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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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「不適合」とは。

自分自身を振り返って最近よく反省するのは、自分がいかに偏っているか、です。明白にわかりやすい筋道を示せていると思っていても、それが相手に理解できないだけでなく、真剣に考えることすらなく却下されるときに、どうしてもバカにしてしまいます。

これだけ書くと、塾の教師としては失格なようにしか聞こえませんが、塾の生徒に対しては(彼ら彼女らの「鎧」となっているプライドを剥がすために戦略的にそのような態度を取ることはあったとしても)基本的にそのようなことはありません。

問題は、やはり大人に対して、なのですね。子どもたちに対しては無限の忍耐をも辞さないつもりではあるのですが、大人達に対してはどうしても、「もっと悩めよ!」「もっと考えろよ!」と冷たく突き放しがちになってしまいます。

もちろん、謙虚に自分自身の考えの足りない可能性について、常に考え抜いて努力されているような方々に対しては、こちらもやはり頭を垂れるしかありません。僕自身が若い頃に世の中に勝手に絶望していたよりははるかに多くのそのような先達がいらっしゃる、ということはここまで生きてきた中で確信できることであると思っています。ただ自分のことを「世間の人よりは賢い」と思ってそれ以上の思考を停止している大人に対しては、どうしても苛烈な対応をしてしまいがちです。

話をもとに戻せば、ある明白な筋道の提案をそれでも考えることすら拒絶する、というのはそれが彼ら彼女らのコミュニケーションの「型」に適合していない、ということでもあります。用意された「型」に適合しないものについてはそもそも考えないようにしておく方がコミュニケーションの、あるいは人生も「効率」はよくなるわけです。

しかし、そのように「既存の型」に適合することを突き詰めていけば、結局なんのための人生であるのかはよくわからなくなっていきます。そして、子どもたちが彼ら彼女らを愛しているはずの親御さんに苦しめられるのは、そのように「既存の型」に適合することばかりを求められてしまうからです。

まあ、学習塾の講師とか予備校の先生とかは社会不適合者です(皆さん、僕に言われたくはないでしょうが!)。学校の先生や大学の先生とはわけがちがいます。経済的に不安定なだけではなく、役に立たなければ切り捨てられ、何一つ権威や権力とは無縁の職業です。僕もまたいつ路頭に迷うかわかりません。

しかし、そのような周縁に生きる人間だからこそ、既存の型を押し付けられて苦しむ子どもたちに共感し続けることもまたできるのでしょう。
それはやがて、その子どもたちが成長して大人になり、社会に適合していき、彼らとは違う人間になっていっても、それでも彼らの子供時代を守ったことにはいくばくかの意味があるのだと思います。

そして、もちろん酒を飲んでパチンコしての不適合では説得力もないのかもしれませんが、既存の社会では評価し得ない、しかし必要な努力をしていくことは、既存の社会に不適合であったとしても、新たな社会を紡ぐきっかけになるかもしれません。

もちろん嚮心塾では、一人一人の生徒に、親御さんにお金を出してもらっても通う価値のある大学に合格してほしい、という思いで一心に鍛えています。その目的はそこだけをとれば、一人一人の塾生に「社会に適合」してもらうために全力を尽くす、と言えるでしょう。しかし、それだけでなく、そこでの彼ら彼女らの努力と結果が社会に適合することを超えていくこともあるかもしれません。そのように彼ら彼女ら一人一人の頑張りが、既存の社会に適合するだけではなく、新たな社会を紡ぎ始める一歩となることに対しても、心から応援し続けたいと思っています。

その上で、僕自身は自分自身の努力でもっとできることがないかを、丹念に探し続けて行きたいと思っています。最初に書いたことも、言ってみればこちらの努力によって改善の余地はいくらでもあります。型にはまったコミュニケーションの隘路からでも、少しでも正しい内容を伝えていけるように、少なくともこちらからは決して諦めないように。もっと自分自身を律して伝えていくことで、形式しか見ることができない大人たちにも、何とか実体を伝えていけるように、努力を続けたいと思っています。

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劇団どくんご『誓いはスカーレット』感想

どくんごにハマってしまった結果として、東京受け入れのメンバーの一人となりました!
そして、関わりが深くなればなるほど、どくんごの感想が書きにくくなります。それは、何も「身内だから欠点に言及しにくい」という理由ではなく、どくんごを構成しているのは舞台の上だけではないことがあまりにもよくわかってきてしまうからです。場所取り、宣伝、旅の道中、テントの立て、公演、打ち上げ、そしてバラシと、その全てがどくんごの重要な要素である以上、舞台についてだけを書けば、どうしても「片手落ちどころではない!何も書けていない!」という気持ちになってしまいます。

だがしかし!深く知れば知るほど舞台の上だけで終わらないどくんごが、最も大切にしている舞台について感想を書かない、というのではやはり駄目だと思うので、今年も頑張って書きたいと思います。



今年のどくんごは、序盤の繰り返しがとにかくエグかったです!「どくんごとはこういうもの」という意識があるからこそ集中して聞いていこう、となるわけですが、初見の方とかはあそこでうんざりしてしまう方もいるのでは、と見ていてちょっとハラハラしました。

しかし、その「繰り返し」もよく聞いていくと完全な繰り返しではなく、微妙に内容が違っていたり、さらには発話者が変わったり、一人から全体へと共有されていったり、とそこで様々なバリエーションが生まれています。それを見ている我々は、段々とその繰り返しの差異に気づけるように、集中して聞いていくことになっていきます。

それは他のシーンでの一つの擬態語・擬声語が様々な意味で使われていること、あるいは複数のシーンで同じ名称が様々なものを表す(あるいは、それが同一の人物?だとしたら…という妄想を開いていく)ことに使われていることなどからも、そのように考えさせるきっかけを散りばめていきます。

「一つ一つのシーンに意味などありません!いやいや、意味などありませんってば!」と劇団に断言されながらも、そのような差異に、あるいは同一性に気付かされる私たちは、自然にそれらに意味を見出したり、立ち止まって考えたりという引っかかりをたくさん浴びることになります。それはやがて、私達の中に話を聞く姿勢、吟味していく姿勢を準備していくことになります。それはまるで長く一緒に暮らしてきた動物たちの鳴き声に我々が「感情」を見出すように、あるいは赤子の意味不明の声に、我々が感情やメッセージを見出すように。

言語の論理構造だけから意味が生まれるのではなく、そこに込められる思い、声、身振り、表情、その他のものから私たちは意味を汲み取るように、私達の感覚はどくんごを観ている間に解放されていきます。そして、意味などわからなくてもなんとなく心にひっかかるものが確かに役者さんの熱量で私達の目の前に現れたとき、日常生活の中で意味を追うことに倦み疲れた私たちはまた、意味を考える意欲を回復させられます。

殆どの大人たちは「世界が不思議に満ちている」という感覚(センス・オブ・ワンダー)を押し殺して生きているものです。というよりは、「世界が不思議に満ちている。」という感覚にどれだけ背を向けられるかが、「大人」の定義とでも言えるでしょう。「理解可能なものからしかこの世界が成り立ち得ない」という立場を大人たちが固めていくのは、怖いからでしょう。自分にはわからないものが確かに存在していて、そこには素晴らしい価値があるかもしれない、と思うほどに、有限な自分の人生においてはその素晴らしい価値を気づかずに死んでいくのは怖くてたまりません。だからこそ、大人たちは「自分にわからないものには少なくとも価値はない!」という立場を取っていくことになります。そして「自分に理解できないものの意味を考える」ということを止め、「自分に理解できるものだけが意味がある(つまりは考えないように生きる)」という繰り返しで、生涯を終えることになります(研究者や芸術家は違う、と言えたら良いのですが、研究者も芸術家も自分が思考を停止しない分野を狭く区切った上でそこに関してだけはそうしているだけなので、基本的には同じだと思います)。

