするためのテストです。なので、理解をしていなくても大体は繰り返し解いていればなんとなく答を覚えてしまいます。つまり、忘れることが前提にあるテストではなく、短期記憶で詰め込んだものを吐き出すことさえできてしまえば、高得点が取れてしまうものなのです(これは小テストも同じです)。

もちろん、それすらもやらないorできないで定期試験の成績が悪い子もいます。しかし、その子達に「定期試験の勉強を頑張りなさい!」と言ったところで、このような短期記憶をひたすら詰め込んで乗り切るだけの勉強をする以外の選択肢はとれません。つまり、そこで仮に定期試験の成績が悪い子たちが定期試験の成績が良くなったところで、その子達の受験勉強の実力には何一つ繋がっていきません。だとすると、定期試験の成績で生徒を叱り、少しでもそれを上げさせようとする先生方のすべての努力は、あまり方向性としては正しくない、ということになってしまっているのではないでしょうか。(ちなみに小テストが多い学校を「面倒見が良い」と勘違いしやすいのですが、小テストや定期試験はこのように「理解していなくても短期記憶でテストを乗り切ることが勉強なのだ」という極めてミスリーディングなメッセージを中高生に伝えやすい、危険なツールだと思います。その危険性について実施する側は自覚的でなければなりません。)

それに対して、受験勉強というのは範囲があまりにも広いので、基本的には忘れることを前提としたテストです。だからこそ、忘れていても思い出せるように、すなわち理解していて導出したり説明したりできることが不可欠になります。もちろん、すべてを導出できるような試験時間はないので、覚えること、練習して習熟することもとても大切です。しかし、それらの記憶もあくまで理解していて自分で再現できることが前提であり、それがしっかりとできた上で、どれだけ覚えられ瞬時に出せるか、という勝負になってきます。

つまり、定期試験の勉強を短期記憶だけで乗り越えたとしても、その積み重ねは決して受験勉強には繋がりません。なぜなら、それは少し時間が経てば忘れるだけでなく、忘れたら思い出すツールを一つも持たないような知識であるからです。すると、「定期試験の勉強を頑張れば、それが受験勉強に繋がる!」という方向づけはミスリーディングであることになります。実際には、「受験勉強に使えるように隅々まで自分で説明できるように理解を固めておくと、それは定期試験の勉強だけではなく受験勉強にも使える」というのが正しい方向づけであると思います。

「では、そのように定期試験の勉強をすればいいはず!それなら定期試験の勉強も受験に役立つから、やっぱりこの記事のタイトル自体がミスリード!」と思うかもしれません。しかし、定期試験の勉強は、基本的にはこのようにしっかりと理解して説明できるようにしていくことを構造的に阻害するような要素があります。それ故、定期試験で良い成績を取ろうとすると、このような「理解」を置き去りにしなければ到底間に合わなくなる、というのが多くの中高生が直面している現状です。

そのしっかりと理解することを阻害する1つ目の理由は科目数があまりにも多いこと、2つ目にはプリントや問題集、宿題があまりにも多いことです。科目数がとても多い定期試験では、当然ながら入試に必要な科目とそうではない科目があります。その中で

「すべての教科を頑張ってしっかりと点数をとる。しかも、それを短期記憶だけで点数を取るのではなく、主要教科についてはしっかりと理解した上で受験勉強の基礎となる勉強の仕方をしていく」

という勉強法で勉強することができるのは、端的に言えば極めて優秀なごく一部の子たちだけです。実際には、主要教科(英数国理社)全てでそれができることはまずありえず、受験に必要な科目、中でも英数だけに絞って理解をする、ということが殆どの中高生にとってはその状況の中での最善の選択になってきます。しかし、このやり方、即ち「定期試験の中でしっかり理解して勉強しなければならない科目と捨てていい科目を作る」ということ自体が学校でもご家庭でも理解を得にくいでしょう。

副教科なんて、自分に興味があるもの以外は進級できればよいのです。理科社会もそんなに頑張ってやる必要はありません。それなのに中高一貫校の中学生が「理科や社会の点数が悪いから、それを頑張らないと!」と先生や親御さんからのプレッシャーを真に受けて、悩んでいる姿もよく見受けられます。しかし、(個人差はあるにせよ)理科や社会など大学受験に向けても早くて高2から、普通は高3から始めればそれなりにできる科目です(もちろんどこを目指すかや理社の必要な科目数によって到達度が変わるので、それによって始めるべき時期も変わってきます)。

むしろ英語や数学が、ただ短期記憶だけで乗り切っていて定期試験の点数が高かったとしても、しっかりとした理解が伴わなければそれはすぐに抜けていくかりそめの知識でしかなく、受験では全く通用しません。だからこそ、「英数は学校の成績が良いのに、理社の成績が悪い。だから、理社を頑張って点数を上げたい!」というような、定期試験をベースにした目標設定の仕方自体がもし英数の理解度が低い場合には大きく間違っていることになります。このような誤った教訓を引き出しやすいのは、やはり「定期試験を頑張っている子が大学受験も強い!」という思い込みを大人たちが助長しているからであると思います。英数が定期試験で点数が取れているとしても、そこにしっかりとした理解が伴っていないのであれば、やはり英数をしっかりとやるべきであるのです。(「定期試験の勉強で高得点なら理解が伴っているはず!」という想定が、そもそも間違っています。たとえば卒塾生のこの合格体験記にあるように、定期試験の問題というのはほとんどが使っている問題集の問題をそのまま出してくるため、極端な話をすれば解答を覚えるだけでも何とかなってしまうのです。。そのような無駄な時間を費やして、何一つ理解しないままに高得点をとる、ということができてしまうのが定期試験です。(もちろんしっかりとした先生方は、そうならないような試験問題を作ろうとしますし、またこれは多くの生徒を落第させないためには仕方がないところもあるのですが。))


2つ目の理由として、「そもそも主要教科やその中でもさらに英数に関して、学校の課す問題集やプリントがあまりにも多すぎる・難しすぎる」という理由があります。つまり、定期試験の勉強をしようにも、課されているものが多すぎ・難しすぎであれば、そもそもそれを理解する時間など到底作ることができない、ということになります。この場合は試験範囲とされる膨大な問題集を全てこなそうとするよりも、教科書の例題や問題集の例題に絞って、それをまず理解して説明できるかを徹底し、そこに引っかかりがなくなれば、初めて問題集を解く、ということが必要となります(それでも課されている問題集を全部解く必要はありませんが‥)。問題数が多ければ多いほど、それをこなそうとするあまり、理解して説明できるように、という余裕はどんどんなくなり、とりあえず解いて解答を見て覚えるだけになってしまいます。そして、理解を伴わない短期記憶で定期試験は乗り切れるものの、結果として受験勉強には何一つ役に立たない、ということになってしまいます。

まとめると、定期試験は科目数が多すぎるのと、主要科目に絞っても問題集でやらされる問題数が多すぎるので、それらを真面目にやろうとすればするほど、「理解しようとしている暇なんかない!!」というところに中高生は追い込まれて行ってしまうのです。だからこそ、このような定期試験の勉強をいくら頑張って良い成績をとっていても、受験勉強の力は何一つ身に付かないままに学年が上がっていくことになります。

さらにいえば、英語や数学は積み重ねの勉強です。だからこそ、こうした「理解しないまま短期記憶で詰め込む」勉強で基礎が出来上がらないまま、学年が進んでより高度な内容を学習すると、定期試験の勉強をいくら頑張っても高得点がとれなくなってきます。定期試験のための勉強では、やがて定期試験の点数すら取れなくなってきてしまうのです。

逆に英語や数学の勉強をコツコツと受験勉強を積み上げていくこと、理解をして説明できるものを少しずつ増やしていくこと、理解をベースにしてそれらのものを覚え習熟していくことは、それらの科目について定期試験のために勉強しないでも点数が取れるようになっていきます。(このことを僕は受験勉強は「貯蓄」であり、定期試験の勉強は「生活費」でしかない。というようによくたとえます。生活費をどれだけ圧縮して貯蓄を増やせるかが、結局は金銭的な自由度を上げますよね。)

中高6年間、あるいは高校3年間をとりあえず眼前の定期試験のために短期記憶で乗り切っては、結局何も受験勉強の実力がつかないままに終わってしまう子と、しっかりと理由を説明できるように理解しながら受験勉強の実力をつけてきた子ではその後の人生で使える自分の武器が大きく違う、という残酷な事実を想像してみてください。しかし、前者は「定期試験の勉強は受験勉強に繋がる!」という大人のミスリーディングなアドバイスとプレッシャーを真に受けて、誤った方向に努力を積み重ねてきてしまったのです(たとえば別の卒塾生のこのような体験記もありました)。そのような失敗を子供達のせいにできるでしょうか。それは明らかに、大人の責任であると思います。

もちろん様々な工夫をされて、定期試験のための勉強を生徒たちの確かな理解に繋げようと努力されている優秀な先生方がいらっしゃることは僕も知っています。しかし、そうした素晴らしい、本当に頭が下がるような努力をもってしても、2つ目の理由(問題集や宿題が多すぎる)は回避できるとして、1つ目の理由(そもそも科目数が多すぎる)という構造的な問題を回避することはできません(また、「英語と数学だけしっかり勉強しなよー。理社とか副教科とかはやりたければでいいよー。進級できるぐらいで。」とはそのような熱心で優秀な先生方ですら、なかなか言えないでしょう)。そしてそれはまた情報科目の必修化のように、高校生の負担をより増やしていく、という愚かな方針ゆえにますます拍車がかかっていくと思います。

