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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

してほしい教育と必要な教育の違いについて。

感染者数だけでなく陽性率はむしろ現在のほうが4月よりもはるかにまずい状態ではあるわけですが、緊急事態宣言が出されないままであるので、塾への体験入塾の問い合わせは多いところです。

嚮心塾の体験入塾はちょっと変わっていて、こちらは体験入塾であったとしても、あまり「良い顔」をしません。知的好奇心を刺激するような素晴らしい教え方!的なものがないままに、その子のレベルに合わせて入塾したら進めるであろう教材を進めていき、その中で必要なことだけを教えます。それで通いたいと思ってくれれば通ってくれれば良いですし、もっと面白い授業のあるところに行きたい、と思うのであれば通ってもらわなくてよい、と思っています。結局勉強をしていくのは受験生本人である以上、どれだけ自分自身で自学自習をしたかこそがその受験生の学力を作るものです。そのやり方をどこまでも改善していくことにはこちらでいくらでも力を貸していくとして、「おもしろい!」というエンターテイメント性を求めているのであれば、予備校に行ってお客さんとして楽しませてもらえばよいでしょう。

というのが基本的なスタンスとはしているのですが、それはたとえばそもそも勉強に取り組む意欲のない子たちを排除してしまうことにもなってしまうかもしれません。そこには常に悩みながら教えています。

ただ、一つだけ譲れないのは「こういうことをしてほしい!」という生徒のリクエストに答えることはあまり意味がないと考えているということです。なぜなら、その子にとって本当に必要なものを、その子自身が理解できているわけがない、と思っているからです。もちろん、これもピンキリで、今までにさんざん悩んできたからこそ自分にとって必要なものを必死に探してきていて、自分に必要なものを求めているという状態に近づいている受験生、というのはたしかにいます。しかし、これは非常にレアケースでして、ほとんどの子たちは自分に必要なものと自分が求めているものとに乖離があるからこそ、勉強ができないことに悩んでいるケースが多いと思っています。

それに対してこちらでできることは、「君の今の状態なら、これが必要だと思うよ!」という提案でしかありません。もちろん、それを生徒の機嫌をとっておきながら、徐々に求められていることの中に必要なものを混ぜていく、というようなやり方もすることもあるのですが、一方でわざと「これが必要だと思うよ!」しか体験授業ではやらない場合もあります。

こちらは、その子が「自分の感じる違和感」に対して疑いをもつことができるか、という部分を観察しながらその微調整をしています。その子が求めているものではないものを提示したときに、そこで「なるほど。こういう提案をされて、これはあまり今まで考えたことがなかったけれども、これもありだな。」と思えるのか、それとも「こんなの、ないわー。」と拒絶するだけで終わるのか、ですね。その子の精神の柔軟性を見極めながら、こちらとしては少しずつ押し広げていこうとするとしても、やはり根本に自らの感覚を疑う姿勢がないのであれば、一緒にやっていくことはできません。

ただ、この「精神の柔軟性」は一方では資質によるとも思うのですが、それよりはむしろ環境というか、要は「自分がこのままでは通用しない!」という危機感があるかないかが結局精神の柔軟性を準備するのでは、と思っています。危機感のない子は、非常に頑なであることが多いです。そのように世界を狭めては、うまくいかないままになってしまうことになるのでしょう。

そのような子たちに対して、こちらがどのように手を差し伸べることができるのか。一方で、嘘をついてまで塾に通ってもらってはその頑な精神を押し広げるチャンスを得たとしても、そのような不正な入り口を通っての出会いからの取り組みが結局自分の感覚を疑いえない子達に届きうるのか。そういった諸々を試行錯誤しながら、悩み続けていきたいと思います。

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勉強時間を増やすためのいくつかの方法。

さて、前回「『効率良い方法教えて!』とか四の五の言ってないで、(自発的な)勉強時間を増やせ!」という話を書きました。そのアドバイスは正しいとして、勉強時間を増やすをどう実現するかが難しいのもまた事実です。そのためにどうしたらよいのか!というのをざっくり書いてみましょう。

①科目間の勉強のバランスを気にしない。
おいおい。「科目間の勉強のバランスこそが受験では一番大切だ!」って言ってる普段の主張と矛盾するじゃないか、というツッコミをいただくかもしれません。もちろん、科目間の勉強のバランスは受験勉強において、一番大切です。しかし、それを考えるのはもっと後、まずは長い時間勉強する習慣がついてからで十分です。

そもそも勉強時間をあまり長く取る習慣がない子にとっては、まずは自分にとってハードルの低い勉強から自発的な勉強時間を作っていくことが大切です。嫌なことを、嫌なものからやるのは、ハードルが高すぎて、必ず挫折します。まずは、自分にとってやりやすい教科から始めて、自発的な勉強習慣を作りましょう!英語が得意な子なら英語から、数学が得意な子なら数学から、ですね。英数国が受験勉強では早めに鍛えておくべきなので、この「勉強時間を長くしていくためにする、好きな勉強」はできれば英数国のどれかから選べれば良いでしょうが、それがなければ社会や理科でも大丈夫です!まずは「(テスト前だから、という強制性、他者からのリクエストではなく)自発的に勉強時間を作ること」を好きな勉強から始めるのがよいです。それができていけば、それをだんだん長く、とっていきます。

好きな科目について自発的に勉強時間を長くとることが習慣として根付いてくれば、今度は科目間のバランスを考えていきましょう。しかし、これも「国公立大学だと英数国理社全部あるから、全部やらなきゃ!」といりません。理系なら英数理、文系なら英国社ですが、理科や社会は何なら後回しでも大丈夫です。

この、科目を絞るやり方には、勉強時間を長くすることへの心理的ハードルを下げるだけでなく、そもそも一つの教科についてやり込む方が、自分が勉強したことの成果が目に見えやすくなる、という理由があります。たとえばバランス良く英数国理社をやったって、成績なんかあがりませんし、実力の上昇を自分で感じることは不可能でしょう。そうすれば、当然「せっかく勉強時間を増やしたのに!」と落ち込んで、勉強時間を増やすことを断念してしまいます。それがたとえば英語だけ徹底的にやり込む、とかすれば、英語の力がついていくことは日々の授業の中でも感じることができます。そのように「成長」を感じられれば感じられるほどに、自発的に勉強時間をとることへの抵抗感が減っていき、「自分のために必要なこと」と思えるようになっていきます。

また、科目を絞ると一つの教科についての勉強方法を試行錯誤していくこともできます。そこで、自分がどのようにすれば身につくのかを学べれば学べるほどに、それは他の教科を勉強するときにも使えるノウハウとなっていきます。逆に最初から「バランス良く」勉強することは、学習効果が見えにくく、学習方法のノウハウも蓄積されにくく、そして苦手な教科をやらざるを得ないことへの心理的ハードルが高いがゆえに継続しにくい、と最悪です。静止摩擦力の方が動摩擦力より大きいのは、人間の精神においても同じであるので、動き始めようとするときに完璧主義をとってしまわないことが大切であると言えます。

②毎日、勉強時間・勉強内容・進捗状況の記録をつける。

これはレコーディングダイエットとかと同じですね。記録として形にすることで、モチベーションが上がります。少なくとも、自分の努力が「学力」という形で目に見えるようになる前であっても、目の前に勉強記録として残り、しかもその記録の中で勉強時間を伸ばしていければ、勉強へのモチベーションを保つツールとなります。

