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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「数学の宿題、多すぎない?」zoomイベントの補遺

昨日は名城大学竹内英人先生に「数学の宿題、多すぎない?」というZOOMイベントをしていただき、かねてから大きな問題と思っていた学校の宿題の量の多さ、生徒のレベルに見合っていない難しさ、フィードバックのなさ、という話題について問題提起させていただきました。90名弱の方に参加していただいて、この問題を広く周知して、誤った学校の宿題に対して疑問を感じながらも従うしかない、と思わざるを得ない保護者の方や中高生にとって、自信をもってもらえたらとても嬉しいです。理不尽な宿題は数学だけではありません。他の科目についてもまた問題提起を継続してやっていきたいと思います。

とはいえ、この話題で2時間は短い!議論を深めたくても時間が足りなかったりコメントしきれなかったところがあります。以下に当日いただいた中で拾いきれなかったコメントへの僕の回答と、その他想定問答として用意していたものもこのブログで供養していきたいと思います。(あくまで柳原だけによる回答で登壇者の他のお三方は内容に関知されておりません)

(コメント返し)
「自分の学校は青チャート100題でしたが、実際に解いてみたら、解いている途中で発狂しそうになりました。特に数学1の展開・因数分解…。」
→この青チャート100題がまずは重要例題のように難しいものをおそらく避けていないので問題なのですが、加えてこれはイベント中でも竹内先生が仰っていた「計算の難しい問題をやらせすぎている」の大きな弊害だと思います。数学的内容は理解できていても、計算が難しいものまで欲張って宿題でやらせようとするからこそ、そこで数学が嫌になってしまう、という高校生もたくさんいます。もちろん東大入試のように方針を練るだけでなく計算力も問う入試があるのはそのとおりなのですが、それを未習分野を初めて学ぶ高校1年生や中学3年生でできる必要はありません。最初から計算が複雑な問題まで練習させようとする、というのが欲張っては結局数学嫌いにさせてしまう、という大きな失敗だと思います。


「分からない問題があった時に、(授業で扱った問題を示すことを一般化して)何を見返して、それを見返すことで目の前の問題が解けるようになるかを示さないと、確かに「答を写す」機械的な作業に生徒たちは逃げてしまいますね。」
→「見返す」というのがキーワードで、もちろん教科書の定義、定理や公式が不十分な状態ですぐに問題演習に入らされてしまうわけですが、この方式の恐ろしいところは問題集でつまったときに教科書のどこを読み直せばよいか、が生徒たちには明示されていない、ということです。また、問題集で出される宿題の分量が多いほど、生徒たちは「教科書を見返している暇なんかない!!」と視野を狭くせざるをえなくなってしまいます。結果、「見返す」「行きつ戻りつ理解を深める」という本来の問題演習の効果が、どこに戻っていいかわからないこと、その暇なんてないと宿題量によって強迫されることで不可能になってしまっていると思っています。


「宿題は量だ、という研修を学習塾時代(約20年前)に受けました(汗」
「まちがったフォームでバッティングセンターで素振りを繰り返した私を見かねた友人が、優しくフォームを教えてくれたことを思い出しました。」
→これはとてもわかりやすい話で、大量の宿題を出すのは学校にしても塾にしても「努力してる感」をアピールするのにとても便利な手段である、ということだと思います。保護者の方はそれで安心してくれるのです。しかし、バッティングフォームのお話でもわかるように勉強の方法論を徹底しない上での大量の宿題というのは生徒の勉強方法を歪め、誤った学習習慣を身に着けさせ、そして何も実力につながらないのにただただ時間だけを奪う、という極めて有害な指導です。それを大人の都合でやってしまっては中高生の学習意欲や時間を無駄に浪費していく、という事自体がこの社会を地盤沈下させていくものだと思います。


「谷口先生のおっしゃる「基本的な型」が、教員によっては網羅系の例題全部だと考えて、全部宿題に出している実態もあるかもしれません。」
→これは掘り下げたかったところです。網羅系の問題集というのはどういう位置づけのものであるのかを高校の数学の先生方がよくわからないまま使っていることがこの大量の宿題地獄に繋がっている、というのはとても正しいと思います。入試問題というのは年々「新しい」問題が増えていきます。それはいわゆる典型題ではその場で試行錯誤して考えられる子か、それともただ典型題をマスターしているだけの子かがわからなくなるからこそ、一見「新しい」問題というのを大学の先生方が大学入試で工夫されて出題するからです(もちろんこれが全ての大学でなされるわけではなく、典型題を出さなくてもいい受験者層の大学、つまり東大、京大、阪大、東工大とかでしょうか。)。しかし、新しい入試問題も出てしまえばそれはまた網羅系問題集に収録されていきます。こうして問題集と大学入試とのいたちごっこが続き、網羅系問題集はどんどん分厚くなっていくことになります。
そうした「新傾向」の問題が載っていなければそれは「今の受験には対応できていない問題集」として売れない、という悩みがあります。一方でそのような「新傾向」の問題というのも別に全く新しいものではなく、既存の内容をより深く様々な角度から理解する、という努力を怠っていなければ、それが解けるようになっている良い問題です。だからこそ、そのような「新傾向」の問題を類型として全てマスターしようとすれば、それはその類型が単調増加していく網羅系問題集を全て覚えるしかなくなるわけですが、それはそもそもまた新たに工夫して出される次の「新傾向」に対応できるのかはあやしいところです。また、今回問題提起したような宿題多すぎで、そもそももっと数を絞ったessentialな理解や基本的な型すらあやしくなってきてしまいます。
根本的には「網羅系問題集は辞書代わりのもの。辞書は信頼できる教材だけど、辞書を初学から全部覚えようとしたら止めるでしょ?」ということです。辞書の内容は増える一方ですが、それをどれだけ絞った類型にできるか、が教える側がやらなければならない仕事であると思います。中高生はついつい「新しい問題が載っているこの分厚いのを全部やればいいんでしょ!」と短絡思考にはしりがちではあるので、それをどれだけしっかりブレーキを掛けて、どれくらい少ない「基本的な型」に帰着させていけるかが、教師の仕事ではないかと思います。


「私は実業高校勤務が長いので、年々長期休業中の宿題は減らしてきた方です。私自身が理系の人間としては数学の理解が遅いので、大量の問題を解くのが難しい生徒だったのもあります。ここ数年は宿題を決める際に、問題集は買わせてありますが、自分で解いてみて、分量を決めるようにしています。」

→本当に素晴らしいご指導です。今回の会はこのように指導を工夫されている多くの先生方に「学校の宿題多すぎない?」という問題提起をさせていただく、という心苦しい面もありましたが、どうかご容赦の程を。
その上で「数学の理解が遅い」ですが、これは個人の資質による差よりも、そもそも「初めて学ぶ抽象的な内容をすぐに理解できる人間などいない」という事実を大前提に教育というのはなされるべきなのかな、と思います。東大の数学の問題なんか簡単すぎて!と思った子も学部レベルの数学ですら理解に苦しむでしょうし、そこが余裕だった子もその上では更に苦しみます。現代数学の自分の専攻と異なる分野を初学でサラリと理解できる数学者などいないでしょうし、ましてや数学以外の分野も考えれば、ですね。谷口さんが話してくれたように、人間というのは、初めて学ぶ概念をすぐに理解することはできません。それは個人の能力とは関係のないことだと思います。その苦しみをどの段階でクリアしているか、の違いでしかないのかなあ、と。「完全に理解!」という自分の認識がどれだけ一面的でしかないかということを学んでいくのが学習のプロセスだとすると、「完全に理解!(もちろんまだまだ一面的)」とすらなっていない状態で問題演習ばかりをして、教科書に戻る暇を与えない、というのが大きな間違いであることはわかりやすいのかな、と思います。


「今の勤務先が総合高校なので、進学を目指す子、専門学校へ行く子、就職を考える子、さまざまおります。ならばこそ全員に統一した課題を出すことはナンセンスだと考えております。できるだけ生徒にとって効果的な方法があればいいなと考える今日この頃です。」
→本当に素晴らしいお考えだと思います。進路が多様であればとても見えやすいのですが、実際には中学受験や高校受験でそれなりに選抜されて同質の集団である、と思いがちな学校であっても数学の理解度は千差万別であると思っています。外から見れば「同質の集団」に見えたとしてもその個々の生徒の「違い」に敏感であることが教える側には常に必要であると思います。その意味で一律の宿題、というのは僕はたとえ超トップ校であっても「個々の生徒の自分の勉強を邪魔しない程度に」出すしかないのかな、と思います。


「A問題というよりできることを繰り返すのが解く力をつけるのにとても効率がいいと思います。数学における基本とは手が動く問題だと生徒にも言うのですがB問題をやらないのは恐いと生徒が言います。解けないのに解こうとするだけではなく、解けないから解こうとするあたりに根深さを感じます。」
→これもおっしゃる通りです。「B問題をやらないのは恐い」「解けないから解こうとする」というのが中高生の短絡的な思考だと思います。それにブレーキを掛け、まずはA問題を解けるだけではなく、なぜそう解くのか、それは定理や公式のどれを使っているのか、なぜ関連する他の定理や公式はこの場合使えないのか、他の解法はないかなど様々な面で説明できるようにすることが大切だと思います。ただ、現状はB問題もいっしょくたにして宿題で出され、「わからないところは解答を写す」という学力向上には極めて無意味なやり方がなされてしまっています。


「宿題が少ないと、保護者が不安になって塾に行かせたり、学校に問い合わせたりするケースもあると聞きます。いかがでしょうか?」
「『より難しい問題集をやった方がよい』『もっとたくさん量を解けばできるようになる』といった幻想をいろいろな層でお持ちで、それが圧力となってやりたいようにできない教員もきっとたくさんおられるのだと想像されます。」
→1つ目はおっしゃる通りで、特に受験情報がネットに溢れている現在は保護者や生徒からのこういう圧力も学校の先生方は感じておられると思います。ただ、竹内先生の仰った「それは生徒の時間や努力を浪費していい理由にはならない」というご意見に僕も全く同感です。その上で基礎がどれだけ大切であるか、ということを学校の先生が毅然とやっておられるときに、(中高生が短絡的なのは仕方がないとして)それを理解できる保護者の方が少しでも増えていくこともとても大切だと思います。その点では学校であれ塾であれ保護者にも教育をしていかねばならない、と僕は思っています。
2つ目については、たとえばそのプレッシャーの回避方法として青チャートやフォーカスゴールドを使うけれどもレベルを絞って運用する(星1,2のみ青チャートならコンパス3まで)という手を使っておられる先生もいると思います。しかし、このような運用の仕方にすると、これらも結局定理や公式の導出や証明過程は書かれていない(もちろんレベルからいって仕方ないのですが)ので、それらはわからないまま定理や公式を覚えるだけで問題だけ解く、という誤った方向へと生徒をおしやることになってしまっています。そしてそこで教科書へと遡る中高生は皆無です。この一見「賢い」プレッシャー回避方法も、結果として「よくわからないまま公式を覚え、それを当てはめて解く」を助長しがちです。やはり、そのようなプレッシャー自体と闘い、生徒も保護者も啓蒙していかねばならないように思います。