そもそも、「理解をしよう!」と思うためには心と時間の余裕が必要です。それを与えなければ、「時間がないからよくわからないままに覚える」とならざるをえません(これは我々大人もそうですよね)。中高生に考える時間を確保してもらえるように、大人たちが工夫をしなければならないのに、むしろ中高生の自由時間をどれだけ奪えるか、というようになってきてしまっていると思います。その結果起きているのが、理解をしないままに難しい問題まで解答を暗記することで定期試験を乗り切り、結果として受験勉強を浪人して一から始めなければならなくなる、あるいは高い内申を活かして推薦入試で大学に滑り込んだとしても、結局大学の勉強(それは当然高校範囲までの理解を前提としてなされるものです)についていけなくなる、といったきわめて由々しき問題です。

こうした悲劇を防ぐためにも、定期試験の勉強は本質的に受験勉強とは別の方向の努力であり、それは短期記憶で乗り切るだけのあまり意味のないことであることや、定期試験は究極的には(主要教科については)「試験勉強」をしないで受けられるようにしていくことが理想であり、「試験勉強」を理解もせずに短期記憶だけで努力していく先にはあまり未来がない、ということを多くの方に伝えていかねばならない、と思っています。

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「自学自習」とはどこから来て、どこへと行くのか。

お久しぶりです。まともにブログを書くのは約3ヶ月ぶり!ということでリハビリがてら、教育のことでも書いていきたいと思います。

さて、嚮心塾は「子どもたちが自学自習ができるように!それは受験勉強が終わったあとも一生使える武器になるはず。なぜなら、勉強というのは誰かに習うことができる期間よりも、一人で勉強しなければならない期間の方が(勉強をサボるような大人にならなければ)遥かに長いから!!!」というコンセプトの塾です。この理念だけ聞けば、否定される親御さんや教育者の方、というのはあまりいないように思うくらい、「美しい」コンセプトです。

しかし、実際にはそんなことよりも「そんな綺麗事言ってないで、眼の前のテストの成績を上げることが最優先だ!自発性とかどうでもいいから徹底的に教えこんででも成績を上げてほしい!」というニーズが圧倒的に多いのもまた事実です。もちろんここには、「教師から受動的に教え込まれているだけで、生徒が勉強ができるようになるのか」という大きな問題があるので、このようなニーズというのは根本的には目的を決して実現できないアプローチを要求している、という点で本質的には間違っているとは思っています(局所的・一時的にはそれが必要な場合もあるとは思いますが)。その点では「自学自習ができるようになっていく」というのは実は綺麗事でも何でもなく、むしろ難関校を目指せば目指すほどに、必要不可欠なことであるのです。その事実への誤解はとても多いな、と思っています。

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。なるほど自学自習ができるようになることが勉強ができて受験勉強を乗り越えられるようになるためには必要不可欠であることは一旦認めたとして、さて知りたいのは、どうやったら自学自習ができるようになるのか、ですよね。このことについて、おそらく間違いがないと最近僕が確信していることがあります。それは「自学自習」の方法論を身に着けてもらうためには、徹底的に最初に教え込まなければならないということです。

このことは、一見矛盾するように見える言明であるからこそ、少し理解しにくいかもしれません。また、「自学自習の大切さ」を主張する教育関係者も、あまりこのことを明確には伝えきれていないように感じています(管見にして僕が知らないだけかもしれませんが)。しかし、自学自習の仕方を生徒のうちに鍛えていくことを、(ここまでの18年間)徹底的に試行錯誤してもがいてきた僕自身の経験からは、この「自学自習ができるようになるためには、最初に徹底的に(様々な分岐ルートまで)教え込まなければならない」という言葉はかなり核心を衝いた言明ではないかな、と思っています。

たとえば各教科の内容に対して手触りを感じさせながら、既知の概念と結びつけては深く理解してもらえるような素晴らしい講義をリアルタイムでは受けない、という前提で自学自習は行われます。教科書や参考書として使う教材はそのような講義に少しでも近いようなわかりやすいもの、本質的なもの(そしてこの両者はトレードオフであることも多いです)を選ぶことは当然だとしても、それを一読してすべて理解できるわけがありません(もちろん素晴らしい講義も同様に、一聴してすべてが理解できる講義などは存在しませんが)。だとすると、書かれているものを理解し、定着させ、使いこなしていくために自分がわからない箇所の「壁」を乗り越えるあめの具体的なやり方をまずは教えこんでいく必要があります。その感じがつかめるように、普段塾でやっている最初に「教え込む」内容をちょっと具体的に書き出してみましょう!(企業秘密を公開!)

①読んだり聞いたりして理解できないときにどうするか。
→まず繰り返し読む習慣をつける。一度読んでわからなければ二度、三度と読む。一読しての理解力は人間同士そんなに変わらない。わからないときに繰り返し読む習慣があるかどうかが、勉強が得意な子と不得意な子で大きく差がある。

→それでもわからないときは、わからない言葉をピックアップして、その意味を調べる(←調べるための教材としてどの勉強にはどれを使うべきかの指示が必要)
→理解したあとはその言葉の意味を覚える(←覚えるための手段は何がよいか?わからない言葉が多すぎるときにそれをノートでまとめるのは有効か?その数が減ってきたらどうか?)

→言葉の意味が全てわかっても難しければ図やグラフを書いてみる(図の大きさはどれくらい?そもそも図を書くのは何が目的?問題文に図やグラフが書いてあるときだけでなく、問題文に図やグラフが書いていないときでも自発的に図が描けているか?)

→ここまでで、今勉強している範囲の前に、そもそも自分が既習分野の中で大きくわかっていない分野を見つけたときにどうするか。(そこに遡って復習すべきか?それとも今勉強している範囲を終わらせてから復習に入る?そもそも目の前の分野がわかりにくい理由がどの既習分野の理解度が低いせいなのかが、よくわからないときどうするか?)

②「書いてあることは理解できた」という自己認識が生まれたあとにどうするか?
→それを自分で何も見ずに再現できるか?
→要約して説明することができるか?(要約の度合いは?どこまで端的に言えるか?)
→練習問題を解いたときに、それが教科書の何を使っているのか分類できるか?

③「覚えている」とは何か?
→すぐに言えることorすぐに言えなくても自力で導き出せること(どのような知識は即答できなければならないか?どのような知識は導き出せればよいか?その区別をどうやって判断していくか?)


などなどです。かなり読みにくくてすみません。「おーし。企業秘密とか言わずに全部書いちゃうぞ!!」というつもりだったのですが、マジでこんなの全部書いてたらキリがありません。。(途中から雑になりました。。)

大別すれば、
Aとりあえずの方法論
Bうまくいかないときの方法論
C優先順位の付け方
D自力/他力の弁別

などには分類できるのでしょうか。こうした方法論を、様々なテストや教科指導の中で折に触れて繰り返し繰り返し話しながら、定着させていきます。(ちなみに特に大切なのは、Bです。うまくいかないときに、勉強の得意な子は自分でその解決法を見つけられるわけですが、苦手な子は「うまくいかないとき」というのは、「自分に努力できることはこれ以上ない!」と思いがちです。だからこそ、Bを徹底的に教えこんでいく必要があります。)

さて、このような方法論を自学自習の指導とすると、これって教科指導より教える内容が少ないといえるのでしょうか?僕の体感では、最初に(方法論を)教えることにかかる時間が、おそらく教科指導だけの実に10倍!!!!くらいはかかるように感じています。教える側としてはすごく面倒くさいです。内容だけ教えていたい、という誘惑についつい駆られてしまいます。。

ただ、このように方法論を徹底的に教えこんでいくと、だんだんと生徒たちがそれを自分で使えるようになってきます。そして自分で解決できることをどんどん増やしていきつつ、それでも判断に迷うときに相談していくことに繋がっていきます。そうすると、僕の仕事量も減って、生徒も実力がついて、お互いハッピー!!になれるわけです!!(まあ、実際には勉強の仕方が身に付いて実力が付けばつくほど、今度は時間を測って入試問題を解いた上での戦略会議になっていくので、僕の仕事は減るわけではないのですが。。)

逆に言えば、勉強ができる子たちが当たり前のようにやっている勉強方法をこのように徹底的に言語化し、ルーチン化し、それを方法論として身につけていってもらう、ということの先に「この参考書を何周やりました!」という行為が意味をもってきます。その点で、自学自習とは、まず最初に徹底的に方法論を教え込み、叩き込まねばならないものです。その一見矛盾するようなやり方にしか、おそらく正解はないのかな、と思っています。

こう書くと、「じゃあ一般的な方法論だけマニュアル作ってそれを徹底して身に付けさせれば教科指導なんかいらないじゃん!」と思われるかもしれません。ただ、これについては僕は否定的です。一般的な勉強の方法論のマニュアルを作るだけで、それを各教科に応用できる子、というのは率直に言ってかなり勉強への適性が高い子(東大や医学部に合格できるベルよりもはるかに上)だからです。

もちろん受験科目を満遍なくただ漫然と勉強して各教科の目の前の勉強に追われるよりは、たとえば英語と数学に絞ってそれを身につけるための方法を徹底していくことが大切だとは考えています。なぜなら、英語や数学で学んだ自学自習の方法は、科目による細かい差異はあるにせよ、他の科目の自学自習方法も洗練していくからです。一方で、教科指導を本当にゼロにしてしまって、最初に自学自習マニュアルをただ配るだけではその定着がかなり難しいのは、人間はその必要性や有効性、すなわち意味を感じなければ、それをしっかりと学ぼうとは思えないからであるとともに、具体的なことの積み重ねを通じて抽象的なことに気づいていく、というのが自然な認識の歩みであるからかな、と考えています。一つも教科指導を行わずに語られる方法論に普遍性を感じてそれを演繹しよう!と思えるのは、めちゃくちゃに抽象能力の高い(元々勉強にかなり向いている)子だけだと思います。

だからこそ、具体的な教科指導の中から泥臭く帰納的に抽出された方法論の方が、一人一人の生徒には根強く残るのではないか、という仮説を今のところは立てています。昨今は「全教科の勉強方法をコーチング!」という塾や予備校が最近は濫造されてしまっていて、嚮心塾もその同類のようにしか見えない(一応草分けだとは思うのですが…。)とは思うのですが、実は先に挙げたような生徒の勉強の方法論にまで影響を与えるような深い教科指導の方が、その生徒の勉強の定義や方法をガラリと改善する可能性はむしろ高いのかな、と思っています。(「高度に発達した教科指導は、もはやアクティブラーニングと見分けがつかない」ですね!!)



