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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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2023年度入試結果(3/27現在)

    2023年度入試結果  3/27現在

<大学受験>(私立大学)
慶應義塾大学文学部                  2名(進学先・第一志望)
東京理科大学理工学部                 1名(進学先・第一志望)
桜美林大学航空マネジメント学群            1名(進学先・第一志望)
日本大学芸術学部                   1名(進学先)
杏林大学総合政策学部                 1名(進学先)
日本獣医生命科学大学応用生物科学部          1名(進学先)
千葉工業大学工学部                  1名(進学先)

(ほか合格校)
慈恵医大医学部(1次合格)順天堂大医学部(1次合格)、日本医大医学部(1次合格)昭和大医学部(1次合格)、東京医大医学部(1次合格)、杏林大医学部(1次合格)、青山学院大学法学部、明治大学法学部、明治大学情コミュ、明治薬科大学薬学部、武蔵大学人文学部、成蹊大学文学部、日本大学歯学部

<高校受験>
早稲田実業学校高等部                  1名(進学先・第一志望)
早稲田高等学院                     1名(進学先・第一志望)
日大鶴が丘高校                     1名(進学先・第一志望)
明星学園高校                      1名(進学先・第一志望)
玉川聖学院高                      1名(進学先・第一志望)
都立農芸高校                      1名(進学先・第一志望)
(ほか合格校)早稲田摂陵、明大明治高、大成高校

<中学受験>
桐朋中                         1名(進学先)
(ほか合格校)成城中

大学受験生15名(うち国公立受験生6名、医学部受験生4名)、高校受験生6名、中学受験生1名での結果です。彼ら彼女らがこの1年を真剣に悩みながらも頑張った結果ですので、どの受験生のどの結果にも誇りを持っています。
            
                   2023年3月10日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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なぜ定期試験の勉強は受験勉強には繋がらないのか。

のっけから、物議を醸すタイトルで申し訳ないです。なぜこれが物議を醸すかというと、「学校の先生によく言われるセリフ」ベスト1!は恐らく「定期試験を頑張ってきた子は受験も強い!」「定期試験の勉強は受験勉強の基礎!」であるからです。しかし、教えながら最近わかってきたのは、そもそも定期試験の勉強と受験勉強とは全く別の種目である、ということです。方向性の全く違う2つの努力がそのまま接続できるはずがない、ということに世の中の先生方や中高生も保護者の方も、あまりに無頓着であるので、とても危機感を抱いています。

具体的にどのように方向性が違うのか。定期試験というのは、狭い範囲の内容をチェックするためのテストです。なので、理解をしていなくても大体は繰り返し解いていればなんとなく答を覚えてしまいます。つまり、忘れることが前提にあるテストではなく、短期記憶で詰め込んだものを吐き出すことさえできてしまえば、高得点が取れてしまうものなのです(これは小テストも同じです)。

もちろん、それすらもやらないorできないで定期試験の成績が悪い子もいます。しかし、その子達に「定期試験の勉強を頑張りなさい!」と言ったところで、このような短期記憶をひたすら詰め込んで乗り切るだけの勉強をする以外の選択肢はとれません。つまり、そこで仮に定期試験の成績が悪い子たちが定期試験の成績が良くなったところで、その子達の受験勉強の実力には何一つ繋がっていきません。だとすると、定期試験の成績で生徒を叱り、少しでもそれを上げさせようとする先生方のすべての努力は、あまり方向性としては正しくない、ということになってしまっているのではないでしょうか。(ちなみに小テストが多い学校を「面倒見が良い」と勘違いしやすいのですが、小テストや定期試験はこのように「理解していなくても短期記憶でテストを乗り切ることが勉強なのだ」という極めてミスリーディングなメッセージを中高生に伝えやすい、危険なツールだと思います。その危険性について実施する側は自覚的でなければなりません。)

