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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「地頭(じあたま)」とは何か。

受験勉強では、一通りのことを基本的なところから積み上げていくしかないわけで、ほとんどの「勉強しているのに力がつかない」という子たちは、その「勉強」の内容が自分の実力よりも圧倒的に高いレベルのものである、という失敗に陥っているだけです。そこを必要なステップを踏ませ、適切な教材やペースを設定していけば学力はみるみるうちについていきます。

しかし、です。このように適切なレベルの教材の選定、というのはある程度教えたことのある先生ならたやすくできることではあるのですが(というレベルの指導すら、ほとんどの高校や予備校では実現されていないことがとても問題なわけですが)、しかし、基本的なところから「一段ずつ」ステップを踏ませてあげているつもりでも、それでうまくいく子と行かない子とに分かれるのが勉強です。

もうちょっと精密な言い方をすると、それで「隙間なく」うまくいく子と、それである程度力は伸びるのだけれども、表面的な力しかつかない子との違いが出てきます。同じ教材を同じように周回してもなお、そのように理解度や定着率に差が出てくるそれを、「地頭(じあたま)の違い」などと教える側はつい思いがちです。

このような違いは能力の違いによるものではなく、まだ目に見えてはいない何らかの原因によるものだ、と、様々な子を教えてきた経験から僕は考えています。「努力しても、できない」と思われがちな子たちも、力をつけていくために必要な思考プロセスや学習習慣のうちの何かが欠落しているからこそ、努力をしても力がつかない状態にあるわけで、それを「地頭(じあたま)の違い」と言ってしまうのであれば、教育などやる意味がないと思っています。

だからこそ、嚮心塾での指導はちょっと特殊です。いわゆる「生徒のわからないことを教える」というのはあまりメインではありません(もちろん、教えてますが!)。それよりは、「(間違えた答を生徒が導き出したとして)どうしてそのように考えたのか。」を丹念に聞いていきます。その思考プロセスを徹底的に追うことで、彼ら彼女らが何は踏まえられていて、何は踏まえられていないかの思考の癖、というか傾向を把握しようとしていきます。それとともに、いわゆる「できる」受験生であっても、とんでもない基本的なことが抜けていることに気づくことも多々あります。当たり前です。人は自分の通ってきた道しかわからないわけですから。このようにして、そのような抜けがないかどうかを探していっては、見つけ次第埋めていく、ということをやっていきます。

ある意味、この塾でやっている作業というのは「地頭(じあたま)」と一般にはされているものをどこまでも分解、分析していく作業である、と思っています。ある生徒が何かをできないときに、それを決して「地頭」とは言わずに、何らかの原因によってそのような回路がつながっていかないことになっていないかを徹底的に探し、考え抜いていく、ということをしています。

このプロセスを経て、元々勉強が苦手だった子が力がついて難関大学・学部に合格する!という奇跡が起きるときもあります。もちろんこちらもそれを目指して日々努力をしているわけで、そのためにこそ徹底的に一人を観察・分析しているわけですが、しかし、この作業自体は受験に合格するためだけに必要なことではないと思っています。

「地(じ)」というのが「nativeな(生まれつきの)」という意味だとすれば、何が「地(じ)」であるのか、を探っていくというのは自分自身が何者であるのかを、自分自身が今までに身につけたものにidentifyしない、ということです。
18年かそこらの短い自分の人生の中ですら、「これが私だ!」「これが私の能力だ!」などとすでに自分の人生が既定路線であるかのように人間は振る舞います。しかし、その「地(じ)」が実はnativeなものではなく、後天的に身につけた習慣に過ぎず、それを対象として意識し、努力することでいくらでも改善できるものである、ということに気づけば気づくほどに、自分の人生が自由になっていきます。受験などはそのように何が「地(じ)」であるのかを疑い、切り分け、そして改善していくための練習でしかありません。

もちろん、人間は自由に耐えうるだけの心の強さを持ち得ないことも多いことからもわかるように、「自らの『地(じ)』なんて疑いたくない!それを疑うくらいなら、勉強なんかできないままでいい!」と思ってしまう子たちも実は多いです。今までの自分のidentityが見えなくなるのなら、勉強なんかできないままでいい、というその恐怖感はわかります。また、実際にその子の学力の向上を妨げているものは往々にして、その子にとって一番大切にしている何かであることが多いです。その本人にとっての「大切なもの」が現実とは食い違う方向へとその子を駆り立てていくがゆえに、同じ失敗を繰り返す、ということになっています。

もちろん、だからといって、その子が今まで一番大切にしてきたものを捨てろ!と強要することはできません。実際には、その大切にしてきたものは、その子にとって別の長所の根幹となっていることもまた多いからです。しかし、そのような大切なものがある部分においては得難い長所を作り上げてきたとともに、別の部分ではどうしようもない短所の原因となっていることも多いという事実を認識してもらい、その子の大切なものを変えようとせずに長所は活かした上で、しかしそれが当然のごとく招く限界についても理解し、準備をしてもらっていく、という作業を粘り強くしていかなければなりません。

愛国心であれ、その他の帰属感情であれ、その影響を脱し、それが自分にとってnativeであるがゆえに当たり前に組み込まれているものである状態を脱した上でそれでも愛せるのであれば、それは「愛」と呼ぶに値するものだとは思いますが、自身の惰性ゆえの疑いのなさを正当化するために「愛」を僭称することは単に成熟できていない態度であると思っています。だからこそ、自身の中での「地(じ)」を疑い、改善していく作業の一貫として、「地頭(じあたま)」とされるものに対して、一人一人の塾生が、徹底的に疑い、検証し、それを乗り越えていけるように僕自身もこれからも力を尽くしたいと思っています。

そしてそれはまた、自身に固有の形質を心から愛することができるようになるためにも、必要なプロセスであると思っています。

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見る、ということ。

教育に携わる人間にとって、名作『暗殺教室』は必読書です。僕自身も繰り返し読み、子どもたちにも読ませてきました。
その中で「見る」ということについて描かれた部分があります。

(ここからはネタバレなので読んでない方はふわっと飛ばしてください!)