一方で、子どもたちにとっては最初、この世界には「理解できないもの」しかありません。だからこそ、子どもたちは「理解できないけれども、でも相手が真剣に発話したり提示しているもの」を、懸命に反復しては理解しようという試みを、決して怖がりません。理解できないものだからこそ、その意味を考える。もちろん、考えてもわからないことも多いでしょうが、それでも意味を考えることを無駄だとは思わないものです。そのような子どもたちを、大人がどれだけダメにしてしまっているか…について語ると教育論になってしまうので、ここでは書きませんが、だからこそどくんごは子どもたちにとってはその「世界は不思議に満ちている」という感覚からすれば、ぴったりとハマるものであるのです。

そして、どくんごの凄さは、そのセンス・オブ・ワンダーを大人の中にも回復していくことです。いやいや、観たって意味なんてわからないんです。初めて観たとき僕も後付けで初めて観たときから偉そうに感想を書きましたが、しかし、意味なんてまあわかりません。けれど、強く心に残るものがある。それもひねくれ者の、大人の権化であるような僕ですらです。すると、「これは何だ…?」とまるで赤子のように、センス・オブ・ワンダーが回復されていきます。相変わらず意味はわからない。しかし、「意味がわからないから」という大人じみた卑怯な理由で切り捨てるわけにはいかない何かがある。
その体験が、「理解できない」ということを恥じたり恐れたりしては、それをないものとしていた自分の殻から出ていく勇気を、大人にも引き出してくれます。そして、「わからないなりに感じ取ろう、受け止めよう!」という子供の頃から忘れていた姿勢を私達の中に準備していきます。

そして、そのように準備ができた中で紡がれていく後半のシーンの数々といったら!いやいや、相変わらず意味はわからないのです。わからないのですがしかし登場人物一人一人の懸命な訴え、取り組み、告白、それらすべての必然性を、観ている私達が共有する状態になっていきます。

これはまた、「気持ちが理解できる」「共感できる」というのとは全く違います。たとえば、同じ場面を観てもそれを観て泣いているお客さんもいれば、笑っているお客さんもいることからもそれはわかります。相手に「共感する」というのは(芝居に限らず)「理解できるものを理解する」のと同じように、極めて一方的で暴力的な行為であるとさえ言えるでしょう。しかし、相手と同じ気持ちを味わうことが原理的に不可能であるとしてもなお、その切実さを受け取ることはできる。そのようなむき出しのコミュニケーション、私達がどこかで通ってきたはずの原初のコミュニケーションが存在するのだという事実を私たちに喚び起こしてくれます。(これをたとえるなら、能面が、場面に応じて笑っているようにも怒っているようにも泣いているようにも見えるように(なので能面を「感情を表さない」ことの比喩で使うのは、間違いです!)、むしろ意味がわからないからこそ、そのシーンを単一の意味や記号に落とし込んでわかったふりをすることができずに、そのまま受け止めざるを得ない、ということなのだと思います。そしてそのシーンをそのまま受け止めたときに私達の中に沸き起こる感情は、演者が伝えようとしているものでも、私達が勝手に抱いているものでもなく、演者と私達との間に何かしらの交流が成立しているからこそ立ち上がる「その場にしかない何か」になっていきます。)

と言葉にしてみると、「なるほど意味がわからないシーンを作ればそうなるのね!」という残念な理解になってしまいがちなのですが、このような交流の場としての舞台を作るためにどくんごがやっているのはひたすらな作り込みと常軌を逸する努力、であるのです。どのようなシーンを演じたいか、それをどのように構成していくか、意味がわかりすぎず、わからなさすぎず、つながっているようでつながらず、つながっていないようでつながっていて、どこを舞台とすべきか、どこを舞台とすべきでないか、そして一見意味の分からないシーンにリアリティを出していくためのテキストへのこだわりと演技の徹底的な練習、さらには一つの舞台を年間80ステージも同じメンバーで演じ込んでいく徹底的な探究、楽器・ダンス・歌の徹底的な練習、それらのすべてが私達に目の前のわけの分からない舞台を観させ、聞かせます。

そのクオリティから、これをやる彼ら劇団の必然性を感じ、そこから各シーンでの登場人物の必然性へと引き込まれ、そして…と最初の話に戻るわけです。赤子の「だあだあ」と一生懸命話す「言葉」を「(我々の狭い定義での)意味をなしていないから」、というようには無視できなく、傾聴せざるをえなくなるように。


そして、どくんごの舞台はこの「傾聴する」「受け止める」という姿勢を私達の中に作り出していくために、さらなる仕掛けも作っています。メインの登場人物が演じている間に、他の登場人物がそれを楽しみながら傾聴する姿勢に私達が影響されていくところもあるからです。背景幕の転換から何からすべてを他の登場人物が行うこの忙しい芝居の最中なのに、メインが演じている際にも、他の登場人物は舞台袖でしっかりと聞いています。それは「聞いている姿勢を演じている」部分、それから「本当に素に戻って聞いている」部分と両方あるとしても、その姿勢が私たちに「意味がないから聞かないでいいや!」という多寡のくくり方を思い止める補助線として機能していきます。

さらには、即興パートのシーンではまさに演者同士が言葉を受取り、次のパートを紡ぐ、ということをやっていかねばならないため、彼ら彼女らにとっても他の演者の言葉を聞かざるをえない場面が必ずあるわけです。つまり、そのことによって「演者の間でコミュニケーションがなされているように観客に見えれば良い」というすべての芝居における構造上の必要性だけではなく、「実際に演者間のコミュニケーションが為されている部分」と「作り込まれたそうでない部分」とが混在する一連の舞台になります。自分が舞台上でアウトプットだけをすれば良いのではない、という緊張感を演者に常に与えます。そのことが作り込まれた場面にも迫真さを生み出していきます。

そしてそれはさらに、その演者間の傾聴の姿勢から、作り込まれた各場面が演者の中で消化されていくことで、即興の場面の中にも「構造」が立ち上がることに繋がっていきます。必死に反応しては演じる演者達の即興が、彼ら一人一人の歴史から生み出されるものであるというだけでなく、それまでの他の様々な場面とも響き合ってきます。その立ち上がる「構造」の可能性に、私たちは深く心打たれるのです。

世界を自ら狭くしては受け取るものを限定して生きることで、何とか自分の人生に意味を与えようとする自分の健気ではあるが虚しい取り組みの、その外にある可能性に。「意味の分からない」ものに目を見開き、耳を澄ませ、心を開くことの、あまりにも豊かな可能性に。そのように秩序を求めて無秩序を恐れず、意味を求めて無意味を恐れず、「連帯を求めて孤立を恐れず」と徹底的に開いていった末にまだ残る、共に生きることの可能性に。



今年も本当に素晴らしかったです!本当に有難うございました!
僕は今年はあと2回くらいしか見ることができませんが、最後までツアーを応援したいと思います。関東ではもう終わってしまいましたが、これから中部、四国、近畿、そして九州と周っていきます。お近くの方は是非見て頂けたら嬉しいです!

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竹内英人先生にアクティブ・ラーニングの特別授業をしていただきました!

