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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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頑張らない。

日々、忙しく追われている中で、とうとう明日は共通テストになりました。
このコロナの感染状況の中で不安を抱えながら受ける受験生たちの最後の追い込みに、てんてこ舞いの状態です。

どうやれば入試で実力が出せるのか、という問いに対してこちらができる最良のアドバイスは「頑張れ!」ではなく、
「頑張らないで!」ということだと考えています。頑張ろうとすればするほどに、精神にこわばりが生じ、うまくいかないことが出てきたときにうまくいってほしいという自分の願望とのギャップに絶望しては、頭が働かなくなるからです。試験とは本来、うまくいかないものです。自分の理想通りの展開になんてなるはずがない。その現実をしっかりと直視し、その上でできることを制限時間の残りの一分一秒まで探し続けていく、ということが大切であるのだと思います。

言い換えれば、試験会場で自分ができる限り普段の実力を発揮するためには、自分にとってその試験がどれだけ大したことではない、と思えるかどうかが重要である、ということだと思います。自身の人生にとって大事な試験だと思えば思うほどに良い結果を出したくなります。良い結果を出すためには「気合い」を入れて必死に頑張ることが大切で、それで失敗した自分なんかイメージしていてはダメだ!!と書いてみると、どこかの首相の精神論でしかない感染症対策のように読めてしまいますが、『失敗の本質』という名著でも詳しく描かれていたように、日本人はとにかく自身の失敗の可能性を考えることが苦手です。自身の失敗の可能性を考えないようにするためにこそ、「気合」という言葉が使われているのではないか、とさえ思えます。

自身の失敗の可能性を徹底的に考えることは、今自分が存在している閉じた世界のその外の可能性を考えることであり、自らの頭の凝り固まりをほぐしてくれます。たとえば共通テストが失敗しても、私立大学受験というチャンスがまだあります。あるいは、失敗した点数で出せる国公立を受ければよいですね。「この大学のこの学部じゃなきゃ行かない!」と決めてしまっていないのであれば、そのように自身が失敗したときの可能性を考えることは有意義です。「失敗したら、すべて終わりだ!」と自分を追い詰めては受験すればするほどに、そのような緊張下では実力も出せなくなってしまいます。

ただ、このような「自身の失敗の可能性を直視して考える」という行為を受験生だけでなく我々大人も苦手であるのは、自身の願望通りに物事が進むことをついつい望んでしまいがちである、という自分への甘さだけではなく、根源的な恐怖ゆえでもあると思っています。「共通テストがダメならもう第一志望は受けられない!」という恐怖と同じように、人は何らかの望ましい結果、それが可能なものであるのか、何なら自分にとって本当に望ましい結果であるのかすらわからないものに執着することで、自身をmotivateし続けています。そこへの執着がなければ、自分が生きている意味すらわからない、となるのはそこへの執着を捨てた自分の中にそれに執着しなければらならなかったreasonableな動機など本来何もないことを自覚しているがゆえの恐怖であるのでしょう。その動機が空っぽである我々は、その執着にmotivateされては結果を出すことでしか、自らの存在意義が保てない。そのような根源的な恐怖が「望ましい自分」にしがみつき、それを「気合」で叶えようとしては、それが失敗したときの自分を想像しない、という蛮行へと自身を駆り立ててしまうのだと思います。

しかし、です。自身が失敗する可能性を直視しようとすることが、とりあえずは目の前の閉じた競争の中で自身が大きく失敗することを防ぐための道具として小賢しく導入されたのだとしてもなお、そのように自身の想定の外部性へと目を向けようとする努力は閉じた競争において自身を利する以上の何らかの結果につながるものであると、僕は信じています。まずは明日明後日の共通テストを塾生たちが自身の失敗の可能性を見つめた上で、最後まで闘い抜けるように、しっかり準備をしていきたいと思います。

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東京すくすくさんでインタビューを受けました。

高校受験に際しての、様々な注意や心構えを取材を受けたものを東京すくすく(東京新聞の子育て・教育情報サイト)さんに載せていただきました。こちらから読めます。本紙の東京新聞の方にも掲載されるそうです。是非お読みいただけたら嬉しいです。

受験情報というと、どうしても親御さんの不安を煽っては、講習会に課金しなきゃ!(この前は小6受験生の直前期で月30万円!なんて明細書がtwitterでまわってましたね。。)とか、あるいは家庭での早期教育!という方向への動機づけをさせるものが多いです。これは当たり前で、それらはその情報の発信者にとってマネタイズしやすい(お金を稼ぎやすい)ので、発信頻度が高いからですね。しかし、親子関係の信頼を掘り崩してまで成功する受験に意味はなく、受験はあくまでお子さんの成長のためのツールでしかありません。大きく課金することも、早期教育を強いることも、親が子供に対して大きな犠牲を払えば払うほどに子供に求める「見返り」が増えていきます。そのことは、受験に成功しようと失敗しようと親子の間で取り返しのつかないものを犠牲にしてしまう可能性が常にあります。