さらに、書き溜めた記録を見返す時間を作ることで、自分が勉強する際に、どのような部分には時間がかかってしまってあまり進まないのか、どのような部分は逆に効率よく進めていけるのかについて考えていく素材にもできます。これもとても大切で、学校のテストや小テストや課題といった「やらされる勉強」には高校生はみなウンザリしてしまっているので、自分の勉強がどのような時間・効率であるのかについては見ようとしない、という癖がついてしまっています(だから、課題や小テストは本当は最低限の最低限に減らすべきなのですが…。)。人間というのは多くのことをリクエストされればされるほどに、その多くのことをいちいち感じたり考えたりしていくと、自分がもたなくなるので、それについては感じたり考えたり、ということをしないようになっていきます。ほとんどの受験生は自発的な勉強を始める前には、そのように「勉強は(テストとかのために)するけど、自分の勉強がどうなっているかについては何も考えない」状態にさせられてしまっていることが多いのです。まあ、課題や小テストで高校生を拘束すれば力がつくと思い込んでいる学校がダメなわけですが。しかし、そのような勉強方法のまま、時間や量だけを増やしても必ず成長には限界があります。だからこそ、勉強内容を吟味する、すなわち「味わう」ことを受験生の中に回復させていく必要があります。味わえば味わうほどに、改善の仕方について考えるようになるからです。このように勉強記録は、勉強時間を増やすためだけでなく、勉強の質を高めるためにもとても大切なことです。

できればこうした記録は、自分で見返すだけではなく、誰かに報告したり見てもらうと緊張感を持って勉強していくことができるのですが…。ここは難しいですね。客観的に判断できる大人がなかなかいません。「これしか勉強時間とってないのか!」と叱ってきそうな人に見せるのであれば、誰にも見せずに自分でつけていくだけでよいと思います。ここでも他人(親や教師)は最初から完璧主義で受験生にあれもこれも求めるものです。しかし、その完璧主義は、これからだんだんと形として結実させていこうとする受験生のやる気を根こそぎ殺してしまうものです。そのような雑音が入って、受験生本人のやる気がなくなってしまうのなら、誰にも見せない方が良いと思います。

③家で勉強しない。

おっと。ここで塾の宣伝をぶっこんできたか!とお思いの皆さん。半分正解です。ただ、この「家で勉強しない。」ということはとても大切なことです。僕も長いこと受験に関わり、特にこの自学自習スタイルの塾を開いてからの15年あまりは、一人一人の受験生の勉強状況をかなり細かく把握していくことを続けていますが、家で長時間勉強をするのは、どのように優秀で、勉強することが苦ではない受験生にとってもまた、非常に難しいことです。

もちろん、「私は家で勉強できるよ!」という受験生もいるとは思います。ただ、それはせいぜい5時間以内の勉強でしょう。受験勉強に本格的に取り組んでいくにしたがって、一日の勉強時間が10時間を超え、12時間とか14時間とかになっていくと、やはり家で長時間勉強するのは非常に難しくなってきます。また、時間は確保できるとしても、どうしても集中のクオリティは落ちます。

なぜそうなるかと言えば、家では行動の選択肢が多いからです。トイレに行く。シャワーを浴びる。おやつを食べる。ご飯を食べる。テレビを見る。パソコンを開く。タブレットを見る。スマホを見る。本や漫画を読む。部屋を片付ける。その他もろもろあるでしょう。選択肢が多ければ多いほどに、ふと集中が切れた瞬間に気になるものがでてきてしまい、それに時間をかけたり、時間をかけるまでは行かないとしても、再び勉強へと集中するのにエネルギーを必要とします。

特に、自発的な勉強時間がまだまだ短いうちには、勉強よりも他のことが気になってしまうものです。だからこそ、そういったものから物理的に距離を置き、そもそも触れることのできない空間で勉強をすることが大切です。そこを「意志が強ければそうした誘惑には負けないはずだ!」などという精神論で乗り切ろうとすれば、必ず失敗することになります。

人間は弱いのです。勉強を始めたばかりの受験生から見たら「神」のように見える毎日16時間勉強するような受験生もまた、そのように意識を逸らすものに満ちた空間で同じように勉強ができるか、と言えば決してそうではありません。「環境を整えなければできないなんて…」と親御さんや教師に言われるかもしれませんが、じゃあお前らはできるのか!ということですよね。実はどのように優秀な大人だってそのように誘惑の多い環境で集中して長時間取り組むことなどできません。

そのように自分の心の弱さをまずはしっかりと自覚することが大切です。そして、「そんなの気持ちがあればできるはず!」というすべてのアドバイスは、受験生自身のことを思って言ってくれているのではなく、精神論に依拠することで環境を整える努力を怠る自分たちの正当化にすぎない、と思いましょう(兵站を軽視しては精神論で乗り切ろうとして悲惨な目にあった旧日本軍のようですね!)。そして、勉強だけに集中し、スマホその他から距離を物理的において勉強できる空間を作っていくことが大切です。(そのためには嚮心塾に!ここで宣伝!)

「大人になってから、家で勉強できなかったら困るだろ。」という否定的な意見も親御さんからはよく聞くのですが、じゃあその親御さんは家で毎日長時間勉強してるのでしょうか!?とまで辛辣なことを言わないとしても、大人になったって、勉強をするためにはカフェとか何なら有料自習室とか、環境を整えればよいのです。ここでも敵はやはり完璧主義です。「家で長時間勉強できるのは一番良い」という理想にしがみついては、結局勉強できないままに無為な時間を重ねるのであれば、そこにはお金をかけてでも、一生自分が勉強し続けられる体制を確保したほうが絶対にプラスになります。

工夫として大きなものは、これくらいでしょうか。
日本人はどうも、「理想」にしがみついてはそれと心中して失敗すれば、少なくとも自分には責任がない、というように思考を放棄しがちです。それこそがしかし、無責任な態度でしかありません。理想の勉強場所、理想の勉強時間、理想の勉強方法を実現しようとして失敗を続けるよりは、弱くて汚くて情けない自分であることをそもそもの前提とし、そのような自分に嘆くことなく冷静に観察していった上で、そのようなダメな自分でもどのような形なら努力できるのか、という自分なりの方法を作っていこうと考えていくことが、自分の人生を実りあるものにする唯一の道であると思います。

また、今は超人的な努力をやすやすと継続しているように見えるスーパースターたち(イチローさんとか、将棋の羽生さんとか)も、実はそのように弱くて汚くて情けない自分をどのように野放しにしないで努力をしていくか、の工夫の積み重ねの結果として、今はそのように見えるだけであると思います。そのように理解しようとして自分もまた弱い自分をどうにかしていく、ということが彼らを理解しようとしていく、ということだとも思います。

もちろん、こうした研鑽の場として、嚮心塾にもぜひ通ってください!!(懇願)
色々ノウハウや考え方を長く書きましたが、「通わなくてもこれやればいいんでしょ!」と思ったそこのあなた!まだ甘い!
「本当に大切なことは、書き留めたりせずにアカデメイアの中でしかしゃべらない」byプラトンです!
この1000倍くらいは書けます!!