ご報告がだいぶ遅くなってしまったのですが、先日、なんとこの小さな嚮心塾で、あの受験数学の新たなバイブル、Focus Goldの筆頭著者である竹内英人先生に特別授業をしていただきました!数学のアクティブ・ラーニングの授業をしていただき、塾生たちも本当に楽しみ、喜んでくれていました。何よりも、僕自身がとても勉強になりました。本当にありがとうございました。

生徒たちがまず個別に問題を解き、それを元に話し合い、そして他の生徒達に説明をするというこの形式には様々な形での気づきが生徒たちにもたらされていると思いました。以下、アクティブラーニングが効果的であるポイントとして気づいたことを書いていこうと思います。


①他の生徒達がどのように考えているか、を聞くことができる。それによって自分が押さえられていない勉強のポイントについて気づくことができる。

これはどの先生も実感としてあると思うのですが、どのようにわかりやすい説明をしても、それを生徒たちが100%把握しようとする姿勢を持てていないケースが大半です。これは「実際に100%身につかない」のが問題だという意味ではなく、そもそも100%身につけようと聞き手の側の生徒たちは思っていない、ということがあります。そのように講義の「大事なポイントだけ」を取捨選択して彼らは効率よく勉強しているつもりでありながら、それを的確に取捨選択することができるのはそもそもかなり優秀な子でなければ難しいため、結果としてポイントを外した勉強しかできなくなります。

しかし、アクティブ・ラーニングにおいては一つの問題について同じ生徒とディスカッションをするので、自分と同じ生徒たちがどこまで理解している、あるいはどういうことを重視している、ということを感じ取ることができます。そして、それは教師から学ぶときよりも遥かに学習効果が高くなります。実際に自分と同じ立場である受験生がそれらのポイントをしっかりと重視することによって成果を上げていることを実感できるからです。これはアクティブ・ラーニングの効用の中でもまず第一に大きいことであると思いました。(同輩から学ぶ、という意味で「peer study効果」とでも呼べるでしょうか)

実際に塾でも僕が「長文でも英文の品詞分解まで徹底的にできることが大切だ。」「数学の定理や公式で教科書にある範囲は全て導出できることが重要だ。」と口を酸っぱくして言っていたとしても、変に受験情報に耳年増になっている受験生ほどに高をくくって「そんなことしないでも、できるようになるでしょ。。」と手を抜きます(こういうのは教師がいくら言っても、聞いてもらえません。。)。そのようなときには、僕はその子よりも実力のある先輩の受験生が実際にどのようにやっているかをその子に見せてもらうような機会を作ります。そして、実際にその子よりもその教科ができる受験生が、そのような努力を徹底していることを見せられると、そのような受験生も仕方なくやるようになります。教師の100の言葉より、同じ受験生の1の実践ですね!

アクティブラーニングはこのpeer study効果が極めて大きいと思います。


②アウトプットの機会を多く取れる。他の受験生のアウトプットを聞くことができる。

勉強において、どうしてもインプットの時間が長くなれば、自分が理解できているかどうかをチェックしにくくなります。みんなの前で自分が理解しているはずのことをプレゼンテーションすれば、必ず自分の理解の足りなさに気づくことができるようになります。また、自分の理解をそのままアウトプットしようとした結果、それが相手に伝わらなければ、自分の論理にどこか飛躍があるかどうか、というチェックも働くようになります。

これだけだとそもそもその問題を解けるような、グループの中でも勉強のできる子だけにメリットがあり、説明を受ける側の勉強のできない子にはメリットがないように思えるかもしれませんが、勉強のできない子側にも他者のアウトプットを聞ける、ということは大きなメリットがあります。それは数学の答案や解説の作り方を構成論的に聞ける、ということです。問題集の解答、あるいは講義での講師の説明というものは過不足の内容に、かつ順番が前後しないように整理された後のものです。そのような答案を最初から作ろうと思えば、当然「そんなに過不足なく、構成まで考え抜いて数学の答案を書くことなんてできない!」と思えてしまいます。

しかし、同じ受験生がする説明は、どんなにできる受験生であってもたどたどしく、順番が前後したり、紆余曲折する中で、だんだんと筋道が明晰になっていきます。そのような説明を聞くことで、その問題ができなかった受験生にとっても「なるほど。できる受験生であってもこのように前後しながら考えていって、構成を後から整えていくもので、最初から解答のような完璧な答案が書けるわけではないのだな!」ということがよくわかります。そのことは今はまだその問題が解けなかった生徒たちにとってもまた、問題集の解答のように一分の隙もない代わりに消化しにくいものよりも、その問題の考え方へのヒントを得やすいと思います。


③間違いを恐れずに「試行錯誤」ができる。

生徒たちにとって、試行錯誤を阻害する最大の要因は、「正解」です。どのように試行錯誤をしたとしても、正解を覚えたほうが早い、となってしまえばその試行錯誤の時間をなくしていってしまいます。そして試行錯誤の際に一番重要であるのは、自分の間違いを恥ずかしがったり隠したりしない、ということです。間違いには必ず間違えただけの理由・必然性があります。その理由や必然性を自分で理解しないままに、「正解」を覚え込もうという勉強をすればするほどに、ほんの少しの変化をつけられただけで対応できなくなるような薄っぺらい学力になってしまいます。逆に自分の間違いがどこまでは有効な考え方であったのか、どこからズレが生じて間違いになってしまったのかを逐一理解していくことが自分の理解を深め、どのような問題にも対応できる実力を身につけることにつながっていきます。

そのためには、自分の間違い方をポイッとゴミ箱に捨てるようにdeleteしてしまうのではなく、しっかりと残し、それがどこまでは有効で、どこからは外れてしまったのかをさらけ出し、蓄積していくことが大切です。そしてそれが生徒同士のやり取りで行うアクティブ・ラーニングにおいてはその「間違いを隠さない」「間違いを恥ずかしいものと認識しない」ということにおいて、講義や演習形式の授業よりもさらに生徒たちに心理的ハードルが低い、というところがとても優れていると思います。これは一つには、他の生徒は「正解」を抱えていないからであると思います。それに対して、どうしても講義形式、演習形式において先生は「正解」を抱えています。その「正解」を抱えていない、ということが生徒たちの試行錯誤をのびのびとさせることにつながります。

これに関しては嚮心塾でもかなり苦心していて、そもそも「間違いは恥ずかしいことではない」「間違いを隠して正解を覚えるのではなく、自分の間違いがどうして間違いであるのかを理解していくのが勉強」ということをそれこそ「こんにちは」と同じ頻度くらいで、繰り返し繰り返し生徒たちには話しています。また、普通の塾よりはその意識も共有されているとは思います。しかし、どんなにその権力関係を掘り崩そうと努力しても、教師と生徒の間には一定の権力関係ができてしまうため、これも生徒同士で話し合うよりも僕との関係性において「間違いをさらけ出せ」ているかといえば、それはやはり限界があります(このために、わざとこちらが間違えたり…などと「正解」を抱えないように色々工夫をしています。)。この点でもアクティブ・ラーニングは優れていると言えます。

⑤「理解する」とは何かを疑い、体得することができる。

塾では中1〜大学生までに授業をしていただいたわけですが、特にこの形式の授業が必要なのは若い世代であると思いました。理解が追いつかないほどたくさんの問題を解かされてしまった結果として、「理解する」というのは「問題を解いて答えが合う」ことだと勘違いしてしまった状態が続けば、学年が上がれば上がるほど勉強についてはどうしようもなくなってきてしまいます。せめて、それがアクティブ・ラーニング形式の授業を通じて「『理解する』というのは他の同年代、もしくは下級生の子たちに理解してもらえるような説明ができること」というような、「理解する」のより正しい近似としての目標設定が早い段階からできていれば、その後の勉強方法が大きく変わってくると思います。その点でもアクティブ・ラーニングは特に小中学生くらいから行うことが一番効果的であるとも思いました。


⑥「教科書が進まない」「範囲が終わらない」批判について
これはまあ、終わらないでしょう。その点ではこの批判は正しいといえます。しかし、その「範囲を終わらせる」が現状どれほど受験生の役に立っているのか、と言えば極めて怪しいと思います。ここまでに書いたとおり、受験生の理解を犠牲にする形で形式上終わらせるとしても、それは教師側・学校側の自己満足に過ぎません。もしくは「カリキュラム未消化」を糾弾されないための自己保身にすぎないようにも思います。

