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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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「stay home」という暴力。

この緊急事態宣言以降のstay homeというかけ声のもつ暴力性は、たとえば「自粛警察」と呼ばれるような営業している店舗に同調圧力をかけようとする人々の恐ろしさだったり、あるいはhomeを持つことができていない人々への切り捨てだったりと、様々な形で現れました。そういった同調圧力の一つ一つに対して、「緊急時だから仕方がない」ではなく、どのように露呈した問題点に対して取り組んでいくか、ということを私達は考えねばならない、と思っています。

ただ、どうしても見落としがちな悲惨さとして、homeが気の休まらない場所である人もまた、そこに居続けなければならない、ということがあると思っています。親がいる家を「home」とは思えない若い世代もいるわけで、そうした子達が家にいなければならないことの苦痛(それはphysicalな虐待であったり、モラハラであったり様々な形があるとは思いますが)を散々に突きつけられざるを得ない、という事実に対して、もっと一人一人が敏感になる必要があると思っています。そこへの共感や問題意識なしに、「家にいる価値を見直す」的なキャンペーン(これは芸能人とかスポーツ選手とかの善意でなされていたわけですが)が押し付けがましく拡散されていく、という事態に絶望をせざるを得ない若い世代も多かったのではないでしょうか。

介護にせよ、教育費用にせよ、日本において公的制度で支えられている部分というのは非常に小さく、「家庭」がその殆どの機能を担うことに国家が頼り切っているのが現状です。これは新型コロナ対策を「自粛要請」で乗り切り、政府としてはほぼ何もしないのと同じですね。このような状況の中で、その支えとなるべき「家庭」に頼ることができない子たち(家族と死別や離別、あるいは困窮している家庭)は放っておかれています。その子達の苦しみはもちろん、なんとかしていかねばなりません。

さらに言えば、支えとなるべき「家庭」が自分にとってはマイナスでしかない子たちもいます。物理的金銭的援助を得られないとしても、まだそこに共感があるのならばマシです(もちろん経済的困窮が、虐待に繋がりやすいのもまた事実として、ですが。)。しかし、DVや性的虐待その他を受けている、あるいは受けていた子たちにとって、「stay home」というかけ声が、どれだけ絶望的な響きをもっていたか。そのことに対する想像力をもたないままに、なされるすべての感染症対策は、僕には「homeの中に閉じ込めておいた君たちがどうなろうと、それは私達の責任ではない。(だって、私達のhomeは君たちのhomeとは違うから)」という死刑宣告のようなものにしか感じ取れません。

問題であるのは、そういった子たちを救えないことだけではないのです。救うも何もそのような存在にすら思い至らないままに、(僕も含めて)私達のほとんどは生きていくことができて、ちょっとした不便や不自由に文句を言う自由すら享受しています。どのようにひどい扱いを受けようと、子どもたちにとってはそこをhomeと見なして、どんなにひどい親でも愛するしかない。そこを否定することは、そんな親との関係にも何らかの心のやり取りを探そうと苦しみ続けてきた、彼ら彼女らのアイデンティティをも掘り崩すことになるからです。しかし、そのような子たちにとって、「stay home」と言われることの絶望といったら。。

僕自身が何かができているわけではありません。 本当に恥ずかしながら、「stay home」 ができる家庭に育ち、自身もそのような家庭を築いているつもりです(もっとも、僕の子どもたちは全くそうは思っておらず、抑圧や暴力ばかりを感じ取っているかも知れませんが)。しかし、そのように自らの家庭を「幸せ」にすることは、決してその「home」がないことに苦しむ子たちや、その中で苦しむ子たちへの愛情へとは繋がっていかずに、むしろそれらを自分には理解できないものとして視野に入れないことへと繋がっていきます。このことを太宰治は『家庭の幸福』で描いていたわけですが、あれでもまだ片手落ちで、現実の厳しさに抗することができない家庭の悲惨さだけではなく、家庭自身が暴力と束縛の装置として機能している現実に対しては、「自分の家庭の幸福」があるせいで私達は目を向けることができなくなっていきます。

