嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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2017年度受験をふりかえって(その2)

T・H君(桐蔭学園高卒)       中央大学商学部合格(進学)
                  学習院大学法学部合格 日本大学法学部合格

僕は高校三年生の夏から入塾し、一年間の浪人生活を経験しました。受験勉強を振り返って印象に残っていることは英文解釈を多く行なったことと日本史センター試験の過去問を勉強したことです。英文解釈は正直言って時間がかかり逃げたくなることですがわからない単語の推測や文章を早く読むために必要なことです。全ての文章を品詞分解し、品詞分解できなかったところや文の構造がわからないところを先生に聞くことで英文法において理解の足りなかったところがわかり自分の苦手を潰し大きく成長することができました。センター試験日本史の過去問で90点以上をキープすることを行いました。これをやることによって日本史の問題の出され方がわかり出題者がどういうところで受験生をひっかけようとしているのかがわかるようになりました。これを行なったことで伸び悩んでいた日本史の点も伸びました。
受験を振り返って反省したことは塾に来ることと広い視野を持って多くの知識を得ようとすることです。自分の家や学校でも勉強はできますが勉強していることに満足してしまったりひとりよがりの勉強になってしまうことがあります。実際僕は病気やケガをしてその間自宅で勉強していましたが気づかずに長文の解き方を変えてしまったりして正確に長文が読めなくなったりしました。やはり先生がいる環境で勉強をして逐一確認してもらうことが大切です。広い視野を持って多くの知識を持つことは非常に大きな違いが生まれます。特に文章を読むときにわからないところを予測できたり内容を先読みできたりするからです。自分はあまり新聞を読んだり読書をすることはなく、また受験勉強では早くから英語国語日本史に絞っていたので世界史や倫理などの知識が不足していたため入試問題そういう内容の文章がでてきたときは苦労しました。英語や社会科科目で差がつきにくい難関大学では国語で差がつくことがあるので国語ができるかで合否が大きく変わると思います。知識を得ようとしなかったことは僕が後悔していることです。大学では今まで読んでこなかった分多くの本を読み、また塾で学んだ勉強の仕方を活かし第二外国語の習得に励みたいと思います。柳原先生、講師の先生方、そして一緒に勉強した友人達ほんとうにお世話になりました。

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2017年度入試結果

           2017年度入試結果
                                     確定版

<大学入試・国公立大学>
首都大学東京システムデザイン学部航空宇宙システム工学科 1名(進学先)
新潟大学工学部情報電子学科               1名(進学先)
静岡県立大学薬学部                   1名(進学先)

<大学入試・私立大学>
東京理科大学理工学部                2名
中央大学商学部                   1名(進学先)
明治大学法学部                   1名
学習院大学理学部                  1名
学習院大学法学部                  1名
日本大学歯学部                   1名
日本大学法学部                   2名(うち1名進学先)
日本大学松戸歯学部                 1名(進学先)
専修大学経営学部                  1名(進学先)
大妻女子大学文学部                 1名(進学先)
大妻女子大学家政学部                1名(進学先)
明星大学理工学部                  1名(進学先)

<高校入試>
都立小平南高校                  1名(進学先・第一志望)
杉並学院高校                     1名
日工大駒場高校                    1名
大東高校                       1名(進学先)

<中学入試>
共立女子中                      1名(進学先)

大学受験生24名(うち国公立受験生6名)、高校受験生2名、中学受験生1名での結果です。どの受験生のどの結果についても、彼ら彼女らが必死に頑張った結果であるため、その結果を心から誇りに思っております。
                                     嚮心塾

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2017年度受験を振り返って(その1)

I・K君(都立調布北高卒)   首都大学東京システムデザイン学部航空宇宙コース合格(進学)
               東京理科大学理工学部物理学科合格     学習院大学理学部物理学科合格
一浪して、国公立に入ることができました。僕は非常に環境に恵まれたと思います。このような環境を作ってくれた先生、親、友人にはとても感謝しています。ありがとうございました。

僕は高2の冬くらいにこの塾に入りました。大学受験の右も左も分からず、恐らく先生は「こいつ大丈夫か」と思っていたと思います(笑)。この受験を通して、勉強に必要なものは大きく分けて2つあると感じました。
1つめは新しいことを学ぼうとすること。
2つめは自分の間違った思考を改めることであると思います。

最初の自分は、新しいことに執着し、自分の誤った考えを直そうとしませんでした。しかしこれは勉強していく中で徐々に先生に軌道修正され、このようなことが前に比べてできるようになりました。これはすごいことだと思います。今までの自分がダメなものだと感じ、それを矯正していく能力はどのような分野に行っても必要なことです。もし受験がなければこのような自分の悪いところを見つめることなく、傲慢に生きていたと思います。まだ完璧にできているわけではありませんが、このような弱点を把握することができたいので、これをつぶして前に進んで行きたいと思います。

他に受験勉強を通して感じたことは、努力するだけでは報われない、ということです。僕は「自信などは後からついてくるものだ、とりあえず実力が先だ。」と思って勉強をしていました。このようなメンタルだったので、解けないことは自分の実力不足であり、勉強が足りないからもっとやらなければと思い、ひたすら参考書をやっては過去問をやるというようなことを浪人になってからの夏までは機械的に行っていました。しかし過去問では思うように点数は伸びず、自分でも少しやり方に疑念を感じていたところ、5月くらいに先生に「君は努力が免罪符になっている。」と言われたことを思い出しました。その言葉をよく考えてみると、僕は確かに勉強時間を確保していたが、それだけで満足し、向上心があまりないのだという風に捉えることができました。これは僕の人生を根幹を揺るがすと行ったら大袈裟かもしれませんが、かなり深い所を先生は見抜いていたのだと思います。確かに僕は努力することはできますが、努力の質を上げないと意味がない。そこを僕は怠っていました。そしてそれに気づかず、というか気づきたくないと思っていた所を指摘してもらえたことはとてもよかったと思います。それを考えてからは徐々にできるようになっていきました。前に述べたことと重複する内容かもしれないですが、これは非常に良い経験でした。

大学に受かってからが本当の勝負だと思います。自分が周りに対して何ができるか、ということをしっかりと考え、すすんで勉強し、世の中に出ていく必要があると自分はこの受験を通してとても感じたので、自分の天命を全うするために四年間かけて探していきたいと思います。

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「掛け算の順序論争」に終止符を打てるか!

表題通りにかけ算の順序論争に終止符を打てるかどうかは別として、考えねばならないところまで議論を前進させられればと思います。

まず、この掛け算の順序論争についてざっと説明すると、小学校の算数のテストで以前から問題になっている「不正解」が、今またtwitterでも議論が再燃しているようです。それは、たとえば

「一人がバナナを2本ずつ持ってきました。それが5人集まると、バナナは全部で何本でしょう?」という掛け算の文章題に対して

2×5=10 が正解とされ、
5×2=10は不正解とされバツになる、という問題についてそれでバツをつけられた親御さんが小学校の先生の採点に衝撃を受け、twitterでアップする、というところから再び議論が再燃しているように思います。

この派生型として、「太陽が動く」と答えさせて良いのか論争もあるのですが、とりあえず掛け算に話を絞りましょう。これに関しては東北大の黒木玄先生(あの、「黒木のなんでも掲示板」の黒木先生です!)がtwitter上でも「掛け算に順序をつけて教えたほうがいい」論者を徹底的に攻撃するのでも有名です!

さて、お前どっち派やねん?というところをまず明らかにしていくと、僕はもちろんこのような採点には反対です。掛け算が可換(交換可能)であること、例えば友人の谷口君がfacebookで書いてくれているように、ベクトルとスカラーの区別がある場合には掛け算の順序には意味があるけれども、そうでない場合には意味が無いことも全く正しいと思います。ただ、これに関してはこの「当然可換だろ!不正解にすんな!」というアプローチをずっととり続けてもアカンような気がします。(うまい!)

