嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

成功は失敗のもと。

「失敗は成功のもと」という言葉はよく使われます。それだけでなく、このブログでも何度も書いてきましたし、たとえば現在配布しているパンフレットでもそのことについて書いています。(「何度も、間違えよう。」)これについては一般に広まっている考え方でありながら、その実践がなかなか難しい、という意味でもその重要性について繰り返し強調していかねばならないことであると思います。

ただ今回はそれとは逆のことについて書きたいと思っています(ですので、ブログタイトルは間違いではありません!)。

一般に成功は失敗のもとでもあります。これはどういうことかといえば、人間の失敗にはたいてい彼らがそうする理由があり、そしてそれは殆どの場合彼らがそのような態度、行動、考え方で過去に成功してきているのがその理由である、ということです。つまり、過去においてそのようなやり方である程度の成功を収めているからこそ、そのやり方がいつでもどんな場合でもうまくいく!と思い込み、そのやり方を継続していく中でその過去の成功したやり方がうまくいかないような状況に変わっているのにも関わらず、同じやり方を続けて失敗を続けてしまう、ということです。

具体的に勉強に関して言えば、たとえば単純に暗記さえ頑張れば中間テストや期末テストはなんとかなる、という成功体験を繰り返してきた結果として、はるかに範囲が広くはるかに難易度が高い受験に関しても「とりあえず覚えればいいんでしょ?」というように取り組んでは失敗する、ということはとても多いのです。逆に(それよりはケースとしては少ないのですが)理解をすることを徹底してきたがゆえに、「理解していれば覚えていなくても大丈夫!」と覚えることを軽視し、時間のきつい入試ではそれゆえに間に合わなくなる、という失敗もあります。

これは別に受験勉強に限りません。サッカーでも強引にシュートを狙うフォワードよりも周りのプレイヤーを使えるタイプのフォワードになろう、ということで成功してきたプレイヤーがその考えにとらわれ、そうは言ってもシュートを打つべき場面で打たないがゆえに大成しない、ということもあります。あるいは将棋は自陣の固さがまず大事でしょ!と固めてから殴り合うことで強くなってきた棋士が、昨今のソフトの発達以降の自陣が薄いままに進めていく将棋に適応しにくい、ということもあります。どの世界でも、それこそ超一流のプロであっても、今までの自分の成功を形作ったものが、状況が変われば自分の失敗の源泉となってしまうこともまた多いのです。それほどに「これさえやっていれば永遠に大丈夫!」と言えることなど、どのような分野においてもありません。だからこそ、考え続け、変わり続けていかねばなりません。

嚮心塾でやっていることは、だからこそ、その一人一人の「成功体験」の効用と限界を見定め、その成功体験のままに任せていい部分と、それでは通用しない部分とを指摘しながら、受験生一人一人が過去の成功にとらわれて自分が身につけるべき努力の方向性を勝手に局限しないように、丹念に押し広げていく作業であると言えるでしょう。その点で、「成功は失敗のもと」であることをどれだけ教える側が自覚できているかどうかが重要となります。

ただ、この「成功は失敗のもと」もまた、口で言うのは簡単なのですが伝えることが極めて難しいものです。なぜなら、そのような成功はその受験生にとっては自己のidentityにも繋がっているからです。40年間足を棒にするような聞き込みで犯人を捕まえてきた刑事さんが(そんな方が本当にいるのかは知りませんが)聞き込みよりもむしろtwitterをチェックする方が犯罪捜査に役立つようになったとしても、そこに対応することは単に先入観があるから難しいというだけではなく、自己の人生を否定するのに近い感覚をもつと思います。たとえば大学受験生のようにまだ18歳くらいの子たちであっても、そのような「これを否定したら自分ではない」という思い込み故に努力をしても力がつかない、という悪循環に陥っていることが多いのです。

そしてそれは、彼らのidentityに関わる部分であるからこそ、そのような指摘を聞いてもらうためにはそれを指摘する側との強い信頼関係が必要になります。彼らのidentityを否定したいわけでも、枠に入れて無理やり自分の理想に近づけたいわけではなく、純粋にそのような過去の「成功」にこだわること自体が次の限界を産んでいることを指摘して受け入れてもらうためには、そのアドバイスが単に教師の側の都合や偏見ではなく、本当に受験生本人にとってそれが必要であると教える側が判断していること、またその主張には少なくとも伸び悩んでいる彼にとって試すべき価値があるかもしれない、ということを理解してもらう必要があるのです。

この信頼関係を築いていくのが本当に難しい、というのが教えていての実感です。そして、この信頼関係を築くのを非常に難しくしているのは、そもそも子供たちにとってほとんどの周りの大人は教える側の都合、あるいは偏見、好みなどによって、子供たちに大人達が成功したやり方を(何の根拠もなく)矯正させようとしてくるケースがとても多い、という不幸な事実ゆえでもあります。

だからこそ、まずは子供たち自身の成功体験やidentityに寄り添い、それに対して僕自身が偏見もなく、むしろ肯定的に評価し、その成功体験とそれから導かれる彼らの方法の効用については最大限に評価していった上で、その限界を指摘する、というプロセスをとっていく必要があるわけです。(ちなみにこの「成功は失敗のもと」という点に注意深くあれば、アドバイスをする人が先輩であれ、兄弟であれ、親であれ、教師であれ、自分の成功体験を語るということがいかに生徒にとっては有害であるのかにも思い至るはずです。その成功体験はそもそも状況が違うだけではなく主体が違うわけで、自慢話以上の何かのヒントになることの方がむしろレアケースであると思います。むしろ失敗体験の方がアドバイスとしては有益なことが圧倒的に多いです。)

さらに話を広げれば、子供たちが「何かを理解できない」ということは、だいたい「何かを理解できている」がゆえであるのです。いや、これは子供たちに限りません。大人たちについてもそれは言えるでしょう。自分にとって理解できないものを真に理解できなくしてしまっているのは、自分が既に理解している何かに帰着させて考えよう、という考え方です。もちろん多くの場合において、自分が理解している何かに帰着させて考える、ということは多くの成功体験を生むわけですが、同時にその「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものについては拒絶するという姿勢につながります。「理解は無理解のもと。」でもあるわけです。しかし、その「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものをこそ、受け入れ、意味を考え、咀嚼していく作業こそが実は、過去の自分の延長ではない自己の可能性を開くためには、とても重要であると思っています。どのような理解にも効用と限界があることを、常に意識していかねばなりません。

ともあれ、今年もまた一人一人のちっぽけな成功体験に閉じこもって生きることのない受験生生活を受験生達が送れるように、そしてそれをまず伝えられるだけの信頼関係を築いていけるように、日々努力していきたいと思っています。

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普段温厚な人がキレると、なぜ私たちは怖く感じるのか。

素朴な疑問として、普段温厚な人がキレるとなぜ私たちは怖く感じるのかについて、考えてみたいと思います。

もちろん、まず最初に言えるのは「いつもと違う」ということがこれから起こる事態の予測可能性を大きく下げる、という事実に対して恐怖を感じるという理由です。人間は基本的に繰り返すこと、ルーティーン化することで自らの注意力を落としてでも目の前のことに対処できるようにすることで日常生活を送っています。だからこそ、その今までの習慣が通用しなくなる事態に関しては、根本的に恐怖を感じやすいからです。それは今までに習慣化してくる中で不要としてきた自身の注意力を再び喚起しようとする自己防衛本能のようなものであると思います。

ただ、これだけが理由ではないのかな、と僕は思っています。普段温厚な人がキレる時、私たちは「彼or彼女が怒っているのは、彼or彼女の側に怒る原因があるのではなく、私の側に怒らせる原因がある。」という事実に思い当たらされる、ということも大きいのではないかと思います。裏を返せばいつでもなんでも、細かいことにプリプリ怒っている人は、目の前の人に対して「怒るべき事実が今ここに存在している」ということを伝えることができません。普段怒らない人が怒るからこそ、それが怒っている主体の属人的な要素ではなく、怒るべき(あるいは怒られるべき)事実がここにある、という事実の提示に繋がるのであると思います。その「怒られるべき」事実の提示に対して自分から反省がなされれば健全ではあると思うのですが、反省をする、というのは大人になればなるほどできなくなるものですから、自分が反省すべきことはない、という前提に立った上で、目の前に提示された事実の解釈として「怖い」という反応が起きるように思います。