このひどい時代に、子どもたちは少しでも自由に生きてほしい、と希望を繋いでいこうとする「祈り」のようなものが教育であると思っています。しかし、その教育ですら、どのようなhomeに生まれついたかで大きな格差が出てきてしまいますし、学習塾などもそのような格差拡大に加担してしまっているわけです。だからこそせめてでも、塾をhomeにできないか。そのように考えてやり続けているわけですが、この「stay home」の暴力性には、それをも根こそぎ殺されかけている、というのが現状です。それでも何とか、無力さに絶望しがちな自分を鞭打っては、ほんの少しでもhomeに苦しむ子たちの力になり続けていきたいと思っています。

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「リアリスト」とは。

検察庁法改正、というあまりにも恣意的な人事を許す法案をなんとか止められたことは、本当によかったことだと思います。とはいえ、これについてもまだまだ油断することができません。今の政府というのは選挙での連戦連勝状態で、もはや自民党内部の意見すら聞くことなく政策決定をしてしまっているので、党と政府との緊張感が全くない状態です。野党は力が弱すぎますし。だからこそ、権力分立の観点からすれば、全くチェックが効いていない状態であり、自分たちに都合がいいものを何でも法案を通しては慣例をうちやぶっていく、ということができてしまうわけです。それにまずは自民党が逆らえない。ましてや、野党など、ですね。

これについては、この検察庁法改正に対する反対運動のように、やはり国民一人一人がしっかりと勉強し、
厳しくチェックをしては声を挙げて行かねばなりません。どの党が政権を握ろうと、権力とは常に歯止めが効きにくくなるものだ、というつもりでチェックをしていくことが大切であると思います。

ということをこの何日間かは注視していたわけですが、昨日のこのテーマでのネット上の討論番組で、日本維新の会の音喜多議員が「自分はこの法改正に反対だし、党内でもそう主張しているけれども、強行採決を止めることはできないから、リアリストとして付帯決議を勝ち取る方向を目指している。」という話をされていて、その認識の偏りに非常に悲しくなりました。もちろん、これを本気で主張されるほど音喜多議員は愚かではないと信じたいし、恐らくは様々な野党がある中で「うちは他の野党とは違いまっせ。建設的な提案でっせ。」という差別化戦略をとることで得票したい日本維新の会の戦略であるとは思います!ただ、このように「リアリスト」という言葉を使うのであれば、それはもう現状追認のごまかしでしかありません。

受験生を教えていても、「『現実』を知れ!」という言葉を叱咤激励として、親御さんや学校の先生から塾生が言われることがよくあります。しかし、「現実」って何なんですかね。それってそんな簡単に知ることができるものであれば、苦労しないと思うのですが…。恐らく、それらの言葉は「今受けても受からない」とか「このままやっても間に合わない」とかを伝えたくて言われているわけですが、受験生の心を不要に傷つけるだけではなく、そもそも「現実」に対する認識を誤らせるものだと思います。

たとえば受験生の例で話すなら、今その子に何ができていて何ができていないか、ということを精密に把握することは、とても難しいです。ましてや、その「何ができていて、何ができていないか」が仮に把握できたとして、そこから「これからどうなるか」などを予測するのは、本当に神の如き所業であるわけです。一流のプロであったとしても「今うちの子がどういう状態であるかについても把握できてる!」とは親御さんには思わないでいただきたい、と毎回思います。いやいや、もちろんそれは親御さんの想像されるよりは、はるかに詳細に把握できているとは思います。しかし、教えている側としては、教えている子たちについて「さっぱりわからない…。」と思いながら、少しでも把握しようと日々接している、と言えます。ましてや、受験生本人においては、ですね。

つまり、「現実を知れ!」という言葉は、現実とは我々が知ろうとすれば知ることができるもの、という前提故に発せられるものです。しかし、それがとてつもなく難しい。受験生だってE判定しか取れていなかった子が適切な努力をしっかりと積んでいって合格することもあれば、A判定ばかりの受験生が落ちることもあります。模試やその他の指標くらいで、あるいは過去問が解けているかどうかくらいで、現実など、わかるわけがないのです。だからこそ、受験生本人も指導する教師もその一見うまく行っているように見える「現実」が本当はどうであるかを少しでも正確につかもうと必死に悩み、考え続けるわけです。

