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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

内申点の暴力性について、再び。

中学の定期試験が終わり、高校受験の内申点がそろそろ決まる頃です。良かった子は良いとして、仮内申が発表されて、それで思ったよりも取れていなかったとしても、落ち込むことはありません。大切なのはここからの勉強であり、入試でしっかりと点数を取ることです。そのためにここからできることは山程あります。そこに向けて集中していくことが何より大切です。

しかし、高校受験に関われば関わるほどに高校受験での中学の先生のつける「内申点」の不透明さには辟易します。テストの点数が良くても「授業態度」「意欲」「関心」などを中学の先生が主観的につけ、90点オーバーの点数を取っていたとしても、それらの不透明な要素で5段階で3にされる、ということもざらにあります。塾でも毎年毎年中3生がこの内申点で理不尽な成績をつけられ、苦しんでいます。本当に良くない制度であると思っています。

「テストの点数が良くたって、授業中寝てたら成績悪くなるの当たり前でしょ!」という反論も先生側からはあるのでしょうが、なぜ授業中寝るのか、ですよね。たとえば授業がつまらない(「つまらない」には既習分野でわかっているから、もあれば、担当の先生の努力不足もあるでしょう)から寝てしまうとして、それを「つまらないけど内申点が悪くなるから起きて聞こう!」という姿勢を中3の子に強要するのは、端的に言って奴隷を再生産する制度でしかないと思います。おかしなこと、つまらないことであろうと、それに従わなければ自分が不利益を被るということを15歳の子たちに叩き込むような社会に未来などあるのでしょうか。。強く疑問に思っています(中には「授業中に手を上げた回数」で評価が決まる、などという例もあります。。こんなの、本末転倒も甚だしいですよね。。)。

もちろん学校の先生としては自分の目に映る姿がその子のすべてになりがちです。自分の授業中ずっと寝ている子がいるとしたら、その子はその先生にとっては「落第」なのでしょう。しかし、同時に教師が想像力を働かせなければならないのは、自分の目に映るその子が、決してその子の全てではない、という事実についてです。いつも自分の授業で寝ている子は、夜は必死に塾で勉強しているのかもしれません。あるいは家の事情でアルバイトや家の手伝いに明け暮れているかもしれません。その必死の努力故に、授業で眠ってしまうものの、しかし勉強はなんとか頑張って、定期試験ではしっかり高得点をキープしても「授業態度」故に内申点を低くつけられ、そのせいで行きたい高校にいけなくなるのだとしたら…。その子達は夢も希望もなくしてしまうのではないでしょうか。そのように15歳の子の人生を左右する権力を教師が握っている、ということに対して、もっと中学の先生方には恐ろしさを感じていただいた上で、基準をreasonableなものに明確化していくことを徹底していただきたいと思います。それをしていないせいで、苦しんでいる中学3年生がどれだけいるのか。。塾で教えているだけでも毎年、本当に理不尽なケースに出会います。このような理不尽な内申点の付け方によって、優秀であるのに公立高校を受けられなくなってしまう子もいるのです。仮に私立に受かったとしても、そのような暴力によって、子どもたちの心は本当に傷つき、そこから回復するのが難しくなってしまうケースすらあります。

明示されてるとしてもreasonableではない基準を生徒をコントロールするための道具に用いているのも問題ですが、そもそも基準が明示されない、というのはさらに大きな問題です。しかし、このような例も内申点の付け方には多々あると思っています。そして、基準が明示されないままに評価をつけられる、というのは、簡単に言えばカルトとか、社長がワンマンのブラック企業とかに似ていると思っています。どのような基準で自分が評価を上げられたり下げられたりがわからない環境に置かれ続けるとき、人間は思考を停止してひたすらに「上」の人の機嫌を伺い続けます。そしてそのように「上」の人の機嫌を伺い続ける内部の人々は何が基準かがわからなければわからないほどに、身も心も捧げ尽くすようになるのです。そしてそれを「自発的にそうしている」と自分で思い込み、それができない人々を排斥するようになります。そのような「地獄」を中3の子たちに味わわせていて良いのでしょうか。(こう書くと、「東京の内申点制度はまだ緩い!」とか「他の地域は3年間それが続く!」ということも言われるのでしょうが、どちらにせよこのように曖昧な基準に従い続けなければ自分が不利益を被るという「地獄」です。一方の地獄が別の地獄よりはまだマシということで正当化できるものではありません。ペーパーテストだけである方が、よほど自由であると思います。また、「それは勉強のできる子の意見だ!」ということも言われるのでしょうが、勉強ができない子が先生に盲従することで内申点で下駄を履かせてもらったとして、それは果たしてどこまでその後の社会においてその戦略で生きていけると言えるのでしょうか。それはlocalには最適の生存戦略だとしても、その後決して通用しなくなるのではないでしょうか。もちろん、日本社会全体を「上意」を理不尽でも踏まえることにひたすら特化した人々が出世していく社会にしていくことは可能です。あるいは、既に政府であれ会社であれ、そうなっている部分もあるのでしょう。しかし、そのような社会はたとえばこの新型コロナのような外部からの難題については、取り組む力を完全に失った社会になってしまうのだと思います。)

中学校での内申制度をこのようにたとえるのは不穏当と思われるかもしれませんが、それぐらいにひどい事実に毎年ぶつかる、ということにこちらもまた愕然としている次第です。まず、人間が人間を主観的に評価する、ということにはどのような天才が評価者になろうとも必ず限界がある、という事実を直視すべきです。その上で、中学校の先生方には自身の主観的「評価」のせいで、15歳の子たちの人生が大きく変わってしまう、という事実に対してもっと恐れを抱いていただきたいと思っています(ここまで書いてきましたが、もちろんこれは「中学の先生が個人的にひどい!」ということだけではありません(中にはそういうケースもありますが)。たとえば僕がこのように「主観的評価を(成績以外で)しろ!」と同じ要求をされたら、やはり何らかの基準を作ってそれを明示したとしても、それが誰かにとっては暴力的な評価になってしまうことも当然起こりえます。それほどに、主観的評価というのは難しいもので、どうしても教師の「好き嫌い」にすぎないものが評価基準の中に混入してきてしまいます(これは医学部入試の面接試験もそうですよね)。それぐらいに、人間が人間を評価する、というのは極めて難しい。だからこそ点数だけで決めることが一番フェアである、と考えています。)。

その上で、理不尽な内申点が出て、それに絶望している中3の子たちに。
こんな腐った制度のせいで、君の人生が狭められていくことが本当に申し訳ないですが、それでも君を受け入れてくれ、君の頑張りを認めてくれる高校は必ずどこかにあります。近くになかったら、通信制の高校や高卒認定試験で大学受験をにらんで勉強してもよいです(何なら、そっちのほうが勉強も進みます!)。勝負は大学受験です。君の人生を中学教師の恣意的な判断で左右させないことが、一番の復讐です。ぜひ、生き抜いてください。力になれることがあれば、何でも言ってもらえたら。

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「社会のリーダーとなる人材」など育てたくない。

教育に携わろうとする動機、というのは各々の方にあるでしょうし、それらはどれも素晴らしいとは思うのですが、「僕とは違うな。。」と感じるものも多々あります。その代表例といえば、「次世代の社会のリーダーとなる人材を育てたい!」という動機です。

もちろん、この思いを抱いて教えておられる先生方はとても熱心な先生が多いのだと思いますし、僕のこの違和感も、その熱意を素直には持ちにくかったり表明したくなかったりする僕自身の妬み嫉みの現れ!と思っていただいてもよいとは思います。ただ一方で、このような「次世代の社会のリーダーを育てたい!」という思いというのは非常に暴力的な面もあるとも思っています。

たとえばこうした理念の具体例として「学校の成績が良い」とか「部活を必死にやって成果を出している」とか「生徒会や委員会活動を一生懸命やっている」というのも、そういった子たちが成長して「社会のリーダー」になったとしてもそれは、既存の社会の問題点を踏襲した社会の再生産になるのではないかな、と思います。それは新たな活力ある社会を作るどころか、非常に抑圧的で、(各々のバックグラウンドへの配慮もないままに)「頑張らない奴は死ね!」的な今の社会をさらに徹底したディストピアになってしまうのではないかと思います。