それに対して、受験勉強というのは範囲があまりにも広いので、基本的には忘れることを前提としたテストです。だからこそ、忘れていても思い出せるように、すなわち理解していて導出したり説明したりできることが不可欠になります。もちろん、すべてを導出できるような試験時間はないので、覚えること、練習して習熟することもとても大切です。しかし、それらの記憶もあくまで理解していて自分で再現できることが前提であり、それがしっかりとできた上で、どれだけ覚えられ瞬時に出せるか、という勝負になってきます。

つまり、定期試験の勉強を短期記憶だけで乗り越えたとしても、その積み重ねは決して受験勉強には繋がりません。なぜなら、それは少し時間が経てば忘れるだけでなく、忘れたら思い出すツールを一つも持たないような知識であるからです。すると、「定期試験の勉強を頑張れば、それが受験勉強に繋がる!」という方向づけはミスリーディングであることになります。実際には、「受験勉強に使えるように隅々まで自分で説明できるように理解を固めておくと、それは定期試験の勉強だけではなく受験勉強にも使える」というのが正しい方向づけであると思います。

「では、そのように定期試験の勉強をすればいいはず!それなら定期試験の勉強も受験に役立つから、やっぱりこの記事のタイトル自体がミスリード!」と思うかもしれません。しかし、定期試験の勉強は、基本的にはこのようにしっかりと理解して説明できるようにしていくことを構造的に阻害するような要素があります。それ故、定期試験で良い成績を取ろうとすると、このような「理解」を置き去りにしなければ到底間に合わなくなる、というのが多くの中高生が直面している現状です。

そのしっかりと理解することを阻害する1つ目の理由は科目数があまりにも多いこと、2つ目にはプリントや問題集、宿題があまりにも多いことです。科目数がとても多い定期試験では、当然ながら入試に必要な科目とそうではない科目があります。その中で

「すべての教科を頑張ってしっかりと点数をとる。しかも、それを短期記憶だけで点数を取るのではなく、主要教科についてはしっかりと理解した上で受験勉強の基礎となる勉強の仕方をしていく」

という勉強法で勉強することができるのは、端的に言えば極めて優秀なごく一部の子たちだけです。実際には、主要教科(英数国理社)全てでそれができることはまずありえず、受験に必要な科目、中でも英数だけに絞って理解をする、ということが殆どの中高生にとってはその状況の中での最善の選択になってきます。しかし、このやり方、即ち「定期試験の中でしっかり理解して勉強しなければならない科目と捨てていい科目を作る」ということ自体が学校でもご家庭でも理解を得にくいでしょう。

副教科なんて、自分に興味があるもの以外は進級できればよいのです。理科社会もそんなに頑張ってやる必要はありません。それなのに中高一貫校の中学生が「理科や社会の点数が悪いから、それを頑張らないと!」と先生や親御さんからのプレッシャーを真に受けて、悩んでいる姿もよく見受けられます。しかし、(個人差はあるにせよ)理科や社会など大学受験に向けても早くて高2から、普通は高3から始めればそれなりにできる科目です(もちろんどこを目指すかや理社の必要な科目数によって到達度が変わるので、それによって始めるべき時期も変わってきます)。

むしろ英語や数学が、ただ短期記憶だけで乗り切っていて定期試験の点数が高かったとしても、しっかりとした理解が伴わなければそれはすぐに抜けていくかりそめの知識でしかなく、受験では全く通用しません。だからこそ、「英数は学校の成績が良いのに、理社の成績が悪い。だから、理社を頑張って点数を上げたい!」というような、定期試験をベースにした目標設定の仕方自体がもし英数の理解度が低い場合には大きく間違っていることになります。このような誤った教訓を引き出しやすいのは、やはり「定期試験を頑張っている子が大学受験も強い!」という思い込みを大人たちが助長しているからであると思います。英数が定期試験で点数が取れているとしても、そこにしっかりとした理解が伴っていないのであれば、やはり英数をしっかりとやるべきであるのです。(「定期試験の勉強で高得点なら理解が伴っているはず!」という想定が、そもそも間違っています。たとえば卒塾生のこの合格体験記にあるように、定期試験の問題というのはほとんどが使っている問題集の問題をそのまま出してくるため、極端な話をすれば解答を覚えるだけでも何とかなってしまうのです。。そのような無駄な時間を費やして、何一つ理解しないままに高得点をとる、ということができてしまうのが定期試験です。(もちろんしっかりとした先生方は、そうならないような試験問題を作ろうとしますし、またこれは多くの生徒を落第させないためには仕方がないところもあるのですが。))


