FC2ブログ

嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

内申点の暴力性について、再び。

中学の定期試験が終わり、高校受験の内申点がそろそろ決まる頃です。良かった子は良いとして、仮内申が発表されて、それで思ったよりも取れていなかったとしても、落ち込むことはありません。大切なのはここからの勉強であり、入試でしっかりと点数を取ることです。そのためにここからできることは山程あります。そこに向けて集中していくことが何より大切です。

しかし、高校受験に関われば関わるほどに高校受験での中学の先生のつける「内申点」の不透明さには辟易します。テストの点数が良くても「授業態度」「意欲」「関心」などを中学の先生が主観的につけ、90点オーバーの点数を取っていたとしても、それらの不透明な要素で5段階で3にされる、ということもざらにあります。塾でも毎年毎年中3生がこの内申点で理不尽な成績をつけられ、苦しんでいます。本当に良くない制度であると思っています。

「テストの点数が良くたって、授業中寝てたら成績悪くなるの当たり前でしょ!」という反論も先生側からはあるのでしょうが、なぜ授業中寝るのか、ですよね。たとえば授業がつまらない(「つまらない」には既習分野でわかっているから、もあれば、担当の先生の努力不足もあるでしょう)から寝てしまうとして、それを「つまらないけど内申点が悪くなるから起きて聞こう!」という姿勢を中3の子に強要するのは、端的に言って奴隷を再生産する制度でしかないと思います。おかしなこと、つまらないことであろうと、それに従わなければ自分が不利益を被るということを15歳の子たちに叩き込むような社会に未来などあるのでしょうか。。強く疑問に思っています(中には「授業中に手を上げた回数」で評価が決まる、などという例もあります。。こんなの、本末転倒も甚だしいですよね。。)。

もちろん学校の先生としては自分の目に映る姿がその子のすべてになりがちです。自分の授業中ずっと寝ている子がいるとしたら、その子はその先生にとっては「落第」なのでしょう。しかし、同時に教師が想像力を働かせなければならないのは、自分の目に映るその子が、決してその子の全てではない、という事実についてです。いつも自分の授業で寝ている子は、夜は必死に塾で勉強しているのかもしれません。あるいは家の事情でアルバイトや家の手伝いに明け暮れているかもしれません。その必死の努力故に、授業で眠ってしまうものの、しかし勉強はなんとか頑張って、定期試験ではしっかり高得点をキープしても「授業態度」故に内申点を低くつけられ、そのせいで行きたい高校にいけなくなるのだとしたら…。その子達は夢も希望もなくしてしまうのではないでしょうか。そのように15歳の子の人生を左右する権力を教師が握っている、ということに対して、もっと中学の先生方には恐ろしさを感じていただいた上で、基準をreasonableなものに明確化していくことを徹底していただきたいと思います。それをしていないせいで、苦しんでいる中学3年生がどれだけいるのか。。塾で教えているだけでも毎年、本当に理不尽なケースに出会います。このような理不尽な内申点の付け方によって、優秀であるのに公立高校を受けられなくなってしまう子もいるのです。仮に私立に受かったとしても、そのような暴力によって、子どもたちの心は本当に傷つき、そこから回復するのが難しくなってしまうケースすらあります。

明示されてるとしてもreasonableではない基準を生徒をコントロールするための道具に用いているのも問題ですが、そもそも基準が明示されない、というのはさらに大きな問題です。しかし、このような例も内申点の付け方には多々あると思っています。そして、基準が明示されないままに評価をつけられる、というのは、簡単に言えばカルトとか、社長がワンマンのブラック企業とかに似ていると思っています。どのような基準で自分が評価を上げられたり下げられたりがわからない環境に置かれ続けるとき、人間は思考を停止してひたすらに「上」の人の機嫌を伺い続けます。そしてそのように「上」の人の機嫌を伺い続ける内部の人々は何が基準かがわからなければわからないほどに、身も心も捧げ尽くすようになるのです。そしてそれを「自発的にそうしている」と自分で思い込み、それができない人々を排斥するようになります。そのような「地獄」を中3の子たちに味わわせていて良いのでしょうか。(こう書くと、「東京の内申点制度はまだ緩い!」とか「他の地域は3年間それが続く!」ということも言われるのでしょうが、どちらにせよこのように曖昧な基準に従い続けなければ自分が不利益を被るという「地獄」です。一方の地獄が別の地獄よりはまだマシということで正当化できるものではありません。ペーパーテストだけである方が、よほど自由であると思います。また、「それは勉強のできる子の意見だ!」ということも言われるのでしょうが、勉強ができない子が先生に盲従することで内申点で下駄を履かせてもらったとして、それは果たしてどこまでその後の社会においてその戦略で生きていけると言えるのでしょうか。それはlocalには最適の生存戦略だとしても、その後決して通用しなくなるのではないでしょうか。もちろん、日本社会全体を「上意」を理不尽でも踏まえることにひたすら特化した人々が出世していく社会にしていくことは可能です。あるいは、既に政府であれ会社であれ、そうなっている部分もあるのでしょう。しかし、そのような社会はたとえばこの新型コロナのような外部からの難題については、取り組む力を完全に失った社会になってしまうのだと思います。)