これには僕自身の反省もあります。僕は中高生と、まあなんでもやる、そのような「リーダー的人材」でした。それは学校社会の中においてもまた、評価されやすい楽な道であったからです。しかし、一方で高校のクラスメートのほとんどが熱心に取り組む運動会のようなイベントに、非協力的であり決して参加しようとしないクラスメートもいたわけで、そのようなマイノリティの子は、流されるままに学校行事に「活動的」であった我々よりもはるかに深く考え、自分の有り様をしっかりと探していたと思います。そのような「はみ出しもの」を糾弾するような視野の狭さは当然「リーダー」側にはあるわけで…。その頃の愚かしい自分が偏狭な正義感から何を踏みにじろうとしていたのか、については今思い返しても本当に恐ろしい限りであり、苦い反省しかありません。逆に言えば、50人のクラスで49人が熱心に取り組む行事に、たった一人で不参加を貫いた彼がいたからこそ、大多数の「熱心な」僕たちは、「何が正しいのか」を疑うきっかけをつくってもらえていた、とも言えるのだと思います。

結局、学校社会が既存の社会全体のカーボンコピーである以上、学校社会の中で「リーダーシップをとる」ことや「意欲的に勉強や部活に取り組む」ということは既存の社会の再生産以上の可能性をもちえません。そして、それに違和感を唱える人間は排除するか無視する、というようになってしまうのでしょう。だからこそ、そのような「優等生」達が社会のリーダーになればなるほどに、この社会はどんどんひどい方向に転がっていくでしょうし、そのような教育に加担する教育者にとっては「俺があの国会議員を育てた!」とか自らのプライドを満たす以外の目的を、実は何も見いだせていない状態ではないかと思うのです。なぜなら「社会のリーダーとなる人材」を輩出することを目的とすれば、自分たちが輩出する人材がリーダーとなれるような社会こそが「よい社会」と思えてきてしまうからです。それは教育者の代償行為でしかなく、厳に慎まなければなりません。

教育という行為にもし価値があるのだとすれば、それは既存の社会の欠点を直視し、疑いをもつ力を一人一人に鍛えていくことであると思っています。既存の社会が前提としている暴力を丸呑みにして自分たちも加害者になることで受益者の方へと入るのではなく、別の道を選びつつも自分がどのように頑張って行きていくのかの道筋をつけていく実力を鍛えていけるかもしれない、ということが教育の効用であるのかもしれません。そして、その観点で言えば、どちらかといえば学校社会では「落ちこぼれ」「はみ出しもの」として扱われている子たちにこそ新たな社会を作る可能性があるのであり、「優等生」にはあまり新たな社会を作る可能性はないのではないでしょうか。

もちろん、「学力一発勝負」である入試があるからこそ、このような「落ちこぼれ」「はみ出しもの」にも逆転のチャンスがあったわけです。内申点や学校の成績が入試を代替していけばいくほどに、テンプレ的な「社会のリーダーとなる人材」ばかりが評価されて大学名でゲタをはかされるようになってしまいます。やはりそのような入試改革は、社会の多様性を破壊し、いずれ滅びるしかないように思います。

僕が卒塾生に望むのは、自身がこの既存の社会から落ちこぼれる必要もわざとはみ出る必要はない(なにせ、みんな僕より年収高くなってますから!!)ので、しかし、そこから自分が落ちこぼれたりはみ出たりしていないのは、自分の努力だけが要因ではなく、様々な恵まれたバックグラウンドがあったからであるという正しい事実を理解した上で、自分がその事実とどのように向き合い、折り合いをつけていくかに絶えず悩み続けてもらうことです。そして、そのように悩み続けながらも生きていく力をつけることは、実は「リーダー」になるよりも、はるかに高い力をつけていかねばならないことでもある、と思っています。それはまた、僕自身も同じです。そのことに悩み続けなくなったり、悩み続けては生きていくための力をつけようと努力することをやめるのであれば、この仕事を続けてはならないと思っています。

はみ出しもの、落ちこぼれにこそ新たな社会を準備する可能性があります。そのように生きられてはいない私達は、少なくともそのようには生きられていない、既存の社会の中である程度「評価できてしまう」程度の仕事しかできていないことに、気恥ずかしさと疑いを感じた上で、何をしていくべきかを探求していかねばならない、と考えています。だからこそ、「リーダー」を育成することにも疑いをもってほしい、と教育に携わる方々には願っています。

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「教育」に可能なこととしての分節化トレーニングについて。

これだけ長いこと一人一人の生徒たちの認識の仕方と向き合っては教え続けていると、いわゆる「努力をしても勉強ができるようにならない。」というよく見受けられる事態がどのように起きてくるのかについてはだいぶ見えてきていると思っています。もちろん、原因は見えているとしても、それをどのように改善するかについては、それぞれの子たちの習慣や考え方そのものを変えていかねばならないからこそ難しいのですが。どのようにして、「努力をしても、勉強ができるようにならない」という状態が生まれるのかを少しまとめていきたいと思います。

①言葉の定義があやふや。
学習の基本は言葉です。言葉の定義があやふやなまま、読むことも解くこともすべて、「なんとなくこんな感じ」という慣れでパターン認識をするしかなくなります。これはすべての教科に言えることで、言葉の定義があやふやなままに教科書を読んでも何も力が付きません。ましてや、言葉の意味があやふやなまま、問題を解くなんて!時間の無駄でしかありません。わからない言葉は一つ一つ調べたり、調べてもわからなかったら聞いたりしながら、固めていくことが大切です。

ただ、どうしても最近は学校も塾も大量に宿題を出してはそれをこなさせる、という傾向が強いことも、この「言葉の定義があやふや」なまま、子どもたちが学習を進めることを助長してしまい(だって、そんなこといちいち調べてる時間がないくらい宿題が出るわけですから)、ますます力がつかなくなってしまっていると思います。もちろん、わけのわからないままに問題を解くような勉強が楽しいわけも力がつくわけもありません。このようにして、大量の宿題を出す学校や塾はそれに既に適応できるごく僅かな子たちにとってのみ意味のあるものとなり、残りの大多数の子にとっては勉強を嫌いにさせてしまっているのだと思います。

②文法があやふや。
国文法や英文法など文法があやふやな子、というのはそもそもどのような文章も、単語の並びとしか認識できていません。幼児の二語文、三語文レベルの認識のままである小学生や中学生(中には高校生も!)がどれだけ多いか、については、驚くレベルです(もちろんこれは話し言葉が二語文である、という意味ではありません。書かれた文章をその子が認識するときに、そのように重要な単語だけを拾って繋げただけの認識でしかない、といいうことです。)。

たとえば、「AがBにCする。」という文があるとしても、A、B、Cという要素の情報しか拾えないため、「BがAにCする。」という誤った選択肢の間違いに気づけない、ということがあります。端的に言えば日本語の助詞、英語の前置詞への意識が弱く、そしてどちらの言語においても品詞の識別意識が極めて弱い、といえるでしょうか。もちろんこの論理関係の識別ができないことは問題を解く際の選択肢の識別だけではなく、そもそも問題文の理解、あるいは普段の勉強においても大きくマイナスに響いてきます。このような子たちにはまずは日本語の助詞の違いを教えることから徹底しなければなりません。(余談ですが「英語を教える際に文構造を重視することはおそらくほとんどの英語の授業でなされているわけで、それなのにどうしてこんなに中高生は文構造がとれないのだろう?」というのは長年の疑問だったのですが、ほとんどの中高生は品詞分解が全くできない!ということに気づき、それを徹底させるようにしてから、だいぶどのような子でも英語の力がつくようになりました。)

また、文法の勉強といっても enjoyは後ろがdoing!みたいなことは必死に覚えているのに、そのdoingが動名詞なのか現在分詞なのかがよくわかっていなかったり、to 不定詞が入っている熟語は山程覚えているのに、to不定詞の三用法(名詞・形容詞・副詞)や副詞的用法の意味の類型(目的・原因/理由・結果)がぱっとでてこない、といった状態もこの文法ができていないことにあたります。