2つ目の理由として、「そもそも主要教科やその中でもさらに英数に関して、学校の課す問題集やプリントがあまりにも多すぎる・難しすぎる」という理由があります。つまり、定期試験の勉強をしようにも、課されているものが多すぎ・難しすぎであれば、そもそもそれを理解する時間など到底作ることができない、ということになります。この場合は試験範囲とされる膨大な問題集を全てこなそうとするよりも、教科書の例題や問題集の例題に絞って、それをまず理解して説明できるかを徹底し、そこに引っかかりがなくなれば、初めて問題集を解く、ということが必要となります(それでも課されている問題集を全部解く必要はありませんが‥)。問題数が多ければ多いほど、それをこなそうとするあまり、理解して説明できるように、という余裕はどんどんなくなり、とりあえず解いて解答を見て覚えるだけになってしまいます。そして、理解を伴わない短期記憶で定期試験は乗り切れるものの、結果として受験勉強には何一つ役に立たない、ということになってしまいます。

まとめると、定期試験は科目数が多すぎるのと、主要科目に絞っても問題集でやらされる問題数が多すぎるので、それらを真面目にやろうとすればするほど、「理解しようとしている暇なんかない!!」というところに中高生は追い込まれて行ってしまうのです。だからこそ、このような定期試験の勉強をいくら頑張って良い成績をとっていても、受験勉強の力は何一つ身に付かないままに学年が上がっていくことになります。

さらにいえば、英語や数学は積み重ねの勉強です。だからこそ、こうした「理解しないまま短期記憶で詰め込む」勉強で基礎が出来上がらないまま、学年が進んでより高度な内容を学習すると、定期試験の勉強をいくら頑張っても高得点がとれなくなってきます。定期試験のための勉強では、やがて定期試験の点数すら取れなくなってきてしまうのです。

逆に英語や数学の勉強をコツコツと受験勉強を積み上げていくこと、理解をして説明できるものを少しずつ増やしていくこと、理解をベースにしてそれらのものを覚え習熟していくことは、それらの科目について定期試験のために勉強しないでも点数が取れるようになっていきます。(このことを僕は受験勉強は「貯蓄」であり、定期試験の勉強は「生活費」でしかない。というようによくたとえます。生活費をどれだけ圧縮して貯蓄を増やせるかが、結局は金銭的な自由度を上げますよね。)

中高6年間、あるいは高校3年間をとりあえず眼前の定期試験のために短期記憶で乗り切っては、結局何も受験勉強の実力がつかないままに終わってしまう子と、しっかりと理由を説明できるように理解しながら受験勉強の実力をつけてきた子ではその後の人生で使える自分の武器が大きく違う、という残酷な事実を想像してみてください。しかし、前者は「定期試験の勉強は受験勉強に繋がる!」という大人のミスリーディングなアドバイスとプレッシャーを真に受けて、誤った方向に努力を積み重ねてきてしまったのです(たとえば別の卒塾生のこのような体験記もありました)。そのような失敗を子供達のせいにできるでしょうか。それは明らかに、大人の責任であると思います。