ところで、日本の学校でどこでも行われるようになった「探究学習」は、いったいどこまでその方法論を最初に徹底的に生徒たちに教えこんでいると言えるのでしょうか?これも僕の管見する限りでは、「やり方・調べ方は今回の授業で説明したぞー。じゃあやってきてねー。」という例ばかりのように見えてしまいます。実際には、指示された通りにやってみたものの躓いた生徒に対し、そこで生徒一人一人がどのプロセスでどのように躓くかをしっかりと観察し、それに対して問題解決の次の手段を提示していく、ということが必要不可欠です。探究とは失敗を乗り越えて自力で進む上での試行錯誤を意味する以上、失敗したときにどのような手段を取りうるかを徹底的に教えこんで初めて、子どもたちはそれを武器に自力で取り組むことができるようになるのだと思います。自学自習を「探究」と言い換えるのなら、探究をそんなに簡単に自分で始められるのなら、そもそも学校や塾なんか来ないですよね。我々自身が中高生のときだって、どんなに自分の優秀さに自信があった方でも、たとえば自学自習の方法を自分ですべて作り上げて合格しました!なんて受験生は殆どいません。みんな塾とか予備校とか学校とかの力を借りてようやく合格しているわけです。

そんな非力で愚かな我々大人が「探究」を子どもたちに押し付けて、ふわふわしたことをさせている暇があるのなら、自立して探究していくための方法論の見つけ方を徹底的に子どもたちに教え込んで、彼らの武器を増やしていく必要があると思っています。もちろん、僕が上に書いたような「教え込み」もまた不完全な内容、誤りを含む内容であり、それを教え込まれた子どもたちがさらに改善し、より改良しては「先生のやり方じゃ、こんなとこに不備があるのでは?」などと終わりなき探究を続けていってほしいものです。しかし、探究に終わりはなくとも、正しい始まりはある。そのことを我々大人たちは、全く伝えられていないのでは、ととても危惧しています。

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中学生向け自学自習用の参考書リストの作成に協力しました。

ことぱ舎の向坂くじら先生の提案で、中学生用の自学自習用教材リストを作ることに協力しました!!!

https://twitter.com/pomipomi_medama/status/1678668673937178625?s=20

フリースクールの現場でも皆さん、本当に一生懸命教えられていると思うのですが、とはいえ基本的には学校のワークブックなどをやるしかない状況だと思います。しかし、学校の授業を受けていないor受けていたとしても理解ができていない状況で大量のワークブックをこなしても、理解ができないままに終わってしまいがちだと思います。

だからこそ、説明が充実した、繰り返し詠むことでよく分かる自学自習用の参考書を使い、それを進めていくことで学力を身につけていくことがとても大切です!

ここに挙げたリストが完全なものであるかといえば、もっと素晴らしい参考書もあると思います。また教材研究を進めていく中で、追加したり差し替えたりしたいものがあれば、適宜修正を加えていきます。しかし、参考書選びのポイントや、「とりあえず問題を解く」のではなく、まずはしっかり説明を隅々まで読んで、自分で理解して説明できるように落とし込んでいく、という基本方針はどの場合にも大切です。他の教材を選ぶときにも
「説明が詳しくしっかりしているか」
「問題数が多すぎないか」

という二点にこだわって選んでいくのが良いと思います。(という考え方が向坂先生のnoteにはしっかりと書かれています。)

ぜひ活用していただけましたら!!!

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かつやのチキンカツ。

かつやといえば、常識にとらわれない攻めたメニューを出すことで有名です。最近はこの「とんこつチキンカツ丼」が少し話題になっています。https://www.ssnp.co.jp/foodservice/515032/
こんなの興味本位以外の動機で誰が食べるの?と思ってしまうかもしれませんが、これでそこそこ成立しています。なぜかなら、チキンカツが入っているからです。かつやのチキンカツはとてもおいしいのです。どんなに攻めたメニューで、全体としては「これアリなの?」と疑問に思ったとしても、チキンカツが入っているだけで、食べた後は「まあ、チキンカツがおいしかったし、よいかな。」となります。

言い換えれば、かつやの攻めた商品開発は、チキンカツという絶対的エースがあるからこそなせる技です。これは同時に、攻めているようで守っている。あるいは根幹では守りながら、枝葉で攻めている、とも言えるのかもしれません。リスクヘッジとしては正しいものの、これが「攻めている」としか評価されないとしたら、商品開発の方向性としては少々閉塞感があるのかもしれません。チキンカツが必要条件になった商品開発は、果たして「開発」と言えるのか、という問題ですね。


さて話は変わりますが、先日、生徒の英単語テストをしていたときのことです。その生徒はだいぶ勉強が進んでいて、いまや派生語を見出し語から出せるように、という練習にまで進んでいました(嚮心塾では英単語を派生語まで一気に大量に覚えるのではなく、まず見出し語を徹底して、記憶の「幹」をしっかりと作った上で、「その見出し語がかなり定着してきた」とこちらで判断できたら、その見出し語に対して派生語を品詞とともに引き出せるように練習をしていきます)。

その状況で派生語のテストをしたところ、それができないだけではなく、「見出し語○○の形容詞だよ!」とヒントをあげたときに、その○○自体の意味にも反応が鈍かったので、テストを止めて質問(詰問?)タイムに入りました。

僕「ここまでの単語学習の流れは、見出し語を覚えて、そこから派生語を引き出す練習だよね。」
生徒「はい。」
僕「その派生語を覚えるときに見出し語自体があやしかったらどうする?」
生徒「見出し語も覚え直すべきです。」
僕「では、なぜそれをしてないのかな?」
生徒「今は派生語のテストだから…それを覚えていればよいかと思って。」
僕「しかし、ここまでの学習の流れを考えれば、派生語だけを(そこをテストされるからといって)覚えることが記憶を定着させていくためには無意味だとはわかるよね。」
生徒「はい。」
僕「そういう姿勢が『考えないで勉強する』ということではないかな。それは東大を受ける上では(この子は東大志望です)、やはり通用しないのかな、と。そして、そのレベルの受験生になってくると、こういうとき、必ず「そもそも見出し語忘れてたら意味ないじゃん!」って自分で復習するんだよ。それが「やらされている勉強」と「自分で考える勉強」との違いなんだよ。そして、こうしたattitudeの違いを、君らは「地頭の差」って言って誤魔化してしまうわけだけれども、それは端的に自分で考えているか考えていないかの違いでしかないし、その考えるための方法や材料を言語化して伝えているのだから、それを踏まえて一つ一つ必死に自分で悩まないと、東大のレベルでは通用しないよ。」

というやりとりをしました(雰囲気は和やかに話したのですが、文字に起こすと、詰問調ですね。。反省です。)。この生徒はとても頑張って勉強はしているものの、自発的に考える、ということがとにかく苦手で、自発的に考えるとはどういうことか、ということをこうした機会をとらえてしっかりと伝えていかねばなりません。そうしなければ、こちらが考え抜いて方法論や作戦を提案したとしても、結局は僕の言う通りに勉強しているだけになってしまうからです。医師に患者の身体の様子が全てわかるわけではないのと同様に、教師に生徒の勉強の細かい具合まで全て把握することは不可能です。だからこそ、このような「不調」に対して、どのように対応すべきかのattitudeを、概論としての方法論においても、個別の失敗についても徹底的に鍛えていかねばならないわけです。そこがしっかりと鍛えていけると受験生が自分で自分の勉強を分析して必要な手立てを講じることができるようになってきます。そして、そこまでできるようにしていかないと、高いレベルではやはり合格し得ない、というのが実感です。

もちろん、何も指示を聞いてくれない、あるいは「分厚い青チャートを周回しなさい」「UpgradeやNEXTAGEを周回しなさい」みたいなアホな指示に従ってしまうよりは、僕の指示に従ってくれたほうが勉強の効率もよくなりますし、実力も上がるでしょう。しかし、東大・京大・医学部レベルになってくると、それだけではやはり合格するのは難しいと思っています。こちらがそのように提示した方法論についても「なぜそれが良いのか」「そのような方法論が良いとしたら、もっとこうしたらさらに改善することになるのではないか」のように考えていく習慣をつけていかなければ合格できません。

逆に言えば、中学受験や高校受験で必死に勉強してきてそれなりの成果をあげてきた子達というのは、そうした習慣が当然身についています。だから、高2や高3くらいまで勉強をサボっていても、そこから頑張っても何とかなります。それをつい「地頭の差」という言葉でわかった気になりがちではあるのですが(そしてそれは当然ありますが)、こうした思考習慣や学習習慣の徹底、ということである程度差を詰められるものだともこちらでは思っています。

しかし、これを身につけていってもらえるように徹底していくことは本当に大変です。英語に限らず、数学でも等式変形の「=」一つ一つについてなぜそれが言えるのかを考える習慣がつけば、定理や公式を自分の言葉で説明したり、より少ない定理から他のことが言えないかを考える習慣がつけば、そしてどんな難しい問題を解いていても自分の中であやふやなことは必ず教科書に立ち戻る習慣をつけていければ、抽象的でわからないときに具体例で調べたり書き出していく習慣をつければ、そして何より図やグラフを理解するために描く習慣をつければ、そこから先は勉強したことが全て身についていきます。しかし、そうした努力を怠っては、「大量の問題をとにかく解く」という「努力」に甘んじていれば、いずれできるようになるだろう、という甘い考えをもってしまいがちであるのです。(また、その中高生の誤った考えを助長するような物量主義が教育現場にはびこっていることも中高生には本当にかわいそうなことです。。)

