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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ワークブックの罪の重さ。

ほとんどのご家庭では「学校の勉強がとにかく大事!」という方針で親御さんはお子さんに接します。また学校の先生も「学校の勉強が一番大事!」と繰り返します。それでうまくまわっているお子さんについてはとりあえずはそのままでよいのですが、その「学校の勉強」を必死にやっているはずなのにうまくいっていないお子さんについては抜本的にそのやり方を変えていかねばならないはずです。ただそれをこちらが指摘してもなかなかわかってもらえずに「学校の宿題や小テストをやりながら学校の成績を上げるにはどうしたらよいですか?」的な無理難題をリクエストされてしまうことが多く、頭を悩ませる毎日です。(そもそも今学校で勉強している内容についていけないのなら、もっと基本的なことを復習すべきであるのは明白なのですが、学校の宿題や小テストは「今」進めている内容についてのものです。その「今」についての宿題が膨大であるときはそれを「それ以前」があやふやなままにこなすこと自体が時間の無駄であり何一つ力になりません!という事実自体は説明すればわかっていただけることが多いのですが、「学校の宿題を無視する」ということがなかなか怖くてできないままにその無意味な勉強を続けてしまう、という悲惨な状況に陥りがちです。)

これとかは処方箋がわかっているのにもかかわらず、多くの人の先入観やあるいは学校の先生の権力(「宿題をやらないと評価を下げるぞ!!」という強制力)によってその問題解決に取り組めていないままに若い世代の時間と努力が無駄遣いされている例です。まあ、今の日本社会の縮図である、と言えるのかもしれません。(これだけ宿題をやれ!!という割には先生たちはテストの点数の方をはるかに重視して成績をつけるわけで、「宿題をやる」と「テストで点を取れるようにする」がトレードオフの関係になってしまっている子たちに対する対策を真剣には考えていないわけですから、「テストで点を取れるようにする」「受験で点を取れるようにする」という目標に焦点を当てて勉強したほうがはるかに子どもたちにとってもよいわけですが…。それほどまでに「宿題はやらなければならない」という誤った価値観を覆すのは難しいです)

さて、前置きが長くなってしまいました。その宿題の中でも最悪のものが「ワークブック」であるのです。今回はなぜこのワークブック形式が問題であるのかを書きたいと思います。

といっても親御さん世代にはあまりピンとこないかもしれません。昔の大学受験は、あるいは高校受験も教科書や問題集とノートで勉強していましたよね。しかし、最近の中高生はワークブック天国(あるいはワークブック地獄)です。英語数学理科社会国語全てワークブックをやらされます。そして、それを試験前に指定された範囲まで提出!というところまでが中学だけでなく高校でも一般的になってしまっています。この宿題形式での勉強方法の一番の問題点は

問題を繰り返し解かなくなる。教科書に戻らなくなる。

ということです。
問題集って一周終わったらもう完璧!という天才的な学習者なんてほぼいません。むしろできなかったところを繰り返し解いたり、そこであやふやなところは教科書に戻って復習したり、その繰り返しと教科書に戻ることが学習効果を高めるために必要でした。しかしワークブックは「提出するため」に宿題として出されます。当然それなら一回解いておしまい!間違えているところがあってもそんなの気にしない!となってしまいますよね。

さらには宿題として出される分量が多すぎるために、そもそも繰り返して解いたり、間違っているところは教科書に戻って復習する、という時間の余裕がとれないために、子どもたちに「ワークブックはとりあえず終わらせるもの」という誤った学習観を刷り込んでしまいます。

さらには、ですね。高校生用には青チャートやフォーカスゴールドのワークブックまで最近では出ています。このレベルの問題集をワークブックにして提出!とかなってくると、「こんな難しい問題、解けない大多数の子にとってはただただ解答を写すしかないじゃん。。」という地獄のような宿題になってしまっています。ハイレベルな問題を、繰り返し解き直したり、教科書に戻ったりなんて夢のまた夢、というような分量で宿題を出されるわけですから。。このようにして問題集を繰り返して解く、わからないところは教科書に戻る、という学習習慣がこのワークブック地獄によって破壊されていきます。
そして、勉強がわかるためのものではなく課題をこなすためのものになってしまいます。全く有害な宿題形式でしかないと思います。

また、そもそもこうしたワークブックにはせいぜい簡単な公式のまとめしか載っていません。英語なら簡単な文法事項のまとめでしょうか。それをちらりと見て後は解くだけ!というレベルのお子さんのほうが圧倒的に少ない以上、このような形式での宿題は「教科書に戻る」という習慣なくしてはわけのわからないまま解くことを強制することになってしまいます。

ではなぜこのようなひどい宿題が一般的であるのか。やはり教員の側の宿題の管理のしやすさゆえではないか、と考えています。宿題を出す、というのは本当に難しいものです。問題を厳選してできる限り基本事項の解説や説明を徹底したものを読み込んだ上で問題を解いていく、という教材があればよいのですが、なかなかそういった教材は少ないです。またあれこれ教材を本屋さんで探せばそういう参考書はあるのでしょうが、そのあたりは特に中学校で市販の教材を使うとまずい何かがあるのかもしれません(ここはあまりよくわかりませんが。画一的な学校採用の教材ではなく市販の教材使えばいいのに!と思います。)。だとしたら「ワークやって提出ね!」は教員側にとっては教材選定、問題レベルの絞り込み、さらにはやったかどうかがひと目でわかる管理のしやすさ、という点で優れています。つまり、これは単純に生徒のためではなく、宿題を出す側の教員の論理で選んでいることを生徒に強制しているだけです。

ではそのように「基本事項の説明がしっかりしていて公式の導出もちゃんとしていて、問題のついている教材、しかも本屋さんであれこれ見比べてプロが一生懸命探さなくても手頃に見つかる教材」はないのでしょうか?実はこれが数学や理科、社会の場合は教科書であると思っています(英語の教科書は英文法の説明が貧弱すぎてダメです。。)。教科書は基本事項の説明を丁寧に書いてあります。それをしっかりと理解し、問題を解くことで受験レベルの基礎は全て身につく、とても優れた教材です。ただこれを阻むものとして一つは「教科書は簡単だから問題集をやったほうがいい!」という子どもたちの思い込み(とそれを助長する教師の教科書軽視)、そしてもう一つは「教科書には解答がついていない」という別の大きな問題です。。子どもたちに勉強できるようにさせてあげる気がないのか!!というくらい教科書の解答を子どもたちに配らないのは犯罪的であると思います。その結果教科書があやふやなままにワークブックで膨大な量の宿題を提出させ、結果子どもたちの勉強時間と努力をほぼ無意味に浪費してしまっているからです。

と見てきたように書き込みワークブック形式がいかに勉強として意味がないか、しかしそれがたとえば20年前と比べてはるかに大きな市場となり、子どもたちの学習環境の隅々にまで入り込み、以前は書き込みワークブックではなかった問題集までそれに置き換えられ、そして子どもたちは基本事項の理解もあやふやなままに英語も数学もその膨大な書き込みワークブックの宿題をこなさせられては、時間を無駄に費やしているのが現状です。塾ではそういった悲惨な状況に諸々対策を練ってやっているのですが、しかしマクロとしてこのような無駄な勉強にほとんどの学校が血道をあげているのについても、何とかしていかなければならない、と痛感しています。

そして理想の教材は「解説・解答つき教科書」なのでは?という方にはたとえば数学だと数研出版の『体系数学』シリーズは解説・解答つきの教科書として有用であり、かつ普通の本屋さんでも買えるのでお薦めです(塾でも愛用しています!)。他の教科書会社も(高い教科書ガイドとか売っていないで)市販本として教科書を売り、安価な解説・解答をつけるというこうした努力をしっかりやっていただくだけでも中高生の勉強はかなりはかどるのでは?と思っています。(もちろんここには「解答を生徒に与えると答えを写す!」的な学校サイドのリクエストがあるとは聞きます。宿題用の問題集の解答すら生徒に与えない高校も多いと聞きます。このような性悪説にたった締め付けも、結局は子どもたちに「問題集の宿題はただ解いて提出すればいい」といった誤った刷り込みを生みます。自分の誤りを解説や解答と照らし合わせてはじっくりと吟味して考え、教科書に戻って復習し、しっかり考えていくことこそが学力をつけていく道であるのに、そのためのいちばん大切なツールである解説・解答を「どうせお前ら答見て写すだろ?」という訳のわからない理由で取り上げられてしまっているという。。本当に愚かな行為であると思います。)

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夏休みの宿題はやらない方がいい。

ご無沙汰しております。あまりにも忙しくバタバタと教えていたら、気がつけばもう8月も半ばです。この間10月のマタヒバチ東京公演とかの準備もあり、あまりに忙しくて本すらちょこちょこしか読めていないという。。しっかり立て直したいと思います。