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「勉強の仕方がわからない」ときの、たった一つの解決策。

たまには教育の話題も書かないと、学習塾であることを忘れられてしまいます!!(僕もしばしば忘れがちです。)

さて、学習塾に親御さんから一番寄せられるリクエストとしては、「この子は効率のよい勉強の仕方がわかっていないから、それを教えてほしい!」というものです。しかし、このリクエストは往々にして、的を外していると思っています。もちろんたとえば、「この子は1日12時間必死に勉強しているのにも関わらず、全く力がつかないんだ!」というレアケースもあるのかもしれませんが、少なくとも僕はここまで25年間教えてきて、そのような生徒には出会ったことがありません。この親御さんからのリクエストの前提として「少なくともうちの子は人並くらいには勉強しているはずなのに、勉強ができない。ということは勉強のやり方がわかっていないのでは!」という発想があるのだとは思うのですが、これは根本的に誤っていると今のところ思っています。

こうしたリクエストに対し、こちらが効果的な解決策として提示するのは唯一つです。「勉強時間を増やしましょう!」ということですね。しかし、この提案をすると、嫌な顔をされることが多いのです。「いやいや、そこを短時間でうまくやる方法を身につけるために高い金を払ってるんだろ!」とまで露骨な態度をとる親御さんは少ないにせよ、まるでこちらが無策であるかのように感じられるのでしょう。そして、勉強に困っている子たち自身も、そもそも勉強があまり好きではないがために、「勉強時間を増やすべきだ!」という解決策に対しては親御さんだけでなく、本人達も反抗する理由があります。こうして、親御さんも子供もそれぞれ違う動機から同じ主張(「短時間で力のつくうまい勉強方法教えるのが塾だろ!」)をとることで、結果、唯一の解決策である「勉強時間を増やす」という根本的取り組みからは逃げ回り、そして勉強が苦手なままで終わっていく、という残念な結果になりがちです(ちなみに、このようなリクエストをするマインドからの派生形として「オリジナルのテキストを使っている学習塾は(その効果的な方法がが入ったテキストなので)効率のよい方法を教えてくれる!逆に市販の参考書を使っている学習塾はそうじゃない!」というものもあります。これも実情を知っている側からは苦笑するしかないものでして、たとえばほとんどの高校受験塾の「オリジナルテキスト」は、教科書販売会社で売っているような業務用テキストに自社のロゴをプリントしてあるだけの「オリジナル風」でしかありません。大学受験の塾や予備校になると、さすがにもうちょっと「オリジナルテキスト」率が上がるとは思いますが、それでも市販の参考書では賄えないほどの良質、あるいは高レベルのオリジナルテキストがあるところとなると、だいぶ少ないのではないかと思います。)。

しかし、子どもたちが「勉強の仕方がわからない」のには主に、「勉強を自発的にやっていない」ことと「そもそも勉強量が足りない」という2つの理由があります。前者はたとえ長い時間「勉強している」「机に向かっている」としても親御さんやその他の何らかの強制力によってそうしているだけであり、本人が勉強の内容について頭も心も働かせていない状態である、ということです。このような状況ではそもそも「長い時間勉強をしている」のではなく、「長い時間勉強をするフリをしている」だけであるので、それは力が付きません。また、後者の「そもそも勉強量が足りない」は、「他の子と同じくらいはやっている!」という理由から、このくらいの勉強時間で力がつかないのは方法が悪い!という結論になりがちなのですが、実際一人一人で同じレベルに達するまでに必要な勉強時間や量は本当に千差万別です。誰かと比べてどうこう、が言えるわけがないのですが、それを勉強を苦手な子とその親御さんほどに、「一般的な量や時間はやっている!」という主張をされます。

そして、この両者を解決する魔法(というには大変ですが)のような方法が、「勉強時間を長くする」なのです。

もちろん、誰かが強制して長くしても勉強しているフリが長くなるだけです。そこに関しては、その勉強が今どれくらい必要か、そもそも学校の勉強さえできていれば受験で通用するのか、あるいは勉強以外の他のことに割くべき時間を考えても受験勉強にある程度時間をかけることは後の人生においてかなりハイリターンであること、など、様々な見地から勉強をその子自身が取り組むモチベーションをもてるように、ということを話し合っていく必要があります。かなり早い段階から子どもたちは自分でいろいろ考えています。だからこそ、子どもたちが勉強に真剣に取り組めないのは、必ず理由のあることなので、子どもたちに無理やり(やる意味や目的を考えさせることなく)勉強をやらせ続けることができる、というのが親や教師の手抜きでしかありません。そこをしっかり話し合っていく必要があります。

といった諸々をしっかりと整えていっては勉強時間を長くしていけばいくほどに、子どもたちにとって「勉強して成果がでない」ということが、親や教師が自分について勝手に悩んでいる問題ではなく、「自分の問題」となります。そうなればなるほどに、自発的に様々な試行錯誤をするようになり、そしてどのように勉強していけば自分の力がつくかを模索する習慣ができてきます。その試行錯誤の習慣をつけていくためにも、「(自発的に)長い時間勉強をする」ことが大切です。もちろん、そこでより効果的な方法を子どもたちが自身だけで作っていけるかといえば、それは難しいでしょう。そこで初めて、教師が役割を果たす準備ができてくることになります。
(ここに関しては「短い時間でも試行錯誤させればいいじゃん!」という反論もあるでしょう。しかし、短い時間でも自分で試行錯誤をして最適な方法を見つけられる子、というのはそもそも勉強が得意な子です。長い時間勉強もしていないのに「勉強の仕方がわからないだけで、わかれば短時間の勉強で力がつくはずだ!」と考えている時点で、それは自分からは試行錯誤をあまりしていない、勉強が苦手な子であるのです)

ということを踏まえれば、「勉強の方法がわかっていない!」という状況に対する最善の提案は「(自発的な)勉強時間を増やす」ということです。さて、それをどうやってやっていくのか、という実践面での様々な工夫が極めて難しいわけですが、しかし、この難しいことを乗り越えずして力をつける、というのは根本的には何も解決になっていません。もちろん、「うちの塾ならうまい方法教えるんで、短時間の勉強で成績アップできますよ!!」という惹句はこの業界、溢れんばかりにあるわけですが、それはやはり(もちろんそれが必要なタイミングや状況はあるとしても)生徒たちにとって、長期的には本質的な解決に繋がらないことの方が多いと思っています。どこかでやはり、(対象は勉強でないとしても)「一つのことに長時間真剣に取り組む」ことが人生においては、必ず必要になるからです。だからこそ、「(自発的に)長い時間勉強できるようにする」というattitudeを塾生の中に、何とか鍛え、育んでいきたいと思っています。
(これには僕自身の苦い思いもあります。「長時間、自発的に努力できる」人間には、どのような「天才」も結局はかなわない、という厳然たる事実があるからです。それはたとえば将棋界での永瀬二冠と佐々木勇気七段の関係性を見たってそうでしょう(もちろん、佐々木さんもまたこの事実から奮起されて、今は努力をされているはずです)。自分や自分の子供が(さして努力を必要としない)「天才」であることは、望んでも得られないものであるだけでなく、そもそも望みが叶ったとしても非常に脆弱な強みでしかありません。そのような「天才性」のみで一生を逃げ切れるほどの天才など、まず存在しません。だからこそ、私達は努力をすることを覚えなければならないのです。その事実を子どもたちから隠して、お金を得るため、あるいは自身が面倒を避けるために、その場しのぎだけを伝えて、努力の必要性を伝えない全ての大人達を僕は軽蔑します。)