つまり、人間は「(自分で考えないで他人に言われたことをする)努力をすることで、(考える)努力をしないようにできる」わけです。そのように「努力」することの結果として、一般受験は残酷な結果を出して見事に機能します。そのような思考停止のための甘美な「努力」は、かつやの美味しすぎるチキンカツと同じく、必要な挑戦をむしろ阻害するものになってしまっているのかもしれません。

そしてそれはどのような「勉強法」や「指導法」によっても決して防げるものではないのかな、とも思っています。先に挙げた派生語のみ覚えようとしていた子のように、考えないで勉強している方が楽である以上、どのように作り込まれたプログラムや教授法であったとしても、やはり考えることをサボれる契機というのは生徒の側でいくらでも作ることができてしまいます。そうした一つ一つの具体的な失敗を、丹念に指摘し続ける努力、ということを教える側がやっていかなければ、やはり固着したattitudeの部分を動かすことは難しいと思っています。

それはひどく泥臭く、とても根気のいる作業です。「この流れでこれを勉強しておいて、何故ここをサボる!?」と悶絶したくなる毎日です。しかし、それを丹念に伝えていけるように、こちらも地道に泥臭くまたあれこれ考えていきたいと思います。

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良い教師とは何か。

これぐらい長くいろんな子を教えていると、様々なスキルが発達するものです。最近ではその子が質問をしたいかどうかが表情どころか雰囲気でわかったり、めちゃくちゃ拙い質問でも何について聞きたいのかがわかったり、という感じで、見る人が見れば「名人芸」的なものになってきているな、と。

そこで良い教師の条件を挙げてみましょう。
①生徒の細部の異変に気づき、質問であれ相談であれ、こちらから積極的に声がけをしていく。
②生徒の質問がどんなに拙いものでも、その真意を見抜き、その真意に対して的確に答えていく。
③生徒への指示が完璧に網羅されていて、かつ的確であるかどうかを絶えず疑い、修正が必要なときには即座にこちらから声かけをして訂正していく。

皆さんもこうした優秀な教師がいる学校や塾を選んでください。嚮心塾もおすすめですよ。

と、書いてみましたが、実はこれは真っ赤なウソでした!!!
こんな教師は実はダメ教師であり、上に書いたようなことをしている教師こそ、生徒の成長を止めてしまうおそれがあります。

どういうことでしょうか。
まず①に関してで言えば、教育の理想は「生徒が自分で聞ける/相談できるようになること」です。こちらがどんなに生徒の微細な変化に気づき、声がけをしていって相談ができたとしても、それをそのまま続けていけば、生徒は自分から相談をする必要がなくなります。学習面については「先生から指摘を受けていないということはこのままでいいんだ!」と思考停止をするようになってしまいます。そしてまた、相対的に指導力のある教師が何なら指導時間をほぼマンツーマンで教え続けたとしても、受験生本人が自分のことを把握しているほどに受験生の思考回路や自己情報を把握することは絶対にできません。

たとえば教え始めた大学生が受験生に対して気付けることを1として、30年近く教えている僕が気付けることを1000としましょう(これでもだいぶ謙遜しています!)。しかし、受験生本人が自分自身の勉強についてもっている情報はざっと10000000000くらいなので、1か1000かの差など、誤差にすぎません。それを「見よ!この指導力!勉強ができるだけのペーペーの大学生では真似できまい!」などといい気になっているのは教師の自己満足でしかなく、受験生が力をつけていくのに最も大切なのはその100億の自己情報を持っている受験生本人に自分で自分自身をチェックしていく判断基準や方法を身につけていってもらうことです。

もちろん受験生本人の判断基準や方法というのは最初は「青チャートを繰り返していれば…」「Nextageを繰り返していれば…」などなど間違っている基準や方法からスタートしていることがほとんどなので、その膨大な自己情報を全く活かせていない状態であるわけです。だからこそ、「どのようなところまで丁寧にやった方が結局力がつくのか」「どのようなあやふやさを残してはいけないのか」などなど、自らのありようをチェックするための基準を鍛えていく「触媒」になれるように、教師はその基準づくりに協力していくことが大切です。そしてその基準が生徒の中にできていくほどに、生徒たちは教師に見抜かれなくても、自分からその基準にひっかかるところはどんどん質問に来てくれるようになります。それが教育の求める理想の姿であり、それは受験を終えたその後も一人一人の人生において、ずっと使えるツールとなります。(もちろんその判断基準は僕の提示した粗雑なものではなくて、専門性が上がれば上がるほどにより自分自身でrefineしていく必要があるにせよ、です。)

とすると、シャーロック・ホームズのように、「一昨日の晩御飯は焼き魚でしたね!それもアジの干物ですね!」的に細かな痕跡から推理をして言い当てる教師というのは、パフォーマンスとしては面白いでしょうし、実際派手で「神教師!」となりがちではあるのですが、正直教育にとってはあまり意味がありません。もちろん気づかないよりは気づいたほうがいいです。気づいて的確なアドバイスをしていけばしていくほど、生徒たちもこちらのアドバイスを信頼してくれるからです。信頼してもらえれば、そうした「自分の中に判断基準を作る」ことの大切さ、というのも伝えやすくはなります。しかし、それはあくまで手段であり、目的ではありません。それは自転車の後部を持ってあげる大人のように、必要ではあるにせよ、いずれ必ず外されなければならない補助線でしかない、という自覚こそが教師にとっては一番必要なのではないでしょうか。

とすると、観察力が大切なのはもちろんとして、良い教師にとって同じくらい必要なのは教えこんでしまわないための忍耐力でもあるのかな、と思います。

①でだいぶ長くなってしまったので、②③についてもざっと書けば、
②は生徒の質問が拙ければ、質問が的確にできるように、それの言い直しの練習をしてあげなければならない、ということです(というと、「その質問じゃ意味わからない!」みたいな「塩対応」がベストのように聞こえますが、こうした塩対応は意図は正しいとしても、その意図が正確に生徒に伝わることの方がはるかに少ないので、単なる教師の怠慢と自己満足に終わりがちです)。「的確な質問をする能力を鍛える」というのはつまり、「自分が何がわかっていないのかを明確にしていく」作業です。何が問題かがクリアになれば、解決までの道も半ばまで来ています。ただその努力ができていない子がほとんどであるのが塾に入って初期の段階であるように思います。

③については、受験生が自分から今の勉強方針を疑えることがとても大切です。各教科の内容についてはもちろん、それぞれの教科を進める方針について、自分の中で気がかりなことがあるのなら、それを言い出さなくてはなりません。特に最近は「参考書ルート」的な塾が乱造されていて、「このやり方で勉強を進めたら、必ずできるようになる!!」と喧伝されがちですが、万人に共通の方法はありえないからこそ、自分自身が与えられた勉強方針でうまくいっていないのなら、それを指導者にすぐに相談することがとても大切です。(そして、それに対して「こちらのメソッドを信じて続けていればダイジョブだから!」しか言わないのは、基本的には詐欺です。それは他のメソッドの備えもそこで新たに考えるスキルもそもそもないから、そのような対応をするしかないのです)

この話は詳しく書けばまた長くなるのですが、それこそ数学の教科書の定理や公式の導出ができず、結果だけ(あやふやに)覚えて代入しているレベルの子たちに「この問題集を周回すれば必ず力がつくから!」と繰り返すだけの、方法論の初歩的なギャップもあれば、僕自身が「これはさすがにできてるだろ。」と思考の盲点を作っていたために、その子の力の伸びの天井ができてしまっていた、というとても見抜きにくいものまであります(たとえば過去には東大理一を受ける数学が得意な子に、中学の連立方程式の練習をさせたり、医学部を受ける受験生に九九の苦手な段を練習させたりしました。両者とも受験までに気づけて、何とか合格しましたが、ことほどさように一人一人思いもかけないところに大きな穴がある、ということばかりです。ちなみにこれらも僕がパッと見抜いたのではなく、彼らから相談を受け、詳しく掘り下げていく中で気づいたことでした)。繰り返しになりますが、一万人いれば、学習履歴は一万通りある以上、その全ての可能性を指導者が掘り尽くすことはできません。だからこそ、自分自身の違和感や足りないところを受験生本人が自分から申告、相談できることが「神の目」をもつベテラン教師よりも力を伸ばすことに繋がっていきます。

ということで、お伝えしたいことは書けたのですが、これだと非常に困ることがありまして…。

たとえば、

A 先生が生徒に対して絶えず声かけをしながら見回り、生徒のちょっとした逡巡に対してもすぐに声掛けをして、生徒の拙い質問でもその真意を即座に汲み取り、的確な答を返して、生徒も大満足!勉強法や教材についても、「◯◯という(youtubeでもおなじみの)難しくて分厚い問題集を繰り返しやっていれば大丈夫!それで僕の生徒は東大受かった!」と自信をもって答えてくれる。

B 先生が生徒に全く声をかけないでお茶を飲んで本とか読んでる。生徒がせっかく自発的に質問に行っても、「その質問は意味がわからないな。もう一度何が聞きたいか整理してごらん。」と追い返される。勉強法や教材について聞いても「まずは教科書やるといいよ。」と基礎的なものしか指示されない。「それは大丈夫なんです」と伝えると、「教科書の定理や公式とかちゃんと当たり前のものになってる?」と嫌がらせのようなことばかり言われる。あげくの果てに「万人にとっての正解の教材はないけど…」と自信なさげに、聞いたことのない薄っぺらい問題集とかを薦められる。