具体的には主人公が自分の弟子に対して、その部分的な能力の評価のみに終始しては弟子の人間全体を見ようとしてこなかった自分の浅はかさゆえに弟子がねじまがってしまったことを、自分が人間全体を見られることの尊さを感じていく中で後悔し、自身が再び一人一人の「人間全体」を見よう!と決意することが彼の動機であった、ということがわかります。

(ネタバレ終了)

教育において、「見る」ということは全ての基本であり、そして究極の奥義でもあります。「指導力」という無形の力を測るのは難しいとして、その教師がどれだけ指導力があるかを測る指標は、その教師がどれだけ生徒たちのことをしっかりと見ているか、よく観察しているか、だと思います。

このように書くとよく生じる誤解として、「生徒たちの一挙手一投足に細かく口うるさい先生が良い先生である」というものがあります。しかし、これは往々にして、「よく見ていない」先生の特徴であり、このように口うるさい先生は生徒の人間全体を理解することにはあまり興味がなく、自分の価値基準に子どもたちを従わせることに関心がある人が多いと思います。この場合、子どもたちの「部分」だけを見て、そしてそれを自分の理想という鋳型にあてはめようとしているからこそ、「口うるさい」指導になりがちです。

「よく見」ていれば、決して口うるさくはできないものです。なぜなら生徒が様々な失敗や問題を起こした時、あるいはうまくいっていないなにかに直面した時、そこに対してready-madeのアドバイスをすることが、かえって彼ら彼女らのpersonalityを毀損したり邪魔したりするものになることを恐れるからです。
しっかりと観察し続け、それが教える側の自分の好き嫌いからではなく、やはりその子のためにはならないと確信をもてるようになり、しかしその子がそのような悪い習慣を形成してくるまでには、その子なりの試行錯誤があるわけで、そのような試行錯誤から生じているその子の長所を損なわないようにして、どのようにアドバイスをしていくか。それを考え続けることになります。

だからこそ、「よく見る」ということは、「逡巡し続ける」ということです。

自身の正しさに疑いのない人間には、教える資格はありません。
教師が偽善を語ることは、仕方のないことです。(もちろん宮沢賢治の糾弾も正しいのですが)全ての人間が自らが正しくなければ善について語れないのだとしたら、人類の誰も善については語れない、ということになってしまいます。だからこそ教師は、自らがろくでもない人間であることは当然の前提として、それでも子どもたちには善を語らねばならない。

しかし、一方でその「善を語らねばならない」が、簡単に機械化・自動化してはその大義名分のためにチェックが効かなくなり、暴力的な抑圧に加担している自分に気づけないのが私達人間の愚かしさでもあります。

生徒をよく見る。そして、それに対して自分の好き嫌いではなく、彼ら彼女らにとって何が必要かを考える。

といった一連の過程は、生徒にとって必要であるだけでなく、教師自身にとってもまた自分の言葉が嘘や自己満足にならないためにも必要であるのです。

だからこそ、嚮心塾では、とにかく生徒をよく見る(観察する)ことに時間を充てています。業務の9割9分はそれである、と言ってもよいでしょう。徹底的に観察し、彼ら彼女らの思考回路や心理状態、そこに至るまでの人生を想像し、そしてその上でこちらがかけられるかけるべき言葉を探していく。それは学習に関してがメインですが、それだけではありません。

その「見る」ということがたとえばZOOMの指導とかではどうしてもうまくいきません。現場で空間を共有して見ている時と情報量が違いすぎて、細やかなところまでが観察できないのですね。もちろん質問に答える、相談に乗る、メールのやりとりをする、答案の添削をする、などのやりとりはできるわけで、そうしたコミュニケーションから思考回路や心理状態をある程度は把握できます。
しかし、本当に大切なのは、そのように生徒の意識の俎上に載っているものではなく、無意識に現れるもの、コミュニケーションによらないものを教師が把握することであるので、そこはこのオンライン教育の普及によっては、失われるしかないと思っています。

もちろん「学力を伸ばす」ために見る、というのは相手を「人間全体として見る」ということとはときに矛盾するものでもあるでしょう。ただ一方で相手を「人間全体として見る」ことを抜きにして「学力を伸ばす」というのには、僕はやはり限界があるかな、とも思っています。卑近な例で言えば、自分の担当教科を伸ばすことだけしか考えていなくて、生徒の受験全体を考えられない教師は、生徒が学力を伸ばすためには有害です。あるいは生徒の受験を成功させることしか考えていなくて、その後の生徒の人生を想像できていない教師は、実は生徒の受験の成功にすら、あまり貢献できはしないのです。

部分は全体と繋がっているだけではなく、全体の一つの現れでもある以上、部分を理解するためには全体を見ようとしていく努力が欠かせないのです。「困難を分割する」ことがデカルト以来の問題解決の伝統であり、我々が立脚してきた価値観であるとしても、分割された困難であることが、もとは一つの問題であったことを忘れ去るために使われるのであれば、それはもはや問題自体に取り組むことを放棄した態度であると言えるでしょう。「学習塾に人間性の涵養なんか求めていない。成績さえ上げてくれればいい!」というのはよくあるリクエストですが、そもそもその子が様々な機会に学ぶことができていないのはその子の人間性に深く根付いたものがある、というときに「人間性の涵養などどうでもいいから、成績を上げろ!」という主張がいかに的外れか、ですよね。そもそも、その2つが繋がっていない、と考える事自体が僕には傲慢で浅薄な人間観であると思います。(といっても、「人間性の涵養!」といってお説教だけするのもまた違いますが!)

ともあれ、今日もまた、徹底的に生徒の人間全体を見続けようともがき続けたいと思います。

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自学自習マニュアル(その3の2 学校の課題はやらない方がいい!)

東京都でも休校期間が5月6日まででは終わらずに、最低でも5月末まで延長される見通しです。
「感染症の拡大を防ぐ」ことは必要であるとしても、私達の経済活動だけでなく子どもたちの教育へとそのコストを押し付けることは、長く続けば続くほどに取り返しのきかないものになります。
特に子どもたちへの教育は、あまりにも放置されきっていて、公教育の無策とあいまって、さらなる教育格差をこの
日本に生み出すことになってしまうからこそ、「お家にいよう!」だけでなく、子どもたちを無為から守っていかねばなりません。

さて、学校の先生方ももちろんこの状況には心を痛めてなんとかしたい!と思っていることは確かです。
そして、様々な取り組みをされているとは思うのですが…。
実際に出される課題を見ていると、ちょっと考えがなさすぎる課題が多すぎて、逆に子どもたちは
かなりそれに疲弊している割に、何一つ勉強にならない、というものが多いです。
例としていくつか挙げていきます。