塾でも毎年浪人生を教えているわけですが、たとえば数学に関してだけでも「教科書レベルはもう隅々まで大丈夫なので、その先からやろうか!」と言える受験生などほぼいないです(もちろん、高3以前から塾に通ってくれた子にはそこを徹底しているので、浪人時には大丈夫なのですが)。。東大や医学部を受けたい、と言っていても、です。

僕はむしろ反転授業方式で教科書を読み進めて、わからないところを質問で解決していく、という形で授業を進めていって、一通り終わったらその単元について問題を解いてディスカッションをしていく、というのも良い形なのでは、と思いました。

ともあれ、今は高校生にとって多くの時間を占める学校の講義があまり役に立てていない状況であるわけで、そのためには少しでも多くの学校でこのアクティブ・ラーニングを導入することで受験生たちが自分たちの理解のたりなさを実感できる機会ができると良いと思っています。


などなど、とても勉強になりました。少しでもより良い教育をできるように、学ばせていただいた多くのことを活かしていけるように、必死に頑張っていきたいと思います。

それとともに、この形式の授業が多くの高校で広まっていくことは日本の教育にとって必ずプラスになると思っています。
竹内先生、本当に有難うございました!

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東京公演のためのどくんご再紹介

いよいよ、2年ぶりのどくんご東京公演まで、残り2ヶ月を切りました!このブログでも何度かどくんご観劇の感想を書いてきました(2013年2014年2016年2017年)が、あまりに長い文章なので、改めてどくんごを見たことがない方のために、東京公演の前にどくんごの魅力を紹介し直したいと思います。


魅力その1 一人一人の役者さんの全力、全身、全霊の舞台。

劇団民藝の故大滝秀治さんが、先輩の故滝沢修さんに「君のは熱演と言えばよく聞こえるけど、過不足で言えば『過』だよ。」とダメ出しされた、という話をどこかで読みました。この話は「演じ手が一生懸命やっているのはアタリマエのことで、むしろその一生懸命さを観客に悟られているようでは伝えるべきものが伝えられない。」ということだと思いますし、それは一つの確かな思想であると思います。しかし、筋を伝えていくために役者の身体や存在が消されることを理想だとすれば、そもそもそれはストーリーを文字で追うのとどう違うのか、という難問も出てきてしまいます。

どくんごの舞台はその逆です。筋を味わうための役者ではなく、役者を味わうための舞台です。一人一人の役者さんがこれでもか、これでもか、と様々な形でそのエネルギーをぶつけられることになります。そこには笑いあり、哀しみあり、ユーモアあり、と様々な感情が湧き起こるわけですが、その一つ一つのシーンの意味、というよりは、ただ目の前の役者さんの全てを味わえばよい、というところが実は演劇ファンだけでなく、多くの人にとって間口が広い舞台であると思います。

その一人一人の役者さんの懸命な演技は、意味がわかるかといえば、わかりません。かといって、全くわからないかといえば、わかる気もします。そのような彼ら彼女らの演技に目を凝らし、耳を澄ませていけばいくほどに、徐々に自分の中に様々な感情が立ち上がってきます。意味を追い求めるのでなく、ただ目の前の人々の必死さに対して心を開くことにつながっていきます。


魅力その2 しかし、全く役者頼みではない構成と演出。

魅力その1だけを読めば、「なるほど。要は、ちょっと頑張ってる一人芝居のオムニバスっぽいやつなのね。そんなの、一本一本、独立して見れば良くない?」という意見も出てくるはずです。しかし、その一人一人の役者さんの奮闘が、繋がっていないようで繋がっているのが、どくんごのまたもう一つの凄みです。音楽も照明も(広義の)舞台も幕もテントも、その全てがひとつながりのものとして、機能しています。ここ5年は毎年見ている僕が、「あの場面が好き」「あの演技が好き」という以上に、毎年毎年「どくんご」として一続きの完成された舞台を見る感動を与えられるというのは、やはり改めてふりかえってみても、本当にすごいことであると思います。

言い換えれば、どくんごは、はじめから全体の絵を描いておいて、それを細分化して一つ一つのピースを作る、というジグソーパズル的な構成ではありません。「Aというピースをやりたい」という役者と「Bというピースをやりたい」という別の役者さんとの組み合わせをいくつもすりあわせていく、という途方もない作業を丹念にやり抜いていった、自然物の岩を活かした巨石積みの石垣を見るときのような感動があります。部分が全体のために作られているのではなく、各部分がそれ自体のために存在しながら、それらを補助線としての「全体」がなぜか浮き上がってきます。それはまた、お互いに違う他者同士が共に生きていくための共生の作法ではないか、と感じさせられる感動が生まれるのです。

それだけでなく、一人で演じるシーンが多いとはいえ、複数人で演じるシーンには複数人で演じることの必然性がしっかりとあります。「ここは一人ではないほうがいい」と考え抜かれて複数人で演じられる場面は、役者さん一人一人の夢想を、我々の目の前に顕現するために徹底的に考え抜かれた作りをしています。

さらに、です。「板の上」で人が演じるだけで様々な場面を伝えることができるのが演劇の醍醐味であるのなら、どくんごはその「板の上」から全てが生み出せるとしてもその「板の上」であることもまた一つの制約になっていないか、までとことん疑いぬいた舞台であると言えるでしょう。その点でも、役者さんの演技を楽しむだけではとどまらない、多くの魅力があります。

このように、一人一人の役者さんの演技を堪能するだけでなく、観れば観るほどその全体の構造が浮かび上がってくる、本当に奥の深い舞台であると思います。(なので、僕のように年に何回も観てしまうどくんごファンが出てきてしまいます。。去年は8回も観てしまいましたが、僕などまだまだ熱烈などくんごファンのほんのはしくれ、上には上がいます。)


魅力その3 見る場所によって全く別の面白さがある。

どくんごは野外にテントを張って公演をする劇団だからこそ、公演地ごとに様々に背景が変わります。市街地の雑踏の中で行われる公演が、私達一人一人の日常をこじあけてくれるなら、広い海を背景に行われる公演はどこまでも幻想的な世界になります。また、その公演地の背景の違いによって、同じ場面、同じセリフもまた、違う響きを持ってくるのが驚きです!これにハマると…様々な公演地に見に行ってしまいます!

「借景」という概念があります。庭園の内部だけでなく、庭園から見えるその外の他の景色がうまく映えるように庭園を作ることで、それもまた庭園の景色の一つにする、という造園法です。どくんごの世界はまさにその「借景」を使うからこそ、あの小さなテントを、どのような設備の揃った大劇場よりも豊かな舞台へと変えていきます。その妙といったら!