なぜならこのようにかけ算の順序にこだわる小学校の先生が相手をしているのは、上記の文章題を読んだ時に当然掛け算が頭に思い浮かぶ層ではないからです。上記の文章題を読んでも「一体これは何算なの?」とよくわからない層が日本には確実にいて、そしてそれは黒木先生や谷口君を含めた、いや、そんな数学専門の大学教授とかまで行かなくてもある程度教育のある層にとっては意味の分からないバツなのですが、しかしそのような指導を必要とする層は必ずいます。その子たちに演算が何となくではなく、意味を考えて成り立つことを伝えるためには、実は先の文章題で「5×2=10ではダメですよ!」ということを伝えなければならないフェーズが必ず存在します。そのことを大学の先生達や教育レベルの高い高学歴の人たちはわからないがゆえに、このような指導を目の当たりにしてショックを受けているといえるのではないでしょうか。

もちろん、このような採点はその教育的効果を考えたとしても、そもそも誤っていることもまた事実です。しかし、そもそも先の文章題から掛け算を作れない子に対して、可換だろ!と言っても無理でしょう。「順番がどっちでもいい」という教え方をされて、子供が最初に考えるのは数や演算のイメージが湧くことなく「ああ、適当に掛け算の式を作れば良いのだな。」ということであって、「可換だな。」とはならないからです(さらにそこまで小学校の先生が説明できるかを考えれば恐らく殆どの小学校の先生には難しいでしょう)。そのような採点をすれば、できない子が全く理解できないままに式を立てるのを見過ごすことになってしまいます。

もちろんそうはいっても、先の文章題が掛け算になるのは当たり前だと思える層で、かつ、掛け算が可換であることまでをわかっているできる子たちは当然、このような理不尽な採点に苦しめられます。(まあ、そもそもできる子たちは小学生でも学校の先生がどれくらい勉強を出来ないかがよくわかっているでしょうから、あまり気にしないという可能性も高いとは思いますが。)

だからこそ、ここでのこの問題の焦点は「なぜ一人ひとりに適切なレベルの教育が提供できていないのか」ということであり、掛け算の式を一通りに決めることの妥当性やその指導の有効性をすべての人にとって問うことではありません。先の文章題から意味を感じながら立式をできない子にとっては「掛け算の順序」という限界のある考え方もそれなりに重要ですし、それができるようになっているのであれば可換であることを伝え、さらにはベクトルとスカラーの違いなど可換でない場合も考えさせ、とやっていけばよいとは思いますが、それらすべてについて、その指導を受ける生徒が今どのプロセスにいるかということがわからなければ、それらが「適切な指導」であるかどうかには何も批判ができません(まあ、この「不正解」をtwitterに上げて問題視する時点で、そもそもある程度高学歴の親であるというバイアスがかかってしまうので、その層の中での議論であれば、そもそも「あの文章題を見て掛け算であることが思いつかない」という可能性自体が排除されてしまっている上での議論ですから、当然「可換だろ!」で議論が収束してしまうでしょう。しかし、その議論の「収束」はあまり解決策にはなっていません)。

子供に嘘を教えるな!という反論も僕はよくわからなくて、そもそも科学とされるもの自体が「嘘」の塊ではないでしょうか。導出された理論に我々が自分自身の理解を追いつこうとするとき、そこでは必ず仮想的な意味をそこに付与しています。ある意味で理解をする、ということは限界のあるモデルを自分の中に受け入れることと同義であると思います。もちろん、そのような単純化、モデル化が現実(あるいは既存の理論)と食い違うところにこそ、次の科学の可能性があるのではありますが、その意味では数学者だって「嘘」を自分の理解の助けにしているのではないか、と思います。別に数学者だけを槍玉に挙げなくても、ですね。すべての人間の科学は「仮説」を立てては、それと現実や既存の理論とのズレを見て、さらに修正をしていく、という発展の仕方をとっています。その中で「2本が5人分あるから」という考え方は、明白な限界を備えているとはいえ、一つの仮説を立てることによって現実と演算の世界との結びつけ方を学ぶ一つの理解の仕方であると思います。だからこそ、それが「我々が自明としている理論体系と矛盾する!」とめくじらを立てる前に、それが誰のためには有益で、誰のためには有害であるのか、ということをもっと考えるべきであるのだと思います。

つまり、問題は一人一人の理解の発達段階に沿った教育がなされているかが極めて怪しいこと、理解が進んでいる子と理解が遅れている子のどちらを優先するか、という際には必ず理解が遅れている子に合わせるように学校教育が制度設計をされていること、そしてそのような制度設計のもつ危険性に現場の教員が自覚的でなかったり、弾力的な運用をできるだけの力量もない小学校の先生が多いことにあるのではないでしょうか。

まあ、それにしても思うのは教育の難しさですよね。ある時期に有益な教育は、同じ子に対しても発達段階が変われば有害になります。一人一人が現時点で発達段階が違うだけでなく、時々刻々とその子にとって必要な教育が変化していくわけです。こんな難しいことを学校の先生に任せようと思えるのが僕はちょっと無理があるように思えます。

もちろん、このような議論が起こることも学校制度の内部にいる先生たちにとっては「そういう議論がある」ということを知るだけでも不正解のバツをつける前にためらわせるという意味では有益なことです。しかし、そもそも丁寧に採点したとしても、自分の担当するクラス全員の掛け算への理解が「この子は掛け算の立式の意味がわかった上で可換なので逆にしている!」とか「この子は掛け算の立式の意味がわかっていないから、何となく書いている!」とか把握できているものなのでしょうか。。そんな奇跡のような先生は(いないとは言いませんが)ほぼいないのではないかと僕は思います。大切なのは、このような議論が盛り上がることで、「順序の違う掛け算に「バツをつけない」ように採点方針を変える」ことではなく、ひとりひとりの生徒の理解の仕方を教師が真剣に探求していく姿勢がないこと、このようにレベルの違う子たちを集団教育によって一律に教育することの功罪を考えること、なのではないでしょうか。それがないままに今の採点方針だけ変わってもまた他の弊害が生まれるだけであるように思います。(まあ、可換な演算が順番を変えられてバツになる、という「文明国にあるまじき教育水準の低さ」を体裁だけ整えることにはつながるのかもしれませんが、それはまあ枝葉のことです。)

最後に、この議論で僕が改めて思い知らされたのは、勉強が苦手な子と接する機会自体が勉強ができる人にとっては本当に少ないのだな、という事実です。社会の分断はこのようにして、互いへの共感を欠いた制度設計を生み出してしまう危険があると思っています。「できない」側からは「お前のように勉強のできるやつに何がわかる!」と排斥されながらも、それでも僕は「できない」側に果敢に(!)立ち続けたいとは思っています。

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愛とは何か。

この仕事をしていて、いつも痛切に感じられるのは親御さんが自分のお子さんのためにどれほど懸命に努力をされるか、ということです。自分の子供に対して本当に自分のことのように思い悩み、身を削ってなんとかしようとするその努力に対していつも心を打たれます。特に同じく2児の親でありながら、自分の子供を他人の子供よりもよけいに愛することの出来ない僕にとってはなおさら、ひとりひとりの親御さんの献身的・超人的な努力と愛が本当に眩しく見えます。

それとともにこの仕事をしていて痛切に思うのは、その愛情がいかにすれ違いしか引き起こさないか、という残酷な現実でもあります。どのように努力や思いを尽くそうとも、子供は親の思うとおりには育ちません。もちろん、方向性が親の望むそれでなかったとしても、その違う方向性へと向かう熱量が大きければそれはそれで子育ての「成功」であると僕は思いますが、それですらもなかなかに難しい、というのが現状であるのだと思います。その厳しい現実に傍目から傍観者として見るのではなく、そのすれ違う思いを何とか噛みあわせるためにこそ塾というのはあると思っていますし、その点で親御さんの協力者であるだけでも子どもたちの代弁者であるだけでもダメで、その両方をやりながら、何とかそのすれ違う思いを噛みあわせていきながら、子どもたちに自分たちの人生を自力で切り開く力をつけてもらいたいと思って日々やってはいるのですが、それがどのりょうに努力しようとも、本当に難しいことであると日々思い知らされています。こんなしんどい仕事だと最初からわかっていれば、絶対に選ばなかったのに!という思いで毎日全力でやっています(まあ、これは嘘ですね。初めから知っていて覚悟を決めて飛び込んだつもりでした。しかし、当初の僕の覚悟しかないのなら、とっくにやめているほどしんどいことだとは気づいていなかったというのが本当のところです)。