このことを教育に引きつけて話せば、普段から何もかもを厳しく取り締まる先生の言うことは生徒たちにとっては「何もかもをきちんとやらねばならないのだ!」という気づきには全く繋がるどころか、「あの人はそういうウルサイ人だね!まあ、気にしなくていいや。」という反応になります。逆に自分たちに自由を認めてくれたり何でも任せてくれる先生が「でも、これだけはきちんと守れ!」という時には、どのように幼いあるいはやんちゃな子供であっても「これは守らなければならないルールだ!」と必ず認識します。厳しい注意が注意する側の属人的な要素であるのか、それとも大切な事実の提示であるのかを彼らは賢くも判断している、ということになるわけです。だからこそ、親や教師にとっていちばん大切なことは、いかにガミガミ言わないか、言うとしてもその頻度をいかに落とすことができるか、であるのです。

このように教育的効果を考えれば、怒る、あるいは注意するというのは出来る限り頻度を落とした方がはるかに効果的である、という結論になります。「うちの子は何回言っても言うことを聞かない!」ではなく、「うちの子に何回も言えば言うことを聞くわけがない」のです。「何回も言う」ことが、そのことへの注意や関心を低下させ、それが重大な事実の提示ではなく、単にその人がうるさい人だから怒っているのだ、という結論につながってしまうのだと思います。大切な注意をより効果的にするためには、普段から注意する頻度を出来る限り少なくすること、子どもたちの自発性を出来る限り尊重した上で、それでもここは直さなければならない、というところに関しては決して譲らずに注意をしていく、ということが必要であるのです。

ここまではまあ当たり前の結論なのですが、さて、なぜ親や教師は何回もガミガミと怒ってしまうのでしょうか。もちろん、これには様々なくだらない理由もあります。算数の掛け算の順序の強制や、分数の線や筆算の線を引くのに定規を使わせる、などはその代表例でそれらは主にその指導の合理性を度外視して、子供たちに盲目的な従順さを学ばせるための指導になってしまっていると思います。
これらの論外な指導はひとまず脇において、その「ガミガミ」を起こしてしまう理由の中で一番問題であるのは、「完璧主義であること」です。そして、その完璧主義とは子供のためではなく、主に教える側のためであることがとても多いと感じています。子供達が何か「正しくない」ことをしていると、自分が気になって仕方がない。あるいはそれを今指摘しておけば教える側の自分の責任は果たしたと逃れることができる。だから、それを直させなければ気が済まない、というものです。このような矯正は主に「間違いは間違いなのだから、早く直した方が結局その間違いを続けなくて良い!」という考え方に基づいているという意味では基本的には子供たちへの愛情に基づいているとも言えます。

しかし、僕の実感としては、子供たちが間違いを犯している時、その間違いには必ず必然性があります。だからこそ、その間違いを形式的に矯正することは子供たちにとっては「理解できていないものを受け入れる」ことにつながってしまうのだと思います。ここでも大切なのは、間違いの指摘がそれを注意する側の属人的な判断だと思われないように、間違いを指摘することが「事実の提示」になるように気をつけていくことです。それが事実の提示になるためには、もちろん理解をしてもらえるように説明を尽くしていくことも大切であるのですが、そもそもそれでは通用しないという事実を子供たちが感じられるようになるまで、教える側がじっと待つことが必要となるのです。

このように書くと「もう十分待った!それなのに気づかないんだから教え込むしかないではないか!」という反論ばかりが起きるようにも思うのですが、教えていて反省させられことが多いのは、自分を含めた教える側がその「待つ」ということがいかにできていないか、いかに結論を急いでは子供たちに考えさせないことをしてしまっているか、ということの方です。「事実の提示」をしていくためには、事実をして子供たちに語らしめねばなりません。それはまた、子供たちの試行錯誤を徹底的に認めていく、ということでもあります。


温厚である人が怒りを表明するときには、我々はその人の怒りが属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推します。同じように、子供たちに私達が注意をすることが、決してその注意が属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推させられているのか。それを親としても教育者としても絶えず反省していかねばならないと思っていますし、そのような親子の行き違いから子供のことを良かれと思ってガミガミ言ってしまっては結局子供にとっても親にとっても不幸になってしまっているご家庭に対しても、しっかりとこのことが伝わるように仕事をしていきたいと思っています。

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自称進学校に騙されるな!その2

前回の続きです。

前回はいわゆる自称進学校の特徴として、

①大量の宿題・小テスト・補講、その他を強制し、生徒の自由に自習できる時間を際限なく奪ってくる。受験生の時間を管理さえすれば受験がうまくいくと勘違いしている。
②自校の生徒のレベルに合った教材ではなく、一般に難関大学受験に必要とされる教材をひたすら繰り返しすことを要求する。それで力がつかなければ受験生本人の努力が足りないことにされる。
③理解よりも暗記を重視する。
④これらの指導に対して全く反省がないことの証左として、そもそもカリキュラムの見直しすらあまり行われていない。そのくせ、「うちの学校でしっかり勉強していれば塾や予備校は必要ない!」と豪語する。

という特徴を挙げました。自分の通っている高校が、このような特徴をもっていると感じる高校生は間違いなく今すぐ逃げた方が良い、またそのときにどのように自己防衛をしていくか、ということも書きました。

今回は、では「自称」ではない進学校、誰もが知っている有名進学校はそのあたりのことをちゃんとクリアしているのでしょうか。(もちろん僕自身の通った経験だけでなく、教える中で見聞きする「有名進学校」の進め方を踏まえてのものですが、個人的な観測の範囲での考察に過ぎない点はご容赦いただけたら。)

これも結論から言うと、あまり良い指導をしているとはいえません。
上の①から④の問題点のうち、有名進学校でその問題点を免れているのは①と、かろうじて③です。①に関しては、高校生の自由になる時間が自称進学校よりはだいぶ多いと思っています。また、③に関しては意識的ではないにせよ、
そもそも授業を行う能力の高い先生が多いことから自然とそうなっているかもしれない、という弱い傾向はあるように思います。

一方で②の教材選びやカリキュラムづくりの雑さ、④の「学校の授業をきちんと聞いていれば…」という根拠のよくわからない自信に関しては、いわゆる有名進学校でも同じです。結局①の受験生に自由に自習する時間を多くすることと、母集団のレベルの高さで進学実績に差がついている程度で、実は有名進学校であってもカリキュラムに関してはかなり雑であり、あまり教師の力量や計画設定とその学校の進学実績とは関係がないと思っています。

そもそもこれらの有名進学校では塾や予備校に通っていない子の方がはるかに少ないわけで、(僕の通っていた学校でも塾や予備校に行かないで受験をする子、ましてやそれで合格する子というのは恐らく学年の1%いるかいいないかであったと思います。)自称進学校の先生たちが真似をするのであれば、有名進学校の先生の真似をしてもあまり意味がないわけです。そこをわからずに教材だけを真似して、この中でいちばん重要な要素である①を削ってそれを叩き込めば有名進学校にも負けない合格実績が出る!と思ってしまっていることが自称進学校の失敗であると思っています。真似をするべき対象が違うだけでなく、有名進学校で唯一その学校が受験生の勉強に役に立っている「自由時間」を削ってしまっているわけですから。