これも庭園の借景にも言えることなのですが、素晴らしい景色がそもそも最初から内部にあるのと、外から「借りて」くるときとで、その景色との出会い方が変わってくるのですね。内部に組み込まれているときとは違って、借景にはさっきまで見ていた遠景に新たな意味を与えられる、という再発見の感動があります。それを演劇で実現しているのは、とてつもないところです。

魅力その4 劇団がアツい。ファンが濃い。

どくんごは一年かけて、全国各地をツアーで周ります。鹿児島から車3台で出発して北海道の東端、釧路まで行き、そしてまた南下して鹿児島まで戻っていきます。これだけ聞いても、ちょっと何言ってるかわからないです。

さらに今年は実質7ヶ月で年間80ステージ(!)、公演地も33の場所で行います。単純計算で7ヶ月間、平均すると2.6日に1ステージ以上はやっている計算です(車なので移動に大きく時間がかかることをお忘れなく!)。それをただ演じるだけでなく6人のメンバーで、テント設営から証明設営、チケット販売から客入れ、そして終演後の打ち上げまでやっています。ますます、わけがわかりません。一体いつ寝ているんだ。

さらに、33の公演地では各地にいるどくんごファンが「ただどくんごを自分が見たい!」というだけの理由で、公演地の場所取りの交渉から宣伝、さらには当日のボランティアスタッフまでやっています。これも今年僕が受け入れをやってみて、一番驚かれたのは交渉口で公園の管理担当の方々に「で、あなたは劇団のメンバーではないんですね!」ということでした。数多くの劇団が公演するような公園でも、「ファンの方が場所取りに来る劇団、というのは聞いたことないですね。。」というお話でした。しかし、それを全国33箇所!しかも30年間続けてきているわけです。


まだまだ魅力が語り尽くせません。
とにかく、今この時代の日本に生きていて、どくんごを見たことがないなんて、本当にもったいない!僕なんか、一年間必死に教えてあれこれ手を尽くして第一志望に合格させた受験生に、「この塾に入って本当に良かったです!どくんごを観ることができたんで!」と言われたくらいです(これはちょっと悲しい。)。

今年の東京公演は、9月8,9、11,12日と葛西臨海公園で行います。詳しくは劇団ホームページで。
東京公演の予約は嚮心塾でも受け付けています。
是非、どくんごを見逃すな!

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「教育」が虐待に変わるとき。

児童虐待のニュースは跡を絶ちません。そのたびに心を痛める人も多いこと、なんとかしたいと思い、手の足りていない児童相談所の拡充を少しでも目指すべきだ!と主張することはもちろん抗うべくもなく、正しいと思います。しかし、そのようなあくまでも外からの取り組みを進めるだけでなく、「虐待」がなぜ起こるのか、について虐待する親を「人でなし!」などと批判する前に、彼ら彼女らの気持ちを理解していくことがとても大切であると考えています。

これに関して、糸口となるのはこのような事件が発覚するたびに、虐待をしていた親から「教育だと思っていた。」「しつけだと思っていた。」というコメントが繰り返されることだと考えています。つまり、彼らは(当たり前ですが)虐待をしようと思って虐待をしていたわけではなく、子供に「教育的指導」「しつけ」をしているつもりであるのに、それが結果として子供を死に至らしめてしまった、ということになります。だからこそ、彼らの考える「教育」や「しつけ」がどこから虐待へと転じてしまっているのかを考えることは、彼らと何ら変わることのない私達自身にとっても、大切なことであるのです。

では、教育と虐待の境目とはどこにあるのでしょうか。もちろん、暴力を振るう、とか食事を抜いたり減らしたりするといった具体的な行為については、明確に虐待であるといえるでしょう。しかし、そのように一般的に「虐待」として共通理解が得られやすい行為を列挙していく方向でなく、もっと抽象化して定義するとすればそれは、「現に効果が上がっていない教育をずっと続けること。」と定義できるように思っています。すなわち、現に効果が上がっていない教育方法を続けることは、虐待である、という認識をもつことが大切であると思います。

教育やしつけという目的を持ち、それを通じて我が子の「問題点」を直そうとするのであれば、仮に暴力をふるったり、食事を抜いたり、という方策が自分の子供にとってその当初の親が問題視した行動を減らす方向へと機能しているかどうかを絶えずチェックするはずです。そしてそれによってその子の行動が改善していればよいですし、そうでなければまた別の手段を考えていく、ということが教育やしつけであると思います。(もちろん、これには「効果的な体罰ならそれを容認するのか」という問題があります。これに関して難しいのはたとえば暴力や食事を抜くなどの虐待行為によって外見上はそのような子供の「問題」行動が収まる、という短期的成果を得てしまうこともある、ということです。僕自身はそれがあくまでも外見上の成果でしかない、という点でこれを否定しますが、長くなるのでそれはまた別の機会に書きたいと思います。)

しかし、実際にはそのようなチェックはほとんど為されていないのが現状であると思います。そのような自分がそれしか知らないような教育方法・しつけ方法で子供の行動が改善するはずであると思いこんでいる親からすれば、うまく改善されない、という事実に対して「自分の教育方法と努力は正しい。それによって改善しない子供が悪い。」という気持ちになっていきます。このような気持ちになれば、当然「だからこそ、自分が子供に暴力をふるったり食事を抜いたりすることは、そのように自分の言いつけをちゃんと聞かない子供にとっての罰であり、正当である。」という自己正当化のサイクルが生まれてきます。

すなわち、自分の「しつけ」や「教育」に効果がないことを自分の方法に問題があるかどうか、他の方法を試してみるべきか、という可能性には考え至らずに、「自分の方法は正しい(だって、これしか私は知らないのだから。)。だとすれば、それで改善しないのはこの子が悪い。」という思考プロセスを経て、「だから「問題」行動を改善しようとしないこの子にとって、自分の行う「しつけ」が多少苦しみや痛みを伴うものであったとしても、それはこの子が悪いのだから、仕方がない。」と変質していきます。そして、さらには自身がそのような「正当な暴力」を振るうことのできる立場にいることに、喜びさえ覚えるようになります。

私たちの人生は、苦しい。苦しみながら虐げられ、様々なことを我慢して生きているわけです。その中で「正当な暴力」を振るえる立場を(仮にそれが自らの思い込みに過ぎないとは言え)得てしまえば、それを止めるだけの自制心などないことは、たとえば昨日オウムの受刑者7人の死刑が執行されたときに、松本麗華さんに浴びせられた言葉の暴力を見ればよくわかるでしょう。そのようにして、人は暴力が「正当」であれば、それに手を染めたがってしまいます。

このように彼らの心理をたどれば、彼らと僕らの心理はひとつづきです。我が子の子育ての中で、ここに書いたようないらだちを感じずに育ててきました!というのは僕は偽善者でもない限り言えないのではないか、と自分自身の子育てを振り返っても思います。子供は大人の言うことなど聞きません。そもそも大人が何を「問題」と見ているかもよくわかりません。それを理解してもらうための手段を尽くすことなく、自分の既存の手段で伝えようとしては全く伝わらずにイライラする。そこから虐待まではほんのすこしの道のりです。だからこそ、ひどい虐待が明るみになっていたときに、そのような虐待をしてしまった親を「非人間」扱いすることこそが、僕は間違いであると思います。

あるいは、です。たとえば多くの「進学校」で出されている宿題の中には、「教育」とはいえず「虐待」としかいいようのないもの、この宿題をやることで生徒にどのようなプラスの効果があるのかわからないような「写経」のような宿題がたくさんあります(「問題集の膨大な数の問題をすべて解いて、わからなかったら解答を写しなさい。」という類の宿題です。こんな雑駁な分量だけ多いやり方によって、生徒に力がつくわけがありません。)。そして、それをやってくることをむりやり生徒に強いる先生方も残念ながら、多いのです。これらもまた、自分の教育方法が本当に効果的かどうか、目の前の生徒に合っているかどうかを吟味しないまま、「この方法しかない!」と信じ込んではそれを無理矢理子供たちに強制している、という意味では、虐待であると言えるでしょう(さすがにそれを「努力しない子達が悪いのだから正当な暴力だ!」と教師が認識している、とまでは思いたくありませんが。。でも残念ながらそのようになってしまっているケースもあると思います。)。子供たちの時間を、彼ら彼女らにとって無意味な作業で奪ってしまう、ということがどれだけ大きな罪であるのか、だからこそ教育に携わる人間は、親であれ教師であれ、自分のやり方が目の前の子供達にとって効果を上げられているのかどうかを、まず自分自身が誰よりも厳しくチェックし続けていかねばなりません。

教育は、このように容易に虐待へとなりえます。だからこそ、今自分がしていることが、本当に目の前の子供達のためになっているのかを、絶えず疑い続ける姿勢が親にも教師にも重要であるわけです。