ただ、この仕事を続けていく中で、僕の中では「愛する」という言葉の定義がだんだんとわかってきているように思っています。自分が正しいと思うものを相手に伝えてそれを実行してもらおうとしても、相手がそれを正しいとは信じられない時にはそれは伝わり得ないわけです。それに対して「相手の考えがわけがわからない」とするのではなく、自分の中での「正しさ」の定義をそこでもう一度疑い直せるかどうかこそが、愛情の深さなのではないかな、と思うようになりました。その点でどのように懸命に相手を自分の理想とする「型」にはめようとしても、それが自分が相手にはめようとする「型」自体が本当に正しいのか、そのモデルが自分にはぴったりと合ったとして、違う人間である我が子にもピッタリ合うかどうかは実はわからない、という疑いをもてるかどうかこそがとても重要であるのだと思います。

もちろん、そもそも相手が何も頑張ろうとはしていない、あるいは頑張ろうとしていることのその密度が圧倒的に足りない、などということは批判をすべきでしょう。それをせずして「違う人間であるから何でも認める。」という姿勢をとるのは、単純に責任を放棄しているだけです。自分が必死に何らかの価値を追求し、そのために努力をしていることがそもそも必要です。しかし、それを必死に追求してきた自分の人生に一点の曇りがないとしてもなお、違う道へと同じかそれ以上の努力の密度で挑もうとする子どもたちを「選ぶルートが自分とは違うから」という理由で否定をしてはならないのだ、と思います。だからこそ、本当に子どもたちを愛する親や教師というのは、絶えず自分の価値観を疑うことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが親や教師として鍛えられる、ということとも同義であると思います。一つの真理や正義に安住するわけにいかない、という悩みこそが人間性を深めるものであると思うからです。

だからこそ、自分が何かの方向へと懸命に自分の人生を懸けて努力をすることは、その方向を疑うためでなければあまり意味がないのだと思います。方法的懐疑が目的へと堕した瞬間に懐疑は自己目的化してしまい、検証を伴わない懐疑がすべての努力の足を引っ張るだけという情けない事態になってしまいます。しかし、人間というのはどうしても心の弱いものであるので、自分が懸命にそれこそ人生をかけてやってきたことについては、そこに価値があると信じたくなるものですし、逆に何かを頑張りたくない人間にとってはその自分が頑張りたくないと思うものに価値が無いと信じたくなるものです。しかし恐らく現実は、どのような学問もどのような技術もどのような社会貢献も、私達が人生をかけてそこに投資をするほどには価値の無いもの(必ずその限界を伴うもの)でありながら、しかし、私達がそれを全くしないよりは価値が有るものであるのだと思います。その残酷な現実を少しでも検証していくために、私たちは私達の信じるものがそれほど信じるに値しないことを知るためにこそ、必死に努力をしていかねばならないのだと思っています。それこそが、一つの中心へと「帰依」や「信仰」のように収斂していくものではない、本当の愛情なのではないかと思います。その意味で愛は拡散的であるがゆえに、打ち捨てられゆくものであると言えるのではないでしょうか。広がり、打ち捨てられ、踏みにじられることを恐れずに、様々な作業仮説を疑うための努力を今日もしていこうと思っています。

もちろん、このように偉そうに言う僕が生徒たちの思いを踏みにじっていないのかと言えば、失敗ばかりであるのでしょう。僕は生徒達に話を聞いてもらうために叱る、あるいは怒るという手段をほぼ使いませんが(よく怒る教師は自らその武器を奪うことになります。オオカミ少年になってしまいますよね)、それでも「ここでこそ怒らなければならない!」とかなり精密に計算をして叱ったつもりが、その真意が全く伝わらずにただ相手の感情を踏みにじるだけになってしまう、という失敗だってよくあることです(まあ他の先生方と比べれば少ないのかもしれませんが)。しかし、叱ること、叱らないこと、あるいは相手を型にはめようとすること、あるいは型にはめようとしないこと、そのすべてが相手に対しての暴力になっていないかどうかについては、絶えず自覚的にチェックしていかねばならないと思っています。何が暴力で何が愛情であるのかは時と状況と相手によってすべて変わっていきます。だからこそ、「これが愛情だ!」「これが暴力だ!」などという安直な決め付けを自分に許さずに、絶えず考えぬいて行きたいと思います。

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映画『この世界の片隅に』の感想を書きました。

『この世界の片隅に』がとてつもなく素晴らしい映画であることなどは、もう僕のような映画オンチが語らなくても、国内のありとあらゆるクリエーターから映画評論家の方までありとあらゆる「うるさ方」が皆が激賞していることからもその凄さがわかるわけで、興行収入もだんだん「事件」と言えるくらいの伸びを見せていますし、改めてその紹介記事なんかこの受験も間近の忙しい時期に書くこともないかな、と思っていたのですが、そうは言っても塾の子や卒塾生に言葉の限りおすすめをしたところ、中には「そんなに言うほどいい映画?」という反応もあったため、「教え子の不明を鍛えるのが教師の役割!」「弟子の不始末は師匠の不始末!」とばかりに燃えてきてしまいました。なので、このとてつもなく忙しい時期に(本当にこんな記事を書いている場合ではないのですが)それでもその素晴らしさを紹介したいと思います。


とはいえ、「徹底した時代考証ゆえに、リアルさをつきつけられて実感してしまう!まるでタイムマシンみたいだ!」とか、「戦時下の普通の人の暮らしを丹念に描くことでかえって戦争の恐ろしさを実感させてくれる!」とか、「主演ののんちゃんの声と演技力が素晴らしい!」とか、巷で言われていることは言いません。もちろんそれらすべてに首を激しく振って同意したいところなのですが、そんなことはいろいろとネット上にある記事あるいはパンフレットやユリイカを読めばわかるでしょう。またクラウドファンディング云々、この素晴らしい映画を完成させるのに片淵監督を始めとして製作者の方々がどれほど「良い作品をこの世に出したい!」という思いでやってきたか、それが絶望的な状況からどのように奇跡を起こし続け、現在の大ヒットにまでつながったのか、あるいは主演ののん(能年玲奈)さんがテレビでの告知が事実上できない状態でそれでも彼女を主演に選んだということもまあ、いろいろ取材記事があるでしょう。それらも本当に激しく同意し、また心より感嘆と賞賛の声を上げたいのですが、それもここでは省きます。ここでは、そうした『この世界の片隅に』に対して起きる様々な賞賛以外の、僕の生徒たちに見てほしいと思う点のみに絞って書いていきたいと思います(なにせ、受験間近で時間がないですから!多少ネタバレもあります。ご容赦を。)。


僕が一番伝えたいことのいとぐちとして、容易に「感動した!」も「面白い!」も「泣ける!」も言えずに(事実として滂沱の涙を流しているお客さんはいるものの)皆、上映が終わったら無言で出て行く、というこの映画の凄さがあると思っています。アニメ映画というよりは、一人の人のドキュメンタリーを見せられたような、あるいは一人の人の半生をずっと聞かされたかのような重みをもって誰しもが映画館をあとにすることになります。そこでの捉え方はもちろんお客さん一人一人で違うのでしょう。しかし、その重みを抱えて、軽々しく「評価」をできない、という気持ちは恐らく見た人は誰でも抱えてしまうのではないでしょうか。


もちろん、映画は人の人生を描くものです。それは同じような時代を描いたアニメの『風立ちぬ』もそうでしたし、そもそもほとんどの映画は(英雄的であれ、喜劇的であれ、悲劇的であれ)一人の人の人生を描いた映画というものが圧倒的に多いでしょう。しかし、この映画ほどにその主人公の人生を感じさせられる映画というのは非常に少ないのだと思います。それが非実在の主人公であることを忘れて、私たちは自分の母親や祖母であるかのように主人公の人生を重く受け止めざるを得ません。それがアニメーションの技法によるのか、細かい日常の生活を描いていることによるのか、主義や主張ではない部分を描く時間が多いからなのか、何よりもそれらすべてを裏付ける徹底的な時代考証によるものなのか、そのどれもが原因であるのかはわかりません。しかし、主人公の人生を突き放して見ることのできないという印象を強く与えられることは間違いがありません。