さて、学校の宿題のひどさについて、facebookの方に投稿しました(公開設定なので、どなたでも見れると思います)。

まあしかし、これでも書ききれていないくらいヒドイ宿題!!!に悪戦苦闘する塾生たちと日々直面し、何とか彼ら彼女らがせっかくの勉強時間を少しでも実力をつけていくことに費やしていけるようにあれこれ作戦を練っています。

まず、多くの親御さんにご理解いただきたいのは「学校の宿題はやらないほうがいい」というのが現在の実状である、ということです。特に私立中高、都立一貫校といった「うちは大学進学に力を入れています!」というところの宿題は本当に質も量も酷いものです。

これらの大量の、かなり難しい宿題をこなさなくてはならない中高生は、結局「よくわからないままにとりあえず埋める」ことで彼らの夏休みの勉強時間の大半を潰すことになります。一学期の中でわかっていなかったところを復習する時間も、二学期の予習をする時間も全てこの「大量の宿題を何とか終わらせる」ことに費やされてしまい、勉強はしているものの力もつかず、さらには勉強自体へのモチベーションも下がってしまいます。

それを親御さんが「まずは学校の宿題でしょ!」「宿題は終わったの?」ばかりプレッシャーをかければ、当然中高生は「宿題を終わらせる」=「勉強する」としか思いません。しかし、いくらこのようなレベルも量もおかしい宿題を終わらせても、全く力はつきません。結果として「真面目に宿題をやる(やらせる)」ことが、その子の学習の遅れをどんどんひどくしてしまうことにつながってしまっています。

この現実をまずは多くの親御さんに知っていただきたい。そしてどうしてこんなことが起きているかといえば、学校の先生の出す宿題が極めてテキトーであるからです。「たくさん出しときゃいいんだろ!」「難しい問題出しときゃいいんだろ!」「青チャートとかフォーカスゴールドやらせとけばいいんだろ!」という思考停止に陥った宿題ばかりです。しかし、中高生に難しい問題を大量に宿題で出したとして、それをこなした上で一つ一つわからないところを教科書から復習して理解できるだけの学習時間を彼らがとれるわけがないのです(それは中高生がサボっている!ということではなく、物理的に無理なレベルの分量を出されています)。

むしろ問題の数を厳選してできるだけ最小限に抑え、内容もessentialなものに限定し、そしてそれを繰り返す、ということの方がはるかに学力がつくはずです。しかしこのような宿題の出され方をこれだけ多様な学校の子が通う塾で一人一人各科目の宿題を見せてもらってもほぼ一つもない、というこの恐ろしさですよね。。どれだけテキトーな宿題を出してるのか、中高生の学習時間をどれだけムダにしてしまっているのか、中高の先生方には猛省していただきたいです。

それとともに、親御さんに是非ご理解いただきたいのは、「学校の宿題をする」ということがこの大量かつハイレベル宿題虐待地獄の中高に通う上では、お子さんを鍛える戦略として大きく間違っている、という認識をもっていただくことが大切です。「宿題をしなさい!!」というその一言が、お子さんが勉強ができなくなる原因となってしまいます。

じゃあ、何やったらいいの?というときに「ぜひ嚮心塾へ!」と言うと広告としてはよいのでしょうが、そんなのいりません。教科書をやってください。教科書の説明をしっかり何回も読んでください。数学に関してはこれで中高どちらでも大丈夫です。英語に関しては英文法書を中学のであれ、高校のであれ、繰り返ししっかり読むだけで大丈夫です。

これも「問題を解く」必要はありません。ひたすら繰り返し読んでいただけたら。そのうえで「だいぶ理解できてきた!」「説明できる!」となってきたら教科書にある問題だけで良いので解いてみるとよいでしょう。

宿題の話に限らず、一般に中高生は問題を解かされすぎています。しかし、問題というのは自分の理解を確かめるために使うべきものです。説明ができるかもあやふやな状態で問題だけ解いて大量に実力をつけることは、しっかりと説明を繰り返し読んではそれのチェックとして問題を解いて力をつけることよりもはるかに難しいことであると思っています。前者のような勉強法では、帰納的に抽象化する能力の高いとてつもなく優秀な子(東大や医学部に合格するレベルではなく、もっと上です)でないと力がつかないと思います。

だからこそ、教科書の説明もあやふやな状態で大量の難しい問題を解かせる、は何から何まで間違っています。ぜひ「宿題なんかやらなくていいから、教科書を読みなさい!」というお声がけをお願いしたいです!!(まあ、本当は中高の先生方にそれを徹底していただきたいのですが。。)

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中高生の教育でタブレットを有効に活用するただ一つの方法。

教育のことばかり、書きたくないのです。。もっと書きたいことが山程あり、「こんなアホな大法螺吹いてら!」というのがこのブログの存在意義でもあると、せめて自分だけは思っています。ただ、普段から教育のことばかりに携わり、あまりにもひどい教育現場の様子(つまり学校の様子ですね)を見せられ続けていると、言いたいことだらけになってしまい、一度書き始めると止まりません!!ということで今日も教育ネタですみません。

さて、ICT教育のスローガンのもとに、都内の私立はどの中学でも高校でもタブレットを導入しています。しかし、このタブレットの使い方がひどい、というか、「こんなの、絶対勉強できなくなるだろ!」というような使い方ばかりを見せられるために、ビビります。必然性のない使われ方のためにタブレット端末代という高い経済的負担を親御さんに強いることも大問題ではあるのですが、もっとひどいところになると、「こんな使い方してたら、そもそも勉強ますますできなくなるんじゃない?」という使い方になってしまっています。
いくつか実際に目にしたケースを挙げていきたいと思います。

①問題集がタブレットの中に入ってる。
「何冊も重い問題集を持ち歩かなくていい!」以外に何のメリットがあるのかわかりません。。見にくいし、使いづらくて高校生たちが苦労しています。ただ、この場合、ノートに解くのでまだ使いづらいこと以外はデメリットが少なめです。

②問題集がタブレットの中で完結している。
解答するところまでタブレットでの操作でおしまいのものです。選択問題を選んだり、といったものですね。これはかなりひどい影響が出ていて、中高生が勉強するのに紙とノートを使わなくなってしまっています。いわゆる「手を動かす」ということがとても減ってきてしまっている分、さらっと読んでおしまい、とかになってしまっています。

③教科書をタブレットで見る。
これは立体図形の表示とかではイメージしやすいものとかもあってそこは優れているのですが、全般的に手を動かさなくなる、わからないところを読み返す、ということができなくなりがちです。

これは僕自身もタブレットで電子書籍で勉強するときとかにも感じるのですが、紙の書籍と比べてわからないところを読み返す頻度が電子書籍の場合どうしても落ちるように体感しています。スクロールは紙をめくるよりも容易な操作であるのに読み返す頻度が減る、というのは面白いものです(おそらくスマホで大量の薄い情報を流し読みするのと同じモードになってしまうのでしょう。もうちょっと内容を丹念に追わなければならない本でもそう振る舞ってしまっては、結局habitの方を優先して理解の速度が追いついていないことを犠牲にしてしまいがちであると思います)。

こうした効果は教科書や問題集でもやはり出てしまうのではないか、と思っています。つまり読んでいるけれども理解していない、読むのが「速すぎる」ことで、むしろ理解できていないことがあるままに先に進んでしまうということが増えているように感じています。

さらに言えば、ノートと鉛筆を使わないタブレット学習なんか、最悪も最悪です。これも、たとえば大学生がタブレット端末で勉強するのにはそれなりの利点があって、大学の教科書は分厚い本が多い、とか、高校生までに大学受験で手を動かして勉強する習慣がついている、とかそういったことによって初めて効果的で効率の良い学習をタブレットを使って行うことが可能になっていると思います(逆に言えば、そのような習慣がついていな子は大学生でも厳しいです)。

しかし、中高生で既にその基本ができている子の方が圧倒的に少ないわけですから、そのような子たちがタブレットの導入によってますます「手を動かさないで勉強した気になる」という状況になってしまっています。これは特に中学入試で比較的入学しやすい私立中などでは進学実績以外の何らかのアピールとして「ICT教育の充実」なんかを売り文句にしているせいで、思考のプロセスを丁寧に書くことのできない層の子たちが中学入学後に「書かない」勉強を与えられ、しかもそれが奨励されるので悲惨なことになっている、というケースも目にしています。

たとえば大学入試は少なくとも当面は「紙の文章を読み、答案用紙に書く」というスタイルから変わるわけがないのですから、むしろこのご時世に「うちの学校はタブレットとか使いません!全部紙です!!だって入試はそうじゃないですか!!」とかいう姿勢を保護者の方に主張する学校とかは僕はとても好感が持てますし、実際にそちらのほうが勉強の力もついていくと思います。またよけいなお金もかかりません。しかし、同調圧力の強い日本では「流行り物には乗っておけ!」「むしろタブレット端末使わなくて、『おたくの学校はタブレット使わないなんて遅れてるんじゃないですか?』という父母からのクレームが怖い。。」といった事情で導入してしまい、本当に学習効果が上がるのかどうかよくわからないものの、辞めるのも怖くて辞められない、という状況なのでは、と見ています。非常に大きな問題ですよね。。