この仕事をしていると、いかに親や教師の独りよがりの熱意や愛情が、子供たちにとって単なる虐待にしかなっていないかを思い知らされます。その中で肉体的な死に至るものは少ないのですが、子供たちの心や将来、その他様々なものをその「虐待」によって殺してしまっている、というケースがとても多いと思っています。言い換えれば、ほとんどの学校や家庭において、広義の「虐待」は起きています。

もちろん、僕自身もまた、その失敗から逃れられるわけではありません。これだけ教育のことばかり考えてきてそれに取り組み続けてきてもなお、「今の叱り方は単なる虐待でしかなかった。失敗した。。」と思う判断ミスも多くあります。だからこそ教育というのは本当に難しいことであるという認識をみんなで共有した上で、伝えたいことが子供たちにどう伝わっているのか、逆にどう伝わっていないのかを懸命に目を凝らして見続け、伝わらないときにはその伝え方の手法を考えたり他の人から学んでいくことが大切であると考えています。

人間は基本的に、自分の見たいものしか見ない生き物です。自分が懸命に努力して、それでも伝えるべきものが伝わらないとすれば、それを相手の努力が足りない所為にしたくなります。しかし、それこそが教育を虐待へとおとしめる入り口であるのだと思います。そこで自分自身の手法に問題があり、他の話し方、他の実践の仕方から何とか伝えるべきものを伝えられないか、鍛えるべきものを鍛えられないかを絶えず反省し、徹底的に探し続けることでしか、自分が愛しているはずの我が子や教え子を自分の手や言葉でただ苦しめるだけになる、という悲劇を避けることはできません。

僕自身も少しでも自分の行う指導が虐待に陥らないようその精度を少しでも高めていくとともに、このことを何とか伝えていけるように、必死に各ご家庭や学校の先生にも向き合い、子供たちを守っていければと思っています。

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社会人とは。

ホームページを作っていると、書きたいことを削って削って短くする作業なので、「ここをもっと正確に言いたい!」「この議論にはこういう側面もあるから触れておきたい!」とひたすら長文を書きたい欲が高まってしまいます(あのホームページ、あれでも大量に文字を減らしたのです。。それでも長い!と叱られてばかりですが。)。

ということで、ブログの執筆意欲がめっちゃ湧いてきました!皆さんにはご迷惑かもしれませんが、長い文章、書くぞー!

さて、塾の卒業生もだいぶ社会人が増えてきて、彼らの話を聞いたり相談に乗ったり、という機会も増えてきました。みんな各々頑張っていますし、それこそ就活もしなかった社会不適合者の僕から見たら、しんどい中でみんな本当に頑張っているなあと、頭が下がる思いです。

しかし、そもそも「社会人」とは何でしょうか。仕事をしてお金をもらうことが「社会人」なら、そんなに簡単に社会人になれてよいものなのでしょうか。

人間が生きていくためには、社会から与えられる役割を担う必要があります。それだけではなく、社会から与えられる役割を担うこと自体が、一人一人の人間にとっての生きがいにもなります。この社会においては、その「社会の中で役割を担う」ということが多かれ少なかれ金銭という報酬が発生するからこそ、自分がこの社会に役立っているかどうかは金銭という報酬からも逆算ができるようにもなります。

しかし、これはこれで大きな問題をはらんでいます。

まずは高い報酬が得られる人が社会にとって不可欠な仕事であり、低い報酬しか得られない人が社会にとって必要性の低い仕事しかしていない、という誤った推論がなされがちであるということです。
たとえば高収入の職種と保育士のように社会に必ず必要なのに低収入な職種を比べれば、この推論には根拠が無いことがよくわかります。報酬が高い仕事はそこにお金が集まる仕組みがすでに今までの歴史の中で確立している、というだけであり、それは社会の中で必要性が高いのではなく、簡単に言えば「そこにお金を集める仕組みは整備しやすかった!」というだけのことです。「この社会では、社会におけるすべてのニーズを正確に評価し、値付けがなされている。だからこそ、高収入の仕事はそれだけの社会的価値があり、低収入の仕事はそうではない。」という主張は、この社会の制度設計の緻密さをあまりにも過大評価した立場であると思います。

今儲かっている分野には偶然が作用しています。「いやいや、自分は工夫して成功して努力してきた!」と成功者は語るでしょう。しかし、そのような努力、工夫をすべての「失敗者」がしていないといえるでしょうか。そのような工夫、努力が時宜を得て成功をしたのは、あくまで偶然によるものです。どのような分野でもどのようなタイミングでも成功ができる人間などは実はあまり存在しません。

しかし、です。高収入の人が「高収入を得ている自分がしていることは社会にとって意味がある。」と思うincentive以上に、低収入しか得ていない人が「低収入しか得ていない自分は社会にとって何の意味もない」と思わせられるincentiveは強いように思います。これは、金銭が自分に対する社会的価値評価を具体物化したもの、という通念、ひいては市場経済はかなり精密に機能している、という信仰があるからであるように思います。(もちろん、最低限の生活をするための費用は誰にとってもゼロにはならない、という生活費の下方硬直性もその原因の一つではあると思いますが。)

生活保護受給者に対する視線が冷たく、行政の水際作戦(窓口で生活保護申請に来た人を理由をつけて断り、生活保護受給者を少しでも減らそうとすること)に対する批判が、いまいち広がりにくいのも、もちろん「自分たちは必死に安月給で頑張っている!」というやっかみもあるのでしょうが、それ以上に「自分たちは頑張っているから何とか生活できている。(つまり、あいつらは頑張っていないから生活ができない)」という思い込みがあるのだと思います。もちろん、そこでの一人一人の努力は間違いなくあるのでしょう。しかし、その努力の方向性や分野の選び方によっては、我々は家族が生きていくだけの報酬さえ得られなくなります。それを決定しているのは自分の努力だけではなく、様々な偶然的な要素でもあること、つまり、生活保護を受給しているのは「努力をしない彼ら」ではなく、「努力をしても選んだ分野や方向性故にうまくいかない、もしかして自分であったかもしれない彼ら」であることについての理解があまりにも足りていないように思います。

と偉そうに書く僕もまた、たまたま東京に住んでいて、たまたま中学受験をして私立中高に通わせる資力が親にあり、たまたま大学進学の費用を気にしないだけの家庭に生まれている、という偶然の産物であるわけです。もちろん、そのときどきで自分から努力をしてきました。しかし、このような恵まれた環境でなかったとしても結果は変わらない、といえるだけの努力には程遠いです(この事実には中学生くらいから気づいていたのにも関わらず、です)。その点で僕が学歴から何らかのアドバンテージを得られているとすれば(他の東大卒業生に比べれば僕はそれを就職面ではなから捨てていますが、しかしそれでもアドバンテージが存在していることは事実です。)、それは決して僕の努力の成果ではなく、偶然の産物であり、たまたま僕はラッキーであっただけです。同じかそれ以上の努力をしても、うまくいかない高校生はおそらくいっぱい居ます。今僕が塾をやって、それなりに何とか暮らしていけるのも、決して僕の努力によるものだけではなく、たまたまラッキーであったことに依るものです。(アメリカでもAfrican-american に対するaffimative actionに対して一番厳しい意見をもつのは、self-madeなAfrican-americanである、ということを聞きます。既にself-madeな彼らは現に自分たちが努力してその差別の壁を乗り越えてきたからこそ、affimative actionに対して「努力が足りない!」と思いがちなのでしょう。しかし、彼らがself-madeになれたこともまた、様々な壁を乗り越えてきたとは言え、ラッキーだった、というところがあるのです。大切なのは、自分の努力できる環境がラッキーによるものかもしれない、と疑い続けることであると思います。)