「セミナー化学、セミナー物理は鉄板ですね。」
→これらも「全部盛り」で簡単な問題からかなり難しい問題まで入っていますよね。試験範囲を宿題に!というときになぜ簡単な問題だけに絞って反復させる、という宿題の出し方にならずに難しい問題まで全て一周やる、という形になるのかがかなり疑問です。(数学に限らず理科も宿題で難易度や問題数を絞って反復させる、という宿題の出し方をとにかく見かけません。反復させることへの忌避感がどこから来るのかも今後の調査の課題です。)

「徹底的にやりこませるために課題を多くするというより、先生方が指導しましたというアリバイ作りのためにやらせているという話を進学校勤務の知人から聞いたことがあります。」
→このコメントは「恐らくそうなのではないか…?いや、まさか…。」というこちらの推測に対しての貴重なご証言でした。ありがとうございます。「アリバイ作り」がキーワードでして、「学校ではこの問題集が全て解ければ東大だって受かるような有名な難しい問題集を生徒にやらせている。それをやらせているのにできないのは、生徒の努力不足だ!」という態度だと思うんですよね。。しかし、それは端的に教師の保身でしかなく、そのために勉強時間やモチベーションを犠牲にさせられる中高生には虐待的だとすら僕は思っています。たとえば青チャートしか授業でやらない学校で数学のテストの成績が悪かった子たちを集めた補習でまた青チャートしかやらせない(教科書には一切ノータッチ)、という悪夢のような話も聞きました。これは東京だと私立中高一貫校、都立中高一貫校、都立の進学指導特別推進校、進学指導推進校といったいわゆる中上位の進学校でよくなされる指導です。受験指導がよくわかっていない先生側のアリバイ作りと生徒への責任転嫁なのかな、と思います。


「模試の過去問を事前に配る文化(?)はよくあることなのでしょうか。本校では横行していますが…」
→よくあるようです。複数の学校で見受けられます。(横川さんのお話では「熊本方式」と呼ぶそうです)都内でも中上位の私立中高一貫校では見受けられます。模試の過去問を課題で出すのは、それが解けない子には解答も渡されないので復習も出来ず意味がないだけでなく、「模試対策」という過学習が受験勉強だと勘違いしてしまうという弊害も大きいです。極論を言えば、模試など大学別模試以外は受けなくてもいいと思います。それよりも正しい方向への勉強時間の方がはるかに大切です。また、トップの進学校ほど、模試は「自分で受けてねー!」で強制される模試など一つもありません。今の高校生は学校で強制される模試があまりにも多すぎてお金も時間もそこに奪われ、さらには「模試対策」として模試の過去問を解かされることで勉強時間も奪われ、それを丸々覚えることが受験勉強だと勘違いさせられています。模試を受けさせること、それに不要な過学習を強いることで受験生の「自分のしたい勉強をする時間」を損ねてしまっています。(これもまた、保護者の方からの「模試たくさん受けたほうがいいんじゃないですか?」というプレッシャーの産物でもあります。保護者の方は模試を受けていないと我が子の勉強の状況を知りようがないので不安だからこのようなリクエストをしがちです。しかし、学力を観測するという事実は学力自体にも干渉してしまう(模試で日曜日の学習時間が何度も奪われる、不毛な模試対策をさせられる)、という危険性についてはあまり考えておられないのだと思いますし、かえって合格可能性を下げることに繋がっています。)


<以下は話しきれなかったことです>
・学校説明会での「塾や予備校のいらない高校」というワードの怖さ
→結局「難しい問題集を大量にやらせます!」「宿題や小テストが多いです!」という意味でしかなく、入学後は宿題や小テストで忙しくさせられるもののそれらの課題をこなしても実力がつかず、大学受験は厳しくなる。

・今回は数学の宿題に話を絞ったが、これは数学に特有のものではない。他の教科でもこのような傾向は見受けられ、基本的に「理解が固まる前にひたすら問題集」という宿題はどの教科でも多い。「勉強する」=「難しい問題集をたくさん解く」という価値観を変えていかないといけない。

・ワークブック地獄。書き込んで提出するタイプのワークブックが増えすぎて「一度解いて間違えたものは解答を写して提出」が基本になってしまっている。横川さんの仰っていたように「解答を見ながら書き写す」というなんの勉強にもならない無意味な行為に時間を奪われ、慣れさせられる。結局膨大に出されるので繰り返し解けない&教科書に戻る暇がなくなる。フィードバックもほとんどない。


(その他の考えうる質問について)
Q宿題の量が多いことはデメリットだけか?
→基礎を様々な角度から理解するというプロセスをしっかりと定着させた上で演習量を増やすことは、むしろ有益でしかないと思います。しかし、そのような状態の高校生に学年全体に「宿題」として出せる学校が果たして日本にどれほどあるのか。それほど教科書の内容ですら高校数学は難しい。むしろそうした演習用の教材はレベルが高い子に個別で用意していく、ということの方がよいのではないだろうか。

Q解答をノートに写すことからも学べることはある。「守破離」だ!
→そのような学習プロセスが有効に機能するために必要な条件は「反復」と「吟味」だと思います。漢文の素読にしても、反復が前提です。大量の宿題を出されて泣く泣く解答をノートに写すときには反復のしようがないし、吟味はなおさらできないので身につかないです。ある解答を写す行為が(反復や吟味によって)意味があるケースがあるとしても、解答を写す全ての行為に意味があるわけではないのではないでしょうか。

Q宿題を減らしたら進学実績が下がるのでは?
→「宿題を減らしたら進学実績が下がった」というケースが仮に実在するとしても、そもそも受験生の合否に何が寄与しているのかを、独立の因果関係や相関関係として抽出するのは極めて難しいです。学校の指導のおかげなのか、塾や予備校のおかげなのか、その子の生育環境のおかげなのか。教える側はこれらを単純化して判断しないことが大切だと思います。

その上で理解できない問題を大量にやらされる宿題は、現に中高生の勉強時間とモチベーションをすり減らしていることはかなり明確な事実ではないか、と思っています。あるいは自身が学習者としてそのようなやり方で新しいことを学びうるかを考えてみても、このやり方に固執する根拠はあまりないように思えます。

Q塾や予備校でも宿題が多すぎるのではないか?学校だけを糾弾するのはアンフェアではないか。
→それはそのとおりです。塾や予備校でも宿題が多すぎるところは多いです。またそれで生徒の勉強がうまくいかなくなっているケースも多い(特にSとかT会とか)。ただ、塾や予備校は合わなければ辞められるし変えることができます。それに対して学校を辞める、変えるというのはかなりリスクが大きいのが大きな違いであると思います。その強制力の違いから塾や予備校の宿題と違って学校の宿題は中高生にとってサボることがかなり難しいからこそ、「全部盛り」で時間を奪うのでなく、生徒の意見をフィードバックしながら必要な宿題を厳選してほしいと思っています。

Qそもそも宿題は必要か。
→僕自身は率直に言えばあまり必要がないと思っています。レベルの差のある子に一律に意味のある宿題を出す、という難題に取り組むのなら、何段階かに分けて、個別の勉強方法や教材を指示する方がよい。また、「宿題がなければ勉強しない」という子が宿題を出せばそれに関してしっかり頭を働かせ勉強することはありえないと思うのもその理由です。人生は長いし勉強は一生していかねばならないので、宿題を出してもらえなければ勉強できない状態からできるだけ早く脱することができるようになるのが教育の目標であると思っています。

Qどういう学校でこういうひどい宿題が出るのか。
→進学実績を上げることで生徒を獲得したい、私立中高一貫校・公立中高一貫校・高校受験から募集する高校。トップ校ほど宿題は逆にゆるい傾向が見られます。東京都だと進学指導重点校は比較的ゆるい。特別推進校、推進校、都立中高一貫校あたりに顕著にひどい宿題が見られます。

Qこういうひどい宿題が自分の子供の学校で出されていることに気づいた時の対応。
→まずは「宿題をやりなさい」というプレッシャーをかけすぎないようにしてください。自分に必要なものを選んで、とかあまりにも多いものは相談して、というのがよいと思います。その上であまりにもひどいときは父母会などで問題提起していくとよいです。その場ではこちらの訴えが聞いてもらえなくても、先生たちの中で見直しは必ず起こるはずだと思います。

Q中高生の対応
→まずは宿題を出す先生がどれほど強制しようとしてくるかをチェック。居残りさせるなど、かなり強硬な先生の場合は、宿題が無意味でもやらないことによるストレスが大きすぎるので、写して提出すればよいです。その上で、そこまで強硬でなければ宿題をやらないで、教科書などで怪しいところをしっかりと復習し、教科書の問題を解ければよい。それで余力があれば宿題まで手を出せば良いですが、あくまで教科書の定理や公式が自分で「当たり前のこと」として説明できるようになってからで十分です。

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卒塾生を大切にしない塾。

嚮心塾もおかげさまで今年で17周年を迎えました。これだけ長いことやっていると、卒塾生も活躍が著しく、日々とっても刺激をもらっています。昨日はある卒塾生が二度目のサマソニに出演!and別の卒塾生が第一詩集出版トークイベント!ということで、後者に参加してきました。

ただ、塾としては卒塾生が遊びに来る塾ではあってほしいとは思うものの、一方で僕自身の仕事としては卒塾生を大切にしていてもあまり仕方がない、と思っています。これは何も金銭的な対価を得られるのは現塾生への仕事ぶりだから、という守銭奴な話ではなく、一般に卒塾生、それも卒業後にもつきあいがある卒塾生というのは、一般に受験の結果がうまく行っていたり、行っていなくてもそれなりに納得の行くものであったり、そうでなくてもこちらを奇特にも大切にしてくれる、という意味ではコミュニケーションの理路もある程度確立されていて、更にはそもそもそこそこ実力のついた子たちです。その卒塾生と接しては彼らの相談に乗ったり力になっていくということは、もちろん大切なことではあっても僕にとっては「一つの成功に次の成功を重ねていく」という作業でしかありません。簡単に言えば、快い仕事、きつくない仕事です。

