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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

はじめまして。

東京の西荻窪で小さな学習塾をしております。今までインターネットには手が回っていなかったのですが、これからは、日々のこと、塾のこと、教育のこと、読書のことなどを不定期で書いていきたいと思います。興味を持っていただけるとうれしいです。また、お悩みのことがありましたら受験のことでもそれ以外でもメールを通じて相談していただければ、微力ながらアドバイスをしてお力になりたいと思っております。
このブログには様々な内容を書いておりますので、興味のあるカテゴリごとにお読みいただければ有り難いです。

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お久しぶりです。

だいぶ間が空いてしまいました。10月後半くらいから塾がバタバタと忙しく、11月はその合間を縫ってどくんごを見に行くための遠征にも行っていたため、気がついたらもう12月。センター試験までいよいよ1ヶ月あまりとなりました。

例年だとモチベーションを維持してもらうために指導時間の大半を費やさざるを得ない子も多々いるのですが、今年の受験生たちはしんどい思いをしながらも、皆真剣に頑張ってくれています。だからこそ、彼ら彼女らのその頑張りがしっかりと形になっていくように、こちらも知恵を絞っていきたいと思っています。

人間というものは努力の「型」がどうしても今までの人生の中で決まっているものです。ある方向への努力を厭わない子も、別の方向への努力に関しては、それが必要なことすら決して認めようとしないということが多々あります。受験勉強を間に合わせるために自分の足りないところを埋めていく、という作業は、そのような自分の脳内の「努力」にしかすぎないものを、どのように現実、あまりにも残酷でだからこそあまりにもフェアである現実へとすり合わせ、絶望を直視しては対策をしていくか、ということでもあります。

もちろん、それが一人でできる受験生であると、こちらも手がかからなくて有り難いのですが、どのように優秀な受験生であろうと、おそらく全国一位の受験生であろうと、その子の定義における「努力」は必ず現実に必要な努力よりも幅が狭いものです。そのズレを、指摘し、修正し、何とか自分自身の「定義」を乗り越えていける手伝いをするために。
残りの期間を必死に教えていきたいと思います。

やがて、彼ら彼女らが一人で自身の定義の狭さを乗り越えねばならない、そのときのために。
必死にやっていきたいと思います。

朝から晩までほぼ毎日塾に詰めては教えている毎日ですが、できる限りこのブログはまた更新していきたいと思います。

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失敗を失敗ととらえるために。

大学受験で志望校に合格したばかりの大学生など、「自分には何でもできる!」と、一歩引いて見れば恥ずかしい万能感に包まれているわけで、そのような状態の教え子たちに苦言を呈しては現実に目を向けさせることが自分の役割だと思ってやっています。とはいえ、僕自身も恥ずかしく、また忘れられない苦い思い出があります。

大学受験で自分が落ちることなど考えてもいなかった尊大な僕は、第一志望の大学しか受けていませんでした。それがうまくいき、教え始め、教えていけば教えていったで、他の東大生よりはまだ視野が広い分、より一人一人にコミットして教えられるわけで、教えるアルバイト自体が自分の「万能感」にも繋がる、という悪循環でもありました。もちろんそのことに自分では気づかず、です。

その当時働いていた塾では、校舎の教室長の先生が我々大学生チューターに仕事の裁量権を広く任せてくれていたおかげで、自分から仕事を見つけては一人一人の生徒の役に立てないか、ということを拙いながらもやり始めていました。そのときに、映像授業をとるために通ってくれていた社会人の医学部再受験生の生徒と出会い、彼の勉強の現在のレベルと受けている映像授業のレベルとの乖離から、このままではせっかく続けていても力がつかない!と思い、出来る限り僕が今の彼に必要な勉強をデザインし、教えるということをやり始めました。