と、ここまでを踏まえてタブレット端末は全くいらないかといえば、中高でも意味のある使い方ができる方法が唯一つだけあると思っています。それは、「授業を動画に収録して全て動画で授業を聞く」です。登校の必要もなくし、教室に来る必要もなくす。授業動画は何回でも繰り返し再生できるようにし、もちろんわからないところを聞く時間を週に一回は作り、そこで先生がそこまでの授業動画についての質問受けをする(そこだけ必ず登校する)、という方式です。

もちろんそうすると、「じゃあスタディサプリでいいじゃん!」という話になります。また、実際にスタディサプリの予備校の先生の講義を超えるレベルの授業動画を作れる中高の先生方が何人いるのか、という問題もあります。しかし、一方で多くの人が見る授業動画とその学校の子達の学力レベルが把握できている先生の授業動画とを比べれば、ターゲットが絞りこめる分だけ、後者も意味のある授業動画が作れるはずです。そのようにシフトすれば今よりははるかに有効に活用できると思います。

即ち、現在の中高でのタブレット端末の使い方というのは、「授業」という受動的に情報を吸収する時間であるが故にタブレットを使うのに一番適切な時間でタブレットを使わないままに、「自主学習」という実際に手を動かすことで初めて意味のある部分にタブレットを用いている、という倒錯した仕組みで運営されている結果として、「より手を動かさない勉強」へと中高生を追いやってしまっているのだと思います。そうではなく、「授業を動画でタブレットで見て、問題集は実際に紙とノートで勉強する」というようにするだけで、だいぶ改善するのではないでしょうか。

こうした悲惨な現状を見るに、やはり私立中高の勉強についても戦略的に全体をデザインできる先生がいるかどうかが大きな分かれ目なのだな、ということを痛感します。そういう仕事もやっぱりしていかないと、ですね。。これもまた、考え、実行に移せるように何とか頑張ります。

(追記)
と書いた後に友人から、日本の教育学の泰斗である佐藤学先生が「ICT教育によって学力が上がるという研究結果はほとんどない」と仰っている記事を紹介されました。有料記事ですが、リンクを貼っておきます。「さすが佐藤学先生!僕と同じ問題意識とは!」といういつものボケは、大切な(別の)友人の師匠にはなかなか言いにくいのですが、そこを頑張って言っておきます!

https://www.asahi.com/articles/ASP5T3FC0P5TULBJ003.html

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いわゆる「勉強法を教える」塾について。その2

さて、間が空いてしまいましたが、前回の続きを書いていきたいと思います。

②はじめに選んだ教材でよいかどうかはよくわからない。

いわゆる「参考書ルート」というのを受験生に呈示して、それを進めていってもらう、というタイプの学習塾が増えていて、嚮心塾も分類するとそのタイプなわけですが、これがしかし、難しいです。。
たとえば嚮心塾の場合、今の実力とかを踏まえて「最初はまずこれくらいから」という見立てをして提案します。それを進めていく中でわからないところを質問してもらったり、手応えや違和感というのを聞きながら、どういう違和感はスルーしてその教材を進めていくべきか、逆にどういう違和感はその教材を一旦止めてでも他の復習をしていくべきなのか、というのを判断していきます。

これもまた、最初に決めた「今これくらいの実力の子が一年後にはこの学校を受けたいから」という逆算でやってしまうとたいてい失敗をします。なぜならたとえば同じようにある科目について「偏差値60」であるとしても、その内実は多様であるからです。理解もしていないままに無理やり詰め込んでの偏差値60もあれば、覚えるべきことを全然覚えてないままになんとなく文脈を読む力があっての偏差値60もあります。同じ「レベル」であったとしても、その結果が何に依存して生じているかが一人一人全く違うため、その子の今の実力の「内実」がどのようなものであるのかをこちらが把握しながら参考書計画も常に変わっていきます。

たとえば英語に話を絞れば、短文での英文解釈の前に単語や文法を初めにやるのは当たり前として、単語と文法の比重、さらにはほとんどの高校生は「文法学習」は「ただ4択問題をたくさん解いてきました」というだけしかしてきていないので、全く理解しないままにただ覚えています。また、単語も覚えることではあるのですが、それも接頭辞や接尾辞、語幹の意味というのを踏まえては組み合わせていく中で「覚えた」子と、そうではなく力技で覚えている子とで、同じ単語帳を同じレベルまで覚えていたとしても、そこからの勉強方針が変わってきてしまいます。前者はそこからさらに新たな単語を増やしていく、という戦略が有効ですが、後者は単語のパーツの分解ができない以上、単語量を増やせば増やすほどに飽和状態になり、全く入らなくなっていってしまうので、むしろ接頭辞、接尾辞、語幹を丁寧にマスターしていくことの方が大切ですし、入試で知らない単語でも類推が効くようになります。さらに英熟語も一般的には「覚える」ものだと考えられますが、これも熟語を成り立たせている単語と単語の意味から熟語の意味を引き出してこれる受験生とただ機械的に覚えている受験生とで全く違うので後者は飽和状態になってしまい、知らない組み合わせの類推もきかないのでそれも単語と単語の意味から熟語の意味を引き出せるように…。

と、科目を絞って英語だけの話をして、さらに「最初は単語と文法やろうね!じゃあまずはこの教材から!」というところだけで、これだけ千差万別な受験生の状態を把握しては、何がその子に必要な勉強なのかを考え、教材もそれに合わせて優先順位を考えていかねばならないわけです。。また、単語や熟語は一般に「覚える」ものとされています。勉強において、「理解すること」を「覚えること」よりもできる限り優先する、という大原則は大切です。しかし、個々の「覚えること」の中にも「理解すること」はたくさんあり、逆もまた然りで、そんなこと言ってくととてつもなく大変です。最初は英語のことだけでも教材選別にあたって必要な考慮を全部書こうとしたのですが、ちょっとキリが無くなってやめました。これを各科目全部やる、とかマジ誰ができるんですか、というか、とてつもなくめんどくさい仕事なわけです。

それを「これやっておくといいよ!それを何周もしてできるようになったら次はこれだぞ!」と単純化するのは、
もちろん何にも手をつけていない受験生を勉強へとmotivateするという意味では最初にあっても良いプロセスではあるとは思うのですが、それで成績が上がるのは最初だけです。何もしていない状態は未開の荒野で方向性なんか関係なく、やればやるほど力が伸びる、という話は前回もしましたね。それ以上にはあまり望めないと思います。特に難しい大学を受けるときはキツイと思います。

さらに難しいことがあります。先に書いたような「僕は英単語、語源としか知らないでムリヤリ覚えてるんですよね。それで大丈夫でしょうか?」とか「私は英文法、文法問題はたくさん解いてよく出る問題は答えられるのですが、正しい形覚えてるだけでいまいち他の選択肢がなぜ違うのか説明できないんですよね。これで大丈夫でしょうか?」のように受験生が聞いてくれるのならば、参考書の見直しもしやすいのです(まあそれでも見直ししてくれる塾は少ないとは思うのですが)。しかし、このような質問ができる受験生、というのは既に相当ハイレベルな受験生です。ほとんどの受験生はそんな勉強法に疑いも持たずに(だって学校でそんなこと教えてもらえないですから)、そのやり方でやっては伸び悩みます。

受験生がどのような状態の学習を続けているかを把握するためにこそ、先に書いた勉強計画や今回の教材選定においても「質問」がとても重要であるのです。生徒のなにげない質問から、「なるほどこんなことがわかっていないのか。。」ということを愕然とした先生方は山ほどおられると思います。生徒から質問を受けるからこそ、その生徒が今何をやるべきか、優先順位が明確になるのです。だからこそ、質問を受けないまま、あるいは質問を受ける人と計画や教材を決める人が別のままの学習計画設定や参考書選び、というものが基本的にはナンセンスであると思っています。それはまあ「勉強やらないよりはやるほうがマシ」レベルのものであり、いずれ必ず天井にぶつかります。もちろん、「天井」にぶつかってから自分で悩んだり試行錯誤できる受験生であればそれでも合格できるでしょうが、それは最初からその塾をそんなに必要としない受験生でもあると思いますし、教えている実感としてはそのような賢い受験生、というのはかなり割合が低いかな、と思います。東大や早慶の受験生の中ですら、ですね。