一方で今通ってくれている塾生のことを考えれば、勉強がまだまだ実力不足であったり、そもそも努力ができなかったり、塾に来ることすら出来なかったり、来てもこちらのアドバイスを聞かないせいで結局自分自身の学習プロセスを損ねては力がつかなかったり、学校のテキトーな宿題や小テストを何よりも優先していたり、などなど問題は山積みです。その一つ一つ、一人一人に対してこちらが真剣に悩み続け、あれこれ工夫を考えても、うまくいくことなどほぼありません。10回に1回、いや、20回に1回わかってもらえて一歩前進する、という気の遠くなるような取り組みを日々めげずにやっていくしかありません。

コミュニケーションのとれるようになっている卒塾生とより深く掘っていく話をすることに比べれば、こちらの塾の現業務はしんどく、報われなく、容易に裏切られ、否定され、そして前進の少ないものです。自分自身の愚かしさを可能性の一つとして常に視野に入れる、というたった一つのいちばん大切な態度を身につけてもらうために、あらゆる角度からの説得と理解とを進めようとしてもなお、「この愚かしさが私なんだから!」という理由で拒絶をされていきます。単に学力をつける、という狭い範囲の目標においてすら、「言われたことに盲目的に従う」という態度は自分の愚かしさを温存してしまう、という意味で有害でしかありません。

こういう日々には非常に倦み疲れます。ただそれでも、僕に生きる意味が少しでもあるのだとしたら、このように聞いてもらえない言葉、理解してもらえない言葉をそれを聞くことの出来ない、理解できない相手にとどのように伝えていくのか、というそのもがき苦しみの中にしかありえないのだとは思っています。

過去のその苦闘の結果として鍛えることができていたり、コミュニケーションがかなりしやすくなっている卒塾生と話すことは、ともすればこの目の前にある「言葉の通じない」子たちがたくさんいるという事実から逃避する動機になってしまいます。だからこそ、卒塾生との思い出(これは僕には人情味がないので、ほぼないのですが)やより深堀りしていくための新たなコミュニケーション(どうしてもこちらに興味があります)に逃げることなく、目の前の大切なことが何もわかっていないまま、自身の愚かしさを疑うことなく失敗へと邁進する子たちにどのようにそれではまずいのかを伝えていかねばならないのだ、と思っています。

あわよくば、僕が死ぬその最後の瞬間まで、目の前の子たちに「全く伝わらない」という事実にもがき苦しみながらも、伝えるための手段を何とか模索し続けていきたいと思います。それだけがこの社会にとっても意味のあることです。(なので、僕が卒塾生との飲み会ばかりfacebookやtwitterばかりupするようになったら、もう嚮心塾は終わったと思っていただいて構いません。カミーユ・ピサロが「ルーブル(美術館)は芸術の墓場だ。」と言ったように、そのような塾は教育の墓場でしょう。まあ、そういう先生が多いとは思うのですが。)

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共犯関係について。

忙しくしていたら、もう5月!!本当に時間が立つのは早いです。またぼちぼち書いていこうと思います。

さて、おかげさまで塾も体験入塾の申込みをたくさんいただいて、ありがたい限りなのですが、「よーし!1からまた一人一人をコツコツ鍛えていくぞー!」と思って、基礎的なものから積み上げていく勉強を説明しては進めていくのですが、これがまた、誰も入塾してくれません。。「こんな簡単なことやっても、全部わかってるんで…。」と言われまくりです。そのくせ、細かく突っ込むと全然答えられないのですが、そういうところは自分ではなかなか気づかないんですよね。。

ということで、前回もこういう記事を書いて、最近の高校の課題や小テストがいかにひどいか、それをやっていても生徒は何も力がつかないか、ということを告発したかったわけですが、分量はともかく、生徒のレベルにあっていない課題が跋扈しているのは、実は高校生の「難しい問題集繰り返してれば、そのうちできるようになるだろ。」という甘くて幼い考え故でもあります。その点では高校の先生だけを責めていてはダメで、そのような浅はかな考えをもつ高校生との共犯関係である、とも言えます。(まあ、中高生なんてとにかく楽するためにサボることしか考えてない生き物なわけですから、それを諭しては必要な勉強へと目を向けさせるという努力を教師がしていないことはやはり教師の側に責任が大きいようには思いますが。)

と、こう書くと、「難しい問題集をやろうとしてるんだから、サボるつもりじゃないじゃん!」とか「大量の問題を解くんだからサボるつもり無いじゃん!」という反論もでてくるのでしょう。しかし、これらの姿勢はそれらの難しい問題集が自分に本当に今必要な勉強であるのか、ネットやYOUTUBEで拾った受験情報を鵜呑みにしているだけではないか、さらには日々解いているときの違和感に対して、自分でそのままの勉強を続けてよいのかの疑いを持てているかどうか、という点において思考停止をしています。「難しいものを大量に解けば力がつくはず!!」という安直な判断をしている時点で、考えることを放棄している、と言えるのです。

ここにはさらに、「難しいものにチャレンジするのはいいことだ」という謎理論があります。なんかそういうチャレンジ精神評価してよ、という甘えた態度もあれば、自分が難しい問題集をやっているからこれを完璧にすれば受かるはず!と信じやすいというのもあるでしょう。これらはすべて、「負けたとしても健闘はした。」という言い訳を先に準備しては、どのように勝つか、を最後まで諦めずに必死に考え抜いていない、とも言えるでしょう。

あるいは他の受験生が難しい問題集を解いていることにビビっては、自分も難しい問題集を解かねばならない!という動機もありますよね。この場合、他の受験生が難しい問題集を解いている(そしてその受験生がその科目で優秀である)ということに甘えては、それが今自分にとって必要な勉強であるかどうかを考えていない、ということになります。

結局、教材のレベルではなく、自分のレベルがどうであるか、が問題であるのです。もちろん簡単なレベルであれば理解が足りておらず説明もできないのに、見様見真似で練習したので何となく答は出せる、というレベルの子たちが、「じゃあこの問題集は『完璧』だから、次の問題集に行きまーす!」というステップアップをした時、とたんに「何もわからない…。」となってしまいます。それはステップアップした後の問題集がよくわからないのではなく、そもそも自分では「解けるから完璧!」と思っていた問題集や参考書も、しっかりとわかっていないが故のそのような失敗です。

だとすれば、どうしたらよいのか。もちろんステップアップしてみて、やっぱりダメならまたレベルを下げて戻る、という手もあります。嚮心塾でもそういうやり方をしていたときもあるのですが、そうすると「こっちは解けるんですよね〜。」で終わります。結局は、どのレベルまで落とし込まねばならないのか、「解ける」と「わかっている」と「人に隅々まで説明できる」はぜんぜん違うレベルであり、その「人に隅々まで説明できる」というレベルにまで落とし込んでいかなければ結局入試会場で使えるレベルにはならない、ということを早くから叩き込むしかないのでは、というのが今の所の結論です。

そして、そのような意識や見る目を早くから備えることは、必ず学習効率をその後も大きく上げることになります。
そのような姿勢を身につけるまでに多少時間がかかったとしても、そのような姿勢を身につけた上で積み重ねていく勉強の定着度の高さは、必ず「説明できるかっていったらあやふやだけど、解けるから次行こ〜!」とあやふやなまま進めたときよりも結局は学習効率がはるかに高くなります。

だからこそ、そのように見る目を変えること、解けることはわかっていることではないことを一生懸命説明しながら伝えていこうとするのですが、なかなか伝わらないことが多く難しいものです。

そしてこれは、結局そのような指導を中高生がなかなか受ける機会もないままに、大量の問題を解かされるだけの授業を受けてきている、ということに原因があるように思います。彼らが「解けるからわかってる!」と浅はかにも思考を止めようとするときに、「いや、待て。君はまだ何もわかっていないんだよ。」と彼らの運動方向と逆向きの力をかけて、負の仕事をしていかねばなりません。これが、嫌われるし、めんどくさいし、その意味もわかりにくいし、ということで先生方もやりたくないのでしょう。そうして浅はかな中高生が大量生産され、勉強ができないままに終わっていくのだと思っています。

そうした共犯関係を断ち切っては、しっかりと一つ一つ身につけていくためには掛けるべき手間を惜しませないように、日々生徒と対峙し、嫌われながら教えていきたいと思います。

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恐怖!!自称進学校のダメ課題選手権!!

さて、今日はこの読みにくいブログも趣向を変えて、教えていて直面する高校の「ダメ宿題」を具体例とともにご紹介したいと思います!自分の通う高校に対して「自称進学校」という蔑称もひどい言葉づかいではあるのですが、そこに通う高校生達のひどい苦しめられ方を知れば、彼ら彼女らがそのような言い方をしたくなるのだってよくわかります。本当に「誰のための宿題・課題なの?」「この宿題をやって生徒に力がつくと本当に思ってるの?」と首をひねるようなものばかりなのです。嚮心塾で教えていて実際に直面した「ダメ課題」をご紹介していきたいと思います。

①英文法の穴埋め4択問題を大量のページ数の課題を出す!&課題テスト!(英語)
これはもうどこの高校でもあるあるですよね。。英文法の穴埋め4択問題でひたすら大量のページ数を課題として出し、課題テストをやらせます。これをやらせることで、高校生たちはその4択問題の一つ一つの理由をしっかりと考えたり調べたりするという時間をとることができずに、無理やり覚えることになってしまいます。その結果として「英文法の勉強とは理解したり考えたりするのではなく、ひたすら文法問題の答を覚えること」という誤った認識をもってしまい、英語を苦手科目にしてしまいます。。