さて、塾の見学に行って、みなさんどちらの塾に入りたいですかね。。当然A!なのではないでしょうか。。

もちろん、教育としてはBが最善だとしても、いきなりそれに対応できる子というのはそもそもとても優秀な子なので、一人一人A的なところから初めて、だんだんとBへと移行していくことになります。しかし、みんながだいぶBの状態に移行していて自分で質問できる状態になればなるほど、塾に見学に来てもらっても、僕はお茶飲んで本を読んだり問題集解いたりしているだけにしか見えません。あとは「うちの子はここにいる生徒の皆さんのように活発に質問できる子ではないので…」みたいな断られ方もよくあります。もちろんそれは問いを発する判断基準が鍛えられていないだけなので、むしろ最初はみんなそうなのです、という説明までしていくわけですが。(そもそも質問ができないままで何もかも教えこんでもらって生きていくことの方が難しいので…。質問の仕方をどこかで学ばないといけないと思うのですが、これもなかなか伝わりにくいところです。)

ということで商売繁盛だけを考えるなら、「ずっとAだけやる」がベストなのですよね。もちろんそれでは生徒たちの力は頭打ちになってしまうので、嚮心塾ではそのようにするつもりは毛頭ありません。生徒たちの今後の人生においては、自ら問いを発する能力を鍛えることほどに有益なものはないと思っています。なので、流行らない「不親切そうな塾」を細々と続けていきたいと思っています。

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繁盛すればいいものではなくて。

いつもならこの時期、受験の体験記を続々と載せる頃なのですが、今年はなかなか書いてもらえておらず、申し訳ないところです。つなぎに久しぶりにブログでも書こうかと思います。

さて、学校の宿題や指導が「たくさんやらせればいいでしょ」「難しいものやらえておけばいいでしょ」「様々な問題集やらせればいいでしょ」という思考停止に陥っており、体験入塾で様々なご家庭にお話を聞けば聞くほど、そのような学校の指導に対して疑問を感じておられるものの、成績で脅されるので、学校の課題をやらねばならず、そのせいでどんどん勉強がわからなくなってしまう、という中高一貫校に通う生徒さんの親御さんのお話を聞きます。このテーマについてはさんざんこのブログでも紹介して問題提起してきましたし、また取材も色々受けています。(たとえば東京すくすくさんのこれですね)
また新しい取材記事が出る予定ではあるのですが、本当に深刻な問題です。少しでも学校の指導に違和感を感じられた親御さんは、宿題の分量についてしっかりと抗議をしていくことが大切だと思いますし、その際にはこうした記事やブログを援用していただけたら幸いです。(すると、学校の先生の矛先はこちらに向きますので!)多すぎる、難しすぎる宿題をとりあえず一周こなすだけで理解できて、学力がつく子は「天才」です。ごく限られた天才にしか通用しない方法を、多くの中高一貫校で全員に強制していることの異常さについて、みんなで「これはおかしいのでは?」ともっと指摘していくことが大切だと思います。

また、このことについては塾のメールアドレス(ホームページの「お問い合わせ」からもメールできます)にいつでもご相談いただければ、状況を聞かせていただいて、学校のやり方に対してのセカンドオピニオンや、とりあえず宿題をやりすごしては、勉強を噛み合わせていくための方法などもアドバイスなら無料で致します。遠隔地や塾の費用が難しい方にも是非お力になれれば嬉しい限りです。(嚮心塾は「来るものは拒まず、去るものは追わず」で勧誘とか一切いたしませんので、お気軽にご相談ください!)(これも塾のHPだと、勧誘等がご不安でしょうから、新たにHPを作ろうとも思っていたのですが、手が回らず、本当に申し訳ない限りです。まずは塾のアドレスにメールいただければ、何でもお答えいたします。)

と、ここまでやると、「宣伝だろ!」と、さらに疑われるかもしれないのですが、こちらとしてはこんな理由で塾が繁盛したくない、というのが最も強い動機です。難しい入試をパスし、高い月謝を払って通っているはずの中高一貫校のひどい授業や宿題に苦しめられ、わからないままに必死に答を写すしかなく、どんどん理解できない分野が増えていく中高生たち。学校に異議を唱えても、「ついてこれる子はついてきてますから(おたくのお子さんの努力不足でしょ)。」で切り捨てられ、違和感を感じながらもそれ以上つっこめずに苦しんでいる親御さんたち。本当に心苦しくなります。

何より、「教科書をしっかり読み返して理解しながら、隅々まで説明できるようにしてから問題を解くんだよ。」というごくごくカンタンなアドバイスだけで、みるみるうちに学力が改善していく、というのは学校(それもいわゆる「有名進学校」)が最低限の教育すら提供できていない状況である、ということです(もちろん、これも先生によって違います。まともな先生であれば、決してこうなってはいないのですが、その割合がどれくらいか、ということですよね。。)。中高生の(なけなしの)勉強時間やモチベーションをとにかく浪費させたくないという思いです。

日本に教育くらいしか誇れるものがないのだとしたら、学校教育が荒廃して、その荒廃の補習をするだけで私教育が生き残っていけてしまう状況というのは異常であり、改善されなければならないことだと思います。こちらとしても、そのように繁盛したくありません。学校教育が今よりはるかにまともになったときに、嚮心塾もその煽りをうけて潰れるのなら、それはそれで正しい潰れ方だと思っています。僕自身に学校の先生よりも生徒たちに提供できる価値がない、ということになればそれは仕方がありませんし、ある意味(教育費がかさまないで済む)理想の世の中です。

しかし、今はむしろそれから逆行していて、どのように有名な進学校であっても(一部の素晴らしい先生の授業を除いて)塾や予備校なしにはどうしようもなくなってしまい、学校では難しい教材を大量に用いているのに、それは教育ではなく「選別」にしかなっていません。少しでもこの異常な状況に一石を投じられるように、引き続きあれこれもがいて行きたいと思います。

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Why?という刃。

お久しぶりです。
朝から晩まで塾にいる機会もこの直前期は増えてくるので、またブログも更新していきたいと思います。

さて、最近の生徒たちを教えているととても感じるのはWhy?という問いを出せなくなってしまっている、ということです。これは「なぜ生きるのか」「なぜ勉強するのか」といった根本的な問いについて出せなくなってしまっているのはもちろんとして、勉強をしていく際でも「なぜこう考えるのか」と考えるのがとても苦手な傾向があると思います。だから、「どうやってこれを解くのか(how)」だけを求め、それに答えてもらって満足してしまう、という印象を受けます。いわんや「どうやって生きるのか」「どうやって勉強するのか」については、ですね。なぜ?という問いを発することが枝葉についてもradicalな部分においても、すっぽりと抜け落ちてしまっています。(名城大学の竹内英人先生はこれを「how型学習からwhy型学習への転換を!」とずっと提唱されています。)

しかし、子供というのは本来、大人が当たり前としてしまっているものにまでradicalなwhy?をどんどん出してくる生き物です。それはどんなに社会の趨勢が変わっていこうと、やはりあまり変化がないのではないでしょうか。だとすると、このWhy?を子どもたちが出せなくなってきてしまっているのは、「Why?を聞いても仕方がない。そもそもそんな暇はない。」と子どもたちが教育システムなり、周りの大人とのやりとりなりの中で諦めさせられている現状があるのかな、と思います。(もちろんこの間、問題提起している「大量の宿題」「難しすぎる宿題」はまさにその典型例かと。)

一方で、教師から生徒、親から子への「Why?」というのはほとんどの場合、ひどい暴力にしかなりません。「なぜこんなことしたの?(=こんなことするな)」「なぜ勉強しないの?(=勉強しろ)」「なぜ頑張らないの?(=頑張れ)」などなど。
子どもたちはそのように、大人からの「なぜ?」は叱責であることを熟知しています。だからこそ、「なぜ?」と問われたときには身を固くして自分の非を少しもバラさないように、自己防衛モードに入るしかなくなります。教える側としては、Why?が決して叱責の意味ではなく、考え方のプロセスを聞きたいという主旨であることを何度も説明しては、そのWhy?に子どもたちが答えることは子どもたちの不利益に繋がるのではなく、むしろ勉強がしっかりと理解できていくのだ、という大きな利益に繋がるのだ、という信頼関係を地道に築いていくしかありません。あるいは聞き方を工夫して「なぜ?」と問うのではなく、「どうやって考えたの?」と聞くことで糾弾調にならないように工夫されている先生もいらっしゃる、ということも聞きました。(このWhy?のもつ糾弾性を避けるためには、how?という言葉を使う、というのがhowのみで満ち溢れ、構成されたこの社会のありようを表していて興味深いですよね。この先生方の工夫は本当に素晴らしい!と思う反面、how?に対しての子供の警戒心のなさとWhy?に対しての異常なまでの警戒心は、この社会が、あるいはこの文明がhowのみで構成されてきて「発達」していて、how?はカジュアルに問われるのにwhy?は糾弾以外には使われない、という「Why?のない社会」である、という深刻な現実を表しているようにも思います。)

最初に書いた「子どもたちが本来発していたはずの「Why?」を奪われてしまっている」というのも、上意下達の教育しか受けてこない中で、子供の側からのWhy?は教師の権威を脅かすものとして、排除されていく、ということの積み重ねでそうなってしまっているのではないか、と思います。

もちろん全てのWhy?に教師が答えられなければいけないわけではないのです。また、答えられるはずもないのです(もちろん必死に努力して勉強はしなければなりませんが)。そもそも人間の科学や文明自体が、Why?を忘れた歪な発展の中で、how?だけが積み重なっている部分だけに目を向けてその高度さを誇っているものに過ぎないかもしれないからです。EBM(evidence based medicine)などといいますが、それは効果についてのevidenceをdouble blind testで調べているだけで、なぜそれが効くのかの作用機序などわからないものの方が多いわけです。ただ、大人たちにできることは子どもたちのradicalなwhy?に対して、決してごまかさないこと、わからないことはわからないと伝えること、そしてそのwhy?を何より勇気づけていくことだと思います。それは卑近なところではその子達の成長に繋がるでしょうし、遠くを見れば人類の新たな可能性を開くものでもあるはずです。

