嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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お月謝の改定についてのお知らせ

お月謝の改定についてのお知らせ

いつもお世話になっております。嚮心塾を作った理念の一つとして、親の所得格差が子供の教育格差につながり、貧富の差が世代を超えて再生産されていくというこの現状に対して、少しでも抗いたいという思いがありました。だからこそ「受験生の全ての指導を出来る限り低廉な金額で行いたい!」という思いで、開塾以来12年間お月謝を一度も上げることなく運営してきたわけですが、消費税負担やさらにその税率の上昇も見込まれる中で、段々と元のお月謝の金額では塾の運営自体が継続不可能になってきてしまいました。大変苦渋の決断ではあるのですが、お月謝を値上げさせていただくことを今回お願いしたいと思っております。

具体的には以下のようにさせていただきます。

(2018年3月分より改定) 現在           → 改定後金額
小中高の非受験学年生  通常24000円(夏期・冬期は27000円)→ 毎月26000円
小6・中3・高3受験生 通常33000円(夏期・冬期は36000円)→ 毎月36000円
浪人生         通常33000円(夏期・冬期は36000円)→ 毎月40000円
(なお、この改定に際して通常月と夏期・冬期で金額が違っていてわかりにくかった料金体系を各月同じ金額に致しました。)

さらなるご負担を強いてしまうことを本当に心苦しく思っております。このような値上げする際に見受けられる逃げ口上である「より一層のサービス向上に努め」ることも嚮心塾に関してはこれ以上はほぼ難しいとも思っているのですが、指導する僕自身の質を上げていくことはまだまだ可能であると思っておりますし、そのために必死に努力していきます。どうかご理解をいただけると有難いです。

                  2017年11月14日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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形にならないものに、どう寄り添えるのか。

私達が抱える得体の知れない感情をなんらかの形へと言語化することで、私たちはそれに耐えられるようになります。それは「気づき」としても捉えられるもので、言語化できていないことによって自らを押しつぶすような感情を言語化することで、その正体や特性、由来に気づき、そして具体的な対処法を考えることができる、ということです。

しかし、一方でこのような言語化が上手に出来ればできるほどに、逆に苦しくなっていく部分も私達の中には確かにあります。それは「怒り」「悲しみ」「迷い」「恐れ」などといった名前には分類し難いものを、どこかに整理していくことによって、その正体をひどく小さなものへと押し込めてしまったり、そこで貼ったラベルに実態とのずれがあったとしても、それに関してはそれ以上考えないようにしてしまうがゆえに、その違和感が新たなラベルを貼ることへの恐れを生み出すことになります。

いや、それはまだマシな状態なのかもしれません。私たちは自分たちがつける名前と実態とのズレに気づいて名付けることに恐れを抱けるほどに自分の名付けに自覚的であることのほうが遥かに少なく、殆どの場合において自分が名付けた名前からフィードバックを受けて、あたかも自分がその感情を抱いているかのように生きてしまうことの方が多いのでしょう。「この感情を喜びという。」「この感情を悲しみという。」というように定義されたマナーとしての感情、他者に見せるためのものとしての感情を私たちは生きることになります。そして、それは名前を与えられているがゆえに、自分のものではなくなります。

たとえば、最初の段落で書いたような「分析」や「定義」は本来自分自身を把握するためのツールとして導入されたはずであるのにもかかわらず、そのような「分析」や「定義」はやがて自己を疎外して、自分の中の部分を他者にも理解できるような部分へと分解していきます。自分の中のある部分が他者へも理解できるように分解したときには、もはやそれはそもそも自分そのものではなくなるかもしれない、という恐れを一旦は無視して、です。それが「とりあえずはその差異は無視しましょう!」という態度のもとであればよいのですが、そのような定義は自分自身をも縛るものとなっていきます。

そのようにして私たちは自己疎外の状態(自分が自分ではなくなっていく状態)へと陥っていくと言えるでしょう。

しかし、かと言って私達の抱える感情を言語化せずに未分化なまま、放っておくこともまたむずかしいのです。それは、対処できるものまでも致命的なものへと放置してしまうでことにつながります。

人間は自らの感情に名前をつけながら感情を飼いならしていかなければならないと同時に、自らの名前をつけた感情が本当にその名前で合っているのか、全てを汲み尽くせているのかを絶えずチェックしていかねば自分で自分をコントロールしているつもりで自分ではないものへと自分を作り変えてしまっていることになってしまう。本当に難儀な生き物です。

だからこそ、未分化の感情を呼び覚ましてくれるものは、「自分を閉じ込めていた狭い檻はあくまで自分が作ったものにすぎないのだ!」という気づきを与えてくれるだけではなく、また新たに名前をつけよう!定義をしていこう!という勇気を与えてくれるものでもあります。それは自分のことをわかっていたつもりでわかっていなかったことに気付かされ、自分を再定義する力を与えてくれます。それは私達の理性によって私達が把握する自己が全てではない、ということを見せてくれることから、世界の可能性に対してもう一度考え直させてくれる、という力を持ちます。優れた学問、優れた芸術がこのような力を持つということに関しては勿論言うまでもないわけですが、そもそもこのような可能性というのは(当たり前ですが)優れた作品だけに宿るものではなく日々のやり取りの中でもそれを感じさせてくれる人、というのはいるわけです。

嚮心塾で行っていることに少しでも教育的意味があるのだとしたら、僕はこの名前をつけていく作業よりもむしろ、名前をつけ得ないものに寄り添う作業であると思っています。名前をつけて定義していく事自体はとても重要なことではあるのですが、それ自体はまあ多少言葉の力があればできることであるとも思っています。問題は他者の中の「名前をつけえないもの」に対してどう寄り添うのか、それこそが極めて難しい、ということです。それは自分、あるいは相手の未分化の感情に対してどれほどの敬虔さがあるのか、ということでもあります。