このように「現実」は知ろうと思ったらすぐに知ることができるものどころか、徹底的にそれを知ろうと努力してもなお、その全体像が全くわからないもの、それはたとえば受験生一人の内面や能力についてという限定された範囲ですらほぼわからないわけで、いわんや、政治とか社会とか、経済とか大きなくくりの中で複数のプレイヤーがいるところなど、現実が何かなどわかるわけがないのです。

だとすれば、自分を「リアリスト」と称して、「現実的にこうするしかない!」と主張する殆どの人間は「自分が『これが現実だ』と信じたいもの」を信じて行動しているだけでしかなく、実はrealistではなく、ideologistでしかありません。だからこそ、「自分はリアリストだから…」という主張をする人がいたら、受験生であれ、彼氏であれ、社長であれ、政治家であれ、その他なんであれ、「ああ。この人は自分が現実だと信じたいものを現実と思えてしまう、アホな人なんだな。」と判断してしまってよいと思います。また、「それをあたかも『俺って大人!』であるかのように喋れてしまうイタい人なんだな。」とも、ですね。

現実なんてそんな簡単にわかるわけがない。人類史上最高の天才であっても、そんなものがわかるわけがありません。
だからこそ、自分の追い求める方へと少しでも近づけるために、もがき苦しむしかないのです。もちろん、それはうまくはいかないでしょう。たとえば受験勉強のような、自分ひとり頑張ればよいものであってすら、なかなか思うようには結果が出ないものです。ましてや、この社会とか、政治とか、経済とか、その他のもっと大きなものにぶつかっては、自分が感じる課題点の修正のために必死に努力したとしても、それが変えられるかどうかはあやしいのかもしれません。

しかし、それでもなお、変えられないその状況を「現実」と呼んではならない、と思います。現実の全体像が我々のような
残念な知性しかもたない人間風情に、わかるわけがないのです。わかるわけがないままに「現実主義」をとろうとすれば、
それは私達の勝手な思い込みに基づいて「自分が諦めているが故に失敗する」という決められた轍を踏むだけであると思います。現にこの検察庁法改正への反対運動も、誰もこれが一時的であれ止められるとは思っていなかったと思います。

それでも許せないものは許さない。おかしいことにはおかしいと声を上げていく。諦められないことには努力を続けていく。そういった一人一人の、わかりもしない「現実」になんか気にもとめずに努力し続けていく姿勢こそが、自分の人生を切り開くものでもあり、この社会を良くしていくものでもあると思います。逆に言えば、「現実はこうなのだから」と語る人間は、皆さんをその人の頭の中での「現実」へと従属させようとする詐欺行為へと加担していると言えるでしょう。

というと、「でも教師ってそういう奴じゃね?」という痛い批判を受けることになります。。
確かに僕自身も生徒に向かってそういう「現実的」戦略を説かなければならない役割のときには、説きます。
「現実には無限の可能性があるから!」という態度は、往々にして、単に夢を見たいという現実逃避のためのツールになることもまたあるからです。しかし、一方でそのように「現実的」戦略を説くときの自分が、いかにそこで語られる「現実」を嘘くさいものだと思えるのか、その「現実」的戦略を越えようとする一人一人の思いに対して謙虚に接することができるのか、が教師が偽善によって抑圧を重ねる存在になるのか否かの微妙な分かれ目であるとも思っています。

realistがideologistに過ぎないように、ideologistもideologistでしかない場合も多いのです。では、realとは何か?realistとはどう生きるべきなのか?という、答の出ない問に向き合い続けることこそが真のリアリストではないでしょうか。
そして、そのように取り組む人は、自らのことを「リアリスト」とは呼べない。むしろ、誰にも信じてもらえない夢を信じ続けてはもがき続けるideologistこそが、真のrealistへの道を模索する主体である、と言えるのかも知れません。