もちろん様々な工夫をされて、定期試験のための勉強を生徒たちの確かな理解に繋げようと努力されている優秀な先生方がいらっしゃることは僕も知っています。しかし、そうした素晴らしい、本当に頭が下がるような努力をもってしても、2つ目の理由(問題集や宿題が多すぎる)は回避できるとして、1つ目の理由(そもそも科目数が多すぎる)という構造的な問題を回避することはできません(また、「英語と数学だけしっかり勉強しなよー。理社とか副教科とかはやりたければでいいよー。進級できるぐらいで。」とはそのような熱心で優秀な先生方ですら、なかなか言えないでしょう)。そしてそれはまた情報科目の必修化のように、高校生の負担をより増やしていく、という愚かな方針ゆえにますます拍車がかかっていくと思います。

そもそも、「理解をしよう!」と思うためには心と時間の余裕が必要です。それを与えなければ、「時間がないからよくわからないままに覚える」とならざるをえません(これは我々大人もそうですよね)。中高生に考える時間を確保してもらえるように、大人たちが工夫をしなければならないのに、むしろ中高生の自由時間をどれだけ奪えるか、というようになってきてしまっていると思います。その結果起きているのが、理解をしないままに難しい問題まで解答を暗記することで定期試験を乗り切り、結果として受験勉強を浪人して一から始めなければならなくなる、あるいは高い内申を活かして推薦入試で大学に滑り込んだとしても、結局大学の勉強(それは当然高校範囲までの理解を前提としてなされるものです)についていけなくなる、といったきわめて由々しき問題です。

こうした悲劇を防ぐためにも、定期試験の勉強は本質的に受験勉強とは別の方向の努力であり、それは短期記憶で乗り切るだけのあまり意味のないことであることや、定期試験は究極的には(主要教科については)「試験勉強」をしないで受けられるようにしていくことが理想であり、「試験勉強」を理解もせずに短期記憶だけで努力していく先にはあまり未来がない、ということを多くの方に伝えていかねばならない、と思っています。

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「自学自習」とはどこから来て、どこへと行くのか。

お久しぶりです。まともにブログを書くのは約3ヶ月ぶり!ということでリハビリがてら、教育のことでも書いていきたいと思います。

さて、嚮心塾は「子どもたちが自学自習ができるように!それは受験勉強が終わったあとも一生使える武器になるはず。なぜなら、勉強というのは誰かに習うことができる期間よりも、一人で勉強しなければならない期間の方が(勉強をサボるような大人にならなければ)遥かに長いから!!!」というコンセプトの塾です。この理念だけ聞けば、否定される親御さんや教育者の方、というのはあまりいないように思うくらい、「美しい」コンセプトです。

しかし、実際にはそんなことよりも「そんな綺麗事言ってないで、眼の前のテストの成績を上げることが最優先だ!自発性とかどうでもいいから徹底的に教えこんででも成績を上げてほしい!」というニーズが圧倒的に多いのもまた事実です。もちろんここには、「教師から受動的に教え込まれているだけで、生徒が勉強ができるようになるのか」という大きな問題があるので、このようなニーズというのは根本的には目的を決して実現できないアプローチを要求している、という点で本質的には間違っているとは思っています(局所的・一時的にはそれが必要な場合もあるとは思いますが)。その点では「自学自習ができるようになっていく」というのは実は綺麗事でも何でもなく、むしろ難関校を目指せば目指すほどに、必要不可欠なことであるのです。その事実への誤解はとても多いな、と思っています。

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。なるほど自学自習ができるようになることが勉強ができて受験勉強を乗り越えられるようになるためには必要不可欠であることは一旦認めたとして、さて知りたいのは、どうやったら自学自習ができるようになるのか、ですよね。このことについて、おそらく間違いがないと最近僕が確信していることがあります。それは「自学自習」の方法論を身に着けてもらうためには、徹底的に最初に教え込まなければならないということです。

このことは、一見矛盾するように見える言明であるからこそ、少し理解しにくいかもしれません。また、「自学自習の大切さ」を主張する教育関係者も、あまりこのことを明確には伝えきれていないように感じています(管見にして僕が知らないだけかもしれませんが)。しかし、自学自習の仕方を生徒のうちに鍛えていくことを、(ここまでの18年間)徹底的に試行錯誤してもがいてきた僕自身の経験からは、この「自学自習ができるようになるためには、最初に徹底的に(様々な分岐ルートまで)教え込まなければならない」という言葉はかなり核心を衝いた言明ではないかな、と思っています。