中学校での内申制度をこのようにたとえるのは不穏当と思われるかもしれませんが、それぐらいにひどい事実に毎年ぶつかる、ということにこちらもまた愕然としている次第です。まず、人間が人間を主観的に評価する、ということにはどのような天才が評価者になろうとも必ず限界がある、という事実を直視すべきです。その上で、中学校の先生方には自身の主観的「評価」のせいで、15歳の子たちの人生が大きく変わってしまう、という事実に対してもっと恐れを抱いていただきたいと思っています(ここまで書いてきましたが、もちろんこれは「中学の先生が個人的にひどい!」ということだけではありません(中にはそういうケースもありますが)。たとえば僕がこのように「主観的評価を(成績以外で)しろ!」と同じ要求をされたら、やはり何らかの基準を作ってそれを明示したとしても、それが誰かにとっては暴力的な評価になってしまうことも当然起こりえます。それほどに、主観的評価というのは難しいもので、どうしても教師の「好き嫌い」にすぎないものが評価基準の中に混入してきてしまいます(これは医学部入試の面接試験もそうですよね)。それぐらいに、人間が人間を評価する、というのは極めて難しい。だからこそ点数だけで決めることが一番フェアである、と考えています。)。

その上で、理不尽な内申点が出て、それに絶望している中3の子たちに。
こんな腐った制度のせいで、君の人生が狭められていくことが本当に申し訳ないですが、それでも君を受け入れてくれ、君の頑張りを認めてくれる高校は必ずどこかにあります。近くになかったら、通信制の高校や高卒認定試験で大学受験をにらんで勉強してもよいです(何なら、そっちのほうが勉強も進みます!)。勝負は大学受験です。君の人生を中学教師の恣意的な判断で左右させないことが、一番の復讐です。ぜひ、生き抜いてください。力になれることがあれば、何でも言ってもらえたら。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

嘘つきにつける薬。『ディスタンクシオン』

相変わらず塾はバタバタと忙しいのですが、今その合間を縫ってピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいます。本当に素晴らしい本であるので、やるべきことを後回しにしては、ついつい読み進めてしまっているところです。。

この本の何が素晴らしいって、本当に容赦のない、何ら手心を加えることのない考察の数々ですよね。私達自身が自分の「個性」や「長所」だと思っているものがいかに、それ自体の内容を気に入っているかのように私達がうやうやしく振る舞おうとも、それが他の階級との差異を生み出すために選択されたコード(code)にすぎず、その内容について実は私達はさほど興味ももっていないし理解もしていない、ということを暴露してくれます。私達が「運命の出会い」と信じたいであろう自分のパートナーとの出会いですら、いかに打算に満ちたものであるのか、いかに暗黙の了解としての所属集団のハビトゥスに囚われたものであるのか、を示してくれます。自分のidentityとして信じたいものを私達は信じようとしているだけであり、しかしそれは社会の中での所属階級(それは現在所属している階級であるだけでなく、自身がそこに所属したいと思っている階級)への帰属感を示すためである、という意味ではそれはむしろ自分自身ではないために用いられるものであるわけです。

この本は私達が「私」や「貴方」として信じたいと思っているものがいかに一人称や二人称ではないのか、徹底的に外被を剥ぎ取っていきます。この本の中に出てくる様々な人々が「自分の趣味や好みを語るパート」の残酷さといったら!彼らが自慢気に語る自らの「趣味」や「思想」、「芸術観」といったその全てが、社会学者の冷徹な目によっていかに彼ら自身のものではないかが浮かび上がる、という仕組みです。本当に性格が悪いったらありゃしないですよね。