それはすなわち人間にとって、理解を伴わない共感とは存在しうるのか、というように言い換えてもよいと思います。相手の思いを理解して、共感をするということが第一のステップだとしたら、相手の思いを理解できないけれども共感をする、ということがどのように人間には可能であるのか、ということが問われているのだと思います。「いやいや、理解して共感するのに越したことはないだろ?」というのはもちろんです。ただ、相手の思いを理解して共感する際には相手の思いを自分の中で理解できているものへと矮小化するという行為がどうしてもつきまといます。そのように相手の全体を理解できるパーツへと細分化し、自分が理解可能な断片へと貶めた上で相手を理解しようとすること自体が、目の前の相手への暴力につながることもまた多いのだと思います。

教育には、相手の全体を受け止める決意が必要になります。もちろんそれはただ寄り添うだけではやはり無責任であり、部分部分をこちらから名付けたり、相手自身にそれを名付ける練習をしてもらったり、という作業の中で茫漠とした悩みに押しつぶされそうになる一人一人にそのような悩みと立ち向かう術(すべ)を身につけてもらうことがとても大切です。しかし、そのような切り取り作業自体が本質であると思えば、「教育術」になってしまい、あまり意味はないのだと思います。そのような切り取り作業はあくまで現実を生きるためのツール、あるいは自己に対するより精緻な全体像へと近づくための仮説の構築にすぎないということを決して忘れないようにする。それが人間に対してとことん向き合うときには必要になってくるのだと思います。

言葉にならなくて苦しむだけではなく、言葉にしてもまた、そのことゆえに苦しまざるをえなくなる。全く人間というのはしんどい生きものです。その形にすることの暴力性にも、形にしないことの暴力性にもしっかりと耳を澄まし、心を開いていきながら、何とかこのしんどい作業に耐え抜いていきたいと思っています。

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お久しぶりです。

バタバタと忙しくしていたら、ブログを書いていないことに気づきました。ご無沙汰をしてしまってすみません。すっかり受験も近づいてきて、塾は朝から晩まで受験生が必死に勉強している毎日です。

唐突ですが、学習塾というのは勉強の嫌いな子にとっては「監獄」のようなものです。嚮心塾には勉強をしたいと思って通い始めてくれる子はあまり多くはないので、つまり僕と生徒との関係性は最初は「囚人」と「獄卒」のような関係性から始まります。だからこそ、彼ら彼女らがこの「監獄」に入れられた原因である勉強についての話題、というのは初めはなかなか届きにくいものです。誰でも、監獄に入った瞬間に「何でこんなところに来たんだ?もうこんなところに来ちゃ駄目だぞ!頑張れ!」と上から目線で獄卒に言われたら、心なんか開けるものではありません。

だからこそ、勉強全体に拒否反応をもってしまっている子たちには様々な理解や共感の回路がまだ閉ざされていない部分を探してはそこから会話をしていくのがまず僕の仕事です。それはパソコンの話題だったり、電車の話題だったり、将棋の話題、囲碁の話題、音楽の話題、アイドルの話題、文学の話題、スポーツの話題、そういった様々なことを通じてまず会話ができるようにしていきます。勉強全般に嫌気が差している子に「勉強しなさい!頑張らないとあとで君が困るんだよ!」的な話しかけをするのは、彼ら彼女らはそのような一見自分のことを心配しているかのような物言いが決して自分への心配ではなく、大人にとって勉強を一生懸命やらない子供は手がかかるがゆえに面倒くさいからしている物言いであることをよくわかっているからこそ、逆効果であるのです。だからこそ、そのような語りかけは決まって、決して心を動かさないままに撥(は)ねつけられることになります。

しかし、まず生徒たちとその子が興味を持っていて共有できる話題について話し合うことは、彼ら彼女らの共感や理解の回路を回復します。勉強には生徒たち自身の興味が向いていっていないとしても、たとえば真剣にやっているスポーツ、音楽、漫画、本、演劇、写真、その他様々なことについて彼らは深く感じ入るものが必ず何か一つはあるのです。その回路から対話のきっかけをつかめれば、その中での一流の人々がどのように努力をしているか、ということに対して子どもたちは本当に敏感ですし、敬虔であるとさえ言えます。どのような分野においても頑張っている人というのは本当にとてつもない努力をしていることをしっかりとこちらが理解した上で、彼が「受験勉強しなさい!」という周りからの押し付けから逃げ込む為に耽溺したその世界もまた、受験勉強レベルの努力ではなく、それよりもはるかにとてつもない努力によって成り立っている世界であることに気づくことができるようになります。そしてそれは、受験勉強自体から自分が逃げることがただ単に「親や教師の言うことを聞かない」ことにとどまらず、実は自分が大切にし、愛そうとしている分野や世界をも一方的に利用するだけの関係にならざるをえないことに気づきます。

ここまでしっかりと対話ができていければ、どのような子どもたちも必ず勉強を頑張るようになります。逆に言えば、そのように対話をしていく努力を周りの大人達が放棄して、「いいから受験勉強をやりなさい!」ということだけを言っているからうまくいかないのだと僕は思っています。

これは最初のモチベーションの話だけではなく、受験勉強への努力をし始めた後も、このような何かの道について詳しい子達に勉強の上での工夫や注意を与えるときに教師がその分野について詳しいことは必ず理解してもらうためのツールとして有用です。たとえばラグビーをやってきた子にラグビーに例えて、サッカーをやってきた子にサッカーにたとえて、様々な注意をすることはただ勉強のことだけを注意するよりもその子の理解の深さが変わってきます。だからこそ、教える立場の人間は、様々なことについて出来る限り知っていたほうがよいことになります。別にそれはスポーツであれ、音楽であれ、電車であれ、文学であれ、何かについて僕が知りたいわけではありません。ただ、それを僕が知り、理解することで子どもたちが考えるということへの理解が深まる助けとなるのであれば、それは(大変めんどうなことではあるのですがしかし)必要なことであると思っています。

