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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

webあかしさんの連載

が続いているのですが、今回の回はだいぶ嚮心塾の理念の核心部分を書けたのかな、と思いますので、こちらにも転載します。web連載では書きもらしこともまたブログで書きます!

https://webmedia.akashi.co.jp/posts/7999

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病人を診ずして病気を診よ。

一年が終わり、新年度に入っています。いくつかの嬉しい合格もあったものの、全体としてはかなり悔しい結果も多かった、というのが昨年度でした。その失敗を振り返ることからしか、次の一年をよりよく教えることはできません。ですので、その反省を考察していこうと思います。

教育というのはキリのないものです。各科目を教える、さらにはその各教科のバランスや受験戦略を考える、さらにはどうしても様々なことで不安定にゆらぐ受験生の精神面のサポートをする、さらにはその中で大きな不安を生み出す原因となるような家族間やその他の諸問題に関しては、こちらから対処法を考えて提案したり、直接(受験生本人はもちろん、受験生以外の)相談に乗ったり、などなど多岐にわたります。嚮心塾は「何もかもを担う!」というつもりで必要なことのすべてを一人一人に対してやってきたつもりですし、やっていくつもりでした。もちろんそれらの中には僕の力不足ゆえに力になれない、何なら悪化してしまうものもあったとも思いますが、しかしこちらが「それは塾の業務ではないので」と言って断ることは一つもしたことがありません。

ときには三角関係の恋愛の相談に乗り、ときには限定販売のイフェクタの販売サイトを毎日チェックし、塾生とストーカー気味になっているその彼氏と僕で3人で話し合ったり、学費がどうにも厳しい子のために時給が良く負担の少ないながら勉強時間もとれるバイトを探したり、と本当に何でもやってきました。いわゆる教育の理想が「全人的教育」であり、そのために力を尽くすことが教育の理想であるのだとしたら、それができているかどうか、力になれたのかどうかはわからないとして、本当に何でもやってきた、ということには自負があります。

しかし、どうもこれはよくないな、ということを昨年度を振り返って痛感させられました。特に昨年多かったのですが、受験勉強以外の理由で精神的に参っていて、とても悲観的になっている子を一生懸命励ましたり相談に乗ったり、という状況が続いてしまうと、その子にとって必要な勉強で厳しいことを指摘したくてもしにくくなってしまう、ということがありました。様々な状況を鑑みれば、「もう少し本人に精神的な余裕が出てから現実の否定的側面を伝達しなくては。。」と待たざるを得ない、という判断になりました。

励ます役割を担う方はわかると思うのですが、誰かを励ますときに現実にかすりもしないような肯定的な言葉を投げかけても相手の心には届きません。現実には肯定的側面も否定的側面もあるわけですが、その現実の否定的側面ばかりを見て自分を傷つけてしまっている相手に対して、肯定的側面にも目を向けられるように、という認知行動療法のようなアプローチをとることが必要となります。受験指導の場合、どんな状況の受験生にも置かれている現実の中で肯定的側面と否定的側面があるわけですが、精神的に参っている場合には、その肯定的側面を伝えては現実を少しでもフラットに見られるように、という促しをします。

一方で、このアプローチはとても危険です。絶望に打ちひしがれているときには、このようなサポートを通じて本人に心の余裕を作ることで、再び自分に足りていないものに向き合う余力を作るきっかけにしていかねばならないわけですが、なかなかメンタル面で前向きになっていけないときに、肯定的側面を過大に伝え続けなければならない、ということになります。すると、それが現実の一端を担っていればいるほど、現実のありようを受験生本人が正確に認識することを妨げることになっていってしまいます。

勉強だけのアドバイスができるのなら、まだ事実を伝えることにためらいをもたなくてすみます。受験勉強であれば、できている部分とできていない部分があるのは当たり前である以上、そのような話がしやすいからです。しかし、人間関係、家族関係、金銭の問題、その他諸々で受験以外に苦しんでいる子であればあるほど、何らかの部分で常にとてもしんどい思いをしている状態をこちらが把握してしまっていることが、勉強に関してまだ足りていないことがあるという事実を指摘しにくくしていきます。今年の場合は、そのことでその子の勉強の中で見えている弱点を指摘するタイミングがどうしても後手後手になったというか、「このタイミングで勉強面で改善すべき事実を伝えても今のこの子では受け入れられる精神状態ではないな。」と諸々の状況を鑑みてこちらがブレーキを踏むケースが多く、それが受験勉強の遅れに大きく繋がってしまったと思います。

結果として励ます機会が多くなり、足りていない勉強に関する事実に関しては指摘しきれないままに受験を迎えるので、当然「問題が難化しようと易化しようとどちらにも対応できる」という万全の状態にまでは仕上がらず、「こういうケースなら受かるが、こちらのケースではかなり厳しい」というような鍛え方にならざるを得ません。そのようにして、「励ます」「何でも相談に乗る」という全人的関係、全人的教育という一見理想的関係に見えるものに近づいた生徒ほど合格できない、という失敗に陥ってしまったと思っています。

さて、この失敗を踏まえれば、教師がやるべきことはむしろそうした生徒一人一人の個人的事情など聞かず、勉強以外の何も斟酌せずに、ただ「君の今の学力はまだこれが足りない」ということを淡々と指摘したほうがよい、ということにならないでしょうか。生徒の家族関係や友人関係、その他諸々を聞いてしまえばそれを判断材料にしてしまえば、勉強に関してのアドバイスに手心を加えることになってしまうので、一切聞かないようにしてただ学習面の事実をもってそれを指摘する、どんな不都合な事実も事実として淡々と伝える、ということが一番良いように思えます。

医師の世界では「全人的教育」に近い概念として、「病気を診ずして病人を診よ」という言葉があるそうです。これももちろん理想としては素晴らしいし、僕も心から賛成です。ただ、現実問題として、「病人」を診ようとしたせいで、病気を診れなくなるケースもあるのでは?とも想像されます。たとえば「後医は名医」という言葉があります。これは初めにかかったお医者さんでは正確な診断がつかなかったものの、あとから見たお医者さんでは正確な診断がつくことから、ついつい後からかかるお医者さんを我々素人は「名医だ!」と思いがちである、という話で、実際には病気が進めばより診断が確定しやすくなるだけのことである、という意味だそうです。ただ、この言葉を別の観点から解釈すると、「前医」はだいたいかかりつけ医でしょうし、「後医」は他のお医者さんでしょうから、普段から診ているかかりつけのお医者さんにはその患者さんに対する周辺情報が多すぎて、予断がどうしても入ってしまい、ある徴候の示す可能性のうちいくつかをここまで継続して診てきた文脈のせいでかえって排除してしまっている、という理由もあるのかもしれません。だとすると、病人ではなく、病気そのものを診ようとすることが、実は病人のためにもなるのかもしれません(もちろん僕の素人意見ですが)。

人間がいかに眼の前の現実をそのまま感じることができずに、脳内のイメージで勝手に補完して補ってしまっているか、はたとえば屈折に関する目の錯覚とかの例でもわかるわけです。「光は直進するもの」という思い込みのせいで、屈折していても直進しているかのように捉えてしまいます。ラッセルの言うように、人間が自分の脳内のことしか見れていないのだとしたら、感覚や感情に捻じ曲げられない事実を摘示することで脳の外界を伝える以上に、効果的な教育などあるのでしょうか。そのようにすら思えてきてしまいます。

なので、嚮心塾では今年から、勉強以外の相談には乗りません。家庭での問題も友人の問題も、その他どんなに深く悩む問題でも自分で何とかしてください。こちらがそれに付き合えば付き合うほど、君の合格率が下がってしまうので。ただ君の学力をどう上げるかだけに、僕を専念させてください。てめえの悩みなんか知らねえんだよ!どうせ三島(由紀夫)が太宰(治)に言ってたみたいに「乾布摩擦すればなくなる程度の悩み」だろ!グダグダ言ってないで勉強しろ!