・授業でやるはずだった古文の文章の全訳を課題として出す。
→これを生徒が自力でできるなら、古文の授業すべていらないでしょ!真面目な子がうんうん苦しんで時間を無駄にし、
そして結局力が付きません。
・授業でやるはずだった英語のリーダーの文章の…
→以下同文。
・授業で進むはずだった数学の範囲(つまり未習分野です!)の問題集を課題として出す。
→同じく。
・英文法の問題集(Nextage,Vintage)を課題を出してテスト。
→高3であってもこの時期にこの問題集をやり込むことで力がつくレベルの子は少ないです。結局は苦痛の伴う単純暗記を
強いては結局何も残りません。こんなことに時間をかけるくらいなら、総合英語系の英文法の概説書を繰り返し読み込むことの方が絶対に力が付きます。

などなど、ですね。
もちろん映像授業を始めて、その収録を必死にやっている高校の先生方もいらっしゃいます。
その努力は美しいのですが、ぶっちゃけそれだとスタディサプリとかは月々2000円でより質の高い、
しかも映像授業のプロたちの先生方の講義が聞けるわけで…。
それは、高校の先生の付け焼き刃の授業ではどうしようもないですよね。。スタディサプリのほうが
よいと思います。

小学生に至っては、もっと悲惨で、そもそも放置、という公立小学校も多いです。あるいは放置しないとしても
当然映像授業などはしていません(まあ、公立小学校でもスマホ一台でできるわけで、もちろんご家庭によってwifi環境がないおうちも多いとは思うので、それだけで十分なわけではないとしてやればいいと思うのですが。「皆がうけられなければ平等性を担保できない!」と理由をつけて何もやらないのは僕は犯罪的である、と思います。それをやった上で、
その環境がないお家にどう別の形のサポートをするのかを考えるべきです)。
代わりになにをするか、といえば、課題です。未習分野のドリル。ですね。


自説を繰り返しになりますが、「未習分野はとにかく教科書を読む!」が正解です。
教科書はもちろん問題数も少ない。解答もないです。しかし、それを補って余りある説明があります。
何度でもその説明を読むこと。それを人に説明できるレベルまで落とし込むことが大切です。

問題集を解くのは、教科書が要らなくなってから。それを見ないでもそこに書いてあることは理解していて、覚えていて、
そして教科書にある例題はすべて解ける。その状態を作ってから問題集を解くと、スムーズに解ける問題が多いので時間もかからず、しかも教科書を読むだけでは自分がわかっていなかったところもまた見えてきます。
それを徹底してください。

また、英語に関しては教科書が使い物にならないので、英文法の参考書を一冊読むのがいいでしょう。
これも問題が多いものではなく、とにかく「説明を読む」ものがよいです。
これに関してもさんざん繰り返し読み、「この本の内容は(細かい表現で覚えていないものはあるとしても)だいたい理解したな!」となってから英文法の問題集をやることが大切です。

真面目な子ほど「学校の課題!これはやらなくては!」となりがちです。
しかし、このように長期休校の事態に際して、学校で出すべき課題の量がどれくらいか、ということを学校の先生方は
わからないまま、何となく課題を出しています。
しかも、この長期休校で教育が放置されているという危機感、あるいは親御さんの「うちの子供がアホになる!」という
恐怖心から、この学校から出される課題の量は、多くならざるを得なく、歯止めもありません。
課題を多く出せば出すほど、学力低下しても学校側の不作為ではない、とお子さん自身に責任転嫁ができるからです。

しかし、すべての教科の先生が、そのように「課題をどれだけ出すかが教師の熱意だ!」競争をしてしまえば、
子どもたちは当然それをこなせません。さらにはその課題の質自体が、家庭学習を前提にしていない学校の先生方の
いわば「しろうと仕事」です。もちろん、しろうと仕事であろうとその動機や熱意を否定するものでは全くありませんが、
しかし、「この膨大な分量の課題をこなしさえすれば、勉強の力がつく!」と子どもたちが信じては時間を無駄に費やしてしまうことだけは、避けねばなりません。

結局受験において、あるいはその先の人生においてはさらに、必要なのはその「自学自習」の力です。
この長期休校やそれに伴う子どもたちへの公教育の放置は胸が痛みますが、それでもこの機会に自学自習の習慣づけや
方法論が確立していければ、それは必ず子どもたちの力になります(それに、そもそも学校の授業を聞いているだけでは受験には受からないので!)。そのように、自学自習体制を整えていく、ということのためにむしろこの期間はチャンスであるのです。そのように考えて、準備をしていくことが大切です。


※このような事態ですから、通塾は難しいなあ、と思っている保護者の方もメールでの学習相談はいつでも乗ります。
いずれ有料化も考えていますが、今のところは無料!です。また、同じお月謝にはなってしまいますがZOOMでの指導もやっております。
まだまだ続くこの長期休校の期間に、どのように自学自習の習慣を作っていくか、そこに不安を抱えておられる保護者の方はまずはご相談いただければありがたいです。

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自学自習マニュアル(その3:補遺その1「教科書だけをやろう!」)

バタバタと忙しい日々を送っていて、間が空いてしまいました。
その間にこの休校期間中の勉強を授業では穴埋めが不可能なので、文部科学省の方から
「教科書を主体に他の教材も含めて、家庭で学習を進めてほしい」という指示が出ているようです。

この指示は基本的に正しいものの、注意点もあります。この「教科書を主体に」というのは自学自習に取り組む場合、「教科書以外に問題集もやってほしい」というように解釈されがちです。そして、小中高生というものは、「教科書を含めて問題集をやってほしい!」という指示をされてしまうと、ほとんどの子は教科書を一読、あるいはもはや読まずに、
「ふんふん。これはわかった!さて、問題を解こう!」ということになってしまいます。

しかし、教科書の未習分野を一読してわかる天才などほとんどいません。だからこそ、このような学習法は結局、
「自分ではよくわかっていないところを教科書に乗っている公式を覚えてもいないし、もちろん理解や導出なんかできていない状態にも関わらず、なんとなく見様見真似で解く」という最悪の勉強法へとつながってしまいます。。

なぜこの勉強法が最悪か、というと、あまりよくわかっていないままに問題を解くので、とても時間がかかります!
しかし、それだけ時間をかけても、結局覚えていても理解してもいない公式やルールを無闇矢鱈と「これかな?」という当てずっぽうで使ってみては、解答を見て正解と一致しているというだけで、「これでわかった!」と勘違いしては次に進んでしまう、ということになります。このような勉強をしても、多大な時間がかかり、何も残りません。しかし、勉強を長時間やった気にはなるので、成果が出ないまま疲れ果てて勉強自体への意欲もどんどん薄れていく、という最悪の事態に陥ります。