その生徒は社会人の学生であったため、自分の仕事が終わってからようやく勉強ができます。勉強の開始が20時、21時からとかになり、当然その塾を閉めるまででは長く教えることもできないために、連日泊まり込みで教えては、家に帰るのは週に1,2回ということが続きました。朝まで教えて、そのまま大学の講義を聞きに行き、また塾に来て教える(もちろんその夜遅くになるまでは他の生徒も教えていました)という生活の繰り返しの中、「こんなゆるい進級条件なのに、更に自分がサボるためにシケプリ(「試験のプリント」の略語。講義をクラスの各学生が分担してノートを取ることで講義をサボる制度で、東大には残念ながら根付いています。)とかやってるなんて、頭の悪い東大生は本当に救いようがないな!」と入学時に全てのシケプリを拒絶して自分で勉強していた僕は、大学の勉強に手が回らなくなり、大学の試験前日も徹夜で塾で教えてはその足で試験を受けに行っていたため、ドイツ語の単位を一つ落として留年することになりました。

しかし、それほどに心血を注いで教えていても、その当時は所詮ハタチ前後の大学生なわけで、教える勉強の内容はわかっても、どのように力を伸ばすかについてはまだまだ圧倒的に自分の理解が足りていませんでした。もちろん、社会人として働く彼のトータルの勉強時間も彼自身がどんなに努力する人であったとしても限界があるわけで、かといって生活のためには仕事を辞めるor休んで受験勉強に専念する、ということも物理的に不可能でした。その状態を続けていても、やはり彼の学力は伸びず、入試でも点数が取れず不合格に終わりました。

そして、年度の終わりに、これをいつまで続けていくのか、ということを改めて彼と話し合いました。
僕が自分の教える力の不足を詫び、改めて次の一年をどうするかを相談したときに、彼から

「ここまでしてもらったからには、先生がどうすべきだと思うように決めてください。このまま続けていけば合格できると先生が判断するのであれば、しんどくても続けていくし、逆にこれを続けても無理だと先生が判断するのであれば、諦めます。」と言ってもらいました。

そこで僕は、
「残念ながらこのままの状況を続けていったとしても、医学部に合格できるとは思えません。仕事を休んで受験勉強に集中できるのであればまだ可能性が見えてくるとしても、この状況の中で歯をくいしばって勉強したとしても、今の学力から仕事をしながら医学部に合格するのは難しいと思います。」と言いました。

それを受けて彼は、
「わかりました。きっぱり諦めます。今まで有難うございました。」
と言って退塾していきました。

そのときの僕がどういう気持であったのかは一概にはわかりません。もちろん保身の気持ちもあったでしょう。自分自身が少なくとも多大な労力と犠牲を払って、それでも力になれなかったという事実から距離を置きたいという気持ちがなかったかと言えば、嘘になります。しかしそれ以上に、だいぶ年下の僕に彼がそのように自分の人生を左右する判断を委ねてもいいと言ってくれたことに対して、その場しのぎの嘘をつくわけには絶対にいかない、という思いだけは覚えています。

そしてそれは、僕自身にとって人生で初めての挫折でした。自分が努力をして結果を出すことなど勉強であれスポーツであれ、その他何であれ、極めて容易なことであると思っていたその当時の僕にとって、
自分が必死に努力したにも関わらず、一人の心ある、努力を惜しまない人のなけなしの努力、かけがえのない努力を自分の力量が足りないがゆえに見殺しにしなければなりませんでした。僕自身は自分や自分の家族の人生を生きるくらいなら十分に余力があるとしても、その外の人を支え、力になっていくためにはこの上なく無力で愚かであり、
偉そうな自己満足のような「努力」をいくら言い訳のように積み重ねたとしても、その自身の無力さや愚かさは決して拭えはしないという事実に気付かされました。

もちろんこれを自分の失敗ととらえないことはできます。恐らく多くの人は
それを自分の失敗とはとらえないことで、何とか傷つかないように生きているのかもしれません。しかし、
たった一度の自分の人生において、これはやはり僕の失敗ではないのか。これを僕の失敗ではないと切り離して
生きるとして、それで僕に親しい友人や家族は皆幸せそうに暮らすことができたとして、果たしてそのような人生に
何の意味があるのか。