とやりたいところであるのですが、それもまた不可能なことです。そのようにすれば、家庭環境やその他諸々に何も悩むこともなくただ自分の受験勉強に集中できる子だけが勉強できる塾になってしまうからです。それでは中1から高3まで大学受験のためだけに通う塾と何も変わらなくなるでしょう。僕に求められるのは、そのように様々な悩みの相談に乗り、全人的に相手を受け止めつつも、しかし、学力を鍛えるためにはタイミングを見計らって、事実を直視してもらうことを生徒を信じてためらわない(しかし、何でも事実を伝えればいいという訳では無い)というような、より困難な取り組みであるのでしょう。

大ファンであり、僕の終生の目標の一つである、劇団どくんごの役者さんとお話しさせていただいたときに、「気持ちを伝えるという芝居は簡単だ。しかし、事実を伝える、という芝居の中に感情が立ち上がってくるときにこそ、深い感動が生まれる。だからこそ、叙情詩ではなく叙事詩に芝居はなっていなければならない」という、とても深い話をしていただいて感銘を受けたことがあります。

この一年は、生徒たちの感情をケアするだけでなく、彼らの中に圧倒的な学力、ひいては志望校の合格という事実を残すことに繋がったとはいえません。事実を変えることにしか意味がないのだとしたら、この一年間は失敗だったのでしょう。しかし、僕自身がその失敗という事実をまずは直視し、その失敗を繰り返さないようにすることが、事実を大切にする、ということです。

もちろん、そのように様々な相談に乗って精神的にサポートした子からは感謝されることも多いです。ただ、僕は生徒たちに感謝されるために塾をやっているわけではありませんし、誰が感謝してくれようと、誰が慕ってくれようと、それにあまり興味がありません。そんな感謝こそ、乾布摩擦すればなくなる(?)程度の感情でしかないでしょう。徹底的に一人一人を鍛えて、この世界の知の総量を増やしたいだけです。通ってくれる生徒一人一人が少しでも自分の人生を切り開くだけの圧倒的な力をつけられるかどうか、そこにしか関心がありません。

そのために包括的なサポートと徹底的なトレーニングの二律背反という難題について、今年も一人一人の最適解を探してもがき苦しんでいこうと思います。


そして、劇団どくんごと言えば!!!!そう、今年は劇団どくんごの5年ぶり、そして40年の歴史をもつ劇団としてのラストツアーがなんと東京でもあります!!!!!場所は都立小金井公園です。

6月20日・21日・23日・24日の4日間、19時開場、19時開演です。
お申し込みは劇団ホームページだけでなく、塾(kyoushinjuku2005@gmail.com)に
メールいただいても大丈夫です。

どくんごの芝居が見れるのは今年が最後です。その衝撃をどうかお見逃しなく!!!(告知?)

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Webあかしさんで連載を始めました!

ご無沙汰してしまっていて、すみません。気がついたら1月が終わろうとしており、受験直前期でバタバタとしております。

ということですっかり告知が遅れてしまったのですが、明石書店さんのウェブサイト、Webあかしさんで、卒塾生の向坂くじらさんとともに連載を始めました!

いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの向坂さんにフックアップしていただいて書く機会をいただきました。せっかくいただいた機会だからこそ、ここまで教えてきた中での現段階における教育観というものを「自学自習」というキーワードに沿って、できる限り言語化していきたいと思っています。

それとともに、学校と勉強を切り離す手伝いをしたい、とも思っています。学校に通わなくても勉強はできます。むしろ、学校が勉強の邪魔になっているケースの方が多いのでは、とすら最近は思います。

頭の固い物量作戦のような受験勉強のやり方(やらせ方)にどうしても馴染めず、自分には受験は無理かな。。とあきらめさせられてしまいそうになっている子達に、自学自習という武器を配りたい。その思いで、諸々書いています。

またご笑読いただけましたら大変ありがたいです!

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なぜ定期試験の勉強は受験勉強には繋がらないのか。

のっけから、物議を醸すタイトルで申し訳ないです。なぜこれが物議を醸すかというと、「学校の先生によく言われるセリフ」ベスト1!は恐らく「定期試験を頑張ってきた子は受験も強い!」「定期試験の勉強は受験勉強の基礎!」であるからです。しかし、教えながら最近わかってきたのは、そもそも定期試験の勉強と受験勉強とは全く別の種目である、ということです。方向性の全く違う2つの努力がそのまま接続できるはずがない、ということに世の中の先生方や中高生も保護者の方も、あまりに無頓着であるので、とても危機感を抱いています。

具体的にどのように方向性が違うのか。定期試験というのは、狭い範囲の内容をチェックするためのテストです。なので、理解をしていなくても大体は繰り返し解いていればなんとなく答を覚えてしまいます。つまり、忘れることが前提にあるテストではなく、短期記憶で詰め込んだものを吐き出すことさえできてしまえば、高得点が取れてしまうものなのです(これは小テストも同じです)。

もちろん、それすらもやらないorできないで定期試験の成績が悪い子もいます。しかし、その子達に「定期試験の勉強を頑張りなさい!」と言ったところで、このような短期記憶をひたすら詰め込んで乗り切るだけの勉強をする以外の選択肢はとれません。つまり、そこで仮に定期試験の成績が悪い子たちが定期試験の成績が良くなったところで、その子達の受験勉強の実力には何一つ繋がっていきません。だとすると、定期試験の成績で生徒を叱り、少しでもそれを上げさせようとする先生方のすべての努力は、あまり方向性としては正しくない、ということになってしまっているのではないでしょうか。(ちなみに小テストが多い学校を「面倒見が良い」と勘違いしやすいのですが、小テストや定期試験はこのように「理解していなくても短期記憶でテストを乗り切ることが勉強なのだ」という極めてミスリーディングなメッセージを中高生に伝えやすい、危険なツールだと思います。その危険性について実施する側は自覚的でなければなりません。)

それに対して、受験勉強というのは範囲があまりにも広いので、基本的には忘れることを前提としたテストです。だからこそ、忘れていても思い出せるように、すなわち理解していて導出したり説明したりできることが不可欠になります。もちろん、すべてを導出できるような試験時間はないので、覚えること、練習して習熟することもとても大切です。しかし、それらの記憶もあくまで理解していて自分で再現できることが前提であり、それがしっかりとできた上で、どれだけ覚えられ瞬時に出せるか、という勝負になってきます。

つまり、定期試験の勉強を短期記憶だけで乗り越えたとしても、その積み重ねは決して受験勉強には繋がりません。なぜなら、それは少し時間が経てば忘れるだけでなく、忘れたら思い出すツールを一つも持たないような知識であるからです。すると、「定期試験の勉強を頑張れば、それが受験勉強に繋がる!」という方向づけはミスリーディングであることになります。実際には、「受験勉強に使えるように隅々まで自分で説明できるように理解を固めておくと、それは定期試験の勉強だけではなく受験勉強にも使える」というのが正しい方向づけであると思います。

「では、そのように定期試験の勉強をすればいいはず!それなら定期試験の勉強も受験に役立つから、やっぱりこの記事のタイトル自体がミスリード!」と思うかもしれません。しかし、定期試験の勉強は、基本的にはこのようにしっかりと理解して説明できるようにしていくことを構造的に阻害するような要素があります。それ故、定期試験で良い成績を取ろうとすると、このような「理解」を置き去りにしなければ到底間に合わなくなる、というのが多くの中高生が直面している現状です。

そのしっかりと理解することを阻害する1つ目の理由は科目数があまりにも多いこと、2つ目にはプリントや問題集、宿題があまりにも多いことです。科目数がとても多い定期試験では、当然ながら入試に必要な科目とそうではない科目があります。その中で

「すべての教科を頑張ってしっかりと点数をとる。しかも、それを短期記憶だけで点数を取るのではなく、主要教科についてはしっかりと理解した上で受験勉強の基礎となる勉強の仕方をしていく」