また教材選びの失敗、というのも極めて根の深い問題です。どのような教材もどのレベルの受験生にとっても「この一冊さえ完璧にすれば!」というものはありません。言い換えれば受験生のレベルに応じてその教材が最適であるかは変わってきます。自分のレベルにあっているのであれば、先に上げた青チャートやNEXTAGEもまた、素晴らしい教材になります。逆に合っていなければ、どのように素晴らしい教材も受験生にとっては時間の空費になってしまうことになります。教師にとって必要なのは、一様な教材を全ての生徒に同じように押し付けることではなく、一人一人の生徒の現況を精密に把握し、その上でその子にとって必要な教材を紹介してはそれを進めていくように促していくことであると思います。

小テストや宿題それ自体が悪いわけではなく、そのようにその子の実力に合った教材を進めていく上でのペースメーカーや
強制力になるのであれば、それはまた有効なツールでもあります。問題は、一人一人のレベルを把握し、その一人一人に合ったレベルの教材を選べていない状態で行われる全ての宿題や小テストは、受験生の時間の空費にしかつながらない、ということであるのです。

つまり、この自称進学校の失敗、というのは実は自称進学校に限らない根の深い問題を提示してくれていると思っています。自称進学校であれば、有名進学校であれ、あるいは有名予備校であれ、このように今自分が鍛えていくべきレベルから外れたものをやらせる時間、というのは基本的には全て無駄になる以上、教師にとって必要なのは教える力以上に、その子にとって何が必要であるのかを分析し、見抜いていく力であるということです。

だからこそ、高校での進路指導の先生、あるいは予備校でのチューターという制度の軽視が僕は問題であると思っています。一人一人の生徒の各科目の(あるいは科目ごとに一人でも構いませんが)力を把握するだけの力量のある教師が各学年に一人、つけられれば、そしてその子にとって今必要なトレーニングが何であるかを的確に答えられ、指導できるのであれば、それこそ進学実績は驚くほど上がるはずです。ケンブリッジ大やオックスフォード大でもsupervisor(tutor)とlecturerとを両方用意していて、tutorも非常に重視されているらしいですよ!(これは以前に書きました。こちらを参照していただけたら!
日本ではlectureが全てで、lecturerだけが偉い!と勘違いしている分だけ、supervisor(tutor)としての役割というのがあまり鍛え上げて来られることなかったため、教育システム全体が上意下達のいびつになってしまっていると思います。そこはケンブリッジやオックスフォード、あるいは嚮心塾(!)に学んでも良いのではないでしょうか。

そしてこのことは実は受験生の自由時間のこととも関連しています。教師がそのように一人一人の生徒に今彼ら彼女らがやるべきことを的確に提示できるのであれば、自由時間が多くても、受験生は自分から努力するものです(嚮心塾を見学に来る親御さんは皆、塾での受験生たちの真剣に勉強している様子に驚きますが、これは僕がはっぱを掛けているからではなく、彼ら彼女らにとって「今やるべきもの」を提示していくことによるものだと思っています。)。「受験生が努力をしていない!よし!小テストだ!補講だ!宿題だ!」と近視眼的な解決を目指すのではなく、受験生が努力をしていない理由は自分たちのカリキュラムがその子にとって合っていないのではないかと悩み、一人一人に対してより的確なカリキュラムを練り直していく謙虚さのある教師こそが必要とされているのだと思います。逆に言えば、大人は勉強をしたいと思う高校生の邪魔をしないことが大切であるのです。

話が長くなりました。自分にとって何が足りないかを分析しては、それを埋めるための努力をしていく、という
こと自体は実は受験勉強に限らず一生必要なことです。大学受験はそのような姿勢と方法を学ぶとてもよい契機であるからこそ、高校生の皆さんには、自称進学校であれ、有名進学校であれ、どのような高校に通おうとも学校側の押し付けをまるごと信用せずに、一つ一つ吟味し、自分に足りないものを分析した上で、しっかりと自分自身を鍛えてほしいものだと思っています。

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自称進学校に騙されるな!その1

twitter でも書いたのですが、より精密に書こうと思ってブログに書きます!
https://twitter.com/kejekichi/status/984952914308460545
こういうのって当たり前すぎて、つい繰り返し言いたくなくなるのが僕の悪い癖なのですが、しかし繰り返し言っていかないと犠牲者が増えていってしまいます。僕の敬愛するサンボマスターの山口隆さんは「愛!」「平和!」「死ぬな!」とバカみたいな熱量でバカみたいに繰り返してばかりなのですが、その「大切なことは何度でも繰り返して主張する」という「バカさ」がこの社会には大切であり、必要であるのだと思っています。特に勉強の仕方に悩む高校生に読んでもらえたら嬉しいです!

発端はtwitterで高校生が自分の学校で「勉強部」(という名目の生徒に全生徒に強制的に勉強をやらせるしくみ)が発足したことを受けて、これが「決定的な自称進学校の証」!として見せていたのに暗澹たる気分になったことでした。これに関してはわかりきっていることとは言え、現役の高校生たちは何を信じていいのかわからないだろうから、しっかり書き残しておきたいと思います。

自称進学校の特徴として、

①生徒の自由な時間をとにかく奪う。小テスト、強制的な「自習」時間、長い授業、宿題などなど。大学受験生にとって一番必要なのは自分で勉強をする時間です。その受験生の弱点は受験生本人が一番良くわかっているからです。その時間を奪うことで合格率が上がると考えている高校はまず怪しいと思ってください(これは予備校にも言えることです。講義をひたすらとることを推奨する予備校も同じです。自分で勉強する時間を十分に作ることが受かるためには必ず必要です)。

②しかし、そこでやらせている教材が極めて的外れである。出口から逆算して「これができれば東大にも受かる!」(目の前の生徒たちにとって今それが必要かどうかは考えていない)という主張を繰り返し、レベルにあっていなくても繰り返せばそのうちできる!と話し合う余地がない。もしそれをやっても力がつかなければ「それはお前の努力が足りなかったからだ!できる子はできるようになっている!」と生徒のせいにする。「数学なら青チャートをやれば大丈夫!」「英語ならNEXTAGE(vintageでも可)をやれば大丈夫!」と言っている指導は、ほぼ的外れです。嚮心塾ではこれを「青チャート信仰」「NEXTAGE信仰」と呼んでいます。

③とにかく理解よりも暗記を強いてくる。二言目には「覚えろ!」と言う。これも青チャート信仰やNEXTAGE信仰と通底するものです。これは、暗記はすぐに抜けるが理解はなかなか抜けない、という勉強のセオリーを無視したやり方です。

④そして、これらは彼ら自称進学校が「塾や予備校の要らないサービス」として提供しているつもりであるので、
むしろそれによって進学実績がでていることを盲信する。自分たちのカリキュラムの不備についての反省を少しもしない。

というのが主なものでしょうか。このような特徴に当てはまる高校に通っている高校生の皆さんは、今すぐ逃げたほうがよいです。「逃げる」というのは、(もちろん高校をやめられればよいですが)現実的には難しいと思うので、学校の先生の言うことを聞かずに自分で自分の勉強に何が足りないかを考え、それを補えるような勉強をしていく、ということです。その際に重要なのは

①勉強に王道はないことを肝に銘じることです。基礎ができていない子がいきなり東大レベルだの発展レベルだのを繰り返してもできるようにはなりません。だからこそ、どのレベルからやるかを迷うのであれば、必ず基礎レベルから固めたほうが良いと思います。(これもごくたまにとても優秀な子は難しいものを繰り返すだけでできるようになります。しかし、それは僕の指導経験からいってもきわめて稀なケースです。かつ、(結局難しい教材をじっくり読み込んだり調べたりしていかなければならなく、かつ繰り返しを必要とするので)そもそもそれがあまり時間短縮になっていないケースが多いです。難しい教材から始めることは、実力がつく可能性が低く、かつ可能なときにもそんなに効率的ではありません。)