また、受験勉強自体もお金をかければかけるほどよい、というものでは全くありません。あくまでやり方の工夫や努力によってできる限り多くの子どもたちに開かれるべきものであり、決して受験を(お金をかけただけ強くなる)「課金ゲーム」にしてはならないはずです。そういった点でも身近な教材をどのように使うか、が大切であり、また実際にそれでかなり事足りるわけで、どの塾であっても「このうちの教材を使わなければ受からない!」と主張することはできないはずです。(もちろんそのような「オンリーワン」の教材を作ろうと努力する各講師の方々の努力は素晴らしいとしても、です。)「この教材じゃなきゃ!」という情報に振り回されることなく、「どう使うか」「どう勉強するか」に焦点を当てて考えていくことが大切であると思います。

その点でも取材をうけた東京すくすくさんは、巷に溢れている「親の不安をひたすら煽ることでマネタイズ!」という受験情報とは違った角度の情報を提供しようと努力されています。そのような良質の情報が少しでも広く親御さんにゆきわたることがまずは大切だと思いますし、その点でもこのようなサイト運営はこの社会の中でとても意義のあることだと思います。僕の記事だけでなく、お読みいただけたら嬉しいです。(埋め込みのリンクがわかりにくい場合には、直リンクも下に貼っておきます。)

https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/?p=39315

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内申点の暴力性について、再び。

中学の定期試験が終わり、高校受験の内申点がそろそろ決まる頃です。良かった子は良いとして、仮内申が発表されて、それで思ったよりも取れていなかったとしても、落ち込むことはありません。大切なのはここからの勉強であり、入試でしっかりと点数を取ることです。そのためにここからできることは山程あります。そこに向けて集中していくことが何より大切です。

しかし、高校受験に関われば関わるほどに高校受験での中学の先生のつける「内申点」の不透明さには辟易します。テストの点数が良くても「授業態度」「意欲」「関心」などを中学の先生が主観的につけ、90点オーバーの点数を取っていたとしても、それらの不透明な要素で5段階で3にされる、ということもざらにあります。塾でも毎年毎年中3生がこの内申点で理不尽な成績をつけられ、苦しんでいます。本当に良くない制度であると思っています。

「テストの点数が良くたって、授業中寝てたら成績悪くなるの当たり前でしょ!」という反論も先生側からはあるのでしょうが、なぜ授業中寝るのか、ですよね。たとえば授業がつまらない(「つまらない」には既習分野でわかっているから、もあれば、担当の先生の努力不足もあるでしょう)から寝てしまうとして、それを「つまらないけど内申点が悪くなるから起きて聞こう!」という姿勢を中3の子に強要するのは、端的に言って奴隷を再生産する制度でしかないと思います。おかしなこと、つまらないことであろうと、それに従わなければ自分が不利益を被るということを15歳の子たちに叩き込むような社会に未来などあるのでしょうか。。強く疑問に思っています(中には「授業中に手を上げた回数」で評価が決まる、などという例もあります。。こんなの、本末転倒も甚だしいですよね。。)。

もちろん学校の先生としては自分の目に映る姿がその子のすべてになりがちです。自分の授業中ずっと寝ている子がいるとしたら、その子はその先生にとっては「落第」なのでしょう。しかし、同時に教師が想像力を働かせなければならないのは、自分の目に映るその子が、決してその子の全てではない、という事実についてです。いつも自分の授業で寝ている子は、夜は必死に塾で勉強しているのかもしれません。あるいは家の事情でアルバイトや家の手伝いに明け暮れているかもしれません。その必死の努力故に、授業で眠ってしまうものの、しかし勉強はなんとか頑張って、定期試験ではしっかり高得点をキープしても「授業態度」故に内申点を低くつけられ、そのせいで行きたい高校にいけなくなるのだとしたら…。その子達は夢も希望もなくしてしまうのではないでしょうか。そのように15歳の子の人生を左右する権力を教師が握っている、ということに対して、もっと中学の先生方には恐ろしさを感じていただいた上で、基準をreasonableなものに明確化していくことを徹底していただきたいと思います。それをしていないせいで、苦しんでいる中学3年生がどれだけいるのか。。塾で教えているだけでも毎年、本当に理不尽なケースに出会います。このような理不尽な内申点の付け方によって、優秀であるのに公立高校を受けられなくなってしまう子もいるのです。仮に私立に受かったとしても、そのような暴力によって、子どもたちの心は本当に傷つき、そこから回復するのが難しくなってしまうケースすらあります。