だからこそ、「あの先生は子供からの評判はすごく良いのだけれども、勉強をいまいちしっかり教えてくれない」という先生はもしかして、その最初の人間関係を構築し、コミュニケーションの回路を探している状態なのかもしれません。一方で「あの先生は厳しくてしっかりしているので安心だ。」という先生はもしかしてただ正しいことを言うことに自己満足的に拘泥していて、それが生徒たちに伝わるかどうかを考えていない先生かもしれません。これらの判断が難しいのは、たとえば生徒と雑談をして好かれる先生も人間関係を構築してコミュニケーションの回路を探り当てた後もなお、それをただ良好な関係性を維持するためだけに終止する先生もいる、ということです。

言葉を換えれば、教師にとって生徒との信頼関係は、生徒にとって不都合だが受け入れなければならない真実を受け入れてもらうためのリソース(resource)でしかありません。信頼関係がなければ、伝わり得ない言葉を何とか伝えるためにそのリソースを掘り崩していくことが教え子の未来の為には必要とされます。「尊敬される」「愛される」ことを目指す教師は、その時点で目的を履き違えていると言えるでしょう。もちろん、最初に書いた共感や理解の回路を探す、という努力すらできていない教師が多いのは事実では有るのですが、それだけでもまた不十分であるのは確かです。そして、このことは教師と教え子の間だけではなく、実は親子の間でも同じであると僕は思っています。だからこそ、僕は自分の子供に愛されすぎてしまえば、それは豊富なリソースを無駄に蓄えて、何一つ伝えるべき内容を伝えられていない駄目な親になるのだ、と思っています。僕という親への愛情がゼロになるところまで人生をかけて伝えるべき内容を徹底して伝えられるか、それが僕の人生をかけた勝負であるとも思いますし、僕自身の子供や生徒たちへの「愛」が問われるところだと思っています。(相手からのリターンが見込まれる愛は、愛ではなく「投資」ですよね。)

死なないことを目的に生きるのだとしたら、必ず死すべき存在として生まれた私たちには絶望しかありません。だからこそ、自分の生命というリソースを何に使うべきであるのかを考えないで生きる人生は、どのように幸せそうに安楽に暮らせようとも、僕は不幸でしかないと思っています。僕自身の伝えるべき内容の拙さや足りなさについては何とか少しでもよりマシなものに改善していきたいと思うものの、最後まで伝えるべきもののためにあらゆるリソースを使い尽くしていきたいと思っています。

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劇団どくんご『愛より速く 2号』公演の感想

だいぶ感想を書くのが遅くなってしまったのですが、劇団どくんごの『愛より速く 2号』公演を観てきました!今年は前半と後半で役者さんが一人入れ替わり、もう折り返しの『愛より速く FINAL』の公演が現在東北から南へと下ってきている状況です。両方観てから書いた方がいいかな、でもそうするとツアーのかなり終わりの方になってしまうな、と悩んでいるうちにもう北陸、そして関東へとツアーが下ってきていて、あわててこのタイミングで2号公演の感想を書きたいと思います。

僕が観たこの何年かの中で、間違いなく今年がベストであったと思っています。もちろん全ての年が本当に素晴らしかったのですが、しかし今年は「本当に、本当にとてつもなかった!」と思いました。

芸術に何を求めるのか、というのは本当に難しいことであると思っています。巧みに仕組まれた精緻な構造物としての完成度にその価値を求めるのか、それともその精緻さすべてを「仕組まれたもの」としてぶち壊すような初期衝動の爆発を求めるのか、それは人によっても違うでしょうし、また同じ人であってもどのような心の状態にあるかによってどちらの方がより深く刺さるかが変わってくるものであると思います。もちろん、初期衝動が精緻な構造への動機として機能し、精緻な構造への動機が初期衝動を改めて喚起し、というその相互作用がある事自体は全ての芸術が実際にとっていく発展の仕方であるとしても、たとえば精緻さを追求すればするほどに、「少なくとも自分は初期衝動のままには創作を続けていない」というただそのことだけを理由として自己を正当化するという失敗に陥ってしまいがちです。一方で洗練を自らに許すことなくストイックに初期衝動だけを表現し続ける、ということ自体にもまたいずれ限界が来ます。繰り返される「初期衝動」は、もう既に初期衝動ではありえなくなるからです。そこでは自らの意図で洗練を拒んだはずでありながら、精緻さを今更求められない、あるいは求めても得られなくなり、精緻ではないことから初期衝動が存在することを類推してもらうしかない、という落とし穴にはまることになってしまいます。

どくんごのとった道は、この難題に対して、常に一人ひとりの初期衝動を活かしていきながら、しかし精緻に構築していく、ということであり、即興の初期衝動と精緻な戯曲の巧みな構成とのその両者を徹底的にせめぎ合わせている、ということであると思っています。「役者がやりたいことをやる」即興と「一人の脚本家が精緻に作り上げた作品に皆が参加する」ということのそれぞれの素晴らしさと限界とをよくわかりながら、しかし、その両者をただ混ぜ合わせるのではなく、互いに屹立させ、混在させ、それらがどちらがどちらかすらもわからなくしていく中で、それを観る私たちは、精緻な構造を意味から読み解くのでもなく、初期衝動に共感からほだされるのでもないような見方を回復させられます。それが脚本家のいないどくんごにとって「演出家」の役割の大きさを示しています。一人一人の役者さんがやりたいことをしながら、しかし、それが一つの劇へとなっていくというこの奇跡的な業こそがまさにどくんごには、演出家しか「いてはならない」理由であるのだと思います。