話を戻せば、市場経済がある程度以上の信頼を得ているこの社会においては、社会の中で働いて報酬を得られないことは単に生活に困るというだけでなく、自分の存在意義自体が掘り崩されるような疎外感を感じざるをえなくなります。しかし、これは、誤りであるのです。この社会に必要なことには必ず報酬が伴っているか、それもその必要度に応じて報酬が高くなるように厳密な評価ができるような高度な設計がなされた社会には、私達は住んでいません。まずはこの事実を再確認することです。仮にそれを否定しなければ、自分のラッキーさを認めたくない人々が大多数だとしても、その彼らの価値基準を内面化しないことが大切です。

その上で、社会人とは、を再定義するとすれば、「社会に必要とされる存在」という定義は残すとしても、その「社会」を既存の社会と限定しないことが大切であるようにも思います。「このように誠実に頑張る人間を評価せず疎外し、追いやるのだとすれば、そのような既存の社会はその存立の正当性が疑われる」と思えるとき、そのような人の存在は、既存の社会の限界を知らしめてくれる、という意味ではむしろ誰よりも「社会人」と言えるのではないか、と考えています。

そのような「社会人」として、芸術家・知識人などがその具体例としては一般に想像しやすいのですが、実際には職業としての芸術家や知識人は既存の社会の不完全さへの疑いを示すよりはむしろ、既存の社会を肯定する方向でしか収入が得られないものです。私達の社会では、そのような人はむしろ「狂人」扱いをされてしまうことが多いと思います。クロポトキンがドストエフスキーの作品群を「何であんな狂人ばかり描くのかわからない。」と言ったのは、そして、それにもかかわらずドストエフスキーの描く「狂人」達が私たちに人間性とは何かを思い起こさせてくれるのは、このようなことであったのではないか、と思っています。(中井久夫さんも『分裂病と人類』で「健常者」と分裂病患者との連続性、むしろ分裂病患者の方にこそ正しさがあるのではないか、と書いてくれています。また、自閉症では東北大の大隅典子先生もまた「自閉症」と「健常者」の連続性を主張されています。切り分けて、隔離したり排除したりするのではなく、むしろ私達に足りないものがあることを学ぶ姿勢が大切であると思います。)

もちろん、「みんなで狂人になろう!」とか「この評価経済はは間違っているのだから、みんなで無収入になろう!」と言いたいわけではありません。ただ、社会から疎外されている人たちに対して、「あれは社会人ではない!社会人としての責任を放棄している!」と思う前に、彼らを社会人にしていないのは、彼らなのか、それとも私達自身であるのかを問い直すべきである、ということです。その疑いのない「社会的包摂」は全て、(彼らの私達に対する、ではなく私達の彼らに対する)一方的搾取でしかないと考えています。

その上で、僕自身もまた既存の社会を押し付けるだけで済ませようとしない社会人として、何とか責任を果たしていきたいと思っています。

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塾のホームページを作りました!

大変遅ればせながら(まあ、何年遅れてるんだ、という話ですが…)、塾のホームページをざっと作りました!

こちらです。https://www.kyoushinjuku.com/

このブログもちょこちょことはいえ、書き溜めてきたので、塾についての情報が見えにくくなってきてしまっていること、
また何よりも、この塾をご友人に紹介していただいているご父母の皆様に嚮心塾を紹介しようとすれば、このブログを読ませることになり、そして「わけがわからない!」と言われてしまうのは(僕が言われるならまだしも)大変申し訳ないと思い、反省して(今さらながら)作りました!

教育について書きたいことを色々と書いていこうとしたら、せっかく見やすいホームページにするはずだったのに、やはり字ばっかりになってしまいました。。(これでもかなり削ったんです。。)

説明が必要なことを、(長かろうと)きちんと説明する。そして、それをしっかりと読む受け手によって、商品として広く受け入れられる。そのような社会になってもらいたいし、していきたいと思っているのですが、なかなか難しいようです。

まだ完成していないのですが、よかったら是非目を通していただけたら嬉しいです!

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フィレンツェ。

先日、テレビで『マツコの知らない世界』を見ていたら、「青春食堂」と銘打った高校生の思い出のお店、という特集で、僕も高校生のときにあるいは卒業後に何度か行った西日暮里のフィレンツェというお店が出ていました。馴染み深いお店であり、卒業してからも卒業生の集まりなどでは必ず行くお店であるので、懐かしさと、幾分かの誇らしさをもって番組を見ていました。

このお店は食事ができる、というだけでなくゲームも置いてあり、それこそ開成生が何時間でも話したり、やりたくもないゲームをしたり、たまり場として青春時代を過ごしたお店です。行き場のない、やるせない気持ちを持つ高校生たちがたむろする姿は、今も変わらず、という様子でした。

番組を見ているうちに、「なるほど。始めたときは気づかなかったけれども、僕は自分の塾をこのフィレンツェのような場所にしたいと思ってやっているのだな。」ということがよくわかってきました。やり場のない思い、どうにもわりきれない気持ち、誰にも話せないしんどさを抱えて、しかもそれを合理的に解決するだけではなく(塾なので、多少はそれをやらねば潰れますが)、寄り添い、放置し、そして彼ら彼女らが回復するための避難所となる。それをしたかったのだ、ということに改めて気付かされました。

もちろん、これは容易な道ではありません。フィレンツェは、コーヒー一杯で高校生を何時間でもいさせてくれるお店でした。そのような営業で大きく儲かるわけがありません。(卒業生が集まるときに利用する、というリターンはあるのかもしれませんが、その際の値段設定を聞いても、ちょっと儲かるような値段設定にしてもらえた覚えがありません。。)経営コンサルタントが相談に入れば真っ先に「とにかく回転率を上げろ!」と怒られるような営業方法であると思います。さらに言えば儲からないだけでなく、「勉強しなさい!」というプレッシャーに追い込まれている高校生を長々と滞在させる、ということは店にとって下手すれば学校や親からは(「おたくのお店に長々といるせいでうちの子が勉強しない!」という)クレームが来る可能性だってあったわけです。今から考えれば、こんなことを店主さんに許してもらえていた、ということがあまりにも有り難い、奇跡的なことでした。

しかし、お金のない高校生にとって、家と学校以外にそのような行き場があり、そこで長い時間を過ごせた、ということは本当にかけがえのない社会的包摂を得られていた、ということであるのだと思います。そして、それは経営や利益という観点では必ず見落とされがちである、目の前の中高生に対面したときの店主さんの人間としての優しさ、温かさ故に我々はそのような貴重な時間をあの場所で過ごせた、という奇跡に、本当に感謝するばかりです。

高校生の時から20年以上立って、実際に自分がそのような社会的包摂の場所を作ろうともがき苦しんできて改めて感じるのは、そのような取り組みを維持することがどれほど自分自身の人生を経済的に困窮させるのか、そのような取り組みがいかに社会からは評価されずに捨て置かれているのか(むしろ「合理的な経営ではない」という理由で駆逐されつつあります)、そしてそれらにも関わらず、そのような取り組みがいかにこの社会にとって必要であるのか、です。そして、世の中には無数の『フィレンツェ』が存在することもまた。

それは何も場所を作る、ということだけが正解なわけではありません。場所とはつまり、人のことであるからです。たとえばフィレンツェが店主さんのお人柄によってあの場が形成されているのと同じように、既存の組織、仮にそれがどのように大きな組織であったとしても、その中で自分自身が他者にたいしてそのような「場」となることはできるはずです。

時代はめぐります。「局所的な最適解のために、外部不経済を積極的に是認する」というこの趨勢が、その「内部」をどこまでも狭めていっては外部を拡大していくことで、どうにも立ち行かなくなりつつある古いモデルを何とか延命を図ろうとする、という我々の時代において、「コーヒー一杯で粘る、家に帰りたくない高校生」を「外部」と見なさずに受け入れてくれた、というそのフィレンツェの取り組みは、実は新しい公共のヒントになるのかもしれません。