このような失敗を防ぐためにはどうしたらよいのか。それが「教科書だけを勉強する。」という方法であると思っています。教科書だけであれば、説明が多く、理解していないところをしっかりとたどることができます。さらには問題数が多くないため、それに関してはわかるところまで繰り返すこともできます。そして分量が少ないからこそ、何回も読み返すことができ、そして読み返せば読み返すほどに、自分がよくわかっていなかったことが見えてくる、というように力がついてきます。

未習分野を勉強する際に問題集まで手をのばすのは、自学自習の仕方としては、最悪だと考えてください。
問題集が役に立つのは、既習分野の復習という局面か、あるいは未習分野を教科書でしっかりと理解しながら進めていった後に、理解という点ではこれ以上教科書を読んでもあまり変わらない、と「飽和」してきたときであると考えるとよいかもしれません。逆にその状態に至るまでは、問題集を解いてはいけない。それぐらいの気持ちで教科書を読み込むことが大切です。

新型コロナウィルスの収束も、5月上旬までというスパンではおそらく難しく、休校期間も延長することにならざるを得ないと予測されます。その中で自学自習をしていかねばならないわけですが、この状況で未習分野を進めていくときに「問題集だけを解く」というのは基本的に(それをすべて解説できる大人が横に居なければ)最悪の手法であると思ってください。しかし、学校でも「講義は学校側できちんとしました。あとは問題を解くことが君たちの勉強だ!」という方式で普段進めている以上、その学習習慣を引きずったままに「自学自習」を子どもたちが求められれば、必ず「読む」ことを雑に終わらせては「解く」ことだけをやり、そして何も力が着かない、という無駄な時間を過ごしてしまうという失敗に陥ってしまいます。

だからこそ、「解く」前に「徹底的に読む」ということが、自学自習においては大切です。そのためにも、未習分野を進めていく際には、教材はまずは教科書だけに絞って繰り返す、というのが賢明であると思います。

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自学自習マニュアル(番外編:学校に反転授業を!)

この前の内容に続けて自学自習についてのその他の押さえるべきポイントを書こうと思っていたのですが、
文部科学大臣が「休校期間中の授業は実質補填できないから、一定の要件を満たせば家庭学習で単位をとれたものとする」という発表をしました。これは実質的に学校教育の責任の放棄だと思いますので、先にこれについて書きたいと思います。

GW開けにはこの新型コロナの蔓延が収束している、というかなり楽観的な見通しが万一実現したとしても、
従来の学校の授業でこの「失われた2ヶ月」を取り戻すことは夏休みを丸々潰しても難しいというのは確かです。
この厳しい現実に対して、どのように取り組むべきか、というのは簡単なことではありません。

しかし、だからといって「家庭学習で学んだものとする!」と言い切ってしまうのでは学校がその教育に担う責任を放棄するようなものです。それはやはり、あまりにも無責任なのではないかと思います。

この解決策としてはやはり「反転授業」形式しかないと、思っています。具体的にはいつからかはわかりませんが、
学校が仮に再開できたとして、本来進むはずだった範囲の学習内容に関して、範囲を区切っては自習してきた子もそうでない子も教科書を読み返し、そこでの疑問点を逐一先生が教えていく、という形こそがこのような講義の穴を埋めていくためには現実的、かつ効果的な手段ではないかと思います。

僕自身は講義形式ほど効率の悪い学習はないと思っているため、このような反転授業形式の学習塾をやっているわけですが、学校がそれを全面的に取り入れるのはまだまだ難しいと思います。しかし、学校には現在のままでは質問を受ける時間、というのがカリキュラムの中にほとんど組み入れられていません。だからこそ、学習内容についてわからないところの質問は、休み時間に生徒が自主的にするもの、というような「添え物」扱いです。これでは率直に言って、勉強ができるようにはならないと思います。

たとえば一週間に一コマだけでも、各授業の中でそのような質問タイムを作る、とか、もちろんそれがコマ数の少ない授業なら2週間に一回とかでもよいのですが、そのように振り返る時間を作るだけでも学習効果は高まります。ギチギチの予定で講義と演習だけで終わり、生徒が疑問点については質問する時間がまとまって定期的には取られない(まあ、定期試験前の1コマあるかないか)、という今の「とりあえず講義予定を消化することが優先で、生徒が力がつくかどうかはあまり考えていない」学校の状態からはとりあえず前進する改善案ではないでしょうか。

そして、この休校によって「従来通り講義をしていては、そもそも追いつかない!」という状況はある意味でその反転授業形式を試すための絶好のチャンスです。ここで、そのように学校側が「教科書を読む」あるいは「講義動画を見る」ことを
生徒に休校期間中に課した上で、そこでの疑問点を休み明けに徹底的に質問に答えて一つ一つ潰していく、という授業スタイルをとれば、むしろ子どもたちの実力はただ講義をリアルタイムでしていたときよりも必ず上がります!
そして、そのような成功例が出てくれば、教えている先生方も「ただ質の高い講義をしていればいい!」と講義の質を上げることだけに専念するのではなく、このように立ち止まって生徒の質問に徹底的に向き合って教えることに時間をしっかり割いていく方がむしろ生徒の力を伸ばすためにはいいのだな!と気づけば気づくほどに、公教育自体が今の形骸化した状態から、意味のあるものになっていくと思います。

だからこそ、「講義の遅れた分を取り戻すのは無理だから、やったことにしよう!」とごまかすのではなく、むしろこのピンチを反転授業を試験的にでも導入していくチャンスと捉えて、学校側が取り組んでいただけると本当に嬉しいです。
(それをしていただけると、本当に素晴らしいと思うのですが、、まあなかなかやらないですよね。。この理由として、どうしても学校の先生方に「授業こそ教育の生命線!」という固定観念があるからだと思っています。しかし、目の前の生徒を教えるのに、様々なアプローチを用意することは、教育という極めて難しい取り組みに携わるものの責任でもあると思います。是非これに関しては、学校の先生方にしっかりと話し合い、考えてもらって、反転授業形式を試験的にでも導入していただきたい、と思っています。)

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自学自習マニュアル(その2:教科書学習が有効ではない例外。)