そして、そのように自発的な勉強時間を増やしていければいけるほどに、「質より量」ではなく、量が質に転化してくる、ということもまた感じています。

そのためにはやはり、家庭教師や予備校講師では難しく、長時間勉強できる場を作らねばならない、というのが僕が嚮心塾を始めたきっかけでした。このような形式の塾が、どこまで生き延びられるのかはわかりませんが、何とか細々と続けていけるように頑張っていきたいと思います。

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「調べる」ということ。

「教育の目的とは何か」という問いに対して「知識を増やす」「思考力を鍛える」などと色々な回答があると思います。
「生き抜く力をつける」などといった漠然とした回答もありました。

どれを答えても片手落ちなので、まあ諸々全部鍛えれば良いとは思うのですが、ただ一点だけに焦点を絞ってください、と言われたら、僕は「調べる、という習慣をつけること」だと答えたいと思います。

たとえば言葉の意味がわからなければ、辞書を引く。今ならgoogle検索で何でも調べることもできます。我々の小さい頃と比べて、「調べる」という行為ははるかにハードルが低く、かつ、膨大な情報量を得られるようになっているのにも関わらず、子どもたちは調べることがとても苦手です。

「子どもたちは調べる、ということが苦手だ」という主張には少し留保がいりますね。もちろん彼ら彼女らは調べる手段はもっているし、調べる方法も知っています。むしろ、我々大人以上に、それは知っているでしょう。ただ、「意味がわからない」言葉に出会ったときに、それを調べよう!と思わなくなってしまっている、と言ったらいいでしょうか。

逆に言えば、ネットでも、あまりにも情報量が多くなってしまっているのだと思います。また、テレビやyoutubeを見ればわかるように、一方的に流されるものに対して受け身で情報を浴びる機会が多くなってしまっています(この点では、youtubeはテレビと敵対するものではなく、テレビを補完するものです)。たくさんの情報が手軽にアクセスでき、それにさらされることで暇つぶしを覚えてしまった子たちにとって、そこに「わからないことは、調べる」という習慣さえついていれば、それらの動画も豊かな学習の契機になるのでしょうが、そうでなければむしろ「わからないものはわからないままでも何とかなる」という体験の強化になってしまいます。

これはもちろん、子どもたちだけの問題ではありません。受動的に入ってくる情報に慣らされた結果として、大人たちもまた、「調べる」ということが苦手になってしまいます。情報量が多すぎて、一つ一つひっかかっては調べていくことができなくなってしまっていると思います。

だからこそ、「テレビの見すぎはよくない!」とか「youtubeの見すぎはよくない!」という教条主義的なしつけ、というのはだいたいあまり意味がなくて(そもそも実効性があまりないですよね)、「テレビを見たら、わからなかった言葉は調べよう!」とか「youtubeを見たらわからなかった言葉は調べよう!」とかを徹底して、さらにはそれを「その方がより内容を楽しめるはず!」というように動機づけをしてあげるのがよいかもしれません。

嚮心塾でもこれは徹底しています。「調べてわかること」を丹念に教師が教える、というのはその生徒をどんどんダメにしていくことです。それが調べたらちゃんと本や参考書に載っていることを繰り返し伝えた上で、それをどのような本や参考書で調べたらよいか、それで調べても載っていないときにはどうしたらよいか、など「調べる」という行為への彼らのハードルを下げ、そのメリットを説き、その上で調べ方を鍛えていきます。さらには調べても載っていないことについて、初めて質問を受ける、ということを徹底していきます。このようにして、一人一人の子たちが「ちゃんと調べる前に聞くことは、そもそも恥ずかしいことだ!」というところまで達してくると、それは一生の宝となる学習姿勢を身につけることができている、ということになります。

もちろんそのような「調べる」方法と習慣が有用なのは、受験勉強に限りません。自身でしっかりと調べることなく、誰かの言っていることを鵜呑みにすることから、デマゴーグに騙されては雰囲気で投票する有権者は生まれます。あるいは、愚かな消費者もまた。大切なのは、自身の知っていること、わかっていることに必ず限界があるのだということを自覚した上で、それをどのように調べていくのか、という方法論やその習慣を鍛え上げていくことです。東大を出ようと理三に受かろうと、医師や弁護士や大学教授であろうと、そんなものが自分の無知さ、考えの足らなさを否定する根拠にはなりえません。だからこそ、人間は、死ぬ最後の瞬間まで、自分のわからないことを調べる姿勢を貫くしかないわけで、その「調べる」という習慣をそもそも持たない、あるいは持っていたけれどもとうに失ってしまった、という人こそがすべての元凶である、と思っています。

その「調べる」という習慣と方法とを鍛えていくために、今日も必死に教えていきたいと思います。

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ZOOM授業を振り返ってみて。「アフターコロナ」とは。

緊急事態宣言が明け、塾も平常通りになりつつあります。

この2ヶ月間、オンラインでZOOMによる指導も並行してやっていたわけなのですが、率直に言ってこれは嚮心塾の形態ではあまり意味がないなーと感じてしまいました。もちろん、オンライン指導全般が意味がないわけではなく、特に講義形式の授業であれば、講義動画を流しておいて、そのあとにZOOMでインタラクティブに質疑応答する、とか使いようによってはむしろ良いかと思います。また、嚮心塾でも一番困るパターンとして「通塾しなくなる。」という子たちにとってZOOMで教えることができるのはプラスの側面でもありました。

ただ、2ヶ月色々やってみた結論としては、「この形でしか塾を続けられないのなら、そもそも学習塾なんかやる意味は僕にはないな。」というのが結論でした。

そのように考えた、まずその1つ目の理由としては、生徒の情報量が圧倒的に少ない、ということです。ZOOMは基本的に、カメラに映る部分しか見えません。一人一人の子たちの勉強の仕方、勉強のサボり方、その他のしぐさなど様々な視覚情報を塾という場で勉強してもらっているときにはこちらでは観察しながら、その子達がどのような思考回路、心理状態で勉強へと取り組んでいるのかを見ています。そういった情報があまりにも画面の中だけでは少なすぎるだけでなく、同じアングルからにどうしてもなってしまうために、様々な角度から見るときには気付ける大切な情報も見落としてしまいがちです。(もちろん、自宅で勉強しているからこそ、塾では猫をかぶっていてちゃんとやっているふりをしている部分の化けの皮が剥がれて、家ではこれだけ集中していないのか、などとわかることもあったのはZOOMで指導したことの収穫です。しかし、これはやはり勉強へのモチベーションが低い子限定であり、勉強に取り組むところではそんなに問題のない子たちに対しては、単純に情報量が圧倒的に減る、ということにしかなりませんでした。)