という勉強法で勉強することができるのは、端的に言えば極めて優秀なごく一部の子たちだけです。実際には、主要教科(英数国理社)全てでそれができることはまずありえず、受験に必要な科目、中でも英数だけに絞って理解をする、ということが殆どの中高生にとってはその状況の中での最善の選択になってきます。しかし、このやり方、即ち「定期試験の中でしっかり理解して勉強しなければならない科目と捨てていい科目を作る」ということ自体が学校でもご家庭でも理解を得にくいでしょう。

副教科なんて、自分に興味があるもの以外は進級できればよいのです。理科社会もそんなに頑張ってやる必要はありません。それなのに中高一貫校の中学生が「理科や社会の点数が悪いから、それを頑張らないと!」と先生や親御さんからのプレッシャーを真に受けて、悩んでいる姿もよく見受けられます。しかし、(個人差はあるにせよ)理科や社会など大学受験に向けても早くて高2から、普通は高3から始めればそれなりにできる科目です(もちろんどこを目指すかや理社の必要な科目数によって到達度が変わるので、それによって始めるべき時期も変わってきます)。

むしろ英語や数学が、ただ短期記憶だけで乗り切っていて定期試験の点数が高かったとしても、しっかりとした理解が伴わなければそれはすぐに抜けていくかりそめの知識でしかなく、受験では全く通用しません。だからこそ、「英数は学校の成績が良いのに、理社の成績が悪い。だから、理社を頑張って点数を上げたい!」というような、定期試験をベースにした目標設定の仕方自体がもし英数の理解度が低い場合には大きく間違っていることになります。このような誤った教訓を引き出しやすいのは、やはり「定期試験を頑張っている子が大学受験も強い!」という思い込みを大人たちが助長しているからであると思います。英数が定期試験で点数が取れているとしても、そこにしっかりとした理解が伴っていないのであれば、やはり英数をしっかりとやるべきであるのです。(「定期試験の勉強で高得点なら理解が伴っているはず!」という想定が、そもそも間違っています。たとえば卒塾生のこの合格体験記にあるように、定期試験の問題というのはほとんどが使っている問題集の問題をそのまま出してくるため、極端な話をすれば解答を覚えるだけでも何とかなってしまうのです。。そのような無駄な時間を費やして、何一つ理解しないままに高得点をとる、ということができてしまうのが定期試験です。(もちろんしっかりとした先生方は、そうならないような試験問題を作ろうとしますし、またこれは多くの生徒を落第させないためには仕方がないところもあるのですが。))


2つ目の理由として、「そもそも主要教科やその中でもさらに英数に関して、学校の課す問題集やプリントがあまりにも多すぎる・難しすぎる」という理由があります。つまり、定期試験の勉強をしようにも、課されているものが多すぎ・難しすぎであれば、そもそもそれを理解する時間など到底作ることができない、ということになります。この場合は試験範囲とされる膨大な問題集を全てこなそうとするよりも、教科書の例題や問題集の例題に絞って、それをまず理解して説明できるかを徹底し、そこに引っかかりがなくなれば、初めて問題集を解く、ということが必要となります(それでも課されている問題集を全部解く必要はありませんが‥)。問題数が多ければ多いほど、それをこなそうとするあまり、理解して説明できるように、という余裕はどんどんなくなり、とりあえず解いて解答を見て覚えるだけになってしまいます。そして、理解を伴わない短期記憶で定期試験は乗り切れるものの、結果として受験勉強には何一つ役に立たない、ということになってしまいます。

まとめると、定期試験は科目数が多すぎるのと、主要科目に絞っても問題集でやらされる問題数が多すぎるので、それらを真面目にやろうとすればするほど、「理解しようとしている暇なんかない!!」というところに中高生は追い込まれて行ってしまうのです。だからこそ、このような定期試験の勉強をいくら頑張って良い成績をとっていても、受験勉強の力は何一つ身に付かないままに学年が上がっていくことになります。

さらにいえば、英語や数学は積み重ねの勉強です。だからこそ、こうした「理解しないまま短期記憶で詰め込む」勉強で基礎が出来上がらないまま、学年が進んでより高度な内容を学習すると、定期試験の勉強をいくら頑張っても高得点がとれなくなってきます。定期試験のための勉強では、やがて定期試験の点数すら取れなくなってきてしまうのです。

逆に英語や数学の勉強をコツコツと受験勉強を積み上げていくこと、理解をして説明できるものを少しずつ増やしていくこと、理解をベースにしてそれらのものを覚え習熟していくことは、それらの科目について定期試験のために勉強しないでも点数が取れるようになっていきます。(このことを僕は受験勉強は「貯蓄」であり、定期試験の勉強は「生活費」でしかない。というようによくたとえます。生活費をどれだけ圧縮して貯蓄を増やせるかが、結局は金銭的な自由度を上げますよね。)

中高6年間、あるいは高校3年間をとりあえず眼前の定期試験のために短期記憶で乗り切っては、結局何も受験勉強の実力がつかないままに終わってしまう子と、しっかりと理由を説明できるように理解しながら受験勉強の実力をつけてきた子ではその後の人生で使える自分の武器が大きく違う、という残酷な事実を想像してみてください。しかし、前者は「定期試験の勉強は受験勉強に繋がる!」という大人のミスリーディングなアドバイスとプレッシャーを真に受けて、誤った方向に努力を積み重ねてきてしまったのです(たとえば別の卒塾生のこのような体験記もありました)。そのような失敗を子供達のせいにできるでしょうか。それは明らかに、大人の責任であると思います。

もちろん様々な工夫をされて、定期試験のための勉強を生徒たちの確かな理解に繋げようと努力されている優秀な先生方がいらっしゃることは僕も知っています。しかし、そうした素晴らしい、本当に頭が下がるような努力をもってしても、2つ目の理由(問題集や宿題が多すぎる)は回避できるとして、1つ目の理由(そもそも科目数が多すぎる)という構造的な問題を回避することはできません(また、「英語と数学だけしっかり勉強しなよー。理社とか副教科とかはやりたければでいいよー。進級できるぐらいで。」とはそのような熱心で優秀な先生方ですら、なかなか言えないでしょう)。そしてそれはまた情報科目の必修化のように、高校生の負担をより増やしていく、という愚かな方針ゆえにますます拍車がかかっていくと思います。

そもそも、「理解をしよう!」と思うためには心と時間の余裕が必要です。それを与えなければ、「時間がないからよくわからないままに覚える」とならざるをえません(これは我々大人もそうですよね)。中高生に考える時間を確保してもらえるように、大人たちが工夫をしなければならないのに、むしろ中高生の自由時間をどれだけ奪えるか、というようになってきてしまっていると思います。その結果起きているのが、理解をしないままに難しい問題まで解答を暗記することで定期試験を乗り切り、結果として受験勉強を浪人して一から始めなければならなくなる、あるいは高い内申を活かして推薦入試で大学に滑り込んだとしても、結局大学の勉強(それは当然高校範囲までの理解を前提としてなされるものです)についていけなくなる、といったきわめて由々しき問題です。

こうした悲劇を防ぐためにも、定期試験の勉強は本質的に受験勉強とは別の方向の努力であり、それは短期記憶で乗り切るだけのあまり意味のないことであることや、定期試験は究極的には(主要教科については)「試験勉強」をしないで受けられるようにしていくことが理想であり、「試験勉強」を理解もせずに短期記憶だけで努力していく先にはあまり未来がない、ということを多くの方に伝えていかねばならない、と思っています。

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「自学自習」とはどこから来て、どこへと行くのか。

お久しぶりです。まともにブログを書くのは約3ヶ月ぶり!ということでリハビリがてら、教育のことでも書いていきたいと思います。

さて、嚮心塾は「子どもたちが自学自習ができるように!それは受験勉強が終わったあとも一生使える武器になるはず。なぜなら、勉強というのは誰かに習うことができる期間よりも、一人で勉強しなければならない期間の方が(勉強をサボるような大人にならなければ)遥かに長いから!!!」というコンセプトの塾です。この理念だけ聞けば、否定される親御さんや教育者の方、というのはあまりいないように思うくらい、「美しい」コンセプトです。