だからこそ、信用できる「勉強ルート塾」を判断するための一番大切な基準は、「質問を受ける人が勉強計画も策定する」というまあプロの家庭教師の先生とかなら当たり前にやっていることをやってくれる「勉強ルート塾」です。ただ、これが大学受験においてはおそらく構造的に難しいのだと思います。その理由としては科目を教えるのは大学生に任せ、参考書選びや勉強計画は社員に任せる、という仕組みがおそらく多いことによるのかな、と。各科目を社員が勉強してできるようにして質問に答えられるようにする、はおそらく社員さんの学力の限界上難しいでしょうし(それができるならその社員さんは予備校で教えます。)、一方で大学生の作る「計画」や「参考書ルート」は彼らの主観からは逃れられない、という問題点があります(まあ、「俺はこれやってうまくいったから!」ですよね)。例外的にそのバイトを長くやり、様々な子を教えてきて経験値の高く自分の勉強の仕方をある程度客観視でき、何ならそのバイトのために自分の使ったことのない参考書まで研究するぐらい熱心な大学生に運良く当たる、または社員さんがたまたまよんどころない事情でそういった塾で働かざるを得ないけれども受験勉強に関してはマニアで社会人になってからもずっと勉強を続けていて、どの科目でも現役有名大学生以上には答えられる、などといった幸運に幸運が重ならないと難しいのかな、とは思います。

というように参考書を選ぶこともまた極めて難しく、特にそれを伝える受験生から直接質問を受けられない場合には「一般的にはこれやっといたらいいよ〜」以上のことがほぼ言えない、というのがこの指導方式の限界であるようにも思います。

もちろん嚮心塾はそうはならないように諸々日々勉強し、考えながらやっています。たとえば10年前の嚮心塾、あるいは5年前の嚮心塾と比べても、指導方法や教材の選定の多様さ、というのは日々の教材研究でだいぶ増えてきていると思っています。まあ、そんな風に非力ながらも色々必死に努力していたとしても、それでも本当に難しいのです。その難しさについて楽観せずにしっかりと対応し続けようとする塾を、親御さんや受験生が選ぶことが大切かな、と思います。「この教材を繰り返しやれば大丈夫!!」という楽観論には、何も先が見えないときにはつい縋(すが)りたくなってしまうものですが、そこでしっかりと考え続けてくれる指導者かどうかが大切かと(気がついたらこんな分量に…)。

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いわゆる「勉強法を教える」塾について。その1

嚮心塾は2005年5月の創業です。当初から「講義ではなく勉強法を作っていく」塾として始めたわけですが、その頃にはほぼ他に見ることのなかった「講義はなく、勉強法を教える」という形の塾も今はだいぶ広まり、様々な塾が乱立しています。それらの塾にあまり興味はなく、指導がどのようなクオリティかもまあ推して知るべし、とは思うのですが、それでも「2(5)ちゃんねるしか受験情報がない」という状況に対して一つの選択肢を示した、という点ではプラスだったのかもしれません(まあ、それらの「勉強法」が「2(5)ちゃんねるの受験情報の切り貼り」以上の価値を提供できているのかはあやしいところですが)。特に大都市圏とそれ以外の地域での受験情報の格差、受験のための塾や予備校の格差というのは、東京に住んでいる人間には計り知れないほどに大きく、この点に関しては嚮心塾も何も貢献をできてこれていない、というのが恥ずかしながらの現状です。これについては目の前の生徒を教えていればよい、という思考停止に陥っていてはだめで、やはり東京以外の受験生にも良質な情報や指導を提供していく道を考えて準備していかねばならない、と今色々と具体的なプランを考えているところです(と公言しておかないと日々の忙しさにかまけてこれも進めていけなくなるので、ここで退路を絶っておきます!)。

さて、こちらの決意表明はさておき、こうした「勉強を教える」塾にとっては何がネックになるのか、ということを備忘録がてら書いていきたいと思います。「講義形式より自分の足りないところをダイレクトに学習できるので、学習効率が圧倒的に高い!」はそのとおりであると思っているからこそこの形式をこちらでもずっと探究し、磨き上げていっているつもりなのですが、それでも安易な期待をさせてしまうような宣伝が巷に溢れているからこそ、この形式の問題点をいくつか書いていきたいと思います。

①学習計画は、立てられない。
のっけから常識を否定するようで申し訳ないのですが、学習計画は立てられません。これはこうした「勉強法を教える塾」というのが「一人でやってしまうとどうしても自分に甘くてペースが遅くなってしまう」という受験生の悩みというニーズへの対応から生まれているからこそ、「学習計画が肝心だ!」ということで安心させるために学習計画の精密さや進捗管理を売りにしているところが多いと思うので、「それなら意味ないじゃん!」と受験生は思うかもしれません。

ただ、たとえば数学なら数学で「1日何ページこの問題集を進める」という計画は不可能です。それは、一つ一つの分野についての自分の理解度がそれぞれ異なるからこそ、機械的にページ数を決めることはわかっていない分野を雑にやるか、あるいは容易に達成できる意味のない目標か、どちらかしかできません。

また、「1日何ページこの問題集を進める」という形の学習計画の一番の問題点は、その問題集しかやらなくなる、ということです。たとえばその分野があやふやなところが多い場合、教科書に立ち戻って復習する時間を作って初めて勉強になります。それは問題集のページ数を目標にした場合、むしろそのような立ち戻る勉強は「目標達成の足を引っ張るもの」として排除されていってしまいます(このあたりは会社でも数値目標の導入がかえって数字にならない仕事を皆が忌避することに繋がって、結局は全体としての生産性が落ちてしまうというのと同じですよね)。

もちろん「学習計画はそうした諸々の細かい点はとりあえず措き、大雑把な目標としてペースメーカーとして機能すれば良い!」という主張もありうるでしょう。ただ、この主張は、学習計画の遅れをどう評価するのか、という難問を残すことになります。それが勉強方法の洗練や踏まえるべきステップを踏まえていった結果としての学習計画の遅れであればむしろ肯定的に評価し、サボりであれば否定的に評価する、ということが精密にできればいいのですが、そうでなければ「計画を達成すること」という目標が「勉強法に関してはむしろ無意味なやり方を強いることになる」という失敗に繋がります。一方で「「正しい」勉強法をしっかりと初めに教え込んで、そこを踏まえながらであれば計画はいくら遅れても良い」という方針をとるのなら、計画自体が無意味なものとなります。

実際には学習計画と学習方法は一体のものであり、計画→方法の改善→再び計画→方法の改善→…の連鎖が無限に続いていくからこそ、「学習計画を初めに立てる」という行為自体が「他者があなたの学習にコミットしますよ」というシンボル以上の意味を全く持たない無駄な行為である、と思います(これはこうした塾だけでなく、中学や高校でも「学習計画」を立てさせることが大好きなのですが、それも大きな間違いだと思っています)。このように学習計画は勉強の進捗や進めた勉強の中で新たに出てくる問題点への対応、という意味で日々刻々と変えていかねばならないものです。それがわかっていないままに、「我々プロが「合格するための学習計画」を立てるからそれに従えば大丈夫!!」というのは詐欺的だと思います。

では、どうしたらよいのか、ということに関して嚮心塾では勉強計画ではなく、「勉強記録」をお薦めしています。日々の勉強の内容をその日のうちにメモしていき、どういったことに時間がかかったのか、どういったことはまだ復習しなければならないのか、そういったノートを継続的につけていくだけで勉強方法については非常に洗練されていくと思います。それを信頼できる指導者と共有しながら一緒に考えていけるのであれば、なおさらです。

さらにいえば、です。僕はこの仕事をして25年以上、嚮心塾を開いてからでも16年やっています。このような一人一人の学習全般についての相談は恐らく誰よりも受けてきたと思います。その僕であれ、面談→成績表→ちょっとしたヒアリング→志望校→「さて、これからやるといいよ!」と正確な学習計画を立てられるかと言えば、立てられません。というと、嚮心塾での指導全般の信用を失ってしまいますが、もちろん「まずはこれからやるほうがいい」という仮説を立てることくらいはできます。しかし、その勉強がその子に合っているのか、どういう部分ではさらに遡らなければならないのか、どういう部分では逆に先に進まなければならないのか、それらを踏まえて最初に選定した教材をやり続けることがかかる時間に対して学習効果が見込めるかどうか、などは実際に勉強しているときどういうところで困るか、どういったことに引っかかって質問をしてくるか、質問に対してこちらがどのレベルの説明をしたときにどういう反応があるか、など細かい情報を絶えず仕入れながら、修正していかざるをえません。これだけ長いことこの方法で教えていてもなお、初手から精密にフィットさせられる計画を立てられる自信はありません。やはりこれは、仮に指導者に神のような認識能力があったとしてもなお、学習者自身にしかわかっていない、いや、学習者自身にすらわかっていない認識のひっかかりが必ずあるからです。それほどに計画を立てるのは難しいことであると思います。

