
さて、この1月からのSTAP細胞騒動もまだまだ続いています。小保方さんを揶揄してはその未熟さ云々を取りざたするのも
簡単でしょうし、そこから研究者の置かれている劣悪な環境と成果を出さねばならないプレッシャーについて、社会学的に考察するのも出尽くしているでしょう。あるいは週刊文春のように完璧にゴシップとして、というのも出尽くしています。
これぐらい、様々な(しかし月並みな)見方が出尽くしている今だからこそ、語るべきことがあるように思っています。
僕はそもそもこの小保方さんの論文をなぜ、理研の超一流の研究者達が信じて共著者になったのか、というところに関心があります。「生物学の歴史を愚弄する」とまでコメントされてrejectされたものを、なぜ超一流の研究者が信じたがったのか、というその理由です。もちろん「iPS細胞の山中先生に遅れを取っている意識で功を焦った」などという憶測も当然ある訳ですが、そういうドロドロしたことはおいておいて(そんなことは別にその状況に置かれている人間なら誰でも感じるものでしょう。そこに理由を求める、という追求の仕方は事実の一面を鬼の首でもとったかのように喧伝するという意味で酷でしかなくそのような「反省」からはあまり何も学べないのではないでしょうか。)、彼ら超一流の研究者にとって、小保方さんの研究、論文がどう見えたからこそ、それをサポートしようと思ったのか、ということを考えたいと思っています。
僕の推測では、小保方さんの研究の方向性を聞いたときに、ベテランの研究者の方々は、自分自身の生物学的偏見を反省させられたのだと思います。つまり、(植物細胞と違って)動物細胞でそんなに簡単に初期化が起こるはずがない、という生物学的常識からは明らかに外れた実験結果と報告を受けて、それが自分たちの信じてきた生物学的常識とは大きく違うものであるからこそ、無限の可能性を感じたのでしょう。そこで、まさか小保方さん自身が研究の作法やその他常識的なことをふまえていなかった、という可能性を失念して、その自分たちの偏見が剥がれる興奮へと身を委ねてしまったのだと思います。
これに似た話があります。それは現在進行中の将棋の電王戦の話です。コンピューターがとうとうプロ棋士よりも強くなってしまった!という興味本位で語られることが多い訳ですが、それにまつわるドワンゴの川上会長と谷川浩司日本将棋連盟会長との対談で、「人間からすると悪手にしか見えないものをコンピューターは選んで、しかもそのまま進めていくとコンピューターが確かに有利な局面になる、ということがある。たとえば飛車先の歩をつくことなどは、人間の将棋指しにとっては疑いようのない常識として皆が信じているものだけれども、コンピューターは飛車先の歩をつくことにさしてこだわりはしない。その意味でも我々が「常識」としていたことが実は偏見であり、コンピューターの指す将棋から我々人間も学ぶことができている。」という興味深い話を聞きました。コンピューターの将棋に関しては評価関数と探索部との組み合わせからなり、その探索部に関してはとうに人間の能力を凌駕しているものの、評価関数に関してはまだまだ改善の余地があり、それに関しては(プロ棋士のような鍛え上げられた)人間の直観、というのはかなりすぐれた評価関数であることは、電王戦にも出場したプログラマー、やねうらおさんが仰っている通りでしょうが、そのように、人間のプロ棋士の「鍛え方」「発達の仕方」とは違うやり方で発達してきたコンピューター将棋ソフトは、やはり人間の常識を超えて人間には見いだしにくい最善手を見つけるようになってきている、というのは極めて興味深いことです。すなわち、それは、将棋というゲーム一つをとってみても、我々の考える将棋だけが将棋ではない、ということであるからです。「人類の将棋研究の歴史を愚弄する」かのようなコンピューターによる指し手が、人類の将棋研究の歴史自体に新たな可能性を開いている訳です。
理研の偉い先生方にとって、小保方さんとはまさにこの「コンピューターによる指し手」のような地平を開くように見えたのではないでしょうか。だからこそ、彼女の未熟さうんぬんは重々承知の上で、その研究の方向を進めていくことで生物学の中に凝り固まった常識という名の偏見を乗り越えることができると思った、それ故にチェックが働きにくかったのかもしれません。ここで重要なのは、この両者のアプローチについての透明性の違いです。たとえば、コンピューターによる将棋ソフトでの評価関数は盤面上の三つの駒同士のすべての関係に対する点数の線形和でその局面を評価しているそうです。もちろん、これが三つの駒の関係でよいのか、4つ、5つ、などすべての自陣の駒関係についてでなくてよいのか、さらにはその評価の点数を本当に足し合わせるだけで良いのか、などとまだまだそれが本当に最適な近似になっているかどうかは改善の余地があるとはいえ、「私たちが「将棋」と定義しているもの」になんとか近似をさせようという努力の賜物である訳です。