しかし、実際にはそんなことよりも「そんな綺麗事言ってないで、眼の前のテストの成績を上げることが最優先だ!自発性とかどうでもいいから徹底的に教えこんででも成績を上げてほしい!」というニーズが圧倒的に多いのもまた事実です。もちろんここには、「教師から受動的に教え込まれているだけで、生徒が勉強ができるようになるのか」という大きな問題があるので、このようなニーズというのは根本的には目的を決して実現できないアプローチを要求している、という点で本質的には間違っているとは思っています(局所的・一時的にはそれが必要な場合もあるとは思いますが)。その点では「自学自習ができるようになっていく」というのは実は綺麗事でも何でもなく、むしろ難関校を目指せば目指すほどに、必要不可欠なことであるのです。その事実への誤解はとても多いな、と思っています。

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。なるほど自学自習ができるようになることが勉強ができて受験勉強を乗り越えられるようになるためには必要不可欠であることは一旦認めたとして、さて知りたいのは、どうやったら自学自習ができるようになるのか、ですよね。このことについて、おそらく間違いがないと最近僕が確信していることがあります。それは「自学自習」の方法論を身に着けてもらうためには、徹底的に最初に教え込まなければならないということです。

このことは、一見矛盾するように見える言明であるからこそ、少し理解しにくいかもしれません。また、「自学自習の大切さ」を主張する教育関係者も、あまりこのことを明確には伝えきれていないように感じています(管見にして僕が知らないだけかもしれませんが)。しかし、自学自習の仕方を生徒のうちに鍛えていくことを、(ここまでの18年間)徹底的に試行錯誤してもがいてきた僕自身の経験からは、この「自学自習ができるようになるためには、最初に徹底的に(様々な分岐ルートまで)教え込まなければならない」という言葉はかなり核心を衝いた言明ではないかな、と思っています。

たとえば各教科の内容に対して手触りを感じさせながら、既知の概念と結びつけては深く理解してもらえるような素晴らしい講義をリアルタイムでは受けない、という前提で自学自習は行われます。教科書や参考書として使う教材はそのような講義に少しでも近いようなわかりやすいもの、本質的なもの(そしてこの両者はトレードオフであることも多いです)を選ぶことは当然だとしても、それを一読してすべて理解できるわけがありません(もちろん素晴らしい講義も同様に、一聴してすべてが理解できる講義などは存在しませんが)。だとすると、書かれているものを理解し、定着させ、使いこなしていくために自分がわからない箇所の「壁」を乗り越えるあめの具体的なやり方をまずは教えこんでいく必要があります。その感じがつかめるように、普段塾でやっている最初に「教え込む」内容をちょっと具体的に書き出してみましょう!(企業秘密を公開!)

①読んだり聞いたりして理解できないときにどうするか。
→まず繰り返し読む習慣をつける。一度読んでわからなければ二度、三度と読む。一読しての理解力は人間同士そんなに変わらない。わからないときに繰り返し読む習慣があるかどうかが、勉強が得意な子と不得意な子で大きく差がある。

→それでもわからないときは、わからない言葉をピックアップして、その意味を調べる(←調べるための教材としてどの勉強にはどれを使うべきかの指示が必要)
→理解したあとはその言葉の意味を覚える(←覚えるための手段は何がよいか?わからない言葉が多すぎるときにそれをノートでまとめるのは有効か?その数が減ってきたらどうか?)

→言葉の意味が全てわかっても難しければ図やグラフを書いてみる(図の大きさはどれくらい?そもそも図を書くのは何が目的?問題文に図やグラフが書いてあるときだけでなく、問題文に図やグラフが書いていないときでも自発的に図が描けているか?)

→ここまでで、今勉強している範囲の前に、そもそも自分が既習分野の中で大きくわかっていない分野を見つけたときにどうするか。(そこに遡って復習すべきか?それとも今勉強している範囲を終わらせてから復習に入る?そもそも目の前の分野がわかりにくい理由がどの既習分野の理解度が低いせいなのかが、よくわからないときどうするか?)

②「書いてあることは理解できた」という自己認識が生まれたあとにどうするか?
→それを自分で何も見ずに再現できるか?
→要約して説明することができるか?(要約の度合いは?どこまで端的に言えるか?)
→練習問題を解いたときに、それが教科書の何を使っているのか分類できるか?

③「覚えている」とは何か?
→すぐに言えることorすぐに言えなくても自力で導き出せること(どのような知識は即答できなければならないか?どのような知識は導き出せればよいか?その区別をどうやって判断していくか?)


などなどです。かなり読みにくくてすみません。「おーし。企業秘密とか言わずに全部書いちゃうぞ!!」というつもりだったのですが、マジでこんなの全部書いてたらキリがありません。。(途中から雑になりました。。)

大別すれば、
Aとりあえずの方法論
Bうまくいかないときの方法論
C優先順位の付け方
D自力/他力の弁別

などには分類できるのでしょうか。こうした方法論を、様々なテストや教科指導の中で折に触れて繰り返し繰り返し話しながら、定着させていきます。(ちなみに特に大切なのは、Bです。うまくいかないときに、勉強の得意な子は自分でその解決法を見つけられるわけですが、苦手な子は「うまくいかないとき」というのは、「自分に努力できることはこれ以上ない!」と思いがちです。だからこそ、Bを徹底的に教えこんでいく必要があります。)

さて、このような方法論を自学自習の指導とすると、これって教科指導より教える内容が少ないといえるのでしょうか?僕の体感では、最初に(方法論を)教えることにかかる時間が、おそらく教科指導だけの実に10倍!!!!くらいはかかるように感じています。教える側としてはすごく面倒くさいです。内容だけ教えていたい、という誘惑についつい駆られてしまいます。。

ただ、このように方法論を徹底的に教えこんでいくと、だんだんと生徒たちがそれを自分で使えるようになってきます。そして自分で解決できることをどんどん増やしていきつつ、それでも判断に迷うときに相談していくことに繋がっていきます。そうすると、僕の仕事量も減って、生徒も実力がついて、お互いハッピー!!になれるわけです!!(まあ、実際には勉強の仕方が身に付いて実力が付けばつくほど、今度は時間を測って入試問題を解いた上での戦略会議になっていくので、僕の仕事は減るわけではないのですが。。)

逆に言えば、勉強ができる子たちが当たり前のようにやっている勉強方法をこのように徹底的に言語化し、ルーチン化し、それを方法論として身につけていってもらう、ということの先に「この参考書を何周やりました!」という行為が意味をもってきます。その点で、自学自習とは、まず最初に徹底的に方法論を教え込み、叩き込まねばならないものです。その一見矛盾するようなやり方にしか、おそらく正解はないのかな、と思っています。

こう書くと、「じゃあ一般的な方法論だけマニュアル作ってそれを徹底して身に付けさせれば教科指導なんかいらないじゃん!」と思われるかもしれません。ただ、これについては僕は否定的です。一般的な勉強の方法論のマニュアルを作るだけで、それを各教科に応用できる子、というのは率直に言ってかなり勉強への適性が高い子(東大や医学部に合格できるベルよりもはるかに上)だからです。

もちろん受験科目を満遍なくただ漫然と勉強して各教科の目の前の勉強に追われるよりは、たとえば英語と数学に絞ってそれを身につけるための方法を徹底していくことが大切だとは考えています。なぜなら、英語や数学で学んだ自学自習の方法は、科目による細かい差異はあるにせよ、他の科目の自学自習方法も洗練していくからです。一方で、教科指導を本当にゼロにしてしまって、最初に自学自習マニュアルをただ配るだけではその定着がかなり難しいのは、人間はその必要性や有効性、すなわち意味を感じなければ、それをしっかりと学ぼうとは思えないからであるとともに、具体的なことの積み重ねを通じて抽象的なことに気づいていく、というのが自然な認識の歩みであるからかな、と考えています。一つも教科指導を行わずに語られる方法論に普遍性を感じてそれを演繹しよう!と思えるのは、めちゃくちゃに抽象能力の高い(元々勉強にかなり向いている)子だけだと思います。

だからこそ、具体的な教科指導の中から泥臭く帰納的に抽出された方法論の方が、一人一人の生徒には根強く残るのではないか、という仮説を今のところは立てています。昨今は「全教科の勉強方法をコーチング!」という塾や予備校が最近は濫造されてしまっていて、嚮心塾もその同類のようにしか見えない(一応草分けだとは思うのですが…。)とは思うのですが、実は先に挙げたような生徒の勉強の方法論にまで影響を与えるような深い教科指導の方が、その生徒の勉強の定義や方法をガラリと改善する可能性はむしろ高いのかな、と思っています。(「高度に発達した教科指導は、もはやアクティブラーニングと見分けがつかない」ですね!!)