僕自身がそのように生きて死んでいけるように、また教える一人一人の生徒たちが、そのように取り組む瞬間を作れるように、今日も現実とはなにか、についてもがき続けていきたいと思っています。

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「地頭(じあたま)」とは何か。

受験勉強では、一通りのことを基本的なところから積み上げていくしかないわけで、ほとんどの「勉強しているのに力がつかない」という子たちは、その「勉強」の内容が自分の実力よりも圧倒的に高いレベルのものである、という失敗に陥っているだけです。そこを必要なステップを踏ませ、適切な教材やペースを設定していけば学力はみるみるうちについていきます。

しかし、です。このように適切なレベルの教材の選定、というのはある程度教えたことのある先生ならたやすくできることではあるのですが(というレベルの指導すら、ほとんどの高校や予備校では実現されていないことがとても問題なわけですが)、しかし、基本的なところから「一段ずつ」ステップを踏ませてあげているつもりでも、それでうまくいく子と行かない子とに分かれるのが勉強です。

もうちょっと精密な言い方をすると、それで「隙間なく」うまくいく子と、それである程度力は伸びるのだけれども、表面的な力しかつかない子との違いが出てきます。同じ教材を同じように周回してもなお、そのように理解度や定着率に差が出てくるそれを、「地頭(じあたま)の違い」などと教える側はつい思いがちです。

このような違いは能力の違いによるものではなく、まだ目に見えてはいない何らかの原因によるものだ、と、様々な子を教えてきた経験から僕は考えています。「努力しても、できない」と思われがちな子たちも、力をつけていくために必要な思考プロセスや学習習慣のうちの何かが欠落しているからこそ、努力をしても力がつかない状態にあるわけで、それを「地頭(じあたま)の違い」と言ってしまうのであれば、教育などやる意味がないと思っています。

だからこそ、嚮心塾での指導はちょっと特殊です。いわゆる「生徒のわからないことを教える」というのはあまりメインではありません(もちろん、教えてますが!)。それよりは、「(間違えた答を生徒が導き出したとして)どうしてそのように考えたのか。」を丹念に聞いていきます。その思考プロセスを徹底的に追うことで、彼ら彼女らが何は踏まえられていて、何は踏まえられていないかの思考の癖、というか傾向を把握しようとしていきます。それとともに、いわゆる「できる」受験生であっても、とんでもない基本的なことが抜けていることに気づくことも多々あります。当たり前です。人は自分の通ってきた道しかわからないわけですから。このようにして、そのような抜けがないかどうかを探していっては、見つけ次第埋めていく、ということをやっていきます。

ある意味、この塾でやっている作業というのは「地頭(じあたま)」と一般にはされているものをどこまでも分解、分析していく作業である、と思っています。ある生徒が何かをできないときに、それを決して「地頭」とは言わずに、何らかの原因によってそのような回路がつながっていかないことになっていないかを徹底的に探し、考え抜いていく、ということをしています。

このプロセスを経て、元々勉強が苦手だった子が力がついて難関大学・学部に合格する!という奇跡が起きるときもあります。もちろんこちらもそれを目指して日々努力をしているわけで、そのためにこそ徹底的に一人を観察・分析しているわけですが、しかし、この作業自体は受験に合格するためだけに必要なことではないと思っています。

「地(じ)」というのが「nativeな(生まれつきの)」という意味だとすれば、何が「地(じ)」であるのか、を探っていくというのは自分自身が何者であるのかを、自分自身が今までに身につけたものにidentifyしない、ということです。
18年かそこらの短い自分の人生の中ですら、「これが私だ!」「これが私の能力だ!」などとすでに自分の人生が既定路線であるかのように人間は振る舞います。しかし、その「地(じ)」が実はnativeなものではなく、後天的に身につけた習慣に過ぎず、それを対象として意識し、努力することでいくらでも改善できるものである、ということに気づけば気づくほどに、自分の人生が自由になっていきます。受験などはそのように何が「地(じ)」であるのかを疑い、切り分け、そして改善していくための練習でしかありません。