そこからの僕は、様々な紆余曲折があろうとも、結局は「自分にもっと力がなければ、目の前の人たちを救えない。」という動機に衝き動かされてここまで生き永らえてきた、と言えます。そうは言っても「だからもう今の僕は力がついたので、誰でも救えます!」となっていればよいのですが、23年前のあの頃の自分と比べて、
できるようになったことはとてつもなく増えてはいます(増えたのは体重だけではありません!)し、
力になれる子の幅もはるかに広がっているとは思うのですが、できるようになればなるほどに、
それでもまだまだ無力感を感じることばかりです。
しかし、その失敗を相手のせいにするのではなく、あくまでも自分の失敗としてとらえ、どう乗り越えようとしていくか、
という課題については恐らく死ぬまでずっと取り組み続けることになると思っています。


ということを書こうと思ったのは、あの23年前の再受験生のお子さんが今年嚮心塾に入塾してくれたからでした。
久しぶりの再会に照れくさそうに「娘が先生のところの塾を気に入ってさ。」と話す彼に、
僕はいつもの軽口を出すこともできずに、深く頭を下げることしかできませんでした。

あれからも僕はたくさんの失敗をしてきました。そのたびに打ちひしがれ、必死に反省し、何とかできることを増やそうとしてきました。それらの試行錯誤を彼のお子さんの力にも変えていけるように、必死に教えていきたいと思います。

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劇団どくんご『誓いはスカーレットθ』東京公演の感想

今年もどくんご東京公演を実現できました!たくさんのお客さんに見てもらえたこと、今年は自分自身の地元の小金井公園で開くことができたことなど嬉しいことがたくさんありましたが、さて、感想を書くとなると、すっかり手を付けられないでいました。毎年どくんごの感想を書こうと思うと、とても書きたいことだらけではあるのですが、一方で虚しさも感じてしまいます。どくんごの感想、というのは見た人には伝わる部分もあるとは思うのですが、見ていない人にはほぼ伝わらないものしか書けないわけで、果たしてそれに何の意味があるのか、と考えてしまいます。本来ならば、見たことがない人にどくんごの凄さを伝えられるような感想を書けなければ、僕自身の自己満足でしかないわけで…。という忸怩たる思いもあります。

しかし!独自に発達し、唯一無二の素晴らしい世界を作り出しているどくんごの芝居を、何とか言語化しようとしていくことはこの社会にとって間違いなく必要なことでもあると思います。それをモチベーションにして何とか書いていきたいと思います。


今年のどくんごは濃かった!濃密な場面の連続、とはいえ笑いもおかしみもたっぷりあるのですが、一度客席の心を捉えたら、最後まであっという間に終わってしまう。それほど濃密な時間を味わえました。

一つ一つの場面のテキストが鋭く、深く、おかしみも悲しみも喜びも兼ね備えており、どくんごの特徴である弛緩と緊張、無意味と意味がよりコントラストがくっきりとしていたように思います。無意味と意味への揺り戻しが振幅を広げながら意味の方へと大きくエスカレートしていくあの感覚は、ここ最近の中でも出色のすばらしさでした。後半のソロシーンの連続はまさに「スペクタクルタイム!」という感じでした。

「繋がりはないです!」「出し物です!」「筋なんてないですってば!」と言われながらも、各場面のセリフ同士、さらには昨年までの芝居との繋がりを感じさせ、想像を膨らませてくれるのがどくんごの芝居の特徴ですが、今年はその構造がさらにブラッシュアップされ、我々は見ても聞いてもいない物語を追体験しているような不思議な構成の中で、筋を追うこと・意味を追うことを諦める姿勢を序盤に身につけておきながら、後半になるにつれて、筋や意味があったかのような思い至りを随所に感じる、しかしそれもまた自身の想像や夢かもしれない、と考えるようになっていきます。「見えない部分」を受け手に想起させることで作品が受け手を巻き込み、作品の世界に引き込んで行くというのはそれこそテレビのサスペンスドラマから映画、舞台まで定番の手法であるわけですが、どくんごのそれは作品の世界にのめり込ませていくためではありません(だって、かちっとした作品世界があるわけではないですから)。しかし、その「見えない部分」を随所に想起させることによって、我々の想像力はinspireされ、考えるようになり、そしてそれが現実世界に向いてきます。