世界は絶望に満ちているとしてもなお、絶望を希望とみなすことはできる。それをニーチェがキリスト教を揶揄したように「奴隷の道徳」とけなすことは簡単でしょう。服従が前提となる中での努力は抵抗への可能性を放棄しているがゆえの超人的な努力であればこそ、それは肯定されるべきものではなくむしろ否定されるべきである、というのもまた一つの聞くべき主張であると思います。しかし、この映画はその上でその批判に簡単には負けない強さがあります。戦争や革命など大きな歴史上の何かによっては決して変え得ない人間一人ひとりの中の何かを信じる強い気持ちが現れた生活が描かれています。だからこそ、そのようにすべてが茶番だと知りながら戦争に協力することも、そのために苦しい生活を強いられることも、すべて耐え抜けるのです。戦艦大和もまた茶番です。すべてが茶番だと知りながら、しかしその茶番の根底にはもっと深い何か、もっと譲れない何かがあることを信じていたわけです。しかし、それは生活者の茶番とは違い、国家の茶番の中には何もなかったと感じ、それに対して憤るあのシーンは、まさに一人の人間とそれが貢献すべきより大きな目的との齟齬を前にして、我々が常にぶつかる根本的な問題であると思います。一人の人間のために世界があるわけではない、ということの例証として導入されるあらゆる主義主張ですら(それは社会契約説のようにこの社会の成り立ちを正当性の観点から問いなおすことを始まりとして、民主主義や人権のような我々が最終的な答えとして今のところ受け入れているものですら)、一人の人間の懸命な生活と実感を超えるものではない、というこの知的生命体としての人間に課せられた矛盾。自身の存在を超える何かに恋い焦がれ、身悶えし、自分をも他人をもすべてを犠牲にして、それに対してこの身を捧げながらもまた、しかし、そこでどのように洗練された主義主張ですら一人の人間の懸命に生きる生活実感とくらべてどちらが重いのかが、実はかなり怪しいというこの「正義」を求めざるを得ない人間の原理的な限界と悲しさというものを、生活に心血を注ぎ、生活によってこの上のない破壊をも乗り越えようとしていく市井の人の姿としての主人公の人生は見せてくれます。その意味で、この映画は「地に足をつけさせてくれる」映画であると言えるのです。頭でっかちに「何が正しい」「何が間違っている」「何が良い」「何が悪い」というすべての議論を肉体としての一人の人間、生活者としての一人の人間へと引き戻す(恐ろしいほどの)力を持った映画であると言えるでしょう。その意味で、あらゆる批評を拒絶する力を持っていて、だからこそ皆「素晴らしい」しか言えなくなるのだと思います。


しかし、一方でこの映画は生活の中にこそ、また希望があることも最後に見せてくれます。失ったものがあるからこそ、得られる関係性もあるのだということにもまた。率直に言って僕は希望を持たせる映画というのは嫌いでした。以前に『風立ちぬ』をデイビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』と比べて書いた時にも、『ドクトル・ジバゴ』くらいの絶望の中に最後わずか光る希望、あのバラライカ(これは是非『ドクトル・ジバゴ』の映画を見てください!)くらいが僕にとっては人生の定義として精密であるように思いました。どんなに必死に生きてもどんなに努力しても、報われずに死んでいく中で、しかし、それが無駄死に、犬死にでも少しは伝わるものがあると信じることはできるのではないか、それがここまで40年生きてきた中での僕の実感にも近いところであると思っています。ただ、その違いは大した違いではありません。この『この世界の片隅に』という映画は生き続けることがどれだけ残酷であるとしても、生活とは生きるための手段ではなく、生きることそのものであるのだ、ということを私たちに見せてくれます。(「登場人物の死」を用いて「人生」を描くのか、「登場人物の生」を用いて「人生」を描くのか、という違いでしかないように思います。)


その意味で、『この世界の片隅に』は先に書いたようにあらゆる批評を拒絶します。どのようなこの映画の解釈もまた、一つの解釈であるとともに一つの解釈にすぎず、だからこそその文脈で語れば批判や不満を語ることができるものの、それではこの映画を語りきれないことになります。それはまるで多様な側面を持ち様々な功罪を持つ一人の人の人生を、ある側面から批判するかのような物足りなさを私たちに残します。先に挙げた卒業生の反応もまた、そのような一つの文脈から見て「このような映画あるよね〜」というものに過ぎません。それは部分的には正しいのですが、それだけにとどまらずにもっと様々な側面とそれを私たちに問いかける切実さを持つがゆえに、そのように一つの感想、一つの批評で片付けることのできない余韻を私達の中に残すのであると思います。


もちろん、どのような作品も完全ではありません。原作からの改変についての批判はまた別として、最も有効である批判としてはそもそも「一次資料に基づいた徹底的な時代考証によってリアルさを追求した」『この世界の片隅に』はあの時代の「正史(正しい歴史として認定されるもの)」になりえてしまうという恐ろしさがある、ということです。どのような切り口も、どのような徹底的な調査も、それによって描けていない部分、埋もれている事実に対して免れ得るものではありません。もちろんそれを作り手の方々はよく自覚して作られていると思います。ただし、あれだけのインパクトをもった名作になってしまうとどうしてもそれが「正史」になってしまい、それ以外の事実に関しては見落としてよいものだと肯定されてしまうところがあるかもしれません。それはこの作品が本当に素晴らしい作品であるからこそ、引き起こしてしまう問題です。


それとともに、もう一つ問題であるのは生活は人間の手段ではなく目的である、という主張と実践がどのように説得力を持とうとも、思想を持たざるをえない存在としての人間に対しての答えにはなり得ない、ということです。思えばディビッド・リーンの『ドクトル・ジバゴ』は思想と生活との分裂(をラーラの元カレと今カレ(ジバゴ)の二人の登場人物を通じて対比させる)という悲劇を描いた作品でもありました。『この世界の片隅に』は原作のもつ思想性を削ってしまっている部分が、見方を変えれば「生活からの反撃」としてとても強力な作品になってしまったとも言えるでしょう。空疎な理想や言葉によって多くの人が犠牲になるということのバカバカしさを描けたとしてもなお、そのような失敗を踏まえてもなお、理想や言葉を持つことで人類史が進んできたこと、その中で我々は多少なりとも自由になってきたことは否定できません。あまりにも呆気ない敗戦を目の前にして、「そんなことのために戦ってきたわけではない」のが全く正しいとしても、「では何のために戦うべきなのか」という問いを放棄して「何のためにも戦わない」ことが正解になるわけではありません。それこそがアーレントの言うような「労働する動物の勝利」になってしまうでしょう。人間は知性を持て余し、その知性によって様々な暴力を生み出してはもっと大切なもの(生活、ひいては命)を踏みにじることは愚かしいことだし、許されることではない。しかし、だからといって考えないこと、正しいものとは何かを求めないことは人間にはできません。そのような「蓋(ふた)」の仕方からは、必ずいびつな形での表出を求める運動が始まってしまうでしょう。『この世界の片隅に』は地に足のついていないすべての言葉を破壊するという意味で、本当に素晴らしい映画です。しかし、そこから私たちはそれでもなお、どのような言葉を語りうるのかを模索していかなければならないし、その「それでも語りうる言葉」があの映画がもつ生活と人生の重みへと拮抗しうるものへまで鍛えていかねばならないと思います。戦後70年の日本の歩みというものは「生活」の再建のためにすべての正しいものを求める気持ちを捨ててきた歴史であると僕は捉えていますが、「生活できることが幸せ」という思考停止が暴力に加担しないわけではないこともまた、この70年の歴史の歩みからもまた明白なのではないでしょうか。その反動として日本会議、右翼、あるいは左翼などの浅薄な「正義」がその歪みや限界を認識される前に「そもそも正義を追求している!」というだけで一定の支持を得るというおかしな状況になってしまっているようにも思います。『この世界の片隅に』が描いた「ささやかな一人のささやかな生活を蹂躙することを正当化できるほどの正義などない。」という事実は、一方で「だから生活することだけが大切なのだ。」という主張にはなりません。知性の発祥(「発症」と最初誤変換で出ましたがそれも正しいかもしれません)から、人類史の終焉まで、私たちは曲りなりとも少しは賢くなって滅びていかねばなりません。なぜなら、その賢くなることだけが、「こんなもののために戦っていたわけではない」という悲劇を避けるための唯一の方法であるからです。その中で私たちは、どのように正義がその母体としての一人一人の人間を蹂躙してきた歴史に恐れおののこうとも、この正義ではないとしたらどの正義が正しいのかについて少しでも賢くなっていかねばならないのだと思います。生活を蹂躙する正義はもちろんのこと、生活から切り離された正義もまた無意味であることは確かであるとしてもなお、それは正義の探求、真理の探求をしなくて良いことにはなりません。その探求は知性を持つ人間にとってはかなり根源的な欲求である以上、そこでの考えの足りなさが粗悪な代替品の採用へとつながってしまうからです。そのような取り組みを怠れば、また「こんなもののために戦ってたわけではない」という悲劇が忘れられた頃に繰り返されてしまうことになります。それを防ぐためにも、この素晴らしい作品は「究極的な議論の終わり」ではなく、「議論の始まり」にしていかなければならないと思います。