だからこそ、勉強法や勉強計画というのは上から押し付けて「これをやれば大丈夫!」ということは不可能です。指導者と学習者がともに絶えず相談しながら一緒に作っていくしかないものであるのです。もちろん、学習者は基本的に不安な状態からスタートするので、「こう進めていれば大丈夫!」的なアドバイスをプラセボ的に投与することが必要な段階も初期にはあります。しかし、そのままのスタンスでの指導を貫き続けるのは、学習者の不安につけ込んでは月謝だけ貰えればよい、という指導者でしかないでしょう(ちなみにこの「学習計画」が売りである塾ほどに、与えられた学習計画がフィットしないという生徒からの訴えに対して、他のプランを用意するコストがとても大きい、という問題点もあります。基本的にこうした基本的なプラン以外の代替プランを大学生講師などが立案することは難しく、その点でも「今のプランを信じて頑張ればきっと結果が出るから!」という慰めに力を入れられることになってしまいます。そこでは本当に「信じて頑張れば大丈夫」かどうかは吟味されることなく、これ以上指導にコストをかけないために既存の計画が強要されることになります)。

そして事実として、そのように指導者が「これをやっておけば大丈夫!」を押し付け、学習者がそれを盲信することで頑張る、という形式の学習スタイルでは、受からないのです。それは当たり前で、学習者がその定型的な学習をしていくときに感じる「内なる声」という違和感を押し殺しては学習することになってしまうからです。

ソクラテスやニーチェですら、その「否定の叫びを発する内なる声」には従ったわけですから、「とりあえずこれやっておくとよいよ!」という学習をさせられたときに学習者が感じる「これで勉強になってるのかな?」という違和感を押し殺させてでも「俺の指導方法や計画が正しい!」と学習者に押し付けられるのは、ソクラテスやニーチェ以上の賢人か、あるいは学習者の学習や受験の成功をあまり考えていない指導者なのではないでしょうか。前者が人類の中にそんなには存在しないことは確かであるとすると、結論はわかりやすいかと思います。(もちろんこれは、生徒の違和感が全て正しい、ということではありません。ただ、その違和感一つ一つには今必要な学習が何かについての重大なヒントが隠されている可能性が高い、ということに敬虔な態度をとれない指導者はあまり優秀ではないか、学習者の向上にはあまり関心がない、ということです)

さて、次は②!と書こうと思ったら、なんですか!この字数は!!
だいぶ雑駁に書いたつもりなのですが、それでもこの長さになるのに、もう自分でもドン引きです。
また続きは次回にまわしたいと思います。

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「学校」という名の宗教。

ご無沙汰をしてしまいました!あまりにもバタバタと忙しく…はいつも通りなのですが、今年は5月の時点で完成度の高い受験生を多く抱えているので、いわゆる微調整に丹念にかける時間がこの時期からかなり一人一人にかかっています。受験勉強というのも、勉強し始めはそれこそ方針とかなんか悩んでないで、とりあえず何でもいいからどんどん勉強していけばしていくほどに力が付きます。それは当たり前で「未開の荒野」が目の前にあるからこそ、とりあえず片っ端から耕していけば実力がつくわけです。ただ、勉強が進めば進むほどに、どのように何を勉強していくか、がとても難しくなります。「今までにこれをやって力がついたから!」というものを墨守していけばよいのか、それともそれを繰り返してももうその方向のトレーニングはsaturateしてしまっているので、また別のものをやるべきなのか、を考えることはとても難しくなり、まさにそこにこそ教師の腕が問われます。そのような微調整にこの5月から入れている受験生が多い、というのはありがたいことです。

さて、塾をやっていていつも感じるのは生徒の「真面目さ」です。これはつまり、学校の先生の言うことを皆かなり真面目に聞き、その指示をしっかりと守ろうとし、そして出された宿題は他の勉強よりも最優先でこなそうとする、ということです。

これは一見美徳に見えますし、ご家庭でもそれをまずは優先していればよい、という教育方針のおうちも多いのですが、実際にはそこで出される課題が的外れであったり、とてつもない労力と時間を生徒に供出させながらも、何も力のつかないものであったり、というケースがとても多いのです。このような場合、真面目に先生の言うことを聞いて、写経のような宿題をひたすらこなしたり、自分が手も足も出ないような問題集の解答をひたすら写す、ということに彼らの勉強時間は費やされます。そこから、「じゃあ受験に向けて勉強頑張ろう!」なんて余力がある子の方が珍しく、結局彼らの勉強時間は一切頭を使わない「作業時間」で終わります。それをいくら続けても、忠誠心を問うような定期試験であればなんとかなったとしても、受験では確実に通用しません。

ですから、塾でまず初めに一人一人の生徒に徹底するのは「学校の先生の言うことを信じるな。」ということです。もちろんここで「僕の言うことを信じろ!」となってしまうと、インチキカリスマ講師っぽくなってしまいます。そうではなく、その勉強が自分にとってどのように役に立っているのかを常にチェックしては考える習慣をつけていってもらえるように塾では工夫をしています。たとえば僕が勉強法について指導するとき、「こうした方がいい!」ということを伝えて強制するだけではなく、「なぜこうした方がいいか、わかる?」という問いを必ずはさんでいきます。そのような問いに対して考えていくこと、答えようとしていくことが、自分自身にとってどのような勉強が必要であるのかを考える習慣をつけ、そしてやがては自分から「この科目についてこういうところが自分は弱いから、こういう勉強をした方がいいかと思うんだけど、先生どう思う?」というように提案ができるようになっていきます。そのようになって初めて、受かる受験生になっていきます。逆に言えば、僕の「この科目はこうした方がいい!」だけを聞いているだけでは、学校の先生のアホな宿題やアホな勉強法の指示に従っているときと大して内実は変わらない、ということになってしまいます。ただ学校の先生よりは僕のほうが受験のことをよく知っている指導者である、というだけで、自分で考える力がないのであれば、そのような受験は無意味ですらあります。

もちろん教える側の人間は「とりあえずフォーカスゴールドのここからここまで全部解いてきて!(解けるわけないので、答えを写すことになります)」とか「とりあえずNextageやVintageを繰り返し解いてれば英文法は大丈夫だから!(理解もしないで覚えるだけになるので、当然そんな勉強何の役にも立たずにすぐに忘れます)」のような、むちゃくちゃな指示をしないように、どのような勉強が今、目の前の子たちにとって必要なのかを絶えず考え抜き、必死に探し続けねばなりません。それは教える側が果たさなければならない義務です。(それにしてはどこの学校のどの先生も自分の指導がどのように効果を上げたかのフィードバックから反省を得ているとは思えないような、判で押したような勉強不足のアドバイスが多いのは残念ですが)

しかし、一方でどのように考え抜き、勉強を続けたとしてもなお、その受験生にとってどのような勉強が必要であるのかを教える側が見抜いてはアドバイスすることはとても難しいことです。そのことだけを考えて必死に頭を働かせている僕ですら、驚くようなことが実はその受験生に抜けていて、そこを気づかずに勉強を進めさせてしまう、ということの苦い失敗の繰り返しを日々しています。それはまた、一人一人の受験生の思考回路や精神構造の内実を他者からは完璧には把握しきれない、ということの限界でもあるのだと思います。

もちろんその限界に教える側はチャレンジし続けなければならないわけですが、それ以上に大切なのは、自分に何が必要なのかを探し、考え続ける受験生へと鍛えていくことであると思っています。その姿勢を身につければつけるほどに「自分ではこういうところ、テキトーになってるんだけど、これで大丈夫かな?」という愁訴を受験生の方から小さなことでも相談してくれるようになります。そのように自分の勉強の仕方を疑い、学校の先生の指導を疑い、最終的には僕の指導をも疑えるようになった受験生はとても心強く、そして実際に合格していきます。


こうした教育のプロセスはまた、単に受験の成功のために必要というだけではなく、自分の人生を理不尽なものへと殉じさせないために大切なことであると思っています。たとえば、日本では企業内熟練があまりにも大部分を占め、企業間を横断する職務としての熟練が弱いことが転職ということのリスクを高め、一つの会社にしがみついていることが労働者にとっては一番合理的な行動である、というのが長らく日本の企業社会でした。このような社会では、自分の所属する組織に従い続けるために、その組織の持つ致命的な欠陥や不正に対しては、目をつぶるしかない、という行動様式を促進してしまいます。

学校もまた、そのように学校の中でしか通用しない「定期試験のための勉強」を強要してくるシステムです。それに殉じては、結局自分の人生が行き詰まってしまったときに「真面目に言う事聞いてたのに!話が違うじゃないか!」と後から抗議しても、それを学校の先生達が責任を取れるわけではありません。もちろんそのlocalでしか通用しない「熟練」が内申点や推薦制度で何とか面目を保てたとしても、結局は実力がないことを学歴で粉飾する人生にならざるをえなくなります。それはやはり、不幸ではないでしょうか。