結局、人間が何かを理解する際には言葉で弁別をせざるをえない以上、こうした「文法用語」の意味を理解し、分類をおさえていくことは、自らの中に分析的に見る目、分節していく目を鍛えていくことになります。逆に言えば、これらを覚えないで英文を理解しようとすることの方がはるかに難しく、おそらく相当immersion(英語環境にどっぷり没入)しないと難しいのです。

といったことを英語を例に出して話しましたが、これは数学でも国語でも理科や社会でも同じです。まずは言葉の定義のあやふやさを潰していくこと、次にそのような分類を頭の中に作っては分析的に見ていく目を鍛えていくこと、ということがどの教科であっても必要です。それらのプロセスができていない子は一つ一つを個別の知識として覚えるしかない、あるいは何となく解いて経験則でパターンを理解するしかない、という状態なわけで、それは当然勉強量や時間が多かったとしても、力がつきません。(逆に言えば、このような「用語の定義やその連関を理解し、自分の頭の中に分析のためのツールとしての選択肢を作っていく」という学習プロセスは最初のハードルは高いのですが、必ず力がついていきます。それに対して「何となく解いているうちに慣れる」「何となく読んでるうちに慣れる」という方法は、そこから自分なりの方法論を導き出せるような「天才」にしか、できない勉強方法です。そして、勉強が苦手な子ほど、この自分で方法論を編み出さねばならない「天才の勉強法」をしているという…。だからこそ、力がつかないままに終わっていきます。)

さて、上に書いたことを意識し、徹底していけば、どんな子でも必ず勉強の力がつく!!という事実を僕は確信していますが、しかし現実にそれができているかといえば、無力感ばかりを感じる毎日でもあります。

なぜなら、このような正しい勉強法、というのは惰性で勉強をしている子たちにとっては「とてもめんどくさい」ものであるからです。そもそも、ほとんどの子たちは、勉強ができるようになりたい、とはあまり思っていません。親がうるさいから、教師がうるさいから、という外からの動機でなんとなく勉強に取り組んでいるだけの子たちにとって、このような「正しい」勉強法はまず入り口の時点でハードルが高い(日常会話では使わないような言葉を覚えていかねばならない)のです。

また、親御さんも「勉強しなさい!」とはよく言いますが、「勉強の力をつけなさい!」とは言いません。ほとんどの子どもたち(小学生はもちろん、中高生ですら)にとっては「親がうるさいから勉強する」というレベルから脱している子の方がむしろ少ないのですから、「勉強していれば文句は言われない」と思うわけです。その勉強方法が間違っていて力がつかなかったとしても、親御さんは子どもたちを否定しないで、むしろ「頑張ってるのにかわいそうに。。」と慰めてくれさえするわけですから、彼らが「勉強の方法をめんどくさい方法に変えてでも力をつけよう!」とは思うわけがありません。

もちろん、受験はそのようなぬるま湯につかることを許しません。どのように「勉強時間はたくさんとっている」と言い訳しようと、実力がなければ落ちるのが入試です。あるいは、長い人生全般を見れば、なおさら実力がシビアに響いてくることもよくわかるでしょう。しかし、そのように自らの人生を見つめる目を子どもたちはもてていないことがほとんどである以上、教える側としては、「正しい方法」を教えるだけでは圧倒的に不十分で、「なぜ正しい方法で自分の力を向上させていかねばならないのか」までを理解していってもらう必要があります。長いこと教えて、あれこれできるようにはなったとは思っているのですが、これが本当に難しいと感じています。

つまり、教育には「勉強の正しい方法を教える」だけではなく、生徒の一人一人に、自分の人生と向きあい直視してもらっては、どのように生きるべきかを考えてもらう、というプロセスが必要である、ということでもあります。もちろん、(それが根本的な問いからではなく、おそらく世俗での成功のための打算からではあっても)それらの準備がなされている小中高生もいます。その子達にはただ「正しい方法」を教えるだけでよいのでしょう。そしてそれはある意味、とても楽な仕事です。ただ一方で、それは「正しい方法」を自身の願望として求めている子たちにそれを提供している、というだけであるのであれば、あまり大した「仕事」ができていないとも言えるのだと思います(もちろん、間違った方向性を教えるよりは意味のあることですが!)。彼ら彼女らは最短ルートをこちらが示さなくても、ある程度の成功ができるであろうからです。

一方で、そのように外側からの動機しかなかった子たちが、自身の内側からの動機を持てるようになって努力をするようになり、そうなれば当然「正しい方法」にも関心をもっては自分から方法を追い求めては努力するようになるとき、僕は教育の可能性を感じます。もちろん、どのような子に対してもそれを(やろうとしているとはいえ)できてはいないというこの状況は非常に情けないものではあるのですが、何とか諦めずに取り組んでいきたいと思います。

分析的に見る力を鍛えていくことは、受験勉強だけでなく、自身の人生を肥大化した自意識のまどろみのうちに終わらせる、という責任放棄を一人一人に許さないことにもなっていく、とも信じて、ですね。

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してほしい教育と必要な教育の違いについて。

感染者数だけでなく陽性率はむしろ現在のほうが4月よりもはるかにまずい状態ではあるわけですが、緊急事態宣言が出されないままであるので、塾への体験入塾の問い合わせは多いところです。

嚮心塾の体験入塾はちょっと変わっていて、こちらは体験入塾であったとしても、あまり「良い顔」をしません。知的好奇心を刺激するような素晴らしい教え方!的なものがないままに、その子のレベルに合わせて入塾したら進めるであろう教材を進めていき、その中で必要なことだけを教えます。それで通いたいと思ってくれれば通ってくれれば良いですし、もっと面白い授業のあるところに行きたい、と思うのであれば通ってもらわなくてよい、と思っています。結局勉強をしていくのは受験生本人である以上、どれだけ自分自身で自学自習をしたかこそがその受験生の学力を作るものです。そのやり方をどこまでも改善していくことにはこちらでいくらでも力を貸していくとして、「おもしろい!」というエンターテイメント性を求めているのであれば、予備校に行ってお客さんとして楽しませてもらえばよいでしょう。

というのが基本的なスタンスとはしているのですが、それはたとえばそもそも勉強に取り組む意欲のない子たちを排除してしまうことにもなってしまうかもしれません。そこには常に悩みながら教えています。

ただ、一つだけ譲れないのは「こういうことをしてほしい!」という生徒のリクエストに答えることはあまり意味がないと考えているということです。なぜなら、その子にとって本当に必要なものを、その子自身が理解できているわけがない、と思っているからです。もちろん、これもピンキリで、今までにさんざん悩んできたからこそ自分にとって必要なものを必死に探してきていて、自分に必要なものを求めているという状態に近づいている受験生、というのはたしかにいます。しかし、これは非常にレアケースでして、ほとんどの子たちは自分に必要なものと自分が求めているものとに乖離があるからこそ、勉強ができないことに悩んでいるケースが多いと思っています。

それに対してこちらでできることは、「君の今の状態なら、これが必要だと思うよ!」という提案でしかありません。もちろん、それを生徒の機嫌をとっておきながら、徐々に求められていることの中に必要なものを混ぜていく、というようなやり方もすることもあるのですが、一方でわざと「これが必要だと思うよ!」しか体験授業ではやらない場合もあります。

こちらは、その子が「自分の感じる違和感」に対して疑いをもつことができるか、という部分を観察しながらその微調整をしています。その子が求めているものではないものを提示したときに、そこで「なるほど。こういう提案をされて、これはあまり今まで考えたことがなかったけれども、これもありだな。」と思えるのか、それとも「こんなの、ないわー。」と拒絶するだけで終わるのか、ですね。その子の精神の柔軟性を見極めながら、こちらとしては少しずつ押し広げていこうとするとしても、やはり根本に自らの感覚を疑う姿勢がないのであれば、一緒にやっていくことはできません。

ただ、この「精神の柔軟性」は一方では資質によるとも思うのですが、それよりはむしろ環境というか、要は「自分がこのままでは通用しない!」という危機感があるかないかが結局精神の柔軟性を準備するのでは、と思っています。危機感のない子は、非常に頑なであることが多いです。そのように世界を狭めては、うまくいかないままになってしまうことになるのでしょう。