それはまさにどくんごのテントが「借景」として公演地の地形をうまく活かしているがゆえにどのような豪華な劇場よりも表情豊かであるのと呼応して、作品世界への想像力のinspireにとどまらない、この世界自体への想像力の扉を開いていく、とも言えるでしょう。だからこそ、「楽しかったね」「素晴らしかったね」でとどまらない何かを持ち帰り、ふとしたときに思い出して考え直し、そしてまた新たな気づきを得る、という経験がどくんごを見たあとに生まれます。

つまり、どくんごの芝居の素晴らしさは、「余白」です。

一人一人の必死のセリフ、意味は分からないが必死の訴えとそれを表現するためのセリフや身体の強さから我々は見るという行為を解釈の媒介とすることからとりあえずありのままに受け入れることへとシフトチェンジしていきます。しかし、ありのままに受け入れていけば行くほどに、先に書いたように各場面の「繋がり」、セリフの「響き合い」、動きの「共通点」などを自分から発見していくことになります。この受け手が「自分から発見していく」(もちろん、この「発見」が正しいかどうかはまた別として。それは妄想かも夢かもしれません。)という触媒としての働きにおいて、そしてそれが単なる芝居の作品世界にとどまらずに現実へと向けられていく補助線としての働きを生み出していくという点において、どくんごの芝居は他の芝居とは大きな違いがある、と思っています。

と言葉にしてみると、「なるほど。余白ね。思わせぶりなセリフをたくさん散りばめて全部は書かないようにすればいいだけでしょ。」と捉えられがちです。しかし、このどくんごの形式においてその「余白」をどのように作るのか、については本当に厳しい試行錯誤が重ねられていると思っています。ストーリーがあれば、ストーリーとして完結している、ということがいわば免罪符となることができます。もちろんその出来不出来があるとはいえ、不出来な舞台であっても「ストーリーとしてはちゃんとしている(破綻していない)」という逃げ道が許されるわけです(もちろんそのような芝居に何の意味があるのかはわかりませんが)。

それに対して、どくんごの芝居は一つ一つの場面の芝居自体の説得力だけで勝負をします。ということは、書かれていない筋について観客が思いをはせることができない以上、何より芝居自体に説得力がなければ、それは余白を支え、考えたり妄想を膨らませたりすることの枠組みとはなりえないのではないかと思います。人は懸命に伝えようとされているものでなければ、意味を考えようとしないでしょう。しかし、一方でその一つ一つの場面の芝居の説得力だけでおわらぬように様々な構成を徹底的に考え抜き、ひっかかりや関連を作り出し、ときにはわざとひっかからないように突き放し、ということで観客を一つの方向に誘導するのではなく、かと言って考えるポイントが何もなくただ並べているのではなく、想像力を様々に触発していきます。この点でも芝居の持つ力を、私達の想像力があちこちへと逍遥するための励起エネルギーへと明確に使おうとしていると思います。(たとえば二人が面と向かって出て来るシーンでの発話が各々の独り言であるかと思えば会話かも、と思わされたり、会話かと思えば独り言かも、と思わされたり。そこでのコミュニケーションの成立と不成立の淡いでもがいたり、あるいは楽しそうに、諦めずに必死に発話していく登場人物たちのやりとりは、私たちにコミュニケーションとは何であるのかについて振り返らせていきます。これもまた、現実への想像力をinspireしてくれるところです)

体験としてはどくんごの観劇は「読書」に近いです(ずいぶんうるさい読書ですが!)。良い本は、それを読みながら精神があちこちへと逍遥し、そして本を離れて(本の内容であれ、他のことについてであれ)考える時間がどんどん生まれていきます。そして「本の内容を情報としてインプットする」ことではなく、精神がそのようにinspireされ、生き生きと働くようになってきます。どくんごも同じです。

