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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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練習は試合のように、試合は練習のように。

高校生の時に部活の顧問の先生から読め、と言われた本にビル・チルデンの『ベターテニス』という本(今は絶版のようです)がありました。この本の内容は何一つ覚えていないのですが、唯一覚えているフレーズとしては、「練習は試合のように、試合は練習のように。」というフレーズでした。これは受験指導には大変重宝させてもらって今でもよく使わせてもらっています。

「練習は試合のように」というのは、練習のときこそ試合のように必死にやってこそ初めて実力がつく、ということです。「どうせ練習だし、少しミスがあってもまあいいか。」と思っていては、力などつきません。そうではなく、練習の時の一つ一つのミスをどこまで突き詰められるか、そのミスを減らしていくためにはどのようにすればよいのかを絶えず考え続けることでテニスが上達する、ということです。これはテニスに限らず、受験勉強でも何でも同じだと思います。

「試合は練習のように」というのは、試合の時は「試合だから頑張る!」ではなく、普段の練習と同じだと思ってリラックスすると力を出しやすい、という話です。これもまさに受験にもあてはまります。試験会場で何とか頑張って良い結果を得ようと思えば当然うまくいきません。そうではなく、普段の練習と同じだと思って「いつもできていることをここでやるだけだ。」と思えば、力を出しやすくなります。
25年以上前に読んだワンフレーズしか覚えていない本の、そのワンフレーズを毎年繰り返して言っているというのも本当に面白いものです。

まあ、なぜこの話を書いているのかというと、朝弱い受験生が勉強できるように、毎朝早くから塾を開けているのですが、
それはさんざん寝坊されすっぽかされるのに、そのような受験生も受験当日は絶対に寝坊しないことからも、結局言葉で言うのは簡単だとしても、この意識の徹底が難しいのだな、と改めて思わされているからです。

結局「日常生活はありふれていて注意や緊張など必要のないものでできている」というように仮定しなければ人間の精神がもたない、ということがフェイルセーフのように先に存在しているのです。それ以上は自己を変えられないか、そこまで変えようとし、コントロールできるようになるかで、その子が将来一流になれるかどうかが変わってくるのでしょう。一日一日を注意や緊張を込めて生きるのでなければ、それは自分の人生を(ベルグソンの言うように)質から量へと貶めているのだ、と生徒たちに伝えるために、最後までもがき苦しみたいと思っています。

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私愛について。

今年(2019年)のセンター試験の漢文で杜甫にまつわる文章が出てきて、その文章の受験生への解説の中でどうしても「私愛」という言葉の意味がわからない、という話になりました。

杜甫が病弱なのは家の中で住む部屋の運気が悪い、ということで叔母の子と場所を交換してもらった結果として、杜甫は生き残り叔母の子は死んだ、というその話は、果たして叔母の愛情が深いといえるのか。むしろ、我が子に対する酷薄さではないのか。具体的には引き合いに出された魯の義姑の行いですが、自分の子の命よりも兄の子の命を大切にすることがなぜ「私愛を割(た)つ」こととして賞賛されるのか、ということがなかなか受験生には理解しにくいようでした。

僕は次のように説明しました。

「愛情は常に偏る。自分の近しい人は猫っ可愛がりをしていても、遠くの人間が苦しんでいたり、死んでしまおうとも自分の家族、親しい人さえ幸せであればそれでいい、というように人間はどうしても考えてしまう。だからこそ、そのように人間の愛情というものは近視眼的に近くの人間しか愛せなくなるようなエラーを常に引き起こすものとしてそのような偏りを恐れる、という思想が人間の歴史にはずっとあった。それがこの文中で言う『私愛を割つ』だし、キリスト教で言う『隣人愛』などもそうだ。キリスト教もマタイの福音書とかを読めばわかるように、いかに「家族への愛」というものと戦おうとしたかという思想だ。それほどに人間は家族への愛情(「私愛」)の前に屈服する歴史をずっと繰り返してきた。しかし、今やキリスト教さえも、『親と子の間に剣を投げ入れる』本来の意図はすべて消毒されて、家族で仲良く日曜日に礼拝に行くことによって無毒化されているんだよ。」と。

もちろん、我が子を犠牲にすることがより崇高な愛であるわけではありません。どちらも大切であるのです。しかし、我が子と兄の子、あるいは我が子と他人の子の危機を目の前にして、当然我が子を助けるのではやはり、人間として疑いがなさすぎる、と僕は思います。私達が我が子を愛するこの思いも、種の保存のためにプログラムされた一つの恣意的なシステムにすぎないのかもしれません。危機的状況を目の前にして我が子と他人の子とどちらの命を助けるかをまず僕自身が迷い続ける人間であり続けたいし、塾の子たちにもそこで迷える人間になって欲しい、と思っています。(以前もこのようなものを書きました。)