Why?を忘れたこの世界で、how?だけが積み重なっていくのが人間の文明だとしても、しかし、個々人の学習プロセスにおいてはやはりWhy?を積み重ねていかなければそれを理解して身につけることはできません。how?を積み重ねるだけでは、受験勉強のような大したレベルでなくても、決して合格できません。この事実を絶望ととるのか、希望ととるのかは立場によるのかもしれません。ただ、僕には「我々が何かを身につけるときにはWhy?を考えねばならない」という事実は、自身の身過ぎ世過ぎのための技術や知識を身につけるための手段として有用なだけでなく、それだけが人類にとって唯一の希望、自分たちのありさまを根本から疑い直すことのできる契機を生むかもしれない希望であると思っています。

もちろん枝葉についてのwhy?を積み重ねることが、より根本的な問いへのwhy?を問うこととは切断されてしまっているケースの方がむしろ多いことも事実です。(たとえば受験勉強の中でwhy?をしっかり積み重ねて東大や医学部に入った子も、その問いが「なぜ生きるのか?」までは決して向きません。)how?に有用な範囲に限定してwhy?を積み重ねることができてしまうのもまた、人間の賢さ/愚かさであるのでしょう。しかし、それでもwhy?をコツコツと積み重ねていくこと以外には、それを乗り越える可能性もまたないのかな、とも思っています。

そうしたwhy?という刃を鍛え、積み重ねていけるように、日々鍛えていきたいと思います。

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宿題多すぎ・難しすぎイベントの記事のご紹介と補遺。

先日の「学校の宿題多すぎ・難しすぎ」イベントについての取材記事が東京すくすくさんで公開されました。
是非お読みいただけたらありがたいです。

中高生が大学受験に向けて勉強しよう!と考えたときにまず頼りにするのが学校の先生だと思います。しかし、その学校の先生が、基礎もまだ固まっていない中高生にとってあまりに難しすぎたり大量すぎたりする宿題を出しておいて、「これをやらないと受験勉強の力がつかない!!」と誤った方向づけをしてしまえば、それを真に受けて必死に取り組む中高生ほどに多くの時間と労力を費やしても、何も実力が身につかないことになってしまいます。

自分の学校の宿題がそうなっちゃっているかも!と感じたとき、このように教育に関わる我々専門家(と言うには僕は「何でも屋」なので、僕だけあまり信憑性がありませんが、他の登壇者のお三方はその分野の第一人者の先生方です!)ですら、しっかりと基礎がわかっていない状態で難しい問題を大量に解かせることには無意味である!!!と主張していることを是非セカンドオピニオンとして使っていただけたらありがたいです。

生徒が宿題をこなせているかどうかをしっかりと吟味し、量や難易度を絶えず調節している先生は、生徒の実力をつけるために試行錯誤を続ける信頼に値する先生です。逆に「青チャートを全部やれば大丈夫!」「フォーカスゴールドを全部やれば大丈夫!」「一対一対応の演習を全部やれば大丈夫!」など、有名で分厚い問題集をとりあえず薦める先生は、自身が大学受験指導についてよく知らないがゆえに、とりあえずみんなの知っている有名な問題集を使い、さらにはそこからレベル別に問題数を厳選したり、ということをできないがゆえに「とりあえず全部!」となってしまっているのだと判断して良いと思います。端的に言えば、どのような宿題を出すべきかに悩みがあるかないか、が見分けるポイントです。それほどに宿題を出すのは難しく、また教師が生徒一人一人の理解度を正確に把握することもまた難しいのです。

今回のイベントは数学の話に限定しましたが、このような無意味な宿題、生徒のレベルを勘案しない高望みの宿題は他の教科でも、進学に力を入れる高校あるあるです。一例を挙げれば、英文法も理解をしてもらうプロセスを省いてとりあえずNextageやVintageを宿題や小テストでやらせることで、どれほど多くの高校生が「英文法とは四択問題の答をひたすら丸暗記する勉強」と誤解してしまっているでしょうか。

中高生の勉強へのモチベーションと勉強時間は有限の、極めて貴重なリソースです。それは原油とかレアメタルとかレアアースとかよりもはるかにはるかに貴重な、人類の共有財産であるのです。それを無駄な努力に費やさせては、無駄遣いしていく、というのは僕は反社会的行為であるとすら思います。

また、先生の指示を守って結局大学受験の実力がつかなくても、先生たちは責任を取ってくれることもありません。そもそも「自分の宿題や指導がまずかったかも。。」と懊悩できる先生であれば、必ず宿題の教材選びや量、難易度などを試行錯誤し続けているはずです。こなしきれるはずもない膨大な量の宿題を出し、間に合わないので解答を写さざるをえなくなっている生徒のノートを見て深く反省しているはずです。そうなっていない以上は、その先生の指示には従わないほうがいいと思います。自分の将来は自分で守るためにも、こうした理不尽な宿題に時間や労力を費やさないよう、そして(これは学校の先生だけでなく我々塾や予備校で教える者の言葉についても同じですが)、先生の言葉を疑っては自分に必要な勉強を考えていくことがとても大切だと考えています。(そしてまともな先生ほど、中高生の「自分にはこれが必要だと思うんですが…」という相談を(仮にその提案が間違っていると判断したとしても)無下には却下しません。必ず今それをすべきではない理由を納得できるまで説明してくれると思います。)

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「数学の宿題、多すぎない?」zoomイベントの補遺

昨日は名城大学竹内英人先生に「数学の宿題、多すぎない?」というZOOMイベントをしていただき、かねてから大きな問題と思っていた学校の宿題の量の多さ、生徒のレベルに見合っていない難しさ、フィードバックのなさ、という話題について問題提起させていただきました。90名弱の方に参加していただいて、この問題を広く周知して、誤った学校の宿題に対して疑問を感じながらも従うしかない、と思わざるを得ない保護者の方や中高生にとって、自信をもってもらえたらとても嬉しいです。理不尽な宿題は数学だけではありません。他の科目についてもまた問題提起を継続してやっていきたいと思います。

とはいえ、この話題で2時間は短い!議論を深めたくても時間が足りなかったりコメントしきれなかったところがあります。以下に当日いただいた中で拾いきれなかったコメントへの僕の回答と、その他想定問答として用意していたものもこのブログで供養していきたいと思います。(あくまで柳原だけによる回答で登壇者の他のお三方は内容に関知されておりません)

(コメント返し)
「自分の学校は青チャート100題でしたが、実際に解いてみたら、解いている途中で発狂しそうになりました。特に数学1の展開・因数分解…。」
→この青チャート100題がまずは重要例題のように難しいものをおそらく避けていないので問題なのですが、加えてこれはイベント中でも竹内先生が仰っていた「計算の難しい問題をやらせすぎている」の大きな弊害だと思います。数学的内容は理解できていても、計算が難しいものまで欲張って宿題でやらせようとするからこそ、そこで数学が嫌になってしまう、という高校生もたくさんいます。もちろん東大入試のように方針を練るだけでなく計算力も問う入試があるのはそのとおりなのですが、それを未習分野を初めて学ぶ高校1年生や中学3年生でできる必要はありません。最初から計算が複雑な問題まで練習させようとする、というのが欲張っては結局数学嫌いにさせてしまう、という大きな失敗だと思います。


「分からない問題があった時に、(授業で扱った問題を示すことを一般化して)何を見返して、それを見返すことで目の前の問題が解けるようになるかを示さないと、確かに「答を写す」機械的な作業に生徒たちは逃げてしまいますね。」
→「見返す」というのがキーワードで、もちろん教科書の定義、定理や公式が不十分な状態ですぐに問題演習に入らされてしまうわけですが、この方式の恐ろしいところは問題集でつまったときに教科書のどこを読み直せばよいか、が生徒たちには明示されていない、ということです。また、問題集で出される宿題の分量が多いほど、生徒たちは「教科書を見返している暇なんかない!!」と視野を狭くせざるをえなくなってしまいます。結果、「見返す」「行きつ戻りつ理解を深める」という本来の問題演習の効果が、どこに戻っていいかわからないこと、その暇なんてないと宿題量によって強迫されることで不可能になってしまっていると思っています。


「宿題は量だ、という研修を学習塾時代(約20年前)に受けました(汗」
「まちがったフォームでバッティングセンターで素振りを繰り返した私を見かねた友人が、優しくフォームを教えてくれたことを思い出しました。」
→これはとてもわかりやすい話で、大量の宿題を出すのは学校にしても塾にしても「努力してる感」をアピールするのにとても便利な手段である、ということだと思います。保護者の方はそれで安心してくれるのです。しかし、バッティングフォームのお話でもわかるように勉強の方法論を徹底しない上での大量の宿題というのは生徒の勉強方法を歪め、誤った学習習慣を身に着けさせ、そして何も実力につながらないのにただただ時間だけを奪う、という極めて有害な指導です。それを大人の都合でやってしまっては中高生の学習意欲や時間を無駄に浪費していく、という事自体がこの社会を地盤沈下させていくものだと思います。