そのような子たちに対して、こちらがどのように手を差し伸べることができるのか。一方で、嘘をついてまで塾に通ってもらってはその頑な精神を押し広げるチャンスを得たとしても、そのような不正な入り口を通っての出会いからの取り組みが結局自分の感覚を疑いえない子達に届きうるのか。そういった諸々を試行錯誤しながら、悩み続けていきたいと思います。

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勉強時間を増やすためのいくつかの方法。

さて、前回「『効率良い方法教えて!』とか四の五の言ってないで、(自発的な)勉強時間を増やせ!」という話を書きました。そのアドバイスは正しいとして、勉強時間を増やすをどう実現するかが難しいのもまた事実です。そのためにどうしたらよいのか!というのをざっくり書いてみましょう。

①科目間の勉強のバランスを気にしない。
おいおい。「科目間の勉強のバランスこそが受験では一番大切だ!」って言ってる普段の主張と矛盾するじゃないか、というツッコミをいただくかもしれません。もちろん、科目間の勉強のバランスは受験勉強において、一番大切です。しかし、それを考えるのはもっと後、まずは長い時間勉強する習慣がついてからで十分です。

そもそも勉強時間をあまり長く取る習慣がない子にとっては、まずは自分にとってハードルの低い勉強から自発的な勉強時間を作っていくことが大切です。嫌なことを、嫌なものからやるのは、ハードルが高すぎて、必ず挫折します。まずは、自分にとってやりやすい教科から始めて、自発的な勉強習慣を作りましょう!英語が得意な子なら英語から、数学が得意な子なら数学から、ですね。英数国が受験勉強では早めに鍛えておくべきなので、この「勉強時間を長くしていくためにする、好きな勉強」はできれば英数国のどれかから選べれば良いでしょうが、それがなければ社会や理科でも大丈夫です!まずは「(テスト前だから、という強制性、他者からのリクエストではなく)自発的に勉強時間を作ること」を好きな勉強から始めるのがよいです。それができていけば、それをだんだん長く、とっていきます。

好きな科目について自発的に勉強時間を長くとることが習慣として根付いてくれば、今度は科目間のバランスを考えていきましょう。しかし、これも「国公立大学だと英数国理社全部あるから、全部やらなきゃ!」といりません。理系なら英数理、文系なら英国社ですが、理科や社会は何なら後回しでも大丈夫です。

この、科目を絞るやり方には、勉強時間を長くすることへの心理的ハードルを下げるだけでなく、そもそも一つの教科についてやり込む方が、自分が勉強したことの成果が目に見えやすくなる、という理由があります。たとえばバランス良く英数国理社をやったって、成績なんかあがりませんし、実力の上昇を自分で感じることは不可能でしょう。そうすれば、当然「せっかく勉強時間を増やしたのに!」と落ち込んで、勉強時間を増やすことを断念してしまいます。それがたとえば英語だけ徹底的にやり込む、とかすれば、英語の力がついていくことは日々の授業の中でも感じることができます。そのように「成長」を感じられれば感じられるほどに、自発的に勉強時間をとることへの抵抗感が減っていき、「自分のために必要なこと」と思えるようになっていきます。

また、科目を絞ると一つの教科についての勉強方法を試行錯誤していくこともできます。そこで、自分がどのようにすれば身につくのかを学べれば学べるほどに、それは他の教科を勉強するときにも使えるノウハウとなっていきます。逆に最初から「バランス良く」勉強することは、学習効果が見えにくく、学習方法のノウハウも蓄積されにくく、そして苦手な教科をやらざるを得ないことへの心理的ハードルが高いがゆえに継続しにくい、と最悪です。静止摩擦力の方が動摩擦力より大きいのは、人間の精神においても同じであるので、動き始めようとするときに完璧主義をとってしまわないことが大切であると言えます。

②毎日、勉強時間・勉強内容・進捗状況の記録をつける。

これはレコーディングダイエットとかと同じですね。記録として形にすることで、モチベーションが上がります。少なくとも、自分の努力が「学力」という形で目に見えるようになる前であっても、目の前に勉強記録として残り、しかもその記録の中で勉強時間を伸ばしていければ、勉強へのモチベーションを保つツールとなります。

さらに、書き溜めた記録を見返す時間を作ることで、自分が勉強する際に、どのような部分には時間がかかってしまってあまり進まないのか、どのような部分は逆に効率よく進めていけるのかについて考えていく素材にもできます。これもとても大切で、学校のテストや小テストや課題といった「やらされる勉強」には高校生はみなウンザリしてしまっているので、自分の勉強がどのような時間・効率であるのかについては見ようとしない、という癖がついてしまっています(だから、課題や小テストは本当は最低限の最低限に減らすべきなのですが…。)。人間というのは多くのことをリクエストされればされるほどに、その多くのことをいちいち感じたり考えたりしていくと、自分がもたなくなるので、それについては感じたり考えたり、ということをしないようになっていきます。ほとんどの受験生は自発的な勉強を始める前には、そのように「勉強は(テストとかのために)するけど、自分の勉強がどうなっているかについては何も考えない」状態にさせられてしまっていることが多いのです。まあ、課題や小テストで高校生を拘束すれば力がつくと思い込んでいる学校がダメなわけですが。しかし、そのような勉強方法のまま、時間や量だけを増やしても必ず成長には限界があります。だからこそ、勉強内容を吟味する、すなわち「味わう」ことを受験生の中に回復させていく必要があります。味わえば味わうほどに、改善の仕方について考えるようになるからです。このように勉強記録は、勉強時間を増やすためだけでなく、勉強の質を高めるためにもとても大切なことです。

できればこうした記録は、自分で見返すだけではなく、誰かに報告したり見てもらうと緊張感を持って勉強していくことができるのですが…。ここは難しいですね。客観的に判断できる大人がなかなかいません。「これしか勉強時間とってないのか!」と叱ってきそうな人に見せるのであれば、誰にも見せずに自分でつけていくだけでよいと思います。ここでも他人(親や教師)は最初から完璧主義で受験生にあれもこれも求めるものです。しかし、その完璧主義は、これからだんだんと形として結実させていこうとする受験生のやる気を根こそぎ殺してしまうものです。そのような雑音が入って、受験生本人のやる気がなくなってしまうのなら、誰にも見せない方が良いと思います。

③家で勉強しない。

おっと。ここで塾の宣伝をぶっこんできたか!とお思いの皆さん。半分正解です。ただ、この「家で勉強しない。」ということはとても大切なことです。僕も長いこと受験に関わり、特にこの自学自習スタイルの塾を開いてからの15年あまりは、一人一人の受験生の勉強状況をかなり細かく把握していくことを続けていますが、家で長時間勉強をするのは、どのように優秀で、勉強することが苦ではない受験生にとってもまた、非常に難しいことです。

もちろん、「私は家で勉強できるよ!」という受験生もいるとは思います。ただ、それはせいぜい5時間以内の勉強でしょう。受験勉強に本格的に取り組んでいくにしたがって、一日の勉強時間が10時間を超え、12時間とか14時間とかになっていくと、やはり家で長時間勉強するのは非常に難しくなってきます。また、時間は確保できるとしても、どうしても集中のクオリティは落ちます。

なぜそうなるかと言えば、家では行動の選択肢が多いからです。トイレに行く。シャワーを浴びる。おやつを食べる。ご飯を食べる。テレビを見る。パソコンを開く。タブレットを見る。スマホを見る。本や漫画を読む。部屋を片付ける。その他もろもろあるでしょう。選択肢が多ければ多いほどに、ふと集中が切れた瞬間に気になるものがでてきてしまい、それに時間をかけたり、時間をかけるまでは行かないとしても、再び勉強へと集中するのにエネルギーを必要とします。

特に、自発的な勉強時間がまだまだ短いうちには、勉強よりも他のことが気になってしまうものです。だからこそ、そういったものから物理的に距離を置き、そもそも触れることのできない空間で勉強をすることが大切です。そこを「意志が強ければそうした誘惑には負けないはずだ!」などという精神論で乗り切ろうとすれば、必ず失敗することになります。

人間は弱いのです。勉強を始めたばかりの受験生から見たら「神」のように見える毎日16時間勉強するような受験生もまた、そのように意識を逸らすものに満ちた空間で同じように勉強ができるか、と言えば決してそうではありません。「環境を整えなければできないなんて…」と親御さんや教師に言われるかもしれませんが、じゃあお前らはできるのか!ということですよね。実はどのように優秀な大人だってそのように誘惑の多い環境で集中して長時間取り組むことなどできません。

そのように自分の心の弱さをまずはしっかりと自覚することが大切です。そして、「そんなの気持ちがあればできるはず!」というすべてのアドバイスは、受験生自身のことを思って言ってくれているのではなく、精神論に依拠することで環境を整える努力を怠る自分たちの正当化にすぎない、と思いましょう(兵站を軽視しては精神論で乗り切ろうとして悲惨な目にあった旧日本軍のようですね!)。そして、勉強だけに集中し、スマホその他から距離を物理的において勉強できる空間を作っていくことが大切です。(そのためには嚮心塾に!ここで宣伝!)