ところで、日本の学校でどこでも行われるようになった「探究学習」は、いったいどこまでその方法論を最初に徹底的に生徒たちに教えこんでいると言えるのでしょうか?これも僕の管見する限りでは、「やり方・調べ方は今回の授業で説明したぞー。じゃあやってきてねー。」という例ばかりのように見えてしまいます。実際には、指示された通りにやってみたものの躓いた生徒に対し、そこで生徒一人一人がどのプロセスでどのように躓くかをしっかりと観察し、それに対して問題解決の次の手段を提示していく、ということが必要不可欠です。探究とは失敗を乗り越えて自力で進む上での試行錯誤を意味する以上、失敗したときにどのような手段を取りうるかを徹底的に教えこんで初めて、子どもたちはそれを武器に自力で取り組むことができるようになるのだと思います。自学自習を「探究」と言い換えるのなら、探究をそんなに簡単に自分で始められるのなら、そもそも学校や塾なんか来ないですよね。我々自身が中高生のときだって、どんなに自分の優秀さに自信があった方でも、たとえば自学自習の方法を自分ですべて作り上げて合格しました!なんて受験生は殆どいません。みんな塾とか予備校とか学校とかの力を借りてようやく合格しているわけです。

そんな非力で愚かな我々大人が「探究」を子どもたちに押し付けて、ふわふわしたことをさせている暇があるのなら、自立して探究していくための方法論の見つけ方を徹底的に子どもたちに教え込んで、彼らの武器を増やしていく必要があると思っています。もちろん、僕が上に書いたような「教え込み」もまた不完全な内容、誤りを含む内容であり、それを教え込まれた子どもたちがさらに改善し、より改良しては「先生のやり方じゃ、こんなとこに不備があるのでは?」などと終わりなき探究を続けていってほしいものです。しかし、探究に終わりはなくとも、正しい始まりはある。そのことを我々大人たちは、全く伝えられていないのでは、ととても危惧しています。

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中学生向け自学自習用の参考書リストの作成に協力しました。

ことぱ舎の向坂くじら先生の提案で、中学生用の自学自習用教材リストを作ることに協力しました!!!

https://twitter.com/pomipomi_medama/status/1678668673937178625?s=20

フリースクールの現場でも皆さん、本当に一生懸命教えられていると思うのですが、とはいえ基本的には学校のワークブックなどをやるしかない状況だと思います。しかし、学校の授業を受けていないor受けていたとしても理解ができていない状況で大量のワークブックをこなしても、理解ができないままに終わってしまいがちだと思います。

だからこそ、説明が充実した、繰り返し詠むことでよく分かる自学自習用の参考書を使い、それを進めていくことで学力を身につけていくことがとても大切です!

ここに挙げたリストが完全なものであるかといえば、もっと素晴らしい参考書もあると思います。また教材研究を進めていく中で、追加したり差し替えたりしたいものがあれば、適宜修正を加えていきます。しかし、参考書選びのポイントや、「とりあえず問題を解く」のではなく、まずはしっかり説明を隅々まで読んで、自分で理解して説明できるように落とし込んでいく、という基本方針はどの場合にも大切です。他の教材を選ぶときにも
「説明が詳しくしっかりしているか」
「問題数が多すぎないか」

という二点にこだわって選んでいくのが良いと思います。(という考え方が向坂先生のnoteにはしっかりと書かれています。)

ぜひ活用していただけましたら!!!

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かつやのチキンカツ。

かつやといえば、常識にとらわれない攻めたメニューを出すことで有名です。最近はこの「とんこつチキンカツ丼」が少し話題になっています。https://www.ssnp.co.jp/foodservice/515032/
こんなの興味本位以外の動機で誰が食べるの?と思ってしまうかもしれませんが、これでそこそこ成立しています。なぜかなら、チキンカツが入っているからです。かつやのチキンカツはとてもおいしいのです。どんなに攻めたメニューで、全体としては「これアリなの?」と疑問に思ったとしても、チキンカツが入っているだけで、食べた後は「まあ、チキンカツがおいしかったし、よいかな。」となります。

言い換えれば、かつやの攻めた商品開発は、チキンカツという絶対的エースがあるからこそなせる技です。これは同時に、攻めているようで守っている。あるいは根幹では守りながら、枝葉で攻めている、とも言えるのかもしれません。リスクヘッジとしては正しいものの、これが「攻めている」としか評価されないとしたら、商品開発の方向性としては少々閉塞感があるのかもしれません。チキンカツが必要条件になった商品開発は、果たして「開発」と言えるのか、という問題ですね。


さて話は変わりますが、先日、生徒の英単語テストをしていたときのことです。その生徒はだいぶ勉強が進んでいて、いまや派生語を見出し語から出せるように、という練習にまで進んでいました(嚮心塾では英単語を派生語まで一気に大量に覚えるのではなく、まず見出し語を徹底して、記憶の「幹」をしっかりと作った上で、「その見出し語がかなり定着してきた」とこちらで判断できたら、その見出し語に対して派生語を品詞とともに引き出せるように練習をしていきます)。

その状況で派生語のテストをしたところ、それができないだけではなく、「見出し語○○の形容詞だよ!」とヒントをあげたときに、その○○自体の意味にも反応が鈍かったので、テストを止めて質問(詰問?)タイムに入りました。

僕「ここまでの単語学習の流れは、見出し語を覚えて、そこから派生語を引き出す練習だよね。」
生徒「はい。」
僕「その派生語を覚えるときに見出し語自体があやしかったらどうする?」
生徒「見出し語も覚え直すべきです。」
僕「では、なぜそれをしてないのかな?」
生徒「今は派生語のテストだから…それを覚えていればよいかと思って。」
僕「しかし、ここまでの学習の流れを考えれば、派生語だけを(そこをテストされるからといって)覚えることが記憶を定着させていくためには無意味だとはわかるよね。」
生徒「はい。」
僕「そういう姿勢が『考えないで勉強する』ということではないかな。それは東大を受ける上では(この子は東大志望です)、やはり通用しないのかな、と。そして、そのレベルの受験生になってくると、こういうとき、必ず「そもそも見出し語忘れてたら意味ないじゃん!」って自分で復習するんだよ。それが「やらされている勉強」と「自分で考える勉強」との違いなんだよ。そして、こうしたattitudeの違いを、君らは「地頭の差」って言って誤魔化してしまうわけだけれども、それは端的に自分で考えているか考えていないかの違いでしかないし、その考えるための方法や材料を言語化して伝えているのだから、それを踏まえて一つ一つ必死に自分で悩まないと、東大のレベルでは通用しないよ。」