言い換えればどくんごは、役者さんを追い込みに追い込み、役者さんの限界をその底から引き出してくる一つの装置になっていると思います。だからこそ、そこでのアドリブにはただ面白い、というだけでなく、その役者さんの人間性が引きずり出されます。そこに我々は深く感動するのです。

一方でこのような形式はどうしても、精緻ではない言葉も生み出します。即興であるからこそ生まれる言い間違いや聞き間違い、思いのすれ違いによって舞台上の空気が緩和する瞬間は当然あります。あるいはどくんごだからこそ起きる、公演地によっての様々な違い、ぶれが必ずあります。それをどう捉えるか、というところで評価も分かれるのかもしれません。しかし、このように徹底的に作り上げようとして、それでも作り上げ得ないところにこそ、えも言えない悲しみとおかしみが溢れ出てくるように僕は思います。それは我々がその構造の精緻さに感銘をうけるすべての人工物もなお、どのような天才にも予想できないような要素によって影響を受け、なんならすべて台無しになってしまうかもしれないという私たち人間自身の存在の不確かさ、危うさをすっくと引き受けて懸命に演じられているように感じられます。小さく区切った中での完璧さをついつい求めてしまう私達の、必死の努力ゆえに可能な部分の小ささと、それに反してその外に広がる不可能さに満ちた外界の圧倒的な豊かさ、それを思い知らせることで私達を元気にさせてくれる、そのような力をどくんごの舞台は持っています。

それはひとえに、どうにも形にならない一人ひとりの原初的な衝動を何とか形にしおえてもなお、まだまだどうにも互いに折り合うことのできない一人ひとりの舞台上の登場人物が、互いに理解できないとしても共感や共存はできるということがその細やかで懸命なやりとりから伝わり、そして最後は皆が…というこのどくんごの構成自体に、私達が求めてやまない社会のあり方を思い知らされるからであるように思います。本当のことを喋れるわけでもないし、仮にうまく喋れたからといって伝わるわけでもないし、と諸々のことを諦めていく中で、それでも何とか一緒に生きていきたい、と思いながらもどこかでそれを諦めている私達もまた、このような交歓ができる瞬間をどこかでずっと求め続けている、という私達自身の奥底にある願いを強く思い知らされるように思います。「全く異なる者同士が、共に生きていくための技術こそが「政治」である。」という言葉を借りれば、どくんごの舞台はまさにその意味において「政治的」であると思っています。

毎年毎年、本当にどの役者さんも素晴らしいのですが、一方で即興で出てくる言葉の鋭さ、というのはどうしても毎回変わってきてしまいます。もちろん、これも鋭ければ良い、意味が有りげなのが良い、ということではなく、意味と無意味との間をどのように飛び交うか、というところにその役者さんの人生のすべてが凝縮して現れる、本当に恐ろしい即興であると思います。その中で、たとえば若い役者さんゆえの即興の怖さを感じる瞬間は去年の『愛より速く』を観ていて確かにありました。これは外山恒一さんの雑誌を読ませていただいて、舞踏青龍会の原田さんのご指摘でなるほどと首肯させられたところです(もちろん、これについて僕が言うのも極めておこがましいことは当然のこととして、です)。ただ、僕はここにこそ、どくんごの素晴らしさがあるとも思っています。創設からのまさにどくんごの思想と実践を体現されてきた役者の方々がする即興との違いがあるとしても、そのような若さを(もちろん徹底的にブラッシュアップしていった上で)受け入れようとしていくこと、この点においてどくんごは一つの思想に、あるいは言葉を変えれば一つのシステムになったと思っています。それは即興において、それを即興と全体とを貫く針として成立させるだけの言葉が出て来ない瞬間があるとしてもなお、それを受け入れて演出して一つの舞台にしていく、という覚悟に基づいた行為であり、まさに民主主義の原点というか、民主主義と共に死のうという覚悟を決めている、というところが本当にとてつもないことであると僕は思っています。即興と精緻な構築物とがせめぎあうこの形式において、即興がゆるくなるということがどれだけの恐怖であるのか。もちろん毎年毎年、その年の演目を演じる役者さん自身が誰よりもそのプレッシャーを感じておられて皆さん本当に死に物狂いでやっておられると思うのですが、それでも毎年新しいメンバーを迎えてそのように続けよう、というその覚悟にこそ、少しの安定のために多くの自由を投げ売りしてしまう私達の覚悟のなさを思い知らされるようなものすごい覚悟を、演出のどいのさんの姿勢からは知れば知るほどに感じさせられます。それは、人生をかけて必死で実現しようとしているその理想すらも、他者に委ねる、という覚悟であるのです。委ねるとは人任せにする、ということではありません。自分の全存在をかけて追求するものを、しかし他者と共有しようとしている、ということです。共に生きる、ということへのとてつもない覚悟の凄みがそこからは立ち上がっているように思います。

その上で、今年のどくんごに話を戻せば、本当に濃密で、思想として肉体を離れたものが再び受肉したかのような凄みを感じました。久しぶりに得た肉体の自由さを満喫するかのように、叙情が溢れ出ていて、必死さが当たり前のようにあふれていて、そして何よりも再び人間を愛そうと思えるようになる、本当にとてつもない舞台でした。さいたま公演は9月8,9,10日(追記9日はもう売り止めになってしまったそうです!)です。もう予約も少なくなってきているらしいので、是非多くの方に観てもらえたらうれしいです!