2つ目の理由としては(これも1つめと根本的には同じなのですが)「雑談」や「会話」ができない、ということでした。ZOOMの場合、「雑談」をするにはブレイクアウトルームを作ってそこで話さなければなりません。全員に話しかければ雑談は単なる「ノイズ」になり、無視されることになるでしょう。かといって、ブレイクアウトルームを作って話される「雑談」はもはや、心を構えた状態で話される言葉なので、その中に彼ら彼女らの無防備さ故に露呈する思考回路や心理状態のヒントを得にくくなります。これらも普段の塾では塾生の勉強の邪魔をするような「雑談」をすることで、その「雑談」への反応の仕方をこちらで分析しては、指導に活かしているわけで、それができないのは極めて情報量が少なくなります。

また、会話ができない、というのは次のような理由です。たとえば塾で同じ場を共有して話す時、というのはA君に話し掛けてA君と会話をしているようで、実はその話の内容を隣りに座っているB君にも聞かせたい、という目論見で会話をするケースがほとんどです。この理由としては、様々であるのですが、基本的に人間というのは面と向かって注意されたことを直す、というのがプライドがあるためにどうしても苦手であるので、このように間接的な形で修正を促す、ということができると学びやすくなる、ということがあるからです。また、このようにA君に教えている内容をB君が聞けたり、B君に教えている内容をA君が聞けたり、ということが教室内の様々な部分で起きている時、そのような教室ではただ自分が聞きたいことを聞いているだけの授業よりも、学ぶ機会が圧倒的に増えていきます。このような「自分に話しかけられていない言葉も聞く」ということからの学びの相乗作用が、基本的に「一対一で話したいときだけにつなぎ、それ以外の場合はノイズになる」ZOOMでは難しいと思いました。(もちろん、これも教室のマイクをずっと入れっぱなしにして、一人ひとり教える、という手もあるのですが、面白いもので、これはかなり不快感を生徒たちが持つのですよね。。やはり「場を共有ししている」ということは、「自分にとって関係ないと思える話も聞く」という態度への強制力になるのだな、と改めて勉強になりました。)

主にはこの2つの理由から、ZOOMはどうしても通えない子への補完策以上にはなかなかなりにくいなあ、と思いました。なので、嚮心塾は改めて一つの空間で教え続けていくことに、こだわります。それを皆さんが怖がって潰れていくのであれば、それで良いとも思っています。こちらの目的は塾を続けることではなく、意味のある教育をすることであるからです。
誰にでもできるような、意味のない「教育」をしてまで、この塾を続けていきたいとは思いません。

その上で。「アフターコロナ」という言葉が喧伝されているのですが、僕は基本的に「アフターコロナだから、働き方を変えねばならない」という言説には胡散臭いものしかないと思います。もちろん、今までの働き方を見直すきっかけにすることは有意義でしょう。そもそも無意味な会議を長時間、一つの部屋に集まってやっているよりはオンラインで良くない?そもそも会議とかいらないんじゃない?という見直しは大切です。

しかし、それを徹底的に振り返ってみた上で、やはり「ここは代替できない。」「これはどうしても必要だ。」となったものを、無理に削っていって働き方を変えたとして、果たしてその働き方はこの社会にとって必要なものを切り捨ててはいなのでしょうか。感染症対策のために、社会の中で必要な働き方やあり方そのものまでも変えていくのだとして、それが多くの必要なものを切り捨てることになったとしたら、それはそのような社会で私達は生きていきたいのか、というまた別の問題を提起することになると思います。だからこそ、何が必要であるのか、何は必要ではないのかを見直す契機にするのはよいとして、「アフターコロナですべてを変えなくてはならない!」という主張が切り捨てては見殺しにしていくものについて、やはり敏感にならなければ「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまい、あとから後悔してもしきれないものになってしまうのではないかと思います。

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「地頭(じあたま)」とは何か。

受験勉強では、一通りのことを基本的なところから積み上げていくしかないわけで、ほとんどの「勉強しているのに力がつかない」という子たちは、その「勉強」の内容が自分の実力よりも圧倒的に高いレベルのものである、という失敗に陥っているだけです。そこを必要なステップを踏ませ、適切な教材やペースを設定していけば学力はみるみるうちについていきます。

しかし、です。このように適切なレベルの教材の選定、というのはある程度教えたことのある先生ならたやすくできることではあるのですが(というレベルの指導すら、ほとんどの高校や予備校では実現されていないことがとても問題なわけですが)、しかし、基本的なところから「一段ずつ」ステップを踏ませてあげているつもりでも、それでうまくいく子と行かない子とに分かれるのが勉強です。

もうちょっと精密な言い方をすると、それで「隙間なく」うまくいく子と、それである程度力は伸びるのだけれども、表面的な力しかつかない子との違いが出てきます。同じ教材を同じように周回してもなお、そのように理解度や定着率に差が出てくるそれを、「地頭(じあたま)の違い」などと教える側はつい思いがちです。

このような違いは能力の違いによるものではなく、まだ目に見えてはいない何らかの原因によるものだ、と、様々な子を教えてきた経験から僕は考えています。「努力しても、できない」と思われがちな子たちも、力をつけていくために必要な思考プロセスや学習習慣のうちの何かが欠落しているからこそ、努力をしても力がつかない状態にあるわけで、それを「地頭(じあたま)の違い」と言ってしまうのであれば、教育などやる意味がないと思っています。

だからこそ、嚮心塾での指導はちょっと特殊です。いわゆる「生徒のわからないことを教える」というのはあまりメインではありません(もちろん、教えてますが!)。それよりは、「(間違えた答を生徒が導き出したとして)どうしてそのように考えたのか。」を丹念に聞いていきます。その思考プロセスを徹底的に追うことで、彼ら彼女らが何は踏まえられていて、何は踏まえられていないかの思考の癖、というか傾向を把握しようとしていきます。それとともに、いわゆる「できる」受験生であっても、とんでもない基本的なことが抜けていることに気づくことも多々あります。当たり前です。人は自分の通ってきた道しかわからないわけですから。このようにして、そのような抜けがないかどうかを探していっては、見つけ次第埋めていく、ということをやっていきます。

ある意味、この塾でやっている作業というのは「地頭(じあたま)」と一般にはされているものをどこまでも分解、分析していく作業である、と思っています。ある生徒が何かをできないときに、それを決して「地頭」とは言わずに、何らかの原因によってそのような回路がつながっていかないことになっていないかを徹底的に探し、考え抜いていく、ということをしています。

このプロセスを経て、元々勉強が苦手だった子が力がついて難関大学・学部に合格する!という奇跡が起きるときもあります。もちろんこちらもそれを目指して日々努力をしているわけで、そのためにこそ徹底的に一人を観察・分析しているわけですが、しかし、この作業自体は受験に合格するためだけに必要なことではないと思っています。

「地(じ)」というのが「nativeな(生まれつきの)」という意味だとすれば、何が「地(じ)」であるのか、を探っていくというのは自分自身が何者であるのかを、自分自身が今までに身につけたものにidentifyしない、ということです。
18年かそこらの短い自分の人生の中ですら、「これが私だ!」「これが私の能力だ!」などとすでに自分の人生が既定路線であるかのように人間は振る舞います。しかし、その「地(じ)」が実はnativeなものではなく、後天的に身につけた習慣に過ぎず、それを対象として意識し、努力することでいくらでも改善できるものである、ということに気づけば気づくほどに、自分の人生が自由になっていきます。受験などはそのように何が「地(じ)」であるのかを疑い、切り分け、そして改善していくための練習でしかありません。