ともあれ、まだ見てない人は絶対に見るべきです!僕も(既に4回見ましたが)またあと何回か見に行きたいと思います。

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教育経済学のすきま

しばらく書いていなかったのですが、嚮心塾にはホームページもなくてこのブログしかない上に、そもそもそのブログもたまにしか更新されないは、書いてあることも塾の様子とか受験のこととかではないわけで(何しろ、最新のエントリがどくんごの東京公演の感想ですからね!そもそもどくんごって何だよ!というのが一般的な反応ですよね。。)、全くこのような塾を探してご連絡をいただけるお父様、お母様方の努力には本当に頭が下がる思いです。ということで今回は少し反省して、久しぶりに教育について書いてみたいと思います。

教育経済学が中室牧子先生のおかげで少しずつ日の目があたってきていることは僕は素晴らしいことだと思いますし、成果のはっきりしない思い込みに基づく指導法をevidence -basedにしていく事自体はとても大切なことです。しかし、それがもっと普及すべきであることには諸手を挙げて賛成できるとしても、その先にまた別の難しい問題が残るのが「教育」という取り組みの難しさであると僕は思います。

塾生の勉強への姿勢や質が変わってきているのに、通塾を打ち切られることというのが非常に多いのでついついこちらとしては嘆きがちなのですが、教育においてはどうしても結果は最後まで出てこないものです。たとえば、塾生の変化の仕方を見てもまずは勉強への意識が高くなり、次に勉強時間を増やすようになり、次に勉強の質を高めることになっていき、最後に結果が出る、ということになります。この①勉強に対する意識の変化→②自発的な勉強時間の増大→③勉強の質の向上→④(成績向上などの)結果が出る、というプロセスには、現在勉強に苦しんでいる子たちはほぼ共通するプロセスであるというだけでなく、この一つ一つのプロセスのどれもが決して省略できないものでもあります。たとえば、よく親御さんに塾の役割として求められるのは③の「勉強の質の向上」であるのですが、これは端的に言えば①→②のプロセスを本人が踏んでいなければ、こちらがいくら様々な方法論を伝えようとも決してうまくいかないものであることをほとんどの親御さんは誤解していると言えるでしょう。(「いや!うちの子は勉強時間はこれ以上とれないくらいとっている!ただ効率が恐ろしく悪いのだ!」という反論をよくされるのですが、まず勉強時間を無理に睡眠を削らない範囲で可能なだけとっている小中高生自体がほぼいませんし、仮に勉強時間を物理的にそれだけとっているとしても、それらが自発的なものではなく強制させられている以上、子供というのは机に向かって鉛筆を動かしていても、いくらでもサボれるものであるのです。)

なので、まずは①の勉強に対する意識の変化が重要です。勉強というのは学校の教師や親、さらには塾や予備校の講師に無理強いさせられるものではなく、そもそも自分の将来に向けて自分にとって必要であること、またそれを嫌だと感じているのはむしろ勉強がデキる子であっても同じであり、ただ嫌でも必要なものとして諦めて努力する姿勢を身に着けている子とそうでない子との差がついているにすぎないこと、さらにはそのように若いうちに自分が嫌でも必要だと感じることに努力を惜しまず取り組んでは結果を出していくことが自分にとって、現在のような「学校歴社会」がなくなったとしてもとても意味の有ることであること(教育経済学の中室牧子先生もここについては強く主張されていますよね!)、さらにはそもそも日本において学校歴社会がなくなる気配はまだまだ当分ないであろうこと(それはマイナビやリクナビが支配したあとの就職活動においてはなおさら「学校歴による足切り」が厳しくなっており、学校歴は十分条件ではないにせよ、必要条件としてはむしろ以前より厳しく求められるということ)を子どもたち一人一人が理解することが大切です。ここに関してそもそも①に関して勉強の意味を大人たちは子どもたちに理解させるのが面倒くさい、というよりも自分たちも言葉で説明できるくらい理解できていない事が多いのではないでしょうか。子供に勉強をさせたいのなら、まずは大人たちが自分たちが勉強をしてきて(あるいはしてこなくて)うまく行った、あるいはうまく行かなかったということの功罪をしっかりと総括して子供達に自分の言葉で伝えていくことが大切です。それが成功談であれ、失敗談であれ、そのような言葉は子どもたちに強く響きます。特に失敗談の方が強く心に響くと言えるでしょう(マンガ『暗殺教室』でも殺せんせーが「教師とは自分の成功を子供達に伝えたいか、自分の失敗を子供達に伝えたいかのどちらかだ」と言っていましたよね!特に「失敗」の方が子供達の心には必ず強く響くと思います。人は成功を誇るときは傲慢であるとしても、失敗を悔いるときは人間性の最も崇高なものがそこに現れるからです。そのような「大人が自分の失敗を本気で悔いて子供に伝えること」以上の教育を僕は知りません。)。そのことを親や教師があまりにもやらないままに「勉強をしろ!」と言っているのが日本の教育の現状であると僕は思っています。

そして、次に②の自発的な勉強時間の増大です。これが「自発的」でなければ意味がないことは最初に少し述べました。強制的に勉強時間を増やしても、結局机に向かってサボる時間が増えるだけになってしまいます。ここでは「質より量」ではなく、まず「量」が優先します(もちろんベルクソンの言うように、「『量』とは注意力を失って注意されなくなった『質』のことである。」という主張を僕はこの上なく正しいと思っています。この言葉はそれこそスターリンの「100人の死は悲劇だが、100万人の死は数字である。」という冷徹な言葉という傍証を引くまでもなく、人間の認識の仕方を見事なまでに的確に描写していると思います)。勉強において、「量」を先に徹底して増やすことが重要であるのはどのような受験生も毎日15時間はなかなか勉強できない、あるいはそれができたとしても毎日18時間や20時間となるとできないわけで、量を増やして間に合わせようとすることには限界があると思い知るためです。これには、勉強をしていない子特有の「自分は努力をしていないだけで、努力すればできるんだ!」という根拠の無い甘えを早々と捨て去ってもらうためという目的もあります。勉強時間を増やさなければならないけれども、それを増やすだけでは決して間に合わないことを自覚して初めて、③の質をどのように上げていかねばならないか、ということに思い至ることができるようになります(もちろん、これはそもそも残り時間が少ないと痛切に感じては必死に勉強している受験生であれば、この②のプロセスを短期間で通過できるケースもあります。ただ、そのような受験生の場合、自然に③のプロセスへと移行していることが多いので、むしろ②のプロセスで止まる受験生というのは極めて少ないように感じています。)。人間というものは、自分が一生懸命に取り組んでいるものがうまくいかない時に初めて真剣に悩み、その打開策を考えようとします。一方で自分が一生懸命に取り組んでいないもので成果が出ない場合には周りのせいにしたり、あるいは自分が一生懸命やればうまくいく、と自己弁護をするものです。そして、学校の勉強、さらには受験勉強というのはほとんどの受験生が自発的に取り組むものではなく受動的に否応なしに取り組まされるものである以上、そのように受動的に始まったものを能動的に捉え直さなければ、決してその質を向上させようとは思わないのです。それは人生と同じで、受動的に始まるものであるのです。吉野弘の『I was born』という詩に見られるように、一人一人は生まれようと思って生まれたわけではないのにもかかわらず、生きようと能動的に決意しなければならないわけです。それは実は学校制度に担保される勉強も全く同じであると僕は思います。