「大人になってから、家で勉強できなかったら困るだろ。」という否定的な意見も親御さんからはよく聞くのですが、じゃあその親御さんは家で毎日長時間勉強してるのでしょうか!?とまで辛辣なことを言わないとしても、大人になったって、勉強をするためにはカフェとか何なら有料自習室とか、環境を整えればよいのです。ここでも敵はやはり完璧主義です。「家で長時間勉強できるのは一番良い」という理想にしがみついては、結局勉強できないままに無為な時間を重ねるのであれば、そこにはお金をかけてでも、一生自分が勉強し続けられる体制を確保したほうが絶対にプラスになります。

工夫として大きなものは、これくらいでしょうか。
日本人はどうも、「理想」にしがみついてはそれと心中して失敗すれば、少なくとも自分には責任がない、というように思考を放棄しがちです。それこそがしかし、無責任な態度でしかありません。理想の勉強場所、理想の勉強時間、理想の勉強方法を実現しようとして失敗を続けるよりは、弱くて汚くて情けない自分であることをそもそもの前提とし、そのような自分に嘆くことなく冷静に観察していった上で、そのようなダメな自分でもどのような形なら努力できるのか、という自分なりの方法を作っていこうと考えていくことが、自分の人生を実りあるものにする唯一の道であると思います。

また、今は超人的な努力をやすやすと継続しているように見えるスーパースターたち(イチローさんとか、将棋の羽生さんとか)も、実はそのように弱くて汚くて情けない自分をどのように野放しにしないで努力をしていくか、の工夫の積み重ねの結果として、今はそのように見えるだけであると思います。そのように理解しようとして自分もまた弱い自分をどうにかしていく、ということが彼らを理解しようとしていく、ということだとも思います。

もちろん、こうした研鑽の場として、嚮心塾にもぜひ通ってください!!(懇願)
色々ノウハウや考え方を長く書きましたが、「通わなくてもこれやればいいんでしょ!」と思ったそこのあなた!まだ甘い!
「本当に大切なことは、書き留めたりせずにアカデメイアの中でしかしゃべらない」byプラトンです!
この1000倍くらいは書けます!!

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「勉強の仕方がわからない」ときの、たった一つの解決策。

たまには教育の話題も書かないと、学習塾であることを忘れられてしまいます!!(僕もしばしば忘れがちです。)

さて、学習塾に親御さんから一番寄せられるリクエストとしては、「この子は効率のよい勉強の仕方がわかっていないから、それを教えてほしい!」というものです。しかし、このリクエストは往々にして、的を外していると思っています。もちろんたとえば、「この子は1日12時間必死に勉強しているのにも関わらず、全く力がつかないんだ!」というレアケースもあるのかもしれませんが、少なくとも僕はここまで25年間教えてきて、そのような生徒には出会ったことがありません。この親御さんからのリクエストの前提として「少なくともうちの子は人並くらいには勉強しているはずなのに、勉強ができない。ということは勉強のやり方がわかっていないのでは!」という発想があるのだとは思うのですが、これは根本的に誤っていると今のところ思っています。

こうしたリクエストに対し、こちらが効果的な解決策として提示するのは唯一つです。「勉強時間を増やしましょう!」ということですね。しかし、この提案をすると、嫌な顔をされることが多いのです。「いやいや、そこを短時間でうまくやる方法を身につけるために高い金を払ってるんだろ!」とまで露骨な態度をとる親御さんは少ないにせよ、まるでこちらが無策であるかのように感じられるのでしょう。そして、勉強に困っている子たち自身も、そもそも勉強があまり好きではないがために、「勉強時間を増やすべきだ!」という解決策に対しては親御さんだけでなく、本人達も反抗する理由があります。こうして、親御さんも子供もそれぞれ違う動機から同じ主張(「短時間で力のつくうまい勉強方法教えるのが塾だろ!」)をとることで、結果、唯一の解決策である「勉強時間を増やす」という根本的取り組みからは逃げ回り、そして勉強が苦手なままで終わっていく、という残念な結果になりがちです(ちなみに、このようなリクエストをするマインドからの派生形として「オリジナルのテキストを使っている学習塾は(その効果的な方法がが入ったテキストなので)効率のよい方法を教えてくれる!逆に市販の参考書を使っている学習塾はそうじゃない!」というものもあります。これも実情を知っている側からは苦笑するしかないものでして、たとえばほとんどの高校受験塾の「オリジナルテキスト」は、教科書販売会社で売っているような業務用テキストに自社のロゴをプリントしてあるだけの「オリジナル風」でしかありません。大学受験の塾や予備校になると、さすがにもうちょっと「オリジナルテキスト」率が上がるとは思いますが、それでも市販の参考書では賄えないほどの良質、あるいは高レベルのオリジナルテキストがあるところとなると、だいぶ少ないのではないかと思います。)。

しかし、子どもたちが「勉強の仕方がわからない」のには主に、「勉強を自発的にやっていない」ことと「そもそも勉強量が足りない」という2つの理由があります。前者はたとえ長い時間「勉強している」「机に向かっている」としても親御さんやその他の何らかの強制力によってそうしているだけであり、本人が勉強の内容について頭も心も働かせていない状態である、ということです。このような状況ではそもそも「長い時間勉強をしている」のではなく、「長い時間勉強をするフリをしている」だけであるので、それは力が付きません。また、後者の「そもそも勉強量が足りない」は、「他の子と同じくらいはやっている!」という理由から、このくらいの勉強時間で力がつかないのは方法が悪い!という結論になりがちなのですが、実際一人一人で同じレベルに達するまでに必要な勉強時間や量は本当に千差万別です。誰かと比べてどうこう、が言えるわけがないのですが、それを勉強を苦手な子とその親御さんほどに、「一般的な量や時間はやっている!」という主張をされます。

そして、この両者を解決する魔法(というには大変ですが)のような方法が、「勉強時間を長くする」なのです。

もちろん、誰かが強制して長くしても勉強しているフリが長くなるだけです。そこに関しては、その勉強が今どれくらい必要か、そもそも学校の勉強さえできていれば受験で通用するのか、あるいは勉強以外の他のことに割くべき時間を考えても受験勉強にある程度時間をかけることは後の人生においてかなりハイリターンであること、など、様々な見地から勉強をその子自身が取り組むモチベーションをもてるように、ということを話し合っていく必要があります。かなり早い段階から子どもたちは自分でいろいろ考えています。だからこそ、子どもたちが勉強に真剣に取り組めないのは、必ず理由のあることなので、子どもたちに無理やり(やる意味や目的を考えさせることなく)勉強をやらせ続けることができる、というのが親や教師の手抜きでしかありません。そこをしっかり話し合っていく必要があります。