もちろん、人間は自由に耐えうるだけの心の強さを持ち得ないことも多いことからもわかるように、「自らの『地(じ)』なんて疑いたくない!それを疑うくらいなら、勉強なんかできないままでいい!」と思ってしまう子たちも実は多いです。今までの自分のidentityが見えなくなるのなら、勉強なんかできないままでいい、というその恐怖感はわかります。また、実際にその子の学力の向上を妨げているものは往々にして、その子にとって一番大切にしている何かであることが多いです。その本人にとっての「大切なもの」が現実とは食い違う方向へとその子を駆り立てていくがゆえに、同じ失敗を繰り返す、ということになっています。

もちろん、だからといって、その子が今まで一番大切にしてきたものを捨てろ!と強要することはできません。実際には、その大切にしてきたものは、その子にとって別の長所の根幹となっていることもまた多いからです。しかし、そのような大切なものがある部分においては得難い長所を作り上げてきたとともに、別の部分ではどうしようもない短所の原因となっていることも多いという事実を認識してもらい、その子の大切なものを変えようとせずに長所は活かした上で、しかしそれが当然のごとく招く限界についても理解し、準備をしてもらっていく、という作業を粘り強くしていかなければなりません。

愛国心であれ、その他の帰属感情であれ、その影響を脱し、それが自分にとってnativeであるがゆえに当たり前に組み込まれているものである状態を脱した上でそれでも愛せるのであれば、それは「愛」と呼ぶに値するものだとは思いますが、自身の惰性ゆえの疑いのなさを正当化するために「愛」を僭称することは単に成熟できていない態度であると思っています。だからこそ、自身の中での「地(じ)」を疑い、改善していく作業の一貫として、「地頭(じあたま)」とされるものに対して、一人一人の塾生が、徹底的に疑い、検証し、それを乗り越えていけるように僕自身もこれからも力を尽くしたいと思っています。

そしてそれはまた、自身に固有の形質を心から愛することができるようになるためにも、必要なプロセスであると思っています。

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見る、ということ。

教育に携わる人間にとって、名作『暗殺教室』は必読書です。僕自身も繰り返し読み、子どもたちにも読ませてきました。
その中で「見る」ということについて描かれた部分があります。

(ここからはネタバレなので読んでない方はふわっと飛ばしてください!)

具体的には主人公が自分の弟子に対して、その部分的な能力の評価のみに終始しては弟子の人間全体を見ようとしてこなかった自分の浅はかさゆえに弟子がねじまがってしまったことを、自分が人間全体を見られることの尊さを感じていく中で後悔し、自身が再び一人一人の「人間全体」を見よう!と決意することが彼の動機であった、ということがわかります。

(ネタバレ終了)

教育において、「見る」ということは全ての基本であり、そして究極の奥義でもあります。「指導力」という無形の力を測るのは難しいとして、その教師がどれだけ指導力があるかを測る指標は、その教師がどれだけ生徒たちのことをしっかりと見ているか、よく観察しているか、だと思います。

このように書くとよく生じる誤解として、「生徒たちの一挙手一投足に細かく口うるさい先生が良い先生である」というものがあります。しかし、これは往々にして、「よく見ていない」先生の特徴であり、このように口うるさい先生は生徒の人間全体を理解することにはあまり興味がなく、自分の価値基準に子どもたちを従わせることに関心がある人が多いと思います。この場合、子どもたちの「部分」だけを見て、そしてそれを自分の理想という鋳型にあてはめようとしているからこそ、「口うるさい」指導になりがちです。

「よく見」ていれば、決して口うるさくはできないものです。なぜなら生徒が様々な失敗や問題を起こした時、あるいはうまくいっていないなにかに直面した時、そこに対してready-madeのアドバイスをすることが、かえって彼ら彼女らのpersonalityを毀損したり邪魔したりするものになることを恐れるからです。
しっかりと観察し続け、それが教える側の自分の好き嫌いからではなく、やはりその子のためにはならないと確信をもてるようになり、しかしその子がそのような悪い習慣を形成してくるまでには、その子なりの試行錯誤があるわけで、そのような試行錯誤から生じているその子の長所を損なわないようにして、どのようにアドバイスをしていくか。それを考え続けることになります。

だからこそ、「よく見る」ということは、「逡巡し続ける」ということです。

自身の正しさに疑いのない人間には、教える資格はありません。
教師が偽善を語ることは、仕方のないことです。(もちろん宮沢賢治の糾弾も正しいのですが)全ての人間が自らが正しくなければ善について語れないのだとしたら、人類の誰も善については語れない、ということになってしまいます。だからこそ教師は、自らがろくでもない人間であることは当然の前提として、それでも子どもたちには善を語らねばならない。

しかし、一方でその「善を語らねばならない」が、簡単に機械化・自動化してはその大義名分のためにチェックが効かなくなり、暴力的な抑圧に加担している自分に気づけないのが私達人間の愚かしさでもあります。

生徒をよく見る。そして、それに対して自分の好き嫌いではなく、彼ら彼女らにとって何が必要かを考える。

といった一連の過程は、生徒にとって必要であるだけでなく、教師自身にとってもまた自分の言葉が嘘や自己満足にならないためにも必要であるのです。

だからこそ、嚮心塾では、とにかく生徒をよく見る(観察する)ことに時間を充てています。業務の9割9分はそれである、と言ってもよいでしょう。徹底的に観察し、彼ら彼女らの思考回路や心理状態、そこに至るまでの人生を想像し、そしてその上でこちらがかけられるかけるべき言葉を探していく。それは学習に関してがメインですが、それだけではありません。

その「見る」ということがたとえばZOOMの指導とかではどうしてもうまくいきません。現場で空間を共有して見ている時と情報量が違いすぎて、細やかなところまでが観察できないのですね。もちろん質問に答える、相談に乗る、メールのやりとりをする、答案の添削をする、などのやりとりはできるわけで、そうしたコミュニケーションから思考回路や心理状態をある程度は把握できます。
しかし、本当に大切なのは、そのように生徒の意識の俎上に載っているものではなく、無意識に現れるもの、コミュニケーションによらないものを教師が把握することであるので、そこはこのオンライン教育の普及によっては、失われるしかないと思っています。

もちろん「学力を伸ばす」ために見る、というのは相手を「人間全体として見る」ということとはときに矛盾するものでもあるでしょう。ただ一方で相手を「人間全体として見る」ことを抜きにして「学力を伸ばす」というのには、僕はやはり限界があるかな、とも思っています。卑近な例で言えば、自分の担当教科を伸ばすことだけしか考えていなくて、生徒の受験全体を考えられない教師は、生徒が学力を伸ばすためには有害です。あるいは生徒の受験を成功させることしか考えていなくて、その後の生徒の人生を想像できていない教師は、実は生徒の受験の成功にすら、あまり貢献できはしないのです。

部分は全体と繋がっているだけではなく、全体の一つの現れでもある以上、部分を理解するためには全体を見ようとしていく努力が欠かせないのです。「困難を分割する」ことがデカルト以来の問題解決の伝統であり、我々が立脚してきた価値観であるとしても、分割された困難であることが、もとは一つの問題であったことを忘れ去るために使われるのであれば、それはもはや問題自体に取り組むことを放棄した態度であると言えるでしょう。「学習塾に人間性の涵養なんか求めていない。成績さえ上げてくれればいい!」というのはよくあるリクエストですが、そもそもその子が様々な機会に学ぶことができていないのはその子の人間性に深く根付いたものがある、というときに「人間性の涵養などどうでもいいから、成績を上げろ!」という主張がいかに的外れか、ですよね。そもそも、その2つが繋がっていない、と考える事自体が僕には傲慢で浅薄な人間観であると思います。(といっても、「人間性の涵養!」といってお説教だけするのもまた違いますが!)