だからこそ、どくんごを観たお客さんの感想は、どれもが本当に美しい、と思っています。「あれは何だったのだろうか。」と自らの揺れ動いた心を辿りながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出すとき、それらの言葉は皆美しく、詩が生まれています。詩は詩人のものではなく、誰もが借り物の言葉を脱ごうともがくときに生まれるものであると思うのですが、どくんごを観る、ということは私たちにその勇気と力を与えてくれます。僕も毎年どくんごの感想を書いているので、このブログでの感想文を褒めていただくことが多いのですが、「自分の書いたものこそどくんごの的確な感想文だ!」などとは本当にこれっぽっちも思っていません。それよりも、様々な人がどくんごについて既存のものに結びつけずに(即ち逃げずに)語るとき、その言葉は全て、この上なく美しい、と思っています。それらの言葉は必死に、まだ形にならないものに形を与えようともがいて出て来る言葉であるからです。そしてだからこそ、そのきっかけを作り出すどくんごの芝居、というのがどれほど我々にとって有り難いものであるのか、ということを痛感しています。どくんごの芝居を見たとき、私たちは「語りやすいから語りたい」「うまく語ることができるから語りたい」といういやらしい自分を脱ぎ捨て、「うまく語れないけれども何とか語りたい!」という自己に立ち戻れる気がします。それはまさに赤子が我々の言葉を真似して一生懸命に意味を伴わない、しかし懸命な声を発するときのあの真摯さを、私達の中に呼び起こし、初心を取り戻させてくれるものであると思っています。

伝えたいものを伝えられるものの中からだけ選ぶことによって「社会生活」を無難に営む我々(それは勤め人として、というだけではなく友人関係、家族関係といった親しい仲においてすら。あるいは自分がやりたいはずの表現活動においてすら。)に、そのような限られたものの中からだけではなく、本当に伝えたいものを伝えようとしていくことの大切さ、それが言葉にならなくてもどうにもうまく表現できなくても、でも伝えようとせずにはいられない!という思いをどくんごは引き出してくれます。そして、何よりどくんごの一人一人がそのようにもがき苦しみ続けていく中であのような表現方法になっていった、ということこそが、彼らもまた「伝えられるもののみを伝える」という既存のコミュニケーション(そして、これが言葉の本来の意味でコミュニケーションになっているかどうかは極めて怪しいのです。)と日々戦い抜いていることの証左です。

何かの理論やメソッドがあるわけではありません。ただ徹底的な試行錯誤と反省/考察の結果として観客の思考のきっかけをも支えうるような強靭な「余白」を作り出しています。それが彼らの過酷な旅から来るのか、徹底的に手作りのテントや幕から来るのか、強靭で繊細な芝居から来るのか、新しいツアーメンバーや幕間ゲスト、お客に徹底的に開かれた姿勢から来るのかはわかりません。おそらくはそれらすべてから来るのでしょう。一つの意味に寄りかからぬよう、一つの達成に寄りかからぬよう、一つのコミュニケーションの成立にとどまらぬよう絶えず厳しい探求を続ける彼らの姿勢こそが、余白がないかのようにふるまったりあたかも完成された人間であるかのようなそぶりをしたりすることのバカバカしさを私達に気づかせてくれます。その上で、私達が勝手に諦めていた報われないけれども大切な様々な取り組みへともう一度取り組む力をそっと与えてくれると思っています。

伝えやすいものだけが流通され、語りやすい言葉のみが語られ、叩きやすいもののみを叩き、取り組みやすい行為のみが奨励されることで、それ以外の行為がすべて根絶されつつある、しかもそのことを一人一人がなんの違和感も感じずに受け入れつつあるこの国の中で、あのちっぽけな犬小屋テントは飄々とあちこちに出没しては、そのような(考えなくさせる)流れの中に屹立してはがっきと受け止めては対峙し、そしてその流れに翻弄されることを言い訳にして身を委ねることを自分に許しかけている不誠実な私達に考えることを促す「余白」をこの社会の中に、文字通り命がけで作ってくれていると思っています。そのようなどくんごに感謝するとともに、だからこそ私たちはどのような絶望的な状況に陥ったとしても、諦めるわけにはいきません。今にも諦めたくなるような絶望と苦渋の日々だとしてもなお、私たちにはどくんごがいる。それは僕にとってもまた、死ぬ最後の瞬間まで諦めずに戦い抜こうと思える確かな理由になっています。

今年も本当に素晴らしい芝居をありがとうございました!どくんごの旅はまだまだ続きます。関東圏では今日明日の大宮公演、その後の前橋公演、飯能公演と続きます。どくんごの旅は11月下旬まで続きます。ご予約はこちらから!