といった諸々をしっかりと整えていっては勉強時間を長くしていけばいくほどに、子どもたちにとって「勉強して成果がでない」ということが、親や教師が自分について勝手に悩んでいる問題ではなく、「自分の問題」となります。そうなればなるほどに、自発的に様々な試行錯誤をするようになり、そしてどのように勉強していけば自分の力がつくかを模索する習慣ができてきます。その試行錯誤の習慣をつけていくためにも、「(自発的に)長い時間勉強をする」ことが大切です。もちろん、そこでより効果的な方法を子どもたちが自身だけで作っていけるかといえば、それは難しいでしょう。そこで初めて、教師が役割を果たす準備ができてくることになります。
(ここに関しては「短い時間でも試行錯誤させればいいじゃん!」という反論もあるでしょう。しかし、短い時間でも自分で試行錯誤をして最適な方法を見つけられる子、というのはそもそも勉強が得意な子です。長い時間勉強もしていないのに「勉強の仕方がわからないだけで、わかれば短時間の勉強で力がつくはずだ!」と考えている時点で、それは自分からは試行錯誤をあまりしていない、勉強が苦手な子であるのです)

ということを踏まえれば、「勉強の方法がわかっていない!」という状況に対する最善の提案は「(自発的な)勉強時間を増やす」ということです。さて、それをどうやってやっていくのか、という実践面での様々な工夫が極めて難しいわけですが、しかし、この難しいことを乗り越えずして力をつける、というのは根本的には何も解決になっていません。もちろん、「うちの塾ならうまい方法教えるんで、短時間の勉強で成績アップできますよ!!」という惹句はこの業界、溢れんばかりにあるわけですが、それはやはり(もちろんそれが必要なタイミングや状況はあるとしても)生徒たちにとって、長期的には本質的な解決に繋がらないことの方が多いと思っています。どこかでやはり、(対象は勉強でないとしても)「一つのことに長時間真剣に取り組む」ことが人生においては、必ず必要になるからです。だからこそ、「(自発的に)長い時間勉強できるようにする」というattitudeを塾生の中に、何とか鍛え、育んでいきたいと思っています。
(これには僕自身の苦い思いもあります。「長時間、自発的に努力できる」人間には、どのような「天才」も結局はかなわない、という厳然たる事実があるからです。それはたとえば将棋界での永瀬二冠と佐々木勇気七段の関係性を見たってそうでしょう(もちろん、佐々木さんもまたこの事実から奮起されて、今は努力をされているはずです)。自分や自分の子供が(さして努力を必要としない)「天才」であることは、望んでも得られないものであるだけでなく、そもそも望みが叶ったとしても非常に脆弱な強みでしかありません。そのような「天才性」のみで一生を逃げ切れるほどの天才など、まず存在しません。だからこそ、私達は努力をすることを覚えなければならないのです。その事実を子どもたちから隠して、お金を得るため、あるいは自身が面倒を避けるために、その場しのぎだけを伝えて、努力の必要性を伝えない全ての大人達を僕は軽蔑します。)

そして、そのように自発的な勉強時間を増やしていければいけるほどに、「質より量」ではなく、量が質に転化してくる、ということもまた感じています。

そのためにはやはり、家庭教師や予備校講師では難しく、長時間勉強できる場を作らねばならない、というのが僕が嚮心塾を始めたきっかけでした。このような形式の塾が、どこまで生き延びられるのかはわかりませんが、何とか細々と続けていけるように頑張っていきたいと思います。

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「調べる」ということ。

「教育の目的とは何か」という問いに対して「知識を増やす」「思考力を鍛える」などと色々な回答があると思います。
「生き抜く力をつける」などといった漠然とした回答もありました。

どれを答えても片手落ちなので、まあ諸々全部鍛えれば良いとは思うのですが、ただ一点だけに焦点を絞ってください、と言われたら、僕は「調べる、という習慣をつけること」だと答えたいと思います。

たとえば言葉の意味がわからなければ、辞書を引く。今ならgoogle検索で何でも調べることもできます。我々の小さい頃と比べて、「調べる」という行為ははるかにハードルが低く、かつ、膨大な情報量を得られるようになっているのにも関わらず、子どもたちは調べることがとても苦手です。

「子どもたちは調べる、ということが苦手だ」という主張には少し留保がいりますね。もちろん彼ら彼女らは調べる手段はもっているし、調べる方法も知っています。むしろ、我々大人以上に、それは知っているでしょう。ただ、「意味がわからない」言葉に出会ったときに、それを調べよう!と思わなくなってしまっている、と言ったらいいでしょうか。

逆に言えば、ネットでも、あまりにも情報量が多くなってしまっているのだと思います。また、テレビやyoutubeを見ればわかるように、一方的に流されるものに対して受け身で情報を浴びる機会が多くなってしまっています(この点では、youtubeはテレビと敵対するものではなく、テレビを補完するものです)。たくさんの情報が手軽にアクセスでき、それにさらされることで暇つぶしを覚えてしまった子たちにとって、そこに「わからないことは、調べる」という習慣さえついていれば、それらの動画も豊かな学習の契機になるのでしょうが、そうでなければむしろ「わからないものはわからないままでも何とかなる」という体験の強化になってしまいます。

これはもちろん、子どもたちだけの問題ではありません。受動的に入ってくる情報に慣らされた結果として、大人たちもまた、「調べる」ということが苦手になってしまいます。情報量が多すぎて、一つ一つひっかかっては調べていくことができなくなってしまっていると思います。

だからこそ、「テレビの見すぎはよくない!」とか「youtubeの見すぎはよくない!」という教条主義的なしつけ、というのはだいたいあまり意味がなくて(そもそも実効性があまりないですよね)、「テレビを見たら、わからなかった言葉は調べよう!」とか「youtubeを見たらわからなかった言葉は調べよう!」とかを徹底して、さらにはそれを「その方がより内容を楽しめるはず!」というように動機づけをしてあげるのがよいかもしれません。

嚮心塾でもこれは徹底しています。「調べてわかること」を丹念に教師が教える、というのはその生徒をどんどんダメにしていくことです。それが調べたらちゃんと本や参考書に載っていることを繰り返し伝えた上で、それをどのような本や参考書で調べたらよいか、それで調べても載っていないときにはどうしたらよいか、など「調べる」という行為への彼らのハードルを下げ、そのメリットを説き、その上で調べ方を鍛えていきます。さらには調べても載っていないことについて、初めて質問を受ける、ということを徹底していきます。このようにして、一人一人の子たちが「ちゃんと調べる前に聞くことは、そもそも恥ずかしいことだ!」というところまで達してくると、それは一生の宝となる学習姿勢を身につけることができている、ということになります。

もちろんそのような「調べる」方法と習慣が有用なのは、受験勉強に限りません。自身でしっかりと調べることなく、誰かの言っていることを鵜呑みにすることから、デマゴーグに騙されては雰囲気で投票する有権者は生まれます。あるいは、愚かな消費者もまた。大切なのは、自身の知っていること、わかっていることに必ず限界があるのだということを自覚した上で、それをどのように調べていくのか、という方法論やその習慣を鍛え上げていくことです。東大を出ようと理三に受かろうと、医師や弁護士や大学教授であろうと、そんなものが自分の無知さ、考えの足らなさを否定する根拠にはなりえません。だからこそ、人間は、死ぬ最後の瞬間まで、自分のわからないことを調べる姿勢を貫くしかないわけで、その「調べる」という習慣をそもそも持たない、あるいは持っていたけれどもとうに失ってしまった、という人こそがすべての元凶である、と思っています。

その「調べる」という習慣と方法とを鍛えていくために、今日も必死に教えていきたいと思います。

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ZOOM授業を振り返ってみて。「アフターコロナ」とは。

緊急事態宣言が明け、塾も平常通りになりつつあります。

この2ヶ月間、オンラインでZOOMによる指導も並行してやっていたわけなのですが、率直に言ってこれは嚮心塾の形態ではあまり意味がないなーと感じてしまいました。もちろん、オンライン指導全般が意味がないわけではなく、特に講義形式の授業であれば、講義動画を流しておいて、そのあとにZOOMでインタラクティブに質疑応答する、とか使いようによってはむしろ良いかと思います。また、嚮心塾でも一番困るパターンとして「通塾しなくなる。」という子たちにとってZOOMで教えることができるのはプラスの側面でもありました。