もちろん、人間は自由に耐えうるだけの心の強さを持ち得ないことも多いことからもわかるように、「自らの『地(じ)』なんて疑いたくない!それを疑うくらいなら、勉強なんかできないままでいい!」と思ってしまう子たちも実は多いです。今までの自分のidentityが見えなくなるのなら、勉強なんかできないままでいい、というその恐怖感はわかります。また、実際にその子の学力の向上を妨げているものは往々にして、その子にとって一番大切にしている何かであることが多いです。その本人にとっての「大切なもの」が現実とは食い違う方向へとその子を駆り立てていくがゆえに、同じ失敗を繰り返す、ということになっています。

もちろん、だからといって、その子が今まで一番大切にしてきたものを捨てろ!と強要することはできません。実際には、その大切にしてきたものは、その子にとって別の長所の根幹となっていることもまた多いからです。しかし、そのような大切なものがある部分においては得難い長所を作り上げてきたとともに、別の部分ではどうしようもない短所の原因となっていることも多いという事実を認識してもらい、その子の大切なものを変えようとせずに長所は活かした上で、しかしそれが当然のごとく招く限界についても理解し、準備をしてもらっていく、という作業を粘り強くしていかなければなりません。

愛国心であれ、その他の帰属感情であれ、その影響を脱し、それが自分にとってnativeであるがゆえに当たり前に組み込まれているものである状態を脱した上でそれでも愛せるのであれば、それは「愛」と呼ぶに値するものだとは思いますが、自身の惰性ゆえの疑いのなさを正当化するために「愛」を僭称することは単に成熟できていない態度であると思っています。だからこそ、自身の中での「地(じ)」を疑い、改善していく作業の一貫として、「地頭(じあたま)」とされるものに対して、一人一人の塾生が、徹底的に疑い、検証し、それを乗り越えていけるように僕自身もこれからも力を尽くしたいと思っています。

そしてそれはまた、自身に固有の形質を心から愛することができるようになるためにも、必要なプロセスであると思っています。

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見る、ということ。

教育に携わる人間にとって、名作『暗殺教室』は必読書です。僕自身も繰り返し読み、子どもたちにも読ませてきました。
その中で「見る」ということについて描かれた部分があります。

(ここからはネタバレなので読んでない方はふわっと飛ばしてください!)

具体的には主人公が自分の弟子に対して、その部分的な能力の評価のみに終始しては弟子の人間全体を見ようとしてこなかった自分の浅はかさゆえに弟子がねじまがってしまったことを、自分が人間全体を見られることの尊さを感じていく中で後悔し、自身が再び一人一人の「人間全体」を見よう!と決意することが彼の動機であった、ということがわかります。

(ネタバレ終了)

教育において、「見る」ということは全ての基本であり、そして究極の奥義でもあります。「指導力」という無形の力を測るのは難しいとして、その教師がどれだけ指導力があるかを測る指標は、その教師がどれだけ生徒たちのことをしっかりと見ているか、よく観察しているか、だと思います。

このように書くとよく生じる誤解として、「生徒たちの一挙手一投足に細かく口うるさい先生が良い先生である」というものがあります。しかし、これは往々にして、「よく見ていない」先生の特徴であり、このように口うるさい先生は生徒の人間全体を理解することにはあまり興味がなく、自分の価値基準に子どもたちを従わせることに関心がある人が多いと思います。この場合、子どもたちの「部分」だけを見て、そしてそれを自分の理想という鋳型にあてはめようとしているからこそ、「口うるさい」指導になりがちです。

「よく見」ていれば、決して口うるさくはできないものです。なぜなら生徒が様々な失敗や問題を起こした時、あるいはうまくいっていないなにかに直面した時、そこに対してready-madeのアドバイスをすることが、かえって彼ら彼女らのpersonalityを毀損したり邪魔したりするものになることを恐れるからです。
しっかりと観察し続け、それが教える側の自分の好き嫌いからではなく、やはりその子のためにはならないと確信をもてるようになり、しかしその子がそのような悪い習慣を形成してくるまでには、その子なりの試行錯誤があるわけで、そのような試行錯誤から生じているその子の長所を損なわないようにして、どのようにアドバイスをしていくか。それを考え続けることになります。

