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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

嚮心塾開塾10周年記念!ボツになったキャッチフレーズシリーズその1

嚮心塾も塾を開いてからもうすぐ10周年になります。
そこで!今回からは特別に、塾をひらくときに考えていたけれど、結局使わなかった塾のキャッチフレーズをいくつか書いていきたいと思います。

今回は最初に考えて気に入っていたこの言葉です。

「嚮心塾は、あなたたちのα(アルファ)であり、ω(オメガ)でありたい。」

もちろん、元ネタは新約聖書でのイエスの「私はあなたたちのαであり、ωである」ですよね!
この意味を勝手に解釈すると「私はあなたたちにとって、信仰や真理の探究のはじめのきっかけとなる(つまりこれが「アルファ」)だけでなく、あなたたちが信仰や真理の探究を長く続けていく人生の中で最後に辿り着く終着点(これが「オメガ」)でもある。」という意味でしょう。

嚮心塾も生徒たちにとって、そういう存在でありたい!何かについて真剣に考えたり努力をしたり、という初めてのきっかけであるというところから生徒一人一人が真剣に努力を重ねて生きていく中で、もっと年を取っていったときに「あ、やっぱりあのおっさんの言ってたことは結構正しかったな。」と思ってもらえるような塾でありたい!という思いを込めて、このキャッチフレーズを考えたのですが、また、その後の経過を見てもそれこそ東大や医学部受験(「オメガ」)から、勉強自体が手につかない子の指導(「アルファ」)まで、嚮心塾の別の側面も表していて、なかなか良いと思うのですが、いかんせん、ちょっとこれをキャッチフレーズにする勇気は僕にはありませんでした。
塾がつぶれるかどうかも不安ですが、そもそも始めるにあたってパクリの言葉ってどうなの、というのもありますし、何より「嚮心塾」という感じの並びがそもそも怪しいのに、さらにこんな怪しいキャッチフレーズとか、もう、ちょっとお腹いっぱいすぎる感じです。

ということで、このキャッチフレーズ自体は使わなかったですし、こうやって書いてしまった以上今後もおそらく使いませんが、この思いというのはたえず僕の中で持ち続けてきたものです。

僕は生徒たちに、僕や塾のことなど軽く打ち捨てて次のステップへと進んでもらえればよいです。そもそも受験産業に関わる人間などそれが宿命ですし、それが嫌だからといってカリスマぶる先生もいるでしょうが、僕はそういう努力は感情的にはわかるものの、まあ無意味なことだと思います。たとえば、僕が卒塾生に「大学行ったり、就職したり、いろいろな大人と話してきましたが、やっぱり柳原先生以上のすごい人はいませんでした!」と言ってもらえるとして、その僕のすごさが(仮にあるとして)、その子にその時点で伝わるようでは僕はそれほどすごくない、ということでもあります。まあせいぜい、γ(ガンマ)かδ(デルタ)くらいでしかない、ということであるのです。

僕にとって僕の師匠は、自分がもがき苦しみ、その中で工夫を重ねれば重ねるほどにその師匠の苦闘の意味がよくわかってくる存在です。あるいは本によってその足跡を感じる先人たちもまた、同じです。そのような人たちのすごさを僕が勝手に「わかった!」などと言えば、何をわかったのか怪しいものでしょう。そのように決して容易には分かり得ないような実在に、自分もなっていけるようにもっと努力を重ねていきたいと思います。

他者に評価されなければこの市場経済の中では生きていけないにもかかわらず、他者から短いスパンで評価できるレベルのものは、あまりたいしたものではない、というこの矛盾こそが若い時の僕が悩んでいた問題であるのですが、その両立を目指してやっていくというその困難な試みがとりあえず10年はもった、ということを改めて感謝するとともに、「塾自体、すなわち僕自身が所詮ガンマかデルタくらいでしかないから10年もってしまった。歴史に残るような場を作りたければもっと先鋭的にならなければ!」という反省も込めて、もっともっと精進していきたいと思います(つぶれそうになったら、だれか止めてください!)。
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コメント