ともあれ、今日もまた、徹底的に生徒の人間全体を見続けようともがき続けたいと思います。

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自学自習マニュアル(その3の2 学校の課題はやらない方がいい!)

東京都でも休校期間が5月6日まででは終わらずに、最低でも5月末まで延長される見通しです。
「感染症の拡大を防ぐ」ことは必要であるとしても、私達の経済活動だけでなく子どもたちの教育へとそのコストを押し付けることは、長く続けば続くほどに取り返しのきかないものになります。
特に子どもたちへの教育は、あまりにも放置されきっていて、公教育の無策とあいまって、さらなる教育格差をこの
日本に生み出すことになってしまうからこそ、「お家にいよう!」だけでなく、子どもたちを無為から守っていかねばなりません。

さて、学校の先生方ももちろんこの状況には心を痛めてなんとかしたい!と思っていることは確かです。
そして、様々な取り組みをされているとは思うのですが…。
実際に出される課題を見ていると、ちょっと考えがなさすぎる課題が多すぎて、逆に子どもたちは
かなりそれに疲弊している割に、何一つ勉強にならない、というものが多いです。
例としていくつか挙げていきます。

・授業でやるはずだった古文の文章の全訳を課題として出す。
→これを生徒が自力でできるなら、古文の授業すべていらないでしょ!真面目な子がうんうん苦しんで時間を無駄にし、
そして結局力が付きません。
・授業でやるはずだった英語のリーダーの文章の…
→以下同文。
・授業で進むはずだった数学の範囲(つまり未習分野です!)の問題集を課題として出す。
→同じく。
・英文法の問題集(Nextage,Vintage)を課題を出してテスト。
→高3であってもこの時期にこの問題集をやり込むことで力がつくレベルの子は少ないです。結局は苦痛の伴う単純暗記を
強いては結局何も残りません。こんなことに時間をかけるくらいなら、総合英語系の英文法の概説書を繰り返し読み込むことの方が絶対に力が付きます。

などなど、ですね。
もちろん映像授業を始めて、その収録を必死にやっている高校の先生方もいらっしゃいます。
その努力は美しいのですが、ぶっちゃけそれだとスタディサプリとかは月々2000円でより質の高い、
しかも映像授業のプロたちの先生方の講義が聞けるわけで…。
それは、高校の先生の付け焼き刃の授業ではどうしようもないですよね。。スタディサプリのほうが
よいと思います。

小学生に至っては、もっと悲惨で、そもそも放置、という公立小学校も多いです。あるいは放置しないとしても
当然映像授業などはしていません(まあ、公立小学校でもスマホ一台でできるわけで、もちろんご家庭によってwifi環境がないおうちも多いとは思うので、それだけで十分なわけではないとしてやればいいと思うのですが。「皆がうけられなければ平等性を担保できない!」と理由をつけて何もやらないのは僕は犯罪的である、と思います。それをやった上で、
その環境がないお家にどう別の形のサポートをするのかを考えるべきです)。
代わりになにをするか、といえば、課題です。未習分野のドリル。ですね。


自説を繰り返しになりますが、「未習分野はとにかく教科書を読む!」が正解です。
教科書はもちろん問題数も少ない。解答もないです。しかし、それを補って余りある説明があります。
何度でもその説明を読むこと。それを人に説明できるレベルまで落とし込むことが大切です。

問題集を解くのは、教科書が要らなくなってから。それを見ないでもそこに書いてあることは理解していて、覚えていて、
そして教科書にある例題はすべて解ける。その状態を作ってから問題集を解くと、スムーズに解ける問題が多いので時間もかからず、しかも教科書を読むだけでは自分がわかっていなかったところもまた見えてきます。
それを徹底してください。

また、英語に関しては教科書が使い物にならないので、英文法の参考書を一冊読むのがいいでしょう。
これも問題が多いものではなく、とにかく「説明を読む」ものがよいです。
これに関してもさんざん繰り返し読み、「この本の内容は(細かい表現で覚えていないものはあるとしても)だいたい理解したな!」となってから英文法の問題集をやることが大切です。

真面目な子ほど「学校の課題!これはやらなくては!」となりがちです。
しかし、このように長期休校の事態に際して、学校で出すべき課題の量がどれくらいか、ということを学校の先生方は
わからないまま、何となく課題を出しています。
しかも、この長期休校で教育が放置されているという危機感、あるいは親御さんの「うちの子供がアホになる!」という
恐怖心から、この学校から出される課題の量は、多くならざるを得なく、歯止めもありません。
課題を多く出せば出すほど、学力低下しても学校側の不作為ではない、とお子さん自身に責任転嫁ができるからです。

しかし、すべての教科の先生が、そのように「課題をどれだけ出すかが教師の熱意だ!」競争をしてしまえば、
子どもたちは当然それをこなせません。さらにはその課題の質自体が、家庭学習を前提にしていない学校の先生方の
いわば「しろうと仕事」です。もちろん、しろうと仕事であろうとその動機や熱意を否定するものでは全くありませんが、
しかし、「この膨大な分量の課題をこなしさえすれば、勉強の力がつく!」と子どもたちが信じては時間を無駄に費やしてしまうことだけは、避けねばなりません。

結局受験において、あるいはその先の人生においてはさらに、必要なのはその「自学自習」の力です。
この長期休校やそれに伴う子どもたちへの公教育の放置は胸が痛みますが、それでもこの機会に自学自習の習慣づけや
方法論が確立していければ、それは必ず子どもたちの力になります(それに、そもそも学校の授業を聞いているだけでは受験には受からないので!)。そのように、自学自習体制を整えていく、ということのためにむしろこの期間はチャンスであるのです。そのように考えて、準備をしていくことが大切です。


※このような事態ですから、通塾は難しいなあ、と思っている保護者の方もメールでの学習相談はいつでも乗ります。
いずれ有料化も考えていますが、今のところは無料!です。また、同じお月謝にはなってしまいますがZOOMでの指導もやっております。
まだまだ続くこの長期休校の期間に、どのように自学自習の習慣を作っていくか、そこに不安を抱えておられる保護者の方はまずはご相談いただければありがたいです。

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自学自習マニュアル(その3:補遺その1「教科書だけをやろう!」)

バタバタと忙しい日々を送っていて、間が空いてしまいました。
その間にこの休校期間中の勉強を授業では穴埋めが不可能なので、文部科学省の方から
「教科書を主体に他の教材も含めて、家庭で学習を進めてほしい」という指示が出ているようです。