このあと紹介する他のダメ課題についても共通するのですが、自称進学校の高校の先生の出す課題はとにかく多く、そして問題を解かせることに固執します。あるいはそれが一番簡単で出しやすい課題、ということなのでしょう。こんなに宿題出してる!と進学指導への熱心さもアピールできますし(「それなのにやらないのは生徒が悪い!」までワンセットです。。)。当然そのように大量の課題を出せば、高校生の勉強は丸暗記、それも何なら答の番号を覚える、とかわけのわからない方向へと「最適化」してしまいます。。そうならないように量を徹底的に絞り、わからないときにはどこを参照すべきかをしっかりと指示して問題を解かせる、という課題の出し方をしている高校には本当にお目にかかれません。。(「『量』とは注意をもはや払われなくなった『質』のことである。」というベルクソンの言葉を引っ張ってきたくなりますよね。。)

そして理解のためには英文法なら総合英語系の教材が今は本当に充実していて、素晴らしいものも多いのですが、これを全く開かせませんし、読ませません。だって、大量の問題を課題として出したら、そんなのいちいち読んでる暇なんかないじゃないですか!!こうして高校生達は英語がまるでできなくなります。

②傍用問題集から大量に課題を出す!
(数学)
傍用問題集から課題を出すのはまだかわいい方です。これは昔からある課題です。しかし、最近は傍用問題集でも異常な量を課題として出されてしまいます!!(恐らくこれは使っている問題集の種類が多すぎるため、「比較的「簡単な」傍用問題集はさっさと片付けて総合問題集をやらせたい!」という狙いなのでしょう。一冊の傍用問題集をやりこむ、ということになっていません。)

さて、このように大量の課題を出されると高校生はどうなるか、というと…。というのは英文法の場合と同じです。その課題を終わらせなければ叱られるor課題テストで点数が取れない、ということを恐れて、教科書の内容もあやふやなままにその大量の問題を解き終えようとします。当然、それはよくわからないし、解けないわけで、どんどん数学が嫌いになってしまいます。しかし、そのような大量の課題を前にして、「教科書に戻る」なんて、高校生にはできません。「そんな暇なんかない!」と思ってしまうでしょう。(さらには生徒の話を聞いていると、「教科書は簡単だから!」的な刷り込みがどうも高校の数学の授業ではあるように思います。高校数学の教科書を「簡単」と呼べるレベル、というのはかなり高いレベルだと僕は思いますし、ほとんどの生徒がそのレベルに到達している学校が果たして「超進学校」ですら、日本に存在するのか、とすら思うのですが(灘や筑駒ならかろうじて…なんですかね。)、こうした自称進学校ではなぜか「教科書は簡単だから」「教科書なんかやっても仕方ない」という誤った価値観を高校の授業で身につけ、それを内面化してしまっているせいで数学ができずに苦しむ高校生が非常に多いと思っています。)こうしたことも、問題集からの課題の大量さとともに、「わからない問題があったら教科書に立ち返り、まずは教科書を徹底的に。」という正しい勉強法を阻害してしまっています。

③長文読解問題集を課題に出す(英語)
高3の4月からこうした自称進学校では長文読解の問題集をやってこい!と課題に出したりもしてきます。しかし、英語学習において、長文読解というのはゴールです。単語、文法、構文、熟語、短文での精読、そうしたものがすべてできて初めて長文が読めたり解けるようになるわけで、それを丸投げで宿題に出してしまえば、(一部のできる子はよいとして)英語がまだそのレベルに達していない子達にとってはその宿題をやる時間のすべてが無駄になってしまいます。。試合だけ繰り返していてサッカーがうまくなるのか、という話ですよね。そんな天才はほぼ存在しないのではないかと思います。そもそも高3の4月から長文読解問題集を解けるレベル子たち、というのはこれまたそんなにはいないわけで(そして一部のその子達にはこのような宿題は必要ないわけで)、これらの宿題が何のためであるのか、意図がわかりません。「高校の授業で入試問題の英語長文もやってるよ!」というアピール以上の意味はないように思います。

これもまた、①、②と共通するのですが、長文ばかりをこのように大量にやらされてしまうと、一つ一つの英文を精読するという習慣がつかなくなります。そんなことしてたらこなせるわけがない量を課題として出されて、それをすべて「定期試験の範囲とする!」とされてしまうからです。このようにして精読するという正しい勉強法から高校生を遠ざけ、結局長文読解問題集の答を丸暗記する、という無駄な時間を強いることになってしまいます。


④そもそも青チャートやFocus Goldや一対一対応の数学を課題として一律に出すことが可能な高校は日本に存在するのか?
(数学)
課題、というのは一律に出されるものです。コツコツと勉強を積み上げていった結果として、数学の実力がついてきた子がこのような総合問題集にチャレンジしていくのは好ましいことです。ただ、それを学年全員に課題として出すことが適切なレベルまで、生徒の数学力の最低ラインが高い高校、というのは果たして日本に存在するのでしょうか?(灘や筑駒なら…って灘や筑駒に期待しすぎでしょうか。。)

もちろんこれも、「青チャートやFocus Gold、一対一にも簡単な問題はある!」といえばあるのですが、それだけならこれらの教材を使わなくても別によいわけです。これも英語の長文問題集を宿題として出すのと同じで、「うちの学校できちんと大学受験対策してるから塾や予備校はいらない!」アピールのために、生徒たちが身に合わぬ袈裟を強制されている、と言えるのではないかと思います。

⑤ひたすらチェックシートとノート提出が多い。あるいは書き込み式問題集ノートを多用する。(数学)
これに関しては断言したいのですが、チェックシートなどによるノート提出や書き込み式ノート(という教材が最近は蔓延しています)を提出をさせるのは間違いなくダメ課題です。問題集というのは、自分のあやふやなところは教科書に遡ったり、自分のあやふやな問題は何度でも解き直したり、そのように自分の実力に合わせて教科書や問題集を「逍遥」することで力をつけるものです。このように「課題として出した範囲をすべて解かせてノート提出」という方式にすれば、とりあえず埋めて提出することだけが目的となります。

また、この課題の分量が多いのです。このような方式で宿題を出す学校で「よく絞り込まれてるな〜!」と感心することがほとんどありません(もちろん中にはそういう先生もいらっしゃるとは思うのですが…)。これもまた、質を量に変えてしまうことになり、高校生たちは「とりあえず終わらせる」「何なら写す」という無駄な作業に時間と労力を割かれては、ほんの少しも実力がつかないことになります。。



<さらに珍課題>「Focus Goldの星200個分の例題やってこい!」
(数学)
これはなんと、高1の夏休みに出された宿題です。高3ではありません。そもそもFocus Goldや青チャートといった難しい問題まで載った総合問題集はその分厚さゆえに使い方の難しい教材です。しかも、この星(チャートならコンパス)は数が多ければ多いほど難しい問題です。

さて、それを踏まえて数1Aを習い始めたばかり(この高校は一貫校ではないので先取りもしてないです。。)の高1の子たちにこの宿題を出せばどうなるか。当然「星1を200問」よりは「星4や5を40〜50問」となりますよね。。案の定、そのようにやろうとしていた子にストップをかけました。。しかし、恐らくこの高校の他の子たちはそのようなやり方をしてしまった子が多いと思います。良い教材をここまで使い方をミスリードできるのか、とおののきました。

<さらに珍課題>「新学期が始まる前に、スタディサプリを見て春休み中に予習してきなさい!」(数学)
この宿題、一見良さげです。「なるほど。そうやって予習させてきて、新学期にはスタディサプリの授業でわからないところの質問受けやるのか〜。それは素晴らしいな!!」と最初こちらも思ったくらいです。しかし、よくよく聞いてみると新学期が始まったら全く同じ単元の同じ内容を今度は学校の先生がもう一度授業をしていく、ということらしいのです。。そんなの、ちゃんとスタディサプリをやった子にとっては授業時間が改めて無駄になるだけですよね。。(それに…スタディサプリの先生よりわかりやすかったり工夫のある授業をできる高校の先生がどれほどいるのでしょうか…。)

スタディサプリに関してはインフラとして導入している高校が多いものの、使い方があまり確立しておらず、そしてそれが確立していないのは多くの場合、「学校の先生が講義をしなければならない」という思い込みによるものであるようにも思います。講義はスタディサプリに任せて完全に反転授業にする、とかでもよいのかな、と個人的には思います。



といったところでしょうか。もちろんまだまだあるのですが、これを書き出していると、何日経っても終わらない気がしてきたので、とりあえずこんなところで。


その上でこうした「ダメ課題」に苦しめられている高校生の皆さん!!こんなダメ課題をがんばってやってしまって、
結局受験勉強の実力がつかないよりは無視した方がいいです!!ダメ課題を出す先生の言うことを純朴に信じたせいで、君たちの勉強がぐちゃぐちゃになったとしても、そうした先生は何も反省しません。きっと「君たちの努力が足りないのだ。これだけ問題集を宿題に出しても、それ以外にも教科書も読めばいいじゃないか。」とマリー・アントワネット(?)みたいなことを言って責任逃れするのです。そんな無責任な指示に従って、君らの人生を台無しにしてしまっては本当にもったいない。

教科書を読みましょう。総合英語を読みましょう。基本的なことを丹念に理解していくことにまさる近道はありません。覚えるだけの勉強で大学受験を乗り切るのは、本当に難しいことであり、恐らくほとんどの子にとっては不可能に近いです。


その上で親御さんたちには「学校の宿題が一番大切でしょ!」という常識を捨てていただきたいのです。高校の宿題はいまや、そのようにとてつもない量になり、レベルもおかしくなり、そして高校生たちは日々それに苦しめられています(twitterで「自称進学校 課題」「自称進学校 闇」などで検索してみてください。。)。それもこれも「塾や予備校に行かなくても、高校の授業だけで大学受験が可能です!!」という甘言を信じてしまっている親御さんたちのせいでもあります。そんなうまい話があるわけがないのです(それなら筑駒生も灘生も開成生も桜蔭生も、なぜこぞってこんなに鉄緑会とかに行くのでしょうか…。それらの学校の先生方にもできていないことが、なぜ自称進学校の先生方にはできると信じられるのでしょうか…)。

もちろん研究熱心で、「課題をいかに減らすか、何なら出さないで済ませられるか」を真摯に探求するまともな先生方も高校にはおられることもあるでしょう。しかし、ほとんどの高校ではそうではないのも現実です。その現実をしっかりと直視して、今まさに苦しめられている高校生たちの声に耳を傾けては、もはや通用しなくなった規範を押し付けずに必要なことを準備していっていただきたいと思います。(読みやすく書こうとしたはずなのに、いつもより長くなるという不思議…。)