そして、そのようにlocalな力しかもてない場合には、自分の所属する組織にしがみつくしかなくなり、それはまたその式が前提とする様々な不正や暴力に対しては、批判をすることが不可能になります。卒塾生たちにどのような大人になってほしいのか、勝手ながらこちらの願いや思いを込めるのであれば、「各界で活躍する」とか「有名になる」とかではなく、僕はやはり自分の心に嘘をつかずに生きられるような大人になってほしい、と思います。そして、そのためには、localではない力が必要になります。それを「学力」と呼ぶのか、「人間力」と呼ぶのか、はたまた他の言葉で呼ぶのかはどうでもよいのですが、少なくとも学校の先生の言葉も僕の言葉も疑い、吟味しては考え抜く力をつけていけることは、必ずそのようなuniversalな力になると思っています。

付け加えれば、学校の先生方には、まずは宗教のようにあなた方の言葉を信じている子たちの信頼をせめて裏切らないように、何が目の前の生徒の勉強に必要なのかを必死に悩んでいただきたい、と思っています。「この問題集をやっておけば難関校と同じものだから親からクレーム来ない!」とか「入試問題さえ解かせていれば、『入試対策きちんとしてる!』ということで生徒からクレームこない!」ということばかりを気にするのではなく、ですね。(こう考えてみると、学校の先生方だけでなく、親御さんやあるいは半可通の中高生のリクエストにも大きな問題があるとは思います。ただ、これに関しては先生、親、生徒の三者三様の思考停止の産物でそのような無意味な指導が温存されている、とも思っています。「難しい学校でやっている教材をやれば自分たちも実力がつく!不安にならない!」という自己満足のために、多くの努力と時間が浪費されていると思います。まずはそこから生徒自身が脱していくことが大切ですね。)

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内申点の暴力性について、再び。

中学の定期試験が終わり、高校受験の内申点がそろそろ決まる頃です。良かった子は良いとして、仮内申が発表されて、それで思ったよりも取れていなかったとしても、落ち込むことはありません。大切なのはここからの勉強であり、入試でしっかりと点数を取ることです。そのためにここからできることは山程あります。そこに向けて集中していくことが何より大切です。

しかし、高校受験に関われば関わるほどに高校受験での中学の先生のつける「内申点」の不透明さには辟易します。テストの点数が良くても「授業態度」「意欲」「関心」などを中学の先生が主観的につけ、90点オーバーの点数を取っていたとしても、それらの不透明な要素で5段階で3にされる、ということもざらにあります。塾でも毎年毎年中3生がこの内申点で理不尽な成績をつけられ、苦しんでいます。本当に良くない制度であると思っています。

「テストの点数が良くたって、授業中寝てたら成績悪くなるの当たり前でしょ!」という反論も先生側からはあるのでしょうが、なぜ授業中寝るのか、ですよね。たとえば授業がつまらない(「つまらない」には既習分野でわかっているから、もあれば、担当の先生の努力不足もあるでしょう)から寝てしまうとして、それを「つまらないけど内申点が悪くなるから起きて聞こう!」という姿勢を中3の子に強要するのは、端的に言って奴隷を再生産する制度でしかないと思います。おかしなこと、つまらないことであろうと、それに従わなければ自分が不利益を被るということを15歳の子たちに叩き込むような社会に未来などあるのでしょうか。。強く疑問に思っています(中には「授業中に手を上げた回数」で評価が決まる、などという例もあります。。こんなの、本末転倒も甚だしいですよね。。)。

もちろん学校の先生としては自分の目に映る姿がその子のすべてになりがちです。自分の授業中ずっと寝ている子がいるとしたら、その子はその先生にとっては「落第」なのでしょう。しかし、同時に教師が想像力を働かせなければならないのは、自分の目に映るその子が、決してその子の全てではない、という事実についてです。いつも自分の授業で寝ている子は、夜は必死に塾で勉強しているのかもしれません。あるいは家の事情でアルバイトや家の手伝いに明け暮れているかもしれません。その必死の努力故に、授業で眠ってしまうものの、しかし勉強はなんとか頑張って、定期試験ではしっかり高得点をキープしても「授業態度」故に内申点を低くつけられ、そのせいで行きたい高校にいけなくなるのだとしたら…。その子達は夢も希望もなくしてしまうのではないでしょうか。そのように15歳の子の人生を左右する権力を教師が握っている、ということに対して、もっと中学の先生方には恐ろしさを感じていただいた上で、基準をreasonableなものに明確化していくことを徹底していただきたいと思います。それをしていないせいで、苦しんでいる中学3年生がどれだけいるのか。。塾で教えているだけでも毎年、本当に理不尽なケースに出会います。このような理不尽な内申点の付け方によって、優秀であるのに公立高校を受けられなくなってしまう子もいるのです。仮に私立に受かったとしても、そのような暴力によって、子どもたちの心は本当に傷つき、そこから回復するのが難しくなってしまうケースすらあります。

明示されてるとしてもreasonableではない基準を生徒をコントロールするための道具に用いているのも問題ですが、そもそも基準が明示されない、というのはさらに大きな問題です。しかし、このような例も内申点の付け方には多々あると思っています。そして、基準が明示されないままに評価をつけられる、というのは、簡単に言えばカルトとか、社長がワンマンのブラック企業とかに似ていると思っています。どのような基準で自分が評価を上げられたり下げられたりがわからない環境に置かれ続けるとき、人間は思考を停止してひたすらに「上」の人の機嫌を伺い続けます。そしてそのように「上」の人の機嫌を伺い続ける内部の人々は何が基準かがわからなければわからないほどに、身も心も捧げ尽くすようになるのです。そしてそれを「自発的にそうしている」と自分で思い込み、それができない人々を排斥するようになります。そのような「地獄」を中3の子たちに味わわせていて良いのでしょうか。(こう書くと、「東京の内申点制度はまだ緩い!」とか「他の地域は3年間それが続く!」ということも言われるのでしょうが、どちらにせよこのように曖昧な基準に従い続けなければ自分が不利益を被るという「地獄」です。一方の地獄が別の地獄よりはまだマシということで正当化できるものではありません。ペーパーテストだけである方が、よほど自由であると思います。また、「それは勉強のできる子の意見だ!」ということも言われるのでしょうが、勉強ができない子が先生に盲従することで内申点で下駄を履かせてもらったとして、それは果たしてどこまでその後の社会においてその戦略で生きていけると言えるのでしょうか。それはlocalには最適の生存戦略だとしても、その後決して通用しなくなるのではないでしょうか。もちろん、日本社会全体を「上意」を理不尽でも踏まえることにひたすら特化した人々が出世していく社会にしていくことは可能です。あるいは、既に政府であれ会社であれ、そうなっている部分もあるのでしょう。しかし、そのような社会はたとえばこの新型コロナのような外部からの難題については、取り組む力を完全に失った社会になってしまうのだと思います。)

中学校での内申制度をこのようにたとえるのは不穏当と思われるかもしれませんが、それぐらいにひどい事実に毎年ぶつかる、ということにこちらもまた愕然としている次第です。まず、人間が人間を主観的に評価する、ということにはどのような天才が評価者になろうとも必ず限界がある、という事実を直視すべきです。その上で、中学校の先生方には自身の主観的「評価」のせいで、15歳の子たちの人生が大きく変わってしまう、という事実に対してもっと恐れを抱いていただきたいと思っています(ここまで書いてきましたが、もちろんこれは「中学の先生が個人的にひどい!」ということだけではありません(中にはそういうケースもありますが)。たとえば僕がこのように「主観的評価を(成績以外で)しろ!」と同じ要求をされたら、やはり何らかの基準を作ってそれを明示したとしても、それが誰かにとっては暴力的な評価になってしまうことも当然起こりえます。それほどに、主観的評価というのは難しいもので、どうしても教師の「好き嫌い」にすぎないものが評価基準の中に混入してきてしまいます(これは医学部入試の面接試験もそうですよね)。それぐらいに、人間が人間を評価する、というのは極めて難しい。だからこそ点数だけで決めることが一番フェアである、と考えています。)。

その上で、理不尽な内申点が出て、それに絶望している中3の子たちに。
こんな腐った制度のせいで、君の人生が狭められていくことが本当に申し訳ないですが、それでも君を受け入れてくれ、君の頑張りを認めてくれる高校は必ずどこかにあります。近くになかったら、通信制の高校や高卒認定試験で大学受験をにらんで勉強してもよいです(何なら、そっちのほうが勉強も進みます!)。勝負は大学受験です。君の人生を中学教師の恣意的な判断で左右させないことが、一番の復讐です。ぜひ、生き抜いてください。力になれることがあれば、何でも言ってもらえたら。

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「社会のリーダーとなる人材」など育てたくない。

教育に携わろうとする動機、というのは各々の方にあるでしょうし、それらはどれも素晴らしいとは思うのですが、「僕とは違うな。。」と感じるものも多々あります。その代表例といえば、「次世代の社会のリーダーとなる人材を育てたい!」という動機です。