ただ、2ヶ月色々やってみた結論としては、「この形でしか塾を続けられないのなら、そもそも学習塾なんかやる意味は僕にはないな。」というのが結論でした。

そのように考えた、まずその1つ目の理由としては、生徒の情報量が圧倒的に少ない、ということです。ZOOMは基本的に、カメラに映る部分しか見えません。一人一人の子たちの勉強の仕方、勉強のサボり方、その他のしぐさなど様々な視覚情報を塾という場で勉強してもらっているときにはこちらでは観察しながら、その子達がどのような思考回路、心理状態で勉強へと取り組んでいるのかを見ています。そういった情報があまりにも画面の中だけでは少なすぎるだけでなく、同じアングルからにどうしてもなってしまうために、様々な角度から見るときには気付ける大切な情報も見落としてしまいがちです。(もちろん、自宅で勉強しているからこそ、塾では猫をかぶっていてちゃんとやっているふりをしている部分の化けの皮が剥がれて、家ではこれだけ集中していないのか、などとわかることもあったのはZOOMで指導したことの収穫です。しかし、これはやはり勉強へのモチベーションが低い子限定であり、勉強に取り組むところではそんなに問題のない子たちに対しては、単純に情報量が圧倒的に減る、ということにしかなりませんでした。)

2つ目の理由としては(これも1つめと根本的には同じなのですが)「雑談」や「会話」ができない、ということでした。ZOOMの場合、「雑談」をするにはブレイクアウトルームを作ってそこで話さなければなりません。全員に話しかければ雑談は単なる「ノイズ」になり、無視されることになるでしょう。かといって、ブレイクアウトルームを作って話される「雑談」はもはや、心を構えた状態で話される言葉なので、その中に彼ら彼女らの無防備さ故に露呈する思考回路や心理状態のヒントを得にくくなります。これらも普段の塾では塾生の勉強の邪魔をするような「雑談」をすることで、その「雑談」への反応の仕方をこちらで分析しては、指導に活かしているわけで、それができないのは極めて情報量が少なくなります。

また、会話ができない、というのは次のような理由です。たとえば塾で同じ場を共有して話す時、というのはA君に話し掛けてA君と会話をしているようで、実はその話の内容を隣りに座っているB君にも聞かせたい、という目論見で会話をするケースがほとんどです。この理由としては、様々であるのですが、基本的に人間というのは面と向かって注意されたことを直す、というのがプライドがあるためにどうしても苦手であるので、このように間接的な形で修正を促す、ということができると学びやすくなる、ということがあるからです。また、このようにA君に教えている内容をB君が聞けたり、B君に教えている内容をA君が聞けたり、ということが教室内の様々な部分で起きている時、そのような教室ではただ自分が聞きたいことを聞いているだけの授業よりも、学ぶ機会が圧倒的に増えていきます。このような「自分に話しかけられていない言葉も聞く」ということからの学びの相乗作用が、基本的に「一対一で話したいときだけにつなぎ、それ以外の場合はノイズになる」ZOOMでは難しいと思いました。(もちろん、これも教室のマイクをずっと入れっぱなしにして、一人ひとり教える、という手もあるのですが、面白いもので、これはかなり不快感を生徒たちが持つのですよね。。やはり「場を共有ししている」ということは、「自分にとって関係ないと思える話も聞く」という態度への強制力になるのだな、と改めて勉強になりました。)

主にはこの2つの理由から、ZOOMはどうしても通えない子への補完策以上にはなかなかなりにくいなあ、と思いました。なので、嚮心塾は改めて一つの空間で教え続けていくことに、こだわります。それを皆さんが怖がって潰れていくのであれば、それで良いとも思っています。こちらの目的は塾を続けることではなく、意味のある教育をすることであるからです。
誰にでもできるような、意味のない「教育」をしてまで、この塾を続けていきたいとは思いません。

その上で。「アフターコロナ」という言葉が喧伝されているのですが、僕は基本的に「アフターコロナだから、働き方を変えねばならない」という言説には胡散臭いものしかないと思います。もちろん、今までの働き方を見直すきっかけにすることは有意義でしょう。そもそも無意味な会議を長時間、一つの部屋に集まってやっているよりはオンラインで良くない?そもそも会議とかいらないんじゃない?という見直しは大切です。

しかし、それを徹底的に振り返ってみた上で、やはり「ここは代替できない。」「これはどうしても必要だ。」となったものを、無理に削っていって働き方を変えたとして、果たしてその働き方はこの社会にとって必要なものを切り捨ててはいなのでしょうか。感染症対策のために、社会の中で必要な働き方やあり方そのものまでも変えていくのだとして、それが多くの必要なものを切り捨てることになったとしたら、それはそのような社会で私達は生きていきたいのか、というまた別の問題を提起することになると思います。だからこそ、何が必要であるのか、何は必要ではないのかを見直す契機にするのはよいとして、「アフターコロナですべてを変えなくてはならない!」という主張が切り捨てては見殺しにしていくものについて、やはり敏感にならなければ「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまい、あとから後悔してもしきれないものになってしまうのではないかと思います。

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「地頭(じあたま)」とは何か。

受験勉強では、一通りのことを基本的なところから積み上げていくしかないわけで、ほとんどの「勉強しているのに力がつかない」という子たちは、その「勉強」の内容が自分の実力よりも圧倒的に高いレベルのものである、という失敗に陥っているだけです。そこを必要なステップを踏ませ、適切な教材やペースを設定していけば学力はみるみるうちについていきます。

しかし、です。このように適切なレベルの教材の選定、というのはある程度教えたことのある先生ならたやすくできることではあるのですが(というレベルの指導すら、ほとんどの高校や予備校では実現されていないことがとても問題なわけですが)、しかし、基本的なところから「一段ずつ」ステップを踏ませてあげているつもりでも、それでうまくいく子と行かない子とに分かれるのが勉強です。

もうちょっと精密な言い方をすると、それで「隙間なく」うまくいく子と、それである程度力は伸びるのだけれども、表面的な力しかつかない子との違いが出てきます。同じ教材を同じように周回してもなお、そのように理解度や定着率に差が出てくるそれを、「地頭(じあたま)の違い」などと教える側はつい思いがちです。

このような違いは能力の違いによるものではなく、まだ目に見えてはいない何らかの原因によるものだ、と、様々な子を教えてきた経験から僕は考えています。「努力しても、できない」と思われがちな子たちも、力をつけていくために必要な思考プロセスや学習習慣のうちの何かが欠落しているからこそ、努力をしても力がつかない状態にあるわけで、それを「地頭(じあたま)の違い」と言ってしまうのであれば、教育などやる意味がないと思っています。

だからこそ、嚮心塾での指導はちょっと特殊です。いわゆる「生徒のわからないことを教える」というのはあまりメインではありません(もちろん、教えてますが!)。それよりは、「(間違えた答を生徒が導き出したとして)どうしてそのように考えたのか。」を丹念に聞いていきます。その思考プロセスを徹底的に追うことで、彼ら彼女らが何は踏まえられていて、何は踏まえられていないかの思考の癖、というか傾向を把握しようとしていきます。それとともに、いわゆる「できる」受験生であっても、とんでもない基本的なことが抜けていることに気づくことも多々あります。当たり前です。人は自分の通ってきた道しかわからないわけですから。このようにして、そのような抜けがないかどうかを探していっては、見つけ次第埋めていく、ということをやっていきます。

ある意味、この塾でやっている作業というのは「地頭(じあたま)」と一般にはされているものをどこまでも分解、分析していく作業である、と思っています。ある生徒が何かをできないときに、それを決して「地頭」とは言わずに、何らかの原因によってそのような回路がつながっていかないことになっていないかを徹底的に探し、考え抜いていく、ということをしています。

このプロセスを経て、元々勉強が苦手だった子が力がついて難関大学・学部に合格する!という奇跡が起きるときもあります。もちろんこちらもそれを目指して日々努力をしているわけで、そのためにこそ徹底的に一人を観察・分析しているわけですが、しかし、この作業自体は受験に合格するためだけに必要なことではないと思っています。

「地(じ)」というのが「nativeな(生まれつきの)」という意味だとすれば、何が「地(じ)」であるのか、を探っていくというのは自分自身が何者であるのかを、自分自身が今までに身につけたものにidentifyしない、ということです。
18年かそこらの短い自分の人生の中ですら、「これが私だ!」「これが私の能力だ!」などとすでに自分の人生が既定路線であるかのように人間は振る舞います。しかし、その「地(じ)」が実はnativeなものではなく、後天的に身につけた習慣に過ぎず、それを対象として意識し、努力することでいくらでも改善できるものである、ということに気づけば気づくほどに、自分の人生が自由になっていきます。受験などはそのように何が「地(じ)」であるのかを疑い、切り分け、そして改善していくための練習でしかありません。