というやりとりをしました(雰囲気は和やかに話したのですが、文字に起こすと、詰問調ですね。。反省です。)。この生徒はとても頑張って勉強はしているものの、自発的に考える、ということがとにかく苦手で、自発的に考えるとはどういうことか、ということをこうした機会をとらえてしっかりと伝えていかねばなりません。そうしなければ、こちらが考え抜いて方法論や作戦を提案したとしても、結局は僕の言う通りに勉強しているだけになってしまうからです。医師に患者の身体の様子が全てわかるわけではないのと同様に、教師に生徒の勉強の細かい具合まで全て把握することは不可能です。だからこそ、このような「不調」に対して、どのように対応すべきかのattitudeを、概論としての方法論においても、個別の失敗についても徹底的に鍛えていかねばならないわけです。そこがしっかりと鍛えていけると受験生が自分で自分の勉強を分析して必要な手立てを講じることができるようになってきます。そして、そこまでできるようにしていかないと、高いレベルではやはり合格し得ない、というのが実感です。

もちろん、何も指示を聞いてくれない、あるいは「分厚い青チャートを周回しなさい」「UpgradeやNEXTAGEを周回しなさい」みたいなアホな指示に従ってしまうよりは、僕の指示に従ってくれたほうが勉強の効率もよくなりますし、実力も上がるでしょう。しかし、東大・京大・医学部レベルになってくると、それだけではやはり合格するのは難しいと思っています。こちらがそのように提示した方法論についても「なぜそれが良いのか」「そのような方法論が良いとしたら、もっとこうしたらさらに改善することになるのではないか」のように考えていく習慣をつけていかなければ合格できません。

逆に言えば、中学受験や高校受験で必死に勉強してきてそれなりの成果をあげてきた子達というのは、そうした習慣が当然身についています。だから、高2や高3くらいまで勉強をサボっていても、そこから頑張っても何とかなります。それをつい「地頭の差」という言葉でわかった気になりがちではあるのですが(そしてそれは当然ありますが)、こうした思考習慣や学習習慣の徹底、ということである程度差を詰められるものだともこちらでは思っています。

しかし、これを身につけていってもらえるように徹底していくことは本当に大変です。英語に限らず、数学でも等式変形の「=」一つ一つについてなぜそれが言えるのかを考える習慣がつけば、定理や公式を自分の言葉で説明したり、より少ない定理から他のことが言えないかを考える習慣がつけば、そしてどんな難しい問題を解いていても自分の中であやふやなことは必ず教科書に立ち戻る習慣をつけていければ、抽象的でわからないときに具体例で調べたり書き出していく習慣をつければ、そして何より図やグラフを理解するために描く習慣をつければ、そこから先は勉強したことが全て身についていきます。しかし、そうした努力を怠っては、「大量の問題をとにかく解く」という「努力」に甘んじていれば、いずれできるようになるだろう、という甘い考えをもってしまいがちであるのです。(また、その中高生の誤った考えを助長するような物量主義が教育現場にはびこっていることも中高生には本当にかわいそうなことです。。)

つまり、人間は「(自分で考えないで他人に言われたことをする)努力をすることで、(考える)努力をしないようにできる」わけです。そのように「努力」することの結果として、一般受験は残酷な結果を出して見事に機能します。そのような思考停止のための甘美な「努力」は、かつやの美味しすぎるチキンカツと同じく、必要な挑戦をむしろ阻害するものになってしまっているのかもしれません。

そしてそれはどのような「勉強法」や「指導法」によっても決して防げるものではないのかな、とも思っています。先に挙げた派生語のみ覚えようとしていた子のように、考えないで勉強している方が楽である以上、どのように作り込まれたプログラムや教授法であったとしても、やはり考えることをサボれる契機というのは生徒の側でいくらでも作ることができてしまいます。そうした一つ一つの具体的な失敗を、丹念に指摘し続ける努力、ということを教える側がやっていかなければ、やはり固着したattitudeの部分を動かすことは難しいと思っています。

それはひどく泥臭く、とても根気のいる作業です。「この流れでこれを勉強しておいて、何故ここをサボる!?」と悶絶したくなる毎日です。しかし、それを丹念に伝えていけるように、こちらも地道に泥臭くまたあれこれ考えていきたいと思います。

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良い教師とは何か。

これぐらい長くいろんな子を教えていると、様々なスキルが発達するものです。最近ではその子が質問をしたいかどうかが表情どころか雰囲気でわかったり、めちゃくちゃ拙い質問でも何について聞きたいのかがわかったり、という感じで、見る人が見れば「名人芸」的なものになってきているな、と。

そこで良い教師の条件を挙げてみましょう。
①生徒の細部の異変に気づき、質問であれ相談であれ、こちらから積極的に声がけをしていく。
②生徒の質問がどんなに拙いものでも、その真意を見抜き、その真意に対して的確に答えていく。
③生徒への指示が完璧に網羅されていて、かつ的確であるかどうかを絶えず疑い、修正が必要なときには即座にこちらから声かけをして訂正していく。

皆さんもこうした優秀な教師がいる学校や塾を選んでください。嚮心塾もおすすめですよ。

と、書いてみましたが、実はこれは真っ赤なウソでした!!!
こんな教師は実はダメ教師であり、上に書いたようなことをしている教師こそ、生徒の成長を止めてしまうおそれがあります。

どういうことでしょうか。
まず①に関してで言えば、教育の理想は「生徒が自分で聞ける/相談できるようになること」です。こちらがどんなに生徒の微細な変化に気づき、声がけをしていって相談ができたとしても、それをそのまま続けていけば、生徒は自分から相談をする必要がなくなります。学習面については「先生から指摘を受けていないということはこのままでいいんだ!」と思考停止をするようになってしまいます。そしてまた、相対的に指導力のある教師が何なら指導時間をほぼマンツーマンで教え続けたとしても、受験生本人が自分のことを把握しているほどに受験生の思考回路や自己情報を把握することは絶対にできません。

たとえば教え始めた大学生が受験生に対して気付けることを1として、30年近く教えている僕が気付けることを1000としましょう(これでもだいぶ謙遜しています!)。しかし、受験生本人が自分自身の勉強についてもっている情報はざっと10000000000くらいなので、1か1000かの差など、誤差にすぎません。それを「見よ!この指導力!勉強ができるだけのペーペーの大学生では真似できまい!」などといい気になっているのは教師の自己満足でしかなく、受験生が力をつけていくのに最も大切なのはその100億の自己情報を持っている受験生本人に自分で自分自身をチェックしていく判断基準や方法を身につけていってもらうことです。

もちろん受験生本人の判断基準や方法というのは最初は「青チャートを繰り返していれば…」「Nextageを繰り返していれば…」などなど間違っている基準や方法からスタートしていることがほとんどなので、その膨大な自己情報を全く活かせていない状態であるわけです。だからこそ、「どのようなところまで丁寧にやった方が結局力がつくのか」「どのようなあやふやさを残してはいけないのか」などなど、自らのありようをチェックするための基準を鍛えていく「触媒」になれるように、教師はその基準づくりに協力していくことが大切です。そしてその基準が生徒の中にできていくほどに、生徒たちは教師に見抜かれなくても、自分からその基準にひっかかるところはどんどん質問に来てくれるようになります。それが教育の求める理想の姿であり、それは受験を終えたその後も一人一人の人生において、ずっと使えるツールとなります。(もちろんその判断基準は僕の提示した粗雑なものではなくて、専門性が上がれば上がるほどにより自分自身でrefineしていく必要があるにせよ、です。)

とすると、シャーロック・ホームズのように、「一昨日の晩御飯は焼き魚でしたね!それもアジの干物ですね!」的に細かな痕跡から推理をして言い当てる教師というのは、パフォーマンスとしては面白いでしょうし、実際派手で「神教師!」となりがちではあるのですが、正直教育にとってはあまり意味がありません。もちろん気づかないよりは気づいたほうがいいです。気づいて的確なアドバイスをしていけばしていくほど、生徒たちもこちらのアドバイスを信頼してくれるからです。信頼してもらえれば、そうした「自分の中に判断基準を作る」ことの大切さ、というのも伝えやすくはなります。しかし、それはあくまで手段であり、目的ではありません。それは自転車の後部を持ってあげる大人のように、必要ではあるにせよ、いずれ必ず外されなければならない補助線でしかない、という自覚こそが教師にとっては一番必要なのではないでしょうか。