もちろん、この思いを抱いて教えておられる先生方はとても熱心な先生が多いのだと思いますし、僕のこの違和感も、その熱意を素直には持ちにくかったり表明したくなかったりする僕自身の妬み嫉みの現れ!と思っていただいてもよいとは思います。ただ一方で、このような「次世代の社会のリーダーを育てたい!」という思いというのは非常に暴力的な面もあるとも思っています。

たとえばこうした理念の具体例として「学校の成績が良い」とか「部活を必死にやって成果を出している」とか「生徒会や委員会活動を一生懸命やっている」というのも、そういった子たちが成長して「社会のリーダー」になったとしてもそれは、既存の社会の問題点を踏襲した社会の再生産になるのではないかな、と思います。それは新たな活力ある社会を作るどころか、非常に抑圧的で、(各々のバックグラウンドへの配慮もないままに)「頑張らない奴は死ね!」的な今の社会をさらに徹底したディストピアになってしまうのではないかと思います。

これには僕自身の反省もあります。僕は中高生と、まあなんでもやる、そのような「リーダー的人材」でした。それは学校社会の中においてもまた、評価されやすい楽な道であったからです。しかし、一方で高校のクラスメートのほとんどが熱心に取り組む運動会のようなイベントに、非協力的であり決して参加しようとしないクラスメートもいたわけで、そのようなマイノリティの子は、流されるままに学校行事に「活動的」であった我々よりもはるかに深く考え、自分の有り様をしっかりと探していたと思います。そのような「はみ出しもの」を糾弾するような視野の狭さは当然「リーダー」側にはあるわけで…。その頃の愚かしい自分が偏狭な正義感から何を踏みにじろうとしていたのか、については今思い返しても本当に恐ろしい限りであり、苦い反省しかありません。逆に言えば、50人のクラスで49人が熱心に取り組む行事に、たった一人で不参加を貫いた彼がいたからこそ、大多数の「熱心な」僕たちは、「何が正しいのか」を疑うきっかけをつくってもらえていた、とも言えるのだと思います。

結局、学校社会が既存の社会全体のカーボンコピーである以上、学校社会の中で「リーダーシップをとる」ことや「意欲的に勉強や部活に取り組む」ということは既存の社会の再生産以上の可能性をもちえません。そして、それに違和感を唱える人間は排除するか無視する、というようになってしまうのでしょう。だからこそ、そのような「優等生」達が社会のリーダーになればなるほどに、この社会はどんどんひどい方向に転がっていくでしょうし、そのような教育に加担する教育者にとっては「俺があの国会議員を育てた!」とか自らのプライドを満たす以外の目的を、実は何も見いだせていない状態ではないかと思うのです。なぜなら「社会のリーダーとなる人材」を輩出することを目的とすれば、自分たちが輩出する人材がリーダーとなれるような社会こそが「よい社会」と思えてきてしまうからです。それは教育者の代償行為でしかなく、厳に慎まなければなりません。

教育という行為にもし価値があるのだとすれば、それは既存の社会の欠点を直視し、疑いをもつ力を一人一人に鍛えていくことであると思っています。既存の社会が前提としている暴力を丸呑みにして自分たちも加害者になることで受益者の方へと入るのではなく、別の道を選びつつも自分がどのように頑張って行きていくのかの道筋をつけていく実力を鍛えていけるかもしれない、ということが教育の効用であるのかもしれません。そして、その観点で言えば、どちらかといえば学校社会では「落ちこぼれ」「はみ出しもの」として扱われている子たちにこそ新たな社会を作る可能性があるのであり、「優等生」にはあまり新たな社会を作る可能性はないのではないでしょうか。

もちろん、「学力一発勝負」である入試があるからこそ、このような「落ちこぼれ」「はみ出しもの」にも逆転のチャンスがあったわけです。内申点や学校の成績が入試を代替していけばいくほどに、テンプレ的な「社会のリーダーとなる人材」ばかりが評価されて大学名でゲタをはかされるようになってしまいます。やはりそのような入試改革は、社会の多様性を破壊し、いずれ滅びるしかないように思います。

僕が卒塾生に望むのは、自身がこの既存の社会から落ちこぼれる必要もわざとはみ出る必要はない(なにせ、みんな僕より年収高くなってますから!!)ので、しかし、そこから自分が落ちこぼれたりはみ出たりしていないのは、自分の努力だけが要因ではなく、様々な恵まれたバックグラウンドがあったからであるという正しい事実を理解した上で、自分がその事実とどのように向き合い、折り合いをつけていくかに絶えず悩み続けてもらうことです。そして、そのように悩み続けながらも生きていく力をつけることは、実は「リーダー」になるよりも、はるかに高い力をつけていかねばならないことでもある、と思っています。それはまた、僕自身も同じです。そのことに悩み続けなくなったり、悩み続けては生きていくための力をつけようと努力することをやめるのであれば、この仕事を続けてはならないと思っています。

はみ出しもの、落ちこぼれにこそ新たな社会を準備する可能性があります。そのように生きられてはいない私達は、少なくともそのようには生きられていない、既存の社会の中である程度「評価できてしまう」程度の仕事しかできていないことに、気恥ずかしさと疑いを感じた上で、何をしていくべきかを探求していかねばならない、と考えています。だからこそ、「リーダー」を育成することにも疑いをもってほしい、と教育に携わる方々には願っています。

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「教育」に可能なこととしての分節化トレーニングについて。

これだけ長いこと一人一人の生徒たちの認識の仕方と向き合っては教え続けていると、いわゆる「努力をしても勉強ができるようにならない。」というよく見受けられる事態がどのように起きてくるのかについてはだいぶ見えてきていると思っています。もちろん、原因は見えているとしても、それをどのように改善するかについては、それぞれの子たちの習慣や考え方そのものを変えていかねばならないからこそ難しいのですが。どのようにして、「努力をしても、勉強ができるようにならない」という状態が生まれるのかを少しまとめていきたいと思います。

①言葉の定義があやふや。
学習の基本は言葉です。言葉の定義があやふやなまま、読むことも解くこともすべて、「なんとなくこんな感じ」という慣れでパターン認識をするしかなくなります。これはすべての教科に言えることで、言葉の定義があやふやなままに教科書を読んでも何も力が付きません。ましてや、言葉の意味があやふやなまま、問題を解くなんて!時間の無駄でしかありません。わからない言葉は一つ一つ調べたり、調べてもわからなかったら聞いたりしながら、固めていくことが大切です。

ただ、どうしても最近は学校も塾も大量に宿題を出してはそれをこなさせる、という傾向が強いことも、この「言葉の定義があやふや」なまま、子どもたちが学習を進めることを助長してしまい(だって、そんなこといちいち調べてる時間がないくらい宿題が出るわけですから)、ますます力がつかなくなってしまっていると思います。もちろん、わけのわからないままに問題を解くような勉強が楽しいわけも力がつくわけもありません。このようにして、大量の宿題を出す学校や塾はそれに既に適応できるごく僅かな子たちにとってのみ意味のあるものとなり、残りの大多数の子にとっては勉強を嫌いにさせてしまっているのだと思います。

②文法があやふや。
国文法や英文法など文法があやふやな子、というのはそもそもどのような文章も、単語の並びとしか認識できていません。幼児の二語文、三語文レベルの認識のままである小学生や中学生(中には高校生も!)がどれだけ多いか、については、驚くレベルです(もちろんこれは話し言葉が二語文である、という意味ではありません。書かれた文章をその子が認識するときに、そのように重要な単語だけを拾って繋げただけの認識でしかない、といいうことです。)。

たとえば、「AがBにCする。」という文があるとしても、A、B、Cという要素の情報しか拾えないため、「BがAにCする。」という誤った選択肢の間違いに気づけない、ということがあります。端的に言えば日本語の助詞、英語の前置詞への意識が弱く、そしてどちらの言語においても品詞の識別意識が極めて弱い、といえるでしょうか。もちろんこの論理関係の識別ができないことは問題を解く際の選択肢の識別だけではなく、そもそも問題文の理解、あるいは普段の勉強においても大きくマイナスに響いてきます。このような子たちにはまずは日本語の助詞の違いを教えることから徹底しなければなりません。(余談ですが「英語を教える際に文構造を重視することはおそらくほとんどの英語の授業でなされているわけで、それなのにどうしてこんなに中高生は文構造がとれないのだろう?」というのは長年の疑問だったのですが、ほとんどの中高生は品詞分解が全くできない!ということに気づき、それを徹底させるようにしてから、だいぶどのような子でも英語の力がつくようになりました。)