僕自身も教育に携わろうと考えたのは、何よりも、これが一番(先の「異なる他者がどのようにともに生きていくのかを模索する技術」という意味での)「政治的」な行為であると考えたからでした。一人一人に自分たちの中で大切にすべきものに自信をもつことと、それをブラッシュアップしていくこと、その中でどのように他者とともに生きていくのかを模索していくことには教育しかないと思っています。しかし、その覚悟という点において、どくんごの取り組みは本当に大きな心の支えと共に、自分自身が決して中途半端なことができないという励みとなっています。毎年毎年、見れば見るほどにその自分自身の覚悟を問われ直されるという意味で、本当にありがたい経験をさせていただいています。本当に今年もありがとうございました。日々目の前の生徒たちとどのように共存していくべきであるのかを真剣に悩みながら、僕ももっと頑張っていきたいと思います。

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「3+1=5」を褒められるか。

ご無沙汰をしております。今年のどくんごも本当に、本当に素晴らしかったので是非その感想も書きたいのですが、まずはしばらく書いていなかったリハビリ代わりに教育のことについて書こうと思います。

紹介が遅くなってしまったのですが、友人の谷口君のウェブ連載がとても良い記事だったので紹介します。いつも読んで勉強させてもらっているのですが、彼のこのお子さんへの指導の仕方には、リアルタイムで聞いたときに本当に感心させられました。詳しくはこちらをどうぞ。

このような話をすると、プロセスが重要であることは比較的理解されやすいとしても、学習の結果が出ていないことへの焦りからどうしても否定的な意見も出てくるものです。「プロセスを理解するのが必要なことは当たり前だろ!その上で結果も合っているに越したことがないじゃないか!」というようにです。しかし、子どもたちというのは大人がどこに重点を置いて見ていてどこを本当は気にしているのかに対して極めて敏感なものです。だからこそ、「プロセスも大事だけど結果が合ってなければ意味がない」というリクエスト自体が建前は別として結局「結果が合っている」かどうかしか大人たちは気にしていないし、チェックもしていないということを敏感に感じ取った子どもたちは、「結果さえ合っていればいい!(だから答えを写す!)」などと間違った学習をしてしまうことにつながります。

ここで問題となるのは「プロセスも答えも両方合っているのが一番良いはずだ!」という何もかもを同時に実現することを求める態度です。これは、プロセスや考え方が合っているかどうかを見るという極めて面倒な作業を教える大人側が回避したいがために便宜上行われているに過ぎない指導方法を、結果の面から正当化したに過ぎない態度です。式をチェックすればいい!と思うかもしれませんが、正しい式を書くことができていたとしても理解ができていないことなどは日常茶飯事です。だからこそ、「プロセスも結果も合っているのが一番良いはずだ!」という態度は容易に「結果が合っているのだからプロセスも恐らく合っているのでしょう。。」というように、結果だけからプロセスの正当性を類推するという態度に堕していき、悲劇を生んでいくのです。

そもそも新たなものを学ぶときに、あれこれと何もかもに気をつけて学ぶことができる、というのはかなり限られた優秀な子です。それに関しては我々大人たちもまた、自分にとって新たなものを学習する際には、何もかもに気を配りながら学んでいく能力はないと思いますし、その点において子ども達のその緩やかな歩みを決して笑うことはできないと思います。だからこそ、まず何が大切で、それができるようになったら、次に何が大切で、とステップを踏んでいくことが大切であるのです。その点においても、谷口君の娘さんへの指導は、本当に素晴らしい指導だと思いました。

もちろん、入試への準備などを考えれば「答を合わせる」ことが重要であるのは当たり前です。しかし、教えていて常々思うのは、受験生たちが「理解しているけど計算ミス」と分類しているものの中に、いかに理解していない部分がまだまだあるのか、仮にそれらを理解しているとしても極めて煩雑な方法で答を合わせているものがあるのか、そういったプロセスの点で改善しなければならない点があまりにも見過ごされてきているという事実です。実は「答を合わせる」ためにも、どこまでもプロセスを徹底的に理解し、改善していく必要がある、ということ自体が伝わることが勉強の面での改善にも役立ちます。「大事なのは答えではなく、そこに至るプロセスだ」という姿勢の徹底こそが、結果として答を合わせることにもつながっていくと思います。

そして、この問題はAI(人工知能)の発達によってさらに複雑な問題になってしまったように思います。AIの発達によって、私たちはそこに至るプロセスを理解することなく答を知ることができる時代に生きることになりました。答をどのように導いたのかについてはAIは完全に人間の想像力や理解力を超えてブラックボックスであり続けるわけですが、しかしどのような賢い人間が考えるよりも「正しい」答を恐らくAIが提示していることは確かです(それは先の将棋電王戦で佐藤天彦名人がPONANZAに為す術なく敗れたことからも、あるいは囲碁で柯潔九段が為す術なく敗れたことからもわかるでしょう)。しかし、私達がその「正しい」答を採用するかどうかを考える際に、私達の推論能力ではその正しい答に至ることができないとしたら、私達はどのようにその正しい答を吟味することができるのでしょうか。あるいはその正しい答を選ぶことをどうやって正当化できるのでしょうか。

もちろん、そこで理由を考えることこそがAIの出す答えを人間が選び取るときのツールになりうる、などという楽観的なことは言えません。人間の理性は様々な正当化を生み出すことができるので、理屈がついているということが直ちに正しい結論へと到達できていることにつながるかどうかはわからないからです。しかし、一方で、理由を考える事、プロセスを考えることを人間が答をAIに与えられるから、という理由で放棄するのだとしたら、それこそSFが描いてきたディストピアのように人間が気づかなかった初期条件の違いやその他からAIが引き出す誤った答やあるいはAIにとって有利(で人間にとって不利益)な答に対して、それを信じるしかなくなる、という状況に陥ることになります。

