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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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「合格しよう!」と思うな。タスクフォーカスの大切さについて。

昨日でセンター試験が終わりました。結果が良かった受験生も悪かった受験生もいますが、いずれにせよそのことを引きずっていても意味がありません。まだできること、次にできることに集中していくことが大切だと思います。

前号くらいの『ハイキュー』(大人気のバレーボール漫画です!)にタスクフォーカスの話が出ていました。これは「自分にコントロールできないことまで含めて良い結果を出そう!」と考えれば、当然迷いや悩みが増えることでパフォーマンスが低下して、結局結果も出せなくなる、という状況を避けるために、自分がコントロールできることに集中する、という意味の言葉です。(古くはイチローさんがよくこのような内容を話していました。「首位打者をとれるかどうかは自分にはコントロールできないことなので、自分が今打てなかった球をどのように打つかだけに集中している。」という一見そっけなく聞こえるあのコメントが、タスクフォーカスの好例でしょう。)

そしてスポーツと同じく受験においてもこのタスクフォーカスが重要です。「合格しよう!」というよくある意気込みは、受験における合格が他の受験生との相対評価であることを考えれば、自分にはコントロールできない状況までを目標に含めている、という点でタスクフォーカスができていないわけです。そのように目標設定をすれば、当然当初の目論見からのズレに対して精神的に修正が効かなくなってきてしまいます。

では、「自分は良い点をとろう!」はタスクフォーカスできているのでしょうか。それも違います。受験は相対評価であり、自分が良い点をとれなかろうと、他の受験生と比べてそこそこであれば合格できます。
そして、大学受験においては問題の難易度を大学の先生が「間違える」ことは多々あるので、
自分が全然できていなかったとしても、他の受験生ができていなければ合格します。
それなのに「良い点をとろう!」という目標をもってしまっていると、現実の試験でそれが実現できなそうになったとたんに諦める気持ちが生まれてきます。その諦めの気持ちがあるせいで、その後頑張ればうかっていたとしても、
結局粘れず落ちてしまうことになります。

だからこそ、受験においてのタスクフォーカスした目標設定とは「自分にできる問題は見逃さないようにしよう!」ということです。実力があれば、それができれば受かります。それができてもなお、不合格になるとすればそれは自分の実力が足りないからであり、自業自得です。自分の実力以上に出して合格しようと思うことがすべての間違いであるのです。

と、口で言うのは簡単です。それを自分の人生がかかった大勝負のときに、それができるようにするためには「自分にできる問題は見逃さないようにしよう。それがしっかりできて落ちたなら落ちてもしょうがない。」と受験生本人が心底思える状態にならねばなりません。そのときに一番障害となるのが「何とかして受かってほしい」という周囲の期待と「受かって早く受験を終わらせたい」という受験生本人の願望です。もちろん受験生本人はそのような願望と常に戦わざるを得ません。だからこそ、周囲の期待を受験生本人に伝える(言葉で言わなくても、お守りを渡す、とか無言のプレッシャーはありますよね。。)のは愚策中の愚策であるのです。

「合格するための一番の近道は、合格しようと思わないこと。」などとまとめると禅問答っぽいのですが、これはタスクフォーカスという観点から見ても正しいといえるでしょう。

さて。終わったセンター試験の点数は良かろうと悪かろうと、今さら変えることはできません。
それについて悩んだり、もっと取れていればと悔やんだり、あるいは良い点数で喜んだり、というその全てが
自分がこれ以上コントロールできないことに思考の対象を向けている時点で、やるべきことをやれていない、
タスクフォーカスができていない状況だとも言えるでしょう。だからこそ、これからできることに目を向けて
そこに時間を必死に費やしていくことが大切です。

どのような絶望にも、最終的な絶望などはありません。絶望のその先にこそ、可能性がある。
それを見逃さないように、前を向くことが大切です。一人一人の受験生がそのように思えるように、
こちらも全力を尽くしていきたいと思います。

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オッカムの剃刀。

昨日はセンター試験前日でさすがに戦場のように忙しく、ブログが書けませんでした。
出来る限りの準備はしたので、あとは今日明日と受験生たちが頑張ってくるのを信じて待つのみです。

教えるということは常にこちらの無力さを思い知らされる行為です。勉強の内容を正確に理解してもらうことももちろん大変ですが、それ以上に、一人一人が試験でうまくいかないことには、今までにその子が身につけてきた慣習の中に様々な要因が隠れています。その一つ一つを洗い出し、徹底的に疑い、その上で何がよりよいあり方であるかを考えていく、というのは本当に途方もない作業です。

全てを疑い、うまくいかないのはこれが原因ではないか、と特定することもまた極めて難しいのですが(それこそ眼鏡の度から、解くときの姿勢、鉛筆の持ちかた、視線の動かし方、手の動かし方、試験中に粘るか飛ばすかの様々な判断基準など多岐にわたります。)、より難しいのはそれに対する解決策の方です。

仮に「これがうまくいかない原因ではないか」と特定できたとしてそこで提案できる解決策は、その子にとって定着可能な解決策でなければなりません。たとえば二人の受験生が同じ理由で試験でのパフォーマンスが悪かったとしても、それに対する解決策は当然変わってきます。その子の解き方、考え方の傾向にとってその最善の解決策を「移植」することが定着しにくいと考えるときには次善の解決策、さらにそれでも難しい場合にはその次の解決策、というようになるからです。その子の根本的な傾向を出来る限り大きくは変えないで済むような解決策でなければ、それを導入しようとしても、結局定着せずに終わります。

その子がうまくいっていない原因はたいていその子の根本的な傾向から生ずる盲点に由来する以上、その子の様々な振る舞いの中で改善すべきところ、というのはたいていその子にとっては受け入れがたいところです。単純化して言えば、真面目な子にはいい加減さを、いい加減な子には真面目さを、要求するようなものです。

しかし、それを定着させていくためにはそのように本質的な傾向からは真逆だけれども、しかし必要なことがどのような形であればその子の中に定着しうるのかを探りながら教える側が考えていくことになります。これは別に受験直前の受験生の側に「受かるとしても苦手なことはやりたくない!」というわがままがあるというわけではありません(もちろん、そういう受験生も大学受験生ですら多々いることは事実なのですが…。)。仮に本人が合格するためにはそのような努力を全面的に受け入れる覚悟が(僕との信頼関係の中で)できていたとしてもなお、それを移植することが彼/彼女にとって根本となる原理を増やすことになってしまえば、返って失敗を招く可能性を増やしてしまうこともある、ということです。だからこそ、そのような一人一人の思考回路の中でうまく活きる形にカスタマイズして彼/彼女に足りないものをインストールできるかどうか、彼らの根本的な原理とできるだけ矛盾しないでかつできるだけ少ない原理を導入することで何とか結果を出せないかというところに教育者の腕の見せ所があると思っています(これが教育とは「オッカムの剃刀」的だなあと僕が感じるところです)。シンプルな原理原則に従う受験生の方が、必ず入試という極限状況においては力強いからです。そして、これが本当に難しい。毎年毎年、一人一人に対して本当に頭を悩ませながら教えています。

だいぶ教育論としてはマニアックな話になりました。今年のセンター試験もそのように苦心して教えてきたことを
少しでも受験生たちが活かせることを願っています。

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浪人制度を守ろう!

もはやテレビタレント化した東進ハイスクールの林修先生ですが、そうは言ってもコメントの一つ一つはそこそこクレバーさを失ってなくてかえって信頼を高めているからこそ、テレビ界でも、もちろん本業の方でも長続きしているのでしょう。林修先生は確かに的を外していないコメントが多いと僕も思いますし、その実力で稀有な立ち位置を維持されているのだと思います。ただ、そんな彼のコメントの中で、珍しく僕が全面的に違和感を感じるのは、「大学受験で浪人制度を禁止しよう!」という提言です。これに関しては僕は真っ向から反対です。

「高校の勉強なのだから高校3年間勉強すれば良い。浪人生はズルい!」という彼の主張は、それを阻害する様々な要因が高校生の外部にも現実にはあることを無視しています。たとえば高校生が部活を自発的にやっているかといえば、たいていの場合、「入ったはよいものの、あまりに練習が忙しく勉強もできずに、さらにはそこからやめようとしようものなら顧問に激詰めされる」というブラック部活が多いです。そのような部活に入ったら最後、高3の引退までは部活で忙しく定期試験勉強もおろそかなままに受験生になることになってしまいます。そのような受験生が「入れる大学に入れば良い」というのはあまりにも無責任な話です。(これは運動部だけでなく、吹奏楽部や合唱部などの文化系の部活でも強豪校は本当にひどいです。まるで生徒の将来に大学受験など一ミリも関係ないかのような部活三昧で高校生活を潰し、そしてその結果何も勉強ができていないことには責任はとらないわけですから)。

また、高校に通う間はバイトで家庭の生計を支えながら勉強するしかなく、浪人してから本格的に勉強して学費の安い国公立大に行きたい!という子もいます(塾でもそのような子を何人も見ています)。一人一人が高校3年間の中で十分な受験準備ができるかどうかにはこのように本人の努力以外の要素も必ず入ってくるのにも関わらず、高校3年間の努力だけで大学入学を決めてしまえば、それはやはり受験勉強だけに専念でき、さらには予備校や塾などに通い放題の裕福な層がその後の人生でもアドバンテージを維持できることになるでしょう。それを是としてよいのでしょうか。この問題に関しては、浪人制度を廃止するのは明らかに格差の再生産に繋がってしまうと思います。

このようにやむを得ない事情で高校生活の中で勉強ができない場合だけでなく、高校生が高校生活を自分の判断で勉強以外に費やしたとしても、それでもやはり僕は浪人制度の廃止には反対です。高校生活をどのように過ごしたとしても、一人一人にやり直しの機会があることが大切だと考えています。そのやり直しの機会を奪えばどうなるかと言えば、結局社会の中でいわゆる「高学歴」になる層がどんどん集団として多様性を失っていくことになります。それは結果として社会全体にとっても不利益でしかないでしょう。

たとえば現役で難しい大学に合格した人たちは浪人した人たちのことを「サボっていたんだから自業自得だ。」と今でも見なしがちです。今でもこのような偏見が強いのに、実際に浪人制度の廃止がなされればさらに、行く大学までが高校3年間の努力だけで決まってしまうことになり、当然上位の大学に入った学生たちが下位の大学に入った学生たちを見下すことにさらに拍車がかかることになるでしょう。そのようにして社会的分断は完成してしまうのではないか、と思います。

minorityに対するaffirmative action(少数派優遇措置)に対して一番批判的であるのは、self-madeな(優遇措置なんかなくても社会的に成功した)minorityである、という話は有名ですが、人間は自らの想像力の欠如から、自分の努力によって獲得したと信じているものに対しては横暴であり、他の人がそれを得ていないということはそもそも努力が足りなかったのだ、と類推しがちです(たとえば首都圏から東大に入るよりも地方からmarchに入る方が難しいと思えるくらい、勉強のための環境が日本国内でも格差があると思うのですが、そのように自己の努力の成果を客観視できる東大生は稀です。)。浪人制度の廃止によって高校3年間の努力だけで大学が決まることになれば、脇目も振らずに受験勉強だけをしてきた視野の狭い人間だけがその後のキャリアにおいても優遇を受ける、ということになってしまいます(もちろん今でもその傾向は強いわけですが一層助長することになります)。このような社会は決して望ましいものではないと思います。

自身の視野の狭さに気づき、凝り固まった自己の価値観を打ち捨てて一からやり直したいと思える瞬間こそが、人間の一番美しい姿であると僕は思います。迷いなく選ばれた「正解」になど、何の意味があるのか。だからこそ、そのようなやり直しの機会を多くの若い人たちから奪う浪人制度の廃止には、僕は絶対に反対です。

とはいえ、世の中の風潮は確実にそちらへと動いていっています。英語の外部入試導入もその一つです。また医学部入試不正でも明らかになったように高校の時の成績を入試に入れる、大学入試における高校の調査書重視を進めようとする文科省通達など、やり直しのきかない社会にしていこうという動きは最近どんどん強くなっています。だからこそ、やり直しのきかない社会へと変わっていこうというこの動きに、一つ一つ我々が異を唱えていくことが大切であると思っています。心から自らの愚かさを反省し、やり直そうと思う人々の意欲を削ぐような社会であってはならない。切にそう思っていますし、そのように頑張ろうとする子たちの拠点になれるように、嚮心塾ももっと努力を続けたいと思っています。

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人間は、直前まで伸びる!

今日はさすがに忙しく、「この期間毎日ブログを書くぞ!」という誓いがもう既にピンチを迎えているので、さらっと書ける教育のことでも書こうと思います。

勉強が間に合わずに苦しんでいる高校3年生に、学校の先生方が「現役生は最後まで伸びるぞ!頑張れ!」と励ますことが多いのでしょう。この言葉はよく使われます。この励ましの動機自体はもちろん素晴らしいものなのですが、この言葉が呪いのように浪人生を縛り、「浪人したってこれ以上伸びないかも…」「一通り勉強してきてしまったからもうあとは実力をキープするだけかも…」ということを言ってしまう受験生は多く、そのたびに僕は「そんなことない!」と言葉を尽くして説明をしなければならなくなります。

僕も長いこと受験に携わっていますが、もうこれ以上何を勉強しても点数が上がらない、という受験生には一人も出会ったことがありません。どのように優秀な受験生にも、必ず鍛えるべき弱いところがたくさんあり、それを鍛えよう、それが終わったらこっちも鍛えよう、とやっているだけでもあっという間に受験までの時間が過ぎていきます。だからこそ、「現役生は直前まで伸びる」のは正しいとしても、「浪人生も直前まで伸びる」も正しく、何なら「人間全て死ぬ直前まで伸びる!」がほぼ正解なのではないか、と思います。まずはこのことを強く訴えたいです。「これ以上勉強しても伸びない」というときは必ず、「全てやり尽くした」の「全て」を自分に都合よく解釈しているだけ、あるいは自分の弱いところは見たくないのでそもそも視野に入れないようにしておいて、それ以外の部分を「全て」と言っているだけだと思います。

もちろん、それを自分の力で見つけていくのは難しいとしても、見るべき人が見れば必ず弱点があるのだと思います。

裏を返せば、教師がやるべき仕事とは、そのような見落としがないかどうかを、どのようにできる受験生に対しても
最後の一瞬まで徹底的に疑い抜き、調べ尽くしていくことです。それはその生徒がどのような絶望的な状況においても諦めないのとともに、その生徒がどんなに模試やその他の材料が彼の成功を約束しているかのように見えているとしても、必死に疑いぬく姿勢を保たなければなりません。このような姿勢はときに、受験生本人からも嫌がられることもあるでしょう。人間は見たいものを見ようとするものです。自分が諦めたいときに、自分以上に自分のことを諦めない教師はうっとうしいものです。あるいは、自分が不安な気持ちを何とかゴマかして本番の入試をやり過ごしたいときに、徹底的にもっと鍛えなければならないポイントを探そうとし続ける教師もまた、うっとうしくてたまらないと思います。

しかし、です。入試には、あるいは現実には、と言い換えてもいいですが、決してごまかしがききません。自分の脳内で「こうあってほしい」と思うように現実が進むことのほうがありえないことです。だからこそ、そのどちらの態度をもとりながら、ときに受験生本人に嫌われながらでも、僕は最後まで何とか合格可能性を探るとともに、その合格可能性を徹底的に疑っていきたいと思っています。

人間は、直前まで伸びるのです。もちろん、それを誰に対しても全て実現できるほど僕には能力はありません。
しかし、それを最後まで決して諦めずにやるべきことを徹底的に尽くしていきたいと思います。
(ナメック星の長老のように、簡単にできたらよいのですが、実際には徹底的な試行錯誤とすべてを疑うことからしかそれはできませんので、恐ろしく地道な作業です(もっともその後修行して悟飯やクリリンももっと強くなったわけですから、ナメック星の長老も僕と五十歩百歩かもしれません。体型は間違いなく五十歩百歩です!)。そういえば、過去にはメガネの度が合っていないことを見抜くことでセンター試験直前に点数が上がった受験生もいました!)。

ここからはセンター試験、高校推薦入試、私大入試、中学入試、私立高校入試、都立高校入試、そして国公立大学入試と息をつく暇もないのですが、最後まで「人間は、(死ぬ)直前まで伸びる!」と言い続けて努力していきたいと思います。

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