嚮心塾も13年続けているので、卒塾生、あるいはその友人、友人の友人までが様々な報告や何らかの忸怩たる思いを抱え、話しに来てくれる場になりつつあります。「こんなこと、誰に相談したらいいんだろう。。」という若い世代の思いを(僕がそれに的確な答を出せるかどうかは別として)何とか必死に受け止め、少しでも寄り添っていきたいと思っています。(ヒポクラテスの’Cure sometimes, treat often, comfort always.’というやつですね。)

僕達はそのように既に愛され、庇護されてきました。商売の枠組みを超えた、あのように誰からも理解されにくいが、しかしとても必要な取り組みの恩恵を既に受けて、その愛情に守られて、何とか大人になれたのだと思います。それをどのように次の世代にまたバトンを渡していくのかは、そのように守られてきた僕達自身の責任でもあると思っています。

僕自身も相変わらず、儲かるわけのない塾をやっているわけですが、誰かを、あるいは何かを「外部」として切り捨てることのないように、必死に頑張って行こうと思っています。

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成功は失敗のもと。

「失敗は成功のもと」という言葉はよく使われます。それだけでなく、このブログでも何度も書いてきましたし、たとえば現在配布しているパンフレットでもそのことについて書いています。(「何度も、間違えよう。」)これについては一般に広まっている考え方でありながら、その実践がなかなか難しい、という意味でもその重要性について繰り返し強調していかねばならないことであると思います。

ただ今回はそれとは逆のことについて書きたいと思っています(ですので、ブログタイトルは間違いではありません!)。

一般に成功は失敗のもとでもあります。これはどういうことかといえば、人間の失敗にはたいてい彼らがそうする理由があり、そしてそれは殆どの場合彼らがそのような態度、行動、考え方で過去に成功してきているのがその理由である、ということです。つまり、過去においてそのようなやり方である程度の成功を収めているからこそ、そのやり方がいつでもどんな場合でもうまくいく!と思い込み、そのやり方を継続していく中でその過去の成功したやり方がうまくいかないような状況に変わっているのにも関わらず、同じやり方を続けて失敗を続けてしまう、ということです。

具体的に勉強に関して言えば、たとえば単純に暗記さえ頑張れば中間テストや期末テストはなんとかなる、という成功体験を繰り返してきた結果として、はるかに範囲が広くはるかに難易度が高い受験に関しても「とりあえず覚えればいいんでしょ?」というように取り組んでは失敗する、ということはとても多いのです。逆に(それよりはケースとしては少ないのですが)理解をすることを徹底してきたがゆえに、「理解していれば覚えていなくても大丈夫!」と覚えることを軽視し、時間のきつい入試ではそれゆえに間に合わなくなる、という失敗もあります。

これは別に受験勉強に限りません。サッカーでも強引にシュートを狙うフォワードよりも周りのプレイヤーを使えるタイプのフォワードになろう、ということで成功してきたプレイヤーがその考えにとらわれ、そうは言ってもシュートを打つべき場面で打たないがゆえに大成しない、ということもあります。あるいは将棋は自陣の固さがまず大事でしょ!と固めてから殴り合うことで強くなってきた棋士が、昨今のソフトの発達以降の自陣が薄いままに進めていく将棋に適応しにくい、ということもあります。どの世界でも、それこそ超一流のプロであっても、今までの自分の成功を形作ったものが、状況が変われば自分の失敗の源泉となってしまうこともまた多いのです。それほどに「これさえやっていれば永遠に大丈夫!」と言えることなど、どのような分野においてもありません。だからこそ、考え続け、変わり続けていかねばなりません。

嚮心塾でやっていることは、だからこそ、その一人一人の「成功体験」の効用と限界を見定め、その成功体験のままに任せていい部分と、それでは通用しない部分とを指摘しながら、受験生一人一人が過去の成功にとらわれて自分が身につけるべき努力の方向性を勝手に局限しないように、丹念に押し広げていく作業であると言えるでしょう。その点で、「成功は失敗のもと」であることをどれだけ教える側が自覚できているかどうかが重要となります。

ただ、この「成功は失敗のもと」もまた、口で言うのは簡単なのですが伝えることが極めて難しいものです。なぜなら、そのような成功はその受験生にとっては自己のidentityにも繋がっているからです。40年間足を棒にするような聞き込みで犯人を捕まえてきた刑事さんが(そんな方が本当にいるのかは知りませんが)聞き込みよりもむしろtwitterをチェックする方が犯罪捜査に役立つようになったとしても、そこに対応することは単に先入観があるから難しいというだけではなく、自己の人生を否定するのに近い感覚をもつと思います。たとえば大学受験生のようにまだ18歳くらいの子たちであっても、そのような「これを否定したら自分ではない」という思い込み故に努力をしても力がつかない、という悪循環に陥っていることが多いのです。

そしてそれは、彼らのidentityに関わる部分であるからこそ、そのような指摘を聞いてもらうためにはそれを指摘する側との強い信頼関係が必要になります。彼らのidentityを否定したいわけでも、枠に入れて無理やり自分の理想に近づけたいわけではなく、純粋にそのような過去の「成功」にこだわること自体が次の限界を産んでいることを指摘して受け入れてもらうためには、そのアドバイスが単に教師の側の都合や偏見ではなく、本当に受験生本人にとってそれが必要であると教える側が判断していること、またその主張には少なくとも伸び悩んでいる彼にとって試すべき価値があるかもしれない、ということを理解してもらう必要があるのです。

この信頼関係を築いていくのが本当に難しい、というのが教えていての実感です。そして、この信頼関係を築くのを非常に難しくしているのは、そもそも子供たちにとってほとんどの周りの大人は教える側の都合、あるいは偏見、好みなどによって、子供たちに大人達が成功したやり方を(何の根拠もなく)矯正させようとしてくるケースがとても多い、という不幸な事実ゆえでもあります。

だからこそ、まずは子供たち自身の成功体験やidentityに寄り添い、それに対して僕自身が偏見もなく、むしろ肯定的に評価し、その成功体験とそれから導かれる彼らの方法の効用については最大限に評価していった上で、その限界を指摘する、というプロセスをとっていく必要があるわけです。(ちなみにこの「成功は失敗のもと」という点に注意深くあれば、アドバイスをする人が先輩であれ、兄弟であれ、親であれ、教師であれ、自分の成功体験を語るということがいかに生徒にとっては有害であるのかにも思い至るはずです。その成功体験はそもそも状況が違うだけではなく主体が違うわけで、自慢話以上の何かのヒントになることの方がむしろレアケースであると思います。むしろ失敗体験の方がアドバイスとしては有益なことが圧倒的に多いです。)

さらに話を広げれば、子供たちが「何かを理解できない」ということは、だいたい「何かを理解できている」がゆえであるのです。いや、これは子供たちに限りません。大人たちについてもそれは言えるでしょう。自分にとって理解できないものを真に理解できなくしてしまっているのは、自分が既に理解している何かに帰着させて考えよう、という考え方です。もちろん多くの場合において、自分が理解している何かに帰着させて考える、ということは多くの成功体験を生むわけですが、同時にその「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものについては拒絶するという姿勢につながります。「理解は無理解のもと。」でもあるわけです。しかし、その「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものをこそ、受け入れ、意味を考え、咀嚼していく作業こそが実は、過去の自分の延長ではない自己の可能性を開くためには、とても重要であると思っています。どのような理解にも効用と限界があることを、常に意識していかねばなりません。

ともあれ、今年もまた一人一人のちっぽけな成功体験に閉じこもって生きることのない受験生生活を受験生達が送れるように、そしてそれをまず伝えられるだけの信頼関係を築いていけるように、日々努力していきたいと思っています。

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