前回、教科書学習の利点と欠点について記事を補う形で書きました。
様々な教科でこの教科書学習が有効である、と思っていますが、やはり例外となる科目があります。
それが、英語です。

これは英語の教科書は、そもそもその一冊で力がつくようには作られておらず、むしろある程度英語ができる人でないと取り組みようがないからです。端的に言い換えれば、小中高の英語教育において、「英文法」の教科書がない、というただ一点が致命的であると思います。

もちろん、中学の教科書も高校の教科書も各単元の中に文法事項は、それなりに入れてあります。しかし、
この程度の解説でわかる子は、最初からある程度英語ができる子です。中にはprogressシリーズのように、そもそも
英文法の解説がほとんど載っていないものさえあります。

嚮心塾には今年の理三や阪医の子のように勉強が得意な子達だけではなく、様々な子が通ってくれます。
その中で、「致命的に英語ができない」ままに高校を卒業してしまった浪人生たちの殆どは、「気がついたら英語の教科書に載っている内容が何一つ理解できなくなっていて、試験前に教科書の英文の和訳や単語・熟語をムリヤリ覚えて何とか定期テストを乗り切ったものの、受験ではどうしようもなかった」というケースです。

そしてこれは、ある意味現在の中高の英語教育の傾向からすれば、当然の結果であるのです。なぜなら、中高の英語教育において、英文法をあまりにも軽視することが「コミュニケーション英語」という美名に基づいて推し進められた結果として、「英語の教科書を読んでも英文法についてはあまり学ぶことができない」という状態になってしまっているからです。
これに関しては、英語の教科書を使わずに英文法の参考書を繰り返し読んでいくことが大切であると考えています。
(2,30年前に比べて(我々の頃は、『ロイヤル英文法』とか『英文法解説』とかを必死に読んだものでした…。)、最近では英文法の参考書もだいぶ取り組みやすい様々な参考書が揃ってきています。たとえば大学受験用の高校英文法であれば、『Evergreen』『ジーニアス総合英語』『be』『breakthrough』などです。これらのうちどれでもいいので一冊を繰り返し熟読すると、英文法のルールについて理解ができるようになってきます。これをしっかりとやれば、ほぼ高校の英語の授業は必要ないくらい、です。実際に嚮心塾でも、全く英語ができないままに高校を卒業してしまった浪人生が、英語が単語や熟語を覚えてもどうしようもない状態から始めて、これらの英文法の教材を熟読することで、英語でしっかりと点数をとれるようになっています。ここに関しては、英語ができない子のほとんどは、英文法をそのようにしっかり鍛えてあげれば、100%力がつきます!)

こう書くと、高校の英語の先生方は「いやいや。うちの高校は英文法にもしっかり力を入れている!たとえば『Nextage』とか『Vintage』とか小テストを徹底している!!」と反論されるかもしれないのですが、これでは絶対に力がつきません。これらの問題集を、英文法を理解していないままにいくら反復して解いても、何も残らないで実力もつかないことは、
以前にも別の記事で書きました。あるいは、「解くよりまず理解!」とも前回の記事で書きましたね。

そもそも人間は、「理解できないものを覚える」ということが極めて苦手です。有名な話をあげれば、将棋や囲碁のプロ棋士の方々は、超人的なくらい自分の対局の盤面を覚えていて、それを再現することができるわけですが、しかし、「(自然な対局ではない)ランダムな駒の配置や石の配置を覚えろ!」というようなテストをすれば、その超人的な記憶力は全く発揮できません。なぜなら彼ら彼女らはその盤面の意味(そこに至るまでの経緯)を理解しているから覚えられるわけで、自然な対局では決してないような配置にしてしまえば、単純に暗記するしかないからです。

英文法を理解していない中高生に、英文法の問題集だけを何回も解かせる、というのはこの「ランダムな盤面の配置」をただ反復によってできるようにしようとすることです。しかし、そのような能力は当然大学入試では全く求められていません。このように英語の勉強時間を空費させられては、「あんなに努力したのに、何も英語の力がつかなかった。。」という悲惨な状態の中高生が多いのです。

だからこそ、そのような悲惨な事態にならないためにも英語の教科書ではなく、「英文法書を読んで理解する」ということがとにかく大切です。嚮心塾でもまずはそれを徹底的にやらせています。
(もちろん、心ある中高の英語の先生方はそれに気づいた上で、しっかりと対策を練っておられる方もいるはずです。いるはずなのですが…教えている実感としては、あまりにも「文法は問題集を解け。」で終わらせている高校が多すぎる。。と思っています。)

国語も似た傾向があるのですが、古文や漢文はちゃんと「文法の教科書」があるので、それを読んで理解していけば
大丈夫です!例外としてはこういったところでしょうか。

次回はオンライン講義や指導の際の学習の注意点を書いた後に、では「自学自習の洗練」とはどういうことなのか、実際に嚮心塾でやっていることを書いていきたいと思います。

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自学自習マニュアル(その1:教科書を使った学習の利点と欠点の詳細)

東京すくすくさんの取材記事で、「この長期休校の間に教科書を使って自学自習を!」という趣旨を主張しました。
以下に答えきれなかったことをいくつか書いていきながら、自学自習に何が必要であるのか、という理解の支えにできたらと思います。

まず、自学自習において、なぜ数多ある参考書や問題集ではなく、教科書学習を薦めるのか、についてです。その主張の根拠をいくつか挙げていきたいと思います。

①「解く」よりも「読んで理解する」ことができる。
どのような勉強も、まずは理解することが大切です。理解をしていない状態のままで定理や公式だけをムリヤリ覚えておいて、問題を解くという勉強をしても、できたつもりになってもすぐに忘れてしまいます。なので、「問題を解く」というのは実は「ある程度理解をする」というプロセスをしっかりと経た上で、とりかかるべき作業であるのです。

ただ、これに関してはほとんどの学校では「先生が講義をした」=「生徒が理解した」というように、仮に見なしてしまってどんどん進んでいくので、高校生の大半は教科書の内容が理解できていないままにどんどん授業が進んでいきます。「いやいや。うちは進学校だし!」と思っておられる進学校の先生方も多いのですが、たとえば高校受験の偏差値で70オーバーの高校に通う高校生であっても、教科書の理解度、と言えばおそらく隅々まで理解している高校生は(教えている体感では)せいぜい3割〜4割くらいではないでしょうか。