とすると、観察力が大切なのはもちろんとして、良い教師にとって同じくらい必要なのは教えこんでしまわないための忍耐力でもあるのかな、と思います。

①でだいぶ長くなってしまったので、②③についてもざっと書けば、
②は生徒の質問が拙ければ、質問が的確にできるように、それの言い直しの練習をしてあげなければならない、ということです(というと、「その質問じゃ意味わからない!」みたいな「塩対応」がベストのように聞こえますが、こうした塩対応は意図は正しいとしても、その意図が正確に生徒に伝わることの方がはるかに少ないので、単なる教師の怠慢と自己満足に終わりがちです)。「的確な質問をする能力を鍛える」というのはつまり、「自分が何がわかっていないのかを明確にしていく」作業です。何が問題かがクリアになれば、解決までの道も半ばまで来ています。ただその努力ができていない子がほとんどであるのが塾に入って初期の段階であるように思います。

③については、受験生が自分から今の勉強方針を疑えることがとても大切です。各教科の内容についてはもちろん、それぞれの教科を進める方針について、自分の中で気がかりなことがあるのなら、それを言い出さなくてはなりません。特に最近は「参考書ルート」的な塾が乱造されていて、「このやり方で勉強を進めたら、必ずできるようになる!!」と喧伝されがちですが、万人に共通の方法はありえないからこそ、自分自身が与えられた勉強方針でうまくいっていないのなら、それを指導者にすぐに相談することがとても大切です。(そして、それに対して「こちらのメソッドを信じて続けていればダイジョブだから!」しか言わないのは、基本的には詐欺です。それは他のメソッドの備えもそこで新たに考えるスキルもそもそもないから、そのような対応をするしかないのです)

この話は詳しく書けばまた長くなるのですが、それこそ数学の教科書の定理や公式の導出ができず、結果だけ(あやふやに)覚えて代入しているレベルの子たちに「この問題集を周回すれば必ず力がつくから!」と繰り返すだけの、方法論の初歩的なギャップもあれば、僕自身が「これはさすがにできてるだろ。」と思考の盲点を作っていたために、その子の力の伸びの天井ができてしまっていた、というとても見抜きにくいものまであります(たとえば過去には東大理一を受ける数学が得意な子に、中学の連立方程式の練習をさせたり、医学部を受ける受験生に九九の苦手な段を練習させたりしました。両者とも受験までに気づけて、何とか合格しましたが、ことほどさように一人一人思いもかけないところに大きな穴がある、ということばかりです。ちなみにこれらも僕がパッと見抜いたのではなく、彼らから相談を受け、詳しく掘り下げていく中で気づいたことでした)。繰り返しになりますが、一万人いれば、学習履歴は一万通りある以上、その全ての可能性を指導者が掘り尽くすことはできません。だからこそ、自分自身の違和感や足りないところを受験生本人が自分から申告、相談できることが「神の目」をもつベテラン教師よりも力を伸ばすことに繋がっていきます。

ということで、お伝えしたいことは書けたのですが、これだと非常に困ることがありまして…。

たとえば、

A 先生が生徒に対して絶えず声かけをしながら見回り、生徒のちょっとした逡巡に対してもすぐに声掛けをして、生徒の拙い質問でもその真意を即座に汲み取り、的確な答を返して、生徒も大満足!勉強法や教材についても、「◯◯という(youtubeでもおなじみの)難しくて分厚い問題集を繰り返しやっていれば大丈夫!それで僕の生徒は東大受かった!」と自信をもって答えてくれる。

B 先生が生徒に全く声をかけないでお茶を飲んで本とか読んでる。生徒がせっかく自発的に質問に行っても、「その質問は意味がわからないな。もう一度何が聞きたいか整理してごらん。」と追い返される。勉強法や教材について聞いても「まずは教科書やるといいよ。」と基礎的なものしか指示されない。「それは大丈夫なんです」と伝えると、「教科書の定理や公式とかちゃんと当たり前のものになってる?」と嫌がらせのようなことばかり言われる。あげくの果てに「万人にとっての正解の教材はないけど…」と自信なさげに、聞いたことのない薄っぺらい問題集とかを薦められる。

さて、塾の見学に行って、みなさんどちらの塾に入りたいですかね。。当然A!なのではないでしょうか。。

もちろん、教育としてはBが最善だとしても、いきなりそれに対応できる子というのはそもそもとても優秀な子なので、一人一人A的なところから初めて、だんだんとBへと移行していくことになります。しかし、みんながだいぶBの状態に移行していて自分で質問できる状態になればなるほど、塾に見学に来てもらっても、僕はお茶飲んで本を読んだり問題集解いたりしているだけにしか見えません。あとは「うちの子はここにいる生徒の皆さんのように活発に質問できる子ではないので…」みたいな断られ方もよくあります。もちろんそれは問いを発する判断基準が鍛えられていないだけなので、むしろ最初はみんなそうなのです、という説明までしていくわけですが。(そもそも質問ができないままで何もかも教えこんでもらって生きていくことの方が難しいので…。質問の仕方をどこかで学ばないといけないと思うのですが、これもなかなか伝わりにくいところです。)

ということで商売繁盛だけを考えるなら、「ずっとAだけやる」がベストなのですよね。もちろんそれでは生徒たちの力は頭打ちになってしまうので、嚮心塾ではそのようにするつもりは毛頭ありません。生徒たちの今後の人生においては、自ら問いを発する能力を鍛えることほどに有益なものはないと思っています。なので、流行らない「不親切そうな塾」を細々と続けていきたいと思っています。

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繁盛すればいいものではなくて。

いつもならこの時期、受験の体験記を続々と載せる頃なのですが、今年はなかなか書いてもらえておらず、申し訳ないところです。つなぎに久しぶりにブログでも書こうかと思います。

さて、学校の宿題や指導が「たくさんやらせればいいでしょ」「難しいものやらえておけばいいでしょ」「様々な問題集やらせればいいでしょ」という思考停止に陥っており、体験入塾で様々なご家庭にお話を聞けば聞くほど、そのような学校の指導に対して疑問を感じておられるものの、成績で脅されるので、学校の課題をやらねばならず、そのせいでどんどん勉強がわからなくなってしまう、という中高一貫校に通う生徒さんの親御さんのお話を聞きます。このテーマについてはさんざんこのブログでも紹介して問題提起してきましたし、また取材も色々受けています。(たとえば東京すくすくさんのこれですね)
また新しい取材記事が出る予定ではあるのですが、本当に深刻な問題です。少しでも学校の指導に違和感を感じられた親御さんは、宿題の分量についてしっかりと抗議をしていくことが大切だと思いますし、その際にはこうした記事やブログを援用していただけたら幸いです。(すると、学校の先生の矛先はこちらに向きますので!)多すぎる、難しすぎる宿題をとりあえず一周こなすだけで理解できて、学力がつく子は「天才」です。ごく限られた天才にしか通用しない方法を、多くの中高一貫校で全員に強制していることの異常さについて、みんなで「これはおかしいのでは?」ともっと指摘していくことが大切だと思います。

また、このことについては塾のメールアドレス(ホームページの「お問い合わせ」からもメールできます)にいつでもご相談いただければ、状況を聞かせていただいて、学校のやり方に対してのセカンドオピニオンや、とりあえず宿題をやりすごしては、勉強を噛み合わせていくための方法などもアドバイスなら無料で致します。遠隔地や塾の費用が難しい方にも是非お力になれれば嬉しい限りです。(嚮心塾は「来るものは拒まず、去るものは追わず」で勧誘とか一切いたしませんので、お気軽にご相談ください!)(これも塾のHPだと、勧誘等がご不安でしょうから、新たにHPを作ろうとも思っていたのですが、手が回らず、本当に申し訳ない限りです。まずは塾のアドレスにメールいただければ、何でもお答えいたします。)