そしてようやく③の勉強時間の質の向上へと繋がります。このプロセスでは自分の勉強の仕方のすべてを疑える子が強くなります。すなわち「自分が今まで「勉強」として定義していたものの再定義」を隅々まで図っていけるかどうか、ということですね。もちろん、受験生の勉強の仕方に対してこちらで疑問を投げかけることでそのような自分が「勉強」だと思い込んでいたものの再チェックをこちらからも促していきます。しかし、そうはいっても、すべての受験生のすべての認識を一人の教師がすべて把握することはおそらくできません。だからこそ、教師のやるべき仕事はそのように「自分のやり方を疑う」ことを教えていくことであるのです。それが本当に効果が高いかそれとも効果が上がっていないかどうかを絶えず自分でチェックするように習慣づけをしていくことが大切です。もちろん、この「自分の勉強の仕方を疑う」というのも程度の問題で、あまりすべてを疑いすぎてしまうのはそれこそ自己免疫疾患のように、自分自身まで攻撃してはかえって逆効果になってしまうのですが、そのあたりのバランスの取り方についても、教師の腕に委ねられていると言えるでしょう。

このようにしてようやく、④の結果が出てきます。もちろん、実際にはここで単純化したように①→②→③というプロセスがくっきりとわかれているわけではありません。実際には残り時間というタイムリミットを見ながら、①のプロセスと②のプロセスを何とか並行できるように苦慮したりしています。また、②と③のプロセスについてはほぼすべての受験生が②を終えてから③に移行できるわけではないので、同時並行になることが多いと言えるでしょう。さらには一つ一つの教科について、この①の段階、②の段階、③の段階がすべて入り混じります。たとえば数学については③まで来ている子も化学については①の時点で挫折していたり、その逆があったりと大変ですし、一つの教科についての気づきやbreakthroughを他の教科にも応用できる子、というのが実はかなり限られるのでその辺りもそれぞれの気付きやbreakthroughが本人の中でつながっていくように、という指導もこちらでしなければなりません。

という諸々があって、ようやく結果が出てきます。本当に大変な道のりですし、そのような諸々をクリアして毎年受験生が難しい大学に合格していくのも本当にすごいことだと思います(誰もほめてくれないので、自分でほめました!自給自足!)。ただ、このエントリの目的は「だから、みなさん、嚮心塾で成績という結果が出てなくても許してね☆」ということではありません。こういったことも含め、塾にすべての責任があるというつもりでこちらは教えています。しかし、このようなプロセスをよほどの天才でない限りいくら迂遠であっても辿らざるを得ないという「不都合な事実」を認めたうえで、どの段階に自分の子供がいるかを親も教師も絶えずしっかり考えていくことが長期的に見た子どもたちの成長にとってはとても重要であるということです(松井秀喜選手がヤンキースに入団した時、名将ジョー・トーリは当初は全く打てていない松井について聞かれ、「そのうち打つよ。彼はボールがよく見えていて、三振の仕方がいい。」と言ったそうです。その後の結果はご承知の通り、トーリの予言通りになったのですが、三振という結果だけではなく、三振の仕方を見ることが「人を育てる」ということであると思います)。それをせずに「結果が出ないから」と改善しつつある取り組みを切るのでは、「無駄」に見える基礎研究を守っていくことの大切さを主張する大隅良典先生に対して、「競争的資金を拡充しますよ!(結果出したらお金あげるよ!)」と的はずれな言葉で応えるとんちんかんな文部科学大臣と、知的レベルにおいて何ら変わらないことになってしまいます。どちらのアホさにおいても、その短絡的な判断の犠牲になるのは、若い人たちであるのではないでしょうか。(もちろん改善が見られないのにそこに予算をかけるべきであるのか、という問題は国の科学予算であれ、卑近な塾や予備校代であれ、また考えなければならないもう一つの大切な問題です。しかし、そこで大切なのは「改善」を見ようとしているかどうか、であるのだと思います。「役に立つ」あるいは「成績が上がる」のは、あくまで最終段階でしかない以上、それ以外の「改善」を見ようとする目が(ジョー・トーリのように)なければ、やはりそれはせっかく育ちつつある芽を潰すことになってしまうのだと思います。)話を戻せば、evidence-basedにしにくいものについては、やはりそれに携わるものの見る目を鍛えるしかない、というところが教育の難しさ、教育経済学のすきまとして絶えず残りうるところなのではないかと思っています。

また、だからこそ僕は嚮心塾に通ってうまくいかなかった生徒たちも嚮心塾をなかったことにはできないと思っています。退塾するにせよ、そのような改善のプロセス自体が少なくとも存在することを知っているのは、その後の人生で真摯に取り組むにせよ、あるいは投げ出して中途半端に生きるにせよ、決して無視の出来ないものとなるはずです。自分の意識を改革できずに努力を積み重ねられなかった子も、努力をしなかった自分というものを決して自己正当化することはできずに残りの人生を生きざるをえないのではないでしょうか。それがいつか、彼ら彼女らの生きる力となれるように、今日も生徒たちにどんなに嫌われようとも、自己正当化のためだけの努力をしっかりと論破していっては、自分を鍛えるための意識と方法とを塾生の中に育てていきたいと思っています。

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劇団どくんご『愛より速く』東京公演の感想

今年も劇団どくんごの東京公演を見てきました!2年ぶりのどくんごの舞台は懐かしく、切なく、本当に素晴らしかったです!今年はあれほど作りこまれた舞台を1回だけ見に行って感想を書くのも申し訳ないと毎年思っているので、越谷公演と、東京公演を三回の計四回見てきて、またそのうち一回は塾生を連れて大勢で見に行きました。各回、本当に素晴らしかったです!

どくんごの劇の素晴らしさは「意味がある」と思えば意味がなく、「意味が無い」と思えば意味があり、観客にとって全く「気が抜けない」劇であるということだと思います。ナンセンスな笑いを笑っていたはずなのに、あれ?ここはさっきのこれとつながっているのか?という疑問が自分の中に見ながらどんどん出てきます。また最初の文脈で意味を成し得なかった言葉が次の文脈で繰り返されるときには、意味を持ってきます。そのように「意味が無い」と聞き流すこともできなければ、「すべて意味がある」と
傾聴することもできない、その観客側の態度を決められなさが、逆に心地よくなってきます。意味を考える事の喜びを私たちはうんざりするかのような意味の押し付けの前には自己防衛のためにどうしても拒絶をしなければならなくなりますが、このように意味があるかないかもわからないものをこちらに押し付けないようにそっと、しかし彼ら彼女らの懸命さは伝わる形で置かれていくたびに、私たちはその意味を食い入るように見つめ、考えたくなってきます。そのような、(おそらく私達が言葉を獲得していく際に持ち続けていた)意味をわかろうとする喜びを私達の中に回復していくのがどくんごであると思います。