②学校は卒業できる程度に成績さえとっておけばよい、と割り切ることです。推薦入試とかを狙うのでない限り、学校の成績で受験の合否に影響はありません。あなたが既に学校の成績が優秀であるなら学校の勉強で基礎を作っておいて、そこから受験勉強をしていく、という道もありますが、一旦学校の勉強についていくのが精一杯、となるとむしろ学校の勉強は落第をしないぐらいにとどめておいて、①に書いたように自分の弱点を基礎から積み上げていくことのほうが受験にとってははるかに有益です。また、それがしっかり積み上がっていけば、学校の試験も何もせずに成績も上がっていきます。

③暗記よりもとにかく理解を優先していくこと。もちろん基本的な公式や定理は覚えなければなりませんが、それ以外の覚えるべきものは直前でも間に合います。逆に理解をしていなければ、いくら覚えても覚えたものはすぐに抜けていきますし、穴の空いた水槽に水を注ぎ込むように、努力が実力に結びつかないまま時間を空費することになります。

④この①②③をご両親に理解してもらうことです。基本的に親御さんは学校の成績を気にします。学校の成績が良くても大学受験には通用しないとしても、です。だからこそ、これに関しては自分の計画や今やっていることを説明して理解してもらわないと、「自称進学校」の(間違った)「熱血指導」に対して、親御さんも敵にまわしてしまうことになってしまいます。親御さんに理解してもらい、味方になってもらうことが大切です。

以上のことに気をつけて、自分の将来をしっかりと自衛していくことが大切です。
「俺の言うとおりに勉強すれば受かる!」とあなたに青チャートやNEXTAGEを強制する学校の先生たちもそれを忠実に守るあなたが受験に失敗したとしても、何のお詫びも言ってくれません。何か補償をしてくれることもありません。むしろ「方法は正しかった。お前の努力が足りなかった!」と言わんばかりです。そしてそれは当たり前であるのです。彼ら彼女らに、受験に合格するための方法などわからないからです。だからこそ、自分の将来は自分で自衛することが大切です。

そして、それを一人でやっていくことに自信がなければ、是非嚮心塾に!というのは宣伝なのですが、
僕としてはそのような自称進学校が少しでも減っていってくれることを切に願っています。
若い世代の貴重な時間をあまりにも無駄なことに空費しすぎている。。そのことで彼ら彼女らがどれほど
可能性のある将来を諦めざるをえなくなっているのか。このことに関してはこういった指導に疑問を抱かない
高校の先生の行いを僕は犯罪的である、とすら思っています。

ではいわゆる有名進学校で行われる指導は正しいのか?についてはまた続編を書きます!

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自分で考える、ということ。

今年の受験生の「受験を振り返って」を読んでいくと、様々な発見があってとても面白いです。毎日接してきた彼ら、彼女らの中でこのような言葉が生まれてくる、というだけでも一年間必死に取り組んできたことが報われる思いをしています。

その中でも、今年東大に合格した子の文章には嚮心塾の本質的なところが表されていると思い、感心しました。引用すると、
「私の思考プロセスを読み解いてその弱点を補うためにどうすればよいかレクチャーしてくださいました。これは、先生にとっては生徒がわからないところを教えるよりも難しく手間のかかる作業だと思いますが、このやり方をまねして地学の他の分野や別の科目に応用することで勉強への取り組み方が改善され、入試で通用する力をつけることができました。」
(引用おわり)
僕はよく生徒たちに話すのは「知識を聞くな。本に書いてあることを聞くな。そこは調べろ。」そして「本に書いてないことを聞け。」です。これはより高度な知識、ということではなく(どのような高度な知識も検索範囲を広げれば本に書いてある知識です。)そこに至るプロセスや考え方の部分をこそ、聞いてもらいたい、ということです。さらに言えば、
自分がなぜ努力をしていてもこのようにうまく行かないのか、自分の思考プロセスをチェックして盲点を探していくこと、
そこを探しても自力で見つけられないのであればそのことについて僕に聞くことを求めています。
それを一つの教科について考えることができるようになれば、それを他の教科に応用することもまた可能です。
人間には必ず思考プロセスにおいて特有の傾向があるからです。そのような特徴によって出て来る長所と短所を自分自身で把握すればするほどに自分がどのようなミスを犯しやすいのか、どのような陥穽にはまりやすいのかがよく分かるようになってきます。

どのような受験生も志望校の合格、という目標のために必死に努力しています。しかし、自分では最適だと思って勉強しているその仕方が、局所的、あるいは短期的には最適であったとしても、最終的な目標の実現にとってはかえってマイナスである、ということもまた多々あるわけです。だからこそ、僕の仕事はその局所最適性、あるいは短期最適性をより全体、あるいは長期の最適性へと向かう方向へと軌道修正をすることであると思っています。

というこの説明ではまだ片手落ちで、長期的な最適性のために短期的な最適性を追求したほうが良い場合もまたあります。それは局所と全体での最適においてもまた言えます。そもそも短期・あるいは局所の成功体験がなければ人は努力などできないものです。だからこそ、そのような成功体験がない子にとっては仮にそれが受験勉強全体から見れば遠回りになろうとも、まずはそのように短期・あるいは局所最適解を導く方法を指導します。しかし、そのような成功体験に閉じこもり、その短期・あるいは局所最適を目指す傾向が小さな成功にこもるようになり、最終的な目標を阻害する局面になってきた場合には、そのような短期・あるいは局所最適しか目指していない彼ら・彼女らの思考プロセスに批判を加えていきます。
このようにして、受験勉強を通じて小さな成功を積み重ねていくこと、しかし小さな成功がより大きな成功を妨げていないかどうかを絶えずチェックすることなどを思考習慣として身につけていく、ということができれば受験勉強もスムーズにいきます。一人一人に必要なものが違うだけでなく、同じ子であってもその発達の段階によって何が必要であるのかが変わってくる、ということが本当に難しいところであると思います。

このような手法は結局プログラムを書くことと似ているのかな、と思っています。

このような指導ができる嚮心塾というのは相当稀有な存在なのでは…と自負はしているのですが、なかなか評価されません。しかし、同時にこのような指導法というのは大きな限界を持っている、という事実にもまた直面しています。それは、自分で考える習慣のある子には大きく貢献できるものの、その習慣がない子にはほぼ役に立たない、ということです。だからこそ、このような指導法は指導対象が優秀であればあるほどより効果が大きいという、指導上の限界もあります。(アスリートやプロ棋士や学者さんを指導できると一番効果的かもしれません。)

本来は自己の思考プロセスを可視化してチェックする、ということ自体はどんな子にとっても有効な手法であると思っています。しかし、残念ながら幼いころにはあれこれと考えていたはずの子たちが小学生、中学生くらいには自分で考える、ということができなくなってしまっている、もしくはそれをいけないことだと思ってしまっているというケースも多いのです(特に親御さんが厳しいとそうなってしまう傾向が強いと思います)。

ネットによって何でも検索できる時代に、塾や予備校の価値などどこにあるのか。それこそ優秀な社会の先生や理科の先生、数学の先生のどんな素晴らしい講義も、ネットで検索して調べることのほうがより正確な内容に行き着けてしまうのがこの時代であると思います。僕が持っている知識もまた、生徒たちがネットを駆使して調べることのほうが(調べ方さえ間違えなければ)正確であるに決まっています。その中で教師が子どもたちに教えるべきこととは何か。それは「自分で考え、自分で調べる」というただそれだけの姿勢であると思っています。そして、「自分で考える」とは「自分で考えること自体についても考える」ということをも含みます。そうでなければ考えれば考えるほどに、目指すべき目標からはどんどん遠くなってしまっている自分をチェックすることができないからです。そのような契機に嚮心塾が、少しでもなることができていれば、本当に嬉しいと思っています。

しんどいことしかありませんが、もう少し、塾を続けていきたいと思います。

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形にならないものに、どう寄り添えるのか。

私達が抱える得体の知れない感情をなんらかの形へと言語化することで、私たちはそれに耐えられるようになります。それは「気づき」としても捉えられるもので、言語化できていないことによって自らを押しつぶすような感情を言語化することで、その正体や特性、由来に気づき、そして具体的な対処法を考えることができる、ということです。