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単語テスト。

昨日の私立後期医学部の合格で、(あと私立医補欠繰り上がり待ちを除いて)今年の受験はおしまいでした。最後の最後まで必死に頑張っていた受験生が、たった3ヶ月前には「今年は記念受験なんで…。」と言っていた状態から現役合格ができたのは本当に素晴らしいことでした。

さて、塾では一人一人に単語テストを行います。これは英単語が基本ですが、古文単語だったり、世界史や日本史の一問一答だったり、年号だったり、様々なテストを口頭でしています。このやり取りの中で、どのような思考回路をしているのか、どのような勉強の仕方をしているのか、どうやって「覚えて」いるのか、といった塾生一人一人の勉強を通じた認識のありようがとてもよくわかってくるため、このテストは欠かせないものです。もちろん受験生にとってもチェックしてもらわなければついついサボってしまうことをチェックしてもらうことでサボらなくなる、というわかりやすい恩恵もあるでしょうが、それ以上に嚮心塾においてはこの単語テストがコミュニケーションの根幹となっている点で重要であると感じています。

たとえば英単語一つをとっても、接頭辞や接尾辞、語幹などに分解して覚える子とむりやり覚える子の違い、日本語の訳語の意味もわかっていないのにその訳語が出てくればいいと思っている子、似た綴りの英単語を書き並べて類似点と相違点を比較するというプロセスを経ずに混同したままに「覚えられない〜」と嘆いているだけの子、綴りだけを覚えて意味はあやふやな子、逆に意味だけを覚えて綴りはあやふやな子、そもそも単語の発音が全く出来ないままに綴りと意味だけを覚えている子、発音記号の読めない子、など、本当に千差万別です。こうした学習の仕方の傾向、というのは単語テストだけにその傾向がとどまることはむしろ稀であり、数学であれ、理科であれ、社会であれ、国語であれ、他の科目の学習の仕方にもリンクしていることが多いです。(たとえば日本語の訳語は覚えるけれども、その訳語の意味がわからないままに放置できてしまう子、というのは数学や理科の用語の定義をしっかり覚えていないことが多いです。また、英単語を接頭辞や接尾辞に分解して整理して覚えていない子は数学でも定理や公式の導出をきちんとやっていないまま丸覚えしている傾向が強いです。フレーズや英文で単語を覚えたがる子は、数学や理科でも典型問題を解き慣れることで解けていればプロセスをいちいち説明できなくてもOK、とやりがちです。このような相関関係を書き出すときりがないのですが、このような様々な相関関係から次に改善すべき学習習慣についてのヒントが見えてくるわけです。)なので、このような単語テストは「触診」のように、その受験生の様々な思考傾向や学習傾向をつかむための大きなヒントになるものであり、これはたとえば紙の単語テストをプリントアウトしてやらせる、といった、よくある型式では決して指導者には得られないほどの莫大な指導上のヒントを与えてくれるのです。

さて、そんな単語テストを僕がいつやるようになったのか、といえば大学に入学し、チューターとして教え始めた塾の校長先生から指導法として教えてもらったことがきっかけでした。その当時の僕は「単語なんか他の人がテストするもんじゃなくて、自分で覚えるもんだろ!!」という自分で勉強をしてきた人間特有の思い上がりから、生徒にこのようなステップを用意する事自体に基本的には否定的でした。それでもその校長先生に言われて、「そんなもんかな。。」と思いつつ、勉強が苦手な子達にそうやって英単語テストとかを口頭で始めたのが最初だったと記憶しています。(今から25年ほど前のことなので記憶は曖昧なのですが…。)

さて、最初は否定的だったものの、やってみると勉強が苦手な子たちも頑張って取り組んでくれたりして、「これは一体何なんだろう?」と思いつつ、それでもそのような指導方法を教示してくれた校長先生の慧眼に感心した覚えがあります。ある意味、そこからの25年間の教えることに取り組む僕の人生とはそのように「口頭での単語テスト」的な指導(それはコミュニケーションであり、観察の場であり、motivateする場であり、という多様な意味を持ちます。)とは一体何であるのか、を徐々に学び、言語化し、考え、そして工夫してきた歩みであったとも言えると思っています。自身が「そんなの、自分でやらせればいいでしょ。」と(口に出して反論したか心で思っただけかはさすがに忘れたのですが)その校長先生に対して浅はかにも反論しようとした自身の視野の射程の狭さを、まさに25年間かけて様々な角度から反証してきた、という気がしています。

もちろんこの校長先生から学んだことはそれだけではありません。ただ、この単語テストを巡るやりとりが、僕にとっては嚮心塾での指導、それは何かを伝えておしまいや正しい方法を強制しておしまいなのではなく、「こうやったらいいよー!」というこちらの指導がうまくいかなかったり、彼ら彼女らがそれを頑張れなかったり、頑張ってもうまくいかなかったり、という一つ一つの挫折や失敗に対して、こちらが「君らの努力が足りん!!」と突き放して責任放棄するのではなく、「なぜこのように身につかないのだろう?」と悩み続けては次の方法を探していく、というスタイルの原点であり、象徴的なことであると思っています。

という、大変お世話になった校長先生が、先日嚮心塾を訪問してくれました。お会いするのも20年ぶりでしょうか。塾に来ていただいたのは初めてです。多くの受けた恩、教えていただいたことを直接は返せていないままなのですが、あのとき教えてもらい、受け取った「種火」を僕自身がどのように大きく育て続けてこれたのか、というただ一点においてこそどのような恩返しができるのか、が決まるのだと勝手ながら思っています。

それはすなわち、僕自身が今目の前の生徒たちに必死に何かを伝え、鍛え、ともに悩み、何らかを伝え得ているとして、それを彼ら彼女らがどのように育んでいけるかだけが僕にとっては唯一の関心である、ということでもあります(それでも「合格体験記くらいは書いて卒塾してほしい!」とついつい願ってしまいますが!!)。

そのようにして、人が人に何かを伝えうるだけでなく、伝えられた何かを各々が育み続けうるのだとしたら、有限な時間をもって生まれ出でてはすぐに死に至る我々の人生もまた、何らかの可能性に繋がるのではないか。そのように思っています。

僕自身が初めて単語テストの必要性を教えてもらってから、胸を張れるだけの何かをこの25年間で育み得たのかどうかは、自信のある部分とない部分とがないまぜではあります。ただ、死ぬまでそれを諦めないように、必死に模索し続けたいと思っています。

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養鶏場のブロイラー。

お久しぶりです。国公立前期まで息をつく暇もなく中学入試、高校入試、私立大入試がありまして、ようやく昨日全ての受験生を送り出しました。今日明日も休み時間や一日目の夜のメール対応は残っているものの、あとは一人一人の受験生が最後まで練習通りにできるように、と祈るだけの時間が長くなりました。ここからはできる限りブログも再開して書いていこうと思います。

さて、思い出話からで恐縮なのですが、高校3年生のときに通っていた塾の一人の先生が僕にとっては人生でただ一人の「恩師」と呼べる存在でした。その彼から授業の合間によく言われたのは、「君たち中高一貫の進学校に通っている奴らは養鶏場のブロイラーみたいなもんや。卵産むしか能のないくせに、自分が優れていると思っとるんやから。」という言葉でした(ほぼほぼ東大受験生というか理Ⅲ受験生しかいない満杯の教室で彼はよくそういう話をしてくれました)。この言葉に僕は同級生に感じていた物足りなさを託しては、一緒に笑っているつもりでした。自分はそういうアホな奴らとは違う。受験勉強ごときができていようと、そんなことは人間の価値にはこれっぽっちも関わりがなく、また東大に入ったくらいで勉強をさぼっては学校歴にすがって生きるようなアホにはならない!と。(もちろん、そう意気がっているだけのただのブロイラーだったわけですが)

さて、そんな情けない「ブロイラー」としての僕自身はさておき、中高一貫の進学校は「養鶏場」なのか?ということについて、書きたいな、と思っています。特に最近は中学受験があまりにも過熱して、中学受験で合格できなければもうそこで人生が変わってしまう。。というような思い込みが巷間にはあるようにさえ思います。また高校指定校制の塾もたくさんあって、そうしたところに通わないと東大とか行けない!という思い込みも強いために、中学受験に何とか成功しなければ!となってしまったり、また「私立中高一貫校にはそれぞれこういう素晴らしい校風が!」と煽る情報もすごく出ているので、ますます良くないなー、と思っています。そうした幻想をいだいては、ますます早期選抜によって人生が決まってしまう、という思い込みが子どもたちを傷つけるからです。

ただ、こうした「有名中高一貫校に行くことが子供の幸せ!」という話は、様々な受験情報に煽られたせいで起きてしまっている、かなり親の側の思い入れと思い込みにすぎないものだと思っています。実際に国私立の中高一貫校ではどんな有名進学校であれ、良い先生が良い授業をしていることは稀です。学校の授業だけで大学受験に受かることなど灘や筑駒や開成や桜蔭でもありません。そもそもこうした高校の先生たちが受験に詳しいかといえば、そうでもないのです(まあ、本人たちは詳しいと思っているというパターンは多いのですが)。ましてや、自分の専門科目以外はどうしようもないわけで、大学受験にはあまり役に立たないから結局みんな予備校や塾通いをしています。

「中高一貫校は受験勉強のためだけじゃない!そこの教育方針の素晴らしさとそこで過ごす時間にこそ価値がある!」という一見正しそうな主張も、「ではそうした有名中高一貫校の校長が語る「教育方針」がその高校の進学実績と無関係に受容されているか」を考えればあやしくなってきます。まあこれは身内の恥を晒すのですが、なぜ我々は開成高校の校長先生の教育方針は一生懸命読むのか、といえばそれはその高校が東大合格者とか多いからではないでしょうか。もっと見識があり、もっと教育に熱心であり、もっと様々な努力をしている校長先生も恐らく他の私立高や公立高に必ずいるはずです。しかし、それらは知られるどころかインタビューさえされずに開成高校の(愚にもつかない)教育理念とかが校長からマスコミに流布されます。それらが無名な学校で必死に努力されている校長先生の教育理念よりも何かしら優れているかどうかの検証など、何もないままに、です。