しかし、それが本当に素晴らしい。何より、言葉がこんなに容赦なく、真理を穿つために用いられ続けることに感動を覚えます。私達はとかく嘘をついては自分自身の立場を擁護するために言葉を使い続けてしまっているので、この社会全体にもそのような嘘の言葉ばかりが、政治でも仕事でもその他全ての人間関係の中にも充満して、あたかも本当のことをしゃべること自体が何か「空気の読めない」「社会人ではない」かのように非難されてしまう、という狂気の沙汰になってしまっています。そんな中で、これほどに言葉をひたすら、私達の信じたいもの、そうであってほしいと願うものを容赦なく剥ぎ取っては、私達自身のアイデンティティがいかに空虚で無内容なものでしかないかを描くために用いてくれていることに、本当に深いところから呼吸させてもらえる気がします。

嘘は、本当のことを伝えるために使われるとしてもなお、嘘であり続けます。その嘘に内包された善意によって一時的に正当化されたとしても、その内包されていたはずの善意すらも嘘は自分の都合の良いように定義し直してしまいます。そのようにして、不正に手を染める誰もが「これは仕方のないことだ」とゴールポストを動かし続けることになり、それを何とか正当化し続けようとする人生になっていきます。

私達に必要なのは、自分が見たいものを見たり信じたいものを信じたりするために嘘を吐き続けることではなく、自分の見たくないものを容赦なく見ようとしていくことなのではないでしょうか。言葉はこれだけ嘘を吐くことに用いられ続けてもなお、嘘を吐かないために用いることもまたできるのです。

衒(てら)い、とは自己イメージを作り上げては見せびらかすためであり、つまりそれは他者との「差異」を作るために内容を必要とする、ということです。これは前衛的な芸術を追い続ける、という態度にもまた現れるのだと思います。

どのような熱烈な「信仰」告白も、私達が追い求めるその価値が、「差異」を示すための「アクセサリー」あるいは「IDカード」以上の何かを内包していることを自明には示しえません。僕が信じる価値も、僕がそもそもこういった本を自分で「読まねばならない!」と感じて読もうとすることも、ブルデューの言うように僕の人格の奥底にインストールされた、自己を他者と弁別しては優位性を保つための権力意識に引きずられて行われる行為であるのかもしれません。それは光るものを集めるカラスのように、意味を理解しないままに習性として行われる、悲しい行為であるのかもしれません(もっともカラスに聞いてみたら、彼らには彼らなりの内実のある動機があって、我々人間の方がよほど内実のない動機から「文化的」に振る舞おうとしているのかもしれませんが。。)。

しかし、それでもなお、嘘の言葉ばかりが溢れかえる中で、このように本当のことを語ろうとして紡がれるむき出しで命がけの言葉には、誠実であらねばならないと感じます。そのような言葉には僕自身が「差異」を作ることでこの社会の中で立ち位置を確保しては生きていくためなどという低俗で下らない目的よりも、はるかに大切な価値があると信じています。それが、マタイの福音書でイエスがペテロを「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱ったときの「神のこと」であるのかな、と考えています。もちろん僕はそれを「神のこと」とは言いませんが、「人のこと」より大切なものがあることもまた確かである、とは思っています。


という本当に素晴らしい本である『ディスタンクシオン』がなんと、岸政彦先生の解説でNHK教育テレビの『100分 で名著』で12月に4回に分けてやります!!大部の本ですし、読むのは大変ですが、テレビは必見です!!

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

立ち位置を決めることの功罪について。

今年は受験生が多いので大変だなー、とは思っていたのですが、予想以上に大変です!!
これは12月、1月、2月なんてどうなっちゃうのか、ちょっと想像しちゃうと辛くなるので…。という感じで一日一日に集中しています。

さて、立ち位置を決める、という振る舞いが賢いことや戦略的であるかのように語られる風潮、というのはありますよね。「競合を避け、自分の強みをどう活かすか」を分析することで生き残ることができる、みたいな。ビジネス界隈ではよく言われることですし(使い古された「レッドオーシャン」「ブルーオーシャン」とか)、政党なんかも立ち位置を決めて、「こんな主張だと受け皿になってる政党ないんじゃね?」と考えては自党の主張をそちらに寄せていく、とかよくあることです。新しい国民民主党とかはそういう感じですよね。