「谷口先生のおっしゃる「基本的な型」が、教員によっては網羅系の例題全部だと考えて、全部宿題に出している実態もあるかもしれません。」
→これは掘り下げたかったところです。網羅系の問題集というのはどういう位置づけのものであるのかを高校の数学の先生方がよくわからないまま使っていることがこの大量の宿題地獄に繋がっている、というのはとても正しいと思います。入試問題というのは年々「新しい」問題が増えていきます。それはいわゆる典型題ではその場で試行錯誤して考えられる子か、それともただ典型題をマスターしているだけの子かがわからなくなるからこそ、一見「新しい」問題というのを大学の先生方が大学入試で工夫されて出題するからです(もちろんこれが全ての大学でなされるわけではなく、典型題を出さなくてもいい受験者層の大学、つまり東大、京大、阪大、東工大とかでしょうか。)。しかし、新しい入試問題も出てしまえばそれはまた網羅系問題集に収録されていきます。こうして問題集と大学入試とのいたちごっこが続き、網羅系問題集はどんどん分厚くなっていくことになります。
そうした「新傾向」の問題が載っていなければそれは「今の受験には対応できていない問題集」として売れない、という悩みがあります。一方でそのような「新傾向」の問題というのも別に全く新しいものではなく、既存の内容をより深く様々な角度から理解する、という努力を怠っていなければ、それが解けるようになっている良い問題です。だからこそ、そのような「新傾向」の問題を類型として全てマスターしようとすれば、それはその類型が単調増加していく網羅系問題集を全て覚えるしかなくなるわけですが、それはそもそもまた新たに工夫して出される次の「新傾向」に対応できるのかはあやしいところです。また、今回問題提起したような宿題多すぎで、そもそももっと数を絞ったessentialな理解や基本的な型すらあやしくなってきてしまいます。
根本的には「網羅系問題集は辞書代わりのもの。辞書は信頼できる教材だけど、辞書を初学から全部覚えようとしたら止めるでしょ?」ということです。辞書の内容は増える一方ですが、それをどれだけ絞った類型にできるか、が教える側がやらなければならない仕事であると思います。中高生はついつい「新しい問題が載っているこの分厚いのを全部やればいいんでしょ!」と短絡思考にはしりがちではあるので、それをどれだけしっかりブレーキを掛けて、どれくらい少ない「基本的な型」に帰着させていけるかが、教師の仕事ではないかと思います。


「私は実業高校勤務が長いので、年々長期休業中の宿題は減らしてきた方です。私自身が理系の人間としては数学の理解が遅いので、大量の問題を解くのが難しい生徒だったのもあります。ここ数年は宿題を決める際に、問題集は買わせてありますが、自分で解いてみて、分量を決めるようにしています。」

→本当に素晴らしいご指導です。今回の会はこのように指導を工夫されている多くの先生方に「学校の宿題多すぎない?」という問題提起をさせていただく、という心苦しい面もありましたが、どうかご容赦の程を。
その上で「数学の理解が遅い」ですが、これは個人の資質による差よりも、そもそも「初めて学ぶ抽象的な内容をすぐに理解できる人間などいない」という事実を大前提に教育というのはなされるべきなのかな、と思います。東大の数学の問題なんか簡単すぎて!と思った子も学部レベルの数学ですら理解に苦しむでしょうし、そこが余裕だった子もその上では更に苦しみます。現代数学の自分の専攻と異なる分野を初学でサラリと理解できる数学者などいないでしょうし、ましてや数学以外の分野も考えれば、ですね。谷口さんが話してくれたように、人間というのは、初めて学ぶ概念をすぐに理解することはできません。それは個人の能力とは関係のないことだと思います。その苦しみをどの段階でクリアしているか、の違いでしかないのかなあ、と。「完全に理解!」という自分の認識がどれだけ一面的でしかないかということを学んでいくのが学習のプロセスだとすると、「完全に理解!(もちろんまだまだ一面的)」とすらなっていない状態で問題演習ばかりをして、教科書に戻る暇を与えない、というのが大きな間違いであることはわかりやすいのかな、と思います。


「今の勤務先が総合高校なので、進学を目指す子、専門学校へ行く子、就職を考える子、さまざまおります。ならばこそ全員に統一した課題を出すことはナンセンスだと考えております。できるだけ生徒にとって効果的な方法があればいいなと考える今日この頃です。」
→本当に素晴らしいお考えだと思います。進路が多様であればとても見えやすいのですが、実際には中学受験や高校受験でそれなりに選抜されて同質の集団である、と思いがちな学校であっても数学の理解度は千差万別であると思っています。外から見れば「同質の集団」に見えたとしてもその個々の生徒の「違い」に敏感であることが教える側には常に必要であると思います。その意味で一律の宿題、というのは僕はたとえ超トップ校であっても「個々の生徒の自分の勉強を邪魔しない程度に」出すしかないのかな、と思います。


「A問題というよりできることを繰り返すのが解く力をつけるのにとても効率がいいと思います。数学における基本とは手が動く問題だと生徒にも言うのですがB問題をやらないのは恐いと生徒が言います。解けないのに解こうとするだけではなく、解けないから解こうとするあたりに根深さを感じます。」
→これもおっしゃる通りです。「B問題をやらないのは恐い」「解けないから解こうとする」というのが中高生の短絡的な思考だと思います。それにブレーキを掛け、まずはA問題を解けるだけではなく、なぜそう解くのか、それは定理や公式のどれを使っているのか、なぜ関連する他の定理や公式はこの場合使えないのか、他の解法はないかなど様々な面で説明できるようにすることが大切だと思います。ただ、現状はB問題もいっしょくたにして宿題で出され、「わからないところは解答を写す」という学力向上には極めて無意味なやり方がなされてしまっています。


「宿題が少ないと、保護者が不安になって塾に行かせたり、学校に問い合わせたりするケースもあると聞きます。いかがでしょうか?」
「『より難しい問題集をやった方がよい』『もっとたくさん量を解けばできるようになる』といった幻想をいろいろな層でお持ちで、それが圧力となってやりたいようにできない教員もきっとたくさんおられるのだと想像されます。」
→1つ目はおっしゃる通りで、特に受験情報がネットに溢れている現在は保護者や生徒からのこういう圧力も学校の先生方は感じておられると思います。ただ、竹内先生の仰った「それは生徒の時間や努力を浪費していい理由にはならない」というご意見に僕も全く同感です。その上で基礎がどれだけ大切であるか、ということを学校の先生が毅然とやっておられるときに、(中高生が短絡的なのは仕方がないとして)それを理解できる保護者の方が少しでも増えていくこともとても大切だと思います。その点では学校であれ塾であれ保護者にも教育をしていかねばならない、と僕は思っています。
2つ目については、たとえばそのプレッシャーの回避方法として青チャートやフォーカスゴールドを使うけれどもレベルを絞って運用する(星1,2のみ青チャートならコンパス3まで)という手を使っておられる先生もいると思います。しかし、このような運用の仕方にすると、これらも結局定理や公式の導出や証明過程は書かれていない(もちろんレベルからいって仕方ないのですが)ので、それらはわからないまま定理や公式を覚えるだけで問題だけ解く、という誤った方向へと生徒をおしやることになってしまっています。そしてそこで教科書へと遡る中高生は皆無です。この一見「賢い」プレッシャー回避方法も、結果として「よくわからないまま公式を覚え、それを当てはめて解く」を助長しがちです。やはり、そのようなプレッシャー自体と闘い、生徒も保護者も啓蒙していかねばならないように思います。

「セミナー化学、セミナー物理は鉄板ですね。」
→これらも「全部盛り」で簡単な問題からかなり難しい問題まで入っていますよね。試験範囲を宿題に!というときになぜ簡単な問題だけに絞って反復させる、という宿題の出し方にならずに難しい問題まで全て一周やる、という形になるのかがかなり疑問です。(数学に限らず理科も宿題で難易度や問題数を絞って反復させる、という宿題の出し方をとにかく見かけません。反復させることへの忌避感がどこから来るのかも今後の調査の課題です。)

「徹底的にやりこませるために課題を多くするというより、先生方が指導しましたというアリバイ作りのためにやらせているという話を進学校勤務の知人から聞いたことがあります。」
→このコメントは「恐らくそうなのではないか…?いや、まさか…。」というこちらの推測に対しての貴重なご証言でした。ありがとうございます。「アリバイ作り」がキーワードでして、「学校ではこの問題集が全て解ければ東大だって受かるような有名な難しい問題集を生徒にやらせている。それをやらせているのにできないのは、生徒の努力不足だ!」という態度だと思うんですよね。。しかし、それは端的に教師の保身でしかなく、そのために勉強時間やモチベーションを犠牲にさせられる中高生には虐待的だとすら僕は思っています。たとえば青チャートしか授業でやらない学校で数学のテストの成績が悪かった子たちを集めた補習でまた青チャートしかやらせない(教科書には一切ノータッチ)、という悪夢のような話も聞きました。これは東京だと私立中高一貫校、都立中高一貫校、都立の進学指導特別推進校、進学指導推進校といったいわゆる中上位の進学校でよくなされる指導です。受験指導がよくわかっていない先生側のアリバイ作りと生徒への責任転嫁なのかな、と思います。


「模試の過去問を事前に配る文化(?)はよくあることなのでしょうか。本校では横行していますが…」
→よくあるようです。複数の学校で見受けられます。(横川さんのお話では「熊本方式」と呼ぶそうです)都内でも中上位の私立中高一貫校では見受けられます。模試の過去問を課題で出すのは、それが解けない子には解答も渡されないので復習も出来ず意味がないだけでなく、「模試対策」という過学習が受験勉強だと勘違いしてしまうという弊害も大きいです。極論を言えば、模試など大学別模試以外は受けなくてもいいと思います。それよりも正しい方向への勉強時間の方がはるかに大切です。また、トップの進学校ほど、模試は「自分で受けてねー!」で強制される模試など一つもありません。今の高校生は学校で強制される模試があまりにも多すぎてお金も時間もそこに奪われ、さらには「模試対策」として模試の過去問を解かされることで勉強時間も奪われ、それを丸々覚えることが受験勉強だと勘違いさせられています。模試を受けさせること、それに不要な過学習を強いることで受験生の「自分のしたい勉強をする時間」を損ねてしまっています。(これもまた、保護者の方からの「模試たくさん受けたほうがいいんじゃないですか?」というプレッシャーの産物でもあります。保護者の方は模試を受けていないと我が子の勉強の状況を知りようがないので不安だからこのようなリクエストをしがちです。しかし、学力を観測するという事実は学力自体にも干渉してしまう(模試で日曜日の学習時間が何度も奪われる、不毛な模試対策をさせられる)、という危険性についてはあまり考えておられないのだと思いますし、かえって合格可能性を下げることに繋がっています。)