つまり、教育理念にしても養鶏場のたとえに戻れば、「この養鶏場はたくさん卵を生産できているということは、ここに集められたブロイラーたちは幸せなはず!」という極めて雑な推論にすぎないのではないか、と思います。もちろんこう単純に言ってしまってよいのか、それらの有名進学校の教育理念に見るべきものが何もないのか、といえば、まあ何かしらはあるのでしょう。ただ、巷で保護者の方や小学生がうっとりされているほどのものはないのかな、と思います。(まあそもそも、教育理念というのは必ずそれが実際にできているかどうかのフィードバックを伴わなければ、単なるお題目にすぎません。「我が校はこういう教育理念です!」と言うのなら、それがどれくらいちゃんと実現できているのか、その理念に違うような細部がないのかどうか、そうした検証を通じてそもそもその教育理念を本当にこれからも掲げ続けるべきなのか、について毎年毎年徹底的に検証していかねばならないはずなのですが、寡聞にしてそのようなチェックが実行されている、というのは聞いたことがないです。)

となると、「中高一貫校などブロイラーを養成する養鶏場にすぎない」というのは半分正しいのですが、もっといえば養鶏場ほどでもなくて、単純な「器」というか、「場所」くらいでしかないのかな、というのが僕の印象です。(もちろん「無理やり勉強させては結局勉強を出来なくさせるだけでなく意欲さえ奪ってしまう「自称進学校」に比べれば、こうした中高一貫校は無害なだけマシだ!」という主張は正しいです。こんな選択肢しかない、というのが残念なところであり、大きな問題であると思っています。)

ここまでだいぶ極論のように聞こえてしまうかもしれません。ただ、中高一貫校への進学への過熱のせいで、努力もできる優秀な子たちが中学受験という早期での過当競争で失敗しただけで、大学進学までもある程度天井を作ってしまう、という弊害が生まれてしまっているこの状況については、もっと考えを改めていただきたい、と思っています。大学受験はそれに向けてきちんとやるべき勉強をやっていけば、どの中高に通ったとしてもしっかりと勝負のできるものです。今年も塾では慶應義塾大学に過去3年間合格者のいない高校から現役で合格した子が出ました!そうした可能性を一人一人が諦めずに、適切な勉強を積んでいくこと、さらには親御さんは中学受験で我が子の将来が全て決まる!!!と入れ込みすぎないことが、一人一人の可能性の探求を通じて社会全体が豊かになっていくためには、とても大切だと思います(もちろんこれも「卵を産む」という一つの方向にすぎないにせよ、です)。「有名進学校」もそんなに教育理念も教育内容も大したことないですよー!というのは少し冷静になっていただくためにも伝えられたら、と思っています。

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ある日の進路相談から。

「良い文章というのは誰か宛名が明確な(doesn't mean 「個人名を含む」)手紙でしかない!」というのは常々思うところなのですが、受験が差し迫ってくると目の前で必死に取り組む受験生一人一人に届けなければならない「手紙」が多すぎて、なかなかブログの方まで手がまわりません。と、そんなことを言っていると受験が終わるまで何もかけなくなってしまう可能性があるので、思い出したようにぽつりぽつりとまた書いていきたいと思います。

さて、嚮心塾で一番自慢なのは何か、といえば進路相談なのではないかな、と思っています。それとともに、これはまた一番自信のない部分でもあります。そのことについて今回は書いていきたいと思います。

東大か医学部か、で進路に迷っている子の相談に先日乗りました。そのときに「東大か医学部か」という選択肢自体がそもそも与えられた環境の中で「飯が食える」選択肢を親に敷かれたレールの上で選択しているに過ぎないのではないか、そもそもそれは卑怯な二択であり、自分が信じる道に進むこと(彼の場合は音楽)に人生を懸けることから逃げているだけではないのか、という話になりました。

こちらの話したこととして、まず人生を賭けて一つの道を選んでいる人間には、小器用に東大とか医学部に行ったとして音楽もプロでやっていますという人はかなわない、というのは多々ある、という話を具体例を挙げて(ここでは語弊があるのでバンド名は挙げませんが)話しました。それがなぜなのかは難しいところです。ただ、僕自身も器用な方で、勉強だけでなくあれこれやってきたので自分なりに分析してみると、「なんでもできる」ということは「何もできない」とほぼ同義である、ということなのではないか、という話をしました。結局人生は短く、ポテンシャルとしては何でもできるとしても、何かに人生の全てを懸けなければ、一流にはなれません。そのときに「何でもできる」ことを自らのアイデンティティとしてきた人間というのは逃げ道がある分だけどうしても弱いものです。逆に何かに「魂を売る」ことのできる人間は、人生を懸けてそれに取り組むしかないわけです。だからこそ、「自分にはこれしかない!」と決めた上で「さて、これをどのように良いものにしていくか」という方向に退路を断てることのできる人間だけが、一流になれるのだと思う、という話をしました。

ただ、難しいのは「自分が素晴らしいと思うものを作ろう!」とそれだけに専心して退路を断って人生を懸けて取り組んだとして、さてそれで生計が立てられるのか、という問題です。我々がその一部である市場があらゆる分野において結局は質が高いものに正当な評価と報酬を与えられているのであれば、その市場の合理性を信じて、クオリティだけに全振りして人生を懸ける、ということも可能だとは思います。ただ、そこまで見る目がない愚かな我々は、素晴らしいものを評価したり支援したり、というだけの見る目も気概もなく、音楽や芸術をその場しのぎのものとして消費していることの方が圧倒的に多いのでしょう。そのような市場の中では、「クオリティに全振り!」という戦略は食べていけなくなることになります。あるいは「食べていくための音楽」と「自分がやりたい音楽」とを分け、前者で生計を立てつつ後者をやっていく、という手もあることにはあるわけです。たとえばテレビドラマに出ている有名な役者さんが、自分の所属していた劇団の公演を有名になった今も継続して出続ける、とかはそのパターンだと思っています(たとえば八嶋智人さんや山崎樹範さんとカムカムミニキーナとかはそういうパターンですよね)。このような頑張り方も当然あるだろう、という話も例を挙げてしました。あるいはお笑い芸人さんだって、ゴールデンタイムのバラエティ番組や昼の帯番組でニコニコ笑って毒にも薬にもならない事を「お笑い風」に言っては相槌打つだけの仕事でお金を稼ぎながら、ラジオや深夜番組やライブでは自分のやりたいお笑いを目指す、という働き方の方も多いと思います。これはどの業界でも直面する問題ですよね。(もちろんここには「誰も求めていないものでなければ、大多数が共有できないという仕組み」が果たして持続可能なのか、という問題もまた存在しています。これは民主主義の限界にも関わる話ですが、これは長くなるのでまた別の記事として書きたいと思います。)

さて、そのように市場の不完全性の中で行きていく道を探していかねばならないという事実を前提とすると、この「生計のための仕事」と「自分が追究すべき仕事」とのグラデーション、というのは実は音楽や芸能の道を専業として選んだとしてもついてまわる選択であるようです。だととすると、たとえば大学に行って、あるいは医学部に行って就職や医師になったとしてそれと並行して音楽の創作や発表を続けることとそれはどう違うのか、という話になりました。もちろんこの選択をすることは、自分が音楽をやがて捨てることになる可能性もあります。しかし、そうなるならば、音楽は自分にとって必要のなかったことである、とも言えるでしょう。人は自分が避けられないものからは逃れられません。仕事が忙しく、それがそれなりに金銭的に成功を収めたら辞められる程度のものであるのなら、辞めた方がいい。そうでなければどんなに忙しくても呼吸のように創作は続けるだろうし(藤井風さんのyoutubeとか見たら、本当にそうですよね。まあ、あのような大天才と比べるのもどうか、と思いますが本当に呼吸のように音楽に取り組み続けておられると思います。)、それを両立していく中で音楽専業の方でやっていけるのなら、そのようにシフトしていけばよい、という話をしました。

そしてさらに、ヒット曲がメジャーレーベルにスカウトされてからではなく、YoutubeやTikTokから生まれる現状なら、そのような個人の作り手にもかなりチャンスがあると思う、という話もしました。もちろんそれを狙う若い人ばかりの過当競争に今はなってしまっているわけですが、それでもオーディションを受け、メジャーレーベルからデビューしないと、という時代よりははるかに戦い方があるよ、とも。

というように相談に乗ったわけですが、これが彼の悩みを解決することになっているのか、それともやはり学習塾としては常識的な結論である「まず大学受験を頑張ろう!」的なごまかしにしかなっていないのか、については僕自身も正直わからないところがあります。たとえばそれぞれの具体例を挙げながらいろんな可能性について考えていくこと自体はできる限り結論を決めてやらないように一緒にやっていき、そのための具体例も色々と出していくわけですが、結論としてこうなってしまうのには、「先生、わかりました!僕はもう大学受験なんか辞めて音楽一本でいきます!!」とならないように誘導している、と見られても仕方のないところもあります。

ただ、一方で、何かを専業としてそれに人生を懸けようと、複数の軸を作ってはそれぞれのことをやろうと、「食っていくためのこと」と「やるべきこと」とは常に分離していくのでしょう。その中でどのように継続して戦い抜く方法や戦略を考えていくか、ということは実は受験生に限らず、我々大人も日々直面し、試され続けているテーマであるのだと思います。嚮心塾もお陰様で最近は入塾希望の方が多く、生活はできているのですが、一方でこれが「食っていくため」だけの仕事になるのであれば、わざわざ教育のようなしんどいことに取り組もうと選んだ意味などまるでないわけです。「最初に様々な儲かる職業を捨てて儲からなさそうな個人塾を開業した!」という昔の決意に甘んじては、食っていくことだけを目標にして生きている現実をその過去の決断で糊塗してごまかそうと僕がしているのであれば、それこそたちの悪い「専業」者であると思います。「昔の理想を撒き餌にして、飯を食っては、自分の身の回りや家族のことしか考えていない矮小な人生を正当化している」という批判を避けられないでしょう。

心置きなく生きて死ぬためには、勇気を持って決断をし、努力しただけではダメで、勇気を持って決断をし続け、努力し続けなければなりません。少なくとも僕にとってのそれは、こうした生徒の進路相談のときに、どれくらい自分が(自分が食っていくためではない)本当の言葉を吐けるのか、それをどこまで自身が本気で悩み、模索し、調べ、考えているか、というただこの一点にて、絶えず試され続けます。

逆に言えば、このような若い世代の悩みに対して自身も必死に悩んだり考えたりするのではなく、「うーん。でも大学は出といた方がいいと思うけどなー。(またこの相談か。こいつなら大卒と高卒の生涯賃金の格差とかくらいの話しといたら納得するだろ。)」とテンプレートの、自身で疑いもしていない結論へと誘導する「説得」を繰り返すようになったときにこそ、嚮心塾は死ぬのだ、と思っています。どちらが良いのかは僕程度の能力や努力や経験では、本当にわからないことであるのです。本当にわからないからこそ、必死に考え、悩み続けるしかありません。