しかし、一方でこのような言語化が上手に出来ればできるほどに、逆に苦しくなっていく部分も私達の中には確かにあります。それは「怒り」「悲しみ」「迷い」「恐れ」などといった名前には分類し難いものを、どこかに整理していくことによって、その正体をひどく小さなものへと押し込めてしまったり、そこで貼ったラベルに実態とのずれがあったとしても、それに関してはそれ以上考えないようにしてしまうがゆえに、その違和感が新たなラベルを貼ることへの恐れを生み出すことになります。

いや、それはまだマシな状態なのかもしれません。私たちは自分たちがつける名前と実態とのズレに気づいて名付けることに恐れを抱けるほどに自分の名付けに自覚的であることのほうが遥かに少なく、殆どの場合において自分が名付けた名前からフィードバックを受けて、あたかも自分がその感情を抱いているかのように生きてしまうことの方が多いのでしょう。「この感情を喜びという。」「この感情を悲しみという。」というように定義されたマナーとしての感情、他者に見せるためのものとしての感情を私たちは生きることになります。そして、それは名前を与えられているがゆえに、自分のものではなくなります。

たとえば、最初の段落で書いたような「分析」や「定義」は本来自分自身を把握するためのツールとして導入されたはずであるのにもかかわらず、そのような「分析」や「定義」はやがて自己を疎外して、自分の中の部分を他者にも理解できるような部分へと分解していきます。自分の中のある部分が他者へも理解できるように分解したときには、もはやそれはそもそも自分そのものではなくなるかもしれない、という恐れを一旦は無視して、です。それが「とりあえずはその差異は無視しましょう!」という態度のもとであればよいのですが、そのような定義は自分自身をも縛るものとなっていきます。

そのようにして私たちは自己疎外の状態(自分が自分ではなくなっていく状態)へと陥っていくと言えるでしょう。

しかし、かと言って私達の抱える感情を言語化せずに未分化なまま、放っておくこともまたむずかしいのです。それは、対処できるものまでも致命的なものへと放置してしまうでことにつながります。

人間は自らの感情に名前をつけながら感情を飼いならしていかなければならないと同時に、自らの名前をつけた感情が本当にその名前で合っているのか、全てを汲み尽くせているのかを絶えずチェックしていかねば自分で自分をコントロールしているつもりで自分ではないものへと自分を作り変えてしまっていることになってしまう。本当に難儀な生き物です。

だからこそ、未分化の感情を呼び覚ましてくれるものは、「自分を閉じ込めていた狭い檻はあくまで自分が作ったものにすぎないのだ!」という気づきを与えてくれるだけではなく、また新たに名前をつけよう!定義をしていこう!という勇気を与えてくれるものでもあります。それは自分のことをわかっていたつもりでわかっていなかったことに気付かされ、自分を再定義する力を与えてくれます。それは私達の理性によって私達が把握する自己が全てではない、ということを見せてくれることから、世界の可能性に対してもう一度考え直させてくれる、という力を持ちます。優れた学問、優れた芸術がこのような力を持つということに関しては勿論言うまでもないわけですが、そもそもこのような可能性というのは(当たり前ですが)優れた作品だけに宿るものではなく日々のやり取りの中でもそれを感じさせてくれる人、というのはいるわけです。

嚮心塾で行っていることに少しでも教育的意味があるのだとしたら、僕はこの名前をつけていく作業よりもむしろ、名前をつけ得ないものに寄り添う作業であると思っています。名前をつけて定義していく事自体はとても重要なことではあるのですが、それ自体はまあ多少言葉の力があればできることであるとも思っています。問題は他者の中の「名前をつけえないもの」に対してどう寄り添うのか、それこそが極めて難しい、ということです。それは自分、あるいは相手の未分化の感情に対してどれほどの敬虔さがあるのか、ということでもあります。

それはすなわち人間にとって、理解を伴わない共感とは存在しうるのか、というように言い換えてもよいと思います。相手の思いを理解して、共感をするということが第一のステップだとしたら、相手の思いを理解できないけれども共感をする、ということがどのように人間には可能であるのか、ということが問われているのだと思います。「いやいや、理解して共感するのに越したことはないだろ?」というのはもちろんです。ただ、相手の思いを理解して共感する際には相手の思いを自分の中で理解できているものへと矮小化するという行為がどうしてもつきまといます。そのように相手の全体を理解できるパーツへと細分化し、自分が理解可能な断片へと貶めた上で相手を理解しようとすること自体が、目の前の相手への暴力につながることもまた多いのだと思います。

教育には、相手の全体を受け止める決意が必要になります。もちろんそれはただ寄り添うだけではやはり無責任であり、部分部分をこちらから名付けたり、相手自身にそれを名付ける練習をしてもらったり、という作業の中で茫漠とした悩みに押しつぶされそうになる一人一人にそのような悩みと立ち向かう術(すべ)を身につけてもらうことがとても大切です。しかし、そのような切り取り作業自体が本質であると思えば、「教育術」になってしまい、あまり意味はないのだと思います。そのような切り取り作業はあくまで現実を生きるためのツール、あるいは自己に対するより精緻な全体像へと近づくための仮説の構築にすぎないということを決して忘れないようにする。それが人間に対してとことん向き合うときには必要になってくるのだと思います。

言葉にならなくて苦しむだけではなく、言葉にしてもまた、そのことゆえに苦しまざるをえなくなる。全く人間というのはしんどい生きものです。その形にすることの暴力性にも、形にしないことの暴力性にもしっかりと耳を澄まし、心を開いていきながら、何とかこのしんどい作業に耐え抜いていきたいと思っています。

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「3+1=5」を褒められるか。

ご無沙汰をしております。今年のどくんごも本当に、本当に素晴らしかったので是非その感想も書きたいのですが、まずはしばらく書いていなかったリハビリ代わりに教育のことについて書こうと思います。

紹介が遅くなってしまったのですが、友人の谷口君のウェブ連載がとても良い記事だったので紹介します。いつも読んで勉強させてもらっているのですが、彼のこのお子さんへの指導の仕方には、リアルタイムで聞いたときに本当に感心させられました。詳しくはこちらをどうぞ。

このような話をすると、プロセスが重要であることは比較的理解されやすいとしても、学習の結果が出ていないことへの焦りからどうしても否定的な意見も出てくるものです。「プロセスを理解するのが必要なことは当たり前だろ!その上で結果も合っているに越したことがないじゃないか!」というようにです。しかし、子どもたちというのは大人がどこに重点を置いて見ていてどこを本当は気にしているのかに対して極めて敏感なものです。だからこそ、「プロセスも大事だけど結果が合ってなければ意味がない」というリクエスト自体が建前は別として結局「結果が合っている」かどうかしか大人たちは気にしていないし、チェックもしていないということを敏感に感じ取った子どもたちは、「結果さえ合っていればいい!(だから答えを写す!)」などと間違った学習をしてしまうことにつながります。

ここで問題となるのは「プロセスも答えも両方合っているのが一番良いはずだ!」という何もかもを同時に実現することを求める態度です。これは、プロセスや考え方が合っているかどうかを見るという極めて面倒な作業を教える大人側が回避したいがために便宜上行われているに過ぎない指導方法を、結果の面から正当化したに過ぎない態度です。式をチェックすればいい!と思うかもしれませんが、正しい式を書くことができていたとしても理解ができていないことなどは日常茶飯事です。だからこそ、「プロセスも結果も合っているのが一番良いはずだ!」という態度は容易に「結果が合っているのだからプロセスも恐らく合っているのでしょう。。」というように、結果だけからプロセスの正当性を類推するという態度に堕していき、悲劇を生んでいくのです。