また、文法の勉強といっても enjoyは後ろがdoing!みたいなことは必死に覚えているのに、そのdoingが動名詞なのか現在分詞なのかがよくわかっていなかったり、to 不定詞が入っている熟語は山程覚えているのに、to不定詞の三用法(名詞・形容詞・副詞)や副詞的用法の意味の類型(目的・原因/理由・結果)がぱっとでてこない、といった状態もこの文法ができていないことにあたります。

結局、人間が何かを理解する際には言葉で弁別をせざるをえない以上、こうした「文法用語」の意味を理解し、分類をおさえていくことは、自らの中に分析的に見る目、分節していく目を鍛えていくことになります。逆に言えば、これらを覚えないで英文を理解しようとすることの方がはるかに難しく、おそらく相当immersion(英語環境にどっぷり没入)しないと難しいのです。

といったことを英語を例に出して話しましたが、これは数学でも国語でも理科や社会でも同じです。まずは言葉の定義のあやふやさを潰していくこと、次にそのような分類を頭の中に作っては分析的に見ていく目を鍛えていくこと、ということがどの教科であっても必要です。それらのプロセスができていない子は一つ一つを個別の知識として覚えるしかない、あるいは何となく解いて経験則でパターンを理解するしかない、という状態なわけで、それは当然勉強量や時間が多かったとしても、力がつきません。(逆に言えば、このような「用語の定義やその連関を理解し、自分の頭の中に分析のためのツールとしての選択肢を作っていく」という学習プロセスは最初のハードルは高いのですが、必ず力がついていきます。それに対して「何となく解いているうちに慣れる」「何となく読んでるうちに慣れる」という方法は、そこから自分なりの方法論を導き出せるような「天才」にしか、できない勉強方法です。そして、勉強が苦手な子ほど、この自分で方法論を編み出さねばならない「天才の勉強法」をしているという…。だからこそ、力がつかないままに終わっていきます。)

さて、上に書いたことを意識し、徹底していけば、どんな子でも必ず勉強の力がつく!!という事実を僕は確信していますが、しかし現実にそれができているかといえば、無力感ばかりを感じる毎日でもあります。

なぜなら、このような正しい勉強法、というのは惰性で勉強をしている子たちにとっては「とてもめんどくさい」ものであるからです。そもそも、ほとんどの子たちは、勉強ができるようになりたい、とはあまり思っていません。親がうるさいから、教師がうるさいから、という外からの動機でなんとなく勉強に取り組んでいるだけの子たちにとって、このような「正しい」勉強法はまず入り口の時点でハードルが高い(日常会話では使わないような言葉を覚えていかねばならない)のです。

また、親御さんも「勉強しなさい!」とはよく言いますが、「勉強の力をつけなさい!」とは言いません。ほとんどの子どもたち(小学生はもちろん、中高生ですら)にとっては「親がうるさいから勉強する」というレベルから脱している子の方がむしろ少ないのですから、「勉強していれば文句は言われない」と思うわけです。その勉強方法が間違っていて力がつかなかったとしても、親御さんは子どもたちを否定しないで、むしろ「頑張ってるのにかわいそうに。。」と慰めてくれさえするわけですから、彼らが「勉強の方法をめんどくさい方法に変えてでも力をつけよう!」とは思うわけがありません。

もちろん、受験はそのようなぬるま湯につかることを許しません。どのように「勉強時間はたくさんとっている」と言い訳しようと、実力がなければ落ちるのが入試です。あるいは、長い人生全般を見れば、なおさら実力がシビアに響いてくることもよくわかるでしょう。しかし、そのように自らの人生を見つめる目を子どもたちはもてていないことがほとんどである以上、教える側としては、「正しい方法」を教えるだけでは圧倒的に不十分で、「なぜ正しい方法で自分の力を向上させていかねばならないのか」までを理解していってもらう必要があります。長いこと教えて、あれこれできるようにはなったとは思っているのですが、これが本当に難しいと感じています。

つまり、教育には「勉強の正しい方法を教える」だけではなく、生徒の一人一人に、自分の人生と向きあい直視してもらっては、どのように生きるべきかを考えてもらう、というプロセスが必要である、ということでもあります。もちろん、(それが根本的な問いからではなく、おそらく世俗での成功のための打算からではあっても)それらの準備がなされている小中高生もいます。その子達にはただ「正しい方法」を教えるだけでよいのでしょう。そしてそれはある意味、とても楽な仕事です。ただ一方で、それは「正しい方法」を自身の願望として求めている子たちにそれを提供している、というだけであるのであれば、あまり大した「仕事」ができていないとも言えるのだと思います(もちろん、間違った方向性を教えるよりは意味のあることですが!)。彼ら彼女らは最短ルートをこちらが示さなくても、ある程度の成功ができるであろうからです。

一方で、そのように外側からの動機しかなかった子たちが、自身の内側からの動機を持てるようになって努力をするようになり、そうなれば当然「正しい方法」にも関心をもっては自分から方法を追い求めては努力するようになるとき、僕は教育の可能性を感じます。もちろん、どのような子に対してもそれを(やろうとしているとはいえ)できてはいないというこの状況は非常に情けないものではあるのですが、何とか諦めずに取り組んでいきたいと思います。

分析的に見る力を鍛えていくことは、受験勉強だけでなく、自身の人生を肥大化した自意識のまどろみのうちに終わらせる、という責任放棄を一人一人に許さないことにもなっていく、とも信じて、ですね。

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してほしい教育と必要な教育の違いについて。

感染者数だけでなく陽性率はむしろ現在のほうが4月よりもはるかにまずい状態ではあるわけですが、緊急事態宣言が出されないままであるので、塾への体験入塾の問い合わせは多いところです。

嚮心塾の体験入塾はちょっと変わっていて、こちらは体験入塾であったとしても、あまり「良い顔」をしません。知的好奇心を刺激するような素晴らしい教え方!的なものがないままに、その子のレベルに合わせて入塾したら進めるであろう教材を進めていき、その中で必要なことだけを教えます。それで通いたいと思ってくれれば通ってくれれば良いですし、もっと面白い授業のあるところに行きたい、と思うのであれば通ってもらわなくてよい、と思っています。結局勉強をしていくのは受験生本人である以上、どれだけ自分自身で自学自習をしたかこそがその受験生の学力を作るものです。そのやり方をどこまでも改善していくことにはこちらでいくらでも力を貸していくとして、「おもしろい!」というエンターテイメント性を求めているのであれば、予備校に行ってお客さんとして楽しませてもらえばよいでしょう。

というのが基本的なスタンスとはしているのですが、それはたとえばそもそも勉強に取り組む意欲のない子たちを排除してしまうことにもなってしまうかもしれません。そこには常に悩みながら教えています。

ただ、一つだけ譲れないのは「こういうことをしてほしい!」という生徒のリクエストに答えることはあまり意味がないと考えているということです。なぜなら、その子にとって本当に必要なものを、その子自身が理解できているわけがない、と思っているからです。もちろん、これもピンキリで、今までにさんざん悩んできたからこそ自分にとって必要なものを必死に探してきていて、自分に必要なものを求めているという状態に近づいている受験生、というのはたしかにいます。しかし、これは非常にレアケースでして、ほとんどの子たちは自分に必要なものと自分が求めているものとに乖離があるからこそ、勉強ができないことに悩んでいるケースが多いと思っています。

それに対してこちらでできることは、「君の今の状態なら、これが必要だと思うよ!」という提案でしかありません。もちろん、それを生徒の機嫌をとっておきながら、徐々に求められていることの中に必要なものを混ぜていく、というようなやり方もすることもあるのですが、一方でわざと「これが必要だと思うよ!」しか体験授業ではやらない場合もあります。

こちらは、その子が「自分の感じる違和感」に対して疑いをもつことができるか、という部分を観察しながらその微調整をしています。その子が求めているものではないものを提示したときに、そこで「なるほど。こういう提案をされて、これはあまり今まで考えたことがなかったけれども、これもありだな。」と思えるのか、それとも「こんなの、ないわー。」と拒絶するだけで終わるのか、ですね。その子の精神の柔軟性を見極めながら、こちらとしては少しずつ押し広げていこうとするとしても、やはり根本に自らの感覚を疑う姿勢がないのであれば、一緒にやっていくことはできません。

ただ、この「精神の柔軟性」は一方では資質によるとも思うのですが、それよりはむしろ環境というか、要は「自分がこのままでは通用しない!」という危機感があるかないかが結局精神の柔軟性を準備するのでは、と思っています。危機感のない子は、非常に頑なであることが多いです。そのように世界を狭めては、うまくいかないままになってしまうことになるのでしょう。

そのような子たちに対して、こちらがどのように手を差し伸べることができるのか。一方で、嘘をついてまで塾に通ってもらってはその頑な精神を押し広げるチャンスを得たとしても、そのような不正な入り口を通っての出会いからの取り組みが結局自分の感覚を疑いえない子達に届きうるのか。そういった諸々を試行錯誤しながら、悩み続けていきたいと思います。

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