逆に言えば、大学受験においてはそれほど「高校の教科書を網羅する」ということはハードルが高いのです。「教科書の隅々まで理解する」ということさえできていれば、それだけで受験勉強の下地どころか、よほど難しい大学以外にはそれで合格ができてしまう、と言っても過言ではありません。

そして理解することのためには、まず「読む」ことが何より大切です。一度では内容のわからないことを繰り返し読む。意味を調べる。こうした読む作業をじっくりとやっていき、理解を固めて行ければ行くほどに、問題を解くことの学習効果が高まります。逆に言えば、そのように隅々まで理解するまでは、「解く」ことは理解に邪魔である場合もある、とさえ言えるでしょう。(もちろん実際には「読む」→「解く」の時間配分については各科目によって、あるいはその子の得意不得意によって、変えていかねばなりません。しかし、今の小中高生が一般に「読む」のプロセスが大きく欠けていて、そこを補うだけでもかなり勉強の力がつく、ということは事実です。)

②分厚い参考書は、読みきらない。

でも、教科書ってそっけないし、わかりやすくないですよね。。だったら、「読む」系の参考書のほうがよっぽどよいのではないか!というのは正しい疑問です。しかし、教科書の一番の利点は「薄い」ということです。わかりやすく説明をしようとすればするほどに、ページ数はかさんでいきます。そうなればなるほどに、「何回も読んで理解する」ということが難しくなってきます。それに引き換え、教科書は最低限かつ十分なことをまとめたものです。だからこそ、(分量という面では)「読む」作業に挫折しない可能性が高いのです。この点で、教科書はかなりお薦めです。

③どの参考書が素晴らしいかは、わからない。
もちろん、だからといって「教科書はどんな参考書にもまさる!」というつもりはありません。もちろん素晴らしい参考書もあるでしょう。しかし、そもそも小中高生にとって「どれが素晴らしい参考書か」という情報を得ることが極めて難しいのです。さらに、「この参考書が素晴らしい!」という情報をネットや先輩その他から得たとして、その参考書が本当に自分自身にとっても素晴らしい参考書になるかどうかは、実は全くわかりません。これは同じレベルの志望校を目指して勉強するとしても、一人一人の弱点や強いところは全く違うので、本当に「1000人いれば1000通りの勉強法がある」からです。だからこそある人にとっての「素晴らしい参考書」が、別の人にとって素晴らしい参考書は正直やってみなければ、わかりません。

じゃあ何をやればいい?
教科書!

であるのです。教科書は受験勉強に置いては「ストライクゾーン」を定義するものです。
だからこそ、その「ストライクゾーン」の中で理解できていないところがあれば、それを潰していくことは最も効率の良い勉強であるだけでなく、そのような「素晴らしい参考書」を進めていくために自分に足りなかった要素を埋める手助けにもなります。

④手に入りやすい。(安いor無料。かつ全国どこでも手に入る)
最後の利点としては全国どこでも手に入る、かつ絶版その他の恐れもない、さらには安いor無料ということで、
非常に使い勝手がよい、ということもあります。


これらの利点から、教科書学習はかなりお薦めです。実際に嚮心塾でも(特に数学は)教科書を中心に読み進めて、解き進める、という指導を徹底しています。もちろん、難易度の高い大学を受ける場合にはこれだけでは当然足りません。しかし、このレベルで穴があるままに難しい問題集をやることほど、時間の無駄はないとも思います。


教科書学習の欠点として考えられるのは、
(1)答・解説がない。

まずはこれでしょう。もちろん高額な教科書ガイドも売っているわけですが、そういったものに頼らないとすると、解答・解説がないことがネックになります。
しかし、これに関してはたとえば
「読んで理解する→解答・解説のある例題だけ解く」でも十分です。そもそも教科書学習は理解するためであり、問題演習をするためではありません。教科書の説明がしっかりわかり、例題がスムーズに解ければ、あとは教科書の中の解答・解説のない問題を解くことなく、問題集に移行すれば良い話です。
(あるいは数学に置いてはたとえば数研出版の『体系数学』シリーズのように、教科書と同内容のものを解答付きの市販本として売っている教科書もあります。それを使うのも手です。)

(2)問題数が少ない。
これに関しては教科書が終わり次第、問題集に移行すれば十分です。

(3)説明がとっつきにくい。わかりにくい。
おそらくここが一番ひっかかるポイントだと思うのですが、これに関して教える立場としては、この「教科書はわかりにくい」という説にはだいぶ疑問を抱いています。たとえば一周読んだときのわかりやすさ、ということで言えば断然参考書です。
ただ、繰り返し読み直したり、解き直したり、というプロセスを経て、「それでも教科書だと全然理解できなくて!」というままに終わる小中高生はあまりいないように思います。ここに関しては、使い方の問題もかなり大きいとは思っています(もちろんそれでもわかりにくい、あるいはそもそも説明を省略しているところはあります。そういったものは参考書で、ですね。)。

といったところでしょうか。限られた紙幅では「『オンライン教育!』という趨勢への逆張りなだけじゃない?」とも
読めてしまうとは思うのですが、一人一人にあった自学自習スタイルを15年間試行錯誤してきた中での一つの結論として「教科書学習はかなり効果的である。」は是非広く皆さんにお伝えしたいところであると思っています。
(と、ここまでは主に数学について念頭に置いて書いてきたのですが、数学・理科・社会に関してはこれが当てはまるものの、英語に関しては少し違います。これに関しては次回補足した記事を書きたいと思います。)

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休校中の過ごし方について取材を受けました。

東京新聞の子育て・教育サイト「東京すくすく」さんに、一斉休校中の子どもたちの勉強の進め方について取材を受けました。リンクはこちらです。

綺麗にまとめていただいたのですが、とはいえ限られた紙幅で語りきれないところもあるので、またこちらのブログでもこの記事について色々と補うべきポイントを書いていきたいと思います。

ともあれ、一斉休校は感染症対策のためにはやむを得ないものだとしても、子どもたちの教育に多大な悪影響をもたらすことは間違いがないわけで、そのための自衛策までが親御さん任せ、その自衛策のためのコストも親御さん任せ、ではこれもあまりにもひどすぎます。その中で、どのようにコストをかけないで学習していくだけでなく、むしろ望ましい学習習慣を「ピンチをチャンスにして」つけていくための方法、などについて諸々書いていきたいと思います。

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教育はサービス業か。(その2)