そもそも新たなものを学ぶときに、あれこれと何もかもに気をつけて学ぶことができる、というのはかなり限られた優秀な子です。それに関しては我々大人たちもまた、自分にとって新たなものを学習する際には、何もかもに気を配りながら学んでいく能力はないと思いますし、その点において子ども達のその緩やかな歩みを決して笑うことはできないと思います。だからこそ、まず何が大切で、それができるようになったら、次に何が大切で、とステップを踏んでいくことが大切であるのです。その点においても、谷口君の娘さんへの指導は、本当に素晴らしい指導だと思いました。

もちろん、入試への準備などを考えれば「答を合わせる」ことが重要であるのは当たり前です。しかし、教えていて常々思うのは、受験生たちが「理解しているけど計算ミス」と分類しているものの中に、いかに理解していない部分がまだまだあるのか、仮にそれらを理解しているとしても極めて煩雑な方法で答を合わせているものがあるのか、そういったプロセスの点で改善しなければならない点があまりにも見過ごされてきているという事実です。実は「答を合わせる」ためにも、どこまでもプロセスを徹底的に理解し、改善していく必要がある、ということ自体が伝わることが勉強の面での改善にも役立ちます。「大事なのは答えではなく、そこに至るプロセスだ」という姿勢の徹底こそが、結果として答を合わせることにもつながっていくと思います。

そして、この問題はAI(人工知能)の発達によってさらに複雑な問題になってしまったように思います。AIの発達によって、私たちはそこに至るプロセスを理解することなく答を知ることができる時代に生きることになりました。答をどのように導いたのかについてはAIは完全に人間の想像力や理解力を超えてブラックボックスであり続けるわけですが、しかしどのような賢い人間が考えるよりも「正しい」答を恐らくAIが提示していることは確かです(それは先の将棋電王戦で佐藤天彦名人がPONANZAに為す術なく敗れたことからも、あるいは囲碁で柯潔九段が為す術なく敗れたことからもわかるでしょう)。しかし、私達がその「正しい」答を採用するかどうかを考える際に、私達の推論能力ではその正しい答に至ることができないとしたら、私達はどのようにその正しい答を吟味することができるのでしょうか。あるいはその正しい答を選ぶことをどうやって正当化できるのでしょうか。

もちろん、そこで理由を考えることこそがAIの出す答えを人間が選び取るときのツールになりうる、などという楽観的なことは言えません。人間の理性は様々な正当化を生み出すことができるので、理屈がついているということが直ちに正しい結論へと到達できていることにつながるかどうかはわからないからです。しかし、一方で、理由を考える事、プロセスを考えることを人間が答をAIに与えられるから、という理由で放棄するのだとしたら、それこそSFが描いてきたディストピアのように人間が気づかなかった初期条件の違いやその他からAIが引き出す誤った答やあるいはAIにとって有利(で人間にとって不利益)な答に対して、それを信じるしかなくなる、という状況に陥ることになります。

これからどんどんブラックボックスとしてのAIによって答えだけが先に与えられ、それを教師として人間が学習を進めていく際に、しかし、その結論を人間がどのように吟味するのかについては、確実な手段がないと言えるでしょう。しかし、その中でプロセスを突き詰めていくというその思考方法は少なくともそのような時代における一つの踏むべきステップになると言えると思います。もちろん、そこで「理由」を求めることが全体として見れば局所的な「偏見」を生み出し、我々がより良い解へと到達することを遠ざけてしまうという失敗はあるかもしれませんが、そのような失敗を乗り越えてなお、理由を求め続け、プロセスを重視していくことの重要さがさらに増していくのではないかと思います。

正しい答が出せないあるいは「正しい」答を出したつもりがそれが誤答であることをすぐに思い知らされるという意味では、AIの進んだ時代に生きる我々は実は、「3+1=5」と答える幼児と同じ立場にあるとも言えるのです。名人や世界ランク一位という我々にとっての(同じ集団に属すると言挙げするのも烏滸(おこ)がましいほどの)天才たちも、AIから見れば幼児レベルになった時代が現代であるのです。大切なのは、私達の出した答が正しくないとしても、それならどのように正しいものを求めていくかという方法を学ぶこと、そのような方法が既存のものとしてなければそれを模索し続けること、そして何よりもまず、正しいものとは何かを探し求める姿勢を諦めないことであるのだと思います。最後のことについて言えば、人間全体が、あるいは個々の個人が、仮に自分の力では正しい結論にたどり着けないとしても、それでもそのような事実から目を背けることなく、結論の正しさを愛せるかどうかこそが一人一人に求められているのだと思います。そして、そのような時代であるからこそなおいっそう、答えを目指そうとするプロセスへと目を向ける教育こそがなおさら子どもたちにとっては必要とされるのではないかと思います。我々は理由を考え続けることを通じてしか、「正しさ」を認識できないからです。

褒めるべき「3+1=5」に正しい反応と指導ができるように、何より正しいものを求めようとする彼ら彼女らの心と頭の動きを局所的な「正解」によって押し殺してしまうことのないように、今日も必死に生徒たちの思考へと耳を澄まして教えていきたいと思っています。

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「掛け算の順序論争」に終止符を打てるか!

表題通りにかけ算の順序論争に終止符を打てるかどうかは別として、考えねばならないところまで議論を前進させられればと思います。

まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば

「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して

2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。

この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!

さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)

なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。

もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。

もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)

だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。

子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。

つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。

まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。

もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)

最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。

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愛とは何か。

この仕事をしていて、いつも痛切に感じられるのは親御さんが自分のお子さんのためにどれほど懸命に努力をされるか、ということです。自分の子供に対して本当に自分のことのように思い悩み、身を削ってなんとかしようとするその努力に対していつも心を打たれます。特に同じく2児の親でありながら、自分の子供を他人の子供よりもよけいに愛することの出来ない僕にとってはなおさら、ひとりひとりの親御さんの献身的・超人的な努力と愛が本当に眩しく見えます。

それとともにこの仕事をしていて痛切に思うのは、その愛情がいかにすれ違いしか引き起こさないか、という残酷な現実でもあります。どのように努力や思いを尽くそうとも、子供は親の思うとおりには育ちません。もちろん、方向性が親の望むそれでなかったとしても、その違う方向性へと向かう熱量が大きければそれはそれで子育ての「成功」であると僕は思いますが、それですらもなかなかに難しい、というのが現状であるのだと思います。その厳しい現実に傍目から傍観者として見るのではなく、そのすれ違う思いを何とか噛みあわせるためにこそ塾というのはあると思っていますし、その点で親御さんの協力者であるだけでも子どもたちの代弁者であるだけでもダメで、その両方をやりながら、何とかそのすれ違う思いを噛みあわせていきながら、子どもたちに自分たちの人生を自力で切り開く力をつけてもらいたいと思って日々やってはいるのですが、それがどのりょうに努力しようとも、本当に難しいことであると日々思い知らされています。こんなしんどい仕事だと最初からわかっていれば、絶対に選ばなかったのに!という思いで毎日全力でやっています(まあ、これは嘘ですね。初めから知っていて覚悟を決めて飛び込んだつもりでした。しかし、当初の僕の覚悟しかないのなら、とっくにやめているほどしんどいことだとは気づいていなかったというのが本当のところです)。

ただ、この仕事を続けていく中で、僕の中では「愛する」という言葉の定義がだんだんとわかってきているように思っています。自分が正しいと思うものを相手に伝えてそれを実行してもらおうとしても、相手がそれを正しいとは信じられない時にはそれは伝わり得ないわけです。それに対して「相手の考えがわけがわからない」とするのではなく、自分の中での「正しさ」の定義をそこでもう一度疑い直せるかどうかこそが、愛情の深さなのではないかな、と思うようになりました。その点でどのように懸命に相手を自分の理想とする「型」にはめようとしても、それが自分が相手にはめようとする「型」自体が本当に正しいのか、そのモデルが自分にはぴったりと合ったとして、違う人間である我が子にもピッタリ合うかどうかは実はわからない、という疑いをもてるかどうかこそがとても重要であるのだと思います。