自身の内臓や脳みその裏側、もし心というものがどこかに存在するのであれば、その心の底までさらけ出すような進路相談をできるように、今日も必死に底の浅い自分を何とか掘り下げようともがき続けていきたいと思います。

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ワークブックの罪の重さ。

ほとんどのご家庭では「学校の勉強がとにかく大事!」という方針で親御さんはお子さんに接します。また学校の先生も「学校の勉強が一番大事!」と繰り返します。それでうまくまわっているお子さんについてはとりあえずはそのままでよいのですが、その「学校の勉強」を必死にやっているはずなのにうまくいっていないお子さんについては抜本的にそのやり方を変えていかねばならないはずです。ただそれをこちらが指摘してもなかなかわかってもらえずに「学校の宿題や小テストをやりながら学校の成績を上げるにはどうしたらよいですか?」的な無理難題をリクエストされてしまうことが多く、頭を悩ませる毎日です。(そもそも今学校で勉強している内容についていけないのなら、もっと基本的なことを復習すべきであるのは明白なのですが、学校の宿題や小テストは「今」進めている内容についてのものです。その「今」についての宿題が膨大であるときはそれを「それ以前」があやふやなままにこなすこと自体が時間の無駄であり何一つ力になりません!という事実自体は説明すればわかっていただけることが多いのですが、「学校の宿題を無視する」ということがなかなか怖くてできないままにその無意味な勉強を続けてしまう、という悲惨な状況に陥りがちです。)

これとかは処方箋がわかっているのにもかかわらず、多くの人の先入観やあるいは学校の先生の権力(「宿題をやらないと評価を下げるぞ!!」という強制力)によってその問題解決に取り組めていないままに若い世代の時間と努力が無駄遣いされている例です。まあ、今の日本社会の縮図である、と言えるのかもしれません。(これだけ宿題をやれ!!という割には先生たちはテストの点数の方をはるかに重視して成績をつけるわけで、「宿題をやる」と「テストで点を取れるようにする」がトレードオフの関係になってしまっている子たちに対する対策を真剣には考えていないわけですから、「テストで点を取れるようにする」「受験で点を取れるようにする」という目標に焦点を当てて勉強したほうがはるかに子どもたちにとってもよいわけですが…。それほどまでに「宿題はやらなければならない」という誤った価値観を覆すのは難しいです)

さて、前置きが長くなってしまいました。その宿題の中でも最悪のものが「ワークブック」であるのです。今回はなぜこのワークブック形式が問題であるのかを書きたいと思います。

といっても親御さん世代にはあまりピンとこないかもしれません。昔の大学受験は、あるいは高校受験も教科書や問題集とノートで勉強していましたよね。しかし、最近の中高生はワークブック天国(あるいはワークブック地獄)です。英語数学理科社会国語全てワークブックをやらされます。そして、それを試験前に指定された範囲まで提出!というところまでが中学だけでなく高校でも一般的になってしまっています。この宿題形式での勉強方法の一番の問題点は

問題を繰り返し解かなくなる。教科書に戻らなくなる。

ということです。
問題集って一周終わったらもう完璧!という天才的な学習者なんてほぼいません。むしろできなかったところを繰り返し解いたり、そこであやふやなところは教科書に戻って復習したり、その繰り返しと教科書に戻ることが学習効果を高めるために必要でした。しかしワークブックは「提出するため」に宿題として出されます。当然それなら一回解いておしまい!間違えているところがあってもそんなの気にしない!となってしまいますよね。

さらには宿題として出される分量が多すぎるために、そもそも繰り返して解いたり、間違っているところは教科書に戻って復習する、という時間の余裕がとれないために、子どもたちに「ワークブックはとりあえず終わらせるもの」という誤った学習観を刷り込んでしまいます。

さらには、ですね。高校生用には青チャートやフォーカスゴールドのワークブックまで最近では出ています。このレベルの問題集をワークブックにして提出!とかなってくると、「こんな難しい問題、解けない大多数の子にとってはただただ解答を写すしかないじゃん。。」という地獄のような宿題になってしまっています。ハイレベルな問題を、繰り返し解き直したり、教科書に戻ったりなんて夢のまた夢、というような分量で宿題を出されるわけですから。。このようにして問題集を繰り返して解く、わからないところは教科書に戻る、という学習習慣がこのワークブック地獄によって破壊されていきます。
そして、勉強がわかるためのものではなく課題をこなすためのものになってしまいます。全く有害な宿題形式でしかないと思います。

また、そもそもこうしたワークブックにはせいぜい簡単な公式のまとめしか載っていません。英語なら簡単な文法事項のまとめでしょうか。それをちらりと見て後は解くだけ!というレベルのお子さんのほうが圧倒的に少ない以上、このような形式での宿題は「教科書に戻る」という習慣なくしてはわけのわからないまま解くことを強制することになってしまいます。

ではなぜこのようなひどい宿題が一般的であるのか。やはり教員の側の宿題の管理のしやすさゆえではないか、と考えています。宿題を出す、というのは本当に難しいものです。問題を厳選してできる限り基本事項の解説や説明を徹底したものを読み込んだ上で問題を解いていく、という教材があればよいのですが、なかなかそういった教材は少ないです。またあれこれ教材を本屋さんで探せばそういう参考書はあるのでしょうが、そのあたりは特に中学校で市販の教材を使うとまずい何かがあるのかもしれません(ここはあまりよくわかりませんが。画一的な学校採用の教材ではなく市販の教材使えばいいのに!と思います。)。だとしたら「ワークやって提出ね!」は教員側にとっては教材選定、問題レベルの絞り込み、さらにはやったかどうかがひと目でわかる管理のしやすさ、という点で優れています。つまり、これは単純に生徒のためではなく、宿題を出す側の教員の論理で選んでいることを生徒に強制しているだけです。

ではそのように「基本事項の説明がしっかりしていて公式の導出もちゃんとしていて、問題のついている教材、しかも本屋さんであれこれ見比べてプロが一生懸命探さなくても手頃に見つかる教材」はないのでしょうか?実はこれが数学や理科、社会の場合は教科書であると思っています(英語の教科書は英文法の説明が貧弱すぎてダメです。。)。教科書は基本事項の説明を丁寧に書いてあります。それをしっかりと理解し、問題を解くことで受験レベルの基礎は全て身につく、とても優れた教材です。ただこれを阻むものとして一つは「教科書は簡単だから問題集をやったほうがいい!」という子どもたちの思い込み(とそれを助長する教師の教科書軽視)、そしてもう一つは「教科書には解答がついていない」という別の大きな問題です。。子どもたちに勉強できるようにさせてあげる気がないのか!!というくらい教科書の解答を子どもたちに配らないのは犯罪的であると思います。その結果教科書があやふやなままにワークブックで膨大な量の宿題を提出させ、結果子どもたちの勉強時間と努力をほぼ無意味に浪費してしまっているからです。

と見てきたように書き込みワークブック形式がいかに勉強として意味がないか、しかしそれがたとえば20年前と比べてはるかに大きな市場となり、子どもたちの学習環境の隅々にまで入り込み、以前は書き込みワークブックではなかった問題集までそれに置き換えられ、そして子どもたちは基本事項の理解もあやふやなままに英語も数学もその膨大な書き込みワークブックの宿題をこなさせられては、時間を無駄に費やしているのが現状です。塾ではそういった悲惨な状況に諸々対策を練ってやっているのですが、しかしマクロとしてこのような無駄な勉強にほとんどの学校が血道をあげているのについても、何とかしていかなければならない、と痛感しています。

そして理想の教材は「解説・解答つき教科書」なのでは?という方にはたとえば数学だと数研出版の『体系数学』シリーズは解説・解答つきの教科書として有用であり、かつ普通の本屋さんでも買えるのでお薦めです(塾でも愛用しています!)。他の教科書会社も(高い教科書ガイドとか売っていないで)市販本として教科書を売り、安価な解説・解答をつけるというこうした努力をしっかりやっていただくだけでも中高生の勉強はかなりはかどるのでは?と思っています。(もちろんここには「解答を生徒に与えると答えを写す!」的な学校サイドのリクエストがあるとは聞きます。宿題用の問題集の解答すら生徒に与えない高校も多いと聞きます。このような性悪説にたった締め付けも、結局は子どもたちに「問題集の宿題はただ解いて提出すればいい」といった誤った刷り込みを生みます。自分の誤りを解説や解答と照らし合わせてはじっくりと吟味して考え、教科書に戻って復習し、しっかり考えていくことこそが学力をつけていく道であるのに、そのためのいちばん大切なツールである解説・解答を「どうせお前ら答見て写すだろ?」という訳のわからない理由で取り上げられてしまっているという。。本当に愚かな行為であると思います。)

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夏休みの宿題はやらない方がいい。

ご無沙汰しております。あまりにも忙しくバタバタと教えていたら、気がつけばもう8月も半ばです。この間10月のマタヒバチ東京公演とかの準備もあり、あまりに忙しくて本すらちょこちょこしか読めていないという。。しっかり立て直したいと思います。

さて、学校の宿題のひどさについて、facebookの方に投稿しました(公開設定なので、どなたでも見れると思います)。

まあしかし、これでも書ききれていないくらいヒドイ宿題!!!に悪戦苦闘する塾生たちと日々直面し、何とか彼ら彼女らがせっかくの勉強時間を少しでも実力をつけていくことに費やしていけるようにあれこれ作戦を練っています。

まず、多くの親御さんにご理解いただきたいのは「学校の宿題はやらないほうがいい」というのが現在の実状である、ということです。特に私立中高、都立一貫校といった「うちは大学進学に力を入れています!」というところの宿題は本当に質も量も酷いものです。

これらの大量の、かなり難しい宿題をこなさなくてはならない中高生は、結局「よくわからないままにとりあえず埋める」ことで彼らの夏休みの勉強時間の大半を潰すことになります。一学期の中でわかっていなかったところを復習する時間も、二学期の予習をする時間も全てこの「大量の宿題を何とか終わらせる」ことに費やされてしまい、勉強はしているものの力もつかず、さらには勉強自体へのモチベーションも下がってしまいます。