たとえば各教科の内容に対して手触りを感じさせながら、既知の概念と結びつけては深く理解してもらえるような素晴らしい講義をリアルタイムでは受けない、という前提で自学自習は行われます。教科書や参考書として使う教材はそのような講義に少しでも近いようなわかりやすいもの、本質的なもの(そしてこの両者はトレードオフであることも多いです)を選ぶことは当然だとしても、それを一読してすべて理解できるわけがありません(もちろん素晴らしい講義も同様に、一聴してすべてが理解できる講義などは存在しませんが)。だとすると、書かれているものを理解し、定着させ、使いこなしていくために自分がわからない箇所の「壁」を乗り越えるあめの具体的なやり方をまずは教えこんでいく必要があります。その感じがつかめるように、普段塾でやっている最初に「教え込む」内容をちょっと具体的に書き出してみましょう!(企業秘密を公開!)

①読んだり聞いたりして理解できないときにどうするか。
→まず繰り返し読む習慣をつける。一度読んでわからなければ二度、三度と読む。一読しての理解力は人間同士そんなに変わらない。わからないときに繰り返し読む習慣があるかどうかが、勉強が得意な子と不得意な子で大きく差がある。

→それでもわからないときは、わからない言葉をピックアップして、その意味を調べる(←調べるための教材としてどの勉強にはどれを使うべきかの指示が必要)
→理解したあとはその言葉の意味を覚える(←覚えるための手段は何がよいか?わからない言葉が多すぎるときにそれをノートでまとめるのは有効か?その数が減ってきたらどうか?)

→言葉の意味が全てわかっても難しければ図やグラフを書いてみる(図の大きさはどれくらい?そもそも図を書くのは何が目的?問題文に図やグラフが書いてあるときだけでなく、問題文に図やグラフが書いていないときでも自発的に図が描けているか?)

→ここまでで、今勉強している範囲の前に、そもそも自分が既習分野の中で大きくわかっていない分野を見つけたときにどうするか。(そこに遡って復習すべきか?それとも今勉強している範囲を終わらせてから復習に入る?そもそも目の前の分野がわかりにくい理由がどの既習分野の理解度が低いせいなのかが、よくわからないときどうするか?)

②「書いてあることは理解できた」という自己認識が生まれたあとにどうするか?
→それを自分で何も見ずに再現できるか?
→要約して説明することができるか?(要約の度合いは?どこまで端的に言えるか?)
→練習問題を解いたときに、それが教科書の何を使っているのか分類できるか?

③「覚えている」とは何か?
→すぐに言えることorすぐに言えなくても自力で導き出せること(どのような知識は即答できなければならないか?どのような知識は導き出せればよいか?その区別をどうやって判断していくか?)


などなどです。かなり読みにくくてすみません。「おーし。企業秘密とか言わずに全部書いちゃうぞ!!」というつもりだったのですが、マジでこんなの全部書いてたらキリがありません。。(途中から雑になりました。。)

大別すれば、
Aとりあえずの方法論
Bうまくいかないときの方法論
C優先順位の付け方
D自力/他力の弁別

などには分類できるのでしょうか。こうした方法論を、様々なテストや教科指導の中で折に触れて繰り返し繰り返し話しながら、定着させていきます。(ちなみに特に大切なのは、Bです。うまくいかないときに、勉強の得意な子は自分でその解決法を見つけられるわけですが、苦手な子は「うまくいかないとき」というのは、「自分に努力できることはこれ以上ない!」と思いがちです。だからこそ、Bを徹底的に教えこんでいく必要があります。)