もちろん、人間は自由に耐えうるだけの心の強さを持ち得ないことも多いことからもわかるように、「自らの『地(じ)』なんて疑いたくない!それを疑うくらいなら、勉強なんかできないままでいい!」と思ってしまう子たちも実は多いです。今までの自分のidentityが見えなくなるのなら、勉強なんかできないままでいい、というその恐怖感はわかります。また、実際にその子の学力の向上を妨げているものは往々にして、その子にとって一番大切にしている何かであることが多いです。その本人にとっての「大切なもの」が現実とは食い違う方向へとその子を駆り立てていくがゆえに、同じ失敗を繰り返す、ということになっています。

もちろん、だからといって、その子が今まで一番大切にしてきたものを捨てろ!と強要することはできません。実際には、その大切にしてきたものは、その子にとって別の長所の根幹となっていることもまた多いからです。しかし、そのような大切なものがある部分においては得難い長所を作り上げてきたとともに、別の部分ではどうしようもない短所の原因となっていることも多いという事実を認識してもらい、その子の大切なものを変えようとせずに長所は活かした上で、しかしそれが当然のごとく招く限界についても理解し、準備をしてもらっていく、という作業を粘り強くしていかなければなりません。

愛国心であれ、その他の帰属感情であれ、その影響を脱し、それが自分にとってnativeであるがゆえに当たり前に組み込まれているものである状態を脱した上でそれでも愛せるのであれば、それは「愛」と呼ぶに値するものだとは思いますが、自身の惰性ゆえの疑いのなさを正当化するために「愛」を僭称することは単に成熟できていない態度であると思っています。だからこそ、自身の中での「地(じ)」を疑い、改善していく作業の一貫として、「地頭(じあたま)」とされるものに対して、一人一人の塾生が、徹底的に疑い、検証し、それを乗り越えていけるように僕自身もこれからも力を尽くしたいと思っています。

そしてそれはまた、自身に固有の形質を心から愛することができるようになるためにも、必要なプロセスであると思っています。

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見る、ということ。

教育に携わる人間にとって、名作『暗殺教室』は必読書です。僕自身も繰り返し読み、子どもたちにも読ませてきました。
その中で「見る」ということについて描かれた部分があります。

(ここからはネタバレなので読んでない方はふわっと飛ばしてください!)

具体的には主人公が自分の弟子に対して、その部分的な能力の評価のみに終始しては弟子の人間全体を見ようとしてこなかった自分の浅はかさゆえに弟子がねじまがってしまったことを、自分が人間全体を見られることの尊さを感じていく中で後悔し、自身が再び一人一人の「人間全体」を見よう!と決意することが彼の動機であった、ということがわかります。

(ネタバレ終了)

教育において、「見る」ということは全ての基本であり、そして究極の奥義でもあります。「指導力」という無形の力を測るのは難しいとして、その教師がどれだけ指導力があるかを測る指標は、その教師がどれだけ生徒たちのことをしっかりと見ているか、よく観察しているか、だと思います。

このように書くとよく生じる誤解として、「生徒たちの一挙手一投足に細かく口うるさい先生が良い先生である」というものがあります。しかし、これは往々にして、「よく見ていない」先生の特徴であり、このように口うるさい先生は生徒の人間全体を理解することにはあまり興味がなく、自分の価値基準に子どもたちを従わせることに関心がある人が多いと思います。この場合、子どもたちの「部分」だけを見て、そしてそれを自分の理想という鋳型にあてはめようとしているからこそ、「口うるさい」指導になりがちです。

「よく見」ていれば、決して口うるさくはできないものです。なぜなら生徒が様々な失敗や問題を起こした時、あるいはうまくいっていないなにかに直面した時、そこに対してready-madeのアドバイスをすることが、かえって彼ら彼女らのpersonalityを毀損したり邪魔したりするものになることを恐れるからです。
しっかりと観察し続け、それが教える側の自分の好き嫌いからではなく、やはりその子のためにはならないと確信をもてるようになり、しかしその子がそのような悪い習慣を形成してくるまでには、その子なりの試行錯誤があるわけで、そのような試行錯誤から生じているその子の長所を損なわないようにして、どのようにアドバイスをしていくか。それを考え続けることになります。

だからこそ、「よく見る」ということは、「逡巡し続ける」ということです。

自身の正しさに疑いのない人間には、教える資格はありません。
教師が偽善を語ることは、仕方のないことです。(もちろん宮沢賢治の糾弾も正しいのですが)全ての人間が自らが正しくなければ善について語れないのだとしたら、人類の誰も善については語れない、ということになってしまいます。だからこそ教師は、自らがろくでもない人間であることは当然の前提として、それでも子どもたちには善を語らねばならない。

しかし、一方でその「善を語らねばならない」が、簡単に機械化・自動化してはその大義名分のためにチェックが効かなくなり、暴力的な抑圧に加担している自分に気づけないのが私達人間の愚かしさでもあります。

生徒をよく見る。そして、それに対して自分の好き嫌いではなく、彼ら彼女らにとって何が必要かを考える。

といった一連の過程は、生徒にとって必要であるだけでなく、教師自身にとってもまた自分の言葉が嘘や自己満足にならないためにも必要であるのです。

だからこそ、嚮心塾では、とにかく生徒をよく見る(観察する)ことに時間を充てています。業務の9割9分はそれである、と言ってもよいでしょう。徹底的に観察し、彼ら彼女らの思考回路や心理状態、そこに至るまでの人生を想像し、そしてその上でこちらがかけられるかけるべき言葉を探していく。それは学習に関してがメインですが、それだけではありません。

その「見る」ということがたとえばZOOMの指導とかではどうしてもうまくいきません。現場で空間を共有して見ている時と情報量が違いすぎて、細やかなところまでが観察できないのですね。もちろん質問に答える、相談に乗る、メールのやりとりをする、答案の添削をする、などのやりとりはできるわけで、そうしたコミュニケーションから思考回路や心理状態をある程度は把握できます。
しかし、本当に大切なのは、そのように生徒の意識の俎上に載っているものではなく、無意識に現れるもの、コミュニケーションによらないものを教師が把握することであるので、そこはこのオンライン教育の普及によっては、失われるしかないと思っています。

もちろん「学力を伸ばす」ために見る、というのは相手を「人間全体として見る」ということとはときに矛盾するものでもあるでしょう。ただ一方で相手を「人間全体として見る」ことを抜きにして「学力を伸ばす」というのには、僕はやはり限界があるかな、とも思っています。卑近な例で言えば、自分の担当教科を伸ばすことだけしか考えていなくて、生徒の受験全体を考えられない教師は、生徒が学力を伸ばすためには有害です。あるいは生徒の受験を成功させることしか考えていなくて、その後の生徒の人生を想像できていない教師は、実は生徒の受験の成功にすら、あまり貢献できはしないのです。

部分は全体と繋がっているだけではなく、全体の一つの現れでもある以上、部分を理解するためには全体を見ようとしていく努力が欠かせないのです。「困難を分割する」ことがデカルト以来の問題解決の伝統であり、我々が立脚してきた価値観であるとしても、分割された困難であることが、もとは一つの問題であったことを忘れ去るために使われるのであれば、それはもはや問題自体に取り組むことを放棄した態度であると言えるでしょう。「学習塾に人間性の涵養なんか求めていない。成績さえ上げてくれればいい!」というのはよくあるリクエストですが、そもそもその子が様々な機会に学ぶことができていないのはその子の人間性に深く根付いたものがある、というときに「人間性の涵養などどうでもいいから、成績を上げろ!」という主張がいかに的外れか、ですよね。そもそも、その2つが繋がっていない、と考える事自体が僕には傲慢で浅薄な人間観であると思います。(といっても、「人間性の涵養!」といってお説教だけするのもまた違いますが!)

ともあれ、今日もまた、徹底的に生徒の人間全体を見続けようともがき続けたいと思います。

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