だからこそ、「よく見る」ということは、「逡巡し続ける」ということです。

自身の正しさに疑いのない人間には、教える資格はありません。
教師が偽善を語ることは、仕方のないことです。(もちろん宮沢賢治の糾弾も正しいのですが)全ての人間が自らが正しくなければ善について語れないのだとしたら、人類の誰も善については語れない、ということになってしまいます。だからこそ教師は、自らがろくでもない人間であることは当然の前提として、それでも子どもたちには善を語らねばならない。

しかし、一方でその「善を語らねばならない」が、簡単に機械化・自動化してはその大義名分のためにチェックが効かなくなり、暴力的な抑圧に加担している自分に気づけないのが私達人間の愚かしさでもあります。

生徒をよく見る。そして、それに対して自分の好き嫌いではなく、彼ら彼女らにとって何が必要かを考える。

といった一連の過程は、生徒にとって必要であるだけでなく、教師自身にとってもまた自分の言葉が嘘や自己満足にならないためにも必要であるのです。

だからこそ、嚮心塾では、とにかく生徒をよく見る(観察する)ことに時間を充てています。業務の9割9分はそれである、と言ってもよいでしょう。徹底的に観察し、彼ら彼女らの思考回路や心理状態、そこに至るまでの人生を想像し、そしてその上でこちらがかけられるかけるべき言葉を探していく。それは学習に関してがメインですが、それだけではありません。

その「見る」ということがたとえばZOOMの指導とかではどうしてもうまくいきません。現場で空間を共有して見ている時と情報量が違いすぎて、細やかなところまでが観察できないのですね。もちろん質問に答える、相談に乗る、メールのやりとりをする、答案の添削をする、などのやりとりはできるわけで、そうしたコミュニケーションから思考回路や心理状態をある程度は把握できます。
しかし、本当に大切なのは、そのように生徒の意識の俎上に載っているものではなく、無意識に現れるもの、コミュニケーションによらないものを教師が把握することであるので、そこはこのオンライン教育の普及によっては、失われるしかないと思っています。

もちろん「学力を伸ばす」ために見る、というのは相手を「人間全体として見る」ということとはときに矛盾するものでもあるでしょう。ただ一方で相手を「人間全体として見る」ことを抜きにして「学力を伸ばす」というのには、僕はやはり限界があるかな、とも思っています。卑近な例で言えば、自分の担当教科を伸ばすことだけしか考えていなくて、生徒の受験全体を考えられない教師は、生徒が学力を伸ばすためには有害です。あるいは生徒の受験を成功させることしか考えていなくて、その後の生徒の人生を想像できていない教師は、実は生徒の受験の成功にすら、あまり貢献できはしないのです。

部分は全体と繋がっているだけではなく、全体の一つの現れでもある以上、部分を理解するためには全体を見ようとしていく努力が欠かせないのです。「困難を分割する」ことがデカルト以来の問題解決の伝統であり、我々が立脚してきた価値観であるとしても、分割された困難であることが、もとは一つの問題であったことを忘れ去るために使われるのであれば、それはもはや問題自体に取り組むことを放棄した態度であると言えるでしょう。「学習塾に人間性の涵養なんか求めていない。成績さえ上げてくれればいい!」というのはよくあるリクエストですが、そもそもその子が様々な機会に学ぶことができていないのはその子の人間性に深く根付いたものがある、というときに「人間性の涵養などどうでもいいから、成績を上げろ!」という主張がいかに的外れか、ですよね。そもそも、その2つが繋がっていない、と考える事自体が僕には傲慢で浅薄な人間観であると思います。(といっても、「人間性の涵養!」といってお説教だけするのもまた違いますが!)

ともあれ、今日もまた、徹底的に生徒の人間全体を見続けようともがき続けたいと思います。

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