さて、このような方法論を自学自習の指導とすると、これって教科指導より教える内容が少ないといえるのでしょうか?僕の体感では、最初に(方法論を)教えることにかかる時間が、おそらく教科指導だけの実に10倍!!!!くらいはかかるように感じています。教える側としてはすごく面倒くさいです。内容だけ教えていたい、という誘惑についつい駆られてしまいます。。

ただ、このように方法論を徹底的に教えこんでいくと、だんだんと生徒たちがそれを自分で使えるようになってきます。そして自分で解決できることをどんどん増やしていきつつ、それでも判断に迷うときに相談していくことに繋がっていきます。そうすると、僕の仕事量も減って、生徒も実力がついて、お互いハッピー!!になれるわけです!!(まあ、実際には勉強の仕方が身に付いて実力が付けばつくほど、今度は時間を測って入試問題を解いた上での戦略会議になっていくので、僕の仕事は減るわけではないのですが。。)

逆に言えば、勉強ができる子たちが当たり前のようにやっている勉強方法をこのように徹底的に言語化し、ルーチン化し、それを方法論として身につけていってもらう、ということの先に「この参考書を何周やりました!」という行為が意味をもってきます。その点で、自学自習とは、まず最初に徹底的に方法論を教え込み、叩き込まねばならないものです。その一見矛盾するようなやり方にしか、おそらく正解はないのかな、と思っています。

こう書くと、「じゃあ一般的な方法論だけマニュアル作ってそれを徹底して身に付けさせれば教科指導なんかいらないじゃん!」と思われるかもしれません。ただ、これについては僕は否定的です。一般的な勉強の方法論のマニュアルを作るだけで、それを各教科に応用できる子、というのは率直に言ってかなり勉強への適性が高い子(東大や医学部に合格できるベルよりもはるかに上)だからです。

もちろん受験科目を満遍なくただ漫然と勉強して各教科の目の前の勉強に追われるよりは、たとえば英語と数学に絞ってそれを身につけるための方法を徹底していくことが大切だとは考えています。なぜなら、英語や数学で学んだ自学自習の方法は、科目による細かい差異はあるにせよ、他の科目の自学自習方法も洗練していくからです。一方で、教科指導を本当にゼロにしてしまって、最初に自学自習マニュアルをただ配るだけではその定着がかなり難しいのは、人間はその必要性や有効性、すなわち意味を感じなければ、それをしっかりと学ぼうとは思えないからであるとともに、具体的なことの積み重ねを通じて抽象的なことに気づいていく、というのが自然な認識の歩みであるからかな、と考えています。一つも教科指導を行わずに語られる方法論に普遍性を感じてそれを演繹しよう!と思えるのは、めちゃくちゃに抽象能力の高い(元々勉強にかなり向いている)子だけだと思います。

だからこそ、具体的な教科指導の中から泥臭く帰納的に抽出された方法論の方が、一人一人の生徒には根強く残るのではないか、という仮説を今のところは立てています。昨今は「全教科の勉強方法をコーチング!」という塾や予備校が最近は濫造されてしまっていて、嚮心塾もその同類のようにしか見えない(一応草分けだとは思うのですが…。)とは思うのですが、実は先に挙げたような生徒の勉強の方法論にまで影響を与えるような深い教科指導の方が、その生徒の勉強の定義や方法をガラリと改善する可能性はむしろ高いのかな、と思っています。(「高度に発達した教科指導は、もはやアクティブラーニングと見分けがつかない」ですね!!)