ただ、この「立ち位置を決める」というのは一見賢そうに見えて、色々と問題があると思っています。
なぜなら、生き延びていくために相対的にどの位置取りをするか、という行動様式はどうしても自分自身の初期衝動や理念からは遠いものになることを肯定せざるを得ないからです。

「そうは言っても、生き延びるためには仕方がないんだ!」と開き直ることはできるでしょう。しかし、自分が当初大切にしようとしていた理念や思いを捨ててまで生き延びることに何の意味があるのでしょうか。そのようにして、「生き延びる」ことを目的としては何のために生き延びるのかがよくわからないようなゾンビ状態になりがちな組織、あるいは個人、というのは山程います。

言い換えれば、立ち位置を決める、というのは自身が生き延びることを前提にした態度であるのです。まさに自分が存在しないことを想定していないわけですから。しかし、どのような個人も、どのような組織も、いずれ存在しなくなります。そうであれば、自らが生き延びるために立ち位置を考えていく、ということが自らが生きるに値いする目的を損なうのかどうかを我々は常にチェックしていなければならない、ということになります。そうでなければ、必死に立ち位置を探しては決めたものの、そこに存続し続けるものはガラクタどころかむしろ有害無益なものでしかない、ということになりかねません。

一方で、自らの死、あるいは自らの消滅によって自分が生存していたことに何らかの価値を付与しようとすることもまた、傲慢であるとも言えるでしょう。死や消滅は、どのように自らの存続を「美しく」閉じようとも、何らかの価値を新たに付与するものではありません。「醜く生き延びるのであれば、美しく死にたい!」という思いは正しいとしても、それは「死ぬ」ことがそれまでの自分の人生を美しいものへと粉飾することには繋がり得ない、という事実にも思いを馳せねばならないと思っています。

だからこそ私達は生き延びるために自らの志を失う危険性に絶えずさらされながら、かといってその難しさに耐えかねては綺麗に閉じるために死を選ぶことすらできない、ということになります。全く、どんな厳しい罰ゲームであるのか、ですよね。生き延びることだけを自己目的化する方向に堕落することは容易であり、「生き延びない」という決意を見せることで空虚な自分の人生に価値づけをできたかのように錯覚することもまた、容易です。そのどちらにも陥ることなく、日々敗北し続け、失敗し続けては、何とか意味のあることを為そうともがき続ける、というこの罰ゲームは、私達人間の忍耐力のキャパを凌駕してしまっているのでしょう。

しかし、それでも。そのように細い細い綱渡りを、悩みもがき苦しみながら必死に取り組んでいる先達や同時代人がいる以上は、諦めるわけにはいきません。僕自身は、上記のような人生の全体像に気づき始めた頃(高校生)は、「いかに自分がそのような細い細い綱渡り」を諦めてよいか、それをどのように正当化できるか、に傾注していたときでした。「そんなしんどいことをやって生き続けている大人なんか、まわりにはいない!」ということを理由にして、ですね。ただ、数は少ないながら、そのような大人が僕の周りにも一人いちゃったんですよね。いちゃったからには、やらないわけにはいかない。そのように始めてみれば、いやいや。もちろん絶対数としては圧倒的に少ないながらも、しかし、そのようにしんどい道を諦めることなく闘い続ける大人がどれほどいるか、ということに気づき続けることになりました。彼ら彼女らのもがき苦しみとともに。

自分が生徒たちにとってそのような存在になれているかどうかは自信がないところではありますが、今はなれていないとしても、そのようになることを諦めたくはないと思っています。もちろん、そのような存在に僕がなることが、彼ら彼女らにとって極めて迷惑である(ジャン・バルジャンにとって馬車の車輪を直してしまう人のように)ともわかった上で、ですね。

立ち位置を決めることが、既存の社会の中に自らを位置づけようとすることであるのだとしたら、自分が信じる道を歩き続ける、ということは、新たな社会を準備していくことであると思っています。もちろんその「新たな」社会がより良いものになるかどうかは、以前にも書いたとおり、わかりません。「新たな」という言葉が引き起こす幻想でごまかしては前に勧めても仕方のないことではありますが、少なくともそれがこの社会よりはより良いものになるように、という祈りを込めて努力をすることと、それが本当に良くなるのかの検証作業はできるかと思っています。そのどちらもが、(僕も含めて)既存の社会の厚顔無恥さに苦しむ人々にとっては生きる目的になるとは思っています。