これからどんどんブラックボックスとしてのAIによって答えだけが先に与えられ、それを教師として人間が学習を進めていく際に、しかし、その結論を人間がどのように吟味するのかについては、確実な手段がないと言えるでしょう。しかし、その中でプロセスを突き詰めていくというその思考方法は少なくともそのような時代における一つの踏むべきステップになると言えると思います。もちろん、そこで「理由」を求めることが全体として見れば局所的な「偏見」を生み出し、我々がより良い解へと到達することを遠ざけてしまうという失敗はあるかもしれませんが、そのような失敗を乗り越えてなお、理由を求め続け、プロセスを重視していくことの重要さがさらに増していくのではないかと思います。

正しい答が出せないあるいは「正しい」答を出したつもりがそれが誤答であることをすぐに思い知らされるという意味では、AIの進んだ時代に生きる我々は実は、「3+1=5」と答える幼児と同じ立場にあるとも言えるのです。名人や世界ランク一位という我々にとっての(同じ集団に属すると言挙げするのも烏滸(おこ)がましいほどの)天才たちも、AIから見れば幼児レベルになった時代が現代であるのです。大切なのは、私達の出した答が正しくないとしても、それならどのように正しいものを求めていくかという方法を学ぶこと、そのような方法が既存のものとしてなければそれを模索し続けること、そして何よりもまず、正しいものとは何かを探し求める姿勢を諦めないことであるのだと思います。最後のことについて言えば、人間全体が、あるいは個々の個人が、仮に自分の力では正しい結論にたどり着けないとしても、それでもそのような事実から目を背けることなく、結論の正しさを愛せるかどうかこそが一人一人に求められているのだと思います。そして、そのような時代であるからこそなおいっそう、答えを目指そうとするプロセスへと目を向ける教育こそがなおさら子どもたちにとっては必要とされるのではないかと思います。我々は理由を考え続けることを通じてしか、「正しさ」を認識できないからです。

褒めるべき「3+1=5」に正しい反応と指導ができるように、何より正しいものを求めようとする彼ら彼女らの心と頭の動きを局所的な「正解」によって押し殺してしまうことのないように、今日も必死に生徒たちの思考へと耳を澄まして教えていきたいと思っています。

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言葉は誰のものか。

ご無沙汰をしています。通常の新年度のバタバタに加え、今年は何かとトラブルが多く、ようやく塾が軌道に乗り始めたところです。「忙しいからブログを書く気になれない」というのは嘘で、忙しいときほど書きたい題材は山ほど浮かんでくるのですが、しかしその前にやらねばならないと自分で自分を縛るものが多く、それとどちらを優先するかでブログを後回しにしてしまったところがあります。

目の前の人に対する義務や責任を果たすことで、目の前にいない人に対する義務や責任を放棄することにつながる、というこの社会の失敗を、僕もブログを更新しないことで加担してしまっていたと言えるでしょう。もちろん目の前の義務や責任を果たすことが目の前にいない人への義務や責任を決して正当化し得ない、ということはまた事実です。それに関して正当化しうると思ったことはないのですが、一方で目の前の生徒たちに対する自分の無力さを感じれば感じるほどに、そこでの力をつける努力にどうしても集中したくなります。特に教育という仕事はやっていけばやっていくほどに、どんなに自分自身が力をつけても自分の至らなさ、失敗の多さを思い知らされるものであるからこそ、そのようになりがちです。

もちろん、塾での懸案事項が劇的に改善をしたわけではありません。相変わらず、まだまだ手が足りていないところは多いと思います。まあ、両方とも再び進めていきたいと思います。

端的に言えばこのブログは、「嚮心塾に来る必要のない人」のために書いている、とも言えるでしょう。もう既にminorityとしての人生をもがき苦しんでいる人、その中で何とか自分の人生を形にしようとしている人々に、このような僕でも何とか生きている、ということを伝えるために書いています。もちろんある部分においてminorityとして抑圧を受けている人々が、別の部分においてはまさにmajorityとしてその部分におけるminorityである別の人々へと抑圧を与えている、などということはよくあることです。その人がある部分においてminorityであることによって、その人のmajorityである部分までの人格のすべてが肯定されるものではありません。しかし、僕はそれがたとえ欺瞞であると言われようとも、minorityの立場に立ち続けたいと思いますし、自分の中のmajorityである部分における暴力性に対して、絶えず敏感でありたいと思っています。

唐突ですが、言葉は誰のものでしょうか。言葉を使えるようになるには学問をある程度修めなければならないという以上、それは知識人のものです。しかし、その言葉を誰よりも必要としているのは、権力に連なる知識人ではなく(権力に言葉は必要ありません。むしろ国会の審議での安倍首相のように「何も実のあることは答えないで押し通す」という戦略は権力側のみに許されたものです)、むしろそこから疎外されていく人々にこそ言葉は必要となります。その点で、言葉を高度に習得するためには既存の知識体系に浸かり、その中でエリートとして訓練を受けなければならない(なぜなら知識というものはそのようなエリートの選抜と育成のためにずっと使われてきたからです。)一方で、そのような知識や語彙を使うことで初めて可能な正鵠を射る言葉、というものは社会からはみ出たものによってこそ、とてもよく用いられうる、という矛盾があるように思います。

もちろん、これは科挙の失敗による「人生の落伍者」こそが漢詩という世界において、素晴らしい詩人たちとなっていった、ということがわかりやすいその具体例でしょう。漢詩があれだけ発達するためには語彙や知識を駆使する知的能力を持つ人々が、その時代の俗世の中で報われない必要があったと言えるのでしょう。もちろん、これが当事者にとって、あるいは後の人類にとって不幸なことであったのか幸せなことであったのかは簡単には判断できないとしても、です。