もちろん「私愛を割つ」ことが家族愛より至上の道徳であるかのような価値観を流布すれば、それもまた可能にはなります。しかし、それは単なる支配的価値観の上書きでしかない以上、それに基づいてなされる全ての行いもあまり価値のないものです。「私愛」とは「偏りのある愛」だそうです。自らの愛が偏っていないかどうかを常に疑い続けるのでなければ、愛は容易に硬直化した道徳へと置き換わり、そしてその道徳はまさに愛を殺すためのツールになります。硬直化した道徳を乗り越えるとき、生物種の維持のために必要な社会形成の潤滑油としての道徳を乗り越えるときにこそ、人間の愛情にはその存在意義があるからです。そのようなことが少しでも生徒たちに伝わればよいな、と思います。

教育に携わる、というのは日々各ご家庭の私愛と向き合う、ということでもあります。入試前日の、受験生の人生の掛かった勉強よりも、大して緊急ではない自分の子供の勉強を優先して見てほしい、という私愛に絶えずさらされ、そのリクエストを満たさなければさっさと見捨てられることも多いです(嚮心塾では体験入塾期間だけいい顔をして「入試直前でも入試関係ない子をじっくりとつききっきりで教えるよ!」という指導は致しません。それは詐欺にあたると思うからです。日常の塾では受験間近には当然受験生を優先しますし、それに納得して入っていただきたいと思っています。)。自分の子の受験には大騒ぎをするのに、そのように今しんどい中でもがき苦しんでいる「他の子の受験」については想像力を働かせないご家庭が多い中で育った子どもたちは、やはり「私愛を割つ」必要性というのは理解しにくいのでしょう。だからこそ、少しでも僕自身の取り組み方からそれが伝わるように、必死に努力を続けていきたいと思います。

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「合格しよう!」と思うな。タスクフォーカスの大切さについて。

昨日でセンター試験が終わりました。結果が良かった受験生も悪かった受験生もいますが、いずれにせよそのことを引きずっていても意味がありません。まだできること、次にできることに集中していくことが大切だと思います。

前号くらいの『ハイキュー』(大人気のバレーボール漫画です!)にタスクフォーカスの話が出ていました。これは「自分にコントロールできないことまで含めて良い結果を出そう!」と考えれば、当然迷いや悩みが増えることでパフォーマンスが低下して、結局結果も出せなくなる、という状況を避けるために、自分がコントロールできることに集中する、という意味の言葉です。(古くはイチローさんがよくこのような内容を話していました。「首位打者をとれるかどうかは自分にはコントロールできないことなので、自分が今打てなかった球をどのように打つかだけに集中している。」という一見そっけなく聞こえるあのコメントが、タスクフォーカスの好例でしょう。)

そしてスポーツと同じく受験においてもこのタスクフォーカスが重要です。「合格しよう!」というよくある意気込みは、受験における合格が他の受験生との相対評価であることを考えれば、自分にはコントロールできない状況までを目標に含めている、という点でタスクフォーカスができていないわけです。そのように目標設定をすれば、当然当初の目論見からのズレに対して精神的に修正が効かなくなってきてしまいます。

では、「自分は良い点をとろう!」はタスクフォーカスできているのでしょうか。それも違います。受験は相対評価であり、自分が良い点をとれなかろうと、他の受験生と比べてそこそこであれば合格できます。
そして、大学受験においては問題の難易度を大学の先生が「間違える」ことは多々あるので、
自分が全然できていなかったとしても、他の受験生ができていなければ合格します。
それなのに「良い点をとろう!」という目標をもってしまっていると、現実の試験でそれが実現できなそうになったとたんに諦める気持ちが生まれてきます。その諦めの気持ちがあるせいで、その後頑張ればうかっていたとしても、
結局粘れず落ちてしまうことになります。

だからこそ、受験においてのタスクフォーカスした目標設定とは「自分にできる問題は見逃さないようにしよう!」ということです。実力があれば、それができれば受かります。それができてもなお、不合格になるとすればそれは自分の実力が足りないからであり、自業自得です。自分の実力以上に出して合格しようと思うことがすべての間違いであるのです。

と、口で言うのは簡単です。それを自分の人生がかかった大勝負のときに、それができるようにするためには「自分にできる問題は見逃さないようにしよう。それがしっかりできて落ちたなら落ちてもしょうがない。」と受験生本人が心底思える状態にならねばなりません。そのときに一番障害となるのが「何とかして受かってほしい」という周囲の期待と「受かって早く受験を終わらせたい」という受験生本人の願望です。もちろん受験生本人はそのような願望と常に戦わざるを得ません。だからこそ、周囲の期待を受験生本人に伝える(言葉で言わなくても、お守りを渡す、とか無言のプレッシャーはありますよね。。)のは愚策中の愚策であるのです。