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柳原先生

ご無沙汰しております。野村です。

大学に入ってから良くも悪くも色々な経験が出来、本当に「あ、やっぱりあのおっさん(すみません)が言ってたことは正しかったな。」と思うことが多いです。

聞こえなくて良かった、などと言うつもりは毛頭ありませんが、聞こえなくなったことによる効用を一つ挙げるすれば、世の中の理不尽と絶えず向き合えることでしょうか。
その理不尽に対して「まあいちいち抗うのも無駄だ」と知らんぷりする態度が知らず知らず身に付いていた僕ですが、似た境遇の様々な友人と関わるにつれ、そのような態度では自分も周りも成長しないと気付かされました。
それ以来、理不尽にぶつかっていく経験を積む度に、先生のおっしゃっていたことへの理解が少しずつ自分の中で深まっている気がします。

先生のお話を振り返りながら、これからも悩み抜き、考え抜くことを怠らずにいたいと思います。

野村 | URL | 2015-04-23(Thu)18:33 [編集]


Re: タイトルなし

野村君

ご無沙汰しています。コメントありがとうございます。
マイノリティとして生きることで、世の中の理不尽さとぶつかっていかざるを得なくなります。
それは非常に困難を伴うことですし、当事者としてはそのようなマイノリティとしての自分の人生を恨んだり、嘆いたりせざるを得ないわけですが、しかし、いつだってそのように理不尽さが理不尽さであることを愚鈍なマジョリティに気づかせては世界の歴史を変えてきたのは、マイノリティであるわけです。色々大変なことが多いでしょうが、そこを信じて頑張っていきましょう。

それとともに、ある観点においてマイノリティである自分は、別の観点においてはマジョリティである方が多いといえるでしょう。その意味で自分がマイノリティとして存在せざるを得ない観点において戦うということによって自分自身が全面的に肯定されるものでは決してなく、自分自身がマジョリティとして、愚鈍な加害者、加害の事実にすら気づいていない加害者になってしまっていることを常に疑わなければなりません。沖縄の人(マイノリティ)に対する本土の人間(マジョリティ)は愚鈍な加害者です。金を払えばいいという問題ではありません。自分の子供の命と同じように、沖縄に住む子供の命を大切だと思えていないままに米軍基地をどうするかを考えているのなら、それはマジョリティとしてマイノリティをふみにじっているだけでしょう。

自分の家庭をもつことが、マイノリティに対する共感ではなく、排除を生み出すのであれば、それこそ太宰治の言うように、「家庭の幸福は諸悪の本」になってしまいます。渋谷区の同性パートナーシップ条例に強固に反対したのが(それが本当に主婦たちから成り立っているかどうかは別にして)「子供たちの未来を守る主婦の会」という名前だということは、同性パートナーシップが「主婦」という社会的に疎外された人々の地位を脅かす、と考えられているということです。日本という男性社会においては、女性が結婚・出産によって、絶望的なまでに取り返しのつかないキャリアの放棄を強いられます。男性という(会社社会での)マジョリティに迫害されたマイノリティとしての女性たちが、強いられて選び取った自分たちのアイデンティティ(「子供を産み、育てる」ということです。それはもちろん、極めて大切なことなのです。ただ、それが男性に尊敬され理解されているのではない社会において、その任務を女性が選ぶしかなくて選ばされているという恨みつらみこそが、このLGBTへの攻撃意識の源泉となります)を脅かすものとして、性的マイノリティであるLGBTを攻撃する、というこの構図は先に書いた「抑圧をうけるマイノリティとしての自己」という自己の定式化が生み出す新たな暴力です。

もちろん、パレスチナ問題、南アフリカのアパルトヘイト、イギリス統治下のインドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒との争いなど、世界史をひもとけばこの種の例の枚挙には暇がないでしょう。だからこそ、まさに君が言ってくれたように、悩み抜き、考え抜くことこそが大切です。
何が正しいかはわかりません。それどころか、ある瞬間に正しい行為が次の瞬間には正しくない行為になってしまうのが、この世界です。だからこそ、その現実の難しさに対して襟を正しては、常に悩み抜いていきましょう。
僕もそれを最後までやっていきたいと思います。

また、いつでも遊びに来てもらえたら。

柳原浩紀 | URL | 2015-04-24(Fri)14:41 [編集]