来年のツアーはお休みです。というより、毎年毎年ここまでツアーができている事自体が本当に奇跡的です。こんな過酷な半年間のツアーをメンバーを集め、鹿児島から釧路まで行きまた鹿児島に戻るというとてつもない移動距離を事故もなく移動し、30回を超えるテントの建てとバラシを行いつつあのハードなステージを年間70〜80公演やりつつ無事に(といっても今年はメンバーの入院もありました)終える、というこの奇跡的な努力を今年見られるのもあと僅かです。だからこそ、ぜひお近くで、あるいは遠くまで足を運んででも見ていただきたいと思っています。

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「暗記」とは何か。

「暗記よりも理解!」「暗記はすぐに頭から抜けるけど、理解は決して頭から抜けない!」というのは塾で教えるときに繰り返し繰り返し話している鉄則です。また大まかな勉強全体の方針も、それに沿ってやっていくことで問題ないと思います。

しかし、「そうは言っても英単語は暗記だよね。」「そうは言っても漢字は暗記だよね。」と、「青チャートの解法全部覚える!」的な無意味な暗記は排除してもなお、受験において「仕方がない暗記」というものは肯定されているように思います。もちろん、僕自身も暗記すること全体を否定するつもりもありません。
しかし、実際には「暗記」とは何か、という定義は一人一人の生徒で全く違っています。また教師の側でその「暗記」の定義を押し広げ、やり方を変えていくこともできます。
そのような一人一人の定義をどのように押し広げていくか、が教育の役割でもあります。

たとえば英単語を例にとりましょう。塾では受験生に毎回英単語テストをすることが多いのですが、これは実は英単語を定着させるためにしているのではありません。もちろん、その目的は表面的な目的として、本当の狙いは
その受験生が「暗記する」という概念をどのように捉えているか、その認識の仕方をこちらが把握するためにやっていることです。

英単語を覚えるときに意味を無理やり覚えている子ほどに、英単語帳での「場所」によって覚えているため、近いところにある英単語の意味を取り違えたりします。このような子はその英単語の文字の意味をじっくりと味わうことなく、ただ場所だけで覚えることを「暗記」と定義しているがゆえにこのような誤りをおかすため、単語の接頭辞や接尾辞、語源を辞書で調べることを徹底させます。

これはまた「似たようなスペル」の単語を取り違える子にも言えることです。似たようなスペルの単語同士でも必ず違う語義の語幹があったりするわけで、その違いを辞書で調べていく、ということまで指導していきます。
そのように指導していけば、接頭辞・接尾辞・語幹の意味を増やしていくことになり、それがまた他の単語を覚えるときにも類推をききやすくしていきます。

また、英単語と関連して、英熟語の覚え方でも単純暗記なのか、単語のイメージや前置詞のイメージからその熟語の意味を引き出してこれるのか、で大きく定着度が変わってきてしまいます。英熟語を「覚えるもの」と思っている受験生は意外と多く、単語や前置詞のイメージから熟語のイメージを引き出してこれないままに英熟語の訳語だけを覚えては結局何も定着しない、ということも多いです。また、この点からも英単語の意味や前置詞のイメージが定着していない子に英熟語をやらせる指導の仕方、というのも大きく間違っているといえると思います。英単語をしっかり身につけてから、英熟語を始めていく方が効果的であるからです。

もちろん、これらのやり方は教師が教えなくてもできる子は自然にやっていることです。しかし、できる子は自分の「暗記」の仕方の中で辞書を引いたり接頭辞・接尾辞・語幹を覚えていくのが当たり前のことだと思っているので、こういった努力全体を含めて「暗記」と呼ぶ言葉遣いをしていきます。だからこそ、