この指示は基本的に正しいものの、注意点もあります。この「教科書を主体に」というのは自学自習に取り組む場合、「教科書以外に問題集もやってほしい」というように解釈されがちです。そして、小中高生というものは、「教科書を含めて問題集をやってほしい!」という指示をされてしまうと、ほとんどの子は教科書を一読、あるいはもはや読まずに、
「ふんふん。これはわかった!さて、問題を解こう!」ということになってしまいます。

しかし、教科書の未習分野を一読してわかる天才などほとんどいません。だからこそ、このような学習法は結局、
「自分ではよくわかっていないところを教科書に乗っている公式を覚えてもいないし、もちろん理解や導出なんかできていない状態にも関わらず、なんとなく見様見真似で解く」という最悪の勉強法へとつながってしまいます。。

なぜこの勉強法が最悪か、というと、あまりよくわかっていないままに問題を解くので、とても時間がかかります!
しかし、それだけ時間をかけても、結局覚えていても理解してもいない公式やルールを無闇矢鱈と「これかな?」という当てずっぽうで使ってみては、解答を見て正解と一致しているというだけで、「これでわかった!」と勘違いしては次に進んでしまう、ということになります。このような勉強をしても、多大な時間がかかり、何も残りません。しかし、勉強を長時間やった気にはなるので、成果が出ないまま疲れ果てて勉強自体への意欲もどんどん薄れていく、という最悪の事態に陥ります。

このような失敗を防ぐためにはどうしたらよいのか。それが「教科書だけを勉強する。」という方法であると思っています。教科書だけであれば、説明が多く、理解していないところをしっかりとたどることができます。さらには問題数が多くないため、それに関してはわかるところまで繰り返すこともできます。そして分量が少ないからこそ、何回も読み返すことができ、そして読み返せば読み返すほどに、自分がよくわかっていなかったことが見えてくる、というように力がついてきます。

未習分野を勉強する際に問題集まで手をのばすのは、自学自習の仕方としては、最悪だと考えてください。
問題集が役に立つのは、既習分野の復習という局面か、あるいは未習分野を教科書でしっかりと理解しながら進めていった後に、理解という点ではこれ以上教科書を読んでもあまり変わらない、と「飽和」してきたときであると考えるとよいかもしれません。逆にその状態に至るまでは、問題集を解いてはいけない。それぐらいの気持ちで教科書を読み込むことが大切です。

新型コロナウィルスの収束も、5月上旬までというスパンではおそらく難しく、休校期間も延長することにならざるを得ないと予測されます。その中で自学自習をしていかねばならないわけですが、この状況で未習分野を進めていくときに「問題集だけを解く」というのは基本的に(それをすべて解説できる大人が横に居なければ)最悪の手法であると思ってください。しかし、学校でも「講義は学校側できちんとしました。あとは問題を解くことが君たちの勉強だ!」という方式で普段進めている以上、その学習習慣を引きずったままに「自学自習」を子どもたちが求められれば、必ず「読む」ことを雑に終わらせては「解く」ことだけをやり、そして何も力が着かない、という無駄な時間を過ごしてしまうという失敗に陥ってしまいます。

だからこそ、「解く」前に「徹底的に読む」ということが、自学自習においては大切です。そのためにも、未習分野を進めていく際には、教材はまずは教科書だけに絞って繰り返す、というのが賢明であると思います。

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自学自習マニュアル(番外編:学校に反転授業を!)

この前の内容に続けて自学自習についてのその他の押さえるべきポイントを書こうと思っていたのですが、
文部科学大臣が「休校期間中の授業は実質補填できないから、一定の要件を満たせば家庭学習で単位をとれたものとする」という発表をしました。これは実質的に学校教育の責任の放棄だと思いますので、先にこれについて書きたいと思います。

GW開けにはこの新型コロナの蔓延が収束している、というかなり楽観的な見通しが万一実現したとしても、
従来の学校の授業でこの「失われた2ヶ月」を取り戻すことは夏休みを丸々潰しても難しいというのは確かです。
この厳しい現実に対して、どのように取り組むべきか、というのは簡単なことではありません。

しかし、だからといって「家庭学習で学んだものとする!」と言い切ってしまうのでは学校がその教育に担う責任を放棄するようなものです。それはやはり、あまりにも無責任なのではないかと思います。

この解決策としてはやはり「反転授業」形式しかないと、思っています。具体的にはいつからかはわかりませんが、
学校が仮に再開できたとして、本来進むはずだった範囲の学習内容に関して、範囲を区切っては自習してきた子もそうでない子も教科書を読み返し、そこでの疑問点を逐一先生が教えていく、という形こそがこのような講義の穴を埋めていくためには現実的、かつ効果的な手段ではないかと思います。

僕自身は講義形式ほど効率の悪い学習はないと思っているため、このような反転授業形式の学習塾をやっているわけですが、学校がそれを全面的に取り入れるのはまだまだ難しいと思います。しかし、学校には現在のままでは質問を受ける時間、というのがカリキュラムの中にほとんど組み入れられていません。だからこそ、学習内容についてわからないところの質問は、休み時間に生徒が自主的にするもの、というような「添え物」扱いです。これでは率直に言って、勉強ができるようにはならないと思います。

たとえば一週間に一コマだけでも、各授業の中でそのような質問タイムを作る、とか、もちろんそれがコマ数の少ない授業なら2週間に一回とかでもよいのですが、そのように振り返る時間を作るだけでも学習効果は高まります。ギチギチの予定で講義と演習だけで終わり、生徒が疑問点については質問する時間がまとまって定期的には取られない(まあ、定期試験前の1コマあるかないか)、という今の「とりあえず講義予定を消化することが優先で、生徒が力がつくかどうかはあまり考えていない」学校の状態からはとりあえず前進する改善案ではないでしょうか。

そして、この休校によって「従来通り講義をしていては、そもそも追いつかない!」という状況はある意味でその反転授業形式を試すための絶好のチャンスです。ここで、そのように学校側が「教科書を読む」あるいは「講義動画を見る」ことを
生徒に休校期間中に課した上で、そこでの疑問点を休み明けに徹底的に質問に答えて一つ一つ潰していく、という授業スタイルをとれば、むしろ子どもたちの実力はただ講義をリアルタイムでしていたときよりも必ず上がります!
そして、そのような成功例が出てくれば、教えている先生方も「ただ質の高い講義をしていればいい!」と講義の質を上げることだけに専念するのではなく、このように立ち止まって生徒の質問に徹底的に向き合って教えることに時間をしっかり割いていく方がむしろ生徒の力を伸ばすためにはいいのだな!と気づけば気づくほどに、公教育自体が今の形骸化した状態から、意味のあるものになっていくと思います。

だからこそ、「講義の遅れた分を取り戻すのは無理だから、やったことにしよう!」とごまかすのではなく、むしろこのピンチを反転授業を試験的にでも導入していくチャンスと捉えて、学校側が取り組んでいただけると本当に嬉しいです。
(それをしていただけると、本当に素晴らしいと思うのですが、、まあなかなかやらないですよね。。この理由として、どうしても学校の先生方に「授業こそ教育の生命線!」という固定観念があるからだと思っています。しかし、目の前の生徒を教えるのに、様々なアプローチを用意することは、教育という極めて難しい取り組みに携わるものの責任でもあると思います。是非これに関しては、学校の先生方にしっかりと話し合い、考えてもらって、反転授業形式を試験的にでも導入していただきたい、と思っています。)

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