だいぶ間が空いてしまいましたが、続きを。

前回は「生徒自身に自分の勉強の進み具合や効果をチェックしてもらう」ということが結局大切だと
いうことを話しました。では、そのようになっていくためにはどうしたら良いのか。

たとえばそのための一方策として、嚮心塾では「まず勉強何をする?」ということを必ず生徒自身に考えさせるように
しています。もちろん、これは一歩間違えれば「やりたい勉強ばかりをやる」という失敗に陥りがちです。しかし、一方で
「君は今日はこれからやるべきだ!」などとかっちり決めてしまえば、子どもたちは教師の指示を待つだけで考えなくなってしまいます。これでは嚮心塾が「自学自習」をうたっていようと、形を変えた強制にすぎなくなってしまい、生徒自身が「自分が今何をやるべきか」を考え、選び取っていく力は永遠につかなくなってしまいます。

一方で、それが科目間のバランスを欠いていたり、学校の課題をこなすだけになってしまうのであれば、それは
「自学自習」という体裁だけを守っているだけで、結局はその子自身の力を伸ばすことにはなりません。
そのようになってしまっている場合には、「そのような科目間のバランスでよいのか」「そのように学校の課題だけをこなしていることで果たして力がついているのか」という疑問の投げかけをこちらからしていきます。

そのような問いかけを繰り返すことによって、塾生達は「勉強さえしていれば許される」という状態から、だんだん「どういう勉強を自分はしていかねばならないのか。」という思考へと心が準備されていきます。もちろん、これはただ問いかけるだけではなく「まずは学校の課題さえちゃんとしていればいいんでしょ。」という思考停止に陥っている塾生であれば、
その課題を進めていくことが本当に実力をつけることになっているのかどうか、せっかくの貴重な勉強時間をもっと
他のことに充てるべきではないか、ということまで考えてもらえるようにあれこれ話していきます。(本当はこんなことをしないでも、学校の課題はすべて意味あるものとして終わらせた上で、とできるのが一番良いのですが…。残念ながら学校の課題の殆どはどのような目的意識に基づいてこの子達にこの課題をやらせるのかをよく考えて出していない、極めて
労力と時間の無駄ばかりの宿題が多いのです…。)

そのような考え方を身に着けてくると、やがて学校の課題のような受動的な勉強だけでなく、自分が能動的に取り組んでいるはずの受験勉強についても「これはあまり意味がない気がする」「これは意味はあるけど今の自分では時間がかかりすぎて効率が悪い」「これは逆に意味があると思うけどやりたくないのでついサボってしまう」などと、自分の勉強内容についても反省をしていくことができます。このように受験生自身が、自分の受験勉強の一つ一つの意義について、しっかりと
反省ができるようになってくれば、もうその受験生はかなり合格率が上がってくるといえるでしょう。
(もちろん、この段階に至った受験生もなお、本当に客観的に自身の勉強の効率や効果を判断することは極めて難しいものです。だからこそいわゆる「合格体験記」はその子にとってはその勉強が良かった、という道筋でしかなく、客観的な意見にはなり得ていないものが多くなります。これはたとえば理三合格者とかであれば、その客観性は他の受験生よりははるかに高いわけですが、それでも全く完璧ではありません。どうしても自身の考えるベストの勉強と、実際にやるべきベストの勉強との間にその子のpersonalityによって、「ズレ」が生じてきてしまいます。それを全教科に渡って矯正するのが、教師の仕事であると言えるでしょう。)

という一見迂遠なプロセスを経て、初めて勉強の仕方というものが生徒たちには身についていきます。

この過程を通じて思うのは、「わからないところに答える」といういわゆる「教える」という作業、というのは
このような学習への姿勢を生徒の中に作っていくという教育全体のプロセスの中では実は非常にパーセンテージが低いものである、ということです。

もちろん、「質問に答える」という行為から生徒との信頼関係が始まってくるので、勉強の内容が教えられなくて良い、と
いうことでは全くありません。そもそも勉強の内容がよくわかっていない人に、勉強の仕方を聞こう!という謙虚な姿勢を持つことはよほど優秀な子でもない限り、思えないからです。だからこそ、こちらでも「全教科教える」という無茶なことをやるために、毎年ヒイヒイ言いながら、必死にあれこれ勉強をしているわけです。

しかし、一方で、勉強の内容だけはよくわかっていても、このような姿勢を生徒の中に鍛えていってもらおう、という姿勢のないままにただ知識だけを教え込む、ということをしてしまうと教育としては大きく失敗します。あくまで、生徒が自分で答を探していけるように、そのための方法論としてどのようなものがよいか、逆にどのようなものは筋が悪いかといった方法論も含めて考えながら、学習内容を調べたり考えたりしていく能力を鍛えることが何より大切です。逆に言えば、その能力さえあれば、あとは何もかもを教え込む必要は実はあまりない、とも言えるでしょう。

ということで、塾では勉強の内容自体を考えさせるだけではなく、質問についての評価もしていきます。
生徒からの質問を受けるたびに、「それはちゃんと調べたり考えたりしたあとの良い質問だね!」と言ったり、
逆に「それはまだあまりしっかり読み込めていないから、もう何回か教科書を読み直したら?」と冷たく拒絶したりします。そのようにして、どのような質問をすべきか、ということまで考えていってもらっては、質問のクオリティを上げていけるように、と工夫をしていくわけです。

このような一つ一つのやりとりを見ると、表題の「教育はサービス業か」という問いについて考えざるをえません。
たとえばその場での顧客満足度だけを考えれば、(前回に書いたような「指導報告書の充実」は本末転倒なのでまた別として)生徒の質問がどのように練られていない底の浅い質問であっても、それに対して懇切丁寧に説明をしてあげる方が
生徒の満足度は高くなります。一方でそれは、生徒自身が考える習慣や勉強の仕方について学んでいくことを阻害するため、そのように「何でも丁寧に説明してくれる!」と喜んで通っていたとしても、実力はつかないままに終わってしまうことが多いでしょう。それでは近視眼的には満足してもらえるとしても、結局は生徒をだめにしてしまうことになります。