それを親御さんが「まずは学校の宿題でしょ!」「宿題は終わったの?」ばかりプレッシャーをかければ、当然中高生は「宿題を終わらせる」=「勉強する」としか思いません。しかし、いくらこのようなレベルも量もおかしい宿題を終わらせても、全く力はつきません。結果として「真面目に宿題をやる(やらせる)」ことが、その子の学習の遅れをどんどんひどくしてしまうことにつながってしまっています。

この現実をまずは多くの親御さんに知っていただきたい。そしてどうしてこんなことが起きているかといえば、学校の先生の出す宿題が極めてテキトーであるからです。「たくさん出しときゃいいんだろ!」「難しい問題出しときゃいいんだろ!」「青チャートとかフォーカスゴールドやらせとけばいいんだろ!」という思考停止に陥った宿題ばかりです。しかし、中高生に難しい問題を大量に宿題で出したとして、それをこなした上で一つ一つわからないところを教科書から復習して理解できるだけの学習時間を彼らがとれるわけがないのです(それは中高生がサボっている!ということではなく、物理的に無理なレベルの分量を出されています)。

むしろ問題の数を厳選してできるだけ最小限に抑え、内容もessentialなものに限定し、そしてそれを繰り返す、ということの方がはるかに学力がつくはずです。しかしこのような宿題の出され方をこれだけ多様な学校の子が通う塾で一人一人各科目の宿題を見せてもらってもほぼ一つもない、というこの恐ろしさですよね。。どれだけテキトーな宿題を出してるのか、中高生の学習時間をどれだけムダにしてしまっているのか、中高の先生方には猛省していただきたいです。

それとともに、親御さんに是非ご理解いただきたいのは、「学校の宿題をする」ということがこの大量かつハイレベル宿題虐待地獄の中高に通う上では、お子さんを鍛える戦略として大きく間違っている、という認識をもっていただくことが大切です。「宿題をしなさい!!」というその一言が、お子さんが勉強ができなくなる原因となってしまいます。

じゃあ、何やったらいいの?というときに「ぜひ嚮心塾へ!」と言うと広告としてはよいのでしょうが、そんなのいりません。教科書をやってください。教科書の説明をしっかり何回も読んでください。数学に関してはこれで中高どちらでも大丈夫です。英語に関しては英文法書を中学のであれ、高校のであれ、繰り返ししっかり読むだけで大丈夫です。

これも「問題を解く」必要はありません。ひたすら繰り返し読んでいただけたら。そのうえで「だいぶ理解できてきた!」「説明できる!」となってきたら教科書にある問題だけで良いので解いてみるとよいでしょう。

宿題の話に限らず、一般に中高生は問題を解かされすぎています。しかし、問題というのは自分の理解を確かめるために使うべきものです。説明ができるかもあやふやな状態で問題だけ解いて大量に実力をつけることは、しっかりと説明を繰り返し読んではそれのチェックとして問題を解いて力をつけることよりもはるかに難しいことであると思っています。前者のような勉強法では、帰納的に抽象化する能力の高いとてつもなく優秀な子(東大や医学部に合格するレベルではなく、もっと上です)でないと力がつかないと思います。

だからこそ、教科書の説明もあやふやな状態で大量の難しい問題を解かせる、は何から何まで間違っています。ぜひ「宿題なんかやらなくていいから、教科書を読みなさい!」というお声がけをお願いしたいです!!(まあ、本当は中高の先生方にそれを徹底していただきたいのですが。。)

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中高生の教育でタブレットを有効に活用するただ一つの方法。

教育のことばかり、書きたくないのです。。もっと書きたいことが山程あり、「こんなアホな大法螺吹いてら!」というのがこのブログの存在意義でもあると、せめて自分だけは思っています。ただ、普段から教育のことばかりに携わり、あまりにもひどい教育現場の様子(つまり学校の様子ですね)を見せられ続けていると、言いたいことだらけになってしまい、一度書き始めると止まりません!!ということで今日も教育ネタですみません。

さて、ICT教育のスローガンのもとに、都内の私立はどの中学でも高校でもタブレットを導入しています。しかし、このタブレットの使い方がひどい、というか、「こんなの、絶対勉強できなくなるだろ!」というような使い方ばかりを見せられるために、ビビります。必然性のない使われ方のためにタブレット端末代という高い経済的負担を親御さんに強いることも大問題ではあるのですが、もっとひどいところになると、「こんな使い方してたら、そもそも勉強ますますできなくなるんじゃない?」という使い方になってしまっています。
いくつか実際に目にしたケースを挙げていきたいと思います。

①問題集がタブレットの中に入ってる。
「何冊も重い問題集を持ち歩かなくていい!」以外に何のメリットがあるのかわかりません。。見にくいし、使いづらくて高校生たちが苦労しています。ただ、この場合、ノートに解くのでまだ使いづらいこと以外はデメリットが少なめです。

②問題集がタブレットの中で完結している。
解答するところまでタブレットでの操作でおしまいのものです。選択問題を選んだり、といったものですね。これはかなりひどい影響が出ていて、中高生が勉強するのに紙とノートを使わなくなってしまっています。いわゆる「手を動かす」ということがとても減ってきてしまっている分、さらっと読んでおしまい、とかになってしまっています。

③教科書をタブレットで見る。
これは立体図形の表示とかではイメージしやすいものとかもあってそこは優れているのですが、全般的に手を動かさなくなる、わからないところを読み返す、ということができなくなりがちです。

これは僕自身もタブレットで電子書籍で勉強するときとかにも感じるのですが、紙の書籍と比べてわからないところを読み返す頻度が電子書籍の場合どうしても落ちるように体感しています。スクロールは紙をめくるよりも容易な操作であるのに読み返す頻度が減る、というのは面白いものです(おそらくスマホで大量の薄い情報を流し読みするのと同じモードになってしまうのでしょう。もうちょっと内容を丹念に追わなければならない本でもそう振る舞ってしまっては、結局habitの方を優先して理解の速度が追いついていないことを犠牲にしてしまいがちであると思います)。

こうした効果は教科書や問題集でもやはり出てしまうのではないか、と思っています。つまり読んでいるけれども理解していない、読むのが「速すぎる」ことで、むしろ理解できていないことがあるままに先に進んでしまうということが増えているように感じています。

さらに言えば、ノートと鉛筆を使わないタブレット学習なんか、最悪も最悪です。これも、たとえば大学生がタブレット端末で勉強するのにはそれなりの利点があって、大学の教科書は分厚い本が多い、とか、高校生までに大学受験で手を動かして勉強する習慣がついている、とかそういったことによって初めて効果的で効率の良い学習をタブレットを使って行うことが可能になっていると思います(逆に言えば、そのような習慣がついていな子は大学生でも厳しいです)。

しかし、中高生で既にその基本ができている子の方が圧倒的に少ないわけですから、そのような子たちがタブレットの導入によってますます「手を動かさないで勉強した気になる」という状況になってしまっています。これは特に中学入試で比較的入学しやすい私立中などでは進学実績以外の何らかのアピールとして「ICT教育の充実」なんかを売り文句にしているせいで、思考のプロセスを丁寧に書くことのできない層の子たちが中学入学後に「書かない」勉強を与えられ、しかもそれが奨励されるので悲惨なことになっている、というケースも目にしています。

たとえば大学入試は少なくとも当面は「紙の文章を読み、答案用紙に書く」というスタイルから変わるわけがないのですから、むしろこのご時世に「うちの学校はタブレットとか使いません!全部紙です!!だって入試はそうじゃないですか!!」とかいう姿勢を保護者の方に主張する学校とかは僕はとても好感が持てますし、実際にそちらのほうが勉強の力もついていくと思います。またよけいなお金もかかりません。しかし、同調圧力の強い日本では「流行り物には乗っておけ!」「むしろタブレット端末使わなくて、『おたくの学校はタブレット使わないなんて遅れてるんじゃないですか?』という父母からのクレームが怖い。。」といった事情で導入してしまい、本当に学習効果が上がるのかどうかよくわからないものの、辞めるのも怖くて辞められない、という状況なのでは、と見ています。非常に大きな問題ですよね。。


と、ここまでを踏まえてタブレット端末は全くいらないかといえば、中高でも意味のある使い方ができる方法が唯一つだけあると思っています。それは、「授業を動画に収録して全て動画で授業を聞く」です。登校の必要もなくし、教室に来る必要もなくす。授業動画は何回でも繰り返し再生できるようにし、もちろんわからないところを聞く時間を週に一回は作り、そこで先生がそこまでの授業動画についての質問受けをする(そこだけ必ず登校する)、という方式です。

もちろんそうすると、「じゃあスタディサプリでいいじゃん!」という話になります。また、実際にスタディサプリの予備校の先生の講義を超えるレベルの授業動画を作れる中高の先生方が何人いるのか、という問題もあります。しかし、一方で多くの人が見る授業動画とその学校の子達の学力レベルが把握できている先生の授業動画とを比べれば、ターゲットが絞りこめる分だけ、後者も意味のある授業動画が作れるはずです。そのようにシフトすれば今よりははるかに有効に活用できると思います。

即ち、現在の中高でのタブレット端末の使い方というのは、「授業」という受動的に情報を吸収する時間であるが故にタブレットを使うのに一番適切な時間でタブレットを使わないままに、「自主学習」という実際に手を動かすことで初めて意味のある部分にタブレットを用いている、という倒錯した仕組みで運営されている結果として、「より手を動かさない勉強」へと中高生を追いやってしまっているのだと思います。そうではなく、「授業を動画でタブレットで見て、問題集は実際に紙とノートで勉強する」というようにするだけで、だいぶ改善するのではないでしょうか。

こうした悲惨な現状を見るに、やはり私立中高の勉強についても戦略的に全体をデザインできる先生がいるかどうかが大きな分かれ目なのだな、ということを痛感します。そういう仕事もやっぱりしていかないと、ですね。。これもまた、考え、実行に移せるように何とか頑張ります。

(追記)
と書いた後に友人から、日本の教育学の泰斗である佐藤学先生が「ICT教育によって学力が上がるという研究結果はほとんどない」と仰っている記事を紹介されました。有料記事ですが、リンクを貼っておきます。「さすが佐藤学先生!僕と同じ問題意識とは!」といういつものボケは、大切な(別の)友人の師匠にはなかなか言いにくいのですが、そこを頑張って言っておきます!

https://www.asahi.com/articles/ASP5T3FC0P5TULBJ003.html

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