
二学期が始まり、いよいよ受験が近づいてきます。また、この秋は受験生にとって志望校を決定するために模試を受験していく季節です。その意味でもまた、一段とギアの上がった受験生を前にして、忙しい毎日を送っております。
一方で、嚮心塾では、受験学年ではない塾生の子達が、そのような雰囲気の塾に足を運んで、日々の勉強をしているわけです。このように必死になって実際に受験勉強に取り組む受験生を下の学年の子達が見られるということが何よりも、塾という場の存在意義として大切なことであると考えています。家や学校でも、「○○君はA大学に合格したんだよ。△△さんはB大学だって。二人ともすごいね!」という話を知り合いや先輩、友達に対してすることはあるとしても、その年上の○○君や△△さんと、机を並べて真剣に勉強することはほとんどの場(学校・塾・家庭)では出来ないでしょう。そして、そのようにそれらの先輩が実際に努力する姿勢を見なければ、「だって、○○君や△△さんは頭いいし。僕とは違うよ。」と安易に片付けて決して自分は努力しようとは思わないお子さんが多いのではないでしょうか。
でも、「頭がいい」というだけで、受験勉強を乗り切れるのは、本当にごく一部の受験生です。自分がそのような受験生であることを期待するよりは、宝くじを買って一等が当たる方がまだ可能性は高いかもしれません。ほとんどの受験生は、たとえトップレベルであっても、必死に努力を重ね、自分が同じ間違いを繰り返すことに絶望しては何とかそのような間違いを二度と繰り返さないように覚え、出来る問題はより早く解けるように練習を重ね、出来ない問題については悩み抜く、という泥臭い毎日を送っているわけです。そのような毎日の中で、不安と戦い、疑問に思ったことは相談しては、乗り越えていこうとするその彼らの泥臭い姿を見られることは、下の学年の生徒達にとって、何よりもよい刺激になると思っています。
しかし、嚮心塾がこのような刺激のある環境だからこそ、勉強をしたくない非受験生にとっては居づらいところもあるのかもしれません。同級生の皆はまだまだ遊んでいるのに、なぜ自分だけ勉強しなければならないのかという甘えが、子供達に見られることが多いです。真剣に取り組む受験生の姿と、自分の属する学校の同級生とのぬるい日常とのギャップの大きさに、ついつい楽な方へと逃げたくなるのも、もちろんよくわかることです。
ただ、そのような「逃げ」が結果としてどのように長い間誰からも批判されないとしても、やがて自ら目覚めるしかなくなる時が必ず来ます。その一つの契機が、上の学校への進学を考える人々にとっては、受験であるのです。もちろん、あまり功利主義的に「将来のためには勉強しておいて損はない」などと考える小中高生も確かに、何か大切なものが欠落しているかもしれません。しかし、この受験というものがつきものの日本社会において、「学校歴」によって人間の価値が判断されるという不合理を批判していく態度は大切なことであるにせよ、しかし、そのような制度が存在するという事実に目を背けて、自分に都合のいい意見だけを聞いて友達と互いにさぼりあう、というのでは、やはりこの現実に対しての説得力ある生き方には成り得ていないと思います。
たいていの場合、非受験学年生のどのような日々の勉強も、受験学年生のそれと比べれば、質、量ともに比較にならないくらいレベルの低いものです。周りを見渡しては、「同学年の友達よりは自分は勉強しているし、成績もいい。」と安心して努力の手を休めているお子さんにこそ、嚮心塾は研鑽の場を提供できる、と考えております。もう、同級生と比べては安心する、という不毛なブレーキはやめましょう。それをやっているのは、たとえ学校で1位の成績であっても、楽な方に流れているだけです(受験とは、他の学校の人との競争であるわけですから。学校で1位など、学校の数だけいるわけですから。)。それよりも、自分の受験まであと何年何ヶ月かをしっかりと計算した上で、その中でどのように自己を鍛え抜いていくかに意識を集中して努力していくことが大切です。
周りより高いことも、周りより低いことも、気にすることなく、ただただ自分自身を今以上に鍛えていくことが大切です。たとえ世界一、いや宇宙一であっても、それが理由で自分の鍛錬を止めるような人間では、やはり大したことがないのです。そのような研鑽(けんさん)の場としての嚮心塾に、興味を持っていただけると本当にうれしいです。楽な方に流れたくなる自分の弱さを直視した上で、それを乗り越えられるように、ともに頑張っていきましょう。