明示されてるとしてもreasonableではない基準を生徒をコントロールするための道具に用いているのも問題ですが、そもそも基準が明示されない、というのはさらに大きな問題です。しかし、このような例も内申点の付け方には多々あると思っています。そして、基準が明示されないままに評価をつけられる、というのは、簡単に言えばカルトとか、社長がワンマンのブラック企業とかに似ていると思っています。どのような基準で自分が評価を上げられたり下げられたりがわからない環境に置かれ続けるとき、人間は思考を停止してひたすらに「上」の人の機嫌を伺い続けます。そしてそのように「上」の人の機嫌を伺い続ける内部の人々は何が基準かがわからなければわからないほどに、身も心も捧げ尽くすようになるのです。そしてそれを「自発的にそうしている」と自分で思い込み、それができない人々を排斥するようになります。そのような「地獄」を中3の子たちに味わわせていて良いのでしょうか。(こう書くと、「東京の内申点制度はまだ緩い!」とか「他の地域は3年間それが続く!」ということも言われるのでしょうが、どちらにせよこのように曖昧な基準に従い続けなければ自分が不利益を被るという「地獄」です。一方の地獄が別の地獄よりはまだマシということで正当化できるものではありません。ペーパーテストだけである方が、よほど自由であると思います。また、「それは勉強のできる子の意見だ!」ということも言われるのでしょうが、勉強ができない子が先生に盲従することで内申点で下駄を履かせてもらったとして、それは果たしてどこまでその後の社会においてその戦略で生きていけると言えるのでしょうか。それはlocalには最適の生存戦略だとしても、その後決して通用しなくなるのではないでしょうか。もちろん、日本社会全体を「上意」を理不尽でも踏まえることにひたすら特化した人々が出世していく社会にしていくことは可能です。あるいは、既に政府であれ会社であれ、そうなっている部分もあるのでしょう。しかし、そのような社会はたとえばこの新型コロナのような外部からの難題については、取り組む力を完全に失った社会になってしまうのだと思います。)

中学校での内申制度をこのようにたとえるのは不穏当と思われるかもしれませんが、それぐらいにひどい事実に毎年ぶつかる、ということにこちらもまた愕然としている次第です。まず、人間が人間を主観的に評価する、ということにはどのような天才が評価者になろうとも必ず限界がある、という事実を直視すべきです。その上で、中学校の先生方には自身の主観的「評価」のせいで、15歳の子たちの人生が大きく変わってしまう、という事実に対してもっと恐れを抱いていただきたいと思っています(ここまで書いてきましたが、もちろんこれは「中学の先生が個人的にひどい!」ということだけではありません(中にはそういうケースもありますが)。たとえば僕がこのように「主観的評価を(成績以外で)しろ!」と同じ要求をされたら、やはり何らかの基準を作ってそれを明示したとしても、それが誰かにとっては暴力的な評価になってしまうことも当然起こりえます。それほどに、主観的評価というのは難しいもので、どうしても教師の「好き嫌い」にすぎないものが評価基準の中に混入してきてしまいます(これは医学部入試の面接試験もそうですよね)。それぐらいに、人間が人間を評価する、というのは極めて難しい。だからこそ点数だけで決めることが一番フェアである、と考えています。)。

その上で、理不尽な内申点が出て、それに絶望している中3の子たちに。
こんな腐った制度のせいで、君の人生が狭められていくことが本当に申し訳ないですが、それでも君を受け入れてくれ、君の頑張りを認めてくれる高校は必ずどこかにあります。近くになかったら、通信制の高校や高卒認定試験で大学受験をにらんで勉強してもよいです(何なら、そっちのほうが勉強も進みます!)。勝負は大学受験です。君の人生を中学教師の恣意的な判断で左右させないことが、一番の復讐です。ぜひ、生き抜いてください。力になれることがあれば、何でも言ってもらえたら。

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嘘つきにつける薬。『ディスタンクシオン』

相変わらず塾はバタバタと忙しいのですが、今その合間を縫ってピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいます(「ディスタンクシオン」とはdistinction「区別」のフランス語です)。本当に素晴らしい本であるので、やるべきことを後回しにしては、ついつい読み進めてしまっているところです。。