もちろん、そもそも相手が何も頑張ろうとはしていない、あるいは頑張ろうとしていることのその密度が圧倒的に足りない、などということは批判をすべきでしょう。それをせずして「違う人間であるから何でも認める。」という姿勢をとるのは、単純に責任を放棄しているだけです。自分が必死に何らかの価値を追求し、そのために努力をしていることがそもそも必要です。しかし、それを必死に追求してきた自分の人生に一点の曇りがないとしてもなお、違う道へと同じかそれ以上の努力の密度で挑もうとする子どもたちを「選ぶルートが自分とは違うから」という理由で否定をしてはならないのだ、と思います。だからこそ、本当に子どもたちを愛する親や教師というのは、絶えず自分の価値観を疑うことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが親や教師として鍛えられる、ということとも同義であると思います。一つの真理や正義に安住するわけにいかない、という悩みこそが人間性を深めるものであると思うからです。

だからこそ、自分が何かの方向へと懸命に自分の人生を懸けて努力をすることは、その方向を疑うためでなければあまり意味がないのだと思います。方法的懐疑が目的へと堕した瞬間に懐疑は自己目的化してしまい、検証を伴わない懐疑がすべての努力の足を引っ張るだけという情けない事態になってしまいます。しかし、人間というのはどうしても心の弱いものであるので、自分が懸命にそれこそ人生をかけてやってきたことについては、そこに価値があると信じたくなるものですし、逆に何かを頑張りたくない人間にとってはその自分が頑張りたくないと思うものに価値が無いと信じたくなるものです。しかし恐らく現実は、どのような学問もどのような技術もどのような社会貢献も、私達が人生をかけてそこに投資をするほどには価値の無いもの(必ずその限界を伴うもの)でありながら、しかし、私達がそれを全くしないよりは価値が有るものであるのだと思います。その残酷な現実を少しでも検証していくために、私たちは私達の信じるものがそれほど信じるに値しないことを知るためにこそ、必死に努力をしていかねばならないのだと思っています。それこそが、一つの中心へと「帰依」や「信仰」のように収斂していくものではない、本当の愛情なのではないかと思います。その意味で愛は拡散的であるがゆえに、打ち捨てられゆくものであると言えるのではないでしょうか。広がり、打ち捨てられ、踏みにじられることを恐れずに、様々な作業仮説を疑うための努力を今日もしていこうと思っています。

もちろん、このように偉そうに言う僕が生徒たちの思いを踏みにじっていないのかと言えば、失敗ばかりであるのでしょう。僕は生徒達に話を聞いてもらうために叱る、あるいは怒るという手段をほぼ使いませんが(よく怒る教師は自らその武器を奪うことになります。オオカミ少年になってしまいますよね)、それでも「ここでこそ怒らなければならない!」とかなり精密に計算をして叱ったつもりが、その真意が全く伝わらずにただ相手の感情を踏みにじるだけになってしまう、という失敗だってよくあることです(まあ他の先生方と比べれば少ないのかもしれませんが)。しかし、叱ること、叱らないこと、あるいは相手を型にはめようとすること、あるいは型にはめようとしないこと、そのすべてが相手に対しての暴力になっていないかどうかについては、絶えず自覚的にチェックしていかねばならないと思っています。何が暴力で何が愛情であるのかは時と状況と相手によってすべて変わっていきます。だからこそ、「これが愛情だ!」「これが暴力だ!」などという安直な決め付けを自分に許さずに、絶えず考えぬいて行きたいと思います。

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教育経済学のすきま

しばらく書いていなかったのですが、嚮心塾にはホームページもなくてこのブログしかない上に、そもそもそのブログもたまにしか更新されないは、書いてあることも塾の様子とか受験のこととかではないわけで(何しろ、最新のエントリがどくんごの東京公演の感想ですからね!そもそもどくんごって何だよ!というのが一般的な反応ですよね。。)、全くこのような塾を探してご連絡をいただけるお父様、お母様方の努力には本当に頭が下がる思いです。ということで今回は少し反省して、久しぶりに教育について書いてみたいと思います。

教育経済学が中室牧子先生のおかげで少しずつ日の目があたってきていることは僕は素晴らしいことだと思いますし、成果のはっきりしない思い込みに基づく指導法をevidence -basedにしていく事自体はとても大切なことです。しかし、それがもっと普及すべきであることには諸手を挙げて賛成できるとしても、その先にまた別の難しい問題が残るのが「教育」という取り組みの難しさであると僕は思います。

塾生の勉強への姿勢や質が変わってきているのに、通塾を打ち切られることというのが非常に多いのでついついこちらとしては嘆きがちなのですが、教育においてはどうしても結果は最後まで出てこないものです。たとえば、塾生の変化の仕方を見てもまずは勉強への意識が高くなり、次に勉強時間を増やすようになり、次に勉強の質を高めることになっていき、最後に結果が出る、ということになります。この①勉強に対する意識の変化→②自発的な勉強時間の増大→③勉強の質の向上→④(成績向上などの)結果が出る、というプロセスには、現在勉強に苦しんでいる子たちはほぼ共通するプロセスであるというだけでなく、この一つ一つのプロセスのどれもが決して省略できないものでもあります。たとえば、よく親御さんに塾の役割として求められるのは③の「勉強の質の向上」であるのですが、これは端的に言えば①→②のプロセスを本人が踏んでいなければ、こちらがいくら様々な方法論を伝えようとも決してうまくいかないものであることをほとんどの親御さんは誤解していると言えるでしょう。(「いや!うちの子は勉強時間はこれ以上とれないくらいとっている!ただ効率が恐ろしく悪いのだ!」という反論をよくされるのですが、まず勉強時間を無理に睡眠を削らない範囲で可能なだけとっている小中高生自体がほぼいませんし、仮に勉強時間を物理的にそれだけとっているとしても、それらが自発的なものではなく強制させられている以上、子供というのは机に向かって鉛筆を動かしていても、いくらでもサボれるものであるのです。)

なので、まずは①の勉強に対する意識の変化が重要です。勉強というのは学校の教師や親、さらには塾や予備校の講師に無理強いさせられるものではなく、そもそも自分の将来に向けて自分にとって必要であること、またそれを嫌だと感じているのはむしろ勉強がデキる子であっても同じであり、ただ嫌でも必要なものとして諦めて努力する姿勢を身に着けている子とそうでない子との差がついているにすぎないこと、さらにはそのように若いうちに自分が嫌でも必要だと感じることに努力を惜しまず取り組んでは結果を出していくことが自分にとって、現在のような「学校歴社会」がなくなったとしてもとても意味の有ることであること(教育経済学の中室牧子先生もここについては強く主張されていますよね!)、さらにはそもそも日本において学校歴社会がなくなる気配はまだまだ当分ないであろうこと(それはマイナビやリクナビが支配したあとの就職活動においてはなおさら「学校歴による足切り」が厳しくなっており、学校歴は十分条件ではないにせよ、必要条件としてはむしろ以前より厳しく求められるということ)を子どもたち一人一人が理解することが大切です。ここに関してそもそも①に関して勉強の意味を大人たちは子どもたちに理解させるのが面倒くさい、というよりも自分たちも言葉で説明できるくらい理解できていない事が多いのではないでしょうか。子供に勉強をさせたいのなら、まずは大人たちが自分たちが勉強をしてきて(あるいはしてこなくて)うまく行った、あるいはうまく行かなかったということの功罪をしっかりと総括して子供達に自分の言葉で伝えていくことが大切です。それが成功談であれ、失敗談であれ、そのような言葉は子どもたちに強く響きます。特に失敗談の方が強く心に響くと言えるでしょう(マンガ『暗殺教室』でも殺せんせーが「教師とは自分の成功を子供達に伝えたいか、自分の失敗を子供達に伝えたいかのどちらかだ」と言っていましたよね!特に「失敗」の方が子供達の心には必ず強く響くと思います。人は成功を誇るときは傲慢であるとしても、失敗を悔いるときは人間性の最も崇高なものがそこに現れるからです。そのような「大人が自分の失敗を本気で悔いて子供に伝えること」以上の教育を僕は知りません。)。そのことを親や教師があまりにもやらないままに「勉強をしろ!」と言っているのが日本の教育の現状であると僕は思っています。