「合格するための一番の近道は、合格しようと思わないこと。」などとまとめると禅問答っぽいのですが、これはタスクフォーカスという観点から見ても正しいといえるでしょう。

さて。終わったセンター試験の点数は良かろうと悪かろうと、今さら変えることはできません。
それについて悩んだり、もっと取れていればと悔やんだり、あるいは良い点数で喜んだり、というその全てが
自分がこれ以上コントロールできないことに思考の対象を向けている時点で、やるべきことをやれていない、
タスクフォーカスができていない状況だとも言えるでしょう。だからこそ、これからできることに目を向けて
そこに時間を必死に費やしていくことが大切です。

どのような絶望にも、最終的な絶望などはありません。絶望のその先にこそ、可能性がある。
それを見逃さないように、前を向くことが大切です。一人一人の受験生がそのように思えるように、
こちらも全力を尽くしていきたいと思います。

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オッカムの剃刀。

昨日はセンター試験前日でさすがに戦場のように忙しく、ブログが書けませんでした。
出来る限りの準備はしたので、あとは今日明日と受験生たちが頑張ってくるのを信じて待つのみです。

教えるということは常にこちらの無力さを思い知らされる行為です。勉強の内容を正確に理解してもらうことももちろん大変ですが、それ以上に、一人一人が試験でうまくいかないことには、今までにその子が身につけてきた慣習の中に様々な要因が隠れています。その一つ一つを洗い出し、徹底的に疑い、その上で何がよりよいあり方であるかを考えていく、というのは本当に途方もない作業です。

全てを疑い、うまくいかないのはこれが原因ではないか、と特定することもまた極めて難しいのですが(それこそ眼鏡の度から、解くときの姿勢、鉛筆の持ちかた、視線の動かし方、手の動かし方、試験中に粘るか飛ばすかの様々な判断基準など多岐にわたります。)、より難しいのはそれに対する解決策の方です。

仮に「これがうまくいかない原因ではないか」と特定できたとしてそこで提案できる解決策は、その子にとって定着可能な解決策でなければなりません。たとえば二人の受験生が同じ理由で試験でのパフォーマンスが悪かったとしても、それに対する解決策は当然変わってきます。その子の解き方、考え方の傾向にとってその最善の解決策を「移植」することが定着しにくいと考えるときには次善の解決策、さらにそれでも難しい場合にはその次の解決策、というようになるからです。その子の根本的な傾向を出来る限り大きくは変えないで済むような解決策でなければ、それを導入しようとしても、結局定着せずに終わります。

その子がうまくいっていない原因はたいていその子の根本的な傾向から生ずる盲点に由来する以上、その子の様々な振る舞いの中で改善すべきところ、というのはたいていその子にとっては受け入れがたいところです。単純化して言えば、真面目な子にはいい加減さを、いい加減な子には真面目さを、要求するようなものです。

しかし、それを定着させていくためにはそのように本質的な傾向からは真逆だけれども、しかし必要なことがどのような形であればその子の中に定着しうるのかを探りながら教える側が考えていくことになります。これは別に受験直前の受験生の側に「受かるとしても苦手なことはやりたくない!」というわがままがあるというわけではありません(もちろん、そういう受験生も大学受験生ですら多々いることは事実なのですが…。)。仮に本人が合格するためにはそのような努力を全面的に受け入れる覚悟が(僕との信頼関係の中で)できていたとしてもなお、それを移植することが彼/彼女にとって根本となる原理を増やすことになってしまえば、返って失敗を招く可能性を増やしてしまうこともある、ということです。だからこそ、そのような一人一人の思考回路の中でうまく活きる形にカスタマイズして彼/彼女に足りないものをインストールできるかどうか、彼らの根本的な原理とできるだけ矛盾しないでかつできるだけ少ない原理を導入することで何とか結果を出せないかというところに教育者の腕の見せ所があると思っています(これが教育とは「オッカムの剃刀」的だなあと僕が感じるところです)。シンプルな原理原則に従う受験生の方が、必ず入試という極限状況においては力強いからです。そして、これが本当に難しい。毎年毎年、一人一人に対して本当に頭を悩ませながら教えています。

だいぶ教育論としてはマニアックな話になりました。今年のセンター試験もそのように苦心して教えてきたことを
少しでも受験生たちが活かせることを願っています。

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