この本の何が素晴らしいって、本当に容赦のない、何ら手心を加えることのない考察の数々ですよね。私達自身が自分の「個性」や「長所」だと思っているものがいかに、それ自体の内容を気に入っているかのように私達がうやうやしく振る舞おうとも、それが他の階級との差異を生み出すために選択されたコード(code)にすぎず、その内容について実は私達はさほど興味ももっていないし理解もしていない、ということを暴露してくれます。私達が「運命の出会い」と信じたいであろう自分のパートナーとの出会いですら、いかに打算に満ちたものであるのか、いかに暗黙の了解としての所属集団のハビトゥスに囚われたものであるのか、を示してくれます。自分のidentityとして信じたいものを私達は信じようとしているだけであり、しかしそれは社会の中での所属階級(それは現在所属している階級であるだけでなく、自身がそこに所属したいと思っている階級)への帰属感を示すためである、という意味ではそれはむしろ自分自身ではないために用いられるものであるわけです。

この本は私達が「私」や「貴方」として信じたいと思っているものがいかに一人称や二人称ではないのか、徹底的に外被を剥ぎ取っていきます。この本の中に出てくる様々な人々が「自分の趣味や好みを語るパート」の残酷さといったら!彼らが自慢気に語る自らの「趣味」や「思想」、「芸術観」といったその全てが、社会学者の冷徹な目によっていかに彼ら自身のものではないかが浮かび上がる、という仕組みです。本当に性格が悪いったらありゃしないですよね。

しかし、それが本当に素晴らしい。何より、言葉がこんなに容赦なく、真理を穿つために用いられ続けることに感動を覚えます。私達はとかく嘘をついては自分自身の立場を擁護するために言葉を使い続けてしまっているので、この社会全体にもそのような嘘の言葉ばかりが、政治でも仕事でもその他全ての人間関係の中にも充満して、あたかも本当のことをしゃべること自体が何か「空気の読めない」「社会人ではない」かのように非難されてしまう、という狂気の沙汰になってしまっています。そんな中で、これほどに言葉をひたすら、私達の信じたいもの、そうであってほしいと願うものを容赦なく剥ぎ取っては、私達自身のアイデンティティがいかに空虚で無内容なものでしかないかを描くために用いてくれていることに、本当に深いところから呼吸させてもらえる気がします。

嘘は、本当のことを伝えるために使われるとしてもなお、嘘であり続けます。その嘘に内包された善意によって一時的に正当化されたとしても、その内包されていたはずの善意すらも嘘は自分の都合の良いように定義し直してしまいます。そのようにして、不正に手を染める誰もが「これは仕方のないことだ」とゴールポストを動かし続けることになり、それを何とか正当化し続けようとする人生になっていきます。

私達に必要なのは、自分が見たいものを見たり信じたいものを信じたりするために嘘を吐き続けることではなく、自分の見たくないものを容赦なく見ようとしていくことなのではないでしょうか。言葉はこれだけ嘘を吐くことに用いられ続けてもなお、嘘を吐かないために用いることもまたできるのです。

衒(てら)い、とは自己イメージを作り上げては見せびらかすためであり、つまりそれは他者との「差異」を作るために内容を必要とする、ということです。これは前衛的な芸術を追い続ける、という態度にもまた現れるのだと思います。

どのような熱烈な「信仰」告白も、私達が追い求めるその価値が、「差異」を示すための「アクセサリー」あるいは「IDカード」以上の何かを内包していることを自明には示しえません。僕が信じる価値も、僕がそもそもこういった本を自分で「読まねばならない!」と感じて読もうとすることも、ブルデューの言うように僕の人格の奥底にインストールされた、自己を他者と弁別しては優位性を保つための権力意識に引きずられて行われる行為であるのかもしれません。それは光るものを集めるカラスのように、意味を理解しないままに習性として行われる、悲しい行為であるのかもしれません(もっともカラスに聞いてみたら、彼らには彼らなりの内実のある動機があって、我々人間の方がよほど内実のない動機から「文化的」に振る舞おうとしているのかもしれませんが。。)。

しかし、それでもなお、嘘の言葉ばかりが溢れかえる中で、このように本当のことを語ろうとして紡がれるむき出しで命がけの言葉には、誠実であらねばならないと感じます。そのような言葉には僕自身が「差異」を作ることでこの社会の中で立ち位置を確保しては生きていくためなどという低俗で下らない目的よりも、はるかに大切な価値があると信じています。それが、マタイの福音書でイエスがペテロを「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱ったときの「神のこと」であるのかな、と考えています。もちろん僕はそれを「神のこと」とは言いませんが、「人のこと」より大切なものがあることもまた確かである、とは思っています。


という本当に素晴らしい本である『ディスタンクシオン』がなんと、岸政彦先生の解説でNHK教育テレビの『100分 で名著』で12月に4回に分けてやります!!大部の本ですし、読むのは大変ですが、テレビは必見です!!

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