2010年9月22日 嚮心塾塾長
一方で、嚮心塾では、受験学年ではない塾生の子達が、そのような雰囲気の塾に足を運んで、日々の勉強をしているわけです。このように必死になって実際に受験勉強に取り組む受験生を下の学年の子達が見られるということが何よりも、塾という場の存在意義として大切なことであると考えています。家や学校でも、「○○君はA大学に合格したんだよ。△△さんはB大学だって。二人ともすごいね!」という話を知り合いや先輩、友達に対してすることはあるとしても、その年上の○○君や△△さんと、机を並べて真剣に勉強することはほとんどの場(学校・塾・家庭)では出来ないでしょう。そして、そのようにそれらの先輩が実際に努力する姿勢を見なければ、「だって、○○君や△△さんは頭いいし。僕とは違うよ。」と安易に片付けて決して自分は努力しようとは思わないお子さんが多いのではないでしょうか。
でも、「頭がいい」というだけで、受験勉強を乗り切れるのは、本当にごく一部の受験生です。自分がそのような受験生であることを期待するよりは、宝くじを買って一等が当たる方がまだ可能性は高いかもしれません。ほとんどの受験生は、たとえトップレベルであっても、必死に努力を重ね、自分が同じ間違いを繰り返すことに絶望しては何とかそのような間違いを二度と繰り返さないように覚え、出来る問題はより早く解けるように練習を重ね、出来ない問題については悩み抜く、という泥臭い毎日を送っているわけです。そのような毎日の中で、不安と戦い、疑問に思ったことは相談しては、乗り越えていこうとするその彼らの泥臭い姿を見られることは、下の学年の生徒達にとって、何よりもよい刺激になると思っています。
しかし、嚮心塾がこのような刺激のある環境だからこそ、勉強をしたくない非受験生にとっては居づらいところもあるのかもしれません。同級生の皆はまだまだ遊んでいるのに、なぜ自分だけ勉強しなければならないのかという甘えが、子供達に見られることが多いです。真剣に取り組む受験生の姿と、自分の属する学校の同級生とのぬるい日常とのギャップの大きさに、ついつい楽な方へと逃げたくなるのも、もちろんよくわかることです。
ただ、そのような「逃げ」が結果としてどのように長い間誰からも批判されないとしても、やがて自ら目覚めるしかなくなる時が必ず来ます。その一つの契機が、上の学校への進学を考える人々にとっては、受験であるのです。もちろん、あまり功利主義的に「将来のためには勉強しておいて損はない」などと考える小中高生も確かに、何か大切なものが欠落しているかもしれません。しかし、この受験というものがつきものの日本社会において、「学校歴」によって人間の価値が判断されるという不合理を批判していく態度は大切なことであるにせよ、しかし、そのような制度が存在するという事実に目を背けて、自分に都合のいい意見だけを聞いて友達と互いにさぼりあう、というのでは、やはりこの現実に対しての説得力ある生き方には成り得ていないと思います。
たいていの場合、非受験学年生のどのような日々の勉強も、受験学年生のそれと比べれば、質、量ともに比較にならないくらいレベルの低いものです。周りを見渡しては、「同学年の友達よりは自分は勉強しているし、成績もいい。」と安心して努力の手を休めているお子さんにこそ、嚮心塾は研鑽の場を提供できる、と考えております。もう、同級生と比べては安心する、という不毛なブレーキはやめましょう。それをやっているのは、たとえ学校で1位の成績であっても、楽な方に流れているだけです(受験とは、他の学校の人との競争であるわけですから。学校で1位など、学校の数だけいるわけですから。)。それよりも、自分の受験まであと何年何ヶ月かをしっかりと計算した上で、その中でどのように自己を鍛え抜いていくかに意識を集中して努力していくことが大切です。
周りより高いことも、周りより低いことも、気にすることなく、ただただ自分自身を今以上に鍛えていくことが大切です。たとえ世界一、いや宇宙一であっても、それが理由で自分の鍛錬を止めるような人間では、やはり大したことがないのです。そのような研鑽(けんさん)の場としての嚮心塾に、興味を持っていただけると本当にうれしいです。楽な方に流れたくなる自分の弱さを直視した上で、それを乗り越えられるように、ともに頑張っていきましょう。
2010年9月22日 嚮心塾塾長