あるいは日本の近代文学を見ても、夏目漱石から始まって、芥川龍之介、太宰治や有島武郎とどの作家も落ちこぼれた超エリートです。高い教養とそれにも関わらずの社会からの疎外こそが、彼らを作品に向かわせることになったと言えるでしょう。

言葉を自在に使えるようになるためには教養が必要だとしても、その言葉を時間や場所を超えて真に活かせるのはその教養を鍛える仕組みから疎外されていった人々である、というこの矛盾を私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。言葉は弱者にとっての最後の武器、としての意味しか持たないのでしょうか。そこでの一人一人の悲劇としか言いようのない悲惨な人生からなるけものみちのような頼りない隘路を通ってしか我々が人間性を回復できないのだとしたら、果たしてその悲しい事実を我々はどのように評価をすればよいのでしょうか。

あるいは忌野清志郎さんが生前によく書いていたように、「全ての良い音楽はブルースである(blues、すなわち人間の生きる上での憂鬱(blue)を歌ったもの)」だとしたら、今生きている表現者としての私たちもまた、自分の生きる上での苦しみを表現するために、生きるために培った技術や知識を総動員することになります。それが良い芸術であり、良い作品であることは確かであると僕も思いますし、そのようなものが一人一人の人生にとってかけがえの無いものであるとも思いますが、それは果たして敗北者が日々自分を慰める以上のことになっているのでしょうか。

知識や技術が権力の基盤となって久しいこの社会においてもなお、少なくとも言葉は弱者のためのものであり続けます。しかし、そのような言葉が弱者を慰撫することにしかつながらないのであれば、それは人々に寄り添われる言葉がカタルシスを生むことによって、この権力構造を別の形で支え続ける装置にすぎなくなるのかもしれません。その危険性に対して悩みのない全てのbluesは、やはり大したbluesではないのだと思います。もちろんこれは言葉に限らず、芸術全般に言えることです。芸術が芸術として存在価値を認められ、生きる場所を与えられている社会というのは、もはや芸術によっては何も成し遂げ得ない社会であると言えるでしょう。カミーユ・ピサロが言った「ルーブル(美術館)は芸術の墓場だ!」というときの「ルーブル」が社会全体へと拡大していっただけであるように思います。

俗世から疎外された知識階級からうまれた弱者の武器としての言葉がやがて、この社会においてその一定の価値を認められていくがゆえに、弱者のためのものですらなくなっていく、というこの事実の悲しさといったら、耐え難いものがあります。

話を広げすぎました。結論を述べれば、僕は真理の一端をうがつ本当の言葉とは、それが生まれるまでにそのような悲しい来歴をもとうとも、今ある現実に対して極めて無力であろうとも、それが多くの場合単なる慰撫として誤用されようとも、しかし、そのような言葉自体には意味があるかもしれないと思っています。逆に言えば、人類の本当の終わりとは、このような残酷な現実に心が負けて、本当の言葉を紡いでいこうと思えなくなったときであると思います(もちろん、ここでいう「言葉」は言語だけでなくて他の媒介物でも構いません)。人間の知性とは、人類社会を良くしていくためにあるのはもちろんですが、それだけでなく僕は人類社会を看取り、それへの弔辞を述べるためにもある、という役割もとても大切なのではないかと思っています。私達が良くしようと努力を重ね、議論を重ねても、それでも人間は同じ過ちをより大きなスケールで繰り返しては、結局破滅の道に行くのかもしれません(もちろん行かないのかもしれません)。あるいは自らの手で滅ぼさないとしてもいずれタイムリミットがきて(今の予想では50億年後には太陽の膨張と消滅に巻き込まれます。それまでの間に太陽系から脱出するすべが見つからなければ)滅びることはどちらにせよ、(それこそ私達一人一人が誰も自らの死を免れ得ないのと同様に)決まっているし、既に私たちはそのことをわかっているわけです。しかし、そのようになろうとも、本当の言葉を紡ごうとする努力は、少なくとも他の知的生命体にとっては無駄ではないかもしれません。だからこそ、どのような状況であろうと本当の言葉を紡ごうとする努力を諦めるわけにはいかないと僕は思います。ずいぶん飛躍しましたが、だからこそブログもまたしっかり書いていきたいと思います。

以上、「ブログ書くの、久しぶりだよね。」ということから長々と書きました!

そして、表現が様々なものへと絡め取られることに絶望しきっているとしても、それでも表現することを諦めたくないと思っているすべての人にとって、劇団どくんごの劇はとてつもない勇気を与えてくれます!今年は東京公演が今のところまだ未定なので、往路の公演は東京近郊だと6月23,24日の木更津公演か、6月27、28日の横浜公演です!本当におすすめです!塾でも横浜公演にみんなで見に行く予定です。
どくんごのホームページはこちら
ホームページから予約できますので、ぜひ!