できるA君:「英単語は結局暗記(ただし辞書で引くのは当たり前!)だよね!」
できないB君:「やっぱ、そうかあ(辞書に触りもしない)。。」

という誤解が生まれ、B君としてはできるA君と全く同じように勉強しているつもりであっても
全く身につかないままに終わっていくということになってしまいます。

もちろん、どのような受験生も最初からはこのような勉強法はできません。また、ある教科についてこの「暗記」の内実を解きほぐしては理解をしようとしていくことをできている受験生であっても別の教科、特に自分の苦手な教科については
なかなかそれができていない、ということもまたよくあることです。嚮心塾で殆どの受験生に単語テストをしていくのは、一人一人の生徒の頭の中での「暗記」「理解」という言葉の定義をそのように確認していき、それについて正しい方法を鍛えていき、さらにはその一つの単元についての正しい方法を他の教科にも応用しようとしていける子か、それともそうではないかを観察しては次の指導を考えていく、というその子のpersonalityへの理解を他の教科の指導に活かしていくために、単語テストをしています。そのようにして一人一人の生徒の言う「暗記」の定義を揺るがしていくことが勉強に関しては正しいアプローチであると思っています。

このように、「勉強法を言葉で伝える」というのは極めて難しいことです。なぜなら、その言葉の定義が一人一人の中で大きく違うものであるからです。だからこそ、勉強の仕方を正しい方向へと修正していくためには、まず生徒たちがどのような定義で認識をしているのかを確認していきながら話をしていく必要があります。

となると、いわゆる巷であふれる「勉強法」の本、あるいはその生徒の中での定義を確認することなくなされる全ての教師のアドバイスはいいかげん極まりないものであるのでは、と思ってしまいます。勉強のできる同級生からのアドバイス、とかなおさらです!(塾ではよく「東大に受かった同級生が『この参考書をやれば受かる!』と言ってた」的な雑なアドバイスをいちいち論破しなければならないこともあるのですが、このような雑なアドバイスが多くの場合において有害でしかないのは、今回の話からもおわかりいただければ嬉しいです!)

逆に言えば、受験生の中のそのような「定義」の部分から粘り強く探り、変えていくことができれば子どもたちの能力など(もちろんごく一部の天才は別として)そんなに大差がない、というのが教えている中での僕の実感です。たとえば塾からも難しい大学に合格している生徒はたくさんいますが、阪大医学部に合格した初期の生徒は、彼の高校からはおそらくこれから二度と阪大医学部への合格者は出ないであろう偏差値の高校(実はその高校からは他の子がもう一人慶応医学部に合格しているのですが、これも恐らくその高校からは二度と出ないでしょう。しかしこれも僕の教え子です!)に通っていましたが、しかし彼はその高校(正確には中学受験で入ったので中学ですが)には補欠合格で入りました。つまり、一番ビリで入って、その高校の卒業生でも歴代トップクラスの学力を身に着けた、ということです。

もちろんこれは、そのような一つ一つの勉強についての定義を粘り強く更新する、という作業を誰からもされることなく、
自分でもできないままに、多くの子の才能が日の目を見ずに終わっていっている、という悲惨な事実でもあります。そのようなことをしていけば、どのように鍛えたはずの受験生にも、あるいは「どんなに努力しても力がつかない」と嘆く受験生にも、必ず力がついていくと思っています。

そのように一人一人の生徒の認識の仕方、定義を把握しながら、押し広げていくという作業を僕ももっと瞬時にできるように、自分自身の教える力、観察する能力を鍛えていきたいと思います。

そして、何よりそれを教師からされないでも自分自身にその定義を吟味する目を向けられるような受験生をこそ、育てられるように努力と工夫をしていきたいと思っています。生徒一人一人の思考回路や定義を読んではそれを指導に充てていくこと自体は、それなりに今もできています。しかし、それを生徒たちが自分自身で自分に対してできるようにしていく、というところまではまだまだ道半ばです。しかし、それが(この卒塾生のようにあるいはこの卒塾生のように)できて初めて本当の教育であると思っています。

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