と、ここまでやると、「宣伝だろ!」と、さらに疑われるかもしれないのですが、こちらとしてはこんな理由で塾が繁盛したくない、というのが最も強い動機です。難しい入試をパスし、高い月謝を払って通っているはずの中高一貫校のひどい授業や宿題に苦しめられ、わからないままに必死に答を写すしかなく、どんどん理解できない分野が増えていく中高生たち。学校に異議を唱えても、「ついてこれる子はついてきてますから(おたくのお子さんの努力不足でしょ)。」で切り捨てられ、違和感を感じながらもそれ以上つっこめずに苦しんでいる親御さんたち。本当に心苦しくなります。

何より、「教科書をしっかり読み返して理解しながら、隅々まで説明できるようにしてから問題を解くんだよ。」というごくごくカンタンなアドバイスだけで、みるみるうちに学力が改善していく、というのは学校(それもいわゆる「有名進学校」)が最低限の教育すら提供できていない状況である、ということです(もちろん、これも先生によって違います。まともな先生であれば、決してこうなってはいないのですが、その割合がどれくらいか、ということですよね。。)。中高生の(なけなしの)勉強時間やモチベーションをとにかく浪費させたくないという思いです。

日本に教育くらいしか誇れるものがないのだとしたら、学校教育が荒廃して、その荒廃の補習をするだけで私教育が生き残っていけてしまう状況というのは異常であり、改善されなければならないことだと思います。こちらとしても、そのように繁盛したくありません。学校教育が今よりはるかにまともになったときに、嚮心塾もその煽りをうけて潰れるのなら、それはそれで正しい潰れ方だと思っています。僕自身に学校の先生よりも生徒たちに提供できる価値がない、ということになればそれは仕方がありませんし、ある意味(教育費がかさまないで済む)理想の世の中です。

しかし、今はむしろそれから逆行していて、どのように有名な進学校であっても(一部の素晴らしい先生の授業を除いて)塾や予備校なしにはどうしようもなくなってしまい、学校では難しい教材を大量に用いているのに、それは教育ではなく「選別」にしかなっていません。少しでもこの異常な状況に一石を投じられるように、引き続きあれこれもがいて行きたいと思います。

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Why?という刃。

お久しぶりです。
朝から晩まで塾にいる機会もこの直前期は増えてくるので、またブログも更新していきたいと思います。

さて、最近の生徒たちを教えているととても感じるのはWhy?という問いを出せなくなってしまっている、ということです。これは「なぜ生きるのか」「なぜ勉強するのか」といった根本的な問いについて出せなくなってしまっているのはもちろんとして、勉強をしていく際でも「なぜこう考えるのか」と考えるのがとても苦手な傾向があると思います。だから、「どうやってこれを解くのか(how)」だけを求め、それに答えてもらって満足してしまう、という印象を受けます。いわんや「どうやって生きるのか」「どうやって勉強するのか」については、ですね。なぜ?という問いを発することが枝葉についてもradicalな部分においても、すっぽりと抜け落ちてしまっています。(名城大学の竹内英人先生はこれを「how型学習からwhy型学習への転換を!」とずっと提唱されています。)

しかし、子供というのは本来、大人が当たり前としてしまっているものにまでradicalなwhy?をどんどん出してくる生き物です。それはどんなに社会の趨勢が変わっていこうと、やはりあまり変化がないのではないでしょうか。だとすると、このWhy?を子どもたちが出せなくなってきてしまっているのは、「Why?を聞いても仕方がない。そもそもそんな暇はない。」と子どもたちが教育システムなり、周りの大人とのやりとりなりの中で諦めさせられている現状があるのかな、と思います。(もちろんこの間、問題提起している「大量の宿題」「難しすぎる宿題」はまさにその典型例かと。)

一方で、教師から生徒、親から子への「Why?」というのはほとんどの場合、ひどい暴力にしかなりません。「なぜこんなことしたの?(=こんなことするな)」「なぜ勉強しないの?(=勉強しろ)」「なぜ頑張らないの?(=頑張れ)」などなど。
子どもたちはそのように、大人からの「なぜ?」は叱責であることを熟知しています。だからこそ、「なぜ?」と問われたときには身を固くして自分の非を少しもバラさないように、自己防衛モードに入るしかなくなります。教える側としては、Why?が決して叱責の意味ではなく、考え方のプロセスを聞きたいという主旨であることを何度も説明しては、そのWhy?に子どもたちが答えることは子どもたちの不利益に繋がるのではなく、むしろ勉強がしっかりと理解できていくのだ、という大きな利益に繋がるのだ、という信頼関係を地道に築いていくしかありません。あるいは聞き方を工夫して「なぜ?」と問うのではなく、「どうやって考えたの?」と聞くことで糾弾調にならないように工夫されている先生もいらっしゃる、ということも聞きました。(このWhy?のもつ糾弾性を避けるためには、how?という言葉を使う、というのがhowのみで満ち溢れ、構成されたこの社会のありようを表していて興味深いですよね。この先生方の工夫は本当に素晴らしい!と思う反面、how?に対しての子供の警戒心のなさとWhy?に対しての異常なまでの警戒心は、この社会が、あるいはこの文明がhowのみで構成されてきて「発達」していて、how?はカジュアルに問われるのにwhy?は糾弾以外には使われない、という「Why?のない社会」である、という深刻な現実を表しているようにも思います。)

最初に書いた「子どもたちが本来発していたはずの「Why?」を奪われてしまっている」というのも、上意下達の教育しか受けてこない中で、子供の側からのWhy?は教師の権威を脅かすものとして、排除されていく、ということの積み重ねでそうなってしまっているのではないか、と思います。

もちろん全てのWhy?に教師が答えられなければいけないわけではないのです。また、答えられるはずもないのです(もちろん必死に努力して勉強はしなければなりませんが)。そもそも人間の科学や文明自体が、Why?を忘れた歪な発展の中で、how?だけが積み重なっている部分だけに目を向けてその高度さを誇っているものに過ぎないかもしれないからです。EBM(evidence based medicine)などといいますが、それは効果についてのevidenceをdouble blind testで調べているだけで、なぜそれが効くのかの作用機序などわからないものの方が多いわけです。ただ、大人たちにできることは子どもたちのradicalなwhy?に対して、決してごまかさないこと、わからないことはわからないと伝えること、そしてそのwhy?を何より勇気づけていくことだと思います。それは卑近なところではその子達の成長に繋がるでしょうし、遠くを見れば人類の新たな可能性を開くものでもあるはずです。

Why?を忘れたこの世界で、how?だけが積み重なっていくのが人間の文明だとしても、しかし、個々人の学習プロセスにおいてはやはりWhy?を積み重ねていかなければそれを理解して身につけることはできません。how?を積み重ねるだけでは、受験勉強のような大したレベルでなくても、決して合格できません。この事実を絶望ととるのか、希望ととるのかは立場によるのかもしれません。ただ、僕には「我々が何かを身につけるときにはWhy?を考えねばならない」という事実は、自身の身過ぎ世過ぎのための技術や知識を身につけるための手段として有用なだけでなく、それだけが人類にとって唯一の希望、自分たちのありさまを根本から疑い直すことのできる契機を生むかもしれない希望であると思っています。

もちろん枝葉についてのwhy?を積み重ねることが、より根本的な問いへのwhy?を問うこととは切断されてしまっているケースの方がむしろ多いことも事実です。(たとえば受験勉強の中でwhy?をしっかり積み重ねて東大や医学部に入った子も、その問いが「なぜ生きるのか?」までは決して向きません。)how?に有用な範囲に限定してwhy?を積み重ねることができてしまうのもまた、人間の賢さ/愚かさであるのでしょう。しかし、それでもwhy?をコツコツと積み重ねていくこと以外には、それを乗り越える可能性もまたないのかな、とも思っています。

そうしたwhy?という刃を鍛え、積み重ねていけるように、日々鍛えていきたいと思います。

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