ところで、日本の学校でどこでも行われるようになった「探究学習」は、いったいどこまでその方法論を最初に徹底的に生徒たちに教えこんでいると言えるのでしょうか?これも僕の管見する限りでは、「やり方・調べ方は今回の授業で説明したぞー。じゃあやってきてねー。」という例ばかりのように見えてしまいます。実際には、指示された通りにやってみたものの躓いた生徒に対し、そこで生徒一人一人がどのプロセスでどのように躓くかをしっかりと観察し、それに対して問題解決の次の手段を提示していく、ということが必要不可欠です。探究とは失敗を乗り越えて自力で進む上での試行錯誤を意味する以上、失敗したときにどのような手段を取りうるかを徹底的に教えこんで初めて、子どもたちはそれを武器に自力で取り組むことができるようになるのだと思います。自学自習を「探究」と言い換えるのなら、探究をそんなに簡単に自分で始められるのなら、そもそも学校や塾なんか来ないですよね。我々自身が中高生のときだって、どんなに自分の優秀さに自信があった方でも、たとえば自学自習の方法を自分ですべて作り上げて合格しました!なんて受験生は殆どいません。みんな塾とか予備校とか学校とかの力を借りてようやく合格しているわけです。

そんな非力で愚かな我々大人が「探究」を子どもたちに押し付けて、ふわふわしたことをさせている暇があるのなら、自立して探究していくための方法論の見つけ方を徹底的に子どもたちに教え込んで、彼らの武器を増やしていく必要があると思っています。もちろん、僕が上に書いたような「教え込み」もまた不完全な内容、誤りを含む内容であり、それを教え込まれた子どもたちがさらに改善し、より改良しては「先生のやり方じゃ、こんなとこに不備があるのでは?」などと終わりなき探究を続けていってほしいものです。しかし、探究に終わりはなくとも、正しい始まりはある。そのことを我々大人たちは、全く伝えられていないのでは、ととても危惧しています。

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永遠に続く改善。

今年度も始まって一ヶ月ほど経ちました。また新年度を始めるに当たって、一人一人をしっかりと理解しては、必要な勉強をどのように受け入れてもらえるのかを試行錯誤していく時期が始まっています。

よく「正しい勉強方法を教えてほしい」「勉強の仕方さえ分かればできるようになるはず!」というような勘違いをされている方も多いのですが、その子にとってどのようなやり方が「正しいやり方」であるのかを見つけては提案していくことというのは、難しいことではあるものの、ある程度経験を積んだ教師であれば不可能なことではありません。それができていないときというのは、教師の側の思い込みを生徒に押し付けているだけになってしまっているだけだと思います。

むしろ教育のうち、本当に難しいのは正しいやり方をその子については同定できたとして、それをどのように信じてもらい、徹底してもらえるか、というプロセスです。特に生徒自身が「これが正しいやり方だ!」という先入観があったり刷り込みを受けていたり、というときにはこれが本当に難しいものです。

結果としてその誤った方法から始めながらも徐々に修正し、改善していくことで段々と納得してもらっていく、というような迂遠なプロセスを経ていかなければならないことも多いのです。これも学校や他塾でもっときちんと正しい勉強法を教わっていれば、このような回り道をしなくて済むはずなのに、という悔しい思いを強く持つ機会がどんどん増えています。

とはいえ、open-mindedでこちらの提案する方法をできるだけ受け入れてくれる子に対しては改善作業がいらないか、と言えばそれも違います。ある瞬間に最適なアドバイスは、次の段階では足かせになることもまた多いのです。一つ一つの成功体験を拠り所にしながらも、それに安住しないように絶えず疑い、考えてもらうことをしていかねばなりません。これはこれで改善作業をずっと続けざるを得ないのです。

このようにして、入り口のレベルは違えど、一つ一つ、一人一人に改善作業を延々と続けていく塾が嚮心塾だと思っていただけると、だいぶわかりやすいかと思います。もちろん改善作業を続けていく、というアプローチは根本的な問題には立ち入らない、という欠点にも陥りがちです。しかし、たとえば誤った勉強法を信じてきた高校生が、一つ一つの改善の努力から、自身の従来の勉強法の根本的な過ちに気づく瞬間、というのも教えていると出会えるものです。そのような奇跡のような瞬間のために、引き続き全力を尽くしていきたいと思います。そのような場としての嚮心塾に興味をもっていただけたら嬉しい限りです。

                 2023年5月8日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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