このように書くと、言葉だけが魅力的である劇であるかのように聞こえてしまいますが、どくんごの劇において言葉は主要な要素ではありません。むしろその鍛えぬかれた演技、音楽、装置、そして何よりもその考えぬかれた演出にこそ、どくんごの魅力があります。それらに我々が心をひらいていく中で、言葉が突き刺してくるわけです。そもそも人間のコミュニケーションはおそらく言語以外の部分に大きく依存をしていると思います。それはたとえば同じ内容を喋っているとしても声のトーンや速さ、さらには話し手のたたずまいや表情などによってその説得力が大きく違ってくるわけです。そんな小難しいことを言わなくても、「なんとなくこのおっさんの言うことは信頼できるな。」とか「なんとなくこのおっさんの言うことは怪しいな。。」などと、判断していることは日常の中でかなり多いのではないでしょうか。その意味で、どくんごの劇は言葉を回復していく過程を私たちに味あわせてくれます。言葉によらないコミュニケーションに基礎をおいていた私達が、しかし言葉ですべてを表現することを求められるようになったのが人類の発展の歴史であると言えるでしょう。それは、文化だけでなく、政治においても学問においてもそうであるのです(たとえば議会制民主主義というのは言葉で闘うことを前提としている以上、どれだけよどみなくしゃべることができるかがその国会議員の質とされてしまいます)。しかし、それだけ言葉が達者な人間たちが幅を利かせることが人類の歴史の一つの行きつく先であるとしても、それ以外の部分が本当に人間にとって必要ではないのか、端的に言えば「偉そうな言葉が話せれば偉いのか。」といえば、そうではないこともまた、我々は直観的に感じ取っているのではないでしょうか。どの国会議員を連れて来ても表面上立派でよく考えていそうな言葉は喋れるとして、さてそれで「このおっさんは信頼できるな。」と思えるのかどうか、ですよね。その意味で現代は言葉が支配している社会であるからこそ、その言葉の意味を額面通りに受け取ることができなくなっている社会である、といえるのではないでしょうか。(こう言うとジョージ・オーウェルの『1984年』に描かれるようなdouble speak(二重言語)を懸念するのかもしれませんが、double speakとは実は言葉が世界を支配した後に、言葉の意味を受け取れなくなった人間達に言葉の機能主義的(あるいは構造主義的)側面だけがうけとられるようになった世界に成立するものであると思います。その意味で、そのような「言葉の支配」による「意味の死」には、実は独裁的な権力はあまり必要ではないと僕は思います。)

よくある「ペンの力を信じよう。」「言葉の力を信じよう。」という言葉は、この言葉の持つ権力的側面に対して無自覚であるという意味で、僕は闘うべき問題を間違っているのだと思います。そもそも、言葉の力という意味でたかがマスコミが、法令の解釈に血道を上げては横車を通そうとする国家官僚に(能力の点でも努力の点でも)勝てるわけがないではありませんか。言葉が権力として、そしていずれは権威として機能してしまうのは、言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくからです。そして、なぜ言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくのかといえば、それは権力を追認させようとする横車に限らず、言葉の意味を取るというコミュニケーションに対して我々が疲れきっているからであるのです。言葉の意味を取るにはあまりにも我々は自己中心的にすぎる。意味を取ろうとしても、辛いだけだ。そのような失敗の積み重ねの中で、意味を取ろうとし続けることに対して、私たちは倦み疲れ、そして諦めていきます。国会での議論においてその場しのぎの答弁が多くなるのも、言葉が死んでいるからではなく、言葉しかそこにないからだと僕は思います。言葉が媒介するはずであった意味を汲み取ろうとする心の余裕が我々の中になくなればなくなるほど、言葉による議論は意味を伝え合うものではなく、結論が決まったあとに、儀礼として交わされるだけのceremonyになってしまいます。国会の空転を嘆く前に、そのように結論を全面的に見直す気持ちのない言葉のやり取りの中でどのような私達も生きているというこの現実をこそ何とかしていかなければ、国会の空転など変わるわけがないと言えるでしょう。言葉が死んでいるのではなく、言葉しか残っていないのです。そこに意味を伝え合おう、分かり合おうという姿勢がなくなっていくことが、社会が社会である必要をなくすものであると言えるでしょう。

(長くなりましたが)そして、どくんごの劇はそのように「意味を伝えよう」とか「意味をわかろう」とすることに疲れきっている私達だからこそ、心の芯にまで響いてきます。様々な点で、社会からずれた登場人物たちの、滑稽でも真剣で、だからこそ物悲しい一つ一つのモノローグは、最初は笑って見ているだけなのに、段々と、「あれ?私って、こんな風にしゃべってたかな。。」「いつからこんな風にしゃべれなくなったんだろう。。」「いや、この人達がどんなに笑われてもおかしいと思われても真剣に語るのに、私はもっとつまらないことも伝わらないと思って我慢してるのでは。。」と、どんどん自分が意味を伝えることに臆病になっていることに気付かされていきます。
あるいは、赤ん坊の「だあだあ」と一生懸命話しかけてくれることを思い出してみるのもよいかもしれません。彼ら彼女らの伝えたい内容はこちらに全く分からないにせよ、赤ん坊の言葉の拙さなど全くにすることのない健気な語りかけは、我々の心を打ちます。そして、その意味内容など全く分からないにせよ、それを「分かりたい!」と思って一生懸命に聞くようになります。そこで私達が赤ん坊に語りかけてそれに対して赤ん坊の声がまた返って来て、というそのやりとりは共感の回路を形成し、意味を伝え合いたい、と思うようになっていきます(伝わらないとしても、です)。

だからこそ、どくんごの劇を見続けていくと、「もっとその一人一人の役者さんのモノローグを聞きたい、意味をわかりたい!」とのめり込んで聞いていくようになります。もちろん、だからといって一生懸命聞いても、その場面場面のセリフの意味はわからないのですが、その中で、また彼らの意味のないと思っていた言葉の中にまた意味や符牒、脈絡が見事なまでに遠い場面をまたいで散りばめてあるので(今回の劇で言えば僕が気づいた中だけでも「蝶」「バス停」「宇宙だって…」などなどたくさんあります)、そこで再び意味を考えようという気持ちがさらに掻き立てられます。そのようにして、私たちは意味を考える勇気を、そこから進んで意味を伝えようとする勇気をどくんごの劇からinspireされるのだと思います。(さらに言えば、この「意味を聞く態勢が徐々に観客の中にできていく」中でなお、意味をストレートに伝えようとしない終盤の構成、というのが本当に考えぬかれた演出であると僕は思います。お客さんの心を開いておいて伝えたい内容をぶっこんでくるのではなく、心を開きながらもなおもそっと寄り添うというのでしょうか。一昨年や一昨々年に見た時はもうちょっとこの終盤がストレートだった気がして、それはそれで本当に素晴らしかったのですが、今回はより強い覚悟を決めて寄り添う(すなわちお客さんに委ねる)ことに決めた感じがして、よりどくんごらしいのでは、と勝手ながら感じました。そのおかげで劇を見たあとの余韻がより複雑なもの、しかし、後を引くものになっていると思います。)

もちろん、各モノローグやメインでやっている役者さん以外の様々な演出も何回もどくんごを見ていく中で何回でも楽しめるポイントです。演技なのか、演技でないのか、舞台設定も自分たちで全てやらねばならないことも演技の中に組み込み、どこからが演技でどこからが演技でないのかがわからなくなってきます。またお盆として舞台で使っていたものを月に使ったりと現実と空想との境目もわからなくなってきます。もちろんテントの中だけでなく、その外も大胆に使うということもふくめ、そのすべてが、境目をなくしては未分化の状態へと私達を投げ込み、それ故に劇場を出れば終わる「感動」ではない余韻が我々の日常生活の中にどんどん浸潤していくように思います。さらには、テントを組むことでそこで暮らす日常がどくんごのある風景になり、またテントをバラして移動すれば、そこにはどくんごがもういない、ということもまたこのような異世界感を作っている重要な要素であると思います。今回は東京の井の頭公演以外にも、待ちきれず往路の越谷公演も見ましたが、北越谷駅前の広場で開かれるどくんごは、「駅」という日常にどくんごのテントとさらには駅前にまで繰り広げられる様々な劇が本当に日常の景色を一変させてしまう、素晴らしい公演でした。それは役割を細分化され、それぞれの役割を果たすことに閉じ込められていった現代の我々、さらにはその象徴の最たるものとしての「駅」を、あざ笑うかのような、非日常の現出!という印象を受けました(まあ、そんな難しい言葉で言わなくても、駅前であのどくんごの公演(想像以上にすごい光景です!)ができるなら、もっと私たちは道端で何やってもいいんじゃない?と自由になれると思います)。