そして、次に②の自発的な勉強時間の増大です。これが「自発的」でなければ意味がないことは最初に少し述べました。強制的に勉強時間を増やしても、結局机に向かってサボる時間が増えるだけになってしまいます。ここでは「質より量」ではなく、まず「量」が優先します(もちろんベルクソンの言うように、「『量』とは注意力を失って注意されなくなった『質』のことである。」という主張を僕はこの上なく正しいと思っています。この言葉はそれこそスターリンの「100人の死は悲劇だが、100万人の死は数字である。」という冷徹な言葉という傍証を引くまでもなく、人間の認識の仕方を見事なまでに的確に描写していると思います)。勉強において、「量」を先に徹底して増やすことが重要であるのはどのような受験生も毎日15時間はなかなか勉強できない、あるいはそれができたとしても毎日18時間や20時間となるとできないわけで、量を増やして間に合わせようとすることには限界があると思い知るためです。これには、勉強をしていない子特有の「自分は努力をしていないだけで、努力すればできるんだ!」という根拠の無い甘えを早々と捨て去ってもらうためという目的もあります。勉強時間を増やさなければならないけれども、それを増やすだけでは決して間に合わないことを自覚して初めて、③の質をどのように上げていかねばならないか、ということに思い至ることができるようになります(もちろん、これはそもそも残り時間が少ないと痛切に感じては必死に勉強している受験生であれば、この②のプロセスを短期間で通過できるケースもあります。ただ、そのような受験生の場合、自然に③のプロセスへと移行していることが多いので、むしろ②のプロセスで止まる受験生というのは極めて少ないように感じています。)。人間というものは、自分が一生懸命に取り組んでいるものがうまくいかない時に初めて真剣に悩み、その打開策を考えようとします。一方で自分が一生懸命に取り組んでいないもので成果が出ない場合には周りのせいにしたり、あるいは自分が一生懸命やればうまくいく、と自己弁護をするものです。そして、学校の勉強、さらには受験勉強というのはほとんどの受験生が自発的に取り組むものではなく受動的に否応なしに取り組まされるものである以上、そのように受動的に始まったものを能動的に捉え直さなければ、決してその質を向上させようとは思わないのです。それは人生と同じで、受動的に始まるものであるのです。吉野弘の『I was born』という詩に見られるように、一人一人は生まれようと思って生まれたわけではないのにもかかわらず、生きようと能動的に決意しなければならないわけです。それは実は学校制度に担保される勉強も全く同じであると僕は思います。

そしてようやく③の勉強時間の質の向上へと繋がります。このプロセスでは自分の勉強の仕方のすべてを疑える子が強くなります。すなわち「自分が今まで「勉強」として定義していたものの再定義」を隅々まで図っていけるかどうか、ということですね。もちろん、受験生の勉強の仕方に対してこちらで疑問を投げかけることでそのような自分が「勉強」だと思い込んでいたものの再チェックをこちらからも促していきます。しかし、そうはいっても、すべての受験生のすべての認識を一人の教師がすべて把握することはおそらくできません。だからこそ、教師のやるべき仕事はそのように「自分のやり方を疑う」ことを教えていくことであるのです。それが本当に効果が高いかそれとも効果が上がっていないかどうかを絶えず自分でチェックするように習慣づけをしていくことが大切です。もちろん、この「自分の勉強の仕方を疑う」というのも程度の問題で、あまりすべてを疑いすぎてしまうのはそれこそ自己免疫疾患のように、自分自身まで攻撃してはかえって逆効果になってしまうのですが、そのあたりのバランスの取り方についても、教師の腕に委ねられていると言えるでしょう。

このようにしてようやく、④の結果が出てきます。もちろん、実際にはここで単純化したように①→②→③というプロセスがくっきりとわかれているわけではありません。実際には残り時間というタイムリミットを見ながら、①のプロセスと②のプロセスを何とか並行できるように苦慮したりしています。また、②と③のプロセスについてはほぼすべての受験生が②を終えてから③に移行できるわけではないので、同時並行になることが多いと言えるでしょう。さらには一つ一つの教科について、この①の段階、②の段階、③の段階がすべて入り混じります。たとえば数学については③まで来ている子も化学については①の時点で挫折していたり、その逆があったりと大変ですし、一つの教科についての気づきやbreakthroughを他の教科にも応用できる子、というのが実はかなり限られるのでその辺りもそれぞれの気付きやbreakthroughが本人の中でつながっていくように、という指導もこちらでしなければなりません。

という諸々があって、ようやく結果が出てきます。本当に大変な道のりですし、そのような諸々をクリアして毎年受験生が難しい大学に合格していくのも本当にすごいことだと思います(誰もほめてくれないので、自分でほめました!自給自足!)。ただ、このエントリの目的は「だから、みなさん、嚮心塾で成績という結果が出てなくても許してね☆」ということではありません。こういったことも含め、塾にすべての責任があるというつもりでこちらは教えています。しかし、このようなプロセスをよほどの天才でない限りいくら迂遠であっても辿らざるを得ないという「不都合な事実」を認めたうえで、どの段階に自分の子供がいるかを親も教師も絶えずしっかり考えていくことが長期的に見た子どもたちの成長にとってはとても重要であるということです(松井秀喜選手がヤンキースに入団した時、名将ジョー・トーリは当初は全く打てていない松井について聞かれ、「そのうち打つよ。彼はボールがよく見えていて、三振の仕方がいい。」と言ったそうです。その後の結果はご承知の通り、トーリの予言通りになったのですが、三振という結果だけではなく、三振の仕方を見ることが「人を育てる」ということであると思います)。それをせずに「結果が出ないから」と改善しつつある取り組みを切るのでは、「無駄」に見える基礎研究を守っていくことの大切さを主張する大隅良典先生に対して、「競争的資金を拡充しますよ!(結果出したらお金あげるよ!)」と的はずれな言葉で応えるとんちんかんな文部科学大臣と、知的レベルにおいて何ら変わらないことになってしまいます。どちらのアホさにおいても、その短絡的な判断の犠牲になるのは、若い人たちであるのではないでしょうか。(もちろん改善が見られないのにそこに予算をかけるべきであるのか、という問題は国の科学予算であれ、卑近な塾や予備校代であれ、また考えなければならないもう一つの大切な問題です。しかし、そこで大切なのは「改善」を見ようとしているかどうか、であるのだと思います。「役に立つ」あるいは「成績が上がる」のは、あくまで最終段階でしかない以上、それ以外の「改善」を見ようとする目が(ジョー・トーリのように)なければ、やはりそれはせっかく育ちつつある芽を潰すことになってしまうのだと思います。)話を戻せば、evidence-basedにしにくいものについては、やはりそれに携わるものの見る目を鍛えるしかない、というところが教育の難しさ、教育経済学のすきまとして絶えず残りうるところなのではないかと思っています。

また、だからこそ僕は嚮心塾に通ってうまくいかなかった生徒たちも嚮心塾をなかったことにはできないと思っています。退塾するにせよ、そのような改善のプロセス自体が少なくとも存在することを知っているのは、その後の人生で真摯に取り組むにせよ、あるいは投げ出して中途半端に生きるにせよ、決して無視の出来ないものとなるはずです。自分の意識を改革できずに努力を積み重ねられなかった子も、努力をしなかった自分というものを決して自己正当化することはできずに残りの人生を生きざるをえないのではないでしょうか。それがいつか、彼ら彼女らの生きる力となれるように、今日も生徒たちにどんなに嫌われようとも、自己正当化のためだけの努力をしっかりと論破していっては、自分を鍛えるための意識と方法とを塾生の中に育てていきたいと思っています。

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