一方で小保方さんに限らず、若い研究者というのはその「○○学」とは何かという定義に対しての偏見は極めて少ないところはコンピューター将棋ソフトと共通するものの、ではそこにどう近似していくか、ということに関しては一人一人の内部に委ねられているわけです。ベテラン研究者達がその実態を知って、「彼女は研究者としてあまりに未熟」と切って捨てるのは簡単ですが、それは彼女なりの「生物学」への近似、もしくは再定義であったのでしょう。その意味で「ねつ造」の意図がご本人にあったわけではないのかもしれません。ただ問題は、そのような彼女のアプローチは少なくとも「生物学」の別ルートからの近似になるための最低限のルールを踏まえているかどうかをほかの研究者によってチェックされないままにきてしまったことであるのだと思います。将棋に話を戻せば、二歩やその他のルールを踏まえることなく、「この局面での最善手をコンピュータソフトが見つけた!」と騒ぐようなものであるかもしれません。
と、問題を定式化した上で、大きな困難が残ります。果たして研究者はほかの研究者の認識の仕方をチェックすることなどできるのでしょうか。たとえば、電王戦第二局でやねうらおさんのソフト「やねうら王」が勝負直前に「バグ修正」と言ってさしかえられたところ、明らかに強くなったということで、プロ棋士からクレームがつき、ほかのソフト開発者からも「電王戦のレギュレーション違反だ!」と非難されたことがありました。これはやねうらおさんの説明によると、探索部をbonanzaメソッドからstockfishに変えただけで、ご本人としては強くなるとは想定していなかった、とのことでした。このように、プログラムの各部分について、何を使っているかを明確にわかる将棋プログラムにおいてすら、それがトータルでどのような影響を及ぼすかは開発者にとってもすべてをわかりえないところがまだある訳です。ましてや、一人一人の研究者の認識の仕方を脳みそを開いてソースコードのように確認できる訳でもなく、また、部分について確認できたとしても、全体としてそれがバグをおかしていないかどうかはわかりません。
つまり、このようなSTAP細胞騒動はこれからも、必ず起きていく、ということです。もちろん、こうした騒動はコストが非常に高いわけで、そういう意味では大学院での教育で基本的なところを徹底しては再発防止を目指す、ということが一番良いのでしょうが、しかし、その程度で防げるものではありません。大きな妄想やねつ造は人間が常識から離れて新しい見方を生み出そうとする以上、必ずつきまとう失敗であると思います。しかし、そのように失敗や妄想をもちろん鵜呑みにするのではなく、かといって、鬼の首でもとったかのように叩くのでもなく、自分たちの常識を疑うための一つの仮説として、継続して検証し続けていくことが大切なのだと思います。(カール・ポパーの「すべての医学は仮説にすぎない。」という言葉が胸に沁みますね。人類の学問の成果すべてが、一つの仮説にすぎない、という厳しい現実に、私たちの精神はどのように耐えていけば良いのでしょうか。ましてや、その学問の成果に人生をかけている人々にとっては。しかし、その事実をやはり忘れられる日が来ることを期待しすぎてはいけないようです。)
それとともに、偏見から自由になった!という感動すら、また別の偏見を生み出してしまうというこの現実の恐ろしさに対して、私たちはどこまでも油断をすることができないようです。
まあ、こんなことはこれからも起きるのです。そういうことが起きないよりは起きる方が(○○学的常識を覆そうという運動があるという意味で)健全です。どうか、小保方さんを責めるのではなく、いろいろ失敗していきましょうよ。
そうした失敗が、1000年、2000年後くらいに反省として蓄積されては残っていければよいのではないかと思います。
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