と、ここまで長々と書いてきましたが、もちろん、どくんごの劇は言葉にしきれません。(今回どくんごの皆さんとお会いして、以前の僕の感想文を過分にもほめていただけて本当にうれしかったのですが)このような本当に素晴らしいものを言葉にしようと思うたびに、自分の言葉の拙さに打ちのめされます。しかし、だからこそ、どくんごの劇を言葉で表現しようともしていかないといけないと僕は思っています。この言葉が支配する世界の中では、言葉にはならないけれども大切なものを言葉にもおとしこんでは評価していかねばならないと思うからです。それはたとえば、とても人間的に素晴らしい子たちに学歴をつけていくのと同じです。人を自分の目や頭でではなく、学歴を通じてしか評価できない人と同じように、言葉を通じてしか判断ができない人を僕は「バカ」と呼ぶわけですが、そんな人たちにもどくんごを知る入り口を作ってあげたいですよね(というと、反感を買ってしまって入り口になれない気がしますが)。ぜひここからの残りの公演にもお近くの方もそうでない方も、足を運んで実際に見ていただけたら本当に嬉しいです!来年もまた塾生を連れて、(ご迷惑でしょうが)大挙して見に行きたいと思っています。

それとともに、どくんごの劇を見て、意味を伝え合わない人間関係だけが人間関係であると思い込んでは諦めているすべての人々に、できることを徹底的にやっていくような塾であり続けたいと改めて思いを強くしました。意味を伝え合わないような関係性は、人間関係ではありません。「伝えようとして伝わらなくても、そのことがどのような齟齬や軋轢を生もうとも、それでも伝えたいと思うのは、分かり合いたいからだ!」と(どくんご風に)諦めずに取り組み続けることこそが、実は政治であれ学問であれ、あるいは他のすべてのことであれ今、必要なことなのではないか、と思っています。

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反知性主義について

ご無沙汰をしております。試験的にtwitterも使ってみよう!とやり始めてはみたのですが、文章が嫌がらせのように長くなってしまい、卒業生からも「知り合いじゃなかったらリムーブしてる」とまでdisられ、泣く泣くブログに帰ってきました。twitterは使い方がわかるまで、当分ブログの告知ぐらいに使おうと思います。

塾は夏休みで朝から晩までバタバタとしている(のは僕だけで塾の子たちは受験生も非受験生も皆必死に勉強しています。この光景というのは壮観だなあ、と毎回思っています)のですが、他の読むべき本を読み終えてようやく以前から読みたかったRichard Hofstadterの`Anti-intellectualism in Amerian Life`をようやく読み始めているのですが、本代をケチって英語版にしたので日本語ほどは速くは読めずにじっくり読んでいます。

まだまだ初めのほうなので、本自体の感想というのはまた読み終えたらまとめて書こうと思っているのですが、読みながら非常にあれこれと考えさせられる良い本です。というだけでなく、僕にとっては「考えなければならないいくつかの重要な問題のうちの一つ」を考えるためにこの本を読み始めたのですが、読み進めているうちに「僕の人生を定義するような根本的問題」についての本であると気付かされました。僕はルソーの著作の中でも『エーミール』を特に重要な著作の本質であると思っているのですが、一番好きな本は何か、と聞かれたら『学問芸術論』であると答えます。それは『学問芸術論』の(もちろん拙いものとはいえ)問題意識が、僕自身の問題意識と通底するからです。人間にとって学問や芸術とは果たしてプラスになったのか、マイナスになったのかというテーマに対してルソーは環境問題や核の被害など出る前の18世紀に「マイナスだ!」と叫びます。もちろんそれは単なる「逆張り」でサロンの入選論文になることを狙った、と批判することもできるでしょうが、その後の彼の著作を読めば、それはやはり彼自身が感じていた違和感を言葉にしたものではないかと思います。

一方でルソーの『学問芸術論』は学問の発達に対して反省を加えるときに新たなテンプレを導入してしまった、という意味では反知性主義のさきがけであるのだと思います。「学問の発達が人間の徳性を損なうとしたら、それは肯定されるべきなのか」という彼の問いは「その学者に人徳がなければその学問もダメでしょ!」というその学説の功罪を理解しない人間にも批判するその批判の仕方を開いたといえます。その学説が間違っているかどうかをそれを進める人間の「徳性」という観点から批判するというある意味「ちゃぶ台返し」のような批判の仕方は、その学説が間違っているかどうかを吟味する冷静な目をなくしていきます。それはこの前の舛添さんに対するバッシングとも同じですね。民主主義において政策を吟味しては冷静な判断を下せる有権者が将来的にも大多数にはなり得ない構造の中で、「政策を吟味できなければ、人間性で判断すればよい!」ということで決定されていっても本当に不幸な失敗につながらないのかどうか、それは週刊誌などの疑惑報道で容易にコントロールできる「民意」になってしまうのではないか。このような懸念が今まさに生まれているわけですが、それと同様に学問を徳性によって批判をすることが果たして人類全体の進歩につながりうるのか、それとも退化につながってしまうのではないか、という問題をルソーは(それこそ彼が『社会契約論』によって生み出した民主主義とともに)生み出してしまったと言えるかもしれません。(さらに興味深いのはルソー自身が自らの子を5人も孤児院に捨てたことで、このような批判の仕方をまず最初に自身も受けている、というところです。もちろん、彼がそのような批判の仕方の限界を考えさせるために、そこまで計算してやったのだとしたら、さすがに恐ろしいとは思いますが)

「反知性主義」とは、「知性が人間の徳性を妨げることがある」という、至極まっとうながら、しかし、それ以上は建設的ではない批判です。それは必ず既存の知的な進歩へのブレーキとして働きます。それがブレーキとして人間の知性の有り様全体への見直しを迫る限りにおいて、それは必ず起こることであるというだけでなく、極めて大切な異議申し立てです。しかし、問題はそれは決して知性の全面的否定へとは向かうべきではないということにあります。反知性主義はその最良のものですら、ブレーキでしかない。しかし、科学が発達するほどに、その現在の科学への批判や反省を加えること自体がそもそもそれらの科学的素養を前提として必要としていくために、批判や反省を加えることがほとんどの人にとってはできなくなります(これは「知識人の独裁」というだけでなく、同じ知識人であっても分野が違えば全くできなくなっていきます)。その「自分のあずかり知らないどこかで決まっている」ような「科学的事実」への不満は、実はそのような前提を専門家ですら踏まえることが難しくなればなるほどに、「反知性主義」の形でしか表出されなくなっていきます。そのようにして、批判は感情的になり、さらには感情的な批判に対して見直しをすることは専門家にとってもかなり高度な人間性が問われる以上、そこでの「見直し」は本当に正しいかどうかを見直すことではなく、あくまでも「無知な大衆」のための対策になっていくことになります。その異議申し立ての中に考えるべきポイントがあったとしても、です。

そのような不幸な社会の分断が対立をさらに激化させていきます。「このように科学が発達した時代なのに(水素水のような)ニセ科学がはびこる」のではなく、「このように科学が発達した時代だからこそ、ニセ科学がはびこる」ことになってしまうわけです。

だからこそ、やはり「啓蒙とは何か」「教育とは何か」ということが根本的に大切な問題として浮かび上がってくるように思います(と、ここまで書いてみて、もはやブログですら長すぎですよね。失礼致しました。あと少しだけ書かせてください!)。

やはり知識人にとって必要なのは、その反知性主義の中に自分たちが学ぶべき批判がないかどうかを耳を澄まして聞いてはしっかり考える力であるのだと思います。それらの批判は幼稚で、粗雑で、時に暴力的かもしれませんが、しかしその中に自分たちがより真理に漸近するヒントがあるかもしれません。そのような形を通じてしか異議申し立てができないところへと追い込んでしまっているということに対して、心を砕いて行かねばならないのです。そこをシニシズム的に冷笑しては黙殺するということは、その対立を激化することにしかならないのだと思います。

それは教育で言えば、子供の理不尽なように見える異議申し立てに対して、耳を澄ましてはしっかりとその異議申し立ての意味を考える、ということと同じであると思います。各家庭でそれが出来なければ、社会全体でそれを期待すること自体がそもそも無理であると言えるでしょう。

同様に、反知性主義はブレーキ以上のものにはなりません。人間は少しでも、今よりマシにならなければなりません。
徳性を鍛える必要がないと考えるのも愚かであれば、徳性を伴わない知性については考えるに値しないと考えるのも愚かであるわけです。そのことを教育を通じて伝えていければ、と思っています。と同時に、このテーマについてはまとまった文章を書かなければならないという必然性を感じているので、また何とか時間を作っては書いていきたいと思います。

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