<以下は話しきれなかったことです>
・学校説明会での「塾や予備校のいらない高校」というワードの怖さ
→結局「難しい問題集を大量にやらせます!」「宿題や小テストが多いです!」という意味でしかなく、入学後は宿題や小テストで忙しくさせられるもののそれらの課題をこなしても実力がつかず、大学受験は厳しくなる。

・今回は数学の宿題に話を絞ったが、これは数学に特有のものではない。他の教科でもこのような傾向は見受けられ、基本的に「理解が固まる前にひたすら問題集」という宿題はどの教科でも多い。「勉強する」=「難しい問題集をたくさん解く」という価値観を変えていかないといけない。

・ワークブック地獄。書き込んで提出するタイプのワークブックが増えすぎて「一度解いて間違えたものは解答を写して提出」が基本になってしまっている。横川さんの仰っていたように「解答を見ながら書き写す」というなんの勉強にもならない無意味な行為に時間を奪われ、慣れさせられる。結局膨大に出されるので繰り返し解けない&教科書に戻る暇がなくなる。フィードバックもほとんどない。


(その他の考えうる質問について)
Q宿題の量が多いことはデメリットだけか?
→基礎を様々な角度から理解するというプロセスをしっかりと定着させた上で演習量を増やすことは、むしろ有益でしかないと思います。しかし、そのような状態の高校生に学年全体に「宿題」として出せる学校が果たして日本にどれほどあるのか。それほど教科書の内容ですら高校数学は難しい。むしろそうした演習用の教材はレベルが高い子に個別で用意していく、ということの方がよいのではないだろうか。

Q解答をノートに写すことからも学べることはある。「守破離」だ!
→そのような学習プロセスが有効に機能するために必要な条件は「反復」と「吟味」だと思います。漢文の素読にしても、反復が前提です。大量の宿題を出されて泣く泣く解答をノートに写すときには反復のしようがないし、吟味はなおさらできないので身につかないです。ある解答を写す行為が(反復や吟味によって)意味があるケースがあるとしても、解答を写す全ての行為に意味があるわけではないのではないでしょうか。

Q宿題を減らしたら進学実績が下がるのでは?
→「宿題を減らしたら進学実績が下がった」というケースが仮に実在するとしても、そもそも受験生の合否に何が寄与しているのかを、独立の因果関係や相関関係として抽出するのは極めて難しいです。学校の指導のおかげなのか、塾や予備校のおかげなのか、その子の生育環境のおかげなのか。教える側はこれらを単純化して判断しないことが大切だと思います。

その上で理解できない問題を大量にやらされる宿題は、現に中高生の勉強時間とモチベーションをすり減らしていることはかなり明確な事実ではないか、と思っています。あるいは自身が学習者としてそのようなやり方で新しいことを学びうるかを考えてみても、このやり方に固執する根拠はあまりないように思えます。

Q塾や予備校でも宿題が多すぎるのではないか?学校だけを糾弾するのはアンフェアではないか。
→それはそのとおりです。塾や予備校でも宿題が多すぎるところは多いです。またそれで生徒の勉強がうまくいかなくなっているケースも多い(特にSとかT会とか)。ただ、塾や予備校は合わなければ辞められるし変えることができます。それに対して学校を辞める、変えるというのはかなりリスクが大きいのが大きな違いであると思います。その強制力の違いから塾や予備校の宿題と違って学校の宿題は中高生にとってサボることがかなり難しいからこそ、「全部盛り」で時間を奪うのでなく、生徒の意見をフィードバックしながら必要な宿題を厳選してほしいと思っています。

Qそもそも宿題は必要か。
→僕自身は率直に言えばあまり必要がないと思っています。レベルの差のある子に一律に意味のある宿題を出す、という難題に取り組むのなら、何段階かに分けて、個別の勉強方法や教材を指示する方がよい。また、「宿題がなければ勉強しない」という子が宿題を出せばそれに関してしっかり頭を働かせ勉強することはありえないと思うのもその理由です。人生は長いし勉強は一生していかねばならないので、宿題を出してもらえなければ勉強できない状態からできるだけ早く脱することができるようになるのが教育の目標であると思っています。

Qどういう学校でこういうひどい宿題が出るのか。
→進学実績を上げることで生徒を獲得したい、私立中高一貫校・公立中高一貫校・高校受験から募集する高校。トップ校ほど宿題は逆にゆるい傾向が見られます。東京都だと進学指導重点校は比較的ゆるい。特別推進校、推進校、都立中高一貫校あたりに顕著にひどい宿題が見られます。

Qこういうひどい宿題が自分の子供の学校で出されていることに気づいた時の対応。
→まずは「宿題をやりなさい」というプレッシャーをかけすぎないようにしてください。自分に必要なものを選んで、とかあまりにも多いものは相談して、というのがよいと思います。その上であまりにもひどいときは父母会などで問題提起していくとよいです。その場ではこちらの訴えが聞いてもらえなくても、先生たちの中で見直しは必ず起こるはずだと思います。

Q中高生の対応
→まずは宿題を出す先生がどれほど強制しようとしてくるかをチェック。居残りさせるなど、かなり強硬な先生の場合は、宿題が無意味でもやらないことによるストレスが大きすぎるので、写して提出すればよいです。その上で、そこまで強硬でなければ宿題をやらないで、教科書などで怪しいところをしっかりと復習し、教科書の問題を解ければよい。それで余力があれば宿題まで手を出せば良いですが、あくまで教科書の定理や公式が自分で「当たり前のこと」として説明できるようになってからで十分です。

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卒塾生を大切にしない塾。

嚮心塾もおかげさまで今年で17周年を迎えました。これだけ長いことやっていると、卒塾生も活躍が著しく、日々とっても刺激をもらっています。昨日はある卒塾生が二度目のサマソニに出演!and別の卒塾生が第一詩集出版トークイベント!ということで、後者に参加してきました。

ただ、塾としては卒塾生が遊びに来る塾ではあってほしいとは思うものの、一方で僕自身の仕事としては卒塾生を大切にしていてもあまり仕方がない、と思っています。これは何も金銭的な対価を得られるのは現塾生への仕事ぶりだから、という守銭奴な話ではなく、一般に卒塾生、それも卒業後にもつきあいがある卒塾生というのは、一般に受験の結果がうまく行っていたり、行っていなくてもそれなりに納得の行くものであったり、そうでなくてもこちらを奇特にも大切にしてくれる、という意味ではコミュニケーションの理路もある程度確立されていて、更にはそもそもそこそこ実力のついた子たちです。その卒塾生と接しては彼らの相談に乗ったり力になっていくということは、もちろん大切なことではあっても僕にとっては「一つの成功に次の成功を重ねていく」という作業でしかありません。簡単に言えば、快い仕事、きつくない仕事です。

一方で今通ってくれている塾生のことを考えれば、勉強がまだまだ実力不足であったり、そもそも努力ができなかったり、塾に来ることすら出来なかったり、来てもこちらのアドバイスを聞かないせいで結局自分自身の学習プロセスを損ねては力がつかなかったり、学校のテキトーな宿題や小テストを何よりも優先していたり、などなど問題は山積みです。その一つ一つ、一人一人に対してこちらが真剣に悩み続け、あれこれ工夫を考えても、うまくいくことなどほぼありません。10回に1回、いや、20回に1回わかってもらえて一歩前進する、という気の遠くなるような取り組みを日々めげずにやっていくしかありません。

コミュニケーションのとれるようになっている卒塾生とより深く掘っていく話をすることに比べれば、こちらの塾の現業務はしんどく、報われなく、容易に裏切られ、否定され、そして前進の少ないものです。自分自身の愚かしさを可能性の一つとして常に視野に入れる、というたった一つのいちばん大切な態度を身につけてもらうために、あらゆる角度からの説得と理解とを進めようとしてもなお、「この愚かしさが私なんだから!」という理由で拒絶をされていきます。単に学力をつける、という狭い範囲の目標においてすら、「言われたことに盲目的に従う」という態度は自分の愚かしさを温存してしまう、という意味で有害でしかありません。

こういう日々には非常に倦み疲れます。ただそれでも、僕に生きる意味が少しでもあるのだとしたら、このように聞いてもらえない言葉、理解してもらえない言葉をそれを聞くことの出来ない、理解できない相手にとどのように伝えていくのか、というそのもがき苦しみの中にしかありえないのだとは思っています。

過去のその苦闘の結果として鍛えることができていたり、コミュニケーションがかなりしやすくなっている卒塾生と話すことは、ともすればこの目の前にある「言葉の通じない」子たちがたくさんいるという事実から逃避する動機になってしまいます。だからこそ、卒塾生との思い出(これは僕には人情味がないので、ほぼないのですが)やより深堀りしていくための新たなコミュニケーション(どうしてもこちらに興味があります)に逃げることなく、目の前の大切なことが何もわかっていないまま、自身の愚かしさを疑うことなく失敗へと邁進する子たちにどのようにそれではまずいのかを伝えていかねばならないのだ、と思っています。

あわよくば、僕が死ぬその最後の瞬間まで、目の前の子たちに「全く伝わらない」という事実にもがき苦しみながらも、伝えるための手段を何とか模索し続けていきたいと思います。それだけがこの社会にとっても意味のあることです。(なので、僕が卒塾生との飲み会ばかりfacebookやtwitterばかりupするようになったら、もう嚮心塾は終わったと思っていただいて構いません。カミーユ・ピサロが「ルーブル(美術館)は芸術の墓場だ。」と言ったように、そのような塾は教育の墓場でしょう。まあ、そういう先生が多いとは思うのですが。)

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