賢さ、と対立する概念は愚直さであるのでしょう。この社会に足りないのは、賢さではなく、愚直さである。
そのことを伝えられるように、僕自身がまずは愚直にやっていきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

「先を読む」ということ。

日々忙しくしているのはもちろんなのですが、この9、10月はどうにも絶望するきっかけが多く、精神的にも大変不調でした。もちろん、「絶望するきっかけ」というのはそのようにも解釈しうる、というだけで、絶望するという行為を必然的には意味していません。ただ、自分の中で様々な対象に認識が進んでいくことと、一方で目の前で見せられる幼稚さ、拙さ、考えの足りなさ、覚悟のなさの一つ一つ(それはもちろん他者のだけではなく、自分自身のそれをも含めてです。)とその認識とのギャップとに、だいぶ苦しんでいたと思っています。

もちろん今もまたその状態が何かしら解決するどころか改善はしていないです。むしろ展望としては生き続ければ生き続けるほどに悪化するしかないことではあるのですが、「生き続ければ生き続けるほどに、この乖離は拡がり続けるしかない」という認識を再確認できた上で、生き続けることに日々決断を要するということが(物心ついた頃から変わらず)僕にとっては当たり前のことである、と気づけたのは良かったと思っています。

生きるとは、自分が「根っこ」として大切にしよう、と思っていた部分がいかに空虚で軽薄であるかを気づき続けることであるとともに、しかし自分はいかにその空虚で軽薄な根っこからは逃げることができないか、という事実を直視し続けることであるとも思っています。気づかないようにすることも、気づいて放棄することも、それは生きることを辞めることであると思っています。その「(根っこの)掘り直し」のプロセスが、ときには必要であると思っています。

これだけ書くとご心配をおかけするかもなのですが、まあ平常運転ですね!

さて。受験生の中でスタディサプリとかN予備とか、映像授業のサブスクリプションをとっている子も多いとは思います。映像授業といえば、東進が先駆けなのでしょうが、これだけ安価で日本全国に広がってきていることは基本的には素晴らしいことであると思っています。コロナ禍での大手予備校の映像授業へのシフトは中途半端に終わってしまいましたが、これはとても残念なことであると思っています。もちろん「ライブ講義」でなければ質が担保できない、という超・超一流講師の方も存在するとは思うのですが、参加者に応じて毎回毎回違う授業をできる超・超一流講師の方、というのは基本的にはそう多くはないと思うので、基本的には動画の方がむしろ何回でも再生できて生徒がわからないところを繰り返せる、という点でも優れていると僕は思います。

もちろん映像授業の著作権は誰にあるのか、とか報酬はライブ授業と比べてどうするのか、とか、クリアすべきところはあって、それが急速に進んでは現在頑張っておられる予備校講師の方の生活が脅かされるのであれば、それは問題であると思います。そういった点はクリアしていかねばならないとは思います。(まあ、それを言うならそもそも学校の講義とかすべて動画でよくない?というのはあります。動画なら先生にやる気のない/力のない講義は見ないこともできますからね!)

ただ、嚮心塾がオンラインで存続することについては、不可能であると思っています。この形式の受験勉強というのを東京に住んでいる人だけではなく全国に広められれば地域間の教育格差は必ず縮小できる(なぜなら低コストな勉強方法であるからです)と確信しているのですが、僕自身、生徒の立ち居振る舞い、表情、行動パターン、言葉の使い方、お菓子の食べ方、視線の動かし方など、様々な情報を観察、収集した上で、どのようなアドバイスをしていくのかを考えています。これをオンラインでZOOMなどを使って行うのは無理である、と思います。

もちろん、それを「嚮心塾」である、と再定義をすれば可能であるでしょう。コンビニで売っている「名店の味」のカップラーメンのように、ですね。それは広告となり、認知度を上げることにもなるでしょうし、更にはクオリティに目をつぶれば儲かることにもなるでしょう。いえいえ。大義名分だって立ちます。世間に溢れかえっている眉唾の、主語の限定性への意識薄弱でそれを唱える人間の知性を疑わざるを得ないような「東大生の勉強法」的な粗悪な情報よりは、まともなものを提供できることもまた事実ではあります。しかし、それは僕が人生を費やすべきことではありません。