もちろん習いはじめの最初から「そんなアホな質問をするな!」とコワモテで怒る先生なんかに学びたくなんかありません!そのような乱暴な指導を受けておいて、「あ、これは自分がアホだ!」と気付ける子は既にある程度研鑽を積んだ子であるでしょう。
だからこそ、教える側としては「何でもアホな質問でも気軽に聞いてね!」というところから始めつつも、
だんだんと「いや、それはアホな質問だから自分で調べた方がよくない?」というように誘導をしていく、という
スキルが問われるわけです。もちろん、勉強の内容を理解することはその子の勉強へのモチベーションを上げるためにも必ず有用です。しかし、それがただ「この眼の前の便利な先生を使えば学校の宿題が困らない」とかになってしまえば、それは依存させればさせるほど、自分では考えも調べもしなくなってしまいます。まあ、google home やAlexa代わりに
なってしまうわけです。
そうならないように、という細心の配慮が必要なのは、自転車の練習の際に最初は補助輪をつけてあげたり、外した後も後ろを持ってあげながら乗る練習をするとして、だんだんと手を離していくのと同じですね。

ということで、「教育はサービス業か」という問いに立ち戻れば、「教育とはサービスを徐々に減らして自分でできる範囲を増やしてあげることが長期的に見ては最高のサービスとなるサービス業である。」というのが僕なりの定義です。
とここまで書いてみると、「そんなの当たり前だろ!」となるわけですが、しかし、これが難しい。本当に一人一人
にうまくフィットしては、その子の自分でできる部分を増やしていくのが本当に難しいものです。
丁寧に教えていくと、いつまでも依存したり、とはいえ、ここは!と思って突き放すと途端にやる気自体をなくしたり。

誰かを教えるときにうまくいったプロセスも別の誰かを教えるときには全くうまくいかない。その試行錯誤の繰り返しです。

しかし、そのように困難な道のりであっても、生徒自身が自分から考え、調べ、そして反省をしていける力をつけていけていけたときには、それこそ「顧客満足」といった二人称の閉じた関係性の中での癒着とは違う、手応えを感じることができます。この世界に一人の尊敬に値する魂が確かに誕生することになるからです。それは顧客を口八丁でだまくらかしては、当座の金銭的利益さえ得られれば、という単なる商行為の先にある意義であると思います。

そのような仕事が一人でも多くの塾生に対してできるように、今年も頑張っていきたいと思います。

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教育はサービス業か。(その1)

新年度の準備でバタバタと忙しい毎日で、少し間が空いてしまいました。

さて、教育はサービス業であるのか、という問いですが、これはもちろん「サービス業」という言葉の定義に依るのでしょう。ただ、「個別指導塾」という看板を掲げているところだと(これを嚮心塾も掲げているわけですが)、主にサービス業的な側面、つまり顧客満足度のみを重視する、ということが多いように思います。

というと、「いやいや、成績を上げることが塾の目標なのだから、結局は生徒に力をつけられているかどうかが顧客満足度につながるんでしょう?」と思われるかもしれませんが、教育というのは本人の努力がどうしても大きな要素であり、かつ
個別指導塾に通うお子さんというのは基本的に勉強にそれほど意欲をもって取り組まない、または、意欲はあるとしても方法がわかっていない子どもたちです。これらの子たちを抱えて「成績が上がった!」という結果で顧客満足度を高めようとしても教える側としては極めて難しくなります。労力に見合う成果を得られることは少ない分、この方向で努力するのはまだ教育という行為自体に使命感を感じて取り組む、奇特な若い大学生のみになるでしょう。

その中で顧客満足度を上げるにはどうしたらよいか。それは当然、「こちらはベストを尽くしている」ということが保護者の方に理解しやすい努力を保護者の方に見えるようにやっていくことになります。通ってくれている子が力がつくかどうかについては半ば諦めて、ですね。この最たるものがいわゆる「指導報告書の充実」です。保護者にとって「見える」部分
であるところに関しては徹底的に手をかけて立派なものを作ります。それこそ、個別指導の生徒に教える授業中の時間を潰してでも、「完璧な指導報告書」を作ります。そのようにして顧客満足度を上げることで、親御さんにお金を払わせ続けようとするのです。まあ、詐欺のようなものです。

ただ、この詐欺に引っかかるのはやはり「自分に見えているところだけで判断する」という親御さんの失敗でもある、と言えるでしょう。教育というのはその成果が極めて見えにくいものです。同じように「結果が出ていない!」状況であったとしても勉強の方法やモチベーション、その他はしっかりと改善し、あとは結果が出てくるのを待つだけ、という状況もあれば、このまま待ち続けても決して結果が出てくるようにならない状況もあります。しかし、親御さんに見えるのは模試の成績だったり学校の成績だったり、目に見えるものしかないからこそ、その目に見えるものが改善しないのであればどれも同じだ、となってしまいます。その結果として「親御さんの目に見えるもの」だけを体裁よく取り繕った個別指導塾に騙されてしまう、という悲劇に陥るわけです。

教育の効果を観測しようとすれば、観測の誤謬をつかれて、このように観測に対応した歪な「発達」によって教育の効果の実態が掴みにくくなってしまいます。本当に教育産業の罪は重いのですが、逆に言えば、それほどに教育というのは効果が出るまではどんな熟練の教師にも難しく、特に生徒本人のモチベーションが低いときにはそれこそ手を変え品を変え、何をやってもどうしようもないからこそ、このような歪な生存戦略をとることで発達してきた、ということもあるのかもしれません。僕はこのような個別指導塾を、否定しますし、それこそ絶滅すれば良い、とは思いますが、一方でそのような個別指導塾をのさばらせているのはやはり、生徒自身がモチベーションを失う制度であったり、モチベーションを失ってサボる我が子に届くような何かしらの言葉も用意できないままに、ただ「勉強が最低限のレベルではできる」という事実のみを用意しようとする、親御さんの歪な親心であるとも思います。

生徒本人が自分の勉強について、それをやるべき意味に気づき、それができていないことに自分で悩まねばなりません。
逆に言えば、親御さんが「自分の子供が勉強をしない、できない」ことに悩んでいるうちは、子供はあまりそれについては悩んでいないことが多い、というのが実情であると思います。(このようなとき、彼ら彼女らは親御さんの「勉強しなさい!」というリクエストに応えることに精一杯で、自分自身がそれについて考えたり悩んだりする余裕を失っている、と言えるでしょう。確実に彼らの将来の可能性を狭めていることに関して、誰かが心配しているうちは、真剣には悩まないものです)
だからこそ、まずは、彼ら彼女らに「それで本当に良いのか」を考えてもらっていく、というプロセスがどうしても必要であると思っています。

さて、ということで前置き(!)が終わって本題に入ろうとしたのですが、長くなりすぎました。また続きは明日にでも書こうと思います。

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