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2017年度受験をふりかえって(その2)

T・H君(桐蔭学園高卒)       中央大学商学部合格(進学)
                  学習院大学法学部合格 日本大学法学部合格

僕は高校三年生の夏から入塾し、一年間の浪人生活を経験しました。受験勉強を振り返って印象に残っていることは英文解釈を多く行なったことと日本史センター試験の過去問を勉強したことです。英文解釈は正直言って時間がかかり逃げたくなることですがわからない単語の推測や文章を早く読むために必要なことです。全ての文章を品詞分解し、品詞分解できなかったところや文の構造がわからないところを先生に聞くことで英文法において理解の足りなかったところがわかり自分の苦手を潰し大きく成長することができました。センター試験日本史の過去問で90点以上をキープすることを行いました。これをやることによって日本史の問題の出され方がわかり出題者がどういうところで受験生をひっかけようとしているのかがわかるようになりました。これを行なったことで伸び悩んでいた日本史の点も伸びました。
受験を振り返って反省したことは塾に来ることと広い視野を持って多くの知識を得ようとすることです。自分の家や学校でも勉強はできますが勉強していることに満足してしまったりひとりよがりの勉強になってしまうことがあります。実際僕は病気やケガをしてその間自宅で勉強していましたが気づかずに長文の解き方を変えてしまったりして正確に長文が読めなくなったりしました。やはり先生がいる環境で勉強をして逐一確認してもらうことが大切です。広い視野を持って多くの知識を持つことは非常に大きな違いが生まれます。特に文章を読むときにわからないところを予測できたり内容を先読みできたりするからです。自分はあまり新聞を読んだり読書をすることはなく、また受験勉強では早くから英語国語日本史に絞っていたので世界史や倫理などの知識が不足していたため入試問題そういう内容の文章がでてきたときは苦労しました。英語や社会科科目で差がつきにくい難関大学では国語で差がつくことがあるので国語ができるかで合否が大きく変わると思います。知識を得ようとしなかったことは僕が後悔していることです。大学では今まで読んでこなかった分多くの本を読み、また塾で学んだ勉強の仕方を活かし第二外国語の習得に励みたいと思います。柳原先生、講師の先生方、そして一緒に勉強した友人達ほんとうにお世話になりました。

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2017年度入試結果

           2017年度入試結果
                                     確定版

<大学入試・国公立大学>
首都大学東京システムデザイン学部航空宇宙システム工学科 1名(進学先)
新潟大学工学部情報電子学科               1名(進学先)
静岡県立大学薬学部                   1名(進学先)

<大学入試・私立大学>
東京理科大学理工学部                2名
中央大学商学部                   1名(進学先)
明治大学法学部                   1名
学習院大学理学部                  1名
学習院大学法学部                  1名
日本大学歯学部                   1名
日本大学法学部                   2名(うち1名進学先)
日本大学松戸歯学部                 1名(進学先)
専修大学経営学部                  1名(進学先)
大妻女子大学文学部                 1名(進学先)
大妻女子大学家政学部                1名(進学先)
明星大学理工学部                  1名(進学先)

<高校入試>
都立小平南高校                  1名(進学先・第一志望)
杉並学院高校                     1名
日工大駒場高校                    1名
大東高校                       1名(進学先)

<中学入試>
共立女子中                      1名(進学先)

大学受験生24名(うち国公立受験生6名)、高校受験生2名、中学受験生1名での結果です。どの受験生のどの結果についても、彼ら彼女らが必死に頑張った結果であるため、その結果を心から誇りに思っております。
                                     嚮心塾

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2017年度受験を振り返って(その1)

I・K君(都立調布北高卒)   首都大学東京システムデザイン学部航空宇宙コース合格(進学)
               東京理科大学理工学部物理学科合格     学習院大学理学部物理学科合格
一浪して、国公立に入ることができました。僕は非常に環境に恵まれたと思います。このような環境を作ってくれた先生、親、友人にはとても感謝しています。ありがとうございました。

僕は高2の冬くらいにこの塾に入りました。大学受験の右も左も分からず、恐らく先生は「こいつ大丈夫か」と思っていたと思います(笑)。この受験を通して、勉強に必要なものは大きく分けて2つあると感じました。
1つめは新しいことを学ぼうとすること。
2つめは自分の間違った思考を改めることであると思います。

最初の自分は、新しいことに執着し、自分の誤った考えを直そうとしませんでした。しかしこれは勉強していく中で徐々に先生に軌道修正され、このようなことが前に比べてできるようになりました。これはすごいことだと思います。今までの自分がダメなものだと感じ、それを矯正していく能力はどのような分野に行っても必要なことです。もし受験がなければこのような自分の悪いところを見つめることなく、傲慢に生きていたと思います。まだ完璧にできているわけではありませんが、このような弱点を把握することができたいので、これをつぶして前に進んで行きたいと思います。

他に受験勉強を通して感じたことは、努力するだけでは報われない、ということです。僕は「自信などは後からついてくるものだ、とりあえず実力が先だ。」と思って勉強をしていました。このようなメンタルだったので、解けないことは自分の実力不足であり、勉強が足りないからもっとやらなければと思い、ひたすら参考書をやっては過去問をやるというようなことを浪人になってからの夏までは機械的に行っていました。しかし過去問では思うように点数は伸びず、自分でも少しやり方に疑念を感じていたところ、5月くらいに先生に「君は努力が免罪符になっている。」と言われたことを思い出しました。その言葉をよく考えてみると、僕は確かに勉強時間を確保していたが、それだけで満足し、向上心があまりないのだという風に捉えることができました。これは僕の人生を根幹を揺るがすと行ったら大袈裟かもしれませんが、かなり深い所を先生は見抜いていたのだと思います。確かに僕は努力することはできますが、努力の質を上げないと意味がない。そこを僕は怠っていました。そしてそれに気づかず、というか気づきたくないと思っていた所を指摘してもらえたことはとてもよかったと思います。それを考えてからは徐々にできるようになっていきました。前に述べたことと重複する内容かもしれないですが、これは非常に良い経験でした。

大学に受かってからが本当の勝負だと思います。自分が周りに対して何ができるか、ということをしっかりと考え、すすんで勉強し、世の中に出ていく必要があると自分はこの受験を通してとても感じたので、自分の天命を全うするために四年間かけて探していきたいと思います。

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