教育というのは本当に難しいものです。一人一人に対してその子の状況に応じて良かれと思うアドバイスをする、などというのは当たり前の当たり前の当たり前のこと(もちろんそれですら、ほぼどこの高校でも予備校でもできていないわけですが)で、それをしたとしても、どのような部分で引っかかり、どのように理解しているのか、その「誤解」や「理解」の一つ一つをときほぐしていかねばならない、という課題が絶えず残り続けます。本人が努力を怠るのならまだしも、本人も教師も必死に努力してもなお、伝えられないものが残り、伝わっていると思っているものが誤解され、そして結局それが受験の失敗という形で現れます(もちろん、受験には成功したとしても人間としての教育という部分での失敗が残る、というケースまで含めれば、なおさら難しいです)。

その難しさに目をつぶり、あたかも「このやり方さえ踏まえれば、大丈夫!」と断言するという粗雑な行為を、受験生へのプラセボ効果を期待しているというこれまた大義名分のために自分に許し、そのやり方をその一人の受験生がどのように踏まえられないのか、どうして踏まえてもうまくいかないのかについては思考停止をした上で、「自分は最善の方法を提示している!(からそれ以上は本人の責任だ!)」と開き直るのが教育であるのであれば、そのような教育など滅びた方がいい。しかし、僕はあまり自分を信用していません。コンタクトレンズではなくメガネをしているだけでもレンズの向こう側とこちら側とを分けては自分の思考に籠もりたいくらいに、本来的には他者への関心を持っていません。そんな僕が、画面を通して得られる限定的な情報に「歯がゆさ」を感じないために、ここまでに書いた様々な大義名分で自分を説得し始めては粗悪なものを垂れ流しては、自分と生徒との間の認識の齟齬に悩まなくなるのにも、そう時間はかからないでしょう。

少子化が進み、さらにコロナ禍でリモートが進み、という中でこの「直接来てもらう」「対面で教える」という教え方はいずれ絶滅するのでしょう。それが来年なのか、5年後なのか、10年後なのか、もうちょっと猶予があるのかはわかりません。ただ、そこで「先を読む」ことをして、そこに対応できるように仕事の形態を変えていく、ということがそもそもその仕事の意義を損なうものだとしたら、そこで「先を読む」ことは、「ここに意味がある!」と思って始めた仕事を、それが生計を立てるために必要だという理由で、意味がなくても続けることになってしまいます。そのような仕事には、あるいはそのような人生には、僕自身はあまり意味がないと思っています。もちろん旧態依然とした今までの有り様をただ惰性ゆえに変えたくない!としがみつくのもまた愚かな振る舞いです。ただコロナ禍で「新しい生活様式」「新しい仕事の有り様」と「新しい」を連呼しては、今までのやり方の意味や限界についてしっかりと考えることを排除していこうとするこの流れは、やはり僕には全体主義的である、としか思えません。

「新しさ」や「前衛的」、「先」を何か価値があることの根拠として語る人間、というのは、基本的には詐欺師です。「改革」ブームに国民が踊らされた結果、郵政民営化によってとうとう土曜日の郵便配達までなくなるそうですね。これが我々が望んでいた結果なのでしょうか。「新しさ」は決して、何もその新しいことの価値を保証しません。新型コロナによって我々が距離を保った生活を強いられるとして、それを「新しい生活様式」と呼んでは何かそれに対応できることが偉いかのように振る舞うのは、それが我々が自発的に選ぶべき価値があるものであるかのように宣伝することで、政府自身の無作為から目を逸らさせるためのものです。

「先を読む」ことが、自身が何を大切にしていたのかを失うことに繋がるのであれば、目的を忘れて生存し続けることを自己目的にすることになってしまいます。また、「先を読まない」で旧態依然とした制度にしがみつく人間であることを恐れるあまり、「先」や「新しさ」に何らかの価値があることを当然の前提として生きるのは、自身が嫌悪した旧態依然とした人間と同じく思考停止している状態でしかない、と言えるでしょう。ことほどさように、人間にとって考え続けることは難しい。人間は自身が考え続けないですむためのあらゆる逃げ道を探し続けている、とも言えるのだと思います。

そのような愚かしさに塗れたこの我々の歴史の中で、考え続けようともがき続けることは苦痛と苦悩しか生み出さないとしても、それでも考え続けていかねばならないと思っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop